ユーゴスラヴィア連邦解体戦争・関連人物
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4,関連人物紹介
*ユーゴスラヴィア連邦解体戦争・年表・コラム「概要表示」に戻る
1,明石 康 (Akashi; Yasushi)
1931年1月、秋田県に生まれる。東京大学教養学部アメリカ科卒業。フルブライト留学生としてバージニア大学フレッチャースクールに学ぶ。国連職員。国際関係研究家。
外交官として政治交渉を優先して和平に当たる
49年に外務省に入り、日本国連代表部参事官、公使、大使を務める。57年、国連事務職員となり、62年国連軍縮担当に就任。事務総長官房補佐官、国連大学創設事務長を歴任する。79年、広報担当国連事務次長に就任。92年1月、国連カンボジア暫定統治機構・UNTAC事務総長特別代表としてカンボジアの国家の立て直しと復興に取り組む。
ビル・クリントン大統領の善悪二元論的なユーゴ紛争への対応
米国は当初、ユーゴ問題に対しては慎重な姿勢を示していた。それは91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言した翌日、ブッシュ大統領が「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」というコメントを発したことに表れている。しかし、92年に民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ブッシュ大統領のユーゴ問題への取り組みを批判したことから、次第に強硬な姿勢へと変容していくことになる。そして93年1月にクリントンが大統領に就任すると、その政策はセルビア悪を前提とした強硬策一辺倒となった。このクリントンの善悪二元論的な政策は、一方を増長させて国際社会への依存体質に向かわせることになる。
ボスニア内戦はムスリム人勢力としてのボスニア政府とセルビア人勢力との間の紛争にとどまったのではなく、クロアチア人勢力も絡んだ三つ巴の領域争いの戦闘が行なわれていた。特にボスニア・クロアチア人勢力としてのヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国は臨時首都と定めたモスタル市の制圧を図り、ムスリム人勢力のボスニア政府軍に対して93年5月に激しい戦闘を仕掛けた。モスタル市はボスニア政府軍の第4軍団の防衛地域であったことから、両者の戦いはネレトヴァ川をはさんで激しい砲撃戦となり、この時オスマン帝国時代に建造された「スタリ・モスト」といわれた石造りの美しい古橋も破壊された。
クリントン米政権の「新戦略」によってセルビア人勢力征圧作戦を企図
この事態にセルビア悪を基調としたクリントン政権はしばし戸惑ったが、セルビア人勢力征圧によるユーゴ問題の解決策を改めることなく、「新戦略」を立案する。そして先ず、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に強要し、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のボバン大統領を解任させる。次いで、ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力に圧力をかけて武力紛争を停止させた。その上で、クロアチア共和国のグラニッチ外相、ボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。
ワシントン協定の公表された内容は、「1,ボスニア政府とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とでボスニア連邦を構成する。2,この新しく構成されたボスニア連邦とクロアチア共和国が将来国家連合を形成するための準備協定に合意する」というものであった。しかし、内実はそのような単純なものではなく、クロアチア共和国とボスニア政府とボスニア・クロアチア人共和国の3者に統合共同作戦を行なわせてクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧し、ユーゴ解体戦争を終結させるという強硬策であった。そして、米政権は米軍時請負会社MPRIを送り込んで3者に軍事訓練を施した。武器は安保理決議713による禁輸措置を独自に緩和して密輸を促し、また米軍機を使って補給した。
「ワシントン協定」によって明石特別代表の和平への尽力は無意味化される
明石康は、背後でクリントン米政権がこのような強硬策を立案している最中の94年1月に、ガリ国連事務総長から旧ユーゴスラヴィア問題担当国連事務総長特別代表に任命された。明石国連特別代表はボスニア紛争の和平に精力的に活動するが、それは空回りを続けた。
既に、ボスニア紛争はクリントン米政権の新戦略によるボスニアのセルビア人勢力征圧策が既定路線として動いており、明石特別代表の和平への尽力は、米政権の政策の隠れ蓑としての役割以外では邪魔な存在でしかなかったのである。それを知ってか知らずか、明石は身に付いた真面目さでムスリム人勢力の利益を代表するボスニア政府とボスニア・セルビア人勢力間の調整に精力的に動いた。ところが、公平であろうとしたが故にムスリム人勢力側からセルビア側に加担しているとの非難を浴びせられる。その一方でボスニア政府は、セルビア人勢力の拠点へのNATO軍の空爆を誘導するための挑発的な武力攻撃をセルビア側に仕掛けるというようなことを頻繁に行なっていた。
明石特別代表は極力空爆を避けるように努めたものの、武力行使を否定しているわけではなく、94年4月、ボスニアのゴラジュデにおけるムスリム人勢力とセルビア人勢力の攻防戦について、NATO軍は地上軍を派遣すべきとまで提言している。また近接限定爆撃と称するセルビア人勢力側への局所的なNATO軍の空爆を15,6回許可しており、95年の5月には2度にわたる本格的な空爆を承認している。にもかかわらず明石特別代表への非難は止まず、セルビア人勢力側に立ってムスリム人を虐殺することに加担した戦争犯罪人などとの非難を浴びせられ続け、明石外しが進行した。
ドイツのシュピーゲル誌は94年4月25日号で、明石特別代表について「平和のサムライ、明石の和の破綻」と題する記事で、「対決を避けようという日本人の性格が、同代表に優柔不断という評判をもたらしている」と痛烈に批判した。「シュピーゲル」はリベラルな立場を取っているといわれているが、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国の分離独立を推進したドイツ政府の政策を無批判に支持し始めていたこともあり、この週刊誌の論評が正鵠を得ているとは言い難いが、これが当時のEUの雰囲気でもあった。
ボスニア政府と米国に忌避された明石の政治交渉
94年5月にボスニア政府は「侵略者であるセルビア人勢力を助けている明石特別代表を、解任するよう要請する」との書簡をガリ国連事務総長に送付した。ボスニア政府の意図は、セルビア人勢力との交渉による解決ではなく、NATO軍の空爆による屈服に追い込むというところにあった。
95年7月、米政府は明石国連特別代表の権限を剥奪すると公言する。それに伴ってNATOは明石特別代表を空爆の決定過程から外し、8月には「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動し、ボスニアのセルビア人共和国への激しい空爆を実行することになる。この経緯を見て明石康は、95年10月にユーゴ問題担当国連事務総長特別代表を辞任する。後任には、平和維持軍・PKO局長のコフィ・アナンが暫定的に就任した。そののち、明石は国連事務総長顧問となり96年には人道問題担当事務次長に就任する。しかし、明石は国連の事務総長に最も近いといわれながら、後任のコフィ・アナンが97年1月に事務総長に就任したこともあり、1997年12月に国連から離れた。
明石は退任後にユーゴ問題に取り組んだ回顧録を出版しているが、そこではボスニア・セルビア人勢力についての批判的言辞で貫かれている。明石を外したのは欧米諸国であり、ボスニア政府であったことからすると違和感を覚えるが、明石の心情とはそのようなものであったのだろう。
明石康を事務総長特別代表に任命したガリ国連事務総長も、通常は二期務めるところを独自の構想を示したことが米政権に厭われて一期で退任を余儀なくされた。
<参照;イゼトベゴヴィチ、カラジッチ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応、NATOの対応>
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2,アナン; コフィ(Annan; Kofi Atta)
1938年4月、英領ゴールド・コースト(ガーナ共和国)時代のアシャンテ州クマシに生まれる。1958年、ガーナの科学技術大学卒。スイス国際高等大学留学。1972年、マサチューセッツ工科大学大学院経営学修士課程修了。
1962年、国連本部事務局に入り、国連職員となる。世界保健機関・WHO行政担当官。1984年、国連本部事務局予算部長、行財政局財務官を歴任。93年、PKO担当事務次長となる。1995年11月、旧ユーゴ担当国連事務総長暫定特別代表に就く。1997年、国連職員から選出された最初の第7代国連事務総長に就任。
米国の政治力に追随したアナン
アナンは95年10月からの半年間、明石国連特別代表の後任として、旧ユーゴスラヴィア問題担当国連特別代表を暫定的に務めるが、和平交渉を主導することなく、ひたすらNATO軍の軍事行動を追認した。97年1月、第7代国連事務総長に就任する。アナンは、国連事務総長として国連を運営していくにあたり、ほとんどの場合米政府の意向を追認して寄り添った。
セルビア共和国の自治州だったコソヴォは91年の国勢調査では、アルバニア系住民が82%、セルビア人が12%、その他6%の人口構成であった。コソヴォ自治州は、ユーゴスラヴィア連邦の中では最貧地区であったために、多数派のアルバニア系住民はたびたび暴動を起こした。そしてやがてそれはセルビア共和国からの分離独立を志向するようになる。
1989年にベルリンの壁が瓦解すると、コソヴォもその影響を受け、イブラヒム・ルゴヴァが12月に「コソヴォ民主同盟」を結成して党首に就任すると、政治交渉によるセルビア共和国からの分離独立を宣言する。一方、政治交渉による分離独立に飽き足らない若者たちは、武力による分離独立を目指してコソヴォ解放軍・KLAを結成していた。当初はこの粗暴な若者たちのグループはアルバニア系住民にも支持されなかったが、ユーゴ連邦解体戦争の過程でクロアチアやボスニア紛争に加わって戦闘能力を獲得していった。
97年に隣国のアルバニアが社会主義制度から資本主義制度への転換の過程でネズミ講などの破綻で政治的混乱に陥ると、コソヴォ解放軍はアルバニアの武器を大量に入手してすぐさま武力による分離独立闘争を始めた。セルビア共和国がユーゴ連邦解体戦争の際のセルビア悪に苦しめられたことから、鎮圧行動をためらっていると、たちまちコソヴォ自治州の4分の1を支配するまでになる。さすがにこの事態を看過できなくなったセルビア治安部隊は、コソヴォ解放軍への鎮圧作戦を実行し始めたが、これは国家としては当然の行為といえた。
国連の機関はコソヴォ紛争について十分な調査を行なわず
コソヴォ自治州の武力紛争がどのような実態であったかについて、国連機関も十分な調査・検証をしていない。にもかかわらず、アナン事務総長は断片的な情報と風評によって、セルビア共和国が民族浄化を行なっていると決めつけ、米国が主導するNATO軍が国連安保理に図ることなく99年3月にユーゴ・コソヴォ空爆を実行した際にも追認し、国連安保理決議を経ないで空爆を実行したNATO軍に免罪符を与えた。空爆の最中の4月7日の人権委員会で行なった演説においても、セルビア共和国がコソヴォ自治州で民族浄化を行なっているとして、NATO軍への国際法違反の批判を緩和する役割を果たした。少なくとも、コソヴォ紛争に関してアナン事務総長が和平に尽力した形跡は見いだせない。
ジャーナリストのクリス・ヘッジは、コソヴォ自治州において23年間に迫害を受けて脱出したセルビア系住民は13万人に上ると試算している。このように、コソヴォ自治州におけるアルバニア系とセルビア人の人口比率の経年変化を見れば明らかなように、コソヴォ自治州で少数民族のセルビア人に対する民族迫害を行なってきたのは多数を占めるアルバニア系住民である。
米国に免罪符を与え続けたアナン
アナン国連事務総長の米国への追従姿勢は、2001年の9・11事件後の米国のアフガニスタン攻撃が国連安保理の決議を経ないで行なわれた際にもそれをやむなしとする発言をして、米国の武力行使をあたかも国連安保理が容認したかのような印象を与える役割を果たした。それが評価されたのではないだろうが、2001年に国連機関とともノーベル平和賞を受賞した。
その後のアフガニスタンが19年を経ても戦争状態が継続し、悲惨な状態に陥っていることからすれば、アナンの追認が誤りであったことは明白である。
唯一イラク攻撃に異議を唱えたアナン
2002年1月、国連事務総長に再任される。米国に追従してきたアナン事務総長も、2003年に米国が国連安保理の決議を経ないで大量破壊兵器を所有しているとしてイラク攻撃を行なった際には異議を唱え、批判を行なった。アナン事務総長が米国の軍事行動を批判した唯一の事例がイラクへの有志連合軍による武力攻撃である。
2006年に国連事務総長を退任する。アナンは退任に際した声明で「近年の国連を無視した米国の覇権主義的行為を改め、国連を重視した多国籍主義に回帰することを望む」と述べた。またのちに、「さまざまな場面で米国の行為を支持せざるを得なかったのは、米国抜きで国際問題を解決することは不可能だと考えていたからだ」と米国追随の自らの姿勢を弁明している。 2018年8月18日、スイスのベルンで死去。80歳。
<参照;コソヴォ自治州、国連の対応、米国の対応>
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3,アハティサ-リ; マルッティ(Ahtisaari; Martti)
1937年6月、フィンランドのビープリに生まれる。オウル大学卒。外交官。政治家。
65年、フィンランド外務省に入省。77年、国連ナミビア弁務官を務める。87年、デクエヤル国連事務総長の下で事務次長となる。93年、旧ユーゴスラヴィア和平会議特別顧問に就任。この間、94年3月から2000年までフィンランドの大統領も兼任した。
現実主義者のアハティサーリ
99年のコソヴォ紛争の際、国連がビルト・スウェーデン元首相を和平交渉の仲介役として任命すると、EUは国連の意図を妨げるかのように、アハティサーリ大統領を和平交渉の特使に任命する。アハティサーリは、この歪められた関係を無視して引き受ける。このため、ビルト国連事務総長特使は行動を妨げられ、国連としての和平交渉を進めることができなかった。アハティサーリは国連事務次長としての経歴があったにもかかわらず、国連の役割を重視する姿勢を示さなかったのである。
コソヴォの独立を不可避として仲介
この間、コソヴォ紛争はオルブライト米国務長官が「ランブイエ和平交渉」を潰してNATO軍の空爆を誘導し、99年3月にNATO軍が軍事介入し「アライド・フォース作戦」なる「ユーゴ・コソヴォ空爆」を行なってユーゴ連邦を屈服させていた。コソヴォ解放軍・KLAはセルビアの治安部隊が撤収すると「大アルバニア」を構想した。しかし、それは失敗に終わる。
すると、「ランブイエ和平交渉」に含まれていた、3年後にコソヴォの独立問題を協議するとの条項の実現を国連に要求した。2005年、国連はアハティサーリがスリランカ紛争の和平仲介の業績を認め、国連を軽視した経緯があったにもかかわらずコソヴォ問題特使に任命した。EUのコソヴォに関する将来像は、コソヴォ自治州のアルバニア系住民の要望を受容して独立を認めることにあった。EU寄りのコソヴォ自治州の最終的地位を確定する仲介役として、彼は適任者だと見なされたのである。アハティサーリ国連特使は、その方針に沿って直ちに行動を開始する。だが、セルビア人にとってコソヴォはセルビア王国の発祥の地であり、14世紀にオスマン帝国と戦って敗退し、奪還を誓った地域である。20世紀に入ってようやく取り戻した揺籃の地は、国際的な干渉があっても容易に手放せる地域ではなかった。一方で、コソヴォ解放軍の暫定政府は独立の達成を要求し続けた。そこで、アハティサーリ国連特使が編み出したのが、名目としての独立は明記しないが、国際的な監督下に外交権を所有し独自の司法・行政および軍事力を持たせた実質的な独立を与えるというもので、この報告書を07年3月に国連安保理に提出した。
報告書の核心は、第14条と付属文書ⅩⅠにあり、NATO軍が国際駐留軍・IMPとして国際文民代表・ICRとともにコソヴォ自治州に駐留し、委任統治政府に対する指導と責任を負うという、NATO軍による実質的な支配体制の確立を目指したものであった。
国連安保理決議によるコソヴォの独立を図る
国連安保理は、アハティサーリ特使の報告書に基づいてコソヴォ自治州の最終地位に関する安保理での討議を開始したが、国家の分離独立を安保理の多数決で決めることの良否について、ベルギー代表らから疑問が出された。そこで、安保理の理事国15ヵ国はコソヴォ自治州の視察を実施する。視察団長を務めたベルビク・ベルギー国連大使は視察後、「重要な問題の決定を、予め期限を切ることで縛ってはならない」と述べ、安保理で合意を得るには一定の期間が必要であるとの見解を示した。このベルビク視察団長の見解によって、国連安保理は「アハティサーリ報告書」の採択を断念することになる。コソヴォ自治州の独立問題は、そののち当事者間の交渉に持ち込まれたが、合意には至らなかった。
2008年1月、コソヴォ解放軍の政治局長だったハシム・タチが暫定政府の首相に就任数すると、コソヴォを独立させると宣言し、コソヴォ議会にその宣言を採択させた。これを受けて2月にハシム・タチが一方的な独立宣言を表明する。これを予定調和の如く受け取ったEUの主要国および米国などがコソヴォの独立を承認する。このようなコソヴォ自治州の独立のあり方については疑問を抱く国が少なくなく、国連加盟国192ヵ国の内、1年後の09年2月の段階で54ヵ国の承認にとどまっている。
信念はないが現実的対応が評価されてノーベル平和賞を受賞
アハティサーリは、2008年に「30年以上にわたり、幾つかの大陸における国際紛争解決のために尽くした」と評価されてノーベル平和賞を受賞した。アハティサーリはノーベル平和賞受賞の業績の評価に示されたように、幾つかの紛争地点での和平仲介に尽力したが、その基本的な立場は西側先進国の利益に合致する範囲内での解決策を実現させることにあった。その功績が評価され、のちに投資家のジョージ・ソロスが設立した危機管理グループ・ICGの名誉議長に就任している。
<参照;コソヴォ自治州、国連の対応>
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4, アーバー; ルイーズ(Arbor; Louise )
1947年カナダのケベック州に生まれる。法律家。オンタリオ州の高裁の判事。カナダ市民自由協会副会長。1996年、ICTY首席検察官となる。カナダ最高裁判事。04年、国連人権理事会の高等弁務官となる。09年、国際危機管理グループ・ICGの会長に就く。
予断によって対処するアーバー
95年、裁判所勤務から離れてカナダ市民自由協会副会長の業務に携わっていた際、「旧ユーゴ国際戦犯法廷」と「ルワンダ国際法廷」の両方の首席検察官への就任を依頼され、ゴールドストーン首席検事の後任として96年から99年まで首席検察官を務めることになった。
アーバー検察官は当初からセルビアの犯罪のみを裁くという予断を抱いており、国連保護軍・UNPROFORカナダ軍部隊が集めたクロアチア共和国軍に所属していたアルバニア系のチェク将軍の戦争犯罪についての証拠を退けた。アーバーがチェク将軍の犯罪立証を退けたことで、彼はその後コソヴォ防衛軍の総司令官となり、2000年にはコソヴォ暫定政府の首相になるなど要職を占めた。
一方、アーバーが就任したICTYの中では裁判局と検察局との間には訴訟の運営方針について緊張関係があった。裁判局は実績を示すために大物先行の裁きを求め、検察局は末端の戦争犯罪者を裁くことによって上層部の戦争犯罪の証拠を積み上げていく方針を採用するべきだと主張した。
功を焦るアーバー
この裁判局からの圧力の中で、アーバー首席検察官は功を焦るあまり、ボスニア和平安定化部隊・SFORが戦犯の逮捕という責任を果たしていないと強く批判し続けた。97年12月には、SFORのフランス部隊が戦犯を意図的に保護して法廷の業務を妨害していると発言し、ペドリヌ仏外相をして「根拠のない言いがかり。フランス部隊は70名の死者を出すほど協力しているのに、怠慢呼ばわりは我慢がならない」と憤りの発言を誘発させた。
99年3月に開始したNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」は熾烈を極めたが、ユーゴ連邦軍のコソヴォ撤収交渉が大詰めを迎えていた99年5月22日、またも功を焦ったのであろう、和平への解決に水を差すかのようにミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領を「人道に反する罪」で起訴した。起訴事由は、コソヴォ自治州のアルバニア系住民に対する軍事行動を計画し、煽動を命令し、テロ行為、およびラチャク村での虐殺など、12件でアルバニア系住民344人を殺害したとの戦争犯罪容疑である。
法の公正よりもNATOの意向を重視したアーバー
アーバー首席検察官は、ミロシェヴィチ大統領を起訴したものの、戦争犯罪を立証する証拠を把握していたわけではなかった。ラチャク村の事件についても、国際社会には住民虐殺事件として喧伝されたがその証拠はなく、後にさまざまな公的機関から虐殺を否定する報告書が提出された事件である。紛争の全体像についても、コソヴォ自治州の戦争犯罪といわれるものは、ほとんどが風聞に類するものであった。にもかかわらず、アーバー首席検察官は調査の不可能なNATO軍の空爆中に起訴するという粗雑さを示した。
一方で、アメリカ大陸法律家協会がICTYに対し、同じ99年5月にNATO軍の空爆を実行した諸国の指導者と司令官を告発した。クリントン米大統領、オルブライト米国務長官、コーエン米国防長官、ブレア英首相、ソラナNATO事務総長、クラークNATO軍最高司令官、その他を「国際人道法に対する違反」に加え、「国連憲章違反」、「ジュネーブ条約違反」、「NATO条約違反」などを犯しているとして告発したのである。これに対しアーバー首席検察官は、「NATO加盟諸国の国籍所持者が国際法違反を犯したという主張に対して、私はコメントしない。NATO指導者たちは、ユーゴ連邦での作戦を、国際人道法を完全に遵守して進めると確約した。私はその確約を受け入れた」と述べた。
これがアーバー首席検察官の資質であり、また「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の実相でもあった。そのため、アーバー検察官が行なったミロシェヴィチ・ユーゴ大統領に対する起訴は政治的なものだと評され、カナダ最高裁の判事への選任を念頭に置いた出世主義者だともいわれた。アーバー首席検察官は、ミロシェヴィチ大統領を起訴すると、役割は終わったとして任期途中の99年8月に辞任し、9月にカナダ最高裁判事に転任する。
のちに、アーバーはテレビとのインタビューで、「ICTYは戦争犯罪の刑事責任をうやむやにする風潮を決定的に終わらせた。ここの判決が正しかったかどうかという議論はあると思うが、当初の予想に反し、旧ユーゴ国際戦犯法廷が成功したという事実は消えることはない」と語った。国際裁判に限らず、訴訟では判決の当否が重要である。しかし、アーバーは判決の当否についてはさして気にしていない。
ユーゴ連邦解体戦争において、ICTYが果たした役割は、戦争犯罪についての刑事責任をうやむやにする風潮を終わらせるどころか、和平交渉を妨げ、対立を煽り、強者の弱者に対する断罪という政治的な役割を果たしたのである。
アーバーは法律家であるよりも政治家の資質を持つ
2004年7月、カナダ最高裁判事を辞任し、第4代の国連人権理事会の高等弁務官となる。06年、イスラエル軍がレバノンおよびパレスチナのガザ地区への侵攻を実行する。これに対し、レバノンのシーア派民兵組織ヒズボラが頑強に抵抗したが、アーバーはイスラエル軍とヒズボラの双方に対し、民間人に対する攻撃を中止するよう声明を発表した。これらの功績に対し、国連は08年に国連人権賞を授与する。
これらの事績が評価されたのであろう、09年7月、アーバーは投資家ソロスが設立した「国際危機管理グループ・ICG」の会長兼CEOに就任する。
<参照;危機管理グループ、ユーゴスラヴィア連邦、コソヴォ自治州>
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5, アブディッチ; フィクレ(Abdic; Fikret)
1939年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでムスリム人として生まれる。実業家。政治家。
実業家として頭角を現す
1967年、アグロコメルツ社の企業長に選出される。アグロコメルツ社は、63年に30人の労働者によってボスニアに設立され、農産物の生産、包装、輸送の業務で急成長を遂げたユーゴ連邦における有数の食品会社である。従業員が1万1000人にまで膨れあがったアグロコメルツは、地元の住民を優先して従業員に採用し、待遇も優遇するなどの気配りをしたことで、アブディッチ企業長は地元住民の圧倒的な支持を得た。
1987年、アグロコメルツ社は8億7500万ドルに上る無担保の約束手形を発行していることが暴露される。この約束手形の発行に絡んでいたのが、地元の有力者のアブディッチ家とボズデラッツ家であることも明らかになり、政治的スキャンダルとなった。
政治家として地元住民に支持されたアブディッチ
地元の住民は、スキャンダルで紙切れ同然となった約束手形を掴まされたにもかかわらず、アブディッチ企業長とアグロコメルツ社は濡れ衣を着せられたのだと信じていた。この地元住民の支持が、彼を政治の舞台に甦らせることになる。
1990年の複数政党制の導入による選挙において立候補者中最大の票を獲得し、ボスニア共和国幹部会の地位に就いた。アブディッチは、ボスニア幹部会員の中では政治的にはムスリム人穏健派に属し、ボスニア内戦が始まるとイゼトベゴヴィチ幹部会議長の武力に頼るボスニア統一路線と対立することになる。彼は、ボスニアの内戦を止めるためには、3民族によって構成する国家連合にすることが必要であると主張し、拠点でもある西ボスニアの住民からも支持を得ていた。
イゼトベゴヴィチの強硬姿勢に反旗を翻したアブディッチ
1993年9月、アブディッチはボスニア政府の武力闘争による統一一辺倒の方針に反旗を翻し、ムスリム人住民の飛び地となっている「西ボスニア自治区」の設立宣言を行なう。さらに、住民に呼びかけて憲法制定会議を開催し、ムスリム人を中心とした「西ボスニア共和国」建設を宣言して大統領に就任した。イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は、アブディッチをボスニア幹部会から除名するとともに、「西ボスニア共和国」建設を憲法違反だとして精鋭部隊を西ボスニアに進軍させ、制圧を図った。
これに対し、アブディッチはボスニアのセルビア人勢力およびクロアチア人勢力との協調を図った。クロアチア人勢力の強硬派のボバン大統領とは、「ボスニアでのあらゆる戦争を終了させ、西ボスニア自治州内での継続的な平和を確立するために行動する」との共同声明に調印。ボスニアのセルビア人共和国のカラジッチ大統領とは、「相互の承認、両地域間での物資の自由な移動、継続的な平和に関する宣言」などで合意する。
しかし94年8月、圧倒的なボスニア政府軍の攻撃を受け、ボスニアのムスリム人勢力内部の反乱として耳目を集めた「西ボスニア共和国」は崩壊する。その後、ボスニアのセルビア人勢力の支援を得て「西ボスニア共和国」を再興するが、95年の「デイトン和平合意」で結局消滅することになる。
<参照;イゼトベゴヴィチ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、西ボスニア自治州>
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6, イーグルバーガー; ローレンス (Eagleburger; Lawrence Sidney)
1930年8月1日に米ウィスコン州に生まれる。ウィスコンシン大学で学ぶ。外交官、政治家。米国務長官。
57年に米国務省に入る。61年から65年まで、駐ユーゴスラヴィア米大使館に勤務。69年、ニクソン政権で国家安全保障担当大統領補佐官となったキッシンジャーの補佐官となる。ニクソン政権崩壊後に一時公職を引いたが、77年にカーター政権によって駐ユーゴスラビア大使に任命された。82年、レーガン政権で国務省政治担当次官に就任。89年、ジョージ・H・ブッシュ大統領政権で国務副長官を務める。
国際戦犯法廷設置を提唱しボスニア政府を支援
92年8月、ベーカー前国務長官が首席補佐官に転じると、イーグルバーガーは国務長官代行に就任する。就任した当時、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニアがそれぞれユーゴ連邦からの分離独立を強行したために内戦が激化して混乱状態に陥っていた。イーグルバーガーは、ユーゴ紛争がセルビア人勢力だけでなく、クロアチア人勢力にも責任があることも指摘はしていた。しかし、92年の大統領選に立候補した民主党のビル・クリントンがブッシュ政権のユーゴ問題への取り組みを批判して以来、その影響を受けたのであろう、次第に強硬策を採るようになっていく。
イーグルバーガー国務長官代行はボスニアの戦闘停止を仲介するのではなく、「国際戦犯法廷」のすみやかな設置を提唱するのである。そしてミロシェヴィチ大統領など6人のセルビア人と3人のクロアチア人を名指しし、「我々は人道に対する犯罪が起きたことを知っている。また我々はそれがいつ、何処で起きたかを知っている。さらに我々は、どの勢力が罪を犯したか、彼らが誰の命令で動いたかを知っている。我々は政治指導者が誰か、軍の司令官は誰に責任を負っているかを知っている」と述べ、国際裁判所の設置を呼びかけた。
イーグルバーガーはボスニア政府のシライジッチ外相と密接な連携を保っていたことから彼の影響を強く受け、「ボスニア上空に飛行禁止区域が設定されれば、米軍機を飛ばし、セルビア機がこれに違反すれば撃墜する」とイラクで実施している飛行禁止空域方式をボスニアのセルビア人勢力にも適用すると述べるなど強硬策を採るようになっていった。
連邦議会がイーグルバーガーを国務長官として承認したのは92年12月になってからだが、既にブッシュ大統領は選挙戦に敗れており、翌93年1月のブッシュ大統領の退任に伴い離任する。
民主党の・ビル・クリントンが大統領に就任すると、「セルビア悪」に基づいた善悪二元論的な強硬策を採るようになり、イーグルバーガーの提唱した「旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷」の設置は引き継がれ、国連安保理は93年5月に決議827を採択し、ICTYがオランダのハーグに設置された。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、旧ユーゴ国際戦犯法廷、米国の対応>
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7, イゼトベゴヴィチ; アリヤ (Izetbegovic; Alija)
1925年8月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのボサンスキ・シャマツで生まれる。ムスリム人。彼の一族はオスマン帝国統治下における、イスラム教徒の貴族階級に属する。サラエヴォ大学の農学部・法学部を卒業。法律家。熱心なイスラム教徒として、「青年ムスリム」に所属して活動する。
ナチス・ドイツに協力したイスラム主義者
第2次大戦中、イゼトベゴヴィチは、イスラムのナチス親衛隊「ハンドツァール」のメンバーとなり、ボスニアのムスリム人はヒトラーに直訴してムスリム人だけからなる第1322師団を編成し、セルビアの王党派「チェトニク」やユーゴスラヴィア人民解放軍の「パルチザン」に対抗した。
大戦後の1970年、密かに「イスラム宣言」を発表し、「ボスニアのムスリム人によるイスラム化」を提唱する。それが露顕して民族主義を煽った罪に問われ、83年に14年の懲役刑を科される。88年に刑を短縮されて釈放されると、ボスニアのムスリム人政党「ボスニア民主行動党」を創立し、強硬な民族主義を主張して穏健派との間に激しい対立をもたらした。
90年11月の複数政党制によるボスニア議会選挙で、ムスリム人の「民主行動党」は第1党となり、幹部会議長(大統領)に選出される。イゼトベゴヴィチが指導する「民主行動党」は、スロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言する91年6月より前の3月頃に、準軍事組織としての「愛国者同盟」を密かに結成し、独立宣言後の武力闘争に備えて武器を調達し始めていた。
ボスニアをイスラム教の影響下に置くことを意図していた
当初、イゼトベゴヴィチは表向きユーゴ連邦幹部会では連邦制維持を主張し、スロヴェニアとクロアチアおよびその他の共和国との間の調停役を果たしていた。しかし、スロヴェニアおよびクロアチア両国が独立志向を強めると、スロヴェニアとクロアチアを同盟関係にとどめるという階段型連邦制を主張するようになる。スロヴェニアとクロアチアは、このイゼトベゴヴィチ案を受け入れることはなかった。そして、91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言すると、ボスニアも独立を志向するというように態度を変化させていった。そして91年10月にセルビア人議員が退場する中、ボスニア議会にユーゴ連邦からの7分離独立を目指す決議を採択させた。
ムスリム人幹部会員のズルフィカルパシチの和平協定を潰す
一方、ボスニアのムスリム人実業家で政治家のズルフィカルパシチは、独立宣言をしたスロヴェニアやクロアチアで武力衝突が発生したのを見ると、武力抗争がボスニアに飛び火するのを回避するために、91年7月にボスニア政府とセルビア人勢力間の和平交渉に乗り出す。ズルフィカルパシチはイゼトベゴヴィチの委任を受けると、セルビア人勢力のカラジッチやセルビア共和国大統領のミロシェヴィチの譲歩を引きだして和平合意の調印寸前まで漕ぎ着けた。しかし、米国および中東周辺国の訪問から帰ってきたイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は、直前になって歴史的協定と言われた和平案の調印を拒否する。拒否した理由は、ボスニアが内戦に突入した場合、イスラム諸国が支援するとの約束を取り付けていたためといわれ、米国政府とも何らかの約束があった可能性も否定できない。
外部の支援をあてにして独立を強行したイゼトベゴヴィチ
92年1月15日にEC諸国がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認すると、92年2月28日にイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長はボスニア独立の是非を問う住民投票を、31%を占めるセルビア人の猛反対を押し切って強行し、多数の賛成票を得ると3月早々に独立を宣言した。このとき、3民族の横断的な市民運動が民族融和を図る「救国内閣」の設立を求めてデモ行進をするが、ムスリム人の民兵組織が発砲して8人を死亡させた。翌4月7日、EC諸国と米国およびロシアがボスニアの独立を承認してしまう。
この独立宣言と諸国の承認によって、ボスニアの3民族の対立は決定的となった。ムスリム人勢力とクロアチア人勢力は共調し、第2軍管区として駐屯していたユーゴ連邦人民軍を侵略軍と決めつけ、連邦人民軍の兵舎を包囲して電気と水道の供給を止めた。その上で兵営を襲撃し、所有する武器を置いて撤退せよと迫った。ユーゴ連邦人民軍は兵営の包囲を解かせるために、イゼトベゴヴィチをサラエヴォ空港で拘束し、停戦命令を出させた上で釈放する。ムスリム人防衛隊は、イゼトベゴヴィチを釈放した途端にユーゴ連邦人民軍に激しい銃撃を仕掛けるという対応を取った。
この事件の直後の92年5月に、国連安保理はスロヴェニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の3国の国連加盟決議を採択する。この対応がボスニア情勢を複雑にし、内戦の解決を困難にした。
自己の願望に固執し続けて大統領の座にしがみつく
イゼトベゴヴィチは、ボスニア憲法に幹部会議長の任期が1年で、再任は1回限りであると定めてあるにもかかわらず、非常事態であることを理由として居座り、2000年までの10年間大統領としての権力を行使し続けた。そして、ムスリム人穏健派およびセルビア人勢力の意向を無視して統一国家にこだわり続け、武力紛争を長引かせた。彼の意図は、国際社会を引き込んでセルビア人勢力を外部の軍事力で叩かせて屈服させることにあった。彼がそれを実現させるために取った手法は、米PR会社と契約して「ムスリム人20万人が殺害され、レイプされた女性が数万人に及んでいる」との誇張と虚偽の情報を流し、セルビア悪を国際社会に印象づけることであった。このプロパガンダを担った米PR会社ルーダー・フィンの手法は成功を収め、国際社会にセルビア悪が刷り込まれ、ムスリム人勢力側への軍事的支援が当然との雰囲気がつくられた。
ボスニア内戦はボスニア政府とボスニア・黒阿多人勢力及びボスニア・セルビア人勢力との三つ巴の戦い
とはいえ、ボスニア内戦はムスリム人勢力としてのボスニア政府とボスニア・セルビア人勢力との間だけで戦闘が行われていたわけではなかった。ボスニアのクロアチア人勢力が絡んだ三つ巴の戦闘が行われていたのである。殊に、ボスニア・クロアチア人勢力としてのヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国がモスタル市を臨時首都と定めて93年5月に始めたボスニア政府軍とクロアチア人勢力との間の攻防戦は激烈なものとなった。双方はネレトヴァ川を挟んで砲撃戦を展開し、この川に架かかっていた6つの橋はすべてこのときの砲撃戦で崩落した。
クリントン米政権はセルビア人勢力を征圧することによってボスニア内戦を終結させられると分析していたため、このボスニア政府軍とクロアチア人勢力軍との激しい戦いにしばし戸惑った。しかし、クリントン政権はセルビア悪を前提としたボスニア解決策を改めることなく「新戦略」を立案する。
外部の軍事力を当てにしたイゼトベゴヴィチの強硬路線に反旗を翻した「西ボスニア共和国」
この間、イゼトベゴヴィチの武力によるボスニア統一路線が実現不可能であることは明白であったが、彼は頑なに拘り続け、いたずらに戦闘を長引かせて犠牲者を積み上げた。この強硬路線に対してムスリム人の幹部会員のアブディッチが離反し、93年9月に「西ボスニア共和国」を設立するということが起こる。これに対し、イゼトベゴヴィチは「西ボスニア共和国」を反乱軍と位置づけてボスニア政府軍を送って潰すという策をとった。
クリントン米政権は新戦略を発動してクロアチア・セルビア人勢力とボスニア・セルビア人勢力を征圧する
クリントン米政権は94年2月に新戦略に基づいた戦略を発動し、ボスニア政府とクロアチア人勢力に圧力を掛けて停戦させた。そして、クロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させる。ワシントン協定は、公表された内容とは異なり、クロアチアのセルビア人勢力とボスニアのセルビア人勢力を征圧するという策であった。94年の1年間は、クロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力に軍事力増強と訓練を施す期間に充てられた。3者に訓練を施したのは主として米軍事請負会社MPRIである。
95年、強化されたクロアチア共和国軍とボスニア政府軍は幾つかの軍事作戦を相次いで発動する。この軍事行動でクロアチアのクライナ・セルビア人共和国は崩壊し、次いで発動されたNATO軍の「デリバリット・フォース作戦」によって、ボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国も追いつめられた。しかし、イゼトベゴヴィチの望んだ「スルプスカ共和国」の解体はならず、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを「ボスニア連邦」と「スルプスカ共和国」の連合国家とすることを認めざるを得なかった。95年11月、ボスニア和平交渉が米国主導の下にアメリカの軍事基地で行なわれ、「デイトン和平合意」が成立する。
イゼトベゴヴィチは事実と異なるプロパガンダを認める
のちに、「国境なき医師団」の創設者クシュネルがインタビューを試みたところ、イゼトベゴヴィチはセルビアの強制収容所の存在や虐殺やレイプ被害について、事実と異なる誇張と虚偽情報を流布させたことを認めた。
ボスニア内戦は、ムスリム人勢力、セルビア人勢力、クロアチア人勢力による三つ巴の戦いとなったが、それぞれの宗教が異なるとはいえ、宗教戦争だったわけではない。しかし、イゼトベゴヴィチは、70年に「ボスニアのムスリム化」を提唱したように、ボスニアをイスラム主義国家とする意図を抱いていた。イゼトベゴヴィチは和平が成立以後も幹部会議長として居座り、元来世俗的なボスニアのムスリム人にいわゆるイスラム化を求め、アラビア語と祈りを強要した。このため国民の中にイゼトベゴヴィチ離れが起こり、引退に追い込まれる。退任直前に、「欧米がもっと支援してくれるもの考えていたが、期待はずれだった」とのコメントを残した。イゼトベゴヴィチは、ボスニア紛争においてイスラム教を中核に据えた国家の建設に拘り、内戦にNATO軍を引き入れることによって自陣の勢力を有利に運ぶよう画策した結果、戦闘を長引かせる役回りを演じたのである。
イゼトベゴヴィチは2000年10月に引退し、03年10月19日に78歳で死去した。
<参照;ズルフィカルバシチ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応>
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8, ヴァンス; サイラス(Vance; Cyrus Roberts)
1917年3月、米国ウェスト・ヴァージニア州クラークスバーグで生まれる。イエール大学卒。弁護士。政治家。
海軍に入隊し、46年に除隊。その後、法律事務所に勤務する。60年、ケネディ政権に入り、62年に陸軍長官に就任する。64年から67年までリンドン・ジョンソン政権で国防副長官を務める。当初、ベトナム戦争を支持したが、後に撤退を進言し、68年のベトナム戦争のパリ和平会議では、アメリカの次席代表を務めた。
カーター米政権では、77年から80年まで国務長官に就任する。そして、ソ連との間でSALTⅡ協定を締結して軍備制限を進めた。国務長官時代、強硬派のブレジンスキー国家安全保障問題担当大統領補佐官としばしば衝突した。イランの米大使館が占拠された事件をめぐり、人質を秘密に救出する作戦に抗議して80年4月に国務長官を辞任する。
ヴァンスが最初に取り組んだのは国連保護軍を派遣すること
91年11月、ユーゴ問題国連事務総長特使に任命される。ヴァンス国連特使は就任すると「ユーゴスラビア連邦には既に実効的な中央政府はなく、情勢は深刻であり、現地には多数の国から武器が流入しており、国連安保理の武器禁輸決議は守られていない」との報告をまとめてデクエヤル国連事務総長に提出した。
ヴァンス国連特使は、ECのキャリントン・ユーゴ和平会議議長と協調しながらクロアチアの和平に尽力する。ヴァンス特使が取り組んだのはクロアチアでの武力衝突を停止させることであり、それを実効あらしめるために国連保護軍をクロアチアに派遣することであった。この努力が実を結び、国連安保理は92年2月に決議743が採択され、クロアチアの紛争地帯に国連保護軍・UNPROFORの派遣が実現する。
ヴァンスはキャリントンおよびオーエンとともに和平に尽力
92年4月、ヴァンス国連特使はボスニア内戦の現状とその拡大について、「潔白な当事者はおらず、全ての当事者が戦闘の勃発と継続に何らかの責任を負っている」との報告をガリ国連事務総長に提出した。ヴァンス特使の指摘に対して国際社会は十分な考慮を払うことなく、「セルビア悪」のみを強調したため、解決が長引くことになる。
92年8月25日にキャリントン議長がECのユーゴ和平会議議長を辞任したため、後任のオーエン英元外相とともに翌26日
に開かれた「旧ユーゴ和平国際会議」の共同議長を務めることになる。93年1月、ヴァンス・オーエン両共同議長は、ボスニア内戦解決のために総括的な裁定案を提示した。ボスニア全土を10州(カントン)に分割して非中央集権国家とし、セルビア人勢力に50%、ムスリム人とクロアチア人勢力に50%を分有させる案である。ムスリム人勢力としてのボスニア政府側は人口比に比べて領有地域が狭いと反対し、セルビア人勢力側は現時点での占有地域に比較して領有地域が狭いとして反対したため、この裁定案が成立することはなかった。ヴァンスは和平裁定に誠実に取り組んだが、93年4月に健康を理由として国連事務総長特使を辞任する。
<参照;キャリントン、オーエン、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ヴァンス・オーエン和平案>
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9, ウォーカー; ウィリアム(Walker; William)
米国の外交官。1961年にペルーに赴任。88年、駐エルサルバドル大使に就任する。98年、OSCEコソヴォ停戦合意検証団・KVM団長に就く。
外交よりも工作を任務としたウォーカー
80年代、ウォーカーはホンジュラスに使節団副団長として派遣されと、CIAやオリバー・ノース中佐と共にイラン・イラク戦争中にイランに武器を売却して資金を捻出したいわゆる「イラン・コントラ事件」に関与し、ニカラグアの反政府武装勢力「コントラ」に売却益を供与してニカラグア政府を攻撃させた。88年にエルサルバドル大使として赴任すると、エルサルバドル独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊」を支援する。「アトラカトル大隊」は独裁政権に批判的な教会を襲撃し、イエズス会士や家政婦や娘などを至近距離から銃撃して殺害する。この問題が米国で批判の対象にされると、ウォーカー大使は「どんなに忌まわしいものであれ、過去の死の問題を解決するために、エルサルバドル情勢の進展が危うくされてはならない」との書簡を当時のベーカー米国務長官に送付し、エルサルバドル独裁政権の行為を容認し、擁護し、責任の所在を曖昧にして切り抜けるという作為を行なった。
パナマのノリエガ将軍の失脚工作にも関与
89年、ウォーカーはパナマにCIA要員とともに乗り込み、独裁者ノリエガ将軍の失脚工作を開始する。パナマのノリエガ将軍は、かつてCIAに協力して中南米でのアメリカの権益を助成してきた人物である。しかし、ノリエガ将軍は米政府の操り人形であることを潔しとせず、次第に思い通りに動かないようになっていたために、米政府は排除することにしたのである。89年12月、米政府はノリエガ将軍に麻薬取引の罪名を着せた上に空爆を伴う大規模な軍事攻撃である「パナマ侵攻」を実行する。その上でノリエガ将軍を逮捕し、米国の法律で裁いて有罪を宣告した。ウォーカーはCIA要員ではなく外交官なのだが、彼が担ったこのノリエガ将軍排除の一連の行為はCIAの秘密工作の類であり、彼は目的のためには手段を選ばないキャリアを積み重ねてきた外交官であった。
コソヴォ自治州でも捏造工作を行なう
97年、隣国アルバニアで政治的混乱が起こると、それに乗じてコソヴォ解放軍・KLAはアルバニアから大量の武器を入手し、コソヴォ自治州を武力によるセルビア共和国からの分離独立を確保するために武力闘争を本格化した。当初、セルビア共和国は国際社会のセルビア悪説の再現を警戒して鎮圧をためらっていた。ところが98年2月、ゲルバード米特使がコソヴォ自治州の穏健派を集め、「コソヴォ解放軍はテロリスト集団だ」と言明した。ユーゴ連邦政府はこのゲルバードの発言を、コソヴォ解放軍の鎮圧を容認するものと受けとめ、鎮圧に乗り出してたちまちKLAを追いつめた。すると、国際社会はユーゴ連邦の治安部隊がアルバニア系住民を迫害していると非難し始め、国連安保理は3月にユーゴ連邦に対して武器禁輸などの制裁決議を採択する。EUは、5月にNATO軍の介入要請を決め、6月には新規投資の禁止などの経済制裁を採択した。
これを受けて米政府は、同6月にホルブルック特使をベオグラードとコソヴォ自治州に送り込み、米CIAの手引きでコソヴォ解放軍と会談し、「自由の戦士」として称える。それからの米政府はセルビア悪説を声高に唱えて非難し、NATO軍による空爆実施をほのめかして威圧した。一触即発の危機的状態の局面を打開するために、ロシアのイワノフ外相がユーゴ連邦に対し、OSCEの調査団の受け入れを提案する。ユーゴ連邦はこの提案を受容し、欧州安保協力機構・OSCEの停戦合意検証団を受け入れると表明する。
ラチャク村虐殺事件を捏造する
OSCEは一旦これを断るが、98年10月にOSCEコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織してウォーカーを団長に任命した。OSCEがウォーカーをKVMの団長に任命したことで、コソヴォ問題の帰趨は決定づけられた。コソヴォ検証団の1600人は順次コソヴォ自治州に入って紛争の実態の検証を始めることになるが、ウォーカーは検証団の中に米CIA要員や英MI6および米軍事請負会社ダインコープ社員などの情報工作員を多数潜り込ませた。遅れてコソヴォに入ったウォーカー団長は、99年1月15日にコソヴォ解放軍・KLAとセルビア警察部隊の戦闘を丘の上から感染した。この戦闘はまもなく終わるが、ウォーカーはこのときは何も言わずにその場を去った。そして翌16に再びそこを訪れてセルビア警察部隊がアルバニア系住民を虐殺したとするラチャク村の虐殺事件を捏造する。ウォーカーは事件の残虐性を声高に唱え、それに応じたオルブライト米国務長官はミロシェヴィチ・ユーゴ大統領をアドルフ・ヒトラーになぞらえて非難し、国際社会にユーゴ連邦悪・セルビア悪を印象づけることに成功した。1月19日にフィンランドの検視団が虐殺説に否定的な見解を発表するが、国際社会に浸透したセルビア悪の印象を解消するには至らなかった。
NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」に導く役割を果たしたウォーカー
NATO軍は即刻軍事行動に踏み切る態勢を取るが、米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国で構成された「連絡調整グループ」が交渉による和平を提唱する。連絡調整グループによる和平交渉は、パリのランブイエ城でメディアのアクセスを遠ざけて行なわれたが、困難と見られた交渉は交渉官たちの尽力で成立するかに見えた。しかし、途中からオルブライト米国務長官が乗り込んで主導し、ユーゴ連邦側にNATO軍を全土に駐留させよとの軍事条項を突きつけ、3月18日に和平交渉を決裂させた。
一方、OSCEの検証団は「ランブイエ和平交渉」が決裂した翌日の3月19日に、「安全情報」を発表した。その情報の主旨は、警戒度が「悪化する可能性がある」というものであったが、NATO軍の軍事力行使が喫緊の課題であることを示すものではなかった。カナダ人のキースKVM現地連絡事務所長は、「校舎への砲撃など、セルビア側による理性を超えた破壊は見られたが、あの段階を民族浄化とは言えない」と語っている。しかし、ウォーカーOSCE・KVM団長がその調査報告を発表することはなかった。そして、ウォーカーのKVMは、3月20日にNATO軍の空爆を誘導する任務を達成し得たとしてにコソヴォから撤退する。
NATO軍は、OSCEの「安全情報」を顧慮することなく、アルバニア系住民をセルビア治安部隊の民族浄化から救うためには緊急性を要するとし、「人道的介入」の名を冠してNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を3月24日に開始した。ウォーカーKVM団長は、任務としてのコソヴォの停戦合意を検証するのではなく、NATO軍の軍事行動を導くことに最大限の能力を傾注したのである。
<参照;オルブライト、コソヴォ自治州、NATOの対応。米国の対応、ラチャク村虐殺捏造事件>
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10, エリツィン; ボリス(Yeltsin; Boris Nikolaevich)
1931年2月、ロシアのスベルドロフスク州で生まれる。ウラル工科大学卒。政治家。
61年、ソ連共産党に入党。76年、スベルドロフスク州党委員会第1書記に就任。81年に党中央委員となる。85年4月、ゴルバチョフ政権誕生直後から中央政界入りし、同年7月党書記となり、12月にモスクワ市党第1書記となった。87年、党中央委員会との路線の対立でモスクワ党書記を解任される。
ソ連圏崩壊期に頭角を現したエリツィン
89年3月、複数候補システムの人民代議員選挙で政治に復権する。人民代議員の急進派「地域間代議員グループ」を結成し、民主綱領派のリーダーになる。ゴルバチョフ・ソ連邦政権持の90年6月、ロシア共和国最高会議議長に当選する。同年7月共産党を離党。91年6月、ロシア共和国の国民投票による大統領選挙に当選し、初代大統領に就任した。同年8月、ゴルバチョフ・ソ連大統領を軟禁する形で起こされたクーデターをエリツィンが阻んだことで、国民の人気を得る。その人気を背景に、12月に他の共和国と共にソ連邦の消滅を宣言し、独立国家共同体・CISを創設した。ゴルバチョフ・ソ連邦大統領は、この国家体制の変更で蹴落とされた。
米国に経済政策の指導を仰いだエリツィン
エリツィン・ロシア大統領は、ロシアに米国の経済顧問を招き入れて新自由主義市場経済を導入することを優先策としたが、側近やロシアの富の収奪に群がった者たちがオリガルヒを形成し、ロシア経済は蝕まれることになった。エリツィンは大酒のみで、ロシアの国民にとって利益をもたらしたとは考えがたい人物だが、99年12月に辞任するまでの8年余りの間、大統領の座にとどまり続けた。
気まぐれなエリツィン大統領
ユーゴスラヴィア連邦の解体過程への関与は、ソ連政府は話し合いによる政治的解決を基本としていたものの、個々の事象への対処は思慮に乏しい思いつきに終始し、強硬な姿勢を示したかと思うと、ECが進める現状をそのまま受け入れるという対応を示した。その典型的な事例がボスニア・ヘルツェゴヴィナの分離独立への対応である。スロヴェニアとクロアチアで分離独立に伴う武力衝突が起こっていることを考量するならば、ボスニアの独立承認には慎重な対処が求められていたのだが、92年4月のECおよび米国の独立承認に伴ってあっさりと独立を認めてしまう。
ロシアのコソヴォ紛争への対処は、とにもかくにも政治的解決を目指して奔走した。しかし、政治体制の転換の過程で国力を低下させていたロシアの意向は、欧米諸国からほとんど無視された。そしてNATO軍は大規模な軍事態勢を整えて99年3月にユーゴ・コソヴォ空爆を実行し、ユーゴ連邦を屈服させた。NATO軍が空爆を停止した直後、ロシア軍はNATO軍の了解を得ずに単独でコソヴォ自治州に部隊を進駐させ、プリシュティナの空港を管理下に置くという行動を取った。このロシア軍のコソヴォへの軍隊派遣がエリツィンの指示であったかどうかは明らかではないが、少なくとも了解を与えたことに疑問の余地はない。このときのロシア軍はコソヴォ自治州に進駐はしたものの、その後の解決策を持ち合わせていたわけではなかった。これが、エリツィンの採った強硬な姿勢の事例である。
これを知ったクラークNATO軍最高司令官は、ローズ英軍部隊司令官に「プリシュティナの空港を確保せよ」とロシア部隊の排除指令を出した。ローズ英軍司令官はこの無謀な指令に従わず、「私は、閣下のために、第3次世界大戦を引き起こす危険を冒すつもりはありません」と拒絶した。ローズ司令官の判断によってロシアとNATO間の武力衝突は回避された。
ロシアはNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆後に軍備の再編を図る
大酒のみのエリツィンに深慮があったとは考えがたいが、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は、ロシアの安全保障関係者に深刻な影響を与えた。ロシアは、社会主義体制から資本主義体制への転換過程にあり、それが経済的混乱をもたらして軍備が疎かになっていたものの、当面欧州で戦火が交えられるとは考えていなかったために、軍事に関する整備は後回しにされていたのである。しかし、NATO軍がこれほど安易に軍事力行使をしたことに衝撃を受け、ロシア内では緊急に安全保障の見直しが行なわれた。そして「新戦略概念」が打ち出される。これには、のちに首相や大統領を歴任することになるプーチン・ロシア連邦安全保障会議書記が主導して行なわれた。これ以来ロシアは軍備再編を強化していくことになる。
99年12月に大統領の辞任を表明し、後継者としてプーチンを大統領代行に指名する。2007年に酒量が過ぎて76歳死去する。
エリツィンが蹴落としたゴルバチョフは人々の記憶に残されているが、エリツィンが記憶されることはないと見られる。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ自治州、ソ連・ロシアの対応>
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11, オーエン; デイヴィド (Owen; David)
1938年7月、英国プリマスで生まれる。ケンブリッジ大学卒。医学博士。政治家。
精神科医を経て、66年労働党右派から下院議員に立候補して当選する。67年国防次官。74年保健・社会保障担当次官。76年外務担当国務相。77年、39歳で史上最年少の外相となる。81年、労働党を離脱して社会民主党・SPDを結成。83年、社会民主党党首に就く。90年、社会民主党を解散する。以後、保守党の政策支持を表明してメージャー首相のブレーンとなる。92年、貴族に列せられ上院議員となる。
ボスニア和平に正面から向き合ったオーエン
92年3月にボスニア・ヘルツェゴヴィナがユーゴ連邦からの分離独立を強行すると、ボスニアのムスリム人勢力、クロアチア人勢力、セルビア人勢力の3民族の対立が激しさを増し、三つ巴の武力衝突がボスニア全土に広がった。
91年9月、ECが旧ユーゴ和平会議を設置し、キャリントン英元外相が議長として和平に尽力し始めた。しかし、キャリントン議長はEC諸国や旧ユーゴ連邦の各勢力が和平に協力的ではないことから、ロンドンで開かれることになっていた「旧ユーゴ和平拡大会議」の直前に、キャリントン議長は紛争の原因はドイツのスロヴェニアとクロアチアの独立を煽ったところにあると指摘して辞任してしまう。
後任に選出されたのがオーエン英元外相である。オーエンは、米元国務長官のサイラス・ヴァンス国連事務総長特使ととともに「旧ユーゴ和平国際会議」の共同議長に就任する。
ロンドンで開催された拡大和平会議は、米PR会社ルーダー・フィン社がムスリム人の被害者を会場となった一角に連れ込んでメディアの前で被害証言をさせるなどの妨害工作をしたために拡大和平会議は混乱し、旧ユーゴスラヴィア問題の解決のための「原則に関する声明」および「行動計画」、さらに「ボスニアに関する声明」を採択したのみで終わった。
ともあれ、その計画に基づき、10月にはボスニアの3民族の指導者の合意を取り付ける。「1,サラエヴォの非軍事化。2,救援物資輸送のための安全な輸送ルートの確保。3,非軍事化を他の都市にも広げる」などを提案し、次いでボスニアの政体のあり方に関する憲法の基本原則である「国家全体の形態、国家機能の分配、政府の形態、執行機関、人権・小数グループの権利」などを包含する原則を提示した。
米国のボスニア政府寄りの政策に阻まれたオーエンの和平交渉
93年1月2日、ボスニア紛争に関する「ヴァンス・オーエン裁定案」を提示。内容は、「1,国家形態は10のカントン・自治州に分割する非中央集権国家とする。2,中央政府は外交、国際関係のみを扱う。3,憲法で3つの構成民族、他のグループの存在を確認する。4,領土の分割の割合は、セルビア人勢力50%、クロアチア人勢力とムスリム人勢力が50%とする」などを骨格とする裁定案である。この裁定案は、クロアチア人勢力は承諾したが、ムスリム人勢力のイゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領は人口の43%を占めるムスリム人勢力への領土分配が少なすぎると難色を示し、セルビア人勢力はムラディッチ・セルビア人勢力総司令官と議会が拒否したため、実施に移されることはなかった。ヴァンス・オーエン両共同議長による和平修正案はこの後も提示されるが、それが成立することはなかった。この経緯を見てヴァンス国連特使は93年5月に健康上の理由をつけて辞任する。しかし、オーエンは後任のシュトクテンベルク・ノルウェー前外相とともに和平に傾注した。オーエンは93年5月に米国がボスニアのセルビア人勢力への空爆を計画していることに疑問を呈し、6月には和平の原則案をシュトルテンベルク共同議長とともに提示した。さらに8月には詳細な和平裁定案を示した。しかし、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は裁定案の受け入れに難色を示した。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が拒絶した背景には、ユーゴ問題の解決に対する強硬策を主張して大統領に当選した民主党のビル・クリントン米政権の思惑が絡んでいた。クリントンは93年1月に大統領に就任すると選挙公約でもあったセルビア悪を基調とした関与をし続けたために、オーエンらが提示した裁定案はことごとく空を切ることになったのである。
ボスニア内戦は、セルビア人勢力とボスニア政府との間の紛争にとどまらず、ボスニアのクロアチア人勢力とボスニア政府との間でも領域獲得戦争が行われていたのである。しかし、クリントン米政権は委細かまわず、セルビア悪を基調とした政策を推し進め「新戦略」なるものを策定し、それを94年2月にボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力およびクロアチア共和国に示して意のままに操った。クロアチア共和国のトゥジマン大統領はクリントン米政権の示した新戦略に添って、95年5月に「稲妻作戦」を端緒とした様々な軍事作戦をボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力とともに発動するのである。
この経緯を見てオーエンは和平会議の限界を感じ、95年6月に辞任を表明する。オーエンが辞任を表明した理由を、次のように述べている。「この1年間、ボスニアの紛争当事者らの和平協議はうまくいかなかった。交渉が進展するためには米国が妥協する必要がある」と。さらに、米政府がボスニア政府寄りの姿勢を続けていることを批判し、さらに「EUは和平交渉を粘り強く支えるべきであり、国連保護軍を戦闘部隊に変えたいとする誘惑に駆られてはならない」と国際社会に自制を求めた。
しかし、NATO軍は95年8月に起こされたマルカレ市場事件をきっかけとして「デリバリット・フォース作戦」を発動し、オーエンの求めた和平交渉による解決策が尊重されることはなかった。
<参照;ヴァンス、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応、ヴァンス・オーエン和平案>
12, 緒方貞子(Ogata; Sadako)
1927年9月、東京に生まれる。聖心女子大学文学部卒業。ジョージタウン大学国際関係修士号を取得。カリフォルニア州立大学バークレー校大学院政治学専攻博士課程を修了。76年、日本政府の国連公使となり、特命全権公使を務める。78年、国連児童基金・ユニセフ執行理事会議長に就任。国連人権委員会日本政府代表に就任する。80年、上智大教授となる。
冷戦後に多発した紛争での救援活動に関与
91年2月、請われて第8代国連難民高等弁務官・UNHCRに就任し、00年12月に退官するまでの10年間にわたって難民の救済事業に尽力した。緒方貞子が国連難民高等弁務官に就任した時期の世界情勢は、湾岸戦争、ユーゴ連邦解体戦争、ルワンダの民族間虐殺、アフガニスタン内戦、ソ連圏解体に伴う紛争などが多発した、冷戦終結後の激動の10年間であった。
湾岸戦争後にUNHCRはクルド人国内避難民への支援に踏み切る
緒方貞子難民高等弁務官は、1991年の湾岸戦争後のイラクを訪問し、フセイン・イラク大統領によるクルド人迫害を目の当たりにしたことで、従来は国外難民のみを対象としていたUNHCRの活動の枠を超えて初めて国内避難民に対する支援に踏み切った。これを契機にUNHCRの任務は拡張し、国際社会における地位を確立する。このことは緒方貞子のUNHCRへの最大の功績といえる。
ユーゴ連邦解体戦争で困難を極めた難民支援
ユーゴスラヴィア解体戦争では、当初から紛争における難民・避難民の救援活動に携わることになる。UNHCRはボスニア内戦の救援活動では、世界食糧計画・WFP、国連児童基金・UNICEF、世界保健機関・WHO、食糧農業機関・FAOおよびNGOなどと協力し、92年から95年までに95万トンの援助物資を送り込むという史上最大級の救援活動を実施した。
92年の段階で330万人に膨れあがった難民・避難民の救援活動は、さまざまな困難が生じた。93年2月にボスニア政府とサラエヴォ市議会は、ボスニアのスレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパ、チェルスカなどへの食糧輸送が実現されない限り、サラエヴォへの国連の食糧援助の搬入を拒否すると通告した。国際社会はボスニア政府の国民の犠牲を強いる政治的要求を批判。緒方貞子難民高等弁務官はこの援助物資の搬入拒否に対し、サラエヴォでのUNHCRの活動を停止するとの厳しい措置を発表した。この緒方貞子高等弁務官の声明は物議を醸したが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が説得に応じて援助物資搬入阻止を中止すると申し出たことで、UNHCRの食糧搬入は再開された。同じ頃、ボスニア・セルビア人勢力は、ムスリム人居住地のゴラジュデへの食糧と医薬品の搬送を阻止する。このように、各勢力は国連の難民支援を自勢力の要求を獲得するために政治的に利用した。とりわけ、ボスニア政府はこれを多用した。
武力行使容認に傾くUNHCR
UNHCRのメンデルーチェ特使は、「サラエヴォの生命維持の問題は単なる救援問題ではない。ある勢力は他の勢力の支配地域に救援物資が運び込まれるのを見たくないという理由で、輸送を阻止している。別の勢力は輸送隊を妨害し、砲撃を浴びせ、橋を爆破する。ボスニア政府は自らの施設を破壊し、救援物資を横流ししている。UNHCRはあらゆる勢力の妨害に必至に抵抗しながらサラエヴォ市民を援助しようとしているが、こんなことは長続きしない。戦闘を終わらせなければもっと多くの市民が死んでいくとはっきり声明を出すべきだ」と指摘した。この言葉が、ボスニアの救援活動を取り巻く実態を表している。
緒方貞子国連難民高等弁務官は、93年に国連安保理への報告書で、「ボスニアのムスリム人の民間人、女性、子ども、老人がセルビア人勢力に喉をかき切られるなどの虐殺をされている可能性がある」と記述した。しかし、この情報源は正体不明のハム無線利用者の未確認情報だった。UNHCRが中立的な国連の機関だという一般的信頼にもかかわらず、未確認情報を採用した緒方の記述は「セルビア悪」の風説の影響から免れていないことを示している。
緒方貞子著「紛争と難民・緒方貞子の回想」の問題
緒方貞子は2000年末に国連難民高等弁務官を退任すると、翌2001年には「人間の安全保障委員会」の共同議長に就く。この間、小泉日首相に2度にわたって外相として招聘されるがこれを断っている。推察するところ、日本の外務省の閉鎖性に肯じえなかったものと見られる。
緒方は、2006年に「紛争と難民・緒方貞子の回想」を出版した。緒方貞子難民高等弁務官が、内戦が進行する困難な状況下での救援活動を精力的に実施していたことは疑いないものの、状況についての記述には思い込みによる問題点が目につく。例を挙げると、コソヴォ紛争で98年からOSCE停戦合意検証団・KVMがコソヴォ自治州に検証に入っていた際に、「ユーゴ連邦軍がラチャク村に猛攻撃を加えてアルバニア系住民45人を虐殺した」とこともなげに記述している。ラチャク村での戦闘は、ウォーカーKVM監視団長の監視の下に行なわれたセルビア警察部隊とコソヴォ解放軍との間の戦いであり、その際にコソヴォ解放軍側に死者が出たという事件である。ウォーカーKVM団長はその当日に問題にせず、翌日になってアルバニア系住民の虐殺があったという宣伝を始めたが、3日後にフィンランドの検視団が遺体の検証を行ない、虐殺を証明する証拠は見出せなかったと否定している。いわばこの事件は、ウォーカー団長の政治的捏造工作というべきものであった。
「ランブイエ和平交渉」に関する記述では、仲介者である6ヵ国で構成する「連絡調整グループ」の調停案に、最初からNATO軍をユーゴスラヴィア全土に展開することが含まれていたと平易に記述しているが、誤解である。この「軍事条項」は、ランブイエ和平交渉の最終段階で米国と英国が連絡調整グループの他の国にも秘匿した上で、ユーゴ連邦およびセルビア共和国が拒否することを前提にして提示したものである。米英両国がNATO軍の空爆に持ち込むために、ユーゴ連邦とセルビア共和国がNATO軍への事実上の降服を意味する「付属条項B」なる占領条項を押し付け、セルビア共和国が拒否せざるを得ないように仕向けてランブイエ和平交渉を決裂させたのである。この事実については、NATO軍が空爆を開始した直後の4月9日にドイツの「ターゲス・ツァイトング」紙が暴露記事を掲載していることから明らかである。しかし、NATO軍はこれを無視して空爆を続けた。武力を行使し始めると、その原因が誤りであろうとも止めることは困難であることをこの事例が示している。
付言すれば、2003年に始められたイラク戦争においてもイラクが大量破壊兵器を所有していることが国際秩序に反しているとして米・英・豪による有志連合軍がイラクを攻撃した。しかし、のちの検証によればイラクに大量破壊兵器は存在しなかったのである。もちろん、この事実についてどの国も責任を取っていない。
明石康国連事務総長特使の存在を無視した緒方貞子高等弁務官
この回想録には、同時期に同じボスニアの現地で和平に尽力していた明石康国連事務総長特別代表について、1文字も触れていない。同じ国連機関に属する同僚である明石特別代表がボスニア現地の最高権力者として、公正な立場で、可能な限り武力によらない外交交渉による紛争解決に努力していた事実に触れないのは、歴史的検証には耐え得るものとはいえない。後任のコフィー・アナン国連特別代表については多少とも触れているので、毀誉褒貶のいずれであれ明石特別代表について一言も触れないのは不自然である。公的な機関に属していた人物の回顧録は、読む者にとって公式の発表やメディアの報道などで知り得なかった内部の事情についての知見を得ようとするものであり、重要な歴史の証言者としての記録であることが期待される。その点でこの回想録は歴史の証言録としての役割を十分果たしているとは言い難い。
緒方貞子元難民高等弁務官は、回想録で状況に応じた武力行使の必要性を強調しているが、「難民問題は本質的に政治問題であり、人道活動は政治行動に取って代わることは決してできない」と記述している。政治的解決がなければ人道行動は解決しないということなのであろうが、人道援助機関UNHCRの長である緒方高等弁務官が軍事力の行使を肯定するのには違和感を禁じ得ない。
緒方はUNHCRを退任後の2001年、「人間安全保障委員会」の共同議長を務め、アフガニスタン復興支援日本政府特別代表に就任し、議長として戦後の復興支援の道筋をつけた。03年10月には、国際協力事業団・JICAの後身の国際協力機構理事長に就任し、2012年3月に退任した。
2019年9月29日死去。享年92歳。この報に接したメディアの扱いは、緒方がUNHCRを現地主義に向かわせ、実体的な活動組織に引き上げた功労者であるとして称えるものであった。JICAは緒方の功績を顕彰し、機構内の平和研究所を「緒方貞子平和開発研究所」と改称した。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ自治州、ランブイエ和平交渉>
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13, オリッチ; ナセル (Oric; Naser)
1967年3月3日、ボスニアのスレブレニツァ近郊のポトチャリで生まれる。イスラム教徒。警察官。軍人。
85年から1年間ユーゴ連邦人民軍の兵役に就く。その後警察官となり、90年にはセルビア共和国内務省の警察特殊活動部隊としてコソヴォに配属される。92年3月、ボスニア政府がユーゴ連邦からの分離独立を強行すると、オリッチはボスニア政府管轄下のスレブレニツァ警察署ポトチャリ支所長となる。
セルビア人住民への破壊と殺戮をほしいままにしたオリッチの部隊
その後、ボスニア政府の命により民兵による武装集団を組織する。92年4月に「ポトチャリ郷土防衛隊」を結成し、5月には「スレブレニツァ郷土防衛隊」として組織を拡張した。92年6月、ボスニア政府軍のハリロヴィチ参謀長から、スレブレニツァ区域統合部隊司令官に任命され、正規軍の指揮官となる。管轄区域は、スレブレニツァ、ブラトゥナッツ、ブラセニツァ、ズボルニクである。オリッチ司令官は、このころからスレブレニツァ中心部に居住するセルビア人への迫害を本格化させ、家屋を破壊し、殺害し、排除してムスリム人のみの町にした。さらに、ボスニア政府軍の指示によってドリナ川の東部地域を支配することを企図し、ブラトゥナッツ、スケラニなどの町を荒らし回り、セルビア人主体の町や村や集落およそ50ヵ所を、焼き払い、破壊し、略奪し、セルビア人住民を殺戮した。この軍事行動でナセル・オリッチ指揮下の部隊は著しい戦果を上げ、93年1月にはスレブレニツァおよびジェパを含む900?を支配するまでになった。
繰り返された攻防戦でスレブレニツァは国連指定の安全地域に
セルビア人勢力としては、このオリッチ指揮下の部隊の暴挙を放置することは許容できなくなった。そこで、正規軍を投入してスレブレニツァ周辺から中心部に向かって次第に圧迫し、93年3月にはスレブレニツァ市の近郊まで迫った。圧迫を受けたムスリム人住民はスレブレニツァの街中に避難民として雪崩れ込み、およそ5万人が中心部に集まるという事態が出来した。ボスニア政府は、このような事態に陥ったスレブレニツァの窮状を国際社会に訴える。
そこで、国連保護軍・UNPROFORのモリヨン司令官はスレブレニツァに視察に出かける。モリヨン将軍を迎えたのはオリッチの部隊ではなく、オリッチの指示を受けた女性と子どもたちであり、彼を包囲して軟禁状態にした。モリヨン将軍はやむなくスレブレニツァを国連軍の保護下に置くと約して釈放して貰う。そして、国連保護軍と国連難民高等弁務官事務所・UNHCRが協力して食糧などの救援物資を輸送するとともに、3月から4月にかけてスレブレニツァのムスリム人避難民8000人から9000人をボスニア政府支配地域に移送した。ところが、窮状を訴えていたボスニア政府はこの国連保護軍とUNHCRの避難民移送を民族浄化に手を貸すものとして激しく非難する。
国連安保理はボスニア政府の要請に応え、93年4月にスレブレニツァを国連保護軍が監視下に置く「安全地域」とする決議819を採択した。次いで5月には安保理決議824を採択し、サラエヴォ、ゴラジュデ、ジェパ、トゥズラ、ビハチのいずれもムスリム人住民が多数居住する地域5ヵ所を安全地域に指定した。安全地域に指定されると、この地を外部勢力が武力攻撃してはならないことになるが、それと引き換えにオリッチの部隊も武装解除しなければならないことになる。しかし、オリッチの部隊は重火器の一部を国連保護軍に提出したものの、非武装化するつもりはなかった。
ナセル・オリッチの28師団は安全地域を攻撃拠点に利用
94年1月に、ボスニア政府軍・ARBiHは、オリッチの部隊を第2軍団指揮下の第8作戦軍、即ち28師団として編成し、ナセル・オリッチを准将に昇進させて師団司令官とし、トゥズラ駐屯のボスニア第2軍団司令官にはデリッチ将軍が就任した。28師団の兵員数は、8000人とする説と、3000人~4000人とする説があり、はっきりしない。オリッチ司令官は、この28師団を4つの大隊と予備大隊の5つに分け、戦闘態勢を整備した。そして、スレブレニツァを拠点に周囲のセルビア人の村々を襲撃しては戻るという戦闘を繰り返し、安全地域を国連保護軍に守られた城塞都市として利用した。
この実態を知ったガリ国連事務総長は、「ムスリム人勢力が、NATO軍の空軍力に護られた安全地域をセルビア人勢力への攻撃拠点としているケースがある。国連保護軍の中立性の見地からも、安全地域のあり方を再検討すべきだ」との報告書を安保理に提出した。しかし、この報告書が真剣に検討された形跡はない。
オリッチ師団の破壊活動の抑制を目指したセルビア人勢力の「クリバヤ95作戦」
のちのセルビア人勢力側の調査では、オリッチ指揮下の部隊が安全地域を城塞都市として周辺の村々で殺害したセルビア人は3562人に及ぶという。国際社会がオリッチの師団の軍事行動を黙認していることから、セルビア人勢力としては自力でオリッチの部隊の軍事行動を抑制する必要に迫られた。
そこで、セルビア人勢力は「クリバヤ95作戦」を立案する。この作戦に投入されたのはセルビア人勢力のドリナ軍団だったが、国連安保理が安全地域に指定した地域であったため、この作戦にはスレブレニツァを占領することまでは含まれていなかった。圧迫することによりオリッチの28師団を孤立化させて活動を封じ込めることが目的とされていたのである。
オリッチは28師団司令官としての職責を放棄
ところが、オリッチの28師団およびボスニア政府軍第2軍団では理解しがたい事態が進行していた。95年4月にトゥズラで行なわれた第2軍団の軍事訓練に28師団の将校15人が参加したが、訓練が終了してもオリッチ司令官などほとんどの将校はスレブレニツァに帰隊せず、副司令官と大隊長の2人しか戻さなかったのである。このボスニア政府軍28師団の実態を、セルビア人勢力は把握していなかった。このような状況下で、クリバヤ95作戦は95年7月6日に発動された。
7月11日にセルビア人勢力軍のドリナ軍団がスレブレニツァに迫ると、トゥズラに拠点を置くボスニア政府軍第2軍団のデリッチ司令官は、28師団に撤退を命じる。住民を保護せずに軍隊が先に撤退するというやり方は理解し難いが、28師団兵士たちは住民を放置したまま戦闘を避けてトゥズラに向けて脱出し始めたのである。このときスレブレニツァから脱出したのは、28師団兵士と行政員および兵役可能年齢の男性たちと少数の女性を含む1万2000人から1万5000人といわれるが、人数は確定されていない。
オリッチは第2軍団の予備中隊を率いて救援に向かう
脱出行の28師団の兵士たちは、途中の遭遇戦でセルビア人勢力の部隊指揮官のヤンコヴィチ少将を捕虜にするなど手痛い打撃を与えている。このように激しい銃撃戦を展開していることを勘案すると、28師団兵士もそれなりの武装をしていたと見られる。だが、周囲がセルビア人勢力の支配地域であったことから地の利は悪く、途中の戦闘で1500人から3000人が死亡し、投降するなどで数千人がセルビア人勢力軍に捕捉された。
このとき、不可解なことに第2軍団のデリッチ司令官は撤退命令を出しただけで救出に動いていない。これも不可解だが、28師団の司令官であるオリッチ准将が第2軍団の予備の歩兵中隊の指揮官の任に就いていた。28師団の司令官であるオリッチ准将が、第2軍団の予備中隊の指揮官に就くこと自体軍事的常識からしてあり得ないといえる。ともかく、トゥズラの第2軍団が救援に向かわない中、オリッチの予備中隊のみが救出に向かった。このオリッチ予備中隊の援護によって、スレブレニツァの脱出行数千人が救出された。200人ほどの中隊規模でも数千人を脱出させることが可能だったのだから、大隊規模で救援に向かっていれば、救出できた住民はもっと多数に上ったと考えられる。ボスニア政府軍がそれをしなかったのは、端からスレブレニツァから脱出した兵士や行政員を救援するつもりはなく、セルビア人勢力軍の為すに任せ、その結末を政治的に利用しようとの意図を抱いていた可能性が高い。
激昂した兵士がデリッチ将軍に発砲
それかあらぬか、脱出に成功してトゥズラに到着した28師団の兵士の1人は第2軍団が救出に動かなかったことに激昂し、デリッチ第2軍団司令官に向けて発砲した。しかし、銃弾はデリッチ将軍ではなく護衛兵に命中し、発砲した兵士は射殺された。この後、デリッチ司令官は8月に開かれたサラエヴォの議会で、スレブレニツァの脱出行について「28師団の撤退は概ね成功裏に終わった」と報告した。脱出途中の戦闘で数千人が死亡し、数千人が捕虜になり、虐殺されたとの噂が飛び交っていたにもかかわらず、概ね成功したと報告したデリッチ将軍の真意は定かではない。
同じ8月に開催された28師団の凱旋パレードには、3600人の28師団の兵士が参加し、オリッチ准将も参加した。しかし、直後にこの師団は24師団に吸収されて消滅し、オリッチは軍歴から外された。
ナセル・オリッチは国際戦犯法廷・ICTYの政治的配慮で自由の身に
03年3月に至って旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの検察局は、オリッチに対して92年6月から93年3月にかけて行なったスレブレニツァ周辺のセルビア人住民に対する殺人、非人道的な行為、不当な破壊活動など5つの罪で起訴し、18年の禁固刑を求刑した。第1審の公判廷には国連保護軍・UNPROFORのモリヨン将軍が証言台に立ち、「ナセル・オリッチはボスニア政府軍から命令を受け、スレブレニツァを拠点として周囲のセルビア人の192の村々を破壊した。捕虜のすべてを拷問し、処刑するなどの残虐行為をしていた。セルビア人勢力が起こしたスレブレニツァの事件は、オリッチの行為が引き起こしたものと確信している」とオリッチの犯罪行為を証言した。
06年6月30日に出された第1審の判決は、モリヨン将軍の証言を無視した形で禁固刑2年を言い渡し、3年余りの未決勾留期間を算定して即日釈放した。ICTYの検察局はオリッチの罪障の認定に疑義を抱き、控訴する。08年7月3日に出された控訴審判決は、「オリッチが犯罪に責任ある部隊を支配していたことは確認できなかった」との矛盾に満ちた理由をつけて無罪とした。師団司令官であるオリッチがその部隊の行動について不知などということはあり得ないが、ICTYはそのような判断を示したのである。オリッチはこのICTYの政治的配慮によって救われ、罪状は帳消しにされて自由の身となった。しかし、その後ボスニア政府軍は、オリッチをなぜか軍歴から外した。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、スレブレニツァ事件、旧ユーゴ国際戦犯法廷>
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14, オルブライト; マデレーン(Albright; Madeleine Korbel)
1937年5月15日、チェコスロヴァキアのプラハでユダヤ人の家系に生まれる。カトリック教徒。ウェルズリー大学卒。コロンビア大学で政治学博士号を取得。国際政治学者。政治家。
子ども時代に外交官の父親とともにセルビアのベオグラードで過ごした体験を持つ。第2次大戦中は、ロンドンに避難。1948年に、チェコスロヴァキアが社会主義政権となったことで米国に移住し、57年にアメリカ国籍を取得する。のち民主党員となる。78年、カーター政権の国家安全保障会議外交関係立法担当スタッフとなる。82年からジョージタウン大学政治学教授として米ソ関係、東欧問題などを研究。84年にはモンデール大統領候補の外交アドバイザーを務める。
米国による新世界秩序をすすめたオルブライト
93年にユーゴ問題に関して強硬策を採るクリントン政権で国連大使に就任して以来、徹底してセルビア悪に基づく姿勢を貫いた。ユーゴスラヴィアに関するさまざまな安保理決議の作成に関与するとともに、「セルビア悪」の国際世論づくりをした。
93年4月、国連安保理決議819および824によって、ボスニアに6ヵ所の安全地域を指定した際、オルブライト国連大使は、「国連保護軍がボスニアのムスリム人を防衛するためだ。安全地域の設置を通じて我々が試みようとしていることは、これら安全地域はいずれボスニア政府の地域となる事態を確立することにある」と、露骨にボスニア政府寄りの発言をした。また、94年4月に明石康国連特別代表が、セルビア人勢力へのNATO軍の空爆要請を避けたことに対し、ガリ国連事務総長に激しく非難する書簡を送付するなど、政治交渉より軍事行動を優先する姿勢が顕著に見られた。さらにオルブライト国連大使は、ガリ国連事務総長の国連改革に異議を唱え、再選には拒否権を行使するとまで発言してガリが事務総長に立候補することを断念させた。この強硬姿勢が評価され、97年にクリストファー国務長官の後任として米国初の女性国務長官に就任する。
ユーゴ連邦解体戦争の総仕上げ果たしたオルブライト
コソヴォ紛争では、コソヴォ解放軍・KLAを支持して激しくミロシェヴィチ大統領を非難し、繰り返し武力行使をちらつかせてセルビア共和国に屈服を促した。99年1月16日、OSCE停戦合意検証団のウォーカーKVM団長が、コソヴォ解放軍とセルビア警察部隊の間で戦闘があったラチャク村で虐殺事件があったと騒ぎ立てると、オルブライトはミロシェヴィチ大統領を「1938年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえ、「1999年に、こうした野蛮な民族浄化が行なわれることを見過ごすことはできない」と発言し、NATO軍の武力行使を誘導した。
99年2月に米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国による「連絡調整グループ」が仲介して始められた「ランブイエ和平交渉」は、困難な交渉となったが交渉官による尽力で和平はなるかに見えた。しかし、途中からオルブライト米国務長官が協議の場に乗り込んで主導する。そして、当初の調停案にはなかった「ユーゴ連邦全土にNATO軍を駐留させ、行動に何の制約も加えることなく自由にさせよ」との占領条項ともいうべき「付属文書B」を挿入して提示し、ユーゴ連邦およびセルビア共和国に拒絶させてコソヴォ和平の成立を阻んだ。この付属文書Bを突きつけた事実について、オルブライトはNATOの軍事行動に積極的だったブレア英首相以外の連絡調整グループの国々には秘匿していた。秘匿した意図は、ユーゴ連邦とセルビア共和国が和平を拒否した理不尽な国であるということを世界に印象づけるところにあった。
99年3月24日、NATO軍は「人道的介入」の名を冠して「アライド・フォース作戦」を発動する。この「ユーゴ・コソヴォ・空爆」は無差別爆撃に類する懲罰的軍事行動というべきもので、ユーゴ連邦のインフラを始めとする重要な公共施設や工場群を破壊し、凄まじい被害を与えた。この「オルブライトの戦争」といわれたNATO軍の空爆によって、コソヴォから85万人におよぶ大量の難民・避難民が流出することになったが、その多くは空爆を避けるためであった。にもかかわらず、ユーゴ連邦の治安部隊が追放したものとして流布された。
人道主義的な言辞を弄しながらイラクの子どもの死は肯定
イラクへの湾岸戦争後、米国が主導してイラクに厳しい経済制裁を科したことで50万人を超える子どもが死亡したといわれたが、それを記者に問われたオルブライト国務長官は、「大変難しい選択だと思うが、それだけの値打ちある」と肯定した。オルブライトにとって、米国の意思を通すためには、その国の子どもの50万人の命など取るに足らないということなのであろう。
2001年1月、クリントン政権の退陣とともに国務長官を退任。その後、CIAの外郭団体の民主主義基金・NEDの中核組織のナショナル・デモクラティック研究所・NDIの所長に就いた。
2022年3月23日、癌で死去。84歳。
<参照;コソヴォ自治州、米国の対応、NATOの対応、NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」>
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15, カーター; ジミー (Carter; James Earl “Jimmy” Jr.)
1924年10月1日、米国ジョージア州ブーレーンズで生まれる。ジョージア工科大学卒、海軍兵学校卒。政治家。
71年から75年ジョージア州知事を務める。カーターは州知事時代、南アフリカ共和国の「アフリカ民族会議・ANC」のマンデラに否定的だった。米CIAは、南アフリカ政府のマンデラ逮捕に協力し、「対南アフリカ武器禁輸措置」を破って秘密裏に武器を供給していた。
76年、カーターは民主党から立候補し、共和党現大統領のフォードを破って当選し、39代米大統領となる。大統領に就任すると、中国との全面的国交回復を実現する。78年9月、第4次中東戦争の後始末としてのエジプトとイスラエル間の和平を仲介し、キャンプ・デービッド合意を調印させた。
米国の覇権主義者ブレジンスキーを大統領補佐官に起用
一方で、ブレジンスキー国家安全保障問題担当補佐官の強硬な反共政策を支持する。ブレジンスキー大統領補佐官は、78年に開かれた社会学会でユーゴスラヴィア連邦を内外からあらゆる手段を使って崩壊させると発言。「1,ユーゴスラヴィアにおける反共産主義闘争においてメディア、映画制作、翻訳活動など文化的・イデオロギー領域に浸透する。2,ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的、政治的圧力の手段として用いることができる。それゆえにヨーロッパ共同体諸国の対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。3,ユーゴスラヴィアのさまざまな異論派グループを、ソ連やチェコスロヴァキアと同じやり方でシステマティックに支援すべきである」などと語り、カーター大統領はこの計画を支持し、実行に移した。79年4月、ブレジンスキー大統領補佐官はアフガニスタンに親ソ的な政権が擁立されたことに対して介入計画を策定する。カーター大統領は、このアフガニスタン介入計画も承認した。この計画は、アフガニスタンを武装組織によって撹乱し、ソ連軍を侵攻させる誘導計画だった、とのちのインタビューでブレジンスキー自身が誇らしげに語っている。
中東における権益を護るとのカーター・ドクトリン
79年1月、イランでイスラム革命が起こり、米国が支え続けていたパーレビ国王が亡命し、イランの石油産業が国営化され
た。11月にはテヘランの米大使館が学生などの武装組織に占拠され、400人の館員が人質となる事件に発展する。カーター大統領は、翌年1月の年頭教書で、この事件を念頭に置き「いかなる外部勢力によるペルシャ湾地域支配の試みも、アメリカの極めて重要な利益への攻撃と看做される。そのような試みは、軍事力を含む、あらゆる手段を使って撃退されるだろうということだ」とのカーター・ドクトリンを発表する。80年4月、イランで人質になっている米テヘラン大使館職員の救出のために、救出部隊を派遣したが、砂漠の砂嵐に巻き込まれて失敗した。その間、79年6月には、ソ連との間で戦略兵器制限条約・SALTⅡに調印した。
80年11月の大統領選で、テヘランの米大使館人質事件を選挙期間中に解決できなかったためにレーガンに敗北する。この大統領選では、レーガン側がイランに働きかけて人質解放を遅らせたといわれている。カーターは大統領を退任すると、公的および私的な人権外交に転換する。94年6月の朝鮮半島の武力衝突の危機に際しては、渋るクリントン政権を後目に北朝鮮に赴き、金日成に直接会って戦争の危機回避に尽力した。
ボスニア・セルビア人勢力にボスニア紛争の調停を依頼される
94年12月、カーター米元大統領はボスニアのセルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ大統領の要請を受け、ボスニア紛争の調停に乗り出す。ボスニアのセルビア人共和国は、カーター米元大統領を、カラジッチ大統領、ブラヴシッチ副大統領、コリェヴィチ副大統領、クライシュニク議会議長、コズイッチ首相、ブハ外相、ムラディチ総司令官など首脳が勢揃いして迎えた。この歓迎ぶりは、ボスニアのセルビア人勢力が和平を望んでいたことを表している。この訪問でカーター米元大統領は、ボスニア全土における3民族勢力の4ヵ月の暫定的な停戦に同意させた。ボスニア政府のイゼトベゴヴィチ大統領とガニッチ副大統領は、米・ロ・英・独・仏の連絡調整グループの修正和平案をさらに修正することを前提に4ヵ月停戦に同意する。カーター元米大統領の停戦への仲介は、一時的にせよ成功を収めたのである。
カーターはこれらの功績が認められ、2002年にノーベル平和賞を受賞する。カーターは大統領を退任した後に人権外交を展開してノーベル平和賞を受賞するほどの評価を受ける活動を行なったものの、在任中は決して人権外交に徹したわけではない。そのこともあって、「初めから元大統領なら良かったのに」とも評された。
<参照;ブレジンスキー、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応>
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16, カラジッチ; ラドヴァン (Karadzic; Radovan )
1945年6月19日、モンテネグロのペトニツァに生まれる。セルビア人。サラエヴォ大学医学部卒。精神科医。ボスニアで精神科医を務める。94年にはショーロホフ文学賞を受賞。詩人。政治家。
民族主義が台頭してユーゴ連邦を分割
ユーゴスラヴィア連邦の主な民族構成は南スラヴ族であり、民族として大きな差異はない。しかし歴史的過程で周囲の強国に支配されたことに伴って、境界と民族を意識するようになっていった。
89年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国は雪崩をうつように社会主義制度を抛棄していった。ユーゴスラヴィア連邦もこの影響を受けて政治的混乱が生じ、複数政党制が導入されていく。
カラジッチもこの流れに沿って90年6月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人民族主義政党「セルビア民主党」の結成に参画した。
ユーゴ連邦の政治的混乱は複数政党制の導入にとどまらず、次第に民族主義的動向が顕著になり、外部の働きかけも相俟って91年6月にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。このことが各共和国の民族対立を先鋭化させ留ことになる。
欧州共同体・ECは和平会議を設置して武力衝突を回避する措置として独立宣言の一時停止などに合意させるが、ドイツとバチカン市国は委細かまわず、両国の独立を煽った。そしてドイツは91年12月に両国の独立を承認し、バチカン市国も
EC諸国に独立承認を促すとともに91年1月13日にEC諸国に先駆けて独立を承認した。EC諸国もそれに引きずられるようにして1月15日に両国の独立を承認してしまう。
ムスリム人であるボスニア幹部会議長のイゼトベゴヴィチは、EC諸国がスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認するのを見ると、92年2月末にユーゴ連邦からの分離独立の住民投票を強行し、3月早々に独立を宣言した。
カラジッチは3民族が満足する状態が達成できるまで独立宣言や独立を得るための活動を停止すべき、との提案を行なったがこれは無視された。
ビル・クリントン米大統領がユーゴ問題に対する強硬策を採る
ブッシュ米政権はユーゴ問題には慎重な姿勢を示していた。それは91年6月にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの独立を宣言した翌日の26日に、ブッシュ大統領が「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを発したことに表れている。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ユーゴ問題を政争の具としたことで次第に強硬な路線を採るようになっていった。そして、ボスニアが独立宣言をしたのを受ける形で、4月にスロヴェニアとクロアチアそしてボスニア・ヘルツェゴヴィナの3国を一括承認に踏み切る。
これが、ボスニアにおける3民族の対立を先鋭化させることになった。ボスニアのセルビア人勢力は「セルビア民族・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国」を設立して独立を宣言し、カラジッチを大統領に選出した。
ボスニアはユーゴ連邦人民軍の第2軍管区に位置づけられており、それに伴ってユーゴ連邦人民軍が駐屯していた。この経緯を無視したボスニア政府はユー連邦人民軍を侵略軍として非難を浴びせるとともに撤退を迫った。そして、電気や水道などの供給を止めた上で襲撃を繰り返した。国際社会も独立を承認した経緯からそれに追随して連邦人民軍の駐屯を非難した。そのため、連邦人民軍は92年5月に撤収を表明する。連邦人民軍は撤収するに際し、大半の武器を帯同したもののボスニアへの残留を希望した兵士にもかなりの武器を与えた。残留したボスニア・セルビア人勢力軍の総司令官には連邦人民軍の将軍だったムラディッチが就任する。
ボスニアを連合国家とすることを目指したカラジッチ
カラジッチはユーゴ連邦の維持を主張していたものの、ボスニアからセルビア人共和国を分離してユーゴ連邦に合併することのみに固執したわけではなかった。ボスニアがユーゴ連邦から分離独立した現状を容認し、セルビア人居住地域がボスニア統一国家の中の自治共和国として存続することを許容する姿勢も示していた。
欧州共同体・ECはスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言したことによる武力紛争を避けるために、91年9月に旧ユーゴ和平会議を設置してキャリントン英元外相を議長に任命した。キャリントン議長は和平に尽力したが、欧米諸国が92年1月にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認し、さらにボスニアが独立を宣言するとボスニアの紛争にも関わらねばならなくなる。しかし、ムスリム人勢力としてのイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長がセルビア人の自治共和国を認めず、頑なにボスニアの統一国家にこだわり続けたために和平が叶わないと見たキャリントン議長は92年8月に開く予定だった8月26日の直前の25日に和平会議議長を辞任してしまう。その後任にはやはり英元外相のオーエンが就いた。
一方国連のデクエヤル事務総長は、ヴァンス米元国務長官を事務総長特使として任命し、91年11月にユーゴに派遣した。旧ユーゴ和平拡大国際会議はともかく26日に開かれたが、米PR会社のルーダー・フィン社がボスニアの被害者を会議の傍らでメディアに被害の実態なるものを証言させるなどの妨害行為をしたために、拡大和平会議は見るべき成果を上げることができずに終わった。しかし、ともかくもユーゴ和平拡大会議は存続し、ヴァンス国連事務総長特使と、オーエンEC和平会議議長とが共同で和平に取り組むことになる。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長が外部の支援を頼りにした統一国家
旧ユーゴ和平国際会議のヴァンス・オーエン両共同議長は93年1月に裁定案である「10カントン・州分割案」を提示した。カラジッチ・セルビア人勢力代表はこれに理解を示し、自らも「5州分割案」や「3民族国家連合案」の提案もした。しかし、このヴァンス・オーエン裁定案は3民族勢力の受け入れるところとならなかった。
カラジッチは当初は交渉による和平を目指していたが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長が統一国家の形態に拘り、自治州や自治共和国の設立に強硬に反対する。そのため、セルビア人勢力としての利益を擁護する立場から対立軸を宣明にせざるを得なかった。その上、セルビア人議会は強硬派が多数を占め、住民も強硬な姿勢に追随しがちなことから、しばしば対外交渉の変更を余儀なくされた。
93年5月に開かれた「旧ユーゴ和平国際会議」は、セルビア人勢力の要求でもあったボスニアの3民族による国家連合の裁定案を提示する。カラジッチ・セルビア人勢力代表は、パレで開かれたセルビア人共和国の議会でこの修正案を受け入れるよう演説するが、議会はこれを否決した。この事態はボスニア紛争にとって重要な転換点だったといえる。
一方、ボスニア幹部会のイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長も「連邦案」を逆提案して強硬に反対したために、裁定案が成立することはなかった。しかし、イゼトベゴヴィチ率いるムスリム人勢力が非難されることはなく、再びセルビア人勢力とムスリム人勢力の間で武力衝突が激化すると、米国およびNATO軍はセルビア人勢力を激しく非難しただけでなく、セルビア人勢力への空爆を実行する。
明石康国連特別代表を信頼したカラジッチ
NATO軍の空爆によってセルビア人勢力は硬化する。しかし、カラジッチは、94年に明石康国連ユーゴ問題特別代表がボスニア和平に関わるようになってからは、交渉の相手として明石特別代表を信頼して譲歩を見せた。ところが、カラジッチが明石特別代表に信頼を寄せるにつれ、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は明石特別代表がセルビア人勢力寄りだとの非難を繰り返し、ガリ国連事務総長に明石特別代表の解任を要求するまでに敵対した。このイゼトベゴヴィチの対応がボスニア和平をより困難なものにした。
さらに、ムスリム人勢力は、国連安保理が指定した安全地域としてのサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、トゥズラ、ジェパ、ビハチの6ヵ所を軍事拠点とし、ここからセルビア人住民の周辺の村々などを攻略した。ガリ国連事務総長が94年12月に、サラエヴォ、ビハチ、スレブレニツァなどの安全地域6ヵ所の非武装化を勧告する報告書を安保理に提出したのは、このような実態があったからである。しかし、安全地域が非武装化されることはなく、ムスリム人勢力の武力攻撃の拠点であり続けた。
カラジッチはクリントン米大統領に和平の仲介を要請した
95年4月、カラジッチは武力衝突を繰り返す現状を打開するために、クリントン米大統領にボスニア和平への力添えを要請する書簡を送った。「閣下、われわれがあなたにお願いしたいのは、紛争の全当事者ならびに国際社会の代表者たちを招き、キャンプ・デービッド方式の会議を開いていただくことです。短期間にあらゆる問題が解決され、和平が調印され、バルカン諸国に正常な多国間協力体制が確立されうること、そしてやがてはこの地域がEUの一員となることをお約束できます。われわれは何度も和平合意寸前まで行きました。後は細部の問題が残っているだけです。しかしながら1年近くも、誰1人われわれに対話を持ちかけてくれる者がいません。(略)交渉が再開されなければ、われわれは全く不必要な戦争に進んでいき、アメリカも必ずや巻き込まれていくことでしょう」と要望した。
クリントン米政権は、ユーゴ紛争についてセルビア悪に基づく強硬策を採用しており、このとき既にクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を屈服させるための計画である「新戦略」を立案しており、クリントン米大統領が和平に乗り出すことはなかった。
国際社会はセルビア人勢力を屈服させることを目標に動いていた
旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは、カラジッチがクリントン大統領に和平への仲介依頼の書簡を出した直後の95年4月24日、カラジッチをボスニア紛争時の大量虐殺や人権侵害の容疑で起訴して指名手配したと公表し、和平の気運に水を差した。
95年5月、クロアチア共和国軍が米国の「新戦略」に沿う形でクロアチア・セルビア人居住地域の一掃作戦を開始した。ボスニアのムスリム人勢力とクロアチア人勢力は、クロアチア共和国軍の攻勢に呼応し、NATO軍の空爆の支援を受けてボスニア・セルビア人勢力軍への攻勢を展開した。これに対してセルビア人勢力は反攻を企図して「クリバヤ95作戦を立案し、95年7月に作戦を発動した。スレブレニツァへの攻撃もその一環であり、この95年7月の攻防戦の際にスレブレニツァで虐殺事件があったとされた。
カラジッチ・セルビア人共和国大統領は、8月4日にクロアチアが「嵐作戦」を発動したのを見てムラディッチ・セルビア人勢力総司令官を解任し、自らが総司令官を兼任すると発表した。解任した理由には、ムラディッチ総司令官が部分的なムスリム人支配地への攻略に拘り、ボスニア政府軍とクロアチア政府軍の共同作戦への対処が疎かになったことが上げられる。
マルカレ市場事件はセルビア人勢力を武力で屈服させるための工作
クロアチアとボスニアでセルビア人勢力への一斉攻撃が実行されている最中の8月28日に、2度目のサラエヴォのマルカレ市場爆発事件が起こされた。NATO軍はその実行者を特定するための調査をすることなくセルビア人勢力の犯行だと即断し、30日未明にセルビア人勢力へ「オーペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動。NATO加盟諸国で構成された国連緊急対応部隊と共同して空陸両方から大規模な軍事行動を開始した。
ロイター通信が国連軍士官のムディレンコ大佐がマルカレ市場事件の調査を行なった結果、セルビア人勢力による砲撃は否定されたとする報告を配信したが、既に空爆は始められていたのでその記事は無視された。
誤った強国の意志に従わせられる世界
無法行為であるにせよ、強大なNATO軍とクロアチア共和国軍およびボスニア政府軍の共同軍事作戦に、セルビア人勢力が太刀打ちできるはずもなかった。そして、米国およびEU諸国は、セルビア人勢力を屈服させた上で、ボスニア和平交渉の「デイトン合意」へと引きずり込んだ。このボスニア和平交渉には、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYから起訴され、逮捕状が出されていたために当事者であるセルビア人共和国のカラジッチ大統領が参加することはできなかった。
ICTYは、カラジッチを2つの戦争犯罪で起訴している。1つは95年4月に起訴したボスニア戦争全般についての戦争犯罪であり、もう一つは95年11月に起訴したスレブレニツァ事件についての虐殺容疑である。カラジッチはいずれの容疑も否認してハーグのICTYには出廷しなかった。
彼は、デイトン和平が成立した後の96年6月にボスニアの「セルビア民主党・SDS」の党首として再選されるが、国際社会の圧力を受けて6月30日には大統領を辞任し、7月には政界を引退するとの声明を出した。
カラジッチは暫く消息を絶っていたが、08年7月18日にベオグラードで逮捕され、ハーグのICTYに引き渡された。ICTYはすぐさま裁判を開始したが、カラジッチは罪状認否で無罪を主張する。2016年3月、ICTYは控訴審において、カラジッチに対して大量虐殺、人道に対する罪などで禁固40年の判決を言い渡す。カラジッチは上訴するが、ICTYの任務を引き継いだ特別法廷は2018年3月10日に、終身刑を言い渡した。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マルカレ市場事件、米国の対応>
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17, ガリ; ブトロス・ブトロス (Ghali; Boutros Boutros)
1922年11月14日、エジプトのカイロに生まれる。カイロ大学法学部政治学科。パリ大学卒。国際法学者。政治家。コプト正教徒。49年、カイロ大学教授。コロンビア大学、プリンストン大学、パリ大学などで国際関係論を講じる。
77年10月からサダト・エジプト大統領政権で外交担当国務相に就く。78年、キャンプ・デービッドでのエジプトとイスラエルとの和平交渉で合意に尽力する。サダト大統領が暗殺されたあとのムバラク大統領政権でも、外交担当副首相を務める。
92年1月、デキエヤル事務総長の辞任に伴い第6代国連事務総長に就任。ガリ国連事務総長は就任早々ユーゴ紛争およびルワンダ紛争の解決に当たることになるが、「紛争はユーゴスラヴィアだけではない。ルワンダにもある」と、ユーゴスラヴィア紛争にしか関心を示さない欧米の対応を批判した。ガリは、ユーゴスラヴィアに対するNATO軍の空爆にも、消極的な態度を示している。ガリは、旧ユーゴ和平に関する事務総長特使を数次にわたって任命し、派遣した。93年4月にヴァンス事務総長の辞任に伴い、後任としてシュトクテンベルグを和平会議共同議長に任命、さらに、94年1月にはユーゴ紛争の全権特使として明石康事務総長特使を任命した。
冷静な視点を失わなかったガリ国連事務総長
ガリ国連事務総長は、国際社会がセルビア人悪説に染められている中でかなり事態を正確に捉えていた。国際社会がボスニア政府支持に傾いている中で、国連安保理が指定した6ヵ所の安全地域をムスリム人勢力が聖域にして軍事的な出撃拠点として利用していることに関し、「ムスリム人勢力がNATO軍の空軍力に護られた安全地域をセルビア人勢力への攻撃拠点としているケースがある。国連保護軍の中立性の見地からも、安全地域のあり方を再検討する必要がある」との報告書を94年5月に安保理に提出した。しかし、この報告書が安保理で検討された形跡はない。94年12月には、ボスニアのスレブレニツァ、ゴラジュデ、ビハチなど6ヵ所の「安全地域」を、ボスニア政府が出撃拠点として事態を悪化させていることから非武装地帯とする勧告書を安保理に提出したが、この勧告も安保理では受け入れられていない。
米国はガリの国連事務総長再任を拒否する
ガリ国連事務総長は、国連常備軍を提唱するなど独自の国連改革構想をも提示した。クリントン米政権はこのガリの構想に不興を示し、安保理の理事国14ヵ国が支持したにもかかわらず、ガリの2期目の事務総長再任に拒否権を行使した。米国が拒否権を発動してまで阻止したのは、ガリ国連事務総長とオルブライト米国連大使との確執があったからだといわれる。その1つは、ユーゴスラヴィア紛争で米国主導のNATO軍の方針やボスニア政府の要請に従わず、時として批判的な対応をしたこと。もう一つは、96年にイスラエル軍がレバノンの国連カナ難民キャンプ施設を爆撃して数百名の市民を虐殺したとする国連の報告書を、オルブライトが公表しないように要求したのに対し、ガリ事務総長が公表に踏み切ったこと。さらに、国連常備軍構想が米国の世界覇権構想に抵触していたことなどが上げられる。
国連事務総長の座は2期務めるのが通常なのだが、ガリは1期目のみで96年12月に退任した。ガリの後任に選出されたのは、米国に従順だといわれていたコフィ・アナンである。
ガリは97年、国際フランス語圏機構事務局長となる。その後も国際紛争に関する発言を続けている。
<参照;明石康、シュトルテンベルク、国連の対応、米国の対応>
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18, カルデリ; エドワルド (Kardel; jEdvard)
1910年、スロヴェニアに生まれる。政治家。政治学と経済学を修めて教師となる。自主管理社会主義の理論的設計者。
チトーの盟友としてのカルデリ
18歳のときユーゴスラヴィア王国で非合法化されていた共産党に入党する。労働運動の指導に関わったことで、1830年から32年まで投獄される。釈放後、34年にユーゴスラヴィア王国から脱出してコミンテルンで活動する。37年、ヨシプ・B・チトーの要請を受けてユーゴスラヴィア王国に帰国。直ちにスロヴェニア共産党再生の指揮をとり、スロヴェニアのトゥルボヴリェでの大会開催に漕ぎ着けた。この時からチトーの盟友的存在となり、チトー指導部体制の最高幹部となる。
第2次大戦が始まると、チトーとともにスロヴェニアで対ナチス・ドイツの「パルチザン」を組織化し、ユーゴスラヴィアの国民解放委員会の副議長を務める。パルチザンがユーゴスラヴィアを解放してユーゴスラヴィア連邦人民共和国政府を樹立すると、46年に成立したチトー内閣の副首相に就任。外相も兼任し、パリ和平会議の代表となり、さらに国連のユーゴスラヴィア代表も務めた。
1948年にソ連指導部とユーゴ連邦が対立し、コミンフォルムから追放された際には外相の任にあり、大会に出席していた。コミンフォルムの追放とそれに引き続く経済制裁は、ユーゴ連邦の国家運営に多大な困難をもたらした。ユーゴ連邦の貿易の50%が社会主義圏にあったからである。そのため、ユーゴ連邦は西側に頼らざるを得ない状況に追い込まれた。西側諸国はユーゴ連邦の要請に対し、直ちに借款に応じる。
自主管理社会主義を推進
ユーゴ共産党は、コミンフォルムから追放されたことからユーゴ連邦のあるべき社会主義体制について、チトー、ジラス、カルデリなどを中心に検討を積み重ねた。そして50年6月、「あらゆる経済企業体の管理を労働者に譲渡する」法律、即ち自主管理社会主義への移行に関する法律の制定に至る。コミンフォルムの追放は、自主管理社会主義建設に踏み出すきっかけを与えたのである。
52年11月に開かれた第6回党大会で、カルデリはソ連型社会主義を国家資本主義として批判し、生産者と勤労人民自身による自主管理型社会主義を提案した。ユーゴ連邦はカルデリのこの提案に基づき、いわゆる「53年憲法」を制定して独自の自主管理型社会主義路線を進めることになる。
53年3月に、ユーゴ連邦をコミンフォルムから追放したスターリンが死去する。スターリンの死去は、ソ連とユーゴ連邦との間に緊張の緩和をもたらしたが、ソ連は盟主として指導的地位に拘り続けた。
社会主義は平和共存をめざす一環と主張
カルデリは60年、「社会主義と戦争」を発表して戦争不可避論を批判し、社会主義は平和共存を目指す戦いの一環であると主張した。63年、カルデリは自主管理型社会主義を深化させるために、ユーゴ連邦の各共和国の自治権を拡大し、分権化する「63年憲法」の制定を推進。さらに、各共和国の中から自治権を拡大する要求が強いことを受け、チトーと協議を重ねた上で、コソヴォ自治州およびヴォイヴォディナ自治州にも共和国並みの自治権を付与すること、自主管理企業のより自由な連携などを定めた「74年憲法」を制定した。
第4次中東戦争に絡んで73年に襲ったオイル・ショックはユーゴスラヴィア連邦にも深刻な影響を与えた。経済の低迷を受け、各共和国間の経済格差が拡大することになったからである。その中で実施された74年憲法による自治権拡大は、各共和国の自主性の尊重と経済格差とが相俟って、連邦への求心力を失わせる契機となったのである。カルデリは、75年に「非同盟の歴史的根源」を発表し、非同盟や平和共存の理論を構築した。非同盟諸国会議は、彼の理論とチトーの提唱を実践に移したものである。社会的所有に基づく自主管理と非同盟政策とは、ユーゴ連邦の社会的存在の基本的で本質的な2つの要素であると考えており、社会主義的自主管理体制なくしてはユーゴ連邦の非同盟主義も非同盟外交政策もなかった。カルデリは、社会主義発展の「一般的法則」であるような社会主義のモデルは一切存在しないと考えてきた。社会主義発展の道と形態が多様であることこそ、社会主義の歴史的発展における客観的な一般法則なのだ、という主張である。また、マルクスが理想とした「国家の死滅」を念頭に置いて、自主管理社会主義の深化を意図していた。しかし、それを見ることなく、1979年2月、チトーが没するより先に69歳で死去する。。
<参照;チトー、自主管理社会主義、ユーゴスラヴィア連邦>
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19, キャリントン; ピーター(Carrington; Peter)
1919年6月6日、英国ノッチンガムで生まれる。王立陸軍士官学校卒。政治家。NATO事務総長。
1951年、復権したウィンストン・チャーチル政権の農業、国防次官を務める。59年、海軍相。70年、国防担当相。79年、外務相。84年にNATO事務総長に就任する。キャリントン卿は、南ローデシア(現ジンバブエ)で、白人支配から現地人住民への平和的政権移譲に見事な外交手腕を発揮した。
EC・EUの「旧ユーゴ和平会議」の議長に就任
91年6月25日、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国がユーゴスラヴィア連邦からの分離独立を宣言すると、たちまち両国内で武力衝突が起こる。ECは6月28日、両国の独立宣言による武力衝突を鎮静化させるために、クチャン・スロヴェニア大統領およびトゥジマン・クロアチア大統領と会談し、独立宣言を3ヵ月間凍結することで合意させた。そして、ECは8月に「旧ユーゴスラヴィア和平会議」を設置し、キャリントン英元外相を議長に任命する。
キャリントンは和平会議議長に就任すると、翌9月にはユーゴ連邦全土の和平会議を開催し、共同宣言を採択させた。骨子は、「1,ユーゴスラヴィア全住民の利益を考慮する。2,そのためには全力をあげて停戦を実現する。3,仲裁委員会を設置する」というものだった。次いでクロアチアの紛争について、ユーゴ連邦政府とクロアチア共和国およびセルビア共和国間の停戦協定を成立させる。10月の和平会議では、ユーゴ連邦体制について「1,独立した各共和国は、連合または同盟を結成する。2,少数民族を保護する。3,停戦合意を守る」ことを受諾させた。さらに「包括和平案」を提示し、「1,クロアチアの少数民族セルビア人の権利を認めること。2,ユーゴ連邦の各共和国は外相で構成する『安全協力会議』を設置する。3,経済閣僚で構成する『経済協力閣僚会議』を設置すること。4,その他議員レベルの『協議会』創設を検討すること」を受け入れるよう要請した。
民族の権利を尊重し和平に尽力
91年11月に開いた和平会議では、「1,クロアチア共和国のセルビア人を国際的な平和維持軍の保護下に置くこと。2,ユーゴ連邦人民軍はクロアチアから撤退すること。3,セルビア人は住民投票を行ない、クロアチアから分離するかどうかを決めること」との妥協案を提示した。この大胆な提案は、セルビア人居住地域のクロアチアからの分離の是非を問う住民投票以外は実現している。クロアチアへの平和維持軍は国連安保理決議724で国連保護軍・UNPROFORのクロアチアへの派遣となって実現し、ユーゴ連邦人民軍はクロアチア防衛隊の兵舎包囲を排除して撤収した。
キャリントン和平会議議長が懸命に和平に尽力しているのを後目に、ドイツは他国に先駆けて91年12月23日に強引にスロヴェニアおよびクロアチア両国の独立を承認してしまう。バチカン市国は翌92年1月13日にやはり他国に先駆けて両国を承認する。EC諸国は、ドイツとバチカンの働きかけに引きずられ、翌92年1月15日には両国の独立を承認した。このドイツの無分別な外交によって、キャリントン議長のクロアチアにおける和平努力は水泡に帰してしまうことになった。キャリントン議長はゲンシャー・ドイツ外相と激しく衝突し、「ドイツの拙速なスロヴェニアとクロアチアの独立承認が、スロヴェニアやクロアチアさらにボスニアに戦禍をもたらした」としてドイツの対応を厳しく批判した。
ボスニア紛争を回避する調停案を提示
ムスリム主義者のイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は、スロヴェニアとクロアチア両国の独立がEC諸国に承認されたのを見て、92年2月末にセルビア人住民などの反対を押し切って独立の是非を問う住民投票を強行した。このボスニア政府の行為が、ボスニアにおける3民族の対立を決定的なものにした。翌3月3日にボスニア政府が独立宣言をすると、民族間の小競り合いが頻発することになったからである。キャリントン議長はすぐさま3月9日に「ボスニア和平会議」を開き、ボスニアの政体について「1,3民族による連合ないし連邦国家とする。2,それぞれは政府と議会を持つ。3,中央政府は外交と金融および2院制の議会を持つ。4,それぞれは教育、福祉、警察の機能を持つ」などの憲法草案を提示したが、軍事面での折り合いがつかずに持ち越しとなった。それを待っていたかのように、4月にはEC諸国と米国およびロシアがボスニアの独立を承認してしまう。
そのため、ボスニアでの武力衝突は激しさを増し、和平会議を開くことが困難な状態となった。にもかかわらず、キャリントン議長は努力し続け、7月にロンドンで拡大和平国際会議を開催するまでに漕ぎ着けた。この和平会議では、「1,永続的な停戦。2,国連による重火器の管理。3,難民の帰郷。4,ロンドン和平会議の継続」が合意されたが、表面的な合意に反して各民族間の対立と憎悪は激しさを増しており、実質的な和平の見通しは立たなくなった。92年7月、キャリントン議長は「ボスニアのムスリム人武装勢力が停戦協定を無視して戦闘行動を続けている」と厳しく批判し、この状態では新たな和平提案を行なう考えがないと表明。さらに、ボスニア停戦監視のために国連は平和維持軍を増員すべきだと主張したことなどで、ガリ国連事務総長との間にも軋轢が生じ、ロンドンにおける拡大和平会議が開かれる前日の92年8月25日に辞任した。
キャリントン議長の和平への尽力は国際政治力学と折り合わず
キャリントンはECの旧ユーゴ和平会議議長として、クロアチアおよびボスニアでの武力衝突を停止させることに重点を置き、和平交渉を精力的かつ誠実に務めた。キャリントンの和平提案は現実的な解決策であり、それはしばしば有効性を発揮したが、クロアチア共和国側の武力平定統一路線にはそぐわず、またボスニア政府の外部の軍事力介入を誘導し、その力を借りて統一国家の形態を維持しようとする方針とも相容れず、両国からセルビア人勢力寄りだと非難され続けた。ともかく、1年にわたってユーゴスラヴィア和平に懸命な努力を続けたにもかかわらず、解決の糸口がつかめないまま退任した。
キャリントン卿は92年10月、旧ユーゴスラヴィアの内戦の原因はドイツがつくったと批判し、「内戦では、セルビア人も、クロアチア人も、ムスリム人も、誰もが同じことをしていたのだ。にもかかわらず、セルビア人だけが民族浄化をしているとされ、セルビア人が被害者の場合は民族浄化と言われることはなかった」と国際社会の偏頗性を批判した。
<参照;クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ドイツの対応、EC・EUの対応>
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20, クシュネル; ベルナール (Kouchner; Bernard)
1939年11月1日、フランスのアビニョンで生れる。医師。政治家。NGO創設者。社会党員。
医学生の時代に共産主義学生連合に属したが、65年に脱退する。68年、ビアフラ内戦で赤十字国際委員会・ICRCの一員として活動。
「国境なき医師団」を創設
1971年に、「国境なき医師団・MSF」を創設する際の提唱者の一員となる。人道援助を行なうNGOは通常自らを非政治的存在と位置づけているが、クシュネルは人道的支援に関し、公的機関による「介入の義務」を方針として唱えたことで、他のメンバーと袂を分かつことになり、「国境なき医師団」を79年に脱退した。80年には「世界の医師団」を創設する。
88年6月、ミッテラン政権でフランス人道援助省の担当相となり、難民救済などの人道的活動を行なう。91年にイラクのサダム政権がクルド人を迫害した際、クシュネルは国家権力を決然として行使すべきだと主張した。94年、欧州議会議員になり、97年ジュペ内閣で雇用相・保健相に就任する。
UNMIK代表としてコソヴォ解放軍を無批判的に支持
クシュネルは、かねてから人道的介入を主張してきたが、コソヴォ紛争に対しても人道的武力介入を唱えた。それが認められたのか、NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」終結後、フランス政府の推薦により、99年7月に国連コソヴォ暫定統治機構・UNMIKの国連事務総長特別代表となった。そこでクシュネルが遭遇したのは、アルバニア系住民による激しいセルビア人迫害と追放の現場であった。そこでクシュネルは、曲がりなりにもアルバニア系住民とセルビア系住民の融合を試みるが、それが不可能なことを思い知らされる。その後もセルビアに批判的な姿勢を持続させていたクシュネル氏は、自治州の総選挙を早期に実施させてコソヴォ独立を推進させようとした。しかし、2001年1月デンマークのヘカロップ前国防相と交替することになり、短期任務に終わった。
のちに、コソヴォ自治州の暫定政府の主要人物がセルビア人など少数民族300人ほどをアルバニアに連れ出して殺害し、臓器を売買していたことが暴露されるが、クシュネルはこれを黙認していたといわれる。
クシュネルは、ボスニア内戦が終結した後にイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領にインタビューを試みている。そこでイゼトベゴヴィチから引き出したのは、ボスニア内戦中にボスニア政府は米PR会社などを通して数量を含む虚偽を交えた誇大宣伝をしばしば行なったとの証言だった。このブラック・プロパガンダによって民族間の敵愾心が醸成され、国際社会も幻惑されて対応に誤りが生じたことは疑いない。
クシュネルが脱退した後の「国境なき医師団・MSF」は、コソヴォでの救援活動に際し、NATO諸国が提供しようとした援助を全て拒絶している。軍事組織と同等には見られたくないという意思の表出である。オルビンスキMSF代表は、「安全確保のための責任と透明性を明らかにすることが不可欠である。原理原則のない軍事介入には反対する」と述べている。MSFの元会長ロニー・ブローマンは、「介入の義務という考え方にも、権利という考え方にも賛成できない」と主張した。MSFの文献には、その後も「人道的な救済の権利」は掲げられているが介入という文言は使われていない。のちにクシュネルは、介入とは武力による介入を意味するものではないと釈明した。
しかし、クシュネルの武力解決志向は改まることなく、2003年に「反戦争、反フセイン」と題した論考を発表した。その論考では、フセイン・イラク大統領が亡命することに賛意を表し、間接的にブッシュ大統領のイラク攻撃への支持を表明している。07年、社会党に属していながらサルコジ大統領の内閣で外務・ヨーロッパ担当相に就任した。この間、欧州議会議員にはなったものの、フランスにおける議会選挙では2回とも落選している。
<参照;コソヴォ自治州、ユーゴ・コソヴォ空爆>
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21, クチャン; ミラン(Milan Kucan)
1941年1月、スロヴェニアに生まれる。スロヴェニア人。リュブリャナ大学法学部卒。政治家。
ユーゴスラヴィア共産青年同盟常任幹部会委員を経て、スロヴェニア共産党青年同盟中央委員会議長となる。68年、スロヴェニア共産主義者同盟中央委員会委員。78年、スロヴェニア議会議長。86年、スロヴェニア共産主義者同盟議長、ユーゴスラヴィア労働者社会主義連盟最高幹部会委員を務める。
ユーゴスラヴィア連邦崩壊のきっかけを作る
クチャンは元来カルデリ主義者で、分権化を肯定しつつ連邦制は維持すべきものと捉え、民族主義を否定する立場に立っていた。しかし、スロヴェニア内部の不満の要因となっていた、連邦に搾取されているとの意識による冨の分配の不当性、スロヴェニア語が尊重されていないこと、オルタナティブ運動の発展による複数政党制の導入への強い欲求、果ては独立を志向する強硬派の民族主義的傾向の影響を受けて現実主義的路線へと転換していき、86年に共産主義者同盟の議長に就任するとリベラル派として共産主義者同盟そのものを変容させていった。
そしてスロヴェニアは他の共和国に先駆け、89年1月に複数政党制を導入し、クチャンは「スロヴェニア民主同盟」を結成して党首となる。すぐさま、スロヴェニアは共和国憲法の修正を行ない、共産主義者同盟の指導的役割を削除し、ユーゴ連邦からの離脱の手続きを進めた。彼は、ユーゴ連邦からの分離独立を押し進める過程で、全人民体制によって各共和国に設置されていた「スロヴェニア領土防衛隊」を武力衝突になる場合に備えて強化した。
90年1月のユーゴ連邦共産主義者同盟第14回臨時大会で、クチャンはユーゴ連邦を解体して連合国家とすることを強硬に主張し、それが受け入れられないとなると会場から退場した。クチャンの退場によって、ユーゴ連邦共産主義者同盟は事実上瓦解した。次いで3月には国名から「社会主義」を削除し、「スロヴェニア共和国」と改称する。90年4月に行なわれたスロヴェニア議会選挙で、「スロヴェニア民主同盟」を中核としたDEMOSは、214議席中124議席を獲得し、共産主義者同盟系の諸党派を圧倒した。クチャンは選挙での勝利を得て90年5月、スロヴェニア共和国の初代大統領に選出される。この時からスロヴェニアは、クチャン政権で首相に就任したドルノゥシェクの2人に指導されることになる。
周到に準備したクチャンはユーゴ連邦からの分離独立を強行
91年6月25日、スロヴェニアはEC諸国の自重意見を押し切り、クロアチアとともにユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。そして直ちに、イタリアとハンガリー国境の連邦政府管轄の入国管理と税関事務所および空港などを占拠した。スロヴェニアはユーゴ連邦人民軍の第5軍管区の管轄下にあった。しかし、連邦政府としては所管する施設を占拠した行為を違法としてスロヴェニア共和国に原状回復を求めたものの、スロヴェニア領土防衛隊と戦闘をするつもりはなかった。そのためクロアチア人のアンテ・マルコヴィチ首相が独断で派遣した、連邦人民軍の兵士は僅か2000人にすぎなかった。これを欧州のメディアはユーゴ連邦人民軍の侵略として激しく非難した。
EC諸国の支持を得たと受け取ったスロヴェニア共和国は、態勢を整えていた3万5000人におよぶスロヴェニア領土防衛隊で、戦闘する意思の乏しい混成部隊の連邦人民軍を包囲して圧倒した。スロヴェニア独立戦争は10日間の戦闘で終了し、スロヴェニア側が連邦軍兵士を捕虜にして完勝した。これがスロヴェニアの10日戦争である。クチャン大統領の、武力によるスロヴェニアの分離独立の企図は見事に成功したのである。
クチャンらの対応によって、ユーゴスラヴィア連邦は解体に追い込まれ、それにともなって自主管理社会主義も崩壊した。このスロヴェニアの成功体験が、クロアチアとボスニアにおける民族対立を連鎖的に先鋭化させ、悲惨な内戦を誘発させることにもなった。しかし、クチャンおよびスロヴェニア共和国の責任が国際社会から問われることはなかった。その上、スロヴェニアはユーゴ連邦の中では最も経済的に富裕であったことから、04年にはEU加盟が認められるという恩恵に与ったのである。クチャンは、2002年12月まで大統領を務める。
<参照;スロヴェニア、クロアチア、ドイツの対応>
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22, クラーク; ウェズレー(Clark; Wesley・K)
1944年12月、米アーカンソー州生まれ。陸軍士官学校卒。オックスフォード大学大学院修士課程修了。軍人。政治家。
ホワイトハウスで予算担当の補佐官を務める。64年似始められたベトナム戦争に従軍する。95年、ボスニア紛争の和平交渉が行なわれた「デイトン和平交渉」の際、米側のチーフを務める。97年、北大西洋条約機構・NATO欧州連合軍最高司令官に就任。
1997年に顕在化したコソヴォ自治州の紛争には二つの潮流があった。穏健だといわれたイブラヒム・ルゴヴァの率いる「コソヴォ民主同盟」の政治的交渉によるセルビア共和国からの分離独立目指す一派と、武力闘争による分離独立を勝ち取ろうとするコソヴォ解放軍・KLAの一派である。コソヴォ解放軍は97年に隣国アルバニアが社会主義制度から資本主義制度に移行する過程で政治的・経済的混乱が起きると、アルバニアから大量の武器を入手し、直ちに分離独立闘争を開始した。
セルビア共和国は、ユーゴスラヴィア解体戦争の過程でセルビア悪のプロパガンダに苦しめられたことから、このコソヴォ解放軍の武力闘争の鎮圧をためらっていた。そこにつけ込んだコソヴォ解放軍は98年5月にはコソヴォ自治州の4分の1を支配するまでになる。セルビア共和国としては、セルビア王国揺籃の地であるコソヴォ自治州の蹂躙を許容することは論外であったことから、鎮圧行動を強化する。すると、欧米諸国はこれをアルバニア民族迫害行為として激しく非難した。この流れは止まらず、欧州安保協力機構・OSCEがコソヴォ自治州に監視団を送り込み、また米英仏独伊露の6ヵ国による連絡調整グループがランブイエ和平交渉を行なったにもかかわらず、既定路線の如くしてNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆へと突き進んだ。
クラークはユーゴ・コソヴォ空爆を指揮
コソヴォ解放軍・KLAが武力によるセルビア共和国からの分離独立紛争は「低強度紛争」というべきもので、NATO軍が介入しなければならない紛争ではなかった。しかし、NATO軍は大規模な戦闘態勢を整え、人道的介入の名を冠した「ユーゴ・コソヴォ空爆を敢行した。このNATO軍「アライド・フォース作戦」を指揮したのがウェズレー・クラークである。クラークは99年3月24日の空爆開始当日、「政治家たちが計画したNATO軍の作戦は、セルビア人によるアルバニア系住民への民族浄化を防ぐものではなかった。またセルビアとコソヴォの警察部隊に対する戦争を行なうものでもなかった」と人道的介入を否定する発言をしている。クラークは、ユーゴ・コソヴォ空爆がセルビア共和国やミロシェヴィチ・ユーゴ大統領に対するいわば懲罰的な軍事行動であることを暗示したのである。
この懲罰的なNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は、米原子力空母、ミサイル巡洋艦、英海軍空母、仏海軍空母などの他、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦などをアドリア海に集結させ、戦闘爆撃機はイタリアのAビアーのNATO空軍基地などに1000機以上を配備するという態勢を整えたうえで、78日間に及ぶ大規模な空爆を実行した。この空爆はユーゴ連邦全土に多大な被害を与え、損害額297億ドルという新ユーゴ連邦の国家の再起さえ危ぶまれるほどのものとなった。
NATOの「アライド・フォース作戦」の最中の4月に開かれたNATO結成50周年記念会議では、ユーゴ連邦への空爆の最中であったことからNATOの解体が問題になることはなく、NATOの条約を超えた域外への軍事力行使であるユーゴ・コソヴォ空爆の実績を追認した。この実績への評価が、NATO軍の行動範囲を地球規模に拡大する道を開くことになり、2001年10月に始められたアフガニスタン戦争にもISAFとして適用されることになる。
米・ロ軍事衝突も辞さない強硬派
空爆終結後の99年6月、停戦協定によりセルビア共和国の治安部隊がコソヴォから撤収した後にNATO軍が進駐する。このとき、協定によらないロシア部隊がコソヴォに進駐し、州都プリシュティナ空港を管理下に置いた。これを見たクラークNATO軍最高司令官はKFORとして進駐した英軍部隊のマイケル・ジャクソン司令官に、「ロシア航空機の進駐を阻止するために、プリシュティナ空港を強制的に閉鎖せよ」との命令を出した。これに対しジャクソン司令官は、「私は閣下のために、第3次世界大戦を始める気はありません」と応じて拒否した。クラーク最高司令官の強硬指令に危機感を抱いたコーエン米国防長官は、クラークを解任する。
2003年に民主党内の大統領候補に立候補した際、クラークはNATO軍最高司令官として強硬な軍事力行使を行なったにもかかわらず、私は穏健な人間だと訴えたが、ケリーに敗れて民主党の大統領候補の指名は得られなかった。その後、CIAの外郭団体である米国民主主義基金・NEDの理事、および戦略国際研究センター・CSISの上級顧問を務める。
<参照;ユーゴ・コソヴォ空爆、NATOの対応、米国の対応>
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23, クラーク; ウィリアム・ラムゼイ (Clark; William Ramsey)
米ジョンソン政権の司法長官を務める
1927年12月8日、米テキサス州ダラスで生まれる。テキサス大学で文学士、シカゴ大学で法学士を取得。弁護士。政治家。
1956年、最高裁に勤務。61年、司法省に勤務。65年、ジョンソン民主党政権の副司法長官に就く。ジョンソン政権で成立した公民権法の策定に、中心的な役割を果たす。67年、ジョンソン政権の司法長官に就任。司法長官時代に盗聴に反対し、死刑制度に反対した。そのため共和党から生ぬるいとして攻撃される。69年、ジョンソン政権の交替に伴って司法長官を退任する。
69年から72年まで、ハワード大学で法学の教授を務める。ハワード大学を辞めた後、アメリカ自由人権協会・ACLUの議長となる。
このころからベトナム反戦運動に参加し、72年には、米軍が北ベトナムへの空爆を実行している最中に北ベトナムのハノイを訪問し、米軍による北爆の実態について調査し、告発した。73年から81年まで、ブルックリン大学で法学教授を務める。この間の74年、民主党の連邦上院議員として立候補するが落選。82年には、米国がニカラグアにおける反政府勢力コントラを支援して内戦を激化させている実態の調査を行なった。
法律家として市民の個の権利を擁護する
ラムゼイ・クラークの基本的な姿勢は、「市民の権利」についての強い拘りである。彼の行動は、すべてこの理念の発現のために行なっている。65年の公民権法の策定に尽力したのはこの理念の実体化に努めたものであり、ナチ戦犯のジャック・レイマーを弁護したのも、カルト宗教団体を主宰したデビッド・ディビディアンの弁護を引き受けたのもその思考の延長線上にある。のちに、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに起訴されたミロシェヴィチ・ユーゴ連邦元大統領の特別補佐人になったのも、2003年に米・英・豪がイラク戦争を開始してサダム・フセイン・イラク大統領を裁判に掛けた際にその弁護を引き受けたのも、カラジッチ・スルプスカ共和国元大統領の弁護に携わったのも、個々の市民の権利擁護の理念に添ったものであった。
行動する法律家として湾岸戦争を告発
クラークは行動する法律家であり、1991年1月に米軍主導の「湾岸戦争」が始まると、多国籍軍が攻撃を行なっている最中の2月にイラクを訪れ、被害の実態調査を行なった。その調査報告をデクエヤル国連事務総長に提出し、「1,国連は戦争犯罪の加担者となるべきではないこと。2,イラクの子どもと乳幼児への医薬品とミルクを送付すべきこと。3,この調査報告書を国連総会の構成国ならびに安保理事国に配布すること。4,イラクの都市、民間人、公共施設、公道、橋ならびにその他の民間地域および民間施設、その他への爆撃を停止させるよう努力すること」などを提言した。しかし、米軍は圧倒的な兵力で戦闘を続け、撤退するイラク軍に気化爆弾を浴びせて圧焼殺し、生き埋めにしたりするなどの殲滅作戦を実行した。また、北部のクルド人や南部のシーア派のイラク人を唆して反乱を起こさせもした。
「クラーク法廷」・イラク国際戦争犯罪民間法廷を開く
この経緯を見てクラークは、92年2月に湾岸戦争に関する民間戦犯法廷を主催し、「ラムゼイ・クラーク法廷-イラク国際戦争犯罪法廷」を開設した。「クラーク法廷」では告発状を起草し、米国政権担当者のブッシュ大統領、クエール副大統領、ベーカー国務長官、チェイニー国防長官、パウエル統合参謀本部議長、シュワルツコフ中央軍最高司令官、ウェブスターCIA長官他を被告として特定し、訴因として「平和に対する犯罪。戦争犯罪。人道に対する犯罪または国連憲章違反。国際法違反。アメリカの憲法および関連法規に違反する犯罪行為」を挙げ、19の罪状で裁いた。その罪状の中には「イラク全土にわたって民間の生活や経済的生産にとって不可欠な施設を破壊。病院、モスク、史跡、発電、浄水装置、メディア施設、食品加工工場、鉄道施設、油井、石油精製所、下水処理施設、繊維工場、自動車工場の破壊。降服しようとした兵士の殺害。使用を禁止すべきとされている兵器としてのナパーム弾、劣化ウラン弾、クラスター爆弾、スーパー爆弾などの使用」を挙げている。
民間法廷の意義を語る
クラークは、「民間法廷」の意義について次のように解説する。「征服のための戦争を行なう政府の行動について、人民に対する責任を取らせることだ。それらのすべての政府、即ち現在のそして未来永劫の政府に対してである。私たちがいま行動しなければ、世界の80%の人が飢餓、欠乏、病気、貧困、悲惨な境遇によって短い人生を運命づけられることになろう。愛国心の最良の示し方は、倫理的危機に際して立ち上がり、わが国は二度と戦争犯罪や人道に対する犯罪を犯さないということだ。戦勝国が責任を負ったことは、歴史上一度もなかった。私たちはこれを変えようとしているのだ」と述べている。
「国際行動センター・IAC」の共同議長として数々の民間の国際戦犯法廷を開く
クラークは、この「国際戦犯法廷」を運営する過程で「国際行動センター・IAC」を設立し、代表を務めた。以後、クラークの国際戦犯法廷はIACが組織的な取り組みをすることになる。クラークらによる民間戦犯法廷は、国家や国際機関が行なう戦犯法廷が判決に強制力を持たせられるのとは異なり、強制力はない。しかし、法律の専門家が関わり、国際法および国際慣例法に基づく公正な法的吟味を行なうもので、法に基づかない人民裁判とは性質を異にする。クラークが指摘しているように、歴史上、戦勝国および強国の戦争犯罪が裁かれたことはない。クラークらの民間法廷は、権力を濫用する強国の戦争犯罪を、市民の普遍的視点によって真実を顕在化させることが可能となり、国際法と正義に基づいた公正な法廷としての機能を包含している。その意味で、民間法廷は国際社会の法的、倫理的な偏頗性を正すためには有益な方式だといえる。
「湾岸戦争症候群」は劣化ウラン弾による放射性障害の影響を受けている
「劣化ウラン弾」が実戦で使用されたのは湾岸戦争が最初である。この時、多国籍軍はイラクに95万発の劣化ウラン弾を撃ち込んだ。重量にして300トンから800トンにおよぶといわれる。使用量に開きがあるのは、米軍がその詳細を秘匿しているからである。クラークは、96年に「劣化ウラン兵器の使用禁止を求める国際アピール」を起草し、劣化ウラン弾が非人道的で危険な兵器であることを詳細に記述するとともに、各方面に働きかけた。クラークらIACの劣化ウラン弾の調査報告では、旧ユーゴスラヴィア解体戦争中にも劣化ウラン弾が使用されたことを記述しているが、この報告書は「劣化ウラン弾-湾岸戦争で何が行なわれたか・Metal Dishonor Depleted Uranium」として発刊された。
クラークは「ユーゴ・コソヴォ空爆」を裁く法廷を設立
ラムゼイ・クラークがユーゴ解体戦争に深く関わるようになったのは、99年にNATO軍が実行した「ユーゴ・コソヴォ空爆」からである。クラークは空爆の最中の5月にユーゴスラヴィアに入り、その実態調査をした。そして、NATO軍の空爆そのものが国際法に違反しているだけでなく、爆撃の対象もインフラや民間施設など無差別的であり、ジュネーブ条約に違反しているとして、メディアを通じて告発した。その上で、クラークは2000年6月にニューヨークで、「米国・NATO軍のユーゴ空爆に対する戦争犯罪を裁く国際法廷」を開いた。クラークはこの国際法廷を主催するとともに、検察官の代表も務めた。法廷は11ヵ国の16人の判事と、21ヵ国から参加した29人の証人の証言を基礎に審判した。被告には、「クリントン米大統領、クラークNATO軍最高司令官、オルブライト米国務長官、ブレア英首相、シュレーダー独首相、シラク仏大統領、ダレーマ伊首相、アズマール・スペイン首相、ソラナ前NATO事務総長、NATO諸国政府、NATOの指導者」などを特定して告発した。訴因は、「平和に対する罪。戦争犯罪。人道に対する罪。国連憲章違反。ジュネーブ条約その他の国際条約違反。国際慣例法違反」などである。
罪状は、「1,ユーゴスラヴィア連邦を解体した罪。2,ムスリムとセルビア人の間に暴力を誘発した罪。3,ユーゴ連邦の統一および平和を崩壊させた罪。4,国連の平和維持の役割を破壊した罪。5,不服従の国をNATO軍の軍事力で侵略し、占領した罪。6,ユーゴスラヴィア全土の無防備な人を殺傷した罪。7,ユーゴ連邦政府の指導者の暗殺や攻撃をした罪。8,ユーゴスラヴィア全土の経済・社会・文化等を破壊した罪。9,ユーゴスラヴィアの生存にとって不可欠なものを攻撃した罪。10,危険な物質の施設を攻撃した罪。11,劣化ウラン弾、クラスター爆弾等の非人道兵器を使った罪。12,環境を破壊した罪。13,国連制裁による人道に対するジェノサイド罪。14,セルビア指導部を破壊するために旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYをハーグに創設した罪。15,米国の攻撃を正当化するためにメディアを使った罪。16,NATO軍による長期占領を確立した罪。17,ユーゴ連邦の主権・自治権・民主主義の破壊を企てた罪。18,ユーゴスラヴィアの資源の搾取を目指した罪。19,米国の支配を確立するために経済的圧力を行使した罪」の19項目にわたる犯罪事実である。
このクラークの法廷は、これら19の罪状すべてに有罪を認定し、「NATO軍の空爆を非難し、国際的な犯罪と武力攻撃や経済制裁などによる国際人道法違反を告発し、有罪と認定された被告を厳しく非難する」と付け加えた。さらに提言として、「1,ユーゴ連邦に対する禁輸・制裁・懲罰の即時撤廃。2,NATO軍と米国のすべての軍事基地と兵力をバルカン半島から撤去すること。3,ICTYの活動を中止すること。4,NATO軍の空爆等によるユーゴ連邦への損害賠償をすること。5,NATOを廃絶すること」を求めた。
旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYのミロシェヴィチ裁判で特別補佐人を務める
国連安保理傘下の「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」は、1999年3月に始められたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆中に、ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領をコソヴォ自治州のアルバニア系住民への行為に関する罪について起訴した。ミロシェヴィチは2000年9月の大統領選挙で、外部の工作も相俟ってコシュトニッツアに破れる。
ICTYは、すぐさまユーゴ連邦の新政権に対して身柄を引き渡すよう要求してきた。大統領選に貢献したジンジッチ民主党党首は首相に就任すると、西側の援助をあてにしてミロシェヴィチ前大統領の送検を画策した。そして、2001年4月にミロシェヴィチ前大統領を、特殊部隊を使って逮捕する。
ミロシェヴィチが逮捕されるより前の3月、「ヨーロッパ平和フォーラム」が開催され、「ミロシェヴィチ弁護国際委員会・ICDM」を結成してクラークを共同議長に選出した。クラークは共同議長を辞任するが、ICTYのミロシェヴィチ裁判では特別補佐人となり弁護活動を行なう。04年2月、クラークはミロシェヴィチ裁判の特別補佐人として、アナン国連事務総長に「ICTYにおけるスロボダン・ミロシェヴィチ・ユーゴスラヴィア連邦前大統領の裁判」とする長文の書簡、および31Pの添付文書「分割と征服;米国およびNATO軍によるバルカン連邦の破壊」を送付した。書簡は、ICTYにおいてミロシェヴィチ裁判がどのように起訴され運営されているかについて、国連事務総長の理解が深まるように諄々と説いたものである。添付文書はバルカンの歴史から説き始め、NATO軍と米国の軍事干渉の犯罪行為、およびその中で行なわれたミロシェヴィチ裁判の政治性に言及し、ICTYは直ちに廃止すべきだと結論づけたものであった。
クラークはミロシェヴィチの正しさは歴史が証明すると追悼
クラークなどのミロシェヴィチ弁護国際委員会の活動によって、ミロシェヴィチ元大統領の罪状がほとんど風聞によるものであることが明らかになりつつあったが、ICTYがミロシェヴィチの持病である心臓病の治療を拒否して獄死させたため、判決に影響を及ぼすには至らなかった。2006年3月に、ICTYに獄死させられたミロシェヴィチの追悼を行なう委員会が設置されると、クラークはその共同会長に就いた。クラークは葬儀で、「ミロシェヴィチが正しかったことは、歴史が証明するだろう。起訴は起訴に過ぎない。裁判に真実はなかった」と追悼の辞を述べた。
2003年に米英豪の有志連合軍で始めたイラク戦争後に裁かれることになったサダム・フセイン元イラク大統領の弁護人ともなったさらに、ボスニアのカラジッチ・スルプスカ共和国元大統領が08年7月に逮捕され、ICTYがすぐさま裁判を開始すると、クラークはこのカラジッチの裁判でも特別補佐人を務めることになる。
<参照;旧ユーゴ国際戦犯法廷、国際行動センター、ラムゼイ・クラークの国際戦犯法廷>
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24, グリゴロフ; キーロ(Gligorov; Kiro)
1917年5月、マケドニアに生まれる。マケドニア人。ベオグラード大学法学部卒業。政治家。
第2次大戦中は、マケドニアのユーゴスラヴィア反ファシスト人民解放会議の一員として活動する。1967年、ユーゴ連邦幹部会副議長。74年、ユーゴ連邦議会議長に就任する。
マケドニアの独立を交渉で達成
91年6月にスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言したのを見て、グリゴロフはマケドニアを独立させることを企図し、ユーゴ連邦政府と分離独立に関する交渉を行なう。ユーゴ連邦政府が提示した独立に際しての条件は、人民の意志の確認とユーゴ連邦人民軍を撤退させる際に主要な兵器を持ち去るというものだった。そこでグリゴロフは、「主権国家としてのマケドニアに賛成か否か」を問う住民投票を実施し、住民投票の結果を受けて91年9月、マケドニア共和国をユーゴ連邦から分離独立する宣言を出した。ユーゴ連邦人民軍は92年3月に武器のほとんどを帯同してマケドニアから完全に撤収する。その結果、マケドニア共和国は軽装備の国となった。
グリゴロフはコソヴォ紛争を懸念
同じ頃、コソヴォ自治州のアルバニア系住民が、セルビア共和国の憲法を無視して独自に議会選挙と大統領選挙を実施し、セルビア共和国政府との対立を宣明にした。これを見たグリゴロフは、「コソヴォ自治州でアルバニア系住民とセルビア系住民との民族紛争が激化すれば、マケドニアにも飛び火してバルカン全体に戦争が拡大する」との懸念を表明した。グリゴロフの懸念は、マケドニア共和国内にアルバニア系住民が21%存在していることを念頭に置いたものだった。
グリゴロフ大統領の懸念を受け、国連安保理は92年12月にマケドニアにも国連保護軍・UNPROFORを派遣する決議795を採択し、軍事要員、警察官、文民、行政要員を派遣することになる。
グリゴロフは、93年1月に国連加盟を申請したが、ギリシャが「マケドニア」の国名を使用することを拒否した。そこで、「マケドニア旧ユーゴラヴィア共和国」を暫定国名にして国連加盟は承認された。しかし、なおギリシャはこれを認めず、経済封鎖を行なう。ギリシャの経済制裁は、マケドニアの経済に少なからぬ打撃を与えることになった。
紛争に翻弄される小国マケドニア
95年1月、クロアチアのトゥジマン大統領がクロアチアに派遣されている国連保護軍・UNPROFORの駐留継続に難色を示し、撤収を要求する書簡を国連に送付した。これに応じる形で国連安保理は95年3月、決議981から983を採択してUNPROFORを3分割する。それに伴ってマケドニアに派遣されていた国連保護軍・UNPROFORは国連予防展開軍UNPREDEPに編成替えとなり、駐留することとなった。
その後、マケドニアはユーゴ紛争に伴う経済活動の縮小の解消を図るために、経済援助を期待して台湾と国交を結ぶ。このことが中国の外交政策のタブーに触れた。中国は、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆が開始される直前の1999年2月に開かれた安保理で国連予防展開軍・UNPREDEPの駐留継続に拒否権を行使する。この決議によってUNPREDEPは撤収したため、直ちにマケドニアに禍をもたらすことになる。
直後の3月にコソヴォ紛争を理由に始められた、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆によってグリゴロフの杞憂は現実のものとなる。空爆中にアルバニア系難民が国境に押し寄せたからである。人口220万のマケドニア共和国にとって30万人の難民を受け入れることは、経済的負担が大きいだけでなく、21%を占めるアルバニア系住民の民族比を増大させることになり、紛争の種になるとかねてから危惧してUNPREDEPの配備を要請していたのである。ともあれこの時は、UNHCRや国際社会の説得に応じて、とにもかくにも難民を受け入れた。グリゴロフは、99年11月の大統領選に敗れ、引退した。
グリゴロフの懸念であったコソヴォ解放軍が侵攻する
グリゴロフの最大の危惧は、コソヴォ解放軍・KLAの動向にあった。その危惧が2001年に現実化する。NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆によって、セルビア治安部隊がコソヴォ自治州から撤収させられると、コソヴォ解放軍は「大アルバニア」の構築を目指して蠢き始めたからである。コソヴォ解放軍は先ずセルビア共和国南部に居住するアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を結成させて、武力闘争を開始した。しかし、これはセルビア共和国の治安部隊の反撃に遭い、達成は困難と見られた。
そこで、コソヴォ解放軍は武備の貧弱なマケドニアに方向を転換し、アルバニア系住民に民族解放軍・NLAを結成させ、KLAとNLAの連合部隊が「大アルバニア」を目指して01年3月に北部マケドニアに侵攻した。経済的苦境から軍備を整えられなかったアルバニア共和国軍はたちまちこの連合部隊に押し込まれ、マケドニア第2の都市スコピエを占領されるなど領土の30%が支配下に置かれた。
狼狽したマケドニア政府は、急遽ウクライナから攻撃型ヘリコプターの貸与を受け、武器を整えるなどで、ようやくKLAとNLAに対抗できるようになる。このNATO軍の一部に支援されたコソヴォ解放軍・KLA=民族解放軍・NLAによるマケドニア紛争は5ヵ月ほど続いたが、マケドニア政府による総力戦でようやく勝利が見え始めた。すると、紛争に絡んだNATOが仲介に入り、ようやく終結した。
<参照;マケドニア、コソヴォ自治州、NATOの「ユーゴ・コソヴォ空爆」>
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25, クリストファー; ウォーレン (Christopher; Warren)
1925年10月27日、米ノースダコタ州スクラントンで生まれる。南カリフォルニア大学卒、ノースダコタ大学ロースクール修了。法学博士。弁護士。法律家。政治家。
67年、ジョンソン民主党政権で司法副長官に就任。77年、カーター民主党政権で国務副長官を務める。退任間際にイランの米大使館員人質事件で52人の解放交渉を成功させた。しかし、人質解放の日時が政権交代日の1月20日だったため、レーガン政権の功績にされた。この解放時期については、レーガン政権側の工作があったといわれる。
対セルビア強硬路線を採るクリストファー国務長官
ユーゴ連邦におけるスロヴェニアとクロアチアの独立の動きに対し、当時のブッシュ米政府は慎重な姿勢を示していた。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補するに際し、ブッシュ政権のユーゴ問題への取り組みが生温いと批判したことで、ユーゴ問題が政争の具として取り上げられるようになった。強硬姿勢が選挙に有利と捉えたのか、ブッシュ政権も次第にユーゴ問題への介入姿勢が強硬になっていく。
93年1月、ユーゴ問題への強硬策を主張していたクリントンが大統領に就任する。クリストファーはこのクリントン政権で国務長官に任命された。クリストファーはクリントン政権のセルビア悪を前提とした強硬策をオルブライト国連大使とともに進め、ボスニアのムスリム人勢力としてのボスニア政府とクロアチア人勢力を支援し、セルビアに対しては空爆をちらつかせながら屈服を迫った。
クリストファーは速やかに行動計画を策定し、「1,ムスリム人勢力に武器がわたるよう武器禁輸を解除する。2,セルビア人武装勢力への制裁のための空爆を行なう。3,制裁確保のための多国籍軍によるセルビア包囲を実施する」などの強硬路線を提示して、アドリア海に空母などの艦艇をフランスと共調して派遣した。
メージャー英首相はこの動きに対し、クリントン大統領とミッテラン大統領に「早計な行動は、戦闘の激化やボスニアに展開中の英軍兵の命が失われる」と、ボスニアのセルビア人勢力への空爆に反対するとの書簡を送付する。
クリントン米政権は、ECおよび国連共同の「旧ユーゴ和平国際会議」でヴァンス・オーエン裁定案を提示して和平に尽力している最中にもかかわらず、それに水を差すように独自の和平案を93年2月に発表した。そして、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長の要請に応じ、単独でイスラム系住民の居住地域への救援物資の空中投下作戦を実行する。さらに、ボスニア上空に飛行禁止空域を設定してユーゴ連邦空軍機の飛行を制限した。クリストファー国務長官は、これらの強硬策を推進することによってユーゴ紛争問題に関する主導権を握る姿勢を示したのである。カナダのマクドーガル外相は「米国の強行策は目的が明確でない」と批判した。
ボスニア政府への武器供給を秘密裏に行なう
1993年5月、米政府は国連安保理決議724の武器禁輸の対象から、ボスニアのムスリム人勢力を外すことを安保理で強硬に要求する。米政府が準備したボスニア政府への武器禁輸解除安保理決議について、ハード英外相は「民族紛争の危機を拡大する」と難色を示し、ジュッペ仏外相は「その決議案には留保する」として慎重な姿勢を示した。米政府は、国連安保理決議が困難であることが明らかになるとそれを回避し、武器密輸の船舶の監視を緩めるなどで、秘密裏にボスニア政府側への武器密輸を促した。
ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力の戦闘
ボスニア紛争は米政府が前提としたセルビア人勢力とその相手としてのボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力との戦いという単純なものではない。三つ巴の戦闘行為が行なわれていたのである。ことに、クロアチア人勢力としてのヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国が臨時首都と定めたモスタル市の争奪をめぐって93年5月から始めた、クロアチア人勢力軍のムスリム人勢力軍への攻略戦は激しいものとなった。この時の戦闘でネレトヴァ川に架かっていた6つの橋はクロアチア人勢力の砲撃ですべて破壊された。
このクロアチア人勢力とボスニア政府との激しい戦闘に、クリントン政権はしばし戸惑った。しかし、米政府がセルビア悪を前提としたユーゴ問題への対処策を変えることはなかった。94年2月、クリストファー米国務長官はクロアチア共和国およびボスニア・セルビア人勢力の征圧を企図した「新戦略」を策定して実行に移した。
まず、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力を掛け、ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派のマテ・ボバン大統領を辞任させる。次いでボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力韓の戦闘を停止させた。その上で、94年3月にボスニアのムスリム人勢力とクロアチア人勢力およびクロアチア共和国の3者をワシントンに呼びつけて「ワシントン協定」に合意させ、ボスニアの両勢力による「ボスニア連邦」の設立を受容させた。
新戦略に基づくワシントン協定の真の目的は表層のボスニア連邦の設立に留まるものではなく、ボスニアのムスリム人勢力とクロアチア人勢力に統合司令部を設置させてセルビア人勢力攻撃の共同統合作戦を行なわせるところにあった。ボスニア問題にクロアチア共和国の代表も呼びつけたのは、クロアチア共和国およびボスニア連邦に共同戦線を形成させてセルビア人勢力を屈服させるという目的を含ませていたからである。94年の1年間は、米軍事請負会社MPRIなどを派遣してクロアチア共和国軍とボスニア連邦への軍事訓練と武器の増強に充てた。
セルビア人勢力征圧作戦としての新戦略を実施
トゥジマン・クロアチア共和国大統領は共同作戦の準備が整うと、国連保護軍・UNPROFORの存在がクロアチアにおける和平の障害となっているとして撤収することを要請する書簡を95年1月に国連に送付した。国連安保理はこれに応える形で安保理決議981~983を採択して国連保護軍を3分割し、クロアチア共和国には国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにする。
トゥジマン・クロアチア共和国大統領は国連保護軍が分割されて移動を見届けると、95年5月に「稲妻作戦」を発動してクロアチア・セルビア人勢力の支配地域の「西スラヴォニア」を攻略した。
次いで7月に「‘95夏作戦」を発動した。この作戦でクロアチア共和国軍はボスニアに越境してボスニア政府軍とともにボスニアからクロアチアのクニンに至る要路のリヴノとクラホヴォを制圧した。目的は、ボスニア・セルビア人勢力がクロアチア・セルビア人勢力に支援をする補給路の遮断をするところにあった。
さらにクロアチア共和国軍は、95年8月に兵員15万余を動員する「嵐作戦」を発動する。この作戦は4方面軍を編制した大規模なもので、クライナ・セルビア人勢力軍は稲妻作戦で東スラヴォニアとの回路を遮断されたために4万弱の兵員しか動員できなかったためにたちまちすべての戦線で崩壊し、住民と共にクロアチアから脱出せざるを得なかった。赤十字国際委員会・ICRCによると、この作戦でクロアチアから追放されたセルビア人は20万から25人に及ぶという。
クロアチア共和国軍は嵐作戦でクライナのセルビア人勢力軍とセルビア人住民はクロアチアから一掃すると「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニアに越境してボスニア政府軍と共同作戦を展開し、ボスニアのセルビア人勢力を追いつめた。この両国の共同作戦を遂行中の95年8月末、サラエヴォのマルカレ市場への爆破事件が起こされる。NATO軍はこの事件をセルビア人勢力が実行したものと即断し、NATO空軍とNATO加盟諸国で編制された国連緊急展開部隊による空陸からの共同作戦「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動した。この統合作戦によって、ボスニアのセルビア人勢力は反攻が困難になるほどの打撃を受けることになった。この事態を見たミロシェヴィチ・セルビア大統領はボスニア・セルビア人勢力に和平を受け入れるように助言する。
クリストファー国務長官はコソヴォ紛争を画策する
ボスニア内戦の和平交渉は、95年11月に米オハイオ州のデイトンで開かれ、クリストファー米国務長官は重要な役割を果たした。正式な調印はパリで行なわれるが、この「デイトン・パリ和平協定」でユーゴ連邦解体戦争は終焉を迎えたかに見えた。しかし、クリストファー国務長官はこれで終わらせるつもりはなかった。96年6月、クロストファー国務長官はミロシェヴィチ・セルビア大統領に、コソヴォの州都プリシュティナに「情報・文化センター」の設置を認めさせたのである。
情報・文化センターは、米CIAが活動拠点とするところである。直後に、コンブルム米国務次官補は「米国がコソヴォ問題に関与し続けることの一例である」の露骨に語った。のちに、コソヴォで紛争が起こることになるが、米政府はその足がかりを植え付けたのである。
クリストファーは97年1月に国務長官を辞任し、やはり強硬派のオルブライト米国連大使と交代する。
<参照;ワシントン協定、稲妻作戦、嵐作戦、「デリバリット・フォース作戦」、米国の対応>
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26, クリントン; ビル(Clinton; William Jefferson)
1946年8月19日、米アーカンソー州ホープで生まれる。ジョージタウン大国際問題専攻卒。オックスフォード大卒。アーカンソー大学教授。法学博士。弁護士。政治家。
77年、アーカンソー州司法長官。78年、アーカンソー州知事に全米最年少の32才で当選する。92年11月の大統領選で、経済優先策を掲げ、「チェンジ」を唱える一方でユーゴスラヴィア問題に対してはブッシュ政権の政策が微温的だと批判して当選。93年1月に第42代大統領に就任する。
クリントンは穏健派のイメージを持つが米国の軍事力優先策を推進
クリントン大統領は、経済優先主義を貫いたように見られているが、実際はイラク、ユーゴスラヴィア、ソマリア、スーダン、アフガニスタンへの軍事干渉を実行しており、第2次大戦後において軍事行動を発動した回数が最も多い大統領である。
93年にはソマリアに侵攻し、「人道的使命」を名目に多数のソマリア人を殺害。しかし、ソマリアの住民の報復を受けて米兵が殺害されたために、撤退する。
イラクでは、湾岸戦争後に北部地区のクルド人と南部地区のシーア派住民の保護を名目に飛行禁止空域を設定し、イラク政府の違反を口実にして30万回におよぶ空爆を実行した。98年12月には、イラクのフセイン政権が国連の大量破壊兵器廃棄特別委員会・UNSCOMの査察を拒否したとして、英国とともにイラクに対して「砂漠の狐」作戦を発動し、軍事攻撃を加えた。その上、国連安保理に図って厳しい経済制裁を科し、医薬品の輸入にも制限を加えたため、およそ50万人のイラクの子どもを死に至らしめた。
98年には、ケニアおよびタンザニアの米大使館への爆弾攻撃をアルカイダと断定し、報復としてスーダンで唯一ともいえる製薬工場を兵器工場と偽って爆撃し、スーダンの医薬品事情を危機に陥れた。同時に、アフガニスタンに対し、アルカイダが拠点にしているとして、巡航ミサイルを撃ち込んだ。
ブッシュ大統領の慎重な政策を強硬路線に誘導したクリントン
クリントン政権の前のブッシュ政権は、ユーゴスラヴィア紛争に対しては当初慎重な姿勢を示していた。それはスロヴェニアとクロアチアが91年6月25日にユーゴ連邦からの分離独立を宣言した翌日のブッシュ大統領の発言に表れている。彼は翌6月26日に、「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを発したところに表われている。しかし、民主党のビル・クリントンが92年の大統領選に立候補した際、ブッシュ大統領のユーゴスラヴィア問題への対処策を批判して以来、ブッシュ政権は次第にユーゴ問題への対応が強硬となっていった。
大統領に就任するとクリントン政権は新ユーゴ連邦に対する強硬路線を採る
クリントンは93年1月に大統領に就任すると、すぐさまユーゴスラヴィアに対する強硬策を立案した。それが「オペレーション・ルーツ」である。この計画は、CIAとドイツ連邦情報局・BNDと協力し、「モンテネグロを新ユーゴ連邦から分離し、さらにコソヴォ自治州およびヴォイヴォディナ自治州を分離独立させる」という作戦である。こののち、ヴォイヴォディナ自治州の分離独立以外は実現させている。
ボスニア紛争に対しても、就任して直後の1月28日には早くも軍事介入に言及し、安保理決議713で旧ユーゴスラヴィア諸国への武器禁輸決議が採択されていたにもかかわらず、ボスニア政府のムスリム側への武器禁輸措置の解除を繰り返し強硬に主張した。この時は戦火の拡大を危惧したEC側が、ボスニア政府側への武器禁輸解除に慎重な姿勢を採ったことで、合意を取り付ける目的は果たせなかった。
クリントン政権は「新戦略」を立案し「ワシントン協定」でセルビア人勢力の潰滅を図る
クリントン米政権は、ボスニア紛争をボスニア政府とセルビア人勢力との間の紛争であるとの単純な分析の下に政策を立案してボスニア政府への支援を行なった。しかし、現実のボスニア内戦はそのような単純な紛争ではなく、3民族による三つ巴の内戦が行なわれていたのである。92年10月、クロアチア人勢力はサラエヴォ郊外のビテズ、キセリャック、ノヴィ・トラヴニク一帯の支配権を巡って激しい戦闘が行なわれた。殊に93年5月には、ボスニア・クロアチア人勢力としての「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」がモスタル市を臨時首都とすることを目標とし、ムスリム人勢力の追放を企てて激しい攻撃を仕掛けた。モスタル市はボスニア政府の第4軍団の防衛基地でもあったことからネレトヴァ川を挟んだ厳しい攻防戦が行なわれた。
この事態にクリントン政権はしばし戸惑ったが、セルビア悪を前提とした強硬策を改めることはなく、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するための「新戦略」を立案する。そして94年2月にクロアチア共和国のトゥジマン大統領に圧力を掛け、強硬派のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のボバン大統領を罷免させ、次いでボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力の戦闘を停止させる。その上で、クリントンは94年3月にクロアチア共和国のグラニッチ外相、ボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領をワシントンに呼びつけて「ワシントン協定」に合意させた。
ワシントン協定の公表された内容は、「1,ボスニア政府とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とで『ボスニア連邦』を構成する。2,新しく形成したボスニア連邦とクロアチア共和国が将来国家連合を構成するための準備協定に合意する」というものである。しかし、ワシントン協定の真の目的はそのような形式的なものではなく、クロアチア共和国とボスニア連邦による統合共同行動を実施させてクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧するという軍事作戦を含むものであった。
クロアチア共和国とボスニア連邦を呼びつけて連合国家構想を示したのは、同時期に旧ユーゴ和平国際会議が行なわれており、また国連が明石康事務次長を特別代表としてユーゴ和平に尽力させている傍らで、米国が独自の行動を行なっているとの批判を躱すことにあった。
そして、94年を統合共同作戦の準備期間に充てた。訓練には米軍時請負会社・MPRIをクロアチア共和国、ボスニア・クロアチア人勢力、ボスニア政府軍に送り込んで実施した。軍備の充実には密かにイランの武器輸出に許可を与え、海上での武器密輸監視を緩めるなど、さまざまなルートを通してボスニア政府側へ武器を供給し続けた。この米国の対応が、ボスニア政府に米軍の介入を期待する政策を採らせ、政治的な解決を遠のかせることになった。
新戦略に基づく軍事作戦を実行するクロアチア共和国
95年1月、クロアチア共和国のトゥジマン大統領は軍事作戦の準備が整うと、国連に対して国連保護軍の存在がクロアチアの和平の妨げになっているとして撤収を要請する書簡を国連に送付する。それを受け、国連安保理は3月に安保理決議981~983を採択して国連保護軍を3分割する。クロアチアには縮減したクロアチア信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには・国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。
クロアチア共和国は国連軍が再配備に伴う移動が終了したのを見届けると、95年5月にクライナ・セルビア人勢力を掃討する初動としての「稲妻作戦」を発動し、西スラヴォニアからセルビア人勢力を追放した。次いで、8月には15万余の兵員を動員してクロアチアのセルビア人勢力を掃討する大規模な「嵐作戦」を発動した。クロアチアのセルビア人勢力は、稲妻作戦で東西に分断されたため、4万弱の兵員しか動員できなくなっていたため、クロアチア共和国軍の15万余の兵員に対抗できるはずもなく、たちまち戦線は崩壊して住民ともどもクロアチアから追放された。赤十字国際委員会・ICRCによると、嵐作戦によってクロアチアから追放されたセルビア人は20万から25万人に及んだという。このクロアチア共和国軍の両作戦を指導したのは、クリントン政権が関与を容認した米軍事請負会社・MPRIである。
クロアチア共和国軍は、嵐作戦でクロアチアからセルビア人住民を追放すると、「ミストラル作戦」に切り替えてボスニア領内に侵攻し、ボスニア連邦軍(ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍)とともにボスニア・セルビア人勢力の大統領府が置かれているバニャ・ルカおよび周辺の攻撃に取りかかった。
マルカレ市場の爆発事件を口実にNATO軍が空陸からボスニア・セルビア人勢力を攻撃
この戦闘の最中の95年8月28日に、ボスニアのマルカレ市場で爆発事件が起こる。NATO軍はこの事件をセルビア人勢力が実行したものと即断し、NATO軍とNATO加盟諸国で編制された国連緊急展開部隊が共同作戦「オペレーション・デリバット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動し、空陸からボスニアのセルビア人勢力への攻撃を開始した。ボスニアのセルビア人勢力軍はボスニア政府の陽動作戦に引っかかって東南部のスレブレニツァやジェパやゴラジュデ攻撃に主力を割いていたために、これらの5者の攻撃に耐えられるはずもなかった。それでもボスニア・セルビア人勢力の戦意は衰えなかったが、このときはミロシェヴィチ・セルビア大統領が停戦協定を受け入れるよう助言した。これを受け入れて開かれたボスニア和平協定は、米国主導の下に進められ、「デイトン和平協定」が締結された。こののちパリで細目が詰められるが、このデイトン・パリ和平協定の締結によってユーゴ連邦解体戦争は終息するかに見えた。しかし、クリントン政権はこれでユーゴ問題を終わらせるつもりはなかった。コソヴォ問題の去就である。
コソヴォ紛争も一貫して米国が主導
デイトン・パリ協定が締結された翌96年6月に、クリントン政権はミロシェヴィチ・セルビア大統領を説得してコソヴォ自治州のプリシュティナに「情報・文化センター」の設置を認めさせた。情報・文化センターは米CIAが拠点とするところである。この拠点設置についてコンブルム米国務次官補は「米国がコソヴォ問題に介与し続けることの一例である」と臆面もなく述べた。
コソヴォ自治州のセルビア共和国からの分離独立運動には、イブラヒム・ルゴヴァが党首を務める「コソヴォ民主同盟」が政治交渉による運動を進めていたが、もう一つ若者グループによる武力闘争による分離独立を目指した若者のグループであるコソヴォ解放軍・KLAが存在していた。クリントン米政権はこのコソヴォ解放軍・KLAを育成し、強化する方針を採ったのである。
コソヴォ解放軍は、97年に隣国アルバニアが社会主義制度から資本主義制度に転換する過程で政治・経済的混乱が起こると、それに乗じてアルバニアから武器や弾薬を大量に入手した。そして直ちに、コソヴォ自治州の武力による独立闘争を開始する。
セルビア共和国は、ユーゴ連邦解体戦争の過程でセルビア悪に苦しめられたことから、このコソヴォ解放軍の武力行使に対する鎮圧をためらっていた。そのため、コソヴォ解放軍は98年5月頃にはコソヴォ自治州の4分の1を支配するまでになる。コソヴォ自治州はセルビア王国揺籃の地であることから、さすがにこのような事態を看過することは許容できなかった。そこで治安活動を強化すると、国際社会はセルビア共和国がコソヴォのアルバニア系住民を迫害していると非難し始める。その非難はコソヴォ自治州で実際に起こっていることと乖離していたが、NATOによる空爆は既定路線であるかのように進行していった。そして、アドリア海にNATO軍の大艦隊を集結させて、セルビア共和国に威しをかけた。
ロシアが仲介に奔走し、1999年10月欧州安保協力機構・OSCEによる停戦監視団・KVMがコソヴォに派遣されることになる。しかし、このKVMの団長に曰く付きのウォーカー米元駐エルサルバドル対しを任命させたことで、コソヴォの帰趨は明白となった。ウォーカーは駐エルサルバドル大使だった際、独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊」が、反政権的姿勢を示していた教会の司祭や修道女たちを殺害することを容認し、擁護した人物である。
遅れてコソヴォに入ったウォーカーはたちまちラチャク村虐殺事件を捏造し、セルビア悪のプロパガンダを行なった。これを受けたオルブライト米国連大使は、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を「1938年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえて痛罵した。
その後に開かれた6ヵ国の「連絡調整グループ」による「ランブイエ和平交渉」では、クリントン米政権がコソヴォ自治州側の代表にルゴヴァ自治州大統領ではなく、30歳の若いコソヴォ解放軍の政治局長だったハシム・タチを就かせるという作為を施した。老練なルゴヴァではなく、若いタチなら米国の意図通りに動かせるとの思惑を抱いたのであろう。それでも、連絡調整グループは和平に尽力し交渉は成立するかに見えた。ところが、途中から交渉の場にオルブライト米国務長官が乗り込んで主導し、ユーゴ連邦全土にNATO軍を駐留させよという軍事条項を突きつけて拒絶させ、和平交渉を潰した。この軍事条項については、NATOの空爆に積極的だったブレア英首相以外の連絡調整グループには秘匿されたため、ユーゴ連邦が傲慢な対応を取っているとの印象を国際社会に与え、NATO軍によるユーゴ連邦への軍事力行使もやむなしとの雰囲気が醸成された。その上で、クリントン米政権は国連安保理決議を回避した人道的介入なる名を冠したユーゴ・コソヴォ空爆へと導いた。このNATO軍の「アライド・フォース作戦」は、3月24日から6月9日までの78日間に及び、ユーゴ連邦全土を破壊した無差別爆撃となった。
コソヴォ紛争は人道的危機ではなく低強度紛争にすぎない
のちの調査によると、このコソヴォ紛争といわれるセルビア治安部隊とコソヴォ解放軍による戦闘における犠牲者数は、全体で千数百人である。武力紛争による死者数としては決して多いとはいえない「低強度紛争」にすぎないものであった。しかし、国際社会は恰もコソヴォ自治州のアルバニア系住民が絶滅されるのではないかと思わせるほどに騒ぎ立てた。世界に比類のない最強の軍事同盟であるNATO軍が、空母を集結させ、1000機もの攻撃機によって空爆をしなければならない紛争ではなかったのだが、米国の作為と強硬策に引きずられたNATO軍は、異常ともいえる執拗な空爆を行なったのである。
コソヴォ解放軍はNATO軍によるセルビア共和国屈服作戦に乗じて大アルバニアを構想
NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆後に開かれた和平協定によってコソヴォの治安部隊はコソヴォ自治州から撤収させられ、セルビア共和国は統治権を奪われた。これを好機と捉えたコソヴォ解放軍は「大アルバニア」建設を構想し、セルビア共和国内のサンジャック地方のアルバニア系住民にLAPBMを結成させてセルビア共和国からの分離独立闘争を仕掛けた。ここまでがクリントン大統領の政権時のユーゴ連邦問題への介入事案である。
2001年1月以降は息子のブッシュ大統領の政権となる。ブッシュ大統領はクリントン大統領時のユーゴへの介入政策を引き継いだ。コソヴォ解放軍はセルビア共和国の分離策が思うように進まないと、01年3月にマケドニアに方向を転換し、やはりアルバニア系住民に民族解放軍NLAを結成させて分離独立を図って武力闘争を仕掛けた。軍備の貧弱なマケドニアは一時期国土の30%を支配されるほどに侵害されるが、ウクライナや東欧諸国などから武器の貸与を受けて総力戦で5ヶ月間戦い抜き、ようやくKLA・NLAを追いつめた。ここにいたってNATOが介入して停戦させる。この敗北によってコソヴォ解放軍の大アルバニア構想は潰えることになる。
しかし、コソヴォ解放軍は大アルバニア構想が潰えても、コソヴォの分離独立を諦めたわけではなかった。ランブイエ和平交渉の条項に入っていた3年後にコソヴォ自治州の独立問題を協議するとの実現を執拗に要求した。国連は2005年にアハティサーリ・フィンランド元大統領を特使に任命してこの問題の協議に当たらせた。アハティサーリは国連安保理決議による解決策を模索するが、安保理理事国から異議が出されたため、この方策も頓挫した。
コソヴォにビル・クリントンの功績を讃える彫像が建立される
コソヴォ解放軍の政治局長だったハシム・タチは2008年に自治州の暫定政府の首相に就任すると、独立宣言を議会に採択させる。これを予定調和のごとく受けとめた欧米諸国は直ちにコソヴォの独立を承認した。
翌2009年に、コソヴォ政府は自治州の独立に貢献したとして、クリントン米元大統領の巨大な立像を建造して顕彰し、除幕式に彼を招いて祝典を開いた。コソヴォにはこの他にも米政府高官の名を冠した街区が至るところにある。
ユーゴ連邦解体戦争において、NATO軍が軍事介入を行なった1993年からユーゴ・コソヴォ空爆を実行し、ユーゴスラヴィア連邦を完全に崩壊させた2001年まで米政権の大統領の地位に就いていたのがビル・クリントンである。
<参照;米国の対応、オペレーション・デリバリット・フォース、オペレーション・アライド・フォース>
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27, ゲンシャー; ハンス・ディートリッヒ (Genscher; Hans Dietrich)
1927年3月21日、ドイツのハレ近郊のランズベルグに生まれる。ライプツィヒ大学卒、ハンブルグ大学卒。
弁護士。政治家。
43年から敗戦の45年まで、ヒトラー・ユーゲントに参加。46年には東ドイツ自由民主党に参加。52年に東独から西独ブレーメンへ亡命する。そして西ドイツの自由民主党・FDPに入党する。54年、ブレーメンの法律事務所に勤務。65年、連邦議会議員に当選。68年、FDPの副党首になり、69年、ブラント内閣の内相に就任。74年5月にFDPの党首になり、ドイツ社会民主党の・SPDシュミット内閣に副首相兼外相として入閣する。82年10月、キリスト教民主同盟・CDUの第1次コール内閣において副首相兼外相に就任する。
89年11月にベルリンの壁が崩壊する。90年に行なわれた東ドイツの議会選挙でゲンシャー外相はコール首相とともに、速やかなドイツ再統一を公約に掲げる政党を支援して勝利に導いた。そしてベルリンの壁崩壊から1年を経ない90年10月には、西ドイツが東ドイツを吸収する形で再統一を果たした。しかし、この拙速の誹りを免れない強引な再統一によって西ドイツに債務負担をもたらした一方、旧東ドイツの企業は急速な民営化によって閉鎖され、住民の失業率は20%に達し、生活レベルは低下した。
ユーゴ連邦解体戦争の火付け役を果たしたゲンシャー
ゲンシャーは1991年1月に発足した第4次コール内閣でも副首相兼外相に留まり、当初はユーゴスラヴィア連邦の維持を支持するような姿勢を示していた。しかし、突如セルビアを敵視して激しい表現で攻撃し始め、スロヴェニア共和国およびクロアチア共和国の分離独立に強引な画策をする。保守系の「フランクフルター・アルゲマイネ」紙は、このゲンシャー外相の方針転換を称賛した。それに力を得たのかゲンシャーは、「ヘルシンキ宣言」の2原則である、国境不可侵と自決権とを根拠にしてバチカンと歩調を合わせ、欧米諸国に両国を独立国家として速やかに承認するよう説得して廻った。
当時の国連事務総長ペレス・デクエヤルは、ドイツの拙速な行動を憂慮しているとの書簡を送ったが、ゲンシャーはこれを無視した。91年12月、渋るEC諸国および米国などを後目に、単独でスロヴェニアおよびクロアチア両国の独立を承認した。EC諸国はドイツとバチカンの強引な要請に引きずられ、翌92年1月にほとんどの国が両国の独立を承認する。このことが、ユーゴスラヴィアの紛争を破滅的で陰惨なものにした。
ECユーゴ和平会議のキャリントン議長は、明白に「ドイツの拙速な独立承認がスロヴェニアやクロアチア、さらにボスニアに戦禍をもたらした」と、ゲンシャー外相を厳しく批判した。のちに、当時米国連大使だったマデレーン・オルブライトは、「ユーゴスラヴィア連邦の分裂に道を開く早期の独立承認は、十分に考え抜かれたものではなかった」と語っている。
ドイツの経済的権益のみを追及したゲンシャー
ゲンシャー外相は、歴史的に関係の深いスロヴェニアとクロアチアとの経済関係の強化のみしか念頭になく、クロアチア共和国内の少数民族の意思や利害関係への配慮を欠き、スロヴェニアとクロアチアの拙速な独立承認が、必然的にボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争を惹起する連鎖については顧慮することがなかった。ゲンシャーはユーゴスラヴィア解体戦争の黒幕的存在として、スロヴェニアとクロアチアの内戦を誘発させ、それがボスニアに飛び火すると、92年5月に外相を辞任してしまう。
ゲンシャーは95年に回顧録を発刊しているが、彼はそこで「ドイツが91年12月に他国に先駆けてスロヴェニアとクロアチアを承認したことは正しかった。むしろ、もっと早く承認していれば紛争は避けられた」と記述した。
99年10月、ドイツがユーゴスラヴィア連邦解体に関与した本来の目的であった経済支配の一端としてクロアチアの電話会社を買収した際、ゲンシャーはドイツ・テレコムのロビーイストとして活躍する。
<参照;コール、ユーゴスラヴィア連邦、ドイツの対応、EC・EUの対応>
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28, コシュトニツァ; ヴォイスラフ (Kostunica; Vojislav)
1944年3月24日、ユーゴスラヴィアのベオグラードで生まれる。セルビア人。ベオグラード大学法科大学院修了。憲法学者、政治家。
ベオグラード大学法科大学院助教授になるが、74年のユーゴ連邦の各共和国の自治権を拡大した憲法改正に反対したため大学を追われる。その後ベオグラード社会科学研究所に勤務して法律雑誌の編集長などを務めた。89年、ゾラン・ジンジッチとともに「民主党」の創設に参加。90年に行なわれた複数政党制によるセルビア共和国議会選挙で初当選する。92年、ジンジッチとの路線の違いが明らかになると、民主党を離党して「セルビア民主党」を設立した。
ミロシェヴィチ大統領を破ってユーゴ連邦大統領に就任
99年3月に開始されたNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」によって大きな被害を受けたユーゴ連邦では、ミロシェヴィチ大統領の責任を問う声が増大した。ミロシェヴィチ大統領は、その批判をかわすために連邦大統領選を前倒しで行なうことにする。2000年9月に行なわれた大統領選では、ミロシェヴィチ大統領を蹴落とすために「民主野党連合・DOS」が結成され、DOSはコシュトニツァを大統領候補に擁立した。
この大統領選で選管は当初ミロシェヴィチが当選したと発表したが、ミロシェヴィチ派が投票用紙を操作したとされたことから大規模な抗議デモが組織され、国会議事堂が占拠されるほどの騒擾となった。この「オトポール(拳)」と称された大衆運動には米情報工作機関のCIAや投資家のジョージ・ソロスなどが煽動手法を伝授し、資金を提供していた。同年10月、ミロシェヴィチ大統領が辞任を表明したことから、コシュトニツァはユーゴスラヴィア連邦大統領に就任する。国連安保理は、コシュトニツァが大統領に就任すると直ちにユーゴ連邦の国連再加盟を勧告し、翌11月に国連総会で国連再加盟が承認された。
米国への従属を潔しとしなかったコシュトニツァ
米国は当初、コシュトニツァの大統領就任を歓迎したが、コシュトニツァ大統領には彼なりの信念があり、外国の干渉を良しとしなかった。米国などが経済援助と引き換えにミロシェヴィチ大統領をICTYに引き渡すことを要求しても、ミロシェヴィチの戦争犯罪は国内法で裁くとしてそれを拒絶した。コシュトニツァ大統領が独立主権国家的政策を採用すると、米政府はセルビア共和国の首相に就任したジンジッチを操作する方向に転換し、コシュトニツァ大統領の排除に動くことになる。
そして2001年4月、ジンジッチ・セルビア首相は米国の意を受けてカルラ・デル・ポンテICTY首席検察官と密かに接触し、ミロシェヴィチ前大統領をICTYに送り込むことを約束した。そして、ジンジッチ首相はコシュトニツァ大統領に知らせることなくミロシェヴィチ前大統領を逮捕し、ICTYのハーグに強制移送してしまう。この事件によって、コシュトニツァとジンジッチの間は決定的に対立することになる。コシュトニッツァが関与したわけではないが、ジンジッチは03年に暗殺されてしまう。
03年2月、セルビア共和国とモンテネグロ共和国がユーゴ連邦を解消して国家連合となったことから、コシュトニツァはユーゴ連邦最後の大統領の地位を失うことになった。04年3月、セルビア議会選挙の結果、セルビア急進党が第1党、セルビア民主党が第2党となり、議会はコシュトニツァをセルビア首相に選出した。
08年2月にはコソヴォ解放軍の政治局長だったハシム・タチがコソヴォ自治州暫定政府首相に就任すると、すぐさま独立を宣言する。このコソヴォ独立をめぐって容認派のタディッチ大統領と対立したために、コシュトニツァは首相を辞任した。
<参照;ジンジッチ、ミロシェヴィチ、ユーゴスラヴィア連邦>
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29, コール; ヘルムート (Kohl; Helmut Josef Michael)
1930年4月3日、ドイツのラインラント州ルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインで生まれる。哲学博士。政治家。
1947年、17才でキリスト教民主同盟・CDUに入党する。フランクフルト大学及びハイデルベルク大学で法学、歴史学、政治学を学ぶ。
1959年、ラインラント州議会議員になる。73年、キリスト教民主同盟・CDUの党首となる。76年、連邦議会議員に当選。82年、CDUはシュミット西ドイツ首相を不信任案によって引きずり下ろし、3党による連立政権を形成し、コールは西ドイツ連邦首相に就任した。
東ドイツの選挙に介入して統一ドイツをなす
89年11月にベルリンの壁が崩壊すると、コールは東西ドイツの再統一に向けて東ドイツの議会選挙に介入する。ドイツ再統一を速やかに行なうとの公約に掲げる政党を支援して勝利に導き、90年10月に東ドイツを吸収合併する形で再統一ドイツを誕生させた。コール首相の甘言を信じて性急な東西再統一事業は西ドイツ側の功利性に基づいた東ドイツ企業の企業整理や民営化であったために、旧東ドイツの失業率は20%におよび、生活水準は著しく低下した。
ドイツ経済圏の拡大を企図してスロヴェニアとクロアチアの分離独立を画策
コール・ドイツ首相は、ドイツ再統一を成し遂げた余勢を駆ってドイツ経済圏の拡大を目論み、ユーゴ連邦の解体促進を企図する。バチカンと協調し、ゲンシャー外相とともにスロヴェニアとクロアチアのユーゴ連邦からの分離独立を画策した。ドイツとバチカン市国の支持と支援によって勇気づけられたスロヴェニア共和国とクロアチア共和国は、91年6月25日にユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。この一方的な両共和国の独立宣言は、ユーゴ連邦人民軍および領域内の少数民族としてのセルビア人住民との対立を激化させ、武力衝突を誘発した。
EC諸国は当初、ドイツとバチカン市国の拙速な両国の独立承認は内戦を激化するとして疑義を呈した。これに対してコール・ドイツ首相は91年8月、「戦闘が直ちに中止されないならば、EC諸国はスロヴェニアとクロアチアの独立を承認しなければならない。ただそれだけが戦闘を止めさせることができるのであり、ドイツには他のEC諸国に承認を迫って圧力をかける手段がある」と述べてEC諸国を威圧しつつ、12月23日には単独で両国を承認してしまう。結局、EC諸国はドイツとバチカンの強引なやり方に追随し、92年1月15日にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認した。この動向がボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を誘引し、悲惨な内戦を引き起こすこととなった。
92年8月、コール独首相はボスニアでの強制収容所問題に対する制裁措置として、「新ユーゴ連邦」を海陸両面から全面封鎖すべきだ、と見当違いの提言をした。この時点で、ボスニアに強制収容所が存在したのかどうかの確認もせず、存在したとしてもボスニアの問題がなぜ「新ユーゴ連邦」への制裁を強化することになるのか、論理の飛躍が甚だしい提言を行なったのである。これはドイツの強引な分離独立承認の結末が悲惨な内戦をもたらしたことを糊塗するための提言だったといえる。
ドイツの強引な介入がユーゴ連邦の内戦を誘発
ドイツがスロヴェニアとクロアチアの独立承認を強引に推し進めた理由には、東西再統一に伴うコストを軽減するためにドイツ経済圏を拡大するという国益に基づいた功利性が挙げられる。そのためには社会主義の残滓を色濃く残しているユーゴ連邦を解体させる必要があった。コールの極端な国益追求外交が、ユーゴ連邦を悲惨な内戦に導いた一因といえる。
コールは82年から98年までの16年の長期にわたって首相を務めたが、98年9月の選挙で社会党に大敗し、10月に退陣した。2000年になってキリスト教民主同盟・CDUをめぐる外国絡みの不正献金疑惑が表面化し、CDUの名誉党首も辞任する。華々しい功績を挙げたように見えたコール首相だが、その思想の根源にあった功利性と高慢さが、晩年に汚点となって表面化したといえる。2017年6月16日死去。87歳。
<参照;ゲンシャー、ドイツの対応、EC・EUの対応>
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30, シェシェリ; ヴォイスラフ (Seselj; Vojislav)
1954年10月11日、ボスニアのサラエヴォに生まれる。セルビア人。サラエヴォ大学で法学を学び、博士号を取得する。政治学者。政治家。一時期、アメリカのミシガン大学で政治学の教鞭を執る。その後、サラエヴォで84年まで国際関係論を教える。
民族主義者として「大セルビア主義」を唱える
84年7月、彼は党の機関誌「コムニスト」に、ボスニアはセルビアとクロアチアに分割すべきであり、モンテネグロはセルビアに併合するべきだとの「大セルビア主義」を主張した。また、ユーゴスラヴィアの民族問題についての理論的支柱であったカルデリの民族理論を攻撃する。その行為が「憲法秩序に対する敵対的なプロパガンダ」を広めたとの罪に問われ、84年に禁固8年を宣告された。しかし、国際的な人権組織の圧力により1年あまりの刑期で出所する。その後も、彼は「大セルビア主義」を唱え続け、反共産主義の出版物を発行した廉で再び懲役刑を受けた。89年、ドラシュコヴィチとともに「セルビア再生運動」を結成するが、間もなく離脱し、民族主義の「セルビア急進党」を結成して党首になる。
過激な民兵組織を引き連れてクロアチアおよびボスニア内戦で戦う
91年6月、スロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立宣言を強行したことによって武力衝突が起こると、シェシェリはセルビア人の民兵組織「白い鷹」を結成してクロアチアに侵入し、クライナ・セルビア人共和国側の一員として戦った。さらに、92年3月にボスニアが分離独立を宣言したことで内戦が始まると、シェシェリは「白い鷹」を引き連れて、「アルカン」といわれた民族組織とともにボスニアのセルビア人勢力側を支援し、過激な逸脱行為を行なった。
彼はユーゴスラヴィア内戦の初期を除き、ミロシェヴィチとは徹底的に対立した政敵であり、ことある毎に真偽を織り交ぜてミロシェヴィチ政権を非難し続けた。
03年1月、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYはシェシェリを15の訴因で起訴する。訴因は、クロアチアとボスニアで犯した「人道に対する罪。戦争の法規慣例違反。共同犯罪計画」などである。シェシェリは、2月に出廷し、本人が弁護人を兼任することを申し立てる。ハーグの裁判所はこれを受け入れずに弁護人を指名したことに対し、30日間ハンガース・トライキを実施して指名を撤回させた。07年11月、公判が開始される。シェシェリはハーグで勾留されている間に、ソラナNATO事務総長がコソヴォ紛争を起こした張本人だとする著書を出版した。
「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」のミロシェヴィチ裁判では、シェシェリは被告側証人となる。その際の証言で、「内戦当時にミロシェヴィチが武器密売や窃盗まで行なっているとのステートメントを出したけれども、あれは出任せだった」と述べ、さらに「大セルビア主義は、セルビア急進党だけが主張していたのであり、ミロシェヴィチも母体のセルビア社会党も決して賛成しなかった」と証言した。
シェシェリが結党した「セルビア急進党」は、その後もセルビア共和国内では根強い支持があり、ニコリッチを党首代行として闘った07年1月の国会議員選挙では、得票率28%を獲得し、250議席中の81議席を確保して第1党になった。しかし、欧米などの圧力でセルビア共和国の政権には入れなかった。
ICTYは、シェシェリの癌が悪化したことを理由に一時期釈放する。ICTYは再び彼を拘束するが、判決を出さないまま閉廷した。そののち、ICTYの任務を引き継いだハーグの特別法廷がシェシェリに下した判決は、彼の訴因の多さからすると、意外なことに禁固10年である。そして、勾留期間が12年を超えていたために即時釈放された。
<参照;ミロシェヴィチ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ICTY>
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31, ジュカノヴィチ; ミーロ (Dukanovic; Milo)
1962年2月、モンテネグロのニクシチに生まれる。モンテネグロ人。ボドゴリツァ大学経済学部卒。
学生時代から共産主義者青年同盟幹部として活躍し、頭角を現す。ユーゴスラヴィア連邦が解体しつつある中で、91年に29才でモンテネグロ共和国首相に就任する。ジュカノヴィチは新自由主義市場経済による企業の民営化およびユーゴ連邦各共和国の民主化運動を支持し、ミロシェヴィチ大統領と対立した。のち、モンテネグロの民主社会党のブラトヴィチ党首を失脚させて党首に就任する。
モンテネグロの分離独立のみを政治目標とした
1997年10月のモンテネグロの大統領選決選投票で現職のブラトヴィチ大統領を破り、98年1月、35才で大統領に就任した。ジュカノヴィチは大統領に就任すると、99年に通貨改革を実行し、ユーゴ連邦のディナールを排してドイツマルクを採用した。彼は、セルビア共和国と構成しているユーゴスラヴィア連邦からの離脱を目指して住民投票を企図したものの、65万人の人口では独立国を維持するのは困難と考える人たちも少なくなく、また38%を占めるモンテネグロ人以外の住民も分離には容易に賛成しなかったため、独立は果たせなかった。
そこで、ジュカノヴィチ大統領は2002年に権限が限定的な大統領職を辞任し、03年1月に首相に就く。そして2月に、セルビア共和国との連邦を解消し、セルビア共和国とモンテネグロ共和国の連合国家とした。そして、06年5月、念願だったモンテネグロの分離独立を求める住民投票を実施し、モンテネグロ共和国の独立を果たす。06年10月、モンテネグロの独立を達成したことに充足したのか、「政治に飽きた」と発言して引退した。そののち、再び政界に復帰している。
<参照;プラトヴィチ、モンテネグロ、ユーゴスラヴィア連邦>
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32, シュトルテンベルグ; トールバル (Stoltenberg; Thorvald)
1931年7月、ノルウェーのオスロに生まれる。スイスおよび米国などで国際法を学ぶ。法学博士。外交官。政治家。
1959年、サンフランシスコ副領事。61年、駐ユーゴスラヴィア大使館付書記官。64年、国連南北委員会委員長に就く。71年、ノルウェー外務次官、73年、国防次官、79年、国防相を歴任。90年1月、UNHCR・国連難民高等弁務官に就任。90年11月、ブルントラント内閣の外相に就任する。
ボスニアは民族別の連合国家が最適との裁定案を提示
93年5月、ヴァンス国連事務総長特使の辞任に伴い、ガリ国連事務総長の指名を受けてノルウェー外相を辞任し、国連事務総長特使に就任する。そして、オーエンEC和平会議議長とともに「旧ユーゴスラヴィア和平国際会議」の共同議長を務めることになる。翌6月にボスニアの「和平原則案」を提示。原則案は、「1,3民族それぞれが共和国を設立し、国家連合とする。2,連合政府は限定された権限にとどめる。3,連邦幹部会議長は持ち回りとする」というものであった。セルビア人勢力とクロアチア人勢力は原則で合意を示したが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、「ボスニアは民族別単位にはならない。民族別3分割案は拒否する」と表明、和平裁定案を拒否した。
1993年7月、原則に基づいたボスニア和平のための「オーエン・シュトルテンベルグ裁定案」を再提示する。内容は、「1,ボスニアを3共和国に分割し、中央政府を設置する。2,中央政府は国際機関に対して国家を代表する。3,各共和国大統領で構成する幹部会の議長は4ヵ月ごとの輪番制にする」というもの。セルビア人勢力とクロアチア人勢力は基本的に受け入れを表明したが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領は支配領域が固定化することを危惧するとともに、NATO軍のセルビア人勢力への空爆によるムスリム人勢力の領域拡張を期待して曖昧な態度に終始した。
シュトルテンベルグは、8月に入り詳細なボスニア共和国連合案を提示し、9月には「セルビア人勢力52%、ムスリム人勢力30%、クロアチア人勢力17%」の民族別領土分割案を示した。ムスリム人勢力としてのボスニア政府はこれにも難色を示し、領土の34%を要求した。和平拡大交渉が12月にブリュッセルで開かれ、ムスリム人勢力の領土を33.3%に増加することで一応の合意を得た。この裁定案で和平は実現するかに見えた。しかし、サラエヴォをめぐる戦闘は止まず、米国が主導しているNATO軍がゴラジュデを包囲しているセルビア人勢力に対して空爆を実行したために、オーエン・シュトルテンベルグ裁定案が成立することはなかった。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、オーエン・シュトルテンベルグ裁定案>
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33, シライジッチ; ハリス (Silajdzic; Haris)
1945年、ボスニアのサラエヴォで生まれる。イスラム教徒。リビアのベンガジ大学卒。リビアでイスラム学を学ぶ。学者。政治家。90年までプリシュティナ大学で歴史学教授を務める。
シライジッチは策士ぶりを発揮して国際社会をムスリム人勢力側に引き寄せる
1990年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの外相に就任すると、アメリカのPR会社のルーダー・フィン社に依頼して「セルビア悪」説を広めた。ルーダー・フィン社は、既成のルートを通してメディアにシライジッチを頻繁に登場させ、ボスニアのムスリム人の被害とセルビア人勢力の悪行を言い募らせ、セルビア人勢力が「民族浄化」を行なっているとの文言を編みだし、セルビア人の加害性を印象づけることに成功する。
さらに、シライジッチは外相という役職を最大限活用して欧米諸国を精力的に歴訪し、政府首脳に支援と介入を働きかけた。彼はボスニア本国から離れて諸外国間を巡歴しているにもかかわらず、あたかも見てきたかのようにムスリム人の被害をあれこれと並べ立て、レイプの被害が数万人から10万人におよぶと途方もない数字を披瀝した。ムスリム人の死者数も20万人におよぶと誇大に言い立て、諸外国の政治家と世論の同情をボスニア側に惹きつける役割を果たした。シライジッチの働きかけが効を奏したのか、米政府は国連安保理決議713でユーゴスラヴィア全土への武器禁輸が決議されているにもかかわらず、ボスニア政府への武器禁輸を解除することを安保理諸国に執拗に働きかけた。
93年8月、ボスニア政府が曲がりなりにも3民族によって構成されていることを示す象徴でもあったクロアチア人のアクマジッチ首相ら幹部会員3人がボスニア政府から離脱すると、シライジッチがボスニア首相に就任する。シライジッチが首相に就任すると、ボスニア政府はムスリム人勢力の機関と化した。
和平より外部の軍事力を利用してセルビア人勢力の屈服を図る
シライジッチは強硬なムスリム民族主義者ぶりを発揮し、9月に提示された「ユーゴ和平国際会議」のオーエン・シュトルテンベルグ裁定案の3民族分割案に強硬に反対する。94年1月には、オーエン・シュトルテンベルグ両共同議長による3民族合同の和平会議が開かれたが、シライジッチらのムスリム人勢力がNATO軍によるセルビア人勢力への空爆によって領土の分割割合が有利に働くことを期待したために、まとまることはなかった。
ボスニア・クロアチア人勢力とボスニア政府韓の領域拡張紛争
ボスニア内戦は、ボスニア政府とボスニア・セルビア人勢力との間の紛争のように捉えられがちだが、実際のボスニア内戦はムスリム人勢力としてのボスニア政府とボスニア・セルビア人勢力そしてボスニア・クロアチア人勢力との三つ巴の内戦であった。92年10月には、ボスニア・クロアチア人勢力軍はムスリム人勢力としてのボスニア政府軍とサラエヴォ北西の町ビテズやキセリャックなどの支配権を巡って激しい戦闘を交えていた。さらに、93年5月にはボスニア・クロアチア人戦力としてのヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国がモスタル市を首都とすることを企図して、ムスリム人勢力軍を追放するべく激しい攻撃を仕掛けた。このときの戦闘は、ネレトヴァ川を挟んで激烈な砲撃戦を展開したため、ネレトヴァ川に架かっていた6つの橋はすべて砲撃で崩落した。
クリントン米政権は、ボスニア紛争をボスニア・セルビア人勢力とボスニア政府との紛争だと捉えていたため、しばし戸惑ったが、セルビア悪を前提としたボスニア紛争解決策を改めることなく「新戦略」を立案する。そして94年2月、クリントン米政権はクロアチア共和国のトゥジマン大統領に圧力をかけ、ボスニア・クロアチア人勢力の大統領の任にあった強硬派のマテ・ボバンを解任させ、次いでボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力との戦闘を停止させた。その上で、クリントン米政権は2月26日にシライジッチ・ボスニア首相、クロアチア人勢力のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相をワシントンに呼びつけ、両勢力による「ボスニア連邦」を設立するための「ワシントン協定」に合意させた。「ワシントン協定」の目的は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍とを共調させ、セルビア人勢力への共同作戦を実行させるところにあった。そして、米軍時請負会社・MPRIを送り込んで軍事訓練を施し、94年を作戦発動の準備期間に充てた。
95年1月、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は、作戦発動の準備が整うと、国連保護軍の存在がクロアチアの和平を妨げているとして、撤収を夭死する書簡を国連に送付した。これを受けて国連安保理は3月に安保理決議981~983を採択して、クロアチアには縮減した国連信頼活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPとして分割配備した。
クロアチア共和国は95年5月に「稲妻作戦」、8月には「嵐作戦」を発動し、クロアチアからセルビア人住民を一掃する。引き続きクロアチア共和国軍はボスニアに侵攻してボスニア政府軍と共同作戦を展開し、ボスニア・セルビア人勢力を追いつめた。NATO軍は8月末に起こされたマルカレ市場爆発事件をきっかけにして「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動し、ボスニアのセルビア人勢力に対して激しい空爆を行ない、セルビア人勢力を屈服させた。
シライジッチは策士である一方で現実派でもあり、イゼトベゴヴィチ大統領とはしばしば対立し、96年にはイゼトベゴヴィチが党首を務める民主行動党を離れて「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ党」を結成した。しかし、すぐに民主行動党との関係を修復し、12月にはボスニア和平協定に基づく統一政府ボスニア・ヘルツェゴヴィナの中のエンティティとしてのボスニア連邦の共同議長に就任した。
<参照;イゼトベゴヴィチ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応、米国のPR会社>
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34, シラク; ジャック(Chirac; Jscques Rene)
1932年11月25日、パリに生まれる。パリ政治学院、国立行政学院卒業。政治家
米国留学を経て、ド・ゴール大統領政権のポンピドー首相の秘書官となる。67年、国民議会の下院議員に当選する。ポンピドー大統領政権で72年に農相、74年に内相に就任。74年の大統領選では保守のジスカールデスタンを支持し、大統領が当選するとジスカールデスタン政権の首相に就任する。76年12月、「共和国民主連合・UDR」を「共和国連合・RPR」に改組して総裁となる。77年にパリ市長に転出し、95年まで断続的に就任する。その間にも、86年3月から88年5月までミッテランの連合政権で首相に就任する。81年と88年の大統領選に立候補するが、ミッテランに敗れ続ける。
95年5月に行なわれた大統領選で勝利し、第5共和国第5代大統領に就任すると、包括的核実験禁止条約が協議されている最中に、ムルロア環礁で地下核実験の再開を宣言する。世界から囂々たる非難を浴びたが、シラクは核兵器の性能の最終確認とするなどと述べて実験を強行した。
真実よりも表層にとらわれる政治家
95年7月11日、セルビア人勢力がボスニアのスレブレニツァを占拠した当日、シラク大統領はコール・ドイツ首相と電話で会談し、「もし国連安保理のゴーサインが出れば、英仏などで構成する緊急対応部隊がスレブレニツァを奪回する用意がある」と軍事力行使も辞さない強硬姿勢を表明した。99年のコソヴォ紛争ではやはり強硬姿勢を示し、「紛争解決の鍵を握るのはミロシェヴィチ大統領だ。賢明な道と戦争の道のどちらかを選ぶのはミロシェヴィチ大統領の責任だ」と述べ、直後に発動した国連安保理決議を経ないNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆作戦に対しては疑義を表明することはなかった。
シラクは状況の政治家
2001年9月11日のアメリカのワールド・トレード・センター・WTCへの攻撃事件の際には、積極的に米国のアフガニスタンへの報復攻撃に協力を表明する。しかし、03年の米・英・豪連合によるイラク攻撃には、ドイツのシュレーダー首相とともに反対の意向を表明し、安保理決議が不可欠であるとの姿勢を示した。この時の対応を見ると、信念の政治家のように受け取れなくもないが、独仏の首脳とも国内世論に押されてイラクへの攻撃に反対を表明したのであって、信念に基づいて行なったとはいえない。99年のユーゴ・コソヴォ空爆では安保理決議を無視する側に回り、03年のイラク戦争では安保理決議に拘る、という矛盾した対応を取ったのは、彼が信念の政治家ではなく、状況の政治家であることを示している。07年5月、12年間務めた大統領を引退する。2019年9月26日死去。86歳。
<参照;EC・EUの対応、スレブレニツァ事件、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>
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35, ジンジッチ; ゾラン (Djindjic; Zoran)
1952年8月1日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのボサンスキ・シャマツで生まれる。セルビア人。ベオグラード大学で哲学を学ぶ。ドイツのフランクフルト大学に留学したのち、コンスタンツ大学で哲学博士号を取得する。
国民に人気のなかったジンジッチ
ジンジッチは1989年に帰国するとコシュトニッツァとともに「民主党」を創立し、党首となる。1999年にNATO軍がユーゴ・コソヴォ空爆を行なった際、モンテネグロから米国に渡り、クリントン米大統領と会談している。それを米タイム誌が、ジンジッチは「次世代の最も重要な政治家」の1人であると讃えてその名を掲載した。これがユーゴスラヴィアでは売国奴として非難を浴びることになる。NATOの空爆が停止されたのちにジンジッチはセルビアに帰国するが、国家の安全を損なったとして逮捕される。
前倒しで行われた2000年9月のユーゴスラヴィア連邦大統領選には、国民に人気がないジンジッチは大統領候補にはなれなかった。そこで、同じ民主党をともに創立したコシュトニッツァを「民主野党連合・DOS」の大統領候補に擁立し、対ミロシェヴィチ大統領との選挙戦を戦って勝利を収めた。セルビア議会選でもDOS・民主野党連合が勝利し、01年1月にジンジッチはセルビア共和国首相に就任する。議会での就任演説で、「1,迅速な経済改革。2,腐敗・汚職との戦い。3,ミロシェヴィチ政権時代の戦争犯罪に加担した者の責任追及」などを緊急の課題としてあげた。
セルビア共和国首相としてミロシェヴィチをICTYに強制移送する
親西欧のジンジッチがセルビア共和国首相に就任し、コシュトニッツァがユーゴ連邦大統領に就任したことで、EUや米国は復興支援の気配を示した。ただし、支援の前提としてミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領の「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」への身柄の引き渡しが件に付けられた。このころ、ICTYのカルラ・デル・ポンテ首席検察官が密かにジンジッチに接触している。その際、ジンジッチは「いかなる手段を使ってでも、必ずミロシェヴィチをハーグに引き渡す」と約した。
01年4月、ジンジッチ首相は米国の経済援助を期待し、コシュトニツァ・ユーゴ連邦大統領に知らせることなくミロシェヴィチ前大統領を逮捕し、デル・ポンテICTY首席検察官との約束を守ってヘリコプターでハーグに強制移送した。ミロシェヴィチ前大統領をICTYに引き渡しても、EUおよび米国はすぐには復興支援を実施しなかった。たまりかねたジンジッチ首相は、ドイツの総合週刊誌シュピーゲルの2001年7月号のインタビューで、「重病人が死んでから薬を渡すもの」とEUと米の援助への対応を厳しく批判する。また、ICTYがミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領の裁判を遅らせているなどと非難もした。
03年3月12日、ジンジッチ首相は政府庁舎の前でセルビア人民族主義者の銃撃によって暗殺される。50才。
<参照;コシュトニツァ、ミロシェヴィチ、ユーゴスラヴィア連邦、米国の対応>
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36, ステピナッツ; アロイジェ
1898年、クロアチアのザグレブ市郊外に生まれる。クロアチア人。カトリック学生教会の活動家。クロアチア民族主義者。
1924年、司教職に就くが、のちローマのグレゴリウス大学でカトリック神学を学ぶ。32歳でザグレブ大聖堂の尚書院の職に就く。34年大司教補佐になり、37年、ザグレブ大司教の地位に就いた。
視野の狭い宗教者
ステピナッツ大司教は、カトリックの熱心な信仰者であったが、宗教的にも視野が狭く、キリスト教東方正教はアジアの宗教であり、東方正教と共産主義とが密接な関係にあると決めつけ、両者を極端に嫌っていた。また、クロアチア民族至上主義者であり、政治的にはナイーブであった。
彼が、政治的な無知をさらけ出したのは、第2次大戦時の対応である。41年にナチス・ドイツがクロアチアに侵攻し、それに合わせてファシズム・グループの「ウスタシャ」のアンテ・パヴェリチが、ナチス・ドイツの傀儡政権である「クロアチア独立国」の建国を宣言した際、「神の祝福の表れ」として賛美する。そして、ウスタシャのクロアチア独立国の議会の議員となった。
ファシズム「ウスタシャ政権」を支持するよう回状を送る
ウスタシャ政権のミーレ・ブダク教育大臣は、「我々はセルビア人の3分の1を殺害し、3分の1を国外追放し、残りをカトリック信仰に改宗させてクロアチア人とする。そうすれば、新しいクロアチアから完全にセルビア人を排除でき、10年以内に100%のカトリック化が可能である」と演説する。ステピナッツ大司教は、この政策を推進するウスタシャ政権を支持するように各教会に回状を送った。カトリックの聖職者たちは回状に従ってセルビア人にカトリックへの改宗を強要し、ヤセノヴァッツ収容所群での虐殺に手を貸した。さらに聖職者たちは、ナチス・ドイツのユダヤ人「最終的解決」にも積極的に協力した。
ステピナッツ大司教は、それを見て見ぬ振りをするか、軽く考えていた節があり、聖職者たちに対して抑制するような指示をしていない。このような状況の下、41年末までの半年余りでクロアチアのセルビア人の25万人がカトリックに改宗し、数十万人が「クロアチア独立国」から脱出し、数十万人が殺害された。ステピナッツにも虐殺の知らせが頻繁に届くにようになるとようやく足を運び、クロアチア独立国の総統と称していたアンテ・パヴェリチに対し、「十戒の6番目は、殺すなかれ、であることを忘れないように」と諭した。もとより、パヴェリチはステピナッツの諭しを聞き入れるような資質の人間ではなく、セルビア人やユダヤ人やロマ人など60万から70万人を虐殺した。
第2次大戦後もクロアチアに残り新政権を非難
45年にナチス・ドイツが敗北するとクロアチア独立国も消滅し、ユーゴスラヴィアで「パルチザン」を率いてナチス・ドイツ同盟軍と戦ったヨシプ・ブロズ・チトー政権が誕生した。ファシスト・グループ・ウスタシャの幹部たちはユーゴスラヴィアから脱出したが、ステピナッツは残留した。クロアチア人のチトーはステピナッツがウスタシャに協力したことを知りつつ、ステピナッツに新政権への協力を求めたが、ステピナッツはこれを拒否した上、チトー政権を非難し続けた。ステピナッツの頑なな態度の背後には、バチカンの極端な反共姿勢による支持があった。46年にステピナッツは「戦争犯罪人」として公開裁判にかけられ、有罪宣告をされて投獄される。5年間監禁された後、生まれ故郷のクラジッチ村に軟禁された。
バチカンはステピナッツを福者とする
52年、ローマ教皇ピウス12世は、ステピナッツを枢機卿に任命する。60年、ステピナッツは軟禁された村で死去する。98年、ローマ教皇パウロ2世は、ステピナッツを死後38年後に福者として「列福」した。ステピナッツ自身は、直接セルビア人やユダヤ人およびロマ人など少数民族の虐殺に手を下さなかったにせよ、カトリック大司教として司祭たちが虐殺に関与する手がかりを与えていた。ローマ教皇は、その人物を福者に祀り上げたのである。このローマ教皇の措置に、ユーゴ連邦は抗議の声を上げた。
<参照;パヴェリチ、クロアチア、バチカン市国の対応>
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37, ストイコヴィチ; ドラガン (Stojkovic; Dragan)
1965年3月3日、ユーゴスラヴィアのニシュに生まれる。セルビア人。サッカー選手。愛称は「ピクシー(妖精)」。
若いときからサッカー選手としての卓越した能力を発揮し、84年のロサンゼルス・オリンピックでは、ユーゴスラヴィアに銅メダルをもたらすことに貢献した。その後も、ユーゴスラヴィア国内はもとより、イタリアやフランスのクラブで活躍し、世界のサッカー選手の中でも屈指の才能を持つと評価された。
国際政治に翻弄されるFIFA
ユーゴ連邦解体戦争が始まると、「ユーゴスラヴィア悪」が繰り広げられる中で活躍の場が奪われて行く。FIFAは、選手に対しては競技場での政治的アピールを禁じている。一方で、ユーゴスラヴィア・チームの国際試合への出場を92年5月から94年12月まで禁止するという政治的措置をとった。このような中で、ストイコヴィチは94年、日本の「Jリーグ」の名古屋グランパスエイトに入団し、7年間日本で活躍する。
NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆に抗議の姿勢を示したセルビア人のサッカー選手
ユーゴ連邦解体戦争が始まってからも、ヨーロッパのクラブ・サッカーに参加していたユーゴスラヴィアの選手たちは、政治的発言を一切抑制してきた。しかし、99年3月の「ユーゴ・コソヴォ空爆」が行なわれると、この時ばかりは多くの選手が意思を表明する。ストイコヴィチは、ユニフォームの下のアンダーシャッツに「NATO Stop Strikes」と書いて、観客にアピールした。それに呼応した浦和レッズのペトロヴィチが同じくTシャツに、「AMERICA NATO KILLERS」と書いたメッセージを観客に見せ、審判からイエローカードを出された。その後Jリーグは「FIFAの措置に準じたもの」として、選手たちに競技場での政治的アピールを禁止する通達を、J1リーグおよびJ2リーグに所属する26チームに出した。ストイコヴィチは「リーグの規則に従う」と表明したが、「まるで予めプログラムされていたみたいに、ユーゴスラヴィアは壊されていくのです」と国際社会のあり方を批判した。
ユーゴ・コソヴォ空爆に対し、イタリアのセリエAのラツィオに所属するミハイロヴィチは「われわれはミロシェヴィチ大統領とともにある」と表明し、黒い腕章を付け、TシャツにPEACE NO WARと書いて出場し、90分間戦った。スペインでは、ミヤトヴィチ、ナジ、ヨカノヴィチ、スタンコヴィチ、ジョロヴィチ、ジュキッチが試合をボイコットした。ミヤトヴィチは、「クリントンがいくら攻撃してもセルビア人の考えは変わらない。ユーゴスラヴィアにいる人のことを考えると、今はプレイに集中できない」とコメント。レアル・マドリードは、ミヤトヴィチに対して500万ペセタの罰金を科し、ボイコットを続ければチームから追放すると警告した。
スポーツに政治介入するEU諸国
この間EUは、NATO軍が空爆最中の99年4月に外相理事会を開き、ユーゴスラヴィアへの経済制裁の一環として各国のスポーツ組織に国際競技社会からのユーゴスラヴィアの締め出しを要請する。しかし、ヨーロッパのクラブ・サッカー協会のUEFAはユーロ2000の出場資格からユーゴスラヴィアを排除せず、NATO軍の空爆中は試合の延期で応えた。ところが、対戦相手のアイルランド共和国がEUの圧力に屈してユーゴスラヴィアの選手にビザを発給しなかったために、試合が流れるというようなことが起きた。選手には政治的行為を禁じながら、EU諸国の政府はスポーツを政治の一環として取り扱ったのである。
ストイコヴィチは、2001年に名古屋グランパスエイトを退団すると、ユーゴスラヴィア・サッカー協会長に就任する。04年に日本の外務省は、ストイコヴィチを西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」に委嘱した。05年7月、ユーゴスラヴィア・サッカー協会長を辞任し、セルビアの名門サッカークラブ「レッドスター・ベオグラード」の会長に就任。ユーゴスラヴィアはボスニア紛争に伴う経済制裁やその後の内政の不安定による経済が低迷したためにサッカークラブの経営は容易ではないが、ストイコヴィチは「先ずは東欧の雄として復活したい」と抱負を語った。
08年、古巣といえる日本の「Jリーグ」の名古屋グランパスの監督に就任。グランパスを10年の天皇杯の決勝で優勝させる。
<参照;コソヴォ自治州、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>
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38, ズルフィカルパシチ; アディル(Zulfikarpasic; Adil)
1921年ボスニア・ヘルツェゴヴィナに生まれる。ムスリム人貴族の家系で実業家。政治家。
第2次大戦中はナチス・ドイツ占領軍に対するパルチザン部隊に参加し、連邦人民軍の少将に昇進する。戦後、西欧に移住して企業家として成功した。その後ボスニアに帰国し、90年5月にムスリム民族政党である「民主行動党」をイゼトベゴヴィチとともに結成し、副党首に就任した。しかし、イスラム教を党是とすることを意図するイゼトベゴヴィチと対立して離党。リベラルな路線を採用する政党「ムスリム人ボスニア組織・MBO」を結成した。
ムスリム人勢力とセルビア人勢力との和平協定をまとめる
91年7月、ズルフィカルパシチは91年6月に独立を宣言したスロヴェニアとクロアチアで武力衝突が発生したのを見て、ボスニアで第2次大戦中のような殺し合いの再来をさせてはならないと決意する。そこで、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領(幹部会議長)の委任を得た上で、ボスニアのセルビア人勢力の指導者カラジッチを説得し、セルビア共和国のミロシェヴィチ大統領との和平交渉を進め、協定書を作成した。
協定では、「1,ムスリム人側とセルビア人側がそれぞれの主張を撤回する。2,統一的ユーゴ連邦とボスニア共和国の付加文書を承認する。3,ムスリム人およびセルビア人両民族の主権と平等性を相互承認する。4,ボスニアにおけるセルビア人の領域設定を停止する。5,ボスニア駐留のユーゴ連邦人民軍の司令官にもムスリム人司令官を増員させる」などを確認するものであった。そして、国連を協定の副署名者とするところまでの合意を取り付けた。
イゼトベゴヴィチは「歴史的協定」の調印を拒否
この「両民族間の平和的な関係を確認する協定」が一般市民に伝えられると、険悪な状態に陥っていたムスリム人とセルビア人は喫茶店やバーで同席して語り合い出した。ところが、米国中東諸国を歴訪し得帰国したイゼトベゴヴィチ大統領は、土壇場でこの協定の調印を拒否する。この「歴史的協定」といわれるものが反故にされた後も、セルビア人とムスリム人の一部の人たちは諦めきれずに、ボスニア南部の町トレビニェと東端の町ズボルニクでは両民族合同の祝祭大集会が開かれた。
ドイツをはじめとするEC諸国は「歴史的協定」の和平の可能性を無視
だが、イゼトベゴヴィチの民主行動党は、ボスニアのユーゴ連邦からの離脱を強硬に主張する。92年1月に西側諸国のほとんどがスロヴェニアとクロアチアの独立を承認するのを見て、2月末にイゼトベゴヴィチ大統領はボスニアの独立の是非を問う住民投票を強行した。セルビア人住民の大半がボイコットする中で、住民は高率で分離独立を支持する。このユーゴ連邦からの独立を強行したことが、民族間の対立を激化させ、悲惨な内戦をもたらすことになった。ズルフィカルパシチの「歴史的協定」は日の目を見ることはなかったが、この協定が内戦を回避する最も有効な手段だった可能性は高い。
ズルフィカルパシチは、この後もしばらくは政治活動に関与していたが、やがて離れた。
イゼトベゴヴィチの航行路線に異議を申し立てた、ムスリム人政治家はもう一人いた。「にボスニア共和国」を設立したフィクレ・アブディッチである。しかし、クリントン米政権の新戦略路線に支持されたイゼトベゴヴィチ率いるボスニア政府軍に蹂躙された。
<参照;イゼトベゴヴィチ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ>
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39, ソラナ; ハヴィエル (Solana de Madariaga; Francisco Javier)
1942年7月14日、スペインのマドリードの裕福な家庭に生まれる。マドリード・コンプルテンセ大学卒。物理学博士。教育者。政治家。
1964年、スペイン・フランコ独裁政権で非合法とされていた社会労働党・PSOEに入党する。65年、フルブライト留学生として米国に留学し、シカゴ大学、カリフォルニア大学、バージニア大学で学ぶ。
75年、独裁者フランコが死去する。独裁者の遺言に従ってスペインに王制が復活し、国王は立憲君主制を採用した。77年の初の総選挙で、ソラナは下院議員に当選する。82年12月、社会労働党ゴンザレス政権で文化相、教育科学相を歴任。92年6月に外相となり、スペインを欧州連合・EU加盟に導いた。
95年12月、スキャンダルで辞任したウィリー・クラースの後任として、北大西洋条約機構・NATOの第9代事務総長に就任し、99年10月まで務める。その後99年10月から2009年11月までEUの共通外交・安全保障政策上級代表に就任した。ソラナがNATOの事務総長に就任した時期が、ユーゴ連邦解体戦争の最終章入った時と重なっている。
95年11月にボスニア内戦の和平協定が、米オハイオ州デイトンで結ばれた。クリントン米政権は、これでユーゴ連邦への介入を終わらせるつもりはなかった。翌96年6月にクリストファー米国務長官はセルビアを訪問してミロシェヴィチ・セルビア大統領と会談し、コソヴォ自治州のプリシュティナに米「情報・文化センター」の設置を認めさせた。情報・文化センターはCIAが拠点とするところである。直後にコンブルム補佐官は「米国がコソヴォに関与し続けることの一例である」と露骨に表現した。
コソヴォ自治州のアルバニア系住民はセルビアからの分離独立を志向していたが、二つの流れがあった。一つはルゴヴァ率いるコソヴォ民主同盟の政治的交渉による独立を求める派と、もう一つは若者たちが結成した武力による独立を勝ち取るコソヴォ解放軍・KLAのグループである。クリントン米政権はこの武力闘争を目指すコソヴォ解放軍を育成する方針を抱いていたのである。
コソヴォ紛争でNATO軍の空爆を推進
コソヴォ解放軍は、隣国アルバニアが社会主義制度から資本主義制度に転換する過程で政治的・経済的混乱陥った97年、アルバニアから流出した武器を大量に入手する。そして、直ちに武力闘争を開始した。セルビア共和国はユーゴ連邦解体戦争中にセルビア悪に苦しめられた経緯から、このコソヴォ解放軍の武力行使に対して本格的な鎮圧をためらっていた。それにつけ込んだコソヴォ解放軍は98年5月にはコソヴォ自治州の25%を支配下に置くまでになる。さすがにセルビア王国揺籃の地であるコソヴォ自治州の4分の1を支配される事態を容認する訳にはいかず、セルビアの治安部隊は鎮圧行動を強化する。
すると、国際社会はセルビアの治安部隊はアルバニア系住民を迫害しているとして囂々たる非難を浴びせ始めた。98nen 98年6月にソラナ事務総長は、早くもNATO軍がセルビア共和国に圧力を掛けるために隣国アルバニアとマケドニアでNATO軍が空爆演習を実施すると発表した。8月には米国務省報道官が、NATOが軍事介入を承認したと表明する。10月にオルブライト米国務長官はソラナNATO事務総長と会談し、「ミロシェヴィチ・ユーゴ大塗料は事態の深刻さを理解していない。後数日で時間は尽きようとしている」と威した。ソラナ事務総長も「交渉には進展も見られるが、多くはNATOの圧力による者だ。技術的には48時間軒源で空爆作戦開始も可能だ」とやはり威しに同調した。
このときは、ロシアの仲介で、欧州安保協力機構・OSCEの停戦合意監視団をコソヴォ自治州に派遣することで合意したことでNATO軍による軍事介入は避けられ、「ランブイエ和平交渉」へと移行した。しかし、このランブイエ和平交渉に途中からオルブライト米国務長官が介入して交渉を潰し、NATO軍による「ユーゴ・コソヴォ空爆」へと誘導した。
99年3月24日に発動されたNATO軍による「アライド・フォース作戦」は、国連安保理決議を回避したことを糊塗するために「人道的介入」の名を冠してした実行された。このNATO軍の同盟軍事作戦は78日間に及び、大量のコソヴォ難民を生み出すとともに、ユーゴスラヴィア全土を爆撃で破壊した。NATO設立史上最大規模の空爆を推進したソラナは、このユーゴ・コソヴォ空爆時にNATO事務総長の任にありながら、コソヴォ紛争の実態を正確に把握し、和平へ結びつける努力をしたようには見られない。そればかりか、NATO軍の空爆時の民間人犠牲への批判に対し、ソラナは「空爆は人道的見地から必要であり、NATOの使命としてヨーロッパの平和を維持し、民族浄化を回避するためのものである」と正当化した。
のちの調査によると、コソヴォでの武力衝突による双方の死者は千数百人で、「低強度紛争」というべきものであり、NATO軍が介入しなければならない事態ではなかった。
「コソヴォ・ユーゴ空爆」はNATOを存続させるための行為
NATO軍が敢えて大規模なアライド・フォース作戦の発動に踏み切ったのは、NATOの存在価値を再認識させる必要があったからである。作戦発動直後の99年4月にNATO結成50周年式典を控えており、そこで冷戦後におけるNATOの存廃の議論がされかねなかったから、空爆を強行することによってそれを封じる必要があった。NATO軍のユーゴ・コソヴォ・空爆は、見事にその役割を果たしたのである。ソラナはNATOの存続を見届けると、10月にNATO事務総長を退任し、欧州連合・EUの共通外交・安全保障政策・CFSP上級代表となり、同11月西欧同盟・WEU事務局長を兼任することになる。
ソラナはマケドニア紛争でもコソヴォ解放軍を支援
NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆後の協定によってコソヴォ自治州からセルビア治安部隊が撤収すると、コソヴォ解放軍は「大アルバニア」の建設を構想した。そしてセルビア南部のサンジャック地方に居住するアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドベジャ・LAPBM」を結成させ、2000年11月から武力闘争を始めた。しかし、これはセルビア治安部隊の反撃を受けて思うように進まなかった。すると、武備の貧弱なマケドニアに攻撃の矛先を向け、コソヴォ解放軍・KLAの分派のマケドニア民族解放軍・NLAを結成させ、2001年3月から武力闘争を仕掛けた。貧者yくな武器しか持たなかったマケドニアはたちまち押し込まれ、国土の30%を支配されてしまう。
狼狽したマケドニア政府は、ウクライナから攻撃ヘリの貸与など武器の供与を受けて総力戦として反撃に転じた。この貸与などによって、マケドニア政府軍はようやく民族解放軍・NLAと対抗できるようになる。
ところが、ソラナEU共通外交・安全保障政策上級代表はコソヴォ解放軍の武力行使を諫めるのではなく、ロバートソンNATO事務総長とともにウクライナを訪問し、マケドニア政府への攻撃ヘリの貸与および武器の輸出を止めるように強く要請した。EUとNATOの圧力に屈したウクライナが武器供与を止めたことで、マケドニア政府軍は窮地に陥ることになる。しかし、マケドニア共和国は国家存亡の危機として総動員態勢で対応したことで、5ヵ月余にわたったコソヴォ解放軍・KLAと民族解放軍・NLA連合部隊の侵攻をようやく撃退した。このマケドニアに対するNATOおよびEUの対応は、ユーゴ連邦解体戦争に軍事干渉して以来、独善的・功利的な論理によって独立主権国家への内政干渉を安易に行なうようになる先例となった。ソラナは、そのいずれでも重要な役回りを演じたのである。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、NATOの対応、EC・EUの対応>
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40, ソロス; ジョージ (Soro; sGeorge)
1930年8月12日、ハンガリーのブダペストで生まれる。ユダヤ系アメリカ人。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶ。投資家。56年、ロンドンからニューヨークに移住。69年、国際投資「クォンタム・ファンド」を設立して運営し、「ニューヨークの錬金術師」として莫大な財を成した。79年、ソロスはその財を基礎に「ソロス財団」を設立し、東ヨーロッパ社会主義国家を開かれた社会に移すためとして行動を開始する。
投資で得た莫大な財を基礎に国際政治に関与
88年にはポーランドに「バートリー財団」を設立し、ポーランドの知識人を手始めに広範な人物や団体に社会変革のための資金援助を始めた。ソロスはポーランドでの成功を見て「オープン・ソサエティ・ファウンデーション」を設立。本部をニューヨークとハンガリーのブダペストに置いた。1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国が社会主義制度を抛棄すると、彼の思想である開かれた社会にするべく旧社会主義国家を中心に世界に39の財団を設立し、活動を始めた。
ソロスは、ユーゴスラヴィア連邦の各共和国が独立をめぐる紛争を起こす前から、ユーゴスラヴィアに頻繁に出入りしており、NGOや財団の支部などを設置していた。91年6月にスロヴェニアとクロアチアが強引に独立宣言したために武力衝突が起こり、ボスニアにもそれが飛び火すると、ボスニアで活動する国連難民高等弁務官事務所に5000万ドルを寄付する。
ユーゴスラヴィア連邦の解体が進む中、民主主義を推進する目的を掲げ、ユーゴ連邦の各共和国にオープン・ソサエティ・ファウンデーションの支部を設立。93年1月に米国に強硬派のクリントン政権が成立すると、米国内の民主・共和両党による「バルカン平和行動審議会・ACPB」に加わり、ボスニア内戦への積極的な関与を要求した。この間。92年にイギリスのポンドを売り浴びせて暴落させ、莫大な利益を手にしている。93年5月に、国連安保理決議827で「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」が設置されると、初年度の設置費用と運営費などとして5000万ドルを寄付し、その運営を安定させた。
市民組織を設立し政権の転覆にも関与する
その後も旧ユーゴスラヴィアの各共和国に、「東欧民主化支援」を名目として非政府系NGOやメディアに資金を供給した。96年12月、ソロス氏が主催する基金6万5000ドルを持ってクロアチアに入国しようとした関係者が、クロアチア関税当局に差し押さえられる。この事件で、ヤルニャク内相は取締の不備を咎められ、トゥジマン・クロアチア大統領に解任された。これは氷山の一角であり、ソロスの工作資金が各国に頻繁に持ち込まれていることが偶々顕在化したにすぎない。
2000年のユーゴ連邦大統領選では、ミロシェヴィチ大統領派に投票に関する不正があったとして大規模な選挙不正を糾弾する若者を中心とした市民運動が起こされた。ミロシェヴィチ大統領は失脚させられることになる、この若者たちの「オトポール(拳)」という市民組織への資金提供者に、ソロスが加わっていた。
ソロスは近年、ユーゴ連邦解体過程で欧米諸国が武力介入した結果、その後の旧ユーゴスラヴィア諸国が更に悪化したと批判している。しかし、ソロス自身99年のNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆を強く支持した経緯があり、一翼を自らが担ったのだという認識には至っていないように見える。
<参照;コシュトニツァ、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY、米国の対応>
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41, タチ; ハシム (Thac; iHashim)
1968年4月24日、セルビア共和国コソヴォ自治州ドレニツァに生まれる。アルバニア系住民。プリシュティナ大学で歴史学と哲学を学ぶ。スイスのチューリヒ大学でも学ぶ。軍人。政治家。コソヴォ解放軍の政治局長を務めた急進的アルバニア民族主義者。のちにコソヴォ共和国の大統領となる。
コソヴォ解放軍の中で頭角を現す
93年、コソヴォ自治州を武力闘争によってセルビア共和国から分離・独立させることを目指し、コソヴォ解放軍・KLAのメンバーとなり、ゲリラ戦を指揮して頭角を現す。KLAは97年に隣国アルバニアで政治的・経済的混乱が起こると、その無秩序に乗じて武器を大量に入手し、直ちに武力闘争を本格化させた。ユーゴ連邦は、ユーゴ解体戦争の過程でセルビア悪に苦しめられたことから、KLAの武力闘争への鎮圧をためらっていた。そのため、98年5月にはコソヴォ自治州の25%を支配下に置くまでになる。タチはこの最中の98年にKLAの政治局長になり、のち最高司令官となった。
クリントン米政権は、98年2月にゲルバード特使をコソヴォに派遣してコソヴォ解放軍・KLAをテロ組織と表明させた。ユーゴ連邦政府は、ゲルバードの発言をコソヴォ解放軍への鎮圧を容認するものと受け取り、セルビア治安部隊がコソヴォ解放軍の鎮圧活動を強化した。ところが、6月になると米政府は一転してホルブルック特使をコソヴォに送り込み、CIAの手引きでコソヴォ解放軍・KLAの根拠地を訪れて幹部と会い、彼らを「自由の戦士」として称揚する。
ユーゴ連邦政府としては、この米政権の変容に戸惑ったが、ユーゴ王国揺籃の地の4分の1を支配する事態を容認することは許容できるものではなかった。そこで、鎮圧行動を継続する。すると欧米諸国はこれをアルバニア民族迫害として囂々たる非難を浴びせ始めた。そしてアドリア海にNATO軍の艦艇を終結させ、軍事行動に言及するまでになる。
このときはロシアの仲介で、欧州安保協力機構・OSCEの停戦合意監視団をコソヴォに派遣することで、NATO軍の軍事行動は回避された。しかし、その停戦を監視するためのOSCE停戦合意検証団・KVMをコソヴォ自治州に送り込んだ。この検証団の団長に曰く付きのウォーカー駐エルサルバドル米元大使を任命したことで、コソヴォの帰趨は明白となった。ウォーカーは、エルサルバドル駐大使だった際、独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊」が、反独裁を表明した司祭と修道女や子どもを殺害した事件を容認し、擁護した人物である。
彼はコソヴォに入るとすぐさまラチャク村の虐殺事件を捏造し、「セルビア悪」の印象を国際社会に広めた。この事件は、のちに戦闘死によるものとして虐殺が否定されるが、この時点で国際社会はセルビア悪を象徴するものとして受け取った。
米国の要請でタチが和平交渉の団長となる
セルビア悪の雰囲気の中の99年2月に開かれた連絡調整グループによる「ランブイエ和平交渉」では、米国の差し金で穏健派といわれるルゴヴァ・コソヴォ自治州政府大統領を差し置いて、30歳の若いタチがアルバニア系住民側の交渉団長に納まった。ランブイエ和平交渉でタチ代表はあくまでコソヴォ自治州の独立の確定に固執し、それが明記されない限り、和平協定は受け入れられないと強硬に反対したため和平交渉は中断した。しかし、オルブライト米国務長官が乗り込んで3月に再開された和平交渉において、タチはオルブライトの説得に応じ、一転して和平協定に調印する。一方で、オルブライト米国務長官はユーゴ連邦側に「付属条項B」なるNATO軍の占領条項ともいうべき協定案を突きつけて拒否させ、和平交渉を決裂させた。この意味をタチは理解したのである。オルブライト国務長官とタチ交渉団長との共謀によって一層セルビア悪を際だたせることに成功し、NATO軍は大規模な「オペレーション・アライド・フォース(同盟の軍事作戦)」を発動させることになる。
米国主導のNATO軍はコソヴォの分離独立を図りユーゴ・コソヴォ空爆を実行
このオルブライトがユーゴ連邦に突きつけた軍事条項は、NATO軍の軍事作戦に積極的だったブレア英首相以外の連絡調整グループの4ヵ国には秘匿されていたために、セルビア共和国が傲慢な対応をした者として国際社会は受け取り、NATO軍による空爆もやむなしとの雰囲気が醸成されたが、タチ・コソヴォ自治州代表には知らされていた可能性が高い。
99年3月24日に発動されたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は78日間に及び、無差別で懲罰的な軍事行動となった。ドナウ川に架かっていた橋はすべて爆撃で破壊され、工場、鉄道、学校、病院、放送局、発電所・変電所、住宅、上下水道、などの社会的インフラにも及んだ。このとき劣化ウラン弾も使われ、のちに癌が多発することになる。この野放図なNATO軍の空爆に対して反撃することが叶わず、防御する手段しかないユーゴ連邦としては、和平を申し出るほかに方策はなかった。
ユーゴ連邦としては,コソヴォの統治機構のすべてを抛棄することは耐え難い条件であったが、NATO軍の軍事力を背景とした威圧に対抗するすべはなく、治安部隊がコソヴォから撤収させられた。そして、国連安保理決議によって暫定統治機構・UNMIKがコソヴォ自治州に設置された。UNMIKは、タチをコソヴォ解放軍・KLAを編成替えした「コソヴォ防衛隊」の政治局長に任命する。
タチらのコソヴォ解放軍は「大アルバニア」を目指してセルビアとマケドニアに武力闘争を仕掛ける
タチらが率いるコソヴォ解放軍・KLAは、セルビア治安部隊が撤収したのち、「大アルバニア」の建設を構想し、実行に移し始めた。セルビア共和国の南部のサンジャック地方のアルバニア系住民居住地を分割させ、さらにマケドニア北部に居住するアルバニア系住民居住地を分割合邦化するという構想である。先ず、セルビア共和国内のアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を結成させて武力闘争を仕掛けた。しかし、それはセルビア治安部隊の反撃に遭い、思うように進まなかった。そこで武備の貧弱なマケドニアに方向を転換し、アルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させ、01年3月にKLA・NLAの連合部隊はマケドニアで戦闘を開始した。
マケドニア共和国は、91年9月にユーゴ連邦から政治交渉で独立を達成していたが、ユーゴ連邦解体戦争のあおりを受けて貿易が激減したことなどで、武装を整えることができなかった。そのため、たちまちKLA・NLAの連合部隊に押し込まれ、マケドニアの領土の30%を支配されるまでになる。狼狽したマケドニア政府はウクライナから攻撃ヘリ2機の貸与を受けて反撃に転じた。そして、総力戦体制によって5ヵ月余り戦い、ようやくKLA・NLAの連合部隊を追いつめて撤退させた。このKLA・NLA連合部隊を支援していたのが米軍時請負会社のMPRIである。しかし、コソヴォ解放軍の大アルバニア構想を公然と支援することが叶わなかったために、敗北を喫した。
大アルバニアの構想は潰え大統領選でも敗れたタチ
2001年のコソヴォ自治州大統領選に立候補するが、コソヴォ解放軍や若者たちには絶大な人気はあるものの、自治州全般のアルバニア系住民の支持はなく、ルゴヴァに敗れた。
ドイツ連邦情報局はタチらが犯罪ビジネスに手を染めていると分析
05年、ドイツ連邦情報局・BNDは、「コソヴォにおける政治・経済および国際的な組織犯罪の間を密接に結ぶ連結環が、例えばタチ、ハラディナイ、ハリティなどのような殊勝な働きをする人物を通して存在する。彼らは急速に発展する彼らのビジネスにとって有害となりうる、秩序ある国家の建設にはまるで関心はない」との報告書を政府に提出した。
カルラ・デル・ポンテICTY首席検察官は在任中にこのことに気付いており、部下に調査をするよう命じたが、沈黙の壁に阻まれて起訴するには至らなかった。デル・ポンテはICTYを退任したのちに回想録「追跡;私と軍の犯罪者」を08年に出版した。それには、「タチ、ハラディナイ、チェクなどコソヴォ解放軍・KLAの指導者たちが、99年のNATO軍の空爆後にセルビア人やロマ人など少数民族300人を拘束してアルバニアに拉致して虐殺し、その臓器を売買していた」と記述した。しかし、この罪状でタチらが国際戦犯法廷・ICTYから起訴されることはなかった。
タチは米国の工作で暫定政府の首相となる
2007年11月に行なわれた議会選挙でタチが率いるコソヴォ民主党が第1党となり、ファトミル・セイディウ大統領に組閣するよう命じられた。タチ率いるコソヴォ民主党はルゴヴァが結党したコソヴォ民主同盟・LDKと新コソヴォ同盟・AKRの3党で連立を組織し、首相の地位に就く。そして2008年2月17日に独立宣言を議会に採択させた。欧米諸国の多くはこれを予定調和の如く受け入れてコソヴォの独立を承認した。しかし、このような形での独立を疑問視する国は少なくなく、09年2月に1周年を迎えても国連加盟国193ヵ国のうち54ヵ国しか独立を承認していない。
2010年にスイス選出のマーティー欧州議会議員がタチらの臓器売買に関する調査報告書を欧州議会に提出した。この報告書が効を奏したのか、ICTY閉廷後にこの問題を引き継いだ特別法廷がハラディナイ首相の審問を決めたためにハラディナイは2019年7月に首相を辞任した。
タチは2016年4月7日にコソヴォ議会で大統領に選出された。しかし、特別法廷が審理を開始したため、2020年11月に大統領職の辞任を余儀なくされた。
<参照;チェク、ハラディナイ、コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍・KLA>
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42, チトー; ヨシプ・ブロズ (Tito; Josip Broz)
1892年5月7日にクロアチアのクムロヴェッツ村で生まれる。本名はヨシプ・ブロズ。父親はクロアチア人。母親はスロヴェニア人。軍人。政治家。ユーゴ連邦共産主義者同盟終身議長。ユーゴ連邦終身大統領。
第1次大戦は1914年、ハプスブルク帝国の支配に抗したボスニアのセルビア人が帝国の皇太子を暗殺したことで始まる。このときクロアチアは、ハプスブルク帝国の統治下にあったため、ヨシプ・ブロズはハプスブルク帝国軍の1員として、セルビアの英仏露3国協商側と戦うことになった。1915年、ヨシプ・ブロズはハプスブルク帝国軍のクロアチア部隊の1兵士として墺露戦線に送られ、ロシア帝国軍と戦うことになる。彼の属した第25防衛連隊はロシア帝国軍に敗れ、ヨシプ・ブロズは負傷して捕虜となった。
5年ぶりにユーゴスラヴィアに帰着
1920年9月、ヨシプ・ブロズは、第1次大戦の戦勝国として「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」となった故国に帰り着く。そして、「ユーゴスラヴィア社会主義労働者党」から「ユーゴ共産党」に改称していた党に入る。しかし間もなく、王国政府とそれを支える支配階級は、20年12月に労働運動と政治運動を禁圧する。21年6月には、立憲君主制を敷いた「ヴィードヴダン憲法」に基づく「国家保護法」によってユーゴ共産党は非合法化された。ヨシプ・ブロズは28年、反政府運動の廉で逮捕されて裁判にかけられるが、非合法活動を堂々と肯定し、5年の実刑判決を受けて下獄した。
コード・ネームが「チトー」それが呼称となる
ヨシプ・ブロズは34年に出所すると、ウィーンに置かれていたユーゴスラヴィア共産党中央委員会の政治局員に選出された。それから幾つものコード・ネームを使い論考を発表し始める。「チト-」はそのひとつで、これが彼の生涯の名称となった。35年1月、コミンテルンのバルカン担当書記局員に任命され、モスクワで1年余り活動することになる。帰国すると、コミンテルンに所属していたエドヴァルド・カルデリをユーゴスラヴィアに戻すようモスクワに要請して帰国させた。
37年にチトーはユーゴスラヴィア共産党の第1書記となり、クロアチア共産党の再結成を指揮した。チトーやカルデリの共産党再建策は効を奏し、弾圧を受けて1000人あまりに減っていた共産党は活性化し、第2次大戦前には1万2000人にまで増大した。
一方、クロアチアではイタリアのファッシズムの影響を受けたアンテ・パヴェリチがファシスト・グループ・ウスタシャを結成し、ユーゴスラヴィア王国からの独立を目指す活動を始めた。1929年1月ユーゴスラヴィア国王アレクサンダルはヴィドヴィダン憲法を廃止し、議会を解散して独裁体制を敷いた。ウスタシャ党首のアンテ・パヴェリチは拠点をイタリアに移し、テロによってユーゴ王国を打倒すると宣言する。そして1934年10月、フランスのマルセイユを訪れたアレクサンダル・ユーゴ国王をフランスの外相とともに暗殺した。
ナチス・ドイツが第2次大戦を始める
この間ドイツではヒトラー率いるナチズムが台頭し、1933年に首相に任命されると「第三帝国」を妄想して周辺の地域を支配下に取り込み始めた。そして、1939年8月23日にソ連との間に独ソ不可侵条約を結ぶと翌9月1日にナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第2次大戦を始めた。これに対して英国とフランスがドイツに宣戦を布告するが、有効な戦線を形成できないでいた。これを見透かしたナチス・ドイツは、40年5月にベルギーやオランダ、フランスに侵攻。そして、英国が派遣していた大陸派遣軍をフランス領ダンケルクで追い落とし、さらにフランスの防御線マジノ要塞を側面から攻撃して無力化し、パリに入城して勝利を宣言した。
ナチス・ドイツは対ソ戦に備えてユーゴスラヴィアとギリシャを占領
なおナチス・ドイツは英国本土への上陸作戦を試みるが、これは英国の頑強な抵抗にあって果たせなかった。そこでヒトラーは、ソ連を植民地化してそこで得られる物量をもって英国を再攻撃することを企て、ソ連侵攻作戦の立案を命じた。これが「バルバロッサ作戦」である。この作戦を実行するためには軍需物資の調達および中東アクセスや後背地を安定させる必要があった。そこで、バルカンの中央に位置するユーゴスラヴィア王国とギリシャ王国を支配することを企図する。
41年3月25日、ナチス・ドイツはユーゴスラヴィア王国政府に威しと甘言によって枢軸側への加盟要求を突きつけて受諾させた。これに対し、共産党や市民や軍人たちは第1次大戦で敵国として戦ったドイツとの同盟国加盟に抗議して激しいデモを行なう。これに呼応してユーゴスラヴィア王国軍の将校団がクーデターを挙行した。狼狽したユーゴ王国政府は、条約は有効だと弁明するがヒトラーはこれを許容せず、マリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用し、41年4月6日にナチス・ドイツ軍およびイタリア軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍は一斉にユーゴスラヴィアとギリシャに侵攻する。同盟軍の侵攻が始まると、ユーゴスラヴィア王国軍はたちまち戦意を喪失して降服し、王国政府は英国に亡命する。
王国軍が戦意を喪失した背景には、クロアチアでアンテ・パヴェリチのファシズム・ウスタシャの影響が浸透していたクロアチア人とスロヴェニア人で編制された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。そしてアンテ・パヴェリチがイタリアから帰還してクロアチアにスロヴェニアとボスニアを含めたナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。
一方、王国軍の一部は王党派「チェトニク」を組織して占領軍への戦いを宣言する。
ナチス・ドイツ同盟軍はユーゴ王国とギリシャ王国を占領すると「バルバロッサ作戦でソ連に侵攻
ソ連のスターリン書記長は、猜疑心の強い人物であったがなぜかヒトラーを信じており、ナチス・ドイツがソ連を侵攻するとは考えていなかった。そのため、内部の粛清を継続し、ソ連赤軍の元帥を含む将校など2万人以上を処刑し、流刑に処していた。その上、前線の指揮官にはドイツを刺激するなとの指示を与えたため、前線では臨戦態勢がとれないでいた。このような状態のソ連赤軍に対して1941年6月22日に発動されたバロッサ作戦」は、ドイツ軍300万と同盟国250万を加えた550万という兵員を動員した大規模な侵攻作戦であった。
備えを欠いていたソ連赤軍はたちまち総崩れとなった。9月にはナチス・ドイツの同盟軍の北方軍にレニングラードが包囲され、中央軍はベラルーシのミンスクを陥落させてモスクワ近郊まで迫り、南方軍はウクライナのキエフを陥落させてスターリングラードやバクー油田の攻撃を視野に入れるほどの戦果を挙げた。この経緯によればバルバロッサ作戦は成功するかに見えた。しかし、ソ連の領土は広大であった。
チトーは「パルチザン」を組織して指揮をとる
ユーゴスラヴィアでは、チトー率いるユーゴ共産党が直ちにパルチザンの組織を呼びかけ、数ヵ月後にはユーゴスラヴィア全土に9万人のパルチザン部隊を誕生させ、総司令官に就いた。そして、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を始めたと同じ頃に、ナチス・ドイツ同盟軍へのゲリラ戦を開始する。
内外の敵と戦わざるを得なかったパルチザン
当初、王党派のチェトニク」はパルチザンとともに、ナチス・ドイツを核とする同盟軍に対し戦う姿勢を見せた。しかし、チェトニクは同盟軍と戦って領土を解放することよりも、王制の存続が最大の関心事であったから、ナチス・ドイツに潰滅させると脅されるとたちまち屈し、同胞であるはずのパルチザンと敵対することになる。クロアチアのウスタシャ政権は極端なクロアチア民族主義政権であり、純粋クロアチア人国家の建設に向けて少数民族の迫害と排除にとりかかった。
ウスタシャ政権はボスニアのムスリム人を準クロアチア人として扱いつつ、正教のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵としてカトリックに強制改宗させてクロアチア人とし、改宗しない者は追放するか虐殺した。このためチトー率いるパルチザンは、同盟国のナチス・ドイツ軍、ファシズム・イタリア軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍の占領軍に加え、ナチス・ドイツの傀儡国家であるクロアチア独立国のウスタシャおよびユーゴ王国王党派のチェトニクの6者を敵対勢力として、孤立した戦いを余儀なくされることになった。
圧倒的な軍事力を持つ同盟軍とウスタシャやチェトニクに包囲されたパルチザンの戦いは、困難を極めた。にもかかわらずセルビア、スロヴェニア、クロアチア、ボスニアなど各地に組織されたパルチザン部隊は増大し続け、42年末には15万人に達する。42年11月、パルチザンは各地の代表を集め、ボスニア北西部のビハチで、「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」を開き、これを臨時革命政府とした。
困難を極めたパルチザンの戦い
臨時政府を樹立しても、他からの援助が得られなかったパルチザンは孤立に近い戦いをせざるを得ず、司令部はしばしば窮地に陥って移動しなければならなかった。しかし、パルチザンは、ドイツの強力な攻勢を凌いだだけでなく、ドイツの方面軍をユーゴスラヴィアに惹きつけておくという連合軍にとって望外の役割を果たしていた。パルチザンはドイツ同盟軍の20個師団前後をユーゴスラヴィアに貼り付け、ドイツの軍事戦略に打撃を与えていたのである。
チトー率いるパルチザンは、43年9月のイタリア軍の降服に迅速に対応し、イタリア軍6個師団の武装解除をしてその装備を確保しただけでなく、イタリア軍2個師団をパルチザンとともにドイツ軍と戦わせることまでした。ナチス親衛隊長官のヒムラーは、「彼はわが敵であるが、私はドイツに、指導者として果断であり完全に包囲されても決して降服せぬ強靱な神経の持ち主であるチトーが1ダースでもいたら、と思わずにいられない」とチトーを評した。
チャーチル英首相はテヘラン会談でパルチザン支援を提案
チャーチル英首相は、ナチス・ドイツの英本土上陸は阻止したものの、ヨーロッパ大陸への有効な反攻作戦を探しあぐねていた。そこで、43年5月に、英軍の軍事使節団をパルチザンに送り込んだ。英軍の観戦武官は命の危険に曝されながら、パルチザンがナチス・ドイツ同盟軍をバルカン半島に引きつける役割を果たしているとの報告をチャーチルに送る。チャーチル英首相は43年11月に開かれた米・英・ソの三首脳会談において、パルチザンへの物資支援が連合国にとって有用であるとの提案をして、ルーズベルト米大統領とスターリン・ソ連書記長の承認を得た。英国はすぐさま軍需物資をパルチザンに送り届け、英軍の落下傘部隊まで送り込んだ。
チトーは同盟国軍と戦い抜き元帥となる
テヘラン会談が行われていた同じ11月に、パルチザンはヤイツェで第2回ユーゴスラヴィア人民解放反ファシズム評議会・AVNOJの会議を開いた。この会議で新に幹部会が設置され、幹部会議長にはイヴァン・リバール博士、副議長にはチトーが選出された。この幹部会でチトーは元帥の称号を授与される。また、会議では亡命王国政府の権利の剥奪とペータル国王の帰還を禁止した。ソ連指導部は、AVNOJが王国政府の権利剥奪を決定したことに対して、連合国との統一戦線を乱すものとして反対を表明する。
44年6月、連合国のノルマンディ上陸作戦が成功し、大戦の帰趨が明らかになりつつあった時期、英国の仲介でユーゴスラヴィア解放全国委員会は王国政府首相のシュバシッチ博士とヴィス島で会談し、「1,統一戦線をつくる。2,外国の援助を組織化する。3,戦争が終わるまで国家の最終的形体は定義しない」などの協定を結んだ。2ヵ月後の8月、チトーはチャーチルから会見の要請を受け、ロンドンの亡命王国政府を認めるよう迫られた。直後にモスクワで会ったスターリンにも同じように王国政府を受け入れるよう要求された。このときチトーは、そのいずれをも拒否している。チャ-チルの目論見は、ギリシャをイギリスの権利とし、ルーマニアをソ連の権利とすることと抱き合わせ、ユーゴスラヴィアをイギリスとソ連で5分5分に分割することにあり、後にスターリンと会った際に提示している。第2次大戦も領域分割戦争の性格を帯びていたのである。
チトーはソ連赤軍に対しユーゴスラヴィア領域内に入るにあたり条件を付ける
ソ連赤軍のナチス・ドイツに対する反撃は44年なってようやくバルカン諸国に達したが、チトーはソ連赤軍にユーゴスラヴィア領域内に入ることに条件を付ける。ユーゴスラヴィアからナチス・ドイツの同盟軍を駆逐した後は、領域内から撤収するとの協定を結んだ上で領域への進攻を許諾したのである。チトーがソ連赤軍に条件を付けた背景には、第2次大戦が始まった直後に、ソ連赤軍がフィンランドに侵攻し、カレリア地方を割譲させたことがあった。このことが、チトーにソ連赤軍を駐留させておくことに危惧を抱かせることになったのである。ソ連赤軍はチトーの条件を受諾した上で共同戦線を形成してユーゴスラヴィアに進攻し、44年10月にはナチス・ドイツ同盟軍から首都ベオグラードを解放した。
自滅したユーゴスラヴィア王国政府と社会主義国家の建設
大戦終結を間近にした45年2月に開かれた連合国の「ヤルタ会談」では、ソ連の対日参戦とドイツの分割などが話し合われたが、ユーゴスラヴィアに対しては王国政府と解放委員会による連合政府を設立するよう勧告することを決定する。勧告とはいえ実質的には命令であり、ユーゴスラヴィア解放全国委員会は受諾を余儀なくされ、3月には勧告に従ってユーゴスラヴィア民主主義連邦統一内閣がロンドン亡命王国政府の代表と解放委員会のメンバーによって組閣された。
45年4月にソ連赤軍がベルリン総攻撃を開始する。敗北を自覚したヒトラーは4月30日に自殺し、後継者のデーニッツ提督が大統領として5月8日に降服文書に署名してナチス・ドイツによる欧州戦線は終結した。
ユーゴスラヴィアは勝利したものの170万人の人命を失い、400万人が負傷した。工業力の50%が破壊され、家屋の25%が全壊し、家畜の60%を失い、交通網は鉄道線路の52%、機関車の76%、客車の84%が破壊され、殆ど麻痺状態に陥っていた。
ペータル国王の政治的駆け引きが失敗して王制が廃止される
45年8月に開かれたユーゴスラヴィア臨時国民会議において、ペータル国王は内閣がパルチザン主導であることに不満を抱き国王派の閣僚を引き上げてしまう。西側諸国からも非難されたこのペータル国王の政治的駆け引きは完全な失敗に終わる。11月に行なわれた憲法制定議会選挙で、パルチザンを主導した人民戦線派が圧倒的な支持を得ることになったからである。勝利した人民戦線派はチトーを首班として組閣し、46年1月に憲法制定議会は憲法を制定してユーゴスラヴィアの王制を廃止し、ソ連の中央集権型社会主義の樹立を規定した。
コミンフォルムからのユーゴ連邦追放は社会主義の国々をも混乱に陥れる
新興社会主義国としてのユーゴスラヴィアは、暫くはソ連圏の社会主義国の一員として荒廃した国家の再建を進めた。しかし、チトー政権がトリエステの領有をイタリアと争い、ブルガリアとの「バルカン連邦」構想を提唱するなど独自の動きを示したことが、スターリン・ソ連書記長の怒りを買った。スターリンとしては、ユーゴ連邦がトリエステ領有争いで西側の不興を買うこと、およびソ連指導部の了解なしにバルカン連邦構想を進めることは許容できるものではなかった。
48年6月に開かれたコミンフォルム第2回会議でユーゴ連邦の除名決議が採択され、ソ連が主導する社会主義圏から追放される。それ以来、ユーゴ連邦はコミンフォルムに属する国々から敵意に満ちた非難を浴びせられ、経済制裁を受けることになった。敵意をともなった経済制裁は、ユーゴ連邦と社会主義諸国間の貿易量が50%からゼロになるなどの厳しい措置となり、ユーゴ連邦経済を困難に陥れた。
チトーは、当初はこのソ連の対応に戸惑い、誤解によるものと捉えて関係改善に努めるが、ソ連は頑なにユーゴ連邦を突き放した。やがて、チトーはこのコミンフォルムからの追放がイデオロギー上の問題ではなく、スターリンのソ連による社会主義諸国の完全支配と服従を目論んでいるからに他ならないと見抜いた。チトーが社会主義諸国に求めていたのは、相互に主権を尊重する平等で友好的な信頼関係だったが、ソ連の意図するところは社会主義圏に覇権を及ぼすことだったのである。
コミンフォルムのユーゴ共産党の追放はユーゴ連邦経済への打撃にとどまらなかった。社会主義圏の諸国との国境での銃撃戦が頻発するようになったため、ユー連邦はGDPの23%の国防費を割かなければならないほどの敵対へと拡大したからである。この紛争は、社会主義諸国や各国の共産党に大きな影響を与えることになる。ソ連の指導に異論を唱える共産党幹部や知識人は、反ソ的として排除されるか逮捕・投獄された。その結果、社会主義圏の政治指導部は親ソ派の独裁的・権威主義的な人物によって占められることになる。ユーゴスラヴィアでは逆に、親ソ分子および反チトー主義者の排除となって表れ、これも徹底的に行なわれた。
53年憲法で自主管理社会主義を採用
チトー政権は、困難な経済の打開を図るために西側陣営に援助を求めた。このとき、IMFは速やかに融資に応じている。西側陣営としては、借款によってユーゴスラヴィア連邦を西側に引き入れる可能性があると見てとったからである。ユーゴ連邦としては、西側の思惑は承知の上であったが、他に選択の余地はなく、西側の援助を利用して再建策を実行に移して行った。
チトーは、以後経済運営の機能を中央から地方の統治機関に移行し、経済運営の分散化を進める。連邦機関に直轄されていた大企業は各共和国に移管され、また中小企業は地域共同体に移管し、企業を次第に独立させるという形で進めた。その論理的帰結として、企業への労働者による自主管理制度が導入されるようになる。50年には「基本法」を制定し、「労働者委員会」を企業内に設けた。53年憲法で自主管理社会主義の導入を規定するが、チトーは自主管理制度を説明するに当たり、「この実践は全く新規というものではなく、マルクス・レーニン主義の原則をユーゴスラヴィアの諸条件に応用しただけである」と語った。チトーは、この53年憲法でユーゴ連邦共和国の初代大統領になる。
チトーは、行政と企業が上下関係ではなく、有機的共生の関係に発展するよう心を砕いた。さらに党および行政機関の民主化をも忍耐強く実施して行った。それはその後の憲法修正にも表されているが、その思想的展開としてチトーが政策の中枢に置いたのは、「分権化された社会主義的民主主義」と、「自主管理社会主義」と、「非同盟主義」である。
非同盟諸国会議に世界のあり方を求める
チトーは、53年憲法によって自主管理社会主義の導入が定着する見通しがつくと、理念としての「非同盟主義」を実現させるべく行動し始める。54年にはアジアを歴訪し、ネルー・インド首相との会談を始めとして、アジアの首脳との会談を重ねた。
翌55年には、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ諸国会議」、いわゆる「バンドン会議」が29ヵ国の参加を得て開かれ、「バンドン10原則」が採択された。この会議を主導したのは、中国の周恩来首相やスリランカのバンダラナイケ首相だった。
チトーは「バンドン会議」の成功を見て、翌56年から精力的に各国の首脳と会談を重ねた。60年にはスカルノ・インドネシア大統領とナセル・アラブ連合大統領およびネルー・インド首相がユーゴスラヴィアを訪問し、チトー大統領との会談で非同盟諸国会議の推進に合意する。
社会主義社会の多様性と非同盟諸国会議の意義を提唱
1961年9月、非同盟諸国会議の第1回となる中立国首脳会議をベオグラードで開催し、25ヵ国が参加国した。しかし、非同盟諸国の首脳たちの会議にかける思惑は必ずしも一致していたわけではなかった。64年の第2回会議で、チトーの「積極的平和共存」優先策と、スカルノ・インドネシア大統領やエンクルマ・ガーナ大統領の「反植民地闘争」優先策との間で対立が顕在化し、第3回会議を開く見通しが立たなくなったのである。
68年、チェコスロヴァキアの「プラハの春」事件が起こる。チトーはプラハの春を社会主義の枠内の改革だとして積極的な評価をした。ソ連とチェコとの対立を緩和するためにチトーは4月にモスクワを訪問し、軍事介入をしないようソ連指導部に進言した。しかし、チトーらの意向は無視され、8月にワルシャワ条約軍がチェコスロヴァキアに侵攻する。チトーは、これを主権侵害・内政干渉だとして激しく非難する。
このチェコスロヴァキア事件はユーゴ連邦にも深刻な影響を与えた。危機感を抱いたユーゴ連邦は「全人民防衛体制」なる制度を導入し、各共和国に軍管区体制を整備して全土に武器・弾薬庫などを設置することになる。また、対外政策を見直すためにも、中断していた非同盟諸国会議を再開する必要に迫られた。そこでチトーはアフリカの非同盟諸国の訪問を再開し、テパヴァツ外相もアジア諸国を訪問して第3回開催に尽力した。70年に6年ぶりで開かれた第3回会議は、南北格差の問題が主要なテーマとなるが、その後も、キューバなどの急進派とチトーの穏健派の対立は解けなかった。ともかく3年ごとに開かれた会議は回を重ねる毎に参加国が増加し、06年に開かれた第14回会議では117ヵ国が参加するほどになる。
終生権威主義を否定するが終身大統領となる
チトー大統領は終生権威主義の排除を主張していたが、63年憲法で終身大統領に推挙され、不可侵の権威者に祭り上げられた。しかし、自らの亡き後のユーゴ連邦に権威主義による統治体制が復活することを避けるために、71年に集団指導体制を導入し、さらに連邦幹部会議長を各共和国の幹部会議長による輪番制とするなど、連邦の安定に心を砕いた。
チトーのカリスマ性によって保たれていたユーゴ連邦の各共和国は死去によって分解する
1973年に第4次中東戦争に絡んだオイル・ショックが起こる。産油国ではないユーゴ連邦はこのオイル・ショックによりかなりの経済的打撃を受けた。続いて79年に起こされた第2次オイル・ショックによる経済的困難は連邦政府の運営のまずさとして捉えられ、各共和国の連邦への遠心力として働いた。
ブレジンスキー米大統領補佐官のユーゴ連邦解体策
この間ブレジンスキー米大統領補佐官は、ユーゴ連邦の解体策を練っていた。78年にスウェーデンで開かれた社会学会で、米国からの参加者を前にして次のような主旨の講演をした。「1,ソ連に対抗する力としてのユーゴスラヴィア中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的。民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。民族主義は共産主義より強力である。2,ユーゴスラヴィアの対外債務の増大は、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いることができる。それ故に、ヨーロッパ共同体諸国の隊ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に保障される。3,Xディ(チトーの死)のにあとに、ユーゴスラヴィアの軟化に取り組むべきである。民族間関係者が重要なファクターである。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟・SKJとユーゴスラヴィア連邦人民軍・JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。4,前人民防衛体制は、諸刃の剣である」と。チトーがこのブレジンスキーのユーゴ連邦解体策を知っていたかどうかは明らかではないが、チトーはソ連よりも西側諸国を信頼してそれを周囲に伝えていた。
チトーの死去とユーゴ連邦解体戦争
チトーは死ぬ間際まで、世界の平和共存に心を砕き、病床からブレジネフ・ソ連共産党書記長、カーター米大統領、ガンジー・インド首相、セク・トーレ・ガーナ大統領、カストロ・キューバ首相に、国連憲章に則った公正な協力と相互信頼を訴えた。
チトーは80年5月4日に死去する。チトーは、欧州の第2次大戦を戦った指導者の最後の1人であった。葬儀にはブレジネフ・ソ連共産党書記長、モンデール米副大統領、サッチャー英首相、シュミット独首相、華国鋒中国国家主席、ワルトハイム国連事務総長など国家最高指導者32名、副大統領8名、首相24名、外相46名、国会議長3名、政党党首50名、皇太子7名など200名が参加した。チトーが意図したのは、「1,ユーゴスラヴィア連邦の発展と安定。2,自主管理型会主義を深化させ定着させる。3,非同盟諸国会議の理念である国際社会の平和と安定および国家主権の相互尊重」であった。
しかし、チトー亡き後のユーゴスラヴィア連邦は次第に求心力が失われ、91年にスロヴェニアおよびクロアチアが分離独立を宣言して以来、ユーゴ連邦は激しい内戦で分裂し、自主管理社会主義は成熟することなく消滅した。
<参照;カルデリ、ユーゴスラヴィア王国、ユーゴスラヴィア連邦、自主管理社会主義、非同盟諸国会議>
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43, チェク; アギーム (Ceku; Agim)
1960年にコソヴォ自治州で生まれる。アルバニア人。軍人。政治家。ユーゴスラヴィア連邦人民軍の将校。クロアチア共和国軍の将校。コソヴォ解放軍・KLAの将校。
クロアチア共和国軍に参加して戦闘の経験を積む
91年にユーゴ連邦人民軍から離脱し、クロアチア共和国軍に入隊してクロアチア・セルビア人勢力との戦いに参加する。92年1月に実行したクロアチア軍のクライナ地方への攻撃におけるメダックの戦場で、チェクの部隊はセルビア人住民200人を虐殺した。その武功もあり、93年にクロアチア軍の大佐に昇進する。93年9月のクロアチアのチトゥルク、ポチテリ焦土作戦ではセルビア人住民殲滅作戦を指揮して戦績を重ねた。それが評価されて昇進し、95年にはクロアチア共和国軍の将軍になる。
95年8月のクロアチア共和国軍の「嵐作戦」では、チェク将軍指揮下の部隊はクロアチア・セルビア人勢力の首都クニン市に奇襲攻撃を仕掛け、逃げまどう難民の列に容赦なく砲弾を浴びせかけた。国連保護軍・UNPROFORのカナダ部隊は、これらの戦争犯罪行為に関する証拠をもとに戦争犯罪人としてチェクを「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」に告発するが、ICTYのルイーズ・アーバー首席検事はこれを退けて不起訴処分とした。
クロアチア共和国軍からコソヴォ解放軍へ
1999年1月、チェクはクロアチア共和国軍を退役し、コソヴォ解放軍・KLAに加わる。99年3月24日から実行されたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆中は、NATO軍の信頼篤い同盟者として遇され、空爆の目標設定に協力した。99年6月、コソヴォ自治州がNATO軍に占領された後、国連コソヴォ暫定統治機構・UNMIKのクシュネル代表によって、コソヴォ解放軍・KLAを改組した「コソヴォ防衛隊」の参謀長に任命された。39才にして国連の資金で運営されるコソヴォ防衛の最高位に任命されたのである。
2003年、スロヴェニア治安当局は、セルビア人虐殺の容疑でセルビア政府から国際指名手配を受けていたチェクの身柄を拘束したが直ぐに釈放する。04年、ハンガリーの治安当局も、セルビア政府の国際指名手配に応じてチェクの身柄を拘束するが、間もなく釈放した。UNMIKなど国際社会の圧力があったものと推察される。06年3月、UNMIKはチェクをコソヴォ暫定政府首相に任命し、08年1月まで首相を務めた。
チェクらはセルビア人など少数民族を虐殺して臓器を売買
旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYのカルラ・デル・ポンテ元首席検察官は退官後の08年、回想録「追跡;私と軍の犯罪」をイタリア語で出版した。そこには、コソヴォ解放軍の司令官だった「チェク、タチ、ハラディナイ」などが、99年のユーゴ・コソヴォ空爆後に、セルビア人やロマ人など少数民族およそ300人を拘束してアルバニアに拉致し、殺害した揚げ句、臓器を摘出して売買していた」と記述されていた。また、カルラ・デル・ポンテ首席検察官は、在任中にチェクらの犯罪を把握しており、部下に調査するように指示したが、調査を阻んだのは沈黙の壁であったとも記している。この回想録の内容を知った、ロシアなどがICTYに調査することを要求したが、ICTYはこれを拒否した。
セルビア共和国政府は、チェクがコソヴォ紛争中にセルビア人の虐殺に関与したとして国際刑事警察機構・ICPOに身柄の拘束を再び要請する。09年6月、ブルガリアの治安当局はセルビア政府の国際指名手配に応じてチェクの身柄を拘束した。しかし、すぐに釈放した。
のちに、スイス選出のマーティー欧州議会議員がこの問題を取り上げて調査するよう提起したことで「臓器売買事件」が再び脚光を浴びるが、ICTY解散後に設置された特別法廷は2019年にハラディナイ・コソヴォ首相については審問することを決めたものの、チェクについては取り上げていない。
<参照;タチ、ハラディナイ、コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍、米国の対応>
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44, チョシッチ; ドブリツァ (Cosic; Dobrica)
1921年12月、セルビアのベリカ・ドレノバ村で生まれる。セルビア人。作家。政治家。「悪の時」などで文学賞を受賞。民族主義者。41年から対ナチス解放戦線「パルチザン」に共産党政治委員として参加する。
チョシッチは民族主義的傾向を持っており、68年、コソヴォ自治州の民族問題をめぐって党と衝突して除名された。また86年に暴露された「覚書」には、「ユーゴ連邦においてセルビア人の立場が不当に差別されている。政府は、コソヴォのセルビア人が迫害を受け、差別されていることを傍観している」との批判的記述があったが、執筆者にチョシッチも加わっていた。
民族主義的傾向を持つが戦乱回避に努力
92年6月、新たに設置されたユーゴ連邦議会はチョシッチを新ユーゴスラヴィア連邦の初代大統領に選出する。民族主義的傾向を内在させてはいたが、大統領に選出されてからは、新ユーゴ連邦を国際社会に復帰させるべく努力を重ねた。92年8月にロンドンで開かれた「旧ユーゴ和平国際会議」に出席したことに引き続き、トゥジマン・クロアチア大統領と会談して独断で領域の譲歩を約し、またイゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領とも繰り返し会談をするなど、局面打開に積極的に務めた。
「ヴァンス・オーエン和平修正案」の受け入れをめぐってボスニアのセルビア人勢力は紛糾したが、チョシッチはそれを受け入れるようにボスニア・セルビア人勢力代表のカラジッチに圧力をかけた。この交渉によるボスニアの和平路線に反対を唱えたのが、シェシェリ・セルビア急進党党首である。彼は、チョシッチが軍事クーデターを計画しているなどの噂を広めて、彼への批判を醸成し、連邦議会の信任投票にかけて不信任を可決してしまう。チョシッチが不当な濡れ衣を着せられて93年6月に解任されたため、和平の推進役を失うことになった。チョシッチは解任された際、「セルビア社会党とセルビア急進党の全体主義的政党は、セルビアとモンテネグロに多大な打撃を与えた」として、ミロシェヴィチとシェシェリを厳しく批判し、民族主義敵立場からの脱却をしてみせた。
<参照;シェシェリ、ミロシェヴィチ、ユーゴスラヴィア連邦>
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45, チョスドフスキー; ミシェル (Chossudovsky; Michel)
カナダ国籍のユダヤ人。オタワ大学経済学教授。グローバリゼーション研究所長。西ヨーロッパ、ラテンアメリカ、東南アジアの学術的な機関の客員教授を務める。
国連開発計画・UNDP、アフリカ開発銀行、国連アフリカ経済開発および計画立案研究所・AIEDEP、国連人口基金・UNFPA、国連労働機関・ILO、世界保健機構・WHO、ラテンアメリカおよびカリブ海のための国連経済委員会・ECLAC、などのコンサルタントを務めてきた。
世界の歪みを指摘し続けたチョスドフスキー
チョスドフスキーは、EC・EUおよび米国のユーゴスラヴィア連邦への干渉に厳しい批判を加えた。著書の「アメリカの謀略戦争」、「戦争およびグローバリゼーション・バルカン諸国およびそれ以降」などで、グローバリズムによる世界の歪みに対する批判を展開した。
IMF、世界銀行は世界の貧困化を図っておりユーゴスラヴィア連邦への介入もその一環
殊に「貧困の世界化・IMFと世界銀行による構造調整の衝撃」では、IMFと世界銀行がユーゴスラヴィアの経済運営に「新自由主義市場経済」のマクロ経済政策を持ち込み、融資と返済の条件として緊縮財政と急速な民営化を要求したことで、経済基盤を混乱させて破滅的な景気後退をもたらしたと指摘した。
IMFと世銀の指導に基づく新自由主義市場経済をユーゴスラヴィア連邦に導入したのは、クロアチア人のマルコヴィチ連邦首相である。彼は、89年に電力、精油事業、機械製造企業、石油化学への公的補助を廃止し、公営企業の民営化を推進した。また「外国人投資法」を成立させ、外国資本による企業買収を容易にした。その結果、89年の企業倒産は248,90年には889に達した。失業者は89年に8万9000人、90年には52万5000人に増加した。GDPは、89年はマイナス7.5%、90年にはマイナス15%になる。金融業は世界銀行の指導の下に置かれ、銀行そのものが半数以上閉鎖され、それに伴って不採算企業への貸し出しは停止された。それがまた、企業の倒産を早めたとチョスドフスキーは批判した。
チョスドフスキーは、IMFと世界銀行の指導を受け入れたマルコヴィチ連邦首相の経済改革が、ユーゴ連邦への求心力を失わせ、各共和国の分離・独立を促す遠因となったと、事実分析をもとにIMFと世界銀行を厳しく批判した。
<参照;ビルダーバーグ会議、ユーゴ連邦の工業生産・失業・社会・インフレ、世界の貧困化>
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46, チョムスキー; ノーム (Chomsky; Avram Noam)
1928年12月7日、ペンシルバニア州フィラディルフィアに生まれる。ユダヤ系アメリカ人。ペンシルバニア大学卒。言語学者。思想家。マサチューセッツ工科大学の言語学教授。チョムスキーの難解な「変形生成文法」言語学理論は著名である。
彼はまた行動する政治哲学者であり、ベトナム戦争に反対して以来、40数回拘束・逮捕されている。知識人の中で、平和を志向する人々に最も影響力を与えた人物といえる。
米国は世界に覇権をおよぼす一環としてユーゴ連邦を解体させた
チョムスキーは行動する学者として主にアメリカの政策を批判する執筆活動を盛んに行なっているが、旧ユーゴスラヴィアに関しては、「アメリカの人道的軍事主義 - コソヴォの教訓」で、「ランブイエ和平交渉」はNATO軍がコソヴォだけでなくユーゴ連邦の完全な軍事的占領および実質的な政治的支配を目指したもので、ユーゴ連邦が受け入れられる内容ではなかった。ユーゴ連邦が拒否したことを口実にして実行したNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」は、安保理決議もなく国連憲章と国際法を無視したご都合主義の人道的介入による武力行使だと厳しく批判した。
さらに、「覇権か生存か - アメリカの世界戦略と人類の未来」では、ユーゴ・コソヴォ空爆は人道的介入を意図したものでさえなく、単にNATO軍と米国の威信を国際政治に示すことにあったと指摘した。「新世代は一線を画す - コソヴォ・東チモール・西欧的スタンダード」で、アメリカ政府が国家テロ・ネットワークを作りあげ、「テロとの戦争」という名目による武力行使で、弱小国家を屈服させてきたと批判。
2001年に起こされた9/11事件についても、「9・11―アメリカに報復する資格はない」の著書で、アメリカ政府の軍事行動を批判している。
<参照;NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」、ランブイエ和平交渉、人道的武力介入、米国の対応>
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47, デル・ポンテ; カルラ (Del Ponte; Carla)
1947年2月9日、スイスのルガーノで生まれる。ベルンなどで法律を学ぶ。検察官。
ルガーノの法律事務所を経て、81年からルガーノの検察官として麻薬や武器密輸事件などを担当した。94年、スイスの司法長官に就任する。99年8月、アーバーICTY首席検察官の後任として「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYおよび「ルワンダ国際犯罪法廷・ICTR」の首席検察官に任命される。
アーバー前首席検察官と同様NATOの戦争犯罪を免罪したカルラ・デル・ポンテ
前任のアーバー首席検察官は、コソヴォ紛争の実態殻乖離した情報操作で実行されたNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」の最中の5月に、大量の難民が発生した表層の現象をミロシェヴィチ・ユーゴ大統領による戦争犯罪と決めつけ、証拠もないままに戦犯容疑として起訴した。
これに対し、アメリカ大陸法律家協会が、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆による破壊と殺戮行為を、「国際人道法に対する違反」および「国連憲章違反」や「NATO条約違反」などを犯した「戦争犯罪」として告発した。これに対するアーバーの発言は、NATOを信頼するというものであった。アーバー首席検事の後を継いだデル・ポンテは、メディアにNATOの告発の扱いについて尋ねられると、当然調査すると答えた。しかし、数日後にICTYの検察局は「NATOは検察による調査対象となっていない。コソヴォ紛争におけるNATOの行為について公式の調査は行なわない」と否定する見解を表明した。これがNATO軍の戦争犯罪に対するICTYの免罪符であった。デル・ポンテ首席検察官は、2000年6月に開かれた安保理で「NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の犯罪性について調査をしたが、国際法上の責任を問う根拠はない」と追認した。
アーバー首席検察官が起訴したミロシェヴィチ大統領を逮捕し強制移送
一方、デル・ポンテはアーバー前首席検事がミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を起訴したその尻拭いに奔走することになる。アーバーの起訴は証拠に基づくものではなく、風聞とコソヴォ解放軍とアルバニア系住民の証言しかなかったからである。しかし、課せられた任務は果たさなければならなかった。そこで、デル・ポンテ首席検察官は、セルビア共和国のジンジッチ民主党党首に密かに接触した。ジンジッチは2000年に前倒しで行なわれた大統領選でコシュトニツァを担ぎ上げて当選させると、その功績でセルビア首相に就任する。そして、デル・ポンテにどのような手段をとってもミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領をICTYに送り込むと約す。2001年4月、ジンジッチ・セルビア首相はカルラとの密約を果たしてミロシェヴィチ前大統領を逮捕し、コシュトニツァ・ユーゴ大統領の承認を得ないまま国内法を無視してヘリコプターでハーグに強制移送した。
デル・ポンテはミロシェヴィチ前大統領の身柄は確保したものの、戦争犯罪を立証する証拠を把握していたわけではなかった。01年7月に第1回公判が開かれるが、早くも8月にカルラはイタリアのピッコロ紙のインタビューで「コソヴォ紛争中のアルバニア系住民集団虐殺についてのミロシェヴィチ前大統領の有罪を立証することは困難」だとコメントした。
デル・ポンテはミロシェヴィチの人権を認めずに獄死させる
デル・ポンテは、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の戦争犯罪の立証の困難を克服する手法として証人尋問によって状況証拠を積み上げていく方針を立てる。そのため、ミロシェヴィチ裁判で検察側が立てた証人は295人に及んだ。この証人尋問で費やした公判は数年に及び、ミロシェヴィチ前大統領の持病の心臓病を悪化させることになった。しかし、ミロシェヴィチが悪化した心臓病の治療を求め、ロシア政府が身柄を保証して治療を申し出ても、ICTYはそれを仮病扱いにして治療を認めなかった。ICTYの規定には被告の人身保護条項はなかったのである。
その結果、06年3月にミロシェヴィチ・ユーゴ元大統領は誰に見とられることもなく、拘置所内で心臓疾患を悪化させて獄死した。デル・ポンテはミロシェヴィチ・ユーゴ元大統領の獄死について、「犠牲者が必要とし、かつそれに相当する正義を奪うものだ」と訳の分からない遺憾の意を表したが、もとよりカルラが正義を求めたわけではなかった。
NATO軍の空爆を免責しコソヴォ解放軍・KLA・NLAも免責した
01年3月、コソヴォ解放軍・KLAがNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆後に「大アルバニア」の建設を企図してマケドニアのアルバニア系住民にマケドニア民族解放軍・NLAを結成させる。そして、KLAとNLAは連合戦線を形成してマケドニアに侵攻し、アルバニア系住民が居住する北部地域を占拠した。マケドニア政府は狼狽したが、総動員態勢で対応し、5ヵ月余りの戦闘ののちに辛うじて民族解放軍・NLAを撃退した。この紛争の過程で、コソヴォ解放軍・KLAと民族解放軍・NLAがマケドニア人を虐殺するという事件が起きた。マケドニア紛争が一応の終結を見た01年11月、マケドニア政府は虐殺の実態を調査するために、NLAが虐殺して埋葬した疑いの濃厚なトレボス村の集団墓地の発掘を行なおうとした。
ところが、デル・ポンテ首席検察官はこの発掘調査を阻止するために、マケドニアのスコピエを訪れて当局に圧力をかけ、埋葬地の発掘を指揮したマケドニア政府のボシュウコフスキ内務相を、リュボテン村事件に関する戦犯として告発する可能性を示唆して威迫する。さらに、メディアの集団埋葬地の取材をも禁止した。ボシュウコフスキ内務相は、「カルラ・デル・ポンテのマケドニア訪問は何らの根拠もなく、彼女の発言は権限を逸脱している」と批判した。だが、デル・ポンテ首席検察官の政治介入は効力を発揮し、トレボス村の埋葬地の調査は中止された。このデル・ポンテの行動は、コソヴォ解放軍・KLA=マケドニア民族解放軍・NLAを米国が支援していたことと無関係ではない。
ドキュメンタリー「カルラのリスト」も制作される
05年、スイスのマルセル・シュプバッハ監督が「カルラのリスト」なるドキュメンタリー映画を制作した。内容は、05年の1時期のデル・ポンテICTY首席検察官として、主にクロアチア共和国軍の司令官だったアンテ・ゴドビナ将軍の逮捕に尽力する活動を描いたもので、肯定的賛美で貫かれている。このドキュメンタリーではカルラの検察局が、99年のNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆に対して早々に免罪符を与えたこと、およびマケドニア紛争時のアルバニア系武装組織・NLAの虐殺事件を、マケドニア当局に圧力をかけてもみ消した政治的行動については触れていない。
コソヴォ解放軍の臓器売買の犯罪を選択して放置
デル・ポンテは2007年にICTYを辞したのち、08年に駐アルゼンチン・スイス大使に任命されている。デル・ポンテはICTYを退任後、回想録「追跡;私と軍の犯罪者」をイタリア語で08年4月に出版した。この回想録の中に、コソヴォ解放軍の司令官たちについて「99年のNATO軍の空爆後、コソヴォのセルビア人やコソヴォ解放軍の行動に批判的なアルバニア系住民やその他の少数民族およそ300人をアルバニアに拉致して殺害し、遺体の臓器を摘出して売買していた」と名指しで記述した。名指しされたコソヴォ解放軍の主要なメンバーは、ハラディナイ、タチ、チェクらである。デル・ポンテ首席検察官はハラディナイを05年に起訴しているが、虐殺による臓器売買を戦争犯罪の訴因に加えていない。タチとチェクについては戦争犯罪人としての扱いすらしていない。この背景には、カルラ・デル・ポンテが在任中にこの事件に関する調査をするよう部下に指示したにもかかわらず、部下たちは「沈黙の壁」で応じたことがあった。そのためハラディナイ、チェク、タチの訴因に加えることは不可であったのである。知悉していてそれができなかったのは、ICTYがEU諸国および米国の政治的意図の下に運営されている機関であることを示している。ICTYは、カルラ・デル・ポンテの「追跡;私と軍の犯罪者」の内容についての取り扱いを問われた際、調査するつもりはないと回答している。
臓器売買事件については、のちにスイス選出のマーティー欧州議会議員がEUに告発したことによって再び表面化した。ICTYが閉廷した後を継いだ特別法廷がハラディナイ・コソヴォ首相を審問することになったため、ハラディナイは首相職を辞任に追い込まれた。一方、タチは大統領職に就いたままであり、チェクも不問に付されている。
<参照;アーバー、タチ、チェク、ハラディナイ、ソロス、ミロシェヴィチ、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY>
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48, トゥジマン; フラニョ(Tudman; Franjo)
1922年5月22日、クロアチアのザゴリェ地方で裕福な農家に生まれる。軍人。歴史学者。歴史修正論者。クロアチア民族主義者。大クロアチア主義者。
第2次大戦中の1941年、ユーゴ共産党員として「パルチザン」に身を投じた。戦後は連邦国防省、参謀本部に勤務し、最年少で将軍となる。ゲリラ研究を専門にし、著書の「戦争に対する戦争」は有益なゲリラ戦の著書として認知された。軍を退役した後、ザグレブ大学の歴史学の助教授になり、歴史学博士号を得る。
クロアチア民族主義・歴史修正主義者として刑に服す
トゥジマンはクロアチア民族主義および歴史修正主義者として、第2次大戦中にクロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャがナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」を設立した際、強制収容所を設置してセルビア人、ユダヤ人、ロマ、コミュニストなど60万人から70万人を殺害した事件に関し、これを神話だと否定した。その上で殺害数は3万5000人にすぎないとして、ウスタシャを構成したクロアチア民族の名誉回復を図り、クロアチア人の圧倒的な支持を得た。彼の民族主義的発言は、他民族共存を国策としているユーゴスラヴィア連邦の方針に反するため処罰の対象となり、67年に有罪を宣告されて公職を追放される。3年間刑期を務めたのちに釈放された。
1971年、クロアチアの自由化運動「クロアチアの春」に参画し、有罪を宣告されて再び2年間の懲役刑に服する。81年には、スウェーデンのテレビ局のインタビューで、ユーゴ連邦におけるクロアチア人の立場についての発言で三度懲役刑を受ける。健康悪化を理由として刑期を短縮されて出所すると、80年代の後半からカナダやアメリカ、オーストリア、ラテンアメリカ世界のクロアチア人ディアスポラを訪ね歩き、クロアチア民族主義を説いて回って絆を作り上げた。88年には西ドイツを密かに訪れてヘルムート・コール・ドイツ首相に会い、クロアチアのユーゴ連邦からの分離独立への支援を要請した。コール西ドイツ首相は、この時クロアチアへの資金援助と武器の提供を約束したといわれる。
クロアチア民主同盟を設立し民族主義を推進
1989年、トゥジマンはクロアチア人ディアスポラの資金援助を受け、「クロアチア民主同盟」の創設を主導した。その上で「歴史的現実の荒野」を出版してユダヤ人ホロコーストを否定し、殺害されたユダヤ人は600万人ではなく100万人だと記述した。さらに、第2次大戦中の「クロアチア独立国」が設置した、ヤセノヴァッツ強制収容所でのセルビア人やユダヤ人の殺害は60万人ではなく、5万9639人だと以前とは異なる数字を発表した。
翌90年、クロアチア議会の複数政党制による自由選挙が実施される。しかし、自由選挙と標榜されたもののクロアチア政府は政党設立の要件に厳しい制限を設定し、事実上セルビア人の政党が出られないようにして選挙は実施された。その結果、トゥジマンの「クロアチア民主同盟」は全議席351の内206議席を獲得し、トゥジマンは議会で大統領に選出される。トゥジマンは就任演説で、「1,クロアチア共和国の新憲法を制定する。2,ユーゴ連邦におけるクロアチア共和国の新たな地位の調整をする。3,ヨーロッパへの仲間入りを果たす。4,国家行政を近代化する。5,所有関係・経済における迅速な変革を実施する」など10項目を掲げた。
トゥジマン政権は、クロアチア民族主義を批判するメディアを抑制してラジオ・テレビに民族主義的な番組を流し、民族主義を象徴する「ウスタシャ政権」時の白と赤の市松模様をアレンジした国旗を掲げさせた。このことが、セルビア人に第2次大戦中の「ウスタシャ」が行なった虐殺を想起させ、恐怖を掻き立てることになった。さらにトゥジマンは、元ウスタシャの将校を帰国させて将軍を含むクロアチア軍の階級章を与え、セルビア人住民に宥和は不可能だと思い知らせた。のちに国防相に就くことになるシュシャクはカナダのクロアチア人ディアスポラである。
トゥジマンのクロアチア民族主義政策は国内のすべてに波及し、行政府は官職からセルビア人を排除し、民営企業もセルビア人を解雇してその職をクロアチア人に与え、キリル文字によるセルビア語で発刊していた新聞社を閉鎖した。クロアチア内のセルビア人は危機感を募らせ、90年8月に住民投票を実施して「クライナ・セルビア人自治区」を設立する。
トゥジマンはクロアチアをユーゴ連邦から分離独立させる
91年6月25日、トゥジマンのクロアチア共和国はクチャンのスロヴェニア共和国と協調し、ユーゴ連邦から分離・独立させる宣言を発した。これがクロアチアのセルビア人勢力との間の内戦を呼び込むことになった。国連は内戦を鎮静化させるために、92年2月に安保理決議743を採択し、国連保護軍・UNPROFORをクロアチアの紛争地帯に派遣する。UNPROFORの派遣によって両勢力間の大規模な戦闘は鎮静化したものの、領域確保のための小競り合いは続いた。
米国は当初、ユーゴスラヴィア問題に対しては慎重な姿勢を示していた。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、この問題を政争の具として取り上げたことで次第に関与の度合いが強化されて行くことになる。そして1993年1月にクリントンが大統領に就任すると、セルビア悪に基づく強硬路線にのめり込むことになった。
ボスニア紛争は、ボスニア・セルビア人勢力とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力の三つ巴の紛争
ボスニア紛争は、クリントン政権が分析したような単純な紛争ではなかったムスリム人勢力、セルビア人勢力、クロアチア人勢力による三つ巴の紛争だったのである。ボスニアのクロアチア人勢力はクロアチア共和国の強い影響下にあったが、自民族の支配領域拡大策として92年10月にはボスニア政府軍の支配地キセリャックやノヴィ・トラヴニクの攻撃を行なっている。さらに、93年5月にクロアチア人勢力としてのヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の臨時首都と定めたモスタル市の支配権を巡り、クロアチア共和国軍の支援を受けてボスニア政府軍と激しい戦闘を交えた。
クリントン米政権によるクロアチアおよびボスニアのセルビア人征圧作戦
クリントン政権はこのボスニア政府とクロアチア人勢力との戦闘にしばしとまどいを見せたが、セルビア人勢力征圧を目標とした「新戦略」を立案した。そして94年2月に、第1段階としてトゥジマン・クロアチア共和国に圧力をかけてヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の強硬派のマテ・ボバン大統領を解任させた。次いでボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力韓の戦闘を停戦させる。その上で、3月にクロアチア共和国のグラニッチ外相とボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定に合意させた。
このクリントン政権の新戦略は表向きに公表されたものと異なり、クロアチア・セルビア人勢力とボスニア・セルビア人勢力を統合共同作戦によって征圧するという内容であった。これ以降、クロアチア共和国およびボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力には米軍事請負会社MPRIを送り込み、訓練と指導を施して米英両政府の支援の下に武装を整えた。
クリントン米政権の新戦略によるセルビア人勢力征圧作戦
共同作戦の準備が整うと95年1月、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は国連保護軍の存在がクロアチアの和平の妨げになっているという理由をつけて撤収を要請する書簡を国連に送りつけた。国連安保理はこれを受け3月に国連保護軍を3分割する安保理決議981~983を採択し、クロアチアには国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。
トゥジマン・クロアチア共和国大統領は国連軍の移動が終わったのを見届けると、95年5月1日にクロアチアのセルビア人支配地域西スラヴォニアを攻略する「「稲妻作戦」を発動して3日間で陥落させた。さらに8月には15万の兵員を動員した「嵐作戦」を発動し、4方面軍を編制してクロアチア・セルビア人共和国征圧作戦を発動した。これを迎撃することになったクロアチア・セルビア人共和国軍は4万弱しか兵員を動員できなかったため、たちまち戦線は崩壊し、セルビア人住民とともにクロアチアから脱出した。赤十字国際委員会によると、この嵐作戦時にクロアチアから追放されたセルビア人は20万から25万人に及んだという。トゥジマン大統領は、この作戦が成功裏に終わると、手を突き上げて喜びを表した。このときのトゥジマンの歓喜の映像が残されている。
トゥジマンは、嵐作戦が成功裏に終わると、「ミストラル作戦」に切り替えてクロアチア共和国軍をボスニア領内に侵攻させ、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府が置かれているバニャ・ルカの攻略作戦へと転換した。この戦闘の最中の8月28日にボスニアのマルカレ市場で爆発事件が起こされ、多数の死傷者を出した。
NATO軍はこれをセルビア人勢力が行なったものと即断し、セルビア人勢力への「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動してボスニア・セルビア人共和国への空爆を開始し、屈服に追い込んだ。
トゥジマンは大クロアチア民族主義を死去するまで持ち続けた
トゥジマンは「大クロアチア主義者」で策士ぶりを発揮し、ボスニア内戦中にミロシェヴィチ・セルビア大統領を誘い込んで、ボスニア分割の覚書を交わした。この件は直ちに暴露されたが、メディアはミロシェヴィチ・セルビア大統領の大セルビア主義によるものとして非難した。
トゥジマンの大クロアチアへの志向は、ボスニア和平が成立した後にも保持し続け、98年2月に開かれたクロアチア民主同盟・HZDの党大会で、ボスニアのクロアチア人居住地を併合する大クロアチアの構想を示唆した。これには、さすがの米政府もたしなめざるを得なかった。
トゥジマンは99年12月に死去するまで、徹頭徹尾クロアチア民族主義のクロアチア民主同盟の最高指導者として大統領の座にとどまり続けた。トゥジマンが死去すると、クロアチア民主同盟は求心力を失い、後継者のメシッチはクロアチア民族主義を薄める政策を採用するようになる。
<参照;クロアチア、米国の対応、ワシントン協定、稲妻作戦、嵐作戦>
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49, トライコフスキ; ボリス (Trajkovski; Boris)
1956年6月、マケドニアのストルミツァに生まれる。マケドニア人。スコピエ大法学部卒。政治家。マケドニア共和国大統領。メソジスト教会の牧師を務めた経験がある。90年、民族主義のマケドニア革命組織の結成に参加。穏健派で、アルバニアの間の宥和政策をリードした。トライコフスキは、99年11月の大統領選の決選投票でアルバニア系住民の支持も得てグリゴロフを破り大統領に当選する。
コソヴォ紛争がマケドニア紛争を惹起
グリゴロフ前大統領はコソヴォ自治州のアルバニア系住民の動向を見て、マケドニアにも影響が及ぶ可能性を見通していた。そのため、国連保護軍の派遣を要請した。それが、95年3月に国連安保理決議981~983による国連予防展開軍・UNPREDEPの配備として実現した。しかし、経済的困窮のために台湾の支援を期待して国交を結んだことが中国の逆鱗に触れた。1999年2月に開かれた国連予防展開軍・UNPREDEPの配備延長決議は中国の拒否権行使で潰え、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の始まる直前の2月にマケドニアの国連予防展開軍・UNPREDEPは撤収してしまう。
直後の3月24日にNATO軍がデリバリット・フォース作戦を発動してユーゴ・コソヴォ空爆が発動されたことでグリゴロフの危惧が現実のものとなった。コソヴォ解放軍・KLAはNATO諸国のユーゴ・コソヴォ空爆後に撤収させられたセルビア治安部隊の空白を利用し、大アルバニアの建設を目指して先ずセルビア共和国のサンジャック地方のアルバニア系住民たちにLAPBMを結成させて分離吸収作戦を展開した。これが思うように進まないとなるとコソヴォ解放軍は隣国マケドニアのアルバニア系住民にマケドニア民族解放軍・LNAを結成させ、01年3月にマケドニアに攻め込んで戦闘を開始し、たちまち国土の30%を支配するまでになる。
グリゴロフ・マケドニア前大統領が危惧したコソヴォ紛争の暴虐が現実化したのである。そこで、トライコフスキ大統領はウクライナから攻撃型ヘリコプター2機を貸与して貰い、それを戦線に投入してKLA・NLAの撃退にかかった。
NATOおよびEUはコソヴォ解放軍・KLAと民族解放軍・NLAを支援する
KLA・NLAがNATOに訴えたのかどうかは明らかではないが、成り行きを窺っていたNATOのロバートソン事務総長とEUのソラナ共通外交・安全保障政策上級代表は、マケドニアを訪問して対話による解決を促した。その上で両者はウクライナを訪れ、マケドニアへの攻撃ヘリの貸与ならびに武器を供給しないように圧力をかけた。ウクライナはこの圧力を受け入れ、マケドニアへの武器の供給を停止する。
トライコフスキ・マケドニア大統領は、ウクライナからの武器の供給が途絶えたことで窮地に陥ったが、他の東欧諸国から武器を調達して総動員態勢を取ってKLA・NLAに対抗した。そして、KLA・NLAを次第に追いつめると、EUとNATOが和平の仲介に乗り出して停戦に合意させる。停戦が成立すると、米軍はマケドニア共和国軍に包囲されたKLA・NLAの兵士たちを、バスなど10台を用意して戦闘地域から護送して脱出させるという、明らかに反政府勢力を保護する行動を取る。マケドニアの農民や市民は、このNATOとEUの武装ゲリラ保護行動に憤り、バスを包囲して投石を行なうほどの騒ぎとなった。市民たちの怒りはバスへの投石だけでは収まらず、それを援護した米国やドイツの大使館に投石や放火をするなどの暴動へと拡大した。
和平交渉で「オフリド合意」が成立しマケドニアは憲法を改正する
2003年8月、5ヵ月にわたって続いたマケドニア紛争はEUとNATOの仲介でともかくも和平交渉へと移行し、「オフリド合意」でアルバニア系住民を交えた挙国一致内閣の成立へと進展することになる。オフリド合意の骨子は、「1,アルバニア系住民の地域ではアルバニア語を公用語と認める。2,アルバニア系の警察官の数を人口比に相当する程度にする。3,民族解放軍・NLAは武装解除する。4,ゲリラ兵士の訴追はしない」などである。トライコフスキ・マケドニア大統領は、この合意に基づく憲法改正を行ない、マケドニア紛争は一応の終結を見た。ただし、民族解放軍・NLAの武装解除は形式だけで、大半の武器は元のコソヴォ解放軍・KLA系統の武装組織に移された。
2004年2月26日、トライコフスキ大統領がボスニア・ヘルツェゴヴィナで開かれる会議に向かう途中、搭乗した政府専用機はサラエヴォ南方の山岳地帯で墜落する。トライコフスキ大統領を含む、搭乗者9人全員の死亡が確認された。このつらく事故の原因は明らかになっていない。
<参照;グリゴロフ、マケドニア紛争、コソヴォ解放軍・KLA・NLA、国連の対応>
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50, ドラシュコヴィチ; ブーク (Draskovic; Vuk) カット候補
1946年11月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで生まれる。セルビア人。作家。ジャーナリスト。政治家。
ベオグラード大学の学生のときに共産主義者同盟に入党。ユーゴ国営タンユグ通信記者を務めた後、作家活動に入る。すべてのアルバニア系をコソヴォから追放すべきだ、と主張する過激なセルビア民族主義者。
ドラシュコヴィチは排外的民族主義者
90年1月、急進的セルビア民族政党である「セルビア再生運動」を設立して党首となる。90年12月のセルビア共和国の大統領選挙に立候補するが、ミロシェヴィチに敗れる。その後も反共、反政府運動の指導者として、一定の支持を集める。しかし、シェシェリ急進党とは激しく対立し、93年には議会で両党の議員間での殴打事件が起こり、騒擾事件に発展してドラシュコヴィチは投獄された。しかし、EC諸国の首脳が釈放を求めて声明を発表するなど、国際化したことによって釈放される。
クロアチア内戦やボスニア内戦では、義勇兵の「セルビア防衛隊」を組織して戦闘に加わり、その強硬な民族意識による行為には行き過ぎが見られた。
ユーゴ連邦解体戦争がひとまず集結した、96年11月に行なわれたベオグラード市議会選挙で、右派民族主義野党連合の「ザイェドノ」が過半数を獲得する。この選挙に不正があったとしてベオグラード裁判所がやり直しを命じると、ドラシュコヴィチは数十万人規模のデモを組織し、「我々全員を逮捕してセルビア中を監視しても構わない。最後にその監獄に残るのはミロシェヴィチだ」と演説。ドラシュコヴィチの抗議行動は広がりを見せ、野党連合「ザイェドノ」の主張を政府に認めさせることになった。
信念の政治家ではなく情況主義者
97年、ユーゴ連邦の大統領選に再度立候補するが敗れる。99年1月、挙国一致で祖国を守る必要があるとして政権入りを求められ、副首相に就任する。しかし、NATO軍の空爆の最中の99年4月、「国連平和維持軍派遣を容認する」と、政府の立場に反した発言によってブラトヴィチ連邦首相に解任された。2000年9月の大統領選では、ミロシェヴィチ派の不正選挙を糾弾する野党連合側の市民運動の一翼をドラシュコヴィチの「セルビア再生運動」も担う。ドラシュコヴィチは過激な民族主義的な態度や発言を時に応じて変化させ、次第に穏健な態度へと発言を変えていった。
<参照;シェシェリ、ミロシェヴィチ、セルビア、ユーゴスラヴィア連邦>
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51, ドール; ボブ(Dole; Robert Joseph)本名はロバート・J・ドール
1923年7月22日、米カンザス州ラッセルで生まれる。カンザス大学卒、ウォッシュバーン大学卒。政治家。
第2次大戦では陸軍に志願し、欧州戦線で重傷を負う。51年、カンザス州議会議員。61年、連邦共和党下院議員。69年、連邦共和党上院議員。76年、大統領選挙で副大統領候補に指名されが、大統領選は破れる。85年、共和党上院院内総務を務める。96年5月、大統領選に専念するために連邦上院議員を辞職して闘うが、クリントン民主党候補に敗れる。98年、台湾の政治顧問に就任。
クロアチア「ウスタシャ」の影響を受ける
ボブ・ドールの秘書ミーラ・バラタの祖父は、クロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャのディアスポラで、父親は在米クロアチア系組織を率いていた人物だった。ウスタシャは第2次大戦中、「クロアチア独立国」を建国し、セルビア人、ユダヤ人、ロマ人など少数民族を迫害し、追放し、60万人から70万人の虐殺を実行したファシスト・グループである。第2次大戦後にウスタシャは消滅するが、ディアスポラとなったものたちの間には強固な結び付きが存続していた。
偏狭な強硬主義者
秘書のバラタの影響を受けたボブ・ドール議員は、彼女の提言を取り入れてボスニア政府に米PR会社のルーダー・フィン社を紹介し、「セルビア悪」説を広めるために相応の役割を果たした。議員自身も、ボスニア内戦で極端なセルビア悪説を唱え、和平に尽力していた明石康国連特別代表およびローズ・ボスニア駐留国連保護軍司令官の解任を要求した。94年12月、ボスニアのセルビア人勢力のカラジッチ大統領がカーター米元大統領に和平のための仲介を要請したことに対し、カラジッチの時間稼ぎにすぎないとして、応じないように求める書簡をカーター米元大統領に送った。
ボスニア内戦で武器供給を画策
その上、国連安保理決議による紛争当事者への武器禁輸措置を、ボスニア政府に限って解除することを求める法案を、94年および95年に連邦上院に提出し、上院はそのいずれをも可決した。米政府は、この提案を安保理に持ち込むことを画策したが、EC諸国は内戦を激化させるものとして難色を示したため、安保理決議とはならなかった。そこで、米政府は武器の密輸を実質的に容認するために武器密輸船舶の監視を緩め、またサウジアラビアなどと協調して3億ドル相当の武器をボスニア政府軍に提供した。ボブ・ドールの画策は成功を収めたのである。強硬派のボブ・ドールは、ユーゴ連邦解体戦争で和平には何ら寄与することなく、ただ一方の屈服だけを求め、紛争を複雑化させたのみであった。
<参照;ウスタシャ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応>
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52, パウエル; コリン(Powell; Colin Luther)
1937年4月5日、ニューヨーク州サウスブロンクスで生まれる。ニューヨーク市立大学の上級士官養成コース卒。ジョージ・ワシントン大学のMBAを取得。軍人。政治家。
62年、ベトナム戦争に従軍。77年、国防副長官補佐官となる。83年、ワインバーガー国防副長官補佐官を経て、西ドイツ駐留の米陸軍第5軍司令官。87年、国家安全保障会議・NSC事務局次長。87年、レーガン大統領国家安全保障担当補佐官。89年、父ブッシュ政権下で統合参謀本部議長に就任する。91年の湾岸戦争で、多国籍軍の事実上の最高司令官を務める。
米軍およびNATO軍の軍事介入の基礎を築く
1992年7月、ユーゴ連邦解体戦争において、NATO軍を初の域外活動としてのボスニア内戦への派遣を決める。次いで、新ユーゴ連邦への経済制裁の監視のために、初めて域外のアドリア海に艦艇を派遣する。さらに、ボスニアのセルビア人勢力の戦闘機を対象とした、ボスニア上空の飛行禁止空域を設定するなど、NATO軍の関与を強める働きをした。
93年2月には、米軍は独自にボスニアのムスリム人地域に食糧・医薬品の投下作戦を実行する。93年5月には、米軍特殊部隊をボスニアに派遣。93年8月にはNATO軍によるセルビア人勢力への空爆計画を策定した。パウエルが統合参謀本部議長を務めていた間に、NATO軍を条約の域外活動への実戦配備体制へと進め、実行可能な基盤をつくりあげた。93年9月に統合参謀本部議長を退任する。
イラク戦争のきっかけを作るが後に悔やむことになる
2001年1月、ブッシュJr政権の国務長官に就任する。9/11事件後のアフガニスタン戦争とイラク戦争の推進役を果たす。03年2月、安保理でイラクが大量破壊兵器を所有していることを証明するために画像を駆使して力説したが、のちに全て事実とは異なっていたことが明らかとなる。05年1月、米国務長官を退任。後に、米ABCテレビとのインタビューで、「世界にイラクの大量破壊兵器・WMD疑惑を提示したのはこの私だ。このことは今後も私の履歴の一部であり続ける。当時も今も心苦しい」と自分の安保理での演説を悔やんでいることを明らかにした。しかし、イラク国家を破壊し、国民を困窮に陥れたことへの言及はない。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応>
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53, パニッチ; ミラン(Panic; Milan)
1929年12月、ベオグラードで生まれる。セルビア人。ベオグラード大学卒。実業家。政治家。
14才でチトー率いるパルチザン闘争に参加。自転車競技のユーゴスラヴィア・ナショナルチームの選手。南カリフォルニア大学院で生化学を学ぶために留学し、そのままアメリカに移住した。60年、カリフォルニアで製薬会社ファーマシュウ・メディカルズ・ICNを興し、社長となる。ICNは欧米に15の工場を持つほどに成長し、子会社のICNバイオメディカルズは世界でも有数の企業となった。90年、折からIMFと世界銀行から要請されていたユーゴ連邦内の企業の民営化推進策によって、民営化されたユーゴスラヴィア最大の製薬会社ガレニカを買収した。
ユーゴ連邦幹部会は国際社会との宥和を期待してパニッチを呼び寄せる
92年6月、ユーゴ連邦の主要な政治家たちは、国連決議によるユーゴ連邦への経済制裁の解除に寄与することを期待して、アメリカ在住のパニッチに連邦首相への就任を要請した。パニッチは、連邦首相就任の条件としてミロシェヴィチとその協力者の公職辞任を要求した。しかし、それが困難だと察すると撤回し、超党派的な挙国一致内閣の成立に向けて精力的に連邦の政治家と会談を重ねた。パニッチは連邦議会での信任を求める演説で、「戦争の中止と継続的平和の確立。自由な多民族・多党的社会に向けた条件の確立、表現の権利と出版の自由、経済の復興」などを掲げた。
パニッチは連邦首相に就任すると活発な外交を展開し、欧米諸国の首脳や関係者を歴訪して精力的に会談を重ねるが、成果といえるものは上げられなかった。パニッチは、自らの外交の障害になっているのは、ミロシェヴィチ大統領の存在にあるとして苛立ちをつのらせ、92年8月にロンドンで開かれた旧ユーゴ和平国際会議の席上、ミロシェヴィチ・セルビア大統領を面罵し、辞任を迫った。そのことがユーゴ連邦議会議員の不信を招き、支持基盤が揺らいで大野党連合構想の実現に失敗する。
状況を理解しないパニッチの行為は事態を悪化させたのみ
パニッチは、この事態を一挙に解決することを意図して92年12月に実施されたセルビア共和国大統領選挙に出馬し、ミロシェヴィチ大統領を蹴落とそうとした。しかし、EC諸国からの支援が得られなかったばかりか、イーグルバーガー米国務長官がセルビア人の要人10人を戦争犯罪人として告発すると発表してセルビア側を刺激したため、パニッチはとばっちりを受けて得票を伸ばすことができなかった。結局、パニッチは大統領選に敗れたばかりか、同時に行なわれた連邦議会選挙で選出された議員によって不信任が可決され、連邦首相の職も失う。パニッチがユーゴ連邦首相の座にあったのは、僅か5ヵ月間であった。
<参照;ミロシェヴィチ、セルビア、ユーゴスラヴィア連邦、国際社会の経済制裁>
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54, バビッチ; ミラン(Babic; Milan)
1956年、クロアチアに生まれる。クロアチアのセルビア人。歯科医。政治家。民族主義強硬派。
91年にトゥジマン・クロアチア共和国大統領が、ユーゴ連邦からの分離独立を企図しているのを知ると、クロアチア共和国内に「クライナ・セルビア人自治区」を設置して議長となる。さらに、「クロアチア・セルビア民主党」の結党にも参加する。クロアチア・セルビア民主党内には、クライナ地方を中心とするバビッチらの強硬派と、東スラヴォニアを中心とする穏健なラシュコヴィチおよびハジッチ派に分かれていた。穏健派のハジッチがクロアチア共和国内の自治を求めたのに対し、強硬派のバビッチはセルビア人自治区のクロアチアからの分離独立を求めるとともに、ユーゴ連邦への残留を主張したため、両派による政争が繰り返された。
91年6月に、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国がユーゴ連邦からの分離独立を宣言すると、セルビア人勢力軍とクロアチア防衛隊間の武力衝突が激化した。91年12月、クロアチアのセルビア人勢力は「クライナ・セルビア人自治区」と東部の「スラヴォニア・バラニャ・セルビア人自治区」を統合して「クライナ・セルビア人共和国」を設立し、議会はバビッチを初代大統領に選出する。バビッチ大統領は、「クライナ・セルビア人共和国」をクロアチアから分離してユーゴ連邦に残留させることを企図するが、それが困難だと見ると、ボスニアのセルビア人共和国との統合を画策した。
クロアチア・セルビア人勢力を分裂させたバビッチ
国連安保理は、92年2月にクロアチアの政府軍とセルビア人勢力の戦闘の鎮静化を図るための決議743を採択し、国連保護軍をクロアチアのクライナ地方に派遣することにする。しかし、バビッチがこれに強硬に反対したため、クライナ議会はバビッチに対する不信任を可決。後任の大統領には、穏健派といわれるハジッチが選出された。バビッチはこの後、クニンで「クライナ・セルビア民主党」を結党して自派の勢力の拡大を図った。
93年12月、クライナ・セルビア人共和国議会選挙が行なわれ、バビッチの「クライナ・セルビア民主党」が38議席を獲得して第1党となった。しかし、同時に行なわれた大統領選に立候補したバビッチは敗れ、マルティッチが大統領に選出された。この時に成立したミケリッチ内閣の下で、バビッチは外相に就任する。
分裂したクロアチア・セルビア人勢力は潰滅される
93年1月に発足したクリントン米政権は、セルビア悪に基づくユーゴ問題への介入策を検討していた。しかし、ボスニア紛争はボスニア政府軍とセルビア人勢力との紛争と捉えられがちだが、実際にはムスリム人勢力としてのボスニア政府とセルビア人勢力およびクロアチア人勢力との三つ巴の武力衝突が行なわれていた。
特に93年5月に行なわれたクロアチア人勢力としてのヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国が臨時首都と定めたモスタル市の争奪戦は、厳しい戦いとなった。この両勢力の戦闘にクリントン米政権はしばし戸惑ったものの、セルビア人勢力征圧によるユーゴ問題解決策を改めず、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力征圧作戦としての「新戦略」を策定する。
この新戦略に基づき、クリントン米政権はトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力を掛け、ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派マテ・ボバンを解任させて両勢力間の停戦を合意させた。その上で、3勢力をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」に調印させた。ワシントン協定の眼目は公表された内容と派異なり、クロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力の3者に統合共同作戦を実行させてクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧するところにあった。94年の1年間は3勢力に対する訓練と軍備の増強に充てられた。
作戦の準備が整うと、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は、国連保護軍の存在がクロアチアの和平を妨げているとの理由をつけて撤収を要請する書簡を国連に送付した。これに応じた国連安保理は、国連保護軍を3分割する決議981~983を採択する。3分割に伴う国連保護軍の移動を見届けると、クロアチア共和国軍は95年5月1日に「稲妻作戦」を発動して西スラヴォニアを制圧する。この責任を追及した強硬派バビッチ率いる「クライナ・セルビア民主党」は、5月29日に穏健派のミケリッチ内閣の不信任案を議会に提出し、可決してしまう。さらに、議会はボスニアのセルビア人との統合を盛り込んだ「セルビア統一共和国憲法」を批准した。
やむなく、マルティッチ大統領はバビッチに組閣を命じる。ミケリッチ前首相は、解任された後も東スラヴォニアのヴコヴァルで首相としての活動を続けた。
続いてクロアチア共和国軍は8月4日に15万の兵員を動員した「嵐作戦」を発動し、クロアチア・セルビア人勢力の掃討作戦を実行した。クロアチア共和国軍の15万人の兵員に対し、セルビア人勢力軍は4万人弱の兵員しか動員できず、しかもその内部が分裂状態では、米軍式の戦闘手法を伝授されたクロアチア共和国軍と対抗できるはずもなかった。その上、ボスニア政府軍が共同作戦を実施し、背後からセルビア人勢力軍に襲いかかった。両軍の挟み撃ち攻撃を受けたクライナ・セルビア人居住地域のセルビア人はほとんどが難民となって脱出し、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国は壊滅した。
バビッチは06年に死去する。自殺とされたが他殺の疑いも消えていない。
<参照;クロアチア、クライナ地方、ダルマツィア地方、稲妻作戦、嵐作戦、クライナ・セルビア人共和国>
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55, パヴェリチ; アンテ (Pavelic; Ante)
1889年7月14日、クロアチアに生まれる。クロアチア人。弁護士。クロアチア権利党の指導者。クロアチア民族主義者。
パヴェリチはウスタシャを設立した狂信的な民族主義者。
1929年、第1次大戦後に成立したユーゴスラヴィア王国のアレクサンドル・カラジョルジェヴィチ国王が独裁体制を敷くとイタリアに亡命し、イタリア・ファッシズムのムッソリーニ総裁の庇護を受け、ファシスト・グループ「ウスタシャ」の党首として活動する。ウスタシャは、ユーゴスラヴィア王国をテロと暴力革命で打倒することを宣言した。34年10月、ウスタシャの一員が、カラジョルジェヴィチ・ユーゴ国王とバルトゥ・フランス外相をマルセイユで暗殺する。フランスはパヴェリチに死刑判決を下してイタリアに引き渡しを要求するが、国家ファシスト党のムッソリーニ・イタリア政権はこれを拒否した。
1939年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦が始まる。40年にナチス・ドイツは西ヨーロッパの大半を占領し、なお英国の本土上陸作戦を試みるが、これは英国軍の巧みな反撃にあって頓挫した。そこでヒトラーはソ連を植民地化して そこから得られる物量をもって英国征服へと方向転換し、ソ連侵攻計画である「バルバロッサ作戦」を立案した。そのためにはバルカン諸国をすべて支配下に置く必要があると考えたのであろう、41年4月にナチス・ドイツ同盟軍はユーゴスラヴィア王国とギリシャ王国に侵攻した。
同盟軍がクロアチアに侵攻すると、パヴェリチらのウスタシャは大歓迎した。パヴェリチはイタリアから帰還すると、直ちにナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」を建国し、ナチス・ドイツのヒトラーに倣って総統を名乗る。パヴェリチはヒトラー総統に対し、「クロアチア人がスラヴ民族ではなく、究極的には、血統的にも種族的にも、ゲルマン民族に属することを証明したい」と語った。狂信的な民族主義者にありがちな、より強い者への憧憬が彼の意識を支配していた。
第2次大戦中に少数民族を虐殺する
クロアチア独立国の基本的な方針は、クロアチアを純粋なクロアチア人の国家とするところにあった。そのため、パヴェリチは領域内の少数者のセルビア人住民を国家最大の敵と見なし、これを解決することこそが国の存立に関わる最重要課題であると規定した。ウスタシャのセルビア人対策は、3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1をクロアチア独立国から追放し、3分の1を抹殺するというものであった。そこで、クロアチア独立国全土に強制収容所を設置し、ナチス・ドイツに非協力的な者、カトリックに改宗しない者、クロアチア民族主義に協力的でない者など少数民族のセルビア人、ユダヤ人、ロマ人を徹底的に排除し、虐殺した。その虐殺者数は60万から70万人といわれる。セルビア人など少数民族の殺戮に明け暮れたクロアチア独立国は、枢軸国の占領体制に寄与するどころか、占領軍であるナチス・ドイツに対する人々の反抗を強化するという結果を招いた。たまりかねたドイツ当局が自制を促すという一幕もあった。
ナチス・ドイツの対ソ侵攻作戦は失敗に終わる
ナチス・ドイツの対ソ「バルバロッサ作戦」は緒戦では成功を収めたが、やがてソ連軍の反撃を受け、逆に45年4月にはベルリンが総攻撃され、ヒトラーが敗北を自覚して4月末に自殺したことで欧州の大戦は終結した。45年5月にナチス・ドイツが崩壊すると、パヴェリチはオーストリアからイタリアに逃亡し、バチカンが設定した「ラット・ライン」でアルゼンチンに脱出した。そののち、再び身の危険を感じたパヴェリチはフランコが支配する独裁国家スペインに移住した。59年12月28日にスペインで死没する。
パヴェリチの思想はクロアチア民族の一部に脈々と継承される
パヴェリチの死後も、ファシスト・グループ・ウスタシャの思想は亡命クロアチア人の間に脈々と存在し続けた。トゥジマン・クロアチア大統領はそれを受け継ぎ、ユーゴ連邦解体戦争で利用した。トゥジマンは、ウスタシャ政権時に軍人だった者を亡命先から呼び寄せて軍の司令官としたのである。さらに、ウスタシャ政権のクロアチア独立国の旗だった赤白の市松模様の盾型紋をアレンジしてクロアチアの国旗とした。小学校の名称に、大戦中のウスタシャ政権時の法務大臣の名前を付けることもした。クロアチアの商店では、いまでもウスタシャの備品などが売られている。
<参照;クロアチア、ステピナッツ、トゥジマン、バチカン市国の対応、ユーゴスラヴィア王国>
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56, ハラディナイ; ラムシュ (Haradinai; Ramush)
1968年7月3日、コソヴォ自治州グロジャネで生まれる。アルバニア系住民。プリシュティナ大学。コソヴォ・アメリカン大学で修士号を得る。軍人。政治家。民族主義者。一時期、コソヴォにおける民族対立を避けてスイスに移住した。
ハラディナイは96年頃からコソヴォ解放軍・KLAの訓練に携わった。コソヴォ紛争が本格化した98年からコソヴォ解放軍・KLAの司令官を務める。99年に実行されたNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」の標的選びにも協力した。NATO軍の空爆終結後に「コソヴォの未来のための同盟」なる政党を創設。04年12月、コソヴォ自治州政府の首相に選出される。
ハラディナイのコソヴォ紛争の犯罪は無罪とする
05年3月、「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の検事局は、ハラディナイがコソヴォ紛争時の98年にセルビア人、ロマ人およびコソヴォ解放軍の方針に従わないアルバニア人同胞などを拷問、誘拐、殺人、民族浄化を実行したとして37の訴因で起訴し、25年の禁固刑を求刑した。ハラディナイは首相を辞任し、ハーグのICTYに出廷して無罪を主張した。国連コソヴォ暫定行政ミッション・UNMIKは、ICTYにハラディナイの裁判を停止するよう要請して圧力をかける。これを一部の外交官が支持したことからICTYはUNMIKの要請を受け入ざるを得なくなり、ハラディナイを05年6月に仮釈放した。ハラディナイはコソヴォに戻って20ヵ月間自由な実生活を送る。
05年、ドイツの情報機関・BNDはコソヴォについて、「コソヴォにおける政治・経済および国際的な犯罪組織の間を結ぶ連結環が、例えばハラディナイ、タチ、ハリティのような主要な働きをする人物を通して存在する。彼らはコソヴォの統治に関心を持たない」との分析を記述した。コソヴォは、アルバニアとともにアヘン取引の一大ルートを形成しているが、ハラディナイらはそれに関与していると指摘したのである。
ICTYはコソヴォ解放軍・KLAの非人間的な所業は不問
08年4月3日にICTYの1審は、ハラディナイの37のすべての訴因について無罪判決を出す。しかし、上級審が検察側の証拠の取扱に問題があるとして差し戻し審理を命じた。
同じ4月、ICTYの首席検察官を退任したカルラ・デル・ポンテが回想録「追跡:私と軍の犯罪者」を出版した。この回想録には、ハラディナイ、タチ、チェクなどコソヴォの主要人物たちがNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆後、コソヴォのセルビア人やコソヴォ解放軍と対立するアルバニア人その他の少数民族などおよそ300人をアルバニアに拉致して殺害し、その臓器を売買していたとの記述があり、問題化した。ロシアなどが調査をするよう求めたが、ICTYはこれを拒否した。
2010年12月、スイス選出のマーティー欧州議会議員が、コソヴォの政治指導者ハラディナイ、タチ、チェクらの臓器売買の問題を取り上げるよう欧州議会に調査報告書を提出した。欧州議会の委員会は調査をすることを表明する。
マーティー欧州議会議員の提起にもかかわらず、ICTYは12年11月にハラディナイに出した差し戻し審の審判は、「虐殺に関与した証拠はない」という理由を付けた無罪判決であった。コソヴォ紛争において、ロバートソン英外相が下院議会で「コソヴォ解放軍の方が、セルビア当局よりも多くの死者を出していた」と答弁していること、およびカルラ・デル・ポンテ元首席検察官がハラディナイは少数民族の殺害と臓器売買に関係していたと指摘したこと、などを勘案すると無罪とは考えがたいが、このコソヴォ解放軍の元司令官に対する特別扱いは、ICTYが国際政治力学に基づいて運営されていることを示している。
ハラディナイは、2017年6月に行なわれたコソヴォ議会選挙で中道右派連合を率いて勝利し、ハシム・タチ大統領に首班として組閣を指名され、首相に返り咲いた。
しかし、マーティーの報告書に基づいた欧州議会の働きかけが効を奏したのか、ICTYを閉廷したのちにハーグに設置された特別法廷がハラディナイの審問を行なうことを決める。ハラディナイは、2019年に特別法廷からの召喚を受けたことで、特別法廷の審問を受けつつ首相職にとどまり続けることは困難として、7月19日にコソヴォ首相を辞任すると表明した。
<参照;タチ、チェク、コソヴォ自治州、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY>
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57, ビルト; カール (Bildt; Carl)
1949年7月15日、スウェーデンのハルムスタードで生まれる。ストックホルム大学で学ぶ。政治家。スウェーデン首相。
学生時代に中道右派の「自由穏健学生連盟」の議長を務める。卒業と同時に保守派の「穏健党」の事務局に入る。74年、ストックホルム州議員。79年、国会議員となる。86年、「穏健党」の党首に就任。91年10月、中道右派の連立政権でスウェーデン史上最も若い42歳で首相となる。スウェーデンの国策を福祉国家から新自由主義市場経済を導入する国家へと舵を切り、公営企業の民営化を推進した。しかし、たちまち通貨危機に陥り、金融は混乱する。95年、議会選挙でビルトの与党が福祉国家を目指す「社会民主労働党」に敗北したため、首相を辞任した。
ECユーゴ和平会議議長として和平に関わるが米国の「新戦略」遂行中で役割を果たせず
ビルトは1995年6月、ECの「旧ユーゴ和平会議」議長のオーエン英元外相の後任として議長に任命され、「旧ユーゴ和平国際会議」の国連側のシュトルテンベルクとともに共同議長に就任する。
95年8月1日に明石康国連特別代表が、クロアチア共和国政府とクロアチア・セルビア人勢力との間が全面戦争の危機に直面しているとの声明を発表したのを受け、シュトルテンベルグ共同議長とともに、両勢力を呼び寄せて会談することを合意させた。その上で3日、両勢力間に「1,最終的な政治的解決を図る交渉を8月中に開くこと。2,ボスニア西部のビハチに対する人道援助を妨げないこと」など7項目の合意を取り付けた。
ところがこの合意をした翌4日に、クロアチア共和国軍は15万人の兵員を動員した「嵐作戦」を発動してクライナ・セルビア人共和国の掃討作戦を実行した。この軍事作戦を見せ付けられると、さすがにビルト旧・ユーゴ和平国際会議共同議長は「クロアチア共和国側の攻撃はセルビア人勢力が、政治、経済面で実質的な譲歩をする姿勢を示した直後に行なわれた。特に市民に対する攻撃は恐ろしいことだ」とクロアチア共和国を非難した。EU諸国もクロアチア共和国軍の行為を批判したが、米国のペリー国防長官が自衛行為と評価したため、クロアチア共和国軍の軍事行動を抑制することはできなかった。
ビルトは、以後もボスニア和平を模索したが、NATO軍が95年9月からセルビア人勢力に対して大規模な「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動したため、ビルトの和平会議共同議長としての役割は何ら果たせることなく終わった。
95年12月、NATOの空爆後に設定されたボスニア和平「デイトン合意」により、ボスニアのサラエヴォに国連和平履行会議上級代表事務所・OHRが設置されることになり、ビルトは和平文民部門上級代表に就任した。ビルト上級代表はボスニア和平実施行動計画を策定し、ボスニアの統一政府の設立を模索した。ボスニアの統一通貨を決める一方で、顕現を超えたボスニア・セルビア人共和国のポプラシェン大統領を解任するという強権ぶりも発揮した。97年5月、ボスニアの国連OHR上級代表を辞任する。
<参照;EC・EUの対応、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>
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58, ブッシュ; ジョージ(Bush; George Herbert Walker)
1924年6月12日に、米マサチューセッツ州ミルトンで生まれる。エール大学卒。軍人。官僚。実業家。政治家。
第2次大戦中、18才で海軍に志願し、最年少のパイロットとなる。1953年、テキサス州でサパタ石油会社を創立し、54年に社長に就く。
1966年、テキサス州選出下院議員に初当選。71年、ニクソン政権下で国連大使を務める。74年、北京連絡事務所長を経て、76年にCIA長官となる。80年、大統領選でレーガン大統領の副大統領として当選。2期、レーガン政権の副大統領を務めた。88年の大統領選で、民主党のデュカキス候補に勝利し、89年1月に第41代大統領に就任する。89年11月のベルリンの壁崩壊を見て、12月にゴルバチョフ・ソ連大統領との会談で冷戦の終焉を宣言した。90年8月、イラクがクウェートに侵攻したことに対し、サウジアラビアに多国籍軍を糾合して湾岸戦争を実行する。この行為の背景にはサッチャー英首相の働きかけがあったといわれている。
米政府のユーゴ連邦解体戦争介入の基礎を築く
ブッシュ大統領は、ユーゴ問題に介入することには慎重だった。それは、91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立宣言を発した翌26日に「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを発したところに表れている。しかし、92年に民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ユーゴ介入への問題を政争の具としたことによって次第にその影響を受けるようになる。
1992年4月、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国およびボスニア共和国のユーゴ連邦からの分離独立を、EC諸国に3ヵ月遅れて承認する。米国のこの3ヵ国の一括承認によって、クロアチアだけでなくボスニアの内戦を激化させることになった。
さらに、クロアチアとボスニア政府が米PR会社ルーダー・フィン社と契約し、ルーダー・フィンがセルビア悪説を広めたこととが相俟ってブッシュ政権は次第にセルビアに対して強硬な政策を採用していく。92年5月には新ユーゴ連邦の資産を凍結するなどの経済制裁を科し、領事館の閉鎖や国連を初めとする国際機関から締め出すなどの制裁を強化するようになった。さらに、救援物資の搬入を口実に、第6艦隊をアドリア海に派遣し、軍事力行使へ向けて着々と準備を進めた。NATO諸国も米国の行動に協調してアドリア海に海軍を派遣し、新ユーゴ連邦に寄港する船舶の臨検を開始。92年12月には、ボスニア上空への飛行禁止空域を設定するなどの行動を推進した。
92年11月の大統領選で民主党のビル・クリントンに敗れ、93年1月以降政界を引退する。後任のクリントン大統領は、選挙戦で主張したように、ユーゴ連邦解体戦争の主役に躍り出て、旧ユーゴスラヴィア連邦を徹底的に分割して行くことになる。
ジョージ・ブッシュは大統領を辞したのち、軍事部門投資会社カーライル・グループに参加して、軍需産業に投資して利益を上げている。
時を経て、息子のブッシュが大統領に当選し、2003年にイラクが大量破壊兵器を所有しているとして、米・英・豪の有志連合軍がイラク攻撃に傾いている際に、ブッシュはイラク攻撃をやめるよう息子に電話を掛けたと言われる。しかし、息子のブッシュ大統領は父親の諫めをはねつけてイラク攻撃を実行した。
<参照;ベーカー、イーグルバーガー、米国の対応>
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59, ブラトヴィチ; モミール(Bulatovic; Momir)
1928年生まれのモンテネグロ人。チトーグラード大学卒。モンテネグロ共産主義者同盟党員。政治家。
90年、モンテネグロ民主社会党・DPS党首となる。90年12月、モンテネグロ大統領に就任。93年1月、直接選挙でモンテネグロ大統領に再選される。
モンテネグロ共和国をユーゴ連邦にとどめ続けたプラトヴィチ
ブラトヴィチはミロシェヴィチと政治的に近い関係にあったことから、ユーゴスラヴィア連邦の維持に努めた。しかし、97年の大統領選挙でジュカノヴィチに敗れる。98年1月、ジュカノヴィチ大統領の就任式直前にデモを組織したことから、この行動が大衆を扇動し、国家転覆を図ったものとして同年2月に起訴される。しかし、98年5月、ユーゴ連邦政府のコンティッチ内閣が総辞職すると、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領にユーゴ連邦首相に指名されて就任。01年7月まで連邦首相を務めた。
ブラトヴィチの尽力もあって、モンテネグロ共和国はセルビア共和国と最後までユーゴ連邦を維持した。しかし、モンテネグロを分離独立することに政治生命を掛けたジュカノヴィチが大統領に就任すると、さまざまな画策をする。そして、03年2月にはユーゴ連邦を解消してセルビ共和国との連合国家とし、06年10月にはセルビア共和国との連合国家も解消し、人口65万人のモンテネグロ共和国は完全に独立することになった。
<参照;ジュカノヴィチ、ミロシェヴィチ、モンテネグロ、ユーゴスラヴィア連邦>
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60, ブレア; トニー (Blair; Anthony Chaeles Lynton)
1953年5月6日に、スコットランドのエディンバラで生まれる。オックスフォード大学で法律を学ぶ。弁護士。政治家。通称トニー・ブレア。
83年、労働党の下院議員となる。87年から94年まで影の内閣でエネルギー担当相、雇用相、内相などを歴任する。94年、スミス党首の急死を受けて18代の労働党党首に就任する。労働党の綱領から企業の国有化を削除して「新自由主義市場経済」を導入した。97年5月、総選挙で地滑り的な勝利を得て73代首相となる。
武力行使を優先するブレア
この時期、セルビア共和国コソヴォ自治州では、コソヴォ解放軍・KLAが自治州の分離独立を目的とした武力闘争を始めていた。これに対するセルビア治安部隊の鎮圧行動を、国際社会は民族浄化だとして非難を強める。99年1月、クック英外相が下院で、「コソヴォ解放軍・KLAは停戦違反を繰り返し、今週までの犠牲者はセルビアの治安部隊が出したものより多い」と証言した。重要閣僚の証言にもかかわらず、ブレア首相はこれを無視して「セルビア悪」説を唱え、オルブライト米国務長官の「ランブイエ和平交渉」の破綻工作に同調し、NATO軍による「ユーゴ・コソヴォ空爆」の発動を誘導した。このとき、クリントン米大統領は空爆に踏み切ることをためらっていた。それを説得したのがブレアである。彼は回顧録でそのことを誇らしげに書き記している。
99年3月24日、NATO軍は大規模な海空の部隊を動員し、「アライド・フォース作戦」を発動してユーゴ連邦への空爆を開始した。ブレアは空爆を開始した当日、「この戦争は新たな性格のものであり、われわれは価値のため、あるエスニック・グループ全体に対する残虐な弾圧を放置することはしないという新たな国際主義のためである」と語った。空爆によるユーゴ連邦の被害総額は、推計297億ドルに及ぶという。ブレアにとってのNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は、新たな価値のための人道的介入であり、新たな国際主義のための戦争だったのである。
誇張癖があるブレア
のちにブレアはインタビューに応じて、「ボスニアでは70万人の犠牲者を出した。それを抑制することは国際社会の責務だったがそれができなかった。コソヴォでその悲劇を繰り返さないためにも、NATO軍の軍事介入は不可欠だった」と述べた。ボスニア戦争での死者数は10万人以下である。70万人殺害説がどこから考え出されたのか明らかではないが、国際社会では一度としてそのような数字が出されたことはない。おそらく、彼のいつもの誇張癖から編み出された数だと見られる。さらにブレアは、「新たな価値のため、新たな国際主義のため、世界をつくるために戦うのだ」とも付け加えた。彼の武断主義がこの言説に表されている。
詭弁を弄して武力行使を誘導するブレア
ブレアは、2001年の米軍のアフガニスタンへの報復戦争に、英国がそれに参加することの必然性を十分検証をすることなく実戦に参加した。03年3月のイラク侵略戦争では、ブッシュ米大統領のお先棒を担ぎ「イラクは、45分間で大量破壊兵器の発射が可能だ」とあたかも危機が差し迫っているかのような詭弁を弄し、イラクへの武力攻撃を容認する安保理決議への賛意を得るために安保理事国を説得して回った。この彼の行動は、ブッシュ米大統領に無批判に追随したことで、「ブッシュのプードル」と呼ばれるようになる。
ブレアは、現代英国においてウィンストン・チャーチルに次いで多くの軍隊を海外に送り、武力行使をさせた首相でもある。ユーゴ連邦コソヴォ自治州紛争に伴う武力介入、アフガニスタン戦争、イラク侵略戦争への派兵がそれである。彼には軍事力の使用を好む性癖がある。自らの信念を強調するに際した発言はすべてに言い訳がましく、誠実さに欠けている。彼は自らの行為の正当性を主張するためには、虚言や誇張を厭わない。雄弁ではあるけれども、事実を事実として見ない。彼の奇をてらう言説は国際社会に評価されなかった。ブレアをEUの大統領に推す者もいたが、ブレアの好戦性が厭われて反対する者も多く、EUの主要なポストに就くことは叶っていない。
2012年5月にマレーシアで開かれた民間法廷であるの戦争犯罪法廷は、イラク戦争を推進したブレアに対し、関係者であるブッシュ米元大統領、ラムズフェルド米元国防長官、チェイニー米元副大統領とともに「平和に対する罪」、「人道に対する罪」などで、有罪判決を下した。
国際調査報道ジャーナリスト連合・ICIJの調査によると、ブレア英首相は在任中には富裕者に対する増税の主張していたものの、退任後はタックスヘイブン・租税回避地に口座を開設して脱税を図っていたことが明らかされた。この事実は彼の二重人格性をよく表している。そのため、英国の首相を務めた経歴がありながら、EUの重要な地位に就くことは受け入れられていない。EU諸国の中から異議が出されたからである。
<参照;メージャー、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ自治州、EC・EUの対応、米国の対応>
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61, ブレジンスキー; ズビグニュー (Zbigniew Kazimierz Brzenski)
1928年3月28日、ポーランドのワルシャワで生まれる。ポーランド系ユダヤ人。ハーバード大学大学院で博士号を取得。政治学博士。学者。政治家。「ビルダーバーグ会議」の一員。
外交官であった父親がカナダに赴任した翌39年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したために、帰国できなくなる。1958年に米国に移住し、米国籍を取得する。60年、コロンビア大学教授となる。73年日米欧三極委員会の事務局長に就く。77年、カーター政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任し、対ソ強硬政策を推進した。社会主義国家を崩壊させるとともに、米国を覇権国家とすることに執念を燃やした。
ブレジンスキーはユーゴ連邦解体のシナリオを提示
ブレジンスキーは70年代後半にユーゴスラヴィア連邦解体計画を立案している。78年8月にスウェーデンで開かれた世界社会学会議で、アメリカからの参加者を前にユーゴスラヴィア連邦を解体させるための戦略政策について講演した。その内容は、「1,ソ連に対抗する力としてのユーゴスラヴィア中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的・民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。民族主義は、共産主義より強力である。2,ユーゴスラヴィアにおける反共産主義闘争において、マスメディア、映画制作、翻訳活動など文化的・イデオロギー領域に浸透する。3,共産主義的平等主義に反対する闘争において、ユーゴスラヴィアにおける『消費者的メンタリティ』を一層刺激する必要がある。4,ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いることができる。それ故に、ヨーロッパ共同体諸国の対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に保障される。5,ユーゴスラヴィアの様々な異論派グループを、ソ連やチェコスロヴァキアと同じやり方でシステマティックに支援すべきであり、世界に広く知らせるべきである。彼らが必ずしも反共産主義的である必要はなく、むしろ『プラクシス派』のような『人間主義者』の方がよい。アムネスティ・インタナショナルのような、国際組織を活用すべきである。6,Xディ(チトーの死)の後に、ユーゴスラヴィアの『軟化』に向け、組織的に取り組むべきである。民族間関係者が重要なファクターである。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟・SKJとユーゴスラヴィア連邦人民軍・JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJは、既に政治的独占を失っているし、JNAは、外敵には強いが内部からの攻撃には弱い。7,全人民防衛体制は諸刃の剣である」と語った。
IMFと世銀を通して新自由主義市場経済を導入
ブレジンスキーの政策は着実に実施に移され、スロヴェニアやクロアチアに民族主義者を台頭させた。さらに、IMFと世界銀行は、ユーゴ連邦に「ワシントン・コンセンサス」に基づく新自由主義市場経済政策を導入させた。特に、89年に連邦首相に就任したクロアチア人のマルコヴィチはこれを真正面から受け止め、戻ることが不可能な「ショック療法」に基づく急速な国営企業の民営化を実行したが、これがユーゴ連邦の経済を混乱させ、疲弊させた。ブレジンスキーが企図した民族主義者の醸成と新自由主義市場経済導入によるユーゴ連邦崩壊計画は効果を上げ、各共和国のユーゴ連邦への求心力を失わせ、分離独立への遠心力を強めることになった。
ブレジンスキーがユーゴスラヴィア内戦まで意識していたかどうかは明らかではないが、79年にアフガニスタン戦争を誘導したと認めたことなどを勘案すると、その程度のことは念頭にあったと推察できる。
ブレジンスキーのアフガニスタン関与策は、1970年代後半に親ソ連政権になっていたアフガニスタン政権を潰すためにサウジアラビアなどから資金や武器を提供させ、ムジャヒディーンと言われる戦闘員をパキスタンや米国で訓練して送り込み、ゲリラ戦を行なわせたというものである。アフガニスタンの親ソ政権は、この混乱を沈静化するためにソ連に援助を求めた。それを受け入れる形でソ連軍が1979年12月にアフガニスタンに侵攻した。戦闘は一進一退したが、米軍が携帯型のスティンガー・ミサイルを供与するに及び、戦局は一変し、ソ連軍は撤退を余儀なくされる。
ソ連軍の撤退後ムジャヒディーンの各グループによる連合政権が成立するが、まもなく勢力争いを始めたため再びアフガニスタンは戦乱の場となった。これを憂いた神学校の学生たちが立ち上がり、タリバンとしてムジャヒディーンの各グループを鎮圧してタリバン政権を樹立した。しかし、タリバン政権は米国の意のままにならない政権だった。それが、2001年に起こされた9/11事件後に、米軍がアフガニスタンに侵攻した理由である。
ブレジンスキーは後にインタビューに応え、「79年にソ連を弱体化するためにアフガニスタンに撹乱を起こしてソ連の侵攻を誘導し、ムジャヒディ-ンを訓練してアフガンに送り込んだ」と述べ、「アフガニスタンに混乱をもたらしたとしても、ソ連を崩壊させた利益に比べれば、それは明らかに有益だった」とも語っている。これがブレジンスキーの関与策である。
ブレジンスキーの最終シナリオはパックス・アメリカーナ
カーター政権の退陣後、ブレジンスキーは81年から戦略国際問題研究所・CSISの顧問となる。88年の大統領選挙では共和党のブッシュ候補を支持。89年1月、ブッシュ政権誕生とともに外交政策のブレーンとなる。08年の大統領選では、オバマ候補の外交問題の顧問を務めた。彼は学者でありながら策謀を好み、民主党であると共和党であるとにかかわらず、政権に入り込んだ。97年に、「アメリカがユーラシア大陸の天然資源を管理し、さらに世界は伝統的価値観に邪魔されることなくエリートたちによって支配され、個々の市民は1人ひとりの情報が管理され不断に監視されることになる」と述べている。ブレジンスキーは、米国が世界の支配者となることを目論見つつ、国際政治に関わり続けたのである。
1917年5月26日死去。89歳。
<参照;カーター、クリントン、ブッシュ、米国の対応>
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62, ベーカー; ジェームス (Baker; James Addison)
1930年4月28日、米テキサス州ヒューストンで生まれる。プリンストン大学卒。テキサス大学ロースクール卒。政治家。弁護
士。ヒューストンの弁護士事務所に勤務。ニクソンおよびブッシュの大統領選挙戦に参加。75年、ニクソン政権の商務長官に就任する。81年、レーガン政権で経済閣僚会議の国家安全保障会議委員。85年1月、財務長官。89年、ブッシュ政権で国務長官に就任する。92年8月から93年1月まで、ブッシュ大統領首席補佐官を務める。
ユーゴ連邦への強硬策を主張し続ける
ベーカー米国務長官は、ユーゴ紛争への介入に慎重だったブッシュ政権において強硬論を展開した。ボスニア政府のシライジッチ外相と頻繁に会い、彼と協調して米国のセルビア悪説に基づいた外交政策を推進した。92年4月に、スロヴェニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア共和国を一括承認し、翌5月には新ユーゴ連邦に対する制裁を国連安保理に提案し、「セルビアに対する経済的・外交的手段を尽くした時点で、多国間軍事行動に訴えるべき」と、早くも軍事力行使に言及した。
92年6月、上院でセルビア人勢力の行為は完全な非道であると決めつけ、新ユーゴ連邦に対して独自の経済制裁を強化する方針を述べている。EC和平会議のキャリントン議長や米元国務長官であったヴァンス国連特使が、紛争当事者のどちらにも責任があると述べていることとは対照的に、常に一方的にセルビア人勢力に非があると主張し続けた。
93年にブッシュが大統領選に敗れて退陣するとともに、政界から身を引く。のちにベーカーは、ブッシュ元大統領とともに軍事部門に特化した投資会社「カーライル・グループ」に身を置き、戦争で利益を上げることになる。
<参照;イーグルバーガー、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応>
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63, ボバン; マテ (Boban; Mate)
1940年、ボスニアに生まれる。ボスニアのクロアチア人。実業家。政治家。
「ボスニア・クロアチア民主同盟」はクロアチア共和国の下部組織
ボスニアのクロアチア人勢力の指導者で、ボスニアのクロアチア人居住地域をクロアチア共和国に併合するよう主張した民族主義強硬派である。ボスニアのクロアチア人勢力の政党である「クロアチア民主同盟」の結成に参加。ボスニアの「クロアチア民主同盟」は独立性を保持しているとはいえず、クロアチア共和国の「クロアチア民主同盟」の下部組織でしかない。ボスニアのクロアチア人勢力そのものがセルビア人勢力とは異なり、クロアチア共和国に従属した存在で、絶えずトゥジマン・クロアチア共和国大統領の指示を仰ぎ、それに従っていた。
1992年5月、クロアチア民主同盟は軍事組織「クロアチア防衛会議」を結成し、先に結成されていた極右民族主義者の民兵組織クロアチア防衛軍を解散させて吸収した。92年7月、ボスニアのクロアチア人勢力は、「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア自治区」を設立し、通貨はクロアチアのクローナを使用することを決める。
93年1月に提示された旧ユーゴ和平国際会議のヴァンス・オーエン両共同議長の裁定案は、ボスニアを非中央集権国家とし、10の州に分割するというものだった。ボバン率いるクロアチア人勢力は、受け入れを表明したが、セルビア人勢力は部分的な修正を要求し、ボスニア政府は拒否の姿勢を示した。93年8月、ボバンはヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言する。そして、議会はボバンを大統領に選出した。9月には再びボスニアを3分割し、権限を限定した中央政府を設置するとのオーエン・シュトルテンベルク両共同議長の裁定案が出された。ボバンのクロアチア人勢力とセルビア人勢力は受諾の意向を示したが、ムスリム人勢力のイゼトベゴヴィチ幹部会議議長が領土の範囲について条件を付けたため、まとまらなかった。
この間、ボバン率いる強硬派は、支配地域の拡大を目指してムスリム人が居住する村々を襲撃して追放し、殺害を実行してクロアチア人のみの村とした。93年5月には、モスタル市をクロアチア人共和国の臨時首都にするとの意図の下に、ムスリム人勢力を駆逐する目的で激しい攻撃を行ない、ネレトヴァ川に架かるすべての橋を砲撃で破壊した。このクロアチア人勢力軍による「古橋」破壊もセルビア人勢力によるものとして流布された。
強硬派のボバンは解任される
民主党のビル・クリントンは92年の大統領選に立候補した際、ユーゴ問題に対してセルビア悪を前提とした強硬策を主張していた。そして、大統領に当選するとそれを実行に移す介入策を立てた。ところが、ボスニアで直面したのはボスニア政府と、ボスニア・クロアチア人戦力との激しい戦闘だった。クリントン米政権はこれにはしばし戸惑ったが、セルビア悪を前提とした強硬策を改めることなく、「新戦略」を策定した。新戦略の概要は、ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力およびクロアチア共和国の3者に統合共同作戦を実行させて、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するというものであった。
新戦略の第1段階は、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、強硬派のマテ・ボバンを解任させた。そして、ボスニア・クロアチア人勢力とボスニア政府軍との戦闘を停止させる。その上で、3勢力の代表をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。
ワシントン協定は表向きの「ボスニア連邦」設立を合意させるためだけのものではなく、クロアチア共和国軍およびボスニアのクロアチア人勢力軍とボスニア政府軍との合同作戦によってセルビア人勢力を征圧することにあったから、強硬派のボバンが協議の障害になりかねないとして排除したのである。
ワシントン協定は、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力潰滅と弱体に重要な役割を果たすことになる。
ボバンは1997年に死去する。57歳。
<参照;クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、大クロアチア主義、ワシントン協定>
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64, ホルブルック; リチャード(Holbrooke; Richard・C・)
1941年4月、米ニューヨークに生まれる。ブラウン大学卒、プリンストン大学大学院修了。外交官。国務次官補。国連大使。
62年、国務省に入省する。ベトナム戦争のパリ和平交渉で米国次席代表を務める。72年、国務省を辞職し、「フォーリン・ポリシー」編集長となる。
インドネシアの東ティモール攻略を支援
1977年、カーター政権時に東アジア太平洋問題局長を務め、次のフォード政権時に始まったインドネシアのスハルト政権による東ティモール侵略とそれに続く虐殺に関与した。ホルブルックは議会で、「ティモールの人々の福祉は、我々の東ティモールに向けた政策の主要な目的である」と虚偽の証言を行なっただけでなく、インドネシア軍に反乱鎮圧用の高性能の航空機を供与し、東ティモール住民へのナパーム弾爆撃に支援を与える役割を担った。
国連安保理はインドネシアの東ティモール侵略と占領を非難する決議を採択し、オーストラリアの国会は「第2次大戦後における先例のない規模の無差別殺人の一つ」との報告書を公表した。しかし、ホルブルックたちの米政府チームがインドネシアを支援しているために、東ティモールへの侵略と虐殺を止めることはできなかった。93年6月、クリントン政権の駐ドイツ大使に就き、さらに欧州・カナダ担当国務次官補を務める。
ホルブルックは交渉ではなく威し役を担う
93年1月に発足したクリントン米政権は、セルビア悪を前提にしたセルビア人勢力を征圧する「新戦略」を策定し、これにホルブルックが深く関わっていた。
95年8月、クリントン米政権の新戦略に基づくクロアチア・セルビア人勢力一掃作戦である「嵐作戦」を発動する直前にクロアチアを訪問し、クロアチア共和国の嵐作戦にゴーサインを出した。さらにクロアチア共和国軍がボスニアに侵攻し、セルビア人勢力の拠点を攻撃することも容認した。承認を得たクロアチア共和国軍とボスニア政府軍は共同戦線を形成し、クロアチアのセルビア人勢力とボスニアのセルビア人勢力の支配地域およびムスリム人の反ボスニア政府アブディッチ派が樹立した「西ボスニア共和国」への大規模な攻撃を行なった。この一連の作戦には、米軍事請負会社MPRIおよび米CIAが関与していた。
NATO諸国とボスニア政府のセルビア人勢力の征圧計画は、ムスリム人勢力の自作自演であるマルカレ市場の爆破事件を口実にした、国連緊急展開部隊を巻き込んだNATO軍の「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」によって完成された。
ホルブルック米特使は、95年11月に行なわれたボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平交渉では、米国調停団代表としてデイトンにおける和平協定を成立させるための主要な役割を担った。ホルブルックはその後も米国内のアルバニア系ロビーとコンタクトをとり、セルビア共和国コソヴォ自治州のアルバニア系分離独立主義者の大アルバニア主義を支持し煽動し続けた。
98年2月、ゲルバード米特使がコソヴォ自治州を訪問し、コソヴォ解放軍・KLAをテロリスト組織だと言明する。セルビア共和国は、この発言をコソヴォ自治州における治安活動を容認するものと受け取り、治安部隊はKLAの鎮圧行動を取り始めた。ところが、6月になるとホルブルックが大統領特使としてベオグラードを訪問し、ミロシェヴィチ大統領にコソヴォ問題の譲歩を迫るとともに、CIAの手引きでコソヴォ解放軍・KLAにも接触し、ゲルバード特使の前言を翻して「自由の戦士」として称揚した。ホルブルックの認知によって、国際社会はセルビア治安部隊の鎮圧行動を民族迫害だと激しく非難し始め、国連安保理は再び武器禁輸や経済制裁決議を採択する。
セルビアを屈服させるための画策をしたホルブルック
ホルブルック特使は、その後も度々ベオグラードを訪れてミロシェヴィチ・ユーゴ大統領と会談。コソヴォ解放軍との戦闘の停止、欧州安保協力機構・OSCEの停戦監視団の派遣受け入れ条件を合意させた。OSCEはこれを受け、速やかにコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織して先遣隊を送り込むことを決める。しかし、KVMの団長にウィリアム・ウォーカー駐エルサルバドル米元大使を任命したことで、OSCE停戦合意検証団の役割が決定づけられた。ウォーカー団長はコソヴォ自治州に入ると、すぐさまラチャク村の虐殺事件を捏造し、セルビア悪を再び世界に印象づけ、直ちにNATO軍による空爆が不可欠だとの雰囲気を作り上げた。
しかしこのときは、米・英・独・仏・伊・露の6ヵ国で構成した連絡調整グループによる「ランブイエ和平交渉」が行なわれることになり、NATO軍の軍事作戦は回避された。交渉は、コソヴォ解放軍のタチ団長がコソヴォの独立を強行に主張し、セルビア共和国は王国揺籃の地を手放すことは論外だと主張したために難航を極めた。しかし、交渉担当官の尽力で和平の兆しが見え始めたとき、途中からオルブライト米国務長官が交渉に介入して主導し始めた。
オルブライト米国務長官は、NATOの軍事行動に積極的だったブレア英首相以外の連絡調整グループの国々に知らせることなく、コソヴォ自治州の独立の確保に固執するコソヴォ解放軍の政治局長だったタチ団長を言いくるめて和平案に署名させる。一方、ユーゴ連邦側には「NATO軍をユーゴスラヴィア連邦全土に駐留させ、その費用の一部を負担させる」という軍事条項の「付帯条項B」を突きつけた。ユーゴ連邦がこのような占領条項を受け入れるはずもなく、交渉は決裂する。オルブライト米国務長官は付帯条項Bの存在を隠蔽した上で、交渉決裂の責任を全てユーゴ連邦側に被せて、NATO軍の空爆へと誘導した。
しかし、なおクリントン米大統領はNATO軍の空爆の実行に躊躇していた。クリントン大統領を説得したのが、ホルブルック特使とブレア英首相である。ホルブルックは、「NATO軍が空爆すれば、ミロシェヴィチ大統領は72時間で降服する」と進言した。クリントン米大統領はその進言を信じてNATO軍の空爆を決断したといわれる。しかし、ホルブルックの根拠のない進言は外れ、空爆が78日間も続けられることになる。そのために、ユーゴ連邦のインフラと主要な産業と施設は破壊され、甚大な被害を与えた。
結果として、ユーゴ連邦を屈服させたことが功績として評価したのか、クリントン米大統領はホルブルックを99年から01年まで国連大使に任命した。その後、ホルブルックは、世界130ヵ国で活動する保険、金融、投資グループAIGの重役に就く。また、CIAの外郭団体である民主主義基金・NEDの理事も勤める。09年1月には、オバマ政権によってアフガニスタン問題担当特使に任命されるというように重用された。
<参照;ウォーカー、クリントン、オルブライト、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ自治州、米国の対応>
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65, マッケンジー; ルイス (Mackenzie; Lewis Wharton)
1940年、カナダ・ノバスコシア州で生まれる。マニトバ大学卒。カナダ陸軍指揮・幕僚大学卒。軍人。カナダ軍の将軍。
カナダ軍に入り、中東のパレスチナ・ガザ地区、キプロス、中米ニカラグアなどの9件のPKOに従事し、国連中米監視団の司令官をも歴任した。
国連保護軍司令官として率直に任務を遂行
92年5月、旧ユーゴスラヴィアに派遣された国連保護軍・UNPROFORサラエヴォ司令官に就任する。6月には、ミッテラン・フランス大統領のサラエヴォ電撃訪問を成功させ、ボスニア・セルビア人勢力を空港から撤退させるとともに、空港を利用した食糧輸送を保証させた。
マッケンジー将軍は、NATO軍の軍事力による解決には批判的で、ユーゴスラヴィア紛争は外交努力によるべきだと主張していた。気さくな性格だったこともあり、メディアの受けは良かった。だが、「悪いのはセルビア人だけではない。戦っている全ての勢力に問題がある」と率直に語り、また、「セルビア人の残虐行為説の中には、『ライオンの檻にムスリムの赤ちゃんが投げ込まれている』などという根も葉もない、荒唐無稽なものが多かった」と発言した。だが、時の「セルビア悪」の風潮の中で、マッケンジー将軍の率直な発言は受け入れられず、批判の標的にされることになる。
公平さを批判の標的にした米PR会社
92年9月、マッケンジー将軍はボスニアの国連保護軍の任務を終えてカナダに帰任する途中に国連本部で記者会見を開いた。その際、当時非難の種になっていたセルビア人勢力の「強制収容所」について質問された。これに対しマッケンジー将軍は率直に、「何一つ知りません。私が知っているのは、モスリム人とセルビア人の双方が、相手の側にこそそういう収容所があるといって互いに批判しているということだけです」と答えた。将軍は実態を公平な視点で語ったにすぎず、メディアはこれを受け入れたかに見えた。これに陰湿な形で反撃を加えたのが、ボスニア政府と契約していた米PR会社のルーダー・フィンだった。ボスニア政府の外交文書の形式をとり、マッケンジー将軍の発言が事実に反すると抗議したのである。さらにルーダー・フィンは、米連邦上下両院議員およびメディアにも反論のための情報を流した。その上、マッケンジー将軍が「収容所に入れられたムスリム人の女性をレイプした」とか、「マッケンジー将軍の妻はセルビア人だからだ」などという根も葉もない悪質な噂を流した。ルーダー・フィンのプロパガンダは効を奏し、マッケンジー将軍の発言はアメリカのメディアの標的となり、囂々たる非難が浴びせられることになる。ボスニア政府は、ルーダー・フィンのプロパガンダに正当性を付与させることを目的に、マッケンジー将軍をムスリム人女性レイプ事件としてICTYに提訴する。
マッケンジーの失脚は歪められたユーゴ連邦解体戦争の象徴
こうした非難に晒されたマッケンジー将軍は、カナダに帰任してからも労をねぎらわれることなく批判の標的にされた。そのため、93年3月にカナダ軍からの退役を余儀なくされる。カナダの軍人として、多くの任期を国連PKOに真摯に従事してきたマッケンジー将軍に、ありもしない非難を浴びせて辞任に追い込んでしまった世界の対応にこそ、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の歪められた本質が表れている。
のちに、マッケンジーはICTYの証人として出廷し、スレブレニツァの事件に関して8000人虐殺説に疑問があると証言している。マケンジー将軍はのちに教師の職に就いている。
<参照;モリヨン、米国のPR会社、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、国連の対応>
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66, マルコヴィチ; アンテ(Markovic; Ante)
1924年、ボスニアに生まれる。クロアチア人。経済学者。政治家。新自由主義市場経済派のリベラリスト。
ユーゴ連邦最後の首相として新自由主義市場経済政策を導入
89年3月、クロアチア幹部会議長から旧ユーゴスラヴィア連邦最後となる連邦首相に就任する。IMFや世界銀行は、マルコヴィチ連邦首相に市場原理主義に基づく「ワシントン・コンセンサス」の経済政策の導入と推進を要請した。マルコヴィチはそれを受容して忠実に実行し、「ショック療法」による市場経済政策を実施し、財政支出の削減、国営企業の民営化、企業の整理統廃合、金融機関の統合と民営化、平価切り下げなどを立て続けに実施した。一時期、インフレが抑制されたことで、彼の経済政策は成功するかに見えた。しかし、財政支出の削減、企業の整理統合、国営企業の民営化による解雇などで経済は著しい停滞を招いた。そのためユーゴ連邦内の各共和国に不満が醸成され、連邦への求心力を失わせる要因の一つとなった。
マルコヴィチはユーゴ連邦維持に傾注
マルコヴィチは90年に「ユーゴスラヴィア改革勢力同盟」を結成し、連邦政府の権限強化などの改革を訴えたが、90年の議会選挙で改革勢力同盟は敗北した。マルコヴィチはクロアチア人とはいえ、トゥジマン政権の強硬なクロアチア分離独立の行動とは異なり、初期にはユーゴ連邦の統一維持に力を傾注した。
マルコヴィチは90年11月、スロヴェニア、クロアチア、セルビア各共和国が独自にユーゴ連邦の規定を超える共和国憲法や法律を制定したことに対し、連邦憲法裁判所に判断を求めて違憲判決を引き出すという努力をした。さらに、クロアチアが独立宣言をする前日の91年6月24日のクロアチア議会に出席し、「ユーゴ連邦の解体は、生産力を半減させた上で大量の失業者と社会不安をもたらす」と演説して、クロアチア共和国のユーゴ連邦からの分離独立を思いとどまるよう警告した。しかし、クロアチア議会はマルコヴィチ連邦首相の発言を、野次り、嘲笑し、罵倒して一蹴した。
翌6月25日、クロアチア共和国とスロヴェニア共和国が独立を宣言し、スロヴェニアが連邦政府の重要施設である関税事務所や国境監視所などを武力で接収すると、連邦政府の権限を護るためにユーゴ連邦幹部会にも諮らず、連邦人民軍にその施設の回復を指示した。このマルコヴィチ連邦首相の独断専行を、西側諸国はミロシェヴィチ大統領の強権主義として捉え、恰好のセルビア非難の材料としたのである。
91年12月、スロヴェニアおよびクロアチアの分離独立の動向とユーゴ連邦幹部会との対立に巻き込まれ、マルコヴィチは連邦首相を辞任する。クロアチア人としてのマルコヴィチは連邦を維持すべきだとの考えを抱いていたが、もはや連邦を維持することは困難だと判断したための辞任である。マルコヴィチが実施した経済政策は、ユーゴ連邦を維持し発展させるために、IMFや世界銀行の政策を信じて実行したのだった。しかし、インフレは一時的に鎮静化させたものの、経済を混乱させ、連邦への求心力を失わせたのみに終わった。マルコヴィチは、ナイーブにも欧米が押し付けた新自由主義市場経済を妄信するという過ちを冒したのである。
<参照;ユーゴ連邦の社会・経済政策、チョスドフスキーの「貧困の世界化」>
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67, ミッテラン; フランソワ (Francois Maurice Adren Marie Mitterrand)
1916年10月26日、フランスのシャラント県に生まれる。パリ大学法学部卒。パリ政治学院(自由政治科学学院)卒。弁護士。社会党員。政治家。
1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦が始まる。英・仏は9月3日にナチス・ドイツに宣戦布告するが、有効な戦線を構築することができないでいた。それを見透かしたナチス・ドイツは40年5月にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻し宣戦布告に伴って大陸に派遣していた英国軍をフランス領ダンケルクから追い落とし、6月にはフランスの要塞マジノ線を迂回する形でパリに入城して勝利を宣言した。フランス政府はロンドンに亡命し、またペタン元帥がナチス・ドイツの傀儡としてのヴィシー政権を樹立するという分裂状態に陥った。
ミッテランは、フランスが第2次大戦の参戦するとともに軍隊に召集されて前線に送られるが、負傷してナチス・ドイツ軍の捕虜となる。41年に脱走を図るが失敗し、41年12月に3度目の脱走を試みて成功した。そして、対ナチス・ドイツ・レジスタンスで活動する。そののち、ナチス・ドイツ傀儡政権のヴィシー政権に加わって勲章を授与されるほどの働きをした。しかし、再び対ナチス・ドイツ・レジスタンス運動に参加。のちロンドンに脱出してド・ゴールの自由フランスの臨時政府に加わった。
大戦後の1946年、下院議員となり民主社会主義抵抗同盟を指導。その後内相、国務相、情報相などを歴任した。58年、自由フランス軍を率いてフランスを勝利に導いたド・ゴール将軍が政界復帰を宣言すると、戦時の自由フランス臨時政府に加わっていたにもかかわらず反対を表明した。しかし、ド・ゴール将軍の人気は圧倒的で、1959年に大統領に就任する。ミッテランは1965年の大統領選に立候補し、ド・ゴールと決選投票を争うが敗れる。
71年6月、社会党の結成に参加し、第1書記に就任。81年5月、保守派のジスカール・デスタンと大統領選を争って勝利し、フランス共和国の第21代大統領に就任する。ミッテランは大統領に就任すると共産党との連立内閣を組織し、死刑制度の廃止、法定労働時間の削減、有給休暇の拡大、私企業の国有化などの社会主義的政策を採った。88年5月の大統領選では、ジャック・シラクと大統領を争うが再選を果たした。
EC統合を推進するためにドイツの強硬策に妥協する
ミッテランはユーゴ紛争への介入には慎重であった。しかし、EC統合のためにドイツと協調せざるを得なかったため、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国の分離独立に関してはドイツに引きずられて承認してしまう。92年6月、EC諸国の首脳としては初めて紛争地のボスニアを訪問し、国連保護軍のマッケンジー司令官の説明を受けた上で、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領およびセルビア人勢力のコリェヴィチ共和国幹部会員と会談した。この帰途に、サラエヴォ空港で銃撃を受ける。ムスリム人勢力からの銃撃の疑いが持たれた事件である。
93年1月、フランスはNATO軍の軍事行動に協調し、空母クレマンソーの艦隊をアドリア海に派遣する。しかし、米国のボスニア支援策としての航空機からの援助物資投下作戦には疑問を投げかけ、米政府がボスニア政府への武器禁輸解除を安保理に提出した案件には反対の意向を貫き通した。
この間、1993年11月には西ドイツのコール首相とともに欧州共同体・ECを欧州連合・EUとすることを推進した。
フランスはEC・EU諸国の中心的な国として、他の国々との協調を余儀なくされたが、その中でミッテランは紛争当事国やNATOの一方的な情報をそのまま受け入れるのではなく、可能な限り自らの観察によって事態を見極めようとする姿勢が見てとれる。
フランスの知識人の中のベルナール・レビやグリュックスマンたちはグループを構成し、ムスリム人の側に立つことを要求してミッテラン大統領や政府の対応を批判したが、このような知識人はフランスに少なからず存在した。にもかかわらず、ミッテランは軍事行動を優先するのではなく、交渉による和平を実現させようとした提言を繰り返した。
95年5月大統領を退任。96年1月8日、癌で死去する。
<参照;シラク、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、EC・EUの対応>
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68, ミロシェヴィチ; スロボダン (Milosevic; Slobodan)
1941年8月20日、セルビア東部のポジャレヴァツに生まれる。ベオグラード大学法学部卒。実業家。政治家。
1959年、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟に入党する。最初はガス会社や銀行などで実業家の道を歩み、ベオグラード銀行の頭取を務める。のちにセルビア共和国大統領となるイヴァン・スタンボリッチに誘われ、政治の世界に踏み入る。1984年、共産主義者同盟ベオグラード市委員会議長となる。1987年、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長に就く。1989年5月、セルビア共和国幹部会議長(大統領)に就任。1997年7月、新ユーゴ連邦大統領に選出される。
コソヴォ自治州の権限縮小で台頭
ミロシェヴィチが脚光を浴びるのは、セルビア共和国コソヴォ自治州において、アルバニア系住民とセルビア人住民の間で摩擦が絶えなかったことから、両者間の調停を図るためにスタンボリッチの代行として87年4月にコソヴォ自治州に赴いてからである。このとき、ミロシェヴィチが目にしたのは、コソヴォ自治州では少数民族のセルビア人のデモ隊を、多数派のアルバニア系警官が棍棒で追い散らすという状景だった。彼は、この状態を変えるためにはコソヴォ自治州の権限を縮小し、セルビア共和国に権限を集中させる必要があると主張した。しかし、スタンボリッチ・セルビア幹部会議長が反対したため、大衆を動員して彼を88年12月に辞任に追い込み、セルビア共和国の幹部会議長となる。ミロシェヴィチは幹部会議長に就任すると、コソヴォ自治州の権限を縮小する「修正セルビア共和国憲法」に取り組み、89年に成立させた。
直後の89年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義圏は雪崩を討つように社会主義制度を蜂起した。余波を受けたユーゴスラヴィア連邦も、複数政党制を導入せざるを得なくなる。90年1月に開かれたユーゴ連邦共産主義者同盟の第14回臨時党大会で連邦制を維持するか独立共和国の連合国家とするかで激論が交わされ、スロヴェニアのクチャン幹部会議長ら退席したことによって、ユーゴ連邦共産主義者同盟は事実上崩壊した。ミロシェヴィチはこのとき、スロヴェニアのユーゴ連邦からの離脱を許容しつつ、クロアチアさえ離脱しなければユーゴ連邦の維持は可能だと考えていた。クロアチア代表にそのことを伝えると、クロアチア代表は、曖昧な言葉しか返さなかった。
ミロシェヴィチはユーゴスラヴィア連邦の維持を希求
1990年7月、セルビア共和国にも複数政党制が導入されたことに伴い、セルビア共産主義者同盟はセルビア社会党と改組され、ミロシェヴィチが党首になる。そして、12月に行なわれた大統領選挙で、ミロシェヴィチはセルビア共和国の大統領に選出された。
91年6月25日、スロヴェニアとクロアチアの両共和国が独立を宣言したことが契機となり、ユ-ゴスラヴィア連邦の解体戦争が始まる。ミロシェヴィチ・セルビア大統領がユーゴスラヴィア連邦の解体過程で拘ったのは、縮小した形であれ連邦を維持することであった。ユーゴ連邦の各共和国首脳やNATO諸国が喧伝した、ミロシェヴィチが「大セルビア主義」を目指したことが内戦を誘発したとの主張は根拠に乏しい。「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」において、ミロシェヴィチの政敵でもあったシェシェリ急進党党首は、「自分たちは大セルビア主義を唱えたが、ミロシェヴィチや彼の所属するセルビア社会党が、『大セルビア主義』を唱えたことはなく、むしろ否定的だった」と証言しているように、元来、社会主義者は民族主義に親和性がない。
ミロシェヴィチは冷徹な合理主義者だった
彼は政治的手腕にたけており、それを駆使してユーゴスラヴィアの政治の世界で上り詰めたのだが、冷徹な合理主義者でもあり、民族主義的な情に溺れることはなかった。92年6月、新ユーゴ連邦の有力幹部たちが局面を打開するためにアメリカ在住の実業家パニッチに連邦首相への就任を要請した際、パニッチがミロシェヴィチとその側近の辞任を条件としたにもかかわらず、パニッチを排除するようなことはしていない。その後、パニッチはユーゴスラヴィアに移住し、新ユーゴ連邦の首相に就任した。新ユーゴ連邦に利益をもたらすのであれば、敵対的な者も容認するというところにミロシェヴィチの合理性がみられる。
ユーゴスラヴィア連邦の統一形態が望み薄と認識してからは、クロアチアおよびボスニアのセルビア人保護に転換し、さらに状況がそれを許さないと判断すると、セルビア共和国とモンテネグロ共和国で構成する新ユーゴ連邦の維持に専念した。彼の冷徹ともいえる合理的性格は、クロアチアのセルビア人勢力がクロアチアから分離独立して新ユーゴ連邦に入ることを画策した際にも、それを肯んじなかった。また、ボスニア内戦においてもボスニアのセルビア人勢力を無条件に支持するようなことはなかった。93年5月にボスニアのセルビア人勢力がヴァンス・オーエン裁定案の受諾を拒否した際、ミロシェヴィチ・セルビア大統領はボスニア・セルビア人勢力への支援を停止すると宣言した。戦闘状態を終結させたかったからである。
95年5月から8月にかけてクロアチア共和国軍が「稲妻作戦」と「嵐作戦」を発動し、セルビア人をクロアチアから一掃する軍事行動を実行した際にも、ミロシェヴィチ・セルビア大統領はこの救援に赴こうともしなかった。
彼が最優先順位にしたのは、ボスニア内戦を速やかに終結させ、新ユーゴ連邦が受けている経済制裁を解除させることであり、経済制裁による国民の困窮を見過ごせなかったからである。旧ユーゴ連邦内の全てのセルビア人が孤立無援となっている中で、自らの統治のおよぶ範囲の利益のためには、同じ民族であれ見捨てることを敢えて選択するところに冷徹といえる合理性が見られる。
西側の意図に奉仕したデイトン和平交渉におけるミロシェヴィチ
ボスニア和平交渉は米オハイオ州のデイトン空軍基地で行なわれたが、ボスニアのセルビア人勢力の代表は旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYから起訴されていたこともあって、ミロシェヴィチ・セルビア大統領が彼らの利益を代弁した。ミロシェヴィチはこのとき、首都サラエヴォをムスリム人側に与えるとして、25%を占めたセルビア人住民の居住権を放棄させた。さらに、ムスリム人勢力の飛び地だった南部のゴラジュデやジェパ、スレブレニツァに至る大幅な回廊の設定にも協力した。ムスリム人勢力の要求にあまりに譲歩しすぎてセルビア人勢力の領域が大幅に削減されたため、「ボスニア連邦」が51%、「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」が49%の分割であるべきところ、「ボスニア連邦」が55%、スルプスカ共和国」が45%となってしまったほどである。ミロシェヴィチにとっては、ボスニアのセルビア人の権益よりも、新ユーゴ連邦の経済制裁解除などの国益を優先して譲歩を重ねたのである。
96年、セルビアとモンテネグロで構成している新ユーゴ連邦議会の下院選挙でセルビア社会党が圧勝し、97年に新ユーゴ連邦議会がミロシェヴィチを連邦大統領に選出した。彼が政治的地位に固執した意図は必ずしも明らかではないが、当時の状況下で自らの政治的能力を過信したともいえ、彼を支えた周囲の意向もあったと見られる。
コソヴォ・メトヒャはセルビアの揺籃の地で放棄はできない
99年のNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」を78日間も耐えたことで、新ユーゴスラヴィア連邦は甚大な被害を受けた。合理性から思量すれば、この忍耐は不条理といえるが、それだけコソヴォの地はセルビア人にとって記念碑的揺籃の地で切り離し難い地域であることを示している。しかし、彼の合理性は理解されることなく、支持基盤は崩れていった。
旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは、NATO軍の空爆の最中の99年5月にミロシェヴィチ大統領がコソヴォ自治州からアルバニア系住民を迫害して民族浄化を図ったとして起訴する。起訴事由のほとんどが、NATO軍が空爆を開始してからの事象だったことから、その事由の正当性には疑いが持たれた。
ミロシェヴィチを戦争犯罪者にすることは西側諸国の既定路線だった
ミロシェヴィチは、支持基盤の確立を図るために00年9月にユーゴ連邦大統領選を前倒しして実施した。しかし、野党統一候補のコシュトニツァに敗れる。大統領選に敗れて権力を失ったミロシェヴィチは、親欧米派のジンジッチ首相の画策で西側の経済援助と引き換えに01年4月に逮捕され、セルビアの憲法裁判所における審議中にジンジッチ首相の権限で米軍基地に移送され、英軍の協力のもとにヘリコプターでハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに強制移送された。
西側諸国にとってセルビア悪とミロシェヴィチ悪は同義語であり、彼を戦争犯罪者としてICTYで裁くことは、ICTYを設置した時からの目標であった。しかし、クロアチア内戦およびボスニア内戦で彼の戦争犯罪を立証する証拠を見出すことは困難であった。だからこそ、コソヴォ紛争で彼を犯罪者に仕立て上げることは、いわば既定の路線だったのである。
ICTYは公平を装うこともなくミロシェヴィチ断罪を目標としていた
そのため、ICTYのミロシェヴィチ前大統領に対する起訴事由は、99年のNATO軍の「アライド・フォース作戦」実行中のコソヴォにおけるアルバニア人に対する迫害に関するものとなった。しかし、犯罪事実を立証する証拠が存在しなかったことから証人の尋問による証言を積み重ねることとせざるを得ず、01年7月に始められたICTYの審理は295人の証人尋問を5年間にわたって続けることに費やされた。このように、公判廷におけるICTYの訴訟指揮は、予断と偏見に満ちた確証バイアスと称されるものが前提とされていた。ミロシェヴィチ側の弁護を担当したカナダ人のエドワード・グリーンスパン弁護士は、ミロシェヴィチ裁判の初期の記録を検討した後、「ハーグでは、正義は明らかに、また疑いもなくなされていないと見られる。裁判長のリチャード・メイは、公平な振りさえしない。実際に関心のある振りさえしない。彼は明白にミロシェヴィチを非難する。結果は確実だ。それは見せ物裁判である。これはリンチである」と非難した。
ICTYは人権を無視しミロシェヴィチを獄死させた
裁判は戦争犯罪が立証されないまま継続されていたが、有罪を前提にしたICTYの訴訟指揮の中で、持病の心臓病が悪化したために求めた外部の専門医の治療は、仮病として拒否された。ロシア政府が身元の保証をした上で治療を申し出たが、これも受け入れられずに獄中に放置され、06年3月に誰に見とられることもなく獄死した。65歳であった。
ICTYにおけるミロシェヴィチ元大統領の扱いを見ると、EUおよび米国の人道主義や人権に対する基準は、偏見の付きまとう危うい論理の上に構成されていると理解される。ともあれ、ミロシェヴィチ元大統領が死去したことにより、ユーゴ連邦解体戦争の真実は覆い隠されることとなった。ミロシェヴィチ元大統領が死去してからおよそ1年後の07年2月、国際司法裁判所・ICJは、ボスニア内戦時のセルビア共和国政府の関与について、「国家的ジェノサイドとは認定出来ない」との判断を示した。この判断によって、ミロシェヴィチ元大統領に対する旧ユーゴ国際戦犯法廷の起訴事由の「ジェノサイドの罪」は消滅したことになる。このICJの判断を見ても、ICTYが極めて政治的な思惑でミロシェヴィチを断罪しようとしていたことが理解される。
<参照;アーバー、デル・ポンテ、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY、ユーゴスラヴィア連邦>
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69, ムラディッチ; ラトコ (Mladic; Ratko)
1942年3月12日、ボスニアのサラエヴォ近くのボジャノヴィチ村で生まれる。セルビア人。軍人。ユーゴ連邦人民軍に30年間在籍。
父親は第2次大戦中、クロアチアのファシズム・ウスタシャとの戦闘で戦死した。この体験が、ムラディッチにウスタシャに対するセルビア人共通の民族感情を残置させた。
ユーゴ連邦人民軍の司令官からボスニア・セルビア人勢力の司令官へ
ムラディッチは、91年にスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言したことで、クロアチア共和国軍とセルビア人勢力軍との間に武力衝突が始まった時期には、クロアチア内にあるユーゴ連邦人民軍クニン師団の司令官を務めていた。92年3月にボスニアが分離独立のための住民投票を実施した際には、ユーゴ連邦人民軍ボスニア駐屯の第2軍管区の副司令官の地位にあった。92年5月、ボスニアで3民族勢力による武力衝突が激化すると、ユーゴ連邦人民軍は西側諸国の非難を浴びてボスニアから撤退し、ユーゴ連邦軍と改組する。ムラディッチはボスニアに残留し、セルビア人勢力軍の総司令官に任命された。ムラディッチはこれ以降のボスニア内戦で戦闘を有利に導き、セルビア人勢力の支配地域を拡大したことで、部下の信頼は篤かった。
軍司令官として強硬な姿勢を示すようになる
ムラディッチ司令官はミロシェヴィチ・セルビア大統領の考え方に近く、ボスニア・セルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ大統領とは対立することが多かった。しかし、戦闘を継続する過程で次第に戦況そのものに拘り、目前の利害を追求する姿勢を示すようになる。93年5月のヴァンス・オーエン裁定案の受け入れをセルビア人勢力が拒否したのは、セルビア人勢力の大勢がその受諾を肯定しない雰囲気の中にあったにせよ、ムラディッチがセルビア人勢力議会(スルプスカ共和国議会)で強硬に反対したからである。このことが、ボスニア和平の機会を失わせ、セルビア人勢力側に汚点を残すことになった。モンテネグロのブラトヴィチ大統領をして、「当初は彼を尊敬していたが、次第に頑なになって人が変わってしまった」と慨嘆させたのはこのようなことがあったからだ。
この間、ボスニアではセルビア人勢力とボスニア政府軍の間の戦闘にとどまらず、クロアチア人勢力とボスニア政府軍との間での戦闘も激化していた。クリントン米政権はセルビア悪に基づいてセルビア人勢力を屈服させることで旧ユーゴスラヴィア内戦を終結させる意図を抱いていたから、クロアチア人勢力とボスニア政府軍との間の戦闘は不都合な事態といえた。そこで、米政府は「新戦略」を策定し、クロアチア共和国およびボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。ワシントン協定は「1,ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力と出ボスニア連邦を校正する。2,そのボスニア連邦とクロアチア共和国が連合国家を形成するための準備協定に合意する」ものと公表された。しかし、実質的な内容は、クロアチア共和国とボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力との3者で統合共同作戦を実施してクロアチア・セルビア人勢力とボスニア・セルビア人勢力を征圧するというものであった。
ムラディッチ司令官は米国の新戦略の意味を理解していなかった
95年5月に始められたクロアチア共和国軍の「稲妻作戦」は、ワシントン協定に基づくクロアチア共和国軍とボスニア政府軍の統合共同作戦であり、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力に対する大規模な掃討作戦の端緒となるものだった。このクロアチア共和国軍の軍事作戦の重大性をムラディッチ総司令官は十分に認識していなかったようにみえる。クロアチア共和国軍とボスニア政府軍が共同作戦を展開し始めていたことが明白であるにもかかわらず、ムラディッチはボスニア北西部のクロアチアのセルビア人勢力への支援よりも、東南部のスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデの制圧に拘っていた。7月6日、ムラディッチ率いるセルビア人勢力軍のドリナ軍団は、ボスニア南東部を制圧する「クリバヤ95作戦」を発動し、スレブレニツァを占領した。この時に、スレブレニツァ虐殺事件が起こったとされている。
95年8月4日、クロアチア共和国軍はセルビア人勢力の一掃を企図した大規模な「嵐作戦」を、ボスニア政府軍と共同で開始した。その当日、カラジッチ・スルプスカ大統領はムラディッチ総司令官を解任する。クロアチア共和国軍とボスニア政府軍が大規模な共同作戦を展開している最中の総司令官の解任は、軍事的な混乱を招く失策になりかねない。しかし、カラジッチが敢えてそれを実行したのは、ムラディッチが大局を見失っていたことと無関係ではない。議会はカラジッチの解任方針を支持したが、部下の軍人たちはムラディチを支持し、将校たちの巻き返しが効を奏してムラディッチは総司令官に復帰した。
ムラディッチとカラジッチ抜きのボスニア和平交渉
8月28日にマルカレ市場の砲撃事件が起こされると、NATO軍はセルビア人勢力が行なったと即断して「デリバリット・フォース作戦」を発動した。そのため、ボスニアのセルビア人勢力はクロアチア共和国軍とボスニア・クロアチア人勢力軍およびボスニア政府軍、ならびにNATO加盟諸国で編制されていた国連緊急展開部隊の5者と戦わなければならなくなった。しかし、最早クロアチア共和国軍とボスニア政府軍の共同作戦に対抗しうるだけの力はセルビア人勢力に残っていなかった。NATO軍はボスニアのセルビア人勢力を屈服させた上で、11月に米国主導の「デイトン和平交渉」を開くが、カラジッチとムラディッチはICTYが起訴して指名手配となっていたため、参加することはなかった。
ICTYはムラディッチとカラジッチを2つの戦争犯罪で起訴している。1つは95年4月に起訴したボスニア戦争全般についての戦争犯罪であり、もう1つは95年11月に追起訴した95年7月のスレブレニツァ占領の際に虐殺が行なわれたとする戦争犯罪容疑である。このいずれについても、ICTYは起訴した段階で戦争犯罪に該当する証拠を掌握していたわけではない。
ムラディッチとカラジッチは、ICTYの起訴を否認して出頭しなかったが、カラジッチは96年6月に国際社会の圧力を受けて大統領を辞任して引退した。それ以後、ムラディッチとカラジッチの消息は一時期途絶えたが、カラジッチは08年にベオグラードで逮捕され、ムラディッチは11年5月に逮捕され、ICTYで裁かれることになった。ICTYは、罪状のいずれをも認め、2017年11月に終身刑を言い渡した。
<参照;ミロシェヴィチ、カラジッチ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ICTY、スレブレニツァ事件>
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70, メシッチ; スティペ(Mesic; Stipe)
1934年12月、クロアチアのオラホヴァツに生まれる。クロアチア人。ザグレブ大学法学部卒業。法律家。政治家。
1966年、ユーゴスラヴィア連邦クロアチア共和国議員に当選。71年、民主化運動「クロアチアの春」に参加したため投獄され、共産主義者同盟からも除名される。89年、トゥジマンが結成した民族主義政党「クロアチア民主同盟・HDZ」の設立に参加する。90年5月の複数政党制による選挙でHDZは圧勝し、メシッチはトゥジマン大統領政権下のクロアチア共和国首相に就任し、クロアチア共和国の分離独立をトゥジマン大統領と共に推進する。
クロアチアの分離独立推進が忌避されて連邦幹部会議長に選ばれず
90年8月にユーゴスラヴィア連邦幹部会に転出し、連邦幹部会副議長に就任する。ユーゴ連邦幹部会議長は、チトー亡き後の連邦体制維持を図るために1年ごとの輪番制を採ることになっており、順序からすれば91年5月にはクロアチアのメシッチが次期の連邦幹部会議長に就く予定になっていた。しかし、当時はクロアチアとスロヴェニアがユーゴ連邦からの分離独立を図っていたために、クロアチアの幹部会議長が連邦幹部会議長に就くとそれを促進しかねないと危惧したセルビア共和国やモンテネグロ共和国などの幹部会議長が反対票を投じた。そのため、幹部会議長を選任する際に必要な過半数の5票を獲得できず、メシッチは連邦幹部会議長への就任を阻まれた。
スロヴェニア共和国とクロアチア共和国は委細構わず、91年6月25日にユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。直後の7月1日に、連邦幹部会はようやくメシッチの幹部会議長就任を認めた。欧州共同体・ECの仲介によって、スロヴェニアとクロアチア両国が独立宣言を3ヵ月間凍結することに合意する。凍結によって連邦がひとまず維持されたことで、メシッチは連邦政府の権限維持を認める態度を示した。しかし、独立宣言凍結期間が過ぎると、ドイツとバチカン市国の強引な独立承認に引きずられ、92年1月15日にはEC諸国がクロアチアの独立を承認したため、メシッチは連邦幹部会議長の職務を放擲してクロアチア共和国に戻り、下院議長となった。
トゥジマンのボスニア内戦介入を批判して排除される
メシッチはトゥジマンの右派に対してリベラル派に属していたが、彼はトゥジマンが主導したクロアチア共和国の分離独立の行動に際し、側近としてトゥジマンを支えてきた。しかし、94年に入ってトゥジマン大統領のボスニア紛争介入を批判したために抜き差しならぬ対立をきたすことになった。メシッチは、トゥジマンからクロアチア民主同盟の幹部会員から追放され、さらに下院議長からも解任されたため離党して「独立民主党」を結成して党首となる。
旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYで証人に立っているが、トゥジマン政権に不利な証言を行なう。99年にトゥジマン大統領が死去した後の選挙でクロアチア共和国大統領に当選し、00年2月に就任した。
<参照;トゥジマン、クロアチア、ユーゴスラヴィア連邦>
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71, メージャー; ジョン(Major; John)
1943年3月29日、ロンドンに生まれる。イートン校出身。政治家。保守党穏健派。
スタンダード・チャータード銀行の重役になる。79年、保守党の下院議員に当選し、86年、マーガレット・サッチャー政権で社会保障担当閣外相。87年、大蔵担当閣内相として初入閣。89年7月に外相に抜擢されるが、同年10月にローソン蔵相が辞任したため蔵相に転任することになる。90年11月、サッチャー首相の支持率が低下して保守党の党首に選出されなかったため、その後任として保守党党首に選出され、最年少の47才で首相に就任した。メージャーはイギリス外交の基本である米国との関係は重視しつつもEC・EUにも加盟するという外交を展開した。
旧ユーゴ和平では当初穏健な交渉による解決を主張
メージャー英首相はユーゴスラヴィア内戦について、当初は外交による解決を主張し、NATO軍の武力行使に対して慎重な姿勢を示していた。92年8月に、サッチャー前首相が武力行使を前提とした新ユーゴ連邦への最後通告およびNATO軍による武力介入の必要性を提言したことに対し、メージャー首相は前首相の強硬路線を否定した。同年8月に開かれた旧ユーゴ和平拡大国際会議では共同議長を務め、ボスニア和平のための「行動計画」を策定する。この行動計画は、交渉を具体化するための常設の「運営委員会」の設置、および少数民族問題などの作業部会の設置など、極めて穏健なものであった。
93年初頭、米国とフランスは空母をアドリア海に派遣し、空爆の準備態勢を整えつつあった。この動きに対し、メージャー首相は93年1月、クリントン米大統領とミッテラン仏大統領に「早計な行動は、戦闘の激化や、ボスニアに展開中の多くの英軍兵の命が失われるおそれがある」として、ボスニアのセルビア人勢力への空爆に反対の意を表明する書簡を送った。
メージャー首相はボスニア紛争に関して武力行使には慎重な姿勢を示したものの、一方でボスニア政府およびルーダー・フィン米PR会社が行なった「サラエヴォの住民や子ども達がセルビア人勢力の攻撃で負傷者が続出しているが治療を受けられない」とのプロパガンダを信じるという過ちを犯した。このプロパガンダに添う形で英政府は93年8月、緊急人道支援のための「イルマ作戦」と名付けた重傷を対象とした子どもの患者救出作戦を実施した。ところがこのとき救出して輸送されてきた41人の患者の中には子どもが数人しか含まれておらず、大人も比較的元気な患者たちであった。それでも、イルマ作戦は複数回実施された。空輸された者の中には戦火による負傷者もいたが、多数は髄膜炎などを含む一般患者であった。メージャー首相は、イルマ作戦なる大仰な対応がほとんど意味を持たなかったことを悟らされることになったのだが、ボスニア政府のプロパガンダに対する全般的な見直しが行なわれることはなかった。
武器禁輸解除には反対し続けたが次第に米国に引きずられる
94年、米国政府は、安保理決議713で武器禁輸が採択されているにもかかわらず、ボスニア政府への武器禁輸解除をEU諸国に働きかけた。メージャー首相は11月にミッテラン仏大統領と会談し、「米国がボスニアに対する国連決議の武器禁輸措置を無視するような対応を取った場合、両国はボスニアに展開している国連保護軍を引き上げる、と米国に警告する」ことで合意している。このメージャー首相の対応が、国連安保理で米国が提起したボスニア政府への武器禁輸解除決議を阻止し得た一因である。また95年5月には、エリツィン露大統領に、ボスニア内戦の和平について影響力を行使するよう求めるなど、交渉による解決に務めた。しかし、次第に米国の強硬な姿勢に引きずられていく。マルカレ市場砲撃事件を契機として95年8月に実行されたボスニアのセルビア人勢力へのNATO軍の「オペレーション・デリバリット・フォース(周到なる軍事作戦)」では、推進する側にまわった。
97年5月の総選挙においてブレアの労働党に大敗するまで、6年余りにわたって首相を務めた。01年に政界から引退し、米投資銀行クレディ・スイス・ファースト・ボストン銀行・CSFB顧問に就任する。
<参照;ブレア、EC・EUの対応、米国の対応、米国のPR会社>
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72, モック; アロイス(Mock; Alois)
1934年6月10日、オーストリア生まれ。オーストリア人。政治家。
中道右派のオーストリア国民党党首。オーストリア外相。ヨーロッパ民主同盟・EDU議長。89年7月、モックはオーストリア外相としてハンガリーのホルン・ジュラ外相と協議して東ドイツ人のためにオーストリアとハンガリーの国境を解放し、ベルリンの壁崩壊のきっかけをつくった。
中立国オーストリアの外相としてスロヴェニアの分離独立に加担
モックは中立国オーストリアの外相として、ユーゴスラヴィア解体戦争に至る初期の段階で、外交上あり得ない親スロヴェニア反セルビアの露骨な外交を展開した。オーストリアのテレビに繰り返し出演してはセルビアを非難するとともに、スロヴェニアとクロアチアはユーゴスラヴィアから分離独立すべきだと主張し続けた。当時のオーストリアの首相であったF・ヴラニツキはモックの主張に同調しなかったが、オーストリアの自由党や緑の党や一部の社会主義者の中にも同調する者がおり、オーストリアの主要なジャーナリストたちもモックの主張を支持してヴラニツキ首相を攻撃した。
91年6月に開かれた全欧安保協力会議・CSCEの外相会議に、モック外相はスロヴェニア外相のディミトリイ・ルペルをオーストリア外交団の1員に加えて外相会議に出席させるという、通常の外交ではあり得ない異常な行動を取った。そして、会議においてモック外相はユーゴ連邦の存続に強硬に反対する。ともかくも、会議は表向き、ユーゴスラヴィア連邦の存続を認める決議を採択する。その後も、モック・オーストリア外相はスロヴェニアとクロアチアの分離独立を容認するようEC諸国に精力的に働きかけた。このモックの動向が、ドイツおよびバチカンの対応とともに他のEC諸国に影響を与え、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立承認を早めることになった。
モック外相のユーゴスラヴィア連邦解体への“貢献”に対し、クロアチア国内では彼の名を冠した喫茶店を造って報いている。しかし、オーストリア国内で彼を評価する人は少ない。
<参照;スロヴェニア、ドイツの対応、EC・EUの対応>
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73, モリヨン; フィリップ (Morillon; Philippe)
フランスの軍人。将軍。92年6月、国連安保理決議743によって編成されたユーゴスラヴィア国連保護軍・UNPROFORのボスニア現地司令官に任ぜられる。
国連保護軍司令官として偏向のない任務を遂行
ユーゴ連邦解体戦争中、ボスニア政府側やクロアチア人勢力側の非人道的行動に対してほとんどの欧米諸国や国際機関は黙認し、「セルビア悪」説だけが流布されていた。この中で、概して現地に派遣された国連保護軍の司令官は、各民族の行動の実態を直接目にしていたことから、どちらかの民族勢力に加担して煽ったり非難したりするという姿勢は見られない。中でもモリヨン将軍とマッケンジー将軍は、セルビア悪説が支配する中で誠実に停戦交渉を仲介し、紛争の鎮静化に務めた。
ボスニア政府は93年2月、サラエヴォ市の住民が食糧に窮乏しているにもかかわらず、他の地区に食糧供給が行なわれない限り、サラエヴォへの国連の食糧の搬入を拒否すると表明した。これに対してモリヨン国連保護軍司令官は、「ガンジーは決して他人に断食を強制しなかった。東部ボスニアの山岳地帯では国連の食糧援助なしでも何とか生き延びる手段はあるが、サラエヴォのような都市ではそれは不可能だ」と、ボスニア政府の対応は市民の困窮を犠牲にする政治的行為だと非難した。
現地の実態に即してボスニア政府の虚偽宣伝を否定
また、ボスニア政府は93年3月、東部チェルスカ、コニェヴィチでセルビア人勢力によるレイプや虐殺があり、また多数の餓死者が出ていると発表した。モリヨン司令官は即刻視察を行ない、「国連保護軍は自由に通行できたし、ムスリム人虐殺の証拠は認められず、一軒一軒尋ね歩いたが避難を必要としている負傷者は75人で、砲撃による破壊はあるけれども、餓死に直面しているような状況ではない」と率直に語った。
同じ93年3月、スレブレニツァがセルビア人勢力軍に包囲された際、ボスニア政府は大仰に窮状を国際社会に訴えた。モリヨン司令官は、ボスニア政府の訴えに応じてスレブレニツァを訪れた。ところが、ボスニア政府はこれを好機と捉えて現地のムスリム人勢力に指示を与え、それに従ったムスリム人の女性と子どもたちがモリヨン司令官を取り囲んで軟禁する。やむなく彼は、スレブレニツァのムスリム人住民を国連保護軍の保護下に置くと約して軟禁を解いて貰った。モリヨン司令官の約束は越権行為だったが、この事件をきっかけにモリヨン司令官はスレブレニツァのムスリム人の女性と子どもなど8000人から9000人を、他のボスニア政府の支配地域に移送する。ボスニア政府は窮状を訴えていたにもかかわらず、スレブレニツァの住民の移送は民族浄化に手を貸すものとしてモリヨン司令官を激しく非難した。さらに、ボスニア政府はムスリム人居住地の窮状を訴え続けたことから、これに応じる形で国連安保理は決議819を採択し、スレブレニツァを安全地域に指定した。
ICTYでスレブレニツァのナセル・オリッチの部隊の戦争犯罪行為を証言する
93年7月、モリヨン将軍はボスニアの保護軍司令官を離任する。そののち、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYでボスニア・スレブレニツァのムスリム人司令官ナセル・オリッチの犯罪について証言台に立った。モリヨン将軍は、「ナセル・オリッチはボスニア政府軍から命令を受け、スレブレニツァを拠点として周囲のセルビア人の192の村々を破壊した。さらに捕虜の全てを処刑するなどの残虐な行為をしていた。95年7月にセルビア人勢力が起こしたスレブレニツァの事件は、オリッチの行為が引き起こしたものと確信している」と証言した。しかしICTYはモリヨン将軍の証言を無視する形で、オリッチの罪状を8人の捕虜に対する虐待のみに限定し、第1審では禁固刑2年、控訴審では無罪とした。
モリヨン将軍は95年6月、EUの緊急対応部隊の司令官に就く。
<参照;マッケンジー、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、国連の対応>
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74, ルゴヴァ; イブラヒム (RugovaI; brahim)
1944年12月2日、セルビア共和国のコソヴォで生まれる。プリシュティナ大学卒。文学・美術研究者。作家同盟議長。アルバニア民族主義指導者。
ルゴヴァはコソヴォ自治州を純粋なアルバニア人居住地とすることを目指した
ルゴヴァに指導されたコソヴォ自治州のアルバニア系住民は、圧倒的多数であることから自治権に満足せず、コソヴォ自治州の独立を目指し、様々な運動を展開した。その過程で少数派のセルビア人住民を迫害する事件が多発していた。それを目の当たりにしたミロシェヴィチはコソヴォ自治州の権限を制限することを企図する。そしてセルビア共和国幹部会議長になると、89年3月に「セルビア共和国の修正憲法」を可決してコソヴォ自治州の権限を大幅に削減した。ルゴヴァはこれに対抗して89年12月にスイスに拠点を置いたコソヴォ臨時政府のB・ブコシ首相らとともに「コソヴォ民主同盟・LDK」なる政党を結成し、党首に就いた。92年5月、コソヴォ自治州のアルバニア系住民はセルビア憲法に反する独自の選挙を実施し、ルゴヴァを大統領に選出する。
コソヴォ民主同盟・LDKの綱領は交渉による自治州の独立を目指すとあるが、穏健を装っているとはいえルゴヴァの政策は「コソヴォ自治州からセルビア人がいなくなるか、あるいはセルビア人の数が無視できるくらいまでに減少し、熟れた果実のようにコソヴォがアルバニア人の上に落ちてくるのを待つ」と、コソヴォ自治州を純粋なアルバニア系住民の地域とすることを目指していた。
歴史家のティム・ジュダは、ルゴヴァが指導するコソヴォ民主同盟は「反対者への寛容がほとんどなく、LDKに挑戦した者は出版物の中で罵倒され、緊密なアルバニア系住民の共同体から村八分にされる可能性すらある」と指摘した。ジャーナリストのクリス・ヘッジは、「66年から89年の23年間に、嫌がらせや差別のためにコソヴォ自治州から去ったセルビア人は13万人に上る」と分析した。このように、多くのセルビア人住民が迫害によってコソヴォ自治州から去って行った。
ルゴヴァの路線に不満を抱いた青年層がコソヴォ解放軍を設立
ルゴヴァの緩慢なセルビア人住民淘汰路線に不満な青年層は、セルビア憲法が修正される前の88年に武力による独立を目指して武装民兵組織「コソヴォ解放軍・KLA」を組織していた。KLAに属する青年層はユーゴ連邦解体戦争が始まると、クロアチア共和国軍やボスニア政府軍に加わって戦闘経験を積み、95年にはコソヴォに帰還してKLAの組織を強化した。この過程で、青年層はルゴヴァから離れてコソヴォ解放軍・KLAへと流れ、コソヴォ解放軍はセルビア共和国に戦闘を仕掛けることになる。
1997年に隣国アルバニアで政治・経済的混乱が起こると、どさくさに紛れて大量の武器を入手し、すぐさま武力闘争を開始した。セルビア共和国は、ユーゴ連邦解体戦争中にセルビア悪に苦しめられた経緯からKLAへの鎮圧行動をためらっていた。そのため、コソヴォ解放軍は恣に戦闘地域を広め、コソヴォ自治州の25%を支配するまでになる。セルビア悪に苦しめられたとはいえ、セルビア王国揺籃の地であるコソヴォ自治州の4分の1を支配される事態を容認するわけにはいかず、ユーゴ連邦の治安部隊が本格的な鎮圧行動を実行する。KLAが追いつめられるとEUと米国がOSCEを引き込んで仲介に乗り出し、停戦に合意させた。そして、ユーゴ連邦とコソヴォ自治州のアルバニア系住民を6ヵ国で構成された連絡調整グループによる和平交渉に引き込む。
米政府は和平交渉の代表からルゴヴァを外す
99年2月に開かれた「ランブイエ和平交渉」では、コソヴォ自治州の交渉団長に米国の意向で強硬派の若いコソヴォ解放軍・KLAのタチ司令官を指定し、ルゴヴァ自治州大統領は副代表に落とされた。実質的な権限が剥奪されたのである。
ランブイエ和平交渉は、オルブライト米国務長官の画策によって決裂され、NATO軍の空爆へと誘導された。
コソヴォ自治州のアルバニア系住民は国際社会の思惑をうまく利用し、セルビア共和国のコソヴォ統治を排除することに成功した。この排除の実績はコソヴォ解放軍の武力闘争路線が導いたように見えるが、ルゴヴァの統治力無くしてアルバニア人の統率は不可能だったといえる。
01年11月に行なわれたコソヴォ自治州議会選挙では、ルゴヴァのコソヴォ民主同盟・LDKがタチなどのコソヴォ解放軍系の政党を抑えて圧勝した。02年3月、ルゴヴァは国連暫定統治ミッション・UNMIKの統治下における自治州議会で初代大統領に選出される。
06年1月21日、肺ガンで死去する、享年61歳。
<参照;コソヴォ自治州、ランブイエ和平交渉、コソヴォ解放軍、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>
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75, ロビンソン; メアリー (Robinson; Mary)
1944年5月21日、アイルランドのメイヨー州バリナに生まれる。ダブリン大学トリニティ・カレッジ卒。弁護士。
25歳でダブリン大学トリニティ・カレッジ刑法学教授となる。69年から89年まで、ダブリン大学代表としてアイルランド議会上
院議員を務める。90年、労働党から大統領選に立候補して当選し、90年12月に第7代アイルランド共和国大統領に就任する。97年、アイルランド大統領を退任。
97年9月、国連人権問題高等弁務官に就任する。98年6月にコソヴォ紛争が起こると、プリシュティナに人権侵害を監視するための人権高等弁務官事務所の現地事務所設置をミロシェヴィチ大統領に要請し、承諾させた。
NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を批判
99年5月、NATO軍の空爆の最中に「コソヴォの人権状況」報告書を提出する。そしてベオグラードで記者会見し、「コソヴォでの重大な人権侵害は放置しておけないが、空爆で無関係な市民に死傷者が出ていることも現実で、攻撃対象の設定について懸念を抱かざるを得ない」とNATO軍の人道的介入の名を冠した無差別ともいえる空爆による殺戮に警告を表明した。
2000年11月、パレスチナを視察し、イスラエル側の武力行使は行き過ぎだとする報告書を国連人権委員会に提出する。2001年11月、中国を訪問した際、アメリカの唱える「反テロ戦争」を口実にした少数民族の抑圧に批判的意見を表明。01年の「人種差別に反対する国連世界会議・UNWCAR」において、イスラエルのパレスチナ人に対する差別待遇と奴隷化が「人道に反する犯罪」として議題に取り上げられると、米国とイスラエルが退場した。この議題をロビンソンが是認したことが米政府の怒りを買い、ロビンソンは人権高等弁務官の再任を妨げられることになり、退任する。
2002年7月、日本政府に対し、「人権擁護法案」に関し、設置する人権委員会が法務省の外局とされていることに対して、独立性を求める国連原則に反する懸念があるとする親書を小泉首相に送付する。04年よりコロンビア大学国際公共政策大学院の教授に就任。07年1月、ケニアで開かれた世界社会フォーラム・WSFで、「9・11以後、貧困削減などミレニアム開発目標と人権の問題は押しやられ、人道犯罪者を裁くのではなく、対テロ戦争という極めて間違った考え方に支配されるようになった」と述べた。
2013年3月、潘基文国連事務総長は、ロビンソンをコンゴ紛争解決のための国連事務総長特使に任命する。
<参照;ユーゴ・コソヴォ空爆、国連の対応、米国の対応>
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