(1)ユーゴスラヴィア連邦解体戦争年表

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0000~1990年

BC・60世紀:
・バルカンで農耕、牧畜が始まる
BC・20世紀:
・バルカン半島にアルバニア人の先祖であるといわれるイリュリア人が進出して定住する。
BC・14世紀:
・ギリシア人が進出してバルカン半島にミケーネ文明を築く。
BC・8世紀:
・ギリシア文明がバルカン半島地域で最大隆盛を謳歌する。
BC・336/00/:
・マケドニアのアレクサンドロス3世、王位に就く。
BC・334/00/:
・マケドニアのアレクサンドロス大王、東方遠征を開始する。
BC・148/00/:
・マケドニア、ローマの属州となる
AD・313/00/:
・ローマ皇帝コンスタンティヌス「ミラノ勅令」を発し、キリスト教を公認する。
AD・330/00/:
・ローマ帝国、ビザンティウムに遷都する。
AD・392/00/:
・ローマ皇帝テオドシウス、キリスト教を国教化し、異教を禁止する。
AD・395/00/:
・ローマ帝国、東西に分裂する。東ローマ帝国がバルカン半島を支配。
AD・518/00:
・ビザンツ帝国が成立する。
AD・540/00:
・スラブ民族がバルカン半島に侵入し始め、主としてドナウ川流域に定住し始める。
AD・8世紀:
・スロヴェニア人は、フランク王国に征服され、キリスト教が浸透する。クロアチアにもカトリックが浸透する
AD・9世紀:
・セルビア人、東方正教を受容する。
811/00/00:
・ブルガリア王国は、ビザンツ帝国軍を破り、第1次ブルガリア帝国を建国する。
924/00/00:
・クロアチア人トミスラフによるクロアチア王国が成立する。
1018/00/00:
・第一次ブルガリア帝国、ビザンツ帝国に併合される。
1077/00/00:
・セルビア人ミハイロによる「ゼータ王国」がモンテネグロに成立する。
1096/08/15:
・第1回十字軍出発。
1102/00/00:
・クロアチア王国はハンガリー王国に従属する。
1170/00/00:
・ステファン・ネマニャがセルビア国家を建国。
1217/00/00:
・ステファン・ネマニャがローマ教皇から王冠を授与され、セルビア王国が成立する。
1230/00/00:
・第2次ブルガリア帝国成立し、最大版図を獲得する。
1330/00/00:
・ルーマニア、ワラキア及びモルダヴィアを建国。
1331/00/00:
・セルビアのネマニャ王朝、「ドシャン法典」を制定し、最大版図を獲得する。
1345/00/00:
・セルビア王のステファン・ドシャン、マケドニア全土を征服する。
1346/00/00:
・セルビア王ステファン・ドシャン、スコピエで戴冠し、セルビア帝国と称する。
・ビザンツ帝国で王位継承争いが発生し、ヨハネス6世はオスマン帝国に支援を求める。
1354/00/00:
・オスマン帝国は、ギリシアのガリポリ半島を占領し、バルカン半島に進出する。
1371/00/00:
・ステファン・ウロシュ五世が内乱に巻き込まれ、中世セルビア帝国は消滅する。
1389/06/28:
・バルカン半島に侵攻してきたオスマン帝国に対し、ネマニッチ朝を再興しようとしたラザール・フレベリャノヴィチはキリスト教徒軍をまとめてコソヴォ・ポーリェにおいてオスマン帝国軍を迎撃するが、内部の裏切りもあって敗北する。
註;コソヴォは、セルビアにとってセルビア正教の総司教座が置かれたた宗教的聖地である。14世紀になってオスマン帝国がバルカン半島に侵出。聖地を守ろうとするセルビア公国軍とオスマン帝国軍との攻防戦は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとコソヴォにおいて10数年間にわたって続けられた。1389年6月、セルビア公国軍を主としたキリスト教徒軍は、オスマン帝国軍に対してコソヴォ・ポーリェにおいて決戦を挑んだがラザール公は捕らえられて斬首され、セルビア公国は崩壊した。この屈辱の敗戦となった6月28日を、セルビア人は「聖ヴィドの日」として記念することになる。
1431/05/30:
・ジャンヌ・ダルク、ルーアンで焚殺される。
1453/05/29:
・オスマン帝国、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノーブルを陥落させ、ビザンツ帝国は消滅する。
1459/00/00:
・オスマン帝国、セルビア全土を支配下に置く。セルビアの総主教座が消滅する
1462/00/00:
・オスマン帝国、ボスニアを併合する。
1483/00/00:
・オスマン帝国、ヘルツェゴヴィナを支配下に置く。
1499/00/00:
・オスマン帝国、モンテネグロを支配下に置く。
1521/00/00:
・オスマン帝国、ベオグラードを陥落させる。
1529/00/00:
・オスマン帝国、第1次ウィーン包囲を行なう。3週間の包囲の後オスマン帝国軍は撤退する。
1557/00/00:
・ハンガリーのペーチにセルビア総主教座が再興される。
1766/00/00:
・オスマン帝国、セルビア総主教座を廃止する。
1648/10/24:
・ウェストファリア条約が締結され、30年戦争が終結する。
1669/00/00:
・オスマン帝国、クレタ島を陥落させ、最大版図を得る。
1683/00:
・オスマン帝国、20万の大軍を派遣して第2次ウィーン包囲を行なう。ポーランド王国軍が急襲したことで、オスマン帝国軍は敗
走する。オスマン軍は撤退するに際し、コーヒー豆を大量に残したことで、ウィーンにカフェ文化が生まれる。
1690/00:
・セルビア人、オスマン帝国の圧迫を受けてヴォイヴォディナに移住。
1699/00/00:
・オスマン帝国は神聖同盟との16年間の戦いに敗れ、カルロヴィツ条約でハプスブルク帝国はベオグラードおよびクロアチアの大半を割譲させ、ヴェネツィアがダルマツィアを領有する。
1715/00/00:
・オスマン帝国、ヴェネツィアからペロポネソスを奪回する。
1718/07/00:
・ハプスブルク帝国、オスマン帝国を破り、パサロヴィツ条約でセルビア人居住地の大半を割譲させる。
1739/09/00:
・オスマン帝国、ハプスブルク帝国とロシア帝国の連合軍に勝利し、セルビアの一部を奪回する。
1802/02/00:
・セルビア人は、オスマン帝国のスルタンに対し反乱を起こす。「カラジョルジェの闘い」は、一時はセルビア北部を解放するまでの勝利を得るが、スマン帝国に制圧される。
1804/05/18:
・フランスでナポレオンⅠ世が皇帝に就任する。
1809/00/00:
・フランスのナポレオンがバルカンに侵攻して占領する。ナポレオンのフランスは、一時期スロヴェニアを「イリュリア諸州」として支配下に置く。
1813/00/00:
・セルビア人の「カラジョルジェの闘い」は、帝国主義列強の打算のあおりを受けて、敗北となる。
1815/00/00:
・セルビア人は、オスマン帝国の支配からの解放を求めて蜂起する。ロシアが介入してセルビアに自治権が付与される。
1821/03/06:
・ギリシアはオスマン帝国に対し、ペロポネソスで独立を求めて蜂起する。
1830/00/00:
・ギリシアは、ロンドン議定書によってオスマン帝国からの完全独立を達成する。
・セルビア公国が誕生し、オスマン帝国からの完全な自治権を獲得する。
1852/00/00:
・モンテネグロ公国が成立する。
1862/01/22:
・ルーマニア公国がモルドヴァとワラキアによる統一政府を成立させる。
1867/05/22:
・セルビア公国とブルガリア革命協会が同盟条約を締結。
1867/05/26:
・セルビア公国とルーマニア公国が同盟条約を締結。
1867/06/08:
・オーストリアのヨーゼフⅠ世がハンガリー王として戴冠し、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立する。
1867/08/26:
・ブルガリア公国とギリシア王国が同盟条約を締結。セルビア公国、ルーマニア公国、ギリシャ王国、ブルガリア帝国の4ヵ国によるオスマン帝国に対抗するバルカン同盟が成立する。
1868/06/10:
・セルビア公ミハイロ暗殺される。
1869/07/11:
・セルビア新憲法を発布する。
1875/07/00:
・ボスニア・ヘルツェゴヴィナで反乱が発生する。
1876/00/00:
・セルビア公国に続いてモンテネグロ公国がオスマン帝国に宣戦するが敗北する。
・ブルガリア公国がオスマン帝国に対して蜂起するが、鎮圧される。
1877/04/00:
・ロシア国とオスマン帝国間の露土戦争が始まる。
1877/05/09:
・ルーマニア議会がオスマン帝国からの独立を宣言する。
1878/00/00:
・マケドニアでオスマン帝国への武装蜂起が発生する。
1878/03/03:
・露土戦争は、ロシア帝国軍がオスマン帝国の首都イスタンブールの近郊まで迫る圧倒的な勝利を収めると、列強が介入して、「サン・ステファノ条約」が締結される。この条約でセルビア、モンテネグロ、ルーマニアのバルカン諸国の完全独立と、マケドニアを含む自治領「大ブルガリア公国」の創設およびボスニア・ヘルツェゴヴィナの自治権が付与される。しかし、この決定はさまざまな不満の種となる。
1878/06/10:
・アルバニア人による「プリズレン連盟」が組織され、アルバニアの自治権および領土保全を要求する声明を発表。
1878/06/13:
・ドイツのビスマルクが主催したベルリン会議が開かれる。
1878/07/13:
・サン・ステファノ条約は廃棄され、ベルリン条約が締結される。セルビアとモンテネグロおよびルーマニアは、オスマン帝国からの独立を再確認し、公国となる。「大ブルガリア公国」は縮小され、マケドニアはオスマン帝国に返還する。ボスニア・ヘルツェゴビナの自治権は剥奪され、オーストリー・ハンガリー帝国がスロヴェニアとクロアチアに加えて属領とする。
1881/03/14:
・ルーマニア議会の上下両院は、王制への移行を決議する。のちの戴冠式でカロルⅠ世が国王となる。
1882/01/11:
・ヘルツェゴヴィナでオーストリア・ハンガリー二重帝国統治に対する蜂起が起こる。
1882/03/06:
・セルビアのミラン公、オーストリアの援助の下にセルビア国王を名乗る。
1982/05/20:
・ドイツ帝国・ハプスブルク帝国・イタリア王国の三国同盟が成立する。
1885/00/00:
・ギリシア王国、マケドニアに軍隊を侵攻させる。
1893/10/23:
・マケドニアに「内部マケドニア革命組織・VMRO」が結成される。
1894/00/00:
・クロアチア社会民主党が創設される。
1896/00/00:
・スロヴェニア社会民主党が創設される。
1902/06/28:
・ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、イタリア王国との三国同盟が第4次の更新をする。
1903/00/00:
・セルビア社会民主党が創設される。
1903/05/29:
・オブレノヴィチ家出身のセルビア国王アレクサンダル夫妻が、将校団によって暗殺される。
1903/06/15:
・セルビア議会は、カラジョルジェヴィチ家のペータルを国王に選出する。
1904/04/08:
・英・仏間で協商が成立する。のちに  セルビア王国もこれに加わる。
1906/01/22:
・ハプスブルク帝国、セルビア王国との国境を閉鎖する。
1906/07/07:
・ハプスブルク帝国、セルビア王国の畜産品である豚の輸入を禁止する。
1907/07/01:
・ドイツ帝国・ハプスブルク帝国・イタリア王国の三国同盟が1914年まで延長される。
1907/08/31:
・英・露間で協商が締結され、英・仏・露の三国協商が成立する。
1908/09/22:
・ブルガリアは、オスマン帝国からの完全独立を達成し、ブルガリア公国の国名を改め「ブルガリア帝国」とする。
・ハプスブルク帝国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言する。
1908/10/00:
・オスマン帝国、マケドニアでの戦闘を再開し、占領する。
1911/03/13:
・英国がドイツに軍備制限協定の交渉を呼びかけるが、ドイツは拒否する。
1912/03/13:
・セルビア王国とブルガリア帝国がバルカン同盟を締結する。
1912/05/29:
・ギリシア王国とブルガリア帝国がバルカン同盟を締結する。
1912/08/28:
・モンテネグロ王国とブルガリア帝国がバルカン同盟を締結する。
・アルバニアは独立を宣言し臨時政府を樹立。「ロンドン条約」で、アルバニアの独立は列強の保護下に承認される。
1912/09/27:
・セルビア王国とモンテネグロ王国がバルカン同盟を締結する。
1912/09/30:
・バルカン同盟を結成したセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアの4ヵ国は、マケドニア行政の大規模改革を要求する最後通牒をオスマン帝国に送る。
1912/10/05:
・バルカン同盟の4ヵ国がオスマン帝国に宣戦布告をしたことで、第1次バルカン戦争が起こる。
1912/10/08:
・バルカン同盟のモンテネグロ王国がオスマン帝国への攻撃を開始。
1912/10/17:
・ブルガリア帝国とセルビア王国がオスマン帝国への攻撃に参戦する。
1912/10/19:
・ギリシア王国がバルカン同盟軍として攻撃に参戦する。
註;第1次バルカン戦争は、マケドニアとコソヴォおよびトラキアの地をオスマン帝国から奪還し領有することを目的として起こされた。オスマン帝国軍の主力とトラキアで対戦したブルガリア軍は、12万の死者を出すほどの犠牲を払わなければならなかった。しかし同盟軍は、多くの戦線で戦闘準備の整わないオスマン帝国軍を短期間に撃破した。12月になると、バルカン半島に対する利害のバランスが崩れることを危惧した欧州列国が介入して休戦となる。
バルカン戦争は、3国同盟のドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国およびイタリアがオスマン帝国とルーマニアを支援し、3国協商のイギリス、フランス、ロシアがバルカン同盟を支援した。そして休戦中にロンドン講和会議が開かれたが、翌13年1月に再びオスマン帝国軍が戦闘をしかけ、またも敗北する。5月末に再開された講和会議で締結された「ロンドン条約」で、オスマン帝国は黒海沿岸のミディエからエーゲ海のエネズを結ぶ線から西の領土を放棄し、クレタ島をギリシャに割譲するなど国境線の変更が行なわれ、オスマン帝国の領土は縮小した。
この戦争は短期間に終わったが、オスマン帝国の長期にわたる支配期にトルコ人やユダヤ人などが居住するようになり、住民の構成は大きく変わっていた。その住民たちは戦火を避ける暇もなく、破壊、脅迫、略奪、強殺にあい、命からがら脱出する者、間に合わずに殺害される者などが多数に及んだ。ロンドン条約で戦勝国側のセルビアとギリシアはマケドニアを分割領有。アルバニアの独立を認めた。ブルガリアは、トラキア地方の領土獲得を認められたが、マケドニアに居住するブルガリア人の保護と権益をも主張したため、セルビアおよびギリシアとの間に対立が生じた。
1913/06/29:
・ブルガリア帝国がマケドニアの領有を要求し、マケドニアに駐屯していたセルビアとギリシャを攻撃したことで、第2次バルカン戦争が起こる。モンテネグロはセルビア側に加わる。
1913/07/10:
・ルーマニア王国もブルガリア帝国に対して宣戦布告する。
1913/07/12:
・オスマン帝国もブルガリア帝国に対して宣戦布告する。
註;ブルガリア帝国軍がマケドニア地方に駐屯するセルビアとギリシア両軍を攻撃すると、モンテネグロとルーマニア両軍もブルガリア軍攻撃に参戦する。これに乗じ、オスマン帝国がブルガリア攻撃に参加したために、ブルガリア帝国軍は孤立して敗退する。
1913/08/10:
・第2次バルカン戦争に関するブカレスト講和条約が成立する。
・参戦国間でブカレスト講和条約が結ばれ、アルバニアの独立が確定する。
・オスマン帝国との間ではイスタンブール条約が締結される。
註;ブカレスト講和条約で、ブルガリア帝国はコソヴォ、マケドニア、トラキア、イピロスなどが参戦国によって領土を割譲させられた。バルカン戦争で領土を大幅に獲得したのはルーマニア王国とセルビア王国で、削減されたのがブルガリア帝国とオスマン帝国であった。オスマン帝国は第1次バルカン戦争で失った領土の一部を回復したものの2度にわたる戦争でバルカン半島に残されたヨーロッパの統治領域は大幅に後退した。このバルカン戦争で分割された各国の境界が、大枠で以後のバルカン諸国の国境となる。しかし、国家の利害によって民族は分断され、すべてのバルカン諸国が多民族国家となった。
セルビア王国;マケドニアのクマノヴォ、スコピエ、オフリド、ビトラとヴァルダル川流域を支配。
モンテネグロ王国;ノヴィ・パザルをセルビアと折半。
ギリシア王国;イピロスのヤニヤ、テッサロニキを含むエーゲ海沿岸のマケドニア地域を獲得。
ルーマニア王国;南ドブルジャを獲得。
ブルガリア帝国;西トラキアとピリン山脈を含むマケドニアを確保したが、南ドブルジャをルーマニアに割譲。
オスマン帝国;ブルガリアとイスタンブール条約を結び、東トラキア地方のエディルネを回復。
オーストリー・ハンガリー二重帝国(ハプスブルク帝国);先に併合した、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは二重帝国が支配し、地位は変わらなかった。これが、第1次大戦の遠因となる。
アルバニア;独立国として認められる。
マケドニア;2度にわたるバルカン戦争で、マケドニアはセルビアとギリシャへの分割領有が確定した。
1914/06/28:
・オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンドが、セルビアの「聖ヴィドヴダン」記念日の祝典への出席、および軍事演習観閲のためにボスニアのサラエヴォを訪問したとき、「黒手組」と称する暗殺団が爆弾を投げつけ、さらにボスニアのセルビア人青年ガブリロ・プリンツィプが銃撃して暗殺する、いわゆる「サラエヴォ事件」が起こる。
註:サラエヴォ事件は、オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を求める民族運動によって発生した。この事件にセルビア王国が関与したかどうかは明らかになっていない。
1914/07/16:
・ポワンカレ仏大統領、ロシアを訪問し、セルビア支持を確認する。
1914/07/28:
・オーストリア・ハンガリー二重帝国(ハプスブルク帝国)は、セルビア王国の事件に関する対応が不十分として宣戦を布告。第1次大戦が始まる。
1914/08/01:
・オーストリア・ハンガリー帝国とドイツ帝国の同盟国側は、ロシアに対し三国協商としてセルビア側に加わったために宣戦を布告する。
1914/08/03:
・ドイツ帝国、フランスに対し宣戦布告する。
1914/08/05:
・モンテネグロ王国が、オーストリア・ハンガリー二重帝国に対して宣戦布告する。
1914/12/07:
・セルビア王国政府は、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人すべての解放と統一を戦争目的とする「ニシュ宣言」を出す。
1915/04/00:
・ハプスブルグ帝国領出身の南スラブ人指導者たちは、パリで「ユーゴスラヴィア委員会」を設立する。
1915/10/05:
・ブルガリア帝国は同盟国側に加わり、セルビアに宣戦を布告して侵攻する。
1916/07/00:
・ブルガリア軍、マケドニアに侵攻する。
1916/10/09:
・ギリシア王国では、ヴェニゼロスがテッサロニキで臨時政府を樹立して宰相に就任し、コンスタンティノス国王に退位を要求する。
1916/10/27:
・ルーマニアが協商側に加わり、オーストリア・ハンガリー帝国に宣戦を布告する。
1917/04/06:
・アメリカ合衆国が、ドイツ帝国に宣戦を布告する。
1917/06/12:
・ギリシア王国のコンスタンティノス国王が亡命する。
1917/10/12:
・ロシア帝国で10月革命が起こる。
1917/11/22:
・ロシア帝国はソヴィエト連邦となり、ドイツとの間で休戦協定を結ぶ。
1917/12/07:
・アメリカ合衆国、ハプスブルク帝国同盟側に宣戦布告する。
1918/09/21:
・バルカン地域に布陣していた同盟国側のブルガリア帝国、セルビアとフランス連合軍の攻撃を受けて崩壊する。
1918/09/29:
・ブルガリア帝国は、連合国側と休戦協定を締結する。のちにヌイイ条約で、トラキアをギリシアに割譲するなど国境の修正を余儀なくされる。
1918/10/28:
・チェコスロヴァキア、ハプスブルク帝国からの独立を宣言する。
1918/10/30:
・ハプスブルク帝国軍は、イタリア戦線でイタリア軍と英国連合軍の攻撃を受けて敗北する。
・オスマン帝国は協商・連合国に降服し、ムドロス休戦協定に調印する。
1918/11/03:
・キール軍港でドイツ水兵が任務を放棄し、ドイツ革命が起こる。
1918/11/04:
・ハプスブルク帝国、休戦協定に調印。カール皇帝、国事への関与権を抛棄する。
1918/10/03:
・クロアチアのザグレブで「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人民族会議」が設立され、南スラブ地域を統合した国家の創設を宣言する。
1918/11/09:
・ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世がオランダに亡命し、共和制が宣言される。
1918/11/11:
・ドイツ政権代表団と連合国側が休戦協定を締結。第1次大戦が終結する。ハプスブルク帝国のカールⅠ世が退位する。
この敗戦で同盟国を形成したドイツ帝国、ハプスブルク帝国、オスマン帝国、ブルガリア帝国が消滅する。
註;「サラエヴォ事件」をきっかけに14年から18年まで4年余りにわたって続けられた第一次大戦は、ドイツおよびオーストリア帝国側の敗北で終わる。その間、ロシア革命をもたらし、ポーランドの独立などの副産物はあったものの、結局は領土獲得戦争であった。この戦争で、セルビアとモンテネグロは100万人以上の犠牲を出す。大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約は、ドイツに苛酷な賠償を課したために第2次大戦の伏線となる。
1918/12/01:
・第1次大戦で戦勝国側に立ったユーゴスラヴィアは、セルビア王国の摂政カラジョルジェヴィチが「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の樹立を宣言。
註;大戦中に「ユーゴスラヴィア委員会」が設立され、大戦直後に「セルビア人、スロヴェニア人、クロアチア人民族会議」を設立し、それぞれの代表が戦後の建国について協議したが、講和会議でセルビアの発言権は殆ど認められず、列強の圧力を受ける中で、セルビア王国主導の国家建設となった。
・ユーゴスラヴィア王国;「ハンガリー統治下のクロアチア・スラヴォニア、バラニャ・バチュカ・バナトとヴォイヴォディナ、西部およびプレコムーリュとメジュムーリェ地区、オーストリア統治下のダルマチア州、クライン州およびシュタイエルマルク・ケルンテン州の両州の一部およびイストリアの一部が割譲され、オーストリア・ハンガリー帝国統治下だったスロヴェニア、クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナ」も割譲される。その結果、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」は、セルビア王国、モンテネグロ王国、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、コソヴォを含む広大な領域を獲得した。
・ルーマニア王国;トランシルヴァニアの民族評議会はルーマニア王国との統一を決議する。
・ギリシア王国;ヌイイー条約でブルガリア帝国から西トラキアを割譲させた。オスマン帝国からはイズミ-ル地方を割譲させたが、ビザンツ帝国の再建を夢見たギリシア首相ヴェニゼロスは半島のアナトリア地方に進撃して敗北を喫し、イズミール地方も失う。
・ブルガリア帝国;ヌイイー条約でドブルジャ地方をルーマニアに割譲し、西トラキアをギリシアに割譲し、ユーゴスラヴィアとも国境線の修正をさせられた。
・チェコスロヴァキア;ハンガリー領のスロヴァキアおよびトルテニア、チェコのボヘミアとモラビアを加えてチェコスロヴァキアとなる。
・ハンガリー王国;ユーゴスラヴィアにクロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナを割譲し、領土が3分の1に削減される。
・オーストリア帝国;ダルマチア地方、シュタイアマルク地方、クライン地方、リュブリャナ、マリボル、ブトイ、ツィリ、ミース渓谷などをユーゴスラヴィアに割譲。この大戦後に確定された領土が、90年代のユーゴスラヴィア連邦解体戦争までの領域となった。バルカン諸国の境界が確定するとともに、民族の住民交換が行なわれ、特にギリシア住民は大規模な移動を余儀なくされた。とはいえ、各国に割譲された地域の住民の大半はその地に残され、バルカンのすべての国は民族の混住地域を抱えることになった。
1919/01/18:
・パリのヴェルサイユ宮殿で講和会議が開かれる。
註;ウィルソン米大統領が講和条約に関する民族自決、自由な平和秩序など14ヵ条を提案したが、国際連盟が実現した以外は、戦勝国の国家エゴを追及する声によってほとんど骨抜きにされた。これを見て英国代表のジョン・M・ケインズは辞表を提出する。
1919/04/20:
・ユーゴスラヴィア社会主義労働党を結成し、第1回大会を開く。
1919/05/15:
・ギリシア軍、トルコのイズミルに派兵して、侵攻を開始する。
1919/06/28:
・パリ講和会議は、ドイツに対する懲罰的賠償および「国際連盟」の創設などのヴェルサイユ条約を決定して閉幕する。
1919/09/10:
・サンジェルマン条約によりオーストリアがブコヴィナをルーマニアに割譲する。
1920/06/00:
・ユーゴスラヴィア社会主義労働党は共産党に改称し、第2回大会を開く。
1921/06/28:
・セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国は、中央集権的・立憲君主制の「ヴィドヴダン憲法」を制定し、共産党は非合法化される。
1922/09/18:
・ギリシア軍、トルコから駆逐される。
1922/10/28:
・イタリアでは、ベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党の「黒シャツ隊」がローマ進軍を開始する。
1922/10/31:
・イタリア国王エマヌエーレ3世は勅令でベニート・ムッソリーニに組閣を命じる。これ以降、ムッソリーニは1943年までの20年余、政権の座にとどまる。
1926/06/00:
・ユーゴスラヴィア共産党は、ウィーンで第3回大会を開く。
1928/06/20:
・モンテネグロ出身のセルビア急進党議員が、クロアチア農民党のスチェパン・ラディチ党首を射殺する。
1928/10/00:
・ユーゴスラヴィア共産党はドレスデンで第4回大会を開く。
1929/01/06:
・アレクサンダル・カラジョルジェヴィチ国王は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の憲法を停止し、議会を解散、政党の活動を禁止し、中央集権体制を進めて独裁体制を敷く。
1929/10/03:
・アレクサンダル国王は、国名を「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」から「ユーゴスラヴィア王国」と改称する。国内の対立を解消するために、伝統的な地名を廃止して9つの州に改称。この当時のユーゴスラヴィアの人口はおよそ1400万人。農業人口は76%。
1929/10/24:
・ニューヨークで株価が大暴落し、世界恐慌が始まる。
註;農業国であり、資源供給国だったユーゴスラヴィアは世界恐慌による深刻な経済的打撃を受けた。農産物の価格は半額に落ち込んだために農民は借金に苦しみ、労働者の賃金は最低生活費さえ下回ったばかりか失業率は35%に達した。この状況下でも、ユーゴスラヴィア王国のブルジョアジーは農民の反乱も労働者の反抗にもあうことなく搾取し続けることができた。
1931/09/03:
・アレキサンダル・ユーゴスラヴィア国王は、新憲法を発布し、国王の権限を強化する。
1932/00/00:
・クロアチアでは、独立を目指すアンテ・パヴェリッチを指導者とする極右組織「ウスタシャ」が設立される。
1933/01/30:
・ヒンデンブルク・ドイツ大統領、ヒトラーを首相に任命する。
1934/02/09:
・フランスの働きかけで、バルカン協商が成立する。参加国はルーマニア、ユーゴスラヴィア、ギリシア、トルコの4ヵ国にとどまる。
1934/03/13:
・独・伊・英・仏首脳による「ミュンヘン会談」が行なわれ、ズデーテン地方のドイツへの併合が認められる。
1934/06/01:
・ユーゴスラヴィア王国は、ドイツとの通商条約を締結する。
1934/10/09:
・訪仏中のアレキサンダル・カラジョルジェヴィチ・ユーゴスラヴィア国王およびバルトゥ・フランス外相が、クロアチアの分離独立を目指す「ウスタシャ」および「マケドニア革命組織」に属する男にマルセイユで暗殺される。息子のペータルが国王に就くが、若年のためにパヴレ公など3人が摂政となる。
1937/00/00:
・ヨシプ・ブロズ・チトーがユーゴスラヴィア共産党書記長に就任する。
1937/04/00:
・ユーゴスラヴィア王国のスロヴェニアで共産党が結成される。
1937/08/00:
・ユーゴスラヴィア王国のクロアチアにおいて、共産党が結成される。
1938/03/12:
・ナチス・ドイツは、オーストリアを併合する。
註;1938年当時、ユーゴスラヴィア王国のドイツへの経済依存度は増大しており、対ドイツ輸出が49.9%、輸入が50.0%を占めていた。
1938/09/30:
・ナチス・ドイツは、英仏伊独首脳によるミュンヘン会談でチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合を認めさせる。
1938/11/09:
・「水晶の夜」といわれるドイツ在住のユダヤ人迫害行為が始まる。ドイツ全土で7500のユダヤ人商店の破壊が行なわれる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1939年
03/14:
・ナチス・ドイツ軍は、チェコスロヴァキアに侵攻する。
04/07:
・イタリア軍は、アルバニアに侵攻してアルバニアを併合する。コソヴォはアルバニアに併合され、大アルバニアとなる。
04/22:
・マルコヴィチ・ユーゴスラヴィア王国外相はチアノ・イタリア外相とベネチアで会談し、共同コミュニケを発表。内容は、「1,イタリア、ユーゴスラヴィア間に存在する特殊友好関係を再確認し、両国の友好関係はアドリア海の平和維持ならびに相互利益の尊重を確約したベオグラード協定締結以来、あらゆる分野および事態において常に確保し、かつ強化してきた。2,両国は、ドナウ川地区における平和維持ならびに安定の条件改善のために政治的かつ経済的分野にわたり、ドイツ、ユーゴスラヴィア間におけると同様信頼ある協力を行なうことで一致。3,ハンガリーとの関係に関しては両外相は最近の事態進展に結果した情勢の検討を行ない、ベオグラード、ブダペスト両政府間に有効なる了解の道が拓けたことを満足を持って確認する」。
04/25:
・ユーゴスラヴィア王国のマルコヴィチ外相はベルリンを訪問してリッペントロップ独外相と会談し、「会談は友好的精神を持って終始し、両国に関係ある諸事項に関し両者間に完全な意見の一致を見た」との共同コミュニケを発表。
05/11:
・蒙古領ノモンハンで日本軍とソ連・蒙古連合軍が武力衝突する。
08/23:
・独・ソが不可侵条約を締結する。この条約には、両国によるポーランド分割の密約が含まれる。
08/26:
・ユーゴスラヴィア王国政府は、クロアチア農民党との間で「スポラズム・協定」を結び、クロアチア自治州の設置を承認。
09/01:
・ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次大戦が始まる。
・ユーゴスラヴィア王国政府は閣議を開き、ドイツとポーランドの開戦について、厳正中立を維持すると決める。
09/02:
・ユーゴスラヴィア王国陸軍は、動員令を公布する。
09/03:
・フランスとイギリスがナチス・ドイツに宣戦布告する。
09/17:
・ソ連赤軍が、ポーランドに侵攻する。
11/30:
・ソ連軍、フィンランド攻撃を開始する。
12/14:
・国際連盟、ソ連がフィンランドを攻撃したことを理由として除名処分にする。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1940年
03/12:
・ソ連、フィンランドと講和条約を結び、カレリア地方を割譲させる。
05/10:
・ナチス・ドイツ軍は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻する。
05/11:
・ユーゴスラヴィア王国政府とソ連が通商条約を締結する。
06/05:
・ナチス・ドイツ軍の機甲師団は、フランスの要塞マジノ線を回避し、アルデンヌの森など北西部を攻撃する。
06/10:
・イタリアは、フランスとイギリスに宣戦布告する。
・フランス政府、パリを無防備都市と宣言する。
06/12:
・ナチス・ドイツ軍、パリに入城する。
06/15:
・ソ連軍、バルト3国に進駐する。
06/18:
・ドゴール将軍、ロンドンに自由フランス委員会を設立し、徹底抗戦を呼びかける。
06/22:
・フランスは、ドイツと休戦協定を結ぶ。
06/24:
・ユーゴスラヴィア王国政府は、ソ連と外交関係を樹立する。そして、ソ連の武器供与協定を取り付ける。
07/01:
・フランスにヴィシー政権が誕生する。
09/27:
・日・独・伊三国同盟が締結される。この同盟は名目的なもので、実質が伴っていない条約。
11/20:
・ハンガリーが、三国同盟に加盟。
11/23:
・ルーマニアが、三国同盟に加盟。
11/24:
・チェコスロヴァキアが、三国同盟に加盟。
11/00:
・ユーゴスラヴィア王国政府のマルコヴィチ外相は、ドイツを訪問。ドイツはユーゴスラヴィア王国の三国同盟への加盟を強請する。ユーゴスラヴィア王国政府はこれを拒否し、密かにギリシアへの援助を続ける。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1941年
02/14:
・ユーゴスラヴィア王国のツヴェトコヴィチ首相とマルコヴィチ外相は、ドイツのベルヒテス・ガーデンを訪れてヒトラー総統と会談。
03/01:
・ブルガリアが、3国同盟側に加盟。
03/04:
・ナチス・ドイツのヒトラー総統は、ユーゴスラヴィア王国のパブレ摂政を招き、ユーゴスラヴィア王国の領土保全、軍事援助義務の免除、ギリシャのテッサロニキのユーゴ王国への割譲などの条件を示して三国同盟への加入を強請する。
03/11:
・米国は、武器貸与法を成立させる。
03/25:
・ユーゴスラヴィア王国政府はヒトラーの圧力に屈し、ツヴェトコヴィチ首相がウィーンで日・独・伊三国同盟に加盟する調印を行なう。
・ドイツのリッペントロップ外相は同盟国を代表し、ユーゴスラヴィア王国に対し如何なる軍隊も進駐させず、と確約。
・米政府は、ユーゴスラヴィア王国の在米資産の凍結を命令。
03/27:
・ユーゴスラヴィア王国では、三国同盟側に加盟したことに憤激した市民や軍隊が街頭デモで抗議行動を起こす。将校たちが反ドイツの無血クーデターを成功させ、ツヴェトコヴィチ首相を解任し、ドゥシャン・シモヴィチ将軍を首相に選出する。
04/05:
・ユーゴスラヴィア・シモヴィチ政権は、ソ連と不可侵条約を締結する。
04/06:
・ナチス・ドイツ軍を主力とするイタリア、ブルガリア、ハンガリーの同盟軍は宣戦布告せずにユーゴスラヴィアのベオグラードを無差別空爆し、次いで同盟国軍が王国に侵攻。クロアチアのザグレブは、ファシスト・グループ「ウスタシャ」がナチスと通じていたため爆撃せず。
・ナチス・ドイツ同盟軍は、ソ連へ侵攻する「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」を展開する前にバルカン諸国を支配下に置くための戦略的「マリータ作戦」を発動し、ギリシアに侵攻する。
04/09:
・ユーゴ王国軍の中のクロアチア人で編成された第4軍は、ナチス・ドイツとの戦闘を拒否して反乱を起こす。
・クロアチアのファシストグループ「ウスタシャ」は、アンテ・パヴェリチを首班とし、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの大部分を含む地域に、ナチス・ドイツの傀儡政権「クロアチア独立国」を建国したと宣言する。
04/10:
・ナチス・ドイツ陸軍はクロアチアのザグレブに無血入城し、ザグレブ市民の大歓迎を受ける。
・ユーゴスラヴィア共産党中央委員会はザグレブで会合を開き、軍事委員会を設置する。
04/11:
・ユーゴスラヴィア王国政府は、カイロからロンドンに亡命する。
・ナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」は、クロアチア郷土防衛隊を創設する。
04/13:
・ナチス・ドイツの陸軍はセルビア王国の首都ベオグラードを陥落させ、イタリア軍はスロヴェニアとクロアチアのダルマツィア地方に侵攻する。
・日ソ中立条約を締結する。
04/14:
・ユーゴスラヴィア王国政府は、エジプトのカイロに亡命する。
04/17:
・ユーゴスラヴィア王国の海軍の艦船の大半がナチス・ドイツに接収されて軍事組織は崩壊し、駐ドイツ・ユーゴ大使のアレクサンダル・マルコヴィチが無条件降伏文書に署名。
註;ユーゴスラヴィア王国のその他の地域では、スロヴェニアはドイツとイタリアおよびハンガリーが分割占領。イタリアはダルマツィアとモンテネグロを分割領有し、マケドニアの一部とコソヴォを含めた「大アルバニア」として傀儡国家を擁立する。ブルガリアは、マケドニアの大半を分割占領。セルビアは、ネディチ将軍がナチス・ドイツの傀儡政権を樹立するなどで分割占領された。
04/20:
・ギリシア王国は、同盟軍に占領される。王国政府はイギリスに亡命する。
04/30:
・クロアチア独立国は、「ユダヤ人」の定義を発表。
註:以後、クロアチア独立国の「ウスタシャ」はドイツの指示に従い、ユダヤ人の財産没収、隔離、絶滅収容所への移送を開始し、44年にはクロアチア独立国内のユダヤ人は逃亡したものを除き根絶される。さらに、クロアチア独立国のアンテ・パヴェリチ政権は、セルビア人の3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を殺害し、3分の1を追放するとの方針を掲げる。
05/04:
・ソ連共産党中央委員会は、ヨシフ・スターリン書記長を人民委員会議長(首相)に任命する。
05/13:
・クロアチア独立国は、イタリア政府と外交関係を樹立する。
05/16:
・クロアチア独立国はツヴィニミロを王とする、君主政体とすることを宣言。
06/00:
・ソ連のスターリン書記長、ナチス・ドイツのヒトラー総統に、「閣下はなぜ、我が国の国境一帯に軍を終結させておられるのか」との問い合わせの書簡を送る。
・ヒトラー・ナチス・ドイツ総統は、「ドイツはソ連にいかなる領土的、経済的要求もしていない」との返書をスターリン・ソ連書記長に送る。
06/14:
・ソ連国営タス通信は、ヒトラー・ナチス・ドイツ総統の返書を掲載。「ソ連とドイツとの戦争が近いとの噂が英国や他の外国のメディアで誇張されて報道されているが、これは独ソ両国に敵対し、戦争拡大を望む勢力の拙劣なでっち上げ宣伝である」というもの。
06/15:
・アンテ・パヴェリチ・クロアチア独立国主席は、堀切駐伊日大使、リッペントロップ独外相、チアノ伊外相がベネチアに招き、クロアチア独立国が日・独・伊三国同盟側に加盟する議定書に調印する。日・独・伊三国同盟には、既にハンガリー、ルーマニア、チェコスロヴァキア、ブルガリアが加盟。
06/22:
・ナチス・ドイツは対ソ戦「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」を発動し、ドイツ軍300万、イタリア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、クロアチア独立国の同盟軍250万と併せ、550万の兵員でソ連領内に侵攻する。
・ユーゴスラヴィア共産党は、国民に蜂起を呼びかけるアピールを発表。
07/04:
・ユーゴスラヴィア共産党は、ドイツとイタリアに対する一斉蜂起宣言を発するとともに、大がかりなレジスタン運動を組織することを決定。「パルチザン」が編成され、総司令部をベオグラードに置き、チトーを総司令官をとする。
・ユーゴスラヴィアに残った王制支持派は、ドラジャ・ミハイロヴィチ大佐を指導者とし、ドイツとイタリアに対する抵抗組織として「チェトニク」を結成する。
07/12:
・モンテネグロは、ユーゴスラヴィア王国が崩壊した後に独立の準備を進めていたが、国民議会を招集して「イタリアの支配下におけるモンテネグロの独立並びに王制復活」議案を採択し、立憲君主制の独立国となる。
・ユーゴスラヴィア共産党中央委員会は、ユーゴスラヴィアの民衆に一斉蜂起の呼びかけを行なう。
08/14:
・ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が大西洋上で会談し、「大西洋憲章」に署名。
註;のちに、スターリン・ソ連首相も署名する。
08/30:
・ナチス・ドイツ占領下のセルビアは、ミラン・ネデイッチ将軍がドイツから首相の認可を貰い、ベオグラードにセルビア新内閣を組織して国家を樹立。
09/08:
・ナチス・ドイツ北方軍、ソ連のレニングラード(サンクト・ペテルブルク)を包囲する。
09/16:
・スロヴェニアに「スロヴェニア民族解放委員会」が結成され、愛国主義的レジスタンスが広がる。
09/21:
・クロアチアの南部ドレジニツァでセルビア正教会の祝いが行われているところにイタリア軍が攻撃を行ない、町が破壊される。その後、ファシスト・グループ・ウスタシャが入り込み、非戦闘員として残されていた女性と子どもなどおよそ1000人を連れ去る。
09/26:
・ユーゴスラヴィアのパルチザンは、ユーゴスラヴィア人民解放パルチザン部隊総司令部の名称をユーゴスラヴィア人民解放隊総司令部と改称する。
09/29:
・米・英・ソがモスクワ会議を開く。
09/00:
・チトー率いるユーゴスラヴィアのパルチザンは、ナチス・ドイツ軍とイタリア・ファシスト軍およびクロアチアのウスタシャ政権軍との大規模な戦闘を開始する。パルチザンは、ウジツェを中心とするセルビア西部とボスニア東部に解放区を設立する。
10/01:
・米国、レンドリーズ法をソ連にも適用し、軍需物資をソ連に貸与することを決める。
10/18:
・日本当局は、独ソ開戦に関する情報をソ連に送信していた在日ドイツ人ジャーナリストのリヒリャルト・ゾルゲ、ブランコ・ド・ヴーケリッチ、マックス・クラウゼン、尾崎秀美らを日本の国家保安法、治安維持法違反などで逮捕するる。いわゆるゾルゲ事件である。
10/00:
・ナチス・ドイツ軍はセルビア中部のクラグエヴァツとクラリェヴォの2つの市で学童を含む数千人の市民を虐殺し、「ドイツ人1人を殺害すれば、ユーゴスラヴィア人100人を殺す」と宣言する。
註;ミハイロヴィチ大佐率いるチェトニクは、当初はパルチザンと反ドイツを掲げて共闘したが、このドイツ軍の虐殺の脅しに屈した揚げ句に支配領域争いに転じ、ナチス・ドイツに協力する反パルチザン組織となる。
11/00:
・ユーゴスラヴィアで、チェトニクはパルチザンが解放区としたウジツェを攻撃し、パルチザン部隊はチェトニクの攻撃を撃退。これ以来、両者の間に内戦が始まる。
註;パルチザン部隊は、ナチス・ドイツ枢軸軍の第1次攻勢を受け、司令部本部をセルビアの拠点からボスニア東部のウジツェに移設して「ウジツェ共和国」創設を宣言した。
12/08:
・日本軍連合艦隊が米国・ハワイのパール・ハーバーを攻撃し、日米間で戦争が始まる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                    
1942年
01/15~02/07:
・ナチス・ドイツ同盟軍、パルチザン部隊に第2次攻勢をかける。パルチザン部隊総司令部はウジツェからフォチャに移動する。
03/00:
・ソ連はチトーに対し、「現在の緊急の課題は反ナチズムの勢力を結集して侵略者を放逐し、民族解放を成し遂げることである。ソ連がユーゴスラヴィア王国と協定を結んでいることを忘れないでいただきたい」とパルチザン闘争の中でプロレタリア大隊を組織することに反対の意向を示す。
04/20~06/00:
・ナチス・ドイツ同盟軍は、パルチザン部隊に第3次攻勢をかける。パルチザン部隊総司令部はフォチャから北方のスロヴェニアとクロアチアの国境地帯に移動する。
06/19:
・ユーゴスラヴィア共産党とパルチザン最高司令部は、ゼレンゴーラで本部拠点について協議。
11/26~27:
・ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ、第1回会議をボスニアのビハチで開催する。
12/22:
・AVNOJは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのツァズインで民衆集会を開く。このときヨシプ・ブロズ・チトーは、ユーゴスラヴィア人民解放軍最高司令官であることを明らかにする。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1943年
01/00~04/00:
・ナチス・ドイツ同盟軍はユーゴ・パルチザンに第4次攻勢をかけ、ボスニアのネレトヴァで激しい戦闘が行なわれる。
01/31:
・ナチスドイツ南方軍司令官パウルス元帥が、スターリングラード攻防戦において降服する。
05/15:
・ソ連政府は英米連合国との協調を図る姿勢を見せるために、「コミンテルン」の解散を決定する。
05/28:
・英国は、軍事使節団をパルチザンの最高司令部に送り込む。
05/00~08/23:
・ナチス・ドイツ同盟軍はユーゴ・パルチザンに第5次攻勢をかけ、戦闘が、ボスニアのスゥチェスカェゴビナで戦われる。
07/24:
・イタリアのファシスト評議会は、ムッソリーニの不信任決議を可決する。
09/08:
・イタリア軍は、連合軍に無条件降服する。
・コソヴォでは第2次ブリズレン連盟が結成され、大アルバニアの維持を求めるが実現せず。
09/09:
・クロアチア独立国防衛軍とナチス・ドイツ軍は、イタリア軍が降服した後を襲ってダルマツィア海岸一帯を占領し、クロアチア独立国に併合する。
・ベオグラード駐屯のイタリア軍は、「パルチザン」の武装解除に応じる。
09/11:
・モンテネグロおよびアルバニア両国は、ナチス・ドイツ支配からの独立を宣言する。
09/29:
・ユーゴスラヴィア王国の亡命政権は、ロンドンからカイロに移転する。
11/03:
・ユーゴスラヴィア王国のペータル国王は、チェトニク部隊指導者ミハイロヴィチに対し、麾下部隊を解散してチトー率いるパルチザンに合流するよう指示。
11/28:
・連合国の米・英・露がテヘランで会談し、ユーゴスラヴィア問題を協議。イギリスがパルチザン支援を提案し、米・ロも合意する。
註;イギリスは直ちにパルチザンへの支援物資を送り、落下傘部隊まで派兵する。米国は支持表明はしたものの、暫くはミハイロヴィチの「チェトニク」への支援を続けた。ソ連は、パルチザンの影響力を過小評価していたが、この合意により使節団を送る。
11/29:
・「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」は、ボスニアのヤイツェで第2回会議を開催。会議では「ヤイツェ宣言」をまとめ、ユーゴスラヴィア臨時政府の樹立を宣言。宣言要旨は、「1,ユーゴスラヴィア解放国民委員会はユーゴスラヴィア人民の主権および国家の最高代表者として、ユーゴスラヴィアの最高立法・行政代議院となること。2,亡命政府からユーゴスラヴィア合法政府としての全機能を剥奪すること。3,亡命政府が締結した国際協定および約定を全て検討し、また亡命政府が将来締結する国際協定および約定は承認しないこと。4,ユーゴスラヴィアは平等な諸民族の国家共同体として、民主主義連邦方式に基づき建国されること」。
12/05:
・ユーゴスラヴィアは、イワン・リバールを主席とし、チトーを国防相とする臨時政府の樹立を宣言する。
・ユーゴスラビア王国の亡命政権は、ユーゴスラヴィア領内における新政権樹立に抗議声明を発表。
12/29:
・ボスニアのヤイツェに各地解放軍の代表が集まり、ユーゴスラヴィア解放国民会議を開く。この会議で、「新連邦共和国樹立宣言」を採択する。
43/12/~44/01/:
・ナチス・ドイツ同盟軍は、パルチザンに第6次攻勢をかける。パルチザン部隊司令部はドルヴァールに移動し、バニャ・ルカ地方での戦いを展開する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1944年
01/27:
・ナチス・ドイツ軍、900日に及んだレニングラードの攻囲戦で敗北する。
02/24:
・ソ連の軍事使節団が、初めてパルチザンの最高司令部を訪問する。
03/15:
・ユーゴスラヴィア王国のペータル国王は、バッキンガム宮殿でジョージ英国王と会談し、亡命政権とチトー率いる臨時政府との統合工作などを協議。
04/22:
・ユーゴスラヴィアでチトー・ユーゴスラヴィア解放軍は、ナチス・ドイツ軍に支持されたチェトニクのミハイロヴィチ軍とヘルツェゴヴィナのヤブラニカで軍事衝突する。
05/00:
・ナチス・ドイツ同盟軍はパルチザンに第7次攻勢をかける。パルチザン部隊司令部はドゥルヴァールからヴィス島に移動する。
・ユーゴスラヴィア解放軍はヴェレビットを団長とする軍事使節団をロンドンに派遣し、連合国に軍事援助を要請する。
06/06:
米・英・加などの連合軍が「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動する。
06/16:
・ユーゴスラヴィア王国のペータル国王は、3人委員会のクロアチア元知事シュバシッチ博士とパン・クロヴィアの両名にチトーとの交渉を命じる。
・チトー・ユーゴスラヴィア臨時政府国防相は、英国に対してユーゴスラヴィア艦隊の返還を要求する。
06/20:
・英国政府は、ユーゴ王国のミハイロヴィチ大佐率いるチェトニク軍がナチス・ドイツ軍の指示の下にチトー率いるパルチザン軍を攻撃したことを非難し、今後ミハイロヴィチ軍への軍事援助を停止すると表明。
06/21:
・ユーゴスラヴィア王国のペータルⅡ世はマルタでユーゴスラヴィア艦隊を視察した後、チトーと会談。次いでシュパシッチ首相と会談。
07/00:
・ユーゴスラヴィア王国亡命政権は、シュパシッチを首班とする内閣を組織。ペータルⅡ世はチトーをユーゴスラヴィア軍の総司令官に任命。
08/01:
・ポーランドのワルシャワで、ドイツに対する蜂起が起こる。このワルシャワ蜂起は、援軍もなく10月に鎮圧される。
09/09:
・ブルガリアで「祖国戦線」がクーデターを起こし、対ドイツ宣戦布告をする。
09/19:
・クロアチア独立国のアンテ・パヴェリチ国家主席はベルリンを訪問し、ヒトラー総統と会談。ソ連および米英に対する共同戦線ならびにクロアチア領土の保護問題で協議。
09/29:
・ユーゴスラヴィア臨時政府軍のチトー総司令官は、ソ連の赤軍に対し、任務終了後には撤収することを条件としてユーゴスラヴィア領内に進軍することを承認する。
10/04:
・ソ連赤軍は、ルーマニアのティミショアラからユーゴスラヴィアのヴォイヴォディナに侵軍し、ユーゴスラヴィア王国の首都ベオグラード包囲態勢をとる。チトー率いるパルチザンは、ウクライナ第3戦線軍とドナウ川の湾曲部西方で合流し、ベオグラードを窺う。
10/05:
・ソ連赤軍のウクライナ第2戦線軍は、ベオグラードの東20キロのパンチェヴォに突入する。
10/09:
・チャーチル英首相はモスクワを訪れ、スターリンとの間にバルカン諸国の勢力圏分割に関する秘密協定を結ぶ。チャーチルは、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなどに対するソ連の影響力の確保を保証する一方、ユーゴスラヴィアに関しては50%/50%での勢力圏分割を提案。
10/16:
・ヨシプ・ブロズ・チトー率いる人民解放軍とソ連赤軍はベオグラードに進撃し、ナチス・ドイツ軍と市街戦を展開。
10/20:
・チトーが率いるパルチザン人民解放軍とソ連赤軍は、ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを制圧し、ナチス・ドイツ軍を撤退させる。
・チトー率いる人民解放軍はさらにクロアチアのダルマツィア地区のドブロヴニクを占領し、クロアチア独立国の首都のザグレブを包囲。
11/02:
・ユーゴスラヴィア王国政府とAVNOJとの間に「チトー・シュバシッチ協定」が締結される。この協定によってユーゴ王国政府とチトーのパルチザン・AVNOJが共同戦線を構築することになり、これが国際的な承認を得て、AVNOJに連合国側からの支援が届くようになる。
11/07:
・ドイツ人ジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲは、日本の国防保安法・治安維持法違反などの罪に問われ、尾崎秀実とともに死刑執行される。
註・共産党員のゾルゲはジャーナリストとして在日していたが、駐日ドイツ大使館の要員ともなり、日本でスパイ活動をしてナチス・ドイツの対ソ戦開始日などの情報をソ連に送信していた。この一連の活動は、「ゾルゲ事件」と称されている。
11/29:
・チトー総司令官率いるパルチザンは、ユーゴスラヴィア全土を解放する。コソヴォも解放され、ユーゴスラヴィアの一部となる。
11/00:
・スターリンは、ユーゴの指導者チトーの腹心であるエドワルド・カルデリをモスクワに呼びつけ、バルカン諸国の勢力圏分割および、共産党指導部がユーゴスラヴィア王国亡命政府の帰国を認めない姿勢をセクト主義であると非難。
12/01:
・コソヴォのドレニツァで、アルバニア人1万人以上がユーゴ人民軍の占領に対し武装蜂起する。ユーゴスラヴィア人民解放軍は一時撤退するも、2ヵ月後に鎮圧。死者650人、負傷1360人、行方不明1256人。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1945年
01/11:
・ユーゴスラヴィア国王のペータルⅡ世は、チトー率いるパルチザン解放委員会とシュパシッチ亡命政権首相との間で合意した「新ユーゴスラヴィアを樹立し、王制を復活するか共和制にするかは国民の意向に従う」との両政権統合案を拒否する。
01/13:
・ゾルゲ事件に連座して無期懲役刑を受けたアヴァス通信社のユーゴスラヴィア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチは、日本の網走刑務所で獄死する。
註・ヴーケリッチの子孫は、その後旧ユーゴスラヴィアに移住する。
01/20:
・ハンガリーはソ連と休戦協定を結び、対ドイツ宣戦布告をする。
02/04:
・連合国の米・英・ソ三首脳、ヤルタで会談を開く。
02/00:
・ユーゴスラヴィア臨時政府は、コソヴォ自治州に戒厳令を施行する。
03/07:
・ユーゴスラヴィアは、チトー元帥を首班とする統一内閣を樹立する。内閣は、国内各派から22名、国王ペータルⅡ世亡命政権側から6名の28名の閣僚で組閣し、就任式を行なう。亡命政権のミラン・シュバシッチ首相は外相に、ミラン・グロール民主党党首は副首相に就任する。
註;当時のユーゴスラヴィアの人口1350万人。戦争による死者170万人。ナチス・ドイツが殺害したセルビア人は7万8000人。イタリアが殺害したセルビア人2万人。ハンガリーが殺害したセルビア人3万人。アルバニアが殺害したセルビア人1万人、ブルガリアが殺害したセルビア人6000人。ウスタシャが殺害したセルビア人は50万人。その他はチェトニク、パルチザンなどとの内戦による死者。
パルチザンは41年に組織された時点では8万人~9万人だったが、45年にユーゴスラヴィアを解放したときは80万人に増大していた。
03/31:
・ユーゴスラヴィア新政府は、ポーランドの仮政府と外交関係を確立。
04/06:
・パルチザンはナチス・ドイツ軍が占領していたボスニアのサラエヴォを攻略し、解放する。
04/20:
・ソ連軍、ベルリン攻撃を開始する。
04/25:
・イタリアの国家ファシスト党の指導者ベニート・ムッソリーニがパルチザンに拘束され、略式裁判で銃殺刑に処せられる。
04/30:
・ヒトラー・ナチス・ドイツ総統が自殺。
04/00:
・ソ連とユーゴスラヴィア政府は「友好協力相互援助条約」を締結する。
・連合軍に降伏したドイツ将兵100万人がライン河畔の「捕虜仮収容所」に収容され、そのうち60万人が虐待死する。
05/07:
・デーニッツ・ドイツ臨時大統領はナチス・ドイツ全軍に対し無条件降服を命令。、
05/08:
・デーニッツ・ナチス・ドイツ代表は降服文書に署名する。
05/09:
・チトーのパルチザン部隊、クロアチアのザグレブに入城する。
05/15:
・米・英両政府はユーゴスラヴィア新政府に対し、ユーゴスラヴィア軍をトリエステから撤退させるよう要求する。
05/22:
・イタリアに進駐している米英両軍は、トリエステに向かって進軍する。
05/00:
・第2次ユーゴスラヴィア王国は建国を宣言する。
註;ユーゴスラヴィア王国はヨーロッパにおける低開発国であった上に、第2次大戦における国土の損害は、工業の37%、鉄道路線の52%、機関車の76%、客車の84%を失い、農業では用具の36%、馬の62%、牛の56%、山羊の63%が失われた。
06/09:
・トリエステ問題について、米・英・ユーゴスラヴィア間に協定が成立。「1,トリエステのイタリアの支配権は認めないが、米英軍が駐留し管理下に置く。2,イストリア半島とヴェネチア・ジューリアはユーゴ軍の駐留を認める」というもの。
08/07:
・チトー元帥兼首相は、ユーゴスラヴィアの王制を廃すると宣言。
08/08:
・ユーゴスラヴィア国王ペタールⅡ世は、あくまで国王としての地位を確保するとの態度を表明。
08/15:
・日本は連合国の無条件降服の要求を受諾し、第2次大戦が終結する。
註;同盟国側に参加した国は・「ドイツ・イタリア・日本・オーストリア・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニア・チェコスロヴァキア・クロアチア独立国」。
09/19:
・連合国5ヵ国外相理事会は、トリエステ港を国際港とするよう勧告。
11/11:
・ユーゴスラヴィアでは、総選挙でチトー元帥率いる「国民戦線」党が勝利し、チトー政権が誕生する模様。
11/29:
・ユーゴスラヴィア憲法議会は、ユーゴスラヴィア国家の王制廃止とユーゴスラヴィア連邦人民共和国の成立を宣言する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1946年
01/31:
・ユーゴスラヴィア議会は、ユーゴスラヴィア連邦共和国の新憲法を可決し、新政府の首相にチトー元帥を任命する。
02/02:
・ユーゴスラヴィア議会は、チトー首相の信任投票を行ない、これを支持する。
03/19:
・ユーゴスラヴィア連邦政府は、ポーランドと20年間の相互友好条約を締結。
03/00:
・ギリシアで内戦が始まる。
04/20:
・米上院外交委員会は、米国務省が決定したユーゴスラヴィアのチトー政府の承認を保留すると発表。
06/10:
・チェトニクの指導者ミハイロヴィチ大佐の裁判が開かれる。
06/13:
・ユーゴスラヴィア連邦とフランス政府は、通商協定を締結する。
06/30:
・トリエステ市で、イタリア人とユーゴスラヴィア人の間で衝突が起こる。
07/07:
・ユーゴスラヴィア政府は、米国がドナウ川流域の自由通商を認めないことを理由にして船舶171隻を押収したことに、抗議の声明を発表。この船舶は、大戦中にドイツ軍に接収されていたもの。
07/09:
・ユーゴスラヴィア連邦は、社会主義憲法を制定したアルバニアと友好協力相互援助条約を締結。
08/09:
・ユーゴスラヴィア連邦軍は米輸送機を攻撃し、輸送機はユーゴスラヴィア領内に不時着する。
08/22:
・ユーゴスラヴィア当局は、不時着した米輸送機の搭乗員の米人7人とハンガリー人2人を釈放。
10/15:
・ユーゴスラヴィアのパリ講和会議代表団は、講和条約にイタリアとの賠償およびトリエステ問題が含まれていないことを理由に講和会議から脱退する。
12/05:
・ユーゴスラヴィア連邦政府は、「私企業の国有化に関する法律」を施行する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1947年
04/28:
・ユーゴスラヴィア連邦議会、第1次5ヵ年計画を採択。
06/05:
・米国は欧州の復興計画としてマーシャル・プランを発表する。
06/12:
・グローザル・ルーマニア首相はユーゴ連邦のベオグラードを訪問し、ドナウ川沿岸諸国としてのユーゴスラヴィアとルーマニア両国間の主権擁護について意見の一致を見る。
07/26:
・米国は「国家安全保障法」を制定し、中央情報局・CIAを設置する。
09/28:
・チトー・ユーゴスラヴィア首相は、与党諸派からなる第2回国民戦線大会において、ファッシズムと闘うための国民戦線を提唱。
09/22:
・ヨーロッパ9ヵ国の共産党および労働者党がポーランドに参集し、コミンフォルムの創立大会を開催。
10/05:
・コミンフォルム本部は、コミンフォルムの設立を正式に発表。本部をベオグラードに設置する。
註;コミンフォルムは表向きとしては共産党および労働者党情報局をいう。参加した共産党および労働者党は、ユーゴスラヴィア共産党、ソ連共産党、ブルガリア共産党、チェコスロヴァキア共産党、ルーマニア労働者党、ポーランド統一労働者党、ハンガリー勤労者党、フランス共産党、イタリア共産党など。
10/08:
・国連総会政治安全保障委員会は、米国提出のバルカン国境監視委員会設置案を絶対多数で採択。
10/09:
・ソ連、白ロシア、ウクライナ、ユーゴスラヴィア、ポーランド、チェコスロヴァキアは、「バルカン監視委員会設置」を採択したことに対し、これをボイコットする共同声明を発表。
10/11:
・ユーゴスラヴィア連邦外務省は、チリ政府がユーゴスラヴィアの駐チリ代理公使を国外追放したことを受け、外交関係を断絶すると発表。
11/27:
・チトー・ユーゴスラヴィア連邦首相とディミトロフ・ブルガリア首相は、両国の軍事同盟条約に調印。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1948年
03/18:
・ソ連の軍事・民間顧問団は、ユーゴスラヴィア連邦政府に引き上げを通告する。
03/21:
・米ニューヨークタイムズ紙は、イタリアとユーゴ連邦との間で係争地となっているトリエステ自由地区を、ソ連圏の攻勢の脅威に対抗するためにもイタリアに返還させるべきだ、と社説で主張。
03/22:
・ユーゴスラヴィア連邦のスタニエ・シミック外相は記者会見で、「ユーゴ政府はトリエステ問題を円満に解決したい。そのためにはゴリツィアをユーゴスラヴィア領とし、トリエステをイタリア領とすることを認める意思がある」と述べる。
03/22:
・トリエステの米・英軍の発表によれば、ユーゴ連邦人民軍の巡察隊が米英地区に侵入し、警官隊に機関銃で発砲。警官隊が応戦してユーゴ連邦人民軍を撃退したが、警官隊No1人が重傷を負う。
06/28:
・コミンフォルム第2回会議がルーマニアのブカレストで開かれる。この会議に、ユーゴスラヴィア共産党は招かれず。会議は、ユーゴ共産党がマルクス・レーニン主義から逸脱しているとして除名決議が採択される。
註;コミンフォルムは、ソ連共産党を中心とする国際共産党に関する情報組織で、諸国のほとんどの共産党は加盟している。コミンフォルムがユーゴスラヴィア連邦を追放した理由は、ユーゴスラヴィアがソ連圏の中央集権的な体制とは別に、ブルガリアとバルカン連邦構想を協議し、この構想にゆくゆくはギリシア、ルーマニア、アルバニア、ハンガリー、チェコスロヴァキアなどを包含させると表明したことにある。これに加え、ユーゴ連邦がイタリアとの間でトリエステの領有権をめぐる争いは、西欧との軋轢を生む要因でもあった。この独自の行為がスターリンを激怒させ、コミンフォルム追放に至った。
・中国共産党は、ユーゴスラヴィアの修正主義を激しく批判。
・米政府は、「米国政府は近く米国におけるユーゴスラヴィアの凍結資産5500万ドルを解除する予定である。また、ユーゴ政府も昨年ユーゴ領上空で撃墜した米機2機に対する賠償と、同国政府が国有化のために没収した米国人所有財産2500万ドルに対する補償金を支払うことになるだろう」と語る。
06/30:
・チトー・ユーゴスラヴィア首相は、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、アルバニアを結ぶバルカン・ブロックを提唱。
07/01:
・アルバニア共産党はソ連と完全同調することを明らかにし、ユーゴスラヴィア提唱のバルカン・ブロックは「公然たる背信行為だ」と反発。
07/21:
・ユーゴスラヴィア共産党第5回大会がベオグラードで開かれる。欧州共産党は、ユーゴスラヴィア共産党がコミンフォルムから追放されたことを受けて不参加を表明。
09/08:
・ユーゴスラヴィア軍とギリシア軍が、国境で戦闘を交える。
11/01:
・コミンフォルム機関紙は、社説でチトー・ユーゴスラヴィア首相を攻撃。「各国共産党とユーゴスラヴィア国民が、全世界の民主的世論の前に非難した民族主義者チトーおよびその他の背教者たちはまだあやまちを改めず依然前進を続けているが、彼らはやがてこの前進によって不名誉な地位にたたき落とされるであろう」と非難。
12/00:
・米英両国はユーゴスラヴィア連邦政府と経済協定を締結する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1949年
01/25:
・ソ連およ東欧5ヵ国は、経済相互援助会議・コメコンの設立を発表。初期の参加国は、ソヴィエト連邦、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの6ヵ国。ユーゴスラヴィア連邦は含まれず。
02/22:
・オーストリア講和条約起草のための4ヵ国外相代理会議は、ユーゴスラヴィア国内のオーストリアの財産および権益をめぐって再び対立。ユーゴスラヴィア代表は、1億9000万ドルの賠償と1億2000万ドルの財産の譲渡を要求したが、ベルトロ・フランス代表が要求は不当であり、1億2000万ドルで満足し、賠償金は要求しないことを要請。
04/04:
・北大西洋条約機構・NATOが米・英主導で設立される。
06/03:
・ユーゴスラヴィア連邦政府は、非公式に米国輸出入銀行に借款供与を申し入れる。
07/23:
・ユーゴ連邦政府は、ギリシア反政府軍に対する援助を停止すると発表。
08/11:
・ソ連政府は、ユーゴ連邦政府に送った覚え書きで、「チトー政府は、帝国主義者の対ソ包囲の一環に加わり西欧諸国とブロックをつくろうとしている」と非難。
08/24:
・アチソン米国務長官は、「米政府は、バルカン諸国の情勢に強い関心を持っている。特にユーゴ連邦とソ連間の成り行きに注意している」と述べる。
08/29:
・ユーゴ連邦政府はワシントンの輸出入銀行に対し、2500万ドルの借款を正式に申し入れる。
・ソ連政府はユーゴ連邦政府に対し、二重外交を非難する覚え書きを送付。
09/03:
・国際復興開発銀行の調査団がユーゴスラヴィアを訪問し、ユーゴ政府と2億5000万ドルの借款要請について協議。
09/05:
・ソ連共産党機関紙「プラウダ」は、ゴルボヴィチのユーゴスラヴィアに対する新共産党結成を呼びかける論説を掲載。
09/08:
・米国輸出入銀行は、ユーゴ連邦政府の借款要請に対し2000万ドルを認可。
09/29:
・ソ連政府は、ユーゴスラヴィア共和国との友好条約を破棄。他のソ連圏諸国もこれに追随する。
09/30:
・ハンガリーとポーランドおよびブルガリアは、ユーゴスラヴィア間の友好相互援助条約を破棄する。
10/10:
・ユーゴスラヴィア連邦は、国際通貨基金・IMFから借款を得る。
10/22:
・チェコスロバキア政府は、ユーゴ連邦のプラハ大使館の館員の退去を要求する。
10/25:
・ソ連政府はユーゴ連邦政府に対し、駐ソ・ユーゴ大使の召還を要求。
10/27:
・ハンガリー側からユーゴスラヴィア領土に向けて銃撃があった、とユーゴ連邦内務省が発表。
11/00:
・コミンフォルム第3回会議がハンガリーで開かれ、ユーゴスラヴィアのチトー主義非難決議を採択。チトー・ユーゴ大統領は、非難決議を拒否。
12/22:
・トルーマン米大統領は対ユーゴスラヴィア政策について、「米国はチトー政府が如何なる国から受ける侵略に対しても、反対するとの態度をユーゴ連邦政府に伝達するよう訓令した」と語る。
12/23:
・西独は、ユーゴスラヴィアとの通商協定を締結する。
12/27:
・国際復興開発銀行は、ユーゴ連邦政府に対する2500万ドルの借款協定に合意する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1950年
02/18:
・チトー・ユーゴ連邦首相はチトーヴォ・ウジチェで国民を前に、「米国と西欧はその援助約束を実施すべきである。ただし、援助の代償として社会主義の原則を犠牲にしなければならないならユーゴスラヴィアはむしろかかる援助を欲しない」と演説。ユーゴスラヴィアは、復興開発銀行に2500万ドル、米輸出入銀行に1100万ドルの経済援助を求めている。
02/21:
・ユーゴ連邦政府は、ホー・チミン・ヴェトナム共和国大統領の要請に応え、ヴェトナム共和国を承認する。
03/05:
・チトー・ユーゴ連邦首相はアドリア海のスプリトでソ連との和解を求めているとの噂を否定し、「ソ連がもしユーゴスラヴィアとの和解を求めるならば、先ずスターリン首相自身が詫びを入れなければならない」と演説。
03/29:
・ユーゴ連邦政府は総選挙の結果を発表。それによると政府閣僚への平均支持率は93%。ただし、クロアチア地方では4分の1が投票を棄権。
04/16:
・ユーゴスラヴィア労働組合会議は、コミンフォルム系の世界労連がユーゴ労働組合会議のサライス会長を世界労連執行委員会書記局から除名した決定を取り下げるまで、同労連との関係を打ち切る旨の決議を採択。
06/03:
・ユーゴ連邦政府は、ワルシャワ駐在ユーゴスラヴィア大使を引き上げ、「ユーゴ連邦政府は、ポーランド政府がワルシャワ駐在のユーゴスラヴィア大使に対して行なった侮辱と差別待遇とのために大使を召還した」と発表。
06/14:
・ユーゴ連邦政府は、ソ連がユーゴスラヴィア船舶のドナウ川の航行を妨害していることに対し、抗議の覚え書きをベオグラード駐在ソ連大使館に送付。
06/17:
・ユーゴ連邦政府外務省は、3日前にブルガリア軍部隊がユーゴスラヴィア領に侵入してユーゴスラヴィア国境警備兵を待ち伏せして攻撃し、1名を負傷させた、としてベオグラード駐在ブルガリア大使館に抗議の覚え書きを送付。
06/27:
・ユーゴスラヴィア人民議会は、労働者自主管理法を採択し制度化する。
07/12:
・ユーゴ連邦当局は、ハンガリーとの国境地帯への一般人の立ち入りを禁止する措置を取る。
07/14:
・ハンガリー政府は、ユーゴスラヴィアに接する国境地区を10マイルにわたって閉鎖する旨を公式に発表。
07/14:
・ユーゴ連邦政府は、13日にブルガリア国境警備隊が4回にわたりユーゴスラヴィア国境を越境した事件で、ブルガリア政府に対して厳重に抗議する。
07/18:
・アルバニア政府は、ユーゴ連邦当局がアルバニア向けに予定しているドイツの賠償物資を差し押さえていることに対し抗議。
09/05:
・ユーゴスラヴィア共産党機関誌「ボルバ」は、カルデリ・ユーゴ外相が北朝鮮の南朝鮮侵攻をソ連の世界侵略政策として批判した言論を掲載。
11/11:
・ユーゴ連邦外務省は、アルバニアとの外交関係を一切断絶したとのコミュニケを発表。これに伴い、ベオグラードのアルバニア公使館の閉鎖と館員の召還を要求。
11/24:
・ユーゴ連邦政府は、米国の対外武器援助法に基づいた食料供与に関する協定が成立し、アレン米大使とマチス・ユーゴ外務次官との間で調印されたと発表。この協定により、1949年に米国議会で成立した非ソ連世界防衛を目的とする対外援助基金から、資金を受け取ることになる。
12/27:
・ユーゴ連邦政府は、ユーゴスラヴィア国境警備隊がドナウ川付近で越境したルーマニア兵を射殺した、と正式に発表。さらに150名のルーマニア兵が同方面に現れて発砲し、戦友の死体を回収しようとした、とのコミュニケを発表。
・チトー・ユーゴ連邦首相は議会に対し、現下の情勢に対処するためユーゴを武装するため巨額の国防予算を承認するよう要請。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                    
1951年
02/17:
・チトー・ユーゴ連邦首相は、「もし、コミンフォルム諸国がユーゴスラヴィアを侵略すれば、世界大戦を引き起こすことになろう。しかし、そのような攻撃が行なわれない限り、ユーゴスラヴィアは西欧から武器援助を求めるつもりはない」とユーゴ連邦人民軍を前に演説。
02/18:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードの消息筋は、チトー・ユーゴ連邦首相が共産党員に対し、西欧諸国を「帝国主義者」としてみるのではなく「友」と呼ぶよう命じている、と述べる。
02/23:
・米政府当局者は、現在ベオグラードでチトー・ユーゴ連邦首相と会談しているパーキンス米国務次官が帰国次第、ユーゴスラヴィアに対する経済援助を強化する方法を検討する、と語る。
03/09:
・ユーゴ連邦政府はソ連政府に対し、ユーゴスラヴィアに軍事的圧迫を加えるためにソ連の衛星国に武器、軍隊を供給しているとして、正式の抗議の文書を白書の形式で送る。
06/14:
・米・英・仏3国はユーゴスラヴィアへの援助問題について協議し、総額5000万ポンドの援助を与えることで意見が一致。内訳は米65%、英23%、仏12%。
08/03:
・ポポヴィチ駐米ユーゴ連邦大使はアチソン米国務長官と会談。記者会見で、「米、ユーゴスラヴィア間武器協定について米当局と討議するため、4日にワシントン到着の予定である」と語る。
08/25:
・ハリマン米大統領特別補佐官はベオグラードを訪問し、「ユーゴスラヴィア訪問の使命は米国の経済的、軍事的な対ユーゴスラヴィア援助に関するさまざまな計画についてチトー元帥と協議するためだ」と述べる。
09/12:
・ベブラー・ユーゴ国連主席代表はリー国連事務総長に対し、アルバニア兵のユーゴ国境侵犯行為を抗議したユーゴ連邦の覚え書きの写しを国連全加盟国に回覧するよう要請。
09/21:
・ブルガリア外務省はユーゴ連邦政府に対し、「ユーゴスラヴィアの絶えざるブルガリア国境侵犯事件」について抗議の覚え書きを送付。
10/20:
・チトー・ユーゴ連邦首相は朝日新聞との会見で、「西欧が平和防衛のために再軍備を始めるのは国際情勢からいって望ましい。ユーゴ連邦が軍備を整えているのは独立を保存するためであり、西欧陣営側の平和の一翼となっている」と述べる。
10/30:
・ユーゴ連邦人民軍のペチコ・デブセヴィック参謀次長は記者団に対し、「ユーゴ連邦は、ソ連に対する防衛を強化するため若干の米国製原子爆弾と他の原子兵器を入手することを望んでいる」と語る。
12/08:
・ユーゴ連邦政府は、西ドイツと正式の外交関係を樹立することに決定したと発表。
12/17:
・米第6艦隊の旗艦デス・モイネスは、ユーゴスラヴィアのリエカ港に入港する。
12/28:
・ポポヴィッチ・ユーゴ連邦蔵相は議会で、52年1月1日からユーゴの通貨ディナールの為替レートを6分の1に切り下げ、1ドル50ディナールを300ディナールとすると発表。米側の専門家は、「この新計画は従来通り社会主義を基礎としているとはいえ、自分の仕事をかなり自由に決定しうる多数の自治的企業体を基礎とすることになるだろう」と述べる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1952年
01/03:
・ユーゴ連邦政府は、日本との戦争状態を終結し、外交関係を復活するため直接交渉を開始したと発表。
02/29:
・チトー・ユーゴ連邦首相は、トリエステ問題について、イタリア政府がトリエステを自由地域とすることに同意すれば、ユーゴ連邦はトリエステの占領地区を放棄する用意があると言明。
・米・英・仏のユーゴ駐在大使はカルデリ・ユーゴ外相を訪問し、3国が新たに4500万ドルの対ユーゴ経済援助を与えることを決定した旨伝える。
03/15:
・ニューヨーク・タイムズによれば、米・英・仏3国はユーゴスラヴィア連邦に対する共同政策を修正するべく検討を重ねる。
03/31:
・チトー・ユーゴ連邦首相はトリエステ問題に関し、「ユーゴスラヴィアおよびイタリアの共同管理並びにイタリアにいる少数のユーゴスラヴィア国民に対する保護を要求する」と語る。
04/03:
・トリエステ問題に関する米・英・伊3国会談がロンドンの外務省で行なわれ、「3国が取ろうとしている措置は、トリエステ全地域の将来についての最終的解決を阻害するようなものではない」との共同コミュニケを発表。
04/12:
・日本外務省は、ユーゴ連邦政府から講和条約発効の日に戦争終了宣言を行ない、友好関係を回復するとの意向を伝えてきたことに関し、覚え書きが交換されたと発表。
04/18:
・ユーゴスラヴィアの貿易専門家はベオグラード放送を通じ、対日外交関係が結ばれ次第、ユーゴスラヴィアは日本に対し軟質材、セメント、でんぷん、薬草、アルミニュームを輸出することが可能で、日本からは鋼鉄、綿織物、絹、魚油、米などを輸入することを希望している、と述べる。
04/23:
・トリエステの米・英占領A地区へのイタリア行政の参加について、米・英・伊3国が意見の一致を見る。
05/10:
・ユーゴ連邦国営タンユグ通信は、ユーゴ連邦の新憲法草案ではユーゴ連邦共和国に大統領制を導入することが検討されている、と報じる。
05/15:
・トリエステのユーゴ連邦管理地区司令官は、「1,トリエステB地区の民政を行なっているイストリア地方人民委員会を廃止し、ユーゴ連邦政府の任命した政治顧問の補佐を受ける。2,トリエステB地区の金融事項はユーゴ連邦銀行が行なう。3,トリエステB地区の住民へのユーゴスラヴィア国内旅行制限を撤廃する」と発表。
06/17:
・トルコ駐在ユーゴ大使は、「現在トルコ、ギリシャ、ユーゴスラヴィア3国簡易協定締結交渉が行なわれている。バルカンに対して攻撃が行なわれた場合には、ユーゴ連邦はユーゴスラヴィアに対する攻撃と見なして共同防衛にあたる」と述べる。
06/18:
・ユーゴ連邦政府は、ブルガリアのソフィアからユーゴ連邦の外交代表を引き揚げる意向であると、公式に発表。
07/23:
・欧州石炭鉄鋼共同体・ECSCがフランス、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ、イタリアの6ヵ国の参加で発効する。
08/12:
・ペース米陸軍長官がベオグラードに到着。ユーゴ連邦人民軍を視察した後に、チトー元帥と会談。
08/19:
・ユーゴ駐在米国大使館は、米国の民間商社は近くユーゴスラヴィアに投資が出来るようになろう、とのステートメントを発表。
08/23:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、アルバニア武装兵がユーゴスラヴィアの国境警備隊に小銃や手投げ弾で攻撃を加え、死者1名、負傷2名を出した、と報じる。
08/30:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、「米・英・仏政府代表とユーゴ連邦政府との経済援助延長交渉は成功裏に終了し、さらに1年間延長されることになった」と報じる。
09/10:
・米・英・仏3国は、ユーゴスラヴィアに対し総額9900万ドルの新規経済、軍事援助を与えることを決定。援助の内訳は、米国7800万ドル、英国1260万ドル、仏840万ドル。
09/13:
・日本政府は、東京駐在のユーゴ特命全権公使としてマクス・パトケを承認する。
09/17:
・イーデン英外相はユーゴスラヴィアのベオグラードを訪問し、チトー・ユーゴ連邦首相およびカルデリ外相と会談。会談の内容は、「1,米国とユーゴ連邦との接近をさらに推進し、英国がこれに加わることによって西欧側とユーゴスラヴィアとの結合を強化する。2,両国の経済関係の再調整。3,西欧防衛の南部拠点ギリシャ、トルコ両国との関係。4,ソ連陣営の最近の東欧分散ブロック主義に対抗する新方式の検討」などが話し合われたと見られる。
10/11:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード放送によると、ユーゴスラヴィア東部国境地帯のルーマニア、ハンガリー領内で、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロバキア、ブルガリアの陸軍が合同演習を実施。
11/02:
・ユーゴスラヴィア共産党は第6回大会をクロアチアのザグレブで開き、ソ連を非難する決議案を採択する。大会で、党名をユーゴ共産主義者同盟と変更。ランコヴィチ内相は、コミンフォルム同調者1万1130名を処罰し、4089名は今も刑に服している、と発表。
11/04:
・米国で国家安全保障庁・NSAが設置される。
11/28:
・ユーゴスラヴィア連邦は、「新憲法草案」を発表。新憲法草案において大統領制の導入を提起する。
11/30:
・ユーゴ連邦とギリシャ両国政府は、「両国の関係は強化され、将来の軍事協力関係を発展させる基調を確立した」との共同声明を発表。
12/17:
・ユーゴ連邦政府は、第2次大戦中に独・伊両軍と協力したかどで有罪を宣告したステピナッツ大司教をバチカン法王庁が枢機卿に任命したことを理由として、法王庁のオディ使節に国交断絶を通告する。
12/27:
・ユーゴ連邦議会は、政府のバチカン法王庁との断交を満場一致で承認する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                    
1953年
01/14:
・ユーゴ連邦国民議会は新憲法を採択し、クロアチア出身のチトー・ユーゴ連邦首相を569名中568名の賛成で、連邦大統領に選出する。
02/05:
・チトー・ユーゴ大統領は、スティファノボロス・ギリシャ外相を会食に招き、ユーゴスラヴィア・ギリシャ・トルコ三国共同防衛態勢の協定を急ぐよう述べる。
02/07:
・ユーゴスラヴィアを訪問中のステファノボロス・ギリシャ外相は記者会見で、「ギリシャ、トルコ、ユーゴスラヴィア3国協定の調印は今月中に行なわれるだろう」と述べる。
・イギリスとユーゴスラヴィア両国間の新たな通商協定が調印され、軟貨(自国通貨)による自由取引が行なわれることになる。
02/22:
・ユーゴスラヴィアの人民戦線が第4回大会を開き、人民戦線を解消するとともに「ユーゴ労働者社会主義同盟」を設立。
02/23:
・ユーゴ連邦のカルデリ幹部会副議長は、第4回人民戦線大会で、「ユーゴ連邦はソ連の侵略的意図に対して集団安全保障を求める。ただし、集団安全保障体制に参加することによっていかなる政治的な目標にも拘束されないことが条件である。ユーゴ連邦は北大西洋条約機構・NATOに1度も加盟を申し込んだことがない」と述べる。
02/27:
・ユーゴスラヴィア、トルコ両国間に総額7000万ドルにおよぶ通商協定がアンカラで調印される。協定により、トルコはユーゴスラヴィアに小麦、綿花、くず鉄、種子油、マンガンなどを輸出し、ユーゴスラヴィアからは材木、機械、鉄、毛織物、綿製品、アルミ製品などを輸出することになる。
02/28:
・ユーゴスラヴィア、ギリシャ、トルコの3国間の友好協力条約がアンカラで調印される。
03/03:
・朝日新聞によると、ウラディミール・デジェル著の「チトーは語る」が英国で評判になっているとのこと。
03/05:
・ソ連のヨシフ・スターリン首相が死去する。
03/10:
・米国は防衛援助計画に基づき、ユーゴ連邦にベオグラード郊外の軍用飛行場で、ジェット機を贈呈。
03/21:
・ユーゴ連邦国民会議の外務委員会は、ユーゴスラヴィア、ギリシャ、トルコ3国の友好条約を全会一致で承認。
04/14:
・ユーゴ連邦とルーマニアは、ドナウ川の航行問題を討議するための会談を行なうことを決定したと発表。
05/15:
・ユーゴ連邦政府は、米国の武器などの域外買い付けに参加。
05/16:
・米国の通信社は、ユーゴ連邦政府が、米国の軍用機の作戦のためのユーゴスラヴィア国内の飛行場の使用および領空を飛行する権利を与えた、と報じる。
05/21:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、米国の通信社がユーゴスラヴィアの飛行場と領空通過の権利を認めた、との報道を否定。
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、「ユーゴ連邦とソ連の関係がどうあろうと、米英仏3国に対する現在の態度を変えるようなことはないし、西欧がユーゴスラヴィアの最も困難な時期に与えてくれた援助を忘れるものではない」と演説。
06/11:
・ユーゴ連邦政府は、インドネシアとの間に725万ドルの友好通商協定を締結。
06/12:
・ギリシアのパパゴス首相は、イタリア、ユーゴスラヴィア両国に対し、3国間で反ソ防衛条約を締結すべきだとの勧告を行なう。
06/14:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、「ソ連政府の正式に外交使節を送りたいとの提案を受け入れ、再び全面的な外交使節の交換をするつもりである」と演説。
06/15:
・ユーゴ連邦政府は、ヴァシリ・アレクセーヴィチ・ヴァルコフ駐ユーゴソ連大使を承認する。
06/18:
・ユーゴ連邦外務省は、ソ連の軍艦26隻がドナウ川のユーゴスラヴィア地域を通過する許可を与えたと発表。
06/27:
・米軍当局は、「ハイデルベルヒの在欧米軍西独司令部でユーゴ連邦と米国との間で調印された第1回海外買い付け契約に基づいて、ユーゴ連邦は兵器539万ドルを現地生産するはずである」と発表。
07/11:
・ユーゴスラヴィア、ギリシア、トルコ3国外相会議はアルバニア問題に触れ、「3国外相はアルバニアが民主主義体制へ復帰するべき機が熟しているとの結論に達した。アルバニアの独立がバルカンの平和と安全にとり重要な要素をなすものであることに意見の一致を見た」との声明を出す。
07/14:
・ユーゴ連邦政府は、ドブリヴォエ・ヴィディッチを駐ソ大使に任命。
08/03:
・アトリー英労働党党首は、ベオグラードを訪問。
08/19:
・イランで国王派軍人によるクーデターがあり、モザデグ前首相を逮捕し、ザヘディ将軍が首相に就任する。
08/20:
・ブコヴィチ上級大将を団長とするユーゴ連邦軍事代表団は、米英仏3国の陸軍当局と軍事援助問題について協議するためにニューヨークに向かう。
08/29:
・ユーゴスラヴィアとハンガリーの両政府代表は、国境紛争問題を解決するための協定に調印。
09/10:
・ユーゴ連邦政府は、ブルガリア政府が任命したリューベン・アンゲロフ駐ユーゴ大使を承認。ハンガリーのサンドール・クリンスキー駐ユーゴ大使も承認。
09/13:
・イタリアのペルラ首相はトリエステ問題について、「トリエステA・B両地区で人民投票を行なうこと、および米英仏とイタリア、ユーゴスラヴィアとで会談を開く」ことを提案。
09/28:
・ユーゴ連邦政府は、トリエステ問題に関するペルラ・イタリア首相の人民投票実施の提案を拒否。
09/29:
・ユーゴ連邦政府は、広瀬節男ベオグラード駐在日本公使を承認。
10/05:
・米・英・仏3国はトリエステ問題について、A・B両地区をイタリアとユーゴスラヴィアに分割する案を提案。
10/06:
・ユーゴ連邦政府当局者は、米・英・仏のトリエステA・B地区分割案には反対を表明。
10/08:
・英国政府は、トリエステのA地区から米英占領軍を引き上げ、イタリアの管理に任せると発表。
・イタリア外務省は、米英連合国の決定を満足を持って受け入れる、とのコミュニケを発表。
・ユーゴスラヴィアのベオグラードで、群衆がイタリア公使館を襲撃。
10/10:
・チトー・ユーゴ大統領は、「ユーゴ連邦部隊は既にユーゴスラヴィア管理のトリエステB地区に入った。イタリアはトリエステに対して権利を持っていない。我々はイタリアにA地区を渡すような米・英の協約を認めない。イタリア軍のA地区進出をユーゴ連邦軍は侵略行為と見なす」との声明を発表。
10/11:
・米国の駆逐艦3隻が、トリエステ港に入港。
10/12:
・ユーゴ連邦のベブラー外務次官は、米・英・伊の外交代表に覚え書きを手交し、トリエステ情勢から生ずる平和への脅威を取り除くために、ユーゴ連邦を交えた米・英・伊3国との会談を提案。
10/16:
・ダレス米国務長官、イーデン英外相、ビドー仏外相は3国外相会議を開いてトリエステ問題について協議し、A地区をイタリアに返還する決定には飽くまで固執するものの、ユーゴスラヴィア、イタリア両国の感情が静まるまで連合国軍隊を引き続き駐留させることで意見の一致を見る。
11/04:
・トリエステA地区でイタリア人デモが暴徒化。A地区占領軍の英国のウィンタートン司令官の管轄下の警察官が発砲して死者7名を出す。イーデン英外相は、トリエステでの暴動はネオ・ファシスト党員によって組織されたもの、と述べる。
11/07:
・バルカン防衛に関するユーゴスラヴィア、ギリシア、トルコ3国の軍事機構樹立計画は友好条約の付属協定として結実し、3国が調印する。
12/05:
・ペルラ・イタリア首相は、グレゴリック・ローマ駐在ユーゴ公使と会談。会談後イタリア外務省は、両国軍隊がトリエステの国境から撤兵することで合意した、と発表。
・英国外務省スポークスマンは、イタリア、ユーゴスラヴィア両国が撤兵することで合意したことを歓迎する述べる。
12/07:
・ロンドンのユーゴ大使館のスポークスマンは、「ユーゴ連邦は英国政府に対しトリエステ問題に関する5大国会議開催を目的とする新しい提案を行なった」と発表。
12/14:
・国連安保理は、トリエステ自由地域の総督を任命せよとのソ連の提案を受けて開会。西欧側はトリエステ問題の解決交渉が進行中の現在、安保理で検討することは有益ではないと主張。延期を求める評決は、賛成8、反対1、棄権1で採択。
12/28:
・ポポヴィチ・ユーゴ連邦外相は国内のメディアの質問に答え、「海外のある筋で、ユーゴ連邦はソ連陣営内に還りつつあると示唆しているのは愚かなことでもあり、ときに敵意を持ったものでさえある」と述べる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                    
1954年
01/17:
・ユーゴ連邦共産主義者同盟中央委員会は、「共産主義者同盟を全面的に解体せよ」との主旨の党改組を提唱した論文を新聞紙上に発表したミロヴァン・ジラス副大統領を、執行委員の役職から解任し、中央委員会からの追放を決議。ジラスの追放に伴い、ヨバノヴィチ・モンテネグロ民族議会議長、マリンコ・スロヴェニア民族議会議長、スタンドリッチ・セルビア民族議会議長の3名を新しく執行委員に選出。
01/19:
・ミロヴァン・ジラス・ユーゴ連邦副大統領は、ユーゴ連邦人民会議議長を辞任。法律により、この辞任で連邦行政会議副議長も辞任することになる。
01/26:
・ユーゴ連邦政府は、議会提出予算総額を前年度より1200万ドル増の8億7500万ドルとする。防衛予算は前年より700万ドル、11.6%減の5300万ドル。
01/29:
・ユーゴ連邦国民議会は、チトー・ユーゴ連邦大統領を満場一致で再選する。
04/25:
・チトー・ユーゴ大統領はトリエステ問題について、トリエステ港をイタリアに譲渡し、イタリア領からトリエステ港に至る交通を自由にする、との提案を行なう。
06/04:
・パパゴス・ギリシア首相は記者会見で、「ギリシャ当局とチトー・ユーゴ大統領の間で目下進められている交渉の結果、われわれはバルカン友好条約を軍事同盟に発展させることに決定した。この軍事同盟は戦争の危機がまだ去っていないという現実政策の表れである」と述べる。
06/05:
・ユーゴスラヴィア、ギリシア両国政府代表は会談を行ない、「ユーゴスラヴィア、ギリシャ、トルコ3国はバルカン協議会を設立することに決定した。7月にベオグラードで開催される3国外相会議中に、バルカン3国軍事同盟が締結される予定である」との共同コミュニケを発表。
07/05:
・バルカン軍事同盟の正式案文の起草が終了。
08/07:
・バルカン軍事同盟を協議中のユーゴ、ギリシア、トルコ3国の代表は、ソ連の侵略に対して共同戦線を張ることに意見を一致。
08/09:
・ユーゴスラヴィア、ギリシア、トルコ3国は、バルカン3国間の同盟と政治的協力および相互援助を契約するバルカン軍事同盟条約の調印を行なう。条約の要旨は、「1,調印国の領土に対して加えられるいかなる武力侵略も全加盟国に対する侵略と見なす。2,調印国はもし1国が攻撃された場合、直ちに加盟国が効果的な防衛を行なうために必要と考える武力の行使を含むあらゆる措置を取ることによって、個別的または集団的な援助を行なう。3,この条約は1949年4月4日の北大西洋条約によりギリシア、トルコ両国に対して生じた義務を失効せしめるものではない。4,この条約は3国外相およびその他の要員よりなる常設委員会を設ける。年2回定期的に会合する。5,アンカラ条約第1条に規定された外相会議を、この常設委員会をもって代表する。決定は全会一致をもってする。6,3国参謀長会議はアンカラ条約の第2条および第3条に従い、本条約を考慮に入れつつ、共同の作業を継続する。7,本条約の有効期間を20年とする」。この3国軍事同盟条約成立の背後には、アメリカなど西側陣営の外交上の働きかけがある。
09/19:
・チトー・ユーゴ大統領は、ドイツが一定の制限内で行なう再軍備に賛成を表明し、「ユーゴスラヴィアが北大西洋条約・NATOに加盟しなかったのは同条約の持つ反共的性格のためである」とスロヴェニアのオストロズノで演説。
10/05:
・ロンドンの英外相官邸で、ユーゴスラヴィアおよびイタリアの両駐在大使がトリエステ問題に関する協定に調印。協定の内容は、「1,トリエステ港およびA地区はイタリアに帰属する。2,B地区およびラザレット近くの南部境界の狭小地域はユーゴスラヴィアに帰属する。3,ラザレットの狭小地域に住む3000名のイタリア人はイタリア管理地域へ移住し、かつその財産の補償を請求できる。4,ユーゴスラヴィアはトリエステ港へ近寄る完全な権利を持つ。5,B地区の少数イタリア人およびA地区の少数ユーゴスラヴィア人の権利は保証される。6,A地区に住む4000名の米軍と3000名の英軍は3週間にわたって徐々に撤収する。7,米英両国はその補足声明で、『米英両国は今回の解決を最後的なものと考える』と述べる」。ユーゴ連邦およびイタリアとも、相手国に割譲された地域に対する要求を公式には放棄していない。
・イタリア政府はユーゴ連邦政府に対し、トリエステ港を国際貿易に活用する方法を検討するための国際会議への出席を要請する。
10/07:
・ユーゴ連邦行政会議は、トリエステに関する協定を承認。
10/08:
・イタリア上院は、トリエステ分割協定を承認。
・ユーゴ連邦人民議会の外交委員会は、トリエステ分割協定を全会一致で承認。
11/12:
・ユーゴ連邦政府はソ連からの親善の呼びかけに対し、歓迎の意を表す。
12/23:
・チトー・ユーゴ大統領はアジアを訪問。インドでネルー・インド首相と会談し、共同声明を発表。要旨;「1,世界人類の発展と文明の存続を希望する。2,平和地域を拡大する。3,世界の緊張緩和を和らげることが集団平和の前提であることを信じる。4,両国が取っている不偏の政策は、集団平和を達成しようとする積極的かつ建設的な政策である。5,両国の関係は相互の主権、独立の尊重と不侵略、相互間および他国に対する内政の不干渉についての諸原則を承認する。6,中立国の第3ブロックないし第3勢力といった間違った概念を拒否する」。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1955年
01/24:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード裁判所は、ジラス前副大統領に禁固1年半、デジエールに禁固6ヵ月の刑を、それぞれ執行猶予付きで宣告。
02/00:
・対ソ連圏の相互軍事防衛を目的とした、「バグダード条約機構・CENTO」が成立する。
04/14:
・ユーゴ連邦人民議会幹部会は、「ソ連最高幹部会議宣言に述べられている議会代表団の交換提案を受け入れる用意がある」とソ連最高会議に対し回答。
04/18:
・アジア・アフリカ会議(バンドン会議)がインドネシアのバンドン市で開かれる。参加国はアジア16,アラブ9,アフリカ4の29ヵ国。平和10原則を発表。内容は、「1,基本的人権および主権、領土保全の尊重。2,すべての国家の主権、領土保全の尊重。3,すべての人権の平等と大小を問わずすべての国家の平等の承認。4,他国の内政への介入、干渉を差し控えること。5,国連憲章に合致する諸国家の個別的あるいは集団的自衛権の尊重。6,(a)大国の特定の利益に役立てるため、集団的防衛の諸協定の利用を差し控えること。(b)いかなる国も他国を圧迫することを差し控えること。7,いかなる国の領土保全、あるいは政治的独立に対しても、侵略行為、脅迫、あるいは力の行使をしないこと。8,あらゆる国際紛争は、国連憲章に従って、交渉、調停、仲裁あるいは裁定のような平和的方法、並びに当事国の選ぶその他の平和的方法で解決すること。9,相互利益と協力の促進。10,正義と国際的義務の尊重」。このバンドン会議の10原則は、のちの「非同盟諸国会議」の概念形成の先駆けともなる。
05/09:
・NATO、西ドイツの加盟を承認する。
05/14:
・ソ連と東欧の8ヵ国は、友好相互援助条約(ワルシャワ条約機構・WPO)の設立に調印。
05/23:
・ギリシャのドヴァス参謀長が、ユーゴスラヴィアを公式訪問。
05/26:
・ソ連のフルシチョフ共産党第1書記とブルガーニン首相がユーゴ連邦を訪問。48年のユーゴ連邦のコミンフォルム除名は、スターリンの誤った意向であったと釈明。
06/02:
・ブルガ-ニン・ソ連首相とチトー・ユーゴ大統領は1週間に及ぶ会談で、2000語に及ぶ「ベオグラード宣言」を発表。内容要旨;「軍縮。原爆禁止。集団安全保障。中国の国連参加。ドイツ問題。恒久平和について」などの課題が盛られた。恒久平和については、「1,国家間相互の関係および他の諸国家との諸関係において、主権、独立、地位保全、平等を尊重すること。2,国内制度、異なった社会制度、社会主義発展の異なった形態などの問題はもっぱら各国人民の問題であり、国内問題においては相互尊重と不干渉の原則を守ること。3,2国間および国際的経済協力を推進させること。4,あらゆる侵略と、他の諸国を政治的、経済的に支配するような試みを断罪すること。5,軍事ブロック政策は国際緊張を強め、国民間の信頼を弱らせ、戦争の危機を拡大させるということを認めること」などを確認。
06/03:
・ソ連・ユーゴ連邦共同宣言についてプラウダは、「共同宣言は、将来両国間の友好関係を発展させる強固かつ健康な基礎を築いた」と論評。
・ニューヨーク・タイムズは社説で、ソ連・ユーゴ連邦共同宣言について、「ユーゴ連邦がソ連の衛星国化することは今後もありえない。またバルカン同盟からユーゴ連邦が脱退するような義務も負っていない」と論評。
06/16:
・ビルマのウーヌー首相はユーゴスラヴィアを訪問して政府首脳と会談し、共同声明を発表。内容は、「ユーゴスラヴィアとビルマ両国は近く期限5ヵ年の経済協定に調印する。この協定により、ユーゴスラヴィアはビルマからコメを買い付け、ビルマはユーゴスラヴィアの消費並びに資本財を購入することになる。
07/01:
・ネルー・インド首相はユーゴスラヴィアを訪れ、チトー・ユーゴ連邦大統領と会談。チトー大統領は、「平和を保障し、人類社会の生存と発展を確保するただ一つの道は共存政策あるのみ」と述べ、ネルー首相は、「世界は戦争以外の言葉で物事を考えるべきだ。戦争が除去されれば、残されたただ一つの方法は平和共存と平和交渉による解決だけである」と述べる。
07/02:
・東ドイツの貿易会議代表はベオグラードを訪問し、ユーゴ貿易連盟代表と交渉を行なう。東独貿易会議所会頭は、「両国は通商代表の交換、通商代表部の設置について原則的に意見の一致を見た」と語る。
07/11:
・ユーゴ連邦政府は、給与、恩給の5%引き上げに伴い、パン、ラード、葉タバコ、巻きたばこの価格を13%値上げ。鉄道運賃も10~13%引き上げる。
07/27:
・チトー・ユーゴ大統領は、「1,ソ連は、48年までにユーゴスラヴィアがソ連から輸入した商品の未払い代金9000万ドル(324億円)を帳消しにした。2,ソ連指導部は先に首脳がベオグラードを訪問した際、コミンフォルム追放によるユーゴスラヴィアの損害について理解ある態度を示した。3,西ドイツが、ユーゴスラヴィアに与えた戦争による損害を、補償していないことは遺憾である」と述べる。
09/30:
・マーフィー米国務次官補は、ベオグラードでユーゴ連邦政府首脳と会談。ユーゴ連邦政府が要請している4000万ドルの経済援助や、米軍がユーゴスラヴィアに引き渡した兵器の査察をユーゴ連邦が拒んでいることなどについて、一応の解決の見通しを得た模様。
10/21:
・ユーゴ連邦政府は、国際原子力機関設置に関する西欧の修正案について、国連政治委員会で「重大な欠陥があるから、さらに修正ないし改正して貰いたい」と要請。
11/13:
・日本輸出入銀行の山際総裁がユーゴスラヴィアを訪問し、ヴィスコース工場の設備購入資金の信用貸し問題で視察する。
11/27:
・チトー・ユーゴ大統領は、ユーゴ労働者社会主義同盟全国委員会で、基本政策について「経済の重点は今後、軽工業と農業に移される。重工業は既に高度の水準に達している」と演説。
11/28:
・ユーゴ連邦当局はユーゴスラヴィア建国祭の29日を祝し、ヨバノヴィチ人民戦線書記長など492名の政治犯とその他の捕虜を釈放。
12/10:
・ユーゴ原子力研究所長ミロジェヴィチ博士は、ユーゴ使節団が原子力資材を買い付けるためにソ連に滞在中と表明。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                    
1956年
01/13:
・ユーゴ連邦とソ連は、4ヵ年間の建設計画に関する協定に調印。建設協定の大要は、「1,アンモニアの年産能力10万トンのチッソ肥料工場の建設。2,過リン酸塩25万トン、硫酸12万トンの年産能力を持つ過リン酸工場の建設。3,10万キロワットの出力を持つ火力発電所の建設。4,3鉱山の拡張と再建。5,ソ連はこれらの建設に関する計画の立案と資材の提供を行ない、さらに流れ作業の管理、操業のためソ連技術者をユーゴスラヴィアに派遣する」というもの。
01/19:
・ユーゴ連邦の政府系機関紙「ポリティカ」によると、ソ連はユーゴスラヴィアに対し「1,1月13日に調印されたソ連とユーゴ連邦協定により、1億1000万ドル。2,さらにソ連物資買い付け用に5400万ドル。3,この他、金あるいは外国通貨で3000万ドル、合計1億9400万ドルのクレジットを与える」と報じる。
01/28:
・ユーゴ連邦とソ連は、核研究と原子力平和利用に関する協力協定に調印。
02/14:
・ソ連共産党第20回大会が開かれる。
02/16:
・ソ連共産党大会で、フルシチョフ第1書記は「個人崇拝」を非難する演説を行なう。
02/24:
・ソ連共産党第20回大会の秘密会で、フルシチョフ第1書記は「スターリン批判秘密報告」を行なう。
02/18:
・中国政府の郵電代表団はユーゴスラヴィアを訪問し、両国の郵便・電信の連携を強化する協定に調印。
03/14:
・ユーゴ連邦政府は連邦議会に対し56年度の予算案を提出。予算案によると、軍事費を600万ドル削減する。
04/00:
・ユーゴ連邦は、「青年勤労隊」を再組織し始める。この決定の背景には、第2次大戦後、道路および鉄道建設に「青年勤労隊」が活躍した経緯があるが、同時に薄れつつある社会主義建設の精神を再度育む意図がある。
04/05:
・ユーゴ連邦のモーサ・ピヤデ人民議会議長を団長とする使節団がブルガリアを訪問。
04/17:
・コミンフォルム・欧州共産党情報機関は、各国の共産党が独自の存立を続けられるようになり、その任務は終了したとして解散を宣言。
05/05:
・チェコスロヴァキアの議員団25名がユーゴスラヴィアを訪問。
05/26:
・ソ連とユーゴ連邦両政府は、58年にソ連がユーゴスラヴィア国内に実験用原子炉の建設を行なう協定に調印。
05/30:
・トリアッチ・イタリア共産党書記長はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ連邦大統領と会談。
・チトー・ユーゴ大統領はソ連を訪問するため、列車でモスクワに向かう。
05/31:
・ソ連のミハイル・クトゥーゾフ巡洋艦と駆逐艦2隻が、親善のためにユーゴスラヴィアのスプリト港に寄港。
06/02:
・ベオグラード・モスクワ間の特別列車が、第2次大戦後はじめて開通する。
06/05:
・チトー・ユーゴ大統領とソ連首脳との第1回会談は、「軍縮、ドイツ問題、ソ連とユーゴ連邦関係などについての意見交換が行なわれる。
・マッカ-シー米上院議員は、米国の対ユーゴスラヴィア援助打ち切り決議案を提出。
06/06:
・チトー・ユーゴ大統領は、ウォロシーロフ・ソ連最高幹部会議長主催の歓迎会に出席し、「ソ連指導者は私の訪ソ以来、今までの会談を通じて、ユーゴスラヴィアの独立、主権、外交政策の自主性などの立場に完全な理解を示してきた」と述べる。
・チトー・ユーゴ大統領は、「もし招待されれば米・ユーゴスラヴィア関係について話し合うためにワシントンを訪問する用意があると語る。
・ソ連とユーゴ連邦は、1月6日に結んだ議定書の貿易額をさらに2000万ドル増加し、ソ連から小麦、石油、アルミニュウム、銑鉄、機械設備を輸出し、ユーゴスラヴィア側からは鉄類、農産物、毛織物、履き物、木材、機械設備などを輸出する。
06/07:
・ユーゴ連邦政府と米国政府は、総額33億3400万ディナール(1100万ドル)の資金で、ユーゴスラヴィアの畜殺場と冷凍工場その他を建設する経済援助協定を締結。
06/18:
・チトー・ユーゴ大統領は、「今回のソ連訪問では、ソ連との間に軍事協力については何らの取り決めも行なわなかった。将来の経済計画についても何らの協定も成立しなかった」と述べる。
06/19:
・ダレス米国務長官は上院歳出委員会で、57会計年度の対外援助計画について、「ユーゴスラヴィアに対する援助については、同国が真の独立を維持することに努めている限り、これを続けていくことを希望する」と証言。
06/20:
・チトー・ユーゴ大統領とソ連首脳の第2回会談が開かれ、「経済問題、国際情勢の全般的検討、社会主義の発展についての討論」などを行なう。さらにチトー大統領は東欧諸国の問題に触れ、ユーゴスラヴィアは独立を保持していくが、東欧共産主義諸国もユーゴ連邦と同じような地位を持ってほしい」とソ連首脳に申し入れる。
・チトー・ユーゴ大統領とソ連首脳は、共同声明と共同宣言に調印。共同声明要旨;「1,両国は中国が未だに国連に加盟していない点を遺憾に考え、この解決に努力する。2,ユーゴ連邦政府はソ連政府の兵員の縮小に関する決定を歓迎し、軍縮問題の解決を促進するものと認める。3,原子力平和利用で両国政府は出来る限りの協力を行ない、原水爆の禁止を共同の目的とする。4,ドイツに西独と東独の2つの国家が存在する現在、統一には両独の話し合いが必要であり、他の国々も厳密にドイツ人の利益になるよう行動せねばならない。5,国際関係を調整する最良の方法の一つは、経済上の交流である。両国首脳は禁輸その他のあらゆる差別待遇をなくすために最大の努力を傾注する。6,両国は主権と独立、領土保全と尊重と不可侵、平等、内政不干渉の原則に立脚する積極的平和共存政策を改めて尊重する。7,両国首脳は先に中絶した経済関係を復活する問題が成功裏に解決された点を満足を持って指摘する。長期借款および通商協定、技術協力協定、原子力平和利用協定、文化協定、情報交換協定などの調印を見た。8,首脳は、将来も政治上その他両国に関係ある問題について、個人的接触と代表間の意見交換を続ける意向を表明。9,両国は先に調印を見た二重国籍問題調整条約に大きな意義を認め、将来通商量を増加する問題を討議する」。
共同宣言;「1,55年6月2日のベオグラード宣言によって両社会主義国の関係は健全な基礎の上に置かれ、協力関係にますます広く適用されつつある。2,両党代表は現在の接触が有益かつ必要であり、両国関係を発展させ、世界の社会主義運動に協力し、国際間の平和共存と協力のために今後も強化発展させねばならぬということで意見の一致を見た。3,両党代表は社会主義発展の方法と発展の条件、形態の豊富さは社会主義の強化に役立つものであるとの見解で意見の一致を見た。4,両党代表はマルクス・レーニン主義の原則に従い、相互の協力関係と社会主義科学思想の面における意見の交換を推進することで一致。5,両党協力関係の形態については両党代表は個人接触、文書または口頭による意見の交換、代表、資料、文献の交流、利害を共にする緊急の問題を討議するため党代表相互の会合を図る。6,両党は恒久平和と安全および社会進歩のための闘争には現在世界的規模で強力となりつつある全進歩平和勢力の広範な協力が必要と考える。こうした連携は平等、率直、民主的でなければならない」。
・ソ連の国防相ジューコフ元帥は、チトー・ユーゴ大統領から自由勲章を贈られた席上で、「もし新たな戦争が起これば、ソ連とユーゴ連邦は一緒になって戦うであろう」と述べる。
06/26:
・ユーゴ連邦とルーマニア両国は、ブカレストで共同コミュニケを発表。要旨は、「両国政府はすべての国々の間の積極的な平和共存のみが国際的な協力を強め、発展させる途であると確信する。2,軍縮へのあらゆる努力を積極的に支持する。3,制限のない貿易と文化的交換の促進が国際間の理解の基礎となることを信ずる」というもの。
06/27:
・チトー・ユーゴ大統領はソ連とルーマニアからの帰国に際してコメントを発表、「1,ソ連が何よりも世界平和の保持を望んでいることを私は固く信じている。2,いわゆる鉄のカーテンはもはや存在しないと私は信じている。3,ユーゴスラヴィアと西欧との友好は困難な時期に確立されたものであり、ユーゴスラヴィアは西欧との友好関係の維持ばかりでなく、これを一層発展させたいと望んでいる。4,米国ではユーゴ援助を続けるかどうかが問題となっているが、ユーゴスラヴィアは米国の援助に対し、いつも感謝を表明している」などと述べる。
06/28:
・ポーランドのボズナニで工場労働者を中心とした暴動が起こる。暴徒はポーランド統一労働者党支部に押し掛け、警察署を襲撃したため軍隊が出動して鎮圧。死者38,負傷270。
07/10:
・ユーゴ連邦の国連代表は、国連軍縮委員会に軍縮決議案を提出。「1,一般兵器および兵力の削減。2,核兵器実験の停止。その他の核兵器の分野で実行しうる措置。3,軍事支出の削減の3項目について、『①全般的軍縮問題について意見の一致を見るよう努力する。②現在実行可能な措置について速やかな意見の一致に到達し、かつ実行に移すための努力を行なう』」と要望。
・米国は、ユーゴスラヴィアへの住宅建設を目的とした財政援助に関する、39億ディナール(650万ドル)の協定に調印。
07/18:
・「第3勢力」会議の打ち合わせのためにブリオニ島に集まったチトー・ユーゴ大統領とナセル・エジプト大統領は、先に2者だけで会談し、共同声明を発表。内容は、「1,両大統領は現在の重要国際問題について多くの意見の一致を見出し、両国とも平和的、積極的共存を堅持しながら国際問題に対処する。2,この会談によって両国間の経済協力拡大の基礎が示された。3,両国民間の友好関係と理解を増進するため文化協定を結ぶ計画である。4,相互技術援助が討議されたが、両国は原子力の平和利用の面で協力する計画である」。
07/19:
・ユーゴスラヴィアのブリオニ島で、チトー・ユーゴ大統領とネルー・インド首相とナセル・エジプト大統領の3者が「第3勢力」会議のための会談を、18日に引き続いて行なう。
07/20:
・チトー・ユーゴ大統領とナセル・エジプト大統領およびネルー・インド首相の3者会談の共同コミュニケを発表。要旨;「1,昨年のバンドン会議は国際関係を律すべきある種の原則を明らかにした。3国首脳はこれらの原則を再確認する。2,世界が諸国の強力なブロックに分裂していることは、恐怖を永続させる傾向を持つ。世界的な集団安全保障を目指すこと。一国の他国支配を終わらせること。3,軍縮の進展は戦争の恐怖を緩和するために不可欠のものである。この進展は先ず第一に国連の枠内で遂げられるべきものである。原子・熱核兵器と通常兵器の双方を包含し、到達された協定の実施に対して適当な管理を伴うべきである。4,世界の未開発地域の開発を促進する努力を強めることは、諸国間に恒久的な安定した平和を樹立する上の主要な仕事の1つである。5,禁輸および国際通商の正常な運行と拡大を阻む障害の除去が極めて重要である。6,中国は国連に代表権を持つべきである。7,中東問題では諸大国の相反する権益が事態を一層難しいものにしている。この地域の諸国民の自由と善意とは平和を守るからだけでなく、正当な経済的権益を保障する上からも欠くべからざるものである。パレスチナ問題はバンドン会議の決議を支持する。8,中央の諸問題はドイツ問題と深く結びついている。平和的交渉によって生まれた協定により解決されなければならない。9,アルジェリア問題は、植民地支配が全く望ましからざるものであり、アルジェリア人民の自由の欲求に同情を表明せざるを得ない。9,3国首脳はこれら世界の諸問題が即時に解決出来ないことを理解しているが、平和の空気をつくり出すためにあらゆる努力を傾け、国連憲章の基本原則に基づいて行動することが不可欠である」というもの。
09/20:
・国際原子力機関・IAEA創立総会が国連総会議場で開かれ、世界81ヵ国代表が出席。
・フルシチョフ・ソ連共産党第一書記はユーゴスラヴィアを急遽訪問し、チトー・ユーゴ連邦大統領と会談。
09/24:
・ソ連共産党中央委員会は、ユーゴスラヴィア共産党をマルクス・レーニン主義的ではないと激しく非難する。
09/27:
・チトー・ユーゴ大統領は、ランコヴィチ副大統領および夫人を伴って急遽ソ連に向けて出発する。
10/07:
・ブルガリアのトドル・ジフコフ国会議長を団長とする国会議員団がユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。48年以来断絶していたユーゴスラヴィア・ブルガリア間の相互関係を回復する。発表された共同コミュニケでは、「両国共産党の将来の関係は平等、相互尊重、内政不干渉、自由な意見の交換、お互いの社会主義的経験の比較検討」などを基礎とすると強調。
10/12:
・ユーゴ連邦外務省は、「最近のチトー大統領とフルシチョフ第1書記の会談によって、ユーゴ連邦の外交政策である積極的共存の政策に変化が生じたことはなく、また生じるものではない」との声明を発表。
10/13:
・米政府は、チトー・ユーゴ大統領がソ連の支配から独立を守り続けているとの見地から、対ユーゴ援助継続を決める。
10/15:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟とイタリア共産党の10日間に及ぶ会談が終了。
・ハンガリー共産党代表団がユーゴ共産主義者同盟との会談のため、ユーゴスラヴィアを訪問。
10/19:
・ユーゴ駐在のリドルバーガー米大使はプリツア・ユーゴ連邦外務次官を訪れ、米国の今後の対ユーゴ援助問題について討議。両者の討議に至る経緯は、アイゼンハウアー米大統領が、「援助はユーゴスラヴィアが独立を維持するために必要であり、その独立と妥協するため、ユーゴスラヴィアはなおソ連の工作から脱しきれずにいる」と述べたことによる。
10/21:
・ハンガリーの大学生数千人は、ハンガリー共産党当局に対して「全国民の自由を拡大し、生活条件を改善すべきであるとの要求が14日以内に認められなければ、我々は街頭デモを実施する」との最後通告を出す。
10/22:
・ゲオルギー・デジ・ルーマニア労働者党第一書記などのルーマニア代表団は、ユーゴスラヴィアを訪問して首脳と会談し、共同コミュニケを発表。コミュニケは、「1,友好かつ丁重な雰囲気のうちに会談は進められた。2,両国間の通商・支払いの取り決め、その他について関係改善の成果を上げたことに満足している」と発表。さらに、両国間の協力宣言の他に、両国間の数種の経済協定と文化協力協定に調印する。
10/23:
・ハンガリーのブダペストで学生数千人が、「ソ連は出ていけ」、「ナジの新政府を要求する」と叫び、自由選挙と言論の自由を要求。夕刻になりデモは数万人に膨れあがり、ハンガリー事件が起こる。
10/24:
・ハンガリーのイムレ・ナジ前首相は勤労者党の中央委員に選出され、次いでヘゲデュシ首相に代わり首相に任命される。
ゲレ勤労者第1書記が、単独でソ連軍の出動を要請。
10/29:
・第2次中東戦争・スエズ戦争がイスラエルによるシナイ半島攻撃で始まる。原因は、ナセル・エジプト大統領がスエズ運河を国有化すると発表したことに対抗し、イギリスとフランスがイスラエルを巻き込んで始めたもの。
11/04:
・ソ連軍戦車が、ハンガリーのブダペストに侵攻し、ハンガリー民衆蜂起に介入する。
11/11:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、プーラで開かれたユーゴ共産主義者同盟の会合で演説。要旨;「1,ソ連指導部の個人崇拝攻撃は誤りである。個人崇拝はソ連の前体制が生み出したものに過ぎないのだが、彼らはこれに批判を加えていない。2,ソ連は先のゲレ・ハンガリー勤労者党第一書記の要請でハンガリー問題に軍事的に干渉したが、これは絶対的な誤りである。3,ソ連首脳部の間にソ連衛星諸国の民主化に反対して譲らないスターリン主義者が存在し、鋭い対立が起こっている。4,ポーランドとハンガリーその他の諸国に対する関係に誤った偏見を抱いている小スターリン主義者の立場に立ち、尚それを保持している者がいる。5,アルバニアの第1書記であるホッジャという小スターリンがいる。ホッジャ一派はスターリン体制の強化に非常に寄与している。6,スターリンが亡くなったとき、ソ連の新しい指導者たちは、スターリンの冒した数々の愚行のためにソ連が内外の両政策で困難な立場にあることを知ったのである」と演説。
11/19:
・ソ連共産党機関紙「プラウダ」は、チトー・ユーゴ大統領の演説を共産主義陣営を分裂させようと試みている、と非難。
・ユーゴ連邦前副大統領のミロヴァン・ジラスが逮捕される。
・ソ連のコマロフ大将を団長とする軍事使節団がユーゴスラヴィア訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
11/21:
・ユーゴ共産主義者同盟の機関紙「ボルバ」は、ソ連の国営タス通信が行なったチトー・ユーゴ大統領の演説に対する論評は、事実を歪めていると非難。
11/22:
・ハンガリーのナジ前首相は、ブダペストのユーゴスラヴィア大使館に避難する。
11/23:
・ハンガリー政府は、ユーゴ連邦政府に対し、ナジ前首相の罪を問わないとの確約をして解放させる。しかし、ハンガリー当局は、ユーゴ大使館から解放されたナジ前首相を逮捕する。
11/24:
・ユーゴ連邦のヴィディク外務次官はベオグラード駐在のクティ・ハンガリー代理大使に対し、ブダペストのユーゴ大使館が保護していたナジ前首相を無事帰宅させるとの保証をカダル政権が破ったことに対する抗議文を手交。抗議文はナジ前首相をユーゴスラヴィアに来させるよう要請。
・ユーゴ連邦政府は、ナジ・ハンガリー前首相をルーマニアに連行したソ連政府に対し、ベオグラード・ソ連大使館を通じて抗議文を伝達。
12/03:
・ソ連政府はユーゴ連邦政府に対し、「去る11月22日、ブダペストのユーゴ大使館内の避難所を出た後のナジ・ハンガリー前首相および彼とともに消えたおよそ40人の同調者の運命は、全くハンガリー政府の問題である」との覚え書きを送る。
12/05:
・カラマンリス・ギリシア首相はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領との公式会談を行なう。
12/07:
・ユーゴ連邦政府は、ハンガリー駐在ソルダティッチ大使を召喚する。
・ユーゴ連邦政府は、キプロス紛争の公正な解決を目指す努力を支持し、島住民に対する同情への態度を表明。
12/12:
・ミロヴァン・ジラス・ユーゴ連邦前副大統領に対する裁判は、禁固2年の判決を言い渡す。
12/25:
・ユーゴスラヴィアの有力紙「ポリティカ」は、ソ連とユーゴ連邦両国のイデオロギー上の対立による各国共産党間にひびが入ったのを緩和するために、各国共産党の共存を主張。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1957年
01/12:
・米国務省スポークスマンは、「ユーゴスラヴィアは昨年7月の米議会で削減された軍事援助の再開を、繰り返し要求している」と発表。
02/06:
・東ベルリンで行なわれていたユーゴ連邦と東ドイツの通商会談は、東ドイツが政府対政府の基礎の上に立つ協定の調印を希望したために決裂。ユーゴ連邦政府は東ドイツを国家として承認していない。
02/26:
・ポポヴィチ・ユーゴ外相は議会で、ソ連がユーゴ連邦に約束した経済援助の実施を遅らせていることに対し、ユーゴスラヴィアとしても対抗的にならざるを得ないだろうと警告。
04/18:
・チトー・ユーゴ大統領は、ユーゴ社会主義勤労者人民同盟大会で、「1,一部のソ連指導者は古い見解を捨てきれないでいる。2,ユーゴスラヴィアはいかなる陣営にも加わることを望まないという態度を続けることが必要である。3,ユーゴスラヴィアは現在の論争をイデオロギー面だけの論争にとどめたい」と演説。
04/19:
・ユーゴ連邦政府は国連軍縮小委員会に対し、「1,一般軍縮。2,核実験停止。3,軍事費削減」の3項目について即時協定に達するよう要請する覚え書きを送付した、と発表。
04/27:
・ユーゴ連邦議会は農業発展計画で、「集団農場化計画」の放棄を強調した決議案を採択。
06/02:
・ユーゴ連邦政府はソ連に対し、1億7500万ドルに及ぶユーゴスラヴィア経済への投資計画を延期している問題を、再考するよう要請。
06/25:
・チトー・ユーゴ大統領は労働者評議会でソ連と東欧諸国に対し、「これら諸国の指導者たちは、一方では協力と友情を求めながら、他方ではユーゴ連邦を修正主義者、無政府主義者、或いは資本主義者だといって非難する。こういう方法は非友好的である」と共産圏諸国のユーゴ連邦の政策に対する悪意ある非難を批判。
07/14:
・フルシチョフ・ソ連共産党第1書記は、チェコ訪問中にユーゴスラヴィアについて言及し、「ユーゴ連邦はまぎれもなく社会主義国であり、社会主義統一戦線を拡大するにあたってユーゴスラヴィアを除外すべきでない」と強調。
08/01:
・チトー・ユーゴ大統領率いるユーゴ連邦代表団とフルシチョフ・ソ連共産党第1書記率いるソ連代表団は、ルーマニアで会談。「両代表団は、ソ連、ユーゴ連邦両国の関係が引き続き平等、相互援助と協力、主権の尊重、独立、不平等の基礎の上に立って発展する」という事実を強調。
08/05:
・ホー・チミン北ベトナム主席がユーゴスラヴィアを公式訪問し、チトー・ユーゴ大統領およびカルデリ、ランコヴィチ執行会議副議長と会談。
08/08:
・ホー・チミン北ベトナム主席とチトー・ユーゴ大統領が会談し、共同声明を発表。要旨;「1,ユーゴ連邦と北ベトナムの社会主義には違いがある。2,両国は国際問題についての見解に類似がある。3,ベトナム休戦を実現するジュネーブ協定に義務を怠っている国がある。4,両国が広い分野にわたって相互協力をする道が開かれた」。
08/09:
・ユーゴ共産主義者同盟の機関紙「コムニスト」は、ルーマニアで行なわれたフルシチョフ・ソ連第1書記とチトー・ユーゴ大統領との会談が失敗だったことを示唆し、「国際労働者運動は、いまなお深い谷間によって分断されている」と論評。
09/08:
・ロイド英外相とユーゴ政府首脳との会談で、共同コミュニケを発表。要旨は、「国際問題についての会談では、軍縮、欧州安全保障、東西関係、中東の諸問題を取り上げたが、両国間に重要な懸案は一つもない」というもの。
09/10:
・ゴムルカ・ポーランド統一労働者党第1書記がユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
09/15:
・ブグマノヴィチ・ユーゴ副大統領はモンゴル政府の招きでウランバートルを訪問。
10/05:
・ミロヴァン・ジラス・ユーゴ連邦前副大統領は米国で「新しい階級」を出版し、反ユーゴスラヴィア的宣伝を行なったとの理由で、7年の刑を追加される。
10/08:
・ジューコフ・ソ連国防相はユーゴスラヴィアを訪問し、空港で「ソ連とユーゴ連邦両国民は固い友情の絆で結ばれている」と挨拶。
10/12:
・ユーゴ連邦とエジプト両国は、カイロではじめての文化協定に調印。
10/14:
・ユーゴ連邦政府は、東ドイツに外交的承認を与えることを決定。
・フランス政府当局は、「ユーゴ連邦政府に対し、ユーゴスラヴィアの東ドイツ承認に伴って起こるかも知れない遺憾な結果について注意を喚起した」と語る。
10/15:
・ユーゴ連邦政府は、「ユーゴ連邦と東ドイツは外交関係を樹立し、全権公使の資格の外交代表を交換することに合意した」と発表。
10/17:
・米・英・仏3国は西ドイツ政府に対し、西ドイツがユーゴ連邦政府と外交関係を断絶しても反対しないと保証。
10/18:
・ボンの西ドイツ政府は、ユーゴ連邦との外交関係断絶を決定する。
10/19:
・ブレンターノ西ドイツ外相は、ボン駐在のクベーダー・ユーゴ大使に対し、西ドイツとユーゴ連邦との外交関係断絶を通告。
・ユーゴ連邦政府は、「西ドイツがユーゴ連邦との外交断絶を決定したのは、敵対的行為であると考える」と非難。
11/01:
・ユーゴ連邦とソ連は58年度の両国間通商議定書に調印。両国間の貿易額については明記せず、「一層拡大する」とだけ規定。
註;57年度の貿易総額は、1億1000万ドルと規定している。
11/22:
・ユーゴ連邦の外交・政治筋は、ソ連革命40周年記念祭典で12ヵ国の共産党首脳によってまとめられ、採択された「モスクワ宣言」に調印しなかった理由として、「1,全般的に米国と帝国主義諸国を激しく非難していること。2,ユーゴ連邦は常に「社会主義陣営」という概念を退けてきた。3,ワルシャワ条約に関する言及はユーゴスラヴィアの受諾できないものである。4,修正主義に対するもののような、間接的にユーゴ連邦批判を目的とするものが含まれている」などの4点を上げる。
12/03:
・ユーゴ連邦政府は、57年から61年までの新5ヵ年経済計画案を議会に提出。
12/07:
・ユーゴスラヴィアの消息筋によると、ユーゴ連邦政府はこれ以上米国から軍事援助を受け入れないことを決定し、チトー・ユーゴ大統領がリトルバーガー米大使に通告したといわれる。
12/16:
・ユーゴ連邦政府は、米国の対ユーゴ軍事援助が中止される旨、ユーゴ連邦と米両国政府の意見が一致した、と公式声明を発表。
12/21:
・ゴシニャク・ユーゴ国防相は議会で、「ユーゴ連邦とソ連および他の東欧諸国との関係が改善されたため、米国の軍事援助を受ける理由がなくなった」と発言。連邦議会は、総額3350億ディナール(11億ドル)の新年度予算を可決。
12/27:
・米国余剰農産物のユーゴスラヴィアへの引き渡しに関する補足協定の調印が行なわれる。56年11月の協定では9830万ドル相当の農産物引き渡しを規定しているが、今回の補足協定では追加として750万ドル相当の小麦、綿花の引き渡しを取り決める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1958年
01/01:
・欧州経済共同体・EECおよび欧州原子力共同体・Euratomが発足する。
01/17:
・スカルノ・インドネシア大統領はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
01/19:
・スカルノ・インドネシア大統領とチトー・ユーゴ大統領の会談による共同声明を発表。要旨;「1,ユーゴスラヴィアは西イリアンに対するインドネシアの要求を支持する。2,ユーゴスラヴィアとインドネシアの相互関係を促進する合同委員会を設ける。3,ユーゴスラヴィアはインドネシアに対し小型兵器を売る希望のあることを確認する。4,両大統領は人類に対し、無意味な軍備競争と巨大な破壊力を持つ兵器の完成を停止するよう呼びかける。5,いかなる勢力にも属さない諸国は国際協力と平和の強化に大きく寄与することができる」というもの。
01/20:
・ユーゴ連邦政府はフランス政府に対し、ユーゴスラヴィア船籍のスロヴェニア号が公海上で臨検を受け積荷が押収された、として厳重な抗議を申し入れる。
・フランス政府筋は、「スロヴェニア号積載の武器は、アルジェリア反徒向けのものである」と語る。
01/25:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国のトロボウルジ炭坑で、労働条件の改善を求めた労働者のストライキが行なわれる。
02/03:
・米国とユーゴ連邦は余剰農産物売買借款協定に調印。内訳は小麦3280万ドル、綿花1350万ドル。米農産物売却によって生まれる現地通貨の大部分はユーゴスラヴィアへの長期借款、残りは米出先機関の使用に当てられる。
02/28:
・ユーゴ共産主義者同盟は、党規律を強化する新措置を発表。贅沢な生活を送っている官僚や工場主に対する、全面的な粛清運動を始めることを明らかにする。
03/13:
・ユーゴ共産主義者同盟は、党大会の討議資料として政策文書を発表。要旨;「1,党は社会主義への異なる道が存在することを確認する。2,スターリン主義は国際社会主義および内部の社会主義建設に多くの害を与えた。3,党は労動者自身の管理を支持し、国家統制は次第に消滅していくものと確信する。4,党は個人崇拝と独裁を不当と考える。5,党は二つの戦線で戦う。一つは官僚主義と思想的独善主義、他の一つはブルジョワジー、日和見主義、改良主義に対する闘い。5,外交政策については、ブロック主義に反対する。6,党が絶対的政治権力を持つことはユーゴ連邦の見解に反する。戦前の政治制度を回復しようとする試みは反動的かつ反革命的と見なす。6,共産主義者は「主人」として振る舞ってはならない。7,農民はその自由意思によって協同組合に参加するよう奨励される。8,産業部面では私的雇用を禁ずる措置が取られる。9,理論上の問題として、政府と労働者との間の矛盾はあり得ると認める」。
03/16:
・チト-・ユーゴ大統領は選挙演説で、「西欧諸国は東西首脳会談開催に言い逃ればかりしており、成果の上がらない3対1の米英仏対ソ連の会談を主張するが、ユーゴ連邦にも首脳会談に参加する権利がある」と語る。
03/21:
・ユーゴ連邦政府は、イタリア政府がNATO軍のロケット基地設置を認めたことに対し、駐イタリア・セルネジ・ユーゴ大使に厳重抗議するよう指示。
03/23:
・ユーゴ連邦総選挙で、チトー大統領率いる共産主義者同盟が96.7%の支持を獲得。
04/22:
・チトー・ユーゴ大統領はリュブリャナで開かれたユーゴ共産主義者同盟大会で、「ユーゴ連邦をソ連ブロックに引き入れようとする東欧の一部の同志を非難するとともに、西欧側も力の立場を採り共産主義諸国の内政に干渉している」と非難。
05/20:
・ユーゴ共産主義者同盟筋は、ユーゴ連邦政府がソ連に対し、「1,ユーゴ連邦はソ連ブロックには参加しないが、イデオロギーの相違について話し合いを続ける用意がある。2,ソ連がこれ以上ユーゴ連邦攻撃を続け、48年を繰り返すのは国際共産主義運動ならびにソ連の威信を大いに傷つけるだろう」との回答を送付したと述べる。
05/25:
・フルシチョフ・ソ連共産党第1書記は、チトー・ユーゴ大統領の66歳の誕生日に祝電を送るとともに、両国の意見対立を解決したいと述べた書簡を送る。
05/28:
・ユーゴ連邦政府は、ソ連政府が2年前にアルミ工場建設のために与えることを約束した1億7500万ドルの借款および2つの肥料工場と発電所の建設、3つの鉱山の近代化のための1億100万ドルの借款の開始を、それぞれ5年間延期するよう申し入れてきた、と発表。
05/30:
・ユーゴ連邦政府は、ソ連のチトー政権に対する経済借款の延期は正常な国家関係の紛れもない否認であり、ユーゴ連邦は補償を要求するであろう」との声明を発表。
・ユーゴ連邦とポーランドの両国は、核研究の部門で協力することを正式に発表。
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、アイゼンハウアー米大統領の提案した核実験管理に関する専門家会議を支持する、と表明。
06/03:
・フルシチョフ・ソ連首相はブルガリア共産党第7回大会で、「ユーゴ共産主義者同盟とソ連その他諸国の共産党の間のイデオロギーの相違点について、「56年のハンガリー事件に対する態度をめぐり、共産主義陣営との仲が悪くなった」と述べる。
・ポポヴィチ・ユーゴ連邦外相は、ソ連のザムチェスキー大使をを招致し、先のソ連の借款延期について抗議の覚え書きを手交。
06/06:
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、「ユーゴ連邦政府は、平等互恵の原則の下でならあらゆる国と経済関係を緊密にし、協力を強めたい。ユーゴスラヴィアは西欧、特に米国との関係をさらに緊密にすることを望んでいる」と述べる。
・ユーゴスラヴィアの有力紙「ポリティカ」は、米国との通商拡大を求めたフルシチョフ・ソ連首相の提案について、「ソ連はいつも米国の援助には必ずヒモがついているといっておきながら、自らは米国の借款を求めてもいいと考えているようだ」と論評。
06/07:
・ユーゴ連邦政府が親ソ分子と治安上危険な分子を200人ほど逮捕した、と伝えられる。
06/12:
・ユーゴ国営タンユグ通信と東ドイツのADN通信が、技術経験交流協定を結ぶ。
06/13:
・西独のナハト・デペッシェ紙は、ユーゴ連邦警察当局がチトー大統領を暗殺し、親ソ政権を樹立しようとした陰謀を摘発。首謀者アンドレーエフ元工業相を始め40人を逮捕した、と報じる。
06/15:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は鉱山労働者の集会で、「ソ連ブロックが行なっている反ユーゴ運動は、長期間にわたって組織されたものである。この運動は原則に欠けており、その議論は虚偽と当てこすりと歪曲に満ちたものである。中国はユーゴ連邦攻撃の主役を演じている。中国はかつてない敵意に満ちた悪口によってユーゴ連邦を攻撃している。ユーゴスラヴィアは現在の係争では一歩も引かない。我々はこの論争のために社会主義建設の途から外れることはしない」と、ソ連と中国との論争に反撃の演説を行なう。
06/16:
・中国の「紅旗」は、「ユーゴ連邦の修正主義者は、マルクス・レーニン主義のマントを着て帝国主義、それも米帝国主義のために奉仕している」とユーゴスラヴィアを論難。
06/23:
・ユーゴ連邦政府はナジ前ハンガリー首相処刑に関し、「56年、ハンガリー政府はナジ前ハンガリー首相がユーゴスラヴィア大使館に滞在中、手紙で繰り返しナジおよび彼のグループを過去の活動のために罰することはないであろうとの約束を確認した。にもかかわらず、裁判にかけた。これは両国間の取り決めに違反する許し難い行為である」との抗議覚え書きを、ハンガリー政府に送付する。
07/01:
・英ロイター通信は、英ザムチェフスキー駐ユーゴ大使がユーゴ政府にあてたメッセージを携行して帰任した、と伝える。
07/02:
・ナセル・エジプト大統領は海路でユーゴスラヴィアを訪問し、アドリア海沿岸のドブロヴニクに到着。
07/04:
・フルシチョフ・ソ連首相は、「われわれはユーゴ共産党の指導者に対し、彼らはマルクス・レーニン主義の基本的教義に対する修正および国際共産主義運動の団結破壊という危険な途に立っている、と率直に述べた。しかるに、彼らはこれをもってユーゴ連邦政府への干渉とか、ユーゴ共産党に対する圧力とか言って騒ぎ立てる」と批判。
07/05:
・ユーゴスラヴィアの主要経済紙エコノムスカ・ポリティカは、「ソ連が提案している2億8500万ドルの借款交渉について、ユーゴ連邦政府には受諾する意図はなく、よしんば交渉ができても実行はできないだろう」と記述する。
07/08:
・チトー・ユーゴ大統領とナセル・エジプト大統領の会談に、アベロフ・ギリシャ外相が参加。ナセル大統領は中東問題を、アベロフ外相はキプロス問題に関して話し合うものと見られている。
07/10:
・ナセル・エジプト大統領とチトー・ユーゴ大統領との会談による、共同コミュニケが発表される。要旨;「1,冷戦、軍備競争、二大抗争陣営への分裂、外国支配、内政干渉、対外武力行使などを終結すること。2,核並びに、熱核兵器生産の停止、大洋であろうとサハラ砂漠であろうと、世界の如何なる場所においてもかかる兵器実験の即時停止。3,首脳会談開催の必要性。4,国の大小を問わず国連憲章に即して行動、独立平等で世界全国家間の平和共存と協力。人類の生存と反映のための平和維持」。
07/13:
・ユーゴ共産主義者同盟機関紙「ボルバ」は、「フルシチョフはユーゴスラヴィアに対する経済封鎖はかつてもなかったし、今もないというが、コミンフォルム時代にユーゴスラヴィアに加えられた最も乱暴な封鎖措置の結果がどんなものであったかは、ユーゴスラヴィア国民ならすべて身にしみて知っている。2,ソ連、ユーゴ連邦関係に希望の灯をともしておくべきだというフルシチョフの言葉を歓迎する。しかし、遺憾なことにこれまでのソ連の対ユーゴ連邦への態度は、その言葉とは反対であったと言わなければならない」と論評。
07/15:
・チトー・ユーゴ大統領はネルー・インド首相に打電する。打電の内容について、ユーゴスラヴィアのベオグラードの観測筋は、イラクのクーデターに伴う中東危機に対し、チトー大統領がネルー・インド首相に介入の是非を打診した模様と述べる。
07/16:
・フルシチョフ・ソ連首相は、ユーゴ連邦のミチユノヴィチ駐ソ大使と会談。
07/17:
・ユーゴ連邦政府は、イラク共和国を承認すると発表。
07/20:
・チトー・ユーゴ大統領は、イラク共和国のカセム首相に電文で外交関係樹立を提案。さらに、チトー大統領は中東情勢について、ビルマのウー・ヌー首相、ギリシャのカラマンリス首相、インドネシアのスカルノ大統領、エチオピアのセラシェ皇帝、スウェーデンのエルランデル首相にメッセージを送る。
08/18:
・消息筋によると、ユーゴ連邦政府は米国に対し、工業建設援助のための総額3億ドルないし3億5000万ドルの長期借款クレジットの提供を要請。
08/24:
・ユーゴ共産主義者同盟機関紙「ボルバ」は、中国大使館が中ソ友好協会発行のロシア語評論誌「ドルジーバ」をユーゴスラヴィア国内に配布したことにつき、ユーゴ連邦政府が中国政府に抗議した、と報じる。
10/12:
・東ドイツのノイエス・ドイチュラント紙によると、ウルブリヒト東独社会主義統一第1書記とグロテヴォール・ブルガリア首相は、「ユーゴ修正主義は民族主義的偏向であり、盲目的愛国主義である。修正主義はソ連共産党の主導的役割を否定し、過渡期の困難は共産党および政府の失敗に基因するもの」との共同声明を発表。
・チトー・ユーゴ大統領は工業都市ゼニツァの10万の聴衆の前で、「ユーゴスラヴィアはソ連圏諸国との関係改善のため全力を尽くすが、我々の原則は絶対に放棄しないであろう」と演説。
10/20:
・ジュアンダ・インドネシア首相はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
・モスクワ放送によると、ソ連はユーゴスラヴィアに対して今年度収穫から20万トンの小麦を供給する協定に調印。
10/24:
・英国の報道によると、米・英両国はユーゴスラヴィアへ3億ドルの経済援助と借款を提供する計画である、と伝える。
10/25:
・ユーゴ連邦のポポヴィチ外相は、英国を訪問。
11/14:
・ユーゴ連邦政府は、駐日大使にフランツ・ゴスを指名。
11/23:
・チトー・ユーゴ大統領はノボメストで、「中国はユーゴスラヴィアに無法な攻撃を加えているが、中国独特の考え方や、中国が社会主義の建設と考えている半軍国主義的なやり方はマルクス主義と共通したものは何もない。ユーゴ連邦は東欧諸国と友好関係を保つとともに、アラブ連合などアラブ諸国、ビルマ、インドネシア、その他極東諸国との、政治、経済、文化の関係の強化に努めるだろう」と演説。
12/02:
・チトー・ユーゴ大統領は、アジア・アフリカ諸国歴訪の途にユーゴ海軍の軍艦ガレブ号で出発。
12/22:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、ユーゴスラヴィアと米国は新たな経済援助協定に調印。米国は、59年に96万7000トンの食糧と綿花を供給。ユーゴスラヴィアは58から59会計年度の協定で、9480万ドル相当の余剰農産物援助を受ける。50年以来の米国からの経済援助は、9億ドルとなる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1959年
01/03:
・フルシチョフ・ソ連首相とウォロシロフ・ソ連最高会議幹部会議長は、チトー・ユーゴ大統領に丁重な新年のメッセージを贈る。
01/30:
・ユーゴ共産主義者同盟機関紙「ボルバ」は、ソ連共産党第21回大会のフルシチョフ報告は作り事の上に立ったユーゴ批判を行なったものと非難。また、「フルシチョフが計画した改革は、ユーゴ連邦が既に達成したものの写しである」と批判。
02/02:
・ユーゴ連邦政府は、米国から鉄道改良のための500万ドルの借款を受けることになった、と発表。
02/06:
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、ソ連共産党大会決議の内、「ユーゴ連邦の外交政策を批判した部分は、ユーゴスラヴィアの内政に干渉し、ユーゴ革命の改革に打撃を与えようとするものだ」と非難。
02/08:
・ユーゴ連邦政府は、ベオグラードのチェコ大使館に勤務するラホダ2等書記官に対し、国外に退去するよう要求。
02/20:
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、「ユーゴスラヴィア、ギリシア、トルコ3国のバルカン防衛条約の復活には反対があり、復活は国際緊張の緩和ではなく激化へ通じるであろう」と述べる。
03/05:
・ユーゴ連邦のビディック国連常任代表はフィリピンのカンボア国連代表に対し、ユーゴスラヴィアが1946年のフィリピン独立の日に遡って、フィリピン政府に法的承認を与えるとの書簡を手交する。
03/14:
・ユーゴ駐在のザムチェフスキー・ソ連大使は、チトー・ユーゴ大統領を訪問して会談。
04/19:
・ユーゴ共産主義者同盟結成40周年記念の党大会でチトー大統領は、「1,ユーゴ共産主義者同盟は、全世界の共産主義に有害なスターリン主義と戦ってきた。そしてこの一国共産主義のための闘争により社会主義がソ連圏外でも樹立できることを示した。2,クレムリンに対するユーゴスラヴィアの反対は、植民地から自らを解放し、社会主義に基づいて将来を建設しようとしている諸国民にとって励ましとなってきた」と演説。
04/28:
・ユーゴ共産主義者同盟中央委員会は、ソ連共産党に対し、両国関係の緊張緩和を図るための建設的、友好的討議を図ることを呼びかけるメッセージを電報で送付。
05/03:
・チトー・ユーゴ大統領は、ソ連共産党中央委員会の高級会談開催の申し入れをを受諾。
06/05:
・ユーゴ外務省スポークスマンはソ連とアルバニアの共同声明に触れ、「両国の共同声明中で述べられている、バルカン地域とアドリア海を非核武装地域とすべきとの項目、ならびにこの地域の諸国家間の関係改善のために努力する必要性を説いた項目は、原子兵器と一切のロケット基地に反対する我々の主張と一致しており大いに歓迎する」と述べる。
07/07:
・ユーゴ連邦とソ連の経済交渉が行なわれる。交渉の中心課題はソ連のユーゴスラヴィアへの借款協定延期にある。
07/12:
・米政府は、ソ連のバルカン非核武装地帯提案に対し拒否の回答を表明する。
・フランス政府も、ソ連のバルカン地域非核武装地帯の提案を拒否する。
・イタリア政府も、バルカン地域への非核武装地帯とする提案を拒否する。
11/18:
・ユーゴ共産主義者同盟は中央委員会を開き、トドロヴィチ連邦執行会議副議長兼国家経済委員会委員長が報告を行なう。報告は、「1,国家収入は過去7年間に倍増し、工業生産は2.5倍に、農業生産は51%増加。2,ユーゴスラヴィアの生産伸長率は西欧先進国より3倍ないし4倍高く、ソ連圏諸国より大きい。3,消費の制限は行なわない。政府は赤字財政になっても輸入を増大することを考慮している。4,53年ないし56年の赤字は45.8%であったが、来年の赤字は5%に減る予定である」。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1960年
03/18:
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、東欧経済相互援助会議・コメコンからオブザーバー参加を拒否された、と語る。
04/08:
・スカルノ・インドネシア大統領はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。「1,来るべき国連での首脳会談ではすべての国が発言権を持つこと。2,後進国に対する国際的な援助にはヒモをつけずに平等の権利を基礎として行なわれるべきこと。3,あらゆる型の植民地主義を消滅しなければならない」との共同声明を出す。
04/18:
・ユーゴ社会主義勤労人民同盟の大会を、共産圏諸国の大半がボイコット。ポーランドとハンガリーがオブザーバー参加。
04/00:
・ユーゴ連邦は、米国の研究用原子炉3台の輸入を決める。
05/23:
・ソ連共産党中央委機関誌「コムニスト」は、チトー・ユーゴ大統領は、幾つかの国際問題について直接、間接に米国を支持したと攻撃。「ユーゴ連邦の指導者は、中立、ブロックへの非加盟的立場、帝国主義に対する闘いにおいて、社会主義諸国の連帯を拒否したことで帝国主義を助けてきた」と非難。
06/03:
・中国の劉少奇主席は、アルバニア代表団の歓迎会で「アルバニアは絶えずユーゴ修正主義者の挑発と、破壊活動と闘い、チトー一派が帝国主義の手先であることを暴露した」とユーゴスラヴィアを非難。
・ユーゴ共産主義者同盟機関紙「ボルバ」は、中国の反ユーゴ運動を非難し、「中国政府機関紙は最近特に反ユーゴ運動を活発化したが、これは新たな国際関係の緊張緩和にユーゴスラヴィアが努力しているときに、ユーゴ連邦の外交政策に不信感を持たせようとするもので、中国は最も反動的な冷戦主義者に直接的援助を与えている」と記述。
・ソ連政府は、クレムリンで内外の記者団300人と会見。ソ連政府が2月に各国政府に送った軍備全廃条約の基本的諸規定に関する提案について、概要を発表。
06/04:
・ユーゴスラヴィア各紙は、ソ連の軍縮提案を歓迎する記事を掲載。
06/20:
・ナセル・アラブ連合大統領はユーゴスラヴィアを訪れ、チトー・ユーゴ大統領と会談。共同コミュニケは、「1,ソ連の軍縮新提案の建設的要素を認める。2,民族自決権を基礎とする交渉により、アルジェリア戦争を終結させれば世界平和に大いに寄与する。3,両国の産業協力、経済、技術、通商の各分野における協力を増大させる」。
07/19:
・ジロン米国務次官はユーゴスラヴィアを訪れ、チトー・ユーゴ大統領と会談。
08/12:
・ユーゴ連邦副大統領のカルデリは共産主義者同盟機関紙「ボルバ」に、中国指導者の「戦争は不可避であり、平和共存は不可能である」との見解に反論し、「1,正義の戦争という中国の考え方は危険である。なぜならすべての侵略戦争はたとえ社会主義諸国によって行なわれても、征服戦争の性格を帯びるであろうし、従って失敗せざるを得ないからである。2,資本主義からの社会主義化は平和のうちに発展することもできる」と批判。
09/02:
・ソ連共産党機関紙「プラウダ」は、カルデリ・ユーゴ副大統領の中国批判は帝国主義者のやり方を演じていると非難。
09/22:
・国連総会でチトー大統領は演説を行ない、平和共存を強調。
09/24:
・ナセル・アラブ大統領は、ニューヨークでチトー・ユーゴ大統領と会談。
09/26:
・ネルー・インド首相は、ニューヨークでチトー・ユーゴ大統領と会談。
09/27:
・マクミラン英首相は、ニューヨークでチトー・ユーゴ大統領と会談。
11/28:
・チトー・ユーゴ大統領は、建国15周年記念日に「1,現行憲法は社会発展の現段階にそぐわないものとなっているので、2年後に新憲法を発布する。2,新憲法は生産者、管理者としての人間という考え方に立ち、その際国家は単に調整者としてとどまるということを出発点とする」と演説。
12/06:
・共産圏諸国および各国共産党の81ヵ国が参加した共産党首脳会議が、ユーゴ連邦非難の共同声明を発表。
・ユーゴスラヴィアの政・官界は、各国共産党首脳会議の声明について、「1,世界共産圏からのユーゴスラヴィアの追放を意味するもので、事実上ユーゴ連邦を社会主義ないし他のマルキシズムの裏切り者と同列に置いている。2,ユーゴ連邦の政策を最も激しく非難する中国共産党が声明の中に、ユーゴ連邦が社会主義運動に対する平和愛好勢力と手を結び、国家にとって有害な活動を進めている、という非難を盛り込むことに成功したのは驚くべきことである。3,この声明の狙いは、新興独立諸国家にユーゴスラヴィア不信の念を植え付ける狙いを持つものだ」との見解を表明。
12/23:
・ソ連の代表団がユーゴスラヴィアを訪れ、61年度文化科学協力計画、ならびに62年度協力大綱に関する議定書に調印。
註;ユーゴの工業生産は、47年には戦前の39年を上回る生産を上げ、さらに53年を100とすると、58年には181,59年には188に増大。所得は、戦前の39年の一人当たり100ドルから60年には350ドルに上昇。しかし、農業従事者は、70~80%から50%に減少している。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1961年
01/11:
・ギニアのセク・トーレ大統領はユーゴスラヴィアを訪れ、チトー大統領と会談。共同声明には、「コンゴに関する国連決議の実施。ルムンバ大統領の即時釈放を要求する。2,アルジェリア人民の独立闘争を強く支持する。3,ラオスの危機収拾のためジュネーブ協定の実施を求める。4,キューバは独立と独自の発展を図る権利を持っており、平等の立場からキューバとの交渉が行なわれるよう希望する」などを盛り込む。
01/19:
・ユーゴスラヴィアの国営タンユグ通信によると、ユーゴ連邦政府は、中国の周恩来首相がアルバニア経済代表団歓迎会で行なったユーゴ非難演説に対する強硬な抗議書を手渡す。
06/09:
・エジプトのカイロで開かれている非同盟諸国首脳会議準備会は、首脳会議を9月1日にユーゴスラヴィアで開くことを公式発表。
07/04:
・チトー・ユーゴ大統領はウジツェで、「現在の国際情勢は、第2次世界大戦前に非常によく似ている」と演説。
09/01:
・第1回中立諸国首脳会議がユーゴスラヴィアのベオグラードで開かれ、25ヵ国が参加。オブザーバーは3ヵ国。この中立諸国会議は、後に非同盟諸国首脳会議と位置づけられる。
チトー・ユーゴ大統領は冒頭の演説で、中立諸国会議の性格および目的について「1,東西ブロックにさらに第3勢力をつくるものではなく、排他的なブロックの結成には反対する。2,世界の運命を大国だけで決定出来ないことを認識させる。3,平和と世界の運命を危うくしている問題の解決に参加する権利のあることを確認する。4,国連以外では世界世論の最も権威ある討論の機関である。5,重要な国際問題に明確な態度を決定することによって、中立国の意見に耳を傾けさせ、国際危機の緩和に貢献する。6,植民地主義の撤廃、軍縮問題、未開発国に対する経済援助問題、各資源問題を討議する」と提示。
・中立諸国首脳会議でナセル・エジプト大統領は、「ドイツ問題によってもたらされた危機は、平和共存の危機である。ソ連が核実験を再開することを深く遺憾とする。2,ソ連の措置が、危険極まる国際情勢の悪化に明らかに関係がある。3,重要なことはできるだけ早く高いレベルの静かな交渉のための機会を与えることだ。4,2つのブロック間の交渉を実現させることだ」と演説。
スカルノ・インドネシア大統領は、「2つのドイツを事実上2つの国家として承認することを要求する」と演説。
09/02:
・中立諸国首脳会議でネルー・インド首相は、「ソ連の核実験によって、戦争の危険が近づいた。2,この危機を解決するには完全軍縮しかない。3,一刻もためらうことなく米ソ両首脳の間で交渉が行なわれなければならない。4,この会議の最大の課題は戦争か平和かであって、植民地主義反対、帝国主義反対は二義的な問題である」と演説。
エンクルマ・ガーナ大統領は、「1,完全軍縮。2,2つのドイツの承認。3,62年中に植民地主義を完全精算するよう要求する。4,中国の国連加盟を支持すべきである。5,アフリカは非核武装地帯と宣言すべきである」と演説。
09/03:
・中立諸国首脳会議でチトー・ユーゴ大統領は、「世界は軍縮会議を開く時期にきている」と提案。
09/04:
・中立諸国首脳会議は声明をめぐって、平和共存を主題とする穏健派と反植民地主義を強調する急進派の対立が表面化する。
・中立諸国首脳会議の秘密会議で、ケネディ米大統領、フルシチョフ・ソ連首相の米ソ両首脳にメッセージを渡すことを決める。
09/06:
・中立諸国首脳会議は、「最終宣言」および「戦争の危険に関する声明と平和へのアピール」を採択して閉幕。
「最終宣言」;「1,世界平和は重大な脅威にさらされている。植民地主義、新植民地主義は根絶されなければならない。2,戦争ないし、冷たい戦争が不可避との見解を断固として拒否する。平和共存の原則だけが、冷戦ないし戦争に代わるものである。中立諸国はブロックをつくることを望んでいない。3,アルジェリアの戦いは正しい。4,チュニジアからのフランス軍の即時撤退を求める。5,南アフリカの人種隔離政策の即時放棄を求める。6,中立諸国は、管理下での全面完全軍縮を求める。7,一切の核実験を停止する協定が緊急に締結されなければならない。8,軍縮会議の開催を要求する。9,ドイツ問題は力によって解決すべきではない。10,中国の国連加盟を受け入れるべきである」など。
「戦争の危険に関する声明と平和へのアピール」;「1,われわれは、国際情勢の悪化と戦争の起こりうる可能性を深く遺憾とし、かつ憂慮する。2,世界の平和と戦争のカギを握る諸大国の代表者として、米ソ両首脳が直接交渉を始めるよう要求する。3,平和のために献身する米ソ両首脳の努力は、不断の交渉を通じて現在の行き詰まりを打開し、世界が平和と繁栄のうちに生存できる道を開きうると確信する」。
註;首脳会議で採択した「最終宣言」は国連総会ならびに全ての国々に提出された。
・フルシチョフ・ソ連首相は、ネルー・インド首相とエンクルマ・ガーナ大統領が中立諸国首脳会議の親書を手渡すための訪ソを歓迎して夕食会を開く。フルシチョフ首相は演説で、「1,インドの平和愛好政策を高く評価している。2,世界にはなお国際間の力の行使を止めることのできない勢力がある。3,全ての国に対し対独平和条約締結のための国際会議に集まるよう呼びかける」。
・チトー・ユーゴ大統領は、中立国首脳会議で作成した米ソ両国首脳宛要請文の写しを、駐ユーゴ米ソ両大使に手渡す。
09/11:
・デジ・ルーマニア首相はハンガリーを訪れ、ハンガリー政府首脳と会談。共同コミュニケで、バルカン地域を核兵器のない平和地帯とすることを強く訴える。
09/12:
・中立諸国首脳会議の「平和へのアピール」を携えてワシントンを訪れたスカルノ・インドネシア大統領とケイタ・ガーナ大統領はケネディ米大統領に親書を手渡す。
10/13:
・ケネディ米大統領は、「平和へのアピール」を渡したスカルノ・インドネシア大統領とケイタ・ガーナ大統領に「返書」を手渡す。
内容は、「1,われわれはこのメッセージをさらに検討し、慎重に考慮するであろう。2,われわれは、現在の危機を乗り越える可能性を見出すために現存する適当な経路を利用する用意がある。3,われわれはベオグラード宣言が、ベルリンおよびドイツの状態が国際関係の将来の発展にとり極めて重要なものであることを認めている点を注目した。また全ての民族の統一、自決、独立の権利に触れ、自決の権利を行使することに脅しをかけたり、妨害したり、干渉することを非難している点を理解する。4,ソ連は、相互の尊厳を基礎とする交渉に入る用意のあることを示すべきである」。
・米国防総省は、ケネディ政権がユーゴ連邦に対しF86セイバージェット戦闘機135機を売り渡し、テキサス州のペリン空軍基地でユーゴ空軍将兵8人を訓練中であると発表。
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、17日から開かれる第22回ソ連共産党大会に招かれていないことを明らかにする。
10/20:
・アルバニア勤労党は、フルシチョフ・ソ連首相を激しく攻撃する声明を発表。
10/26:
・朝日新聞記者とチト-・ユーゴ大統領との会見によると、「1,フランスとソ連の核実験再開について、暗黙の核実験一時停止の協定ができた時期にフランスが実験を行ない、ソ連が追随したことに対し理解できると述べたに過ぎないのであって、核実験を容認したわけではない。2,社会主義のあり方は、その国の数ほどある。3,東西のブロック化は望ましくない」などと語る。
11/23:
・米政府はユーゴ連邦政府に対し、9月から事実上打ち切りになっていた米国の余剰小麦買い付け交渉の再開に応じる用意がある、と通知。
11/29:
・ユーゴスラヴィア連邦は、建国16周年記念式典を行なう。
12/27:
・フルシチョフ・ソ連首相は、ミアトヴィチ駐ソ・ユーゴ大使と会談。
12/28:
・米政府とユーゴ連邦政府は、米国の余剰小麦について総額4500万ドルに及ぶ長期借款協定に調印。ユーゴスラヴィアは、米国の小麦50万トン、食用油3万トンを受け取ることになる。今年度は既に50万トンの商談が成立しているので合計100万トンを輸入することになる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1962年
04/07:
・ユーゴ連邦執行会議のトドロヴィチ副議長は連邦人民会議で報告書を提出。要旨;「1,ユーゴスラヴィアの昨年度工業生産の増大テンポはここ数年来かつてなかった下降動向を示し、今年1月~3月間にもこの傾向は続いている。2,農業生産は既に2年間停滞している。3,輸入の増大度は輸出より急速で、収支の赤字が増加している。4,同時に、物価と生産費は上昇し、市場は変動し、経済は不安定な状態にある。5,経済その他の部門の多くの欠陥の原因は、官僚主義、過度の他力主義、自己本位主義、その他類似の消極的傾向が発生していることにある。6,官僚主義は、上級および隣接部門に対しては行動の自由、独占、超過所得、その他各種特権を要求し、下部に対しては民主主義と自治を圧殺している」と、重大な困難に直面していることを訴える。さらに、欧州共同市場・EECの排他的な経済統合が進むとユーゴ経済に深刻な影響を与える、と記載。
註;ユーゴスラヴィアの国際収支は、60年度が780億ディナールの入超、61年度は1027億ディナールの入超となっている。
04/16:
・グロムイコ・ソ連外相は、ユーゴスラヴィアを公式訪問するためにベオグラードに到着。ポポヴィチ・ユーゴ連邦外相と会談し、ポポヴィチ外相は「両国の関係は好調に発展して既に良い結果を生んでおり、今度の訪問で理解と協力がさらに増すことになる」と述べる。
04/21:
・グロムイコ・ソ連外相とポポヴィチ・ユーゴ外相との会談で共同コミュニケを発表。要旨は、「1,両国は国際情勢の検討を通じ、基本的国際問題についての見解が一致もしくは接近していることが確認され、また一貫した平和共存と話し合いによる国際問題解決の政策こそ国際緊張を緩和し、世界平和強化の最も正しい道であることが確認された。2,ソ連とユーゴ連邦の両国関係は順調に発展してきたこと、さらに達成された結果は政治、経済、文化その他の面における両国間の協力の一層の発展を可能にするものであることを確認する」。
05/14:
・ユーゴ連邦のベオグラード裁判所は、国家機密を公にした件で起訴したミロバン・ジラス元副大統領に対し、禁固5年の判決を言い渡す。
05/16:
・米国務省は、「南米旅行中のポポヴィチ・ユーゴ外相は米国政府の招待により、28,29の両日ワシントンを訪問する」と発表。
05/17:
・モスクワ放送は、フルシチョフ・ソ連首相が「いまやソ連とユーゴ連邦の関係は正常となり、いやそれどころか、もっと良い関係となったとさえいえる。だから、平和の保障を固める多くの国際問題では、我々の立場は一致している」と演説した、と報じる。
06/28:
・ユーゴ連邦政府と中国政府は、ベオグラードで今年度のバーター貿易議定書に調印。
07/14:
・ユーゴ連邦政府は社会主義圏が設置している経済相互援助会議・コメコンへのオブザーバー参加を申請したが、この2年間に申し込んだ2回とも認められず。一方、米国と欧州共同市場・EECも、ユーゴスラヴィアの輸出に対して逆差別待遇をしている。
09/17:
・プレチ・イタリア外国貿易相は、チトー・ユーゴ大統領と会談。プレチ外相はチトー大統領に対し、「EECは、非加盟の欧州諸国とも貿易を相当拡大出来ると確信している」と述べ、ユーゴ連邦がEECにオブザーバーとして参加する可能性を示唆。
09/22:
・ユーゴ共産主義者同盟は、新憲法草案の議会審議に伴い、国家機構の新人事を検討。従来は、チトー大統領が党第一書記と首相を兼務していたのを分離し、アレクサンダル・ランコヴィチ副大統領を第一書記とし、エドワルド・カルデリ副大統領を首相に内定する。チトー大統領は終身大統領となる。
09/24:
・ブレジネフ・ソ連最高幹部会議長の一行は、答礼のためにユーゴスラヴィアを公式訪問。チトー大統領は出迎えた空港で、「両国間の友好と信頼は、単にわれわれ両国民のためばかりではなく、諸国間の平和と協力関係強化のためにも増大されなくてはならない」と述べる。
10/03:
・チトー・ユーゴ大統領とブレジネフ・ソ連最高幹部会議長との会談で、共同コミュニケを発表。コミュニケの要旨;「1,両国の友好関係と協力は、あらゆる面で拡大発展しているとの確信を表明。2,ソ連・ユーゴ連邦両国は平和共存政策を実行するよう強く主張しており、あらゆる係争問題を話し合いの手段で解決するよう主張。3,世界の平和と安全を脅かしている軍拡競争をやめる時期に来ていると考える。核兵器の実験の即時停止協定を実現するために努力する。4,対独平和条約を締結し、西ベルリン情勢を正常化する必要は十分に熟していると考える。5,ソ連・ユーゴ連邦の友好関係と協力関係は両国の希望であり、同時に平和維持と国際協力の構築に貢献する。6,中部ヨーロッパ、バルカン半島、アフリカその他の地域に非核武装地帯を設けることを主張。7,中国が未だに国連に正当な席を占めていないことを耐え難いと考える。8,植民地主義を完全に根絶し、独立した諸国民に民族経済と主権の強化において援助するよう強く主張する。9,国連の枠内で世界貿易会議を開くことは大きな意義を持つ。10,米、キューバ間の緊張状態および米過激分子の侵略的、帝国主義的声明を考慮し、双方は両国関係が平和的手段で正常化されることを主張する」。
10/04:
・ユーゴ連邦政府とソ連政府は、1億8000万ドルにのぼる63年度の貿易議定書に調印。
10/05:
・ユーゴ連邦政府は、中国の陳毅副首相兼外相が「ユーゴスラヴィアのチトー一派は、米帝国主義の要求に奉仕している」との演説に対し、強硬な抗議文をユーゴスラヴィア駐在中国代表に手交。
10/22:
・ケネディ米大統領は、ソ連がキューバに核ミサイルが持ち込んだ、とテレビで激しく非難する演説を行なう。
10/25:
・国連安保理は、キューバ危機に関する緊急理事会を開く。
10/26:
・米国防総省は、対ソ準戦時体制の「デフコン2」を敷く。
10/27:
・米空軍U2偵察機が、キューバ上空で撃墜される。
・米海軍艦艇は、核魚雷を搭載したソ連潜水艦を爆雷で攻撃する。
10/28:
・フルシチョフ・ソ連首相は、トルコに配備された米中距離ミサイルの撤去を条件として、キューバの核ミサイルを撤去すると述べる。
註・米・ソ間に妥協が成立し、キューバの核ミサイルは撤去された。このとき、キューバに配備されていたソ連の中距離および短距離核ミサイルに装着された核弾頭は150発であった。
10/00:
・米連邦議会は、ユーゴスラヴィアへの最恵国待遇を破棄する決議を採択する。
11/15:
・関税と貿易に関する一般協定・GATT事務局は、ユーゴスラヴィアとアラブ連合のガット仮加入を承認したと発表。
11/18:
・ラパッキー・ポーランド外相は、ユーゴスラヴィア訪問のためにベオグラードに到着。
11/25:
・ラパッキー・ポーランド外相とポポヴィチ・ユーゴ外相会談は、「両国間の緊密な協力は、平和共存の諸原則を達成しようとするものである」との共同コミュニケを発表。
11/26:
・ユーゴ共産主義者同盟中央委執行会議は、中国に対する声明を発表。声明の要旨;「1,中国のユーゴ連邦攻撃が単にユーゴスラヴィアへの直接的なものにとどまらず、世界における冷戦を激化し、国際労働運動に新たな紛糾を生じさせるための政策の一部として行なわれているものであることを指摘する。2,このような中国の攻撃は、ユーゴ連邦がその外交の基本理念として考える平和共存、非同盟主義への攻撃である。3,これは、国際紛争のために献身する世界の非同盟諸国の努力に対する攻撃に他ならないことを重視し、ユーゴ共産主義者同盟としてこれ以上沈黙を守っていくわけにはいかず、党としての考え方を公式に述べる必要を認めた」。
12/02:
・チトー・ユーゴ大統領はハンガリーを訪問し、カダル・ハンガリー首相と会談。
12/04:
・チトー・ユーゴ大統領は、ソ連を訪問するために列車を利用してモスクワに到着する。
12/29:
・チトー・ユーゴ大統領は、ベオグラード郊外の工場で演説。ソ連訪問に触れ、「ユーゴスラヴィアは非同盟の外交政策を変えるつもりはない。フルシチョフ首相と秘密の取引はしなかった」と述べる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1963年
01/10:
・ソ連共産党機関紙「プラウダ」は社説で、共産主義陣営内の意見の対立を解消するための話し合いを提唱。
02/11:
・中国共産党機関紙「人民日報」は、「プラウダ」の中ソ話し合いを提唱した社説に対し、「ソ連がユーゴ連邦を拒否することが、中ソ論争解決のための先決条件である」と社説で主張。
04/07:
・ユーゴ連邦人民議会は、新憲法を満場一致で採択。新憲法要旨;「1,国名を現在の『ユーゴスラヴィア連邦人民共和国』から『ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国』に改める。2,チトー大統領を終身大統領に指名する。3,大統領の下に新たに副大統領と首相を各1人置く。4,大統領は軍最高司令官を兼任し、首相を指名し、議会の承認を得て任命する。また、首相の解任を議会に提案し、閣議決定にも拒否権を行使できる。5,共産主義者同盟以外の政党は認めない。6,現在2院制の議会を5院制とする。7,憲法裁判所を設置する」。
註;連邦人民議会の5院制とは、連邦会議、経済会議、教育・文化会議、政治・行政会議、社会・福祉・厚生会議、の5つで定員は各会議とも120人。ただし、連邦会議は6共和国と2自治州から選出される70人を加え、190人となる。
05/04:
・ラスク米国務長官はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー大統領と会談。ユーゴ連邦との「最恵国待遇」問題などについて協議。
05/05:
・ケッコーネン・フィンランド大統領は、ユーゴスラヴィアを訪問する。
05/08:
・ウ・タント国連事務総長は、ユーゴスラヴィアを訪問する。
05/12:
・ナセル・アラブ連合大統領は、ユーゴスラヴィアを訪問。
05/16:
・ナセル・アラブ連合大統領とチトー・ユーゴ大統領が会談し、共同コミュニケを発表。要旨;「1,非同盟諸国の数は増えており、今日のように分裂した世界では、非同盟諸国の役割は掛け替えのないものである。2,全面完全軍縮は絶対に必要であり、すべての責任ある政府にとり最も急を要する課題である。3,核実験の禁止こそ最も重要であり、責任ある国が近い将来協定に到達出来るよう最大の努力を払うよう訴える」。
06/30:
・チトー・ユーゴ大統領は、スタンボリッチ・ユーゴ連邦人民議会前議長を連邦執行会議議長(首相)に指名する。
・チトー・ユーゴ大統領は就任演説で、「ケネディ米大統領の最近の演説は、国際情勢の行き詰まり打開に大きな希望を与えている」と評価。
07/26:
・ユーゴスラヴィア南部のマケドニア共和国スコピエ周辺が大地震に見舞われ、数千人の死者が出た模様。
08/20:
・フルシチョフ・ソ連首相は、ユーゴスラヴィアを訪問。
09/03:
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、「ユーゴ連邦は数ヵ月以内に、東欧のコメコンにオブザーバーを派遣する資格が与えられることになろう」と述べる。
09/10:
・カダル・ハンガリー首相はベオグラードを訪れ、チトー・ユーゴ大統領と会談。
09/20:
・チトー・ユーゴ大統領はブラジルを訪問し、グラール大統領と会談。共同声明で、「1,軍縮のために最善の努力を払う。2,植民地主義と人種差別除去に全力をあげる」ことなどを強調。
11/22:
・ジョン・F・ケネディ米大統領が、テキサス州ダラスで狙撃され、死去する。
・ルーマニアの党と政府代表団がベオグラードを訪問し、ユーゴスラヴィアの党と政府の代表と会談。
註;ユーゴスラヴィアの経済は持ち直し、63年の工業生産は62年の十数%増となり、小麦の生産高も410万トンで62年の18%増となる。来年度も同程度の増産を見込んでいるが、物価は高騰し始めている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1964年
01/14:
・ユーゴ連邦外務省は駐ユーゴ中国代理公使に対し、「中国は、ユーゴ連邦と社会主義諸国との友好関係を傷つけ、アルバニア政府のユーゴ連邦に対する敵意を高め、国際関係における基本的な約束を侵害した」との抗議文を手渡す。
02/04:
・ネルー・インド首相、チトー・ユーゴ大統領に宛てて第2回非同盟諸国会議の開催準備についての親書を送る。
02/06:
・チトー・ユーゴ大統領、非同盟諸国会議についてのメッセージをブラジル、メキシコ、チリ、ボリビア各国大統領に送る。
03/05:
・ベンベラ・アルジェリア大統領は、ユーゴスラヴィアを公式訪問するためにベオグラードに到着。
03/06:
・ベンベラ・アルジェリア大統領とチトー・ユーゴ大統領との会談による共同声明を発表。コミュニケは、「1,植民地主義追放。2,非核武装地帯設置。3,非同盟諸国会議開催を支持。4,中国が提唱するAA会議・アジア・アフリカ会議も時期を得たものである」と評価。
05/29:
・ユーゴ連邦当局は、日本製のロケット「カッパ6号」の一連の打ち上げに成功、と発表。
06/25:
・チトー・ユーゴ大統領は、ポーランドを答礼訪問するためにワルシャワに到着。ゴムルカ統一労働者党第一書記と会談。
07/06:
・ユーゴスラヴィア政府とルーマニア政府はブカレストで、両国間の入国査証を廃止する協定に調印。
09/11:
・チトー・ユーゴ大統領は、ハンガリーのブダペストに到着。カダル・ハンガリー社会主義労働者党第一書記と会談。
09/16:
・チトー・ユーゴ大統領とカダル・ハンガリー首相は、会談後に共同声明を発表。共同声明の要旨;「1,世界政局の現在の緊張緩和を讃え、米ソ両国間で結ばれた諸協定の重要性を強調する。2,世界の平和愛好諸国が一切の教条主義的思想に断固として抵抗し、平和共存を白眼視する勢力に反対する。3,コンゴ、南ベトナム、キプロスに対する反動勢力の圧力を非難する。4,両国の工業開発を主眼とする経済関係の拡大に期待する」というもの。世界共産党大会問題には触れず。
09/17:
・ユーゴ連邦政府は、社会主義圏の経済相互援助会議・コメコンの枠内で協力するとの方針を発表。この方針は、コメコンに正式加盟を申請するものではなく、オブザーバー参加でもない両者の中間の位置を占めることが狙い。
註;コメコンに正式加盟している国は、「ソ連、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、チェコ、アルバニア、東ドイツ、モンゴル」の9ヵ国。オブザーバー参加国は、「北ベトナム、北朝鮮、キューバ」。
09/20:
・ウルブリヒト東ドイツ国家評議会議長はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
10/01:
・第2回非同盟諸国外相会議がエジプトのカイロ大学講堂で開かれる。仮議題は、「1,国際情勢全般の分析。2,完全軍縮、核実験禁止など平和を強化する対策。3,植民地主義反対。4,経済問題」。
10/04:
・非同盟諸国外相会議は秘密会議を開き、議題を決定。議題は、「1,国際平和維持の問題。2,国際情勢に関する一般討議。3,経済問題。4,文化、科学、教育協力の問題」の4問題。
10/05:
・第2回非同盟諸国首脳会議・NAMがエジプトのカイロで開かれ、47ヵ国が正式参加。オブザーバー参加は10ヵ国。新たな参加国の大半はアフリカ諸国。コンゴのチョンベ・レオポルドビル政府首相は、ルムンバ・カタンガ州首相暗殺疑惑で参加を拒否される。
ナセル・アラブ連合大統領は、開会演説で平和への提言をする。「1,新旧帝国主義を排除し、他国による支配をなくす。2,先進国、後進国間の経済的不平等を解消する。3,地域的紛争への大国の介入を排除する。4,国連憲章を改定し、後進国の権利を強める。5,軍縮を進める。6,中国の加盟を促進する」。
・ウ・タント国連事務総長は、「会議が国連強化に役立つよう希望する」とのメッセージを送る。
10/06:
・非同盟諸国首脳会議でチトー・ユーゴ連邦大統領は、「1,ドイツ問題の解決は、先ず東西両ドイツの間の話し合いで進めるべき。2,アパルトヘイト政策を採っている南アフリカ共和国に経済制裁を加えるべき。3,非同盟諸国会議は、国連による平和共存政策の採用を検討すべき。4,キプロス、コンゴ、東南アジアでの不法な軍事介入は許されるべきでない。5,核兵器基地を排除する努力をする」。
10/07:
・非同盟諸国首脳会議で、穏健派のチトー・ユーゴ連邦大統領が「平和共存」および「世界経済に存在する不平等」を打破するよう主張したのに対し、急進派のスカルノ・インドネシア大統領やエンクルマ・ガーナ大統領は「植民地主義、新植民地主義との対決こそ重要と主張し、「軍事基地に囲い込まれた中で、平和共存ができるか」と述べ、路線の対立の溝は埋まっていない。
10/08:
・非同盟諸国首脳会議でバンダラナイケ・セイロン首相は、「インド洋、アフリカ大陸、南大西洋を核非武装地帯とするよう」提案。
・非同盟諸国外相会議は、急進派と穏健派の意見を調整するために緊急政治委員会を開く。
・コンゴのレオポルドビル政府のチョンベ首相が、非同盟諸国会議に出席を希望し、アラブ連合に到着したが参加を拒否される。
10/10:
・第2回非同盟諸国首脳会議は、「平和と国際協力のための計画」を採択して閉会する。この会議ではとりわけ「反帝・反植民地主義か」、「独立か平和共存か」をめぐって激論が交わされる。そのため、路線対立で相互にしこりが残り、第3回の開催については決められず。
10/11:
・第2回非同盟諸国首脳会議で採択された「平和と国際協力のための計画」の最終宣言が発表される。
「最終宣言」;「1,植民地主義は無条件で、完全かつ最終的に廃棄されるべきである。2,植民地を持つ諸国が、住民の当然の願望に対し反対し続けるならば、植民地の人民は自決と独立の権利を行使するために武力に訴えることも正当である。3,すべての国際紛争は、平和的手段によって解決すべきである。4,キプロスは完全な主権、独立、自決の権利がある。5,すべての国は人類の平和と幸福のために、部分的核実験停止条約に参加し、その規定を護るべきである。6,世界の諸大国が全面完全軍縮協定を締結することを要請する。7,アフリカ、中南米、欧州、世界の諸大洋に非核武装地帯が設置されることを希望する。8,キューバへの経済制裁を解除し、グアンタナモ米軍基地の撤去を要請する。9,アデンにある英軍基地の撤去を要請する。10,オマーンにおける英国の植民地主義を非難する。11,中南米における新旧植民地主義を非難し、民族自決を呼びかける。12,アパルトヘイトを採っている南アフリカ共和国に対する制裁を要望する。13,国連総会が平和共存の原則に関する宣言を採択するよう勧告する。14,非同盟諸国はアジアとアフリカで植民地を領有しているポルトガルと断交すべきである。15,南ローデシアの白人優位政権が独立を宣言するようなことがあっても承認しないよう求める。16,インドシナに関する新たなジュネーブ会議を開き、ベトナムおよびカンボジア、ラオスの問題を政治的に解決するよう要請する。17,パレスチナ人民の帰還権、自決権は完全に回復すべきである。18,次回の国連総会で中国の加盟を認めるよう要請する。19,コンゴに軍事的に介入している諸国に対し、停止を強く要望する。20,どの国も他国の領土保全と政治的独立に対して脅しや力の行使をしてはならない。国際紛争は平和的手段によって解決されるべきである」。
11/00:
・ユーゴ連邦政府とルーマニア政府は、65年および66年の科学・教育・文化協力計画に調印。
12/07:
・チトー・ユーゴ大統領はユーゴ共産主義者同盟第8回大会で、中国の核実験に触れ、「力の政治をもたらすもの」と非難。
12/08:
・ユーゴ共産主義者同盟大会に出席したデミチェフ・ソ連共産党中央委幹部会員候補は、「ソ連は依然、中ソ論争に関する世界党会議を開催する努力をしている」と述べる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1965年
01/28:
・欧州共同体・EEC委員会とユーゴ連邦政府代表団は、ブリュッセルで相互間の貿易改善について会談。
01/29:
・ジフコフ・ブルガリア首相はソフィアでポポヴィチ・ユーゴ外相と会談し、両国間の協力拡大の問題や当面の国際問題を討議。
04/04:
・ブルギバ・チュニジア大統領はユーゴスラヴィアを訪れてチトー・ユーゴ大統領と会談。共同声明で、「東南アジア、コンゴ、中東などの国際情勢悪化に懸念を表明し、非同盟諸国その他の平和愛好諸国が情勢をさらに悪化させるような行動を全面的に停止させるよう」呼びかける。
04/15:
・チトー・ユーゴ大統領、アルジェリアを公式訪問。目的は、アジア・アフリカ・AA会議を前にAA諸国内の非同盟諸国の結束強化を図るものと見られる。
・AA会議にユーゴ連邦は参加していないが、ナセル・アラブ連合大統領、ベンベラ・アルジェリア大統領ら非同盟の穏健派諸国と、中国やインドネシアなど反米・反帝国主義を強調する急進派の対立が予想され、非同盟諸国は急進派の影響力が強化されるのを警戒している。
04/27:
・チトー・ユーゴ大統領は、カイロでナセル・アラブ連合大統領と会談。
06/08:
・チトー・ユーゴ大統領は、東ドイツ訪問のためにベルリンに到着。
・ノボトニー・チェコスロヴァキア大統領とチトー・ユーゴ大統領が会談し、米国のベトナム干渉の即時中止を求める共同コミュニケを発表。要旨;「1,米国の北ベトナムに対する侵略行為と、南ベトナムに対する干渉は、東南アジア情勢を悪化させ世界平和を脅かしている。これらの侵略的行為が即時停止されることを断固要求する。2,ドミニカ共和国に対する米国の介入とコンゴ人民に対する内政干渉は、世界平和を危険にさらしている。3,欧州の平和的安定にとって主要な障害となっているのは、西ドイツの軍国主義者の活動である」。
06/10:
・東西円卓会議がユーゴスラヴィアのベオグラードで開かれ、参加した欧州17ヵ国の経済学者、実業家など民間人40人は、「1,米軍による北爆の停止。2,ベトナム問題での会議招集。3,全外国軍隊の撤退」を要求する決議を行なう。
06/15:
・チトー・ユーゴ大統領は東独を訪問してウルブリヒト東ドイツ国家評議会議長との会談を行ない、共同声明を発表。
06/18:
・チトー・ユーゴ大統領はモスクワのクレムリンを訪れ、ミコヤン・ソ連最高会議幹部会議長と会談。
06/26:
・ユーゴ連邦政府はディナールの平価切り下げを決定。新旅行者レートを1米ドル750ディナールを、1米ドルを1000ディナールとする。
07/24:
・ユーゴ連邦政府は、一連の経済改革計画を発表。それによると、先月設置した旅行者レートを廃止し、ディナールの為替レートを66.66%切り下げ、7月26日以降1米ドル1250ディナールとする。また、66年1月1日に新ディナール紙幣を発行し、交換比率は1対100とする。
11/08:
・イタリアのモロ首相は、ユーゴスラヴィア親善訪問のためにベオグラードに到着。
11/14:
・ポーランド統一労働者党のゴムルカ第一書記とチランケヴィチ首相らは、ユーゴスラヴィアを訪問。
12/10:
・カンボジアのソン・サン副首相を団長とする代表団は、ユーゴスラヴィアを訪問するためにベオグラードに到着。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1966年
03/04:
・スタンボリッチ・ユーゴ連邦首相は、インド、ネパール、アフガニスタン訪問に出発。非同盟諸国の当面の目標について話し合うのが目的。
04/18:
・チトー・ユーゴ大統領は、ルーマニア訪問のためにブカレストに到着。
04/23:
・チトー・ユーゴ大統領とチャウシェスク・ルーマニア共産党書記長が会談し、共同コミュニケを発表。要旨は、「あらゆる党はその国の具体的な条件の中で、独自にその政治路線、活動方式を決定する権利を持っていると考える」というもの。
05/24:
・ニケジチ・ユーゴ連邦外相は、グロムイコ・ソ連外相の招きでモスクワを訪問。
06/24:
・ユーゴ連邦政府は、バチカンのローマ法王庁との外交関係を14年ぶりに再開する協定に調印する。
07/01:
・ユーゴ共産主義者同盟第4回総会で、ランコヴィチ副大統領が党職の中央委書記兼執行委員と副大統領職をともに辞任。ランコヴィチ中央委書記が権力闘争の過程で、自由化を求めるユーゴ国民に対して弾圧を行なった、というのが辞職の理由。
・チトー・ユーゴ大統領は、ブリオニ島で開かれた共産主義者同盟中央委総会で、ランコヴィチ副大統領とステファノヴィチ前内相によって動かされてきた国家保安警察を厳しく非難。
07/05:
・ユーゴ連邦執行会議(内閣)のスタンボリッチ議長(首相)は、先に共産主義者同盟中央委から追放されたステファノヴィチを、執行会議からも追放すべきだと提案。
07/14:
・ユーゴ連邦議会は、後任の副大統領にコチャ・ポポヴィチ前外相を選出。
08/08:
・ユーゴ連邦当局は、作家のミハイロ・ミハイロフを「複数政党制」などを唱える雑誌の出版を計画したとして逮捕する。
09/20:
・マリク・インドネシア外相はユーゴスラヴィアを訪問し、ミケジチ・ユーゴ外相と会談。共同コミュニケでは、米軍の北爆の即時停止を呼びかける。
09/24:
・ブレジネフ・ソ連共産党書記長はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー大統領と会談。発表された共同コミュニケでは、ベトナム支援を強調する。
10/04:
・ユーゴ共産主義者同盟中央委総会は、党機構再編成計画を採択。内容は、国家と党の執行機関を分離し、党内民主主義を進め、書記長のポストを廃止し、幹部会を新設して中央委総会議長が党首を兼ねる、というもの。党議長にはチトー大統領が選出される。
11/15:
・ユーゴスラヴィア連邦とバチカン市国の外交関係が正式に再開される。
11/23:
・国連総会は中国の代表権問題を討議し、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、ザンビア、ポーランド、アルジェリアの5ヵ国代表団が中国招請案に賛成演説を行なう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1967年
01/10:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟は、世界共産党会議に反対の立場を再確認する。
01/20:
・イタリア共産党のロンゴ書記長はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
01/28:
・チトー・ユーゴ大統領はソ連を訪問し、ブレジネフ・ソ連書記長と会談。
01/31:
・チトー・ユーゴ大統領は、ソ連首脳の説得にもかかわらず、世界共産党会議への参加要請を受け入れず。
02/04:
・チトー・ユーゴ大統領は、エチオピアのアジスアベバからエジプトのアスワンに到着し、ナセル・アラブ連合大統領と会談。
03/15:
・チトー・ユーゴ大統領は、オーストリアのヨスナ大統領に対し、非同盟諸国が世界平和に関する諸問題討議のため首脳会議を開くべきだと提案。チトー大統領は、ドゴール仏大統領にも同様な書簡を送った、と報じられる。
03/15:
・チトー・ユーゴ大統領は、ウ・タント国連事務総長に「ベトナム問題解決」に関する内容の親書を送付。
04/17:
・チトー・ユーゴ大統領は、ベオグラードでの党大会でユーゴ連邦とソ連との衝突が迫っていることをほのめかす演説を行なう。
04/21:
・ギリシャではパパドロプスらが軍事クーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立する。米国は独裁政権を容認する。
07/19:
・ユーゴ連邦議会は、外資導入法を採択する。
08/16:
・チトー・ユーゴ大統領はイラクのバグダッドからカイロに向い、ナセル・アラブ連合大統領と会談。
・ユーゴスラヴィアの考古学探検隊は、ドナウ川近くで8000年前の古代文明の遺跡を発見したと発表。
09/12:
・チェコスロヴァキアのノボトニー大統領は、チトー・ユーゴ大統領の招きでアドリア海のブリオニ島を訪問。
09/19:
・ユーゴ連邦政府は、インド、アラブ連合と3国の特恵関税協定に調印。協定の内容は、工業製品、農産物など250品目について、通常の関税より40%低い特恵関税を適用する、というもの。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1968年
01/03:
・チャウシェスク・ルーマニア国家評議会議長は、チトー・ユーゴ大統領との会談のためにユーゴスラヴィアを訪問。会談の内容は、世界共産党会議が中心になったものと思われる。
01/06:
・チトー・ユーゴ大統領はアフガニスタン公式訪問とパキスタン、インド、カンボジア訪問のためにベオグラードを出発。
01/10:
・パウロ・ローマ法王は、ミーカ・シピリヤク・ユーゴ首相と会見。ローマ法王はベトナム和平について、「世界の指導者は、率直かつ誠実な話し合いを通じて戦争を解決させ、平和を守るという重大な道徳的義務を持っている。たとえ、それが多くの困難、時には誤解に直面しようとも、われわれはこの和平への行動を続けるであろう」と述べる。
01/11:
・チトー・ユーゴ大統領とパキスタンのアユブ・カーン・パキスタン大統領との会談が行なわれ、パキスタンのスポークスマンは、ベトナム、カシミール、中東問題や両国関係などが話し合われたと発表。
01/12:
・ユーゴ共産主義者同盟のベオグラード市委員会は、党の政治路線にそぐわないとして400人の党員を追放する。
01/23:
・ユーゴスラヴィア連邦と西独政府との国交回復交渉が、パリの西独大使館で始まる。
01/00:
・ワシントン、サンフランシスコ、シカゴ、オタワのユーゴ連邦の領事館や大使館で連続爆破事件が起こる。クロアチアの独立を要求する「ウスタシャ」グループが実行したもの。
02/04:
チトー・ユーゴ大統領は、エジプトのアスワンに到着し、ナセル・アラブ連合大統領と会談。
02/07:
・チトー・ユーゴ大統領とナセル・アラブ連合大統領との会談が行なわれ、「1,中東問題処理の今後の可能性。2,中東問題処理のために国連から派遣されたヤリング特使の行動は、今のところ目立った成果を上げていない。3,アジアでの危機を処理する上で、非同盟諸国が果たしうる外交努力」などの内容が話し合われた模様。
02/00:
・パリのユーゴスラヴィア人のクラブが爆破され、18人が死傷。クロアチアの過激グループ「ウスタシャ」が実行。
04/08:
・チトー・ユーゴ大統領は、コラク・ユーゴ連邦執行評議会副議長(副首相)、ニケジッチ外務担当国家書記(外相)を伴って国賓として訪日する。チトー大統領はステートメントを発表;「1,国際問題に関して意見を交換することは、国連の役割の強化に関心を持っている両国にとって有意義である。2,日本国民は、核兵器の使用を禁止し、また熱核戦争の危険除去に大きな貢献をしている。3,ユーゴ連邦は社会主義非同盟国として、戦争と侵略に反対し、民族と国家の自由と独立を護り、諸国間が平和的に共存するための積極的な役割を演じている。4,私たちの日本訪問と日本の政治家との会談は、世界における公正な国際協力と平和の促進に貢献するものと確信する」。
04/15:
・チトー・ユーゴ大統領は、東京からモンゴルのウランバートルに向かう。
04/21:
・チトー大統領は、ウズベキスタン共和国訪問のためにサマルカンドに到着。
04/28:
・チトー・ユーゴ大統領は、ブレジネフ・ソ連書記長の招待を受けてテヘランからモスクワを訪問。会談内容は、中東問題に加え、世界共産党会議開催問題など。
05/01:
・チトー・ユーゴ大統領は非同盟の約80ヵ国に対して書簡を送り、平和と経済発展を促進するための世界会議を提案。
05/05:
・ユーゴスラヴィアの知識人グループは政府系機関紙「ボルバ」で、ポーランド政府が行なったワルシャワ大学の教授、学生の追放に抗議する。
05/28:
・ルーマニアのチャウシェスク党書記長など党と政府の代表団が、ユーゴスラヴィアを訪問。会談内容は、「1,欧州情勢。2,両国と他の欧州諸国との関係。3,開発途上の諸国に関する問題。4,非同盟政策全般」など。
05/31:
・ソ連軍戦車がチェコスロヴァキアに侵攻し、「プラハの春」を押し潰す。
06/01:
・チャウシェスク・ルーマニア共産党書記長がユーゴスラヴィアを訪問。政府首脳との会談後の共同コミュニケでは、「各国共産党が独自に政策を決め、社会主義を建設する権利を持つこと」を強調。
06/02:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードおよび各地の大学などで学生と青年たちが、大学制度の改革、社会的平等の推進、失業の解消を叫ぶデモが頻発し、学生と警察隊との衝突に発展。双方に60人の負傷者を出し、学生20人が逮捕される。騒動のきっかけはベオグラードの学生街地区で、同地区の建設のために全国から集まった青年奉仕団と学生の間に衝突が起こり、警官隊が鎮圧に出動したことによる。
06/03:
・ユーゴスラヴィアの各地で始まった学生の行動は、大学の施設や奨学金の改善要求へと発展し、1000人がデモを行ない、消防車に放火するなどして警官隊と衝突。さらに大学事務局を占拠。ブラホヴィチ・ベオグラード共産主義者同盟幹部会員は、学生の要求は正当であり、彼らの不満は大学の改革に当局が緊急に取り組まなかったために起こったものだ、と語る。
06/04:
・ユーゴ連邦内務省は、ベオグラード市内での一切の集会とデモ行進を禁止すると発表。ユーゴ共産主義者青年同盟は、ベオグラードの学生の行動が暴力化していることに警告。
06/09:
・チトー・ユーゴ大統領は学生の騒動について、「学生騒動は早急に解決されねばならない。もし解決に失敗すれば、私は辞任する」と述べる。さらに、「1,学生の要求はもっともだと思う。2,学生運動は自然発生的に起こったものだが、その過程で分派や過激派や反動派が加わっている。3,今回の学生運動は、欧州の学生運動の影響によるものではない。ユーゴ社会の弱点を反映したものだ。4,社会的不平等、不適当な教育制度、経済の非社会主義的分野などの問題に対する党のやり方が迅速でなかった。5,ユーゴ共産主義者同盟幹部会と中央委は9日に会合を持ち、国内情勢を協議した。そしてユーゴ連邦の政治、経済情勢の改善を目指した綱領を打ち出した」などと演説。
・ユーゴスラヴィア・ベオグラード大学のストライキ中の学生8000人は、チトー大統領のラジオ演説を歓声と拍手で迎える。
06/12:
・ブラント西ドイツ外相はユーゴスラヴィアを公式訪問し、チトー・ユーゴ大統領らと会談する。 
06/13:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、ユーゴスラヴィアの青年多数が「反国家的活動」を理由として、最高2年6ヵ月の禁固刑を言い渡される。毛沢東派かそれに近い一派がビラを撒くなどの活動を行なう。
07/01:
・ブリュッセル条約に基づき、欧州共同体・EC(欧州石炭鉄鋼共同体・欧州経済共同体・欧州原子力共同体)が発効する。
07/14:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードの映画館で、「ウスタシャ」の犯行と見られる爆破事件が発生。75人が重軽傷を負う。
07/21:
・ユーゴ国際政治経済研究所のレオ・マテス所長は週刊情報新聞に、ソ連のチェコスロヴァキアに対する圧力は重大な結果をもたらす「悲劇的な誤り」であると論評。
08/15:
・チェコスロヴァキアの文学新聞「リテラールニー・リスティ」紙は、「チトー、チトー」と題する社説で、「我が国が発展し続けようとするならば、絶対にチトー主義の立場を採らなければならない」と主張。
08/21:
・ワルシャワ条約機構軍チェコスロヴァキアに侵攻し、いわゆる「プラハの春」を押し潰す。
08/24:
・チトー・ユーゴ大統領は、チャウシェスク・ルーマニア共産党書記長と国境の町ブルシャッツで会談。
08/30:
・ユーゴ共産主義者同盟の週刊機関紙「コムニスト」は、「ソ連はチェコスロヴァキアとならんで、他の諸国に対する侵攻作戦を計画する可能性がある」と伝える。
・ソ連政府は、チトー・ユーゴ大統領に対し、ユーゴスラヴィアが反革命勢力と結んだチェコスロヴァキア国内の修正主義勢力を公然と支持しているのは、「反逆的行為」だとして抗議文書を出す。
・ユーゴ連邦人民軍は、ソ連のチェコスロヴァキア侵攻に対処して東部、北部の国境地帯に国防軍を配備し、防備を固める。
09/01:
・ユーゴ連邦のニケジッチ外相はバルカンにソ連軍が集結している問題について、エルブリック駐ユーゴ米大使と会談。
09/04:
・ユーゴ社会主義勤労人民同盟は、ソ連・東欧がチェコスロヴァキアに侵入したことに対するチェコスロヴァキア人民の怒りへの共感と支援を表明する。
09/05:
・非核保有会議でベロウスキー・ユーゴスラヴィア代表は、「核兵器使用禁止の国際協定について具体的な討議を始めよう」と提案。
09/20:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟幹部会員ブラホヴィチは青年集会で、ソ連のユーゴ連邦への非難に対し、「ソ連型の共産主義者は侵略的な帝国主義を必然的に生み出す」と反論。
09/24:
・ユーゴ連邦のシュピリャク首相は連邦議会で、ワルシャワ条約軍のチェコスロヴァキア侵入に関連して、ユーゴ連邦人民軍と国全体の戦闘準備を強化する措置を取った、と述べる。
・ユーゴスラヴィア・ベオグラードの中央駅と映画館で、「ウスタシャ」が実行した爆発事件があり、1人が死亡し、67人が負傷。
09/26:
・ソ連のブレジネフ書記長がプラウダに「制限主権論」を発表。
10/18:
・カッツェンバック米国務次官はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。チェコスロヴァキア侵入をめぐるユーゴ連邦の対応について意見の交換を行なう。
11/08:
・ハズラク・オーストリア外相は、ニケジッチ・ユーゴ外相の招きによる公式訪問のためにベオグラードを訪問。オーストリア閣僚のユーゴスラヴィア訪問は初めて。
11/29:
・チトー・ユーゴ大統領は、「1,対外関係で今日なお各国の主権と領土保全の原則が尊重されていないのは困ったことである。2,情勢の悪化にもかかわらず、平和を愛好する進歩勢力が平和維持、国家、国民の独立、他国からの干渉除去などをはっきりと要求しているのは力強い」と穏健な演説を行なう。
11/30:
・チトー・ユーゴ大統領はヤイツェでの記者会見で、「われわれはどの国からも援助を受ける必要はない。米国のカッツェンバック国務次官や、マンスフィールド上院議員と会談した際も、ユーゴ連邦は米国と平等の立場に立った経済協力を除き、如何なる援助も求めなかった。2,ユーゴ連邦はソ連に対し、ユーゴスラヴィアを攻撃しないようにという保障を要求していない」と語る。
12/09:
・ペルー政府は、ユーゴ連邦と大使級の外交関係を樹立した、と発表。
12/25:
・ユーゴ連邦政府は、チトー・ユーゴ大統領とジョンソン米大統領が現在の国際情勢について相互に親書を交換した、と述べる。
12/27:
・ソ連とユーゴ連邦は、モスクワで69年度の貿易協定に調印。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1969年
01/10:
・シュピリャク・ユーゴ連邦首相は、クーブドミュルビル・フランス首相の招請でフランスを訪問。
01/31:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、チトー・ユーゴ大統領はルーマニアのチャウシェスク国家評議会議長の招きを受け、ルーマニアを訪問。
02/02:
・チトー・ユーゴ大統領とチャウシェスク・ルーマニア共産党書記長との会談で共同コミュニケを発表。要旨は、「独立、主権、完全平等、内政不干渉という国連憲章遵守の重要性」を強調。
02/11:
・ユーゴ連邦議会は、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻した事態への対処のために、「全人民防衛体制」を導入した新国防法を採択する。
03/11:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟第9回大会がベオグラードで開かれる。ソ連、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ブルガリアの東欧5ヵ国の共産党は参加せず。チトー・ユーゴ大統領は、1919年以来結党50周年の足跡を振り返る演説を行なう。党指導部は、中央機関の強化方針を明らかにする。また一国の主権制限に反対する決議を採択。さらに、チトー・ユーゴ大統領を同盟議長に再選する。執行局は各共和国から2人ずつ、自治州から1人ずつの14人と、チトー議長の15人で構成。
03/17:
・中国とユーゴ連邦両政府は、貿易支払い協定を北京で調印。
06/13:
・ウバリチ・ユーゴ連邦外務次官は記者会見で、7月8日から開く非同盟諸国会議への招請状を非同盟58ヵ国に送り、既に39ヵ国が出席を受諾した、と発表。
06/00:
・西ベルリン訪問中のユーゴ連邦軍事使節団が、クロアチアの過激グループ・ウスタシャにピストルで銃撃され、2人が負傷。
07/31:
・ジュネーブ軍縮会議で、オランダ、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、パキスタン、アルゼンチン、モロッコ6ヵ国の新規加入が正式に決まる。
08/10:
・消息筋によると、ユーゴ連邦政府は「非同盟諸国首脳会議を来年開こう」との覚え書きを60ヵ国に送付。
08/19:
・チトー・ユーゴ大統領は、ユーゴ訪問中のメネスク・ルーマニア外相と会談。
09/20:
・チトー・ユーゴ大統領は、チャウシェスク・ルーマニア国家評議会議長と国境近くのクラダボで会談。共同声明は、「1,ユーゴスラヴィア、ルーマニア両国は国際環境の改善と平和強化のため、引き続き努力を傾ける。2,両国はすべての国と、独立、主権、全権、内政不干渉の諸原則を尊重しながら、広範な協力関係の発展を希望する。3,両国はこの路線が、国際関係の現況と将来にもっとも効果的に貢献することを信じ、この方向に沿う主導性と活動に、全面的援助を約束するものである」。
11/17:
・ユーゴ共産主義者同盟のグリゴロフ幹部会執行委員を団長とする同党代表団がモスクワを訪問。
11/20:
・ユーゴ連邦外務省は、中国とユーゴ連邦両国が大使レベルの外交関係を回復することで原則合意した、と発表。
12/09:
・ソ連とユーゴスラヴィア両国は、70~71年のラジオ・テレビの協力協定と議定書に調印。
12/18:
・スタンズ米商務長官は、ユーゴスラヴィアを訪問する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1970年
01/04:
・ユーゴスラヴィアの外交筋は、来月新任の駐中国大使が11年ぶりに赴任するだろう、と語る。
01/12:
・ルーマニアのマジュレル首相は、ユーゴ連邦のリビチッチ首相の招待でユーゴスラヴィアを訪問。
01/26:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、アフリカ7ヵ国訪問のためにベオグラードを出発。スーダンのハルツームに2時間立ち寄った後、タンザニアのダルエスサラームに到着。
02/09:
・チトー・ユーゴ大統領はザンビアのルサカで記者会見を行ない、エチオピアでロジャーズ米国務長官と会談することを確認。
・ユーゴスラヴィアの報道によると、ユーゴ共産主義者同盟内の活動しない者や反対の立場をとる者を同盟から排除する動きが始められる。排除される対象は、「官僚主義者」、「国家統制主義者」などで、特に地方組織に多く、自主管理組織を単なる形式に変えてしまうなど、ユーゴスラヴィアの発展を阻害していると非難されている者。
02/23:
・チトー・ユーゴ大統領は、アラブ連合のアスワンに到着。ナセル・アラブ連合大統領と会談。会談の主要な内容は、国連総会前に開催する非同盟諸国首脳会議で検討されるイスラエル占領地域からの撤退要求についての意見交換にある。
02/25:
・チトー・ユーゴ大統領とナセル・アラブ連合大統領会談の共同コミュニケが発表される。共同コミュニケ;「1,中東における公正で永続的な平和は、全占領地区からのイスラエル軍の完全撤退とパレスチナ住民の正当かつ固有の諸権利の全面的な復活。2,イスラエルの攻撃が中東における平和と安全を損なうばかりでなく、国際平和をも脅かしているとする点で一致。3,外部勢力、特に米国の援助なしにはイスラエルは侵略的態度を採ることもできないし、またその拡張主義的目的を進めることもできない。4,パレスチナの闘いは、奪われた権利を回復しようとするもので合法的である。5,国際平和および安全を確立するため、国連が持つ役割の重要性について意見を一致させる。国連は、加盟諸国が中東問題解決について採択した決議が履行されるよう、影響力を行使すべきである。6,非同盟諸国は明らかに平和的手段による問題解決を助け、国際平和の基礎を築くことができる」。
03/01:
・英オブザーバー紙は、「ユーゴスラヴィアと中国が12年間にわたって断絶していた外交関係を復活し、直ちに大使を交換することに合意した」と報じる。
03/07:
・ユーゴスラヴィア政府は、テパバッチ外相が18日から4月3日まで、ビルマ、カンボジア、シンガポール、インドネシア、インドを公式訪問すると発表。
03/11:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、ユーゴ連邦政府当局が西独の週刊誌「シュピーゲル」のベオグラード特派員ハンス・ペーター・ルルマン記者をスパイ容疑で逮捕した、と伝える。同時に2人のユーゴスラヴィア人も勾留される。
03/30:
・インド訪問中のテパバッチ・ユーゴ外相とシン・インド外相は、非同盟諸国首脳会議を国連総会前に開くことで合意。
05/06:
・新任の駐中国ユーゴ大使ボグダン・オレスチャニンは、赴任のために北京に向けて出発する。
05/26:
・ユーゴ連邦議会のミニッチ副議長を団長とする議会代表団が、6月1日から日本を公式訪問すると発表。
05/28:
・シャープ・カナダ外相は、ユーゴスラヴィアを初めて訪問。
06/02:
・カナダとユーゴスラヴィアとの共同声明を発表。両国は、欧州安全保障問題とこれへの協力について考慮するとともに、両国の関係改善をより進めることで合意。
06/03:
・ハンガリーのフォック首相は、ユーゴスラヴィアを訪問。
06/05:
・ユーゴスラヴィアのオレスチャニン駐中国大使は、周恩来中国首相と会見。
06/06:
・ハンガリーのフォック首相とリビチッチ・ユーゴ連邦首相との会談で、共同コミュニケを発表。共同コミュニケは、「全欧州会議の開催は、欧州大陸の安全保障を大きく促進するであろう」と強調。
06/24:
・コスイギン・ソ連首相は、リビチッチ・ユーゴ連邦首相を迎えた夕食会で演説。要旨;「1,対ユーゴスラヴィア関係において、ソ連は今後とも社会主義的国際主義、平等、相互尊重、相互内政不干渉、というマルクス・レーニン主義原則に確固として従うつもりである。2,ソ連とユーゴスラヴィアには個々の問題に対する見解の差異が未だに存在している。我々共産主義者・レーニン主義者にとってこのようなことに目をつぶるのは相応しくないだろう。一方で、あらゆる問題を率直に同志的に討議することは、両国間の協力の発展を妨げているあらゆることを除去するという結果を生むであろう。3,今日我々は会談を開始したが、両国の一層の接近へ向けられた努力が既に成果を上げていることは明らかである」と述べる。
08/14:
・ユーゴ連邦政府はバチカンのローマ法王庁と大使級の外交関係を復活することで合意した、と正式に発表。両国の外交関係は、52年に断絶している。
08/17:
・新任の中国の曽涛駐ユーゴ大使がベオグラードに着任。
08/28:
・ウ・タント国連事務総長は、チトー・ユーゴ大統領の招待を受けてユーゴスラヴィアを訪問し、テパバッチ・ユーゴ外相と会談。会談は、中東情勢およびザンビアのルサカで開かれる非同盟諸国会議、さらに国連の役割、欧州安保などについて協議。
・アフガニスタンのエテマジ首相は、ユーゴ連邦を公式訪問。非同盟諸国会議についての意見を交換するものと見られる。
09/05:
・チトー・ユーゴ大統領は、第3回非同盟諸国会議に出席する出発直前の記者団との会見で、「非同盟諸国会議は、過去2回の会議から一歩進んで宣伝よりも実現するために、多くの時間をかけるべきだ」と述べる。
09/06:
・第3回非同盟諸国外相会議が、ザンビアのルサカで64ヵ国の外相が参加して開かれる。
・エンカマ・ザンビア外相は、ナイジェリア、ローデシア、南アフリカ、モザンビーク、アンゴラなどの植民地支配が主要議題となろうと語る。この会議では政治課題よりも経済課題に関心が高まっており、南北格差問題が取り上げられる。
09/08:
・第3回非同盟諸国首脳会議・NAMがザンビアのルサカのムルグシ・ホールで開かれ、54ヵ国が参加。34ヵ国がアフリカ大陸の国。
・首脳会議開催国のカウンダ・ザンビア大統領は、「世界の非同盟諸国は、政治、経済、技術の面で有意義な集団行動を取る計画を立案すべきである」と演説。チトー・ユーゴ連邦大統領は、「この首脳会議では、決議を採択するだけではなく、それを実行に移すための完全な行動について合意すべきである。この会議は全世界の平和の世論の全面的支持を得るだろう」と演説。
09/10:
・第3回非同盟諸国首脳会議は、「平和、自由、開発、協力、および国際関係の民主化に関する宣言」および「非同盟と経済進歩に関する宣言」と「非同盟の役割」、「非同盟と国連」、「軍縮」、「人種差別」、「中東情勢」、「東南アジア情勢」など14項目の決議を採択して閉幕。 
「世界情勢の分析・1,内政問題に他国が介入し、政治・経済的な圧力をかけ、武力で脅かしている。2,中東、インドシナにおける侵略、また南ア政権は人類史からして汚点である。3,富める国と貧しい国との格差は益々開いている」。
「非同盟政策の基本原則と目標・1,世界平和を追求する。人種差別主義に対する闘争。2,国際紛争の平和手段による解決。3,軍備拡張を停止する。4,大国の軍事同盟条約に反対。5,外国軍基地の創設に反対する。6,国連の普遍性とその強化。7,経済自立を目指し平等互恵原則に基づく相互協力」。
「非同盟諸国の原則遵守と行動・1,完全な相互連帯を実現する。2,軍事同盟を解消させる。3,国際平和を守る。4,全世界各国の平等を確立させる。5,世界経済の構造を早急に変革する。6,国連強化の努力を継続する」。
09/13:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、中国の経済使節団が、ベオグラードに到着した、と伝える。
09/16:
・ユーゴスラヴィアを訪問していたマレーシアのラザク副首相は、ユーゴ連邦側との共同声明を発表。ラザク首相は、「ルサカで開かれた非同盟諸国首脳会議の決議を実行することが必要だ」と述べる。
09/21:
・チトー・ユーゴ大統領はザグレブで演説し、「ユーゴ連邦の指導部は再編成され、大統領に代わって集団指導体制によって国政を運営していくことになる。この再編成は、ユーゴスラヴィアの統一を確保するため必要である」と語る。
註;チトー大統領の演説は、チトー亡き後の集団指導性を示唆したものだが、幹部会員の選出法や各共和国の役割については、この後さらに協議が重ねられることになる。
09/30:
・ニクソン米大統領はロジャース米国務長官とともにユーゴスラヴィアを訪問。沿道は人波にあふれ、大歓迎を受ける。ニクソン米大統領は夕食会で、「中東、ベトナムその他すべての地域における米国の唯一の目的は、人々の権利に適当な考慮を払いながら平和に生活できるようにすることである。米国は、一方的な利益を狙う外部の大国による政策に対して反対している」と述べる。
10/01:
・ニクソン米大統領とチトー・ユーゴ大統領との会談による共同コミュニケを発表。要旨;「1,中東、東南アジア、東西関係、欧州の安全、開発途上国の問題、両国の諸問題などを話し合った。2,平和と国際的諸問題の正しい解決のためには、対決よりも交渉が不可欠とすることで合意。3,両国の友好関係の発展に満足の意を表明し、国連憲章の基本的原則でもある独立と相互尊重という原則に全面的に依拠している事実を指摘し合う。4,両国の協力問題、特に経済的および科学・技術面での具体的な協力について討議し、両国関係を一層広範に促進することを決意する」。
10/04:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の幹部会は、チトー大統領の側近のカルデリ幹部会員がまとめた30Pに及ぶ「大統領輪番制」の提案を、満場一致で可決採択。提案内容;「1,連邦構成6共和国の紛争を回避する。2,チトー大統領の後継者問題をめぐる憶測を回避する。3,党指導部を国務から解放する」の3点。この提案は10月29日に開かれる党協議会でさらに検討されることになる。
10/11:
・チトー・ユーゴ大統領は、ベルギー、ルクセンブルクを訪問した後、西ドイツのボンに到着し、ブラント西独首相と「1,西ドイツの対東欧政策。2,ルサカでの非同盟諸国首脳会議。3,中東情勢。4,ニクソン大統領のユーゴスラヴィア訪問」などについて会談。さらに両首脳は、欧州安全保障会議について、米国やカナダを含み、慎重な準備の上で開催すべきだ、との考え方で意見が一致する。
10/16:
・チトー大統領は、ユーゴ連邦を訪問中のマクナマラ世銀総裁と会談。世界銀行は、11日からユーゴ当局者と話し合いを重ねる。世界銀行のユーゴ連邦への融資は、現在4億7570万ドル。
10/23:
・チトー・ユーゴ大統領は、フランスの公式訪問を終えて帰国する。
10/31:
・ユーゴ共産主義者同盟は年次会議を開き、チトー大統領から出されていた集団指導制を採択。チトー大統領は閉幕演説で、「チトー以後のユーゴ連邦制度は分裂するのではないか、との内外の予測は間違っている」と強調。
11/04:
・チトー・ユーゴ大統領とチャウシェスク・ルーマニア大統領は会談後の共同コミュニケを発表。共同コミュニケは、軍事ブロックの解消と欧州の現国境の承認に賛成することで一致した、と記載。
11/16:
・ユーゴ連邦のテパバッチ外相は、ポーランドを公式訪問。ユーゴ連邦の閣僚がポーランドを訪問したのは62年以来8年ぶり。
11/18:
・ユーゴスラヴィアのニコラ・ミリャニッチ副首相が辞任する。辞任理由は不明。
11/26:
・西ドイツのシェール外相はユーゴ連邦を公式訪問して会談し、共同コミュニケを発表。コミュニケの要旨;「1,準備を十分整えてから開く欧州安全保障会議は有意義であろう。関係諸国はすべて平等の立場に参集すべきである。2,安全保障はすべての国々の独立、平等、不干渉の諸原則に立脚するものでなければならない。3,戦争中にナチス・ドイツの犠牲者となったユーゴスラヴィア人への西ドイツの補償問題は前進を見た」などという内容。
12/09:
・チトー・ユーゴ大統領のイタリア訪問は、延期されたと発表。
12/14:
・チトー・ユーゴ大統領は、ユーゴ連邦議会に憲法改正案を提出。改正案では、6共和国2自治州と共産主義者同盟を代表するそれぞれの指導者9人で集団指導体制を採り、ユーゴ連邦の結束を確保する、というもの。
12/28:
・ユーゴ連邦議会は、集団指導機関としての共和国最高幹部会を設置するための憲法改正案を可決採択する。
1970/00:
・アルバニアで、ヘロインの密輸組織が活発に活動し始める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1971年
01/06:
・ユーゴスラヴィア連邦の改正憲法が発効する。連邦最高幹部会を新設し、チトー後の「集団大統領制」を導入。
・クロアチア共和国のザグレブで、学生による民族主義を標榜するストが行なわれる。
01/16:
・日本の黒澤明監督はベオグラードで開かれた国際音楽祭で、チトー・ユーゴ大統領から勲章を贈られる。この時、チャーリー・チャップリン、ルネ・クレール、イングマル・ベルイマン、ローレンス・オリビエら10人がともに金輪付きユーゴ国旗勲章を授与される。
01/21:
・中国の曽涛駐ユーゴ大使は、先に中国を訪問したユーゴスラヴィア経済代表団を招いて宴会を催す。
01/22:
・ユーゴスラヴィアの銀行は、海外に旅行する同国人旅行者に対する外資売却を停止する。
01/23:
・ユーゴ連邦政府は、ディナールの平価を20%切り下げ、1ドル15ディナールとすると発表。ユーゴ経済はインフレ傾向で、生計費が69年は11%、70年は12%と大幅に上昇。70年のユーゴスラヴィアの輸入は、前年比43%増、輸出は14%増で、貿易赤字は12億ドルと史上最高となる。
02/15:
・チトー・ユーゴ大統領は、アラブ連合のサダト大統領と会談するためにカイロに到着。両大統領の会談は、イスラエル軍が占領しているシナイ半島地域の部分撤退と引き換えにスエズ運河を再開する、との内容について協議。
02/20:
・チトー・ユーゴ大統領は、サダト・アラブ連合大統領や政府高官と協議を終えて帰途につく。チトー大統領はこの後、アラブ連合首脳と協議した内容に沿って、米・英・ソ・仏との接触をすることになる。
02/27:
・ユーゴ連邦は、集団指導体制の導入を骨子とする憲法修正草案を発表。修正憲法草案は40項目からなり、6共和国と2自治州に、現憲法より経済分野で大きい権限と権利を与え、非中央集権化を目指している。また、各共和国から2人、各自治州から1人の大統領資格者を選出し、任期は5年で集団指導体制を構成する。この資格者の中から、大統領1人と副大統領1人を選出する。任期は1年。ただし、チトー大統領の生存中は連邦議会がチトーを大統領として選出することができるので、実質的にはチトー大統領の任期が継続することになる。
02/00:
・スウェーデンのエーテポリ市のユーゴスラヴィア領事館に、クロアチア過激派「ウスタシャ」が押し入り、館員を人質にして68年9月のベオグラード中央駅爆破犯人の釈放を要求。
03/19:
・ロンドンの外交筋は、ユーゴ連邦とアルバニアはこのほど大使交換に合意した、と語る。
03/25:
・チトー・ユーゴ大統領は、イタリア訪問のためにローマに到着。
03/29:
・チトー・ユーゴ大統領は、初めてバチカンのローマ法王を公式訪問する。
04/07:
・ユーゴ連邦のウラジミル・ロロヴィチ駐スウェーデン大使は、ストックホルムのユーゴ大使館に侵入してきたクロアチア人の過激主義者に銃撃され、重傷を負う。犯人のクロアチア人たちは「自由クロアチアばんざい」と叫んで逮捕される。
04/14:
・襲撃されたユーゴ連邦のウラジミル・ロロヴィチ駐スウェーデン大使が死去する。
・クロアチア人過激主義者は、ロロヴィチ大使殺害犯を釈放しなければスウェーデン国外にいるスウェーデン人を殺害すると公言。
04/28:
・ユーゴ共産主義者同盟幹部会総会がブリオニ島で開かれ、党秩序の回復、非中央集権化に関する指導方針について討議している模様。この総会でチトー大統領は、共産主義者同盟の幹部会員の無責任振りを激しく非難する。
註;共産主義者同盟は、セルビア、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロの6共和国の党指導者が互いに反目し合い、各共和国の利益追求に耽っているために関係が著しく悪化している。これに加え、背景には経済情勢の悪化が深刻化していることがある。
05/01:
・チトー・ユーゴ大統領はラビンで演説し、「ユーゴ共産主義者同盟から敗北主義者と無規律の分子を一掃し、嘘と中傷を撒き散らす人々を大学から排除すべきである。報道も抑制すべきである」と語る。
05/03:
・ブリオニ島で行なわれていたユーゴ共産主義者同盟の幹部会総会は、討議を終了して公式発表を行なう。要旨;「1,ユーゴスラヴィアの国内状態は重大な局面を迎えており、一切の地方的民族主義に対して闘争を繰り広げて行かねばならない。2,チトー大統領の率いる幹部会は近く、共産主義者同盟内部の状況の悪化を徹底的に検討するために、6共和国の同党代表を集めて緊急会議を開催する。3,全党員は同党の決定、特に経済問題での党指令を守るべきである。また消費は国家の生産力の限度内に制限すべきである」など。
05/08:
・チトー・ユーゴ大統領はサラエボで開かれた労働者評議会企業庁会議で演説し、「ユーゴスラヴィア国内にはユーゴ連邦の制度に反対する敵対勢力があり、国の内外に企業の自主管理に反対する勢力が存在する。我々は行政措置をとり、敵対勢力を壊滅する方法を見出さなければならない。我々は党を再編成し、党員として相応しくない全人物を党から追放しなければならない」と語る。
・ユーゴ連邦幹部会議長ミレンチェ・ポポヴィチ共産主義者同盟幹部会員が死去。
06/06:
・テパバッチ・ユーゴ外相は、アラブ連合のリアド外相と会談するためにカイロに到着。
06/09:
・テパバッチ・ユーゴ外相を団長とするユーゴ政府代表団は、中国政府の招きで北京を訪問。
06/12:
・テパバッチ・ユーゴ外相は、周恩来中国首相と会談。会談では、国連の最近の傾向、当面の国際情勢、両国政府の政策、非同盟諸国の役割と姿勢、などについて意見を交換。
06/14:
・英デーリー・テレグラフ紙は、クライスラーがユーゴスラヴィアに年産1万台の自動車組み立て工場を造る計画を進めており、クライスラーの欧州代表とユーゴ連邦の代表との話し合いは有望な段階にまで達している、と報じる。
・ワルシャワ条約機構諸国が、ユーゴスラヴィアと国境を接するハンガリー領で今月末に演習を行なう予定、と伝えられる。
06/15:
・テパバッチ・ユーゴ外相が訪中して中国首脳と会談した際の共同コミュニケが発表される。内容は、「平和5原則を基礎に、経済、科学、技術、文化を含め相互の協力関係を発展させる」ことを確認。
06/30:
・ユーゴ連邦議会は、連邦最高幹部会を新設し、チトー後の「集団指導体制」を実施するための、憲法改正案を可決。
この憲法修正案の可決により、6共和国2自治州から選ばれた22人の代表による集団指導制が発足する。最高幹部会は1年交代の幹部会議長(大統領)を互選する。ただし、チトー大統領存命中は引き続き大統領職にとどまるため、実質的にはチトー大統領が死去した後に集団指導制が発動されることになる。この憲法修正案では重要問題の決定は各共和国の同意が必要となり、現状に較べて中央政府の権限が著しく制限され、共和国の自主性が増大することになる。
07/06:
・チトー・ユーゴ大統領は、「連邦の結束は、一人の人間ではなく全国民にかかっている。西側報道は、私が権力の座にある限り崩壊をくい止められようと伝えているが、もしすべてが一人の人間の双肩にかかっているとすれば、それは不幸なことである。誰もが引退できるので、このことは私自身についてもいえることだし、他の人々についても同様だろう」と演説。
07/08:
・ユーゴ連邦外務省は、4日にブルガリア空軍機が2度にわたって領空を侵犯したとして、ベオグラード駐在のブルガリア大使に抗議の覚え書きを手渡す。
07/29:
・ユーゴ連邦議会5院合同会議は、新たな集団指導制の発足を正式に宣言。チトー大統領を大統領兼連邦幹部会議長に選出するとともに、6共和国から各3人、2自治州から各2人の22人の連邦幹部会員を承認する。
08/16:
・ユーゴ社会主義勤労人民同盟機関紙「ボルバ」は、周恩来中国首相のアルバニア、ユーゴスラヴィア、ルーマニア3国訪問説を報じたハンガリー政府機関紙「マジャール・ヒルラブ」の報道を取り上げ、「周首相のユーゴスラヴィア訪問はあり得ることだ」と述べ、「バルカン3国が反ソ枢軸形成を目指すものだ」との主張には、「ユーゴ連邦はすべての外国の政治家の訪問と平等、相互尊重に基づく協力に門戸を開放している」と反論。
09/03:
・朝鮮中央通信によると、朝鮮民主主義人民共和国政府とユーゴスラヴィア連邦政府は大使級外交代表の相互派遣に合意し、共同声明を発表した、と報じる。
09/11:
・フルシチョフ・ソ連前首相が死去する。
・フルシチョフ・ソ連前首相の死去に対し、ユーゴスラヴィアのベオグラード各紙は大きく報じ、55年にフルシチョフ・ソ連共産党第1書記の主導により「ベオグラード宣言」が調印されたことなどを好意的に報じる。
09/22:
・ブレジネフ・ソ連共産党書記長はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。歓迎会でブレジネフ書記長は、「いわゆる制限主権論とか、バルカンへのソ連の侵入とかを言いふらす者がいるが、これはソ連を中傷するために考え出されたものだ。われわれはソ連とユーゴ連邦の友好を守るべきだと考えている」と演説。チトー大統領は、最近のソ連の対外関係の主導を評価しながら、「ソ連との協力基盤はあくまで独立と主権の相互尊重および内政不干渉の原則にあること、武力の行使や武力による圧迫、内政干渉は排斥されなければならない」と強調。
09/25:
・ソ連とユーゴ連邦の共同声明が発表される。共同声明の要旨;「1,ソ連側は平和と国際協力の強化、植民地主義、新植民地主義に反対する独立闘争で、非同盟諸国の政策が果たしている役割を肯定的に評価。2,ソ連とポーランドが西独と締結した条約を肯定的に評価しながら、両国は同条約の速やかな発効を希望する。西ベルリンに関する4大国協定は欧州情勢を正常化する道での大きな前進で、安全保障と協力問題についての全欧州会議を近い将来開き、欧州情勢を健全化しなければならない。3,両国はバルカン半島の恒久平和と安全強化の支持者であり、バルカンの非核武装宣言はこのための重要な措置になるであろう。4,両国はインドシナ諸国民に対する米国とその同盟国の侵略を非難し、また、イスラエル侵略の結果の一掃を目指すアラブ諸国民の闘争への断固たる支持を確認する。5,両国は欧州での武力削減問題を取り上げる機が熟したと考えている。また核保有5大国会議の開催は有効であると認め、世界軍縮会議の問題を主張する」というもの。「両国人民、および平和と社会主義のための両国の友好と協力の一層の拡大、強化を目指すこと」を唱うが、具体策はない。
・タイムス・オブ・インディア紙はこの新ベオグラード宣言について、「モスクワは、チトー亡き後のユーゴスラヴィアで民族問題の緊張が高まれば、それを利用しようとするだろう」と社説で論評。
10/16:
・チトー・ユーゴ大統領は、インドを公式訪問するためにニューデリーに到着。チトー大統領はガンジー・インド首相らと、東パキスタン難民問題、米、中、ソ3国の最近の外交攻勢の分析、インドと中国の国交改善に関するユーゴ連邦の見解、経済協力問題などについて話し合う模様。
10/17:
・チトー・ユーゴ大統領はガンジー・インド首相と会談。チトー大統領は、東パキスタン難民の問題はインドだけで負うべきではない、と述べる。
10/20:
・チトー・ユーゴ大統領はサダト・エジプト大統領と会談するためにカイロに到着。
10/25:
・国連総会は、アルバニアが提案した中国の国連加盟決議案を、賛成76,反対35,で可決。これに先・立ち、日本などが提案したアルバニア案の採択には3分の2の賛成を必要とするとの「逆重要事項決議案」は、賛成55,反対59、棄権15,欠席2で否決される。「国府(台湾)」はアルバニア案が可決した直後、周外相が「国府は国連の各組織から脱退することになる」との声明を出す。
10:
28:・チトー・ユーゴ大統領は米国を訪問し、ニクソン米大統領と会談。国際問題全般とブレジネフ・ソ連最高幹部会議長、ガンジー・インド首相、ヤヒア・カーン・パキスタン大統領、サダト・エジプト大統領との会談から得た感触などを話し合う。
10/29:
・チトー・ユーゴ大統領は記者会見でブレジネフ・ソ連最高幹部会議長との会談に触れ、「ブレジネフ議長は、エジプトにいる軍事要員を、中東の危機解決後に全員引き揚げる意向を述べた」ことを明らかにする。
10/30:
・チトー・ユーゴ大統領とニクソン・米大統領との会談の共同コミュニケを発表。要旨;「1,米国、ユーゴ連邦両国が欧州における永続的平和と安全保障を求め、さらに有意義な措置を講ずる必要があるとの点で合意。2,中東、南アジア、東南アジアを含む主要な国際問題ならびに国際通貨情勢について意見を交換した」ことなど。
11/01:
・ユーゴスラヴィアの航空会社「エアー・ユーゴスラヴィア」は、中国へのチャーター機の航空便の乗り入れ許可を得る。
11/02:
・チトー・ユーゴ大統領は、カナダ公式訪問のためにオタワに到着。
11/07:
・チトー・ユーゴ大統領とカナダ政府の会談の共同コミュニケが発表される。それによると、カナダがユーゴスラヴィアに多額の借款を供与することで合意。チトー大統領はこの後ロンドンを訪問。
11/23:
・チトー・ユーゴ大統領は、ルーマニアを訪問。
12/12:
・ユーゴ連邦のダブチェヴィチ・クカル中央委議長は、チトー大統領から民族主義的勢力を容認したと非難されて辞任する。
註;クカル中央委議長の辞任にはユーゴスラヴィアの南北問題がある。北部のスロヴェニアとクロアチアは豊かであり、南部のマケドニアやコソヴォ自治州などに比較すると数倍の格差がある。クロアチアの工業生産はユーゴ連邦の33%を占め、その製品輸出と観光収入などで外貨の獲得量は40%を超えているが、そのうちの90%は連邦銀行などに吸い上げられている。このことが、スロヴェニアとクロアチアの中に、「自分たちの稼いだ金が、他人のために使われる」との不満を鬱積させている。
12/13:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国のザグレブで、辞任したダブチェヴィチ・クカル中央委議長を支持するデモ隊と警官隊が激しく衝突し、数百人が逮捕される。クロアチア共和国共産主義者同盟は総会を開き、ミルカ・ブラニング夫人を中央委議長に、ヨシブ・プロベッチを執行委書記に選出する。
12/18:
・チトー・ユーゴ大統領は労働者評議会の会合で、「共和国が仮に独立しても、ユーゴスラヴィアの地理的な環境、隣接している国の性格から見て、絶対に長持ちはしない。それを防ぐためには、私は極端な手を打つこともためらわない」と述べる。
12/21:
・チトー・ユーゴ大統領は、「多民族国家のユーゴスラヴィアを内部の敵から守るため、軍隊を動員する用意がある。軍の任務は国家の領土保全を守ることだけでなく、我々が危険にさらされていると判断し、それ以外に手段のない場合、われわれの社会主義を守ることである」と演説。分派運動の急先鋒のボベトコ将軍を解任する。
12/22:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国のドラグチン・ハラミジャ首相が辞任。警察はクロアチアのザグレブの学生寮を家宅捜査し、学生ら352人を逮捕。ピストル6丁とパンフレットなどを押収。
・ユーゴ連邦セルビア共和国のコソヴォ自治州の共産主義者同盟地方委員会は、アルバニア系民族主義を非難したかどでミロス・セクロヴィチ・イデオロギー委員長を追放する。コソヴォ自治州は人口120万人で、アルバニア人が90万人を占め、首都プリシュティナの大学では、先月と今月にアルバニア系学生とセルビアおよびモンテネグロ系学生との間で紛争が起こる。
註;この年、ユーゴ共産主義者同盟から除名された者は5万1000人、党籍を返上した者は9万2000人に上る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1972年
01/05:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国のザグレブで、ユーゴ共産主義者同盟の中央委機関紙「ボルバ」のクロアチア版印刷所で郵便物が爆発し、1人が死亡。
01/20:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国共産主義者同盟は、党の役員357人の党籍を剥奪し、143人を党籍はそのままに役員から解職する。その他、255人を党籍から辞籍する。処分はクロアチアでの学生ストや民族主義的騒動の責任を問われたもの。
01/22:
・ユーゴ連邦執行会議(内閣)は、バングラディッシュ政府についての承認を決定する。
01/25:
・ユーゴ共産主義者同盟は年次総会を開く。議題は「1,自治管理制度。2,連邦と共和国の関係。3,経済安定。4,ユーゴ共産主義者同盟の機構改革」など。
01/26:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、ストックホルム発ベオグラード行きユーゴ航空のDC9旅客機が、チェコスロヴァキア上空で空中爆発して墜落。乗客、乗員28人のうち27人が死亡し、女性1人が生存。
01/27:
・スウェーデンの新聞「クバエルスポステン」紙は、「26日夕刻にクロアチア民族主義者と称する男から電話があり、次のように話した」と発表。「1,われわれはクロアチアからの移民だが、自由クロアチア創設のため、共に働いているものだ。2,あの飛行機に時限爆弾を仕掛けたのは、デンマーク前国王の葬儀に出席したビエジッチ・ユーゴ首相が乗るはずだとの情報をつかんだからだ」と語った、と報じる。
・ユーゴスラヴィア北部リュブリャナからベオグラード行きの寝台列車がジダニ・モスト付近で爆破され、6人が重軽傷を負う。
・ユーゴ共産主義者同盟は年次総会で、党幹部会の執行局のメンバーを従来の15人から、6共和国2自治州選出の8人に改める機構改革を行なう。チトー大統領は、ユーゴ共産主義者同盟の年次総会の閉幕演説を行ない、党の団結を訴えたが、連続爆破事件には触れず。ユーゴスラヴィアの場合、共産主義者同盟はソ連のような強大な権力は持たない。社会主義勤労人民同盟の方が力を持つ。
02/02:
・サダト・エジプト大統領は、モスクワからユーゴスラヴィアを訪問するためにベオグラードに到着。
・クロアチア共産主義者同盟のグルイチ・ザグレブ市委員会書記は記者会見で、民族主義運動の責任を取って総退陣した同盟前指導者たちについてザグレブに調査委員会を設置し、「1,単に情勢に乗った日和見主義者なのか。2,それとも積極的に運動に参画したのか」を調査している、と語る。当局は既に、クロアチア文化団体「マチツァ・フロバツカ」の幹部を含む11人を、反革命容疑で逮捕している。
03/04:
・ユーゴスラヴィアの週刊誌「ニン」は、公安当局がベオグラードの学生の間につくられたトロツキスト組織を破壊しようと努力し、3人を逮捕した、と報じる。
03/10:
・ユーゴ連邦外務省は、「ユーゴスラヴィアとフィリピンが外交関係を樹立することに合意した。これは両国の経済協力、友好関係の増進に役立つことになろう」との声明を発表。
03/13:
・ユーゴスラヴィア政府は、パキスタンとの外交関係の回復に合意したと発表。
04/01:
・ユーゴスラヴィアで3月以来天然痘が流行し、ベオグラードやコソヴォ自治州に広がり、既に患者41人、死者21人が出る。
04/10:
・ユーゴ共産主義者同盟は党上層部の官職数を削減するに伴い、連邦執行評議会の2人の幹部が辞任する。辞任したのは、改革派のクルシテ・ツルベンコフスキー同評議会議長とラザル・コリシェフスキー同評議会会員。
05/25:
・チトー・ユーゴ大統領が80歳の誕生日を迎えたことを祝福し、ソ連政府は「ファシズムに対する共同闘争の功績と、ソ連・ユーゴ連邦の兄弟的な友好強化と関係強化への功績、平和のための闘いへの積極的参加と、国際協力発展の努力に対し」レーニン勲章を贈ると発表。
06/05:
・チトー・ユーゴ大統領はソ連最高会議幹部会の招待を受け、5年ぶりにソ連を公式訪問。モスクワ空港で、ブレジネフ共産党書記長およびボドゴルヌイ最高会議幹部会議長などの温かい歓迎を受ける。チトー大統領は夕食会で、「ソ連・ユーゴ連邦関係の発展、米ソ首脳会談の成功を讃え」ながら、抽象的な表現で、「ユーゴ連邦へのソ連の干渉を認めない」と表明。ブレジネフ書記長は、「過去1年半に、ソ連や他の社会主義諸国と多くの資本主義諸国との関係に根本的な変化が生じた」と述べる。
06/06:
・チトー・ユーゴ大統領とブレジネフ・ソ連書記長などとの第1回会談が開かれる。会談では、両国間の友好関係と全面的協力の一層の発展と充実をめぐり、「同志的な意見交換」が行なわれる。国際関係ではベトナム、中東などに関する共同の立場を確認。
06/10:
・チトー・ユーゴ大統領とブレジネフ・ソ連最高幹部会議長との会談による共同声明が発表される。共同声明の要旨;「1,昨年のベオグラード宣言を基礎とし、両党の協力関係の発展の成果を評価。2,マルクス・レーニンの教えを、それぞれの国の特殊性に見合うように複合的に適用しながら、国際主義的伝統、友好、相互尊重、平等の精神で創造的で全面的な意見と経験の交流、相互理解の発展、協力拡大に努める。3,西独とソ連、ポーランドとの両条約の発効は、独立、主権、領土保全、内政不干渉、いかなる形であれ力による脅しと力の行使の拒否などの原則に基づいた欧州情勢正常化に、新しい刺激を与えたと評価。4,さらに、インドシナ諸国家への闘争支援、米軍兵力の完全撤退、インドシナ諸国民自身の自由な意思に基づく解決、米ソ戦略兵器削減交渉」などにも言及。
06/21:
・チトー・ユーゴ大統領は、ポーランド訪問のためにベオグラードを出発。
06/23:
・チトー・ユーゴ大統領とギエレク・ポーランド共産党第1書記との会談による共同コミュニケを発表。「現在、全欧会議の速やかな準備と開催に向けたすべての必要な条件が整った」と強調。
07/02:
・ユーゴ連邦内務省は、同国の軍隊と警察がボスニア西部で、クロアチア民族主義者グループ・ウスタシャが同国に潜入したところを殺害した、と発表。
07/04:
・ドイツ在住の「在外クロアチア人共同体連邦議会」グループは、「今から27日までの間、ユーゴ連邦のクロアチア共和国とボスニア・ヘルツエゴビナ共和国で、軍隊および警察の拠点に対し、数多くの妨害作戦が実行されるだろう」と発表。この発表は、「クロアチア社会主義ゲリラ軍」に宛てた布告で、昨年12月に解任されたクロアチアの政治指導者の復権を目的としている。
07/11:
・ユーゴ共産主義者同盟は、ブリオニ島で幹部会を開く。
07/25:
・ユーゴ連邦軍当局の発表によると、潜入したウスタシャ派のゲリラ19人とと交戦し、1人が逃亡、18人を射殺。
10/13:
・セルビア共和国幹部会員とチトー大統領の話し合いで、チトー大統領はセルビア共和国の指導者に対し、「1,全体的にイデオロギー闘争が弱体化し、同盟内部の行き過ぎに対する取締を怠っている。2,大学以下の学校からマルクス主義教育がほとんど完全に消滅しているのを放置している。3,ベオグラードの新聞が外国の新聞にユーゴスラヴィア非難の材料を与えているのを許している。4,憲法改正で規定されている、銀行、貿易団体などの再編について、ほとんど何の手も打たず、他の共和国の不満をかき立てている」と批判。
・ユーゴスラヴィアは、平均賃金が1500ディナールで、労働者の60万人は1000ディナール以下にもかかわらず、ベンツやBMW、プジョーなどの外車が18万台走り回っている、というアンバランス状態にある。
10/26:
・ユーゴ連邦セルビア共和国の共産主義者同盟中央委は、辞任したニケジッチ、ペロヴィチに替えて、新議長にチホミール・ブラスカリッチ・ベオグラード大学教授を、新書記にニコラ・ペトロニッチを選出する。
10/28:
・ユーゴ連邦のテパバッチ外相が辞任する。
10/29:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国のカフチッチ首相は、スロヴェニア共産主義者同盟執行局会議で「技術官僚主義に対する闘争において無能だった」と批判されて辞任。
10/00:
・ユーゴ連邦政府は、ソ連との5億4000万ドルの借款協定を締結。ユーゴ連邦のソ連に対する負債は、13億ドルに達する。西側の融資は、米輸出入銀行が6億3500万ドルで、米国の過去20年間の融資総額は20億ドル。世銀が最も多額の融資をしている。
11/03:
・ユーゴ連邦の副大統領および陸軍参謀長を務めたポポヴィチが連邦幹部会員を辞任。
11/14:
・ユーゴ連邦の公式筋によると、来年1月の外国為替市場正式開設に先立ち、12月1日から外国為替市場を試験的に運営する。国際収支が好転し、外貨準備高が7億2000万ディナールに達していることを反映しての為替市場開設。
11/21:
・米軍の軍事使節団がユーゴスラヴィアを訪問。相次いで、ソ連の参謀長を含む代表団がユーゴスラヴィアを訪問。ユーゴ連邦の消息筋によると、米ソがユーゴスラヴィアへの武器供与にしのぎを削っている模様、と伝える。
12/08:
・ユーゴ共産主義者同盟第3回年次会議は、「青年層に対する社会主義的指導と、柔軟に社会主義社会へ向けて若い世代が積極的に参加するための共産主義者同盟の闘争」に関する決議を採択。
12/12:
・チトー・ユーゴ大統領は、スロヴェニア共和国のリュブリャナで開かれた党指導者会議で、「現在一部の人たちは、ユーゴ連邦がソ連の腕の中に入りつつあるとか、ソ連に接近しているとか言っている。しかし、ユーゴ連邦は何処へも行かない。ユーゴ連邦は今あるところに居続ける。ソ連との間で良好な関係を保つ最良な方法は、ユーゴ連邦の独立と発展の道を尊重することだ。このことは既にソ連や他の諸国に伝えてある」と、ソ連回帰説を否定。
12/15:
・「全欧安保・協力会議(CSCE)」準備会議は、討議の原則を、「1,全会一致で成果を生み出す。2,参加国は平等の権利を持つ。3,会議のブロック化を避け、話し合いはすべて東西軍事機構の枠外で進める」との手続き方式で合意。会議の議題・「1,国家間の関係についての原則。2,経済、科学、文化面および生活環境についての協力。3,人、思想、情報の自由の流通」などをあげ、休会に入る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1973年
01/01:
・EC・欧州共同体に英国、アイルランド、デンマークが加盟。
01/15:
・「全欧安保・協力会議(CSCE)」の準備会議が再開される。西側は3項目の議題を提案、「1,領土の保全、内政不干渉、各国の平等の権利、民族自決、武力不行使、などの原則。2,通商、産業、経済、環境の面での協力。3,文化面での接触を高め、人と思想の交換をより自由にする」。
03/13:
・ユーゴ連邦のビエジッチ首相は、マレーシアを訪問。
04/16:
・ブラント西ドイツ首相は、ユーゴスラヴィアを公式訪問するためにベオグラ-ドに到着。
04/19:
・ブラント西ドイツ首相とチトー・ユーゴ大統領との会談で共同声明を発表。骨子は、「第2次大戦中の損害補償に代わる措置として、長期的な経済協力をする」ことで合意。
05/08:
・ユーゴ連邦は、外国為替市場を開設する。市場での取引対象通貨は、米ドル、カナダドル、および欧州諸国通貨11種類の合計13種類。取引は直物に限られる。取引に参加出来るのは国立銀行の他、公認銀行に限られる。社会主義国では最初の為替取引市場となる。
06/01:
・ギリシャの軍事独裁政権は王制を廃止し共和制を樹立する。
08/31:
・ソ連のブレジネフ共産党書記長は、非同盟諸国首脳会議の開催国のブーメジエン・アルジェリア革命評議会議長に書簡を送る。内容は、先に行なわれた米ソ首脳会談を非難する声に対し、「非同盟主義運動の反帝国主義闘争を抑制しようとしている帝国主義の大国と、それらと結びついた反動勢力」と非難し、「モスクワの発展した資本主義国との関係改善は、発展途上国との関係を損なうものではない」と述べる。
09/02:
・第4回非同盟諸国外相会議が6年の空白を経てアルジェリアのアルジェ近郊のパレ・デ・ナシオンで開会。
・アルジェリアのブーテフリカ外相は、「東西関係の緊張緩和の中で目標を定義し直す必要性がある。非同盟諸国の新興勢力は相互に協調し、団結し、有機的なつながりを持たなければならない。アフリカの解放運動への援助を増やし、経済的新植民地主義を追放する」よう要請。
・ザンビアのムデンダ外相は、イスラエルが非同盟陣営に属する3国の領土を不当に占領していると非難。
09/03:
・非同盟諸国会議は、新たにアラブ首長国連邦、アルゼンチン、オマーン、カタール、バングラデシュ、ブータン、ペルー、マルタの8ヵ国を正式メンバーとして参加することを承認。また、ゲストとしてオーストリア、スウェーデン、フィンランドを招待。
・OPECのケネ事務局長は、非同盟諸国首脳会議に出席すると発表。
・周恩来中国首相は非同盟諸国会議に祝電を送る。
・ワルトハイム国連事務総長は、非同盟諸国会議に出席するためにヨルダンのアンマンを出発。
09/04:
・非同盟諸国外相会議は、政治・経済宣言の他、国際安全保障強化に関する宣言、非植民地化に関する宣言、南アフリカに関する宣言、などが協議されているが、中東のイスラエルの扱いについて強硬派と穏健派との間で意見がまとまらず。
09/05:
・第4回非同盟諸国首脳会議・NAMがアルジェリアのアルジェで開かれ、76ヵ国が参加。
・ブーメジエン・アルジェリア大統領、ザンビアのカウンダ大統領が演説。中南米の参加国が目立つようになる。
09/06:
・非同盟諸国首脳会議は2日目を迎え、チトー・ユーゴ連邦大統領、ガンジー・インド首相、ハイレ・セラシエ・エチオピア皇帝、リビアのカダフィ革命評議会議長などが演説。チトー大統領は、「開発途上国が経済的独立性を守り、国内資源を動員し、諸国間で協力すれば発展するだろう」と述べ、「イスラエル、南アフリカ、ポルトガル、ローデシアの政策」を非難。
09/07:
・非同盟諸国首脳会議でキューバのカストロ首相がソ連盟友論を主張したことに対し、カンボジアのシアヌーク殿下が反論して激論となる。
・リビアのカダフィ議長は記者会見で、カストロ首相のソ連盟友論を非難し、「キューバは東欧諸国、ソ連と違いはない。私とカストロの違いは、彼は社会主義者で同盟を結んでいる。私は社会主義者で非同盟を堅持している」と述べる。
09/08:
・第4回非同盟諸国首脳会議は議論が沸騰し、会期を1日延長する。中でも、米・ソ両大国が非同盟諸国など途上国の犠牲の上に立った「馴れ合い的緊張緩和」に憤懣が噴出している。ガンジー・インド首相は、「緊張緩和が進んでいる世界で、富める国は益々自分たちのことしか考えないようになってきた」と指摘。
09/09:
・第4回非同盟諸国首脳会議は、「政治宣言」と「経済宣言」および「中東に関する宣言」と「南アフリカに関する宣言」、「経済協力のための行動計画」などを採択して閉幕する。次回はスリランカで開催することを決める。
「政治宣言」;「1,緊張緩和の兆しが見えるが、外国の支配、帝国主義、シオニズムに直面している人たちがいる。力の政治、植民地主義者の戦争、南アフリカ共和国の人種隔離、経済的搾取、略奪が続く限り、平和は原則的にも規模の上からも限られたものとなる。2,世界は富める国と持たざる国に分割されており、真の独立は国家資源を自らの手に収めることである。3,米国のカンボジアへの爆撃を非難し、ベトナム和平のパリ協定を尊重するよう米国に要求する。4,政治的、経済的、軍事的圧力の拒否する。軍事同盟、軍事基地を拒否する。5,力の政治と人民の正当な願望が衝突している紛争の平和的解決には、断固たる行動を取ること。6,国家主権の尊重、領土保全の原則遵守。紛争を平和的解決すること」など。
「経済宣言」;「1,天然資源を国有化し、国内における経済統制の権利を有する。2,内政不干渉の原則と民族自決の権利を侵害している多国籍企業を糾弾する。3,先進国が自らの利益のために、現存の経済秩序を恒久化しようとしていることを糾弾する。4,通貨および貿易に関する取り決めに、発展途上国の考え方を考慮に入れるよう要求する。5,中南米、アジア、アフリカおよび中東各国は、力によって押し付けられた条約や協定を破棄する努力と協調する」など。
「経済協力のための行動計画」を国連事務総長に提出する。国連総会は、「新国際経済秩序樹立宣言」を採択すること。
09/11:
・チリのアジェンデ政権が米企業が権益を持つ銅鉱山を国有化したことに対し、米CIAが工作して軍事クーデターを起こさせ、ピノチェト将軍に政権を掌握させる。
註・ピノチェトは大統領に就任したのち、ミルトン・フリードマンが提唱したシカゴ学派の「新自由主義市場経済」を世界で初めて導入することになる。
10/06:
・エジプトとシリアがイスラエルを攻撃し、第4次中東戦争が始まる。
10/17:
・第4次中東戦争を端緒としてアラブ石油輸出機構・OAPECが、石油の輸出制限と価格の引き上げを宣言する。この措置により、第1次オイルショックが始まる。
11/12:
・チトー・ユーゴ大統領は、ソ連共産党中央委の招きでソ連を訪問。話し合いの中心は、「1,中東情勢について、アラブ側と良好な関係にあるチトー大統領と、今後の態度決定を迫られているソ連首脳が意見交換を行なう。2,ソ連のユーゴ連邦への借款供与問題について詰める」ことなど。
11/25:
・ギリシャでは海軍と陸軍の対立で軍事クーデターが起こり、軍事独裁政権が崩壊する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1974年
01/11:
・ソ連とユーゴ連邦は、74年の貿易議定書に調印する。議定書は、74年の貿易額を10億ドル以上、前年の20%増にするとしている。
01/26:
・チトー・ユーゴ大統領は、インドの憲法制定記念日に参加するためにニューデリーを訪問。
01/29:
・チトー・ユーゴ大統領とインド首脳との会談の共同コミュニケが発表される。両国は共同コミュニケで、国際情勢の推移について検討するため、非同盟諸国会議の開催を呼びかける。
・チトー・ユーゴ大統領は、バングラディッシュ訪問のためにダッカに到着。空港にはラーマン首相が出迎える。
02/21:
・ユーゴ連邦議会は、「1974年憲法」を採択する。新憲法の主要点;「1,最高執行機関の連邦最高幹部会の構成を6共和国、2自治州の各代表および共産主義者同盟の9人制にし、チトー後の大統領は幹部会メンバーが交代で担当する。2,現在の連邦議会の5院制を、共和国・自治州議会(80人)と連邦議会(220人)の2院制にする。3,連邦議会は外交、連邦予算および国内政策の根幹となるものを担当。共和国・自治州議会は各地域の経済政策を担当する。4,『共同労働の基礎組織』を工場や病院、学校などにおき、労働者の権限を拡大するとともに、それを細胞として末端から共産主義者同盟の権力を強化する」。この憲法改正により、連邦中央政府の権限が削減され、コソヴォ自治州およびヴォイヴォディナ自治州に、共和国と実質上、同等に近い地位が与えられることになる。この「74年憲法」が施行されるや、コソヴォ自治州在住のセルビア人住民は多数派を占めるアルバニア系住民から迫害を受け、5万7000人が追放されたり、避難を余儀なくされたりしている。
03/00:
・イタリアの国境地帯の「トリエステ」のB地区に、ユーゴ連邦側が領土を示す標識を立てる。「トリエステ」地区は、第2次大戦後の54年のロンドン協定によってA,B地区に分割し、施政権のみについてA地区をイタリア側が管理し、B地区をユーゴ連邦側が管理する、と取り決められているが、領土権は決められていない。イタリア政府は直ちに抗議。ユーゴ連邦側は戦車や装甲車を配置し、イタリア側はアドリア海で米軍とイタリア軍が陸海空の演習を行なう。
04/08:
・ジェマル・ビエジッチ・ユーゴ連邦首相とファン・バン・ドン北ベトナム首相の会談で、科学・文化協力協定が調印される。
04/22:
・ユーゴ共産主義者同盟幹部会は、チトー・ユーゴ大統領を終身大統領とするよう、第10回党大会に提案すると発表。
05/16:
・ユーゴ連邦議会は、チトー・ユーゴ大統領を終身大統領として選出する。
05/27:
・ユーゴ共産主義者同盟(党員107万6000人)の第10回党大会が、ベオグラードで開かれる。大会には、1050人の代議員と90ヵ国の政党や団体が招かれる。ソ連は、一層のユーゴ接近を図るために、政治局員No.4のキリレンコ党政治局員兼書記を団長とした代表団が参加。中国は党の関係回復が遅れているため招待されず。チトー・ユーゴ大統領は、「69年の第9回党大会から今度の大会までに、ユーゴスラヴィアが深刻な政治的動揺を経験したことから見ても、根本的分析を行なう必要がある」と演説。
05/30:
・ユーゴ共産主義者同盟第10回大会が20議案を採択して閉幕する。チトー・ユーゴ大統領が終身党議長に選出され、党中央委幹部会は39人に連邦幹部会員8人を加えて47人とし、ユーゴ連邦に対する党中央の指導力を強化すると共に、「自主管理」を強めて末端の労働者の権限も強化する。
06/20:
・ユーゴ連邦への西ドイツの借款協定は、昨年の3億マルクに加えて7億マルクの借款協定がまとまる。返済30年、年利2%という戦後賠償の性格を持たせた借款となる。
06/24:
・チトー・ユーゴ大統領は、西ドイツを公式訪問のためにボンに到着。
06/27:
・チトー・ユーゴ大統領と西ドイツ政府との会談後、共同コミュニケが発表される。共同コミュニケでは、「政治、経済協力関係の強化について、双方が極めて満足する結果が得られた」と表明。
07/07:
・チトー・ユーゴ大統領とギエレク・ポーランド統一労働者党第1書記が、ベオグラードで会談。両者は、世界情勢と両国政府および党の協力拡大強化について合意。
07/00:
・ユーゴスラヴィアの理論誌「プラクシス」を中心として論評を続けているベオグラード大学の教授、講師ら8人が、共産主義者同盟の路線と異なるとして批判の対象となり、大学側に解任申し立てが出される。大学自主管理組織は、「資格審査会」で審査した結果、解任の申し立ては不当との結論を出し、ポストを保障する。
08/00:
・反チトー派の地下集団が、セルビア、クロアチア、マケドニア、モンテネグロのユーゴ連邦の各共和国で逮捕される。この反チトー派集団は、ソ連・東欧諸国がチト-亡き後の政治的影響力を確保するための活動組織と見られている。
09/12:
・チトー・ユーゴ大統領はスロヴェニア共和国のイェセニチェで演説し、「ユーゴスラヴィア国内に反チトー地下集団が存在すること、その集団の27人の裁判は見せしめのためのものとなろう」と語る。
09/20:
・ユーゴ連邦司法当局は、反チトー派集団に対する裁判の判決を発表。判決;「反チトー派集団は、ソ連のキエフおよびチェコスロヴァキアのプラハへの亡命ユーゴスラヴィア人スターリン主義者と手を結び、ユーゴ連邦の自主管理社会主義を転覆、新しい体制を打ち立てようと活動していたとして、南部のペチの27人、チトーグラードの5人の全員に1年から14年の禁固刑」の有罪とする。
10/17:
・欧州共産党首脳会議を準備するための欧州26ヵ国共産党代表者会議で、一部の代表から「指導権を押し付けないように」と、ソ連に警告する発言が出される。
10/29:
・チトー・ユーゴ大統領は、デンマークを公式訪問するためにベオグラードを出発。
11/04:
・キッシンジャー米国務長官はベオグラードを訪問してチトー・ユーゴ大統領と会談し、共同声明を発表。共同声明;「1,中東問題、キプロス問題、などの国際問題について話し合った。2,国際問題と紛争の平和的解決探求と国際理解促進に、ユーゴ連邦の非同盟政策が積極的に貢献していることを確認する。3,双方は71年のチトー大統領訪米の際、ニクソン大統領との間で出された、ユーゴ連邦の非同盟、自主政策が米国の利益に沿うものがある、との共同声明の重要性を再確認する。4,両国間の経済、科学、文化交流拡大の意向を表明する」というもの。
12/08:
・ギリシアは国民投票を行ない、正式に君主制が廃止されて共和制へと移行する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                      
1975年
01/28:
・セルビア共和国議会は、改正された「高等教育法」に基づき、ベオグラード大学の哲学部の教授5人、講師2人、米国で教えている教授1人の8人を、「社会的利益に重大な損害を与えた」との理由で停職処分にする。
06/14:
・亡命中のユーゴ元共産主義者同盟執行委員のアンテ・チリガが、「チトー大統領が棚上げされた」との政変説を流す。
08/01:
・全欧安全保障協力会議・CSCEのヘルシンキ宣言への署名式が行なわれる。米・加・英・仏・独・伊・露など35ヵ国の首脳が参加し、全参加国が署名。主旨;「国家主権の尊重、武力不行使、国境の不可侵、領土保全、紛争の平和的解決、内政不干渉、人権と書自由の尊重、信頼醸成措置の促進、安全保障や技術協力の推進」などが盛り込まれる。
08/26:
・ペルーのリマで開かれた非同盟諸国会議の事前協議に出席したミニッチ・ユーゴ連邦外相は、「非同盟諸国は外国の干渉やあらゆる形の圧力に抵抗し、政治的、経済的独立と安全保障を固め、自らの自然資源を主権に従って処理しようとする中南米諸国の努力に、万全の支持を与える」と、米国のパナマやキューバなど中南米における行為を非難。
10/06:
・ユーゴ連邦のビエジッチ首相兼共産主義者同盟幹部会員が中国を訪問。訪問の目的は、「1,貿易を中心とする両国関係の一層の発展。2,覇権主義問題」などの話し合い。74年のユーゴの対中貿易は73年の132%増で、1億1000万ドルに達す。
10/13:
・ユーゴ共産主義者同盟の党週刊機関誌「コムニスト」は、「コミンフォルム主義者は、ユーゴ共産党を破門した48年6月28日のコミンフォルムの決議を政治綱領として受け入れ、その論理にしがみつく出世主義者である」と規定。
10/28:
・ユーゴスラヴィアのドランツ共産主義者同盟書記を代表とする代表団が北朝鮮を訪問。
10/31:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の代表団が日本を訪問。
11/05:
・訪日中のドランツ・ユーゴ共産主義者同盟中央委執行委員長は記者会見で、「去年から今年にかけてスターリン主義研究グループの活動が発覚、40人ほどを国家反逆者として裁判にかける。一昨年も在外ユーゴスラヴィア人のファシストが外国からユーゴスラヴィアに侵入し、この関係者12人を裁判にかけた」。「政府レベルでは中国との関係は正常化しているが、党関係が回復する見通しは今のところない」。「ポスト・チトー体制に何ら国難はない。また、ソ連などが介入する可能性は信じていない」と語る。
12/26:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード地方裁判所は、反党派亡命ユーゴスラヴィア人の中心人物ウラジミル・ダプチェヴィチについて、反国家活動を行なったため「ユーゴ国内で逮捕された」と発表。ダプチェヴィチはモンテネグロ出身で、48年にコミンフォルムからユーゴ連邦が追放されるや、反チトーのクーデターを計画して失敗し、コミンフォルムニストとして亡命していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1976年
01/31:
・チトー・ユーゴ大統領は「ブジェスニク」紙のインタビューで、「ユーゴスラヴィアには立派に機能する集団指導体制が確立されているので、自分が亡き後も国内情勢には何の変化も起きないだろう」と述べる。
03/11:
・ユーゴスラヴィアのバルエボ裁判所は、ユーゴ自主管理社会主義を誹謗したかどで起訴された作家ドラゴリュブ・イグニャトヴィチの弁護を行なったポポヴィチ弁護士が、イグニャトヴィチと同様の意見を述べたとして、反ユーゴ主義の宣伝を行なった罪で1年半の禁固刑を言い渡す。
・チトー・ユーゴ大統領は、「全国民99%の利益を守るため、一握りの敵性勢力は無慈悲に取り扱ってしかるべきであり、我々を妨害できぬような場所に閉じこめる必要がある」と指示。
03/12:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード裁判所は、ドゥサン・ブルキッチ・クロアチア共和国元副首相、ミロボニ・ステバノヴィチ国営通信元部長などの4人に、7年から10年の判決を言い渡す。判決理由;「68年から73年にかけてブダペスト、キエフ、モスクワに亡命している反チトー派と接触し、チトー亡き後ソ連がユーゴ連邦に介入する用意があるかどうかを照会していた」とのユーゴ連邦を外国の影響下に置こうとした罪である。反チトー親ソ派コミンフォルム主義者の裁判は、現在ノビサド、バニャルカ、スプリトの3裁判所で計22人が裁かれている。ユーゴ連邦内務省によると、75年に逮捕された政治犯は13グループの200人。ユーゴ連邦検察当局によると、72年から74年までにクロアチア民族主義者やセルビア自由主義者などの政治犯は800から1000人。有罪判決を受けたのは59人。
03/00:
・チトー・ユーゴ大統領は、3月中にメキシコ、パナマ、ベネズエラを訪問する。
04/00:
・ミニッチ・ユーゴ外相は、4月中にインド、アフガニスタン、イラン、パキスタン、イラク、クウェートを訪問。
05/12:
・チトー・ユーゴ大統領はギリシャを訪問し、キプロス問題解決のための労をとると申し出る。
05/31:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードからアドリア海沿岸のバールへ至る476キロの鉄道路線が開通する。
05/00:
・ユーゴ連邦のビエジッチ首相は、5月に入り、セネガル、ナイジェリア、ラゴス、ギニアを訪問。
06/21:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード裁判所で、亡命ユーゴスラヴィア人で親ソ派の反チトー・コミンフォルム主義者集団の中心人物とされるダブチェヴィチの裁判が始まる。ダブチェヴィチは、「ユーゴ連邦当局は、昨年12月に私をユーゴスラヴィア領内で逮捕したと発表しているが、これは真実ではない。私は昨年8月、旅行先のブカレストで襲われ、力ずくでベオグラードへ連行されたのだ。ユーゴスラヴィアをソ連の支配下に置こうと思ったことはない」と無罪を主張。
07/05:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード裁判所は、反チトー派のダブチェヴィチに対し「反逆罪ならびに国家および国民に対する罪」で20年の禁固刑を言い渡す。
07/20:
・ユーゴスラヴィア連邦議会は、新5ヵ年計画を承認。計画では経済成長の目標として年7%の成長率を見込み、部門別では工業生産8%、農業生産4%、労働生産性4%、国民生活水準4%の上昇を目指す。
07/30:
・ヘルシンキ最終宣言により、全欧州安全保障協力会議・CSCEの設置が決められる。
07/31:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、ユーゴ国営タンユグ通信のインタビューで、「コロンボで開かれる非同盟諸国首脳会議を前に、幾つかの強国からの圧力や脅迫が増している」と語る。さらに、「1,非同盟諸国は分断工作の危険性について気づいており、統一を守り、さらに強化するため全力を尽くすだろう。2,ほとんどすべての非同盟諸国に大きな圧力がかけられている。ユーゴスラヴィアに関しては、シルバーマン米大使が米国で反ユーゴ運動を展開して我が国に圧力をかけるべきだと説き、我が国に内政干渉を行なっている。3,諸大国はデタントを利用して勢力範囲の拡大を図っている。われわれは大戦回避に一定の役割を果たしている現在の核均衡を崩そうとは思わない。しかし非同盟諸国は、現在の国際政治、経済機構を変革する望みを持ち続けるだろう。4,歴史上、非同盟運動ほど多数の国が新しい政治に結集し、これほど急速に確立され、国際勢力になった例はないだろう。5,非同盟運動の主な成果として、ⅰ)非同盟諸国は平和共存の確立と、緊張緩和に貢献した。ⅱ)世界平和が脅かされた際、戦争回避に努めた。ⅲ)世界が大国ブロックに分割されるのを回避した。ⅳ)非同盟諸国は新しい国際経済秩序の確立に役立っている」と語る。
・米国務省スポークスマンは、チトー・ユーゴ連邦大統領から「内政干渉」と非難されたシルバーマン駐ユーゴ米大使を擁護し、「フォード米大統領とキッシンジャー米国務長官は、ともにシルバーマン大使を全面的に信任している。ユーゴ連邦の内政に干渉することは米国の政策ではない。米国は反ユーゴ活動とも非同盟諸国に圧力を加えるような動きとも無関係である」と述べる。
08/09:
・第5回非同盟諸国会議の17ヵ国の次官級の調整委員会がスリランカのコロンボで開かれる。この準備会議では20以上におよぶ議題の検討会議を開く。
08/11:
・第5回非同盟諸国外相会議が、スリランカのコロンボのバンダラナイケ記念国際会議場で開かれる。外相会議で討議する議題は、「政治・経済宣言案」、「非同盟諸国の行動計画案」、「インド洋問題・朝鮮問題・中東問題・南部アフリカ問題・中南米問題」など「国際問題に関する決議案」、「新規加盟国の承認」など。
・開催国のバンダラナイケ・スリランカ財務相は、「反帝国、反植民地主義が非同盟の大義であり、インドシナの解放闘争は帝国主義に対する勝利である」と演説。
08/12:
・非同盟諸国外相会議は、ルーマニア、ポルトガル、フィリピンの加盟について秘密会議に入る。ルーマニアはワルシャワ条約機構、ポルトガルは北大西洋条約機構、フィリピンは東南アジア条約機構に加盟しているために非同盟諸国会議の加盟条件に適合するかどうかが検討課題となっている。
08/13:
・第5回非同盟諸国外相会議は、ルーマニア、ポルトガル、フィリピン3国にゲスト参加を認めるとの結論を出す。
外相会議は首脳会議の議題を採択。「1,首脳会議議長報告。2,外相準備会の総会報告。3,国際的政治情勢の概観と評価および非同盟諸国の役割。『①アフリカ南部とその植民地問題。②中東情勢。③パレスチナ問題。④キプロス問題。⑤朝鮮問題。⑥中南米問題。⑦インド洋平和地帯構想。⑧緊張緩和の国際的履行。⑨他国への内政干渉。⑩軍縮と国際的安全保障』。4,国際経済情勢と国際問題の概観と評価。『①第67回国連特別総会。②新国際経済秩序の確立。③経済的権利と義務に関する憲章。④キングストンでのIMFに関する財務相会議。⑤食糧、人口問題の国連会議。⑥第2回国連工業開発機関・UNIDO総会。⑦第4回国連貿易開発会議・UNCTAD総会。⑧国際経済協力に関するパリ会議』。5,非同盟諸国と発展途上国間の経済的連帯と協力を強化するための措置に関する点検と評価。『①相互援助と連帯に関するリマ綱領。②ダカール会議の決議。貿易および援助政策。③農業および食糧生産。④財政、金融面の協力。⑤工業化、科学技術と平和目的の核エネルギーの利用。⑥外国投資。多国籍企業とそれに関する情報センター』。6,次回首脳会議の日取りと将来の非同盟会議の計画」。
・リビアは、国連安保理の5大国の拒否権行使を封ずる修正案を提出。
08/15:
・中国の華国鋒首相は、非同盟諸国首脳会議に祝電を送る。
08/16:
・第5回非同盟諸国首脳会議・NAMが、スリランカの首都コロンボで開かれ、85ヵ国が参加。
・開催国のバンダラナイケ・スリランカ首相は、「1,南アフリカとローデシアの人種主義体制は国連憲章に謳われた基本的人権も侵害している。2,中東和平は、パレスチナ人国家の建設、占領地からのイスラエルの撤退にかかっている。3,朝鮮の統一は平和的手段により、外部からの干渉なく実現することを歓迎する。4,インド洋平和地帯の実現は今日の緊急事である。5,インドシナ戦争の勝利を祝い、ベトナム、カンボジア、ラオス3国代表の出席を心から歓迎する。6,非同盟諸国と発展途上国の強大な経済的潜在力に支援された通貨の形で、先進国に対抗できる武器を作り出さねばならない。7,第3世界の銀行の設立は、商業銀行と同じ機能を持つものである」との演説を行なう。
・ワルトハイム国連事務総長は、「大国のみが国際関係に影響力を行使する時代は去り、大国以外の国も共同して主導権を取れることがはっきりしてきた」と演説。
08/17:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、「植民地主義の解体は終わりに近づいている。冷戦政策は失敗に終わった。この15年間の非同盟運動の発展は満足すべきものだが、われわれは同時に現在と未来に大きな責任を担っている。軍備増強競争を終結させるためには新しい提案が必要であり国連軍縮特別総会開催の準備に着手すべきだ」との基調演説を行なう。
08/19:
・「東南アジア平和・自由・中立地帯化」を謳った「クアラルンプール宣言」を取り入れるかどうかでラオスが異議を唱えたため、合意形成が難航する。
08/20:
・第5回非同盟諸国会議は、「政治宣言」、「経済宣言」および「行動計画」と28の決議を採択して閉幕する。
「政治宣言」;「序論・非同盟は国家と国民の真の独立、国際関係の民主化を促進。平和、正義、平等、国際協力の強力な要素」。
「非同盟政策とその役割・1,非同盟は、世界の紛争は不可避ではないと常に考える。2,非同盟運動は世界を敵対ブロックや勢力圏に分割することを防いでいる」。
「国際緊張緩和・会議は、国際的緊張緩和がまだ限られたものであり、緊張と紛争が存在し、侵略、干渉、介入、人種差別、シオニズム、さらに経済搾取が発展途上国のあちこちにあることを強調する。会議は、国際緊張緩和が、力の均衡、勢力圏、パワーブロック間の対決、軍事同盟、軍拡では確保されないことを留意した」。
「ベトナム、ラオス、カンボジア・1,民主カンプチア人民と政府の経済再建、真に民主的で繁栄ある社会建設の戦いを固く支持する。2,ベトナム再建に積極的に協力するよう国際社会に呼びかける」。
「南部アフリカ問題・ギニア・ビサウ、モザンビーク、アンゴラ、カボベルデ、サントーメ・プリンシペの勝利に見られるように、歴史的な変化が南部アフリカで起きたことを歓迎する」。
「南アフリカ問題・1,国連安保理は南アフリカに武器禁輸を課し、同地の解放闘争を支援するためにあらゆる支援をすべきである。2,フランスとイスラエルの武器禁輸違反に、石油禁輸を含む制裁を加えるべきである」。
「インド洋平和地域の提案・1,インド洋における大国の角逐が同地域の諸国の独立、主権、領土保全に直接の脅威となるものである。同地域の諸国は同地域の安全に有害な目的に使用される艦艇、航空機用の施設利用は拒否すべきである。2,非同盟諸国は、国連のインド洋平和地域宣言を実行させるためインド洋沿岸諸国と一致した行動を取るべきである」。
「軍縮・1,普遍的平和と安全保障が全面、完全軍縮によってのみ達成されるとの確信を表明する。2,核実験は完全に中止すべきである。3,世界軍縮会議を早急に開くべきである」。
「通信社連合・1,情報、マスコミュニケーション過去の植民地時代の遺産である先進国との情報伝達能力の格差について、従属と支配の状況を生んでいることに懸念を表明する。2,国家的情報のメディアの従属からの解放と開発は、政治的、経済的、社会的独立のための全般的な闘争の不可分の一部である」。
「経済宣言」;「1,新国際経済秩序の樹立は政治的最重要事である。2,天然資源は、国家の安全保障、主権を守り集団的闘争を助長するのに役立つ。3,発展途上国、内陸国、島国などの債務は許容できない水準に達している。4,食糧生産に対する借款、財政投資は、無償ないし緩やかな条件で提供されるべきである。5,普遍的、平等な通貨制度の確立が必要である。6,生産国・輸出国連合などを設立することで、途上国の発展を達成する努力を再度決意する。7,集団自助の精神のみが新国際経済秩序の創出を保証する。8,共通基金実現のための交渉について、統一した日程表、手順をつくることが重要である」。
「経済協力のための行動計画」;
「貿易・1,個々の一次産品ならびに輸出製品のための生産者連合の結成。2,緩衝在庫金融のための共通基金の創設」。
「通貨、金融協力・地域ベースの中央銀行総裁会議を開き、途上国通貨による決済および支払制度の拡大をすべきである」。
「生産・1,途上国間の多国籍企業を積極的に奨励し、促進する。2,農業開発国際基金・AFADの即時設立を求める」。
「各種サービス・銀行政策などに関する情報の交換協力を組織するための、非同盟諸国商業銀行連合を設立する」。
08/22:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、非同盟諸国首脳会議終了後にインドを訪問する。
08/22:
・フランスのニース警察当局の発表によると、ユーゴスラヴィアからの独立を求める政治亡命者のクロアチアの活動家イワン・ツクソールが、自動車に仕掛けられた爆弾で死亡し、同乗者と通行人の7人が負傷。
09/03:
・ステパコフ駐ユーゴ・ソ連大使とグルリチコフ・ユーゴ共産主義者同盟書記とが会談。10月にブレジネフ書記長がユーゴ連邦を訪問し、チトー・ユーゴ連邦大統領と会談することが決定される。ブレジネフ・ソ連書記長のユーゴスラヴィア訪問は、71年9月以来の5年ぶり。
09/10:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、チャウシェスク・ルーマニア大統領と会談。チトー大統領の健康が悪化し、公式活動を停止する。
・米国のトランスワールド航空・TWAのボーイング727が、ニューヨークからシカゴに向かう途中ハイジャックされる。ハイジャックした犯人は、「自由クロアチアのための闘士」と名乗る6人組で、ユーゴ連邦からのクロアチアの分離独立を目指す過激派集団か、その支持者と見られる。TWAには乗客85人と乗員7人が搭乗。TWAはモントリオール空港に着陸し、次いでニューファウンドランド島ガンダー空港で乗客33人を解放。さらに、アイスランド共和国の首都レイキャビク郊外のケフラピク空港からロンドン上空でビラを撒いてパリ方面に向かう。「自由クロアチアのための闘士」が出した声明書は8Pで、「我々の目標は、ユーゴスラヴィア国内で起こっている野蛮な圧迫の正しい実態を世界に示すことである」として、「ニューヨーク・タイムス」、「ワシントン・ポスト」など米国の有力紙に声明文全文を掲載することを要求。
・ユーゴ連邦クロアチアのザグレブ市付近の1万メートル上空で、英国航空・BAの定期旅客機とユーゴスラヴィアのイネックス・アドリア航空機が空中衝突し、双方の乗客・乗員173人全員が死亡。
09/11:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、チトー・ユーゴ連邦大統領の病状について、「チトー大統領は肝臓障害のため、数週間の休養が必要である」と発表。
・ユーゴ連邦政府当局は、10日のアドリア航空機と英国航空の空中衝突に関連し、ザグレブ空港の航空管制官5人を逮捕する。
・ユーゴ連邦当局は、「『自由クロアチアための闘士』がどのような規模で、どこに根拠地を置いているのか分からないが、第2次大戦中、ナチス・ドイツと協力したクロアチア民族主義ファシスト・グループ『ウスタシャ』の残党であることは明らかだ」と語る。
11/15:
・ブレジネフ・ソ連共産党書記長を団長とする、5年ぶりのユーゴスラヴィア訪問団がベオグラードを訪問。ユーゴ連邦外務省スポークスマンによると、「1,ユーゴ連邦とソ連両国間の問題。2,ヘルシンキ首脳会談後の欧州情勢。3,77年にベオグラードで開かれる同会議の再検討会議。4,第5回非同盟諸国会議。5,欧州共産党会議。6,国際労働運動の新しい傾向」など多岐にわたる協議を行なう。
・ブレジネフ書記長は会談後に設定された夕食会の挨拶で、「西側には根拠もないのに、ソ連を恐ろしいオオカミに、ユーゴスラヴィアをかわいそうな赤ずきんちゃんに仕立てて、ソ連とユーゴ連邦の友好関係に水を差そうとする者がいる」と非難し、チトー後のソ連の介入は単なる憶測に過ぎない、と否定。
・チトー・ユーゴ大統領は、両国の友好関係の安定と発展の必要性を強調しながら、ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義の成果と非同盟の役割を力説。
註;ユーゴスラヴィアの75年の対ソ貿易額は、15億6000万ドル。対コメコン・経済援助相互会議の貿易額は、70年から75年の5年間で260%増加。
11/17:
・チトー・ユーゴ大統領とブレジネフ・ソ連書記長が、会談後の「共同コミュニケ」に署名。首脳会談は、「相互理解、相互尊重」の雰囲気の中で率直に進められ、両党の主要方針、両党関係、国際情勢、国際共産主義、労働運動に関して情報と意見を交換する。この共同コミュニケは、ソ連とユーゴ連邦の関係が対等の対話を可能にするもの。
12/01:
・ユーゴ連邦のビエジッチ首相と欧州共同体・ECの閣僚級議長のオランダ・ファンデルスツール外相が協議。
12/02:
・ユーゴ連邦とECの関係強化協議が行なわれ、共同宣言に調印。宣言では、「これまで通商関係に限られていた協力関係を、鉱業、農業、経済、金融および共同投資計画の分野まで拡大する」ことで合意。この目的達成のために、「EC・ユーゴ合同経済委員会」を開催することで一致。
12/28:
・エジプトの国営中東通信・MENAは、チトー・ユーゴ連邦大統領が1月20日からエジプトを訪問する、と報じる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1977年
01/17:
・チェコスロヴァキア当局は、人権運動「憲章77」に署名した演出家オット・オルネスト、作家バツラフ・ハベルなど4人を逮捕する。
01/18:
・ユーゴ連邦のジェマル・ビエジッチ首相が搭乗していたベオグラードからサラエボに向かう航空機がサラエボ西方40キロの地点で墜落し、7人全員が死亡。墜落の原因は不明だが、当時、周辺は猛吹雪だったという。
01/19:
・チトー・ユーゴ大統領はエジプトとリビア歴訪に出発。先ずリビアを訪問し、カダフィ・リビア革命評議会議長と会談。チトー大統領は、「中東問題に関するジュネーブ会議はその成果の如何に関わりなく、再開されなければならない」と述べ、再開に反対といわれるリビアのカダフィ議長を説得する。
・チェコスロヴァキアの人権運動「憲章77」への署名者は、300人を超える。
01/20:
・チトー・ユーゴ大統領とカダフィ・リビア革命評議会議長が、共同コミュニケを発表。
01/21:
・チェコスロヴァキアのフサーク共産党書記長は、「憲章77」の署名者を激しく批判する演説を行なう。
01/22:
・ユーゴスラヴィアの経済代表団は、公式友好訪問のためにカンボジアのプノンペンに到着。
01/26:
・中国の「人民日報」は、チェコスロヴァキアの人権運動「憲章77」を評価。
02/08:
・ユーゴスラヴィアの反体制理論家ミロバン・ジラスは、イタリア、フランス、スペイン3ヵ国の共産党に宛て「ユーゴ連邦の政治犯について調査するよう」書簡を送ったことを明らかにする。ジラスによると、ユーゴ連邦に政治犯として収監されている者は600人おり、東欧のどこの国より多いという。
02/14:
・ユーゴ連邦幹部会は、死去したビエジッチ首相の後任に、モンテネグロ共和国のベセリン・ジュラノヴィチ共産主義者同盟議長を指名する。
02/17:
・ユーゴ連邦当局は、ユーゴスラヴィアの反体制作家ミハイロフの釈放を要求してハンストをしていた西ドイツの人権活動家3人を、ミュンヘン行きの飛行機に乗せて追放する。
03/01:
・ユーゴスラヴィアの知識人92人は、チェコスロヴァキアの人権運動「憲章77」の署名者に対する支援を決め、「憲章77国際支援委員会」を通じ、同運動の指導者であるイジ・ハーエク、バツラフ・ハベル、ヤン・パトチカの3氏に書簡を送付。
03/15:
・ユーゴ連邦議会は特別会議を開き、ビエジッチ前首相の後任としてジュラノヴィチ・モンテネグロ共和国党議長を、全会一致で連邦新首相に選出する。
05/06:
・ユーゴ連邦のチトー・グラード地裁は、反体制作家ミロバン・ジラス元副大統領の従兄弟で弁護士のウィトミル・ジラスを反国家的宣伝を撒き散らしたかどで、禁固30ヵ月の判決を下す。この裁判は検察当局が、ウィトミル・ジラスの机の中に「ユーゴ連邦では民主主義と人権が侵害されている」と書いたメモを発見したことで、これを証拠として起訴。ジラスはそれは新聞寄稿の草案で、とっくに破棄したものだと主張。弁護団側は、「このメモは警察の手でデスクに入れられたもので、警察の心理的、政治的テロの一例だ」と非難し、控訴の意向を明らかにする。
05/21:
・モンデール米副大統領はユーゴスラヴィアを訪問し、チトー大統領と会談。会談後の記者会見でモンデール米副大統領は、「米国はユーゴスラヴィアの独立と統一と領土保全を守るため支援を惜しまない」と言明。
05/25:
・チトー・ユーゴ連邦大統領の85歳の誕生日の式典が行なわれる。
05/00:
・中国の全国人民代表大会常務委員会副委員長がユーゴスラヴィアを訪問し、熱烈な歓迎を受ける。ユーゴ連邦側は、「非同盟社会主義国ユーゴ連邦と中国との関係強化」を訴える。中国側は、「非同盟政策をとって、帝国主義、植民地主義、覇権主義と戦っているユーゴ連邦を徹底的に支持する」と主張。
06/06:
・イタリアのフォルラニ外相がユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。会談の際チトー大統領はフォルラニ外相に、8月にソ連を訪問した後、北朝鮮を訪れ、さらに初めて中国を公式訪問する、と語る。
06/15:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードで、欧州の安全保障との協力をうたった「ヘルシンキ会議」の最終文書の履行状況を再検討する準備会が、東西欧州、米国、カナダの35ヵ国代表が参加して開かれる。会議でミニッチ・ユーゴ外相が、緊張緩和の意義を強調する歓迎演説を行なう。
・ユーゴスラヴィアのベオグラード市警当局は、この会議の直前に西側14ヵ国で構成するユダヤ人女性組織のメンバーが、ソ連のユダヤ人抑圧に抗議するデモを計画したとして、15人をホテルから連行。
・ソ連を出国した反体制活動家アンドレイ・アマルリク、ウラジミール・ブコフスキー、レオニード・ブリューシチら8人が、、ヘルシンキ会議で採択された人権に関する勧告がどう扱われているか、真剣に検討するよう要請する文を15日付の英紙タイムズに寄稿。内容は、「我々はソ連、東欧での政治犯の即時釈放、特にヘルシンキ会議最終文書の履行を目的とした行動に関係して逮捕された人々の釈放を要求する」というもの。
・ユーゴ連邦当局は、ユーゴスラヴィアで会議取材中のチェコスロヴァキア生まれのデンマーク人放送記者を逮捕する。
06/25:
・リビアのカダフィ議長がユーゴスラヴィアを訪問し、チトー・ユーゴ大統領と会談。
07/30:
・チトー・ユーゴ大統領は、北朝鮮の金日成の招きで8月に北朝鮮を公式訪問すると発表。
08/05:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードで「ヘルシンキ文書」の、最終文書検討会議の準備会が開かれる。準備会には35ヵ国が参加し、本会議の日程、議題、作業方法に関する取り決め文書を作成し、それぞれ署名する。取り決めによると、本会議は10月4日にベオグラードで35ヵ国の外相が参加して開き、ユネスコ、イスラエル、アラブ諸国など、国連や地中海沿岸の非欧州諸国も招待されることになる。
08/10:
・ユーゴ共産主義者同盟の党機関誌「ボルバ」は、「ユーゴ連邦とソ連の関係は好転する一方である」との論調を掲載。
08/15:
・米ニューズ・ウィーク誌は、「ユーゴ連邦のチトー大統領は、来年初めのワシントン訪問を計画中である」と報じる。
08/16:
・チトー・ユーゴ大統領は、ソ連の共産党中央委員会と最高幹部会の招きによる公式訪問のため、ベオグラードからモスクワに向けて出発。チトー大統領は、5年ぶりの訪ソとなる。モスクワのブヌコボ空港には、ブレジネフ最高幹部会議長、グロムイコ外相、キリレンコ党政治局員、ソロメンツェフ・ロシア共和国首相兼政治局員候補、ルサコフ党書記、などが出迎える。ソ連の共産党機関紙「プラウダ」は、「ユーゴスラヴィアの共産主義者とすべての労働者の傑出した指導者。そして、国際共産主義・労働者運動での秀でた人物」とチトーを讃える。
08/17:
・チトー・ユーゴ連邦大統領とブレジネフ・ソ連最高幹部会議長の第1回会談が、クレムリンで行なわれる。ソ連のタス通信は、「政治、経済、文化、その他の分野でのソ連とユーゴ連邦の協力関係をさらに広げる問題が話し合われた」と伝える。モスクワ放送は、「1,双方は、両国における社会主義および共産主義建設の課題の実現を目指す活動、ソ連共産党第25回大会とユーゴスラヴィア共産主義者同盟第10回大会の決定状況について、情報交換をした。2,両党および両国家間の関係の順調な発展に、満足の意が表明された。政治、経済、文化の他の諸分野における両国の協力の一層の拡大に関する諸問題が討議された。3,広範囲の国際問題、国際共産主義、労働運動の諸問題に関して意見が交換された。4,会談は温かい友好的な雰囲気の中で進められた。会談は続行される」と報じる。
08/18:
・ブレジネフ・ソ連最高幹部会議長とチトー・ユーゴ大統領の第2回会談が行なわれ、「共同コミュニケ」を発表。
08/19:
・ソ連は、ブレジネフ・ソ連最高幹部会議長とチトー・ユーゴ連邦大統領会談の、「共同コミュニケ」を発表。
内容;「首脳会談は、1,友好、相互理解、相互尊重の精神に基づいて進められた。2,社会主義、共産主義を目指すソ連とユーゴ連邦の両党、両国関係は、主権、独立、平等、内政不干渉、社会主義への独自の道を選ぶ自由を厳格に守るという原則にのっとり、進めることで一致した」。
中東和平の条件;「1,イスラエルのアラブ占領地域からの撤退。2,独自の国境をつくることを含め、パレスチナ人民のあらゆる民族的な権利を保障する。3,この地域にあるすべての国の独立と安全を尊重する」と述べ、「この目的を達成するために、関係するすべてが参加して直ちにジュネーブ和平会議を再現する必要がある。パレスチナ解放機関は、単独の合法的な代表として、この会議に出席しなければならない」と記述。
非同盟路線について;「平和、安全、緊張緩和、平等を基礎とする協力のために闘い、国際的な政治・経済関係の公正なシステムづくりにも貢献しており、世界政治のもっとも重要な要素の一つとなっている」と評価。
軍縮;「国際的規模での軍備競争を即時中止する。厳しい軍備管理の下での完全全面軍縮への移行の必要性と、大量殺戮兵器や新しい兵器体系の開発に終止符を打つべき。このために国連軍縮特別総会、世界軍縮会議の招集を呼びかける」と強調。
・チトー・ユーゴ大統領は、ブレジネフ・ソ連最高幹部会議長との会談を終え、シベリアで休養するためにイルクーツクに向かう。
08/20:
・ユーゴスラヴィアの各紙は、ソ連とユーゴ連邦の会談を高く評価。ザグレブのベスニク紙は、「チトー・ブレジネフ会談の共同コミュニケは、これまで行なわれた両国首脳会談コミュニケより実質的で、両国関係の質的発展を予見出来る要素を含んでいる」と述べる。社会主義勤労者同盟機関紙「ボルバ」は「チトー大統領の訪ソは成功裏に終わり、ユーゴ連邦の独立外交政策は今回のモスクワ会談で新たな弾みがつけられ、両国の友好関係は今後一層有意義かつ価値のあるものになろう」と指摘。
08/24:
・チトー・ユーゴ大統領は北朝鮮の金日成国家主席の招待で、平壌に初めて公式訪問する。
08/25:
・チトー・ユーゴ大統領と金日成北朝鮮国家主席が正式に会談。チトー大統領は、「外部からの干渉なしに、南北両朝鮮の再統一を望む北朝鮮人民の正当な希望を支持する」と述べる。会談では、朝鮮、ユーゴ両国の党・政府ならびに人民の友好協力関係を強化すること。さらに非同盟運動の一層の発展問題を始め、共通の関心事となる国際問題などについて話し合われた模様。
・金日成国家主席は晩餐会で南北朝鮮の統一問題に言及し、「世界が自主性の道へ進んでいる現在の趨勢に沿って、祖国統一への我が人民の民族的思いも必ず実現するものと確信する。朝鮮の自主的平和統一問題は、ただ南朝鮮から外国軍が撤退し、外部の干渉が除去される条件でのみ実現される」と強調。
・チトー大統領は非同盟運動に触れ、「1,ベトナム、カンボジア、ラオス、アンゴラ、モザンビーク人民の達成した歴史的勝利は、自主的、民主的、社会主義的な発展と非同盟に対する人民の志が何をもっても阻めないことを実証している。2,これと同時に、現在のアフリカに見られるように、数多くの人民への内政に対する外部干渉は、新たな危機の温床が形成されている。3,非同盟運動は、帝国主義、植民地主義、新植民地主義とあらゆる形態の外部の支配に反対し、自由と独立、人民の平等とより公正な国際関係確立のための闘争で、協力的かつ独立的な国際的要因となっている」と述べる。
08/29:
・チトー・ユーゴ大統領と金日成北朝鮮主席が「共同声明」を発表・要旨;「1,会談は極めて同志的かつ友好的な雰囲気の中に、そして完全な相互尊重と理解の精神で行なわれた。両国間の友好と全面的協力を一層発展させるための方途と重要な国際問題に対し広範な意見を交わした。2,金日成主席は朝鮮半島における、いかなる外部勢力の干渉もなく、朝鮮を自主的・平和的に統一するための朝鮮民主主義人民共和国の方針について話した。ユーゴスラヴィアが国際舞台で、自主性に基づく新たな平等の関係を確立するために戦っており、非同盟運動の積極的な推進に貢献していることを歓迎する。3,民族的独立と自主性、国際関係の民主化と重要な国際政治、経済問題の正当な解決に、各国が平等に参加することを要求する。4,帝国主義、新植民地主義、支配主義政策と抑圧と搾取のすべての形態は、平和と独立、人民の平等と社会的進歩に対する基本的な脅威となっている。5,非同盟運動が、平和と安全、平等な協力、国際政治・経済の公正な体系の実現を目指す闘争と、帝国主義、植民地主義、支配主義、そして侵略と干渉、従属と不平等に反対する闘争で大きな役割を果たしている。6,社会主義に進むことが世界的趨勢となっており、共産党と労働党が、完全な自主性と独自性に基づいて社会主義を目指す闘争を繰り広げる。7,自主的に新たな社会・政治・経済関係のための法とを規定し、革命実現のために労働者と人民に責任を持つ。8,両首脳は、個別的な党と諸国間の差異が協力発展の障害となってはならないと認める」。
08/30:
・チトー・ユーゴ大統領は、北朝鮮での会談を終え、中国公式訪問のため北京空港に到着。
・中国の「人民日報」は社説で、「チトー元帥はユーゴスラヴィア人民の間で高い威信を持つだけでなく、世界各国人民の尊敬を受けている。ユーゴスラヴィアの国内建設は、大戦前の貧しく遅れた状態を、繁栄した工・農業国とに発展させた」と評価。
08/31:
・チトー・ユーゴ大統領と華国鋒中国国家主席の第1回会談が行なわれる。会談内容は、「1,両国の経済、科学技術協力の拡大問題。2,中国、ユーゴ連邦双方の経済建設などを中心とした国内事情の紹介。3,当面の国際情勢」についての意見交換が行なわれる。
09/01:
・チトー・ユーゴ大統領と華国鋒中国国家主席の第2回会談が行なわれる。会談は、両国の友好関係を積極的に発展させることで合意するとともに、国際関係では「1,アフリカの内部紛争は、相互尊重の原則に立って平和的に解決すべきだ。2,中東問題ではアラブ諸国の立場と、パレスチナ人民の正義の闘争を支持する。3,帝国主義と新旧植民地主義に反対する非同盟運動を評価し、支持する」ことで一致。
09/02:
・アルバニアの駐中国大使館は、ホッジャ・アルバニア労働党第1書記の論文、「チトーの前にひざまずくフルシチョフ」の英文版を配布。この論文は、1963年にフルシチョフ・ソ連首相がユーゴスラヴィア訪問時に発表されたもので、ソ連・ユーゴ連邦両指導部をマルクス・レーニン主義から離反した修正主義集団と決めつけたもの。
09/03:
・チトー・ユーゴ大統領と華国鋒中国国家主席との第3回会談が行なわれる。北京のユーゴ連邦公式筋は、チトー大統領と華国鋒国家主席の会談は、デタントと軍縮問題について意見の相違があったことを認めつつ、両国関係に新しい段階を開いた、と積極的な評価をする。共同声明は出さず。
09/08:
・チトー・ユーゴ大統領はイランに立ち寄り、パーレビ国王と会談後、ベオグラードに帰国。チトー大統領は空港で、「我々は今度のソ連・北朝鮮・中国の3ヵ国訪問でユーゴ連邦の非同盟政策の変わらざる価値をはっきり表明し、3ヵ国首脳ともこれを評価した」との声明を発表。
09/30:
・国際通貨基金・IMFおよび世界銀行は、合同年次総会を79年の9月にユーゴスラヴィアのベオグラードで開くことを決める。
10/09:
・ユーゴ連邦政府は、チトー大統領が12日からフランスを公式訪問し、ジスカールデスタン仏大統領と会談すると発表。
10/12:
・チトー・ユーゴ大統領はミニッチ外相を伴い、フランスを公式訪問。エリゼ宮スポークスマンは、「欧州の安全と安定にとって、今回の仏・ユーゴ会談は極めて重要である」と強調。
10/14:
・チトー・ユーゴ大統領とジスカールデスタン仏大統領との会談の共同コミュニケを発表。要旨;「1,中東問題の解決のために、関係当事者すべてが参加する形の和平会談を即時再開する。2,南アフリカの深刻な事態を憂慮し、人種差別政策に反対する。3,欧州安保ヘルシンキ条約に記された諸目的の達成に努力し、人権と基本的自由の尊重が各国間の関係改善のための貴重な要素であることを確認する」などの点で合意。
10/21:
・チトー・ユーゴ大統領は、フランス、ポルトガル、アルジェリア3ヵ国の歴訪を終えてベオグラードに帰着。
10/22:
・ヨバンカ・チトー大統領夫人は、民族主義的活動をしたとして公式行事から姿を消していたが、フサーク・チェコ大統領夫人の死を悼む弔電に署名。
10/24:
・ユーゴ連邦の特別査問委員会が、ヨバンカ・チトー大統領夫人の民族的活動を査問している、と消息筋が伝える。
註;チトー大統領はクロアチア出身であるのに対し、セルビア人のヨバンカ夫人が軍の人事に口を挟み、セルビア人将官を登用するよう働きかけるなどをしていた、という嫌疑がかけられている。
10/28:
・チトー・ユーゴ大統領は、過労のために当分の間公務から離れて休養すると発表される。
11/24:
・ユーゴスラヴィアの反体制活動家ミハイロ・ミハイロヴィチら政治犯218人が建国記念日を記念し、恩赦を受けて刑務所から釈放される。ミハイロフは、「私は作家であり、それが天職だ。たとえ刑務所に戻ることになっても、私は自分の思想を書き、表明し続けるつもりだ」と語る。恩赦の対象となった政治犯は、セルビア民族主義者のジュロ・ジュロヴィチ、北部スロヴェニア分離独立運動指導者のフランス・ミクラブチッチ、クロアチア独立運動指導者のマルコ・ベセニカ・ザグレブ大学経済学部教授など。
11/30:
・ユーゴ連邦当局の発表によると、チトー・ユーゴ大統領は12月3,4日にルーマニアを訪問し、チャウシェスク・ルーマニア大統領と会談する予定。ミニッチ外相が同行し、中欧問題、ベオグラード欧州安保会議、国際共産主義運動の現状について討議する模様。
12/03:
・チトー・ユーゴ大統領はルーマニアを訪問し、チャウシェスク・ルーマニア大統領と会談。
12/04:
・チトー・ユーゴ大統領とチャウシェスク・ルーマニア大統領は、会談後「共同声明」を発表。内容は、「現在ベオグラードで開催中の欧州安保再検討会議が、東西両陣営を含む全欧州の経済協力と科学技術研究の交換を目指す全欧会議開催を考慮するよう希望する」というもの。
12/12:
・ミツノヴィチ・ユーゴ連邦元駐ソ大使が、ソ連とユーゴ連邦との関係を書いた回想録を発表。内容は、「1.ソ連のユーゴ連邦大使館には盗聴器が19もあった。2,1948年にユーゴ連邦がコミンフォルムから追放された際、当時のジューコフ・ソ連国防相は軍事筋に、ユーゴスラヴィアを占領しようと思えば3日間でできたと語った。3,56年のハンガリー動乱の際、フルシチョフ・ソ連第1書記とチトー・ユーゴ大統領が緊密な連絡を取り合い、ユーゴ連邦がソ連軍の軍事介入の必要性を認めていたこと。4,ハンガリー動乱後、ナジ政権の後釜にカダルを据えたのは、チトー大統領の強い推薦によるもので、ソ連は別の人物を考えていた。5,ユーゴスラヴィアを支配下に置こうとしたのは過去のことであって、今はそんなことはあり得ないと考えるのは幻想である。20年間の変化にもかかわらず、ユーゴ連邦とソ連の関係は基本的に何も変わっていない。6,その他、ソ連の内幕」などを記述。ソ連は反ソ的だとして書店からの撤収を求めるが、ユーゴ連邦側は応じず。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1978年
01/02:
・チェス世界選手権の挑戦者を決める試合が、ベオグラードで闘われる。
02/04:
・ユーゴ連邦政府は、チトー・ユーゴ大統領が3月にカーター米大統領と会談するために米国を訪問すると発表。
02/28:
・チトー・ユーゴ大統領はニューヨーク・タイムズ紙のレストン記者と会見。
「アフリカの角について;エチオピア軍がソマリアの国境に到達する前に政治的解決を図ろうと思い、カーター米大統領と連絡し合ってきた」。
「中東問題について;サダト・エジプト大統領のイスラエル訪問は失敗だった。アラブ諸国に相談せずに、イスラエルに行ったことは正しいやり方だとは思わない」。
「後継者問題について;われわれは既に連邦幹部会を設置しており、私が大統領のポストを維持できなくなっても、混乱は生じない。ユーゴスラヴィアの各共和国が将来独立し、非同盟路線から離脱するかも知れないと懸念する必要はない。ユーゴスラヴィアはこれまでいかなるブロックにも属したことはない。軍がいつの日か権力を手中に収めるなどとは考えていない」。「スターリンについて;スターリンは力量のある政治家だった。彼が何をしたか、いかに多くの人々が犠牲者となったのかを知って以来、ヒューマニティが彼にとって何の意味も持たず、野望がすべてに優先していることを確信した」と語る。
03/03:
・ユーゴ連邦政府は、チトー・ユーゴ大統領がカーター米大統領と会談するために7日から9日まで訪米するとの予定を発表。
03/06:
・チトー・ユーゴ大統領はカーター米大統領と会談するために、ミニッチ外相、クライゲル・スロヴェニア共和国幹部会議長を伴ってベオグラードを出発する。
03/07:
・チトー・ユーゴ大統領とカーター米大統領が初めて会談。カーター大統領は、米国がユーゴスラビアの独立と領土保全を支援していくことを確約。チトー大統領は、両国の友好関係の維持と発展を同国の方針としていることを強調。アフリカの角問題でカーター大統領は、「1,武力衝突の停止。2,エチオピア、ソマリア国境線の尊重。3,外国軍隊のエチオピアからの撤退」などの基本方針を述べる。歓迎晩餐会でカーター大統領は、「チトー大統領は東欧問題、いや全世界に息づく自由と独立への熱望を象徴する人物」と最大級の賛辞を送る。
03/09:
・チトー・ユーゴ大統領とカーター米大統領の第2回会談が行なわれ、共同声明を発表。共同声明でカーター大統領は、「1,米国は引き続きユーゴスラヴィアの独立、領土保全、連邦の一体性を支持していく。2,米国在住のテログループがユーゴスラヴィアに対して行なってきた暴力活動を非難し、このような犯罪行為を阻止するため、カーター政権は確固たる措置を取ることを約束する」と強調。
註;カーター米大統領がユーゴ連邦の領土保全に言及したのは、ソ連を意識してのもの。また、米国内にはクロアチア系住民を中心に、チトー政権への不満を表明するセルビア系、アルバニア系の反共グループなどがいる。
03/10:
・チトー・ユーゴ大統領は、ロンドンを訪問。
03/14:
・ユーゴスラヴィアの代表団がカンボジアを訪問。
03/28:
・ミニッチ・ユーゴ連邦外相はクレムリンを訪れ、ブレジネフ・ソ連最高幹部会議長と会談。ミニッチ外相はチトー大統領の親書を手渡し、「1,ソ連とユーゴ連邦の協力関係が確実に進展していること。2,労・国家関係を一層前進させる。3,緊張緩和を深める。4,軍備競争に終止符を打ち、軍縮を達成する。5,国家間の善隣関係を維持し、平和共存政策を一層擁護していく」ことを確認。
03/30:
・韓国外務省は、チトー・ユーゴ大統領とカーター米大統領との会談で論議された、南北朝鮮に米国を加えた3者会談構想について、「韓国政府は慎重に態度を検討している」と否定的な論評を行なう。
03/31:
・ユーゴ共産主義者同盟幹部会のスタネ・ドランツ執行委員は、中国とユーゴ連邦の関係について「両党関係の確立には、なお意見の相違もあろうが、一方が相手を説得して考え方を改めさせるようなことを試みるべきではない」と述べ、「1,チトー大統領が昨年中国を訪問して以来、両国関係は急速に発展したが、これは人類社会の福利に役立つものである。2,両党関係を確立することは、国際労働者運動の面から言って重要である」。
04/05:
・朝日新聞によると、ユーゴスラヴィアはインフレに見舞われる中、各企業は生産販売の増加を目指して懸命に励んでいる。衣料メーカーのベコ・BEKO社の場合10億ディナール(5億5648万ドル)を売り上げているが、設備は幾分旧式で、インフレを補填するため、同社の平均給与4100ディナール(5万5000円)の22%程度の賃上げ要求に応じることが出来るかどうか、企業長は売り上げ増大に躍起となっている、という。
04/06:
・ミントフ・マルタ首相とチトー・ユーゴ大統領が会談。チトー大統領は「マルタの中立は地中海地域の平和にとって重要であり、来年3月に英国軍がマルタから撤退した後、ユーゴ連邦はマルタの非同盟国としての中立的地位を保障するために最善を尽くす」と述べる。
04/13:
・ユーゴスラヴィアの反チトー親ソ派のミレタ・ペロヴィチは、ソ連共産党の指導を受けた秘密活動を指導したかどで、懲役20年の刑を受け、収容される。
04/28:
・ユーゴ連邦のミニッチ外相は、チトー大統領の親書を携えてベトナムおよびカンボジア両国訪問の途につく。
05/11:
・ギエレク・ポーランド統一労働者党第1書記の公式ユーゴスラヴィア訪問が、ユーゴ連邦側の都合で突然延期される。
・ポーランド側はチトー・ユーゴ大統領の健康問題で延期と発表。ユーゴ連邦側はチトー大統領の健康は良好と発表。
05/16:
・ユーゴ連邦議会は、合同会議で連邦執行会議(内閣)の一部改造を行ない、ベセリン・ジュラノヴィチ同執行会議議長(首相)、ニコラ・リュウビチッチ国防相、フラニョ・ヘルリェヴィチ内相は留任。新外相に元ジャーナリストのヨシブ・ブルホベッチ共産主義者同盟幹部会員を選出。
06/02:
・ギエレク・ポーランド統一労働者党第1書記は、チトー・ユーゴ大統領と会談するためにベオグラードを訪問。
06/04:
・ギエレク・ポーランド統一労働者党第1書記とチトー・ユーゴ大統領との会談による、共同声明を発表。共同声明は、「1,デタント・緊張緩和の強化を支持する。2,アフリカ諸国の独立、主権、領土保全は厳密かつ完全に尊重する」など。
06/19:
・中国共産党は、20年ぶりにユーゴ共産主義者同盟の大会開催に祝電を送る。
06/20:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の第11回党大会が開かれる。代議員や135ヵ国の各国共産党代表など4000人が集まる。チトー・ユーゴ大統領が冒頭に演説し、「米・ソ超大国の関係は、かつての冷戦時代をさえ想起させ、世界大戦勃発の危険さえ除去できない」と警告。さらに、「自主管理・非同盟を柱とするユーゴ型社会主義を追求していく」と強調する。チトー大統領は、ソ連のクラコフ・ソ連党中央委政治局員兼書記と長時間会談。
06/23:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟第11回大会が閉幕。大会で討議されたのは、「1,チトー大統領が新しい戦争の危険を警告。2,前大会以降の共産主義者同盟の活動と発展を検討し、国際社会におけるユーゴ連邦の基本的立場を説明した『基本テーゼ』の採択。3,党幹部会の縮小を決める党規約改正」など。「基本テーゼ;1,社会主義的自主管理と物質的・社会的発展を促す任務。2,国家と社会の防衛。3,国際関係。4,社会が必ずしも機能していないこと。5,チトー後の予想されうる事態に対する国民の覚悟を求める」など100ページ。「党規約改正;党中央委幹部の規模を24人に半減させ、その上部にあって党務を指揮監督してきた執行委員会を廃止し、幹部会を党の最高執行機関にする」。幹部会書記を置き、スタネ・ドランツが就任する。
07/15:
・ユーゴスラヴィアの有力週刊誌「ニン」は、キューバの公式報道機関が最近「非同盟諸国と社会主義陣営との団結」を呼びかけた点に言及し、「こうしたキューバの路線は、危険で誤ったものであり、かつ受け入れられない」と批判。
07/25:
・第6回非同盟諸国会議の準備のための外相会議が、ベオグラードで開催される。非同盟諸国86ヵ国とオブザーバー10ヵ国および運動組織と国連を含む114の国や組織の代表が参加。チトー・ユーゴ大統領は、「1,非同盟運動は、植民地主義からの解放を促してきた。非同盟が敵とするものは飽くまで帝国主義、新植民地主義、人種差別、外部からの支配と搾取である。大国の政治的、経済的覇権主義と闘う。2,世界のブロック化をくい止め、安全と進歩をもたらすのが非同盟である。3,アフリカ大陸での植民地主義と人種差別に対する闘いで、非同盟は決定的な貢献をしている。中東紛争も同じである。4,アフリカ大陸では、新しい植民地主義と外国の影響と支配を実現しかねない新しい従属関係が生まれている。5,世界平和は再び力の政策と軍拡主義に脅かされている。我々は非同盟の基本原則を忘れず、平和と安定に寄与していくことを誓おう」と演説。
・中国の黄華外相は、非同盟諸国会議に祝電を打つ。
08/13:
スウェーデンのウプサラで、第11回社会学者大会が19日まで開かれる。この大会に参加したズビグニュー・ブレジンスキー米大統領国家安全保障問題担当補佐官は、アメリカ人参加者にユーゴスラヴィアに関する米国の戦略政策を披瀝する。要旨;「1,ソ連に抵抗する力としてユーゴスラヴィアの中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の『天敵』である分離主義的・民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。ソ連におけるロシア人とウクライナ人、チェコスロヴァキアにおけるチェコ人とスロヴァキア人、ユーゴスラヴィアにおけるセルビア人とクロアチア人の間の緊張と不和が物語るように、民族主義は、共産主義より強力である。2,ユーゴスラヴィアにおける反共産主義闘争において、マスメディア、映画製作、翻訳活動など文化的・イデオロギー領域に浸透するべきである。3,共産主義的平等主義に反対する闘争において、ユーゴスラヴィアにおける『消費者的メンタリティ』を一層刺激する必要がある。4,ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的・政治的圧力手段として用いることができる。それ故、ヨーロッパ共同体諸国の対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に補償される。5,ユーゴスラヴィアのさまざまな異論派グループを、ソ連やチェコスロヴァキアの場合と同じやり方でシステマティックに支援すべきであり、彼らの存在と活動を世界に広く知らせるべきである。彼らが必ずしも反共産主義的である必要はなく、むしろ『プラクシス派』のような『人間主義者』の方が良い。この支援活動で、アムネスティ・インタナショナルのような、国際組織を活用すべきである。6,Xディ(チトーの死)の後に、ユーゴスラヴィアの『軟化』に向けて組織的に取り組むべきである。民族間関係が重要なファクターである。ユーゴスラヴィア共産主義同盟・SKJとユーゴスラヴィア連邦人民軍・JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJはすでに政治的独占を失っているし、JNAは外敵には強いが内部からの攻撃には弱い。全人民防衛体制は、両刃の剣である」など。
註・「プラクシス派」とは、チトー体制を左側から批判しているユーゴスラヴィアのマルクス主義哲学者グループを指す。
10/07:
・ユーゴスラヴィアから西独に亡命してきたクロアチア人グループが、ケルンで記者会見。今年5月にユーゴスラヴィアで逮捕された、シュライヤー殺害に加担していた4人の西独赤軍テロリストが、既に釈放されていると発言。西独は4人の赤軍派の身柄引き渡しを求めていたが、ユーゴ連邦側は亡命クロアチア人テロリスト8人を送り返さなければ応じられないと拒否。
10/20:
・ユーゴ共産主義者同盟幹部会筆頭書記に、ブランコ・ミクリッチ同幹部会員が選出される。任期は1年。
11/16:
・チャウシェスク・ルーマニア大統領は、ユーゴスラヴィアを訪問しチトー大統領と会談。会談では、両国関係の他、国際問題、国際労働者運動などについて意見を交わす。チャウシェスク大統領は、夕食会のスピーチで「外部からの干渉を受けずに独自の道を進む権利がある」ことを強く主張。
12/17:
・石油由由津国機構・OPEC、原油価格の引き上げを発表。第2次オイル・ショックが始まる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                      
1979年
02/01:
・チトー・ユーゴ大統領は、ブルホベツ外相、コスチッチ財務相ら政府要人を伴って、クウェート、イラク、シリア、ヨルダンの中東4ヵ国歴訪の旅に出発。出発に先立ち、チトー大統領はカーター米大統領から中東和平への尽力を依頼する親書を受け取る。
02/04:
・イラクのINA通信は、チトー・ユーゴ大統領がクウェート訪問を終え、イラク公式訪問のためにバグダッドに到着した、と報じる。バクル・イラク大統領が空港に出迎え、その後会談に入る。会談の内容は、両国関係の強化と、中東ならびに国際情勢を話し合った模様。
・ユーゴスラヴィア当局者は、チトー大統領がヨバンカ夫人と離婚し、オペラ歌手と結婚したと語る。
02/06:
・クウェート駐在ユーゴ大使館のスポークスマンは、チトー大統領の結婚説について、「根拠のないデマだ」と否定。
02/08:
・ユーゴ連邦政府スポークスマンは、ソ連政府がチトー大統領への招請状を送ってきたことで、同国を訪問することになるだろうと、述べる。
02/09:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、シリア訪問中のチトー・ユーゴ大統領が、ダマスカスでアラファト・パレスチナ解放機構・PLO議長と会談したと伝える。
02/10:
・ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義の理論的設計者である、エドワルド・カルデリが死去する。享年69歳。
02/12:
・エドワルド・カルデリ連邦幹部会員兼共産主義者同盟中央委幹部会員の死去に伴い、チトー・ユーゴ大統領は中東歴訪を2日早く切り上げてベオグラードに帰着する。
03/11:
・チトー・ユーゴ大統領は、北朝鮮の公式訪問政府代表団と会談。チトー大統領は、「ユーゴ連邦政府とユーゴスラヴィア人民は、朝鮮人民の祖国統一に向けた大業を支持する」と言明。
04/15:
・ユーゴスラヴィア南部で、マグニチュード7.2の地震が発生。死者は200人以上。
04/20:
・日本の園田外相は閣議で、ユーゴスラヴィアの地震被害に対し8000万円の緊急援助を行なうと、報告。
05/15:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟中央委幹部会の総会が開かれ、ドランツ幹部会書記が退任することを承認。後任に、クロアチア共和国出身のドーシャン・ドラゴサーバッツ幹部会員を選出し、任期を2年とすることを決める。
05/16:
・チトー・ユーゴ大統領は、ソ連からの招請を受けモスクワ空港に到着。1年9ヵ月ぶりのソ連訪問となる。
05/17:
・チトー・ユーゴ大統領とブレジネフ・ソ連最高幹部会議長との第1回の会談が行なわれる。ソ連側からはグロムイコ外相、ユーゴ側からはドランツ党幹部会員とブルホベッチ外相が同席。ブレジネフ・ソ連幹部会議長は、晩餐会で米国との間で基本合意に達した「第2次戦略兵器削減条約・SALTⅡの合意は、世界平和と安定を目指す困難な道のりの中で画期的な意義を持つことを疑わない」と強調。さらに、「国際問題については、その取り組み方に違いはあっても、そのことで友好関係を曇らせてはならない」と述べる。
05/18:
・チトー・ユーゴ大統領とブレジネフ・ソ連最高幹部会議長との会談で、共同コミュニケを発表。内容は、「両国の友好協力関係の強化、ならびに世界の平和と安定確保のため、両国が緊張緩和などで協力すること」を謳ったもの。
05/28:
・チトー・ユーゴ大統領はアルジェリアを公式訪問し、ベンジェジド・シャドリ・アルジェリア大統領と会談。
05/31:
・チトー・ユーゴ大統領はリビア公式訪問のためにトリポリに到着。カダフィ・リビア革命評議会議長が空港に出迎える。
06/03:
・チトー・ユーゴ大統領は、マルタを公式訪問。ミントフ・マルタ首相と会談の予定。
06/16:
・米・ソ首脳会談がウィーンで開かれる。
06/18:
・米・ソ首脳、第2次戦略兵器制限「SALTⅡ」条約に調印する。
07/26:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、ユーゴスラヴィア政府がこのほど食品など数種類の値上げをすると発表。小麦粉36%、パン類10%、タバコ21%、ガソリンおよび重油は28%にそれぞれ値上げされる。
08/07:
・ユーゴ連邦の司法関係筋は、ユーゴスラヴィアの反体制作家ミハイロ・ミハイロフに対し、米国でユーゴスラヴィアの名誉を傷つける発言をしたり、亡命反体制派のデモに加わったことで、逮捕状が出されたことを明らかにする。
08/29:
・チトー・ユーゴ大統領は、非同盟諸国首脳会議に出席するために、キューバのハバナに到着。
08/30:
・第6回非同盟諸国外相会議がキューバのハバナで開かれる。キューバ側から提案された「ハバナ宣言案」を討議。キューバ提案の内容は、反米、親ソで彩られており、穏健派は反発。
08/31:
・第6回非同盟諸国外相会議に、アラブ急進派諸国はイスラエルと平和条約を調印したエジプトの参加資格を停止するよう要請。また、カンボジアのポル・ポト政権とヘン・サムリン政権のどちらを正式参加国とするかでまとまらず。
09/03:
・第6回非同盟諸国首脳会議・NAMが、キューバのハバナの会議宮殿で開催され、92ヵ国と3組織が参加。
新たにイラン、グレナダ、スリナム、ニカラグア、パキスタン、ボリビアおよびジンバブエ愛国戦線が正式メンバーに加盟。
・非同盟諸国首脳会議の開催国のカストロ・キューバ首相は基調演説で、「第3世界を脅かしている、帝国主義、植民地主義、新植民地主義、人種差別主義などわれわれの共通の敵と徹底的に戦わなければならない」と強調し、「米帝国主義が諸悪の根元である」と糾弾。「中国のベトナムへの攻撃」も非難し、「エジプトのサダト、イランのパーレビ、ニカラグアのソモサ」を弾劾し、「ソ連を非同盟の盟友」と称賛する。
09/04:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、「我々の運動は強化されているが、各国の過去の経験や、発展度の違いが加盟国内部にあり、そこに外国からの影響も加わって非同盟の組織そのものの分裂を招くような危険も高まろうとしている。しかし、加盟国が足並みを乱せば外国の介入を招き、それまでの努力は水泡に帰してしまう。内紛の目は早く摘み取らなければならない」と演説。
09/05:
・米政府はカストロ・キューバ首相の演説に対し、「キューバは非同盟の運動をソ連への協力運動に変えようとしている」と糾弾するヴァンス米国務長官の声明を発表。
09/06:
・非同盟諸国首脳会議の政治委員会はパレスチナ問題を採択。内容;「イスラエルの侵略、入植継続、パレスチナ人に対する行為を非難する。PLOを支持する。シオニズムに関する特別委員会を国連内に設置するよう要請する」。
09/07:
・キューバが提案した「ハバナ宣言」の修正について、穏健派と急進派の間で意見がまとまらず、会期を延長する。
09/09:
・第6回非同盟諸国首脳会議は最終宣言を徹夜で取りまとめて採択し、閉幕する。次回開催地はイラクのバグダッドとする。
「最終宣言」;「原則」・「1,民族独立、民族自決、主権、領土保全、主権の平等、自由な社会的発展。2,軍事ブロックからの非同盟諸国の独立。3,帝国主義、新旧植民地主義、シオニズムを含む人種主義、外国の占領と支配、覇権主義、などに対する闘争。4,積極的平和共存。5,内政・外交問題への不干渉。6,経済的、社会的、文化的発展を追求することができる自由。7,新国際経済秩序と平等を基礎とした国際協力の発展。8,人権と基本的自由の尊重。9,恐怖の均衡の拒否。10,天然資源に対する恒久的主権。11,国境線の不可侵。12,紛争の平和的解決」。
「最終宣言」;「目的」・「1,非同盟諸国の民族独立および内政外交への干渉・介入の排除。2,非同盟の強化・拡大。3,帝国主義、覇権主義、新旧植民地主義の廃絶。4,民族解放運動への支持。5,国際緊張の緩和と平和安全の擁護。6,核軍拡競争の終結と全面・完全軍縮の達成。7,発展途上国の開発の促進、飢餓、貧困、疾病、文盲の除去。8,諸国家の平等と人権および基本的自由に基づく国際関係の民主的システムの確立。9,大国主導下の軍事ブロックに反対し、その解体の要求。10,外国軍の基地撤去および撤退。11,各国間の文化的協力の促進。12,国連の強化」。
・カストロ・キューバ首相が提案した、ソ連盟友論は取り入れられず。カンボジアの政府代表権については特別委で検討する、エジプトの資格停止についても特別委で検討する、との結論を出す。
11/04:
・チトー・ユーゴ連邦大統領はルーマニアを訪問し、チャウシェスク・ルーマニア大統領と両国関係の強化をうたった共同宣言に調印。宣言には、「帝国主義、新旧植民地主義反対、覇権主義、支配主義との闘争」を打ち出し、全欧安保再検討会議には、「核兵器を含む、軍縮の重要性」を強調。
・イランのテヘラン米国大使館を、学生が占拠する。
12/25:
・ソ連軍がアフガニスタンに侵攻する。ソ連軍は、AN12などの輸送機で、カーブル空港に進駐要員と兵器を150回運び込む。
・ユーゴスラヴィア外国貿易代表団が、イランのテヘランを訪問。テヘラン放送は、「訪問中のユーゴスラヴィアの外国貿易次官は、米国の対イラン経済制裁の脅威を考慮に入れてイランが要請する多くの物資を供給する用意があることを明らかにした」と放送。
12/26:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、イランがユーゴスラヴィアに80年から原油を供給すると連絡してきた、と報じる。
12/30:
・ユーゴスラヴィア連邦は、ソ連のアフガニスタン介入について、「外国勢力による他国への干渉は、如何なるものでも許されない」との声明を出す。
註・ユーゴスラヴィアのこの年の貿易赤字は、64億ドル。対外債務は144億ドルで、年20億ドルで増加。インフレ率は22%。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1980年
01/03:
・ユーゴスラヴィアのチトー大統領は、足の血管の検査を受けるため、医師団の勧めに従ってスロヴェニア共和国のリュブリャナにある総合病院「クリニック・センター」に入院する。
01/05:
・チトー・ユーゴ大統領は、検査を終えて退院。医師団は、「チトー大統領の体調に関しては、今後も厳重なチェックを続ける必要がある」との見解を発表。
01/11:
・ユーゴ連邦幹部会と共産主義者同盟幹部会は合同会議を開き、「複雑、混乱を極める国際政局に当面し、ユーゴスラヴィア連邦は自国の安全のため、全人民防衛体制を強化する」とのコミュニケを発表。27万のユーゴ連邦人民軍を「警報態勢」下に置く。警戒を強めた背景には、ソ連のアフガニスタン侵攻があり、その上に親ソ派「反チトー」勢力が、チトー亡き後の混乱に乗じてソ連軍を引き入れる可能性に対する不安がある。
01/12:
・チトー・ユーゴ大統領は再び入院し、足の静脈瘤を切除する手術を受ける。
01/16:
・ユーゴ連邦幹部会と共産主義者同盟中央委幹部会は、チトー大統領の健康に関わる諸問題について討議。医師団は、チトー大統領の容態は快方に向かっていると発表。
・ソ連のブレジネフ最高会議幹部会議長は、チトー大統領の健康が早く回復するよう願う、とのメッセージを送る。
・北朝鮮の金日成国家主席は、チトー・ユーゴ連邦大統領に見舞いを送り、「健康が1日も早く回復するよう心から望む」と表明。
01/18:
・ユーゴ共産主義者同盟機関紙「コムニスト」は、「チトー大統領の存在はユーゴスラヴィアの安全保障と国内統一、一体性にとって欠かせないものであった。しかし、ユーゴスラヴィア国民は国の先行きについて何の不安も抱いていない」との論評を掲載。
・ベオグラード放送は、共産主義者同盟への入党希望者がこの日までの10日間に数千人に達した、と報じる。入党希望者増加の原因には、「国際情勢の緊張」への懸念が国民の中に高まったことなどがある、と指摘。
註;ユーゴ連邦の74年憲法でチトー大統領は終身大統領になり、同時に軍の最高指揮官、党、国務の最高権力者となっている。「チトー後」の後継者は、ランコヴィチ元副首相兼国家治安警察長官が66年に経済自由化に敵対する保守派として追放されている。ジラス副大統領も複数政党制を主張し、理論的対立から禁固刑を受けて追放。エドワルド・カルデリは癌で死亡などしたために、チトー大統領の後継者がいない。従って、チトー大統領亡き後は74年憲法により大統領は6共和国2自治州の代表の8人が、1年任期の輪番制をとることになる。
01/21:
・ユーゴ連邦のチトー大統領の医師団は、左脚切断後のチトー大統領の健康状態について、現在の容態は良好だが、今後3日間の経過にかかっている、と語る。
01/24:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、手術後の4日目に病室に政府高官を呼び、国内外の情勢に関するブリーフィングを受ける。
01/25:
・チトー・ユーゴ大統領は、軽い国務をとる。
01/28:
・米タイム誌は、チトー・ユーゴ大統領がカーター米大統領に対し、「自分の死後、ユーゴスラヴィアをソ連帝国主義の手に渡さないでほしい」と懇願した、と報じる。
02/09:
・ユーゴ連邦のイバン・ゴシニャク元国防相が死去する。享年70歳。
02/10:
・ユーゴ連邦のチトー大統領の医師団は、大統領の健康について、腎臓および消化器系統の疾患にかかっている、と発表。
02/11:
・チトー・ユーゴ大統領の医師団は、「腎臓の機能障害に加えて、心臓が弱まっているため、治療が一層困難となっている」と発表。
02/13:
・チトー・ユーゴ連邦大統領の容態が危篤状態に陥る。
・ジュラノヴィチ・ユーゴ連邦首相は、東ドイツ公式訪問の日程を繰り上げて帰国。ブルホベッチ・ユーゴ外相は、東南アジア訪問を取りやめる。
・ユーゴスラヴィアのベオグラード市内の放送局から流される音楽は、哀調を帯びたユーゴ民謡風なものに切り替えられる。
02/15:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、病床から連邦幹部会の権能拡大策を指示。内容;「連邦幹部会手続き規則の改正」が官報で告示される。手続き規則の骨子は、「ユーゴスラヴィアが非常事態や予期しない状態に直面した場合、6共和国、2自治州の代表8人からなる連邦幹部会に新に次の6人を討議に参加させ、幹部会の権利と義務を担わせる」ものとする。6人とは「党幹部会議長、党幹部会書記、首相、国防相、外相、内相」。
・ユーゴスラヴィアの放送局は、荘重なクラシック音楽を流し始める。
02/21:
・チトー・ユーゴ連邦大統領は、病床から超大国の米ソと非同盟諸国の一部首脳にあてて、世界平和を呼びかける親書を送る。
親書の宛先は、ソ連のブレジネフ共産党書記長、米国のカーター大統領、ギニア人民革命共和国のセク・トーレ大統領、キューバのカストロ首相の4人。インドのガンジー首相には、外相が近日中に訪印する際に手渡す予定。内容は、「現在の国際関係は憂うべき混乱状態にある。しかし、国際社会とすべての国にとって必要な使命とは、デタントを普遍的な潮流として受け止め、発展させるために最大限広範な努力を傾けることに他ならない。そして世界に平和と安全を確立することが急務である」というもの。ブルホベッチ・ユーゴ連邦外相は、「非同盟諸国の一員としてのユーゴスラヴィアはいま多くの国、とりわけ非同盟諸国の平和と独立を脅かしている危機の芽が早急に取り除かれることを願っており、ユーゴスラヴィアの関心は国連憲章に則って、公正な協力と相互信頼が各国間にうち立てられることに向けられている」と強調。
02/26:
・ブルホベッチ・ユーゴ連邦外相はインドを訪問し、チトー・ユーゴ大統領の親書をガンジー首相に手渡す。
02/27:
・チトー・ユーゴ大統領は昏睡状態に陥る。
03/01:
・チトー・ユーゴ大統領の医師団は、大統領の肺炎が治まりつつある、と発表。
03/02:
・ソ連のブレジネフ書記長は、病床のチトー・ユーゴ大統領に書簡を送る。内容;「ソ連は、ユーゴ連邦・ソ連間の共同コミュニケでうち立てられた原則、『主権、自治、独立と相互不干渉』に則った相互関係と協調を引き続き進める用意がある」と記述。
03/12:
・チェコスロヴァキアの共産党機関紙「ルデ・プラボ」は、「われわれはこれまでモスクワで開かれた各種共産党国際会議の覚え書きと内容を検討すべきだ」と、ユーゴ連邦を批判する論評を掲載。その覚書とは、「1,57年の東欧12ヵ国参加の会議・『ユーゴスラヴィアは宣言文の署名を拒否』した。2,60年の世界81ヵ国参加の会議において『あからさまにチトーのユーゴ連邦を批判したものであった』。3,69年のソ連勢力圏と西側の一部の代表が参加した会議では『この会議にユーゴ連邦は参加せず』とした」というもの。ただし、76年に東ベルリンで開かれた欧州共産党会議には触れられていない。この会議において、「チトー・ユーゴ大統領の主張が入れられて各党の独自路線が確認され、最終文書からソ連をセンターとする意味での『プロレタリア国際主義』の語句が削除」されている。
03/13:
・ベトナムの共産党機関紙「ニャンザン」は、「1,ユーゴスラヴィアの一部責任ある人たちは、客観性を装いながら、我が国のカンボジア介入とアフガニスタン問題の事実を歪めている。2,ユーゴスラヴィアの新聞と一部指導者は同地からの外国軍隊の撤退を主張しているが、これは北京、ワシントンと結託して、真のカンボジア革命に横車を通そうとするものである」とユーゴ連邦を批判。
03/15:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、チトー・ユーゴ連邦大統領は、肺炎で高熱を出している、と伝える。
03/21:
・米ルイジアナ州のWTRVテレビが、チトー・ユーゴ大統領の治療に、エリ・リリー社の新薬が使われる見通し、と報じる。
03/30:
・ユーゴスラヴィアの「ポリティカ」紙は、ユーゴスラヴィア南部のコソヴォ自治州出身のアルバニア系住民50人が「民族主義的行動」を働いた容疑により、プリシュティナで裁判にかけられる、と報じる。さらに、ユーゴ連邦政府に対して「領土回復主義者」的立場を訴えるパンフレットを配ったことを指摘。
04/22:
・チトー・ユーゴ大統領の医師団は、病状は「極めて危険である」と発表。
04/27:
・ユーゴスラヴィア社会主義勤労人民同盟機関紙「ボルバ」は、米国のイラン大使館人質救出作戦について、「国際関係が第2次大戦以後、最大の危機の一つに直面しており、イラン領内における米国の軍事行動は国際関係に新たな重荷をもたらした。これは非同盟の独立国家の主権に対する重大な侵犯であり、いかなる方法でも正当化出来ない」と論評。
05/04:
・チトー・ユーゴスラヴィア連邦大統領がスロヴェニアのリュブリャナの総合病院で死去する。享年87歳。
註;ヨシプ・プロズ・チトーは、第2次大戦中パルチザンを率いてナチス・ドイツ軍と闘い、ユーゴスラヴィア全土を解放した。チトー大統領の業績は、「1,歴史、宗教、文化、言語が異なる諸民族をまとめ、統一国家としてバルカンにうち立てた。2,東欧の一角に位置しながら、ソ連の覇権主義の矛先を巧にかわし、ユーゴスラヴィアにソ連型の中央集権社会主義ではなく独自の民権型の自主管理社会主義を導入して発展させた。3,世界政治の舞台で、非同盟諸国の盟主の一人として非同盟中立運動を一つの潮流に育て上げた」ことなどである。
05/05:
・ソ連共産党中央委員会は、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟にメッセージを送り、「ソ連は相互内政不干渉、平等、主権の尊重、相互理解と信頼の基礎に立って両国の友好関係強化のために不変の努力をすることを再確認する」と表明。
・米国のカーター米大統領は、「過去30年以上にわたってユーゴスラヴィアの独立、領土の保全、統一を支えることが米国の政策だった。私は今日、米国がユーゴスラヴィアを支持する長年の政策を継続し、その支持を与えるためにしなければならないことの実行を再確認する」と述べる。
・ユーゴ連邦の首都ベオグラードでは、スロヴェニア共和国のリュブリャナから移送されたチトー大統領の棺を、20万人の市民が出迎える。
05/07:
・ユーゴ連邦からのクロアチア共和国の分離独立運動をしている在外組織、「クロアチア国民会議」がボンで記者会見を開き、「チトー・ユーゴ大統領は、ユーゴスラヴィアの諸民族間の統一と友愛を確立出来なかった」と述べ、クロアチア人独自の国家樹立を改めてユーゴ連邦に求める、と表明。
05/08:
・ユーゴスラヴィアの故チトー大統領の国葬が行なわれる。諸国の要人は、ブレジネフ、サッチャー、シュミット、華国鋒など国家最高指導者32人、副大統領8人、首相24人、外相46人、国会議長3人、政党党首50人、皇太子7人など200人が参列。カーター米大統領は参加せず、モンデール米副大統領が代理参加する。
05/15:
・ユーゴ連邦幹部会は、74年憲法に基づく「チトー後」の幹部会議長(大統領)の1年交代の輪番制により、マケドニア共和国出身のラザル・コリシェフスキ大統領に代わって、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国出身のツビエチン・ミヤトヴィチ幹部会副議長を選出する。後任の副議長にはスロヴェニア共和国出身のセルゲイ・クライゲルを選出。共産主義者同盟の党首は各地方代表や軍代表23人からなる党中央委幹部会が選出し、1年交代の議長の下で運営されることになる。
05/28:
・ホワイトハウスは、カーター米大統領が6月22,23日の両日に、ユーゴスラヴィア、イタリア、スペイン、ポルトガル、バチカン市国を訪問すると発表。
06/12:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟は、中央委員会でチトー党議長亡き後空白となっていた党首の地位に、ステバン・ドロニスキ・ヴォイヴォディナ自治州代表を選出する。
08/00:
・ユーゴスラヴィアの反体制知識人ミロバン・ジラスは、「赤い君主」の著書の中で「チトーは所詮、赤い独裁者に過ぎなかった」と記述。
・ユーゴ連邦当局は、ユーゴスラヴィアに関する反連邦行為について、今年の1月から5月の間に国外で起きた要人に対するテロ行為11件、反ユーゴ宣伝・破壊計画計26件を摘発したことを明らかにする。
09/02:
・ユーゴ連邦政府当局は、西ドイツ政府に対し30億ドルの借款供与を要請。米国、フランス、日本などにも借款を要請。
09/17:
・イラク、アルジェ協定を一方的に破棄し、イラン・イラク戦争を始める。
10/20:
・ユーゴ連邦の共産主義者同盟は、クロアチアのザグレブで中央委総会を開き、党幹部会議長にマケドニア共和国代表のラザル・モイソフを選出。
10/28:
・PLOのアラファト議長はユーゴスラヴィアを訪問し、ジュラノヴィチ・ユーゴ連邦首相と会談。両者は共同声明で、「イラン・イラク両国に戦闘をやめ、交渉に入るよう」呼びかける。
10/31:
・ユーゴ連邦政府は、「新措置」による広範囲にわたる商品の統制価格を撤廃すると発表。政府は、「統制品の価格が頻繁に変化し、価格を統制することはこれまで以上に困難になってきた。今後価格は需給によって決める」と言明。販売所は、連邦価格研究所に新価格を届け、これに対し政府は経済情勢向上に役に立たないと判断した場合は介入するが、基本は競争を存在させる。「新措置」には統制価格解除の他、「1,所得税に対する減税。2,家賃補助。3,家族手当の増額」などを含む。
11/06:
・ユーゴ連邦のジュラノヴィチ首相は中国を訪問し、趙紫陽首相および華国鋒国家主席と会談。華国鋒国家主席は、「我々両党、両国の関係は発展して素晴らしい状態にあり、全面的、恒久的、安定的発展という新しい時期に足を踏み入れている」と強調。
11/11:
・全欧安保協力会議35ヵ国の大使級会議がマドリードで開かれる。議事が、ソ連のアフガニスタン介入に対する「ソ連告発会議」になりかねないことを懸念し、本会議の最終文書作成にはユーゴ連邦のブルホベッツ外相が参加し、「ヘルシンキ宣言」への軌道修正に尽力する。
12/26:
・ユーゴ連邦議会は、81年度の経済計画案を採択。計画案によると、「国民総生産・GNPの伸び率を、80年度の目標とほぼ同率の3~3.5%とし、農業生産は80年のマイナス2%を4%増、工業生産を4%増、輸出7%増、輸入4%増」を見込む。
註・60年~80年間のユーゴスラヴィアの国内総生産の平均成長率は6.1%。チトー亡き後、重要な課題は各共和国と自治州間の経済格差是正と、全体的な経済不振の克服にある。
・スイスのノイエ・チュリッヒャー・ツァイトゥング紙は、「チトー後のユーゴ指導部に託された問題はさまざまだが、とりわけ一刻も早く慢性的な経済不振から抜け出し、バルカンで安定勢力たりうる国造りを実現する以外になさそうだ。さもなくば、ユーゴスラヴィアはほどなくさまざまな弱点をさらけ出し、外部勢力や大国の干渉を誘う、欧州平和にとって危険地帯になろう」との論評を掲載。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1981年
01/01:
・欧州共同体・ECにギリシャが加盟する。
01/26:
・ユーゴ連邦の社会主義勤労人民同盟機関紙「ボルバ」は、ポーランドの労働者の動きに対し、「週5日制、週40時間労働の要求は、ポーランドの社会・経済再建という課題を無視した過大な要求である。この状態から脱却しない限り、超大国の干渉を誘う絶好の口実となりえよう」と警告。
01/31:
・ミヤトヴィチ・ユーゴ連邦幹部会議長(大統領)はルーマニアを訪問し、チャウシェスク・ルーマニア大統領と会談。
02/20:
・ユーゴ連邦クロアチアのザグレブ地方裁判所は、反体制活動家フラニョ・トゥジマン退役将軍に対し、反国家的宣伝の罪で3年の禁固刑を言い渡す。
註;トゥジマンはユーゴ連邦人民軍を退役後、クロアチア人の歴史家、作家として活動した。77年から80年まで外国のマスコミに対し、ユーゴスラヴィアの社会、政治状況について、悪意に満ちた偽りの情報を流し、クロアチア人が社会、文化的に従属状況におかれている、などと宣伝に努めてきた、として罪に問われた。
03/11:
・セルビア共和国コソヴォ自治州の州都プリシュティナで学生寮の待遇改善要求のデモがあり、ファズリア共産主義者同盟議長は敵対勢力が煽動したものと指摘。
註;コソヴォ自治州はスロヴェニアの6分の1の所得しかなく、就職口も少ない。学生の待遇改善要求の背景には荒れ狂うインフレと経済格差、さらに党や州の要職をセルビア人が多く占めていることなどに対する不満がある。
03/23:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードを流れるドナウ川が40年来の大洪水を起こし、ベオグラード市に非常事態が宣言される。
03/25:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナ市の大学で学生が寮の食事に不満を持ち、寮を占拠しバリケードで封鎖する。機動隊が出動して学生が逮捕される。
03/26:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナで学生デモがあり、警官隊と衝突。学生23人、警官12人が負傷し、学生21人が逮捕される。ファズリア共産主義者同盟議長は、ユーゴスラヴィアの安定を脅かし、同国の安定を損ねる敵対行為と非難。
04/01:
・セルビア共和国コソヴォ自治州プリシュティナのデモは学生から住民へと拡大し、「セルビア人の特権廃止」、「共和国への格上げ」を求め、武器を持ち、警官隊と衝突する事態に発展する。
04/02:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナで、自治州の共和国化を要求するデモが、トラックに放火するなど激しい暴動に発展。ユーゴ連邦当局は「非常事態宣言」を発動する。
・コソヴォ自治州プリシュティナ近郊のポデュジェボでは、1,2日の両日激しい衝突があり、バリケード、横倒しにされた自動車などの残骸があちこちに見られる状態で、街の入り口は戦車が封鎖する。
04/03:
・ユーゴ連邦当局は、「非常事態宣言」が出されたコソヴォ自治州への外国人記者の立ち入りを拒否。州都プリシュティナへ通じる道路はすべて閉鎖され、装甲車に支援された軍隊、国土防衛隊、警察の管理下にある。
04/04:
・イタリアの新聞各紙は、「チトー以降の新体制が直面する最大の試練」との見出しで、コソヴォ自治州の騒乱を報じる。
・ユーゴスラヴィアの左翼系有力紙「レプブリカ」によると、コソヴォ自治州は道路が完全に封鎖され、他の地区から遮断されている。
・ユーゴ連邦当局は、「デモ隊は武装しており、子どもをデモ隊の先頭に立てるなど卑劣な戦術を採っている」と非難。
04/06:
・ユーゴ共産主義者同盟のドランツ幹部会員は、コソヴォ自治州のアルバニア系住民のデモと警官隊との衝突は流血の事態となり、警官2人を含む11人が死亡した、と語る。逮捕者は22人に及び、コソヴォ自治州は当分、集会禁止と夜間外出禁止が継続され、事態が完全に正常に戻るまで同州への立ち入りは禁止となる。
04/08:
・ユーゴ共産主義者同盟中央委総会がベオグラードで開かれ、コソヴォ自治州で起こった暴動事件の報告が討議される。デモ隊と公安要員の衝突で11人が死亡、57人が負傷。総会は、最高国家機関の決定に従って採択されたコソヴォ自治州正常化対策を了承する。
・アルバニア労働党機関誌「ゼリ・イ・ポブリト」は、「コソヴォ自治州のアルバニア系住民の要求は正当である。アルバニア系住民を辱め、殴り、殺し、投獄するために戦車、飛行機、警察を派遣した」とユーゴ連邦当局を批判。さらに、「誰かがコソヴォ自治州の発展を妨げており、ユーゴ連邦指導部はそれが誰かを知らなければならない」と主張し、「コソヴォ自治州に共和国の地位を与えよと要求する。
05/07:
・ワルトハイム国連事務総長はユーゴスラヴィアを訪問し、ユーゴ連邦の首脳と会談。
05/12:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナ大学で学生が、キャンプファイヤーを囲んでコソヴォ自治州の共和国への格上げを要求するスローガンを叫ぶ。
05/13:
・ユーゴ連邦コソヴォ自治州の暴動事件で、550人が裁判にかけられる。共産主義者同盟のダルエヴィチ書記は、コソヴォ自治州議会で200人以上が党から除名されたと言明。
・セルビア共和国コソヴォ自治州で、警察官を狙撃した指名手配中の犯人2人が女性や子どもを人質にとり、立てこもる事件が発生。警察との銃撃戦の末、犯人2人は射殺されたが、警官4人も死亡、3人が負傷。人質7人は無事。
07/27:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のジャコヴィツァ市で、アルバニア系住民が大がかりなデモを組織し、コソヴォ自治州のアルバニアへの分離合邦を要求して警官隊と衝突。多数の負傷者と多数の逮捕者を出す。
註;コソヴォ自治州の暴動の背景には、第2次オイルショックによる不況とユーゴス連邦内でのスロヴェニアとコソヴォ自治州の6対1に及ぶ経済格差があった。その住民の不満に乗じた民族主義者たちが、ユーゴスラヴィアから分離独立してアルバニアとの合邦を画策したために暴動は大規模なものとなった。経済格差は、歴史的背景となっているユーゴスラヴィア北部の先進工業地域と南部の経済的後進地域が、ユーゴ連邦社会主義国となってからも埋められなかったことがあった。理由として、経済的失政が上げられるが、アルバニア系住民の氏族制社会も影響を与えていた。それとは別に、先にブレジンスキー米大統領補佐官が公言したように、チトー没後の政治的空白を利用した外部からの煽動工作があった可能性も否定できない。
07/00:
・ベルギーのブリュッセルで、ユーゴスラヴィア大使館員の殺傷事件が2度にわたり起きる。さらに、ユーゴ観光局とユーゴスラヴィア関係のクラブが放火される。犯行は、コソヴォ自治州のアルバニア系住民の人種騒動と関係があるものと見られる。
08/24:
・ユーゴ連邦政府は、ベルギーのブリュッセルでの相次ぐ反ユーゴスラヴィアの動きに対してベルギー政府が十分な措置を取らないことに抗議し、駐ベルギー・ユーゴスラヴィア大使を召喚する。
10/01:
・ユーゴ連邦政府は、経済危機対策として、砂糖17.5%、石油製品9.1%の値上げを実施すると発表。
10/20:
・ユーゴ連邦政府は、経済危機対策の一環として、食用油とマーガリンの価格43%の引き上げを発表。
10/23:
・ユーゴ共産主義者同盟は、中央委幹部会議長にドシャン・ドラゴサーバッツを選出。議長は1年任期となる。
11/00:
・ユーゴ連邦当局筋は、ポーランドの「連帯」から支援を求められているが、「内政干渉と取られるのを避けるため、一切の公式声明を避けている」と説明。また、歴史的、文化的、民族的背景の異なるポーランドが自主管理社会主義を導入できるかどうかについての疑問も抱いている。
1981/00/00:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナ大学のアルバニア系教授は、自ら広範に旅行して調査した上で、「社会主義ユーゴスラヴィアでアルバニア系民族が手にしているほどの権利を得ている少数民族は、世界に一つもない」との結論を発表。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1982年
01/13:
・ユーゴ連邦幹部会と共産主義者同盟は、次期連邦執行会議議長(首相)にクロアチア共和国共産主義者同盟議長のミルカ・プラニンチ女史を推薦することで合意。
02/16:
・ユーゴスラヴィアのコソヴォ自治州で学生数百人と住民などが加わった騒動が起こり、州都プリシュティナ市では国家保安機関要員が介入して平静を取り戻す。
・コソヴォ自治州共産主義者同盟とコソヴォ勤労人民社会主義同盟自治体会議幹部会は、「昨年のデモ行動以来、社会主義秩序と平穏を脅かすこうした事件は初めてである」との声明を発表。
03/11:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナ市で、数百人の大学生および小中高校生が参加する騒動が起こる。
05/12:
・国連貿易開発会議・UNCTAD理事会で、ユーゴスラヴィア代表が総会開催を受け入れるとの政府決定を表明し、これを受けて理事会は第6回総会を来年5月にユーゴスラヴィアで4週間開くことを決める。
05/14:
・ユーゴ連邦幹部会は、連邦幹部会議長(大統領)にペータル・スタンボリッチを選出。
05/16:
・ユーゴ連邦議会は、連邦執行会議議長(首相)にミルカ・プラニンツ女史を選出。プラニンツはユーゴ連邦初の女性首相。
06/26:
・ユーゴ共産主義者同盟は、ベオグラードで4年ぶりに12回党大会を開く。ドラゴサーバッツ中央委幹部会議長が、「自主管理社会主義の一層の発展を求める闘いの中での党の役割」と題した基調報告を行なう。
06/29:
・ユーゴ共産主義者同盟第12回大会は、「非同盟中立、自主管理社会主義を軸とするチトー路線の継承」を確認する諸決議を採択して閉幕。次期党幹部会議長にミチア・リビッチ元首相を選出。
07/10:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のプリシュティナ地方裁判所は、昨年3月に同州で起こされた暴動事件の首謀者18人に対し、4年ないし15年の懲役刑を言い渡す。罪状は、「民族主義、領土回復主義を煽って、ユーゴスラヴィアの社会秩序を破壊しようとした」という理由。被告らの最終目標は、「コソヴォ自治州およびマケドニア、モンテネグロ両共和国の一部をユーゴスラヴィアから分離して、アルバニアに統合することにあった」というもの。この他に16人が審理中。
08/10:
・ユーゴ連邦政府は、国連貿易開発会議・UNCTAD第6回年次総会が83年6月にベオグラードで開催されると正式に発表。UNCTADの総会は、加盟166ヵ国の経済、貿易、財務担当閣僚が参加し、4週間にわたり開かれる。
08/28:
・国際関係筋は、西側民間銀行がユーゴスラヴィア中央銀行の外貨不足を補うために、米国と日本を中心とした2億ドルの協調融資計画を進めていることを明らかにする。これは9月上旬に予定されているIMF総会を控え、国際金融不安の火種を一つでも消しておこうとの米国政府の意向を受けたものと見られる。協調融資の主幹事銀行はチェースマンハッタン銀行とシティ・バンクで、日本の銀行のまとめ役は東京銀行となる。ユーゴスラヴィアの外貨準備銀行は、6月末現在で9億2300万ドルを所有。
10/15:
・ユーゴ連邦政府は、経済引き締め策の一環として銀行からの外貨引き出し制限と燃料割当制を発表。外貨資金の引き出しは、原則として月250ドル(6万5000円)以内に制限。海外旅行者は、出発前に5000ディナール(2万8000円)を供託しなければならない。
・ユーゴ連邦政府が実施した燃料割当制に対し、タクシー運転手やトラック運転手が収入が半減すると反発し、農民は作物を市場に運ぶために40リットルでは不足する、と抗議。
10/19:
・ユーゴ連邦政府は、価格が1500ディナール(7800円)を超える個人消費財の購入を規制する措置を発表。
10/22:
・ユーゴ連邦政府は、通貨のディナールを20%切り下げると発表。ユーゴ連邦の通貨切り下げは、80年以来初めて。
11/08:
・ユーゴ連邦のミルカ・プラニンツ首相は朝日新聞の記者との会見で、ユーゴスラヴィアが直面していることについて次のような見解を示す。「1,経済危機について、自力で現在の苦境から脱出する決意を固めた。債務返済の繰り延べを外国に要請するようなことはしない。2,チトー大統領亡き後の集団指導制は機能しており、ユーゴスラヴィアの重要な政策が揺らぐことはない。西側に向かって開かれた状態を守り抜く。3,貿易面では対ソ傾斜がひどくなっているが、非同盟路線は貿易関係で変質するようなものではなく、ユーゴは独立性を貫く。4,日本のようにイデオロギーの違う国とも、平和運動で手をつなぐ用意がある」と述べる。
1982/00/00:
・米国政府は、「東欧に関する国家安全保障指令・NSD・D54」を作成し、「静かな革命による共産主義政権と党の失脚に導く上での一層の努力」を指示。金融システムを通じて、ユーゴスラヴィア経済を屈服させる戦略を取り始める。
・コソヴォのアルバニア系住民がスイスに「コソヴォ共和国社会主義運動」なる組織を設立し、コソヴォの独立を目的としたアルバニア人による世界的なネットワークを形成する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1983年
01/12:
・ユーゴ国営タンユグ通信のミハイロ・シャラノヴィチ編集主幹が来日し、朝日新聞記者とのインタビューで次のような見解を示す。「非同盟諸国首脳会議は79年のハバナ会議では内部対立が激化し、82年に開かれる予定だったバグダッド会議はイラン・イラク戦争のために延期されるなど混乱が続いているが、非同盟諸国が現在95ヵ国に増えた結果、内部に対立があるのは当然だが、新しい冷戦ムードが世界を覆っている現在、非同盟運動の存在理由は十分にある。非同盟運動は植民地解放、発展途上国の独立と発展に政治、経済両面から大きな役割を果たしてきた」。3月に開かれるニューデリー会議については、「政治的にはイラン・イラク戦争の終結勧告を行ない、経済的には加盟国の連帯、協力強化に力を入れるなど、具体的成果が期待出来る」との見通しを述べる。
03/01:
・第7回非同盟諸国会議の準備会が、インドのニューデリーで開かれる。
03/03:
・第7回非同盟諸国外相会議がインド・ニューデリーの「ビキャン・バワン」国際会議場で開かれる。カンボジアの代表権についての討議が行なわれ、当面は「空席」のままとすることで合意する。
03/05:
・非同盟諸国外相会議は、「経済宣言」を検討している経済委員会が次の要望を盛り込むと発表。「1,先進国は国内総生産に対する政府開発援助を0.7%に引き上げる。2,開発途上国の債務の返済期間を調整する。3,IMFの出資割当額を倍額に増資する。4,世界銀行の出資金を拡大する」。その他、主要議題として、「1,アフガニスタン問題。2,イラン・イラク戦争など、非同盟諸国内部の紛争問題。3,レバノン紛争など中東問題」が盛り込まれる。
・イラン空軍機がニューデリーの空港に強制着陸。空軍機にはイランのハメネイ師の護衛のためという武装兵14人が搭乗。それより先の2月27日に、イラク空軍機が150人の兵士を乗せて強制着陸している。これもフセイン・イラク大統領護衛のためと主張。
03/07:
・第7回非同盟諸国首脳会議・NAMがインドのニューデリーで開催され、101ヵ国が参加。
註;ヨーロッパは非同盟諸国会議を無視し続け、ヨーロッパの正式参加国はユーゴ連邦、キプロス、マルタだけであり、ゲストとしてオーストリア、スイス、スペイン、ポルトガル、フィンランド、スウェーデンなど9ヵ国が参加したのみで主要国は参加していない。
・主催国のガンジー・インド首相は、「世界経済システムの崩壊と核戦争による絶滅のふちにある」と情勢を分析し、「われわれはいかなるグループとも争うものではない。非同盟とは国家の独立と自由であり、平和および対決の回避を意味するものである」と述べる。
03/08:
・国際決済銀行・BISのスポークスマンは、ユーゴスラヴィアに対し、各国中央銀行がBISを通じ、5億ドルのつなぎ融資計画の一環として、とりあえず3億ドルを支払うことで原則合意した、と発表。
03/12:
・第7回非同盟諸国首脳会議は、「ニューデリー・メッセージ」、「政治宣言」、「経済宣言」を採択して閉幕する。
ガンジー会議議長はメッセージで、イラン・イラク戦争の早期終結を訴える。
「ニューデリー・メッセージ」;「1,平和と軍縮および開発。平和は公正と平等を基礎とする。2,大国に、軍備競争の停止を求める。3,核大国は核戦争防止のための現実的な方法の採用。核兵器の使用および脅しを禁止する国際会議の開催。核兵器の製造および配備を禁止。核軍縮を含む完全軍縮を実施する。4,経済危機は性質、広がりにおいて、全地球規模で、多くの国が破滅のふちにある。5,経済危機は現行経済システムの不適切さにあり、南北包括交渉が必要である。6,世界経済を回復し、成長路線に戻すことが緊急である。発展途上国の債務問題を解決すること。7,開発のための通貨金融国際会議を開催し、国際金融制度を改革する。8.パレスチナ人民の民族主権国家を回復する。ナミビアの独立など緊急の課題に取り組む。9,非同盟運動は、帝国主義、植民地主義と闘う力であり、東西ブロックと距離を保ち、国際問題解決に建設的な貢献をする」。
03/25:
・ユーゴスラヴィアと西側銀行団との債務返済繰り延べ交渉がまとまる。内容は、83年中に返済期限の来る14億ドルの中長期債務を6年間、18~20億ドルの短期債務を2年間それぞれ返済を繰り延べる、というもの。この他西側銀行がユーゴスラヴィア中央銀行を通じて、総額6億ドルの新規貸し付けを行なうことでも合意。
・国際通貨基金・IMFは6億ドル、西側各国政府は総額13億6000万ドル、世界銀行および国際決済銀行などもユーゴ連邦への資金協力を決める。
05/13:
・ユーゴ連邦幹部会はスタンボリッチ大統領の任期満了に伴い、クロアチア共和国代表のミカ・シュピリヤクを後任大統領に指名。副議長にはモンテネグロ共和国代表のビドエ・ザルコヴィチを選出。
06/06:
・国連貿易開発会議・UNCTAD第6回総会が、ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードのサバ国際センターで開かれ、25日間にわたって「保護貿易主義、一次産品、累積債務、通貨・金融、南北問題」他を討議する。加盟166ヵ国の代表団5000人が参加。
・シュピリヤク・ユーゴ連邦大統領は開幕演説で、「巨額の資金が経済関係に回されず、武器生産に浪費されている。昨年の途上国向け公的援助が350億ドルにとどまったのに対し、軍備費に6000億ドル以上が使われた。この恐るべき数字は我々に対する極めて深刻な警告である。こうした傾向を阻止しなければ世界的な破滅をもたらすことになろう」と、国際社会の軍備強化が、発展途上国の発展を阻害している、と強調。
06/07:
・ユーゴスラヴィアのベオグラード南東160キロにあるアレクシナッチ炭鉱の地下800mの地点でガス爆発があり、8人が死亡、53人が重軽傷を負う。
06/30:
・ユーゴ共産主義者同盟中央委幹部会は、党幹部会議長にドラゴスラフ・マルコヴィチ幹部会員を選出。マルコヴィチはセルビア出身。任期は「チトー後」の集団指導性により1年。
10/12:
・デクエヤル国連事務総長は、ベオグラードの国連事務所長に小田信昭を任命。
1983/00/00:
・ユーゴ連邦政府はIMFの支援の下に、第2次経済安定化政策を実施。激しいインフレーションを起こす。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1984年
03/25:
・対ユーゴスラヴィア西側債権国の16ヵ国の政府代表は、84年に期限が到来するユーゴスラヴィアの債務元本8億ドルを7年間にわたって繰り延べすることに合意した、と発表。
04/20:
・ユーゴ連邦当局、「自由公開大学」に参加していた反体制知識人ミロバン・ジラス元副大統領など28人を、ユーゴスラヴィアに対する敵対行為として逮捕。「自由公開大学」は、ジラスが主催する自由な討議などを重ねてきた研究会で、7年間継続。
04/21:
・ユーゴ連邦警察当局は、反体制派のミロバン・ジラスを含む7人を釈放。
05/15:
・ユーゴ連邦幹部会員は任期満了に伴い、8人が新幹部会員に交代する。連邦幹部会議長(大統領)には、ベセリン・ジュラノヴィチ・モンテネグロ共和国代表が就き、連邦幹部会副議長(副大統領)には、ラドバン・ブライコヴィチ・ヴォイヴォディナ自治州代表が就任する。新幹部会員の大半がパルチザン出身とタカ派の政治家で占められる。
・ユーゴ連邦議会は連邦政府の9人の新閣僚を承認する。主な閣僚は、連邦政府首相はミルカ・ブラニンツ、副首相がヤネズ・ゼムリャリッチ、外相がライフ・ディズダレヴィチ、内相がドブロスラフ・チュラフィッチ、国防相がヨフコ・ヨフコフスキ、外国貿易相がヤネズ・イエルネ。
05/18:
・マルコヴィチ・ユーゴ共産主義者同盟議長が、北京を訪問。党の最高責任者が中国を訪問したのは77年のチトー大統領以来。中国側は胡燿邦党総書記が出迎える。胡総書記は「いかなる党も、他の党の内部に干渉してはならない。過去において他党との関係を処理する上で、我が党は欠点と誤りがあったことをここで公に認めたい」と人民大会堂で演説。
06/26:
・ユーゴ共産主義者同盟は党新幹部会議長(任期1年)に、コソヴォ自治州出身のアリ・シュクリヤを選出。幹部会書記(任期2年)にはディムチェ・ベロフスキを選出。
07/14:
・ユーゴスラヴィア西部のディバチャで列車が衝突し、死者35人、負傷者多数が出る。
10/05:
・ユーゴスラヴィアの金融筋によると、ユーゴ連邦政府は、パリ・クラブの債権国会議に同国債務の多年度一括返済繰り延べを要請。
・債権銀行の米マニュファクチャラーズ・ハノーバー銀行は、メキシコ方式をユーゴスラヴィアに適用するには債権国政府、あるいは公的機関との合意が前提になる、との態度を表明。
11/05:
・ユーゴスラヴィアの裁判所は、反体制知識人である社会学者ウラジミル・ミヤノヴィチ、同じく社会学者のミラン・ニクリック、作家のミオドラグ・ミリッチなど6人の公判を開始する。被告は、純然たる政治的理論を討議していた、としていずれも無罪を主張。この裁判はユーゴスラヴィアの今後の表現の自由、人権問題の鍵を握るものとして、西欧諸国も注目している。
1984/00/00:
・ユーゴ連邦におけるIMF改革の責任者であるミルカ・ブラニンツ連邦首相は、「IMFとの交渉で、借款返済率の直接の引き上げ、またはレーガン政権下の自由主義経済政策の一覧表の中の多くの項目に賛成させられた」と述べる。
ユーゴスラヴィアの対外債務は、210億ドルとなる。
・米国は、「ユーゴスラヴィアに対する合衆国の政策・国家安全保障指令・NSD・D133」で、「ユーゴスラヴィアの共産主義政権と、党の失脚を導くこと」を指令。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1985年
03/16:
・ユーゴ連邦のブラニンツ連邦首相は、タイを公式訪問。カンボジア問題ならびに2国間問題を協議する予定。
註;ユーゴスラヴィアは東欧圏の中で、ベトナムと敵対する民主カンボジア3派連合政府を承認し、カンボジア駐留ベトナム軍の撤退を求めている唯一の国家。
05/12:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、ベセリン・ジュラノヴィチ・ユーゴ連邦幹部会議長(大統領)の後任に、ラドバン・ブライコヴィチ連邦幹部会副議長(副大統領)が就任すると報じる。
06/14:
・国境における検査の段階的撤廃を目指す第1次「シェンゲン協定」にフランス、ベルギー、ルクセンブルク、西ドイツの5ヵ国が調印する。
06/25:
・ユーゴ共産主義者同盟は、党幹部会議長(任期は1年)にモンテネグロ出身のビドエ・ジャルコヴィチ党中央委員会幹部会会員を選出
11/21:
・米・ソ首脳会談がジュネーブで開かれ、核戦争を起こしてはならないことを確認し、包括的軍縮交渉の促進を合意する。
1985/00/:
・コソヴォ自治州が、アフガニスタン、パキスタン、イラン、トルコ、アルバニア経由のヘロインの一大中継基地となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
                   
1986年
01/01:
・EC・欧州共同体にスペインおよびポルトガルが加盟する。
01/06:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、5月に任期の切れる同国首相ミルカ・ブラニンツ女史の後継者に、ミクリッチ連邦幹部会委員が内定。社会主義勤労人民同盟がミクリッチを全会一致で選出したことによる。
01/20:
・ユーゴスラヴィアのブライコヴィチ連邦幹部会議長は、同国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国出身のブランコ・ミクリッチ連邦幹部会員を次期ユーゴ連邦首相(執行会議議長)候補に指名し、新内閣組閣の権限を与える。正式な首相選挙は憲法の規定に従い、連邦議会で行なわれる。
02/12:
・米司法省は、「バルカンのヒムラー」と呼ばれたナチ戦犯のユーゴスラヴィア人アンドリヤ・アルツコヴィチの身柄を、ユーゴスラヴィア当局に引き渡したと発表。
註;アルツコヴィチは、第2次大戦中にユーゴスラヴィアがナチス・ドイツに侵略された当時、傀儡政権「クロアチア独立国」の内相を務め、ナチス・ドイツの支持の下でユダヤ人、セルビア人、ジプシーなど50万から60万人の処刑に関わった、ナチス戦犯の生き残りの中では最も大物といわれる。アルツコヴィチは1948年、偽旅券で米国に潜入し、カリフォルニアで暮らしていた。
02/28:
・スウェーデンのオロフ・パルメ首相が、ユーゴスラヴィアのクロアチア分離主義者と見られる者に銃撃されて死亡。
03/06:
・デンマーク警察当局がパルメ首相暗殺事件の容疑者として、スウェーデンからフェリーでデンマークに入ってきたユーゴスラヴィア人2人を拘束。夜半に、2人は容疑なしとして釈放。
04/14:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国のザグレブ地方裁判所は、ナチ戦犯のアルツコヴィチ被告の審理を始める。
05/14:
・ユーゴ連邦クロアチアのザグレブ地方裁判所は、第2次大戦中にクロアチア傀儡政権の内相だったアルツコヴィチ被告に、当時の50万~60万人の大量虐殺犯罪の4件について有罪を認定。
05/15:
・ユーゴ連邦議会は、ブランコ・ミクリッチ連邦幹部会員を連邦首相(執行会議議長)に選出。
05/30:
・ユーゴ連邦のザグレブ地方裁判所は、ナチ戦犯のアンドリヤ・アルツコヴィチ被告に死刑判決を言い渡す。
06/12:
・ユーゴ連邦政府はシナン・ハサニ大統領(連邦幹部会議長)名で、長期電力開発計画が策定されるまでの間、原子力発電所建設をしないことを明らかにする。
06/25:
・ユーゴ共産主義者同盟の第13回大会がベオグラードで開かれる。ジャルコヴィチ党首は経済危機に関連し、党の政策、指導の誤りを厳しく批判する報告を行なう。
06/28:
・ユーゴ共産主義同盟の第13回大会は、経済再建を中心に9つの決議を採択。党中央委員会の権限を拡大し、党中央の指導力を強化する。新中央委員165人、幹部会員23人を選出して閉幕。新幹部会員のうち留任者は僅かに6人。17人は新顔が占める。
註;党中央の指導力を強化した背景には、チトー死去後の集団指導性が各共和国、自治州の力を増大させ、地域エゴを拡大させる結果を招いたとの反省に基づく。
06/00:
・米国のボブ・ドール上院議員は、「ユーゴ連邦政府が、アルバニア系住民の人権および経済的権利を侵害している。我々はこうした状況に警告を発する責任がある」との決議案を米連邦上院に提出。上院はこれを可決する。
註;ドール議員だけでなく、アルバニア系アメリカ人のJ・ディオガルディ下院議員も、コソヴォにおけるアルバニア人の人権保護の決議案も会員に提出し、決議させている。
07/10:
・ユーゴスラヴィア唯一のクルスコ原子力発電所の循環系統のパイプに亀裂が生じたために、稼働を一時停止する。
08/26:
・第8回非同盟諸国会議の実務者会議がジンバブエのハラレで開かれる。
08/28:
・第8回非同盟諸国外相会議が実務者会議に続いてハラレで開かれる。
09/01:
・第8回非同盟諸国首脳会議・NAMがジンバブエのハラレで開かれ、99ヵ国が参加する。
・非同盟諸国首脳会議で、ウガンダのムセベニ大統領は借金は一国の経済的独立、生産増のために使うべきだ。外国製歯磨き、香水、ビデオを買うために借金をしてはならない」と借金で苦しむ途上国を手厳しく批判。
09/07:
・第8回非同盟諸国首脳会議は、非同盟諸国会議が開かれてから25周年であることから、「25周年記念宣言」を採択し、「政治宣言」、「経済宣言」および「南部アフリカ特別宣言」を採択して閉幕。「南南協力委員会」の設置も決める
「25周年記念宣言」;「1,過去25年間非同盟運動は軍事ブロックの拡大を防いだ。2,諸民族の民族自決権を守り、拡大してきた」。
「政治宣言」;「1,国際情勢・非同盟諸国と開発途上国は危機的な経済情勢に直面し、先進国との格差は拡大」。「2,危機の焦点・アパルトヘイトの南アフリカ政府を非難し、民族解放運動への支援をする。カンボジアからの外国軍撤退と政治的解決を求める。アフガニスタンからの外国軍の撤退と独立、主権の尊重を求める。パレスチナ解放機構をパレスチナ人民の代表とし、中東和平会議の開催を求める。キプロスからのトルコ軍の撤退を要求する。ニカラグアの独立保持の闘争に連帯する。チリ人民の人民の自由と基本的人権の回復を求める」。「3,国際テロと解放闘争・テロ行為を非難するが、南アフリカ、パレスチナなどの解放運動の自決と独立の権利は承認される」。
「経済宣言」;「1,新国際経済秩序の確立・政治的南北対話の必要性を確認する。2,通貨、金融システム・開発途上国の対外債務1兆ドルへの対処として特別引き出し権を要求する。3,債務問題の共同責任・債務国、債権国、国際金融・銀行機関の政治的対話を要求する」。
「南部アフリカ特別宣言」;「1,国連憲章に基づく南アフリカへの制裁措置『①技術移転の禁止を要請する。②石油および石油製品の禁輸。③新規投融資、政府保証による信用供与の中止。④クルーガーランド金貨の販売禁止。⑤南アの農産物、石炭、ウランなどの輸入の禁止。⑥南アとの航空機、船舶交通の停止を要請する』。2,侵略、植民地主義、アパルトヘイトに対する抵抗行動のための『特別基金』を設立する」。
註・86年のインフレ率は85%。 80年~87年:工業生産成長率、2.7%。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1987年
01/21:
・ユーゴスラヴィアの有力紙「ブエニスク」は、ユーゴ連邦政府が米ソ首脳会議の開催地として、アドリア海に浮かぶブリオニ島の提供を申し出ている、と報じる。
01/21:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、ユーゴスラヴィアの反体制活動家ミロバン・ジラス元副大統領の出国が17年ぶりに認められた、と報じる。
註;ミロバン・ジラスはパルチザンの将校としてチトー大統領の片腕でもあったが、戦後チトー大統領の一党独裁制に反対して複数政党制による社会主義を主張したため、57年から66年まで監獄に入れられる。
03/15:
・ユーゴスラヴィアの有力紙「ポリティカ」に、D・ビディッチ共産主義者同盟国際協力委員会議長が論文を発表。ビディッチは、欧州の中立・非同盟諸国にも、ワルシャワ条約機構と北大西洋条約機構・NATOの加盟諸国との通常軍備削減交渉に参加させよと要求。「欧州の軍事問題は軍事ブロックに加盟しているか否かにかかわらず、全欧諸国の安全に関わっている。欧州の中立・非同盟諸国が、単に両ブロックの加盟国ではないという理由だけで排斥されるべきではない」と主張。
03/16:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国の中央委員会は、ミクリッチ・ユーゴ連邦首相の「賃金凍結政策」が、大規模なストライキを引き起こしたと批判。2月末に法制化された賃金凍結策は、100%近いインフレを抑えるために「労働者の賃金を昨年の第4・4半期の水準に戻し、今後の昇給は生産性の上昇に合わせる、というもの。
03/17:
・ユーゴ連邦のオボツキ労相は、各地で起きている労働者の賃金カット反対ストについての広がりを認め、クロアチアで30企業、スロヴェニアで11企業、セルビアで10企業など、マケドニアを除く5共和国2自治州で70企業がストライキを実施したと発表。
・クロアチア共和国のイストロ製鉄所では、違法行為をした労働者16人が解雇されたこと、なども明らかにする。
・ユーゴ連邦クロアチア共和国のオボツキ労相は、「新賃金条例は経済再建に欠かせないもので、撤回しない」と強調。
03/20:
・ユーゴ連邦政府は、食料品や消費財の価格を昨年12月31日の水準に抑える物価統制令を公布するとの声明を発表。有効期間は3ヵ月。
03/22:
・ユーゴ連邦のミクリッチ首相はボン訪問を前にして国内で拡大しているストライキについて、「ユーゴ連邦の社会主義政治体制を防衛するため、必要なら軍隊を含むあらゆる手段を行使する」と警告。
03/24:
・ユーゴ連邦のミクリッチ首相は「新賃金凍結法」について、経済危機克服のために欠かせないとして国民に支持を求める一方で、その適用については不公平が生じないように留意する、と述べる。
04/07:
・ユーゴスラヴィア総同盟幹部は、昨年約2000に上る企業が損失を出し、そのうち200社が倒産の危機に直面していることを明らかにする。
04/24:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のコソヴォ・ポーリェをミロシェヴィチ・セルビア共産主義者同盟議長が訪問。このとき、セルビア人住民とモンテネグロ人住民が、アルバニア系住民の嫌がらせに抗議する集会を開いたが、警官隊と衝突する騒ぎに発展。
註;ミロシェヴィチは、コソヴォ自治州の多数民族アルバニア系住民とセルビア人およびモンテネグロ人住民など少数民族間の軋轢を調整するためにコソヴォ自治州に赴いていたが、このアルバニア系の警官による少数民族弾圧の場面に遭遇し、コソヴォ自治州の権限を制限することを決意することになる。
04/30:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、ユーゴスラヴィア航空は5月から国内線の旅客機内での喫煙を禁止する。
05/11:
・ユーゴスラヴィアの北西ラビン市のイスタルスキ・ウグレノコビ・ラシャ炭鉱の鉱山労働者のストライキは、当局側が鉱山幹部の解雇と最高46%の賃上げに応じたため、33日ぶりに収拾する。
05/15:
・ユーゴ連邦大統領(幹部会議長)のポストに、コソヴォ自治州代表のシナン・ハサニ議長の後継者としてマケドニア共和国代表のラザール・モイソフ連邦幹部会副議長が就任する。
05/19:
・ユーゴスラヴィアのザグレブ大学物理研究所の研究員は、摂氏10度で超伝導状態を示した新素材・超伝導物質の開発に成功した、と発表。
06/26:
・ユーゴ共産主義者同盟中央委員会は、コソヴォ自治州の170万人のアルバニア系と20万人のセルビア人およびモンテネグロ人との緊張関係を解消する方法などを協議する。
・ユーゴ共産主義者同盟中央委員会の協議を見守っていた数百人のコソヴォ在住のセルビア人が、警備のために取り囲んでいた警官隊に罵声を浴びせける。警備当局はセルビア人たちに解散を命じた上、強制的にバスに乗せてコソヴォ自治州に送り返す。詰めかけたセルビア人の1人は、「アルバニア系分離主義者から生命と財産を守るための正しい決定が出されないなら、武器で自衛するか、州を去るかの2つの道しかない」と語る。
06/30:
・ユーゴ共産主義者同盟・LCYは、ボスコ・クルニッチを幹部会議長に選出。
08/18:
・ユーゴ連邦モンテネグロ共和国の建設企業のチトーグラード社が、7月に施行された「新破産法」の第1号の適用を受け、破産を宣告される。昨年64億ディナール(15億円)の赤字を出し、再建の見通しが立たなくなったことによる。従業員は2600人。
09/12:
・ユーゴ連邦幹部会のポジェラッチ副議長は、金融スキャンダル事件に関与したとの疑惑が明るみに出たため、幹部会員を辞職。事件は、アブラモヴィチが企業長を務めるボスニア・ヘルツェゴヴィナの国営農工企業アグロコメルツ社が、額面総額9億ドルに上る約束手形を裏書きなしに乱発したことが発覚。それに国内の63の銀行が関与していた、というもの。20人が逮捕され、さらに90人が取り調べを受ける。従業員は1万3000人。
10/08:
・ユーゴ連邦議会は、アグロコメルツ社の「構造汚職」の発覚に伴い、リカノヴィチ財務相、フラトコヴィチ中央銀行総裁、タシッチ社会会計監査院長官の3者に職務怠慢がなかったかどうか、政府に調査を要請する決議案を採択。
10/25:
・ユーゴ連邦政府は、コソヴォ自治州でアルバニア系住民とセルビア人およびモンテネグロ人住民との間に緊張が高まっている、として治安警察隊を派遣。
11/17:
・ユーゴ連邦マケドニア共和国のスコピエの鋳物工場で、「物価と賃金凍結を含む厳しい緊縮令」が施行されたことに抗議する労働者5000人がデモを行ない、地方当局に賃上げを認めさせる。
註;ユーゴスラヴィアの統治形態は、連邦政府は主として国防と外交のみを受け持ち、国内政治は各共和国と自治州の自治に任せるという体制を採っている。連邦政府には農林省、厚生省、建設省、文部省もない。連邦政府の国家予算の66%が国防費で、傷痍軍人手当などを入れると79%に及ぶ。他には低開発地域開発振興基金が8%、連邦運営費6%。地域格差はスロヴェニアがマケドニアの2~3倍の生産性がある。コソヴォ自治州は6分の1程度。最近の経済指標によると、輸出は輸入の85%にとどまり、インフレ率は86年が92%、87年は116%、失業者は70~80万人。ストライキが87年に入り1000件を超える。生活水準は、80年を100とすると87年は70にまで下がっている。
対外債務200億ドル以上。私企業がGNPの20%を占める。メディアの事前検閲制度はない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1988年
01/22:
・ユーゴ連邦幹部会はディズダレヴィチ外相を幹部会副議長に任命、その後任にブジミル・ロンカル外務次官を外相に指名。
01/24:
・ユーゴスラヴィアが提唱した史上初めてのバルカン会議が、ベオグラードで開かれる。アルバニア、ブルガリア、ギリシア、ルーマニア、トルコ、ユーゴスラヴィアのバルカン半島6ヵ国の外相が参加。意見交換の内容は、「1,将来、バルカン首脳会議に発展させる。2,バルカン非核化構想を実現させる。3,欧州共同体・ECをモデルとした半島全域の経済協力の促進」などについて話し合う。アルバニアのマリレ外相は、「小数民族が関係国間の対立と緊張のもとになってきた過去を捨て、良き近隣関係の橋渡しとすべきだ」と述べる。非核化構想は、ユーゴスラヴィア、アルバニア、トルコの3ヵ国が「現実性がない」と消極的姿勢を示す。
01/26:
・バルカン6ヵ国の外相による会議は3日間の協議を終え、今後も定期的に継続して開くことを決めて閉幕。非核化構想は合意を得られずに先送りとなる。
03/14:
・ソ連のゴルバチョフ首相がベオグラードを訪問。ユーゴスラヴィアのモイソフ連邦大統領(幹部会議長)やクルニッチ共産主義者同盟幹部会議長らが出迎える。ソ連の書記長がユーゴスラヴィアを訪問するのは、80年にチトー大統領の葬儀にブレジネフ書記長が訪問して以来。
03/15:
・ゴルバチョフ・ソ連書記長とモイソフ幹部会議長らとユーゴ連邦首脳との会談で、「新ベオグラード宣言」について合意する。
要旨;「国家および党の主権、自主性の尊重。領土保全の相互尊重。独立・平等・内政不干渉。人権の尊重」の原則を確認。ゴルバチョフソ連書記長は、「過去何十年の豊かな経験と、全世界的に起きた重要な変化を反映するもの。社会的、政治的に互いに異なる諸国が、非同盟という共同の立場で世界の重要問題に一致して対処してきた大きな成果」と述べる。
03/16:
・ゴルバチョフ・ソ連書記長はユーゴスラヴィア連邦議会で演説し、コミンフォルムのユーゴ連邦追放が誤りだったことを認め、また海軍力が集中している地中海について、「1,いずれ米・ソの海軍力を引き揚げる。当面は7月1日から現状兵力で凍結する。2,この海域での兵力の移動、演習を関係国に事前通告する。航行の安全を保障する」と提案。
03/18:
・ソ連のゴルバチョフ書記長とユーゴスラヴィア首脳との会談で合意した、「新ベオグラード宣言」を公表。
共同宣言の骨子;「独自の道の尊重・社会主義発展の独自の道と形態および異なる国際的立場を無条件に尊重する」。
「ソ連・ユーゴ連邦関係・ベオグラード宣言、モスクワ宣言に含まれた普遍的諸原則の歴史的役割と恒久的価値を協調する」。
「党間協力・両党は、独立、平等、不干渉、すべての党は自国の労働者階級と国民に責任を持つとの諸原則から出発する」。
「社会主義的自主管理・社会主義的自主管理がそれぞれの国の特殊性に沿って発展することが非常に重要だと見なす」。
「安定した通商・相互経済協力は将来、安定し、かつ均衡の取れた通商性格を備える」。
「兵器なき世界・軍備競争を停止し、信頼と恒久的安全、兵器、力による威嚇のない世界が実現し得ると確信する」。
「全欧安保協力会議・全欧安保協力会議・CSCEの精神と目的に対する責務を確認する」。
「国際経済問題・危機の中心的な要因は、1,大部分の発展途上国の膨大な対外債務問題。2,貿易における発展途上国の差別。3,科学技術の成果に対し、発展途上国の接する機会が制限されている」。
「非同盟運動・帝国主義、植民地主義、新植民地主義、アパルトヘイト、あらゆる形態の侵略、内政干渉、暴力、優位性、覇権主義、政治・経済関係における差別、現存するブロックの枠内に国際協力を限定することに反対しているとして支持する」。
03/24:
・ドイツ通信は、IMFがユーゴスラヴィアの累積債務210億ドルの返済に窮していることに対し、5億ドルのつなぎ融資を与えるに際して提示した条件は、「1,88年のインフレ率を90~95%に抑える。2,通貨を切り下げる。3,賃上げは生産性向上に見合った範囲に抑制する」などで、ユーゴ連邦はこれに合意に達した、と伝える。
註;87年のインフレ率は168%で、88年も既に150%に達している。
03/00:
・ユーゴ連邦で軍事クーデターが発生したものの、未遂に終わる。
05/14:
・ユーゴ連邦議会が、ミクリッチ首相に対する不信任決議案を提出。深刻なインフレに見舞われ、物価や公務員給与の凍結令を出したことに、不満が鬱積したことによる。不信任案提出の経緯は、ユーゴ連邦を構成する6共和国、2自治州のうち、最も豊かなスロヴェニア共和国議会で決議し、次いでクロアチア共和国議会が議決している。
註;スロヴェニア共和国は、最も貧しいコソヴォ自治州に比較して所得に6倍の差があり、自分たちが稼いだ金がよその共和国・自治州へ持って行かれているという意識がここ2,3年高まっていることがある。
05/15:
・ユーゴ連邦議会は、大統領(連邦幹部会議長)にボスニア共和国のライフ・ディズダレヴィチを選出する。任期は1年。
・ユーゴ連邦議会は、スロヴェニア共和国が提出したミクリッチ首相不信任案を反対多数で否決する。
・ミクリッチ・ユーゴ連邦首相は、「国家の保護政策を縮小し、今年中に生産物・サービス部門の70%を自由価格にするなど、大幅な自由化を進める。輸入を自由化して国内市場で競争を起こさせ、国家経済に対する世界経済の影響を強めるなど、西側を中心とした世界経済と直接連動させる政策を発表。さらに、経済制度改革委員会を設置し、所有関係、所得の分配、通貨政策、金融制度、コスト・利潤の計算制度、経済計画制度、市場と価格などを包括的に検討する」と表明。
05/15:
・アフガニスタンに侵攻したソ連軍が撤退を開始する。
05/31:
・ユーゴ共産主義者同盟は全体会議を開き、政治・経済改革が円滑に進まなかった場合、中央委員会に対し臨時党大会開催と指導部刷新を確認して閉幕。
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国のリュブリャナで、ユーゴ連邦人民軍を非難する記事が書かれる。
05/00:
・ユーゴ連邦政府は、インフレーション抑制計画を実施。
06/01:
・3月の軍事クーデターを批判した記事を「青年同盟週刊誌」に掲載した記者2人と、情報を提供した下士官1人が、ユーゴ連邦人民軍に逮捕される。
06/17:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードにあるトラクター工場の労働者4000人が、30%賃金カットに抗議してストライキに入るとともに、「パンよこせ」のスローガンを掲げてデモを行ない連邦議会に押し掛ける。
06/21:
・連邦人民軍が記者と下士官を逮捕したことに抗議する「スロヴェニア青年同盟」と「人権委員会」主催の集会が、スロヴェニアのリュブリャナで開かれ、2万人が参加。主催者側は、記者と下士官の釈放を要求する。
06/29:
・ユーゴ共産主義者同盟は、ボスコ・クルニッチ幹部会議長の任期切れに伴いシュティペ・シュバール幹部会員を新幹部会議長に選出。
06/00:
・歴史学者でクロアチア民族主義者のトゥジマンはカナダを訪問し、経済的・政治的移民たちとの絆をつくり上げる。
・大韓貿易振興公社は、スロヴェニア共和国のリュブリャナに貿易事務所を開く。
・米国在住のアルバニア人によるデモがワシントンの議会からホワイトハウスまで行なわれる。
07/06:
・ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで、賃金カットに抗議する労働者1500人が連邦議会内に乱入。労働者はこの後政府当局者と話し合いを持ち、退去する。
07/09:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のセルビア人2000人住民がヴォイヴォディナ自治州のノヴィ・サドに押し掛け、「自治州の権限を弱め、セルビア共和国の統制下に置かない限り、コソヴォ問題の解決はない」と主張してデモを行なう。
07/25:
・ユーゴ連邦人民軍は、軍の機密を漏らした下士官と、それを記事にした記者2人を、スロヴェニア共和国のリュブリャナに設置された軍事法廷で裁く。市民およそ8000人が、軍事法廷の公開とスロヴェニア語の使用などを要求する。
07/27:
・ユーゴ連邦人民軍の軍事法廷は機密漏洩事件の被告に対し、最高4年の懲役刑の判決を言い渡す。
08/04:
・ユーゴ連邦政府は、電気料金を40%、パン52%、石炭30%、郵便料金28%の値上げを発表。インフレ率は年率189%。賃上げ要求ストが、1月以来600件に達している。ユーゴスラヴィアの混乱で、観光客は20%減少する。
09/03:
・セルビア共和国内の各地で、コソヴォ自治州でのアルバニア系住民による襲撃や脅迫事件の続発に抗議する、セルビア人住民とモンテネグロ人住民による集会が開かれる。参加者はおよそ10万人におよび、一部は集会後にアルバニア系住民の乗っているバスを襲うなどで気勢を上げる。「社会主義者連合」が主催してヴォイヴォディナ自治州のスメデレヴォで開いた集会は、参加者が7万人となりセルビア共和国による自治州の直接統治を要求。
09/05:
・ユーゴ連邦政府は、ガソリンなど石油製品を50%、鉄道料金を最高70%まで値上げすると発表。
09/24:
・ユーゴ国営タンユグ通信は、スロヴェニアのリュブリャナ市と電子業界が共同して韓国のソウルに代表事務所を開設する予定、と報じる。
・セルビア共和国南部のニシュで15万人、ヴォイヴォディナ自治州のブルシャツなど2ヵ所で2万人が集まり、セルビア共和国による自治州の直接統治を要求して気勢を上げる。
・アルバニア外務省は、コソヴォ自治州内のアルバニア系住民の同胞を気遣い、「ユーゴスラヴィア国内のヒステリックな反アルバニア行動」を非難。
・ユーゴ連邦政府当局は、「行き過ぎた民族主義」を懸念し、たびたび集会の自粛を求める。
09/27:
・セルビア共和国コソヴォ自治州で連邦警察の特別部隊が、アルバニア系民族主義者42人を銃や火器類、印刷機などの保持で逮捕する。
・ユーゴ共産主義者同盟のスロヴェニア選出のシェティンチ幹部会員は、セルビア共和国の党指導部が感情的なセルビア人住民の民族運動を無責任に助長しているとして、抗議の辞任をする。シェティンチ幹部会員は、党中央委員会コソヴォ問題調査部会新会長を務めていたが、セルビア系住民から解任を求められていた。
10/01:
・セルビア共和国内各地およびヴォイヴォディナ自治州において、コソヴォ自治州内でアルバニア系住民に迫害されているセルビア人とモンテネグロ人住民を支援する40万人規模の集会が開かれる。
10/03:
・ユーゴ連邦議会は、第9回非同盟諸国首脳会議を89年9月に開催することを承認。
10/04:
・スロヴェニア共和国の商工会議所のクルシャル顧問が、ソウルの貿易事務所を開く。
10/06:
・セルビア共和国ヴォイヴォディナ自治州の幹部会員が、事態収拾に責任を持てないとして辞任。
10/07:
・ユーゴ連邦モンテネグロ共和国において、首都チトーグラードで賃上げを要求して押し掛けた労働者が、やがて4万人に膨れあがり、指導部の交代などを要求して議事堂を取り囲む。当局側が機動隊を出動させ、催涙弾などを発射する騒ぎに発展。
10/08:
・モンテネグロ共和国政府は、チトーグラード衝突事件の責任と事態収拾の自信が持てないとして内閣総辞職を表明。チトーグラード市共産党幹部会も辞任を表明する。
10/09:
・モンテネグロ共和国党指導部はチトーグラードのデモを禁止し、機動隊を導入。学生たちは、抗議のハンストを呼びかける。
・ユーゴスラヴィアのインフレ率は217%となる。
・セルビア共和国ラポヴォで列車が転覆し、少なくとも33人が死亡し、40人が負傷する。
10/10:
・モンテネグロ共和国幹部会(政府)は、チトーグラードの「非常措置」を発表。
・モンテネグロ共和国選出のラジボエ・ブラヨヴィチ連邦幹部会員はモンテネグロのネクシチを訪れ、ボリス・キドリッチ製鉄所の3万人の労働者の前で、「私は辞任しなければならないが、製鉄所の労働者の前で辞任を表明することを誇りに思う」と述べる。
10/13:
・アルバニア外務省は、ユーゴスラヴィア国内でアルバニア系住民への反感を煽るようなデモが公然と行なわれていることに対し、チラナのユーゴ大使館に抗議する覚え書きを手渡す。
10/16:
・ユーゴ連邦幹部会のコソヴォ自治州のシロカ幹部会員とボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のレノビチャ幹部会員の2人が辞任する。シロカ幹部会員はコソヴォ問題の責任を問われており、レノビチャ幹部会員はボスニアの食品企業「アグロコメルツ」の手形不正事件に関与した責任を問われている。
10/17:
・ユーゴ連邦共産主義者同盟党中央委総会がベオグラードで開かれる。シュティペ・シュバール連邦党幹部会議長は、「党と国家を分離」する党機構改革案を提案。提案;「党が地域主義にとらわれ、連邦全体の指導勢力となり得ていない。連邦党中央委員会を連邦や共和国、自治州の行政機関から分離させることが緊急に必要である。労働現場、科学者などの専門家、青年層から中央委員を増強する」と強調。さらに、「インフレの沈静と20年前のレベルに落ちてしまった生活水準を向上させることが緊急課題である。企業収入のうち国家が吸い上げる部分を減らし、それを賃金部分に回せるようにする」。コソヴォ問題については、「この問題が連邦全体に及ぼす影響を指摘し、民族対立の最大の責任はコソヴォ自治州党委員会の無策にある。セルビア共和国党中央委員会は民主集中制の原則に立った必要な措置を取るよう」促す。
10/18:
・ユーゴの連邦共産主義者同盟中央委総会が2日目に入る。スロヴェニア出身のシェティンツ幹部会員はコソヴォのセルビア人住民支援の集会について、「無分別な大衆操作」と決めつけ、「この集会の背景には共和国や自治州を否定した強力な国家への発想がある。ユーゴスラヴィアの危機克服への道は新たなチトーに求められるべきではない」と強調。ミロシェヴィチ・セルビア党幹部会議長は、「セルビアには他の共和国への領土要求はない。セルビア市民は共和国としての法的権利に関する問題について、誰にも教えを受ける必要はない」と反論。
10/19:
・ユーゴ連邦党中央委総会は、「政治、経済、党機構」の3つの改革を承認。次いで人事に移り、シロカ、レノビツァ、シェティンツ、クルニッチの4幹部会員について辞任を承認。さらに、共和国、自治州幹部会議長と軍代表を除く他の幹部会員10人についての秘密投票による信任に移り、セルビア共和国出身でミロシェヴィチ派のチクレヴィチ幹部会員を不信任とする。
10/20:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のセルビア人およびモンテネグロ人住民2万人が、中央委総会でアルバニア系住民の州党幹部の一部更迭が見送られたことに抗議し、州党幹部の辞任を要求したデモを行なう。
10/22:
・ユーゴ連邦議会、憲法修正案を承認。討議は今後6共和国、2自治州で本格的に行なわれることになる。
11/17:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のヤサリ州共産主義者同盟幹部会議長とブラシ州党幹部会員が、辞任を表明する。セルビア共和国の共産主義者同盟幹部会が、多数派アルバニア系住民による少数派セルビア人住民迫害を放置したとして辞任要求していたことに応じたもの。
・セルビア共和国コソヴォ自治州で、ヤサリ州共産主義者同盟幹部会議長とブラシ州共産主義者同盟幹部会員の辞任を撤回するよう求める、アルバニア系住民による1万人規模のデモが行なわれる。
11/18:
・ユーゴ国営タンユグ通信によると、、コソヴォ自治州の指導者のヤサリ党幹部会議長とブラシ前幹部会議超2人が辞任を表明したことに対し、州都のプリシュティナでアルバニア系住民10万人が、辞任撤回を求めて10万人規模の集会とデモを行なう。
・ユーゴ連邦幹部会は緊急会議を開き、コソヴォ自治州の指導部に対して混乱の回避と秩序維持のため「必要なあらゆる措置」を取るよう命じる。
11/19:
・ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで、セルビア人による80万人が参加した大規模な集会とデモが行なわれる。集会の目的は、セルビア共和国憲法を改定してコソヴォおよびヴォイヴォディナ両自治州に対する共和国の権限を拡張させよ、というもの。デモ参加者は、「コソヴォ奪回」などとのスローガンを叫ぶ。
・セルビア共和国コソヴォ自治州の州都プリシュティナで、アルバニア系住民による3万人規模の集会が開かれる。
11/25:
・ユーゴ連邦議会は、74年憲法修正案を可決。修正内容は、「私企業の振興や外国企業からの投資を、大幅に自由化する」ことで、不調な経済を活性化することが狙い。連邦政府の権限も強化される。
11/27:
・オーストラリアのシドニーで、クロアチア系人数百人がユーゴ連邦からの「クロアチア共和国の独立」を求め、ユーゴ領事館に押しかける。領事館側の保安要員がデモ隊に発砲し、16歳の少年が怪我を負う。
11/28:
・オーストラリア政府は、ユーゴスラヴィア領事館での発砲事件に関し、保安要員を警察に出頭させるよう、ユーゴ側に要請。
・ユーゴスラヴィア領事館側は、オーストラリア当局の要請を拒否する。
12/01:
・米当局は、在シカゴ・パールディン・ビエディッチ・ユーゴスラヴィア総領事を「出所不明の金を通用させた」との容疑で逮捕。容疑は麻薬取引に関係する資金150万ドルで、ユーゴスラヴィアのリュブリャンスカ銀行のニューヨーク支店のビンコミール支店長らユーゴスラヴィア人2人とアメリカ人2人を逮捕。
・マティッチ駐ワシントン・ユーゴ代理大使は、米政府に抗議し、釈放を求める。
12/02:
・オーストラリア政府は発砲事件に関してユーゴスラヴィア当局が保安要員の出頭を拒否したため、シドニーのユーゴスラヴィア領事館を閉鎖し、館員と家族を72時間以内に国外退去させる、と発表。
12/30:
・ユーゴ連邦政府のミクリッチ首相は、提出した89年度の20兆9000億ディナールの予算案と経済改革法案がスロヴェニアとクロアチアに反対され、連邦議会で承認されなかったことを理由として辞任。内閣である連邦執行会議も総辞職する。ミクリッチ首相は、連邦政府の権限を強化し、各共和国の経済政策の足並みを揃えることで再建を図ろうとしたが、経済先進地である北部のスロヴェニアおよびクロアチア両共和国が統制を嫌って反対し、結局有効な政策を実現出来ず。
註;ユーゴスラヴィアの88年のインフレ率は250%、工業生産成長率は0%。全国のストライキは1700件を数える。87年~88年にかけてセルビア人のコソヴォ自治州からの移住が続き、80年代にコソヴォ自治州でアルバニア系住民から迫害を受け、脱出したセルビア人住民はこの時点で5万人を超える。
1988/00/00:
・コソヴォ自治州で武力による独立を掲げるコソヴォ解放軍・KLAがドレニツァ地方で設立される。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1989年
01/10:
・ユーゴ連邦モンテネグロ共和国の首都チトーグラードで、労働者や学生ら5万人が政府関係の建物を包囲し、指導部の交代を要求。
01/11:
・ユーゴ連邦モンテネグロ共和国の党指導部と政府が、総辞職を表明。
01/19:
・ユーゴ連邦幹部会はミクリッチ連邦首相の後任に、クロアチア共和国幹部会員のアンテ・マルコヴィチを指名。
01/20:
・ユーゴ連邦ヴォイヴォディナ自治州の党幹部会が臨時会議を開く。会議では、チトーグラードでのデモを機動隊を動員して解散させたことなどに反発する意見が続出し 、クロアチア出身の共産主義者同盟党連邦幹部会のシュバール議長の辞任を要求。
01/24:
・セルビア共和国の共産主義者同盟幹部会は、「党と国民との間に不信感をもたらした」として、シュバール連邦幹部会議長の辞任を求める。
01/30:
・ユーゴ連邦の共産主義者同盟中央委総会がベオグラードで開かれる。シュバール党幹部会議長は冒頭の演説で、「党が民族主義的対立で分断され、2300万ユーゴスラヴィア人は国家の解体を恐れている。われわれは同胞が殺し合う戦争の危機にさらされているのだろうか」と述べる。
02/01:
・ユーゴ連邦共産主義者同盟中央委総会は、党大会の年内開催を決めて閉幕。ミロシェヴィチ・セルビア共和国党議長とシュバール党連邦議長の激しい対立から議論は紛糾したが、シュバール党連邦議長は留任。
02/15:
・ソ連軍、アフガニスタンからの撤退を完了する。
02/16:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国の首都リュブリャナで、「スロヴェニア社会民主同盟」が結成大会を開き、およそ1000名が参加。「スロヴェニア社会民主同盟」は、複数政党制への「平和的な移行」を活動目標に掲げる。
02/17:
・ユーゴ連邦セルビア共和国政府が自治州の権限を縮小する憲法改正案をまとめ、コソヴォ自治州議会に承認を求める。
02/20:
・セルビア共和国コソヴォ自治州ミトロヴィツァのトレプツァ亜鉛鉱山で、アルバニア系の労働者1300人が地下1000mの坑道に立てこもり、「1,セルビア共和国が自治州の権限を縮小する憲法の改正に反対する。2,セルビア派のモリナ州党首の辞任を要求する」としてストライキに入る。
・イランのハメネイ大統領がユーゴスラヴィアを訪問し、夕食会で「西側の文化や価値基準に疑問を持ち、独自の文化を目指す国は、常に西側の身勝手な標的にされる」とスピーチ。
02/24:
・シュバール・ユーゴ連邦党議長がトレプツァ亜鉛鉱山の坑内に降りて説得を試みるが、物別れに終わる。
02/25:
・ユーゴ連邦政府、シュバール議長の説得が不調に終わったことにより、コソヴォ自治州へ治安警察部隊を派遣すると発表。ディズダレヴィチ・ユーゴ連邦大統領(幹部会議長)は「混乱回避のためには、すべての法的手段をとる」と示唆。
02/26:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のモリナ州共産主義者同盟議長は、「トレプツァ鉱山の労働者は、同日中にストを解いて地上に出てくるだろう」と述べる。トレプツァ亜鉛鉱山でストを行なっている労働者は、医師の呼びかけにもかかわらず「要求を認める保証を文書で受け取らない限り、外に出ない」との声明を出す。
02/27:
・セルビア共和国コソヴォ自治州の首都プリシュティナでは、企業や商店が休業してゼネスト状態となる。学生ら8000人が、プリシュティナのスポーツセンターで座り込みを行なう。
・ユーゴ連邦幹部会はコソヴォ自治州に、「憲法上の秩序と法、声明、財産を守るため」の「特別措置」を発動し、ユーゴ連邦人民軍がコソヴォ自治州の鉱山の町ミトロヴィツァに向かう。
・コソヴォ自治州のモリナ党幹部会議長ら幹部3人が辞任する。
・コソヴォ自治州のトレプツァ鉱山の労働者たちはストを解除し、地上に戻り始める。
02/28:
・セルビア共和国の首都ベオグラードで50万のセルビア人市民が、「コソヴォは我々のものだ」などと叫びながら、大規模なデモを行ない、議事堂前の広場に詰めかける。発言を求められたミロシェヴィチ・セルビア共和国共産主義者同盟議長は、「復讐する。鉱山ストを組織したものを探し出し、逮捕する」と演説。
・セルビア人の鉱山労働者が、別の鉱山で座り込みに入る。
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国で、コソヴォ自治州への「特別措置」の発動に反対する集会が開かれる。
・ユーゴスラヴィアの産業都市グラグイェヴァツで、セルビア人の若い男がアルバニア系の母子2人を射殺。男は逮捕され、精神鑑定を受ける。
03/01:
・ユーゴ連邦の臨時議会で、モイソフ連邦幹部会員は「スト側の武装蜂起の計画書を入手した。コソヴォ自治州のアルバニア系のブラシ共産主義者同盟元州党首が首謀者」と、名指しして非難。
03/02:
・ユーゴ連邦警察当局は、ブラシらアルバニア系の有力者4人を、鉱山でのストと反セルビアのデモを組織した容疑で逮捕する。
03/03:
・ユーゴスラヴィアの「ベチェルニエ・ノボスチ」紙は、ユーゴ警察当局がコソヴォ自治州で逮捕したアルバニア系当事者は20人、と報じる。
03/04:
・コソヴォ自治州に「特別措置」が発令され、治安警察が配置される。コソヴォ自治州のアルバニア系住民たちは、口を閉ざす。プリシュティナの学生は、「学生たちの大半は、自治権を確立した現行の74年憲法を支持している。憲法が改正されると、アルバニア語の学校教育も出来なくなるのでは、とみな心配している」と語る。レストランを経営するセルビア人の男性は、「アルバニア系住民はコソヴォを自分たちだけのものにしようとしている。我々を追い出した後は分離独立を狙っているのだ。だが、もう我々は逃げはしない」と語る。
・コソヴォ自治州において、81年にセルビア共和国からの独立を求める暴動が起こって以来、アルバニア系住民の迫害に耐えかねてコソヴォ自治州を去ったセルビア人は5万人に上る。
03/05:
・コソヴォ自治州ミトロビツァ地方検事局は、アゼン・ブラシ元共産主義者同盟州党首ら3人にストを煽ったとして、「反革命」罪が適用されると発表。反革命罪は最も重い刑罰で最高刑は死刑。
03/08:
・コソヴォ自治州のトレプチャ亜鉛鉱山とゴレシュ・マグネシウム鉱山の労働者が再びストに突入する。
・ユーゴ連邦幹部会は緊急会議で、特別労働団を派遣してスト労働者を職場復帰させることを検討。
03/12:
・ユーゴ連邦幹部会は、コソヴォ自治州のストに突入した労働者に対し、国防法に基づく「強制労働令」を布告。
03/13:
・ユーゴ連邦の次期連邦首相のアンテ・マルコヴィチは連邦議会委員会で、次期内閣が思い切った行政機構改革を行ない、閣僚ポストも現行の29から19に削減する方針を明らかにする。
03/16:
・ユーゴ連邦でアンテ・マルコヴィチを新首相とする内閣が発足する。マルコヴィチ新連邦首相は施政方針演説で、「ユーゴの経済危機の解決には、民主的政治の強化が不可欠で、開かれた市場経済政策を大幅に導入する」との方針を明らかにする。
03/23:
・セルビア共和国コソヴォ自治州議会は、厳戒態勢の中、自治州の権限を縮小するセルビア共和国憲法改正案を審議し、賛成多数で可決。この憲法修正によって、コソヴォ自治州は行政権限が縮小される。
・コソヴォ自治州は、この時点で人口180万人、85%がアルバニア系住民で、15%がセルビア人住民などその他の住民。コソヴォ自治州議会もアルバニア系の議員が多数を占めるが、重圧の中で憲法改正に賛成したと見られる。
・コソヴォ自治州のウロシェバツで、州議会が共和国憲法改正案を採択したことに抗議する約1万人のアルバニア系住民が改憲反対のデモを行ない、警官隊と衝突し数人が負傷、100人が逮捕される。コソヴォ自治州の他の町でも、改憲反対デモが発生する。
・コソヴォ自治州共産主義者同盟党委員会は、モリナ州党首ら党幹部3人の辞表について、ストの圧力によるものとして受理を拒否
する。
03/24:
・コソヴォ自治州プリシュティナの南25キロのウロセワクでは2000人の高校生などが街頭に繰り出し、「コソヴォは我々のものだ」と叫んで警官隊に煉瓦や石を投げ、6時間におよぶ騒ぎとなる。プリシュティナの南50キロの町スワレカでは、3000人のアルバニア系住民が改憲反対のデモを行なう。
03/27:
・コソヴォ自治州の憲法改正に抗議するアルバニア系住民のデモはこの日も続き、ポヂュエヴォでデモの規制に当たっていた警官隊に銃撃が浴びせられ、警官1人が死亡。またミトロヴィツァでもデモ隊から警官隊に銃撃があり、警官1人が死亡。警官の死者は2人になる。
・セルビア共和国政府は、コソヴォ自治州に無期限の夜間外出禁止令を出し、さらに、州内の学校、大学、映画館、スポーツ施設を無期限閉鎖するとともに、3人以上の集団行動を禁止する命令を出す。
・ユーゴ国営タンユグ通信は、コソヴォ自治州の少なくとも7つの町で衝突が起き、27日だけでも11人が死亡した、と報じる。またデモ隊側の発砲は路上だけでなく、屋根の上、バルコニー、建物の中からも行なわれており、警官隊はデモ隊の銃撃から防御する場合に限り、銃器類を使用した、と述べる。デモ隊は「明らかに武力衝突を挑発している」とも報じる。
・ベオグラード放送によると、コソヴォ自治州のアルバニア国境に近いズール村で、アルバニア系住民2~300人が警察署を襲撃し、警官隊との攻防の中で住民側の1人が死亡し、14人が負傷。
・未確認情報によると、プリシュティナの発電所の管制センターをアルバニア系労働者が占拠する。
03/28:
・セルビア共和国議会は、コソヴォ自治州およびヴォイヴォディナ自治州の権限縮小を内容とする憲法改正を、両州議会で可決されたのを受け、満場一致で採択し、正式に宣言する。
・ユーゴ連邦政府の内務省は、コソヴォ自治州における警官隊とデモの衝突による死者は、アルバニア系住民のデモ側が19人、警官隊が2人の計21人に上ったと発表。
04/02:
・コソヴォ自治州党幹部が記者会見で、コソヴォ自治州の衝突での死者は24人、逮捕者は400人に上った、と答える。プリシュティナ大学の医学部学生3人によると、「若者は整然とデモをしていた。そこに警官隊が襲いかかり、銃撃された。死者は20数人なんてものではない。その数倍はいる」という。さらに、「僕たちはユーゴ連邦からの分離、独立なんか望んでいない。ただ、アルバニア人も他のユーゴスラヴィア人と同じように平等に扱ってほしい。それなのにこんどの憲法改正は全く逆行している」と語る。
・ユーゴ連邦の次期大統領(幹部会議長)に、ヤネス・ドゥルノウシェク連邦議会議長がスロヴェニア共和国の初の幹部会員直接選挙により決まる。
04/10:
・ユーゴ連邦政府による「特別措置」で閉鎖されていた、コソヴォ自治州の学校、大学、スポーツクラブなどが再開される。コソヴォ自治州全体も厳重な警察のパトロールの下、表面上は平静さを取り戻す。
05/08:
・セルビア共和国の大統領(幹部会議長)に、スロボダン・ミロシェヴィチが選出される。
05/15:
・ユーゴスラヴィア連邦大統領(幹部会議長)にヤネス・ドゥルノウシェクが就任。ドゥルノウシェクはスロヴェニア共和国の連邦幹部会員に選出されたばかりの39歳の経済人。連邦大統領(幹部会議長)の任期は、6共和国2自治州に共産主義者同盟議長を加えた輪番制で、それぞれ1年。
05/30:
・コソヴォ自治州のボデュエヴォで、およそ100人のアルバニア系住民のデモと警官隊が衝突して銃撃戦が起き、アルバニア系住民1人が死亡し、数人が負傷する。
・コソヴォ自治州のプリシュティナ大学周辺には学生約2000人が集まり、3月の民族暴動で逮捕された人たちの釈放を訴える。
06/01:
・欧州議会の人権侵害に関する実情調査団は、コソヴォ紛争に関するアルバニア系指導者や住民からの事情調査をユーゴ連邦当局から妨害されたことを不服とし、予定を切り上げて帰国。
06/15:
・ユーゴ連邦議会は、国内での原子力発電所の建設を禁止する法案を正式に採択。ユーゴ連邦政府は、2000年までに数基の原子力発電所を建設する計画を公表していた。
06/28:
・コソヴォ・ポーリェ600周年祭(オスマン帝国と戦って敗れた日)が、開催される。
・ミロシェヴィチ・セルビア大統領は周年祭に際する短い演説をする。要旨;「6世紀後の今日、私たちは再び戦いの中にあり、また戦いの前にある。それらは、武装したものではないが、かかるものもまだ排除されていない。しかしどのようなものであれ、これらの戦いは、決意、勇気、そして犠牲なしに勝ち取ることは出来ない。往昔コソヴォ・ポーリェにあったあの美徳なしには。私たちの今日の主要な戦いは、経済的、政治的、文化的、そして一般に社会的繁栄を実現することに関わる。21世紀に人々が生活するであろう文明により早く、より成功裏に接近するためである。そんな戦いのために英雄精神がとりわけ必要である。もちろん違った何かではあるが」と。
註;コソヴォ・ポーリェの戦い600周年祭とは、14世紀にオスマン帝国がヨーロッパの支配を目指してバルカンに侵攻して来た。それを迎え撃ったキリスト教徒軍は、セルビアのラザール大公を総大将としてボスニア、クロアチア、アルバニア、ブルガリア、ハンガリーの連合軍がコソヴォ・ポーリェで決戦を挑んだが、1389年6月28日に敗北した。この屈辱の日を「聖ヴィドの日」として記念することが、セルビアの民族的、宗教的行事となった。欧米諸国とバチカン公国の外交官は、この祝祭に招待されたのだが、拒否して出席しなかった。後にツィンマーマン駐ユーゴ米大使は、「ミロシェヴィチは、彼の演説の中でコソヴォのアルバニア系200万人に対して直接に言及しなかった。それ自体一種の侮辱である。彼は戦争の亡霊を呼び起こしてしまった」とミロシェヴィチの演説の一部を引用して非難した。
08/28:
・セルビアの検察当局は、コソヴォ自治州の紛争の指導者として逮捕した同州の共産主義者同盟州委員会のアゼン・ブラシ元代表ら15人を、反革命の罪で起訴。
09/01:
・第9回非同盟諸国外相会議がベオグラードで開かれる。
・非同盟諸国外相会議は、ユーゴ連邦が準備した「政治宣言」に関し、キューバなど急進国が「ニカラグア、パレスチナ、南アフリカなどの現状を見れば、反帝国主義、反植民地主義を挿入すべきだ」と主張し、ユーゴ連邦などの穏健国と対立する。
09/04:
・第9回非同盟諸国首脳会議・NAMが、セルビアのベオグラードの国際会議場「サバ・センター」で開幕し、102ヵ国が参加。
ドゥルノウシェク・ユーゴ連邦大統領は会議の議長就任挨拶で、「世界の嵐のような劇的な変化に立ち後れぬよう、非同盟諸国は共同の作業を行なっていかなければならない」と述べる。
・ガンジー・インド首相は、「地球保護基金・PPF」の創設を提唱する。
09/08:
・第9回非同盟諸国首脳会議は、「ベオグラード宣言」および「政治・経済文書」を採択して閉幕。
「ベオグラード宣言」 ;「1,完全軍縮、特に大量破壊兵器の軍縮は緊急課題である。2,巨大な軍事支出と深刻な貧困には相互関係がある。3,軍事ブロック間の対立を減少させる。4,地域紛争は外部勢力の影響、介入で悪化した。5,新経剤秩序は依然困難だが、有効である。6,環境悪化は、先進国が原因者である。7,アパルトヘイト撤廃を目指し、経済制裁を強める。8,テロ・麻薬に対する戦いを進める」。
「非同盟の運動 ;①永続的、安定的平和の達成まで、平和、軍縮、平和的手段による論争の決着に向けた努力を継続する。②経済的分野で先進社会と建設的、生産的な対話を継続させる。③植民地や外国の支配下に住む人々の自決権と独立権を支持する。④個人の市民的、政治的、経済的、社会的、文化的諸権利を享受する権利が非同盟運動を鼓舞する源泉である」。
「政治文書」 「安全保障と軍縮・米ソ両国による史上初の中距離核戦力全廃条約を、完全軍縮への第1歩としてとして歓迎する」。
「中南米・ カリブ、中米首脳の和平合意、とりわけ最近のテラ合意を支持し、恒久的和平達成の努力継続を呼びかける」。
「南アフリカ ・南ア政府が89年9月に実施した人種差別選挙を強く非難する。南ア人民の解放闘争を支持する」。
「パレスチナ問題 ・イスラエル占領地のパレスチナ人によるインティファーダに連帯と支援をする」。
「アフガニスタン ・ソ連軍の撤退完了を歓迎する。アフガン難民の安全な自発的帰国の条件つくりの必要性を強調する」。
「経済文書」 「債務・公的債務は債権国政府、国際金融機関の直接的関与、民間債務は債権国の金融制度の大変革が必要である」。
「開発資金 ・先進国の政府援助は公約の0.7%に達していない。対外貿易黒字の大きい先進国からの投資を促す」。
「南北サミット ・国際経済について、首脳レベルでの南北協議を定期的に行なうことが必要である」。
「南南協力 ・途上国間の経済協力を推し進める。協力は非同盟諸国だけでなく途上国とも行なう」。
「最貧国 ・1次産品価格の低下と累積債務で、最貧国の発展が阻害されている。先進国は、GNPの0.15%を最貧国援助に回すべきである」。
「環境 ・環境悪化が途上国で顕著なのは貧困が原因である。環境保護を考慮した開発戦略を採用するが、決定権は各国が持つ」。
09/15:
・スロヴェニア共和国議会小委員会は、ユーゴ連邦からの離脱権の明記、などを内容とする共和国憲法修正案を採択。修正案は、「離脱権の他、経済、政治上の主権、民族自決権を認めること」などを盛り込む。
註;スロヴェニア共和国は人口190万人、一人当たりの国民総生産は6129ドル、クロアチアのおよそ2倍で最低のコソヴォ自治州の8倍になる。失業率は2~3%で、ユーゴ全体の15~17%に比較すると極めて経済は好調である。ただし、連邦予算の15%を負担している。ユーゴ全体の89年のインフレ率は、1200%。
09/26:
・ユーゴ連邦党中央委員会は緊急委員会を開き、スロヴェニアの憲法修正の動きに対して激しい議論を展開した結果、修正案の採決を延期するよう求める呼びかけを、賛成97,反対40で採択。
・セルビアの在郷軍人会は、「スロヴェニア共和国に対する非常事態の適用と責任者の逮捕」を要求。
09/27:
・スロヴェニア共和国議会は、ユーゴ連邦政府の「連邦憲法に違反する」との警告にもかかわらず、憲法修正案を審議し、賛成246,反対1,棄権1の圧倒的多数で「憲法修正案」を原案通り採択。
09/29:
・ユーゴ連邦幹部会は、スロヴェニア共和国憲法修正などへの抗議集会などに対し、「自粛令」を出す。
09/30:
・スロヴェニア共和国のロカル党中委員会幹部会執行書記は、「共和国憲法修正の意図は、ユーゴ連邦からの離脱を目指すものではない。これからもスロヴェニアが経済先進地域として機関車の役割を果たし、他の後進地域を引っ張っていく必要がある」と述べる。
・ユーゴ連邦議会連邦院は連邦憲法裁判所に対し、スロヴェニア共和国修正憲法とともに共和国および自治州の憲法すべてについて、連邦憲法に違反していないかを審査するよう要請。
10/02:
・スロヴェニア共和国のリュブリャナで、「国際見本市」が開かれる。
10/23:
・ユーゴ連邦のロンチャル外相が、日本外務省の招きで来日。ロンチャル外相は、「ソ連のペレストロイカは遅すぎた。ユーゴ連邦は米・ソの緊張緩和を背景とする民主化の動きを先取りしてきた」と表明。ユーゴスラヴィアの市場経済と社会主義との関係については、「自主管理は経済改革、市場経済を必要とすることを認識させた。ただ、経済、社会、政治の諸分野で適切な仕組みに欠けていたかも知れない。民族主義が一時的に興るのは避けられない。世界経済構造は、あらゆる点で転換を迫られている。その前提として世界経済は一つとの認識も必要だ」と述べる。
10/25:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟は、90年1月の党大会の政治改革決議案の草案を公表。草案によると、「1,結社の自由、政治的複数主義、個人の諸権利と自由、自由で民主的な選挙、司法の独立、政治組織や労組の結成権の保証。2,すべての組織は共産党が指導する統一戦線組織、社会主義勤労人民同盟の枠内で活動するとの方針を改め、制限の解除の提案」を導入しているが、共産党に対抗する勢力としての政党は認めない、となっている。
10/30:
・セルビア共和国コソヴォ自治州の紛争を指導したとして「反革命罪」に問われているアゼン・ブラシ共産主義者同盟州委員会代表ら15人に対する裁判が、ティトバ・ミトロヴィツァ地方裁判所で始まる。ブラシ被告は「私は巧妙に仕組まれた罠の犠牲者であり、これは明らかな政治的裁判だ」と述べ、憲法改正を推進したセルビア共和国政府と党指導部を激しく非難する。
11/01:
・セルビア共和国コソヴォ自治州プリシュティナで、「反革命罪」に問われた裁判に抗議するアルバニア系住民の集会とデモが警官隊と衝突し、1人が射殺される。
11/02:
・コソヴォ自治州プリシュティナでは、「反革命罪」裁判に抗議するアルバニア系住民による集会とデモ隊が警官隊と衝突し、銃撃戦を展開して4人が射殺される。
11/09:
・東ドイツのベルリンに設置された検問所が開放される。東ドイツ人数万人が雪崩をうって西ベルリンへ入る。
11/11:
・マケドニア共和国で、複数政党制による初の共和国議会選挙が実施される。定数120議席のうち、民族主義政党の「内部マケドニア革命組織・VMRO―マケドニア国民統一党が38議席で第1党に躍進し、マケドニア共産主義者同盟は30議席にとどまる。
11/17:
・ユーゴスラヴィアのベオグラードの南200キロにある、アレクシナチ・ルドニチ炭鉱でガス爆発が起こり、90人が閉じこめられる。
11/18:
・ユーゴ連邦のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国は、共和国議会議員の初の複数政党制による自由選挙の第1回投票を行なう。共産主義者同盟系の候補者は21日の中間発表で、1議席も獲得できず。ムスリム人の「民主行動党」やクロアチア人の「クロアチア民主同盟」、セルビア人の「セルビア民主党」などの民族主義政党がそれぞれ多数の議席を獲得する。
11/00:
・米連邦上院は、コソヴォ自治州の「アルバニア人の権利擁護」の決議を採択する。
12/10:
・チェコスロヴァキアで政変が起こり、グスタフ・フサーク大統領が辞任し、ヴァーツラフ・ハヴェルらが結成した「市民フォーラム」が政権を掌握する。
12/13:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国の共産主義者同盟はザグレブで大会を開き、複数政党制を導入し、来年4月に自由選挙を行なうことを決定。
12/23:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のアルバニア系住民のコソヴォ作家同盟議長のイブラヒム・ルゴヴァおよびB・ブコシらが、「コソヴォ民主同盟・LDK」を結成する。
12/25:
・ルーマニアで政変が起こり、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が即決裁判で銃殺刑に処せられる。
12/26:
・ユーゴ連邦共産主義者同盟中央委員会は、「一党独裁の放棄」を来年1月に首都ベオグラードで開かれる大会に諮ることを決める。コロシェツ幹部会書記は、「党は対等な政治パートナーと競争する準備が出来ている。社会主義の恩恵を捨てず、むしろ堅持し、発展させるための改革に取りかかる」と述べる。
・東欧の社会主義政権は、雪崩を打つように崩壊する。
・ユーゴ連邦共産主義者同盟中央委員会総会は、共産党一党独裁を放棄する方針を決定する。
1989/00/00:
・クロアチア民族主義者のフラニョ・トゥジマンは、クロアチア人ディアスポラの資金援助を受けて「クロアチア民主同盟」を創設に参画する。
註;アンテ・マルコヴィチ連邦首相は、組閣すると直ちに世界銀行の指導の下に新自由主義的経済体制を取り入れた構造改革に取り組み、規制改革、公営企業の民営化 、緊縮財政に係わる法律を施行した。
・ユーゴ連邦で新しく施行された法律
「義務的和議・破産・精算に関する法」;西側債権団の管理を保証する安定装置として機能する法を施行する。
「外国人投資法」;外国資本が産業・金融・保険・サービス部門に無制限に投資することができるとする法を施行する。
「金融関係法」;非採算部門の組合銀行の整理と閉鎖を実施する法を施行する。この法律により、全銀行の半数が閉鎖される。代替銀行として営利を目的とする銀行が設立される。
「金融運用法」;企業活動の均等性と透明性を保証し、債務履行能力がない企業を破産させる。破産企業は労働者を解雇する場合、解雇手当を支給しなくても良い、とする法を施行。
マルコヴィチ首相の構造改革によって、89年の1年間に248の企業が破産。8万9400人の労働者が解雇された。
・80年代:
コソヴォ自治州からアルバニア系住民に追い出されたセルビア人は、10万人に上る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1990年
01/19:
・ユーゴスラヴィア共産主義者同盟党中央委員会は総会を開き、スロヴェニア共和国の党が、「民主集中制の党規約からの削除、および共和国・自治州の緩やかな連合体に改めること」を求めていることをめぐってセルビア共和国の党と対立する。スロヴェニアは4月に自由選挙を実施する計画を立てており、その実現への焦りがあるものと見られている。
01/20:
・ユーゴ共産主義者同盟の党大会がベオグラードで開幕。ミラン・パンチェフスキー党中央委員会幹部会議長が基調報告で、「社会主義発展の歴史的段階は終わった。今や新しい道を切り開くときに来ている」と強調。党は「前衛制、独占的地位から決別し、党と国家を分離する方針」を明らかにする。さらに、「政治的多元主義と自由選挙に基づく政治形態と経済面での市場指向を目指し、ユーゴスラヴィアが欧州共同体、欧州会議、欧州自由連合などの諸組織、機関に加わることを支持する」と述べる。
01/21:
・ユーゴ共産主義者同盟の党大会は2日目を迎え、一党支配の決別を謳った「宣言」や「改革案」をめぐって改革派のスロヴェニアとセルビアとの間で鋭く対立し、スロヴェニアの大半の代議員が退席して大会をボイコットする。
01/22:
・ユーゴ共産主義者同盟の党大会は3日目を迎え、一党支配からの決別を謳った党宣言を提案。党宣言の内容;「1,一党支配から結社の自由の多元的政治体制へ。2,自主管理型社会主義経済から市場指向型経済へ。3,非同盟路線から、それを維持しつつ欧州統合への参加をめざす。4,あらゆる政治団体が今後は独自の候補を指名し、等しい条件下で選挙に加わる」との宣言。スロヴェニア抜きの採決が提案されたが、議長が中断を提案。
01/23:
・ユーゴスラヴィアのスロヴェニア共産主義者同盟は、リュブリャナに戻って党大会を開き、ボイコットは正しかったことを確認するとともに、今後の方針を決めるまで「党中央との関係を凍結する」と発表。
01/24:
・ユーゴ連邦セルビア共和国のコソヴォ自治州のプリシュティナで、セルビアからの独立を求めるアルバニア系住民4万人がデモ行進し、当局に要求を突きつける。要求要旨;「1,昨年以来の非常措置の撤廃。2,自治州の独立。3,反革命容疑で裁判中のブラシ元州党首らの釈放。4,26日までに治安部隊の撤収を要求する。5,受け入れられなければゼネストに突入する」。デモはコソヴォ自治州の各地で行なわれ、ユーゴ連邦の治安部隊と激しく衝突する。
01/27:
・セルビア共和国コソヴォ自治州の各地でアルバニア系住民が自治権拡大を求めてデモ行進し、暴動に発展。警官隊がデモ隊に発砲し、少なくとも10人が死亡。
01/31:
・セルビア共和国コソヴォ自治州では、アルバニア系住民が自治権拡大を求め、プリシュティナ、ウロシェヴァツ、マリシェヴォ、オラホヴァツなどで行なわれている抗議行動が2週目に入り、鎮圧する警官隊との間で激しい衝突を繰り返し、3人が死亡。一方、セルビアのベオグラードやモンテネグロのチトーグラードでは、セルビア人住民がアルバニア系のデモを鎮圧せよとのデモが起こる。
01/00:
・ユーゴ連邦において、IMF改革バケット(経済改革と構造調整プログラム)が始動する。マルコヴィチ首相の経済改革により「1,財政引き締め、税収の世界銀行への利息支払いへの転用。2,IMFがGDPの5%に該当する財政削減を要求。3,89年11月水準での賃金凍結。4,IMFの短期融資制度・SBAに関する協約と世銀の構造調整借款・SALⅡを条件とする経済改革を実施。5,ユーゴ連邦政府、各共和国および自治州政府への交付金の停止」などに取り組む。
02/01:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のアルバニア系住民の自治権拡大要求のデモは、プリシュティナで治安部隊と銃撃戦を展開し、住民3人が死亡。ユーゴ連邦政府はプリシュティナ周辺に連邦人民軍をを投入。アルバニア系労働党傘下の民主戦線は、「コソヴォ自治州のアルバニア系住民に対する治安当局の血の弾圧は、全アルバニア国民を憤激させている」とユーゴ当局を非難。
02/02:
・コソヴォ自治州では、セルビア治安当局との衝突で死亡したアルバニア系住民の葬列が続き、報復を恐れた少数派のセルビア人住民の避難が目立つ。
02/04:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国では、リュブリャナで党の全国協議会を開き、ユーゴ共産主義者同盟の大会をボイコットした経緯を報告し、今後の進路について協議。「スロヴェニア党」が連邦党から正式に脱退し、「民主再生党」と党名を変更して民主社会主義路線を進むことを決める。
02/16:
・ユーゴ連邦セルビア共和国コソヴォ自治州のアルバニア系住民は、自治権拡大を求めてデモを行ない、警察隊と衝突してアルバニア系住民1人が死亡し、警官25人が負傷する。
02/20:
・セルビア共和国コソヴォ自治州のアルバニア系住民が自治権拡大を求めてデモを行い、警官隊と衝突して警官隊がアルバニア系住民1人を射殺。
02/21:
・ユーゴ連邦当局は、コソヴォ自治州に示威を目的とする行動や集会を禁止し、夜間外出禁止令を布告する。
02/24:
・クロアチア民主同盟・HDZは第一回党大会を開く。最高指導者フラニョ・トゥジマンは、「クロアチア独立国は単なるキスリング的産物やファシスト的犯罪ではなく、クロアチア人民の自分たちの自立した国家を持ちたいという歴史的抱負の表現であり、国際的承認を得たものである」と演説。
註・キスリング的産物とは、戦いを好むという意味で用いられる。
02/26:
・ユーゴ連邦政府は、マルコヴィチ連邦内閣が打ち出した市場志向型経済政策の一環として証券取引所をベオグラードに開設する。取引所は4つの銀行によって設立・運営され、当面は国債のみを扱うが、将来は私企業の株式も扱う。今年中にリュブリャナ、ザグレブにも開設する予定。
03/08:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国議会は「連邦法の規定があるにせよ、経済的自衛の措置を独自に取る」とした経済面での独立を宣言。ユーゴ連邦とセルビア共和国との財政負担についても「独自の決定を行なう」と、財政面での独立の方針を決める。
03/18:
・東ドイツで初めての自由選挙が行なわれ、東西ドイツの早期統一を掲げた「ドイツ同盟」が圧勝する。
03/30:
・ユーゴ共産主義者同盟の中央委員会総会が開かれる。スロヴェニアの党に加えてクロアチアの党も欠席し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの党も途中で退席したため、定足数に達せずに委員会は不成立となる。そのため出席した委員で、全国200万党員に「継続大会についての意見」を求めることを決めて散会する。
04/07:
・ユーゴ共産主義者同盟は、マケドニア、ボスニアの両共和国の党がそれぞれ中央委員会を開き、スロヴェニアの党の離脱をきっかけに党が内部崩壊の混乱に陥っている責任を問い、パンチェフスキー連邦党幹部会議長の辞任と全幹部会員の退陣を決める。ボスニアの党幹部会は、ボスニア幹部会員の引き揚げも決める。
04/08:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国議会は、複数政党制による初めての自由選挙を実施する。野党連合・DEMOSが47議席を獲得し、共産主義者同盟の後継政党は敗北する。
04/22:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国議会選挙の初の複数政党制による自由選挙で、第1回投票が行なわれる。地域院・116,社会政治院・80、連合労働院・160の合計議席定数・356。
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国幹部会議長選挙は決選投票を行ない、「スロヴェニア民主同盟」を結成したミラン・クチャンが当選する。
04/27:
・スロヴェニア共和国の議会選挙は、第1回投票で民族主義政党の「クロアチア民主同盟」が79%の票を獲得し、131選挙区のうち104選挙区で勝利する。第2回選挙でも趨勢は変わらない模様。
05/06:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国において議会選挙が行なわれ、トゥジマン率いるクロアチア民主同盟・HDZが大勝する。「クロアチア民主同盟・HDZ」は、議席数351の内、投票数の58.7%を占め、206議席を獲得する。共産主義者同盟の後継政党の共産党は73議席、統一リストの共産党・社会主義者同盟は17議席、社会主義者同盟は3議席に激減する。
05/16:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国、先月の議会選挙で勝利した野党連合・DEMOSによる初の非共産系政権が成立し、共和国首相にキリスト教民主党のペテレ党首が選出される。ペテレ・スロヴェニア共和国首相は「現在の連邦体制を見直し、より緩やかな国家連合への移行を推進する」と語る。ヤニェス・ヤンシャが国防相に就任。
05/30:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国新議会によって、共和国幹部会議長(大統領)は民族主義者のHDZ党首のトゥジマンが選出される。民族主義政党「クロアチア民主同盟・HDZ」による政権が成立する。
・トゥジマン・クロアチア新共和国幹部会議長(大統領)はユーゴ連邦体制について、「国家連合の場合のみ、クロアチアは満足できる」と語り、10項目の課題を掲げる。「1,クロアチア共和国の新憲法の制定。2,連邦におけるクロアチアの憲法的地位の調整。3,クロアチアのヨーロッパへの仲間入り。4,クロアチア国内のヨーロッパ化。5,法治国家の確立。6,国家行政の近代化。7,所有関係の変革。8,経済における迅速な変革。9,人口の回復。10,移出民の帰還と再定住」の10項目。
・クロアチアの首都ザグレブの共和国広場には数万のクロアチア人が集まり、そこに中世クロアチアの騎馬兵が先導した大統領に選出されたばかりのトゥジマンが現れる。壇上にはカトリック大司教とイスラム教会の最高指導者が並ぶというようにして式典が始められる。
05/00:
・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の世論調査では、ユーゴ連邦枠内に存続するボスニアに賛成する割合が94%を占める。
06/12:
・ボスニア憲法裁判所は、民族主義政党の結成を禁じる法律の規定を違憲とする判決を出す。
06/21:
・ユーゴ連邦セルビア共和国政府は、コソヴォ自治州議会を閉鎖する。
06/00:
・ユーゴ連邦政府は保険および金融事情の回復のための連邦機構を設立し、銀行の民営化を促進する。
07/02:
・ユーゴ連邦セルビア共和国は、コソヴォ自治州の権限を地方自治体なみに縮小する内容の新憲法制定の国民投票を実施し、96.8%の賛成を得る。
・セルビア共和国コソヴォ自治州議会のアルバニア系議員は新憲法に反発し、コソヴォを共和国としてセルビア共和国から独立するとの宣言を議場で行なおうと試みたが、入ることを阻止されたために議場前で独立を宣言する。
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国議会は、「完全主権」宣言を満場一致で採択する。完全主権とは、連邦法から独立した法体系の制定、スロヴェニア領土にある軍隊の指揮・監督権がスロヴェニアにあるとする内容などを含む。12ヵ月以内の新憲法制定を規定。
07/05:
・ユーゴ連邦セルビア共和国当局は、セルビア議会の3院合同で議決した「コソヴォ自治州政府と議会の即時解散」を命令。この命令に抗議して、コソヴォ自治州では毎朝9時から10時までの1時間、商店やオフィスが活動を停止する。
・スロボダン・ミロシェヴィチがセルビア共和国幹部会議長(大統領)となる。
07/16:
・セルビア共産主義者同盟はセルビア社会主義勤労人民同盟と合同大会を開き、合併して「セルビア社会党」となる。
07/25:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国は憲法の改訂を行ない、国名と国旗を変更する。国名は「クロアチア社会主義共和国」から社会主義を外して「クロアチア共和国」とし、国旗は全体のデザインを「クロアチア・スラヴォニア・ダルマツィア」の3地方を統合する意味を表す3色を配し、その中央に第2次大戦時のファシスト政権「クロアチア独立国」を表す市松模様をはめ込んだものとなる。
・クロアチア共和国内のセルビア人住民は、クロアチア憲法が規定した「クロアチア民族主義」色を濃厚にした国名と国旗に表された意図に反発。自治権確立を求めるために「セルビア国民会議」を設立し、8月19日に住民投票を実施すると決定する。
・ユーゴ連邦セルビア共和国当局から解任されたコソヴォ自治州のアルバニア系議員がカチャニクに集まり、秘密裏に「コソヴォ共和国憲法」 を採択する。アルバニア系議員たちは、コソヴォ自治州議会前で独立宣言書を読み上げる。
08/17:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国政府当局は、セルビア人の住民投票の禁止通告を出す。
・クロアチアのクニン市などセルビア人住民が多数居住する数都市でデモや集会が行なわれ、クロアチア警察部隊と衝突する。
・クロアチア共和国の治安部隊は、ユーゴ連邦人民軍の予備役の武器庫を押収し、それを阻止しようとしたセルビア人住民との間で衝突が起こる。
08/19:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国のセルビア人住民はクロアチア政府当局が出した禁止令を無視し、自治権確保の是非を問うセルビア人民だけの住民投票を強行する。投票の結果は、自治区の設立に賛成する票が99.9%の高率となる。
09/19:
・ユーゴ連邦幹部会は今後のユーゴスラヴィアの体制について、コソヴォ自治州を除く全共和国・自治州指導部と意見を交換した結果を連邦議会に報告。報告要旨;「1,すべての共和国がユーゴ連邦の枠内に残ることを希望する。2,将来体制についてはスロヴェニアおよびクロアチア両共和国がより緩やかな『国家連合』を主張し、セルビアなど残りの共和国は今の連邦体制を部分的に手直しした『近代的連邦制』を支持する。3,連邦または国家連合で行なう中央政府は国防、公安、外交、一定の経済機能などに限定される。4,連邦からの離脱問題については、すべての民族は主権の表現として離脱権を含む民族自決権を持つことから、将来の憲法体制に同意しない者には離脱権の行使を可能にすべきという点で一致。5,幹部会として公式に『離脱権の行使』に反対しない」との立場を示す。
09/21:
・ユーゴ連邦セルビア共和国治安当局は、コソヴォ自治州ユスフ・ゼイヌラフ元首相ら先に解任された自治政府の元閣僚6人を含むアルバニア系住民の指導者7人を逮捕する。
09/00:
・世界銀行は、ユーゴ連邦の企業7531の内、2435社は不健全企業と推定し、即刻破産手続きに従って処理しなければならないと指摘。
・IMFの構造調整プログラムが適用された結果、90年に入って9ヵ月の間に889の企業が破産し、52万5000人の労働者が解雇される。大規模破産はセルビア、ボスニア、マケドニア、コソヴォで発生する。
10/01:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国の少数派のセルビア人住民の「セルビア国民会議」が自治を宣言し、自治区と外部に通じる道路
にバリケードを築く。
・クロアチア共和国の治安部隊は、セルビア人住民が多い都市の武器庫から予備役用の武器を押収する。これに反発したセルビア人住民が武器庫や警察署に押し掛け、ペトリニャ市では数千人が治安部隊と対峙し、ドボール市ではセルビア人住民が警察署から武器、弾薬を奪取する騒ぎとなる。これ以来、ベンコヴァツ、クニン、ペトリニャ、プリトヴィツェ、パクラッツなどの各地でもクロアチア警察部隊および内務省部隊とセルビア人住民との間で武力衝突が頻発する。
10/03:
・東・西ドイツの「統一条約」が発効し、ドイツ連邦共和国となる。
11/11:
・ユーゴ連邦マケドニア共和国で複数政党制による初の議会選挙が行なわれる。定数120議席のうち、民族主義政党の「内部マケドニア革命組織・VMRO-マケドニア国民統一党」が38議席で第1党に進出し、マケドニア共産主義者同盟は30議席を獲得するにとどまる。
11/14:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国指導部が共和国議会の与党指導部と会合を持ち、来年早々にユーゴ連邦から独立するか否かの国民投票を行なうことで合意する。
11/18:
・ユーゴ連邦ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の複数政党制による初の議会選挙が実施され、第1回投票が行なわれる。
11/19:
・全欧安保協力会議・CSCEがパリで開かれ、34ヵ国が参加。「パリ憲章」は「欧州の対立と分断の時代は、終わった」と宣言。
45年続いたヨーロッパの冷戦・戦後体制の終焉を確認する。
11/21:
・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国議会(定数240議席)の複数政党制による初の選挙の最終結果は、定数240議席の内ムスリム人の「ボスニア民主行動党」が86議席、セルビア人の「セルビア民主党」が71議席、クロアチア人の「クロアチア民主同盟」が45議席など、いずれも民族主義政党が共和国内のそれぞれの民族の割合を反映した形となる。非民族主義政党の共産主義者同盟系の社会民主党は19議席、ユーゴ改革勢力同盟は13議席、その他6議席となる。
12/02:
・ユーゴ連邦のカディエヴィチ国防相はセルビア共和国テレビのインタビューで、「連邦人民軍は社会主義と連邦制を支持する。共和国軍の設立はユーゴ連邦の安定にとって脅威であり、連邦人民軍はそのような軍隊ができれば武装解除するだろう。外国軍の介入は侵略と見なし反撃する。連邦人民軍の脱政治化を推進する」と述べる。
12/06:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国政府のミラン・クチャン幹部会議長(大統領)は、「ユーゴ連邦政府の政治・経済改革が遅く、ユーゴ連邦の経済は混沌とした状況に陥っている。連邦内の民族対立が国際世論の間に不安感をもたらしているために、独立の動きを早める必要がある」として、スロヴェニア共和国議会に独立に関する国民投票の実施を、今月12月23日に行なうことを提案。賛成が過半数を獲得すれば、6ヵ月の猶予期間を経て分離独立を有効とするというもの。スロヴェニア共和国議会は、クチャン幹部会議長の提案を、賛成207,反対0、棄権4の圧倒的多数で可決する。
・ユーゴ連邦政府のマルコヴィチ首相は、各共和国が連邦内にとどまって改革を進めるように主張。
・カディエヴィチ連邦国防相は、「連邦人民軍は連邦制を支持する」と表明。
12/09:
・ユーゴ連邦セルビア共和国は、複数政党制による初の大統領選挙と議会選挙を実施する。セルビア共和国大統領選の立候補者は32人、議会選挙には44の政党が1705人の候補者を立てる。コソヴォ自治州のアルバニア系住民がボイコットしたため、当選に必要な有権者の過半数に満たない選挙区があり、第2回投票を実施する選挙区が出る模様。第1回投票で共産主義者同盟系のセルビア社会党が87議席を獲得する。
・ユーゴ連邦モンテネグロ共和国は、複数政党制による初の議会選と大統領選を実施し、ブラトヴィチ共産主義者同盟幹部会議長と共産主義者同盟がリードする。
12/12:
・ユーゴ連邦セルビア共和国大統領選挙は、セルビア社会党議長のミロシェヴィチが65.34%の得票で当選する。議会選挙ではセルビア社会党が45.84%の票を獲得し、第1党を占める。
12/14:
・ユーゴスラヴィアの作家ドブリツァ・チョシッチは、「ユーゴスラヴィアは存亡の危機に直面している。民族的権利は市民的権利の一部であることを認識すべきだ。民族的な国家を目指す戦いを、民主主義的な闘いに変えなければならない」と語る。
12/21:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国議会は、新憲法案の議決を採択する。
・クロアチア共和国のセルビア人住民は、「クライナ・セルビア自治区」創設を宣言する。クロアチア共和国でセルビア人自治区を主張した地区のセルビア人の占める割合は、クライナ地方のリカ地域が74%、コルドゥ・バンニャ地域が9%、西スラボニア地方は38%、バラニャ地方は25.5%、西スレム地方は20%
12/22:
・ユーゴ連邦クロアチア共和国は議会の決議に基づき、新憲法の発効を宣言する。新憲法は140章からなり、「1,共和国の領土、政治、経済、天然資源その他すべてがクロアチアの主権に属する。2,クロアチアはクロアチア人その他の民族による民主的統一国家である。3,行政、立法、司法は3権分立とする。4,政党は複数政党制とする。5,クロアチア共和国の軍隊はその主権と独立領土を防衛する。防衛手段は法によって定める。6,言語はクロアチア語をアルファベット表記とする。7,経済は市場経済システムに基づき、外国企業にも門戸を広く開放する。8,独占は禁止する。9,外交は、大統領が共和国を代表する。10,同盟関係または分離に関する決定は、国会の3分の2の賛成、あるいは国民投票で有権者の過半数によって決定される。11,クロアチア共和国は、ユーゴスラヴィアとの関係を連邦制国家ではなく、連合国家の形態とする。12,クロアチア共和国は、クロアチア議会が決定を下すまではユーゴ連邦にとどまる」などが規定されている。
12/23:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国は、マスコミが煽る中、分離独立を問う国民投票を実施。国民投票の結果、国家連合として連邦に留まるかどうかは6ヵ月の移行期間内に連邦政府やその他の共和国と交渉することになる。
・ユーゴ連邦セルビア共和国議会選挙は、第2回投票を実施。非公式集計によると、定数250のうち確定した96選挙区で、共産主義者同盟系のセルビア社会党が56議席を獲得し、第1回分を加えると143議席を獲得することになる。
12/24:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国の分離独立をめぐる国民投票は、独立賛成が88.2%占める。
・ユーゴ連邦政府と連邦幹部会および連邦議会は、スロヴェニアの国民投票による独立の意思表示を、「憲法違反であり、受け入れられない」と警告。
・ユーゴ連邦政府は、スロヴェニア共和国の徴兵局を連邦の管理下に移すことを決める。
・ユーゴ国営タンユグ通信は、セルビア共和国議会選挙の第2回投票結果は96選挙区でセルビア社会党が56議席を獲得し、第1回投票による獲得議席87を加えると過半数を超える、と伝える。
12/25:
・ユーゴ連邦のセルビア共和国議会選挙の2回目の投票結果は、セルビア社会党が77%を得票し、250議席中194議席を獲得。セルビア再生運動などの民族主義野党連合は48議席しか取れず、残り8議席は無所属。
・ユーゴ連邦モンテネグロ共和国議会選挙も第2回投票を実施し、モンテネグロ共産主義者同盟が圧倒的な勝利を収め、民族主義政党を寄せ付けず。
註;セルビア共和国とモンテネグロ共和国の選挙が終わったことで、ユーゴ連邦内の複数政党制による議会選挙は全て終了する。スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの議会選挙では、すべて民族主義政党が第1党となる。
12/26:
・ユーゴ連邦スロヴェニア共和国議会は、独立に関する国民投票で賛成票が88.5%だったと公式結果を発表し、「共和国民の意思として独立が表明された」ことを公表。
12/27:
・ユーゴ連邦幹部会は、ベオグラードで会議を開く。
12/28:
・ユーゴ連邦のマルコヴィチ首相は連邦議会で、政治・経済問題に対する連邦政府の方針を述べるとともに、自由選挙を経た連邦構成6共和国がバラバラな政府を指向し、分離の危機さえいわれている現状に懸念を示し、「我が国が今後も一体となっていくためには、新しい歴史的な合意が各共和国で結ばれる必要がある。新年は経済改革の成否にとってばかりでなく、ユーゴ連邦が生き残れるかどうかの重要な時となる」と共和国間の対話による危機打開を呼びかける。また、マルコヴィチ首相は経済改革の一環として、通貨ディナールをドイツマルクに対し1/7から1/9に切り下げると発表。
12/00:
・米国務省は、ユーゴスラヴィアに対する「民主化プロセス」を作成する。
註;90年、アンテ・マルコヴィチ首相の「親米政府」による経済改革により、工業成長率はマイナス10.6%、国内総生産・GDPはマイナス7.5%となる。この年、889社の企業が倒産プログラムに組み込まれ、52万5000人の従業員が解雇の瀬戸際に立たされる。協同組合銀行の半数が廃業。企業総数7531社のうち、赤字企業は2435社となる。赤字企業の従業員総数は130万人。
・ヘロインルートとして、コソヴォ自治州の中継基地が確立する。ケシの栽培地帯ゴールデン・クレセント(黄金の三角地帯)のイラン・アフガニスタン・パキスタンで生産された麻薬は、トルコで精製され、コソヴォを中継地として年間15億ドルがヨーロッパに持ち込まれる。
・ユーゴ連邦政府は「社会資本法」を制定する。この法律により、公企業が民営化手続きを行なう際、企業の資産を評価する「資産評価と構造調整のための機構」を設置し、公企業を外国資本に門戸開放することになる。
産業生産成長率は66~79年・+7.1%、80~87年・+2.8%、87~88年・0%、90年・-10.6%
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