ユーゴスラヴィア連邦解体戦争・コラム
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(4)事項・事件
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1,* 「ボスニア・スレブレニツァ事件」
2,* 「ボスニア紛争における犠牲者数」
4,* 「ユーゴスラヴィアにおける少数民族・ロマ人・ユダヤ人の被害」
6,* 「強制収容所」
7,* 「サラエヴォ・マルカレ市場事件」
8,* 「パダンテール委員会」
9,* 「ヴァンス仲裁案」
10,* 「リスボン合意」
11,* 「ヴァンス・オーエン仲裁案」
12,* 「オーエン・シュトルテンベルグ仲裁案」
14,* 「連絡調整グループ仲裁案」
15,* 「Z-4仲裁案」
16,* 「デイトン合意」
17,* 「ラチャク村虐殺捏造事件」
18,* 「ランブイエ和平交渉―付属文書B」
20,* 「NATOのユーゴ・コソヴォ空爆における中国大使館空爆事件」
21,* 「ボンド・スティール米軍基地」
22,* 「マケドニア紛争」
23,* 「エネルギー回廊」
25,* 「ラムゼイ・クラークの国際戦犯法廷」
ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスレブレニツァは、かつて銀鉱山として栄えた街で、温泉保養地でもある。91年に行なわれた人口調査では、およそ3万7000人。民族比はムスリム人73%・2万7000人、セルビア人25%・9300人、その他2%・700人余りで、ムスリム人住民が圧倒的多数を占めていた。
第2次大戦最中の1941年4月、ナチス・ドイツがユーゴスラヴィア王国を占領すると、ファシスト・グループ「ウスタシャ」が傀儡国家「クロアチア独立国」を設立し、スロヴェニア南部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を支配下に置いた。ボスニアのムスリム人は「ウスタシャ政権」に準クロアチア人と位置づけられたことでウスタシャのセルビア人殲滅政策の影響を受け、セルビア人迫害に加担するようになっていった。
1942年4月、スレブレニツァのムスリム人集団が、数千人のセルビア人をドリナ川に追い立てて虐殺するという事件を起こした。この事件はナチス・ドイツ軍をも驚かせたが、50年後に内戦として再現することになる。
スロヴェニアとクロアチアの民族主義とともにボスニアにも民族主義が台頭
スロヴェニアとクロアチアが分離独立を推進し始めた1990年前後から、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにも刺激を受けた民族主義者が急速に台頭した。1990年11月の複数政党によるボスニア共和国議会選挙は、事前に行なわれたアンケート調査では民族主義に否定的な意見が圧倒的だったことから、非民族主義政党が有利との予測が成されていた。しかし、実際に選挙が行なわれると、240議席の内、ムスリム人勢力の「民主行動党」が36%の86議席、セルビア人勢力の「セルビア民主党」が30%の71議席、クロアチア人勢力の「クロアチア民主同盟」が19%の45議席、その他16%の38議席、と民族主義政党がそれぞれの民族数を反映して8割を超え、3民族3様の民族主義急進派が支配的となった。
ボスニア政府の強引な分離独立がスレブレニツァにも波及
スレブレニツァの地区選挙においてもムスリム人勢力の「民主行動党」と、セルビア人勢力の「セルビア民主党」の民族主義政党に2分された。このことが、スレブレニツァの民族対立を先鋭化させることになる。
1992年1月、ドイツとオーストリアおよびバチカンが主導し、ECがスロヴェニアおよびクロアチア両共和国の独立を承認すると、ボスニア政府は2月末にユーゴ連邦からの分離独立の是非を問う国民投票を,セルビア人住民の多くが反対する中で強行した。国民投票でムスリム人およびクロアチア人住民の多数の賛成を得たボスニア政府は、3月早々に独立を宣言する。翌4月にはECと米国およびロシアがこの独立を承認。それを契機に民族間の対立は深刻化し、武力衝突が頻発するようになって行く。
スレブレニツァを出撃拠点としたナセル・オリッチのムスリム人部隊
ボスニア政府管轄下のスレブレニツァ警察ポトチャリ支所長だったムスリム人のナセル・オリッチは、独立達成直後の1992年4月にムスリム人のみの民兵組織「ポトチャリ郷土防衛隊を」を結成。翌月には「スレブレニツァ郷土防衛隊」に拡張した。この武装組織の力を背景に、多数派であるムスリム人勢力はスレブレニツァの行政権力を行使すると、セルビア人住民を排除し始めた。ムスリム人が支配する民間企業はいうに及ばず、行政における公務員でもセルビア人を解雇し、後任にムスリム人を充てるなどスレブレニツァはセルビア人排斥の嵐が吹き荒れることになった。ムスリム人住民の心ある人は、オリッチが組織したムスリム人民兵集団の動きを察知してセルビア人住民に逃げるように知らせたが、逃げ遅れたセルビア人住民ほとんどが殺害されるなどの迫害を受け、時を経ずしてスレブレニツァはムスリム人居住地に純化された。
それ以来、スレブレニツァをめぐる攻防戦が展開され、92年4月末には一時期セルビア人勢力の民兵組織が占拠するが、翌5月にはオリッチ指揮下のスレブレニツァ郷土防衛隊が奪還し、スレブレニツァをムスリム人勢力の強固な地盤とした。
92年6月8日、国連安保理はボスニアでの武力衝突が激化するのを見て決議761を採択し、クロアチアの内戦を抑制するために派遣していた国連保護軍・UNPROFORをボスニア各地にも配備。スレブレニツァにも少数のオランダ部隊が駐屯することになった。UNPROFORがボスニアに派遣されても、オリッチのスレブレニツァ郷土防衛隊は、スレブレニツァを拠点として支配地の拡大を図って行く。セルビア人居住地のボスニア東部やブラトゥナッツ、スケラニなどの町や村々を襲撃してセルビア人住民の住居を破壊し、略奪し、集落を焼き払い、住民を殺戮し、93年1月には900㎢を支配するまでになる。ボスニア政府軍の指示を受けたオリッチの部隊は、ドリナ川の東地区全体の支配を目論んでいたのである。
セルビア人勢力の攻撃を受けると国際社会にすがるボスニア政府
ナセル・オリッチ率いるムスリム人勢力の軍事行動に対して国際社会は黙認していたが、ボスニア・セルビア人勢力としては、オリッチのスレブレニツァ郷土防衛隊の破壊と殺戮と領域拡大を座視するわけにはいかなかった。93年2月、セルビア人勢力のスルプスカ共和国は正規軍をスレブレニツァ周辺に投入して本格的な反撃を開始した。セルビア人勢力の反攻を受けたムスリム人住民は周辺から中心街区へ雪崩れ込み、その数は5万人を超えて街区は混乱に陥った。
ボスニア政府の窮状の訴えに応えて国連保護軍・UNPROFORのモリヨン将軍が93年3月に現地を訪れる。これを迎えたムスリム人住民の女性や子どもたちは、ボスニア政府の指示に従ってモリヨン将軍を包囲して帰還を阻み、軟禁してしまう。やむなく、モリヨン将軍は国連保護軍が住民を保護すると約して解放して貰う。その上で、国連保護軍は救援物資を搬入するとともに、4月にかけて女性と子どもなど8000人から9000人をボスニア政府軍の支配地域に移送した。ボスニア政府はスレブレニツァの窮状を国際社会に声高に訴えていたにもかかわらず、国連保護軍の移送行為を「民族浄化に手を貸すもの」として非難を浴びせた。ボスニア政府は、ムスリム人居住地を支配領域として確保しておくために、住民の移動を許さなかったのである。
ムスリム人勢力は国連安保理指定の「安全地域」を巧みに利用
ボスニア政府の非難に応えるように、国連安保理は93年4月にスレブレニツァを「安全地域」に指定する決議819を採択する。次いで5月、安保理決議824でサラエヴォ、ジェパ、トゥズラ、ゴラジュデ、ビハチのいずれもムスリム人住民が多数居住する地域の5ヵ所を安全地域に追加指定した。
クリントン米政権はセルビア悪を前提とした征圧策「新戦略」を立案
米国は当初ユーゴ紛争への介入には慎重な姿勢をとっていた。しかし、92年の大統領選に立候補した民主党のビル・クリントンが、当時のブッシュ政権のボスニア対策が微温的だとして批判して政争の具とすると、ブッシュ政権の対応も次第に強硬なものとなっていく。
1993年1月に民主党のビル・クリントンが大統領に就任すると、大統領選の際に主張したセルビア悪を前提とした強硬策を採用していくことになる。国連の安全地域指定についてオルブライト米国連大使は、「国連保護軍がボスニアのムスリム人を防衛するためだ。安全地域の設置を通じて我々が試みようとしているのは、これら安全地域はいずれボスニア政府の地域となることを確立するところにある」とムスリム人勢力の拠点とすることが目的であると、あからさまに強調した。
国連による安全地域に指定されると、対抗勢力は武力攻撃をしてはならないことになるが、それとの交換条件として地域の武装勢力は武装解除に合意させられることになる。しかし、安全地域のムスリム人の部隊は形式的に一部の武器を国連保護軍に提出する裏で、食糧や医薬品などの支援物資の搬入トラックに紛れ込ませて武器を調達し、武装を強化していった。
クロアチア人勢力とムスリム人勢力との支配領域争いも激烈を極めた
ボスニア紛争はボスニア政府とセルビア人勢力都の間の武力闘争のみのように捉えられがちであるが、決してそのような単純なものではない。3民族間の三つ巴の争いが行なわれていたのである。ボスニアが92年4月に国際社会に独立国家として承認されると、早くも92年10月にはボスニアの・クロアチア人勢力とムスリム人勢力が支配領域の確保を巡り、ヴィテズやノヴィ・トラヴニク、キセリャク、プロゾルなどで武力衝突を繰り返した。中でもクロアチア人勢力が、モスタル市をヘルェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の臨時首都とすることを目指して93年5月から行なったムスリム人居住地に対する攻撃は激烈なものとなった。このときネレトヴァ川に架かるオスマン帝国時代に建造された古橋「スタリ・モスト」を含む6つの橋は、クロアチア人勢力の砲撃によってすべて破壊された。
スレブレニツァではムスリム人勢力の28師団が編制される
1994年1月、ボスニア政府は安全地域指定による武装解除の合意を後目に、スレブレニツァ郷土防衛隊をボスニア第2軍団スレブレニツァ司令部第8作戦軍、即ち28師団に編成して体制を強化した。トゥズラを拠点とする第2軍団の司令官にはレジム・デリッチ将軍が就き、28師団の司令官には准将に昇進したナセル・オリッチがそのまま横滑りした。オリッチ師団司令官は、師団を4つの大隊と1つの予備大隊に編成し、戦闘態勢を強化する。その上で、オリッチ師団長はこのスレブレニツァの安全地域を拠点として周辺のセルビア人住民の村々に撃って出ては戻るという行動を再開し、安全地域を国連保護軍によって守られた城塞都市として利用した。
この実態を知ったガリ国連事務総長は、「ムスリム人勢力が、NATOの空軍力に護られた安全地域をセルビア人勢力への攻撃拠点としているケースがある。国連保護軍の中立性の見地からも、安全地域のあり方を再検討すべきだ」との報告書を、94年5月に安保理に提出した。しかし、この問題が安保理で真剣に取り上げられた形跡はない。
クリントン米政権はクロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人戦力に統合共同作戦を実行させる
クリントン米政権にとって、ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力との激しい武力衝突は、少なからず戸惑わせるものであった。にもかかわらず、米政府がセルビア悪に基づくユーゴ連邦介入への方針を変えることはなかった。クリントン米政権は打開策として「新戦略」を策定して実施する。
先ず、ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派のマテ・ボバンをトゥジマン・クロアチア大統領に圧力を掛けて辞任させる。次いで、ボスニア政府とクロアチア共和国政府との間の武力衝突を停止させる。その上で、94年2月にクロアチア共和国のグラニッチ外相、ボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領を米国に呼び寄せ、「ワシントン協定」に合意させた。協定の公表された内容は、「1,ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力で『ボスニア連邦』を構成する。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』で将来国家連合を形成するための予備協定」に合意するというものである。この協定の真の意図は、公表された単純なものではなく、新戦略に基づいてクロアチア共和国およびボスニア政府とクロアチア人勢力を統合してセルビア人勢力を征圧する軍事作戦を遂行することにあった。
94年の1年間は、新戦略による作戦のための準備に当てられた。そのために、米軍事請負会社・MPRIがクロアチア共和国とボスニアに派遣され、それぞれの作戦指導と訓練を担った。兵器は国連安保理武器禁輸の監視をゆるめた密輸で賄われ、さらに米軍機を使って搬入された。この武器密輸と訓練によってクロアチア共和国軍とボスニア・クロアチア人勢力およびボスニア政府軍は、それぞれ精強となっていった。
カーター米元大統領の調停も意味を為さず
一方で、和平協議も進められていた。明石国連事務総長特別代表が和平に尽力していたし、連絡調整グループは94年11月に、ユーゴ連邦とボスニア・セルビア人共和国とが連合国家を構成するとの和平修正案を提示していた。同時並行的に、現状を打開するためにカラジッチ・ボスニア・セルビア人共和国大統領は、カーター米元大統領に調停を依頼している。カーター米元大統領は94年12月にボスニアを訪れると、和平交渉の前提として、ボスニア政府とボスニア・セルビア人共和国およびムスリム人による反ボスニア政府自治組織「西ボスニア共和国」との間に4ヵ月間の停戦を合意させた。しかし、この間精強となっていたボスニア政府軍は、この停戦合意を守るつもりはなく、「2ヵ月で十分だ」と述べた上、再びムスリム人の反ボスニア政府派の西ボスニア共和国に攻撃を仕掛けた。なにより、米国の新戦略はボスニア政府とクロアチア共和国の権益確保を前提にしたものであったから、ボスニア政府が軍事行動を控え目にする必然性はなかったのである。
新戦略に基づくクロアチアとボスニアのセルビア人勢力軍事作戦を発動
新戦略による軍事訓練と武器の装備が整うと、トゥジマン・クロアチア大統領は95年1月に国連事務総長に対し、クロアチアに配備された国連保護軍・UNPROFORはクロアチアの和平にとって障害になってとの理由をつけて撤収するよう要請する書簡を送付した。国連安保理はこれに応じ、国連保護軍を3分割する国連安保理決議981~983を採択する。この安保理決議によって、クロアチアには縮減された国連信頼活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアにはUNPREDEPが分割配備されることになった。
クロアチア共和国は国連保護軍が分割配備されたのを見届けると、95年5月1日に「稲妻作戦」を発動してクロアチア共和国軍がクロアチアのセルビア人勢力の支配地域である「西スラヴォニア」攻略を開始した。ボスニア政府軍はそれに呼応してボスニア・セルビア人勢力がクライナ・セルビア人勢力への支援に赴けないように、共同行動としての陽動作戦を仕掛けた。先ず、サラエヴォのイグマン山に陣取るセルビア人勢力軍に攻撃を仕掛けた。しかし、米MPRI社の指導と訓練を受けて精強となっていたにもかかわらず、単純な正面攻撃を行ったために手痛い損害を受けて敗退する。
ボスニア政府はサラエヴォの敗北を隠蔽するためと主戦場が南部にあると印象づけるために、国連指定「安全地域」のスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデ、トゥズラ、ビハチに拠点を置くムスリム人勢力軍に周辺を攻撃するよう陽動作戦の指令を出した。このときのムスリム人勢力の拠点からの攻撃が、クロアチア共和国軍との共同行動であることに気が付かなかったボスニア・セルビア人勢力は、かねてから破壊活動の著しいスレブレニツァのオリッチ師団の行動を抑制するための「クリバヤ95作戦」を立案した。この作戦は、スレブレニツァを近傍のジェパやゴラジュデから切り離して孤立化させることを目的としていた。そして、セルビア人勢力は95年7月6日にクリバヤ95作戦を発動する。
不可解なことにオリッチの28師団の将校団はスレブレニツァから消える
ところが、ボスニア政府軍28師団の内部では理解しがたいことが進行していた。95年4月に28師団の将校15名がトゥズラにおける軍事訓練のためにスレブレニツァを離れており、訓練が終了してもオリッチ司令官をはじめほとんどの将校を戻さず、ベチロヴィチ副司令官と大隊長の2人だけを戻すという措置を取っていたのである。ボスニア政府軍が28師団の将校団をスレブレニツァに戻さなかったのは、ボスニア政府が戦略の一環としてスレブレニツァを放棄する方針を決めていたと考えられる。オリッチ師団司令官や将校たちの不在が伝わっていれば、セルビア人勢力軍はボスニア政府軍の陽動作戦の意図に気が付き、「クリバヤ95作戦」を計画しなかった可能性が高い。
28師団兵士とスレブレニツァの行政員はムスリム人住民を見捨てて脱出
将校のいない部隊は統制のとれない武装集団にすぎない。それかあらぬか、スレブレニツァでの抵抗は散発的で組織性に欠けていた。セルビア人勢力軍がスレブレニツァに迫っていた7月10日、ボスニア政府軍のセフェル・ハリロヴィチ参謀長は、デリッチ第2軍司令官に第28師団を第2軍が拠点としているトゥズラに撤退させるよう命令した。命を受けた28師団は、保護すべき女性と子どもや老人などの住民を放置し、行政員と住民の中の兵役可能年齢の男性などを含む1万2000人から1万5000人をひきつれ、夜陰に乗じてスレブレニツァから脱出し始めた。この推移をセルビア人勢力軍は察知しておらず、当然オリッチ司令官が28師団を指揮して反撃を行なうものと考えていた。しかし、28師団の抵抗をほとんど受けなかったために、スルプスカ共和国軍のドリナ軍団は、7月11日には予定外のスレブレニツァに入市してしまう。
セルビア人勢力軍がスレブレニツァを占拠したとの報に接したシラク仏大統領は事態を理解せぬまま、すぐさまコール独首相と電話で会談し、「国連安保理のゴーサインが出れば、英仏などで構成する緊急対応部隊がスレブレニツァを奪回する用意がある」とセルビア人勢力を激しく非難した。
28師団に見捨てられたスレブレニツァの住民は国連保護軍に救助を求める
同じ頃、スレブレニツァに取り残されたムスリム人の女性と子どもたちを中心とする住民およそ2万数千人は、保護を求めて国連保護軍のオランダ部隊の基地に殺到した。住民を放置して逃亡する28師団の行為は理解し難いが、ボスニア政府が女性と子どもを国連保護軍に保護させることを予定していたとの推察は可能である。7月11日の夜になってオランダ部隊のカレマンス司令官とセルビア人勢力軍のムラディッチ総司令官が会談し、避難民の扱いについて協議した。ムラディッチ総司令官は、スレブレニツァ側の降服条件の交渉相手として地域軍責任者オリッチ師団長の出席を要求したが、オリッチどころか行政員のすべてが脱出してしまっていたため、避難民を代表するべき人物を探し出すことに時間が費やされた。国連保護軍には住民を代表する権限はないが、住民代表として相応しい人物が見つからなかったことから、やむなく中立であるべき国連保護軍のオランダ部隊がムスリム人住民の利益を代表する恰好となった。
不可解な米政府のスレブレニツァ虐殺事件の発表
翌7月12日、米政府は、スレブレニツァでムスリム人に対する大規模な虐殺があったと発表した。しかし、12日はオランダ部隊のカレマンス司令官とボスニア・セルビア人勢力軍のムラディッチ総司令官が避難民の扱いについて引き続き協議を重ねており、その中でムラディッチ総司令官は16才から65才までの男性を残すことを要求し、女性と子どもと老人の身柄は保護すると確約していた。そして、民間のバスなど300台ほどを呼び寄せて輸送車を仕立て、女性と子どもをボスニア政府軍の支配地域に送り出していた最中だった。この時、スレブレニツァからバスなどで送り出された女性や子どもや老人はおよそ2万人である。多数の人々の移送のためのバスなどを手配して送り出している最中に、セルビア人勢力軍が大虐殺など起こせるはずもない。
同日、国連安保理は、セルビア人勢力の即時撤退と国際社会が武力を含むあらゆる手段をとるよう求める決議1004を採択する。
ボスニア政府軍は自国軍兵士および住民を意図的に救援せず
ボスニア・セルビア人勢力軍はスレブレニツァに軍服を着用した者がいないことから、28師団や行政員など男性たちが脱出行にあることを察知する。そこで、セルビア人勢力軍は各所に設置された検問所に迎撃を指示するとともに、旅団規模での追撃を開始した。やがて、検問所を守っていたセルビア人勢力軍は、脱出行の第28師団一行と遭遇し、激しい銃撃戦を展開する。12日から13日にかけた戦闘でセルビア人勢力軍部隊も手痛い反撃を受けて攻撃を一時中止せざるを得ない事態が起こったが、28師団の兵士および同行のムスリム人男性も1500人から2000人が死亡した。ムスリム人生存者の証言によると、このときセルビア人勢力軍の追撃を受けた脱出行の者たちの中にはパニックに陥り、集団自殺を行なった者も多数出たという。
28師団などの脱出行に対して、ボスニア政府軍は不可解な対応をしている。デリッチ第2軍司令官の命令に従って脱出した28師団兵士たちがトゥズラに向かっていたのだから、トゥズラに拠点を置いていたボスニア第2軍は救援に向かうのが軍事的な常識である。ところが、第2軍は救援に向かっていない。これも不可解だが、スレブレニツァの28師団の師団長であるナセル・オリッチが、トゥズラで第2軍の予備中隊の指揮を任務に就いていた。トゥズラから救援に向かったのは、僅かにこのオリッチに任されていた予備中隊だけだった。オリッチはその予備中隊を率い、セルビア人勢力軍に攻撃を仕掛けて28師団兵士などの脱出の突破口を開き、数千人を救出した。1個中隊の兵員は通常200名前後である。このような小規模の中隊ではなく、少なくとも大隊規模で救援行動をしていれば、脱出行のスレブレニツァの行政員や市民および28師団の兵士たちの救出はもっと容易だったはずだが、撤退を命令したデリッチ・ボスニア第2軍司令官はそれをしていない。ボスニア政府軍が28師団の兵士と行政員たちの救出を考えていなかったと推察されるのは、このような対応があったからである。
脱出した28師団兵士の1人は憤激のあまり、救援軍を出さなかった第2軍司令官のデリッチ将軍に発砲した。この発砲事件で副官が死亡したが、デリッチ司令官は無傷で逃れ、兵士は射殺された。
錯綜するトゥズラ到着の28師団兵士数
のちに、ボスニア政府軍のハリロヴィチ参謀長は、28師団の兵士6000人ほどがトゥズラに到着したと発言した。この6000人が28師団の兵士数なのか、同行の行政員を含むのかは判然としない。28師団の兵士数が、3000~4000人という数と8000人という数の両説とがあるからだ。3000人から4000人というのは旅団以下の兵士数の単位であることから、28師団と名乗ったからには8000人が近いとも考えられるが、これも判然としない。ボスニア政府がすべてを秘匿しているために、正確な数量はほとんど明らかになっていない。スレブレニツァから帰還した兵士などの様子をボスニアの赤十字職員も目撃していたが、口外することは禁じられた。
95年7月16日、ボスニア・セルビア人勢力は赤十字国際委員会・ICRCの要請に応え、スレブレニツァ近くで拘束したムスリム人男性たちへの面会を許可した。ボスニア政府は、ボスニアのセルビア人勢力に拘束されたムスリム人は4000人と主張していたが、セルビア人勢力側は、拘束した人数は700人から1200人で、3500人ほどは森の中に逃げたと主張した。
当初はスレブレニツァ虐殺を窺わせる証拠も証言もなかった
7月17日、スレブレニツァに駐屯していた国連保護軍のオランダ部隊は、28師団兵士とムスリム人住民が移動したことでもはや安全地域としての意味をなさなくなったことから、セルビア人勢力軍との間に撤収協定を結んだ。このオランダ部隊司令官のトム・カレマンス大佐は、セルビア人勢力が「軍事的に正しい作戦行動を、正しいやり方で実行した」と述べた。オランダ陸軍司令官のハンス・クージー中将も、「スレブレニツァのセルビア人勢力が大虐殺に相当する犯罪を実行したことを示唆する証拠はない」と語っている。このように、当時はスレブレニツァに直接・間接に関わった機関や人物の多くが、スレブレニツァ虐殺に否定的な見解を示していた。
新戦略の軍事作戦の罠にはまったボスニア・セルビア人勢力軍
この間、ボスニア・セルビア人勢力のドリナ軍団はスレブレニツァ孤立化作戦がさしたる戦闘もなく完了したことから、予定を早めてジェパやゴラジュデ攻撃に取りかかることにする。この予定外ともいえる軍事行動は、ボスニア政府軍の陽動作戦の罠にはまることを意味した。ドリナ軍団だけでなくセルビア人共和国軍のかなりの部隊がこの作戦に割かれることになり、西北に位置するクライナ・セルビア人共和国軍が陥っている苦境の救援に赴けないことになったからである。これが、クロアチア共和国軍およびボスニア連邦統合軍の一連の軍事作戦を容易にしたといえる。
ムスリム人勢力の赤新月社(赤十字社)が虐殺説を流布する
一方、この頃から再びスレブレニツァのムスリム人男性がセルビア人勢力に多数殺害されたとする情報が流布されはじめる。最初に報告をしたのはボスニアのムスリム人勢力の赤新月社(赤十字社)だった。これを受けて7月24日、国連首席調査官がスレブレニツァに行って5日間にわたり聞き取り調査をしたが、このときには残虐行為の目撃者は1人も発見できていない。7月26日には、米国務省高官も「スパイ衛星や無人飛行機のプレデターには、今のところ何も映っていない」と発表した。この前後に避難民たちと接触した人道支援団体やジャーナリストたちも、避難民たちの虐待はなかったとの証言を得ている。その直後にボスニア政府は、メディアが避難民に接触することを禁じるという措置を取った。
他方、ボスニア政府軍第2軍のデリッチ司令官は8月に開かれたサラエヴォの議会で、スレブレニツァの脱出行について「28師団の撤退は概ね成功裏に終わった」と報告した。途中の戦闘で数千人が死亡し、数千人が捕虜になって虐殺されたとの情報が飛び交い、後に8000人虐殺説が出ることになるような事態であるにもかかわらず、概ね成功したと報告したデリッチ司令官の発言の真意は明らかではない。
8月に入ると、オランダ軍兵士がサッカー場で100人分の靴とバッグを見たと言い、米政府高官はスレブレニツァで数百人の男性や少年を処刑したとの極めて説得力のある状況証拠が得られたと発言。それに呼応するように赤十字国際委員会・ICRCはスレブレニツァ陥落後に6000人が行方不明になっていると発表した。
8月10日には、安保理でオルブライト米国連大使が米スパイ衛星の写真を示しながら、スレブレニツァ陥落後にムスリム人2000人から2700人がセルビア人勢力に殺害された可能性があると説明した。その衛星写真に写っていたのは、土盛りの集団埋葬を窺わせる写真だった。この土盛りが遺体を葬ったものだったとしても、それがムスリム人のものかどうかは定かではない。オリッチのムスリム人部隊がスレブレニツァを拠点にして、セルビア人住民を多数殺害してきた事実があるからだ。また、オルブライト米国連大使が、なぜ殺害された人数を2000人から2700人と発言したのかも明らかではない。同じ日、クリストファー米国務長官は、「大量虐殺を確認できるようないかなる情報画像も得ていない」と述べた。翌8月11日には、赤十字国際委員会・ICRCのソマルガ委員長は、「ボスニア東部でセルビア人勢力がムスリム人住民を大量虐殺した、との米国の主張を裏付ける証拠はない」との否定的見解を示した。
ムラディッチ総司令官は避難民の安全は保護すると約束していた
この95年8月11日、1人のムスリム人の避難民がメディアに向けて、セルビア人勢力のムラディッチ総司令官がシャタック米国務次官補に対し、サッカー場に拘束されている「避難民の安全は約束する」と語っていたのを聞いた、と話した。この避難民は直後に何者かに殺害されてしまう。
95年8月下旬に、CBSのマイク・ウォラスなどを始めとする6ヵ国の外国人ジャーナリスト22人がスレブレニツァに押し寄せ、集団埋葬地を示したCIAの航空写真を持って戦争犯罪の証拠を探し回った。その結果、CBSのマイク・ウォラス記者は集団埋葬地があったと報告したが、ジャーナリストの多くは埋葬地を探し当てることができなかったと報告した。
シャタック米国務次官補は、翌年の96年1月になると「スレブレニツァは、1945年以来ヨーロッパで起きた最大の戦争犯罪で人道法違反である」と証拠も示さずに主張するようになる。
証拠もなく固定化していったスレブレニツァの8000人虐殺説
ところが、各方面からスレブレニツァにおける虐殺説が次第に湧き上がってくる。国連は、セルビア人勢力がスレブレニツァを奪取後に即決処刑を行なった証拠を指摘し、民間人行方不明者の推定値はこれまで最高8000人といわれているが、現在の推定値は3500人から5000人であると発表した。95年9月12日に赤十字国際委員会・ICRCは、スレブレニツァ事件についてのプレス・リリースを発表し、スレブレニツァからトゥズラに逃れた避難民から連絡の取れない者の申請が1万件あったが、その内2000件は同一人物の複数の家族からのものであり、残りの8000件のうち5000人は陥落前に脱出した人々で、残りの3000人がセルビア人勢力の捕虜となったとしている。この赤十字国際委のリストの中には500人のセルビア人死亡者の名前が入っており、さらに後の96年の選挙時に作成された選挙人名簿には、行方不明とされた3000人前後の名前が掲載されていた。このように行方不明者と犠牲者数が混同されて死者数は確定されていない。脱出した28師団の兵士の挙動にも不可解なところがある。トゥズラの北方に28師団の兵士が2000人ほどいることが突き止められているが、ボスニア政府は軍事機密であると主張して調査することを許可していない。そのため、ハリロヴィチ参謀長がトゥズラに6000人ほど到着したと発言している人数にこの2000人が含まれているのかどうかも明らかになっていない。
このような混乱にもかかわらず、8000人虐殺説は一人歩きをしはじめるが、事実を証明する遺体は発見されていない。現状の行き詰まりを打開するためか、虐殺説を裏付ける証拠が発見されないのは遺体を移動したためではないかとの説が米国筋から出された。米軍はプレデターと衛星で監視を行なっていたとも主張しているが、米軍は証拠に相応しい監視写真を提示しようとしていない。にもかかわらず、風聞としての8000人虐殺説が、事実であるかのように固定化して行った。
大虐殺宣伝は、クロアチア軍が実行した残虐な「嵐作戦」から目をそらすため
虐殺数が曖昧な段階で、NATO諸国やメディアがスレブレニツァ虐殺説を大々的に宣伝した理由の1つには、同時期に実行されたクロアチア共和国軍による一連のクロアチア在住のセルビア人住民掃討作戦から目をそらすという思惑が絡んでいた。クロアチア共和国軍は、5月から8月にかけて「稲妻作戦」と「‘95夏作戦」および「嵐作戦」を相次いで発動し、嵐作戦では15万余の兵員を動員してクライナのセルビア人居住区住民の掃討作戦を実行した。このクロアチア共和国軍のセルビア人住民掃討作戦は凄まじいもので、セルビア人居住地域の住居を砲撃して破壊したのみか、戻ることが不可能なように町や村ごと焼き討ちにし、脱出するセルビア人避難民の中に砲弾を撃ち込むという非人道的な猛爆撃を加えた。
英・独・仏の政府は遺憾の意を表明して停戦を呼びかけたが、トゥジマン・クロアチア大統領はこれを無視した。その上で開いた勝利集会において、トゥジマン・クロアチア大統領は共和国の念願であったクライナ地方からのセルビア人駆逐に成功したことに体を震わせながら喜びを表した。この映像は残されている。
赤十字国際委員会・ICRCによると、このとき追放されたセルビア人住民は20万人から25万人に及ぶという。このまさに「民族浄化」といえるクロアチア軍の作戦から国際社会の目を逸らせるには、スレブレニツァ事件は格好の材料であり、大々的な宣伝にはそのような意図が込められていた。この企ては奏効し、メディアがスレブレニツァ事件に関心を移したため、クロアチア共和国軍の残虐な作戦はほとんど国際社会の注意を引くことがなかった。
NATO軍の空爆への非難を回避することも狙いの一つ
スレブレニツァ虐殺説のもう一つの狙いは、この直後の8月28日に起こされたマルカレ市場爆破事件を契機にした、安保理決議を経ないNATO軍の軍事行動を容易にするための、「セルビア人勢力悪」を印象づける伏線でもあった。このマルカレ市場事件はムスリム人勢力の自作自演だったと後の検証で推測されることになるが、NATO軍は検証することなくセルビア人勢力の犯行だと断定し、事件から僅か1日余りしか経ない8月30日に「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦」」を発動した。この周到な軍事作戦と名付けられた軍事行動は、その名の通りNATO軍とNATO加盟国主体の国連緊急展開部隊およびボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍と越境したクロアチア共和国軍との5者の緊密な連携による共同作戦として、ボスニア・セルビア人勢力軍への空と陸からの凄まじい攻撃として展開された。この5者の共同作戦でボスニア・セルビア人共和国軍は手痛い打撃を受けたが、NATO軍のデリバリット・フォース作戦の国際法無視の軍事行動は、セルビア悪が浸透したため国際社会から批判されることはなかった。スレブレニツァ事件の衝撃力が、NATO軍への批判を封じ込める役割を果たしたのである。そして、ボスニアのセルビア人勢力はカラジッチ大統領とムラディッチ総司令官抜きの「デイトン和平交渉」へと、引きずり込まれることになる。
徹頭徹尾米国が主導した「デイトン和平交渉」
「デイトン和平交渉」は米オハイオ州のデイトンにある米軍基地で行なわれたが、その最中の95年11月16日、ICTYの検察局はセルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ共和国大統領とムラディッチ総司令官をスレブレニツァでの虐殺に関与したとして追起訴した。この追起訴は証拠に基づくものではなく、伝聞情報と米国のスパイ衛星の映像をあてにした政治的訴追であった。しかし、米国からの証拠写真を当てにできないことが分かると、ゴールドストーン首席検事は「アメリカはスパイ衛星の写真を提供しなかった」と苦情を述べた。このことで、ICTYとしては独自にスレブレニツァ虐殺事件としての証拠を固める必要に迫られた。
国際社会の懸命な証拠探しが行なわれたが遺体は揃わなかった
そこで、96年2月に国連の人権問題特別報告官のエリザベス・レン前フィンランド国防相がスレブレニツァの虐殺現場の検証を行なったが、遺体は20体ほどしか発見できなかった。その後も遺体の調査は精力的に続けられたが、5年後の2001年までに周辺から発見された遺体は2000体である。これには一連の戦闘で死亡した者も含み、しかもセルビア人の遺体も含まれていた。同じ96年2月に、ボスニアのセルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ共和国大統領は、「われわれは1つも犯罪を犯していない。戦争捕虜はいたが彼らを殴ったりはしなかった。われわれは、93年にスレブレニツァ周辺で、ムスリム人勢力によって殺されたセルビア人の集団埋葬地を50ヵ所以上発見している。1ヵ所に10人から50人が埋められていた」と強調したが、この発言は一顧だにされなかった。
ICTYのシュラーク上級検事は、カラジッチとムラディッチを追起訴してから半年後の96年4月に、「セルビア人勢力の指導者たちを告発する何の証拠も見つけられなかった」と述べた。その後も遺体の探索と収集は続けられ、2002年にはICTYの依頼を受けた国連の医学チームが集団埋葬地の発掘調査を行ない、トゥズラの倉庫に3500体の遺体が集められた。さらに03年には1500体の遺体が発掘され、合計5000体の遺体がトゥズラの倉庫に集められた。この中には後ろ手に縛られた遺体もあったことから、虐殺があった可能性は否定できない。とはいえ、集められた遺体の身元の確認ができたのは千数百体であり、5000人の遺体がすべて虐殺されたと確認されたわけではない。ボスニア内戦での死者数はムスリム人、セルビア人、クロアチア人の3民族10万人近くに上り、遺体が随所に埋葬されていたと考えられるからだ。
セルビア人勢力の司令官には重罪の「ジェノサイド罪」を科した政治的判決
ICTYは、カラジッチ・スルプスカ大統領とムラディッチ・スルプスカ軍総司令官を追起訴していたものの、スルプスカ共和国が両者の身柄引き渡しを拒否したこともあって、検察局は対処に迫られた。そこで、遺体発掘と並行してスレブレニツァ事件の実行者としてのドリナ軍団の司令官たちを法廷に引き出すことにする。
先ず、1998年10月にセルビア人勢力軍のドリナ軍団の司令官だったクルスティチ将軍を95年7月11日から11月1日までの間に起こされたスレブレニツァ事件について、「ジェノサイド罪」、「人道に対する罪」、「戦争法規および慣習法違反」で訴追し、12月2日にNATO軍主体のボスニア安定化部隊に逮捕させてハーグに移送した。クルスティチ将軍は、「クリバヤ95作戦」では副司令官としてスレブレニツァの占領を指揮したが、引き続いて行なわれたジェパ攻略とゴラジュデ攻防戦では司令官としてすぐさまスレブレニツァを離れたために、虐殺事件といわれるものに直接関わっていない。そのため、ICTYはクルスティチ司令官を虐殺事件の「ジェノサイド罪」の正犯ではなく、共犯を無理やり適用して懲罰のための判決を出した。
さらにICTYは、「クリバヤ95作戦」に参加したドリナ軍団傘下のブラトゥナッツ旅団司令官のブラゴイェヴィチ大佐を、クルスティチ司令官と同じ98年10月に「ジェノサイド罪」、「人道に対する罪」、「戦争の法規および慣習法違反」で起訴し、2001年8月にNATOボスニア安定化部隊・SFORが逮捕してハーグに送った。ICTYは、ブラゴイェヴィチ大佐率いるブラトゥナッツ旅団が、スレブレニツァを脱出したボスニア軍28師団と引き連れた行政員や男性を追撃して捕捉した際に、訴因に該当する犯罪を犯したとして裁いた。その上で、ICTYはスレブレニツァ攻撃を実行したドリナ軍団だけでなく、セルビア人勢力軍・VRSの主な幕僚や軍団、旅団の責任者7名をまとめて「スレブレニツァ・トライアル」として2006年8月に起訴した。このようにして、スレブレニツァ事件で起訴されたセルビア人は21名に及んだ。
ボスニア政府軍によって殺害されたセルビア人住民の被害は無視
セルビア人勢力がクリバヤ95作戦を発動してスレブレニツァを攻撃したのは、ムスリム人勢力のナセル・オリッチ率いる部隊がセルビア人居住地の村々を破壊して回ったことに起因する。2002年に設立したボスニアの「セルビア人共和国被収容者連合同盟」は、オリッチ部隊によるセルビア人の被害について独自の調査を行なっている。その調査によると、ナセル・オリッチ指揮下の部隊がスレブレニツァ周辺地域で殺害したセルビア人は3562人に及び、その内の90%は市民だったとしている。被収容者連合同盟はこの殺害に関与したムスリム人52名をICTYの特別検察局に告発した。しかし、ハーグはこれを不受理とした。やむなく、連合同盟はボスニア検察局に告発したがやはり受理されなかったので、隣国のセルビア共和国の戦争犯罪特別検察局に告発している。
ボスニア軍のオリッチ28師団長は無罪としセルビア人勢力軍へは重罪判決を出すICTY
その後ICTYは、セルビア人勢力だけを裁くのは公平性を欠くと考えたのか、ナセル・オリッチ28師団司令官を事件からおよそ10年後の2003年3月に逮捕した。検察局は、オリッチが1992年6月から93年3月にかけ、セルビア人住民に対する1200人に及ぶ殺人、非人道的な処遇、捕虜に対する拷問・虐待、村々への破壊行為などを行なったとして5つの罪で起訴し、18年の禁固刑を求刑した。
このオリッチの公判には、国連保護軍・UNPROFOR元司令官のモリヨン将軍が証言台に立った。モリヨン将軍は、「ナセル・オリッチはボスニア政府軍からスレブレニツァ周辺の支配地域を拡大するように命令を受けており、オリッチはこの命令によって周辺のセルビア人の192の村々を破壊した。そして捕虜を拷問し、虐殺した。95年のスレブレニツァの事件は、このオリッチの行為が直接的な結び付きとなっていると確信している」と証言した。さらに、オリッチによる殺害の疑いが濃厚な1000人の遺体が発掘されたにもかかわらず、ICTYは実質的にこれを無視した。モリヨン将軍の証言も遺体の存在も無視したICTYは、2006年6月30日にオリッチに対する第1審の判決で2年の禁固刑を出し、3年余りの未決勾留期間を算定して即日釈放した。検察局が事実認定に疑義を呈して控訴した控訴審判決は08年7月3日に出され、「オリッチが、犯罪に責任ある部隊を指揮していたことは確証できなかった」と述べ、無罪判決とした。犯罪は存在しているが、それを実行した部隊のオリッチ司令官の関与は不明として責任を免除したのである。
虐殺に該当する事例はあったとするシェシェリ・セルビア急進党党首の証言
ICTYが起訴理由としたスレブレニツァ事件について、セルビア共和国のシェシェリ急進党党首は2005年8月に開かれたICTYのミロシェヴィチ裁判の公判で、「ポーク」という民兵組織が攻防戦での虐殺に関与した可能性があると証言した。シ
ェシェリ証人は、民兵たちが1200人ほどを殺したのではないかと指摘したのである。もしこの人数が事実だとすると、ICTY
のフィルド判事が査定した当時のスレブレニツァの人口3万7000人と、WHOが95年8月の段階で調査したスレブレニツァの
避難民登録者数3万5632人の差の、およそ1400人に該当することになる。
国際司法裁判所・ICJは新ユーゴ連邦およびセルビア共和国の関与を否定 2005年9月30日、ボスニア上級代表事務所の命令で組織された、「スルプスカ共和国のスレブレニツァ作業グループ」は、スレブレニツァ事件に関与したセルビア人1万9473人を数え上げ、1万7074人を実名で記録して報告した。この名簿作成は、セルビア人勢力のスルプスカ共和国がICTYの圧力に屈して報告をしたものだが、スレブレニツァ攻略に動員されたドリナ軍団の兵士1万2000名と、その後に関わった行政官や民間会社の人名を列挙したにすぎず、事件解明には寄与していない。
国際司法裁判所・ICJは2007年2月に、ボスニア政府が提訴したセルビア共和国のスレブレニツァ事件への関与について、「1,1992年から95年のボスニア紛争中に発生したセルビア人勢力による行為は条約上の『ジェノサイド』ではない。セルビア共和国政府が国家的なジェノサイドを行なったと認定することはできない。2,スレブレニツァについては『ジェノサイド』と認定する。このジェノサイドには民兵組織が関与している」との判断を示した。これはユーゴ連邦およびセルビア共和国の関与の有無について審理したものだが、両国家機関が直接行なった証拠はないと否定し、スレブレニツァではジェノサイドがあり、それには民兵組織が関与している、と指摘したのである。ただし、この時の国際司法裁判所は、国連の報告書と旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの証拠調べを参考にしたのみで、国際司法裁判所としての証拠に関する独自調査はしていない。
虐殺は存在したとする長有紀枝の研究報告
2009年1月、NGO「難民を助ける会」の理事長としてユーゴスラヴィア現地で援助に携わった長有紀枝が、調査研究の成果を「スレブレニツァ・あるジェノサイドをめぐる考察」として発刊した。長理事長は、主に国連報告書やオランダ戦争文書研究所報告やICRC、ICTYの報告など公的な資料を検討している。引用した国連事務総長報告では行方不明者が4000人~7500人。赤十字国際委員会・ICRCが98年に作成した名簿では7421名が行方不明。旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの検察局が採用した行方不明者は7475名。米NGO「人権のための医師団・PHR」の96年の調査では7269名の行方不明。セルビア人勢力参謀のヤンコヴィチ大佐が95年7月14日の段階で6000名を捕虜にしていると語ったこと、などを列挙している。
長理事長は、これらの機関や組織が行方不明者と犠牲者を一緒にしていることを指摘しながら、セルビア人勢力が7月11日にスレブレニツァを占領して以来の行動を時間単位で検討し、スレブレニツァにおけるセルビア人勢力軍と脱出した28師団と同行男性たちの動向を分析した。その結果、セルビア人勢力がムスリム人を大量に捕捉したにもかかわらずそれをボスニア政府に引き渡した正確な記録がないこと、再埋葬などで証拠を隠蔽しようとした行為がセルビア人勢力に見られることなどを勘案し、集団埋葬地および再埋葬地毎に遺体の独自の集計を行ない、膾炙されている8000人ではなく、6000名が殺害されたと考えるのが妥当だと推計している。その上で長理事長は、この事件についてICTYがセルビア人勢力軍の司令官に「ジェノサイド罪」を適用していることに疑問を投げかけている。セルビア人勢力軍がムスリム人の女性と子どもや老人をボスニア政府軍支配地域に移送していること、男性すべてを殺害したのではなく、28師団兵士を含む兵役可能年齢のものだけが選別されていること、戦闘中だったことなどを上げてジェノサイドには該当せず、特殊な状況の中で起こされた特異な事例だとしている。長理事長の研究は注目に値するが、それでも疑問は残る。ボスニア政府が秘匿している資料への言及がないことである。
ボスニア政府の秘匿のために実態は不明
スレブレニツァのボスニア政府軍28師団の兵員数がなぜ3000人から4000人説と、師団としては僅少で曖昧な数字なのか。28師団は8000人で構成されていたとの情報もあるが、軍隊の兵員数が曖昧などということは通常あり得ない。しかし、これは長有紀枝研究だけでなく、いずれの調査報告でも特定されていない。さらに、スレブレニツァから脱出した28師団の兵士と行政員を含む男性たちが、トゥズラなどボスニア政府が支配する地域に到達しているが、国連報告では4500人から6000人という数字を上げているものの、ボスニア政府として把握しているはずの人数を明らかにしていない。28師団は脱出後にトゥズラで再編成されているが、その兵士数さえ曖昧なままである。
ボスニア政府は内戦の初期以来正確な情報を公表したことはなく、ほとんどは誇張したものか虚偽かそれ以外は秘匿してきた。これらのボスニア政府の資料が明らかにならなければ、28師団兵士やその同行者の男性たちおよび到達者の数は特定できない。発掘された多数の遺体があるが、それが戦闘で死亡したものか、虐殺に該当するのがどれほどかは確定されていない。また、WHOが人口3万7000人のスレブレニツァからの避難民を3万5632人と記録した差を合わせて考慮すると、スレブレニツァの虐殺といわれる人数は未だ明確になっていないと考えるべきだろう。後に、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、「国境なき医師団」創設者のクシュネルとのインタビューで、内戦中の様々な段階で数量に誇張があったことを認めている。
スイスの研究者は虐殺を否定
スイスの研究者アレグサンダー・ドリンは、2009年5月に「スレブレニツァ・サロン・レイシズムの歴史」をドイツで発刊した。それによると、「8000人虐殺設は根拠のないものであり、技術的に検討しても戦乱の最中の監視下でそれほどの人数を虐殺することは不可能であり、犠牲者とされたものの中には外国に移住したものも含まれている。ベオグラード戦争犯罪捜査センターの調査では、虐殺されたとする者のうちの3000人がボスニア・イスラム教徒の選挙で投票していることを見出している。また国連保護軍・UNPROFORの司令官の証言からしても虐殺が虚構であり、ムスリム人勢力の戦士がスレブレニツァの戦闘で少なくとも2000人が死んだとの証言を重視し、この2000人という数字はハーグの調査員が発見することができた数字と合致する。虐殺者数8000人という数は、1993年にクリントン米大統領がイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領に対し、『もし、5000人のイスラム教徒の虐殺があれば、西側は軍事介入するだろう』と述べたことが背景になっている」と8000人虐殺説が政治的思惑の絡んだ数字であることを指摘し、その上で「スレブレニツァでの戦闘による死者数は2000人ほどである」と記述した。
国際政治力学は自己正当化のために8000人虐殺説に拘る
2003年9月に、米国の資金でスレブレニツァの虐殺慰霊碑が建立された。墓標は当初は600余りであったが、その後順次追加され、8000人虐殺説を確定したものとして毎年慰霊祭が行なわれている。
<参照;カラジッチ、ムラディッチ、イゼトベゴヴィチ、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY、国連の対応、米国の対応>
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ボスニア政府は誇張したムスリム人の死者数を発し続けた
ユーゴ連邦解体戦争中、ボスニア政府は国際社会の関心を引きつけるために、しばしばムスリム人の被害を誇張して発表した。ボスニア政府の情報発信を請け負った米PR会社の「ルーダー・フィン」は、内戦時に起こされたムスリム人の死者数について20万人から30万人が殺害されたと発表して国際社会を瞠目させた。それにあきたらず、ボスニア政府が発表したムスリム人女性レイプ被害2万人から10万人と途方もない数を繰り返し、メディアにファックスで流してムスリム人の被害を印象づけ、「セルビア人悪」を刷り込む役割を果たした。ヒューマン・ライツ・ウォッチ・HRWなどの人権団体もボスニア政府の発表を鵜呑みにしてセルビア人勢力批判に加わったために、国際社会にはムスリム人死者20万人以上という数量が浸透することになった。
ブレア英首相は退任後に回顧録を出版し、その中でユーゴ・コソヴォ空爆は自らが積極的に推進したのだと誇らしげに記述している。彼は、のちのインタビューでユーゴスラヴィア連邦解体戦争への対応について聞かれると、ボスニア内戦でムスリム人の死者数は70万人に及んでいたのだから、NATO軍がセルビア人側への空爆を実行したのは当然の措置だったと述べ、ボスニア政府の20万人死者説に輪をかけた70万人に水増しし、NATO軍の武力行使を正当化した。ブレアが誇張癖の強い人物であることを捨象したとしても、MI6という名だたる情報機関を持つ英国首相の脳裏に、このような数量を刷り込ませたメディアの報道がいかに国際社会に悪影響を与えていたかが推察できる。
ボスニア政府高官たちも死者数を誇張していたことを認める
ボスニア紛争中における死者数について聞かれたボスニア政府のある高官は、20万人というのは誇張した数字で、実際には2万人くらいだろうと語っている。この後も戦闘が続いたので実際にはそれより増えていることは疑いないが、ボスニア政府が誇張していたことを認めた意義は小さくない。シライジッチ・ボスニア首相は、1995年の「デイトン和平交渉」を始めるに当たり、「1万7000人の子どもの死を生き返らせることはできないが、正義を勝ち取ることはできる」と発言した。シライジッチ首相もイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領と双璧をなすブラック・プロパガンダを行なった人物なので、子どもの命1万7000人も誇張したものだった可能性は否定できないが、ボスニア内戦が地域争奪闘争であったことを勘案すると、10倍を超える20万人死亡説は誇張されたものだったと推量できる。
のちに、国境なき医師団創設者のクシュネルがイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領にインタビューをしているが、イゼトベゴヴィチはセルビアの強制収容所の存在や虐殺などについて、事実と異なる誇張した数字を発表をしたことを認めている。にもかかわらず、ボスニア政府が発表した死者20万人説は存在し続け、現在に至るもボスニア内戦でのムスリム人の死者数20万人との説を引用するジャーナリズムや学者や政治家が後を絶たない。
ボスニア内戦における3民族の死者数は10万人前後
幾つかの機関がボスニア内戦の死者数について調査をしている。それによると、ムスリム人20万人死亡説はボスニア政府がムスリム人の被害を過大に宣伝して国際社会の関心を引きつけるために流した、根拠のない数であることが明らかにされている。「旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷」の実態的人口統計班のエア・タビューとヤクブ・ビジャクの調査によると、「ボスニア戦争に関連する死者数の合計は10万2622人で、そのうち軍関係者は46%の4万7360人、民間人の死者は54%の5万5261人」だとした。これは3民族の犠牲者を合わせた数で、ムスリム人のみの死者数ではない。ボスニアに本拠を置く、「研究・文献情報活動センター・RDC(Reseach and Documentation Center)」が行なった選挙人名簿などを参照した調査では、ボスニア内戦中の3民族の死者総数は2006年12月の時点で、9万7826人と発表している。これはムスリム人だけでなく、セルビア人もクロアチア人も含めた死者数である。2つの機関の調査で見る限り、ボスニア戦争での3民族の死者総数は10万人前後であるとするのが妥当であろう。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ムジャヒディーン、ユーゴ連邦解体戦争におけるレイプ事件>
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ボスニア政府の誇張したレイプ被害を広めた米PR会社
ユーゴスラヴィア解体戦争の過程で、国際社会に心象的な「セルビア悪」を印象づけたプロパガンダの決定的要因となっ
たのは、ムスリム人女性へのレイプ報道である。
ボスニア政府は、広報を請け負った米PR会社のルーダー・フィン社を通してメディアにセルビア人勢力によるレイプ事件を誇大に流布した。セルビア人勢力がムスリム人絶滅を目的にした「民族浄化」の一環として、ムスリム人女性にセルビア人の子どもを大量に産ませることを意図したレイプ被害は数万人におよんでいる、という荒唐無稽なブラック・プロパガンダを展開したのである。メディアの中にはボスニア政府のプロパガンダをそのまま報じたものも多く、国際社会は憤りで沸き立った。
ボスニアのムスリム人もセルビア人も同じ南スラヴ族
ボスニアのムスリム人とセルビア人は概ね同じ南スラヴ族である。ただ歴史的な周辺国による支配の過程で宗教を選択したにすぎない。
その同族間の中の子どもが生まれてくる過程で、私はセルビア人だ、いやムスリム人だと叫ぶことはあり得ないので、民族浄化のためにレイプをするなどという考え方が生じるはずもないのだが、当時の知識人と称する者たちやメディアや政府関係者たちはこのレイプ民族浄化説を宣伝するのに一役をかった。戦争で最初に犠牲になるのは真実であると英国人は語っているが、このレイプによる民族浄化説それを示している。
レイプにより出産した赤ん坊が病院にあふれているとクロアチア政府とボスニア政府が宣伝
1992年11月、クロアチア政府とボスニア政府の情報省が、ムスリム人女性2万人がレイプ被害を受け、その赤ん坊が病院にあふれているとの情報を流した。ボスニアのムスリム人勢力とセルビア人勢力の対立が本格化したのは、92年4月に米国およびECなどがボスニアを独立国として承認してからである。レイプ事件が起こったとしても半年余りで赤ん坊が病院にあふれるはずもないが、欧米のメディアがこれに飛びついて大々的に報じたために、無視できなくなった欧州議会はアン・ウォーバートン(英)調査団をクロアチアのザグレブに派遣した。
ウォーバートン調査団は、たちまちクロアチア政府の妨害の壁に突き当たることになる。クロアチア当局はムスリム人のレイプ被害者に会わせず、被害者が収容されているという難民センターの調査もさせなかったのだ。そのような事実は存在しなかったからにほかならない。やむを得ず、ウォーバートン調査団は「いわゆるレイプをめぐるメディアの大々的な報道と、裏付けとなる文書証拠の欠如との間に落差がある」とのコメントを発表した。ところが、ウォーバートン調査団は難民収容所の調査ができなかったにもかかわらず、ボスニア政府の発表した数字を取り入れ、「ムスリム人女性のレイプ被害者数はおよそ2万人」との推定報告書を発表した。調査団を率いたウォーバートンは、数字の根拠を尋ねられたがそれを示すことは拒んだ。
国連の旧ユーゴ問題専門委員会の委員長だったオランダの国際法学者のフリッツ・カルショーフェンは、ウォーバートン調査委員会が提出した2万件のレイプ報告が専門委員会の事例証拠として採用されることに対し、法的信憑性を批判した後に専門家委員を辞任した。いかがわしい調査報告が、証拠として採用されることに法学者として耐えられなかったからである。
欧州議会の女性の権利委員会も、93年2月17日にブリュッセルで公聴会を開き、ウォーバートン調査団の報告を審議した。しかし、証拠が全くなかったために、この報告書は即座に否認された。だが、ウォーバートン調査委員会の報告書は安保理に提出され、後に旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYにも回された。ウォーバートン報告のムスリム人女性2万人レイプ被害数は根拠がないまま、こののちメディアや学者の言説に引用され続けることになる。
クロアチアの情報部員ツィゲリは怪しげな自身のレイプ体験を広める
1992年12月、ヤドランカ・ツィゲリというクロアチア人女性が、オマルスカ収容所に収容されていた時にレイプされたという体験を公言した。ツィゲリは複雑な経歴を持つ人物で、弁護士の資格を持ち、クロアチア情報センター・CICに所属し、フランクフルトに本部がある国際人権協会・ISHRのクロアチア支部副支部長でもあった。ISHRは、ナチス・ドイツの対ソ諜報機関の流れを汲むゲーレン機関の後継組織であるドイツ連邦情報局・BNDとつながりがあり、米CIAとも密接な関係を持つ組織である。ツィゲリは、それらの情報工作機関に所属する4つの名前を使い分ける人物だった。CICに所属し、ISHRクロアチア支部副支部長の肩書きを持つ女性が、戦乱の最中になぜボスニアに入り込み、オマルスカ収容所に収容されたのかは明らかにされていないが、クロアチア共和国のための何らかの使命を帯びていた可能性が高い。この人物の怪しげな身分に一般人が気付くはずもなく、彼女の証言は国際社会に多大な影響を与えることになった。
証言によれば、ツィゲリ女史はオマルスカ収容所に92年6月14日から8月3日まで収容されたが、その間に彼女をレイプしたのは1人のセルビア人の予備役将校であるという。その後、8月3日にトルノポリェ収容所に移され、そこに4日間留め置かれてから8月7日に釈放された、とのことである。釈放されたのちの92年12月、ドイツ議会で「ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける組織的なレイプ」について証言し、国際人権協会の小冊子に自身の体験を書いた。ツィゲリの活動の始まりである。ガットマン記者はツィゲリの被害をさらに誇張して報じるロイ・ガットマン記者は、93年2月21日のニューズ・ディ紙にツィゲリのインタビュー記事を書き、「大虐殺の証人」の著書の中でもそれを引用した。それによると、ツィゲリは「オマルスカ収容所」に収容された92年6月から8月までの間に複数のセルビア人から繰り返しレイプされた被害者であると、加害者を名指しして記述した。ツィゲリ自身は、加害者は1人だと言っているのだが、この食い違いがガットマンの単なる虚言癖のためなのかは明らかではない。ガットマン記者はこの点を聞かれても、曖昧な返事しかしなかったからだ。このようにして、レイプ被害は増殖して広げられていくことになった。ツィゲリはまたミネアポリス・スター・トリビューン紙の93年6月号に、クロアチア人であるにもかかわらず「ボスニアのムスリム人女性」として紹介されている。これは誤記ではなく、ムスリム人女性の被害を印象づけるための意図的なものと見られる。
時の人となったレイプ被害者ツィゲリ女史
その後、ツィゲリは次第にさまざまな場面においてレイプ発言を繰り広げていく。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどで繰り返しテレビに出演して体験を証言し、オマルスカ収容所では1万1800人が殺害されたと、証拠を握っているかのように述べ立てた。ツィゲリは、オマルスカ収容所があたかも絶滅収容所であるかのように表現したが、そのようなところからどうして彼女が4日間の収容で簡単に釈放されたのかの説明はしていない。ともかく、ツィゲリは被害者としてアメリカ連邦議会、大学や政治団体や人権団体などで誇張した話を講演して回った。その功績が認められ、ミネソタの人権女性協会から「国際的な女性の権利への傑出した功績」により表彰を受ける。しかし、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは、95年5月のセルビア人交通警察官のドゥシコ・タディッチの裁判で予定されていたオマルスカ収容所に関するツィゲリの証人喚問を取りやめている。クロアチア情報センター・CICの一員だったことが理由とされた。CICから寄せられた情報には誇張や誤りが多く、ICTYの捜査官はCIC関連の情報を使うことにためらいを抱いていたからである。
にもかかわらずツィゲリの活動は続き、96年には彼女自身が主演したドキュメンタリー「コーリング・ザ・ゴースト(沈黙を破ったボスニアの女性たち)」という映画が投資家ジョージ・ソロスなどの出資で製作された。この映画は、ムスリム人女性になりすましたクロアチア人ツィゲリの名演もあってさまざまな映画賞を受賞して名を馳せた。この映画で彼女が見せた内面の苦しみは多くの人々に感動を与えもしたが、そのように苦しむ人物が膨大な数の講演旅行をこなせることの不自然さを指摘するメディアはなかった。この映画の評判によって、エール大学、アメリカン大学、ボストン大学、カリフォルニア大学など、全米の大学での講演の範囲は広がっていった。これがまたメディアに注目されてさらにテレビ番組でも取り上げられ、ミズ誌の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。ツィゲリの講演旅行は成功し、セルビア悪説が増幅されて人々の心に刻み込まれた。
メディアは未確認情報を書き散らしてセルビアへの憎悪を煽った
ニューズ・ウィーク誌は、シライジッチ・ボスニア首相が「過去9ヵ月間にセルビア人兵士によるムスリム人女性へのレイプ事件が最大6万件起こされた」と発表したことを真に受け、7ページの特集記事を93年1月4日号に掲載した。この特集記述は、「難民たちの悲痛な証言では、ムスリム人女性に強制的にセルビア人の子を妊娠させるための意図的計画が語られ、6才の幼女に対する再三のレイプ、娼家と化した学校やホテル、被害者を死に至らせるほどの組織的レイプが行なわれた」とのセンセーショナルな内容でセルビア悪を煽るものだった。セルビア人の子どもを産ませるためのレイプと被害者を死に至らせることおよび幼女へのレイプは矛盾するが、シライジッチ首相の臆面もないブラック・プロパガンダを利用し、人々の倒錯意識につけ込んで読者を引きつけて販売量を増やし、同時にセルビア悪を印象づけることを狙った、メディアの歪んだ意図の典型がこのニューズ・ウィーク誌の特集である。この記事も、後にICTYの証拠リストに付け加えられている。
国連人権委員会による調査ではレイプ被害者は100人台
1993年に入り、国連人権委員会がレイプ被害の調査を行なっている。この調査は公平を期すために、クロアチア人、ボスニア人、セルビア人の各調査員を参加させて行なったもので、93年2月10日に調査報告を発表した。それによると、3民族の被害者が確認されたのは119件で、中でもムスリム人女性の被害者が最も多かったとの内容である。6万人の被害者と119件との数字の隔たりは余りにも大きいが、ムスリム人女性のレイプ被害者数万人との数字はこの後も繰り返し流された。
メディアは怪しげなジャーナリストや学者のヒステリックな論考を掲載し続けた
アン・レスリーは93年8月号のレディース・ホーム・ジャーナル誌に、「セルビア人兵士や民兵たちによる組織的なレイプの対象となったムスリム人女性は推定2万人」と記述し、さらに「ボスニア政府は5万人という数字を挙げている」とも記述した。ビビエンヌ・ウォルトは、マドモワゼル誌に「92年末の時点で、2万人から10万人のムスリム人女性がレイプされているが、そのほぼすべてがセルビア人の兵士や役人によるものだった。彼らは収容所で彼女たちを繰り返し集団レイプした」と書いた。当時ボスニアの人口は435万人で、ムスリム人は190万人、セルビア人は136万人、クロアチア人は75万人だった。このような人口構成の中で、戦闘中の半年余りの間に10万人がレイプされるなどという事象が起こりうる可能性がないことは、それほどの慧眼でなくとも理解できるはずだが、当時はこのような論調が飛び交った。
社会的風潮に便乗することも学者としての務めだと考えるのか、極端な論調を展開した学者としてマッキノンがあげられる。ミシガン大学法律大学院教授のキャサリン・マッキノンはミズ誌の93年9月号に「レイプからポルノグラフィーへ・ポストモダン時代の大量虐殺」なる論考を掲載した。この論考でマッキノンは、「民族抹殺による拡大路線には、セルビアのためのムスリム人およびクロアチア人女性へのレイプ、強制妊娠、拷問、殺害などが含まれる」、「その変質的行動は現在のセルビア人の性格の一部である」と記述した。変質的行動が民族の性格の一部となるなどということはあり得るはずもないが、学者としてのマッキノン教授がこの判断をするために参照した事例は、メディアを含む少数の伝聞情報である。このような論調が、ユーゴ連邦解体戦争の初期から一応の終結を見るまで続けられた。
真実を伝えようとしたジャーナリストは排除された
情報操作が行なわれている中、フランス人ジャーナリスト・ジェローム・ボニはレイプ被害取材のために、ボスニアのムスリム人勢力支配地域のトゥズラに調査に出かけた。はじめに得た情報では、トゥズラの高校に行けば4000人のレイプ被害者がいるといわれた。しかし20キロに近づいた地点ではその数は400人に減り、10キロの地点では40人になり、現場に着いてみると被害の証言に応じたのは4人だった。トゥズラはムスリム人勢力の支配地域であり、セルビア人が排除された地域なのでセルビア人による膨大な数のレイプ事件が起こるはずもなかったのだが、そのような起こりえない情報を流しては国際社会だけでなく周辺住民をも惑わしたのである。
極端な報道に同調しない記者も少数だが存在し、異なった情報を送稿したが、編集部で没にされたり、ユーゴ担当から外されたり、記者自身嫌気がさして去っていった。そのため、一方的な情報が主要メディアで繰り返し流され、一般の人々はもとより知識人や政治家などの脳裏にも刷り込まれていった。
国連当局は誇張されたレイプ被害に批判的だった
1994年1月、国連総会に提出された報告書は、ボスニアおよびクロアチア両政府の執拗な組織的レイプ告発を批判している。その上でボスニアの戦争犯罪委員会が提出した、レイプに関するあらゆる証拠書類を評価し、確認した結果、126人の犠牲者と252人の容疑者をリストにするとともに、欧州議会が作成したウォーバートン調査を否定した報告を追認した。だが、フィラデルフィア・インクワイアラー・マガジン誌は、直後にボスニア政府の流した5万人レイプ説の記事を掲載した。
無視された続けたセルビア人女性のレイプ被害
レイプ事件ではほとんどムスリム人女性が被害者として報じられており、セルビア人女性の被害は報じられていない。クロアチアのフェミニストたちがレイプはどの民族にも存在すると主張したところ、「共産主義の小娘」とか「ユーゴ連邦に幻想を抱いている者」とかの誹謗中傷の嵐に曝されて「魔女狩り」の対象とされるようになったため、沈黙を余儀なくされるということも起きた。
ボスニア・セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」の政府機関は、800人のレイプ被害について詳細な証拠を記述して国連と欧州議会に提出している。報告書によると、「92年5月にセルビア人女性がチェレヴィチ収容所で繰り返しレイプされた。92年7月、ムスリム人兵士のための売春宿に改造されたホテル・エウロパにセルビア人女性たちが監禁されてレイプされた。92年8月、サラエヴォの中央刑務所の5階にセルビア人女性が収容されて繰り返しレイプされた。92年8月、サラエヴォ駅に収容されたセルビア人女性が、ムスリム人特殊部隊に繰り返しレイプされているとして国連保護軍に釈放の支援を要請した」などである。だが、国連も欧州議会もこれを黙殺し、メディアもセルビア人女性の被害を報じることはなかった。
レイプ被害者を水増しした上で被害者救済施設を建設
国際社会は、執拗なレイプ被害のプロパガンダに呼応し、被害者救済施設を建設するための国際プロジェクトを組むことになり、実態調査をボスニアで行なった。あるボスニアの総合病院にもそのプロジェクトからの問い合わせがあり、担当医師はその病院でレイプ被害者を扱ったのは1人だけだったと報告した。ところが、プロジェクトからそのような人数では被害施設は建設出来ないから報告書を作成し直せと言われて、やむを得ずに200人と水増しして提出したが、それも拒否された。プロジェクトが作成した最終報告書では、その病院で扱ったレイプ被害者は2万人ということにされたので、病院関係者は愕然としたという。このようにレイプ被害者の数が水増しされて社会復帰施設は建設されたものの、もとより入所する者がいるはずもなく、立派な施設内は閑散としていた。
1999年に、ジャーナリストのエリザベス・サリバンはクリーブランド・ブレイン・ティーラー紙で、「旧ユーゴでは、内戦の期間を通して、西側の世論を動かすための数字の操作が行なわれていた」と結論づけている。
レイプはすべての民族が加害者であり被害者である
この問題の性質上、実態のすべてを明らかにすることには困難が伴うが、レイプ被害の公式の調査は繰り返し行なわれている。米国のカトリック系のデポール大学のプロジェクトは、ボスニア政府の宣伝機関が発表していた5万件のレイプ事件を裏付けるための調査をしていたが、500人から1673人がレイプされた可能性があるとの中間報告を作成したのち、最終的にはレイプ被害を105件とする報告を行なった。またデポール大学と投資家のソロスが共同で製作したデータ・ベース「レイプと性的暴行」では、専門家委員会が233回の面接を行ない、ボスニア出身の女性31人とクロアチア出身の女性11人をレイプ被害者として認定したことを概要報告で発表した。国連人権委員会が93年2月に行なった調査では、レイプ事件の被害者は119件としている。国連専門委員会が93年4月から7月にかけて行なった予備調査では、「113の事件で、126人の被害者、73人の目撃者、252人の容疑者」を特定した。この報告に基づいた94年1月に提出された国連報告書は、レイプに関する証拠書類を確認した上で126人の犠牲者をリストにしている。戦争では弱者に被害がしわ寄せされる。ボスニア政府やクロアチア政府および米PR会社ルーダー・フィンが流した数万人のレイプ被害の情報は、幾つかの調査で実態と乖離していることが明らかになったが、レイプ事件がなかったわけではない。戦争は狂気の世界をつくり出すからだ。94年に出された国連の「戦争犯罪に関する専門家委員会」による報告書では、最終的にすべての戦争当事者によるレイプは2000件に及ぶのではないかと推計している。他の調査などに比して多少多いように思われるが、セルビア人女性800人被害報告が事実だとすると、この専門家委員会の報告に記された2000件の推計値が、ユーゴ解体戦争におけるレイプ事件の実数に近いとも考えられる。
のちにカナダの制作会社が作成したTVドキュメンタリーでは、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人の女性たちのレイプ被害者の苦悩を表現しているが、そこではレイプによる被害者数は3民族合わせて1500人としている。
誇張されたレイプ被害報道は内戦に悪影響を与えた
内戦の初期にレイプ事件が数万件起こっているとの情報を流したボスニア政府とクロアチア政府のブラック・プロパガンダは、両国に国際社会の支援を引き寄せる効果はあったものの、紛争解決には著しい悪影響をもたらした。レイプ被害の偽情報や誇張はいたずらな怒りによる対立を煽ることになり、和平交渉を妨げ、紛争そのものを長引かせてユーゴ内戦をより悲惨なものにしたからである。偽情報に影響を受け、あるいはそれに乗じたジャーナリストたちが政治家や学者をも巻き込み、誇張されたセルビア悪説が世界の人々の脳裏に埋め込まれたため、単純な善悪二元論がはびこり、戦争そのものに対する誤った認識を植え付けることにもなった。それが、冷戦後もNATOが存在し続ける価値を付与し、NATO軍の軍事力行使に人道的の名を冠することを容易にし、NATOの東方拡大にも寄与することになったからである。
<参照;イゼトベゴヴィチ、ボスニア、クロアチア、強制収容所、メディアの報道、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY>
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中世にバルカン半島を支配したオスマン帝国は人種や宗教には寛大だった
かつてジプシーといわれたロマ人(ジプシー)は、北インド出自で中近東からヨーロッパにかけて居住しているが、バルカン地方には11世紀ごろに流入した。ユダヤ人は、ディアスポラによって欧州から中近東に居住していたが、15世紀にスペインでユダヤ人追放令が出されると、スファラディ・ユダヤ人はオスマン帝国が支配していたバルカン半島に多数が移住した。ヨーロッパでは、ユダヤ人やロマ人は宗教もさることながら生活習慣が異なることから厭われ、ドイツやポーランドで迫害を受けたアシュケナージ・ユダヤ人もオスマン帝国の支配地に移住した。オスマン帝国は、支配階級にはイスラム教の信仰を要求したが、一般住民には租税を納めさえすれば信仰にはほとんど干渉せず、ある程度の自治も認められていたことから、ユダヤ教徒やロマ人には住みやすいところと見られていたからである。
ナチス・ドイツおよび傀儡国家「クロアチア独立国」は民族や宗教迫害を行なう
1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。ナチス・ドイツは西ヨーロッパのほとんどを占領すると、ソ連への侵攻を視野において41年にユーゴスラヴィア王国を占領した。クロアチアのファシスト・グループ「ウスタシャ」はナチス・ドイツの侵攻を歓迎し、傀儡国家「クロアチア独立国」を設立し、スロヴェニア南部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を支配した。ウスタシャ政権はクロアチア独立国を設立すると、カトリック教徒の純粋クロアチア人国家を目指しつつ、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人と位置づける一方で、セルビア人、ユダヤ人、ロマ人など少数民族を迫害し、追放し、虐殺を実行した。セルビア正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけて3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺するとの方針を立てる。ユダヤ人は、ナチス・ドイツの「最終解決」に協力する形で、絶滅収容所に送るとともに自国の収容所内でも虐殺した。ウスタシャ政権による虐殺の舞台となったヤセノバッツ収容所群で、セルビア人は50万人から60万人、ロマ人は3万人、ユダヤ人は2万人が殺害されている。ウスタシャ政権の支配下にあったボスニアでも、クロアチア本国同様セルビア人だけでなくユダヤ人、ロマ人が迫害され、虐殺された。
ユーゴ連邦解体戦争中にクロアチアは純粋な民族国家を目指して少数民族を排除
ユダヤ人の多くは、第2次大戦で虐殺されるか追放されたことから、もともと実在数は少なかった。ロマ人はいずれの居住地でも少数派であるために、強力な民族の動向に同調して庇護を受けざるを得ない宿命を負っている。そのため、地域における力の逆転が起こると弱者の立場に転落し、報復の対象となることが多い。クロアチア内戦では、1995年に実行された純粋クロアチア人国家を目指した一連のセルビア系住民掃討作戦で、ロマ人もともに追放された。スロヴェニア内戦およびボスニア内戦のいずれでもロマ人は邪魔者扱いをされ、逃げ場所を失ったロマ人の多くは、セルビア共和国やモンテネグロ共和国に逃げ込んでいる。ユーゴ連邦解体戦争中、主要民族の難民についてはたびたび言及されたが、ロマ人やユダヤ人など少数民族の難民数や被害状況は無視され、全体としての正確な数字は明らかではない。
コソヴォ自治州も純粋アルバニア人国家を目指して少数民族を排除
99年3月にNATO軍が「ユーゴ・コソヴォ空爆」を実行し、78日間におよぶ空爆の後に、セルビア治安部隊はコソヴォ自治州から撤収させられた。コソヴォ解放軍・KLAとアルバニア系住民は、その直後の6月から、コソヴォ自治州では少数民族であるセルビア系住民やロマ人の追放や殺害を実行した。コソヴォ解放軍はコソヴォ自治州を純粋なアルバニア人国家とすることを目指して迫害したことで、セルビア人は20万人から9万人に減少し、ロマ人も4万人の居住者のほとんどが1年余りの間に追放されている。このとき、テロ行為に遭ったロマ人は290人で、殺害された者が55人、誘拐などの行方不明者が35人、負傷者は49人、などが記録されている。
<参照;バルカン、ユーゴスラヴィア連邦、クロアチア、コソヴォ自治州>
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刺激的な「民族浄化」を編み出した米PR会社
「民族浄化」の文言は、第2次大戦中のナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策を想起させ、「ジェノサイド」と同じように組織的な迫害、虐殺、追放を連想させ、ある種のおぞましさを抱かせる。それゆえに、民族浄化なる用語を使用するに際してはその行為が企図的・組織的なものなのか、それとも戦闘における付随的なものなのかを、明確に分別する注意深さが求められる。しかし、ボスニア内戦でボスニア政府の依頼を受けた米国のPR・広告宣伝会社のルーダー・フィン社は、この区別をすることなく、おぞましい連想を当て込んでこれを使い始めた。ボスニアのセルビア人勢力がクロアチア人やムスリム人の絶滅を企てて迫害し、虐殺し、排除する民族浄化を行なっているとするブラック・プロパガンダとしてである。この迫害の中には、セルビア人の子どもを産ませるためのムスリム人女性へのレイプが計画的に行なわれている、との荒唐無稽な民族浄化説も含まれていた。
旧ユーゴ連邦の民族構成は、コソヴォ自治州のアルバニア系住民を除けばほとんどは素ラヴ系住民である。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人もほとんどはスラヴ系住民であり、宗教信仰がイスラム教であるとして分類されたにすぎない。すなわち、宗教が異なるからといって、同じ民族間で争いが起こって相手を排除したとしてもいわゆる民族浄化なる概念には当てはまらない。レイプによる民族浄化計画などは起こりようがない。にもかかわらず、この内乱に関与した諸国やメディアは米国のPR会社が使い始めた民族浄化なる概念を多用してセルビア悪を広めた。それが無知ゆえか、悪意か、あるいは忖度であるかのいずれかを指摘することは難しいが、そのすべてを含むものといってもいい状態が現出し、内戦を悲惨なものとしたのである。
メディアがこの刺激的な用語に飛びついて使用したため、瞬く間に民族浄化はセルビア悪を象徴する文言として国際社会に浸透した。各国の政治家や政府高官たちも、セルビア側を非難するための常套句として民族浄化の用語を使用するようになる。これがユーゴ内戦の性格を著しく歪め、和平を難しくした。
支配地域での他民族排除は頻繁に行なわれていた
戦争は騎士道精神の発露ではなく、憎悪の発現となることは避けがたいため残虐な行為が表出される。内戦では特に近親憎悪として露骨に表出されることが多い。そのため、ユーゴ連邦解体戦争中に各住民勢力は、戦闘地域および支配地域において敵対勢力に対する迫害や排除を行なっている。ボスニア内戦では、セルビア人勢力、ムスリム人勢力、クロアチア人勢力の3勢力とも数多の民兵組織や準軍事グループが入り込んで地方政府とともに、局地的に他の勢力や住民を追い立てたり殺害したりするということが頻繁に行なわれた。戦闘によって支配下に置いた地域での敵対勢力は、排除の対象とされたからである。
各勢力の所行は決して看過できるものではないが、それぞれに残酷だったのであり、どの勢力が他の勢力より際だって残虐だったと決めつけることはできない。戦争そのものが野蛮で惨虐なものであり、敵対者に対する排除や追放、虐待・虐殺はあらゆる戦争で起こされている。しかし、これは戦闘に付随するものであり、通常民族浄化という文言は使用しない。民族浄化という文言は大規模に行なわれたナチス・ドイツのユダヤ人絶滅計画を連想されるものだからだ。ユーゴ連邦解体戦争ではどの勢力もそれなりに逸脱していたのであり、それが甚だしいものだったとしても、これらすべてが他住民勢力浄化を目的としていたものとはいえない。ただし、ユーゴ連邦解体戦争中に組織的な他住民勢力排除の対敵浄化に類似する事例は4度起こされている。
純粋クロアチア人国家の建設を目指したセルビア系住民浄化作戦
1つは、クロアチア共和国軍による95年の「稲妻作戦」から「嵐作戦」に至る一連の軍事作戦によるものであり、国連保護地域だった西スラヴォニア、ダルマツィア、クライナ地方などのセルビア系住民数十万人を追い立てたのがそれである。この両作戦の直前に、トゥジマン・クロアチア大統領は「セルビア人が事実上消滅するような打撃を与える」よう司令官たちに指図をしていた。クロアチア政府はこの一連の作戦時に「一定の家屋財産の暫定的接収と管理」なる法を適用して追放したセルビア人の家屋を含む財産を没収し、戻ることが不可能なように放火し、破壊した。トゥジマン・クロアチア大統領が両作戦の終了後に手を突き上げて喜びを表した映像がニュースで流された。クロアチア共和国軍は引き続きセルビア系住民の多数居住地である「東スラヴォニア」を攻略して純粋クロアチア人国家とすることを企図したが、国際社会の圧力を受けてこれを断念した。
クロアチア共和国政府の明白なセルビア系住民追放作戦によって、91年の国勢調査ではクロアチアに12.2%・56万人を占めていたセルビア人住民が、02年の人口調査では国連管理地区となった「東スラヴォニア」地方在住の4.5%の20万人に激減した。この一連の作戦には米国主導のNATO軍が関与していたが、ピーター・ガルブレイス駐クロアチア米大使は、「嵐作戦は民族浄化とする事例には当たらない」と弁護をしている。ユーゴ連邦解体戦争中にクロアチア共和国軍の一連の作戦に類する組織的な大敵勢力排除行為は存在しなかったことからすると、ガルブレイス大使の基準によれば、ユーゴ連邦内戦中には民族浄化はなかったということになる。
スレブレニツァ事件は「対敵勢力浄化」に該当するか
2つ目は、セルビア人勢力によるスレブレニツァのムスリム人勢力への殺害が、民族浄化の典型のようにいわれる事例である。スレブレニツァ事件の前、ムスリム人勢力はスレブレニツァが国連保護地域であることを利用してここを拠点として周辺に出撃し、セルビア人住民の村を破壊し、虐殺した。このため、セルビア人勢力はムスリム人戦闘員の行動を抑制する必要に迫られ、「クリバヤ95作戦」を立案して発動した。その際、戦闘その他で多数のムスリム人男性が殺害されたのは否定できないとしても、当該地のムスリム人の女性と子ども2万人前後をバスで安全地域に送り出していることを勘案すると、民族浄化には当たらないと解釈すべきである。つまるところ、ユーゴ連邦解体戦争中に、セルビア共和国政府やセルビア人勢力がムスリム人勢力浄化を政策的に行なったという証拠は見当たらない。
スレブレニツァにおけるムスリム人虐殺数は8000人説が国際社会で確定されたように扱われているが、虐殺はあったにせよその数をそのまま信じることにはさらなる検証が必要であろう。
「ユーゴ・コソヴォ空爆」時のコソヴォ難民の脱出
3つ目は、98年から99年にかけて発生したコソヴォ紛争において、セルビア治安部隊によるアルバニア系住民への民族浄化が行なわれていたとする説である。コソヴォ自治州の多数派を占めていたアルバニア系住民はスラヴ民族ではないので概念そのものは使用可能である。コソヴォ紛争は、アルバニア系住民の若者たちによるコソヴォ解放軍が武力によるセルビア共和国からの分離独立闘争を仕掛けたことで起こされた武力紛争であり、セルビア治安部隊がアルバニア系住民の排除を目的として始めたものではない。ところが、国際社会やメディアはあたかもセルビア治安部隊がアルバニア系住民をコソヴォから排除する民族浄化を実行しているかのように喧伝した。そして、実態を十分調査することなく、NATO軍による軍事介入が不可欠だとして安保理決議を回避した上で「慈悲深い天使の作戦」なる美辞を冠した「アライド・フォース作戦」を発動し、78日間に及ぶ空爆を実行した。しかし、のちの調査によれば、コソヴォ紛争で犠牲者となったのは、アルバニア系およびセルビア系を含めて1500人前後の「低強度紛争」である。これが多いか少ないかの評価は個々の事例を検証しなければならないが、少なくともNATO軍が安保理決議を回避してまで大規模な空爆を実行する必然性を前提とした民族浄化に該当する犠牲者数といえないことだけは確実である。
では、NATO軍の「アライド・フォース作戦」中にコソヴォの難民が多数出たことが、民族浄化に該当する事例であるかどうかである。99年3月のNATOのユーゴ・コソヴォ空爆中に、主としてアルバニア系住民およそ80万人余りが難民・避難民として周辺地域に逃れた。コソヴォ自治州の人口は当時200万人であり、このとき流出した難民・避難民80万人余は40%を占める。この難民・避難民の一部にセルビア治安部隊や民兵組織によって追い立てられた者が含まれていたことは否定できないにしても、難民・避難民の大多数はNATO軍の空爆を避けるために脱出した人たちであり、それに便乗したコソヴォ解放軍・KLAがセルビア治安部隊の非道さを浮き彫りにするために同胞を難民・避難民に仕立て上げた、という複合的なものであった。NATO軍の空爆による犠牲者が1000人前後であったことからすると、民族浄化を止めるために人道的介入の名を冠した緊急軍事行動が妥当な行為であったとは到底いえない。
NATO軍の空爆中のセルビア治安部隊の行動は限定的にならざるを得ず、民族浄化を意味するほどアルバニア系住民を排除することは不可能であったことを考慮すれば、NATO軍の空爆中にセルビア治安部隊が民族浄化を行なったとはいえない。
純粋アルバニア人国家を目指したコソヴォ解放軍
4つ目は、99年のNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆が停戦協定によって終了し、コソヴォ自治州からセルビア治安部隊が撤収した後に、帰還したコソヴォ解放軍や武装集団が報復的にセルビア人を追い立てた事例である。この時のコソヴォ解放軍・KLAの意図は、報復的行為と見せかけながら、コソヴォ自治州を純粋なアルバニア系住民のみの独立国家とすることを目標として、すべてのセルビア人を迫害し、殺害し、排除を実行した。コソヴォ自治州が純粋なアルバニア系住民の居住地となれば、国際社会もコソヴォ自治州の独立を認めざるを得ない、との目論見である。コソヴォ解放軍とアルバニア系住民による迫害によって、1991年の調査で20万人居住していたセルビア人は、2000年には9万人ほどに減少している。このKLAの迫害と追放作戦によって、民族の混住地だった州都プリシュティナ市には、セルビア人は1人も居住しないほどに純粋なアルバニア系住民の都市となった。このためセルビア系住民が多数居住している北部のミトロヴィツァ周辺は、NATO軍主体の和平安定化部隊・KFORに守られなければ居住することが不可能な事態になっている。この間、コソヴォ解放軍はセルビア南部およびマケドニア北部のアルバニア系住民多数居住地を割譲して「大アルバニア」建設を目指して両地域軍事侵攻したが、これは成功していない。
このKLAとアルバニア系住民の行動は、純粋アルバニア人国家の建設を意図して行なった軍事行動であることから、セルビア人追放を目的とした民族浄化に該当するといっていい。
<参照;クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応、EC・EUの対応、ユーゴ連邦解体戦争におけるレイプ事件>
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強制収容所の呼称はナチス・ドイツの絶滅収容所を連想
「強制収容所」で想起されるのは、第2次大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人を収容したアウシュヴィッツに代表される絶滅収容所である。ユーゴスラヴィア連邦解体戦争では、92年4月にECおよび米国がボスニアの独立を承認したことによる武力衝突が激化し始めた直後の6月、ボスニア政府の広報を請け負った米PR会社のルーダー・フィン社が、セルビア人勢力が組織的な「民族浄化」を行なっており、そのための「強制収容所」を設置していると、各国の政府機関やメディアにファックスを流したことに始まる。ルーダー・フィン社は、「強制収容所」、「捕虜収容所」、「難民収容所」の違いを明確にして取り上げていたわけではない。しかし、これ以来、ユーゴ連邦解体戦争では一貫してセルビア人勢力側のみが強制収容所を建設して民族浄化を行なっているとして、非難の対象とされ続けることになった。
収容所は既存の兵舎や鉱山や学校などの公共施設が流用された
この種の非難には権益と政治的意図が見てとれるが、旧ユーゴスラヴィア連邦内のセルビア共和国、モンテネグロ共和国、マケドニア共和国には他民族の拘禁施設は存在していない。これらの共和国は解体戦争の内戦に直接関与していなかったからである。強制収容所の存在が問われるのは、内戦を行なったスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいてであり、それらの共和国の民族勢力は内戦が始まるとそれぞれに収容施設を設置した。各共和国が政治交渉を疎かにして独立を宣言したために、内戦に突入した際に収容施設を建造する時間的余裕はなく、各戦闘勢力とも共通して工場、倉庫、鉱山、学校、公共施設およびユーゴ連邦人民軍が撤退した後の兵営など既存の建造物を収容施設として流用した。
内戦の構図をねじ曲げたガットマンの虐殺報道
ボスニア内戦で、セルビア人勢力の収容所を非難の対象として増幅させたのは、ルーダー・フィン社に続いて強制収容所についてのルポ記事を書いたロイ・ガットマン記者である。彼は、92年8月に「オマルスカ収容所」に関するルポ記事をニューズ・ディ紙に発表した。ロイ・ガットマン記者は、ルポ記事の形式を採っていながら現地に足を運ばず、200キロ離れたザグレブに滞在してクロアチア共和国政府が提供した施設に居座り、クロアチア政府とボスニア政府の情報および噂やクロアチアに来たムスリム人などへの聞き取りでセルビア人勢力の強制収容所の記事を仕立て上げたものだった。「オマルスカ収容所には8000人が収容されており、そこでは拷問やレイプが繰り返し行なわれた上、2万から2万5000人が虐殺された。その最悪の期間は92年6月と7月だった」と記述したのである。ボスニアにおいてムスリム人勢力とセルビア人勢力との間で対立が先鋭化したのは、ECおよび米国がボスニアの独立を承認した92年4月以降である。対立が激化して2,3ヵ月の間に、1つの収容所で2万人を超える人間が収容された上に殺害されるという異常な状態が現出するとは考え難い。これは、ロイ・ガットマンの悪意が犠牲者を誇大に捏造したものと見るべきだろう。
因みに、赤十字国際委・ICRCによる調査では、より紛争が激化した93年1月の時点で、ボスニア全土の各民族の収容所での収容者は1万8000人であるとした。これは各民族組織による収容者が含まれた数であり、これから類推しても、それより半年前に大量の収容者が存在し、2万人以上が殺害されたとは考え難い。
難民収容所を強制収容所として報じたイギリスITNテレビ
国際的な圧力を受けたボスニア・セルビア人勢力は、悪意ある報道を払拭するために収容所の取材を許可する。それに伴いイギリスのインディペンデンス・テレビ・ニュース・ITNのクルーが、ボスニア・セルビア人勢力指導者のカラジッチの許可を得て、「オマルスカ収容所」と「トルノポリェ収容所」の取材をした。そこでITNクルーが見たのは、いわゆる難民収容所にすぎないものだった。当時、ITNの取材クルーは編集の上層部から、一般の難民収容所ではニュース・バリューがないからセルビア人勢力の強制収容所を探せとの指示を受けていた。ITNのクルーとしては、この難民収容所をそのまま撮影したのでは番組として採用されないことは明らかだったから、映像に工夫をこらす必要に迫られた。そこで、ITNのクルーがトルノポリェ収容所で考案したのが、有刺鉄線の向こう側に上半身裸の痩せた男フィクレット・アリッチを配置することだった。この映像が92年8月5日に放映されると、セルビア人勢力が収容者を虐待しているものとして、囂々たる非難の声がヨーロッパを席巻した。
ITNがアリッチらにインタビューするところをセルビア人勢力の撮影班が撮影しているが、ITNクルーの周辺には有刺鉄線は存在せず、4本の杭の上部に張られた幅1メートルほどの有刺鉄線は電気設備や倉庫の周囲に、保安のために張られたものであることを示していた。有刺鉄線は、杭との位置関係からして収容者を囲っているのではなく、ITNクルー側にある電気施設や倉庫を囲うものだったのである。地元の人たちは、トルノポリェ収容所一帯は抑留でも捕虜収容所でもなく、避難してきたムスリム人の収容施設で、難民たちはいつでも収容所の地域から出ることはできたと証言した。トルノポリェ収容所は強制収容所ではなく、学校の校舎、公民館だった建物を使用した、赤十字国際委員会・ICRCも出入りしていた難民収容所だったのである。ITNのジャーナリストのペニー・マーシャルらは、それを知悉していながら編集部の求めに添うように有刺鉄線を強調し、ボスニアでのセルビア人勢力の強制収容所として放映した。タイム誌の表紙を飾ったのも、これと同じ構図の写真である。それが人々のイメージにあるナチス・ドイツの強制収容所を連想させるものとして印象づけられ、ガットマンの記事も引き合いに出されて騒ぎ立てる者たちが現れたのである。
ボスニア・セルビア人勢力が、国際的な非難を浴びることになるような収容所の取材を許可することなどあり得ないが、ありふれた難民収容所であってもメディアによってセンセーショナルな物語に仕立て上げられることがあり得る、とは考えおよばなかったための騒動となった。ITNの別のジャーナリストは、著書でカラジッチの目算違いだったろうと粗雑な感想を記している。
ボスニア政府は機に乗じて偽情報を流し国連安保理も非難決議を採択する
ムスリム人勢力のボスニア政府はこの機を逃さず、セルビア人勢力が45の強制収容所を設置しているとのリストを周到に作成して発表し、米PR会社ルーダー・フィンがこれを「ボニファックス通信」として関係筋に広めた。ボスニア政府のリストでは、赤十字国際委員会が自由に出入りしている難民キャンプをも強制収容所としており、オマルスカ収容所の3000人から5000人の収容を1万1000人が収容されていると水増しして記載した。これがITNニュースの映像と重ね合わされて大きな影響力を発揮し、国連安保理でも「ボスニア政府代表部からもたらされた文書に基づき」、という表現で非難決議が採択されるまでになった。次いで国連人権委員会も臨時会議を開き、ITNの映像を上映した上で、非難決議を採択した。
ボスニア政府は、オマルスカ収容所やトルノポリェ収容所を歪曲して宣伝するだけであきたらず、トゥズラのセルビア人勢力の収容所でムスリム人女性がレイプされているとの情報を流し、メディアにそれを報じさせた。しかし、トゥズラはムスリム人勢力が支配している地域であり、ボスニア政府が運営する収容所はあったが、セルビア人勢力側の収容所があるはずもなかった。だが、そのような虚偽情報が世界に発信されたことで、この情報を信じて調査に出かけたジャーナリストもいた。ドイツもボスニア政府の情報を真に受け、セルビア人勢力の強制収容所の存在を確認するために偵察機を飛ばすことまでしたが、それらしいものを発見できていない。
ボスニアのセルビア人勢力は、この強制収容所騒ぎを軽く見ていたふしがある。セルビア人共和国として組織的ないわゆる強制収容所などは設置していないとの確信を持っていたからのようだ。だが彼らの思惑とは別のところで、セルビア人勢力の収容所はすべて強制収容所との印象が一人歩きをし、取り返しがつかないほどのセルビア悪の印象が国際社会に浸透した。一度決めつけられたセルビア悪は、米PR会社がセルビア人勢力との契約を拒否したことと合わせ、国際社会がセルビア人勢力の弁明をまともに受け取る姿勢を失ったことによって、二度と改善されることはなかった。
セルビア人勢力の収容所の実態
ボスニアのセルビア人勢力は、工場や倉庫、小学校や公民館などすべて既存の建造物を収容所として利用した。もとより、施設は人間を収容するには劣悪であり、セルビア人側が経済制裁を受けていたこともあって食事も粗末であった。セルビア人勢力が設置した主な収容所は3つであるトルノポリェ収容所は小学校や公民館を利用した中継点としてつくられた難民収容所で、施設と外部を隔てる鉄条網などもなく、男性だけでなく女性や子どもなど延べ数千人を収容した。しかし、ここでも時折通りすがりの民兵組織などによる、拷問や殺害はあった。トルノポリェ収容所はITNのニュース映像による非難を受けて間もなく閉鎖されることになるが、国連と赤十字国際委が収容者を安全な場所に移動させてくれるとの噂が流されたため、膨大な数のムスリム人の家族が押し寄せるということが起こった。英ITNのニュース映像とは異なり、トルノポリェ収容所は比較的安全なところと見られていたのである。
オマルスカ収容所は鉄鉱山の施設の一部を転用した収容所で、戦闘による捕虜および治安当局の情報に基づいて勾留された捕虜の一時的集積所とされ、自民族の戦犯容疑者とされた者もこの収容所に集められた。延べ数千人が収容され、大半はムスリム人男性だったが、少数のムスリム人女性やクロアチア人やセルビア人の犯罪者も収容された。もちろん戦闘中のこととて、ときには管理者や主として外部からやってきた民兵野戦部隊による恣意的な拷問や虐待、殺害も行なわれた。
ケラテルム収容所は製陶工場を転用したもので、成人男性用の一時的な捕虜収容所である。最盛時には1400人が収容されたが、施設は劣悪で食事も粗末であるかまたは与えられず、人間扱いをされているとは言い難い状態だった。ここでも民兵や地方行政組織の役人たちが思いつきや報復的な虐待や殺害を行なった。
ただし、セルビア人勢力のスルプスカ共和国の正規軍は規律も取れていて、支配地での排除は行なわれたが、収容所における組織的な虐待や虐殺を行なうことはほとんどなかった。
劣勢だったクロアチア人勢力のムスリム人への虐殺は組織的に行なわれた
ボスニアのクロアチア人勢力は、当初は穏健派が権力を掌握していたが、クロアチア共和国の大統領にトゥジマンが就す
ると、強硬派のマテ・ボバンが権力を握り「民族的領域という意味での我々の地位を確保する」と宣言し、早くも92年10月にはムスリム人勢力に対し、支配領域を確保するための戦闘を仕掛けた。その後はボスニア政府と軍事協定を結び、セルビア人勢力に対する共同戦線を形成したが、93年のヴァンス・オーエン和平国際会議両共同議長による10カントン・州分割裁定案が不成立に終わると、再びムスリム人勢力との間で激しい領域争いの戦闘を始め、それに伴って収容所が急造された。クロアチア人勢力の収容所も既存の施設を利用していた。ユーゴ連邦軍の武器庫だった倉庫やヘリ基地を転用し、激しい戦闘を交わしたムスリム人が多数収容された。ムスリム人への偏見も加味し、看守やクロアチア人兵士の対応は恣意的で粗暴な対応をした。持ち物を巻き上げ、殴打や暴行は日常的で、塹壕堀りなどの強制労働をさせ、思いつくままに拷問や銃殺をし、レイプもした。クロアチア人勢力が設置した主な収容所は5つある。「カオニク収容所」は、ブソヴァチャ郊外にある連邦人民軍の武器庫を転用したものである。捕虜収容所の収容者のほとんどはムスリムの市民で、400名あまりを収容した。待遇は、食事が満足に与えられないなどの劣悪さにとどまらず、日常的な暴行や虐待が行なわれていた。ムスリム人勢力との熾烈な攻防戦が繰り広げられたモスタル市には、連邦人民軍のヘリ基地を使用した「ヘリオドゥロム収容所」が設けられた。戦闘が激化するにつれてムスリム人の収容者が激増し、最大で6000人が拘禁された。劣悪な施設であることはいうまでもないが、塹壕堀などの強制労働だけでなく、人間の盾にもしてほしいままな虐待、殺害が常態化していた。他にも主な収容所として「ヴォイノ収容所」や「リュブシュキ収容所」が上げられる。クロアチア人勢力の収容所の運営は、個別的な恣意性だけでなく組織性も窺える。ボスニアのクロアチア人勢力はクロアチア共和国軍による訓練を受けていただけでなく、直接正規軍の武力支援を受けており、クロアチア共和国との間で「大クロアチア」の建設が企図されていたため、支配地からムスリム人を排除することが意図的に行なわれていたからである。
ムスリム人勢力は被害者を装ったが収容者への残虐性ではぬきんでていた
ムスリム人勢力としてのボスニア政府も支配地域で収容所を無数に設置した。コーニッツァには14の収容所があり、そのうち「チェレヴィチ収容所」が最大である。チェレヴィチ収容所はユーゴ連邦人民軍の基地だったものを、軍事基地と収容所に転用した。面積は5万平方メートルと広大で、クロアチア人勢力とムスリム人勢力が共同戦線を形成していた際には、双方の軍事基地としても使用した。両勢力のセルビア人収容者に対する扱いは無秩序で、拷問、レイプ、殺害がほしいままに行なわれた。ボスニア政府は、ゴラジュデ、ジェパ、スレブレニッツァを支配し、ゴラジュデには3ヵ所の拘禁施設と、5つの収容所を設置した。
1993年夏以降クロアチア人勢力との戦闘が激化したが、ムスリム人勢力は中央ボスニアで優勢となり、6つの自治体からクロアチア人を追放。187のクロアチア人の村を破壊し、収容所に4500人を収容した。施設にはクロアチア人およびセルビア人の双方が拘禁された。ムスリム人勢力の収容所での残虐性は、恣意的な虐待にとどまらず、施設から生きて釈放されたものはほとんどいなかったといわれるほど殺害が徹底して行なわれた、というところにある。
セルビア人およびクロアチア人両勢力との違いは、ボスニア政府のブラック・プロパガンダによってセルビア人側が強制収容所で虐待や虐殺を行なっているとする説が末端でそのまま信じられたため、セルビア人に対する憎しみを増長させた結果、徹底して報復的な虐待や虐殺が行なわれた。EU、米国、NATOによるセルビア人側の強制収容所に対する非難騒ぎは、お互いの憎しみを煽っただけで和平には何らの役割も寄与しなかったどころか、悪影響を与えていたのである。
96年3月、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは、ボスニア政府の収容所についての調査を行なっている。それによると、サラエヴォのタルチンにある穀物サイロが、96年3月の時点でも収容所として存続していることが明らかとなった。このタルチンの穀物サイロ収容所は92年5月に開設され、最大時には600人のセルビア人男女が収容されていたが、ボスニアの「デイトン和平合意」がなされてから8ヵ月を過ぎても、ムスリム人勢力側は憎悪を抱き続けてセルビア人収容をしていたのである。
国際機関によるボスニアの3民族勢力の収容者調査
ユーゴ連邦解体戦争中の収容所の全体像は、必ずしも明らかにはなっていない。93年当時、赤十字国際委員会はボスニア内戦で収容された収容者の数は最大時1万8000人で、現時点は2924人と発表。そのうち、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の収容者数は1564人、セルビア人勢力の収容者数は1360人とした。94年に国連が発表した収容者数は、赤十字国際委の数字を参考にしながら、93年12月31日の時点で、ボスニアでの収容者は5500人であると発表。そのうち、40%がボスニアのクロアチア人勢力による収容者でおよそ2200人、25%がボスニアのムスリム人勢力による収容者で1375人、13%がボスニアのセルビア人勢力よるもので715人、22%が西ボスニア共和国で収容された1210人である。しかし、その後も激しい戦闘が行なわれたことで、収容者の数も増大したことは疑いない。
セルビア共和国による戦後の収容所の調査
02年に設立した「セルビア人共和国被収容者連合同盟」の調査では、セルビア人を収容した収容所は、スロヴェニア共和国に21,クロアチア共和国に222,ボスニアのサラエヴォに126、全体でセルビア人を収容した収容所は563あり、そこでセルビア人が殺害されたと発表している。この調査による、セルビア人勢力側の収容所の記録は発表されていない。
一方的なセルビア悪説が相互の憎悪を助長して各民族の犠牲者を増大させた
戦争における拘禁施設はほとんどの場合強制性を伴うので強制収容所の定義は困難だが、ナチス・ドイツの強制収容所やアフガニスタン戦争およびイラク戦争などで拘束した収容者を拘禁している米軍のグアンタナモ収容所や幾つかの国に設置している秘密収容所に該当する強制収容所なるものが、ユーゴ内戦で設置されていたという確たる証拠はない。
しかし、内戦では近親憎悪的な意識が働き、国家間の戦争よりも残虐性を発揮しがちであり、3民族それぞれが数多の拘禁施設や収容所を設置してほしいままな殴打、拷問、虐待、殺害、レイプを行なったことは否定できない。ただし、ナチス・ドイツの絶滅収容所を想起させる強制収容所なる文言を濫用することは、妥当性を欠いている。国際社会の一方的なセルビア悪説は、他の民族勢力の虐待や虐殺を覆い隠す役割を果たしただけでなく、相互の憎悪を助長させて和平を遠ざけるという悪影響をもたらし、結果として犠牲者を増大させることになったからである。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ユーゴスラヴィア連邦> ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
国際社会は惨虐な事件はすべてセルビア人勢力の行為とする
94年2月5日、ボスニアのサラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こり、死者が64名、負傷者が200名という大惨事となった。メディアは、これをボスニアのセルビア人勢力の犯行として報じた。事件が起こったとき、米ABCのピーター・ジェニングスのテレビクルーが近くを走っていた。ジェニングスのクルーがいるときには必ず何かの事件が起こると囁かれていたが、この時も米ABCは直ちに中継放送を実施し、ムスリム人たちが被害者であることを強調して放送した。
ボスニアのセルビア人勢力側は関与を否定し、国連保護軍・UNPROFORに合同調査委員会の設立を求めたが無視された。国連保護軍のローズ司令官は、マルカレ市場への砲撃は遠方のセルビア人勢力の120ミリ砲ではなく、近傍のボスニア政府軍の迫撃砲による砲撃でなければこのような惨害は起こりえないとの証拠を握っていた。国連軍は、サラエヴォを見下ろす丘の上に監視ポストを設置し、砲弾や大型弾をピンポイントで追跡できるセンサーを設置していたからである。センサーは、市場への砲撃が近接地点からほぼ垂直に砲弾が撃ち込まれたことを示していた。このような近接地点にセルビア人勢力の砲は配置されておらず、ボスニア政府軍の迫撃砲弾であることは明白であった。
しかし、国際機関は国連軍の実態把握も、セルビア人勢力の要請も無視してセルビア人側が犯人であるとの前提で対応した。欧州連合・EUは、サラエヴォ市街を臨むイグマン山のセルビア人勢力の部隊の撤退を求め、それに従わない場合にはNATO軍の空爆を求める共同声明を採択した。ガリ国連事務総長もNATO軍に対して空軍力行使の準備を要請する。NATO軍はこれに応じ、セルビア人勢力軍とボスニア政府軍に対し、2月11日中にサラエヴォから重火器を撤去してUNPROFORの管理下に引き渡すこと、実行されない場合は空爆を実行すると通告した。
ニューヨーク・タイムズ紙はムスリム人犯行を示唆する記事を握りつぶす
ニューヨーク・タイムズ紙のデービッド・バインダー記者は、この事件について国連高官の「ムスリム人が迫撃砲を発射したと確信している」との発言を含む記事を送ったが、編集部がこれを握りつぶしたため報じられることはなかった。94年2月21日のタイム誌とニューズ・ウィーク誌はマルカレ市場砲撃事件での犠牲者はムスリム人だと示唆したが、犠牲者の名前の前にセルビア正教の十字とキリル文字が記されていた。ムスリム人の遺体に正教の十字架が飾られることなどあり得ないが、これほど露骨な、誤った記事が横行していたのである。だが、明石康国連特別代表は精力的にセルビア人勢力側とボスニア政府側と交渉し、サラエヴォ近郊に設置されたセルビア人勢力側の大砲225門、ボスニア政府側の大砲43門を、国連保護軍・UNPROFORに引き渡すことを認めさせる。この明石特別代表の尽力によって、この時はともかくNATO軍の空爆は回避された。
ボスニア内戦はムスリム人勢力セルビア人勢力クロアチア人勢力による三つ巴の内戦
当時のブッシュ米政権は当初、ユーゴ問題への介入には慎重な姿勢を示していた。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補すると、ブッシュ大統領のユーゴ連邦への対処が生温いと批判したことでこれが政争の具と化した。これ以降米国政府の方針は強硬策へと傾いていく。そして、1993年1月にクリントンが大統領に就任するとセルビア悪を前提とした対処策一辺倒となった。
しかし、ボスニア紛争はボスニア政府とセルビア人勢力との武力衝突だけが行なわれていたわけではなかった。クロアチア人勢力は、早い段階からムスリム人勢力の居住地をクロアチア人の支配地とするべく武力攻撃を行なっていたのである。特に93年5月には、モスタル市をヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の首都とすることを企図し、ムスリム人居住地への激しい攻撃を仕掛けた。モスタル市はボスニア政府軍の第4軍団の防衛地域であったことからネレトヴァ川を挟んで厳しい砲撃戦となり、ネレトヴァ川に架かっていた6つの橋はすべて破壊された。
米国政府はセルビア人勢力征圧のための「新戦略・ワシントン協定」を3勢力に結ばせる
クリントン米政権は、このクロアチア人勢力とボスニア政府の武力衝突には少なからず戸惑った。しかし、セルビア悪を前提としたユーゴ連邦解体戦争政策を改めることはなく、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧させるために「新戦略」を策定する。
1994年3月、米国はクロアチア共和国、ボスニア政府、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の3勢力をワシントンに呼び寄せ、新戦略に基づく「ワシントン協定」を受け入れさせた。ワシントン協定の真の目的は、3勢力を統合した共同作戦を実行させてセルビア人勢力を征圧するところにあった。そして、94年の1年間は統合作戦の準備に充てられる。
95年1月、トゥジマン・クロアチア大統領は新戦略に基づく作戦の準備が整うと、国連保護軍・UNPROFORの存在が和平の妨げになっているとの理由を付けて撤収を要求する書簡を国連事務総長に送付する。国連安保理はそれに応じ、決議981~983を採択してUNCRO、UNPROFOR、UNPREDEPに3分割し、クロアチアには縮減された国連信頼活動・UNCROが残された。クロアチア共和国軍は国連保護軍の移動を見届けると、5月1日にクロアチアのセルビア人居住地の「西スラヴォニア」を攻略。次いで7月にはクロアチア共和国軍がボスニア領内に越境し、ボスニア連邦軍と共同でボスニア・セルビア人勢力が支配していたクライナ・セルビア人共和国に至る幹線の要衝であるグラホヴォとリヴノを占領した。目的は、次に予定していた「嵐作戦」を発動した際、ボスニア・セルビア人勢力がクライナ・セルビア人勢力の支援に赴く可能性のあるルートを遮断することにあった。
そして8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員した大規模な「嵐作戦」を発動し、ボスニア連邦軍との共同作戦を実行に移してクライナ・セルビア人共和国の殲滅作戦を展開した。クライナ・セルビア人共和国軍は4万弱の兵員しか確保できなかったことからたちまち総崩れとなり、住民ともどもクロアチアから脱出したことでクライナ・セルビア人共和国は崩壊した。
クロアチア共和国軍は次いで純粋クロアチア人国家にするために「東スラヴォニア」の攻略に取りかかったが、これは西側諸国の圧力を受けて断念する。そこでクロアチア共和国軍は「ミストラル作戦」に切り替えてボスニアに侵攻し、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府が置かれているバニャ・ルカ攻略に取りかかった。ボスニア政府軍は、共調して近傍のヤイツェなどを攻略。引き続きクロアチア共和国軍とボスニア政府軍は共同作戦を実行し、ボスニア・セルビア人勢力の支配地の奪還を図った。
第2のマルカレ事件もセルビア人勢力の犯行としてNATO軍は空爆実行の口実とした
この共同作戦が継続している最中の95年8月28日、前年と同じサラエヴォのマルカレ市場の近くで爆発事件があり、38名が死亡し、89名が負傷する、という第2のマルカレ事件が起こされた。ボスニア政府は、すぐさまセルビア人勢力による砲撃として非難声明を出し、セルビア人勢力はこれを否定して調査委員会の設置を要請する。しかし、NATO軍は調査をするいとまを与えず、1日あまり後の8月30日の早朝、「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動した。
この作戦で米軍は、空母セオドア・ルーズベルトおよび周辺の18の空軍基地から攻撃機を発進させてセルビア人勢力の支配地域に対し波状攻撃を実行し、英・仏・蘭3国による国連緊急対応部隊・RDFも陸上の攻撃に加わった。このNATO軍の武力攻撃は明石国連事務総長特別代表を指揮系統から外し、NATO軍のスミス南欧軍司令官とジャンビエ国連保護軍司令官の制服組が空爆の権限を掌握した中で行なわれた。NATO軍はボスニア・セルビア人勢力支配地域に対し凡そ3000回の空爆を実行し、兵力1万数千人を擁した英・仏・蘭の緊急対応部隊は600発の砲撃をセルビア人勢力側に浴びせるなど、熾烈な武力攻撃は2週間に及んだ。ボスニア連邦統合軍とクロアチア共和国軍は、NATO空軍と英・仏・蘭の緊急対応部隊と共調し、セルビア人勢力の拠点を攻撃して各地を制圧していった。ボスニア連邦軍とクロアチア共和国軍はNATO軍が空爆を停止した後も攻撃を続行し、ボスニア全土の50%を超えるほどの勢いで支配領域を拡大した。NATO軍を含む5者の圧倒的な軍事力による攻撃を受けてもセルビア人戦力の戦闘意欲は衰えなかったが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言もあって和平交渉を受け入れた。
マルカレ市場の砲撃事件はセルビア人勢力を屈服させるための作為
第2のマルカレ市場事件の際も、国連保護軍は前年と同様サラエヴォ市を見下ろす丘の上の監視ポストの監視センサーで砲弾の曳光を感知していた。だから、マルカレ市場への砲撃は近接地点の迫撃砲か仕込み爆弾で行なわれたものであり、実行者は近傍にいたムスリム人勢力以外にはあり得ないことは察知していた。しかも、セルビア人勢力軍は明石国連特別代表との交渉で大砲を国連保護軍に引き渡しており、遠距離の砲撃は不可能な状態にあった。
英ロイター通信は、国連軍士官で砲術専門のアンドレイ・ムデレンコ大佐が独自調査によってセルビア人勢力の犯行を否定したとの記事を配信したが、既に空爆は始められていたために無視された。のちに英サンディ・タイムズ紙も現地を調査した国連の英専門家がセルビア人勢力の攻撃だった証拠は一切なく、むしろムスリム人主体のボスニア政府軍の行為だった可能性があると報告したが、国連保護軍は却下したと報じている。このような可能性があったにもかかわらず、検証を省いてNATO軍がセルビア人勢力への空爆を急いだのは、事実が広まる前にセルビア人勢力を屈服させる戦略を実現させるためだったからに他ならない。
のちに国連保護軍・UNPROFORは、このマルカレ市場への砲撃はムスリム人勢力が実行した可能性がある、と指摘した報告書を安保理に提出した。しかし、すべては終結した後であり、この事実が検証されることはなかった。ムスリム人勢力が自爆攻撃ともいえるマルカレ事件を起こした理由は、セルビア人勢力の犯行と見せかけて国際社会の非難を誘発し、NATO軍にセルビア人勢力への空爆を実行させるところにあった。否、むしろこのマルカレ事件は新戦略に組み込まれていた戦術だった可能性の方が高い。
<参照;NATOの対応、米国の対応、欧州共同体・EC・欧州連合・EUの対応>
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欧州共同体・ECがユーゴ連邦の分離独立問題を処理するために設置した仲裁委員会
1991年6月25日にスロヴェニアとクロアチアの両共和国がユーゴ連邦からの分離独立宣言を強行したために、両域に駐屯していたユーゴ連邦人民軍との間で武力衝突が起こった。そこで欧州連合・ECは8月、ユーゴ連邦各共和国の独立の適否を判断するための「仲裁委員会」を、「旧ユーゴ和平会議」とともに設置した。委員長のフランス人ロベール・バダンテールの名をとって「バダンテール委員会」と称し、委員はEC加盟5ヵ国の憲法裁判所判事などで構成された。委員会の任務は、ユーゴ連邦からの分離独立を図っている各共和国の独立の法的ならびに政治的適格性を、ECの立場から検討することにあった。国際法上、国連とは別の一地域の連合体であるECが設置した委員会が国家の独立の適否を判定することの可否は問われなければならないが、バダンテール委員会にはそのような国際法を超えた任務が与えられた。
ECは91年12月に外相会議を開き、「東欧とソ連の新国家承認に関する指針についての宣言」を発表する。そこで合意された国家承認の基準は、「1,国連憲章およびヘルシンキ憲章の遵守。2,少数民族の権利の保障。3,現存の国境線の尊重。4,政治紛争の交渉による解決」などである。バダンテール委員会はこのECの基準に則ってユーゴ連邦各共和国の独立問題を審査することになり、「1,ユーゴ連邦を構成する各共和国がECに対して独立承認を申請する締め切り日を12月23日とする。2,条件を満たすと判断された共和国は、92年1月15日には承認される権利が付与される」とのスケジュールを発表した。このような短期間に国家の独立の適否を判断することが可能なのか疑問なしとしないが、ともかく締め切り日までに申請した共和国は、スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの4共和国である。ところが、早くからスロヴェニアとクロアチアの独立を画策していたドイツ政府は、ECの一員でありながらバダンテール委員会の存在そのものをも無視し、委員会の正式の報告書が出されるより前の12月23日にスロヴェニアとクロアチア両共和国の独立を承認してしまう。そしてさらに、EC諸国に対して独立を承認するよう強引な働きかけを行なった。
クロアチアおよびボスニアは少数民族問題で独立適格性に適合せず
委員会は、ドイツの独断専行を後目に92年1月11日に裁定案を公表する。内容の骨子は、「1,スロヴェニアとマケドニアの2共和国は、前年の12月17日にECが定めた承認基準に完全に適合している。2,クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの両共和国は、国内のセルビア人少数民族の権利を国際基準に合致した形で尊重する必要がある。3,クロアチアが91年12月に改正したクロアチア共和国憲法の中へ、セルビア系住民に対して何らかの特別な地位を保証する条項を盛り込まなければならない。4,ボスニアは、憲法その他の法律に基づき、幹部会と政府が国際法規の遵守と人権擁護を誓っているが、その宣言にセルビア人幹部会のメンバーが加わっていないことが問題点としてあげられる。5,ボスニアの74年および90年の改正共和国憲法では、ともにボスニアの諸民族、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人と領域内に住むその他の人々が平等な権利を持つことを保証している。6,しかし、ボスニアを主権国家にしようという住民の意思は、完全に確立しているとは考えられない。7,独立の是非を問う住民投票が、国際的な監視の下で平等に全市民を対象に行なわれるのであれば、否定的な評価は修正される。8,現行の共和国の境界線は、当事者の同意なしに変更すべきでない」というものである。
ECはバダンテール委員会の判断を尊重せずスロヴェニアとクロアチアの独立を承認
バダンテール委員会の法的地位に疑問符がつけられるとしても、その裁定案がユーゴスラヴィア連邦の各共和国の独立問題において慎重に検討すべき法的・政治的課題を指摘していることは疑いない。だが、EC諸国は自らが設立したバダンテール委員会の指摘を尊重することなく、ユーゴ連邦の国家としての安定よりもEC内部の結束などの政治的利害を重視し、ドイツの働きかけに応じる形で1月15日にクロアチアとスロヴェニアの独立を承認した。
ボスニア政府は、EC諸国がバダンテール委員会の裁定案を無視して独立を承認したのを見ると、委員会が指摘したボスニア政府に都合のいい住民投票の必要性のみを取り入れ、セルビア系住民の抗議を顧慮することなく2月末に住民投票を強行し、3月3日に独立宣言を発した。ECはクロアチアと同様の武力衝突を回避するために、ボスニアの独立問題を取り上げて協議を重ねて「リスボン合意」を提案。イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、一度は合意するものの米大使の助言を受けて前言を翻して調印を拒否した。直後の4月、米国とEC諸国はボスニアの独立を承認する。
バダンテール委員会は、ECの対応に正当性を与える目的で設置されたものだが、EC諸国は内部の政治的利益を優先することによって自ら付与した正当性を踏みにじり、委員会を単なる見せかけの機関に貶めた。ECのバダンテール委員会に対する扱いは、西側のユーゴ連邦解体に込めた意図と位置づけを象徴しており、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の原因の1つはECの政治的対応にあるということを表している。
<参照;スロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラヴィア連邦、欧州共同体・EC・欧州連合・EUの対応>
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ECはスロヴェニアとクロアチアの分離独立に伴う紛争の和平を仲介
1991年6月25日、スロヴェニアとクロアチア共和国がユーゴ連邦からの分離独立の宣言を強行した。スロヴェニア共和国は直ちに連邦政府の施設を接収したために、それを解除させようとしたユーゴ連邦人民軍との間で武力衝突が起こった。スロヴェニア防衛隊は周到に軍備を整えていたが、一方の連邦人民軍は民族混成部隊であったために戦闘意欲に乏しかった。この圧倒的な兵員数と戦闘意欲の差で、スロヴェニア防衛隊は難なく勝利する。10日戦争といわれる紛争である。
クロアチア共和国では、独立宣言するより前にクロアチア警察とセルビア人住民との間で小競り合いが続いていたが、独立宣言を発すると一層激しくなり、クロアチア防衛軍は連邦人民軍の兵舎を包囲して電気や水道の供給を止めた上で武器の引き渡しを求めるなどの攻勢を強めた。ユーゴ連邦人民軍は、クロアチア防衛軍および警察隊が連邦軍の兵舎を包囲攻撃している事態を解除する必要に迫られ、セルビア共和国駐屯の戦車部隊をクロアチア共和国に送り込んだ。連邦人民軍の戦車部隊の通過地点でもあった東スラヴォニアのヴコヴァルでは、クロアチア共和国軍や民兵組織がセルビア人住民を追放してクロアチア人住民が優勢な地点となっており、ここでも連邦人民軍の兵舎を包囲していた。その上で、ヴコヴァルのクロアチア共和国軍と民兵集団は、進攻してきた連邦人民軍に対し激しい抵抗戦を行なった。連邦人民軍の戦車部隊がヴコヴァルの阻止線を突破するために激しく砲撃したことから、ヴコヴァルの町はかなり破壊されることになった。このクロアチア共和国軍が行なった連邦人民軍の通過阻止戦は国際社会の関心を引き寄せるためでもあり、国際社会はクロアチア政府の思惑通り、連邦人民軍の軍事行動を厳しく非難することになる。
ECは、クロアチアにおける武力衝突に対し、91年8月にバダンテール委員会とともにキャリントン英元外相を議長に据えた「旧ユーゴ和平会議」を設置してクロアチア共和国とユーゴ連邦との間の和平の仲介を決める。キャリントン議長が91年10月に提示した仲介案は、ユーゴ連邦人民軍とクロアチア共和国軍間の即時無条件停戦ならびにクロアチア共和国軍による連邦軍基地の包囲の解除を命じ、その上で包括和平案を提示した。和平案の骨子は、ユーゴ連邦の各共和国が独立国家として連合国家を構成するというものであった。しかし、セルビア人共和国は、クロアチアにおけるセルビア系住民の権利が保護されるのか疑問があるとして態度を留保した。これに対しECは経済制裁を圧力手段として受諾を迫ったものの、結局EC和平会議のキャリントン議長の包括和平案は実を結ばなかった。キャリントン議長は、国際社会の対応を見て辞任する。
国連はヴァンス国連事務総長特使を派遣してクロアチア内戦の調停を行なう
国連は92年10月、サイラス・ヴァンス米元国務長官を事務総長特使として任命し、クロアチアの和平に当たらせることになる。ヴァンス事務総長特使はグールディングPKO担当国連事務次長とともにジュネーブに赴き、トゥジマン・クロアチア大統領とミロシェヴィチ・セルビア大統領、カディエヴィチ連邦国防相を招請して協議し、93年1月1日に和平案を提示した。
ヴァンス和平案の骨子は、「1,双方は停戦に合意する。2,クロアチア共和国内の東スラヴォニアと西スラヴォニアおよびクライナの3地区を国連保護地域に指定する。3,国連保護地域からは、ユーゴ連邦人民軍およびクロアチア防衛軍その他の正規軍、非正規軍など全ての部隊は撤退ないし武装解除して非軍事化する。4,東スラヴォニアを5行政区、西スラヴォニアを4行政区、クライナ地方を13行政区に分ける。5,非軍事化された地域には国連保護軍・UNPROFORを配置して監視を行なう」というものである。その後、保護地域は東スラヴォニア・西スラヴォニア・クライナ北部・クライナ南部の4地域に分けられた。
ヴァンス和平案の受諾をめぐってクライナ・セルビア人共和国が東西に対立する
トゥジマン・クロアチア大統領は、セルビア人共和国が固定化することを危惧して反対したが、ヴコヴァルが陥落するなど事態は受諾しなければならないほどに切迫していたために、不承不承調印した。一方、ミロシェヴィチ・セルビア大統領は容認したが、ユーゴ連邦としての意思統一のために幹部会を開く。しかし、バビッチ・クライナ・セルビア人共和国大統領がボスニアのセルビア人共和国との統合の障害になることを危惧して強硬に反対したために、これを外してパスパリ・セルビア人共和国議会議長が代表して署名する。93年2月に開いたクライナ・セルビア人共和国臨時議会も、ヴァンス和平案の受諾を決議した。
この経緯からすれば、ヴァンス和平合意は成立するかに見えた。ところが、バビッチ派はこれを受け入れず、クニンで開いた臨時議会で、住民が反対することを期待して受諾の是非を問う住民投票の実施を決める。これに対して和平派は、再びグリナで開いたクライナ・セルビア人共和国議会で、バビッチ大統領の解任と内閣の更迭、住民投票の破棄を決議した。そして議会を開いてハジッチ首相を新大統領に選出する。バビッチ派はこれを無効として対抗したため、セルビア人共和国は東のスラヴォニア地方と西のクライナ地方の二重権力状態に陥ることになった。この東西の対立が、後に実行されたクロアチア共和国軍の一連の軍事作戦に対抗する力を削ぐことになった。
ヴァンスの和平仲介によって、クロアチア共和国防衛軍および警察隊と連邦人民軍との戦闘は一時停止した。しかし、クライナ・セルビア人共和国内の混乱に加え、EC諸国がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認した既成事実の前にその効力は薄められ、結局、ヴァンス国連特使の和平案は宙に浮いてしまい、成立しなかった。
<参照;クロアチア、国連の対応、欧州共同体・EC・欧州連合・EUの対応> ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
10,「リスボン合意」
ボスニアの分離独立に関する合意
1991年6月25日、スロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立宣言を発した。スロヴェニアは宣言と同時に連邦政府の施設を接収したため、ユーゴ連邦人民軍との間で武力衝突が起こった。クロアチアでは、少数民族となるセルビア系住民がクロアチア政府のクロアチア人優先主義に危惧を抱き、ここでも武力衝突が起こされた。欧州共同体・ECは、武力紛争を回避するため、91年9月に「旧ユーゴ和平会議」を設置するとともに、ユーゴ連邦各共和国の分離独立の法的地位を検討するための「バダンテール委員会」を設置する。
ボスニア議会はこの経緯を見て、先行した両国に倣うように、セルビア人議員が敗退する中、91年10月にユーゴ連邦からの分離独立の意思を表明する決議を採択した。
バダンテール委員会に独立の意思を表明した共和国は、スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの4共和国である。ドイツとバチカン市国はバダンテール委員会が審理をしている傍らで、スロヴェニアとクロアチアの分離独立工作を行なうとともに、ドイツは他国に先駆けて91年12月23日に両国の独立を承認してしまう。
バダンテール委員会は92年1月11日に答申を発表した。ボスニアの独立申請に関する答申の骨子は、「1,クロアチアとボスニアの両共和国は、国内のセルビア人など少数民族の権利を国際基準に合致した形で尊重する必要がある。2,クロアチアが91年12月に改定したクロアチア憲法の中へ、セルビア系住民に対して何らかの特別な地位を保障する条項を盛り込まなければならない。3,ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、憲法その他の法律に基づき、幹部会と政府が国際法規の遵守と人権擁護を誓っているが、その宣言にセルビア人幹部会員のメンバーが加わっていないことが問題点としてあげられる。4,ボスニアの74年および90年の改正共和国憲法では、ともにボスニアの諸民族、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人と領域内に住むその他の人々が平等な権利を持つことを保証している。5,しかし、ボスニアを主権国家にしようという住民の意思は、完全に確立しているとは考えられない。6,独立の是非を問う住民投票が、国際的な監視の下で平等に全市民を対象に行なわれるのであれば、否定的な評価は修正される」との少数派セルビア人の権利への配慮が必要とするというものであった。
バチカン市国はバダンテール委員会の答申の指摘を無視する形で、やはり他国に先駆けて92年1月13日に両国の独立を承認する。EC諸国はドイツとバチカン市国の対応に引きずられるようにして4日後の1月15日に、スロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認した。
「リスボン合意」ではボスニアを3民族の連合国家とするよう提示
ECは、スロヴェニアとクロアチアの独立承認に引き続きボスニアの独立問題に取り組むことを決める。ポルトガルのJ・クティリェロを議長に任命し、92年2月14日に第1回の国際会議をサラエヴォで開き、第2回会議を2月21日にポルトガルのリスボンで開いた。ボスニア政府は、ECによる協議が重ねられている最中であるにも関わらず、バダンテール委員会が答申した住民投票を行なうことの必要性を指摘したところだけを取り入れれば国際社会が独立を承認するだろうとの見通しを立て、2月末にセルビア系住民の反対を押し切って住民投票を強行し、高率の賛成を得ると3月3日には独立を宣言した。
ECは、3月18日にリスボンで開いた第5回の会合を経て「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの新憲法秩序の諸原則に関する宣言」をまとめた。新憲法秩序の主旨は、「1,ボスニアを独立国家とする。2,ボスニアを民族ごとの3つの地域に分けた連合国家とする。3,外交、防衛、金融は統一政府が担う」というものである。この「リスボン合意」に、ムスリム人代表のイゼトベゴヴィチ、セルビア人代表のカラジッチ、クロアチア人代表のボバンの3民族の代表が原則として合意すると表明して署名した。この合意によってボスニアの武力衝突は回避されるかに見えた。
イゼトベゴヴィチがリスボン合意を拒否したことがボスニアを内戦に陥れる
ところが、イゼトベゴヴィチはリスボンから帰ると、ツィンマーマン駐バチカン米大使と非公式に会談し、ボスニアが統一国家でないこと、および地域の分割の割合がムスリム人勢力に対し30%であることに不満を漏らした。ツィンマーマン米大使は、意に添わないのであれば、撤回することは可能だと助言した。米大使の助言に意を強くしたイゼトベゴヴィチは、数日後にリスボン合意の署名を撤回すると表明する。米大使の助言の思惑には、米国主導の解決の方向に誘導する意図が隠されていた。ECおよび米国はボスニア政府がECの「リスボン合意」を反故にしたにもかかわらず、4月に独立を承認してしまう。この粗雑な独立承認が民族間の対立を先鋭化させ、ボスニア内のムスリム人勢力、セルビア人勢力、クロアチア人勢力による三つ巴の内戦へと雪崩れ込んでいくことになった。
<参照;バダンテール委員会、米国の対応、EC・EUの対応>
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11,「ヴァンス・オーエン和平国際会議両共同議長和平案・VOPP」
EC・EUの和平会議と国連の和平調停を統合して旧ユーゴ和平国際会議を設置
1991年8月に設置されたEC旧ユーゴ和平会議のキャリントン議長(英元外相)の和平案が不調に終わり、キャリントン議長が米国とECの対応に疑義を抱いて辞任したことから、ECは後任にオーエン英元外相を任命する。さらに、91年10月にガリ国連事務総長が任命したヴァンス事務総長特使(米元国務長官)のヴァンス和平案も成立しなかったため、国際社会はECの和平会議と国連の調停を統合する拡大和平国際会議をロンドンで開くことにする。92年8月に開催したロンドン拡大和平国際会議は、30ヵ国を超える国や組織が参加したものの、非難の応酬に終始したことから和平はまとまらず、原則と行動計画および作業部会としての「旧ユーゴ和平国際会議」を設置し、ヴァンス国連事務総長特使とオーエンEC和平会議議長を共同議長にすることなどを決めるにとどまった。
ボスニアを10の州に分割して3民族による中央政府を置く和平案
93年1月、「旧ユーゴ和平国際会議」は「ヴァンス・オーエン和平案」を提示する。和平会議には、国連側からヴァンス、EC・EU側からオーエンの両共同議長、国連保護軍・UNPROFORのナンビエ総司令官、アハティサーリ・フィンランド大統領、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領、カラジッチ・セルビア人共和国大統領、ボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領、チョシッチ・ユーゴ連邦大統領、トゥジマン・クロアチア大統領などが出席した。
和平案の内容は、「1,憲法的原則を規定する。2,ボスニアを10のカントン・州に分割する。3,軍事的和平原則を定める。4,付属文書」からなる。
憲法的原則の骨子は、「①,ボスニア・ヘルツェゴヴィナを統一国家とする。②,ボスニアの州・カントンへの大幅な分権化を行なう。③,カントンの国際法上の主体性は否定する。④,領域内の移動の自由を保障する。⑤,ボスニアを構成する主要な3民族集団を承認する。⑥,政府の日常業務において憲法の至上性を保障し、拒否権は認めない。⑦,中央政府およびカントンにおける、民主的に選出された立法府と政府、独立した司法府を設置する。⑧,憲法裁判所を設置する。⑨,国連とECの管理下における完全な武装解除を行なう。⑩,国際的に承認された最高レベルの人権の保障に関する憲法規定を定める。⑪,国際的管理、監視メカニズムに関する憲法規定を必要とする」などである。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領およびカラジッチ・セルビア人共和国大統領とも受け入れず
ボスニア・クロアチア人勢力のボバン大統領は、憲法的原則、カントン分割地図ともに同意し、クロアチア共和国のトゥジマン大統領も和平案に同意した。一方、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、ボスニア中央政府の国際的主権の確立とカントン分割地図について同意せず。ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領は原則的に賛意を表明したが、カラジッチ・ボスニア・セルビア人共和国大統領は、東西のセルビア人の地区が地理的に分離していること、国際法上の主権を認めることを要求して受け入れを拒否した。
ヴァンス・オーエン和平交渉は第3ラウンドまで行なわれたが、ボスニア政府とボスニア・セルビア人共和国の双方が受け入れに同意しなかった。3月に入り、旧ユーゴ和平国際会議は国連本部で行なわれ、「ヴァンス・オーエン和平修正案」が提示される。停戦については3民族勢力とも合意する。修正案の国家形態に関する憲法原則は、「1,ボスニアは10のカントン・州で構成する非中央集権国家とする。2,中央政府は、外交、国際関係などのみを扱う。政府機能は、そのほとんどをカントン・自治州の権限とする。3,ボスニア内では、移動の自由を保障する。4,憲法で3つの構成民族、他のグループの存在を確認する。5,自治州と中央政府は、民主的に選ぶ立法、行政、司法府を持つ。6,全土を段階的に、国連、ECの監視下で非軍事化する」となった。
ボスニア・セルビア人共和国は領域配分に拘って和平案を拒否
この修正和平案に対し、ボスニア政府は地図の内容の変更を条件として受け入れに同意した。カラジッチ・ボスニア・セルビア人共和国大統領は署名をしたものの、ボスニア・セルビア人共和国議会が批准を拒否して住民投票に委ねることを決める。ユーゴ連邦政府は国際社会の圧力を危惧し、ユーゴ連邦、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、ボスニア・セルビア人共和国、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国の各議会代表による合同会議を提唱した。しかし、ボスニア・セルビア人共和国議会議員とクライナ・セルビア人共和国議会議員は殆ど出席しなかったばかりか、セルビア急進党の強硬な反対などで合意は得られなかった。しかも、直後に強行されたボスニア・セルビア人共和国の住民投票は、予想通りに96%が和平修正案に反対するという結果に終わり、和平調停は頓挫した。
米政府は主導権を確保するための政治力を発揮して和平を潰す
一方、米国の大統領は93年1月に民主党のビル・クリントンが勝利して交替しており、クリントンは大統領選の際にユーゴ連邦への強硬的対応を主張したことから、柔軟性を欠いた政策を推進することになった。そのため、ヴァンス・オーエン和平案はセルビア人勢力の民族浄化を緩和するものとして批判し、その上でムスリム人勢力としてのボスニア政府への武器禁輸解除を意味する「リフト・アンド・ストライク」政策を主張した。ヴァンス国連事務総長特使は、調停案への米国の対応を見て5月に共同議長を辞任する。それを後目に米政府はさらに一歩進め、93年6月に国連保護軍支援を名目としたNATO軍の「近接航空支援」なるセルビア人勢力への空爆を容認する安保理決議836を採択させた。この決議案に対し、英・仏・蘭は欠席で対応する。
米国とEC・EUの思惑の違いが次第に露わになっていく
ヴァンス・オーエン和平案が不調になったことによって、3民族の対立は先鋭化することになる。特にクロアチア人勢力とムスリム人勢力は支配領域を確定させるための武力抗争を激化させ、ボスニア中部から南部にかけて領域を確保するための激しい戦闘が展開されることになった。ヴァンス・オーエン案が破綻した背景には、米国がボスニア和平における主導権を確保することに拘り、ボスニア・セルビア人勢力への空爆とボスニア政府への武器禁輸解除・リフト・アンド・ストライク政策を打ち出したことにあった。EC・EUは国連による多国主義を目指していたから、まとまるはずもなかったのである。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、米国の対応、EC・EUの対応、国連の対応>
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12,「オーエン・シュトルテンベルク和平会議共同議長和平案」
ボスニアは3民族による領域確保のための三つ巴の戦闘が激化する
1993年5月、国連のヴァンス特使が辞任した後任にノルウェー元外相の・トゥルヴァルト・シュトルテンベルクが就き、EU代表のオーエンとともに「旧ユーゴ和平国際会議」の共同議長に就任した。93年7月、新しい体制を整えた和平国際会議はジュネーブで交渉を再開。会議には、ボスニアのムスリム人勢力代表のイゼトベゴヴィチ、ボスニア・セルビア人勢力代表のカラジッチ、ボスニア・クロアチア人勢力代表のボバンおよびミロシェヴィチ・セルビア大統領、トゥジマン・クロアチア大統領、プラトヴィチ・モンテネグロ大統領、バーソロミュー米特使、チェルキン・ロシア特使が参加した。この会合でオーエン・シュトルテンベルク共同議長は和平案を提示する。
和平案はボスニアを3民族による国家連合とするもの
和平案の骨子は、「1,ボスニア・ヘルツェゴヴィナを統一した国家とする。2,ボスニア・ヘルツェゴヴィナをボスニア共和国、セルビア人共和国、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の3つに分割し、3ヵ国の連合国家で構成する。3,市民は希望する地域に自由に居住する権利を有し、二重国籍も可能とする。4,連合国家政府も各共和国政府も軍事力を持たない。5,共和国間の境界では人間や物資の自由通行を保障する。6,各共和国は憲法を持つ。7,最初の選挙は国連とEUの監視の下で実施される。8,連合国家の議会は定員120名の1院制とし、各共和国議会が比例制で選出する。9,連合の幹部会は各共和国を代表する3名の会員からなり、幹部会議長は4ヵ月毎に交代するが、国家元首としない。10,連合国家の閣僚会議議長(首相)は、幹部会が指名する。11,国際的な関係は連合国家の管轄とするが、各共和国は連合国家の利益に反しない限り、国際機関に加盟できる」というもの。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は連合国家を拒否し続ける
各民族の支配領域をどのように分割するかという問題が残され、ムスリム人勢力には30%を分与するとの案が提示された。セルビア人勢力とクロアチア人勢力はこのオーエン・シュトルテンベルク案の受諾を表明したが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は統一国家に拘りを示すとともに、領域を40%とすることを要求して受諾に難色を示した。ムスリム人のアブディッチ幹部会員はこのイゼトベゴヴィチの強硬な態度を非難し、93年9月にビハチを中心とする「西ボスニア自治州」の設立を宣言する。
紆余曲折を経た後の9月20日、アドリア海に配備していた英空母インヴィンシブルの艦上に関係者が集められた。交渉には共同議長および紛争当事者3民族のボスニアのイゼトベゴヴィチ・ムスリム人勢力代表、カラジッチ・セルビア人勢力代表、ボバン・クロアチア人勢力代表の他に、バーソロミュー米特使、チェルキン・ロシア特使、セルビア共和国からミロシェヴィチ大統領とヨバノヴィチ外相、クロアチア共和国からはトゥジマン大統領、モンテネグロ共和国からはブラトゥヴィチ大統領が参加して開かれた。領土の配分は、セルビア人勢力が52%、ムスリム人勢力が31%、クロアチア人勢力が17%とした上で、アドリア海への出口を求めるセルビア人とクロアチア人との間で一部領土の交換の可能性が示された。セルビア人勢力とクロアチア人勢力は積極的な合意の意向を示したが、ムスリム人代表のイゼトベゴヴィチはムスリム人の領域が狭いこと、統一国家の権限が弱められていることなどをあげてボスニア議会の受け入れが困難だろうと述べ、和平案に調印しなかった。ムスリム人勢力側は、議会で検討する前に、ムスリムの有力知識人や政治家が出席した「全ムスリム会議」を開き、和平案を検討して政府に勧告した。ボスニア議会はこの勧告にさまざまな条件を付加し、実質的には拒否の姿勢を示していたのである。
ムスリム人勢力の対応を見てクロアチア人勢力もセルビア人勢力も条件を付ける
10月、クロアチア人勢力の議会はムスリム人勢力の動きを見て姿勢を転換し、ボスニア政府およびセルビア人共和国が和平案に署名しない限り、今までしてきた領域的譲歩を全て無効にすると宣言した。セルビア人勢力のカラジッチ大統領は、ボスニア議会が出した条件付き受け入れは拒絶を意味するとの談話を発表し、ムスリム人勢力への譲歩を撤回して領域の転換は相互の同意に基づくとの条件を付けた。11月には、EUの12ヵ国の外相が参加する拡大和平会議が開かれたが実質的な進展がなく、12月に通常の和平会議が再開された。この会議で、ムスリム人勢力への領土配分が30%から33.3%に引き上げられ、首都サラエヴォ市の配分はムスリム人60%、セルビア人40%に分割することが提案された。イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、一定の評価はしたものの内容に難色を示し、トゥジマン・クロアチア大統領をして激怒させた。
結局この「オーエン・シュトルテンベルク和平案」も成立しなかった。和平案が成立しなかった背景には、米政府のイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領への梃子入れがあった。米政府は、従来のEC・EUと国連主導の和平体制に対し、米国とNATOの軍事力主導による独自の政策を進める意図を抱いていた。この間もボスニア各地で戦闘が続けられ、特にクロアチア人勢力とムスリム人勢力との間の領域確保のための戦闘は激烈なものとなった。この状況を見て、米政府はセルビア人勢力を征圧するための「新戦略」を立案する。
<参照;ヴァンス和平案、リスボン合意、ヴァンス・オーエン和平案、米国の対応、EC・EUの対応>
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米政府はボスニア・クロアチア人勢力とボスニア政府の対立を見て「新戦略」を立案
ボスニア内戦においてクロアチア人勢力のクロアチア防衛評議会軍は、92年10月には領域を確保するためにムスリム人居住地を攻撃して追放したり、またボスニア政府と共同戦線を形成してセルビア人勢力と対抗したり、ときにはセルビア人勢力と協調したりと、状況に応じて支配領域の確保を目指して縦横な対応を示してきた。93年に入り、旧ユーゴ和平国際会議の「ヴァンス・オーエン和平案」の10カントン・州分割裁定案および和平修正案が不成立に終わると、ボスニア・クロアチア人勢力は州の支配領域の拡張を目指してムスリム人勢力を攻撃した。93年5月にはボスニア・クロアチア人勢力がモスタルを臨時首都とすることを目指し、ボスニア政府軍の第4軍団との間でネレトヴァ川を挟んで激しい攻防戦を展開した。そして、クロアチア人勢力は8月に「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の設立を宣言し、モスタルを臨時首都と定めた。93年12月に「オーエン・シュトルテンベルク和平案」が不調に終わると、もはや武力による領域拡大策しかないと認識したクロアチア人勢力軍はボスニア政府軍との間で激しい領域拡大戦を展開していく。
新戦略に基づくとワシントン協定は国際社会を瞞着する欺策
クリントン米政権としては、セルビア人勢力を征圧させることでユーゴ連邦解体戦争を終結させることを企図していたこともあり、クロアチア人勢力とボスニア政府の両勢力間の戦闘は、その意図を危ういものにしかねないと分析した。そこで、米政府は「新戦略」を策定して両勢力をそれに従わせることにする。先ず、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に働きかけ、ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派ボバン大統領を更迭させて穏健派のズバクを後任に据えさせた。
強硬派のボバンを更迭させると、米政府は新戦略の第1段階として94年2月24日にボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力間の戦闘を停止させることで合意させた。次いで、シライジッチ・ボスニア首相とグラニッチ・クロアチア共和国外相に「ボスニア連邦」について協議させ、さらにイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領とトゥジマン・クロアチア共和国大統領に「国家連合」についての協議を行なわせた。その上で、第2段階として2月26日にボスニア政府のシライジッチ首相、ボスニア・クロアチア人勢力のズバク大統領、およびクロアチア共和国グラニッチ外相を米国に呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させた。公表されたワシントン協定は2種類の内容から成り立っていた。「1、『ボスニア政府』とボスニア・クロアチア人勢力の『ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国』の両勢力で『ボスニア連邦』を形成し、その地域を7つのカントン・州に分けて構成単位とする。中央には2院制議会および中央政府を設置し、立法、外交、防衛、通商を担う。大統領と副大統領はムスリム人勢力とクロアチア人勢力から1人ずつを選出し、4年間の任期中は交互に務める。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来国家連合を構成するための予備協定を結ぶ」というものである。
直前まで戦火を交えていたとはいえ、ボスニア連邦の設立は両勢力が独立の可否を問う住民投票を協調して実施したことからすれば、名目上の統合にさほどの違和感はない。しかし、設立を宣言したのみのボスニア連邦は国家の形態を成しておらず、そのボスニア連邦とクロアチア共和国とが国家連合を形成することなど、砂上楼閣の建設を想定しているようなものであった。にもかかわらず、国家連合の予備協定に合意する形式をとらせたのは、94年1月に明石康が国連特別代表として和平交渉に関わり始めたばかりであり、一方の旧ユーゴ和平国際会議のオーエン・シュトルテンベルグ両共同議長の和平協議が同じ2月にジュネーブで開かれていたから、それを妨げる形で米国が単独でクロアチア共和国を米本土に呼び寄せてボスニア和平交渉を画策することは批判の対象となりかねなかった。その不自然さを糊塗する必要性から、将来を見越した新たな構想を提示して国際社会を幻惑したのである。国際社会は、この米国の企図を見抜くことができなかったのか、見抜いていて容認したのかは明らかではないが、以後ボスニア情勢はこの米国の新戦略に沿った形で進行することになる。
ワシントン協定に含めた新戦略とはセルビア人勢力を屈服させる統合共同作戦
米政府が表面を取り繕った新戦略計画の真の意図は、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍を統合し、それにクロアチア共和国軍を絡ませ、さらにNATO軍が介入してクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を屈服させる、という統合共同作戦にあった。とはいえ、クロアチア共和国のトゥジマン大統領は、このワシントン協定に満足していたわけではなかった。協定に拘束されると、ボスニアのクロアチア人居住地域をクロアチア共和国に併合する「大クロアチア」構想の実現が遠のくからである。だが、トゥジマンはこの時点ではともかくもこれを受け入れた。ボスニア政府のイゼトベゴヴィチ大統領としてもボスニア・ヘルツェゴヴィナの統一路線を危うくしかねないので多少渋ったものの、結局受け入れた。ボスニア・セルビア人勢力はこの協定をめぐる動きに対してアメリカ主導の国連軽視であると非難をしつつ、一方でセルビア人勢力による統一国家建設の権利を行使する場合に有利に働くとの期待も表明した。
新戦略・ワシントン協定に基づく第3段階は軍事作戦の準備を整える
新戦略の第3段階は、94年の1年間を統合共同作戦を実行可能ならしめるための準備期間とした。先ず、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の統合司令部を設置させる。そして、米軍事請負会社MPRIに米退役将校などを送り込み、クロアチア共和国軍およびボスニア政府軍に軍事訓練と作戦指導を施した。武器は、国連決議による武器禁輸措置に基づく監視体制を緩和して密輸を促し、さらに密かに米軍輸送機を使用して両国の空港に送り込んだ。その上で、米軍特殊部隊を派遣して通信と兵站を整備する。準備期間に当てられた1年間で、クロアチア共和国陸軍は兵員を17万にまで増強し、ボスニア政府軍は第5軍団体制から第7軍団体制へと増設した。
95年1月、準備を整えたクロアチア共和国政府は、軍事作戦遂行の阻害要因になる国連保護軍・UNPROFORの排除を企図する。そして、和平の障害になっているとの理由をつけて撤収を要請する書簡をガリ国連事務総長に送付し、さらにNATO軍を交替要員として派遣するよう求めた。ボスニア政府もこれに呼応し、国連保護軍の見直しを求める。95年3月、国連安保理はこの要求に添って国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアに縮小した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアに国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアに国連予防展開軍・UNPREDEPを配備する決議981~983を採択した。
クロアチア共和国は新戦略・ワシントン協定に基づく統合共同作戦を発動する
95年5月、クロアチア共和国軍は国連保護軍の分割による移動が実施されたのを見届けると、セルビア人居住地域である「西スラヴォニア」を制圧する「稲妻作戦」を発動した。この時、ボスニア政府軍はクロアチア共和国軍と共調して、ボスニア領内で陽動作戦を行なうとともに、ボスニア・セルビア人勢力がクロアチア・セルビア人勢力への支援に赴くのを阻止するために、ボスニア東北部の国境地帯に軍隊を移動させた。クロアチア共和国軍の「稲妻作戦」にドイツとフランスおよび英国が抗議したが、トゥジマン・クロアチア大統領はセルビア人勢力軍を排除したら撤退すると言い逃れ、終了しても撤退することはなかった。
次いで95年7月、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍は「‘95夏作戦」を発動する。この作戦は、ボスニア・セルビア人勢力軍によるクロアチア・セルビア人共和国の首都クニンへの支援と補給を断つことを目的として実行され、ボスニア西部の幹線路上の要衝であるボサンスカ・グラホヴォとリヴノを制圧した。この幹線路の制圧の軍事的意味が十分理解できなかったのか、ボスニアのセルビア人勢力はこれを奪回するための軍事作戦は行なわず、ボスニア政府の陽動作戦にひっかかり南東部のスレブレニツァやジェパへの攻撃に勢力を注いだ。
クロアチアからセルビア系住民を掃討する大規模な統合共同作戦としての「嵐作戦」を発動
95年8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員する大規模な「嵐作戦」を発動し、「クライナ・セルビア人共和国」の掃討を開始した。この嵐作戦は、クロアチア共和国軍が4つの方面軍を編成し、これにボスニア政府軍の第4軍団と第5軍団を絡ませるという大規模な統合共同作戦である。これにはNATO軍の作戦要領が使用され、従来の内戦型のものとは全く異なる統制の取れた軍事作戦となった。この大規模な作戦を迎え撃つクライナ・セルビア人共和国の兵力は、東西に分断されたこともあって4万人足らずしか動員できなかったことから、クロアチア共和国軍とボスニア共和国軍の共同作戦による20万余の兵力に太刀打ちできるはずもなく、たちまち総崩れとなった。このときNATO軍は、セルビア人勢力軍がNATO軍への敵対的行動を取ったとの理由をつけてセルビア人勢力の通信基地などへのミサイル攻撃を行なって支援した。一連の作戦によって、「クライナ・セルビア人共和国」のセルビア系住民20万から25万人がクロアチアから掃討され、難民化するという悲惨なものとなった。ボスニア政府軍は、嵐作戦の共同作戦を実施するとともに、ムスリム人アブディッチ派の反政府勢力が設立した西ボスニア共和国に進攻してこれを制圧している。
クロアチア共和国軍はボスニアに侵攻してボスニア・セルビア人勢力を攻撃
クロアチア共和国軍はクロアチア・クライナ地方のセルビア人勢力を潰滅させると、「東スラヴォニア」のセルビア人居住地の掃討作戦の実行に取りかかったが、EU諸国の圧力を受けてこれを断念する。そこで「ミストラル作戦」に切り換えてボスニア領内に侵攻し、ボスニア政府軍とともにボスニア・セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」の崩壊を目標とした共同作戦に移った。クロアチア共和国軍はボスニア・セルビア人勢力が大統領府を置いているバニャ・ルカへの攻撃を実行し、ボスニア政府軍はこれに共調して近傍のヤイツェやボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モストなどの攻略に取りかかった。
新戦略・ワシントン協定の総仕上げとしてのNATO軍の空・陸攻撃
クロアチア共和国軍とボスニア政府軍の両軍がボスニア・セルビア人勢力への共同作戦を継続している最中の8月28日に、サラエヴォのマルカレ市場での爆破事件が起こされた。NATO軍はこれを直ちにセルビア人勢力の犯行と即断し、「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動した。NATO空軍はセルビア人勢力の拠点に対して空から爆撃し、地上軍はNATO加盟の英・仏・蘭軍による国連緊急対応部隊が砲撃を加えるなど、空陸からの大規模な攻撃となる。米国の梃子入れで強化されていたボスニア政府軍は、NATO軍の空爆作戦の最中にもクロアチア共和国軍とともにボスニア・セルビア人勢力の支配地域を攻略し続け、ボスニアの50%を超えるほどの領域を奪取した。ボスニア政府軍、クロアチア共和国軍、ボスニアのクロアチア人勢力軍、NATO軍、英・仏・蘭の緊急対応部隊の5者が共調した武力攻撃に対し、ボスニア・セルビア人勢力は圧倒されつつあったが、なおセルビア人勢力は戦闘意欲を失っていなかった。しかし、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言もあって停戦を受け入れることになる。
ワシントン協定の国家連合予備協定は顧みられず
米政府の新戦略としてのワシントン協定は、ここに至る筋書きを予定してクロアチア共和国軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力の3者に受け入れさせたものだった。ワシントン協定に含ませた新戦略は、ボスニア内戦を国際紛争と位置づけるまでに引き上げ、国際紛争は米国とNATO軍の武力によらなければ解決できないという実績を、米国民のみならずEU諸国にも認めさせるところにあった。ワシントン協定で成立したボスニア連邦は、この後に成立した「デイトン合意」でも「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の構成単位として維持されているが、ボスニア連邦とクロアチア共和国の国家連合協定については、その後協議された気配はない。
<参照;米国の対応、NATOの対応、ヴァンス・オーエン和平案、オーエン・シュトルテンベルク和平案>
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膠着したボスニア和平にロシアを引き込む
ボスニア内戦の和平調停は、それまではEC・EUや国連主導によって行なわれてきたものの進展が見込み薄なことから、セルビアへの影響力を持つと見られていたロシアを引き込む有用性が見直され、94年4月に米・英・独・仏・露の5ヵ国で構成する「連絡調整グループ」が設置された。
94年5月13日に「連絡調整グループ」は共同コミュニケを発表。「1,紛争当事者が4ヵ月の停戦に合意すること。2,ボスニア・ヘルツェゴヴィナの領土配分は『ボスニア連邦』が51%、『セルビア人共和国』が49%とする。3,2週間以内に実質的交渉を開始する」との方針を発表した。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は「停戦は2ヵ月で十分」であると主張し、さらに領土配分の割合に難色を示した。イゼトベゴヴィチが難色を示した背景には、直前の5月11日に米国が主導してシライジッチ・ボスニア首相とボスニア・クロアチア人勢力のズバク大統領をウィーンに呼び寄せて「ウィーン協定」を結ばせたことにあった。その協定で米国は「ボスニア連邦」に58%の領土を確保することを保証していた。イゼトベゴヴィチ大統領の念頭にはこのウィーン協定があったことから、連絡調整グループの領土配分に難色を示したのである。ここでも米国は、連絡調整グループの和平への尽力を潰す役割を担ったのである。
連絡調整グループは大国の圧力による解決を目指す
クロアチア人共和国側は、ほぼ要求が認められているとして和平案の受諾を表明する。一方、セルビア人共和国側は原則的に受け入れを表明したが、北東部のブルチコからの連絡回廊が認められなければ、領域の連続性が確保出来ないとして受け入れに難色を示した。7月5日にジュネーブで開かれた連絡調整グループの米・英・独・仏・露の5ヵ国は、当事者に2週間以内に受け入れなければ、制裁強化とムスリム人への武器禁輸解除を実施するとの声明を発表する。協議ではなく、指示に従うことを要求したのである。ボスニア政府は、この和平交渉が失敗に終わると見越し、ムスリム人有力者で構成されるボスニア人会議で賛成を取り付け、さらにボスニア共和国議会とボスニア連邦議会の合同会議で仲裁案を批准をした。
ボスニア・セルビア人共和国は難しい選択を迫られたが、セルビア人共和国議会は7月19日、「セルビア人に対する即時無条件制裁解除、当事者の領域的境界を記した地図の完成、憲法的権利の最終的定義を条件として承認する」との宣言書を採択した。これは事実上、和平案の拒否を意味した。このセルビア人共和国側の対応を見て、ムスリム人側のイゼトベゴヴィチ大統領も和平案の無条件受け入れを撤回した。10月、ボスニア政府の動きを見てクロアチア人勢力側も態度を変える。ボスニア政府とセルビア人共和国が和平案に調印しない限り、和平案は受諾できないとして、総動員令を発した。セルビア人共和国もボスニア政府への譲歩を撤回し、領域の交換は相互の同意に基づくとの条件を付けた。
米国主導の国際社会の変化を見抜けなかったセルビア人共和国
連絡調整グループは、ギリシャを巻き込み、ミロシェヴィチ・セルビア大統領に対して経済制裁の拡大強化をちらつかせながら、セルビア人共和国に影響力を行使して従わせるように働きかけた。ミロシェヴィチ大統領は、連絡調整グループの要請を受け入れ、「いま必要な力は、戦争の継続ではなく平和に向けてである」とボスニアのセルビア人共和国の説得に努めたが、セルビア人共和国はそれを受け入れずに住民投票を強行した。住民投票は、予想通り圧倒的多数で連絡調整グループ和平案を拒否した。ミロシェヴィチ大統領は、セルビア人共和国に対して断絶を宣言する。ボスニア・セルビア人共和国はそれにも怯まず、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国側との結び付きを強めるということで対抗した。
連絡調整グループの和平仲介案は、セルビア人勢力の条件付き拒否が絡んだものの、既に2月から米国の新戦略によるクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力征圧作戦が実行に移されており、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が受け入れる余地はなかったのである。
<参照;米国の対応、EC・EUの対応、ヴァンス・オーエン和平案、オーエン・シュトルテンベルク和平案>
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15,「Z-4案」
「クライナ・スラヴォニア・南バラニャ・西スレム」に関する協定案
「Z-4案」は、95年1月に米、露、EUと国連の4者による「ミニ・コンタクト・グループ」によって作成された、クロアチア共和国とクロアチアのクライナ・セルビア人共和国に関する和平案である。1月30日にトゥジマン・クロアチア大統領とマルティッチ・クライナ・セルビア人共和国大統領に手渡された。内容の骨子は、「1,クロアチアのセルビア人地区をクロアチア国内に確定する。2,クロアチアの憲法を始めとする国内法を有効とするが、セルビア人クライナ当局による批准を必要とする。3,クライナ・セルビア人共和国は、独自の通貨の発行権、警察権、国章、国旗を持ち、公用語はセルビア語でキリル文字を使用する。4,クライナ・セルビア人共和国は教育、文化、家屋建設、公共サービス、エネルギー資源、徴税などの権利も有する。5,外交、通商、関税、国防、市民権はクロアチア共和国当局の管轄とする。6,クロアチア共和国軍はクロアチアのクライナ・セルビア人共和国大統領の招請なしにはクライナ地域に入ることはできない。7,クライナ・セルビア人共和国大統領は5年ごとの選挙で選出し、閣僚の任命権を有する。8,クライナ地方は武装解除するが、セルビア人はクロアチア警察と同等の装備を持つ警察隊を持つ」というものである。
トゥジマン大統領は「新戦略」による一連の軍事作戦を控えて巧みな対応を示す
トゥジマン・クロアチア共和国大統領は当初は評価して見せたものの、共和国内部で協定案が国内国家を固定することになるとして反対論が噴出したため、受容不可能として前言を翻した。トゥジマンが当初「Z-4案」を受け入れる姿勢を示した真意は不明だが、米国の「新戦略・ワシントン協定」に基づくセルビア人勢力征圧作戦が予定されていたことから、一時的にせよ和平を望んでいるという態度を見せておくことが得策だとの巧みな外交戦術を駆使したと見られる。しかし、クライナ・セルビア人共和国マルティッチ大統領も拒否したため、Z--4案は不調に終わった。
一方で同じ1月、トゥジマン・クロアチア大統領はガリ国連事務総長に国連保護軍・UNPROFORが和平の障害になっているとして撤収を要請し、代わりにNATO軍の配備を求める書簡を送付した。ボスニア政府もそれに同調して国連保護軍の配備の再検討を要求したため、国連安保理は3月に国連保護軍を3分割する決議981~983を採択。クロアチアには国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備するとの決議を採択した。
クロアチア共和国軍はこの決議によって国連保護軍が移動したのを見届けると、5月1日に「稲妻作戦」を発動して国連保護地域の「西スラヴォニア」のセルビア人居住地を攻略した。8月3日、クライナ・セルビア人共和国の首相に復帰したバビッチが「Z-4案」の受諾をガルブレイス米大使に申し入れるが、クロアチア共和国軍は「嵐作戦」の発動を翌日に控えていたため意に介さなかった。95年8月4日、クロアチア共和国軍は「嵐作戦」を発動し、クライナ・セルビア人共和国の殲滅作戦を実行して達成する。
<参照;クロアチア、クライナ地方、ヴァンス和平案、米国の対応>
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16,「デイトン和平合意」
米国によるボスニア内戦解決策としての「新戦略」
1993年に提示された「ヴァンス・オーエン和平案」の10のカントン・州分割案および修正案が不調となり、さらに「オーエン・シュトルテンベルク和平案」および9月の英空母インビンシブルでの「修正案」の協議が不成立に終わると、ボスニアのクロアチア人勢力とムスリム人勢力との間で領域確保のための戦闘は一層激化した。米国はセルビア人勢力を屈服させることによってボスニア内戦を終結させることを企図していたために両勢力間の戦闘に当惑したが、すぐさま「新戦略」を策定する。新戦略の企図は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア勢力軍を統合した共同作戦を実行させ、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するというものであった。
94年2月、米国は先ずトゥジマン・クロアチア大統領に圧力をかけ、ボスニア・セルビア人勢力の強硬派マテ・ボバン代表を辞任させた。次いで、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍間の戦闘を停止させる。その上で、クロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力の代表を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。そして、94年の1年間を共同軍事作戦の準備期間とした。
95年1月、トゥジマン・クロアチア大統領は国連保護軍・UNPROFORの駐留がクロアチアの和平を阻害しているとして撤収を求める書簡を送った。国連安保理はこれに応じて、決議981~983を採択して国連保護軍を3分割し、クロアチアに国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアに国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアにUNPREDEPを配備することにする。
国連保護軍の分割に伴う移動を見届けると、クロアチア共和国軍は5月に「稲妻作戦」、7月には「95夏作戦」、そして8月には大規模な「嵐作戦」を発動し、ボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア防衛軍とともに「クライナ・セルビア人共和国」を消滅させた。
クロアチア共和国軍は一連の統合共同作戦で成果を上げるとボスニア領内に侵攻し、ボスニア政府軍とともにボスニア・セルビア人勢力の征圧作戦に加わった。その最中の8月28日に第2のマルカレ市場爆発事件が起こされる。NATO軍はこの事件をセルビア人勢力の犯行と即断し、検証するいとまを与えずに1日余り後の8月30日未明に「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動した。そしてNATO空軍は空から、NATO加盟国主体の英・仏・蘭3ヵ国による国連緊急対応部隊は陸上から、ボスニア・セルビア人勢力の拠点を激しく攻撃した。NATO空軍は3000回の空爆を実行し、NATO加盟国主体の国連緊急対応部隊は地上から600発の砲弾を浴びせた。NATO空軍と緊急対応部隊の攻撃に便乗したクロアチア共和国軍およびボスニア連邦軍は、セルビア人勢力への拠点攻撃を強化し、ボスニアの50%を超えるほどの領域を制圧した。そこまで追い込まれてもボスニア・セルビア人勢力は戦闘意欲を失うことはなかったが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受け入れて、停戦協定に調印する。
米国が主導した「ボスニア和平交渉」は米国のデイトンの空軍基地で行なう
95年11月に行なわれた「ボスニア和平交渉」は、米国のオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に紛争当事者と国連および連絡調整グループを集め、外部と遮断して米国の主導の下に17日間と期日を限定して進められた。協議はホルブルック米特使が主導権を握り、ボスニアの3民族の利益代表を担ったのは、ムスリム人勢力はボスニア政府のイゼトベゴヴィチ大統領だったが、ボスニア・クロアチア人勢力の利益代表はトゥジマン・クロアチア共和国大統領が握り、ボスニア・セルビア人勢力の利益はセルビア共和国のミロシェヴィチ大統領が担った。ボスニア・セルビア人勢力代表のカラジッチ大統領は、4月に「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」が戦犯容疑として指名手配したために出席できなかったからである。ボスニア・セルビア人勢力の利益代表を務めることになったミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の最大の関心事は、ボスニアの和平はもとよりだが、新ユーゴ連邦の経済制裁の解除、国際社会への再復帰および経済的復興にあり、その目標に添うような形で交渉を進めた。ボスニア・クロアチア人勢力のズバク大統領は出席をしていたが、元来クロアチア人共和国はクロアチア共和国に従属していたことでもあり、その利益の最終的な決断はトゥジマン・クロアチア共和国大統領が下した。
ミロシェヴィチ大統領は米国に妥協してセルビア人勢力を抑える
各民族勢力の専有面積の割合は、ボスニア連邦が51%、セルビア人勢力のスルプスカ共和国が49%に確定したものの、3民族の支配地域の地図の画定は困難を極めた。ムスリム人勢力が支配していた東南部のゴラジュデはセルビア人勢力の支配地に囲まれていたため、ボスニア政府はそこからムスリム人勢力の支配地域との回廊が必要だと強硬に主張した。そこで回廊を見出す必要があった。その際に、ミロシェヴィチが見せられた米軍のコンピューターの立体地形映像は、驚くべきものであった。ボスニア全土を網羅した地形を、あらゆる角度からシミュレーションとして映し出されたのである。ミロシェヴィチ大統領は、その映像にしたがってサラエヴォからゴラジュデに至る回廊の幅を惜しげもなく譲渡することを伝えた。ところが、あまりに気前よく回廊の幅を割譲し、さらにセルビア人住民が27%を占めるサラエヴォもムスリム人勢力に譲渡したために、ボスニア連邦の支配領域が58%に達するということになった。この領土分割の割合はセルビア人勢力の抗議によって訂正されるが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領は、それほどに米国主導の和平に合わせて気前よく譲歩する姿勢を示したのである。彼にとっては、ボスニアのセルビア人勢力の利益よりも、新ユーゴ連邦の経済制裁の解除につながる譲歩の方に優先順位が置かれていたのである。サラエヴォの譲渡で27%を占めるセルビア人住民は居住権を失うことになるとして、ボスニア・セルビア人共和国の代表は憤激するが、ミロシェヴィチはボスニア東北部のブルチコ回廊を確保することなどでそれを抑え込んだ。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは「ボスニア連邦」と「スルプスカ共和国」の連合国家
デイトン合意の主な内容は、「1,『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ』を国名とし、ムスリム人およびクロアチア人両勢力で構成す
るエンティティとしての『ボスニア連邦』とセルビア人勢力の『スルプスカ共和国』で構成する連合国家とする。2,『ボスニア連邦』の領土は51%、『スルプスカ共和国』の領土は49%とする。3,ボスニア・ヘルツェゴヴィナの中央政府は、外交、貿易、出入国、通信、航空管制などの権限を持つ。4,中央銀行を設置し、単一通貨とする。5,憲法裁判所を設置する。6,2院制の議会は、上院15人、下院42人とし、幹部会は『ボスニア連邦』から2人、『スルプスカ共和国』から1人の3人で構成する。7,NATO主体の多国籍の平和実施部隊・IFORを創設し、停戦と兵力引き離しを監督する。8,戦争犯罪人として起訴されている者で、戦争犯罪法廷の命令に従わないものは公職には就けない。9,欧州人権条約は、あらゆるケースでボスニアの法律に優先する。10,和平合意はパリで正式に調印される」というものである。
デイトン合意は、95年12月に行なわれた「パリ和平協定」でより詳細な内容が詰められて調印されることになる。ボスニアの民族別人口比は、ムスリム人44%、セルビア人31%、クロアチア人17%であり、人口の割合に比してスルプスカ共和国の専有面積49%は多いように見られるが、セルビア系住民は農民が多いために元来専有していた面積は広く、この配分は実態に即したものといえる。
連絡調整グループは米国主導の和平交渉の飾りに利用された
デイトン和平交渉には連絡調整グループの独・仏・英・露の代表団なども呼び寄せられていたが、ただ会議に参加したというだけの存在にされ、傍役に置かれた。米国の思惑は、国際政治の問題を解決できるのは米国だけであって、国連や欧州ではないということを見せつけるために、彼らは呼び集められたのである。後にドイツ外務省は、米国による独断的なこの和平会議の運営を厳しく批判した文書を作成した。
デイトン合意に目新しい内容はない
デイトン和平合意は、特別な新しい内容が付け加えられたわけではない。ただ、米国主導で行なわれた和平ということが、EC・EUおよび国連が主導で行なわれた「ヴァンス和平案」、「リスボン合意」、「ヴァンス・オーエン和平案」、「オーエン・シュトルテンベルク和平案」などと異なるだけである。米国でなければ世界秩序は形成できないということを見せ付けるために、ボスニア内戦が利用され、EC・EUと国連は脇役に追いやられ、米国とNATO軍がこれからの主役であることを印象づけるために、米本土のデイトンでの和平交渉が行なわれたのである。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、リスボン合意、ヴァンス・オーエン和平案、オーエン・シュトルテンベルク和平案>
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コソヴォ解放軍・KLAは武力によるコソヴォ自治州の独立を図る
ベルリンの壁の崩壊はユーゴスラヴィア連邦にも影響を及ぼした。コソヴォのアルバニア系住民は「コソヴォ民主同盟」を結成し、穏健派といわれたルゴヴァを党首に選出し、のちに独自の選挙を実施して暫定大統領とした。
一方若者たちはこの政治交渉による独立路線に飽きたらず、武力闘争による独立を図るためにコソヴォ解放軍・KLAを1988年に結成した。しかし、KLAが若者の粗暴な集団であったことから、コソヴォのアルバニア系住民の支持も得られなかった。
1991年6月にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言すると、民族対立が先鋭化してユーゴ連邦解体戦争が始まる。内戦が始まると・コソヴォ解放軍の主要なメンバーは、クロアチア共和国やボスニア政府の防衛隊や民兵組織に戦士として入り込み、戦闘経験を積むことにする。
1995年にNATOが軍事介入してクロアチアとボスニアの内戦を終結させると、戦闘経験を積んだKLAの戦死はコソヴォ自治州に戻って組織を強化した。
米国はコソヴォ自治州の分離独立に介入する
ユーゴ連邦解体戦争は、クロアチアとボスニアの内戦が終焉を迎えたことにより、終結するかに見えた。しかし、米政府はこれで終わらせるつもりはなかった。クリストファー米国務長官は、「デイトン・パリ協定」が締結された翌96年6月にミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領に会い、コソヴォ自治州の州都プリシュティナに「情報・文化センター」の設置を認めさせたのである。情報・文化センターは米情報機関CIAが工作の拠点とするところである。CIAは直ちにコソヴォ解放軍への工作を開始する。
コソヴォ解放軍はアルバニアの混乱に乗じて武器を入手して武力行動を開始する
1997年、隣国アルバニアは社会主義体制から資本主義体制への転換糧過程で政治的混乱の中にあった。コソヴォ解放軍・KLAはその混乱に乗じてアルバニアから大量の武器を入手した。そしてすぐさま武力闘争を開始した。ユーゴ連邦は内戦の過程で「セルビア悪」のプロパガンダに苦しめられたことから、このKLAの戦闘行動の鎮圧をためらっていた。ところが、98年2月にゲルバート米特使がコソヴォを訪問してルゴヴァ自治州暫定大統領らの穏健派を集めて「KLAはテロ組織である」と言い渡した。ユーゴ連邦政府はこのゲルバート特使の発言をコソヴォ解放軍の鎮圧を容認する者と受け取り、治安活動を強化した。
ユーゴ連邦政府はコソヴォ紛争の実態を知らしめるためにOSCE調査団を受け入れる
すると、国際社会はこのユーゴ連邦の治安活動をアルバニア系住民に対する迫害だとして厳しく非難し始めた。そして国連安保理を開き、武器禁輸決議1160を採択してユーゴ連邦に制裁を加えた。この間コソヴォ解放軍は活発な武力行動を続け、5月にはコソヴォ自治州の25%を支配下に置くまでになる。さらに、EUはコソヴォ自治州の実態に関わりなく、ユーゴ連邦に対して経済制裁を科し、G8もユーゴ連邦の治安部隊の撤退を要求して経済制裁の共同声明を発表する。頃合いを見計らっていた米政府は、ホルブルック米特使をコソヴォ自治州に送り込み、CIAの手引きでコソヴォ解放軍の指揮官と会って「自由の戦士」と称えた。一方、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領に対してはコソヴォの治安活動を抑制するよう要求を突きつける。
ユーゴ連邦としては国際社会の非難が実態に即していないことを知らしめる比喩用に迫られた。そこで、ユーゴ連邦政府はロシアのイワノフ外相の助言を受け入れる形で、欧州安全保障協力機構・OSCEにコソヴォ調査団の派遣を要請する。OSCEはこれを一旦断るがすぐに撤回し、コソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織して2000人の調査員の派遣を決定する。
和平会議をつぶす意図を持って乗り込んだオルブライト米国務長官
米政府は和平交渉が行なわれるに際し、予め作為を施していた。コソヴォ自治州の代表に、イブラヒム・ルゴヴァ自治州暫定大統領ではなく、30歳の若いコソヴォ解放軍のハシム・タチ政治局長を指定したのである。老練なルゴヴァより若いタチ政治局長の方が扱いやすいとの思惑が見てとれる。ともあれ、2月6日から始められた「連絡調整グループ」による和平交渉は、フランスのランブイエ城でメディアのアクセスを遠ざけて始められた。ラチャク村で虐殺が行なわれたとの印象が支配する中であるにもかかわらず、「連絡調整グループ」は和平交渉に尽力し、和平は成立するかに見えた。ところが、途中からオルブライト米国務長官が乗り込んで交渉を主導する。しかし、コソヴォ自治州のタチ代表が独立の保証を確約するよう求めたために、第1回の交渉は中断した。
NATOのユーゴ・コソヴォ空爆は既定路線
99年3月15日から行なわれた第2回の交渉ではオルブライト米国務長官が始めから主導権を握り、タチ・コソヴォ自治州代表に独立達成への言質を与えて和平案に合意させ、一方のユーゴ連邦側には軍事条項の新たな「付属文書B」を突きつけて受諾を迫った。付属文書Bは、ユーゴスラヴィア連邦全土にNATO軍を駐留させ、その費用の一部を負担せよとの占領条項に等しいものだったから、当然ながらユーゴ連邦側は拒否した。この付属文書Bの存在はNATO軍による空爆に積極的だったブレア英首相を除き、他の連絡調整グループの交渉担当者には秘匿されていたため、ラチャク村の虐殺事件の印象を残していた国際社会は、交渉を決裂させたのはユーゴ連邦の傲慢さの故と受け取った。途中からハードルを高めるのは、米国の交渉の常套手段である。オルブライト米国務長官にとってランブイエ和平交渉の破綻は予定通りの展開であり、交渉はNATO軍の空爆を誘導するための儀式として扱われたのである。ユーゴ・コソヴォ空爆が「オルブライトの戦争」と言われたのはこのためである。NATO軍はオルブライト米国務長官の意図に沿い、NATO条約の規定外地域であるユーゴ連邦への軍事行動に踏み込んだ。
「人道的介入」の名に踊らされ破壊行為を支持した国際社会の暗愚
99年3月24日、NATO軍は国連憲章で求められている国連安保理決議を回避し、「人道的介入」の名を冠した「アライド・フォース作戦(同盟軍事作戦)」を発動してユーゴスラヴィア全土を対象にした空爆を開始する。大規模な攻撃態勢を整えていたNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」は苛烈なものとなった。空爆は78日間にわたり、軍事施設はもとより、鉄道、橋梁、道路、電気、水道などのインフラにとどまらず、学校、幼稚園などの教育施設、病院、教会、産業施設、一般住宅などNATO軍の攻撃は対象を選ばなかった。ユーゴ連邦側に通信情報を提供しているとの疑惑を抱かれていた中国大使館にも、懲罰的なミサイルが3発撃ち込まれた。78日間にわたって耐え抜いた後であれ、ユーゴ連邦が停戦協定を受け入れなければ全土は灰燼に帰していたと見られる。NATO軍は人道的介入と称しながら、人道性も倫理性も欠如した懲罰的無差別爆撃を実行したのである。
コソヴォ紛争は「低強度紛争」にすぎず
のちの検証によると、空爆前のコソヴォ紛争での死者数はアルバニア系およびセルビア人双方合わせて1500人前後の低強度紛争であるという。米政府は、コソヴォの州都プリシュティナに情報・文化センターを置いていたことからすれば、コソヴォ紛争の実態は十分に把握していたことは疑いない。1500人前後の死者数の多寡の評価は個々の事例を検証する必要があるとしても、急迫した事態とはいえない低強度紛争に該当する事例にすぎなかったのは明白である。しかし、NATO軍が敢えて人道的介入の名を冠して国際社会を欺いて大規模な軍事力を行使したのは、ユーゴ連邦に懲罰を加える意図を抱いていたからである。
ラチャク村事件は検証によってことごとく否定される
2001年2月になり、OSCE検視団に加わっていたフィンランド大学のユハ・レニオ法医学教授はラチャク村の虐殺された民間人とされた死者の詳細な解剖報告を雑誌に発表し、「①死者の推定平均年齢は43才。②44の遺体の銃弾の貫通痕はほとんどが多方向で、銃撃戦によく見られるタイプの傷痕である。③至近距離からと見られるのは1体のみである。④拷問などによる遺体の損傷は見られない。⑤ラチャク村の住民ということは確認できなかった」と記述してラチャク村の虐殺説に再び疑問を投げかけた。フィンランド検視団のバカード検視主任は、「遺体の姿や死後硬直の度合いが不自然で、遺体は動かされた可能性がある」と証言。OSCE停戦合意検証団の一員として調査に当たったカナダ人のキース・プリシュティナ事務所長は、「私はセルビア治安部隊による民族浄化の現場を目撃したことはないし、それに類する出来事を見たこともない。私が目撃した一連の事件のほとんどはコソヴォ解放軍が起こしたものであり、それに対してセルビアの治安部隊が応じたものだった」と証言している。
ミロシェヴィチ元大統領の罪状の1つに加えられる
複数の検証によって「ラチャク村虐殺事件」は否定されたにもかかわらず、ICTYはミロシェヴィチ・セルビア元大統領の罪状の1つにこれを付け加えた。このミロシェヴィチ裁判でウォーカー元KVM団長が証言台に立っているが、彼は「遺体を見ていて、幾つかのことに気が付いた。先ず傷とその周辺の血痕、遺体周辺の乾いた血だまりから見て、殺されたときの服のままだということは明らかだった。あの場所で殺されたことは間違いない。各遺体の前の土に残った血の量と位置がそのことをはっきり物語っていた」と証言した。その時に示された写真は、KVM団員の1人だったロンドン警視庁のヘンドリー警部が撮影したものだが、血痕や土に残った血だまりはどこにも映っていなかった。そのことを示したミロシェヴィチの反対尋問に対するウォーカーの証言はしどろもどろとなった。しかし、ミロシェヴィチ元大統領がICTYの収容所で獄死させられたことから、裁判での判断が示される機会が失われ、ラチャク村虐殺捏造事件の真実が国際社会に広く認知されることはなかった。
<参照;コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍、ランブイエ和平交渉、ユーゴ・コソヴォ空爆と被害>
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武力闘争によるコソヴォの独立を目指したコソヴォ解放軍・KLA
セルビア共和国コソヴォ自治州は、ユーゴ連邦の74年憲法で他の共和国なみの自治権限が与えられたが、最貧地区だったコソヴォ自治州のアルバニア系住民は待遇改善を理由として度々暴動を起こした。その暴動の要因には、コソヴォ自治州独立への志向があった。政治交渉によって独立を獲得しようとしていたイブラヒム・ルゴヴァ自治州暫定大統領は、「果実が熟れて落ちるように独立を勝ちとる」と表層では穏健な主張をしていたものの独立達成への強固な意思を表明していた。それにあき足らなかった若者たちは、88年にコソヴォ解放軍・KLAを結成する。しかし、自治州において少数派であったことと、その粗暴性がアルバニア系住民にも厭われて主流派にはなれなかった。そこで、KLAの主要なメンバーは91年にユーゴ連邦解体戦争が始まると、クロアチア共和国やボスニア政府の防衛隊や民兵組織に入り込み、戦闘経験を積むことにする。クロアチアとボスニアの内戦がNATO軍の軍事介入によって一応の終結を見ると、数年間の戦闘経験を積んだKLAのメンバーはコソヴォ自治州に戻ってコソヴォ解放軍の組織を強化した。
米政府はCIAの拠点をコソヴォに設置させる
ボスニア内戦に関する「デイトン・パリ和平協定」が締結されたことによって、ユーゴ連邦解体戦争は終焉したかに見えた。しかし、米政府はこれで終わらせるつもりはなかった。和平協定が成立した翌96年6月、クリストファー米国務長官は、ミロシェヴィチ・セルビア大統領に会い、コソヴォの州都プリシュティナに「情報・文化センター」の設置を認めさせた。情報・文化センターは米CIAが拠点としているところである。直後に、コンブルム国務次官補は情報・文化センターの設置について「米国がコソヴォ問題に関与し続けることの一例である」と露骨に語った。CIAはここを拠点として、コソヴォ解放軍への接触工作を続けることになる。
1997年にコソヴォ自治州に接する隣国アルバニアで政治的混乱が起こる。その際に流出した武器をKLAは大量に入手すると、態勢を整えてすぐさま武力攻撃を実行に移した。ユーゴ連邦政府は、かつてのセルビア解体戦争の際に「セルビア悪」の宣伝に苦しめられたことから、コソヴォ解放軍への治安活動をためらっていた。98年2月、米政府はゲルバード特使を派遣し、ルゴヴァなどの穏健派を集め、KLAは「テロ組織」であると公言させる。ユーゴ連邦政府は、ゲルバード米特使のこの発言をKLAへの鎮圧を容認するものと受け止め、治安活動を強めることにした。
密命を帯びてOSCE・KVM団長に就任したウォーカー米駐エルサルバドル元大使
ところが、国際社会はセルビアの治安部隊の鎮圧行動に対し、ユーゴ連邦がアルバニア系住民を迫害しているとして厳しい非難を加え始める。そして、国連安保理は3月に武器禁輸決議1160を採択する。この間、アルバニア系武装組織は兵員を1万2000人までに増強し、98年5月にはコソヴォ自治州のアルバニアと国境を接する南西部から中央部にかけての25%の地域を支配下に置くまでになった。この実態に目を向けることなく、欧州連合・EUは6月にセルビア共和国への新規投資を禁止する経済制裁を決め、次いでG8も経済制裁を科すとの共同声明を発表する。これを受ける形で米国は、ホルブルック特使をユーゴスラヴィアに送り込み、コソヴォ解放軍の司令官と会って「自由の戦士」と讃えた。その一方で、ミロシェヴィチ大統領には鎮圧行動の停止および治安部隊をコソヴォ自治州から撤退させるよう要求した。ユーゴ連邦政府は、実態と異なる国際社会のアルバニア系住民への迫害非難を打開する必要に迫られた。そこで、ロシアのイワノフ外相の助言を受け、欧州安全保障協力機構・OSCEによるコソヴォ自治州への調査団の派遣を要請する。OSCEは一旦これを断るが直ちに撤回し、OSCEコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織し、調査員2000人をコソヴォ自治州に派遣することを決定した。しかし、OSCEの停戦合意検証団の団長に米外交官のウォーカーが就任したことで、コソヴォ紛争の帰趨は明らかとなった。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使の任にあった際、エルサルバドル独裁政権の殺人部隊といわれた「アトラカトル大隊」が、独裁政権に批判的だったカトリックの司祭やシスターと子どもの暗殺を容認し、擁護した人物である。
ウォーカー検証団長は実態調査ではなく虐殺事件を捏造することを使命とした
OSCE検証団は、98年10月から順次1600人の調査員をコソヴォ自治州に送り込むが、ウォーカーKVM団長は検証団員の中に米CIAや英MI6などの情報部員100名余りを潜り込ませた。情報部員の任務は「1,ユーゴ連邦の治安部隊の評価を貶めること。2,NATO軍の空爆の標的を探ること。3,コソヴォ解放軍に接触して衛星電話を渡し、NATO軍の空爆の効果を連絡させること」にあった。ウォーカー団長は遅れてコソヴォ自治州に入ると、99年1月15日にラチャク村で起こされたセルビア警察部隊とKLAとの武力衝突を観戦した。この戦闘はセルビア警察部隊側が圧倒し、警察部隊は勝利宣言してラチャク村から撤収した。するとコソヴォ解放軍はその後を襲って再占拠した。ウォーカー団長はこのとき何も言わずにその場を立ち去る。そして翌1月16日、コソヴォ解放軍はKVM団員やメディアの記者たちに、窪地に並べた遺体を見せてセルビア警察部隊に虐殺された民間人だと説明した。午後になって現れたウォーカー団長は、KLAが偽装した遺体を見るやいなや「私が個人的に見たものから、この犯罪と大虐殺は人間に対する罪だと表明すること、およびセルビア警察部隊を告発することに躊躇しない」と言明した。この事件の報を受けたオルブライト米国務長官は、「ミロシェヴィチ大統領は1938年のアドルフ・ヒトラー」に擬して激しく非難した。
一方でフィンランドの検視団は、1月19日に民間人虐殺説を否定する検視結果を発表する。この事件について、米ワシントン・ポスト紙はユーゴ連邦の治安部隊の偽装と報じたが、仏ル・モンド紙はOSCE検証団員の証言からアルバニア系武装勢力の偽装の疑いがあると報じた。にもかかわらず、NATO軍はウォーカーKVM団長の主張に基づき、1月20日には48時間以内に軍事介入が可能な即応態勢をとるよう指示を与え、国連安保理に図ることなく、ソラナNATO事務総長に空爆開始の権限を付与して軍事力行使の態勢を整えた。一方、米・英・仏・独・伊・露6ヵ国で構成する「ユーゴ問題連絡調整グループ」は1月29日にロンドンで会合を開き、ユーゴ連邦とアルバニア系武装組織との紛争を解決するための裁定条項を決め、ユーゴ連邦とコソヴォ自治州住民側に突きつけて双方に対話を開始するよう通告した。NATO軍は、この「連絡調整グループ」の要求項目を受け入れなければ直ちに軍事行動を起こすと言明してユーゴ連邦を威圧する。ともあれ、「連絡調整グループ」は、ロンドン会議の要求項目を基礎にした和平交渉をランブイエで行なうことにした。
「連絡調整グループ」はともかくも和平達成に尽力
99年2月6日、連絡調整グループの6ヵ国が仲介した第1回の和平交渉はフランスのランブイエ城で、メディアのアクセスを阻むようにして始められた。コソヴォ自治州側の交渉団長は、米政府の意向により強硬派の若いコソヴォ解放軍のハシム・タチ政治局長がなり、穏健派といわれた暫定自治州政府のルゴヴァ大統領は団長代理に落とされた。
ランブイエ和平交渉で最初に提示された仲介案の主な内容は、「1,コソヴォ自治州の地位問題は3年後に最終解決を図る第3者機関で協議する。2,自治州政府と議会は選挙を通じて設置する。3,自治州に立法府、行政府、司法府を創設する。4,自治州政府は、徴税、財政、警察、司法、教育、文化、経済開発、通信、道路などに対する権限を含む高度な自治を確立する。5,民族構成比を反映した警察を再編する。6,各民族の権利を保護する。7,政治犯の恩赦、釈放を行なう。8,ユーゴ連邦政府は、コソヴォ自治州から軍隊の大部分と民兵を撤退させる。9,コソヴォ解放軍は武装解除をする。10,ユーゴ連邦や周辺国の領土は保全する。11,合意履行を監視する委員会の設置と、OSCEやその他の国際機関を参加させる。12,コソヴォ自治州にNATO軍主体の平和維持部隊を駐留させる。13,コソヴォにおける政府資産である教育機関、病院、天然資源ならびに生産施設すべてを民営化する」などである。
セルビア共和国を屈服させるために利用された「ランブイエ和平交渉」
独立を目指しているアルバニア系住民代表は、「領土保全」の項目は受け入れられないとして拒否。ユーゴ連邦代表は、「コソヴォ自治州への外国軍の駐留」は受け入れられないとして難色を示した。交渉は難航し、交渉期限の20日になっても合意に至らなかった。そこで、3日間の延長をして「連絡調整グループ」が両者を説得したが、結局第1回の交渉はまとまらなかった。通常、和平交渉の仲介の実務は6ヵ国の大使級の地位の者が行なうが、この「ランブイエ和平交渉」では途中からオルブライト米国務長官が直接乗り込んで主導権を握り、ユーゴ連邦側には受け入れなければNATO軍による空爆があり得るとの威しをかけた。にもかかわらず、アルバニア系住民側のタチ代表が独立への道筋を明示するよう要求して譲らなかったために、ユーゴ連邦だけを責めることが適わず、基本合意および3月に第2回の交渉を再開すると決めて第1回の交渉は中断した。
基本合意は「1,コソヴォ自治州の自治権拡大とユーゴ連邦の一体性を尊重する。2,アルバニア系住民による今後3年間の暫定自治を認める。3,ユーゴ連邦側は、平和維持部隊の駐留について話し合う用意がある」というものである。この基本合意を、コソヴォ自治州代表団が受け入れることは望み薄と見られた。
ユーゴ連邦が拒否するようハードルを上げたオルブライト米国務長官
ところが、3月15日に再開された第2回の和平交渉において、和平案にコソヴォ自治州の独立を保証する条項が加えられたわけではないにもかかわらず、コソヴォ自治州代表団のタチ代表はあっさりと和平案の受け入れを表明する。一方のユーゴ連邦側が署名を拒否したことで、国際社会にはアルバニア系住民が柔軟な対応を示したのに対し、ユーゴ連邦側が頑なな姿勢をとっているとの印象を与えた。この成り行きの背後には、オルブライト米国務長官がコソヴォ自治州のタチ代表団長に対し、署名すればアルバニア系住民に有利な解決策を与えるとの言質を与えて懐柔する一方、ユーゴ連邦側には先に示した和平案に付け加え、軍事条項である「付属文書B」の受諾を突きつけていたことがあった。その内容は、「ユーゴスラヴィア連邦全土にNATO軍を駐留させた上で行動の自由を認めること。その経費の応分の負担をすること」という50ページに及ぶ占領条項というべきものであったから、ユーゴ連邦が受け入れるはずもなく、抗議文を提出して3月18日に交渉は打ち切られた。
この付属文書Bは、連絡調整グループの中から異論が出ることを避けるために、6ヵ国の中でNATOの軍事行動に積極的だったブレア英首相以外には秘匿されていた。このように米国はセルビア側が拒否するように仕向ける条項を挿入しただけでなく、コソヴォ自治州の「政府所有の資産、教育機関、病院、天然資源並びに生産施設など政府所有の産業を民営化する」との新自由主義的市場経済の原理に沿った「ワシントン・コンセンサス」にまとめられた事項を抜け目なく潜り込ませていた。コソヴォには豊かな鉱物資源があったからである。取材が制限されていたために、メディアにはハードルを高めた軍事条項は知らされなかったこともあって、国際社会にはユーゴ連邦の拒否の姿勢のみが印象づけられた。
「人道的介入」の名を冠した倫理性を欠いたNATO軍の空爆 オルブライト米国務長官の意図は和平の達成にはなく、ユーゴ連邦側に拒否をさせてNATO軍の空爆を誘導することにあった。米国務長官の意図を補強するように、シェーファー米コソヴォ問題担当大使は「コソヴォ自治州では住民の死者・行方不明者が10万人におよぶ可能性がある」と荒唐無稽な観測を述べ、あたかもコソヴォ自治州が急迫した状態にあるかのような印象を国際社会に植え付ける役割を担った。
NATO軍は3月24日、武力行使の際に求められる国連安保理決議を回避した上で、「人道的介入」の名を冠した「アライド・フォース作戦」と称するユーゴ連邦への空爆を開始する。ブレア英首相は「自由、法の支配、人権、そして社会の価値を確立し、広めることができるのなら、そうすることは我々の国益にも叶ったものである」と、人道的の名をつければ国連安保理決議がなくても正当性が付与されるかのような言辞を弄した。しかし、同じ日にロバートソン英国防相は下院で「99年1月までは、コソヴォ解放軍の方がセルビア当局よりも多くの死者を出していた」と緊急性を否定する証言をし、ジェンキンス英上院議員はNATOの空爆に抗議して労働党の幹事を辞任した。安保理決議を回避し、同盟国内部でも異論が出るほどの問題を孕んだNATO軍の人道的の名を冠した「ユーゴ・コソヴォ空爆」は78日間にわたって実行されることになる。この作戦は、ユーゴ連邦のインフラを含むあらゆる建造物を爆撃の標的にするという、人道的介入とは著しく乖離した懲罰的な軍事力行
使であった。
拒否することを目的とした付属文書BはNATO軍の占領条項
付属文書Bの存在は、ドイツの「ターゲス・ツァイトゥンク」紙が4月8日付けの紙面で暴いたことによって、米英以外の連絡調整グループや一般の知るところとなったが、NATO軍は意に介さず、既に始めていた爆撃を強化することで応じた。付属文書Bの骨子は、「1,NATO軍は、支援、訓練、作戦に必要とされるあらゆる地域および施設での野営、作戦行動、分宿、利用の権利を含む、車輌、船舶、航空機とともに、関連する空域と領海を含むユーゴ連邦共和国の全域で、自由に妨げられることのない通行と妨害のない出入りを享受する。2,NATO軍は、あらゆる民事、行政、刑事、もしくは懲戒上の違反に関して、当事者の管轄権から免除される。3,NATO軍は、各個人を拘留し、可及的速やかにしかるべき政府当局者に引き渡す権限が与えられる。4,ユーゴ連邦当局は使用される空域、港湾、道路におけるあらゆる移動に対し、優先的に使用を許可し、その使用料や税金も免除する。5,NATO軍は、電気、水道、ガスなどの公益事業を最低額で取得出来る。6,NATO軍は、航空機の離着陸の料金、船舶への使用料、料金、課徴金、税金を免除する」など、占領条項ともいうべき権限要求であった。
NATO軍は大規模な戦争態勢を整えて待機していた
NATO軍は、既にアドリア海に米海軍の原子力空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊、ミサイル巡洋艦「ヴェラ・ガルフ」、「レイテ・ガルフ」などを配備し、英海軍は軽空母「インヴィンシブル」艦隊およびミサイル潜水艦「スプレンデッド」、フランス海軍は空母「フォッシュ艦隊を配置し、その他駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻などを配置して戦闘態勢を取っていた。空軍は18ヵ国の攻撃機や爆撃機およそ1000機がイタリアのNATO軍空軍基地アビアーノや周辺国の基地などに配備され、攻撃態勢を整えていた。「ユーゴ・コソヴォ空爆」は既定路線だったのである。
派遣国家米国への不服従に対する懲罰的軍事行動であったユーゴ・コソヴォ空爆
NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」直後に、米国務省元職員のジョージ・ケニーは、「古参の国務省高官が『セルビア人が受け入れることができないように故意にハードルを高くした』と自慢し、さらに『セルビア人に分からせるために多少の爆撃が必要だった』と言った」と語っている。ユーゴ・コソヴォ空爆は、国連安保理決議を回避した上でNATO諸国の独自の判断によって行なわれた明らかな国連憲章違反の軍事行動であるにもかかわらず、人道的介入の名を冠したことであらゆる国際法を超越しうるが如き錯覚を国際社会に与えた。この人道的なるものは、数多の人々の思考を混乱させるには十分な威力を発揮し、それに疑いを抱いた者の発言をも抑制させた。列強がいかに世界を欺くかの好例がランブイエ和平交渉であった。
H・キッシンジャー米元国務長官は、空爆最中の5月31日のニューズ・ウィークに「ランブイエはよく交渉といわれるが、そうではなく最後通牒だった。これは国連憲章および多国間手続きへの献身を宣誓してオフィス入りした政権の驚くべき背反を示した」と批判的論考を発表した。
OSCEコソヴォ停戦合意検証団の現地事務所長を務めていたカナダ陸軍の退役軍人ローランド・キースは、1年後に「私は平和主義者ではない。だが、当時のコソヴォは人道理由で戦争を始めることが正当化できるほど酷い状態ではなかった。空爆は悲劇を食い止めるのではなく、逆に悪化させた」と語った。
因みに、のちの検証によれば空爆前のコソヴォ紛争における犠牲者数は、アルバニア系およびセルビア人住民双方合わせて1500人前後である。この「低強度紛争」にすぎない事案に対し、NATO軍が大規模な軍事作戦を行使した政治的思惑には、いくつかの権益が隠されていたのである。その一つが、コソヴォに大規模な米軍基地を設置することであった。
<参照;コソヴォ自治州、米国の対応、NATOの対応、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆被害>
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ユーゴ・コソヴォ空爆はNATO諸国の既定路線
ユーゴスラヴィア解体戦争の最終章としての97年から始められたコソヴォ紛争は、NATO軍にとって初めて大規模な軍事作戦を実行した事例として歴史に記憶されるべきものといえる。
コソヴォ紛争はコソヴォ自治州のアルバニア系の若者たちがコソヴォ解放軍・KLAを結成し、武力闘争によってユーゴ連邦から分離独立を図って始めた紛争である。ユーゴ連邦セルビア共和国がアルバニア系住民を迫害したために起こった紛争ではない。
98年10月、欧州安全保障協力機構・OSCEはコソヴォ紛争の実態を調査するために、1600人の停戦監視団をコソヴォに送り込んで査察を始めた。しかし、このOSCE・KVMの団長に米国の曰く付きのウィリアム・ウォーカー元エルサルバドル大使が就任したことでコソヴォ紛争の帰趨は明白となった。ウォーカーはKVMの監視団員の中に米CIAや英MI6の要員を100人余り潜ませるという作為を行なったのである。
一方、99年2月にコソヴォ紛争を平和的に解決するために米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国からなる「連絡調整グループ」がフランスのランブイエで和平交渉も始められた。ランブイエ和平交渉は困難な条件を克服しながら和平の道筋を見出しつつあった。
すると、オルブライト米国務長官がその和平交渉場に乗り込み、米国の常套手段であるハードルを上げるという策を弄し、「付属文書B」なるNATO軍による占領条項ともいうべき条件をセルビア側に突きつけてセルビア側に拒否させた。付属文書Bは空爆に積極的だったブレア英首相以外に秘匿されたため、国際社会はセルビア側が傲慢な対応を採ったと受け取り、NATOによる空爆もやむなしとする雰囲気が醸成された。
膨大な破壊行為としてのNATO軍の同盟軍事作戦
99年3月24日、NATO軍はセルビア共和国によるアルバニア系住民への迫害は一刻も猶予ならないとし、「人道的介入」の名を冠した「アライド・フォース作戦」を発動した。この「ユーゴ・コソヴォ空爆」は、国連安保理決議を回避したために国際機関の監視の目が届かない状態となったことから歯止めを失い、ユーゴ連邦全土を対象にした一方的な無差別爆撃となった。
CIAなどの情報部員を潜入させて標的を選定させた爆撃の対象は、軍事施設はもとより、橋梁、道路、鉄道、発電所、上下水道などのインフラにとどまらず、病院、学校、教会、産業施設、メディアの施設も例外なく爆撃され、中国大使館にもミサイル3発を撃ち込んだ。
6月9日までの78日間に及んだこの破壊行為は、被害額がユーゴ連邦側の試算として296億850万ドルと算出されたほどの凄まじい被害をユーゴ連邦にもたらした。NATO軍の空爆は、ユーゴ連邦経済が既に内戦の継続と経済制裁で著しく疲弊していた上に、さらに深刻な打撃を与えるものとなった。
コソヴォ自治州からの難民・避難民流出はNATO軍の空爆の脅威を避けたもの
コソヴォ自治州からの難民・避難民は、ユーゴ・コソヴォ空爆が実行される以前から流出していた。コソヴォ解放軍・KLAがセルビア人住民を追放したことに加え、KLAとユーゴ連邦治安部隊との戦闘に巻き込まれるのを恐れて脱出したもので、移動したのはアルバニア系住民だけでなく、セルビア人やモンテネグロ人やロマ人などの少数民族も含まれていた。とはいえ、武力衝突が行なわれていない地域では、住民のほとんどは通常の生活を営んでいた。
NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆が開始されると、コソヴォ自治州の住民の40%におよぶ85万人の難民・避難民が発生した。これは、大半はNATO軍の空爆の危害を回避するために脱出したものであり、それに加えてコソヴォ解放軍がユーゴ連邦治安部隊の迫害を過大に見せるための追い立てたことと、一部のユーゴ連邦治安部隊と民兵組織による報復的な迫害が加わった難民・避難民であった。しかし、メディアはNATO軍の空爆による影響に触れることを避け、難民・避難民の悲惨さを誇張したり、偽装して報じることで、ユーゴ連邦の迫害を強調する役割を担った。
コソヴォ紛争は「低強度紛争」に分類されるべきもの
のちの調査による、とコソボ紛争によるアルバニア系住民とセルビア系住民の犠牲者は1500人前後であるという。1500人の犠牲者数が多いか少ないかの評価は難しい判断となるが、少なくともNATO軍の大規模な軍事作戦が必要な急迫した事態ではなく、「低強度紛争」に類する程度のものであった。しかも、米政府は「ボスニア和平協定」が成立した翌年の96年6月に、CIAの拠点となる「情報・文化センター」をコソヴォ自治州の州都プリシュティナに開設していたのだから、コソヴォ紛争がどの程度のものであったかは十分に把握していたはずである。にもかかわらず、NATO軍はユーゴ連邦がNATO諸国に対して侵略戦争を仕掛けたと思わせるほどの、大規模な海・空軍を配置したアライド・フォース作戦を発動したのである。
NATO軍は大戦を連想させる大規模な戦闘態勢を敷く
NATO加盟国は、アドリア海に米・英・仏・伊・ギリシアなどが戦闘艦艇を展開し、米海軍は地中海域を主な行動領域としている第6艦隊の原子力空母「セオドア・ルーズベルト」、ミサイル巡洋艦「ヴェラ・ガルフ」、「レイテ・ガルフ」、水陸両用の強襲揚陸艦「キアサージ」などの艦隊を配備。イギリス海軍は軽空母「インヴィンシブル」艦隊を派遣。フランス海軍は空母「フォッシュ」艦隊を配備。これらの空母艦隊とその他のNATO加盟国の駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻、ミサイル潜水艦3隻などを配置していた。
空軍は、米・英・加・仏・独・伊・オランダ・ノルウェー・ポルトガル・スペイン・ベルギー・デンマーク・トルコの13ヵ国が空軍機997機を投入した。航空機の種類は、戦闘攻撃機;F14,F15、F16、F/A18,AMX、A10,EA6B,ジャガー、ミラージュF1、ミラージュIVA、ミラージュ2000,エタンダールIV、AV8BハリアーⅡ、ハリアーGr7,トルネードGr1,トルネードIDS/ECR、CF18,EF18。戦略爆撃機;B2、F117、B1B、B52。警戒管制機;E8JSTAR,E2C,E3AWACS、P3C。有人偵察機;EP3,ES3,RC12、U2R/TR1。無人偵察機;プレデター、ハンター、クレッセレール、CL289,フェニックスVAV。輸送機;KC135、C130,C17、C160、CASA212、CASACN235。戦闘ヘリコプター;EC135,AS532などを空母と30ヵ所以上の空軍基地に配備。B52、B1B、B2ステルス、F117ステルスなどの戦略爆撃機は米本土と英国から発進させた。出撃した軍用機の62%は米軍が派遣したが、ドイツは第2次大戦後はじめて戦闘攻撃機を送り込んで実戦での武力行使に参加した。
NATO軍の空爆は、定式化した戦術である巡航ミサイル・トマホークを最初に発射して始められた。多彩な戦闘攻撃機によってユーゴ連邦の空軍機を撃墜して制空権を握ると、後はほしいままに爆撃を行なった。B2が精密誘導ミサイルを撃ち込み、B52が通常爆弾による絨毯爆撃を実行。
空軍機の出撃回数は、延べ3万6000回以上。爆撃回数1万700回。2万3000発を超えるミサイルを撃ち込んだが、その内8000発が精密誘導兵器である。通常爆弾は7万9000トン以上を投下。NATO軍の軍用機の損失は、僅かに有人機5機と無人機22機であるが、戦闘におけるNATO軍将兵の死者は1人も出していない。
NATO軍の空爆によるユーゴスラヴィア連邦の被害
米国防総省発表・ユーゴ連邦側の損害;対空迎撃能力の80%以上を破壊。ミグ21戦闘機24機破壊。ミグ29戦闘機14機破壊。SA3ミサイル10基破壊。第1陸軍部隊35%破壊。第2陸軍部隊20%破壊。第3陸軍部隊60%破壊。戦車・装甲車120台破壊。兵員輸送車220台破壊。軍用車輌製造施設40%破壊。弾薬製造施設65%破壊。航空機製造施設70%破壊。テレビ・ラジオ局45%破壊、ドナウ川沿岸道路70%破壊。橋梁50%破壊。コソヴォへの連絡道路50%破壊。鉄道100%破壊。製油施設10%破壊。石油施設60%破壊。セルビア社会党本部に重大な損害。大統領公邸への重大な損害。発・送電設備への炭素繊維爆弾を投下して首都ベオグラードの70%を停電させ、セルビア共和国全土の35%を停電状態とした。
米軍は人道的介入と称しながら、社会的インフラ爆撃や暗殺を目的とした大統領官邸の爆撃について触れることに何らの躊躇いを見せず、民間の施設破壊も成果として発表した。
ユーゴ連邦側発表の被害;軍用機100機以上が破壊。連邦軍兵士の死者5000人、負傷者1万人。公共施設の破壊は、テレビ・ラジオ局・15。水道、ガス、発電所などの電気供給ネットワーク・30。橋梁・61。鉄道・19。バスターミナル・12。主要道路・50。空港・14。病院・医療施設・34。学校・教育施設・480。保育園や幼稚園など・50。文化的・歴史的施設・36。省庁などの公的施設・37。教会・修道院・56。中国大使館などの在外公館と施設・19。その他、数千の工業、商業、農業・農地、住宅地など多数が破壊された。民間人の死者は、1500人~1800人、1万人以上が負傷。10万人が化学工場などの破壊により毒性ガスに曝され、クラスター爆弾および劣化ウラン弾・10トン5000発が投下されて事後の被害をもたらした。
EUの調査;中東欧地域環境センターが周辺5ヵ国で実施した調査によると、NATO軍がパンチェヴォやプラホヴォ、ノヴィ・サドの化学工業地帯に攻撃を集中させ、パンチェヴォ工場群からはエチレン1000トン以上、水酸化ナトリウム3000トン、塩化水素1000トンおよび13万トン余りの石油がドナウ川に流出した、と報告。
国連環境計画・UNEP;バルカン調査団は、パンチェヴォの破壊された工場から水銀などが排水路に流出している。クラグエヴァツの自動車工場では、PCBやダイオキシン汚染が見られる。ノヴィ・サドの製油所からの油の流出は地域住民の飲料水を汚染している可能性がある。ボールの精錬所では、PCBの汚染があり、二酸化硫黄が大気中に放出されている。これらのパンチェヴォ、クラグエヴァツ、ノヴィ・サド、ボールの汚染は直ちに除去作業をすることが必要である。劣化ウラン弾については、「使われた場所に人々を近づけない措置を取るべきだ」と勧告。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ・HRWの調査報告;いわゆる「付随的被害」による民間人が爆撃に曝されたケースは90件で、500人が殺された。この中にはセルビア共和国南部のグルデリツカ鉄橋と通過中の列車の爆撃。コソヴォ自治州のジャコビツァで、避難中のアルバニア人難民の車列が爆撃されて75人が死亡した例。ニシュ市の住宅の中心部にクラスター爆弾が落とされ14人が死亡。中国大使館が爆撃されて、3人が死亡した件などが含まれる、とした。このHRWの調査報告は、NATO軍の苛烈な無差別爆撃による被害を「付随的」なものとし、死者を500人と過小に計上するなど、細部に拘って記述している。この調査報告に込められた意図には、NATO軍の人道的介入による空爆は人道的配慮が行き届いていたとの印象を与えるための作為が見てとれる。NATO軍部隊は自らが投下した劣化ウラン弾の放射能被害を受けるNATO軍はユーゴ・コソヴォ空爆で劣化ウラン弾を10トン投下したといわれるが、数年後にはユーゴスラヴィアの住民に白血病や癌などが増大するという後遺症をもたらした。さらに、空爆後に派遣されたNATO軍主体の平和維持軍・KFORの兵士の中からも白血病や癌などの健康障害が数百人規模で多発したことで問題化した。しかし、NATO軍は劣化ウラン弾と白血病との因果関係は不明とし、兵士の健康被害は派遣国の国内問題として処理された。 人道的介入の人道とは乖離したNATOの軍事行動 NATO軍は爆撃の標的を軍事目標に限定していると表明していたが、実際の爆撃の被害状況を見ると、その大半は民間施設である。ある専門家の推計によると、被害総額は1000億ドルに上り、元の状態に戻すには数十年はかかるだろうという。これが人道的介入を標榜したNATO軍の軍事行動の破壊行為の結果であり、その破壊のありようは人道とは著しく乖離した国際法に違反した懲罰行為であった。ユーゴスラヴィア連邦は91年から始まった解体戦争で、人口は1100万人に縮小し、世界のGDPの1%の経済規模でしかない弱小国となっていた。それに対して空爆に参加したNATO軍加盟13ヵ国の人口は5億5000万人で、世界のGDPの55%を占める主要国である。NATO諸国は自らの国土が反撃にあう可能性がなく、安全であることを十分承知の上で、国連安保理決議を回避して軍事力を行使するという国際法違反を犯した。さらに、解散が取り沙汰されていたNATOの存続の理由付けにコソヴォ紛争への介入を利用し、ユーゴ連邦がNATO諸国の意向に不服従である故をもって人道的介入の名を冠した懲罰行為を実行したのである。
<参照;ヒューマン・ライツ・ウォッチ、コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍、ランブイエ和平交渉、NATOの対応>
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20,ユーゴ・コソヴォ空爆におけるNATO軍の中国大使館爆撃
ユーゴ・コソヴォ空爆で中国大使館も標的にされる
ユーゴ連邦解体戦争の最終章としてのコソヴォ紛争は、コソヴォ解放軍・KLAがセルビア共和国からの分離独立を企図して始めたもので、セルビア共和国がアルバニア系住民を迫害・排除を意図して行なった事例ではない。
にもかかわらず、NATO軍は、大規模な大戦なみの陣容を整え、国連安保理決議を回避した上で「人道的介入」なる美辞を冠して「アライド・フォース作戦」を発動し、1999年3月24日からユーゴ・コソヴォ空爆を実行した。
NATO軍は空爆の対象を軍事関連施設に限定していると公表しながら、実際はテレビ、ラジオ局、発・変電所、水道、ガス施設、橋梁、鉄道、主要道路、空港、学校・教育施設、病院、文化施設、教会、工場、石油精製施設、などすべてに及んだ。
中国大使館へのミサイル攻撃は懲罰が目的
さらにNATO軍は、99年5月7日に在ベオグラードの中国大使館にも戦略爆撃機B-2がJDAM・GPS誘導ミサイルミサイル3発を撃ち込んだ。中国大使館は建物の一部が炎上し、3人が死亡、20人が負傷するという惨事を引き起こした。
NATO軍は古い地図を使用したための誤爆であると弁明したが、中国政府は大使館を新設した際に米大使を招待しており、中国大使館の位置を知り得たのだから誤爆はあり得ないとして、米国の誤爆説の受け入れを拒否した。
事件の背景には、中国政府がNATO軍のユーゴ連邦への空爆に批判的であり、その上NATO軍の空爆で破壊されたユーゴ連邦軍の通信網の欠如を補うために中国大使館の通信施設の使用を認めていたとの疑惑が抱かれていたことがあった。
CIAの要員はこの疑惑を確認するためにベオグラードで電波の発信位置を調査し、中国大使館がその発信基地であると分析する。CIAのエージェントはこの情報をNATO本部に送り、NATO本部から回送された情報によって米統合参謀本部は中国大使館を爆撃目標として設定した。標的選定には、CIA要員のウィリアム・ベネット中佐が担っていた。別のCIAの将校がその標的が中国大使館であることに気付き、注意を促した。しかしこの警告は無視され、中国大使館へのミサイル爆撃は実行された。この中国大使館へのNATOの空爆は、ユーゴ連邦への便宜供与をした中国への懲罰的爆撃だったのである。
中国では激昂した市民が北京の米大使館を襲撃
NATO軍によるベオグラードの中国大使館への爆撃が伝えられると、中国の主要都市では激しい抗議行動が起こった。特に北京では、大学生ら2000人ほどが星条旗を燃やして米大使館に投石するなどの激しい抗議デモは暴徒化し、米大使館の施設の一部が破壊された。
中国外務省筋は、「誤爆という米政府の説明は信じられないが、故意だと断定しているわけではない」と述べ、米国との決定的対立は避けたい政治的配慮を示した。中国には米国の軍事力に対抗するほどの備えがなかったからである。そこで中国政府は米政府に対し、「1,全面的な調査と詳細な調査結果を公表すること。2,中国政府および人民、さらに被害者家族へ謝罪すること。3,中国大使館爆撃に関わった関係者を処分すること」を要求した。空爆終了後の99年7月30日になって米政府は謝罪した上で、個人への被害補償として賠償額440万ドルを提示。12月には、中国大使館の建造物に対する被害として2800万ドルを支払うことで合意した。北京の米国大使館への民衆の破壊行為に対しては、中国政府が187万ドルを支払うことで決着する。
NATOのユーゴ・コソヴォ空爆は中国の軍備戦略に多大な影響を与える
従来、中国の安全保障関係者は、NATO軍と中国とは直接的な対立関係にあるとは捉えておらず、軍事的には遠い存在と分析してきた。しかし、駐ユーゴ大使館にミサイルを撃ち込まれたことで安全保障関係者に激震が奔った。
それまで中国は自国を巻き込む戦争は起こらないと分析しており、軍備態勢は陸軍を主とする専守防衛を中軸に据えていた。ところが、望むと望まないにかかわらず、自国が攻撃されるということがあり得ると気付かされたのである。中国の安全保障関係者はすぐさま、自国の軍事態勢の再検討を行なった。そして、NATO軍を仮想敵国にあたるものとして規定した。その上で、専守防衛のための陸軍を削減し、形ばかりだった海軍の増強に取りかかり、空母を所有することになる。さらに、空軍を「攻防兼用型」とし、兵員の教育を知能的にするとともにハイテク兵器の装備の増強に転換する。ミサイル開発や南沙諸島の軍事基地化もこれに該当する。ロシアも中国と同じようにNATOを仮想敵国と捉え、空爆中の99年5月に安全保障会議を開き、「安全保障概念」の改訂と「軍事ドクトリン」の策定に取りかかるという対応を採った。このようにNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆は、中国とロシアの安全保障体制に多大な影響を与えることになった。
現在欧米諸国は中国の軍備再編を脅威と言いつのっているが、その淵源がこのユーゴ・コソヴォ空爆にあるとは一言も触れない。しかし、米国防総省は空爆終了1年後にこのユーゴ・コソヴォ空爆の中・ロの安全保障体制の変化を調査して報告書を策定していることから、彼らはその影響を知悉している。にもかかわらず、NATO加盟の米・英・仏・独は中国の軍備増強脅威論をかざし、2021年には極東に艦艇を派遣して共同訓練を行ない始めた。さらに、「クワッド」なる相互安全保障体制を構築し、また米英豪による「オーカス・AUKUS」と称する軍事同盟を創設した。中国包囲網の一環であろうが、これが偶発的な軍事衝突に至らないという保障はない。
中国大使館を標的として選定したベネット中佐は何者かに暗殺される
中国大使館を爆撃の標的に選定したCIA要員のベネット中佐は、空爆の翌年に個人的な誤りとして責任を取らされて解雇された。そして10年後の2009年3月、ベネット夫妻は公園を散歩していたときに車で近づいてきた何者かに襲撃されて殺害される。FBIは、犯人を逮捕しないままこの殺害事件とベネット中佐の経歴との関連を否定した。
中国はNATO軍による駐ベオグラード大使館空爆を懲罰的行為と捉えている
2022年5月7日に中国外務省の趙副報道局長は、「中国人民は1999年5月7日を永遠に忘れない」とのコメントを出した。これはNATO軍の駐ベオグラード大使館へのミサイル攻撃を中国政府がどのように捉えているかを明白に示したものである。NATO軍が弁明した誤爆説を、否定しているのである。さらに「NATOが東方拡大を続け、ロシアとウクライナの間に紛争の種をまいた」とも批判した。中国が安保理で西側諸国が提出したロシア非難決議に賛成しない理由を明確に示したものといえる。
<NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆と被害、NATOの対応、コソヴォ紛争>
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セルビア共和国政府の許可を得ることなく建設されたボンド・スティール基地
1999年3月24日に始められたNATO軍の78日間に及んだユーゴ・コソヴォ空爆が停戦協定によって6月に停止すると、米軍は直後の7月からコソヴォ自治州の南部に空軍基地の建設を開始した。基地建設は、コソヴォ自治州暫定政府の許諾によってハリバートンの子会社のケロッグ・ブラウン・&・ルート・KBR社が請負い、22億ドルを受け取った。
コソヴォ自治州がセルビア共和国の属州であることを勘案すれば、セルビア政府の承諾が必要なはずだが、米国はそのような手続きはせずに占領軍としてコソヴォ自治州に広大な空軍基地を建設したのである。この基地建設は、米軍が空爆前からコソヴォに進駐することを既定方針として計画しており、その先にはコソヴォ自治州の独立が当然視されていた。名称の「ボンド・スティール」は、ベトナム戦争で戦死した米軍の兵士の名前に由来するという。
欧州および中近東に睨みを利かすためのボンド・スティール空軍基地
基地の面積は、コソヴォ自治州南部とマケドニア共和国にかかる400ヘクタールにおよぶ広大なもので、周囲14キロをコンクリートの障壁などで囲み、道路、電気、水道などのインフラすべてを備えている。5000人の兵員を収容することが可能で、ヘリコプターの発着場が13ヵ所、航空整備施設2ヵ所、192棟の兵舎、厨房・食堂施設12ヵ所、大食堂2ヵ所、浴場37ヵ所、小売店や礼拝堂や図書館や娯楽施設など基地内には300以上の建物が建てられ、あたかも小都市の様相を呈している。
この基地の役割は、米軍がバルカン地域はもとより欧州全域や中東に出動するための拠点として建設されたものであり、アルバニア・マケドニア・ブルガリアを結ぶ、計画中のAMBOトランス・バルカン・パイプラインを保護するためのものでもある。
アフガン・イラクでの拘束者の秘密収容所が内部に設置される
2001年に「9・11事件」が起こされると、この基地内にも秘密収容所が設置され、アフガニスタンやイラクで拘束したイスラム教徒を収容し、キューバのグアンタナモ収容所の収容者の移転先にも選定された。ヨーロッパの政治家たちの間では、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆は米軍がこの基地を建設するために実行したのではないか、と囁かれている。2003年に実行されたイラク戦争では、この基地も使用された。米国は中近東をにらむ格好の軍事基地を確保したのである。
<参照;コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍、NATOの対応、米国の対応>
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22,「マケドニア紛争」
マケドニア共和国は独立を確保したものの紛争が波及することを恐れる
マケドニア共和国の民族分布は、1991年の国勢調査によると人口220万人で、マケドニア人が65%・143万人、アルバニア系住民が21%・46万人、その他14%・31万人である。この人口構成が、後にマケドニア紛争が起こされる要因となる。
マケドニア共和国は、ユーゴ連邦政府と交渉を重ねて91年11月に独立を達成した。ユーゴ連邦の中で最初に独立を達成したことになるが、この経緯を見ると交渉による独立を達成することが可能だったことが分かる。独立合意の際、ユーゴ連邦人民軍が重火器を帯同して撤収するとの条件を付けたため、マケドニア共和国の軍備は極めて貧弱なものとなった。マケドニア政府は隣接しているコソヴォ自治州の紛争の影響が及ぶことを恐れ、国連保護軍・UNPROFORの派遣を国連安保理に要請する。要請に伴い、92年12月には800人のUNPROFOR要員がマケドニアにも派遣された。
1995年1月、クロアチア共和国政府が国連保護軍の存在がクロアチアの和平を妨げているとの理由をつけて撤収を要請したことから、安保理は3月に決議981~983を採択して国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアには・国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPとして配置されることになった。
ところが、マケドニア共和国がユーゴ連邦解体戦争のとばっちりを受け、貿易が途絶えて経済的困窮に陥ったために、援助を期待して台湾と99年1月に外交関係を樹立したことが、中国政府の政治的機微に触れることになった。そして、直ちに報復的措置を受けることになる。中国は翌2月に開いた安保理で、マケドニア派遣の国連予防展開軍・UNPREDEPの駐留任期を延長する決議に拒否権を行使したのである。任期が切れることになったUNPREDEPは、ユーゴ・コソヴォ空爆が始まる直前の99年2月末に撤収してしまう。
コソヴォ解放軍の「大アルバニア主義」によってマケドニア紛争は起こされた
直後の99年3月24日、NATO軍がコソヴォ自治州の独立を目的としたコソヴォ解放軍・KLAの武力闘争に介入し、人道的介入の名を冠した「アライド・フォース作戦」を発動してユーゴ・コソヴォ空爆を開始した。マケドニア共和国が最も危惧した戦乱が、NATO軍絡みで国境地帯にまで迫ることになった。NATO軍の空爆を避けるために避難したアルバニア系住民はマケドニアにも押し掛けたが、紛争を危惧したマケドニア政府は国境を閉鎖した。このときは、ともかくも国連の説得を受け入れて難民キャンプの設置は容認する。
78日間におよんだNATO軍の苛烈なユーゴ・コソヴォ空爆は、6月に停戦協定が結ばれ、それに伴ってユーゴ連邦の治安部隊はコソヴォ自治州から撤収させられることになった。停戦協定では、ユーゴ連邦治安部隊の撤収とコソヴォ解放軍・KLAの武装解除が交換条件となっていた。しかし、ユーゴ連邦治安部隊が撤収した後に進駐したNATO軍の平和維持部隊・KFORはKLAの武装解除をするどころか、温存した上で「コソヴォ防衛軍」に編成替えをする方針を採用する。NATO軍の庇護を受ける形になったコソヴォ解放軍は、コソヴォ自治州を純粋なアルバニア人居住地とすることを目的としてセルビア人住民を迫害して追い出すとともに、「大アルバニア主義」に基づいた国家建設をしてそれを国際社会に認知させるべくすぐさま策動し始めた。コソヴォ解放軍はセルビア共和国南部とマケドニア共和国北部のアルバニア系住民居住域を分離させ、コソヴォ自治州に併合した「大アルバニア」建設を既成事実化し、それに基づいたコソヴォの独立を国際社会に否応なく承諾させようと目論んだのである。コソヴォ解放軍はNATO軍の空爆が終結した翌2000年に、セルビア共和国南部のサンジャック地方のアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を結成させて武力闘争を開始した。しかし、これはセルビア治安部隊の反撃に遭い、膠着状態に陥った。
マケドニアが想定していた紛争が起こったときにはUNPREDEPは存在せず
そこで、コソヴォ解放軍・KLAは予定にしたがって戦線を拡大し、マケドニア北部のアルバニア系住民居住地域に「民族解放軍・NLA」を組織させ、2001年3月にマケドニアでの武力闘争を開始した。このような事態を避けるためにマケドニア政府は国連予防展開軍・UNPREDEPの駐留を要請していたのだが、既にUNPREDEPは撤収してしまっていた。
UNPREDEPが撤収しても、マケドニア共和国としては経済的窮乏から軍隊の組織も装備も増強することは叶わなかったために、コソヴォ解放軍・KLAと民族解放軍・NLA合同部隊の攻勢にたちまち圧倒された。大アルバニア建設を目標としたKLA・NLAの戦闘意欲が高かったこともあり、01年7月にはコソヴォ自治州に隣接する地域など国土の30%を支配下に置くほどになる。
KLA・NLAにはNATO軍および米軍から作戦地図を提供され、暗視装置を供与されるなど装備も訓練も行き届いていたから、貧弱なマケドニア共和国軍が対抗できる相手ではなく、マケドニアは国家存亡の危機に直面することになった。マケドニア政府は、政府軍の弱体を補う形で民兵組織「ライオン」などを組織して政府軍と共同で防衛に当たるが、装備の不足は如何ともし難かった。KLA・NLAの部隊は、余勢を駆ってEU監視団として国境地帯に駐留していたドイツ軍に対し砲撃を加えるという異常な武力攻撃を行使した。ドイツ軍が国境監視をしていたことが、KLA・NLAの軍事的障害となっていたからである。マケドニア共和国軍が東欧から武器の貸与を受けて反撃するとEUとNATOが干渉
そこで、マケドニア政府は東欧諸国から武器の貸与を受けて対処することにする。武装ヘリなどの武器をウクライナなどから貸与を受けて装備を徐々に整えて反撃に移り、マケドニア共和国軍はKLA・NLAに対してようやく優位に立ち始めた。すると、8月にNATOのロバートソン事務総長とEUのソラナ共通外交上級代表がウクライナを訪問して軍事援助をしないよう圧力をかけた。NATOとEUは、戦闘を仕掛けたKLA・NLAの軍事行動を抑制するよりも、攻撃を受けているマケドニア共和国側に圧力をかける外交を選択したのである。マケドニア共和国としては国家の存亡に関わることであったから、周辺諸国から武器を調達するとともに総動員態勢を敷いて反撃を継続した。KLA・NLAから砲撃を受けたドイツ軍も密かにマケドニア軍に武器を提供したといわれる。武器の調達に成功した、マケドニア共和国軍が次第にKLA・NLAの部隊を圧倒して包囲すると、NATO軍が介入して停戦に合意させるという対応を採った。
米軍は停戦協定が結ばれると、マケドニア共和国軍に包囲されていたKLA・NLAや作戦指導をしていたCIAや軍事請負会社・MPRIの要員の救出にあたるなどの行動をとる。マケドニアの住民はこの米軍の対処に対し、KLA・NLAや米人要員を乗せたバスやトラックの通行を阻止し、投石をして憤激を表した。
マケドニア住民の憤激はNATOの平和維持軍にも向けられる
NATOとEUが仲介した和平交渉によって、マケドニア共和国政府とKLA・NLAとの間で、「オフリド合意」が締結された。オフリド合意の骨子は、「1,戦闘を停止する。2,民族解放軍・NLAは武装解除をする。3,アルバニア系住民が2割を超える地域はアルバニア語も公用語として認める。4,アルバニア系住民の警官の数を人口比相当とする。5,アルバニア系住民を政府部内にも積極的に登用する。6,マケドニアにNATO軍の平和維持部隊を配備する」などである。
オフリド合意が結ばれた後も、アルバニア系武装組織の武力攻撃は後を絶たず、その中にはアルカイダ系の武装組織も加わっていた。NATO軍はオフリド合意に基づいて、平和維持部隊・KFORを再編して英・仏・独・伊の兵士4500人をマケドニアに派遣したが、マケドニア人住民の憤りはこの平和維持部隊にも向けられ、「NATO軍はアルバニア系寄りだ」と叫んで投石し、英国部隊の兵士が死亡するという事件も起こされた。
民族解放軍・NLAの武装解除は形式にとどまる
マケドニアに進駐したNATO軍の平和維持部隊は民族解放軍・NLAの武装解除を任務としていたが、手心を加えたためにアルバニア系武装勢力が実際に提出した武器3875点は使用に耐えない銃などのがらくたばかりで、実質的な武装解除はなされなかった。武器のほとんどはコソヴォ解放軍・KLAが温存したものと見られる。
オフリド合意に沿ってマケドニア共和国は憲法を改定する
ともあれ、マケドニア共和国はオフリド合意に沿って憲法を改定し、アルバニア語も公用語とするなどアルバニア系住民の権利を保証する条項を取り入れた。合意によって新たに採用されるようになったアルバニア系住民の警察官の中にはKLA・NLAのメンバーが多数含まれ、訓練も米軍事請負会社の顧問が実施するなど、紛争が終わって見ればマケドニア共和国への米国の関与が強化される結果となった。さらに、マケドニアにもの地が設置されることになる。2002年にアルバニア系武装組織の民族解放軍・NLAは「再結成して活動を再開する」と宣言したが、その後目立った活動は見られない。
こののち、マケドニアは国名問題を巡ってギリシアと対立することになる。
<参照;マケドニア、コソヴォ解放軍、NATOの対応、米国の対応>
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23,「エネルギー回廊」
カスピ海から中東・バルカン半島を含む化石資源のエネルギー回廊
中央アジアおよびカスピ海の産油地帯から黒海を通り、マルマラ海、エーゲ海から中東の産油国に続く地中海に至る地域は、最も重要なエネルギー回廊である。これに近接する地域として、アフガニスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、グルジア、アゼルバイジャン、ウクライナ、イラン、トルコ、イラク、シリア、ヨルダン、エジプト、サウジアラビア、レバノン、イスラエル、パレスチナなどがあり、ギリシア、ユーゴスラヴィアなどバルカン諸国も含まれる。
この地域で起こった戦争は、すべて化石資源の確保が絡んでいるといっても過言ではない。近年では、1979年のアフガニスタン戦争、1980年のイラン・イラク戦争、1991年の湾岸戦争、1992年から始まったユーゴスラヴィア連邦解体戦争、9・11事件をきっかけに2001年から始められた米・英のアフガン戦争、2003年に実行した米・英・豪による有志軍によるイラク戦争がそれに該当する。
翻って、冷戦時に米国がイタリアの議会選挙や組閣などの政治に執拗に干渉したのは、ソ連圏への接近を阻止するためだけではなく、エネルギー回廊に位置するイタリアをコントロールできる政権の状態にしておくことが主な目的だった。それはギリシアにも当てはまる。ギリシアが軍事独裁政権を長期にわたって維持し続けられた背景には、米国の強力な支援があったからである。これにはギリシアの社会主義化を回避させる目的もあったが、中東一帯の石油資源の確保を確実なものにしておくのが最大の理由であった。ギリシアの経済的発展が阻害されたのは、軍事独裁政権が長期化したことにも原因が求められる。
NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」はコソヴォのアルバニア系住民のためではない
コソヴォ紛争への人道的介入として実行された99年3月の「ユーゴ・コソヴォ空爆」直前に、ビル・リチャードソン米エネルギ
ー省長官は「これはアメリカのエネルギーの安全に関わり、我々と価値を共有しないものによる戦略的な襲撃を防ぐことにも関わる。我々は、彼らが他の道を行くよりも、西側の商業的かつ政治的利害に頼るのを見たいものだ。われわれはカスピ海に相当程度政治的な投資をしてきているし、われわれにとってパイプラインの地図と政治の両方がうまい具合に行くことは極めて重要である」と、ユーゴ・コソヴォ空爆がコソヴォ自治州のアルバニア系住民の独立を支援することに目的があったのではなく、NATO諸国の中でもとりわけ米国の権益を確保するためのものだったことを明らかにしている。
空爆直後にNATO軍の平和維持部隊・KFORの英軍司令官としてコソヴォ自治州に派遣されたマイケル・ジャクソン将軍は、「われわれはこの国を横断するエネルギー回廊の安全を保障するために、ここに長期にわたって留まるだろう」と述べ、米英が同じ認識でNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を実行したものであることを表明し、エネルギー回廊を確保するために軍事力で主権国家を支配することの必然性を臆面もなく語っている。NATO諸国の要人がこれほど露骨な発言をしているにもかかわらず、メディアはユーゴ連邦解体戦争がエネルギー回廊を確保するために行なわれたのだという指摘をほとんどしていないばかりか、NATO軍が人道的介入をしたのはやむを得ないとの誤った認識に基づいた報道をし続けてきた。
バルカン半島にかかる化石燃料搬送のパイプライン計画は、以下のようなものが立てられている
1,AMBO・ルート = カスピ海海盆油田 - 黒海 - ブルガリア(ブルガス) - マケドニア - アルバニア(ブローネ)。
米英コンソーシアムが、ヨーロッパのトタール、フィナ、エルフを排除して計画を立案。
2,BTCパイプライン・ルート = カスピ海のアゼルバイジャン(バクー) - グルジア(トビリシ) - トルコ(ジェイハン)。
ユーゴ連邦解体戦争が長引いてAMBOルート計画の実施の見通しが立たなかったことから、先に着工された。
BTCは黒海およびロシアならびにイランを経由しないルートを採用したため1768kmに及び、2005年に完成した。
株主はブリティッシュ・ペトロリアム・BPが最大で、運営も担当し、次いでアゼルバイジャン、米国と続いた。
3,コンスタンツァ・オミサリ・パイプライン・ルート = ルーマニア(コンスタンツァ) - セルビア(ベオグラード) - ボスニア・
ヘルツェゴヴィナ - クロアチア(オミサリ)。
4,トリエステ・パイプライン・ルート = クロアチア(オミサリ) - イタリア(トリエステ) - スロヴェニア - オーストリア- ドイツ
5,オデッサ・ウクライナ・パイプライン・ルート = ウクライナ(オデッサ) - ハンガリー - クロアチア(オミサリ)
<参照;EC・EUの対応、NATOの対応、米国の対応、ユーゴ解体戦争の地政学的位置づけ>
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ユーゴスラヴィア連邦解体を企図する西側の目標に協調したメディア
「戦争の最初の犠牲者は真実である」と記したのは、ギリシアの悲劇詩人アイスキュロスだといわれる。米上院議員のハイラム・ジョンソンはこの言葉を思い浮かべたのであろう、第1次大戦の際に「戦争が起これば、最初の犠牲者は真実である」と語った。イギリスのジャーナリストのフィリップ・ナイトリーは、湾岸戦争でオイルまみれの海鳥の映像がCIAのやらせだったことを告発したジャーナリストであるが、彼はコソヴォ紛争の際にも「戦時にはすべての政府は嘘をつく。このことはどんなジャーナリストにも理解された真実であると」と述べた。嘘で塗り固められるのが常の戦争の中でも、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争は真実が歪められた度合いにおいて特筆すべきものであった。
ブレジンスキー米大統領補佐官はユーゴ連邦の解体を70年代から画策していた
ズビグニュー・ブレジンスキー米大統領補佐官が78年の社会学会において、米国からの参加者を前にしてユーゴスラヴィア連邦の社会主義体制解体の方針と手段について講演をしている。「ユーゴスラヴィア連邦内の民族主義を煽り、金融によって経済的・政治的圧力手段を形成し、消費者的メンタリティを助長し、メディアや映画など文化的な領域に浸透させ、連邦内に自由主義的な雰囲気を醸成して社会主義を放棄させる」と言明した。この発言は、ユーゴスラヴィア連邦の解体が、西側陣営にとって既定路線であったことを表している。
バチカン市国はこれに呼応し、80年代の半ば頃からユーゴ連邦の解体によるカトリック教圏の影響力拡大を求め、カトリック教徒が主なスロヴェニアとクロアチアの分離独立を働きかけていた。
西側諸国はブレジンスキーが言明するより以前から、ユーゴ連邦を自由主義社会に先行して取り込むことを想定し、他の東欧諸国より貿易や金融面で特別扱いをしてきた。西側諸国の方針に従い、ドイツの連邦情報局・BNDと米中央情報局・CIAは特殊な関係を利用し、協調してスロヴェニアとクロアチアの民族主義者に接触してユーゴ連邦への撹乱工作を続けていた。この働きかけを受け、のちに大統領となるクロアチアのフラニョ・トゥジマンは、クロアチア人のディアスポラを訪ね歩いて民族主義を説いて回わった。そして、1988年にはドイツを訪問してコール首相と会談し、独立への支援を要請している。
ところが、西側の想定と異なり、東欧の社会主義諸国が89年11月のベルリンの壁の瓦解に連鎖して体制を放棄してしまう。西側諸国は想定外の事態に多少動揺したものの、ドイツはこれを奇貨とし、直ちに東西ドイツの再統一に乗り出した。そして直後の90年3月に行なわれた東ドイツの議会選挙に干渉して速やかな再統一を掲げる政党を勝利に導き、壁が崩壊して1年足らずの90年10月に東西ドイツの再統一を成し遂げた。西側諸国はドイツの迅速な動きに危惧を表明したが、コール政権は意に介さなかった。そして、東西ドイツ統一に伴う経済的負担を経済圏の拡大で賄うことを企図し、ナチス・ドイツ時代にスロヴェニアとクロアチアを支配下に置いた記憶を甦らせるかのように、露骨に両国をユーゴ連邦から分離独立させる画策を強めた。
クロアチアは独立宣言に備えてセルビア人を追放し始める
クロアチアはドイツやバチカン市国の支援を受けてユーゴ連邦からの分離独立の動きを強め、90年に行なわれた複数政党制導入によるクロアチア議会選挙では、セルビア人の政党の設立を許可せず、クロアチア人の政党への投票を強要した。クロアチアの首都のザグレブでは、セルビア人および政府の方針に批判的なジャーナリストは解雇され、追放された。さらにセルビア人排除は強まり、行政職や警察官などの公職だけでなく、民間企業もあれこれの理由をつけて解雇した。セルビア人住民への嫌がらせは増大し、家屋への放火や爆破などの破壊行為が、クロアチアでは頻発した。
クロアチアとスロヴェニアは独立に備えて武装を整える
クロアチア政府や民兵組織は、独立後の武力衝突に備えてドイツなどから武器を導入して軍備を整えていた。91年の独立宣言が近づくと、クロアチア領内の主要な道路には検問所が設けられ、郊外の道路脇の木陰には戦車や砲が配置され、戦闘はもはや避けられない状態となっていた。これらクロアチア共和国の動向が、国際社会に報じられることはなかった。
ドイツとオーストリアがユーゴ解体戦争のきっかけをつくる
EC諸国としてはスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の動向は危惧の種であった。EC諸国は、ユーゴ連邦の社会主義体制の放棄は求めても、武力紛争は望まなかったからである。91年6月19日、CSCE外相協議会をベルリンで開き、「ユーゴ連邦の統一を支持する。民族間問題解決のための対話を呼びかける」との声明を発表した。しかし、オーストリアはこの表向きの声明に反するように、会議の外交団の一員にスロヴェニア共和国のルペル外相を伴うという外交上異常といえる行動を示した。ドイツおよびオーストリアに加えバチカン市国の支持が得られると見たスロヴェニアとクロアチアは、CSCEの声明に委細構わず6月25日に独立宣言を発した。クロアチア東部のヴコヴァルではクロアチア人によるセルビア人迫害が激しく行なわれ、独立宣言直後にはセルビア人住民は1万8000人から4000人に激減していた。
利己的なスロヴェニアの独断専行がユーゴ解体戦争をより悲惨なものにした
スロヴェニア共和国は独立宣言を発すると、「スロヴェニア領土防衛隊」は直ちにユーゴ連邦政府の30数ヵ所の施設を襲撃して占拠した。不意を打たれた国境事務所では、ユーゴ連邦政府の国境警備兵や税官吏が白旗を揚げた。スロヴェニア領土防衛隊はそれに向かって容赦なく機関銃の一斉射撃を行なう。このシーンは再三メディアによって放映され、何のコメントもつけられなかったために、ユーゴ連邦人民軍およびセルビア側の悪意説に染められつつあった視聴者は、加害者のスロヴェニア側が被害者なのだと受けとらされた。このスロヴェニア戦争では、スロヴェニア政府やその軍部からありもしない戦闘についての膨大な情報が提供されて記者たちを大いに悩ませ、誤った情報を信じさせられたという事情もある。情報操作の背後には、湾岸戦争でクウェート大使の娘に偽証言をさせて湾岸戦争に導くという捏造事件を起こした米PR会社「ヒル&ノートン社」などの働きがあった。このような歪曲された報道が、ユーゴ連邦解体戦争では一貫して踏襲された。しかも、ユーゴ連邦人民軍とセルビア共和国およびセルビア人勢力軍を故意に同一視するか、混同して伝えるということまでしたため、一層誤解を国際社会に与えることになった。
ユーゴスラヴィア連邦政府が連邦体制の維持を図るのは自然な対応である。当時の連邦政府首相はクロアチア人のマルコヴィチだったが、彼は連邦政府管轄の施設の管轄権を回復するために、クロアチアに駐屯する第5軍管区の連邦人民軍に出動を指示した。しかし、連邦政府所管の施設が30数ヵ所あったにもかかわらず、新たに送り込まれた連邦人民軍の兵士は2000人ほどであった上、連邦人民軍は多民族の混成部隊であったことから戦闘意欲はほとんど持っていなかった。それを迎え撃つスロヴェニアの領土防衛隊は、独立を達成するのだという意欲に燃えた3万5000人の兵士である。実際に戦闘が起こると、国際世論はスロヴェニアの独断専行ではなく連邦政府の統一維持のための当然の行動の方を非難した。このスロヴェニアをめぐる戦闘は、圧倒的な戦力と意欲の差により10日間でスロヴェニアの勝利に終わる。
ドイツおよびバチカンはスロヴェニアとクロアチアの独立承認を強行
ECは7月、ユーゴ連邦政府とスロヴェニアおよびクロアチア共和国代表を招いて、「1,停戦の上、独立宣言を3ヵ月間凍結する。2,ユーゴ連邦の将来に関する協議を継続すること」などに合意させた。だが、ドイツとバチカン市国はこの凍結期間を単なる冷却期間としか捉えなかった。
9月、ECは和平会議を設置してキャリントン英元外相を任命し、「平和的手段および合意によらない内外国境の変更は認めない」などの共同宣言を採択した。しかし、直後にスロヴェニアのルペル外相は、和平会議の如何に関わらず10月に独立宣言をすると表明した。ルペル・スロヴェニア外相の強気な発言は、ドイツとオーストリアおよびバチカン市国の支持を背景にしたものである。
91年10月、デクエヤル国連事務総長はヴァンス米元国務長官を特使に任命してユーゴスラヴィア問題の打開を図る。しかし、ドイツのコール首相はこの国連およびECの思惑を無視し、11月の連邦議会で「ECは、スロヴェニアとクロアチアの独立を承認することになるだろう。ドイツは両共和国の独立が延び延びにされないように務めていく」と演説した。それに歩調を合わせるように、バチカン市国のソダノ国務長官は、米・英・独・伊・オーストリア・ベルギーの各大使を招き、「スロヴェニアとクロアチアを1ヵ月以内に独立国家として承認するよう要請」した。このように、ドイツとバチカン市国は執拗に両国の独立承認をEC諸国に働きかけた。
EC諸国のメディアがドイツの利己的対応を批判
12月16日、ECはブリュッセルで外相会議を開き、再度ユーゴスラヴィア問題を協議した。会議は、「両国の独立問題は92年1月15日まで先送りする。引き続きEC和平会議への協力、国連の和平努力への支持、ECの和平提案の受け入れを要請する。独立申請の適否は、『バダンテール委員会』で審査する」こと、などを決めた。この会議で、ゲンシャー・ドイツ外相は強硬にスロヴェニアとクロアチアの早期独立承認を主張する。これに対して12月17日のECの主要国のメディアは、さすがにドイツの対応に対して批判を加えた。フランスのリベラシオン紙は「ゲンシャー・ドイツ外相のブリュッセルでの会議の孤立ぶりは、EC年代記中でも極めて異例なこと」であるとドイツの独走を諫め、英タイムズ紙は「ドイツは自国の利益をECに優先させるものであり、現時点での承認はクロアチアに、世界が武器と金を供給してくれるという幻想を抱かせるだけで、何の助けにもならない」と、和平努力に反するドイツの対応への批判的記事を掲載した。ドイツのメディアは、シュピーゲル誌が7月にスロヴェニアおよびクロアチアの分離独立支持に転換して以来、メディア全体が両国の独立支持一色に染まっていたため、批判的報道をすることはなかった。
EC諸国はドイツとバチカン両国の拙速独立を表向き批判せず
ドイツはこの会議の直後の91年12月23日に、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立を先行して承認してしまう。次いで、バチカン市国はEC諸国にやはり先行して翌92年の1月13日に両国の独立を承認する。EC諸国はこれに引きずられて1月15日、両国の分離独立を承認した。このEC諸国の拙速な独立承認に対し、これを批判的に報じたメディアはなかった。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、EC諸国がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認したのを見て、ボスニアをユーゴ連邦から分離独立させることに踏み切る。そして、2月末にセルビア人住民の反対を押し切って住民投票を強行し、3月3日には独立宣言を発した。ボスニアの民族比はムスリム人44%、セルビア人31%、クロアチア人17%で、この混住地で独立を強行すれば3民族間の対立は決定的となり、紛争が起こるのは目に見えていた。しかし、スロヴェニアとクロアチアの独立承認後に続いたボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立宣言は当然のこととして受け取られ、これに反する動きはすべて悪であるとの報道で覆い尽くされることになる。
ボスニアで武力衝突が起こると、既にスロヴェニアとクロアチアの武力衝突でユーゴ連邦政府およびセルビア悪説のプロパガンダが浸透していたために、武力衝突の責はすべてセルビア人に帰せられ、それが増幅されて報じられることになる。それには、米国のPR会社の活動が大きな影響を与えていた。
メディアの虚偽報道で塗り固められたユーゴ連邦解体戦争スロヴェニア共和国は、米ヒル&ノートンPR会社と契約し、クロアチア共和国とボスニア共和国は米ルーダー・フィン社と契約した。このPR会社によるイメージつくりが先行して行なわれ、ユーゴ連邦側の主張や情報は無視されるか巧妙に排除された。PR会社にとって、依頼主の利益になるとなれば事実を曲げることも捏造することも厭わず、真実は二義的なものでしかなかった。PR会社は依頼国の一方的な情報を確認することなく繰り返し流すことによって、ユーゴ連邦やセルビアのイメージを悪化させることに効果を上げた。PR会社のプロパガンダは、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国およびボスニア共和国政府の思惑と合致したこともあって共振して増幅され、メディアはもとより知識人や政治家にも真実らしきものとして受け取られ、ユーゴ連邦悪・セルビア人悪説は広く深く浸透することとなった。一方のユーゴ連邦やセルビア共和国の主張は、既に悪としてのイメージが先行していたためにすべてが虚偽だとして片づけられ、PRの重要性に気付いてPR会社に依頼してもそれを受け入れる会社は存在しなかったのである。
アメリカのメディアで真実を伝えたのは極めて稀
1991年、ピープル・ウィークリー誌は、クロアチアの古都のドゥブロヴニクがセルビア人勢力による大規模な破壊が行なわれていると報じながら、街がこれほど残ったのは奇跡であると、破壊されていない古都の美しさを見せた。ニューヨーカー誌も、ドゥブロヴニクがセルビア人勢力によって繰り返し砲撃されていると誇張して報じた。ユーゴ連邦海軍がドゥブロヴニクを砲撃したのは紛れもない事実だが、クロアチアの特殊警察がセルビア正教の教会を爆破し、セルビア人住民の居住地で爆破や迫害を行ない、排除し始めたことへの警告を目的としていた行なったものである。そのため、クロアチア共和国の部隊が配備された地点などへの砲撃や、特定の施設を目標としており、一般居住地への砲撃は行なっていない。そのようなことから、ドゥブロヴニクの街並への実際の破壊はほとんどなかったのである。のちのTVの取材に対して、住民が示したのは機銃の弾痕のみであった。
ただ、ニューヨーカー誌とウィークリー誌が誇張して報じたのには多少のわけがあった。クロアチア側がユーゴ連邦海軍の攻撃を誇大に見せるためにドゥブロヴニクの住民に埠頭で古タイヤを燃やして黒煙を盛大に上げ、被害を誇張するなどの細工を施すようにさせたことがあった。
米国政府はユーゴ連邦・セルビア共和国への非難を強めていく
当時のブッシュSr米政権は、78年の社会学会でブレジンスキー米大統領補佐官が言明したように、ユーゴ連邦の解体を戦略として掲げていたものの内戦まで想定したわけではなかった。そのため、当初は慎重にEC諸国の動向を注視するという態度を取っていた。それは91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言した際、翌26日にブッシュ米大統領が「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを発していたことに表れている。
しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ブッシュ政権のユーゴ問題への取り組みは誤っていると批判したことから、これが政争の具となり、次第に強硬策を採るようになっていった。そして、ECに遅れて92年4月にスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの3国の独立を承認する。それ以来、米国は新ユーゴ連邦解体への関与を強めていくことになる。5月には新ユーゴ連邦の資産を凍結し、6月には経済制裁の大統領令に署名した。これに歩調を合わせるように、同じ6月にPR会社のルーダー・フィン社はボスニアのセルビア人勢力が「民族浄化」を行なっているとの文書を関係先に繰り返し配布した。そして、米政府は経済制裁を実効あらしめるためとして第6艦隊をアドリア海に派遣して監視を強化する。7月にブッシュ米大統領は、ルーダー・フィン社の民族浄化の文言を使用して「ボスニアではこの瞬間にも民族浄化が行なわれている」と述べて非難を強めた。これらの強硬策の背後には、軍産複合体の働きかけがあったものと推察できる。
虐殺やレイプ被害の虚偽情報を流した記者たち
米ニューズ・ディ紙のロイ・ガットマン記者は、92年8月2日にボスニアの「オマルスカ収容所」について、「死のキャンプ」というタイトルをつけた記事を書いた。彼は現地から200キロ離れたザグレブのクロアチア共和国政府に提供された施設にいてオマルスカに行ったことはない。にもかかわらず、ボスニアのセルビア人勢力がオマルスカに収容所を設置して8000人から1万1000人を収容し、拷問、虐殺、そして餓死させているとの悲惨な収容所の実態をあたかも目撃したかのように生々しく描写した。彼の情報源は、クロアチア共和国政府と、一方の当事者であるボスニアの政府機関およびムスリム人慈善団体と、それが紹介した証言者などの伝聞情報であり、それをナチス・ドイツの強制収容所を連想させる記事に仕立て上げたのである。米国務省は、この強制収容所の存在は確認できないと一旦は否定した。
しかし、ガットマン記者の記事はメディアの狂騒に火をつける役割を果たすことになる。ガットマンの記事を見た300人あまりのジャーナリストたちは、ボスニアのセルビア人支配地区の強制収容所を見つけようと押し掛けたのである。彼らはそれらしきものを発見することはできなかったにもかかわらず、ガットマンは、さらにセルビア人勢力の収容所で2万から2万5000人が虐殺されたと書いた。当時、赤十字国際委員会・ICRCが公表した、ボスニアのムスリム人勢力・セルビア人勢力・クロアチア人勢力の3民族勢力のすべての収容所での収容者総数は1万8000人、と発表した内容は一顧だにされなかった。
クロアチア人勢力とボスニア人勢力両者の収容者数がセルビア人勢力側より多かったとの報告を勘案すると、紛争が発生して半年も経ていない期間にセルビア人勢力が2万人以上を虐殺したなどということは数量的にあり得ないが、ことほど左様にガットマン記者はセルビア人勢力の悪印象を植え付けるために誇張と捏造を繰り返した。94年にはガットマンの「戦争の構築」という著書がクロアチアで出版されたが、ザグレブで開いた出版記念会は、米国の大使館が主催したのである。この事例はメディアと政府機関が癒着していった構造を見事に示していた。
ニューヨーク・タイムズ紙の圧力とピューリッツァ賞の虚構
ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・バーンズ記者は、サラエヴォに275日間居続けてサラエヴォ発の記事103本を含む163本の記事を発信した。彼はそのほとんどをイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長の公邸に入り浸って書き、セルビア側からの取材は一切しないという徹底した取材態度を貫いた。彼を有名にしたのは、ボスニア政府軍の捕虜になった21才になる気弱なセルビア人兵士ボリスラブ・ヘラクの告白記事だった。このセルビア人兵士はムスリム人勢力から脅迫と拷問を受けていたために怯えており、自らの罪状としてレイプ殺人8人を含む29人を殺害したという厭わしい作り話を告白した。さらにヘラクはバーンズ記者に阿り、国連保護軍のマッケンジー司令官がムスリム人女性たちをレイプしたとの話を付け加えた。国連保護軍司令官のレイプ事件は相当なスクープのはずだが、さすがにこのスキャンダルを入れると記事の信用性が損なわれると考えたのであろう、バーンズはこれを記事の中に入れなかった。さらにバーンズは、赤十字国際委員会・ICRCが1000人以下の死者としたゴラジュデの攻防戦について、ボスニア政府が発表した7万人の市民が死亡したとの桁外れに誇張した情報の方を報じた。このような怪しげな記事を書き散らしたバーンズとガットマンは、93年4月にそれぞれの記事でピューリッツァ賞を受賞した。後になって、ガットマンとバーンズの記事に疑義が出されたが、ピューリッツァ賞の選考委員会が再検討をすることはなかった。これには、ニューヨーク・タイムズ紙の圧力があったものと見られている。
ニューヨーク・タイムズ紙はバーンズを重用しただけでなく、93年10月に国連が報告したセルビア人女性800人が被害者となったレイプ事件を、逆にセルビア人勢力が起こしたレイプ事件として報じた。同じニューヨーク・タイムズ紙のウィリアム・サフィア記者は、ジャーナリストの規範を逸脱し、NATOの空爆を駆り立てるための戦闘プランまで提示した。これらとは逆に、デービッド・バインダー記者が送稿した95年8月のマルカレ市場爆破の犯人はセルビア人勢力ではなくボスニア政府軍であるとの内容の記事を、編集者たち上層部は握りつぶすという対処をした。
レイプ事件を誇張し人肉を食べているとの荒唐無稽な情報を流したメディア
米ニューズ・ウィーク誌は、92年8月からルーダー・フィン社が流布した民族浄化の用語を使い始める。そして93年1月、シライジッチ・ボスニア首相が発表したセルビア人勢力が計画的にセルビア人の子どもをムスリム人女性に生ませるために6万人をレイプしたとの怪しげな情報を、7ページにわたって特集した。ミズ誌は93年9月号に、ミシガン大学のキャサリン・マッキノンの「レイプからポルノグラフィーへ・ポストモダン時代の大量虐殺」との論考を掲載した。論考には「変質的行動が現代セルビア人の性格の一部である」とのもっともらしい結論が書かれていた。この荒唐無稽な論調はいずれもボスニア政府が発表した情報に基づいているが、この雑誌は確認することなく垂れ流した。因みに、国連が作成した当時の最終報告書では、確認できたレイプによる出産件数は1件のみである。にもかかわらず、米フィラデルフィア・インクワイヤラー・マガジン誌は、94年1月に5万人レイプ説を肯定する無署名記事を掲載した。
ニューヨーク・タイムズ紙、米AP通信、米公共放送・NPR、テレビ各局は、93年2月にボスニア政府が発表したチェルスカがセルビア人勢力の戦車の砲撃で焼け野原になったとの発表を確認もせずに報じた。3月6日に国連保護軍のモリヨン将軍が現地を訪れてみるとそれらしい痕跡もなく、人々は平穏に生活していた。この事実を各メディアは訂正していない。
米AP通信は93年2月17日、ボスニア政府が発表した、東ボスニアでは飢えたムスリム人たちが人肉を食べているとのおぞましい情報を確認もせずに配信した。国連職員が調べに行くと、そこでは家畜や鶏を飼って生活をしており、飢えに悩まされている様子はなかった。AP通信はまた、95年4月25日にバニャ・ルカからムスリム人とクロアチア人が追放され、バニャ・ルカ市は50万人から6万5000人に激減したとまことしやかに伝えた。バニャ・ルカ市の人口は元々20万人しかおらず、非セルビア人はその半数以下だったので、激減などという事態は起こっていない。
のちに、AP通信の女性編集者は、いかにメディア上層部が民族の扱い方にえこひいきをしたかを述懐している。
正体不明のハム無線情報を確認せずに報じるメディア
米タイム誌は93年に特集で「セルビア人勢力にムスリム人の民間人、女性、子ども、老人の大部分が喉をかき切られるなどで殺されている」と報じた。これはUNHCRの緒方貞子難民高等弁務官が行なった安保理への可能性としての報告を元にしたものだったが、その報告書の情報源は正体不明のハム無線家の未確認情報だった。元来、緒方貞子高等弁務官は事態を誇大に伝えがちだったが、実際には現地の直接情報を収集する能力はなかったのである。94年2月21日、米タイム誌とニューズ・ウィーク誌はマルカレ市場砲撃事件での犠牲者をムスリム人だと示唆したが、犠牲者の名前の前にはセルビア正教のキリル文字の十字が記されており、ムスリム人であるはずもなかった。これほどに、メディアの報道姿勢は杜撰というより悪意に満ちたものだった。
米CNNのクリスティアン・アマンプールは、セルビア人の立場に全く関心を払わない偏向報道をなした典型ともいえる人物の一人である。93年3月に放映した現地レポートでは、ムスリム人14人が殺害されたと報じたが、殺害された遺体はセルビア人だった。94年2月のマルカレ市場爆発事件の特集番組では、現地から遠く離れたところにいたにもかかわらず、すぐさまセルビア人の犯行だと思うとコメントし、セルビア人勢力が実行犯だとの印象づけを行なった。国連軍は、監視ポストに監視センサーを設置しており、それによればセルビア人勢力軍の駐屯地との距離からしてセルビア人勢力の砲撃ではあり得ず、ムスリム人勢力の犯行の可能性を指摘したが、CNNは訂正していない。アマンプールの報道姿勢には、単なる偏向以上のものがあった。
米ABCのジェニングスは親ムスリム人勢力に徹底して報道
ABCのピーター・ジェニングスは徹底した親ボスニア・ムスリム派の姿勢を貫いており、セルビア側の取材を一切していない。そればかりか、ジェニングスがボスニアに取材に訪れると決まって事件が近くで起こった。94年2月5日のマルカレ市場での爆発事件の際にも、ジェニングスのクルーは近くを車で走っていた。そして、この事件をセルビア人勢力によるものと示唆する報道をした。国連軍の調査では、ムスリム人勢力による疑惑が指摘された事件である。また、ゴラジュデとビハチの2つの街の戦闘での死傷者について、ボスニア政府軍の発表した死傷者はそのまま報じたが、その戦闘の背景も、セルビア人勢力の死傷者も報じなかった。ジェニングスとムスリム人勢力が示し合わせて事件を起こしたわけではないが、ジェニングスが親ムスリム人勢力ということを知悉している者たちが、ジェニングスが取材に来るとの情報を入手して事件を引き起こした、というのが実態である。
ジェニングスは親ボスニア意識が高じたあまり、ローズ国連保護軍司令官を批判するために別のインタビューでの発言を編集して挿入し、国連軍の対応を非難するということまでした。この米ABCのプロデューサーの、デービッド・カプランがボスニアで銃撃されて殺害されると、たちまちセルビア人犯行説が飛び交ったが、ムスリム人勢力の犯行だと分かると、メディアは急転して沈静した。
米公共放送PBSのマクニール・レーラー・ニューズアワーは、93年7月にコソヴォ自治州のポドゥイェヴォで化学兵器が使われているとして被害者に仕立てた子どもたちだけを放映した。事態の重大性を認識したベオグラードのアメリカ大使館は、直ちに調査を行なったが、その結果PBSの放送は捏造事件であることが判明した。同じ米公共放送のナショナル・パブリック・ラジオ・NPRは、現地では「ラジオ・フリー・サラエヴォ」と名付けられるほど、ボスニアのムスリム人勢力の宣伝放送局と化していた。米ロサンゼルス・タイムズ紙は、94年4月、ゴラジュデでセルビア人勢力側からの無差別砲撃でムスリム人住民3000人が死傷したと報じたが、これはアマチュア無線家が流したデマをそのまま伝えたものだった。
米国のメディアはセルビア悪説を繰り返し報じて対立を煽った
ニューヨーク・タイムズ紙も、ニューズ・ディ紙も、ニューズ・ウィーク誌も、AP通信も、CNNも、ABCも、CBSも、米公共放送PBSもNPRも、上層の編集者たちの姿勢は1つとして公正中立を旨とする報道に則っていたといえるものはなかった。ユーゴ連邦解体戦争中の米国の報道の基調は、「1,セルビア人のみが残虐行為を行ない、休戦協定を破り、強制収容所を設立し、聖堂や史跡を破壊した。2,セルビア人勢力は、クロアチア人やムスリム人に属する土地を占領したのに対し、クロアチア人勢力やムスリム人勢力は自己の領域を防衛するために戦った。3,セルビア人は高性能の武器を持っているが、ボスニアのムスリム人は丸腰で平和を愛する被害者である。4,スロヴェニア人・クロアチア人・ムスリム人は、セルビア人の独裁的支配から逃れるためにユーゴスラヴィア連邦から脱退した。5,アメリカ主導の世界を維持するためには、ムスリム人が武装し、自衛できるように国連決議の武器禁輸を解除すべきだ」というものだったのである。
良心的な記者は排除されるか耐えられずにユーゴスラヴィアの現場から去った
とはいえ、米国の現地の記者たちがすべて偏見に凝り固まった誤・偽情報を送り続けたわけではない。ニューヨーク・タイムズ紙のバインダー記者は一方に偏せず、ボスニアのイスラム教徒の悪事や、コソヴォ自治州のアルバニア系住民たちがセルビア人追い出しを図っていることを記事にした。サラエヴォのマルカレ市場の爆破についての記事は掲載を拒否された上、バインダー記者はバルカン担当から外された。フィナンシャル・タイムズ紙のローラ・シルバー記者は名前だけ使われ、内容は送稿したものと全く異なる記事が掲載されたと憤りを露わにした。ボリス・グレンダールは、フォーリン・ポリシー誌に「ユーゴスラヴィア発―パルチザン通信」で西側メディアと情報提供者を批判した記事を掲載した。すると、湾岸戦争でクウェート大使の15歳の少女の捏造証言を演出したヒル&ノートンPR会社から発言を撤回しなければ訴訟を起こすと脅された。
国連保護軍の報道担当官は、「良心の呵責に耐えられなくなった記者の中には、自らユーゴ報道から身を引いて去って行った者もいたし、記者たちは編集部との闘いもしなければならないようだった」と述懐している。ブルッキングズ研究所のスーザン・ウッドワードはメディアについて、「議論の余地なく戦争の武器となっており、そのことは誰でも知っている」と発言した。
イギリスのITNテレビは強制収容所を捏造
イギリスのメディアも米国のメディアと同様、偏向した報道姿勢を取っていた。とりわけ、ITNテレビの対応は欺瞞に満ちた
ものだった。当時、ITNのクルーは編集部からセルビア人勢力の強制収容所を探せと指示されていた。そこで、ITNテレビは92年8月5日、ボスニアのセルビア人勢力が設置したトルノポリェ収容所の金網越しにやせ衰えたフィクレト・アリッチの姿を放送した。この映像はヨーロッパを席巻し、ナチス・ドイツの収容所になぞらえた「現在のベルゼン収容所」、「ホロコースト再来の恐怖」として、囂々たるセルビア人勢力非難の声が上がった。しかし、金網は収容所を取り囲んでいたのではなく、電気設備や倉庫などを囲っていたものだった。地元の人たちによると、トルノポリェ収容所はムスリム人だけでなく避難してきたセルビア人を含む出入り自由な難民収容所だったという。ITNテレビは、編集部の意図に沿うように設備を囲っていた金網越しに痩せこけたアリッチにインタビューをして撮影した映像を放送するという作為を施したのである。元来、この収容所は鉄条網に囲まれていない。
ドイツ人・ジャーナリストのダイヒマンがITNのオマルスカ収容所の放送を批判した記事を送稿したが、イギリス記者協会傘下の通信社トゥーテン・コミュニケーションズが記事の掲載を拒否。そのため弱小雑誌のLM社に掲載されることになると、ITNの弁護士はダイヒマンの記事掲載差し止めと名誉毀損で訴訟を起こし、LM社は訴訟と激しい論争に巻き込まれて廃業に追い込まれることになった。ITNは自社に不利な記事を力でねじ伏せるという対応を取ったのである。ITNのペニー・マーシャル、ITNカメラマンのジェレミー・アビン、ガーディアン紙のエド・バリアミー、イギリス・チャンネル4のイアン・ウィリアムズたちは、トルノポリェ収容所に関する世界の疑義に対して真実を語ろうとしていない。
ステレオタイプだった英国のメディア
英BBCは、ルーダー・フィンPR会社が流した、セルビア人勢力の狙撃兵がムスリム人の子どもを狙撃するたびに懸賞金を受け取っていたとの作り話を、確認もせずに放送した。この放送について、BBCは後に謝罪している。当時、サラエヴォ市の狙撃回廊が取り沙汰され、セルビア人勢力の悪逆ぶりの象徴のように報じられていたが、この回廊への狙撃はムスリム人勢力も同じように行ない、それをセルビア人勢力によるものとのプロパガンダが行なわれていたのである。BBCは92年に、衰弱した老人をセルビア側の強制収容所のムスリム人戦争捕虜として放映した。だが、この人物はユーゴ連邦人民軍の退役将校で、セルビア人のブランコ・ベレッツであることが親戚によって確認された。BBCの報道姿勢もこの程度のものだった。BBCのミシャ・グレーニーは、「内戦の最初から原理原則はなかった。徹頭徹尾現実政治だった」と述べた。
英エコノミスト誌は93年3月6日号で、ニューヨークのワールド・トレードセンター・WTCの地下爆破事件に関する写真を大量に掲載し、「我々にはセルビア人勢力によると思える」とのキャプションをつけた。驚くべき飛躍と悪意に満ちた記事である。
ロンドンのフィナンシャル・タイムズ紙は、ボスニア政府が提供したチェルスカがセルビア人勢力の戦車攻撃で焼け野原になっているとの未確認情報を米国のメディアと同様に記事にした。国連保護軍のモリヨン司令官が現地調査をして人々が通常の生活をしていることが確認された、偽情報事件である。
英ガーディアン紙のマギー・オケーンは、「セルビア側で何が起きているか分かっていた。われわれは戦争で人々に何が起きるかについて書くことだ。もちろんセルビア側にも被害者が出た。でも、規模はより小さかったと思う。ムスリム側の犠牲者の方が多かった」と、セルビア側からの取材を行なわなかった自己の取材態度の正当化を図った。
もちろん、イギリスの現場の記者がすべて偏向していたかというと、そうとは言い切れない。ロンドン・タイムズ紙のティモシー・ジューダは、94年に「同じ記事を50回も書いた」が採用されなかったのだと語っている。フィナンシャル・タイムズの特派員の中にも、セルビア人勢力悪説ではない記事を載せようと、懸命に努力した人もいた。英インディペンデント紙は、「国連首席調査官はスレブレニツァで5日間の聞き取り調査を行なったが、ムスリム人の遺体を1人も発見できなかった」と報じている。英ロイター通信は、マルカレ市場の爆発事件について、国連保護軍士官のアンドレイ・ムデレンコ大佐がセルビア人勢力の砲撃を否定した記事を配信しているが、セルビア人勢力への懲罰的なNATO軍の空爆が始められていたために、その配信記事は無視された。のちに英デイリー・テレグラフ紙は、95年7月15日にボスニア政府が難民問題などで事件を操作したことは度々あったと報じた。これにはスレブレニツァ虐殺事件も含まれる。
ドイツのメディアもセルビア悪一色で染められた
ドイツのメディアも、スロヴェニア、クロアチア、ボスニアは善、セルビアは悪一色で染められた報道を行なった。1991年には、テレビ局がスラヴォニア東部のラスロヴォで殺害されたセルビア人の損傷の酷い遺体を、クロアチア人兵士の遺体として放映した。
リベラル左派系といわれるシュピーゲル誌は、当初はユーゴ内戦に中立的な視点で報道していたが、スロヴェニアとクロアチアが独立宣言をした直後の7月8日号で両共和国の分離独立を推進する方向に方針転換し、ユーゴスラヴィア連邦体制を維持しようとするセルビア共和国に対して極端な批判的論調の記事を掲載するようになった。94年4月、シュピーゲル誌は明石康国連特別代表の和平交渉について、「平和のサムライ、アカシの和平の破綻」と題する記事で「対決を避けようとする日本人的性格が同代表に優柔不断という評判をもたらしている。彼は国連の威信を傷つけた」と、無益な空爆を避けようとした明石特別代表の姿勢を、好戦的な態度で非難するということをした。のちに、シュピーゲル誌のレナーテ・フロッタウは、「すべての新聞報道について大きな問題があった。私たちはクロアチア人とスロヴェニア人は善玉、セルビア人は悪玉と言っていた。セルビア人は悪くないと口に出していうことは、困難だったり、ときには危険だったりした」と述懐した。
シュピーゲル誌の転換によって、保守系右派の主要紙フランクフルター・アルゲマイネ紙はかねてからセルビア批判を繰り広げていたため、ドイツ国内の主な報道機関の論調はセルビア人勢力批判一色に染められることになった。これ以後、ドイツのメディアが批判的精神を示すことはなかった。僅かに地方紙に、単純な善悪二元論ではない意見が掲載されることはあったが、地方紙がドイツの言論界に影響力を与えることはなかった。このメディアの事情が、ドイツでの一般人はもとより、学者や知識人や政治家たちの認識をも誤らせることになったのである。
フランスもセルビア悪説の象徴としてレイプ被害者を水増しして報道
フランスも例外ではない。オブセルバトゥール紙は、クロアチアのウスタシャの記章をつけている民兵部隊に、セルビアの民兵とのキャプションをつけた。杜撰という言葉ではでは言い表せない理解に苦しむ報道である。マドモワゼル誌のビビエンヌ・ウォルトは、「92年末の時点で2万から10万人のムスリム人女性がレイプされているが、そのほとんどがセルビア人の兵士や役人によるものだった」とボスニア政府からの情報を伝えた。当時、ボスニアのムスリム人が190万人、セルビア人が137万人だったことを考慮すると、紛争が始まって8ヵ月間にレイプされたムスリム人女性が10万人というのは途方もない人数であることは瞬時に分かるはずだが、誇張などという言葉では言い表せない悪意による表現が横行していた。
もちろん、フランスのメディアがすべて偏向報道をしていたわけではない。94年2月5日のマルカレ市場の爆発事件について、民放のTFIは2月18日の放送で、「前線から1.5キロ地点のムスリム人勢力の迫撃砲によるもの」といち早く報じている。このとき、NATO軍はセルビア人勢力への空爆体制を敷いていたが、この報道がNATOの空爆を思いとどまらせた可能性は否定できない。
フランス人ジャーナリストのジェローム・ボニはトゥズラにレイプ被害の調査に出かけた。トゥズラはムスリム人勢力としてのボスニア政府軍の第2軍団が支配しているところである。初めに得た情報では、トゥズラ高校に行けば4000人のレイプ被害者がいると言われた。しかし、20キロの地点ではその数は400人に減り、10キロ地点では40人となり、現場に着いてみると被害の証言に応じたのは4人だった。トゥズラはボスニア政府軍の第2軍団の支配地域であったことを考慮に入れるならば、セルビア人勢力がムスリム人女性をレイプすることなど不可能なのは明白なのだが、ムスリム人住民のレイプ被害者はこのように常に増幅されて伝えられたのである。ル・モンド紙のイグナチオ・ラモネ編集長は93年1月に、「介入せよ、ただし上流で」との論説を掲載した。「上流で」とは、武力介入以前の政治的介入を行なえ、という意味である。ラモネは、政治介入もさることながら、メディアのあり方にこそ警告を与えるべきだったろう。
職業倫理を脱ぎ捨てた主要国のジャーナリズム
カナダのトロントの日刊紙グローブ&メイルは、94年3月7日にボスニアの古都モスタル市のオスマン帝国時代の古い橋がセルビア人勢力の砲撃で破壊された、と報じた。しかし、その時既にセルビア人2万5000人の大半はクロアチア人勢力によってモスタル市から追放されており、モスタルで交戦していたのはクロアチア人とムスリム人の両勢力間においてだった。このときの交戦でクロアチア人勢力は激しい砲撃を行ない、ネレトヴァ川に架かっていたすべての橋を破壊し、記念建造物としての古橋も崩落させたのだった。カナダにおいても、悪い事象はセルビア人が行なっているとの情報操作が行なわれていたのである。
パック・ジャーナリズムは倫理を放棄して爬虫類化した
国連保護軍のマッケンジー将軍は、ジャーナリストたちは「ホリディ・イン・ホテルから150メートルの範囲で見たものを報じた」と皮肉った。国連職員のサンタナは「私は、プレスが専門家気質と倫理にこれほど欠けているのを見たことがない」とコメントした。また、イギリス人の国連職員は、一方の側に群れて同じような報道をする「パック・ジャーナリズムは破壊的勢力だ」と軽蔑し、そのメンバーたちを「爬虫類のような下劣な連中だ」と評した。メディア・クレンジングに加担したのは、メディアを統合した体制側の巨大資本だけではなく、人権派の知識人もまた同様であった。メディアの大半は、スロヴェニア側、クロアチア側、ボスニア側、コソヴォ側から取材し、セルビア側を取材することは極めて稀だった。このようなことが基調だったため、バルカンに関する報道は一方的なものとなったのである。
日本のフリー・ジャーナリストの中には、セルビア側に入って取材した人たちもいた。小磯文雄、水口康成、宮嶋茂樹がセルビア側に入り込んでいるが、そこで彼らが見たのは、世界のメディアはセルビア悪説を前提にしており、セルビア側に入って取材をする者が皆無といっていいほどの偏向したものだった。軍事評論を専門とする田岡俊次は、「人道的介入は恣意的な戦争へとなり、21世紀の戦争へとつながることになろう」と指摘し、99年のユーゴ・コソヴォ空爆、01年のアフガニスタン攻撃、03年のイラク戦争を予言した。
セルビアには自由がありスロヴェニアとクロアチアは報道を規制した
言語学者で政治評論家でもあるチョムスキーは、西側の報道機関が、セルビア国内の報道は政府のプロパガンダとなっているとの批判を繰り広げていることに対し、反批判を行なっている。セルビア国内には「反体制の新聞やラジオ、テレビ」も存在していたし、セルビアの新聞や週刊誌には西側の事情も掲載されており、米VOAの放送時間帯も広告として載せられていた。アルバニア系分離主義者の報道機関やハンガリー語の報道機関も活動していた。これらの報道機関はNATO軍の「武力行使も辞さず」との主張を称賛もしていたし、セルビア人勢力の残虐行為なるものも報道していた、と指摘した。
このような自由さは、スロヴェニアとクロアチア両国にはなかった。スロヴェニアでは、91年6月の独立宣言をする数ヵ月前にスロヴェニアの社会学者をして「スロヴェニア国内には既にファシズムが台頭しつつあり、今すぐ有効な対抗措置を取る必要がある」と言わしめたほどの締め付けが行なわれていた。クロアチアでは、内外のジャーナリズムを問わず反政府的な報道をしたジャーナリストは5年の懲役を科すという法律を復活させた。その上で、メディア内部の政府に批判的なジャーナリストを解雇して追放し、政府に忠実な者を送り込んだ。だが、西側のジャーナリストはクロアチアのザグレブに蝟集し、ベオグラードにはほとんど行かなかったのである。このことは、クロアチア政府の意向に反する報道は行なわなかったということを意味している。
欧米諸国は言論の自由を標榜していながら、セルビア側の言論や主張が世界に広く伝わるのを防ぐために、西側の言論仲介機関はセルビアのメディアの取り扱いをすべて中止した。セルビアのメディアを直接見ることがなければ、西側諸国政府の“言論”で世界の世論をコントロールできるとの次元の低い自己統制を行なったのである。のちのユーゴ・コソヴォ空爆では、NATO軍は真っ先にセルビアのメディア施設を爆撃して言論を封じたが、このメディア封じ作戦を優先したことに西側の姿勢が表されている。
オルブライト米国務長官が和平交渉を潰す
1999年3月に発動されることになるNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を、回避するために行なわれた「ランブイエ和平交渉」は、米・英・仏・独・伊・露6ヵ国で構成する連絡調整グループが仲介する形式をとり、メディアの当事者への直接的なアクセスを遮断して行なわれた。報道官を通してしか、交渉内容は発表されなかったのである。報道官は、コソヴォ解放軍側にとっては独立に至る条件が明記されていないこと、セルビア共和国側にとってはNATO軍がコソヴォ自治州に駐留するという条項が入っていること、などで交渉は難航していると公表した。中断後に開かれたランブイエ和平交渉では、オルブライト米国務長官が乗り込んで主導した。そして、一転してコソヴォ解放軍が和平案を受諾する中、ユーゴ連邦側は和平条項に受け入れ難いものがあるとして拒否した。NATO諸国は、和平交渉が成立しなかったのはユーゴスラヴィア連邦の不誠意にあるとなじり、空爆が不可避であるとのコメントを発し続けた。
ユーゴ連邦にNATO軍の占領条項を突きつけた米国
しかし、この和平交渉の条項には、米英が新たに挿入したユーゴ連邦にとっては到底受け入れられない「付属条項B」といわれる軍事条項が付け加えられていた。その付属条項Bとは、「NATO軍がユーゴスラヴィア全土に対し、車輌、船舶、航空機が装備をともなって領空および領海における自由な通行権を保障する。野営、演習、民家への宿泊、支援、訓練、作戦行動に必要ないかなる施設の使用も無条件で認める権限を与える」との、NATO軍がユーゴスラヴィア全土に駐留する権限を認めよという条項がユーゴ連邦に突きつけられたものである。このような占領を意味する条項を受け入れる主権国家が存在するはずもなく、当然のことながらユーゴ連邦は拒否した。だが、和平交渉の報道官は、ユーゴ連邦の非を際だたせるために、米・英以外の連絡調整グループの国やメディアに対して「付属条項B」の存在を秘匿した。
ユーゴ・コソヴォ空爆ではNATO軍の無差別爆撃を“人道的”として歓喜
情報が秘匿されていたにせよ、メデイアはクロアチアとボスニア内戦時に一方的な報道に終始した反省もなく、再びNATO諸国による情報操作に甘んじ、人道的介入を標榜したNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は当然であるとして、空爆を煽る側に廻った。99年3月24日、NATO軍はメディアに対して「プール取材(代表取材)」に制限した上で、空爆を開始した。西側のジャーナリストたちは、NATO軍がセルビア共和国への空爆を開始したとの情報が届くと歓声を上げた。ジャーナリストたちは報道の公平性や中立性を顧慮することを忘れ、破壊行為に歓喜したのである。NATO軍はこのジャーナリズムの傾向を見透かした上で、セルビア共和国の放送局を空爆の対象に選定し、爆撃して破壊した。
罵詈雑言をユーゴ連邦に浴びせたメディア
イギリスの新聞には、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を「セルビアの虐殺者」、「バルカンの虐殺者」、「ヒトラーのあと、ヨーロッパに現れた最も邪悪な独裁者」、「元共産主義過激派」と誹謗する見出しが踊った。大衆紙の「サン」は、「ミロシェヴィチの獣は人類の敵だ」と書いた。ニュー・スティツマン誌でさえ「なぜこれほど多くのセルビア人が嘘つきになって狂ってしまったのか」と記述した。
1999年4月8日にドイツのターゲス・ツァイトウング紙が「付属文書B」の存在を暴露し、英国議会では、「付属条項B」が空爆前に隠蔽されていたとして問題となっていたにもかかわらず、メディアの主流は軽薄なマニ教的善悪二元論を展開していたのである。
フィッシャー・ドイツ外相に赤い塗料が投げつけられる
ドイツでは付属文書Bの存在を報じたターゲス・ツァイトウング紙が、5月12日に「ランブイエの嘘、フィッシャー外相は何を知っていたのか」とのタイトルで、付属条項Bの問題を報じた。翌日に開かれた緑の党の臨時大会では激しい議論が展開され、フィッシャー外相には赤い塗料が投げつけられる騒ぎとなった。しかし、米英両国が付属条項Bを突きつけてユーゴ連邦に拒絶させ、計画通りに空爆を実行したNATO諸国の作為への批判は、激しい空爆が実行されている中でかき消され、同時に起こった膨大な避難民騒ぎに巻き込まれてNATO諸国への批判的報道が大きくなることはなかった。
自由主義諸国を標榜するNATO諸国は言論を封鎖するために放送局を破壊ボスニア駐留NATO軍はユーゴ・コソヴォ空爆に先立ち、ボスニアのセルビア人勢力のラジオ、テレビ局に圧力をかけて閉鎖に追い込み、セルビア人勢力の言論を封鎖した。NATOが封鎖を強制した理由は、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の意義を正しく伝えないからだというものである。さらに、NATO諸国はセルビアに対し、NATO側に1日6時間の放送時間を確保せよという傲慢な要求を突きつけるということまでした。これが、NATO諸国の底の浅い「報道の自由」の理念なのであった。
NATO軍がセルビア側の報道を封じ込めた上で、米国はVOAを通じ、欧州安保協力機構・OSCEもテレビ・ラジオ局を設立し、自らに都合の良い放送をユーゴ連邦に向けて流した。
ニューヨーク・タイムズ紙のトマス・フリードマンは、「セルビアがコソヴォを破壊する1週間、1週間のそれぞれに応じて、我々がセルビアの国を10年前、20年前の状態にまで粉砕する。1950年に戻りたいならばそうしよう。1389年に戻りたいならばそこに戻すこともできる」と、世界の支配者を想起させるようなコラムを書いた。オルブライトの戦争といわれたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は人道的介入ではなく、政治的な懲罰的行為であり、メディアはその懲罰行為にこぞって参加したのである。
このユーゴ・コソヴォ空爆で発生した80万人を超えた膨大なコソヴォ難民の殆どは、NATOの空爆を逃れて避難してきた人々だったが、メディアは難民の行列を演出して撮影したり、難民にセルビアの治安部隊に追い立てられたと言わせたりして報じた。捏造報道は繰り返されたのである。
EUの停戦監視団長ハルトヴィク報告は無視される
コソヴォ紛争を監視するためにEUから派遣されたハルトヴィクEU監視団長はイギリスに帰国した際、コソヴォの現実とメディアの報道との乖離のあまりの差に愕然とさせられたという。彼が送付していたコソヴォの情況は比較的平穏だったという公的な報告は各国の政府機関で無視され、メディアは事実を無視してその各政府機関のプロパガンダを担っていたからだ。ハルトヴィクは、その後現実との乖離を是正するために機会ある毎に発言を繰り返したが、メディアは無視した。
ユーゴ・コソヴォ空爆後に反省を示した一部のメディア
NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の終結が見えた99年6月8日に米ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「コソヴォでの戦争は残忍で苦痛に満ちた、野蛮なものだったが、空爆前にコソヴォで起こった出来事は、ジェノサイドではなかった。証拠を見つけることはできなかった」との反省の記事を掲載した。ル・モンド紙も、「我々は誤っていたのかも知れない」との特集を組み、反省の意を表している。エリザベス・サリバンは、クリ-ブランド・ブレイン・ディーラー紙で「旧ユーゴでは、内戦の期間を通して、西側の世論を動かすための数字の操作が行なわれた」と結論づけた。
NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆に対する欧米の報道姿勢を批判したコーレラは、欧米のマスメディアは「1,NATO軍のプロパガンダの一手段になり、反対者の声やNATO軍介入の法的正当性の欠如や戦争の道徳的複雑さについては語らなかった。2,NATO軍発信の情報に対する懐疑の態度が見られなかった。3,残虐行為を報道する唯一の方法として採用したのは、難民による感情的な表現をそのまま伝えることだった。それは戦争の本質を伝えることにはならなかった」と分析している。
ジャーナリストのセルジュ・シュメマンは、戦争の結果に関する長い分析記事の中で、「ユーゴ・コソヴォ爆撃が主権と国際法に対するあからさまな侵害だという批判は、米国以外では広く真理として受け入れられているが、米国のマスコミでは殆ど扱われなかった。意図的な無知に耽る人々が増大し、NATO軍の爆撃によって国際法の機構がさらに弱くなった」と述べている。
岩田昌征千葉大学教授はユーゴ連邦解体戦争中にも旧ユーゴ連邦を訪問して調査・研究をしているが、欧米のメディアの取材態度について、「マスコミというのは事実を知りたいのではなく、自分のイメージを事実で確認したいのだ。だから予め持っているイメージに合わない事実は見ようとしない」と指摘。さらに、99年4月に朝日新聞がコソヴォ問題を傍観するか空爆するかの選択の悩みを「ペスト、それともコレラ」と譬えた社説に対し、「事実究明を怠った心情倫理にあふれた迷言」だと批判した。
門奈直樹立教大学教授は、日本のメディアのユーゴ・コソヴォ空爆に対する報道姿勢は、欧米のメディアのように戦争を煽るようなことはなかったにしても、「アメリカからの情報に依存する日本政府の国家のフレームの中での報道に終始し、傍観者的立場から出ていなかった」と指摘している。
メディアの寡占化と利益第一主義の蔓延
メディアが単純化した一方的な報道に終始した背景には、メディアが巨大資本に統合されていった過程とも符合する。特に英語圏はAOLタイムワーナー・CNN・モルガン財閥、バイアコム・CBS・ロックフェラー財閥、ゼネラル・エレクトリック・NBC・モルガン財閥、ディズニー・ABC・ロックフェラー財閥、FOX・ルパート・マードックなどに収斂されていった。
新聞も例外ではない。ニューヨーク・タイムズおよびワシントン・ポストはロスチャイルド財閥が支配し、ニューヨーク・ポストはルパート・マードックが支配している。この傾向は益々顕著になっている。ニューズ・ウィーク誌は反共を旗印にモルガン、アスター、メロン、ハリマン財閥が支援し、先進国の支局にはCIA要員が配置されていた。
CBSニュースのリチャード・セイラント元会長は、「我々の仕事は、人々が望むものを与えることではない。そうではなく、 人々が知るべきだと我々が決めたものを人々に与えることである」と傲慢にも言い切っている。ジャーナリストのビル・モイヤーズは、「結局、テレビで報道されるニュースの大半は、政府がニュースだと言っているものだ」と指摘した。少数ながらジャーナリズムの報道姿勢を批判した人々もいた。スイスのチューリッヒの週刊誌「ヴェルトヴォツヘ」の国際担当編集者のハンスペーター・ボルンも、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争におけるジャーナリズムの報道姿勢を批判した「パルチザン・プレス」を再掲載したことで、激しい非難と脅迫を受けた。
スウェーデンのヘルシンボリ・ターグブラット紙のソレン・ゾンメリウスは、「この種のジャーナリズムのお陰で、大物政治家たちは我々の『善良な暴力』を使って『邪悪な人々の邪悪な暴力』を叩きのめした。それで世界は我々にとってとても危険なものになった。今回の戦争では、西側メディアは職業倫理を完全に脱ぎ捨てた」と批判した。
ジャーナリストのピーター・ブロックはユーゴスラヴィア連邦解体戦争におけるメデイアの報道を研究し、4000本の戦争報道を分析した結果、およそ40対1の割合で反セルビアの傾向にあることを見出した。彼はその研究成果を「メディア・クレンジング(戦争報道メディアの大罪)」」として出版した。その中で「メディアは『セルビアの悪魔化』のために、自発的な『パック・ジャーナリズム』と化して共同の交戦者の役割を果たした。パック・ジャーナリズムは、検証を怠り、偏向、誇張、虚偽、捏造、煽動、そして批判的なジャーナリストを攻撃して沈黙させるメディア・クレンジングを行なった。ユーゴ連邦解体戦争では、メディアは堕落し、ジャーナリズムに課せられた使命を放棄していた。事象の中から何が真実かを検証することを怠ったばかりでなく、一方の側に立った審判者になった」と分析したのである。
ドイツのスロヴェニアとクロアチアの独立承認強要を批判
EC諸国は、ユーゴスラヴィア連邦を解体させることは既定路線として同意していたものの、拙速にスロヴェニアとクロアチ
アの独立を承認することは武力紛争を惹起させる可能性があるとして慎重論が大勢を占めていた。しかし、ドイツはECの会議を引き回し、強硬に早期独立承認を主張し通した。当初は、そのドイツの行為を批判する正常なメディアも存在した。
1,1991年12月17日、伊レプブリカ紙は「ドイツは初めから自国の国内事情を優先させる底意があったようだ。慎重だったはずのドイツの突然の性急さは、ユーゴ危機を契機にまたぞろドイツ問題が出てきたのだろうか。だとすると、欧州の暗い歴史の典型が再生したことになる」との批判的記事を掲載した。
2,1991年12月17日、英タイムズ紙は「ドイツの両共和国の早期承認の意向表明について、自国の利益を優先させるものであり、現時点での承認はクロアチアに世界が武器と金を供給してくれるという幻想を抱かせるだけで、何の助けにもならない」との批判的記事を書いた。
ボスニア内戦においても事実は事実として報じたメディアも存在した
ボスニア内戦について、ユーゴ連邦およびセルビア悪説の偏向報道は目を覆うばかりであったが、事実を事実として報道した記事も少数ながら存在した。3,1992年8月22日;英インディペンデント紙はボスニア紛争に関する国連の秘密文書の存在を報じた。「①,92年5月27日のサラエヴォ市の中心部で、パンを買う市民の行列にミサイル攻撃をして16人が死亡した事件。②,8月4日にサラエヴォを脱出する際に狙撃された子どもを埋葬する墓地が砲撃された事件。③,米テレビ・キャスターが狙撃されて死亡した事件」の3件については、セルビア人勢力の犯行だと見せかけた、ムスリム人勢力の犯行の可能性を示唆した文書がある」との記事を掲載した。この事件が報道されると、ボスニアのムスリム人幹部会員ケツマノヴィチは自派の行為を恥じて辞任した。4,93年2月20日、朝日新聞の百瀬和元記者はコラムで、ユーゴ紛争で「独立した国家主権を尊重することとその国家に居住する少数派の民族自決権の原則との間に、欧米は二重基準を使っているのではないか」との批判的な論調を掲載した。
5,94年2月18日;フランスの民放テレビTFIは、国連保護軍の報告書によるとして、94年2月5日のマルカレ市場の砲撃事件は、「前線から1.5キロの地点に設置されたムスリム人勢力の迫撃砲によるもの」と放送した。国連保護軍のスポークスマンはこれを否定したものの、この暴露がアドリア海に米・英・仏の空母を集結させてセルビア人勢力への臨戦態勢を整えていたNATO軍の空爆の実行を断念させる役割を果たした。
6,95年10月1日付に英サンディ・タイムス紙は、「NATO軍の空爆の口実にされ、ボスニア紛争の転機となった8月28日のサラエヴォの市場砲撃事件について、現地を調査した国連の英国人専門家はセルビア人勢力の攻撃だった証拠は一切なく、ムスリム人主体のボスニア政府軍の仕業だった可能性があると報告したが、国連保護軍側によって却下された」と報じた。
ユーゴ・コソヴォ空爆において公正な視点による報道もある
1999年3月のNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の遠因となった、「ラチャク村事件」についても疑問を報じている。
7,1999年1月28日、フランスのル・モンド紙は、遺体発見前後にラチャク村を訪れたOSCE停戦合意検証団のメンバーの証言などから、「一部の遺体が実際の死亡現場から動かされていた」と指摘し、アルバニア系武装勢力による偽装の疑いがあるとの見方を示す報道を行なった。こののち、フィンランドの法医学専門家が、ラチャク村の死体の検死報告書を、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに提出した。この報告には、ユーゴ連邦の治安部隊がアルバニア系住民を虐殺したとする証拠はないと記述されていた。8,99年4月24日に英ガーディアン紙は、NATO軍の空爆がユーゴ連邦セルビア共和国の国営放送などの放送ビルを対象とし始めたことについて、「民主主義による正義のための戦争は、道徳的に正しい方法で戦わなければいけない」と、NATO軍の空爆の暴走を諫める社説を掲げた。9,99年4月24日、英インディペンデント紙は、セルビアの社会党本部、大統領官邸などが電話を備えているだけで「指令・統制センター」とされて爆撃の対象となったことについて、「問題ある目標設定が行なわれているようだ」と指摘し、「民間人に対する無差別爆撃になりかねない」と警告した。
10,99年4月28日に英ガーディアン紙は従来の空爆支持を変え、「NATO軍は空爆を見直すべきである」とする論調の社説を掲げた。空爆の目的は、「①,ユーゴ連邦の防空システムや兵力を抑え込むことだった。②,ところが、NATO軍は広範囲な爆撃目標を選び、政治的な効果を期待するようになった。③,爆撃目標が産業施設や交通網、放送局などに拡大した。④NATO首脳会議は1ヵ月間の空爆の教訓を学ばず、爆撃延長という誤りの道を選んだ」との批判的な社説を掲載した。
11,99年6月8日、NATO軍の空爆が終了する間際、一方的な報道に終始したウォール・ストリート・ジャーナル紙は反省記事を載せた。「コソヴォでの戦争は残忍で苦痛に満ちて野蛮だったが、ジェノサイドではなかった。大規模な虐殺の地ではなく、あちこちに散らばった殺害というパターンであり、『低度民族浄化』で、殺害と放火のほとんどは、分離主義のコソヴォ解放軍・KLAが活動していた地域、あるいはKLAが侵入した地域で起きており、選択的テロ、略奪、ときによっては殺害という手段を用いてKLAの攻撃を一掃しようという試みだった。調査に入った報道陣は、市民は『NATO軍の爆撃により殺された』という、正反対の捉え方に次第に傾いているのを見た。難民や他の情報源による『恐ろしい残虐行為の報告』の多くは、本当ではなかった」と伝えた。
12,99年10月31日にスペインのエル・パイス紙は、国連のコソヴォ調査の一員として、司法解剖に当たったスペイン人医師の活動を紹介した。医師は「①,大量虐殺情報に基づいて調べた炭坑などに遺体はなかった。②,国連側は4万人の犠牲者を予測し、2000人の解剖態勢を取っていたが、実際は200人にすぎなかった」とし、「欧米政府の主張しているような規模での虐殺はなかったのではないか」との見方を示した。
「低強度紛争」を一刻も猶予ならないとして空爆を実行したNATO
米政府はコソヴォ紛争の際、アルバニア系住民の10万にあるいは22万人が行方不明などと途方もない情報を発信し続け、ユーゴ・コソヴォ空爆を実行した。その米政府発の情報はいかがわしいものであった。この時期、米国はコソヴォ自治州にCIAが拠点とする「情報・文化センター」を設置していた。そこから上げられる情報を分析すれば、コソヴォ紛争は「低強度紛争」にすぎないものであることは明らかであった。にもかかわらず、米政府はセルビア治安部隊のアルバニア系住民への迫害は一刻の猶予もならないと繰り返し発信し、メディアはこの米政府発の情報を垂れ流した。そのため、国際社会はNATOの武力行使が正当であるかのように思いこまされた。
因みに、のちの検証によると、空爆前のコソヴォ紛争によるアルバニア系およびセルビア人双方の犠牲者数は合わせて1
500人前後であるという。メディアと国家機関とが癒着してマニ教的善悪二元論を押し付ける現代の戦争は情報戦争の性格を持つ。情報を制して国際世論を引き寄せたものが、圧倒的な優位に立つ。だから、戦争を仕掛ける側は情報のコントロールに力を注ぐ。米国防総省は、ベトナム戦争で実施したメディアへの積極的な便宜供与と情報提供が戦局を不利に導いたと分析し、湾岸戦争以後はプール取材に限定するとともに、一方的な情報提供に制限した。
イギリスのメデイア研究者によると、「冷戦後はメディアと軍とが親密な関係となり、民族的紛争の神秘化、敵を悪魔化するプロパガンダがより強化されて行なわれるようになった。そして、『善と悪』、『正常と異常』、『穏健と暴力』、『文明と野蛮』、『民主主義と専制主義』の2項対立が強調され、欧米の軍隊は『善』のための力として捉えられ、ジャーナリストは倫理性を重んじて権力をチェックして暴走を抑制するように働きかけるよりも、厳しい措置を取るように政府に圧力をかけることを自分たちの役割と理解するようになった」という。この図式がユーゴ連邦解体戦争にも持ち込まれ、あらゆる悪がセルビア側にあるとのプロパガンダにメディアは共振した。もはや強国の絡む戦争は、脚色した事実しか伝えられなくなったのである。戦争はそれ自体野蛮である。ユーゴ・コソヴォ空爆ではそれを隠蔽するために人道的介入という文言を全面に打ち出し、NATO軍ともどもメディアは世界を幻惑し、野蛮を文明に昇華させて人々を欺いた。ユーゴ連邦解体戦争の報道は、虚偽と誇張によって、利権を獲得する者たちばかりでなく、政治的な思考の訓練を受けていると思われる人権派知識人や政治家にさえ誤った認識を植え付け、戦争そのものに対する思考を浅薄なものにした。メディアは、和平と和解の方策を見出すよりも対立を煽るような報道に終始し、破壊と殺戮を避けるよりも、一方の側に立ってNATOの軍事力行使を求めさえしてユーゴ内戦をより悲惨なものにする害悪をもたらした。このユーゴスラヴィア連邦解体戦争をめぐる報道のあり方は、メディア・リテラシーを考える上でのケース・スタディとなるだろう。
米国はウクライナ戦争にサイバー戦として参戦していた
米国の政府とメディアの発信力は圧倒的である。世界の多くの政府とメディアはそこに信頼を寄せて米国発のニュースを引用する。ユーゴスラヴィア戦争と同様、ウクライナ戦争においても、2022年初頭にウクライナをめぐるロシアの対応について様々な情報が米国から発信された。その情報内容はほとんどが米政府からのものであった。このとき米政府は、あたかもロシアがウクライナにすぐにも侵攻するかの如き観測を発し続け、世界を不安に陥れた。この米政府の情報発信は果たして根拠のあるものだったのだろうか。のちに米国防総省が明らかにしたところによると、ロシアがウクライナに侵攻する前年の21年末には米軍のサイバー攻撃部隊「Hunt Foward」をウクライナに派遣してサイバー攻撃作戦を展開していたということであった。いわばウクライナ戦争に米国は参戦していたのである。
ロシアのウクライナ侵攻は行なってはならない蛮行である。ただ、メディアは一方的な情報をたれ流すのではなく、その行動の起因を分析して読者に提供すべきではなかったか。なぜなら、単純にロシアの蛮行を咎め、ウクライナの健闘を称え、武器の供与を推進し、戦闘を煽って済む問題ではないからだ。これはロシアとNATOの代理戦争であり、ロシアとNATOの核戦争に陥る可能性さえある重大な対立だからである。しかし、メディアの煽動によって世界の世論はロシア叩きに奔ることになっているが、これがどのような結果をもたらすのかについては思考停止に陥っているといえる。
米中対立とウクライナ戦争がNATOによるユーゴ・コソヴォ空爆に淵源が求められることは明らかであるにもかかわらず、それを指摘するメディアや発言者はほとんどいない。それが想像力に欠ける故なのか、米国への忖度なのかは明らかではない。ジャーナリストは戦争を煽っていないか
人々はジャーナリストが提供する情報によって状況を判断する。しかし、ジャーナリストが陥りやすい過ちは自らが見聞したこ とが事実ないし真実だと思いこむことにある。そのような事例をしばしば目にする。
その典型がユーゴスラヴィア連邦解体戦争だといえる。国連職員が漏らしたように、ユーゴ内戦において「ジャーナリストはホテルの周辺数百メートルの範囲で取材していた。彼らは真実がどこにあるかの判断を放棄していた」と指摘したように、セルビア側に入って取材するものはほとんどいなかったのである。
ロシアのウクライナ侵攻は蛮行であることは否定できない。しかし、この戦争の報道を見るとウクライナ側からの取材ばかりで、ロシアの残酷さを繰り返し報じることによってウクライナの軍事行動を煽っているように見える。それが戦争を長引かせ、その日々が破壊と殺戮の積み重ねとなることの責任を自覚しているようには見えない。
戦争そのものが絶対悪である。そのことからすれば戦争を停止させることを模索することが不可欠だが、そのような報じ方を見ることはほとんどないに等しい。これがジャーナリストの役目だろうか。政治家がみな賢明であるなどということはあり得ないが、戦争をやめさせる手段を模索している者もいるだろう。しかし、メディアが戦争を煽ることを続けている限りそれを言い出すことには躊躇する。自らの政治生命を失うおそれがあるからだ。
ショルツ独首相が「ウクライナへの武器供与はしない」と発言した際、国際世論は激烈なバッシングを浴びせた。彼の発言は一つの見識だが、それを擁護するメディアが存在したかは寡聞にして知らない。そのためショルツ首相はあわてて前言を翻して武器供与に踏み切り、その上国防費をNATOが求めるGDPの2%まで引き上げると表明するに至った。ウクライナ戦争はプーチンの愚行だが、この戦争がエスカレートすれば、終末戦争にいたらないという保障はない。だが、それを危惧する姿勢を示す大手のメディアは存在していないようだ。
<参照;米国の対応、NATOの対応、ドイツの対応、国連の対応、人物コラム>
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NATO軍および参加諸国の戦争犯罪を裁く民間法廷
ジョンソン米大統領の政権で1967年に司法長官に就任したラムゼイ・クラーク弁護士は、退任後の1992年に「国際行動センター・IAC」を設立して共同代表を務めた。1999年5月、ラムゼイ・クラーク米元司法長官は、NATO軍がユーゴ・コソヴォ空爆を実行している最中にユーゴスラヴィアに入り、NATO軍の空爆の実態を調査し、無差別爆撃の状況を告発した。
安保理の下部機関として93年5月に設置が決められた旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは、NATO軍が空爆を継続している最中にミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の起訴を発表し、国連安保理決議を回避して行なわれたNATO軍の軍事行動については不問に付すと明言した。ICTYの対応を見て、ラムゼイ・クラーク米元司法長官はユーゴ連邦解体戦争の過程で米国およびNATO軍が犯した戦争犯罪について、民間の手で裁くことを決意する。99年7月、世界の有志者に呼びかけていわゆる「クラーク法廷」を設立し、NATO諸国のユーゴ連邦解体戦争に関与した責任者を「米国・NATOのユーゴ市民に対する戦争犯罪を裁く国際法廷」として裁くことにする。
被告はNATO諸国の大統領と首相およびNATOの首脳たち
民間法廷による裁判の被告は、ウィリアム・クリントン米大統領、マデレーン・オルブライト米国務長官、トニー・ブレア英首相、ゲルハルト・シュレーダー独首相、ジャック・シラク仏大統領、マッシモ・ダレーマ伊首相、ホセ・アズマール・スペイン首相、ハビエル・ソラナNATO事務総長、ウェズレイ・クラークNATO軍最高司令官、その他NATO諸国の政府やNATO軍の指導者たちである。これらの被告を「クラーク法廷」は、「平和に対する罪。人道に対する罪。戦争犯罪。国連憲章違反。ジュネーブ条約その他の国際条約違反。国際慣習法違反」などを法的根拠とし、19の訴因で起訴した。
判事、検察官および証人は、アメリカ、イギリス、イタリア、イラク、インド、ウクライナ、オーストリア、カナダ、韓国、スペイン、ドイツ、トルコ、ハイチ、プエルトリコ、フランス、ベルギー、ポルトガル、ロシア、ユーゴスラヴィアの19ヵ国の現または前・元国会議員、大使、弁護士、大学教授、医師、ジャーナリスト、市民活動家、労働組合の運動家などで構成した。公聴会は、ドイツ、イタリア、ロシア、ウクライナ、ギリシア、ユーゴスラヴィアなど14ヵ国、24都市で開き、2000年6月にはニューヨークで「世界の市民による国際戦争犯罪法廷」を開いた。
ユーゴ連邦の解体および平和を崩壊させた19の罪
19の訴因の骨子は;「1,ユーゴ連邦の解体、分離、疲弊を計画し実行した罪。2,ムスリム人とセルビア人の間における暴力を唆し、暴力を誘発し、促進した罪。3,ユーゴ連邦における統一・平和・安定維持の努力を崩壊させた罪。4,国連の平和維持の役割を破壊した罪。5,不服従の貧しい国を軍事侵略し、占領するためにNATO軍を使った罪。6,ユーゴスラヴィア全土の無防備な人々を殺傷した罪。7,ユーゴ連邦政府の長、その他の政府指導者、特定の民間人の暗殺を目論み、計画し、公表し、攻撃を行なった罪。8,ユーゴ連邦全土の経済・社会・文化・医療・外交(中国大使館を始めとする外国公館)・宗教的財産と施設を破壊し損害を与えた罪。9,ユーゴスラヴィアの人々の生存にとって不可欠なものを攻撃対象とした罪。10,危険な物資または威力を持つ施設を攻撃した罪。11,劣化ウラン弾、クラスター爆弾、その他の非人道兵器を使用した罪。12,環境に対する戦争を行なった罪。13,国連を通じた制裁は、人道に対するジェノサイドの罪。14,セルビア指導部を破壊し、悪魔化するために違法な特別刑事裁判所・ICTYを創設した罪。15,米国の攻撃に対する支持をつくり出し、かつ維持するため、またユーゴスラヴィア人、スラヴ人、セルビア人を大量殺戮の犯人として悪魔化するため、統制した国際メディアを使った罪。16,ユーゴ連邦の戦略的要衝のNATO軍による長期軍事占領を確立した罪。17,ユーゴスラヴィアのスラヴ人、ムスリム人、ロマ人、その他の人々の主権、自治権、民主主義、文化の破壊を企てた罪。18,米国のユーゴ連邦支配とコントロールの確立、および人々と資源の搾取を目指した罪。19,米国の支配を達成するために、軍事力および経済的圧力手段を行使した罪」である。
19の罪についてすべてに有罪判決を出す
2000年6月10日にニューヨークで開いた「米国・NATOのユーゴスラヴィア市民に対する戦争犯罪を裁く国際法廷」では、ユーゴ連邦解体戦争の目撃者、調査団員、検察官、軍事評論家、政治評論家、経済評論家、歴史家、科学者、生物学者、ジャーナリスト、活動家などさまざまな分野の29人が証言台に立った。証言は、「1,NATO諸国がメディアをコントロールして虚偽の情報を流したこと。2,旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYがNATO軍の戦争準備に組み込まれていたこと。3,NATO軍とワシントンがユーゴ・コソヴォ空爆を事前に計画していた事実。4,ラチャク村の虐殺事件を捏造した事実。5,NATO軍の空爆が市民をターゲットにしていた事実。6,NATO軍が病院33を空爆した実態。7,NATO軍の化学工場への空爆が環境破壊を起こしている実態。8,劣化ウラン弾の使用と危険性。9,中国大使館への誤爆説が虚偽であること。10,コソヴォにおける正教会と文化遺産の破壊の実態。11,コソヴォ解放軍・KLAと米中央情報局・CIAおよびドイツ連邦情報局・BNDとの結び付きの実態。12,NATO軍のコソヴォ占領の非人道性。13,コソヴォ解放軍・KLAとNATOの平和維持軍・KFORがロマ人を含むセルビア人を迫害している実態。14,ソ連崩壊後のNATO軍の攻撃的態度とユーゴ連邦解体戦争との関係。15,ユーゴ戦争が地政学的な意味を持ち、カスピ海のパイプラインの敷設と関係していること。16,ユーゴ連邦への経済制裁とNATO軍の攻撃がユーゴスラヴィア連邦の社会・政治・経済に重大な影響を与えたこと」などについての証言を行なった。法廷はそれら証言と証拠を基に19の訴因の全てについて有罪と認定した。その上で法廷は次のような提言を行なっている。
提言の骨子;「1,ユーゴスラヴィア連邦に対する全ての禁輸、制裁、懲罰を即時撤廃すること。2,NATO軍によるユーゴスラヴィア連邦地域の占領を即時中止すること。3,NATO軍と米国の全ての軍事基地と兵力をバルカン半島から撤去すること。4,ユーゴ連邦政府の転覆を意図した公然、非公然活動を中止すること。5,旧ユーゴ国際戦争犯罪法廷・ICTYを中止すること。6,NATO軍の空爆、経済制裁、封鎖によって生じた人的・経済的被害および環境被害に関し、全面的な賠償をユーゴスラヴィア連邦に対して行なうこと。7,NATO軍による空爆およびユーゴスラヴィアに対する経済制裁で蒙った周辺諸国に対する賠償を行なうこと。8,NATO軍がユーゴ連邦に対して行なった、戦闘員および非戦闘員の生命を脅かす軍事技術による威嚇または使用を非難する。9,NATO・米国は東欧および旧ソ連諸国、中南米、イラク、北朝鮮などへの攻撃および制裁の公然、非公然活動の即時停止をすること。10,NATO軍を廃絶すること。11,米統合参謀本部・ペンタゴンを解散すること。12,世界のすべての人々への社会正義が確立されるよう求める」というもの。
世界の市民の正義によるNATO諸国の戦争犯罪を裁く
ハーグに設置されている旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは国連安保理の決議によって設置し、その運営資金の一部を寄付によって賄っていることもあり、安保理事国および資金提供者の権益の影響を受けている。したがって、被告の選別にも政治的配慮は避けられず、主要な安保理事国が統括しているNATO軍や米国の犯した戦争犯罪について裁くことはほとんど不可能である。「ラムゼイ・クラークの民間法廷」は、列強の政治・経済的権益に左右されるICTYの裁判ではなく、市民による正義を体現した理念で裁くことを志向したものであった。
<参照;ラムゼイ・クラーク、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY、米国の対応、NATOの対応、ドイツの対応>
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住民投票・国民投票は政治的駆け引きや政治闘争の手段として使われた
住民投票と国民投票は、共通する部分もあるが通常は別の分野と見るべきである。住民投票は多くの場合限定された地域で限定された課題で行なわれるものであり、外部の干渉を受けることが少ない内部完結的なものである。国民投票は課題の含む範囲は遙かに広く、通常は国家規模で行なわれるため、外部の干渉を受けることが少なくない。
住民投票・国民投票はあたかも直接民主主義の体現のように考えられがちであるが、そのような場面で行なわれるのは稀である。それぞれの国の歴史や文化に基づく法体系のありようが異なるために用いられ方は一様ではなく、ほとんどの場合は政治的駆け引きの道具や政治闘争の一環として行なわれることが多い。
民族が絡む自治権の確保や独立獲得が争点になると、住民投票と国民投票との境界は必ずしも判然としなくなる。90年から始まったユーゴ連邦解体戦争では、各共和国や地域において様々な時点で10数回の住民投票なるものが行なわれた。ここでは住民投票なる文言が使用されているものの、その多くが共和国ないし民族が絡んだ地域の主権のありかや独立が問われたもので、ほとんどが国民投票の範疇に入るものである。ユーゴ連邦解体戦争での住民投票・国民投票は政治的駆け引きや政治闘争の手段として利用され、ユーゴ連邦の情勢に悪影響を与えて武力衝突の直接的な原因もしくは遠因となった。次の3例はその典型的なものである
【Ⅰ】クロアチア共和国とセルビア人住民が対抗的な住民投票・国民投票を行なう
1990年7月、クロアチア共和国は民族主義色を全面に打ち出した国旗と国名を規定する「憲法修正」を行なった。この憲法修正条項で、国名の「社会主義」を外して「クロアチア共和国」としたのはともかくとして、国旗を「クロアチア・スラヴォニア・ダルマツィアの3地方を表す三色の配色の中央に、第2次大戦中セルビア人数十万人を虐殺したナチス・ドイツ傀儡政権の「クロアチア独立国」の国旗として用いられた赤白の市松模様を配したものにした。これは、クロアチア民族の利益のみを優先し、第2次大戦の悪夢を甦らせ、セルビア人住民や他の民族の感情を逆撫でする思慮を欠いた行為であった。
90年当時のクロアチア共和国は、クロアチア人78%、セルビア人12%、その他10%という多民族国家と言ってもいい構成である。12%を占めたセルビア人住民は、クロアチア共和国がクロアチア民族主義を押し進めつつあることに危機感を抱き、クロアチアの憲法修正に直ちに反応し、7月に「国民会議」を設置した。そして、クロアチア共和国政府が禁止令を出す中で、8月19日に「自治区」設置の可否を問う住民投票を強行するという形で対抗した。民族対立が醸成されつつあった中でセルビア人のみで住民投票を行なえば、結果は自明である。自治区の設定に賛成する票が、99.9%を超えるという圧倒的なものとなった。セルビア人住民は住民投票の結果を受け、10月1日に自治区の設立を宣言し、自治区と外部との連絡道路や鉄道を封鎖した。
これに対してクロアチア共和国政府は、12月22日に一層民族主義色を濃厚にした「新憲法」を制定した。この憲法では、「1,クロアチア共和国は、クロアチア人その他の民族による民主的統一国家である」と規定した。クロアチア共和国政府は、12%を占めていたセルビア人を2級市民扱いとしたのである。
民族主義化に対抗してクロアチア・セルビア人勢力は再び住民投票を強行
対応するクロアチアのセルビア人住民は一枚岩ではなく、自治権限の拡大を求める穏健派とクロアチアからの分離を求める強硬派とに分かれていた。やがて強硬派のバビッチが実権を掌握すると、91年2月に国連人権委員会にセルビア人の窮状を訴える一方で、「クライナ・セルビア人自治区執行会議」と「国民会議」による合同会議を開き、クロアチア共和国からの分離とユーゴ連邦への残留を決める。引き続き91年5月12日にクライナ自治区内で住民投票を実施し、98%という圧倒的な賛成を得てクロアチア共和国からの離脱とユーゴ連邦への残留を宣言する。これに次いで「スラヴォニア、バラニャ、西スレム」自治区でも5月15日から18日にかけて住民投票を実施し、同じようにクロアチアからの分離とユーゴ連邦への残留を宣言した。
これに対抗したクロアチア共和国は、5月19日にユーゴ連邦を維持するか主権国家連合とするかの住民投票を、セルビア人住民がボイコットする中で行ない、主権国家連合とすることに94.33%の賛成票を得た。セルビア人住民の住民投票は政治的闘争の一環として行なったものであったが、クロアチア共和国の住民投票は政治的駆け引きとして行なわれた。それは、クロアチア共和国はこの住民投票の態様に関わりなく、直後の6月25日にスロヴェニアとともにユーゴ連邦からの分離独立を宣言したことによって主権国家連合とすることの是非を問う住民投票は無意味化したからである。クロアチア共和国の新憲法では、憲法改正についての国民投票が義務規定から外されていたことを考量すると、クロアチア政府に国民の意思を尊重する姿勢があるとは考え難いからである。
クロアチア共和国が駆け引きとしての住民投票を行ない、ユーゴ連邦からの分離独立に走った背後には、ドイツ政府の使嗾があったと見られる。コール・ドイツ首相は、89年11月のベルリンの壁の崩壊を奇貨とし、90年10月にドイツの再統一を成し遂げると、ドイツの政治・経済圏拡大のための干渉に乗り出した。かつてスロヴェニアとクロアチアはドイツ経済圏に組み込まれていたことから、コール首相は再び取り込みを画策したのである。当時のクロアチア共和国にはドイツの後ろ盾がなければ、ユーゴ連邦を離脱するほどの国力も胆力もなかったから、ドイツが関与しなければ抑制が働き、政治交渉を優先したと考えられる。
先走ったクロアチア・セルビア人勢力の住民投票
翻って、セルビア人住民が政治闘争の一環として行なった住民投票が、正しい政治的選択であったかどうかについても疑問が拭えない。91年5月の時点では未だクロアチア共和国がユーゴ連邦からの分離独立を正式に宣言していたわけではなく、セルビア人住民が先走った住民投票を行なったことによって、クロアチア共和国政府とセルビア人住民との間の対立は決定的となったからである。もとより、セルビア人住民が文化的自治を求めた際にこれを拒否した民族主義者としてのトゥジマン政権に、話し合いの余地が残されていたかどうかは疑問である。とはいえ、住民投票・国民投票の応酬は対立を激化させただけで、セルビア人住民の権利が守られたわけではないことを勘案すれば、拙速・浅慮な対応だったといえよう。セルビア人住民側にもラシュコヴィチなどの穏健派もいたのだから、旗幟を鮮明にして対立を醸すのではなく、クロアチア共和国政府はもとよりユーゴ連邦政府との間の政治交渉を続けるべきではなかったか。クロアチア内戦は民族主義者のトゥジマン・クロアチア大統領とセルビア人勢力の強硬派のバビッチの両者が、両勢力を引き回したことで激化したものともいえるが、激変の時代には常に強硬派が支持されるという悪弊は、どの時代でもどの地域でも同様に現れる。
【Ⅱ】ボスニア内戦時にイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が住民投票・国民投票を強行
91年6月25日にスロヴェニア共和国とクロアチア共和国がユーゴ連邦からの分離独立を宣言すると、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はボスニア・ヘルツェゴヴィナの分離独立を目論んだ。91年10月、ボスニア議会はセルビア人議員が退場する中で、ユーゴ連邦からの事実上の独立を含む共和国の将来の地位に関する宣言文書を強行採決した。ボスニアのセルビア人住民はこれに対抗し、11月9日にボスニア・ヘルツェゴヴィナからの離脱とユーゴ連邦への残留の可否を問う住民投票を行ない、予想通り圧倒的多数の賛成を得た。
ECは、ユーゴ連邦の社会主義的政体の解体は既定路線としていたものの、武力紛争は避けたいと考えていた。そこで、ドイツの強引な両国の分離独立承認へのやり方を牽制するため、91年8月に「バダンテール委員会」を設置し、スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ4共和国について、ユーゴ連邦からの分離独立に国際法上の適合性を持たせるための裁定案による政治的解決を図ることにする。しかし、ドイツはECの一員でありながら、バダンテール委員会の裁定案を待たずに、91年12月23日に単独でクロアチア共和国およびスロヴェニア共和国の独立を承認してしまう。バダンテール委員会の役割は宙に浮いた形となったが、委員会は審議を続け、92年1月11日に裁定案を提示した。
裁定案の要旨は、「1,スロヴェニアとマケドニアの独立はECが定めた国際基準に完全に適合している。2,クロアチア共和国の新憲法にはセルビア系住民の地位が保証されていないから、それを盛り込まなければならない。3,ボスニアについては主権国家にするという住民の意思は完全に確立しているとはいえないから、独立の是非を問う住民投票が、国際的な監視の下に平等に全市民を対象に行なわなければならない」というものであった。しかし、EC諸国は「バダンテール委員会」の裁定案を十分に検討することなく、直後の1月15日に雪崩を打ってスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立を承認した。この裏には、ドイツとバチカン市国の強引な画策があった。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領も国民投票を悪用する
この経緯を見てイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、形式的であれ住民投票さえ行なえば独立が認められると判断した。
イゼトベゴヴィチは、念のために2月17日にミッテラン仏大統領を訪問し、EC諸国の意向を打診する。ミッテラン仏大統領は、ECとしてはボスニアが住民投票で是非を問うことが必要と助言したものと見られる。会談後、イゼトベゴヴィチは「住民が独立を望んでいることが証明されれば、欧州諸国から独立を承認される見通しが得られたので、住民投票を実施する」と表明した。そして2月29日、ボスニア政府はセルビア人住民がボイコットを表明する中、ムスリム人とクロアチア人による分離独立の賛否を問う住民投票を強行した。ECの「バダンテール委員会」の裁定ではボスニアの全市民による住民投票が必要としたのだが、ECはこのボスニアの政略的な住民投票を支持し、監視団を送り込んで正当性を与えた。投票率は、民族構成を表すかのようにおよそ65%だったが、その中で分離独立に賛成したものは99%に達した。3月3日、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は高らかにユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。当時、ボスニアの人口は436万人で、ムスリム人が43.7%、セルビア人が31.4%、クロアチア人が17.3%、ユーゴスラヴィア人その他が7.6%という民族構成であった。3民族のどれもが無視できない勢力を擁していたのである。クロアチアで民族間の武力衝突が起こっている事態を考慮すれば、住民投票が3民族間の新たな武力紛争を起こす契機となるであろうことは推察できたはずである。それをEC諸国はもとより、イゼトベゴヴィチは洞察できなかった。あるいは、民主主義の装いを凝らしたのだから、ボスニア・セルビア人勢力が対抗措置を取っても国際社会の圧力で抑え込めるとの判断があったものと見られる。その後、数回にわたってボスニアの3民族による国家形態についての協議が行なわれるが、4月に欧米諸国がボスニアの独立を承認したことで、この協議は断絶した。そして、3年余にわたる3民族による三つ巴の戦闘に突入することになる。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が、住民投票に走らずに、政治的解決に尽力していれば、ボスニアの紛争はあれほど悲惨な状態に陥らなかったことは確実といえる。イゼトベゴヴィチが個人的な願望の実現に拘った政治判断による駆け引きに住民投票を利用したことが、収拾困難なほどの対立をもたらしたことは疑う余地がない。
【Ⅲ】政治的解決の機会を見誤ったボスニア・セルビア人勢力
ボスニア内戦が長期化した原因として、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が住民投票を強行して分裂を招いたにもかかわらずボスニアの統一国家維持に固執したことが上げられるが、ボスニア・セルビア人勢力の対応にも誤りが認められる。それは、93年1月に提示された「ヴァンス・オーエン和平案」を受け入れなかったことにある。ヴァンス・オーエン案の基本は、「1,ボスニアの中央政府は外交と防衛のみを司る非中央集権国家とし、10州・カントンに分割して3民族それぞれの管轄下に置き、セルビア人勢力には3州を割り当てる。2,自治州と中央政府は民主的に選ぶ立法、行政、司法府を持つ。3,全土を段階的に国連、EC・EUの監視下で非軍事化する」というものである。幾度か協議が続けられた後、5月1日にギリシアのアテネで最終的なボスニア紛争合同会議が開かれた。この席でオーエン共同議長は、分割地図案は暫定的なものであり、和平会議において検討事項となりうるとの柔軟性を示した。ミロシェヴィチ・セルビア大統領、トゥジマン・クロアチア大統領、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はともに裁定案の受け入れを表明したが、カラジッチ・ボスニア・セルビア人共和国大統領は難色を示した。ミロシェヴィチ・セルビア大統領やチョシッチ新ユーゴ連邦大統領などが説得に努めたことから、カラジッチはボスニア・セルビア人議会の決議があれば受諾するとの条件を付けた上で、不承不承裁定案に署名した。カラジッチは消極的ではあれ署名した責任からか、もし議会が否決した場合は指導者から降りるとまで言及した。
住民の判断に責任を転嫁したボスニア・セルビア人勢力の政治指導者たち
5月5日にボスニアのパレで開かれたボスニア・セルビア人共和国の議会には、先の合同会議で議長を務めたギリシアのミツォタキス首相も参加。チョシッチ新ユーゴ連邦大統領とともにパレ議会で演説し、ヴァンス・オーエン和平案を受容するよう説得した。カラジッチ・セルビア人共和国大統領は、裁定案は受け入れ難いが拒否すれば人の命も失われ、悲惨な状態がもたらされるので受諾しなければならないと述べた。議会の雰囲気は裁定案の受諾に傾いた。ところが、道路事故で遅れて議会に現れたムラディッチ・ボスニア・セルビア人勢力軍最高司令官は、持参した地図を示しながら、裁定案を受諾することは占領地の27%を失うことであり、容認し難いと説明した。ムラディッチの説明で議会の雰囲気は一変し、裁定案の拒否を決議してしまう。その上で、議会が拒否した場合は指導者の地位を辞任すると言及していたカラジッチの立場に配慮したのであろう、最終的な結論は住民投票に委ねるという無責任な付帯決議を付け加えた。
ミロシェヴィチ・セルビア大統領はこの場を無言で退席する。EC・EUや米国もセルビア人勢力に住民投票を止めるよう要請していたが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領もヴァンス・オーエン裁定案を受容させることを諦めたわけではなかった。受け入れさせるためには住民投票を中止させる必要があったから、ボスニア・セルビア人勢力が投票日としていた5月15,16日の前日の14日に、関係者の合同協議会を行なうことを提案する。しかし、ボスニアのセルビア人勢力は拒否姿勢を示し、ベオグラードで開かれた協議会にはオブザーバーしか送らず、しかも途中で退場するという頑なな対応を示した。そして日程通り、15,16日に住民投票を強行する。このような事態の中で住民投票が行なわれれば結果は明白であり、セルビア人住民は96%が裁定案を拒否するという投票行動を示した。この裁定案がボスニア和平に関する重要な転回点であることを、ボスニアのセルビア人勢力は理解しなかったのである。ミロシェヴィチ・セルビア大統領は、ボスニア・セルビア人勢力に対する人道援助を除く、資金、原料、燃料などの支援を打ち切ると表明する。
住民投票・国民投票は多くの場面で事態を悪化させた
ボスニア・セルビア人勢力の指導部は、政治的駆け引きとしての住民投票によって裁定案拒否に正当性を付与するという策を弄した。この切迫した事態において、住民に判断を委ねて民主主義的な装いを凝らすというやり方は、無責任な政治的選択であった。多くの住民にとって、議会が否決した裁定案を覆すほどの判断材料があるはずもなく、議会の議決を追認するしかなかったからである。このようにして、ボスニア・セルビア人勢力は重大な和平の機会を逃すことになった。そればかりか、EC・EUや米国に軍事介入の口実を与えることにもなったのである。カラジッチ・セルビア人勢力指導者は、議会が受け入れなければ辞任するとまで表明したにもかかわらず、住民投票の結果に力を得たのか、辞任するどころかボスニアを3民族別の国家連合とすることを提案する。それからの2年余におよぶボスニアの紛争はただ殺傷と破壊が繰り返されるという、ボスニアのどの民族にとっても無益な内戦となった。
住民投票・国民投票は民主主義を毀損することもある
ユーゴスラヴィア連邦解体戦争では、政治的駆け引きや政治闘争の一環としての住民投票・国民投票が繰り返し行なわれたが、多民族国家であるが故に住民・国民投票を行なえば、民族の地域的偏りがそのまま投票数となって表され、その結果民族間の対立を顕在化させ、悪影響を及ぼすことは明白であった。しかも、ドイツを始めとするEC・EU諸国や米国が陰に陽に干渉を行ない、住民・国民投票に民主主義を装わせたことがユーゴ紛争を複雑にし、解決を困難にしたのである。ここに挙げた3つの事例の1つでも住民・国民投票が避けられていれば、ユーゴ紛争の様相はもっと穏やかなものとなり、政治交渉による解決の道を見出せた可能性が高い。すなわち、住民・国民投票は必ずしも直接民主主義を体現するものとはいえず、特にユーゴ連邦解体戦争では、政治的指導者たちが政治的駆け引きや政治闘争に利用するということが顕著に表れた事例となった。
<参照;クロアチア、ボスニア、EC・EUの対応、米国の対応、バダンテール委員会>
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