ユーゴスラヴィア連邦解体戦争・コラム
ユーゴネット作成
(3)政治・経済
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2,* 「コミンフォルム」
3,* 「自主管理社会主義」
4,* 「非同盟諸国会議」
6,* 「クライナ・セルビア人共和国」
7,* 「西ボスニア自治州の独立」
8,* 「東スラヴォニア」
9,* 「スルプスカ共和国」
11,* 「大セルビア主義」
12,* 「大クロアチア主義」
13,* 「大アルバニア主義」
1,「ユーゴスラヴィア共産党・ユーゴスラヴィア連邦共産主義者同盟」
第1次大戦の遠因は、ハプスブルク帝国が露土戦争後の1878年に結ばれたサン・ステファノ条約およびベルリン条約によってボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保し、さらに1908年に併合したところにある。これに反発したボスニアに「ボスニア青年運動」が興り、秘密結社が数多結成されることになったからである。
この秘密結社の一つ「黒手組」が、バルカン戦争後の1914年6月28日、ボスニアのサラエヴォで行なわれた軍事演習の観閲に訪れたハプスブルク帝国の皇太子アレクサンダルを暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。これをきっかけにハプスブルク帝国がドイツ帝国との同盟を確認した上でセルビア王国に宣戦を布告する。これに対し、英・仏・露で形成していた三国協商が領土的野心を秘めつつセルビア側に立って参戦した。
スロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナはハプスブルク帝国の支配下にあったため、当然のことながら帝国の兵員として徴募され、同族との戦闘における反乱を避けるために主としてロシア戦線に派遣された。のちにユーゴ連邦の大統領に就くことになるヨシプ・ブロズ・チトーも、ハプスブルク帝国のクロアチア兵の一員としてロシア戦線に送られた。
大戦は塹壕戦に入り、いつ果てるか見通しが立たないままずるずると続けられた。しかし、17年に至って米国が参戦し、ロシアが革命で離脱し、厭戦気分が蔓延していたドイツで革命が起こったことで居場所を喪ったヴィルヘルム・ドイツ皇帝がオランダに亡命し、ハプスブルクのカールⅠ世も退位したことで、2018年11月に大戦は終結を迎えた。
ユーゴ共産党は揺籃期からユーゴ王国の弾圧を受け続けた
戦勝国となったセルビア王国は、ハプスブルク帝国が支配していたスロヴェニアとクロアチアおよびボスニアを含めて領域を拡大して2018年12月に「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人王国」を建国し、セルビア人のアレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政に就いた。
翌1919年4月、セルビア社会党および社会主義諸政党がベオグラードに集まり、「ユーゴスラヴィア社会主義労働者党」を創設した。1年後の20年6月、これを「ユーゴスラヴィア共産党」と改称する。
野心的なアレクサンダル・ユーゴ国王は、上からの統制による秩序を維持するために政党や労働者に対する厳しい弾圧を加え始める。弾圧にもかかわらず、20年11月に行なわれた憲法制定議会選挙ではユーゴ共産党が59議席を得て第3勢力となる。王国政府はこれを見て12月に布告で、労働組合と政治運動の全てを禁じる措置をとった。この布告によって労働組合は解散させられ、資産を没収されるなどの弾圧を受けたが、共産党は「事を荒立てないように」との方針で静観した。
1921年6月、アレクサンダル国王は憲法制定議会で「ヴィドヴダン憲法」を制定し、立憲君主制を敷く。憲法制定で足がかりを固めた王国政府は弾圧の手をゆるめず、8月に「国家保護法」を発布してユーゴ共産党を非合法化し、共産党議員の資格も剥奪した。共産党は23年、ユーゴスラヴィア王国内での表向きの活動組織として「ユーゴスラヴィア独立労働者党」を立ち上げるとともに、中央委員会は国外に脱出してコミンテルンの指導下で活動することになる。ユーゴ王国政府の強圧姿勢は続き、24年にはユーゴスラヴィア独立労働者党や独立労働組合も活動を禁止してしまう。
ユーゴスラヴィア王国は独裁制をとり活動家を弾圧する
弾圧体制下で支持基盤が脆弱になったユーゴ共産党は、従来軽視してきた農民および民族問題、そして労働組合と党組織との関係の検討を迫られた。26年にはウィーンで第3回大会を開き、28年にはドレスデンで第4回大会を開いて討議を積み重ね、ユーゴ共産党はユーゴスラヴィアの諸民族間の問題が重要であることを理解するに至る。しかし、コミンテルンは民族問題を重視せず、「バルカン社会主義連邦共和国」の設立を志向するよう指示して食い違いを見せた。
一方、1929年、アレクサンダル国王は憲法を停止して議会を解散する。さらに民族の権利を否認して独裁制を宣言し、国名を「ユーゴスラヴィア王国」に改称した。そして全政党に対し「国家保護法」を適用して解散させ、政治色だけでなく宗教色を含むものの出版物も禁止し、活動家たちに凄まじい弾圧を加えた。
アレクサンダル独裁王の弾圧で共産党は壊滅状態となる
この時の弾圧で、各地に組織されていた共産党の地区委員会に属する者が多数虐殺され、ユーゴスラヴィア王国内の共産党はほとんど壊滅状態に陥った。しかし、共産党は王国政府の苛烈な弾圧を受け続けたにもかかわらず、33年には非合法の細胞を再建し、地区委員会も結成された。この時期、ヨシプ・ブロズ・チトーは5年の刑を受けて獄中にいたため、弾圧の対象から免れた。チトーは34年に出獄すると、ウィーンにあった中央委員会政治局の委員に選出される。そして「チトー」の称号を使って論考を発表し始めた。この称号がチトーの生涯の名称となる。この時期のユーゴ共産党は、ユーゴ王国独裁体制の弾圧に加え、スターリンの粛清の影響がユーゴ共産党内にも及び、派閥抗争が起こされたことによって著しく弱体化して党員は1000人前後に激減した。
アレクサンダルの独裁制に反発したクロアチアにファシズムが浸透
一方クロアチアでは、アレクサンダル国王の強権政治に反発し、ファシスト・グループ「ウスタシャ」が結成された。ウスタシャの創設者のアンテ・パヴェリチはイタリアに亡命し、そこを拠点にユーゴ王国を打倒すると宣言した。そして34年10月、ウスタシャはアレクサンダル・ユーゴ国王がフランスを訪れた際、マルセイユでバルトゥ・フランス外相とともに暗殺する。フランス政府はイタリアに対しパヴェリチの身柄引き渡しを要求するがムッソリーニ・ファシズム政権はこれを拒否した。
チトーとカルデリは共産党の再建に尽力する
暗殺されたアレクサンダル独裁王の跡を継いだペータル国王は抑圧するだけでは統治できないと考え、弾圧の手を少し緩めた。チトーは、1936年に滞在先のモスクワから帰国すると、コミンテルンにエドヴァルド・カルデリをユーゴスラヴィアに帰国させるよう要求する。カルデリは、帰国すると37年4月にはスロヴェニア共産党の再結成を実現。チトーは8月にクロアチアの共産党の再結成に指導力を発揮した。1938年、ユーゴ共産党の中央委員会の指導部を、ヨシプ・ブロズ・チトー、エドヴァルド・カルデリ、ミロヴァン・ジラス、アレクサンダル・ランコヴィチ、ミハ・マリンコ、フランツ・レスコシェク、イヴァン・ミルティノヴィチなどで固めた。この指導部の活動によって党員数は1万2000人にまで増加する。
共産党が主軸となって「パルチザン」を組織しナチス・ドイツ同盟軍と戦う
この間、ドイツではヒトラー率いるナチスが台頭していた。1932年行なわれた選挙でナチ党が第1党となり、嫌共産党だったヒンデンブルク・ドイツ大統領は33年に1月にヒトラーを首相に任命する。ヒトラーは就任すると直ちに行動を起こし、2月には共産党を弾圧し、3月には全権委任法を制定して憲法を無効化した。そして、10月には国際連盟およびジュネーブ軍縮条約から脱退して軍備を強化する。35年にはザール地方、38年にはオーストリアを合邦化。さらに、9月には英・仏・独・伊の首脳を集めたミュンヘン会談を開かせ、チェコスロヴァキアのズデーテンの併合を認めさせた。
そして、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。これに対して英・仏は直ちに宣戦布告をするが、有効な戦線を構築できないでいた。これを見透かしたナチス・ドイツは、40年4月にデンマークとノルウェーに侵入。5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻して英国の大陸派遣軍をフランス領ダンケルクで追い落とし、6月にはパリに入城して勝利を宣言した。さらに、「海獅子作戦」を発動して英本土上陸を試みるが、これは英国軍の巧みな抵抗に遭ったため、一時的に断念する。
ソ連の植民地化を企図したヒトラーはバルカン支配を先行させる
そこでヒトラーはソ連を植民地化し、そこから得られる物量をもって英国を屈服させる方針に転換し、40年7月頃対ソ作戦の立案を命じる。それが「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を発動するに当たり、軍需物資の調達領域の拡大および侵攻ルートの後背地の安定を確保するために、バルカンのユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配下に置く必要があると分析した。ただし、ギリシア王国には英国からの支援の手が海上を通じて伸びており、ナチス・ドイツ同盟に応じる見込みはなかったことから「マリタ作戦」を立てる。ユーゴスラヴィア王国に対しては、威しと甘言を加えて41年3月25日に同盟への加盟を認めさせた。
ところが、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟に反発した国民と軍部が反旗を翻して抗議デモを実行し、将校団が軍事クーデターを起こして同盟条約を破棄するよう要求した。狼狽したユーゴ王国政府は、ナチス・ドイツに対して条約は有効だと弁明するがヒトラーはこれを許容せず、41年4月6日に同盟国のファシズム・イタリア、そして同盟に加盟させられていたハンガリー、ブルガリア、ルーマニアとともにユーゴスラヴィア王国とギリシア王国に侵攻した。ギリシア王国は派遣されていた英国軍とともに14日間持ちこたえるが、ユーゴ王国は11日間で陥落してしまう。ユーゴ王国が短期間で敗退した背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響を受けていたスロヴェニアとクロアチアの第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。
スターリン・ソ連書記長はヒトラーを信じるという過ちを犯す
ソ連のスターリン書記長は猜疑心の強い人物で、自らの体制を脅かしかねない者たちを、内務人民委員部・NKVDを通して粛清をし続けていた。ソ連赤軍もその対象となり、元帥を含む2万人余りを処刑するか流刑に処していたため、当時のソ連赤軍の指揮官の戦闘能力は著しく弱体化していた。
このスターリンが何故か、ナチス・ドイツのヒトラーに対しては全幅の信頼を置くという、奇異な判断をしていた。英国政府が提供したナチス・ドイツ軍がソ連との国境に集結しているとの情報を陰謀だとして退け、また駐日ドイツ大使館の要員にもなっていた在日ジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、ナチス・ドイツ軍が6月22日に対ソ侵攻を行なうとの情報を送信したにもかかわらず、それも一笑に付した。さらに、前線の指揮官に対してはドイツを「刺激するな」との指示を出しさえしていた。指示に逆らえば粛清されかねないことから、前線の指揮官たちは目前の危機を感じながらも臨戦態勢取れないでいた。このような態勢の中にあったソ連に、ナチス・ドイツは同盟軍を合わせて550万の兵員を動員したバルバロッサ作戦を41年6月22日に発動して侵攻した。
臨戦態勢を整えていなかったソ連赤軍はたちまち前線が崩壊し、9月にはナチス・ドイツ北方軍にレニングラードが包囲され、南方軍にはベラルーシのミンスクを攻略され、中央軍にはウクライナのキエフを陥落されてモスクワ近郊にまで迫られた。バルバロッサ作戦は成功するかに見えた。これに対処するために9月に米・英・ソによるモスクワ会議を開き、連合国を形成するとともに、米国が41年3月に対英武器貸与法を制定したものをソ連にも武器を拡大適用することを決める。
一方、チャーチル英首相はスターリン・ソ連首相の西部戦線を構築してほしいとの要請には応えず、中東の油田地帯の権益を優先させて地中海域での戦線構築に拘った。他方、在日ジャーナリストのゾルゲは、日本は南方に関心を向けており、ソ連に侵攻する意図は有していないとの情報をソ連向けに送信した。この情報を受けたソ連政府はシベリアに派遣されていた精強な部隊を呼び戻し、12月からナチス・ドイツ同盟軍への反撃を開始する。
チトーは「パルチザン」を組織してナチス・ドイツ同盟軍との抵抗戦を開始する
ユーゴ共産党の指導的地位に就いていたヨシプ・B・チトーは、ナチス・ドイツ同盟軍がユーゴスラヴィアを占領した直後か
ら「パルチザン」の組織化を始め、占領軍との独自の戦いを決意する。そしてチトーは、セルビアのベオグラードに総司令部を設置して総司令官に任じた。各地に結成されたパルチザンはバルバロッサ作戦が発動されたと同じ時期にユーゴスラヴィア全土で活動を開始する。モンテネグロではたちまちほとんどの地域を解放し、9月にはセルビアの西部地域を攻略し、ボスニアでも広範な地域に拠点を確保した。そして、パルチザンのユーゴスラヴィア人民解放部隊総司令部をユーゴスラヴィア人民解放部隊最高司令部と改称する。パルチザンは、この年の末には9万人に達した。
パルチザンはファシスト・グループ・ウスタシャおよび王党派チェトニクとも戦う
一方、クロアチアではナチス・ドイツの侵攻を歓迎し、ウスタシャを創設したアンテ・パヴェリチが亡命先のイタリアから帰還して傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。パヴェリチは、クロアチア民族をアーリア人種と位置づけ、クロアチア独立国を純粋なクロアチア人国家とするために、ナチス・ドイツに対抗した正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵対勢力とした。そしてロマ人やユダヤ人など少数民族とともに迫害し、排除し、虐殺し始めた。
他方、ユーゴ王国軍の残党は王党派「チェトニク」を結成。当初はパルチザンと協調してナチス・ドイツ軍と戦う姿勢を示したものの、ナチス・ドイツ軍に反抗すれば殲滅すると脅されるとたちまち屈服して抵抗戦を留保し、支配領域争いに転じる。
パルチザンはナチス・ドイツの同盟軍の圧力に耐え切れず、ユーゴ共産党中央委員会と最高司令部をセルビアからボスニアに移して転戦した。そして1942年11月、全地域のパルチザンや党の地区代表などに呼びかけ、ボスニアの西北の街ビハチで「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」を開き、行政執行委員会を設置した。ソ連は連合国の意向を気にかけ、共産党の影響を色濃く反映した機関を設置するやり方に否定的な意見を伝えてきたが、パルチザンは解放地域を統合する中心的な行政機関としてのAVNOJを必要としていたためにこれを押し切った。さらに、「プロレタリア旅団」を結成し、解放地区の統治のために人民解放委員会を設置する。これに対してもソ連指導部は難色を示したが、ユーゴ共産党中央委員会は現地でのナチス・ドイツとの戦闘のためには不可欠な部隊編成だとして、プロレタリア旅団の編成を変えなかった。
ソ連は連合国に配慮してユーゴ共産党に抑制を求める
東部戦線においてナチス・ドイツ同盟の南方軍は、42年8月に象徴的な地点としてのスターリングラードの攻略戦に取り掛かる。数ヵ月で陥落させられると見込んでいたナチス・ドイツ同盟軍は激しい市街戦を行なったことで戦力の消耗を余儀なくされた。しかも補給ルートが伸びきっていたことによる物資不足と、冬季戦への備えが不十分であったために43年1月31日に、逆に9万人の捕虜を出して降服することになる。
パルチザンはナチス・ドイツ同盟軍の攻撃を巧にかわし続けた
ナチス・ドイツ同盟軍は、スターリングラードの攻防戦で敗れたことからユーゴスラヴィアに足止めされていた部隊を東部戦線に投入する必要に迫られ、パルチザン部隊の総司令部を殲滅するために、43年5月に第5次の「黒作戦」を発動した。ナチス・ドイツ同盟軍はウスタシャ軍やチェトニク軍を従え、11万7000人の軍隊でボスニア南部フォチャに拠点を構えていたパルチザン部隊に大攻勢をかけた。同盟軍の作戦目標は、チトーを殺害してパルチザン最高司令部を弱体化することにあった。このときフォチャを拠点としていたチトー率いる最高司令部とパルチザン部隊は2万人程度にすぎず、ナチス・ドイツの空爆を交えた凄まじい攻撃で手痛い損害を受け、チトーも負傷した。だがともかくもパルチザンはその包囲網を巧みな戦法でくぐり抜けて生き延びた。
パルチザンはナチス・ドイツの攻勢を凌ぐと、「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシズム会議・AVNOJ」の地方会議を続々と組織する。43年6月にはクロアチアに、10月にはスロヴェニアに、11月にはモンテネグロとボスニアに地方会議を結成した。そして、11月にはヤイツェで第2回「ユーゴスラヴィア人民解放・反ファシズム会議」を開く。会議では新たに幹部会を設置し、イヴァン・リバール博士を議長に、チトーを副議長に選出した。チトーは、ユーゴスラヴィア解放全国委員会の議長および人民防衛長官にも就き、副議長はカルデリ、その他の外務長官や内務長官など閣僚14人を選出した。その上で王国政府の権利を剥奪し、ペータル国王の帰国を禁じた。ソ連政府は、AVNOJの方針は連合国との統一を乱すという理由をつけてまたもや容喙した。
降服したイタリア軍の装備を確保する
ドイツ軍の第5次攻勢をかわした最高司令部と共産党中央委員会は、アドリア海沿岸のダルマツィア地方に進駐していたイタリア軍に攻勢をかけた。イタリア軍は連合軍との戦線で敗北を繰り返しており、降服も間近であると分析したからである。この分析は的中し、43年9月にイタリア軍は連合国に降服した。パルチザン部隊は、ダルマツィア地方に残留していたイタリア軍6個師団を武装解除して装備を手に入れ、軍備を増強した。その上で、2個師団のイタリア軍をパルチザン部隊とともに同盟軍と戦わせることまでした。
連合国はようやくパルチザンの支援を決める
一方、英国はアフリカ戦線で勝利して地中海域の確保の見通しが就くと、43年5月にパルチザンに軍事使節団を送る。英国の軍事使節団は命の危険に曝されながら、パルチザンがナチス・ドイツ同盟軍の大部隊をバルカンに膠着させているのを見て、連合軍に有用な戦いを展開しているとの報告をチャーチル英首相に送った。
チャーチル英首相は、43年11月に開いた米・英・ソ首脳によるテヘラン会談において、パルチザンに軍事援助することが連合国にとって有益だと提案した。米ソ両首脳の承認を得ると、英国は軍需物資をパルチザンに送るとともに、落下傘部隊をも派遣した。
パルチザンは英国と米国から軍需物資の支援を受けられるようになると、部隊を増強していく。しかし、44年初頭にナチス・ドイツ同盟軍から第6次攻勢をかけられ、パルチザン本部はドルヴァールへ移動を余儀なくされる。さらに、44年5月の第7次攻勢では、パルチザン部隊の本部はドルヴァールからヴィス島への移動を余儀なくされるほどに追いつめられもしたが、ナチス・ドイツの大部隊をユーゴスラヴィアに引きつける役割を果たしていた。
英国はダンケルクから追い落とされから4年を経た44年6月6日、ようやく連合軍として「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)を発動した。この作戦は成功し、8月にはパリを解放した。
パルチザンは英国政府の要請を受けてユーゴ王国亡命政府と協定を結ぶ
同じ44年6月14日、パルチザンは連合国の支援を受け続ける必要性から英国の意向に従い、チトー全国解放委員会議長は王国政府の代表イヴァン・シュバシッチ王国政府首相と会談する。会談の要旨は、「1,ユーゴスラヴィア王国政府は、人民解放軍および祖国の共同の敵と戦うすべての者への援助を組織する。2,ユーゴスラヴィア解放全国委員会および王国政府は敵に対する共闘を調整するための諸機関を設置し、統一国家代表部の創設を早急に促進する。3,ユーゴスラヴィア解放全国委員会は、現時点では国王と君主政体の問題をことさら強調しない。4,シュバシッチ政府は次の宣言をする。①, ユーゴスラヴィア解放全国委員会を通してユーゴスラヴィア人民が勝ち取った国民的・民主的偉業を承認する。②, チトー元帥指揮下の戦闘的人民勢力を全面的に承認し、敵と協力する人民の裏切り者をすべて断罪する。③, あらゆる戦闘勢力は人民解放軍とともに単一戦線に統一するよう全国民にアピールする」というものである。
チトー率いるパルチザンはソ連赤軍の支援に条件を付ける
ソ連指導部は、パルチザンの戦いを評価していなかったが、パルチザン率いるチトーもソ連の対応に懐疑的であった。それは、39年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦を始めたとき、ソ連軍もフィンランドに侵攻してその一部を占領した経緯があったからである。そのため、チトーはソ連赤軍がユーゴスラヴィアの領域に入ることに条件を付けた。ユーゴスラヴィアの占領軍を排除した後には領域から撤収することを認めさせた上で、共同戦線の形成に同意したのである。その条件の下でソ連赤軍はパルチザンとともに、44年10月にベオグラードを奪還する。
44年11月、パルチザンと王国政府代表は「チトー・シュバシッチ協定」を結ぶ。45年2月、連合国はヤルタで会談を開き、ユーゴスラヴィア解放全国委員会に対し、王国政府と連合政府を作るよう勧告した。勧告とはいえ援助を受けてきた恩恵からすれば命令を含意していたから、ユーゴスラヴィア解放全国委員会はこれを受容する。45年3月、「ヤルタ会談」の勧告を受け入れて「ユーゴスラヴィア民主主義連邦統一内閣」を設立した。
45年4月、ソ連赤軍がベルリン総攻撃を開始する。敗北を悟ったヒトラーが45年4月30日に自殺し、後継者のデーニッツが5月8日に降服文書の調印したことで欧州における第2次大戦は終結を迎えた。このとき、クロアチア独立国のウスタシャたちはナチス・ドイツ軍とともにユーゴスラヴィアから脱出し、ディアスポラとなった。
ユーゴスラヴィアは勝利したものの、この大戦で170万人が死亡し、400万人以上が負傷した。ユーゴスラヴィア王国の被害総額は当時の価値で470億ドルといわれ、欧州戦線でソ連に次ぐ規模の被害を受けた。
戦後の制憲議会でユーゴスラヴィアは王制を廃す
戦争終結後の45年8月に行なわれた臨時国民会議で、ペータル国王は王党派の摂政団を引き上げるという政治的駆け引きを行なう。この西側諸国にも批判された国王の奇策は失敗に終わる。混乱の中の11月に行なわれた憲法制定議会選挙で人民戦線側が圧倒的な支持を得たからである。この憲法制定議会が制定した46年憲法によって王制が廃止され、共産党の1党独裁を明記した「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」が建国された。ユーゴスラヴィア共産党が採用した社会主義は、ソヴィエト連邦の中央集権型社会主義であり、当然のことながらソ連を中軸とする社会主義圏に属した。
コミンフォルムがユーゴスラヴィア連邦を追放する
ユーゴスラヴィア共産党は、独自の戦いによってナチス・ドイツ同盟国からの祖国解放を達成したと評価されていたこともあり、社会主義圏でも特別な扱いを受けていた。コミンテルンの後継組織として1947年に設立されたコミンフォルムの本部も、提唱者でもあったことからユーゴスラヴィアのベオグラードに置かれ、第1回会議ではソ連指導部に次ぐ席次が与えられた。ところが、ユーゴ連邦が戦後処理としてのトリエステの領有権をイタリアと争い、ギリシャの人民戦線派への支援を続けたことおよびブルガリアと独自の「バルカン連邦」構想を提起したことからソ連指導部と激しく対立することになり、48年6月に開かれたコミンフルム第2回会議で除名処分を受ける。
これは、ギリシアは英国の権益とするとの英・ソ間の密約に反する行為であったからであった。のちに、チャーチル英元首相が「ソ連はすべての約束を破るようなことはしなかった」と述べているが、それはこのことと無関係ではない。
ユーゴ連邦指導部はこの事態を誤解によるものと捉えた
一方、ユーゴ連邦の共産党指導部は、コミンフォルムの除名処分を理解しかねていた。イタリアとのトリエステの領有争いはユーゴスラヴィア人民の居住地区の取り扱いの問題にすぎず、ギリシアの人民戦線への支援は戦中からの継続であり、「バルカン連邦」構想は20年ほど前にコミンテルンが「バルカン社会主義連邦」の設立を志向するように指示したその懸案を具体化するものだったからである。チトーは直後に開かれたユーゴ共産党第5回大会で、「わが党と中央委員会は全力を尽くしてソ連共産党との関係修復に努める」と表明した。しかし、ユーゴ共産党の思惑をよそに、ソ連指導部との関係修復はならなかった。
欧米はユーゴ連邦を西側に引き寄せる好機と見る
それ以来、ユーゴ連邦共産党は各国の共産党から激しい非難を浴びせられたばかりか、社会主義圏から厳しい経済制裁を科せられた。この社会主義圏の敵意ある制裁は、復興途次にあったユーゴ連邦に計り知れないほどの経済的打撃を与えた。当時、ユーゴ連邦と社会主義圏との貿易量は51%を占めており、それが50年にはゼロにまで落ち込むことになったからである。コミンフォルムの敵対行為は政治的対立や経済制裁にとどまらず軍事的対立にまで及び、国境における銃撃事件が頻発した。そのために、ユーゴ連邦の国防予算は翌49年には国民総所得の23%にも達した。
西側はこの対立を見逃さず、ユーゴ連邦を自由主義陣営に取り込む好機と捉えた。米国は48年12月にユーゴスラヴィアの在米凍結資産5500万ドルを解除し、次いで49年には米輸出入銀行に2000万ドル、世界銀行に2500万ドルを融資させた。さらに52年には米・英・仏3ヵ国が共同で9000万ドルの融資を行なった。この西側の融資によってユーゴ連邦は経済的破綻を免れ、それ以来西側の経済圏に依存するようになった。
ユーゴ共産党を共産主義者同盟と改称し自主管理型社会主義を導入
社会主義圏との対立に直面したユーゴ共産党は、社会主義体制そのものの検討を余儀なくされた。52年11月の第6回共産党大会において、ユーゴ連邦共産党は党名を「ユーゴスラヴィア連邦共産主義者同盟」と改称した。共産主義者同盟としたのは、共産党が国家的ならびに社会的な命令者や指導者となることではなく、同盟者としての説得によって路線や見解が採用されるような形態にすることにあり、国民の同意によって国土の統一と社会主義の独立を達成して民主主義を確立することにあった。党の役割を水平化して分権化することは、労働者自主管理制度導入の前提として必然でもあった。すでに1950年には自主管理制度の端緒となる「基本法」を制定していたが、53年憲法によって正式に「自主管理社会主義」制度の導入が規定された。またこの憲法で、連邦の中央の共産主義者同盟は各共和国の共産主義者同盟を統制・指導する機関としてではなく、自主管理社会主義の範型を示し、協議を通して受容させるという方針が明確に規定された。
ユーゴ共産主義者同盟の自主管理社会主義制度は他の共産党に受け入れられず
1953年3月にスターリンが死去すると、ソ連指導部はユーゴ連邦との外交関係の修復にとりかかり、相互訪問が繰り返されるようになる。55年には、フルシチョフ・ソ連共産党第1書記とブルガーニン・ソ連首相がベオグラードを訪問して「ベオグラード宣言」をまとめた。56年2月、フルシチョフは党大会の秘密報告でスターリン批判を行ない、それに沿って4月にスターリンの遺産ともいうべきコミンフォルムを解散した。56年6月には、チトー・ユーゴ大統領とユーゴ共産主義者同盟指導部がモスクワを訪問して「モスクワ宣言」をまとめあげた。宣言では、「両国は、異なった国や条件のもとにおいては社会主義発展の道も異なり、社会主義発展の形態が豊富であることは社会主義を強化するのに役立つとの見解を抱いており、また双方は社会主義発展の決定に際して相手方に自己の考えを押し付けることはしない」と宣言した。
この宣言にもかかわらず、その後も中国をはじめとした修正主義批判による対立は解けず、57年のソ連10月革命40周年の際に出された12ヵ国共産党・労働者党会議の声明では、「各国共産党は一致して、現代修正主義者たちによる理論の集中的表現である国際楽天主義が、ユーゴスラヴィアでも発生していると弾劾するものである」との非難が浴びせられた。この会議にはユーゴ連邦の代表としてカルデリが出席していたが、当然ながら署名を拒否した。また、60年に行なわれた81ヵ国共産党会議の声明には、ソ連共産党を「一般に認められた共産主義の前衛」とか「偉大なるソ連」との特別扱いした文言がちりばめられた。これは、ユーゴ連邦の自主管理社会主義を間接的に否定するものであり、ユーゴスラヴィアの目指す方向とは対極にあるものであった。
連邦政府の徹底した地方への権限移譲は遠心力として働く
ユーゴ連邦は63年に憲法を改定し、ユーゴ連邦共産主義者同盟の中央組織の権限は、大幅に各共和国の共産主義者同盟に委譲された。この措置により、ユーゴ連邦共産主義者同盟の指示は各共和国の共産主義者同盟の同意なしには実行できなくなる。さらに、74年の憲法改定によって連邦政府の権限がさらに大幅に共和国に委譲されると各共和国の共産主義者同盟は独自性を強め、連邦全体の国益よりも各共和国の権益を重視する傾向が見られるようになっていく。
この改正によって、コソヴォ自治州とヴォイヴォディナ自治州にも共和国なみの行政権限が与えられた。企業の自主管理制度では「連合労働基礎組織」を設置して基礎組織を細分化して権限を下部に委譲し、教育、文化、医療の分野には「自主管理利益共同体」が設置された。民族問題に関しては、それぞれの民族文化を尊重すること、民族および少数民族への帰属を表明すること、ならびに民族の言語と文字を使用する自由を保証した。
西側はユーゴ連邦を解体させるための工作を始める
1973年に第4次中東戦争を端緒とした「オイル・ショック」が、世界経済に混乱をもたらした。非産油国の経済弱小国であるユーゴ連邦はこのオイル・ショックをまともに受け、燃料の高騰に加えて貿易量が激減したため、石油輸入代金を西側からの借款で賄わざるを得ず、負債を増大させた。
ユーゴ連邦経済がオイル・ショックから脱却できずに苦闘している最中の78年に開かれた社会学大会で、Z・ブレジンスキー米大統領補佐官は、米国からの参加者を前にしてユーゴ連邦の自主管理社会主義体制を解体させる方策を講演した。要旨は;「1,ソ連に対抗する力としてのユーゴスラヴィア中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的・民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。民族主義は、共産主義より強力である。2,共産主義的平等主義に反対する闘争において、ユーゴスラヴィアにおける『消費者的メンタリティ』を一層刺激する必要がある。3,ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いることができる。それ故にヨーロッパ共同体諸国の対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に保障される。4,Xディ(チトーの死)の後に、ユーゴスラヴィアの軟化に向け、組織的に取り組むべきである。民族間関係者が重要なファクターである。ユーゴスラヴィア連邦共産主義者同盟・SKJとユーゴスラヴィア連邦人民軍・JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJは既に政治的独占を失っているし、JNAは外敵には強いが内部からの攻撃には弱い。全人民防衛体制は両刃の剣である」というものである。ブレジンスキーは共産主義者同盟の分権化が連邦を弱体化させるものと洞察していたのである。
1980年、ユーゴ連邦にとってカリスマ的存在だったチトーが死去する。IMFはチトーが死去すると直ちに融資の条件として、81年に「第1次経済安定化政策」の受け入れを要請。さらに、83年に「第2次経済安定化策」の受け入れを要求した。IMFの経済安定化策は、ユーゴ連邦の経済の実態に合致しなかったために、経済は混乱して激しいインフレが起こった。
共産主義者同盟の権限は削減され各共和国政府の権限を強化する
88年の党中央委員会総会では党と国家の分離を提案するとともに、各共和国の共産主義者同盟が地域主義にとらわれていると指摘され、国家解体の危惧として討議の俎上に上った。各共和国の党が民族主義的な傾向を強めていることが懸念されるようになっていたのである。また、権限を得た企業長なども連邦全体の利益よりも企業そのものの利益を優先したために、連邦の共産主義者同盟の意向を受け流すということが起こされていた。そこで、88年憲法修正では、行き過ぎた分権化の是正を図り、連邦幹部会から共産主義者同盟の幹部を外し、連邦幹部会は6つの共和国と2つの自治州の幹部会議長で構成されるようにするとともに、各共和国および自治州の権限の縮小が図られた。
しかし、この改正は現実的な解決策とはならなかったことがたちまち露呈する。89年2月にスロヴェニア共和国が「スロヴェニア社会民主連盟」を結成し、9月には共和国憲法を修正してユーゴスラヴィア連邦からの離脱権を明記した。
国際債権団は融資を条件にユーゴ連邦の自主管理制度を潰しにかかる
1989年3月にクロアチア幹部会員のアンテ・マルコヴィチが連邦首相に就任すると、IMFと世界銀行を中心とする国際債権団は、新自由主義市場経済を綱領化した「ワシントン・コンセンサス」に基づく国営企業の民営化などを含む「構造調整プログラム」の導入を求めた。マルコヴィチに託された経済政策はインフレの抑制と経済復興であったことから、彼は国際債権団の狙いがどこにあるかを深く考慮する余裕もなく構造調整プログラムを受容した。それからの国際債権団の行動は容赦がなく、後戻りが不可能な「ショック療法」を押し付け、自主管理制度の根底をなす「連合労働基礎組織」の公営企業での撤廃を要求。「企業改革政策法」を施行させて製造業の規制を撤廃し、公営企業の民営化を促進。「貿易機構の規制撤廃」で貿易を自由化させたために輸入品が氾濫し、国内の製造業は倒産が続出することになる。「金融運用法」で債務返済能力のない企業への融資を禁止させて、企業を破綻させた。次いで「外国人投資法」を施行させて、外国による投資を自由にさせ、「社会資本法」で公営企業を外国資本に売却することを合法化させた。「金融関係法」は、「組合銀行」を破産させ、銀行の民営化を促進させて「中央銀行-共和国と自治州の銀行-商業銀行」の三層構造を解体した。この国際債権団のショック療法によってユーゴ連邦の自主管理制度は骨抜きにされたが、この破壊的な経済政策に対して共産主義者同盟は有効な歯止めの役割を果たすことができなかった。
共産主義者同盟の解体は自主管理社会主義の消滅でもあった
国際債権団によるユーゴ連邦の自主管理社会主義解体工作が進行している最中の89年11月に、突如ベルリンの壁が瓦解する。すると、東欧の社会主義諸国は雪崩を打って制度を放棄した。この事件がスロヴェニアやクロアチアの民族主義者を一層刺激し、それに乗じた西側が社会主義的要素を潰滅させるための介入を強化したことが、ユーゴ連邦の共産主義者同盟の崩壊を早めた。89年12月に開いた共産主義者同盟中央委総会で1党独裁の放棄を決定し、翌90年1月に開いたユーゴ連邦共産主義者同盟第14回臨時党大会では、複数政党制を導入することによって政治的危機を打開しようとしたが、独立を目指しているスロヴェニア共和国とクロアチア共和国との対立は解けなかった。会場からスロヴェニア代表団が退場したことで、ユーゴ連邦共産主義者同盟は実質的に解体した。
複数政党制導入を先行させたスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の両国は、ユーゴ連邦内ではいずれも経済的に豊かであり、かねてから自らの富を連邦が搾取しているとの不満を抱いており、連邦から分離独立した方が得策であるという功利的な思考が両国では優勢となっていたからである。
民族主義政党が各共和国の政権を支配
1990年に各共和国において行われた複数政党制による選挙で、モンテネグロを除く各共和国は共産主義者同盟を名乗る政党を消滅させた。
90年4月に行なわれたスロヴェニア共和国の選挙では野党連合・DEMOSが勝利し、民族主義者のクチャンが大統領に選出された。同時に行なわれたクロアチア共和国の選挙では、民族主義を標榜する「クロアチア民主同盟」が勝利し、民族主義者のトゥジマンが大統領に選出された。11月に行なわれたボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の選挙では、ムスリム人の「ボスニア民主行動党」と、セルビア人の「セルビア民主党」、クロアチア人の「クロアチア民主同盟」の各民族を色濃く反映した政党が勝利し、幹部会議長(大統領)にはボスニア民主行動党のイゼトベゴヴィチが再任された。同11月に行なわれたマケドニア共和国の選挙では、やはり民族主義政党として再興された「内部マケドニア革命組織」が第1党となり、グリゴロフが大統領に選出された。12月に行なわれたセルビア共和国の選挙では、共産主義者同盟の後継政党である「セルビア社会党」が勝利し、240議席中の194議席を獲得し、党首のミロシェヴィチが大統領に当選した。モンテネグロ共和国議会選挙では、唯一共産主義者同盟の名称を残した政党が議席の3分の2を獲得し、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の盟友といわれたブラトヴィチが大統領に選出された。しかし、ブラトヴィチ大統領は98年に分離独立派のジュカノヴィチに追い落とされる。
共産主義者同盟が消滅した各共和国では、元共産主義者同盟の幹部だった者たちが中心なって結成した民族主義政党が議席の多数を占め、同盟幹部だった者が民族主義者として大統領に就いた。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟および連邦の各共和国が試行錯誤を積み重ねてきた自主管理社会主義は、共産主義者同盟の消滅とともに雲散霧消してしまうことになる。共産主義者同盟の消滅に伴い、列強の思惑に煽られた民族主義者たちが起こしたユーゴ連邦解体戦争は、悲惨極まりないものとなった。
<参照; チトー、カルデリ、パルチザン、コミンフォルム、ユーゴスラヴィア連邦>
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コミンテルンの後継組織としてのコミンフォルム
「コミンテルン」は1919年に結成され、ソ連のレーニンおよびスターリンによって主導されていた。しかし、第2次大戦中、ソ連が米英連合国からの軍需物資の援助を受けるようになったことから、ソ連指導部は連合国に配慮して1943年に解散した。
コミンテルンの後継組織としての「コミンフォルム(共産党労働者情報局)」は、大戦後の47年9月にソ連共産党、ユーゴスラヴィア共産党、ブルガリア共産党、ルーマニア労働者党、ハンガリー勤労者党、ポーランド統一労働者党、チェコスロヴァキア共産党、フランス共産党、イタリア共産党が参加して設立した。本部は、提唱者でもあり、独自の戦いで第2次大戦を戦い抜いた国として高い評価を与えられたユーゴスラヴィア連邦のベオグラードに置かれた。目的は、各国共産党の連携にあったが、綱領には「自由意思と相互了解の原則を踏まえて活動する」と規定されていた。実態は、ソ連指導部の政策を中核にした活動を各国共産党に要請すること、西側陣営との政戦に各国の共産党を動員して革命を宣伝することという、2つの機能を持たされていた。
ユーゴスラヴィア連邦を反ソ的として追放したコミンフォルム
第2次大戦後、ユーゴスラヴィア連邦はイタリアとの間で戦後処理の一環としてトリエステの領有権を争っており、さらにユーゴ連邦がギリシアの人民戦線派への武器援助を行っていたことが英・ソ間で結ばれた戦後秩序の秘密協定に違反する行為であったことから、ソ連はそれを停止するよう圧力をかけたもののユーゴ政府がこれに従わなかったことが底流にある。そして47年にはソ連指導部と事前折衝することなく独自にブルガリアとの「バルカン連邦」構想を提起した。これらのことがソ連共産党指導部の逆鱗に触れた。
ソ連指導部は、ユーゴスラヴィア共産党が「マルクス・レーニン主義から逸脱した修正主義路線を採用し、意識的な反ソ政策、民族主義に立っている」と非難。48年6月に開かれたコミンフォルム第2回会議で除名処分にした。全会一致で除名決議を採択した背景には、ソ連指導部のスターリンとモロトフのユーゴ共産党を断罪する各国共産党への書簡があった。書簡では、ユーゴ連邦指導部のチトー、カルデリ、ジラス、ランコヴィチを名指しで非難し、ユーゴ連邦内の修正主義者を排除する行動を起こすよう促していた。各国における独自外交は、反ソ的ないしは修正主義と位置づけられていたのである。
社会主義諸国は一致してユーゴスラヴィア連邦を敵対勢力として攻撃
ユーゴ連邦の指導部は、コミンフォルム追放を企図したソ連指導部の真意を図りかねていた。イタリアとのトリエステの領有権争いはユーゴスラヴィアの人民の居住地の帰属の問題でもあり、バルカン連邦構想は第2次大戦前に遡る28年に、ソ連指導部が「バルカン社会主義連邦」を実現するよう指示していたことを具体化するものだ、と捉えていたからである。
チトー・ユーゴ連邦首相は、コミンフォルム追放直後の7月に開かれたユーゴスラヴィア共産党第5回大会で、「わが党と中央委員会は全力を尽くしてソ連共産党との関係修復に努める」と語った。しかし、コミンフォルムがユーゴ共産党の弁明を顧慮することはなかった。それどころか、翌49年2月に設立した「経済相互援助条約・コメコン」からもユーゴ連邦は排除され、11月に開いたコミンフォルム第3回会議では、「帝国主義の手先」、「西側のスパイでファシスト的」などとの激しい非難がユーゴ連邦に対して浴びせられた。さらに、ソ連はユーゴ連邦と結んでいた「友好協力相互援助条約」を破棄し、経済封鎖を実行し、それに東欧諸国も追随した。社会主義圏の経済制裁は、ユーゴ連邦の経済運営に深刻な打撃を与えた。ユーゴ連邦と社会主義圏との原材料を含む貿易は輸出入とも51%を超えていたものが、50年にはゼロにまで落ち込んだからである。
社会主義諸国の制裁措置は政治や経済にとどまらず軍事的な敵対関係にまでおよび、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア国境での銃撃戦が頻発することになる。ユーゴ連邦政府の白書によれば、東側諸国との国境での衝突事件は2年間で896件にも上った。この敵対行為はユーゴ連邦に防衛費の増加という悪影響をもたらし、49年には制裁によって疲弊したユーゴ連邦のGDPの23%に達するほどの防衛負担を背負わせることになった。コミンフォルムとの軋轢は、第2次大戦で欧州戦線中最大規模の被害を受けたといわれるユーゴ連邦の復興に筆舌に尽くせない困難をもたらした。
西側はユーゴスラヴィア連邦を取り込むために借款を与える
西側諸国はこの事態を見逃さなかった。ユーゴスラヴィア連邦を西側陣営に引き込むことが可能だと見たからである。米国は早くも48年12月にユーゴ連邦の在米凍結資産5500万ドルの解除を行ない、翌49年には米輸出入銀行が2000万ドルの借款を与え、また世界銀行にも2500万ドルの融資に応じさせた。さらに米国は、50年12月に「対ユーゴスラヴィア援助法」を成立させ、52年には米・英・仏3ヵ国共同で9000万ドルの援助を与えた。コミンフォルムからの追放は、ユーゴスラヴィア連邦と西側諸国の関係を表面的にせよ深めることになった。
コミンフォルムのユーゴ連邦追放事件は各国の政治指導部の粛清にまで発展し、チトーに同調的であったルーマニアのバジル・ルカ、ポーランドのヴワディスワフ・ゴムルカ、アルバニアのコチェ・ジョジェ、ブルガリアのトライチョ・コストフ、チェコスロヴァキアのルドルフ・スランスキー、ハンガリーのライクなどが投獄や処刑の対象となった。ユーゴスラヴィア連邦内でもソ連派の共産党員とシンパを多数逮捕して裸の島の収容所に投獄するなど、相互に厳しい粛清が吹き荒れた。
スターリン死後の批判に伴ってコミンフォルムは解散する
53年3月にスターリンが死去すると、ソ連は対ユーゴ連邦との対立関係の緩和に努めることになる。55年にフルシチョフ・ソ連共産党第1書記はユーゴスラヴィア連邦を訪問し、コミンフォルムがユーゴ共産党を追放したのはスターリンの過ちであったと釈明した。そして、フルシチョフ第1書記は翌56年2月の第20回ソ連共産党大会における秘密報告でスターリン批判を展開。2ヵ月後の56年4月、スターリン批判の流れに沿ってコミンフォルムは解散された。
コミンフォルムは解散したものの、ユーゴ連邦を追放した偏狭な体質は、中国共産党の激しいユーゴ共産党修正主義批判として受け継がれた。57年のソ連10月革命40周年の際に出された12ヵ国共産党・労働者党の声明では、「各国共産党は一致して現在修正主義者たちによる理論の集中的表現である国際楽天主義が、ユーゴスラヴィア連邦でも発生していると弾劾する」との非難文が組み込まれた。さらに、60年に行なわれた81ヵ国共産党会議の声明には、ソ連共産党を「一般に認められた共産主義の前衛」、「偉大なるソ連」などの特別扱いした文言がちりばめられた。これはユーゴ連邦がソ連圏から分離してのちに編み出した自主管理社会主義制度を否定するためのものであり、ユーゴ連邦の目指す対等で相互に尊重する関係とはほど遠いものであった。このため、チトー・ユーゴ連邦大統領は死去するまでソ連指導部に疑念を抱き続けたこともあり、ユーゴスラヴィア連邦とソ連圏とのぎくしゃくした関係は永く尾を引き、89年に社会主義圏が崩壊するまで充分に宥和することはなかった。
<参照;チトー、カルデリ、ユーゴスラヴィア共産党、ユーゴスラヴィア連邦、 自主管理社会主義>
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コミンフォルム追放で孤立したユーゴスラヴィア連邦
第2次大戦はユーゴスラヴィアに甚大な被害をもたらした。犠牲者は170万人に及び、そのうち100万人は内戦による死者といわれる。人民戦線派のパルチザンは、ナチス・ドイツ同盟軍との戦いにとどまらず、ファシスト・グループ・ウスタシャ、王党派のチェトニクとの内戦を余儀なくされたからである。ともあれ、パルチザンが連合国からの軍需物資支援を受けられるようになったことによって、ユーゴスラヴィアは第2次大戦の勝利者となった。
戦後の1945年11月に行なわれた憲法制定議会選挙でヨシプ・ブロズ・チトー率いる人民戦線派が王党派を圧倒した。制憲議会は「46年憲法」を制定してユーゴスラヴィアの王制を廃止し、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」を建国してチトーを首相に選出した。ユーゴスラヴィア連邦が取り入れた社会主義制度は、当時の情勢からすれば当然ながらソ連の中央集権型社会主義であった。
1947年に設立された「コミンフォルム」は、提唱者でもあったことからユーゴスラヴィア連邦には特別な地位を与えられ、本部がベオグラードに置かれた。ところが、ユーゴスラヴィア連邦が戦後処理としてのトリエステの領有権をイタリアと争い、ギリシアの人民戦線派に武器援助をし続けたことは英・ソ間の密約を乱すものであった。その上、ブルガリアとの「バルカン連邦」構想を提唱して独自の外交を展開したことが、ソ連指導部の怒りを買った。それが社会主義圏とユーゴ連邦との対立へと発展し、48年6月に開かれたコミンフォルム第2回会議でユーゴ連邦は除名されてしまう。スターリンのソ連指導部には、社会主義諸国にソ連の覇権を侵害するような独自の政治的行為を容認しないことを認知させる必要があったからである。
のちにチャーチル英首相は、冷戦構造を煽り立てて第2次大戦後の世界情勢を不安定にさせた張本人であるにも係わらず、「ソ連政府は約束を一度も破らなかった」と述懐した内容には、このギリシア問題が含まれているとみられる。
英・ソの戦後秩序の密約を知らないユーゴ連邦は戸惑う
ユーゴ連邦の指導部は、ソ連の対応を理解しかねていた。イタリアとのトリエステの領有権争いは、ユーゴスラヴィア人民の居住地の処遇の問題でもあり、ギリシア支援は社会主義圏の拡大に寄与するとの思惑があったからである。バルカン連邦構想は、かつてコミンテルンがユーゴ共産党に「バルカン社会主義連邦」設立を指示していたことを具体化するものでもあった。チトーは直後に開いたユーゴ共産党第5回大会で、「わが党と中央委員会は全力を尽くして、ソ連共産党との関係修復に努める」と語った。しかし、チトーの思惑は顧みられることなく、社会主義諸国は49年1月に設立した「コメコン・経済相互援助条約」からもユーゴ連邦を排除したのみか、厳しい経済制裁を科した。さらに、49年11月に開かれた第3回コミンフォルムでは「反革命分子」、「裏切り者」、「西側のスパイ」などの敵意ある非難が浴びせられた上、国境紛争をも頻発させた。コミンフォルムからの追放は、戦後の復興の途次にあったユーゴ連邦を政治的、経済的、軍事的に困難な状態に陥れることになった。
西側はこの対立を、ユーゴ連邦を自由主義陣営に取り込む好機と捉え、米国は48年12月にユーゴスラヴィア王国時の在米凍結資産5500万ドルを解除し、翌49年には米輸出入銀行に2000万ドル、世界銀行に2500万ドルの融資を実施させた。さらに、52年には米・英・仏3ヵ国共同で9000万ドルの援助を与えている。ユーゴ連邦はこの西側の融資によって経済的破綻を免れ、これ以来西側の経済圏と借款に依存するようになっていった。
コミンフォルム追放を契機に自主管理型社会主義制度が創造される
コミンフォルムから追放されたユーゴ連邦は、必然的に社会主義体制の再検討に取りかかることになる。そこで創出されたのが、ソ連の中央集権型とは異なる民権型の労働者主権の自主管理社会主義である。ユーゴ連邦が自主管理社会主義を取り入れたのは、コミンフォルムからの追放が契機になったことは疑いないにしても、それが主要な理由ではない。ユーゴスラヴィア社会主義連邦の建国が辿った経緯が生み出したのである。第2次大戦中、チトーはパルチザン部隊の最高司令官としてさまざまな民族や階層からなる戦闘部隊を指揮した。その際、各地に組織されたパルチザンの要望をよく聞き入れて独自性を尊重し、一方的な指示を押しつけることはなかった。それが困難なパルチザン闘争を飛躍的に拡大させ、持続させた原動力にもなった。また、物資や装備の不足しているパルチザン部隊を、危険を顧みずに献身的支えた民衆の力を信じるに足ると捉えていた。この民衆とともにファシズムと戦ったときの経験の積み重ねから、民衆に実権を委ねるという民権型の自主管理社会主義が思考され、生み出された。チトーは、コミンフォルム追放後も党および行政機関の民主化を忍耐強く実施し、行政と企業が上下関係ではなく、有機的共生の関係に発展するよう心を砕いていた。連邦経済会議は、49年に自主管理の中核をなすことになる「国営企業における労働者評議会の設立と活動」なる通達を出し、「労働者評議会」の設置を促した。
自主管理社会主義は内発的な制度ではなく党主導型
ユーゴ連邦の指導部は50年6月、「労働集団による国家経済企業と上級経済連合の管理に関する基本法」、すなわち労働者の自主管理制度の端緒となる法制化を実施。第1段階として、製造業にのみ自主管理制度を導入した。法制化によって導入されても、自主管理制度が直ちに労働者一般に理解されたわけではない。自主管理社会主義は共産党主導の上からの改革として行なわれたものであり、労働者からの要請で導入した制度ではなかったからである。そこで、理論的提唱者であったチトーの側近のエドワルド・カルデリは、52年12月に連邦院で自主管理社会主義についての理論的な説明を行なう。カルデリは、ソ連型社会主義は国家資本主義だと喝破し、官僚およびテクノクラート機関は国家の政治首脳または国家装置の方を向いているので勤労者の利害に鈍感となる。だから労働者が主役となる自主管理社会主義でなければならない、と主張した。翌53年1月に憲法を改定し、自主管理社会主義制度をユーゴ連邦の国是と位置づけた。
労働者評議会を中核に置いた自主管理社会主義を制度として規定
「53年憲法」で自主管理制度は社会秩序の基盤であると宣言され、次のような条項が組み込まれた。「1,生産手段を社
会的所有とする。2,国家による企業管理を労働者集団による経営に移行する。3,経済管理を金融および財務によって行
なう。4,単一国家予算から各級行政レベルへの分権的予算とする。5,賃金は企業可処分所得の『労働者評議会』による分配制とする。6,国家優先の消費ではなく、消費者主権とする。7,市場メカニズムを導入する。8,農業集団化は中断し、個人所有を認める」と規定された。そして、自主管理制度の第2段階として鉄道、輸送、郵便、電信・電話、新聞、出版などの公共サービスの分野にまで拡張し、労働者評議会は職場あるいは部局単位にまで設置されることになる。
チトーはこの憲法を制定するにあたり、「官僚主義と国家管理は常にイディオロギーを独占しようとする試みと密接に結ばれており、やがて独善主義や溌剌とした創造的革命思想や実践を抑圧する基盤となる。これと対をなすものが、ブルジョワ・イデオロギーの悪影響や楽天主義、あるいは形成されつつある新社会の未熟な構造を破壊しようとする落ちぶれた無政府主義である」と述べた。この憲法で大統領制が採用され、チトーがユーゴスラヴィア連邦の初代大統領に選出された。
58年1月には「労働関係法」を制定し、企業長および経営委員会が所掌していた労働者の解雇の権限を、「労働者評議会」に委譲した。労働者集団の企業所得に対する裁量権も拡張され、生産物の売買にも裁量権が与えられた。
自主管理制度の主な組織と役割
労働者による自主管理社会主義は、基本的な制度としては労働者が企業経営に参画するところにあり、「労働者評議会」を30人以上の工場や企業に設置した。この労働者評議会が経営者となる「企業長」を選出し、企業の経営方針である「年次事業計画・中長期の事業計画、定款や労働規則や給与の決定」などの業務を担うという、ユーゴスラヴィア連邦独特の社会主義システムである。このシステムは3層構造をなしているとともに、循環型でもある。労働者集団が労働者評議会を選出し、労働者評議会が企業長を選出し、企業長が部門の責任者である部長級以上の経営担当者を任命し、ともに経営を運営して「労働者集団」に指示を与える。さらにその労働者集団が、労働者評議会を選出するというものである。
企業の自主管理制度における組織は、整理して再掲すると次のようなものとなる。
「労働者集団」は、労働者評議会を無記名投票によって選出する。企業の規模によって15名から120名が評議員となる。
「労働者評議会」;企業労働者の中から「管理委員会」を選出し、「企業長」を選ぶ。そして、企業の基本計画の決定、資本の投資計画、企業規則、報酬の決定、損益計算書の承認、労働関係について協議する。
「管理委員会」;労働者評議会が選出し、企業運営に関し、労働者評議会の決定を管理・実行システムによって具体化して実施する。労働者評議会への報告、企業長の業務内容の査証をすると同時に、企業の方針の共同管理も行なう。
「企業長」;部長以上の経営担当者を任命し、「経営委員会」を運営する。経済計画と経営計画の決定を行ない、経営計画の履行と企業経営の業務を担う。企業資金の裁量権限も持つ。
「経営委員会」;企業長を含む3名から11名で構成する。技術者や専門家集団など中間管理職を任命し、労働者集団に指示を与える。
連邦政府から共和国政府へ一層の権限を委譲
「63年憲法」では、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」を「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」と改称し、次の内容を盛
り込んだ。「1,連邦政府から6つの各共和国へ行政権限を委譲し、各共和国の権限を地域共同体に委譲する分権化を推
進する。2,中央政府の権限だった企業融資は、銀行に一部を委譲する。3,労働組織を自立させ、自主管理権を余剰労
働の分野にも拡大する」などの改定がなされた。企業の管理も工場労働者への徹底的な権限の委譲が行なわれるとともに、
行政システムも中央政府の直轄管理ではなく、共和国政府に権限を委譲し、共和国の行政権限も地方の自治体に権限を
大幅に委譲するという形がとられた。さらに、ユーゴ連邦共産主義者同盟の中央組織としての権限も、大幅に各共和国の共
産主義者同盟に移された。自主管理社会主義は、企業経営における労働者管理にとどまらず、政治システムにも自主的な
運営を目指す分権化が行なわれたのである。
「労働組織」;2つ以上の労働集団が労働力と資源を統合して形成する企業を意味する。この組織自体で、自律した労働者の自主管理組織となる。
「71年の憲法修正条項」は、「1,私的手工業者の所得は、個人的所有にある生産手段を持つ私的手工業者に帰属する。
2,資本家の所得は、資本を所有し、労働力を購買する資本家に帰属する。3,社会的資本の独占的所有者である国家の
所得は、経済的、政治的権力としての国家に帰属する。4,自主管理社会における労働者1人あたりの粗所得、または労働
集団の所得は、再び労働者の個人労働に基づいて個別の労働者に帰属する」とされ、民営化を認定するとともに、地域共
同体の役割を強化し、自主管理制度の基礎単位を細分化してより小さい単位で決定を行なうシステムとした。
「再投資資金改革法」が施行されると、資金の運用の権限は、連邦政府15.2%、企業が33.9%、銀行が50.9%の割合と
なり、銀行の役割を増大させた。この改革は、銀行経営に地方政治家や企業幹部の介入する余地が生じ、労働者の関与する比率が相対的に低下するという負の側面を内包させた。それに伴い、企業内における経営者、管理者および技術者などのテクノクラートの地位が上昇するようになる。労働者の関与を推進する一方で、銀行の役割が増大して金融資本の支配力が強化されることになったため、意図するところとは逆の現象が表れることにもなった。
「74年憲法」では、これまでの自主管理制度の弊害を是正する目的での改定が実施され、テクノクラートの権限を制約する
ための規定が盛り込まれた。中央政府の権限もさらに共和国に委譲し、コソヴォ自治州およびヴォイヴォディナ自治州にも
共和国と同等の行政権限が与えられた。「1,連邦政府の権限行使にも共和国の同意を必要とする。2,『連合労働法』を制
定して企業内部に『連合労働基礎組織・TOZD』の単位をつくる。3,自主管理組織の代表制度を取り入れて自治体の議
会には新たに社会政治院を設置する。4,教育、文化、医療の分野にも『自主管理利益共同体・SIS』を設置し、労働者が
主体的に関与する」ことが明確にされた。執行機関より議会の権限の強化が図られ、労働者、市民1人ひとりの自主管理権
を一層強化し、社会全体を自主管理の論理で構成することが推進された。
「連合労働基礎組織・TOZD」;労働上のひとまとまりを為している一事業部に設置された。労働者の基礎的な自主管理共
同体として、「1,企業の基本的な規定を作成。2,企業の共同収益の決定と分配を行なう。3,労働者間の関係の調整をする」など、労働者が自己の社会的、経済的権利、その他の自主管理を行使できる組織単位である。
「自主管理利益共同体」;直接利潤を生まない教育、文化、社会福祉、年金、障害者保険、住宅などの公共サービス分野
を対象に利益共同体が設置され、提供者院と利用者院で議会を構成する。
「地方自治体議会」;連合労働院・近隣共同体院・社会政治院の3院で構成する。自治州議会および共和国議会もこれと
同じ構成とした。連邦議会は、連邦院と共和国・自治州院の二院政をとっている。
分権化・民主化の理想が個別の利害に矮小化された自主管理社会主義
数次の憲法改定により、労働者の企業経営参加、政治参加が強化され、市場の自由化も図られ、企業経営者にも権限を付与し、労働者の仕事を中心とした基礎単位の重視などさまざまな改革がなされた。非中央集権化と自主管理制度の発展によって、自主管理社会主義が目指している複数の権力が存在し、民主的な社会主義、自由と平等の概念が並立しうる社会主義に近づきつつあるはずだった。しかし、この中央官僚の統制による弊害を避けるために採られた地方への分権化は、地方官僚の権限を強化することにもなった。そのため、各共和国や自治組織はユーゴ連邦全体を考慮するよりも、それぞれの自主管理組織の利益を追求することが優先され、採算を度外視して産業や企業を設立するなどの派生的現象を生み出し、連邦全般における非効率を助長することにもなった。
オイル・ショックはユーゴスラヴィア連邦に深刻な経済的打撃を与える
この間、第4次中東戦争を端緒とした、73年のオイル・ショックが世界経済を襲った。先進国は石油ショックへの対処として金融を緩和し、輸出攻勢によって切り抜ける対策を打ち出した。非産油国であるユーゴスラヴィア連邦は化石燃料の値上がりをまともに受けただけでなく、経済先進国の経済攻勢に曝され、貿易収支を極端に悪化させて借款を増大させるなどの深刻な影響を受けた。オイル・ショックは、ユーゴ連邦全体が平準化して受けたのではなく、コソヴォ自治州などの後進地域により深刻な経済的困窮をもたらした。連邦内の経済的先進地であるスロヴェニアおよびクロアチア共和国ではコソヴォなどの後進地域への補助を搾取と受け取るとともに、自主管理制度を忌避する考え方が広がって行く。この国情の変容は外部の干渉を容易にし、両共和国に民族主義を台頭させる事態を招くことになった。
経済危機をユーゴ連邦解体の好機と捉えた米国
西側は、この経済危機が社会主義体制を解体させるチャンスだと捉えた。78年にブレジンスキー米大統領補佐官は社会学会でユーゴ連邦の社会主義体制を解体させるために、「1,ソ連に対抗する力としてのユーゴスラヴィア中央集権政府を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的・民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。民族主義は共産主義より強力である。2,ユーゴ連邦の対外債務を増大させることは、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いられる。EC諸国は対ユーゴ連邦への新規信用供与を続けるべきである。3,Xディ(チトーの死)の後にユーゴスラヴィアの軟化に向け、組織的に取り組むべきである、民族間関係者が重要なファクターである」などと明示した。
Xディ(チトーの死)ののちに西側はユーゴ連邦に後戻り不可能なショック療法を押しつける
80年にチトー大統領が死去すると、国際通貨基金・IMFはブレジンスキーの方針に沿うようにして、81年にユーゴ連邦に新規融資の条件として「第1次経済安定化政策」の受け入れを求める。そして83年には、「第2次経済安定化政策」の受け入れを要請した。この経済安定化政策は、「ワシントン・コンセンサス」を基調とした新自由主義市場経済による、緊縮財政、規制緩和による外国企業の投資を推進し、国営企業の民営化を条件として融資するというものである。
このIMFが提示した経済安定化策はユーゴ連邦の実体経済に合わず、GNPを減退させ、物価は高騰し、実質賃金を著しく低下させた。また、貿易赤字が増加したために新規融資に頼らざるを得なくなり、債務の一層の増大をもたらした。西側のユーゴスラヴィアへの貸付は次第に規律をなくし、むしろ貸付を押し付けるようにもなっていく。分権化によって権限を与えられた共和国および銀行は、西側の融資条件の緩みに便乗する形で恣意的な借款を行ない、それが連邦全体の負債となって累積することになった。そのためユーゴ連邦の対外債務は、80年には168億ドル、81年には192億ドル、82年には185億ドル、87年には200億ドルに達した。借款の増大は80年代後半に凄まじいインフレーションをもたらし、経済先進地域のスロヴェニア共和国と後進地域のコソヴォ自治州の格差を7倍にまで拡大することにもなった。この経済的混乱は、中央連邦政府への遠心力として働いただけでなく、自主管理制度への求心力をも弱めることになった。
「88年憲法修正」は、行き過ぎた分権化による恣意的な外資借款が経済的混乱をもたらした事態を是正するために実施
した。連邦幹部会は、執行機関として迅速な対応を取りやすくするために6つの共和国と2つの自治州から各1名の代表で
構成することにし、共産主義者同盟を幹部会から外した。2つの自治州には、74年憲法によって共和国並みの権限が与え
られていたが、この権限を縮減する修正案が連邦政府から提案された。この自治州の権限縮減の修正条項をめぐって、スロ
ヴェニアとセルビアが鋭く対立することになる。
「ショック療法」で自主管理社会主義を新自由主義市場経済体制へ
89年3月、クロアチア人のアンテ・マルコヴィチが連邦首相に就任する。マルコヴィチ連邦首相に課せられていたのは、激しいインフレの克服とユーゴ経済の立て直しである。彼は連邦首相に就任するとすぐさまワシントンを訪問した。待ち受けた西側の国際債権団は、新自由主義市場経済の綱領となっていたワシントン・コンセンサスに基づく国営企業の民営化などの「構造調整プログラム」の受け入れを求めた。IMFの経済安定化政策および構造調整プログラムはユーゴ連邦の経済を立て直すものではなく、ユーゴ連邦の自主管理社会主義を解体させることを目的としていた。マルコヴィチ連邦首相は、借款団のその意図を見抜けず、国際債権団の要請を唯々諾々と受け入れた。
国際債権団は、すぐさま後戻り不可能な「ショック療法」に取りかかる。89年、自主管理制度の中核を為す「連合労働基礎組織・TOZD」の廃止と公共企業制度の撤廃を要求。「企業改革政策法」を制定させて製造業に対する規制を撤廃させ、電力・精油・石油化学工場などの公共企業の民営化を促進した。続いて実施させた「貿易機構の規制撤廃」は輸入消費財を氾濫させることになり、ユーゴスラヴィア国内の製造業は打撃を受けて倒産が続出した。IMFや世界銀行は矢継ぎ早に「金融運用法」および「外国人投資法」を施行させる。金融運用法は、債務返済能力がないと判定した企業を倒産させるものであり、外国人投資法は、外資が産業・金融・保険・サービス部門に無制限に投資することを可能とするもので、国際債権団によって破産宣告された企業を外資が恣に買収する手段を法的に保証した。
90年に施行させた「金融関係法」は、「組合銀行」の不採算企業への融資を凍結させるとともに、組合銀行そのものの閉鎖を促進させた。さらに、外資による「非銀行系の金融機関の仲介会社、投資管理企業、保険会社」を設立し、企業を整理するとともに外資の参入と売却を取り扱わせた。世界銀行は、ユーゴ連邦の7500の企業の内、2400の企業が不健全企業だと発表し、整理すべき対象企業を明示して外資による買収の先導役を果たした。その上で、ユーゴ連邦の「中央銀行-共和国と自治州の銀行-商業銀行」の三層構造を解体したことにより、融資を受け難くなった企業の倒産が続出した。
西側のショック療法はユーゴ連邦の社会装置を破壊
そのため、ユーゴ連邦の産業成長率は66年から79年までは曲がりなりにも年間7.1%の成長率を遂げていたのが、90年にはマイナス10.6%と激減した。89年には9万人の労働者が解雇され、90年には60万人が解雇された。IMFや世界銀行によるショック療法でユーゴ連邦の経済が掻き回されたため、連邦政府の予算執行は麻痺状態になり、公共企業に対する投資はもとより、社会福祉も実施不能状態に陥った。各共和国の政府や国民は連邦政府の無能をなじり、ユーゴ連邦への求心力は減退し、民族主義による煽動に乗りやすい状態に追い込まれていった。すなわち90年の段階で、国際債権団はユーゴ連邦の自主管理制度解体の目的をほとんど達成していたといえる。とはいえ、自主管理社会主義制度が崩壊したのは、この外部要因だけではない。内部にも矛盾を抱えていたが故に、そこにつけ込まれて自主管理者体制は挫折を早めたのである。
ユーゴにおける自主管理社会主義が挫折した内部要因
1,53年憲法によって規定された自主管理制度は、働く者を主権者と位置づけ、労働者があらゆる分野で主権者としての権利を行使することが可能なように憲法を改定し、法律を制定して労働者の権利の最大化を図った。行政権限も、連邦政府から共和国へ委譲し、さらにその権限を地方の自治体に委譲するという、社会全体を自主管理化するという方針のもとに進められた。63年憲法によって行政および企業への一層の権限委譲が行なわれると、公式のモデルで労働者に与えられることになった権利と実態の間には大きな乖離が起こった。共和国や自治体の指導者や企業長の経営陣などの権力が大きな影響力を発揮し、地方では「ミニ国家的」な官僚主義が優勢になり、地域エゴイズムによって地元企業を政治的に統制しようとする傾向が至るところで見られるようになった。
2,74年憲法では、53年憲法と63年憲法によって表れた自主管理制度の弊害を是正することが図られたものの、一方で徹底した分権化と民主化が進められた。共和国、自治体、銀行、企業には、財政政策、信用割当、外国為替、価格形成に関する自由裁量権が与えられた。地方政府はこの分権化を民主化と捉えるよりも、地域的な経済を発展させる方針を優先させたために地域内取引が増加して市場の分断化が起こり、ある地方で輸出した商品が、他の地方で輸入されるというようなことも起こった。
3,民主化は、手続き上の遅滞をきたすことにもなった。プロジェクトの提案が「連合労働基礎組織-労働組織-連合労働複合組織-労働共同体など20もの組織の検証を得るための意志決定に時間がかかり、時には7ヵ月間もかかるというようなことも稀ではなかった。手続きの煩雑さが、「オイル・ショック」などの経済危機に迅速に対処することを困難にした。
4,「連合労働基礎組織」は労働者の関与を深めるために設置されたにもかかわらず、労働者とトップマネージメントとの間を疎遠なものとしたため、却ってミドルマネージメントの権限を強化する働きをした。企業長は、ひとたび選出されて実権を握るとその権限を拡張させ、中央政府の指示を受け流し、地方政治家を取り込んで有力者に成り上がり、無駄な投資、資源の浪費、腐敗、経済の混乱をももたらした。借款は、見かけ上の経済を活性化させもしたが、欠損が連邦に付け替えられたことで連邦政府は貨幣の増刷と外資の借款で切り抜けるという対策を取らざるを得なかった。そのためにインフレが増進し、連邦政府の経済政策の自由度を低下させることになった。
5,連邦の経済計画と対立した分権化は、共和国単位、自治体単位、企業単位、銀行単位で利益を追及するという弊害が起こり、過剰設備や原料供給の見通しのないまま、理念を優先させて施設を建設するというような非効率な事態をも招いた。「①石油精製能力3000万トンの巨大な石油精製設備を建設したが、ユーゴ連邦の石油消費量は1500~1600万トンにすぎず、余剰能力は遊休設備となった。②クロアチアのアルミニウム精錬所は、原料のボーキサイトの供給の確保の見通しがないままに建設され、結局ボーキサイトが得られずに閉鎖した。③コソヴォ自治州の火力発電所は、燃料の石炭を供給できずに閉鎖した。④マケドニアの鉄、ニッケルの巨大な精錬所は、原料の鉱石の品質が悪いために非効率で閉鎖した。⑤砂糖工場は、原料のビートが供給できずに操業率は50%に低迷したため、需要を満たせずに製品としての砂糖は輸入せざるを得ない状態が続いた。」というようなことが頻発した。しかし、計画と権力を行使した官僚や政治家や経営者に法律上の権限と責任の規定が存在しないため、誰も失敗したプロジェクトの責任を負う者がいないという現象が起こった。
自主管理社会主義は未成熟な段階で崩壊
岩田昌征教授は、自主管理制度の欠陥は、企業の利潤が労働者の所得と未来への投資の両方を充足できない場合、所得への配分が優先され、未来への投資は借金によって賄われたために負債を増大させただけでなく、技術革新に遅れ、ひいては経済成長をそこなったと分析した。また、ユーゴ連邦の自主管理社会主義は、民権型ではあれやはり1党独裁の下で行なわれた上からの社会主義であることに変わりはなく、自己を支える確固とした経済構造つまり下部構造を完全に形成していなかったと指摘。その上で、試行を積み重ねたとはいえ資本主義の経験に匹敵するほどに、未だ十分に制度は試されたとはいえなかったと明示した。すなわち、真に民主的で効率的な社会制度としての自主管理型社会主義にはたどり着けなかったということである。
ユーゴスラヴィア自主管理社会主義を崩壊させた外部要因
1,ユーゴ連邦は、48年にコミンフォルムから追放され、社会主義圏との経済関係が断絶することになったため、経済的困窮に陥った。ユーゴ連邦としては西側との通商と借款に依存せざるを得なくなり、西側の経済政策の影響下に置かれただけでなく、金融による社会主義制度放棄工作の対象とされた。
2,第4次中東戦争を端緒として73年に始まったオイル・ショックはユーゴスラビア経済に深刻な影響を与えた。当時、ユーゴ連邦では自主管理制度の組み替えが行なわれていた。その自主管理制度の可能性を発揮する余地が与えられる間もなくオイル・ショックの混乱に巻き込まれたため、経済危機の克服の手段が見出せなかった。先進国はオイル・ショックを金融緩和と輸出攻勢によって凌ぐ政策を採用した。ユーゴ連邦はこの先進国の政策に巻き込まれ、貿易収支を悪化させると同時に借款による債務を増大させ、西側の金融による介入を容易にした。
3,78年、ブレジンスキー米大統領補佐官はユーゴ連邦の経済的混乱を好機と捉えてユーゴ連邦解体工作を明示して実施させた。80年にチトーが没した後、米英およびEC諸国はブレジンスキーの方針に沿うような政策をユーゴ連邦に押しつけた。そして、ユーゴ連邦内の民族主義者を煽って民族を分断し、IMFや世界銀行および民間金融機関の借款団の融資を通して経済をコントロールし、社会主義制度を内部崩壊に導く策を実行に移したのである。
4,IMFは、融資の条件に数次にわたる「経済安定化政策」を押し付けた。この経済安定化策は、ユーゴ連邦の自主管理型社会主義制度を新自由主義市場経済に導くために実行されたものであったから、ユーゴ連邦の経済活動は混乱に陥り、連邦政府の統治力を弱体化させた。
5,国際債権団は、89年にアンテ・マルコヴィチ・ユーゴ連邦首相が就任すると、後戻りが不可能な「ショック療法」を押し付けた。マルコヴィチ連邦首相はIMFの要請に従い、「ワシントン・コンセンサス」に基づく「政府支出の削減、通貨の切り下げ、賃金の凍結、自主管理制度の公営企業への廃止」に取り組まされることになった。さらに、国際債権団は自主管理制度の中核をなす「連合労働基礎組織」を廃止させ、「企業改革法」、「貿易機構の規制撤廃」、「金融運用法」、「外国人投資法」、「金融関係法」、などを矢継ぎ早に制定させた。
6,ユーゴ連邦の指導部は資本の冷徹な論理を見抜けないままに国際債権団のショック療法に翻弄され、弱点をさらけ出した。90年の時点で自主管理社会主義制度はほとんど形骸化していた。最終的に欧米諸国は、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニアのムスリム人勢力の民族主義を煽り、軍隊を訓練して武器を与え、戦闘を指導し、自主管理社会主義の残滓を擁すると見られたユーゴ連邦セルビア共和国を弱体化させた。
西側の干渉に脆弱だったユーゴスラヴィア連邦
ユーゴスラヴィアは、第2次大戦中の民族間の緊張が、大戦後も敵の残党に対する恒常的な争闘の雰囲気を内包しており、社会全体の連帯感を醸成することとはならなかった。社会主義連邦となってからも、6つの各共和国の境界をほぼ民族単位として踏襲せざるを得なかったことに見られるように、1度として1つの国民国家として位置づけられるまでに融合することはなかった。チトー大統領が大戦時の民族衝突を封印する方針を貫いたことによって、表面的には各民族は宥和し、民族間や宗教の違いに関わらず婚姻なども行なわれていた。しかし、対立を経験した者たちの中に民族主義はくすぶり続けていた。表面化しなかったのはチトーのカリスマ性が有効性を保持されていた限りであった。チトーが死去すると民族間の対立意識は、連邦解体を画策した欧米諸国による民族主義の煽動工作の前に脆弱性をさらけ出し、あたかも敵対民族であるかの如く対立を先鋭化させて、内戦へと雪崩れ込んでいくことになったのである。
ダイナミズムを欠いた社会主義諸国の制度
資本主義は経験を積み重ねてきた歴史を持つが、社会主義は経験に乏しく、すべて新しい制度そのものを作り上げていかなければならなかった。だとすれば、多様な社会主義の型が可能であり、理論的には社会主義国の数だけ社会主義の形体があり得るはずだった。ところが、ほとんどの社会主義国が硬直したソ連の一党独裁の中央集権型社会主義を取り入れた。ユーゴ連邦のみが一党独裁ではあれ、分権主義的な自主管理社会主義を生み出したのだが、孤立したまま試行錯誤を続けるしかなかったことが発展を妨げた。それぞれの社会主義国の中には独自の社会主義を生み出そうとする動きもあったが、そのたびごとにソ連指導部はそれを押し潰した。68年のチェコスロヴァキアの「プラハの春」への介入もその一つである。チェコスロヴァキアの市民はこのとき、党指導ではない市民主義的な社会主義を目指していたのだが、それが陽の目を見ることはなかった。このとき市民主義的なダイナミズムを取り入れた社会主義が生まれていたとすれば、社会主義にも新たなエネルギーが注入されたかも知れない。しかし、それが権威主義的な勢力によって押し潰されたために、硬直した社会主義がだらだらと続けられることになり、資本主義に匹敵するかそれを凌駕する制度が生み出されることはなかった。
ユーロ・コミュニズムと自主管理社会主義
フランス社会党は、71年に自主管理社会主義を目指すとの綱領を採択した。しかし、フランス共産党はコミンフォルムがユーゴ連邦を除名した際の当事者でもあったことから、ユーゴ連邦が採用した自主管理型社会主義に否定的な見解を拭えなかった。ようやく、79年の23回党大会で民主的自主管理的社会主義として綱領に入れた。またスペイン社会労働党は、76年の第27回大会で自主管理社会主義を目指すとの綱領を採択した。しかし、両国とも実際に政策として実行する機会を持つことはなかった。
ユーゴ連邦は、米・ソ2大陣営の狭間で自主管理社会主義と非同盟中立主義を貫いたのだったが、両陣営ともその国の独自性を認めることはなく、自陣営に引き寄せる対象としてしか扱われず、諸国のリベラル派ないし左翼的な知識人たちには好意的な関心を持たれつつも成熟することなく、一国に限定された壮大な実験に終わることになったのである。
<参照;チトー、カルデリ、コミンフォルム、ユーゴスラヴィア共産党、ユーゴスラヴィア連邦>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
非同盟諸国首脳会議は、冷戦下で東西両ブロックのどちらの陣営にも属さない、自主独立・中立主義の理念を掲げた国々の首脳が設立した国際会議であり、冷戦終結後も維持されて引き続き概ね3年毎に開催されている。
ユーゴスラヴィア連邦の独自外交
第2次大戦中、ユーゴスラヴィア王国はナチス・ドイツ同盟国に全土を占領された。これに対する抵抗組織として結成された「パルチザン」は困難な戦いを戦い抜き、ユーゴスラヴィア全土を解放した。大戦後の45年11月に行なわれた憲法制定議会選挙において、パルチザンを中核とした人民戦線派が過半数を獲得する。憲法制定議会は46年1月、いわゆる「46年憲法」を制定して正式に王制を廃し、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国を建国した。ユーゴスラヴィア連邦が採用した社会主義制度はソ連の中央集権型社会主義であったが、ナチス・ドイツとほとんど独力で戦い抜いたことから独自性も備えていた。そのため、戦後処理の一環としてのトリエステ領有権をイタリアと争い、ギリシアの人民戦線派の闘争を支援し、ブルガリアとの間に「バルカン連邦」構想を提唱するなど、独自外交を展開した。これがソ連指導部の怒りを買うことになる。ソ連指導部は、バルカン連邦構想はソ連の指導体制との間に溝をつくるものであり、トリエステ領有権の抗争は西側との関係の悪化を避けたいスターリンの思惑に反するものと捉えられ、たからである。
コミンフォルムはユーゴ連邦を反ソ的として追放する
ソ連指導部のスターリンとモロトフは、社会主義諸国にユーゴ連邦を糾弾する書簡を送る。その上で、48年6月に開いたコミンフォルム第2回会議で、「ユーゴ連邦政府は修正主義者である」との批判を浴びせて除名処分にした。ユーゴ連邦政府は、コミンフォルムの処置を理解しかねていた。トリエステの領有権争いは、ユーゴスラヴィア人民の居住地の帰属の問題であり、バルカン連邦構想は20年ほど前にコミンテルンが「バルカン社会主義連邦」設立を指示していたことの具現化だったからである。だから、チトーは直後に開かれたユーゴ共産党第5回大会において「わが党と中央委員会は全力を尽くし、ソ連共産党との関係の修復に務める」と語った。しかし、ソ連を頂点とした社会主義諸国がユーゴ連邦の思惑を理解することはなかった。それどころか、コミンフォルム所属の国々は、ユーゴ連邦を政治的除名処分にしただけでなく、社会主義諸国の敵対国と位置づけて経済制裁を科した。
コミンフォルムからの追放は、ユーゴスラヴィア連邦の政治・経済・軍事の運営に計り知れないほどの困難をもたらした。政治的には、それぞれの国の共産党が親ユーゴ・反ソ派の処分を厳しく行ない、ユーゴ連邦では逆に親ソ派の処分の嵐が吹き荒れたため、社会主義圏は大混乱に陥った。経済的には、制裁によってユーゴ連邦と社会主義圏との間にあった51%の貿易量がゼロにまで落ち込んだことから外貨不足に陥り、必要な物資を手に入れることさえ困難となった。この敵対関係は軍事面にもおよび、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリ、アルバニアが国境でユーゴ連邦との銃撃戦を頻発させた。ユーゴ連邦はこの国境紛争に対処するために防衛力を増強する必要に迫られ、49年の国防費をGDPの23%にも増額させた。
西側は、ユーゴ連邦が社会主義圏から経済制裁を受けたのを見ると、ユーゴ連邦を西側に引き込むことが可能と分析し、すぐさま多額の援助を始めた。
ユーゴ連邦は独自に「自主管理社会主義」と「社会主義的民主主義」および「非同盟運動」を採用
ユーゴ連邦は各国共産党との厳しい対立の中で、東西のブロック化およびソ連の中央集権型社会主義についての検討を迫られた。そこで、ユーゴ連邦指導部は「分権化された社会主義的民主主義」と「自主管理社会主義」および「非同盟主義」を政策の中核に置くことにする。チトーはユーゴ連邦が49年に国連安保理の非常任理事国に選出されると、「非同盟主義」を提唱した。当時は米ソ両ブロックによる冷戦が進行しつつあったことから、非同盟主義を提唱しても関心を呼ぶことはなかった。
1953年にスターリンが死去すると、ソ連指導部のユーゴ連邦への対応に変化は現れるが、社会主義圏全体では相変わらずユーゴ修正主義批判が飛び交うなど本質的な変化には至らなかった。他方、アジアとアフリカでは植民地からの独立運動が激化していた。冷戦が深刻化する中で、中立国や植民地からの独立を果たした新興国を含めた諸国は、連携する必要性を認識するようになっていた。54年に、コロンボのバンダラナイケ首相の主導でグループ5ヵ国がコロンボ会議を開いた。コロンボ会議の成功を見たチトーはアジア・アフリカ諸国の歴訪をし始め、ネルー・インド首相と会談して共同声明を発表するなど、アジアの首脳たちと会談を重ねて行った。
「コロンボ会議」「アジア・アフリカ会議」が「非同盟諸国会議」の先駆
翌55年、インドネシアのスカルノ大統領が主導してバンドンにおいて第1回「アジア・アフリカ会議」が29ヵ国の参加を見て開かれた。このいわゆる「バンドン会議」で「バンドン10原則」が採択される。その要旨は、「1,国連憲章と基本的人権を尊重する。2,領土保全、国家主権を尊重する。3,人種の平等と諸国家の平等の承認を確保する。4,内政への介入、干渉を控える。5,国連憲章に従い、諸国民が個別的、集団的に自国を防衛する権利を尊重する。6,集団的防衛機構を大国の特定の利益に用いず、他国に圧力をかけない。7,領土保全、政治的独立に対する侵略行為、脅迫、力の行使をしない。8,国際紛争は国連憲章に従い、交渉、調停、仲裁あるいは裁定のような関係国が選択する平和的手段で解決する。9,相互利益と協力を促進する。10,正義と国際的義務を尊重する」の10項目である。
非同盟諸国会議の始祖たちの尽力
バンドン会議を主導したのは、コロンボ・グループや中国などだが、後に非同盟の始祖といわれることになるインドのネルー首相、エジプトのナセル大統領、インドネシアのスカルノ大統領、ガーナのエンクルマ大統領、ユーゴスラヴィアのチトー大統領の5人も参加して積極的な役割を演じた。インドのネルー首相は東西ブロックについて、「ブロックに加盟すると、他国の意を迎えるために、一定の問題について自分自身の意見を放棄することになる」と否定的見解を述べ、「平和共存」を主張した。
アジア・アフリカ会議参加国の路線は必ずしも一致していたわけではないが、当時の世界情勢の中で共通の課題を内包しており、理念には通底するものがあった。世界は混沌としており、「冷戦構造とブロック化。相次ぐ植民地の独立と民族的平等の要求。諸国の権利の平等。内政不干渉。平和共存の欲求。富める世界と貧しい世界の両極化の進行。覇権主義の横行。新しい人類統合の理念の誕生。理念的外交の展開」などの課題が世界に渦巻いていた。この情勢の中にあって、東西両ブロックに属さない国々が、国家主権の尊重を掲げて発言する機会を求めていた。
チトー・ユーゴ大統領はバンドン会議後の56年から精力的に各国の首脳と会談し、非同盟諸国会議構想の実現化を見定めて行動し始めた。この年、エジプトのアスワン・ハイ・ダムの支援をイギリスとアメリカが打ち切ったことから、ナセル・エジプト大統領はダム建設資金を調達する手段としてスエズ運河の国有化を発表する。これに対し、56年10月に英・仏軍およびイスラエル軍がエジプトを攻撃して第2次中東戦争が起こされた。この時は米・ソが介入したことで、スエズ運河の国有化は認められた。このように、中東は不安定な状況下にあったが、ナセル・エジプト大統領とネルー・インド首相がユーゴ連邦を訪問。チトー・ユーゴ大統領とブリオニ島で3者会談を行ない、バンドン会議を評価する共同コミュニケを発表した。この3人が非同盟諸国会議の推進役となる。
57年にはホーチミン北ベトナム主席がユーゴ連邦を訪問して共同声明を発表。58年にはスカルノ・インドネシア大統領および首相が相次いでユーゴ連邦を訪問。59年、チトー・ユーゴ大統領は年頭から軍艦でアジア・アフリカ歴訪に出発し、アラブ連合、エチオピア、スーダン、インド、ビルマ、セイロンを訪れて首脳と会談した。60年には、スカルノ・インドネシア大統領とナセル・アラブ連合大統領およびネルー・インド首相がユーゴ連邦を訪問してチトーと会談。非同盟諸国会議の開催に向けて意見の交換を行なった。しかし、会談をかさねたものの非同盟の始祖たちの間における考え方は、独立闘争などをめぐり必ずしも一致したわけではなかった。
非同盟諸国首脳会議の歴史を開く
翌61年、内部の路線対立を抱えながらもチトーたちは、非同盟諸国首脳会議の第1回に当たる中立国首脳会議をベオグラードで開くところまで漕ぎ着けた。この会議でチトー・ユーゴ大統領は、「排他的なブロックの形成に反対し、植民地主義の撤廃、軍縮、未開発国に対する経済援助、中立国の国際政治への参加」を訴え、「非同盟の父」と称された。第2回会議は64年に開かれたが、当時のアフリカでは植民地からの独立を宣言する国が相次いでいた。チトーは、「非同盟は、民族間、国家間の積極的平和共存である。平和共存の政策が民族解放闘争を妨げるものとして批判するが、自由なくして平和がないことは明らかだが、平和なくして自由がないことも真実である」と、ヨーロッパに属した穏健派の立場で積極的平和共存を強調した。これに対し、スカルノ・インドネシア大統領はアジアおよびアフリカにおいて植民地からの独立を獲得する抵抗運動が激しく闘われていたことを重視する立場から、「軍事基地に取り囲まれ、経済侵略の基盤が築かれる中での平和共存などあり得ようか」と反論した。結局、積極的平和共存と抵抗運動支援との埋めがたい溝を止揚するには至らず、膨大な宣言文を残して第2回会議は閉幕した。
参加国の拡大ととともに路線の対立が激化
第2回首脳会議で顕在化した路線の対立は解消せず、第3回開催の見通しは立たなかった。この間、64年にベトナム戦争が始まり、67年には第3次中東戦争が発生してエジプトが危機に陥り、68年にはチェコスロヴァキアのプラハの春がワルシャワ条約機構に潰されるという事件が起こった。チトーはプラハの春への折衝に謀殺され、エジプト支援に手を染めながら、非同盟諸国会議の理論面での補強のために国際シンポジウムを開き、首脳たちとの会談も重ねた。しかし、非同盟諸国会議の始祖といわれた首脳であるインドのネルー首相が63年に没し、インドネシアのスカルノ大統領が65年に米国に支援されたスハルトの軍事クーデターで追放され、ガーナのエンクルマ大統領も66年の軍事クーデターで追放され、エジプトのナセル大統領は70年に急死した。非同盟諸国会議の指導者の始祖たちの中で残されたのはチトー・ユーゴ大統領のみとなったが、非同盟の理念を継承するための努力は続けられた。そして、6年の空白の後の70年に、ようやく第3回会議開催に漕ぎつけた。この会議では、状況を反映して南北の経済格差が中心議題となる。
73年の第4回会議は参加国が75ヵ国に増加したが、キューバのカストロ首相がソ連を非同盟の盟友と位置づけることを求めるなど、新たな主張が持ち込まれた。この盟友論はひとまず退けられたものの、カストロ首相はその考え方を放棄したわけではなかった。
第6回会議で再びソ連盟友論が持ち込まれる
79年の第6回首脳会議はキューバのハバナで開かれた。ベトナムはソ連の支援を受けてベトナム戦争に勝利したこともあり、キューバのカストロ首相とともにソ連盟友論を再度持ち込んだ。これに対してチトー・ユーゴ大統領は「我々は運動の初期から一貫してブロック政策、政治的、経済的覇権に反対してきた」とやんわりとそれを否定し、参加国の多くはそれを支持した。
翌80年5月にチトーが没し、非同盟の始祖といわれた5人がすべて姿を消した。非同盟諸国会議の当初の理念が薄められるのは避けられなかったが、ユーゴ連邦はシンポジウムを繰り返し開いて理論面を補強するなどの努力を重ねた。しかし、一方で非同盟の中心的課題だった平和共存を無視するような形で、米英両国にそそのかされて支援を受けたイラクがイランに戦争を仕掛けるという事態が起こされた。そのため、82年にバグダッドで開く予定だった第7回会議の開催は不可能となり、1年遅れの83年にインドのニューデリーで開かれることになる。
80年代の後半、ユーゴ連邦内部では、スロヴェニアとクロアチアから非同盟諸国会議がユーゴ連邦の国益に寄与したのかどうかの疑問が提起され、非同盟主義は外交ではなく内政向けだったのではないかとの批判が出された。89年に開かれたユーゴ連邦のベオグラードにおける第9回会議では、参加国が増大するにつれて煩雑になった手続きについて、宣言文書の簡素化、非同盟運動諸機関の合理化、非同盟運動における政策決定の方法の再点検がなされた。ドルノフシェク・ユーゴ連邦幹部会議長は、「今日の国際社会の変化は、非同盟政策および運動の目標と選択が、安全と公正な世界を求める人類の欲求に適ったものであることを証明している」と演説した。しかし、直後に東欧の社会主義圏が崩壊し、ユーゴ連邦でも共産主義者同盟が消滅し、ユーゴ連邦解体戦争が始まるという歴史の皮肉が生じることになる。しかし、兎にも角にも非同盟諸国会議は消滅を免れた。
創設者の一員である新ユーゴ連邦が参加資格の停止処分を受ける
92年の第10回会議では、ユーゴ連邦解体戦争およびイラク戦争の評価について紛糾した。ユーゴ連邦の内戦の評価は非同盟諸国内で分裂し、ボスニアのセルビア人勢力への非難決議が「最終文書」に盛り込まれる。そして、95年の第11回会議において、イスラム諸国の提起によって非同盟諸国会議創設の一員である新ユーゴ連邦(セルビアおよびモンテネグロ共和国で構成)の参加資格が停止された。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの参加もジンバブエの反対で実現しなかった。
98年の第12回会議では、東西ブロックの一方の米・英・仏・日などがゲストとしての参加を認められる中で、新ユーゴ連邦の参加資格の停止は継続された。かつてのソ連盟友論を退けた中立主義、平和共存など非同盟諸国会議の理念は薄れていくように見えた。
しかし、冷戦終結後もその理論的枠組みと思考は受け継がれ、06年の第14回会議では117ヵ国1組織にまで参加が増大し、チャベス・ベネズエラ大統領とアフマディネジャド・イラン大統領が参加して米国批判を繰り広げた。
09年の15回会議では、加盟国は118ヵ国1組織に増大していたものの、会議への参加は50数ヵ国程度の低調なものとなった。アフマディネジャド・イラン大統領とチャベス・ベネズエラ大統領が不参加だったこと、および米国にオバマ大統領が選出されたこともあって、米国への批判は影を潜めた。
非同盟諸国会議の提唱を無視し続けた東西両ブロック
冷戦時の東西両ブロック陣営は、当初は非同盟諸国会議を胡散臭い弱小国の集まりとしか評価しなかった。非同盟諸国会議の理念や宣言の内容の如何に関わらず、米・ソ両ブロックにとって「味方でない者は敵」という位置づけである。しかし、回を重ねるに従って参加国が増大すると、東西両ブロック間に微妙な変化が現れる。ソ連は、米国の対決路線による戦争の脅威を防ぐには非同盟諸国と社会主義が一致することが必要であるとして親和性を強調した。米国は非同盟諸国会議が反米的な姿勢を示しがちであることから冷淡な態度を採っていたが、やはり参加国が増大するのを見て非同盟諸国の首脳を米国に招いて対立を緩和させるようになる。中国はアジア・アフリカ会議のかねての主催国として非同盟諸国会議に対抗意識を持っていたが、「A・A会議」を開くことが望めないこと、さらに中ソ対立が長引いていたことがあり、ソ連への対抗意識から反覇権主義を掲げ非同盟諸国会議を評価して接近を図った。ヨーロッパのゲスト参加が増えたのは、参加国が100ヵ国を超えるまでになったためにバスに乗り遅れまいとの功利的な意識が働いたと見られる。
非同盟諸国運動の発展と展開
非同盟諸国運動は3期に分けられる。第1期は61年から69年までの運動の草創期で、基本姿勢についての対立があり、そのために6年間の停滞時期もあった。第2期は70年から78年までの非同盟運動の飛躍の時期で、加盟国も増加した。非同盟運動の原則と目的が確認され、民族自決権の擁護、経済的独立の重視、軍縮の促進、国連重視など国際政治・経済に影響力を行使しうるまでに成長した。第3期は79年から現在に至るまでの時期で、加盟国が100ヵ国を超えて国際社会への影響力も増大したが、同時に参加国間の見解や利害が対立し、統一見解の調整が困難になる。非同盟国間の軍事衝突であるイラン・イラク戦争、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争、インドおよびパキスタンの核保有などに対する見解の相違が影響を与えた。さらに先進資本主義国からの圧力があり、国際政治・経済の新国際秩序の成果を上げられないなど模索の時期だといえる。非同盟主義を一言で定義すれば、「平和共存・反帝国主義・反覇権主義・反新旧植民地主義、反人種主義、国家主権の平等」運動ということができる。
非同盟諸国会議の開催年次と「宣言文書」
第1回中立諸国会議・1961年9月1日~6日:開催地・ユーゴスラヴィアのベオグラード。
加盟国25ヵ国は、アジア・7,アフリカ・17,ヨーロッパ・1。 オブザーバー参加 3ヵ国。
第1回は中立諸国首脳会議として開かれたが、後に非同盟諸国首脳会議の第1回と位置づけられた。チトー・ユーゴ大統領は冒頭の演説で中立諸国会議の性格および目的について、「1,東西ブロックにさらに第3勢力をつくるものではない。排他的なブロックの結成に反対するものである。2,世界の運命は、ブロックを形成している彼らだけで決定できないことを認識させる。3,平和と世界の運命を危うくしている問題の解決に参加する権利のあることを確認する。4,中立諸国は、国連以外では最も権威ある討論の機関である。5,重要な国際問題に明確な態度を決定することによって、国際危機の緩和に貢献する。6,植民地主義の撤廃、軍縮問題、未開発国に対する経済援助問題、資源問題を討議する」と提示した。
第1回の参加国は、アフガニスタン、アラブ連合、アルジェリア、北イエメン、イラク、インド、インドネシア、エチオピア、ガー
ナ、カンボジア、ギニア、キプロス、キューバ、コンゴ、サウジアラビア、スーダン、セイロン、ソマリア、チュニジア、ネパール、ビルマ、マリ、モロッコ、ユーゴスラヴィア、レバノンの25ヵ国。
この会議で「ベオグラード宣言」および「最終宣言」、「戦争の危険と平和へのアピール」などが採択された。
「ベオグラード宣言」;「1,戦争を否定する。2,冷戦や世界大戦の唯一の代替物である平和共存原則を確認する。3,反植民地主義を推進する。4,民族自決権の原則。5,核廃絶を求める。6,核実験の禁止を要求する。7,軍縮を推進する。8,南北の経済的格差の縮減を求める」など27項目。
「最終宣言」;「1,世界平和は重大な脅威にさらされている。植民地主義、新植民地主義は根絶されなければならない。2,戦争ないし、冷たい戦争が不可避との見解を断固として拒否する。平和共存の原則だけが、冷戦ないし戦争に代わるものである。中立諸国はブロックをつくることを望んでいない。3,アルジェリアの戦いは正当である。4,チュニジアからのフランス軍の即時撤退を求める。5,南アフリカの人種隔離政策の即時放棄を求める。6,管理下での全面完全軍縮を求める。7,一切の核実験を停止する協定締結を求める。8,軍縮会議の開催を要求する。9,東西ドイツ問題は力によって解決すべきではない。10,中華人民共和国の国連加盟を求める」。
「戦争の危険に関する平和へのアピール」;「1,国際情勢の悪化と戦争の起こりうる可能性を遺憾とし、深く憂慮する。2,世界の平和と戦争の鍵を握る諸大国の代表者として、米ソ両首脳が直接交渉を始めるよう求める。3,平和のために献身する米ソ両首脳の努力は、不断の交渉を通じて現在の行き詰まりを打開し、世界が平和と繁栄のうちに生存できる道を開きうると確信する」。
首脳会議で採択した「最終宣言」は国連総会ならびに全ての国々に提供し、「戦争の危険に関する平和へのアピール」は親書として米ソ両国首脳に手渡された。ケネディ米大統領には、ナセル・エジプト大統領とケイタ・マリ大統領が米国を訪問して手渡し、フルシチョフ・ソ連首相にはネルー・インド首相とエンクルマ・ガーナ大統領がモスクワを訪問して手渡した。
第2回・1964年10月5日~11日:開催地・エジプトのカイロ。加盟47ヵ国、オブザーバー10カ国が参加。
この会議では平和共存を唱えるチトーと、反植民地主義・反帝国主義を唱えるインドネシアのスカルノ大統領とが対立した。溝は埋められず、8000語におよぶ最終宣言には「未独立国の解放、植民地主義および新植民地主義、帝国主義の廃絶のための統一行動」、「平和共存およびその原則の国際連合による法典化」を併記して両方の主張が盛り込まれた。首脳会議で採択された、平和と国際協力のための計画の最終宣言が発表される。
「最終宣言」;「1,植民地主義は無条件で、完全かつ最終的に廃棄されるべきである。2,すべての国際紛争は、平和的手段によって解決すべきである。3,植民地を持つ諸国が、住民の当然の願望に対し反対し続けるならば、植民地の人民は自決と独立の権利を行使するために武力に訴えることは正当である。4,キプロスは完全な主権、独立、自決の権利がある。5,すべての国は人類の平和と幸福のために、部分的核実験停止条約に参加し、規定を護るべきである。6,世界の諸大国が全面完全軍縮協定を締結するよう要請する。7,アフリカ、中南米、欧州、世界の諸大陸に非核武装地帯が設置されることを希望する。8,キューバへの経済制裁を解除し、グアンタナモ米軍基地の撤去を要請する。9,アデンにある英軍基地の撤去を要請する。10,オマーンにおける英国の植民地主義を非難する。11,中南米における新旧植民地主義を非難し、自決を呼びかける。12,アパルトヘイトを採っている南アフリカ共和国に対する制裁を要望する。13,国連総会が平和共存の原則に関する宣言を採択するよう勧告する。14,非同盟諸国はアジアとアフリカで植民地を領有しているポルトガルと断交すべきである。15,南ローデシアの白人優位政権が独立を宣言するようなことがあっても承認しないよう求める。16,インドシナに関する新たなジュネーブ会議を開き、ベトナムおよびカンボジア、ラオスの問題を政治的に解決するよう要請する。17,パレスチナ人民の帰還権、自決権を完全に回復すべきである。18,次回の国連総会で中国の加盟を認めるよう要請する。19,コンゴに、軍事的に介入している諸国に対して停止を強く要望する。20,どの国も他国の領土保全と政治的独立に対して脅しや力の行使をしてはならない。国際紛争は平和的手段によって解決されるべきである」。
第3回・1970年9月8日~10日:開催地・ザンビアのルサカ。加盟は54ヵ国。
第2回会議で顕在化した対立はしこりとなり、第3回首脳会議の開催は危ぶまれた。しかし、チトー・ユーゴ連邦大統領らの尽力によって6年を経て第3回首脳会議は開催された。会議では、「平和、自由、開発、協力、国際関係の民主化に関する宣言」および「非同盟と経済進歩に関する宣言」と「非同盟の役割」、「非同盟と国連」、「軍縮」、「人種差別」、「中東情勢」、「東南アジア情勢」など14項目の決議を採択。
「平和、自由、開発、協力、および国際関係の民主化に関する宣言」;
「世界情勢の分析・1,内政問題に他国が介入し、政治・経済的な圧力をかけ武力で脅かしている。2,中東、インドシナにおける侵略、また南アフリカ政権の人種隔離政策は人類史からして汚点である。3,富める国と貧しい国との格差は益々開いている」。
「非同盟政策」;基本原則・「1,世界平和の追求。2,人種差別主義に対する闘争。3,国際紛争の平和手段による解決。4,軍備拡張の停止。5,大国の軍事同盟条約に反対する。6,外国軍基地の創設に反対する。7,国連の普遍性とその強化。8,経済自立を目指し平等互恵原則に基づく相互協力」。目標・「1,完全な相互連帯を実現する。2,軍事同盟の解消。3,国際平和を守る。4,全世界各国の平等を確立する。5,世界経済の構造を早急に変革する。6,国連を強化する努力を継続する」。
第4回・1973年9月5日~9日:開催地・アルジェリアのアルジェ。加盟は75ヵ国、オブザーバー24ヵ国、ゲスト3ヵ国。
「政治宣言」、「経済宣言」、「中東宣言」、「南アフリカ宣言」、「アルジェ宣言」、「経済協力のための行動計画」を採択。
「政治宣言」;「1,緊張緩和の兆しはあるが、外国の支配、帝国主義、シオニズムに直面している。力の政治、植民地主義
者の戦争、南アフリカ共和国の人種隔離、経済的搾取、略奪が続く限り、平和は原則的・規模的に限られたものとなる。2,
世界は富める国と持たざる国に分割されており、真の独立は国家資源を自らの手に収めることである。3,米国のカンボジ
ア爆撃を非難する。ベトナム和平のパリ協定を尊重するよう米国に要求する。4,政治的、経済的、軍事的圧力を拒否す
る。5,力の政治と人民の正当な願望が衝突している紛争の平和的解決には、断固たる行動を取る。6,国家主権の尊重、
領土保全の原則遵守。紛争の平和的解決。7,米国および各国のイスラエルへの軍事、経済援助の停止。8,イスラエルの
占領地からの撤退。9,ポルトガルの植民地戦争を支援している米・英・仏・西独などNATO諸国を非難する。10,韓国から
の外国軍の撤退。11,完全軍縮と核兵器の全面禁止。12,核実験の全面禁止。13,世界軍縮会議の招集を要請する。1
4,民主主義と平等に基づく国際関係の確立」などを採択。
「経済宣言」;「1,天然資源を国有化する。国内における経済統制の権利を確立する。2,内政不干渉の原則と民族自決の
権利を侵害している多国籍企業を糾弾する。3,先進国の国益のための経済秩序の恒久化を糾弾する。4,通貨、貿易の
取り決めに、発展途上国の考え方を入れることを求める。5,中南米、アジア、アフリカ、中東の各国は、強要された条約や
協定を廃棄するための努力に協力をする」。
「アルジェ宣言」;「新植民地主義」について言及。
「経済協力のための行動計画」;文書を国連事務総長に提出し、国連総会で「新国際経済秩序樹立宣言」を採択する。
第5回・1976年8月16日~20日:開催地・スリランカのコロンボ。加盟86ヵ国。
この会議ではカストロ・キューバ首相など「急進派」が発言力を強め、非同盟諸国と社会主義陣営を対決させてはならないとソ連盟友論を主張。チトー・ユーゴ大統領は「非同盟をイディオロギーのオプションとは考えない」と否定した。第5回非同盟諸国首脳会議は、「政治宣言」、「経済宣言」および「行動計画」と「地域政策」など28の決議を採択。
「政治宣言」;「序論・非同盟は、国家と国民の真の独立、国際関係の民主化を促進し、平和、正義、平等、国際協力の条件
つくりの最も強力な要素の1つである」。
「非同盟政策とその役割」・「1,非同盟加盟国が基本的性格を維持するため、その諸決定を完全に尊重する必要がある。2,非同盟諸国は、世界の紛争は不可避ではないと考える。新たに独立した諸国は、緊張緩和国際平和に重要な役割を果たしている。3,非同盟運動は世界を敵対ブロックや勢力圏に分割することを防いでいる」。
「国際緊張緩和」・「1,国際緊張緩和は限定的で、侵略、介入、人種差別、シオニズム、経済搾取が発展途上国にある。2,国際緊張緩和は、力の均衡、勢力圏、パワーブロック間の対決、軍事同盟、軍拡では確保されないことに留意する」。
「ベトナム、カンボジア」問題・「南部アフリカ」問題・「南アフリカ」問題・「インド洋平和地域の提案」問題・「軍縮」問題・「通信社連合」問題。
「経済宣言」;「1,新国際経済秩序の樹立は政治的最重要事である。2,天然資源の国有化は国家の安全保障、主権を守る。3,発展途上国、内陸国、島国などの債務は許容できない水準に達している。4,主要国の軍縮は将来、先進国と途上国の格差縮小に貢献する。5,工業化は、途上国の社会、経済的進歩のための手段だが、制度上の是正が必要である。6,食糧生産に対する借款等財政投資は、無償ないし緩やかな条件で後発途上国に提供されるべきである。7,途上国の経済問題解決には新たな普遍的、平等な通貨制度の確立を必要とする。①開発の財政的必要と自動的に結合した流動性を創出する。②通貨制度の意思決定に、途上国の正当かつ平等な発言権を保証することが緊要である。8,生産国・輸出国連合などを設立し、途上国の発展を達成する。9,財政、技術、貿易などの分野での集団自助の精神で新国際経済秩序を創出する」。
「経済協力のための行動計画」;
「貿易・1,生産者連合の結成。2,緩衝在庫金融のための共通基金の創設」。
「通貨、金融協力・途上国通貨による決済、支払制度の拡大」。
「生産・農業開発国際基金・AFADの即時設立と、年内運用開始を保証するための積極的かつ持続的努力をする」。
「各種サービス・1,非同盟諸国商業銀行連合を設立する。2,非同盟諸国通信社連合定款案の早期完成を図る」。
第6回・1979年9月3日~9日:開催地・キューバのハバナ。加盟90ヵ国・3組織、オブザーバー12ヵ国、ゲスト8ヵ国。
第6回以降の新たな正式参加国は、エクアドル、コロンビア、セントルシア、バヌアツ、バハマ、バルバドス、ベリーズ7ヵ
国。非同盟主義を異端視し続けたヨーロッパの正式参加国は、ユーゴ連邦、キプロス、マルタの3ヵ国のみだったが、オブザ
ーバーとしてオーストリア、スペイン、フィンランド、スウェーデン、スイスなど9ヵ国が出席するようになる。
急進派のカストロ・キューバ首相およびベトナムの代表団がソ連を非同盟諸国の固有の同盟国とすることを再び提案したが、チトー・ユーゴ大統領は「ブロック政策」に反対し、「ソ連盟友論」を退ける。エジプトがイスラエルと単独で関係を修復したことに対して、加盟資格停止についても特別委で検討したが、資格停止には至らず。カンボジアの政府代表権については特別委で検討することになり、持ち越しとなる。
首脳会議は徹夜で「最終宣言」を取りまとめ、原則および目的を採択。次回開催地をイラクのバグダッドに決める。
「最終宣言」;「原則・1,民族独立、民族自決、領土保全、国家主権、主権の平等、自由な社会的発展を進める。2,非同盟
諸国は軍事ブロックから独立する。3,帝国主義、新旧植民地主義、シオニズムを含む人種主義、外国の占領と支配、覇権主義に対する闘争を続ける。4,積極的な平和共存を図る。5,内政・外交問題への不干渉を求める。6,経済的、社会的、文化的発展を追及することができる自由を追及する。7,新国際経済秩序と平等を基礎とした国際協力を発展させる。8,人権と基本的自由を尊重する。9,恐怖の均衡を拒否する。10,天然資源に対する恒久的主権を要求する。11,国境線は不可侵である。12,紛争の平和的解決を求める」。
「目的・1,非同盟諸国の民族独立国に対する内政・外交への干渉・介入を排除する。2,非同盟の強化・拡大を図る。3,帝国主義、覇権主義、新旧植民地主義を廃絶する。4,民族解放運動を支持する。5,国際緊張の緩和と平和安全を擁護する。6,核軍拡競争の終結と全面・完全軍縮の達成を要請する。7,発展途上国の開発の促進、飢餓、貧困、疾病、文盲の除去に協調を求める。8,諸国家の平等と人権および基本的自由に基づく国際関係の民主的システムの確立を求める。9,大国主導下の軍事ブロックに反対し、その解体を要求する。10,外国軍の基地撤去および撤退を要請する。11,各国間の文化的協力の促進を求める。12,国連の強化に尽力する」。
第7回・1983年3月7日~12日:開催地・インドのニューデリー。加盟101ヵ国、オブザーバー10ヵ国、ゲスト10ヵ国が参
加。
第6回から第7回の間に、ソ連のアフガニスタン侵攻およびイラン・イラク戦争が起こされた。そのため、82年にイラクのバグ
ダッドで開く予定だった第7回会議は、1年遅れてニューデリーで開催することになる。この首脳会議で主要な課題となったのは、カンボジアの代表権問題、イラン・イラク戦争、アフガニスタン戦争である。
ホスト国のガンジー首相は、「非同盟の本質である、反帝国主義、反植民地主義、そして民族独立を支持する。イラン・イ
ラク両国に対し悲劇的な戦争を停止するよう求める。アフガニスタンの速やかな正常化を希望する。人類は核戦争による絶
滅の危機に遭遇している」と述べ、さらに「1,国際民主化の促進ならびに新国際経済秩序を導入する。2,開発のための財
政金融に関する国際会議を開催する。3,非同盟諸国の集団的自立を堅持する」の3点を提案し、非同盟5原則「主権・領
土保全、不侵略、不干渉、平等・互恵、平和共存」に対する不断の信念の確認を求める演説を行なった。
首脳会議では、「ニューデリー・メッセージ」、「政治宣言」、「経済宣言」を採択する。
「ニューデリー・メッセージ」;「1,世界は不安定で、国際経済は不平等であり、軍拡競争が激化し、大国は地域紛争に介入し、核戦争の脅威は深刻である。2,平和と軍縮、開発が今日の中心課題である。平和は公正と平等を基礎としたものであるべきである。3,大国に対し、軍備競争を停止するよう呼びかける。4,核大国は世界の人民の声を聞くべきである。核戦争防止のための緊急かつ現実的な方法を採る。核兵器の製造および配備を禁止する。現在の軍備制限協定を遵守し、国際査察の下で核軍縮を含む完全軍縮につながる交渉の道を探る。5,経済危機はその性質、広がりにおいて、真に全地球規模で、多くの国が破滅のふちに追い込まれている。多数の途上国が莫大な国際収支赤字、累積債務、交易条件の悪化に苦しんでいる。6,経済危機は現行の経済システムの不適切さを示し、南北包括交渉が必要である。7,世界経済を回復し、成長路線に戻すための緊急手段を講じること。発展途上国の債務問題を開発に影響を与えない形で解決すること。8,開発のための通貨金融国際会議を即時開催し、国際金融制度を包括的に改革することを提案する。9.パレスチナ人民の民族主権国家を回復する。ナミビアの独立など緊急の課題に真剣に取り組む。中南米問題、東南アジア問題、南西アジア問題、南アフリカ問題など緊急を擁する政治課題を解決する努力を要請する。10,非同盟運動は、帝国主義、植民地主義などと闘う力であり、東西ブロックと距離を保ち、国際問題解決に建設的貢献を行なう。11,緊急課題の解決に向けて38回国連総会にすべての国の最高首脳が参加することを要請する。12,核大国に対し、不信と疑念を放棄し、相互に信頼の精神を抱き真剣かつ前向きの交渉に従事し、軍縮問題解決への理解に到達すること。深刻化する経済危機から脱出する道を見出すことを求める」。
「政治宣言・27章」;「1,非同盟の役割・非同盟運動の強化が、帝国主義抑圧、植民地的支配と搾取の構造から独立・平等・正義・協力と発展へ変革する上で重要な位置を占めており、非同盟運動の統一と団結が現在の国際的危機下でますます必要となっている。2,核兵器の時代における軍縮・核軍縮はモラルではなく人類生存の問題である。核保有国は脅し、製造、開発、蓄積、配備の凍結を要求する。3,中東・イスラエルは、67年以来占領下にあるすべてのアラブ領土からの撤退を要求する。イスラエルの戦争犯罪を裁く国際戦犯法廷を設置する。4,アフガニスタン・外国軍隊の撤退を基礎とする政治解決と、独立、主権、領土保全、非同盟の地位を完全に尊重する。5,カンボジア・すべての外国軍隊の撤退と東南アジアの緊張を緩和する。同地域の全ての国の主権、独立、領土保全を保障する。6,朝鮮・72年の南北共同声明に述べられた自主的、平和的統一、民族大団結の原則に基づき、朝鮮半島の平和統一の達成を求める。7,インド洋・米ソ両国がインド洋から軍事配備を削減、消滅させるための交渉を再開するよう呼びかける。8,ナミビア・南西アフリカ人民機構・SWAPO指導下のナミビア人民に連帯を表明し、解放闘争に物心両面の支援を与える。9,中米・エルサルバドル政府と左翼ゲリラが前提条件なしに直接交渉をするよう要求する。ニカラグアへの脅迫と侵略行為を非難し、米国に対し、中米政策で建設的立場を採るよう求める」。
「経済宣言・33章」;「1,経済危機:経済危機は、発展途上国のGDPが低下して累積債務が増大し、利子負担額が増加しているのは現在の不公正な世界経済システムの構造的不適応の徴候である。2,緊急対策計画:通貨・金融問題と資金の移転、貿易と原材料、通貨と開発融資に関する国際会議の開催を求める。3,最低開発諸国問題:先進諸国の政府開発援助ODAをGNPの0.7%に達成させる。4,累積債務の処理:途上国債務の繰り延べ交渉のための包括的、公正な枠組みを確立する。最貧国の債務の解消、国際金融体制、開発のための通貨金融国際会議を開催するよう求める。5,南北包括交渉:南北間の経済問題を国連の場で解決することを目標とする、南北包括交渉を84年に開始させる。6,南南協力:途上国銀行を85年までに創設するため、77ヵ国グループによる専門家協議を支持する。非同盟科学技術センターをニューデリーに、多国籍企業に関する情報センターをハバナに設置する。関税引き下げ、途上国間の貿易交渉を早期に開始する」。
第8回・1986年9月1日~7日:開催地・ジンバブエのハラレ。加盟101ヵ国、オブザーバー10ヵ国、ゲスト13ヵ国が参加。
非同盟諸国会議が開かれて25周年になることから、「25周年記念宣言」を採択し、「政治宣言」、「経済宣言」および「南アフリカ特別宣言」、「ナミビアの即時独立に関する特別アピール」、「集団的行動強化のためのハラレ宣言」、米ソ両国にあてた「軍縮に関するハラレ・アピール」を採択。 「南南協力委員会」の設置も決める。
ムガベ会議議長は、もしも非同盟運動がなかったら世界は敵対的な2つのブロックが対決するサッカー競技場のようなものになっていただろう。非同盟運動の最大の成果は第3次大戦の阻止に寄与したことであると演説。シナン・ハサニ・ユーゴ連邦大統領は、「非同盟運動が目標としてきた、平和共存、民族解放運動支持、集団的軍事ブロック非加盟、大国との二国間軍事同盟不参加、軍事基地不供与」が国際的にも認められ、非同盟運動が重要な道義的・政治的力にまでなっていると評価する演説を行なう。
「25周年記念宣言」;「1,過去25年間非同盟運動は軍事ブロックの拡大を防いだ。2,諸民族の民族自決権を守り、拡大し
た。3,国連その他の場で平等な国際協力、対話を推進した。4,新しい公正かつ民主的な世界秩序を樹立するための歴史的使命を果たすという挑戦に耐えられる力を付けてきている。5,21世紀を展望しつつ、次の世代を戦争と貧困の苦しみから救うために、平和と協力の時代を開始する」と宣言。
「政治宣言・35章」;「1,非同盟運動・非同盟政策の精髄は、反帝、反新旧植民地主義、反アパルトヘイト、反人種主義、反シオニズム、反覇権主義、反大国主義、反ブロック闘争である。2,国際情勢・非同盟諸国と開発途上国はますます危機的な経済情勢に直面し、先進国との格差は拡大している。一方、非同盟の政策、原則、目標が国際関係における積極的非ブロック的・自主的・世界的な要因であることを正当化する。3,軍縮と国際安全保障・核兵器は戦争の用具以上のものであって大量殺戮の道具である。核軍縮は単なる道義上の問題ではなく人類が生存するか否かの問題である。核戦争阻止と核軍縮のための諸措置を即刻講ずることは最大の緊急事である。4,危機の焦点・南アフリカ政府のアパルトヘイト体制と多数派黒人の要求を妨げていることを非難し、民族解放運動を支援する。5,カンボジア・外国軍撤退による包括的な政治的解決を求める。6,朝鮮半島の平和的統一のための努力を支持する。7,アフガニスタン・外国軍の撤退と独立、主権の尊重による政治的解決を要求する。8,パレスチナ・パレスチナ解放機構・PLOをパレスチナ人民の唯一、正統の代表として確認する。中東和平会議の開催を求める。9,キプロス・トルコ軍の撤退を要求する。10,ニカラグア・独立保持の闘争への連帯を表明し、コンタドーラ・グループの和平イニシャチブを歓迎する。11,チリ・人民の自由と基本的人権の回復への連帯を表明する。12,国際テロと解放闘争・すべてのテロ行為を非難するが、南アフリカ、パレスチナなどの解放運動の自決と独立の権利は承認されなければならない」。
「経済宣言」;「1,新国際経済秩序の確立に向け政治的南北対話の必要性を主張する。2,通貨、金融システム・開発途上国の対外債務は1兆ドルに達した。IMFの特別引き出し権の今後2年間の特別割当による150億SDRの途上国向け割当て増加などを要求する。3,債務問題の共同責任・債務国、債権国、国際金融・銀行が参加する政治的対話を要求する」。
「南部アフリカ特別宣言(南アフリカ・ナミビア)」;「1,国連憲章に基づく南アフリカへの制裁措置・『①技術移転の禁止。②
石油および石油製品の禁輸。③新規投融資、政府保証による信用供与の中止。④南ア貿易奨励策の中止。⑤南アとの
航空機、船舶による交通の停止。⑥南アの農産物、石炭、ウランなどの輸入禁止。⑦文化・科学協力協定の効力の停
止。⑧クルーガーランド金貨の販売禁止』」。「2,対南ア全面制裁に反対している米・英・西独・日諸国に圧力をかけるよう
求める。3,侵略、植民地主義、アパルトヘイトに対する抵抗行動の特別基金を設立する。4,米国は、ナミビアとアンゴラ
からのキューバ軍の撤退を結びつけてこじらせる政策を放棄するよう求める」。
「軍縮に関するハラレ・アピール」;「核軍拡競争の加速化、核戦争による人類の自己破壊という未曾有の危機を憂慮し、第1回非同盟首脳会議でも米ソ両首脳に戦争の危機の除去について訴えたことを想起し、両首脳の責任と権限の重大さを指摘する。予定されている米ソ首脳会談では、核実験の永久的モラトリアムについて先ず合意するよう断固たる決意で臨むこと。宇宙空間における軍拡をストップさせるべきである」。
第9回・1989年9月4日~7日:開催地・ユーゴスラヴィアのベオグラード。加盟102ヵ国、オブザーバー19ヵ国。
第9回のゲスト参加国は20ヵ国で、初参加したゲスト国は、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、ブルガリア、東ドイツ、カナダ、ノルウェー、ニュージランドの8ヵ国。
首脳会議は、「ベオグラード宣言」および「政治文書」、「経済文書」を採択。
「ベオグラード宣言」;「1,世界の政治情勢は改善されたが十分ではない。経済的緊急課題、特に発展途上国の要求が満たされる必要がある。2,完全軍縮、大量破壊兵器の軍縮は緊急課題である。巨大な軍事支出と深刻な貧困は、軍縮と発展の間に相互関係がある。3,軍事ブロック間の対立の脅威は減少したが、安定的平和に入っていない。4,地域紛争などの長期紛争は外部勢力の影響および介入で悪化した。5,新経済秩序は依然困難だが、有効なゴールである。6,非植民地化のプロセスは成功裏に終結しつつある。7,南アフリカのアパルトヘイト撤廃を目指し、経済制裁を強める。8,非同盟運動は次の優先課題に準じて活動する『①永続的、安定的平和が達成されるまで、平和、軍縮などについて論争の努力を続ける。②経済的分野において先進国と建設的、生産的な対話を行なう。③植民地や外国の支配下に住む人々の自決権と独立権への支持を再確認する。④実行可能で環境的に健全な開発を保障する共同施策、世界的協定を要望する。⑤個人が、市民的、政治的、経済的、社会的、文化的諸権利を享受する権利を有することが非同盟運動を鼓舞する源泉となる。⑥国連が真の国際的民主的機関として活動できるよう貢献する』」。
「政治文書」;「1,安全保障と軍縮・米ソ両国による史上初の中距離核戦力全廃条約を、完全軍縮への第1歩として歓迎する。2,中南米・カリブと中米首脳の和平合意・ニカラグアに関するテラ合意を支持し、恒久的和平達成の努力継続を呼びかける。3,南アフリカ・南ア政府が89年9月に実施した人種差別選挙を強く非難する。南ア人民の解放闘争を支持する。4,パレスチナ問題・英雄的インティファーダと勇気、ならびにイスラエル占領下の祖国解放の決意に連帯と支援を表明する。5,アフガニスタン・ソ連軍の撤退完了を歓迎する。アフガン難民の安全な自発的帰国の条件つくりの必要性を強調する。6,朝鮮・南北統一による相互信頼と和解の進展を希望する」。
「経済文書」;「1,債務・発展途上国の累積債務は1兆3200億ドルと、国民総生産の半分に達する。公的債務については債権国政府、国際金融機関が直接的な関与をする必要がある。最貧国については債務の帳消しと低利の新規融資が必要である。金利低減と期間延長、債務返済額を輸出収入の一定比率とするなどの措置が必要である。2,開発資金・先進国の政府援助は公約の0.7%に達していない。先進国からの投資を促す。3,南北サミット・国際経済について、首脳レベルでの南北協議を定期的に行なう。4,南南協力・非同盟諸国を含む途上国間の経済協力を推し進める。5,最貧国・1次産品価格の低下と累積債務で、最貧国の発展は完全に阻害された。先進国はGNPの0.15%を最貧国援助に回すべきである。6,環境・世界的規模で環境悪化が続いている。途上国で顕著だが、それは貧困が原因である。環境保護を考慮した開発戦略の採用が求められる」。
第10回・1992年9月1日~6日:開催地・インドネシアのジャカルタ。
加盟108ヵ国、オブザーバー14ヵ国、ゲスト18ヵ国、国連組織・8,非国連組織・5が参加。
第10回首脳会議は、冷戦後の最初の会議となり、インドネシアのスハルト大統領が議長を務める。会議は、「ジャカルタ・メッセージ」、「ソマリアに関する宣言」、「対外債務に関する決議」、「食糧安保に関する決議」、「人口問題に関する決議」、「最終文書」などを採択。この会議では、ユーゴ連邦解体戦争とイラク問題が紛糾する。
「ジャカルタ・メッセージ」;「1,国際情勢・世界の2極構造の崩壊は、世界経済の相互依存と統合、地球規模化をもたらした。2,国連改革・非同盟運動は国連システムの活性化と再構築、民主化に、主導的な役割を果たす決意である。3,人権外交批判・いかなる国も民主主義や人権についての自らの概念を押し付けるために、力を使うべきではない。4,内政不干渉・国家主権の尊重と内政不干渉の原則の厳格な遵守を確保すること。5,軍縮・核のない世界こそ非同盟運動の抱く展望である。軍事予算の大幅な削減は、発展途上国が社会的、経済的に前進するための資源振り向けを促進する。6,南北関係・経済面で不公平な構造と不平等な関係が、先進国と途上国の溝を深めている。7,南南協力・南側の資源と専門知識、経験を共同利用するために、効果的な手段を考案することが必要である。8,闘争支援・自決と独立を求めるパレスチナ人民の正当な闘争を断固支援する。南アフリカのアパルトヘイト政策の廃止を要求する」。
「最終文書」;「1,全地球的問題・核兵器の使用に立脚した戦略ドクトリンの放棄と大量破壊兵器の廃絶が、全地球的安全保障に寄与するよう求める。2,真の国際秩序は、すべての核兵器とその他の大量破壊兵器のない世界を支えるものでなければならない。3,冷戦が終結したにもかかわらず、核戦略ドクトリンは全地球にその影を落としており、世界は一層精密化され、増強されつつある既存の核軍備により脅かされ続けている。4,軍縮の分野における多国間交渉と二国間交渉は相互補完的でなければならないが、化学兵器禁止条約の発効は意義深い前進として歓迎する。5,核実験禁止・核軍備競争の停止と核軍縮、核戦争の防止、核兵器の使用または威嚇からすべての非核兵器国を護る保障など、軍縮会議の課題についての交渉に優先順位を与えるようすべての国に求める。6,非核地帯を設置する。7,イスラエルの核能力の獲得を憂慮する。8,軍縮会議・CD、部分的核実験禁止条約・CTBT、核兵器拡散防止条約・NPTなどの会議に期待する」。
この最終文書にユーゴスラヴィア内戦におけるボスニアのセルビア人勢力非難が盛り込まれたが、新ユーゴ連邦(セルビアおよびモンテネグロ共和国で構成)は、「民族浄化は、クロアチア人、ムスリム人を含む全当事者が非難されるべきだ」と主張して態度を留保した。
「対外債務に関する決議」;「非同盟諸国会議を高レベルの機構に格上げし、途上国の債務免除や負担軽減に取り組む」。
「食糧安保に関する決議」;「非同盟諸国と途上国で、農業生産性の技術協力、アフリカへの食糧援助計画を立てる」。
「人口政策に関する決議」;「家族計画の情報交換のための機構設立を検討するため、閣僚級会合を早急に開催する」。
「ソマリアに関する宣言」 ;「緊急人道援助の調整。非同盟直属の特別委員会の設立。国連の平和維持活動に参加す
る」。
こののち、国連における非同盟諸国の核兵器問題に関する活動が著しく活発化し、第47国連総会に多数の決議案が提出される。南アフリカのアパルトヘイト問題は、1990年2月にネルソン・マンデラが釈放され、ANCや南アフリカ共産党が合法化されたことから、問題点として取り上げられなかった。
第11回・1995年10月18日~20日:開催地・コロンビアのカルタヘナ。加盟113ヵ国。
第11回会議は、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の影響が色濃く反映されたものとなった。新ユーゴ連邦の参加資格継承はイスラム諸国の反対で認められず、非同盟首脳会議の創設国のユーゴスラヴィア連邦が参加資格停止処分を受けることになる。一方、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの参加もジンバブエの反対で実現せず。コスタリカの加盟は、イスラエルに大使館を設置したことでやはり認められなかった。首脳会議は、最終文書を採択する。
「最終文書」;「1,国連改革。2,核実験の即時停止。3,貧困問題への解決。4,新世界経済秩序つくりへの役割」を提言し、「超大国の一つの崩壊は、一層の不平等と不公正をもたらす不安定な破壊的一極構造になりかねない」と指摘する。
第12回・1998年8月26日:開催地・南アフリカのダーバン。加盟114ヵ国。第12回のゲスト国参加国として、米・英・仏・日が出席。
第12回会議は11回会議に引き続き、非同盟首脳会議の創設の一員である新ユーゴスラヴィア連邦のセルビア共和国とモンテネグロ共和国は資格停止処分が継続され、参加できなかった。首脳会議は、最終宣言を採択する。
「最終宣言」;「1,非同盟運動の存在意義を再確認する。2,核兵器廃絶要求を深化発展させ、多面的なチャンネルを追及する。3,アメリカの一極覇権主義の軍事、政治、経済面での現れを一層厳しく批判し、国連憲章や国際法が保障する民族主権、民族自決権の尊重、内政不干渉、軍事侵略や武力による威嚇の禁止を求める。4,国連改革など国際関係の民主化を要請する。5,東南アジア諸国の通貨、経済危機勃発の教訓を踏まえ、グローバリゼーション、自由化が発展途上国に悪影響を及ぼすことを非難し、途上国の利益を反映した国際経済のあり方への対案を提示する。6,インドとパキスタンの核実験問題を批判する。7,コンゴ内戦の停止を要求する」。
「スーダンの製薬工場爆撃」;「米軍の製薬工場爆撃は国家主権の侵害であり、国連安保理に調査団派遣を要請する」。
次回開催地として、バングラディシュのダッカとヨルダンのアンマンが開催地候補となったが、米政府の圧力で潰された
ため、マレーシアのマハティール首相が開催地を引き受けることになる。
第13回・2003年2月24日~25日:開催地・マレーシアのクアラルンプール。加盟114ヵ国。新たな参加国は、東チモールおよびカリブ海のセントビンセント・クレナディーンの2ヵ国。
米・英・豪によるイラク戦争を前にして、白熱した戦争反対の議論が展開された。首脳会議は、「クアラルンプール宣言」、「イラクに関する特別声明」、「パレスチナに関する声明」、「総括声明」を採択。
「クアラルンプール宣言」;「1,非同盟運動を包括的に見直す。2,一極化が進む中で多国主義を創出し、発展途上国の利益を擁護する。3,グローバル化が進む中で、強力な国々は発展途上国を犠牲にしている。グローバル化を発展途上国の繁栄と成長に繋げなければならない。4,外交を通じて世界平和を創出し、紛争解決には武力を避け、国際決定プロセスの先頭に立ち、南南協力を進める。5,非同盟主義運動の協調と関係の強化を進め、途上国77ヵ国グループとの連携強化と先進国との対話の強化を進める。6,平和、人権、社会経済発展のために国連を強化し、多極的な世界をつくり出す」。
「イラクに関する声明」;「1,国連安保理の要求に従うことが、広範で平和的な解決への重要なステップである。2,超大国の単独行動に反対し、多国間の忍耐強い努力によって戦争を回避する。3,多くの国民が戦争に反対しており、イラク攻撃は地域を不安定にする。4,戦争を避けるためのあらゆる努力を歓迎し、支援する」。
「総括声明」;北朝鮮問題について、「核拡散防止条約・NPTからの脱退について留意する」と記述。
第14回・2006年9月17日:開催地・キューバのハバナ。加盟117ヵ国。
イランのアフマディネジャド大統領およびベネズエラのチャベス大統領が参加し、ラウル・カストロ・キューバ首相と協調してブッシュ米大統領の単独行動主義を批判。
「最終文書」;「1,イランの核開発・平和目的の核開発は、全ての国に与えられた基本的で奪うことのできない権利である。
2,国連改革・5常任理事国の拒否権行使を制限しつつ国連総会の役割を拡大させることで国連の民主的な運営を目指
す。
3,イスラエルによるレバノン攻撃を強く非難する」との宣言を盛り込む。
新たな参加国は、ハイチ、セントビンセント・クリストファ・ネービスの2ヵ国。アルゼンチンがゲスト国として復帰。
第15回・2009年7月15~16日:開催地・エジプトのシャルム・エル・シェイク。
加盟国118ヵ国、1組織。首脳の参加は50ヵ国。首脳会議は最終文書を採択。
08年の金融危機に端を発した経済危機が、途上国に与える影響、および対応策について協議する。オバマ大統領が米大統領に選出されたことで、米国への批判的な言辞は薄められた会議となった。
開催国のエジプトのムバラク大統領は、「国際的な意志決定の枠組みに、途上国がもっと公平に組み込まれるべきである」と演説。アフマディネジャド・イラン大統領およびチャベス・ベネズエラ大統領は参加せず。
「シャルム・エル・シェイク宣言文」;「08年以来の経済的混乱は、国際的な経済・金融システムの欠陥にある。食糧安全保障と気候変動などの面でも途上国の声を十分に反映させるべきである」。
第16回:2012年8月28日~31日; 開催地;イランのテヘラン。
加盟国120ヵ国、オブザーバー17ヵ国が参加。パン・ギムン国連事務総長は米国の圧力を受けながらも参加。
イランの最高指導者ハメネイ師は、「イランは核兵器の開発を行なっていないが、核の平和利用の権利はある」と主張。
モルシ・エジプト新大統領が参加し、「我々は多くの困難に直面している。世界で自分たちの役割を果たすために力を結集しなければならない」と強調。
会議は、国際秩序のあり方、パレスチナ問題、アラブの春およびシリア問題、核兵器廃絶や平和利用問題などについて活発な議論が展開され、「最終文書」と「テヘラン宣言」が採択される。
「テヘラン宣言」;「1,世界の政治・経済・公正で透明性が高く有効な世界の共同管理システムを構築し、環境、感染症、貧困等の課題に取り組む。『①平和と安全保障の問題が未だに優先的な課題となっているが、安全保障に関する現在の国際的意志決定機構は旧態依然とした時代遅れのものである。②国際連合は、国際平和と安全保障の分野において国連総会の本来的な機能を復活させることが重要であり、また安保理を今日の世界の実態を反映させるものに改革する必要がある。③開発途上国の重要性が高まっており、その意向は国際的意志決定機関に十分に反映されなければならない。④世界経済危機は、国際金融機構の欠陥を露呈させた。第2次世界大戦後に設立された機構は、現今の世界的課題に対応できず、途上国に逆風の影響をもたらしている。⑤国際社会では、各国は同等の発言権と価値を分かち合っていない。平和と調和の中に生きるためには、世界各地の多様性を認め合い、お互いを尊重しなければならない』。2,イスラエルのパレスチナ占領が中東の長引く危機的状況の心臓部に横たわっている。パレスチナ国家を設立することは、この地域に正当で包括的かつ永続的な平和をうち立てるための基礎的で不可欠な要件である。3,人種差別主義は人間の尊厳と平等に対する侮辱であり、人種差別に反対する決意を表明することが肝要である。4,人権の尊重は、あらゆる側面における重要な課題である。中でも若年者と女性の権利については特別の留意を払うべきであり、その能力を開花させ、政治社会ならびに経済過程への参画を促進するために特別の配慮がなされなければならない。5,核兵器はこれまでに考え出された中で最も非人間的な兵器である。NPT条約第6条では核兵器保有国は、すべての核兵器を破棄することを義務づけている。平和的な目的での原子エネルギーの開発、調査、製造と使用はすべての国に許されるべきで奪うことのできない権利である。
6,非同盟諸国は、ユニラテラリズムによる経済制裁その他の重大な妨害は、統治権と独立に対する脅迫であり、貿易と投資の自由への妨害である。7,あらゆるテロリズムを厳しく断罪する。8,諸宗教間、諸文化間、諸文明間の対話を促進し、特定の政治、経済、社会、法制度、文化システムを押し付ける試みに反対する。9,非同盟運動は、大会決定を実行するために全力を結集しなければならない。また決定を推進するために、必要な体制について検討しなければならない」。
「パレスチナ連帯宣言」;「1,非同盟諸国首脳は、パレスチナ人民の尊厳と正義の要求、1967年以前の境界に基づく東エ
ルサレムを首都とするパレスチナ国家の独立という自決権の実現に向けて支援を続けることを再確認する。2,非同盟諸
国首脳は、イスラエルの占領と不法な入植が、1967年以前の境界に基づく二国家設立を否定するためのものであるとし
て断罪する。3,非同盟国首脳は、パレスチナ政治囚と拘留者に対するイスラエルの身体的・精神的虐待、医療措置の
妨害、家族の面会拒否などの非人道的取扱を断罪し、収監者と拘束者の釈放を要求する。4,非同盟国首脳は、09年8
月にパレスチナ自治政府のファイヤード首相が発表したプラン『占領を止めさせ、パレスチナ国家を樹立する』に従い、
パレスチナ国家制度の強化を引き続き支援する。5,非同盟国首脳は、11年9月にパレスチナが国連の加盟国家として
承認を申請したことを歓迎し、またパレスチナがUNESCOの加盟国家として承認されたことを歓迎する」。
第17回・2016年9月: 開催地・ベネズエラのポルラマル
参加国120ヵ国。オブザーバー参加国17,オブザーバー参加組織10。
ユーゴ連邦は非同盟諸国会議の創設者の一員であったが、ユーゴ連邦解体戦争の最中に開かれた第11回会議から排除された。その後、正式の参加は認められず、オブザーバー参加国にとどまっている。オブザーバー17ヵ国の内、旧ユーゴ連邦関連では、スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロの4ヵ国で、スロヴェニアはEU加盟が認められたことからか、非同盟諸国会議には距離を置いている。
非同盟諸国首脳会議の提言は概ね正当なものであり東西ブロックの対立を緩和した
非同盟諸国が16回におよぶ会議で討議し提言し指摘してきた宣言は、その時の世界情勢を鋭敏に反映したものであった。国際関係における分析は、東西ブロックの一方への評価を巡る対立があったものの概ね妥当なものであり、「平和共存」、「国家主権の尊重」、「国際関係の民主化」、「新旧植民地主義反対」等を基礎とした多くの提言は非同盟諸国として正当なものであった。かつてチトー・ユーゴ大統領は非同盟運動の主な成果として、1)非同盟諸国は平和共存の確立と、緊張緩和に貢献した。2)世界平和が脅かされた際、戦争回避に努めた。3)世界全体が大国ブロックに分割されるのを回避した。4)非同盟諸国は新しい国際経済秩序の確立に役立っている」と語っている。
チトーの分析が誤っているわけではないが、列強の利害と覇権主義に伴う、ベトナム戦争があり、中東戦争があり、ソ連のアフガニスタン侵攻があり、非同盟諸国同士のイランとイラクの間の戦争があり、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争が起こされ、インドとパキスタンが核兵器を98年に相次いで所有し、2001年に米国のアフガニスタン侵攻および2003年の米・英・豪によるイラク侵攻、という紛争・騒乱があった。この事実を前にすると、非同盟運動の平和共存、内政不干渉、軍縮、武力不行使、新旧植民地主義を排する理念が十分な有効性を発揮し得たとの評価を与えることは難しい。とはいえ、世界が東西両ブロックに2分割されて対立がより激化することを緩和する役割は果たしたといえる。2003年に、安保理非常任理事国が米・英・豪のイラクへの武力行使容認決議を最後まで認めなかったのは、この非同盟運動が多大な影響を与えたことは疑いない。すなわち、非同盟諸国会議で参加国が議論を積み重ねたことで、それぞれの国が大国の論理に唯々諾々と従うような姿勢をとらなくなったことである。国連総会では、非同盟諸国が核となってさまざまな有益な決議がなされるようになっている。「核兵器禁止条約」が成立したのも、その一つに挙げられよう。
2016年に開かれた第17回以降、非同盟諸国会議は開かれていない。
<参照;チトー、ユーゴスラヴィア連邦、自主管理社会主義、国連の対応>
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ユーゴスラヴィア連邦は第2次大戦後の1946年1月に新憲法を制定し、ソ連の中央集権型社会主義体制を採用した。しかし、ユーゴ連邦が独自の外交を展開したことから、1948年に開かれたミンフォルム大会で、ユーゴ連邦を追放する決議を採択。それに伴って、経済制裁を科した。その後、ユーゴ連邦解体戦争とも言うべき、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナとそれに続くコソヴォ自治州の独立紛争をめぐり、国連や西側諸国は1999年にユーゴ連邦が完全に解体するまで、さまざまな制裁を科した。
社会主義圏のユーゴスラヴィア連邦への制裁
1,社会主義圏からの経済制裁は、第2次大戦後にユーゴ連邦が独自の外交を展開したことがソ連指導部の逆鱗に触れ、1948年に開かれた第2回コミンフォルム大会でユーゴ連邦を除名処分にしたことに始まる。ユーゴ連邦の48年当時の貿易量は社会主義圏が51%を占めていたが、50年には貿易量は皆無となった。社会主義諸国の制裁はそれに留まらず、国境紛争を仕掛けて銃撃戦を繰り返すなど軍事的制裁までも行なった。そのため、ユーゴ連邦は戦時経済同様にGDPの23%に達するほど国防費を増加させざるをえなくなる。それがまたユーゴ連邦の経済発展を阻害した。53年にスターリンが死去するとフルシチョフがソ連の党第1書記に就く。56年にフルシチョフがスターリン批判をして以降は、社会主義圏との対立関係は緩和するが、ぎくしゃくした関係は89年に社会主義圏が崩壊するまで続いた。
西側は社会主義圏の経済制裁を見ると、ユーゴ連邦に借款を与えるが、それが借款経済体質を作り上げ、発展を歪ませることにもなった。
ユーゴスラヴィア連邦解体戦争初期の制裁
2,1991年6月25日にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言したことで武力衝突が起こると、ECは7月に緊急外相会議を開き、ユーゴスラヴィア連邦全体に対し、経済援助の凍結と武器輸出の禁止を決定する。
3,1991年9月、国連安保理は外相級の公式協議を開き、ユーゴスラヴィア連邦全体に対する全面的な武器禁輸など8項目の決議713を前回一致で採択。
4,1991年11月、ECは外相会議を開き、ユーゴスラヴィア連邦への経済制裁を決定する。内容は「①,ユーゴ連邦とECとの間の経済協力協定を破棄する。②,東欧支援24ヵ国の枠組みからユーゴ連邦の経済支援を中止する。③,繊維などのEC市場開放の特別措置を停止する。同措置はユーゴ連邦全体に適用されるが、協力的な当事者には保障措置を取る。④,国連安保理に石油の禁輸措置を決議するよう求める。⑤,この決議の実施は情勢を見極めて発動する」。
5,1991年11月、EC主体の東欧支援24ヵ国閣僚会議は、ユーゴ連邦への総額38億ECU(6000億円)相当の支援を中断すると決定。
6,1991年12月、米政府はユーゴスラヴィア連邦に対し「発展途上国に適用される優遇関税を廃止する」との経済制裁を発表。
新ユーゴ連邦・セルビア共和国への制裁措置
7,1992年3月、ブッシュ米大統領は新ユーゴ連邦に対する米国の経済制裁に関する行政命令に署名。
8,1992年5月、国連安保理は決議757を採択し、新ユーゴ連邦(セルビア共和国とモンテネグロ共和国)に対して経済制裁を科す。経済制裁の内容は、「①,医薬品と食糧を除く貿易、商品の輸送の禁止。②,海外資産の凍結。③,海外の金融手段の使用、一切の基金、財源の提供および経済的投資の禁止。④,航空機乗り入れおよび航空輸送の禁止。⑤,科学技術、文化交流の禁止。⑥,スポーツ大会への参加停止。⑦,外交関係の縮小」である。
この経済制裁によって新ユーゴ連邦では工場閉鎖が相次ぎ、失業者が増大し、野党や知識人によるミロシェヴィチ大統領の退陣要求運動が広がる。
9,92年5月、西欧同盟・WEUは外相会議を開き、国連の経済制裁を監視するためにアドリア海に艦艇を派遣することを決める。
10,ドイツ政府は、新ユーゴ連邦への経済制裁を監視するために初めて海軍を派遣することを決める。
11,NATO軍は、新ユーゴ連邦への経済制裁を監視するためのアドリア海での監視活動を開始する。
英政府の調査では、ユーゴ連邦は経済制裁5ヵ月で、貿易額は75%減少し、原油は80%の輸入減、製造業は原材料不足などで100万人が失業し、7200%のインフレに見舞われる。
12,92年6月、GATT・関税と貿易に関する一般協定は理事会を開き、新ユーゴ連邦の加盟国資格を停止すると決定。
13,92年9月、国連総会は新ユーゴ連邦の国連加盟資格の継承権を否定し、追放する決議案を賛成多数で採択。
14,92年9月、IAEA・国際原子力機関は、新ユーゴ連邦を追放する決議案を賛成多数で採択。
15,92年10月、国連安保理はボスニア上空における軍用機の飛行禁止空域を設定する決議781を賛成多数で採択。
16,92年11月、国連安保理は、新ユーゴ連邦への経済制裁強化策として海上封鎖などの強化決議787を採択。
17,93年4月、国連安保理は新ユーゴ連邦への経済制裁強化策として決議820を採択。制裁措置の内容;「①,新ユーゴ連邦への物資輸送や領域内通過は人道援助を除いて禁止する。②,ドナウ川などの通行貨物船の臨検を強化する。③,新ユーゴ連邦の在外資産を凍結する」など。
このため石油とガスのエネルギーの輸入が止まり、その他の原料も入らなくなったことから工場が閉鎖され、国際市場が失われ、海外からの送金も停止され、物資が不足したため、ユーゴ連邦は激しいインフレが継続することになる。
18,93年4月、国連総会は、新ユーゴ連邦を国連経済社会理事会から追放する決議を賛成多数で採択。
19,93年5月、WHO・世界保健機構は年次総会を開き、新ユーゴ連邦をWHOの活動から排除する決議を賛成多数で採択。
20,93年、マケドニア共和国は、IMFの特別融資を得るために「システム転換促進プログラム」の導入を受け入れる。
一方でクロアチア共和国は、93年12月にIMFとの借款協定を締結した。
21,94年9月、国連安保理は決議942で、ボスニアのセルビア人勢力への追加経済制裁を採択する。内容は「①,加盟国にボスニア・セルビア人勢力指導者との政治的対話の停止を要請する。②,和平交渉を除き、ボスニア・セルビア人勢力の国外旅行を禁止する。ボスニア・セルビア人勢力との金融、商業取引を禁止する」というもの。
ボスニアおよびクロアチアのセルビア人勢力へのNATO軍による軍事的制裁
22,94年2月、NATO空軍の米軍機がボスニア上空でボスニア・セルビア人勢力の軍用機と見られる航空機を撃墜する。
23,94年4月、NATO空軍の米軍機は、ボスニア・セルビア人勢力がゴラジュデを包囲攻撃しているとして空爆を実行。
24,94年8月、NATO軍は、サラエヴォ近郊のイグマン山に布陣しているボスニア・セルビア人勢力を空爆。
25,94年9月、NATO軍の英軍機は、サラエヴォ市周辺に布陣しているボスニア・セルビア人勢力の戦車を空爆で破壊。
26,94年11月、クリントン米大統領はボスニア政府への武器禁輸措置を監視している米軍に対し、監視活動の一部停止を命令する。それに基づき米国防総省はボスニアに対する武器禁輸を監視している米軍の活動を13日から一部を残して中止するとの方針を発表。
米政府の目的は、国連安保理決議713に反し、ボスニア・ムスリム人勢力の武器密輸を促すところにある。
27,94年11月、NATO軍は、クロアチアのセルビア人勢力のウドビナ航空基地を空爆する。
28,94年11月、NATO軍はボスニアのセルビア人勢力のミサイル基地を空爆する。
29,95年5月、NATO軍はボスニア・セルビア人勢力が期限までに国連保護軍に重砲を返還しなかったとして空爆。
30,95年7月、NATO軍はボスニア・セルビア人勢力がスレブレニツァを攻撃したとして空爆。
31,95年8月、NATO軍は、クロアチア共和国軍の「嵐作戦」に合わせ、敵対的対応を取ったとしてクロアチア・セルビア人勢力のミサイル基地を空爆する。
32,95年8月、NATO軍はサラエヴォのマルカレ市場を砲撃したのはボスニア・セルビア人勢力によるものと即断し、「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動して空爆を開始する。
NATO軍との共同作戦として、NATO加盟諸国主体の国連緊急対応部隊が地上からボスニア・セルビア人勢力への砲撃を実行する。
33,95年9月、国連安保理は、ボスニアにおける戦闘の停止を求める決議1016を採択する。
34,95年10月、NATO軍は、ボスニア・セルビア人勢力の対空ミサイル・レーダーから照射を受けたとして空爆。
ユーゴ連邦セルビア共和国への制裁を解除する決議
35,94年12月、国連安保理は新ユーゴ連邦に科した経済制裁の内、医薬品の輸出を許可する決議967を採択する。
36,95年11月、国連安保理はボスニア和平合意を受けて、新ユーゴ連邦への経済制裁を即時停止するが、違反した場合即時制裁を復活するとの条件付き決議1022を賛成多数で採択する。
37,96年6月、国連安保理の旧ユーゴ制裁委員会のソマビア議長は、91年9月の武器禁輸決議は「全面的に撤廃された」と禁輸措置の解除を宣言する。
38,96年10月、国連安保理は、ユーゴ連邦への経済制裁について、直ちに全面解除する決議1074を全会一致で採択。
コソヴォ紛争に係わるユーゴ連邦・セルビア共和国への制裁措置
39,98年3月、国連安保理はコソヴォ自治州のアルバニア系住民へのセルビア共和国の対応に対する制裁措置として、ユーゴ連邦に対する武器禁輸の決議1160を採択する。
40,98年4月、米・英・仏・独・伊・露の連絡調整グループ6ヵ国は次官級会議を開き、コソヴォ自治州問題を協議し、当事者の早期の対話を呼びかける一方で、ユーゴ連邦セルビア共和国の在外資産を凍結する制裁を決める。さらに、5月8日までにユーゴ連邦が対話に応じない場合、対セルビア新規投資を禁止する制裁措置を追加すると決める。
41,98年6月、EUは外相会議を開き、対セルビア新規投資を禁止する制裁措置を決める。
42,98年6月、米政府はユーゴ連邦の在米資産の凍結および対セルビアへの新規投資を禁じる制裁措置を決める。
43,98年6月、G8はコソヴォ問題について協議し、対話の推進を要請するとともにユーゴ連邦への「①,新規投資の禁止。②,ユーゴ航空の各国への乗り入れ禁止」などの経済制裁を盛り込んだ共同声明を発表。
44,98年6月、日本政府はユーゴ連邦およびセルビア共和国政府に対し、「①,新規投資を停止する。②,ユーゴ連邦の在日資産を凍結する」との経済制裁を決める。
45,99年4月、EUは経済制裁を強化する7項目に合意する。内容;「①,加盟国からユーゴ連邦への石油供給を禁止する。②,資産凍結措置を政府レベルから企業や個人にまで広げる。③,ユーゴ連邦の民間輸出入信用保証を禁止する。④,新規投資の禁止を延長する。⑤,技術の輸出を禁止する。⑥,各種国際スポーツ大会に、ユーゴ連邦の締め出しを要請する。⑦,EUとユーゴ間の航空機旅客便の運航を禁止する」など。
46,99年5月、クリントン米大統領は、空爆続行を強調するとともにユーゴ連邦への経済制裁強化を発表する。
コソヴォ紛争に関するセルビア共和国へのNATO軍の軍事的制裁
47,99年3月、NATO軍は、コソヴォ自治州紛争に関し、ユーゴ連邦が和平を拒否したとして「アライド・フォース作戦」を発動し、空爆を開始する。ユーゴ連邦へのNATO軍の空爆は、3月24日から6月9日までの78日間続けられる。
48,2000年9月、国連安保理は、決議1160に基づくユーゴ連邦への武器禁輸を解除する。
49,2000年12月、IMF・国際通貨基金は、ユーゴ連邦の復帰を承認する。
50,米国財務省は02年になっても個人資産の凍結を続ける。この時点での資産凍結者81人の内訳は、セルビア共和国が62人、ボスニアのセルビア人共和国が18人、モンテネグロ共和国が1人。すべてセルビア人が対象となっている。
国際社会はセルビア悪に基づいて概ねセルビア人のみを対象に制裁を科した
これらの制裁行為を見ると、91年9月に実施された安保理の武器禁輸決議713は旧ユーゴ連邦のすべての共和国を対象にしているものの、それ以外はユーゴ連邦・セルビア共和国およびクロアチアとボスニアのセルビア人勢力に対するものである。紛争の原因は、91年6月にスロヴェニアとクロアチアが一方的にユーゴスラヴィア連邦からの分離独立を宣言し、92年3月にボスニア・ヘルツェゴヴィナが分離独立を強行したことにあり、ユーゴ連邦を維持しようとしたセルビア人共和国が起こしたのではない。しかし、西側諸国は一方的に分離独立を強行した側を支援し、ユーゴスラヴィア連邦を維持しようとしたセルビア共和国およびセルビア人勢力を断罪するために制裁を科した。
コソヴォ紛争も、コソヴォ解放軍・KLAが武力による独立闘争を仕掛けたことが原因であるにもかかわらず、国際社会はセルビア共和国のみを制裁の対象とした。
一方、和平会議の共同議長や国連保護軍・UNPROFORの司令官たちは現地を目の当たりにしていることもあって、比較的公正な分析に基づく判断を示していた。しかし、米国およびNATO諸国の政府はユーゴスラヴィア連邦の解体を目的化していたために、和平交渉の当事者やセルビア人側の主張にはほとんど耳を傾けることなく、制裁による譲歩ないし屈服を要求した。これらの制裁が、和平のために有効性を発揮したとは到底言えない。
殊に、IAEAやWHOおよび国連からの追放は、如何なる理念に基づいているといえるのか理解しがたい対応である。国際社会の制裁の中には、理性から乖離した集団心理に陥った異常さが垣間見られる。
<参照; 国連の対応、EC・EUの対応、米国の対応、ドイツの対応、ロシアの対応>
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ハプスブルク帝国の防衛としてクライナ・辺境に移住させられたセルビア人
クライナ地方とはスラヴ系言語で「辺境・境界」を意味する。広義には、17世紀後半にハプスブルク帝国がオスマン帝国の侵攻への防備のためにクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ハンガリー、ルーマニアに至る軍政国境地帯を設定した地域を指すが、軍政国境地帯は1881年に廃止された。
広義のクライナ地方に居住したのは、主として武装したクロアチア人、セルビア人、ハンガリー人、ドイツ人、ルーマニア人その他が居住した。
狭義には、クロアチア南部とボスニア北部の国境地帯を流れるウナ川やサヴァ川を挟んだ地域をいう。狭義のクライナ地方に居住していたのは、主としてセルビア人およびクロアチア人、ムスリム人、ロマ人その他である。ユーゴ連邦解体戦争で問題になるのは、狭義のクライナ地方である。
クライナ地方はオスマン帝国やハプスブルク帝国に支配された時期があり、その影響を受けてカトリック教、東方正教そしてイスラム教を受容した。
第1次大戦の要因はハプスブルク帝国のボスニア併合にある
第1次大戦の遠因は、ハプスブルク帝国が、クライナ地方を含むボスニア・ヘルツェゴヴィナを1908年に併合したことにある。これに反発したボスニアでは、「ボスニア青年運動」など反ハプスブルク帝国の秘密結社が叢生した。
1914年6月28日、ボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れたハプスブルク帝国の皇太子フェルディナンドを、「黒手組」に属するセルビア人が爆弾と銃撃で暗殺するというサラエヴォ事件を起こした。
ロシア帝国が仲裁に入り、セルビア王国は大幅な譲歩案を出すがハプスブルク帝国はこれを許容せず、ドイツ帝国との同盟を確認すると7月28日にセルビア王国に対し宣戦布告した。これに対し、英・仏・露の三国協商を協約していたロシアが総動員令を発するとドイツがこれに対して宣戦布告するという形で、第1次大戦が始まった。ハプスブルク帝国の支配下にあったクライナ地方の住民はハプスブルクの兵員として徴募され、主としてロシアとの戦線に送られた。ドイツ帝国のヴィルヘルム皇帝は、戦争は1週間で終わると豪語していたが、実際には1918年11月まで4年余りも続くことになる。
1917年4月に米国が参戦し、また同年10月にロシアに革命が起こって戦線を離脱する。18年に入ると、ドイツでは生活物資の不足から厭戦気分が蔓延し、11月にはドイツ革命が起こる。居場所を喪ったヴィルヘルム皇帝がオランダに亡命したことで第1次大戦は終結を迎えた。こののちに行なわれた講和会議で、ドイツは莫大な賠償金を課せられる。それがドイツ人の敵愾心を醸成し、ナチスが台頭することになる。
ユーゴ王国に独裁体制を敷いたカラジョルジェヴィチに反発したクロアチア
第1次大戦の戦勝国となった南スラヴ族は「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」を樹立し、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政となる。その版図はスロヴェニア、クロアチア、セルビア王国、モンテネグロ王国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ダルマツィア、ヴォイヴォディナを含んだ。アレクサンダルは1921年に「ヴィドヴダン憲法」を制定し、国家保護法によって共産党を非合法化するとともに立憲君主として国王に就任した。アレクサンダルは国王に就任すると次第に中央集権化していった。これに対し、クロアチア共和農民党は連邦主義および共和主義を唱えた。しかし、それが受け入れられることはなかった。
1929年、アレクサンダル国王は憲法を停止し、議会を解散し、政党の活動を禁止し、「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」を「ユーゴスラヴィア王国」とするとともに独裁制を宣言する。このことがクロアチア人のさらなる反発を招き、クロアチア権利党の指導者だったアンテ・パヴェリチがイタリアに拠点を置き、ファシスト・グループ「ウスタシャ」を設立する。そしてユーゴスラヴィア王国をテロによって打倒すると宣言した。
このような対立の中、1934年10月、アレクサンダル国王はフランスのマルセイユを訪問した。これを好機と捉えたウスタシャはアレクサンダルをフランス外相ともども暗殺する。フランス政府がイタリア政府に対し、パヴェリッチの身柄引き渡しを要求するが、ムッソリーニ率いるファシズム国家となっていたイタリアはこれを拒否した。ウスタシャは、このような活動を通して反セルビアの意識とともにファッシズムの思潮をスロヴェニアやクロアチアに深く浸透させていった。
ナチス・ドイツが第2次大戦を始める
一方、ドイツではヒトラー率いるナチズムは民衆の共感を呼び、その影響力は増大していた。1933年1月にヒトラーは首相に就任すると、「全権委任法」を制定して憲法を無効化する。そして領域拡大を図るとともに国際関係との断絶を図っていく。そして、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶと翌9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を開始した。
これに対し、英・仏はドイツに宣戦布告するが有効な対処策をとれないでいた。これを見透かしたナチス・ドイツは、40年4月にデンマークとノルウェーに進駐し、5月にはオランダ、ルクセンブルク、ベルギーに侵攻し、イギリスが大陸に派遣していた部隊をダンケルクに追いつめて撤退させた。次いで、6月にはフランスの防御線であるマジノ要塞を迂回してパリに入城して勝利を宣言する。
ヒトラーはなおイギリス本土への上陸を企図するが、イギリスの海空戦での巧みな抵抗に遭い、これが困難とみると一時的に断念した。しかし、ヒトラーはイギリスを屈服させることを諦めたのではなかった。そこで、ソ連を植民地化してその物量をもってイギリスを征服することに切り替え、40年7月には対ソ戦の立案を命じた。それが対ソ「オペレーション・バルバロッサ(赤ひげ作戦)」として成案をみる。
第2次大戦中に迫害されたクライナ地方のセルビア人
ナチス・ドイツ同盟軍がバルバロッサ作戦を実行するためには、軍需物資の調達領域を拡張することと、侵攻ルートの後背地を安定させる必要があると考えた。バルカン諸国では既にルーマニア、ハンガリー、ブルガリアが同盟に加入させられていた。残るは未だに中立に拘っているユーゴスラヴィア王国とギリシア王国である。ギリシア王国は海上からのイギリスの支援が届いていたこともあって同盟に加盟させることは望めなかった。そのためにギリシア侵攻「マリタ作戦」によって支配下に置くことを企てる。残るユーゴスラヴィア王国に対しては、威しと甘言によって同盟への加盟を3月25日に認めさせた。ところが、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟を受け入れがたい民衆と軍の一部が共調してクーデターを起こし、同盟から離脱するよう王国政府に要求した。狼狽した王国政府はナチス・ドイツに対して、条約は有効だと弁明するが、ヒトラーはこれを容赦せず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用して4月6日に同盟を形成していたイタリアとブルガリア、ハンガリーおよびルーマニアとともに両国に侵攻した。ユーゴスラヴィア王国は11日間、ギリシアは14日間で陥落した。
ファシズムが浸透していたクロアチアとスロヴェニアの反乱
ユーゴ王国が短期間に屈した背景には、ウスタシャのファッシズムの思潮が浸透していたクロアチア人で編成された第4軍とスロヴェニアで編制された第7軍が反乱を起こしたことがあった。クロアチアとスロヴェニアはナチス・ドイツ同盟軍の侵攻を歓迎し、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチが帰還してウスタシャによるナチス・ドイツ傀儡政権「クロアチア独立国」の建国を宣言した。クロアチア独立国の範囲は、スロヴェニア南部とクロアチア全域およびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含んでいた。その領域にはクライナ地方のすべてが含まれていた。
クロアチア独立国の領域の人口は650万人に及び、当時の民族分布は、クロアチア人52%・340万人、セルビア人29%・190万人、ムスリム人11%・70万人、ドイツ人2.3%・15万人、ユダヤ人2万人であった。クロアチア独立国の建国を宣言したアンテ・パヴェリチはヒトラーを模倣して総統を僭称した。パヴェリチは、クロアチア人はアーリア人種だと主張する偏狭な人物であり、純粋なクロアチア人国家の建設を目指すと宣言した。そして、正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけ、3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺すると宣言して実行した。このとき、殺害されたセルビア人は50万から60万人といわれる。
カトリック総本山のバチカン市国は、ウスタシャ政権がセルビア正教徒をカトリック教に改宗させたこの行為を歓迎し、協力した。このときの記憶が、クロアチアのセルビア人住民の脳裏に深く刻み込まれた。
ヒトラーは対ソ・バルバロッサ作戦を発動
41年6月22日に対ソ・バルバロッサ作戦が発動され、ナチス・ドイツ同盟軍550万人余が侵攻すると、ソ連側の不手際もあって緒戦で大戦果を挙げた。9月までにナチス・ドイツ同盟軍の北方軍はレニングラードの包囲戦に成功し、中央軍はベラルーシのミンスクを陥落させてモスクワの近郊にまで迫り、南方軍はウクライナのキエフを陥落させてスターリングラードとバクー油田の攻略を視野に入れた。ヒトラーの思惑は成功するかに見えた。しかしソ連は、対日戦に備えてシベリア地方に配備していた盛況な部隊を呼び戻し、反撃に転じた。レニングラード包囲戦は唯一隙間となっていたザドガ湖を通じて物資を運び込んだものの、900日の攻防戦で60万人が餓死したといわれる。
ユーゴスラヴィアはナチス・ドイツ同盟・ウスタシャ・チェトニク・パルチザンの複雑な戦いに巻き込まれる
ユーゴスラヴィア内には、クロアチア独立国とは別にユーゴ王国政府軍の残党で結成された「チェトニク」と、共産党が主導するヨシプ・ブロズ・チトー率いる同盟軍への抵抗戦線を形成した「パルチザン」が組織された。チェトニクは、当初は同盟軍に対する抵抗を宣言するが、ナチス・ドイツに皆殺しにすると威されると、同盟軍への抵抗を留保して内部領域争いに転換してしまう。パルチザンは当初は8万人程度に過ぎなかったが、43年以降連合軍からの軍事支援が得られるようになると参加者が増大し、80万人を擁するまでになる。そして、ナチス・ドイツ軍の第7次にわたる攻勢を凌ぎきり、44年10月にはソ連赤軍とともにユーゴスラヴィアの首都であるベオグラードを奪還した。
英国はナチス・ドイツの本土上陸作戦を阻止すると、西部戦線を構築するよりも、中東の油田地帯の権益を優先して地中海での作戦を優先していた。その権益を護る見通しがついた44年6月にようやく西部戦線に手をつけ、米・英・加などの連合軍による「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動した。8月にはパリを開城し、ナチス・ドイツ軍は東西両戦線で追いつめられていく。そして、45年4月、東部戦線で戦い抜いたソ連軍がベルリンを攻撃するまでに至る。
敗北を自覚したヒトラーが4月30日に自殺したことで、第2次大戦における欧州戦線は終結した。ナチス・ドイツの敗戦に伴ってクロアチア独立国を形成したウスタシャたちはユーゴスラヴィアから脱出し、ディアスポラとなった。
ユーゴスラヴィアは王制を廃しユーゴ連邦人民共和国となる
戦勝国となったユーゴスラヴィアは、46年1月に制定された憲法で王制を廃止し、ソ連の中央集権型社会主義制度を取り入れたユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国を宣言した。そしてパルチザンを率いたチトーが首相に就く。チトーは、第2次大戦時の民族間の対立を再燃させないために、大戦時の内戦について論じることを封じた。
ところが、ユーゴスラヴィアを自力解放したとの自負を抱いていたチトーが独自の外交を展開し、ギリシアの人民戦線派を支援し続けたこと、ブルガリアと「バルカン連邦」構想を表明したことなどがソ連指導部の逆鱗に触れる。そして、48年に開かれた第2回コミンフォルム大会でユーゴ連邦は追放処分を受け、経済制裁を科されることになった。戦後の復興期にあったユーゴスラヴィアは経済的困窮に陥り、西側を頼るしかなかった。西側はこれに応じて融資をし、社会主義圏の崩壊の足掛かりとすることにする。
コミンフォルムから追放されたユーゴ連邦は、ソ連の中央集権型社会主義制度は官僚主義的になり排他的な社会主義にならざるを得ないと考え、労働者による自主管理社会主義制度を編み出し、53年に憲法を改定してその定着を図った。そしてチトーは大統領に就任する。さらに63年憲法で自主管理社会主義制度を進化させ、74年憲法では各共和国に大幅な権限を委譲し、自治州にも共和国並みの権限を持たせた。
そのためか、クロアチア人のディアスポラが60年代末から70年代にかけて在外大使館や列車や劇場などを爆破するなどの混乱はあったものの、おおむね民族間の対立は表面化せず、婚姻も民族間や信仰に関わりなく自由に行なわれるようになっていった。
しかし、第4次中東戦争に端を発した73年のオイル・ショックは世界中を混乱に陥れたが、とりわけユーゴ経済に打撃を与えた。これを切り抜けるために借款経済が連邦内各共和国の経済を混乱させ、連邦政府に対する遠心力をもたらすことになる。
米大統領補佐官Z・ブレジンスキーのユーゴスラヴィア解体演説
このような世界情勢の中米国はユーゴスラヴィアの社会主義を放棄させるために策を弄し始めていた。1978年にスゥエーデンで開かれた社会学会でズビグニュー・ブレジンスキーがアメリカらの参加者を前にして、ユーゴスラヴィアの社会主義解体について演説した。その内容は「1,ソ連に抵抗する力としてユーゴスラヴィアの中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的・民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。ソ連におけるロシア人とウクライナ人チェコスロヴァキアにおけるチェコ人とスロヴァキア人、ユーゴスラヴィアにおけるセルビア人とクロアチア人の間の緊張と不和が物語るように、民族主義は、共産主義より協力である。2,ユーゴスラヴィアにおける反共主義党争においてマスメディア、映画製作、翻訳活動など文化的・イディオロギー領域に浸透すべきである。3,共産主義的平等主義に反対する闘争においてユーゴスラヴィアにおける消費者メンタリティを一層刺激する必要がある。4,ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的・政治的圧力手段として用いることができる。それゆえ、ヨーロッパ共同体諸国の対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとっては一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的諸措置によって容易に補償される。5,ユーゴスラヴィアのさまざまな異論はグループをソ連やチェコスロヴァキアの場合と同じやり方でシステマティックに支援すべきであり、彼らの存在と活動を世界に広く知らせるべきである。必ずしも彼らが反共主義者である必要はなく、むしろプラクシスのような人間主義者の方がよい。この支援活動でアムネスティ・インタナショナルのような国際組織を活用すべきである。6,Xディ(チトーの死)の後に、ユーゴスラヴィアの軟化に向けて、組織的に取り組むべきである。民族関係が殊勝なファクターである。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟・SKJとユーゴスラヴィア人民軍・JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJは、既に政治的独占を失っているし、JNAは、外的には強いが内部からの攻撃には弱い。全人民防衛体制は、諸刃の剣である」である。
1980年にチトー大統領が死去すると、彼のカリスマ性によってユーゴ連邦を一体のものとしてまとめ上げていた求心力が徐々に失われ、ブレジンスキーの策略に添った政策が展開されていくようになった。
西側諸国は、国際債権団を組織してユーゴ連邦を新自由主義市場経済に誘導していく。81年にIMFは「第1次経済安定化政策」を受け入れさせ、83年には「第2次経済安定化政策」の導入を要求した。この経済安定化策はユーゴ経済の実態に即していなかったために経済は沈滞し、逆に激しいインフレを起こした。このことがユーゴ連邦の中で比較的富裕であったスロヴェニアとクロアチアにユーゴ連邦から離脱した方が経済的に有利だという考えを生じさせる要因ともなる。そして民族主義者たちがうごめきだすことになる。
ドイツとバチカン市国の支援を受けたトゥジマンはクロアチアの分離独立を推進
のちにクロアチアの大統領に就くことになるユーゴ連邦の軍人であった民族主義者のトゥジマンは、歴史家に転じると第2次大戦時のクロアチア独立国のセルビア人虐殺数は10分の1以下だと主張した。この民族主義者のトゥジマンは80年代の末にディアスポラとなった世界のクロアチア人社会を訪ね歩き、クロアチア民族主義を説いて回っていた。そして、88年にドイツのコール首相に会い、独立運動の支援を要請した。帰国直後に、トゥジマンはディアスポラの支援を受けて民族主義政党「クロアチア民主同盟」を結成し、それに沿うように89年12月にクロアチア共和国議会は複数政党制の導入を決める。
90年4月に行なわれた複数政党制による国政選挙では、トゥジマン率いる「クロアチア民主同盟」が多数を占めて勝利する。選挙結果を受けてトゥジマンは幹部会議長(大統領)に就任すると、クロアチア共和国のクロアチア人化を進め始めた。7月には憲法を改正し、序文には「クロアチア人および全市民の国民国家である」と明記し、12%を占めるセルビア系住民の存在を他の少数民族として傍らに押しやる。さらに、国旗を第2次大戦時のファシスト・グループ・ウスタシャ政権「クロアチア独立国」が使用した赤白の市松模様風に模したものとした。
クロアチア・セルビア民主党はトゥジマンにクライナ地方の文化的自治を求めたが拒否される
このクロアチア共和国政府の動向に、少数派のセルビア人は危機感を抱いた。第2次大戦中のクロアチア独立国の虐殺の記憶が悪夢として甦らせたからである。クロアチア・セルビア民主党党首のラシュコヴィチはトゥジマン幹部会議長に対してクライナ地方の教育などの文化的自治を要求したが、トゥジマンはこれを拒否した。トゥジマンの硬直した対応に対抗する必要に迫られたクロアチア・セルビア民主党は、90年7月に「セルビア国民会議」を結成する。
そして8月、クロアチア共和国政府の禁止令を振り切り、クライナ地方のセルビア人住民による自治区設立の是非を問う住民投票を強行した。住民投票で99%を超える賛成を得ると、セルビア人住民は「クライナ・セルビア人自治区」の設定を表明。10月、セルビア国民会議は「セルビア人の主権と自治に関する宣言」を採択し、クロアチア政府に対して完全な自治を求めた。クロアチア政府はこの動きに対し、憲法違反だとして取締りを強化したために、クロアチアのクライナ地方だけでなくスラヴォニア地方などでも武力衝突が頻発することになる。
一方で、第2次大戦時にクロアチア独立国の正教徒をカトリックに改宗させる政策を支持したバチカン市国は、80年代に入るとカトリックが主流を占めるクロアチアとスロヴェニアをユーゴ連邦から分離独立させるための働きかけを始めていた。
クロアチア共和国の分離独立推進に対抗してクロアチア・セルビア人勢力も分離独立を進める
91年5月、クロアチアのセルビア国民会議と自治区の執行会議は、クロアチア共和国のユーゴ連邦からの分離独立の動きに対抗して再び住民投票を強行。圧倒的多数の賛成を得るとクロアチア共和国からの分離とユーゴ連邦への残留を決定した。ボスニアのセルビア人勢力はこれを歓迎したが、ユーゴ連邦はこの領土分割が騒乱を招くとしてこれを認めなかった。
この間、ユーゴ連邦内の各共和国首脳たちによる連邦の国家形態に関するユーゴ・サミットが断続的に開かれていた。スロヴェニアのクチャン幹部会議長とクロアチアのトゥジマン幹部会議長が「主権国家連合」に固執し、セルビアのミロシェヴィチ幹部会議長が連邦国家維持を主張したために、合意形成は困難を極めた。5月16日に予定された第5回の会合は、クロアチア人のメシッチの連邦幹部会議長選出をめぐって対立したために開かれなかった。6月6日の第6回サミットでは「将来のユーゴ共同体に関する綱領」がイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長とグリゴロフ・マケドニア幹部会議長によって提案されたが、もはや事態を動かすものとはならなかった。
クロアチア共和国の独立宣言にともなってクロアチア・クライナ・セルビア人勢力も共和国の設立宣言へ
全欧安保協力会議・CSCEは91年6月19日に外相協議会を開き、「ユーゴスラヴィア連邦の統一形態」を支持するとの声明を発表した。しかし、クロアチアとスロヴェニアはそれを無視して6月25日、領域内のセルビア人など少数者の意向を顧みることなく、ユーゴスラヴィア連邦からの分離独立の宣言を発した。独立宣言後、クロアチア共和国議会はセルビア人勢力に対して「分離独立を除くあらゆる権利を有する主権民族とする」との自治案を提示したが、既に対立は抜き差しならないところまで進んでおり、対立を緩和するには至らなかった。独立宣言の同日、クロアチアの東部地区のセルビア人住民は「スラヴォニア・バラニャ・西スレム・セルビア人自治区」の設立を宣言する。
ECは武力衝突の拡大を回避するための仲介に乗り出し、91年7月にクロアチア共和国およびスロヴェニア共和国に独立宣言の3ヵ月間凍結を内容とする「ブリオニ合意」を受け入れさせた。次いで8月には「EC和平会議」を設定してキャリントン英元外相を議長に据え、クロアチアにおける武力衝突を抑制する方策を模索した。9月、国連安保理は武力衝突の拡大を抑制するために、ユーゴスラヴィア連邦各共和国への武器を禁輸する決議713を採択する。
しかし、かねてからクロアチアとスロヴェニアのユーゴ連邦からの分離独立を働きかけていたドイツとバチカンは、ECが設定した3ヵ月の凍結期間を冷却期間としか受け取らなかった。ドイツのコール首相は11月6日の連邦議会で、「EC諸国は間もなくクロアチア共和国とスロヴェニア共和国を国家として承認するだろう」と演説し、ドイツが両国の分離独立を承認するよう各国に働きかけていることを明らかにし、12月23日には単独で両国の独立を承認してしまう。一方のバチカン市国は、国務省のソダノ枢機卿が11月23日に、米・英・独・仏・伊・ベルギー・オーストリアの大使を招き、クロアチアとスロヴェニアを1ヵ月以内に独立国として承認するよう要請し、ドイツを追うようにして、翌年の1月13日に他の諸国に先駆けて両国の独立を承認した。
クロアチア・クライナ・セルビア人共和国内では強硬派バヴィチと穏健派ハジッチが対立
セルビア人住民側はクロアチア共和国内で自治を求めても権利が保障されないと見て、「クライナ・セルビア人自治区」を格上げして12月に「クライナ・セルビア人共和国」の設立を宣言する。それに呼応して「東部スラヴォニア、バラニャ、西スレム・セルビア人自治区」が加盟を宣言し、クロアチア共和国内にセルビア人住民による統一された「クライナ・セルビア人共和国」が設立された。初代大統領は強硬派のバヴィチ・セルビア国民会議議長が就任した。バヴィチ大統領派は、「クライナ・セルビア人共和国」をクロアチア共和国から分離すること、ボスニアのセルビア人共和国と統一することを強硬に主張した。一方、東部のスラヴォニアやバラニャなどを拠点とするハジッチやマルティッチらはクロアチア共和国内での自治を確保する穏健路線を模索した。この強硬派と穏健派の両者は内部対立を抱えたまま、東西両地域に拠点を置いて活動を続けた。
国連は事態を打開するために、ヴァンス米元国務長官を国連事務総長特使としてクロアチアに派遣して和平に乗り出し、92年1月に和平提案を行なう。この和平案に対し、バヴィチ・セルビア人共和国大統領はボスニアのセルビア人共和国との統合およびユーゴ連邦維持の障害になるとして強硬に反対し、和平交渉そのものを潰しかけた。ミロシェヴィチ・セルビア大統領はこれを無責任だと非難し、絶縁を示唆する。
92年2月、バヴィチ側の強硬派はクライナ地方のクニンで議会を開き、ヴァンス裁定案を否決するために住民投票を実施することを決議した。穏健派のハジッチ側はスラヴォニア地方のグリナでクライナ議会を開いてバヴィチ大統領を解任し、パスパリ議会議長を大統領代行とし、次いでハジッチを大統領に選出した。バヴィチがこれに抗してクライナ議会を分裂させて大統領を自称したため、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国内は二重権力状態が続くことになる。
EC主要国のクロアチアおよびスロヴェニア独立承認がボスニアの独立宣言へと波及
92年1月15日、ドイツとバチカン市国の強硬な働きかけが効を奏し、西側主要国がクロアチア共和国とスロヴェニア共和国の独立を承認してしまう。この独立承認が、クロアチア共和国とクロアチア・セルビア人共和国との対立を激化させた。
国連安保理は92年2月に決議743を採択し、クロアチアにおける武力衝突を緩和するために国連保護軍・UNPROFORの派遣を決定する。UNPROFORの主要な任務は、クロアチア共和国軍支配地域とクライナ・セルビア人共和国軍の支配地域の境界に設定した4ヵ所の保護地域・UNPAに駐留し、停戦を監視することにあった。
他方、スロヴェニアとクロアチアの独立が承認されるのを見たイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)はボスニアの分離独立を推進し、セルビア人住民の反対を押し切って2月末に分離独立の是非を問う住民投票を強行。高率の賛成を得ると、3月早々にユーゴ連邦からの独立を宣言した。これ以来、ボスニアでも政府軍およびクロアチア人勢力とセルビア人勢力との間で三つ巴の武力紛争が起こることになる。国連はこのボスニア紛争を予期していたかのように、ボスニアにもUNPROFORを派遣することにした。
92年6月、クロアチア共和国軍は安保理決議743の停戦規定を無視して「ミリィフツィ・プラトー作戦」を発動し、国連保護地域・UNPAに設定されたダルマツィア地方南端部のクライナ・セルビア人共和国のセルビア人を追放した。
92年10月、クロアチア共和国の行動に対抗し、「クライナ・セルビア人共和国」とボスニアの「ボスニア・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」の両共和国の議会が合同会議を開き、両共和国の統一に関する決議を採択した。93年に入ると、この統一に向けた動きは一層活発化し、両共和国の議会での協議や両共和国の首脳の会談が相次いで行なわれた。クロアチアの「クライナ・セルビア人共和国」では統一の可否を問う住民投票が実施され、統一が圧倒的な賛成を得た。しかし、ボスニアでは民族間の戦闘が激化しつつあり、国際社会が関与している時点で両セルビア人勢力の統一国家が成立する可能性は低かった。
この間、クロアチア共和国軍は着々とクライナ・セルビア人共和国支配領域の攻略を実行した。93年1月には「マスレニツァ作戦」を発動し、国連保護区・UNPAに駐屯していた国連保護軍・UNPROFORを砲撃して排除しつつ、ダルマツィア地方のザダル周辺を制圧。93年9月には「メダック・ポケット作戦」を実行し、国連保護地域のダルマツィア地方のゴスピッチ周辺を制圧した。これらの3つの作戦でクロアチア共和国軍は、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国が首都と定めたクニン市を南西部から包囲する態勢を敷いた。クロアチア共和国軍のこの作戦を指導したのは、米国の軍事請負会社MPRIおよび米CIAである。国連保護軍の司令官は、クロアチア共和国軍の武力行使は安保理決議743に違反していると抗議したが、安保理は議長声明の表明ですませた。
ボスニアで政府軍とクロアチア人勢力との間の戦闘が拡大し米国は「新戦略」を立案する
ボスニアでは、93年1月にヴァンス・オーエン和平会議両共同議長による10のカントン・州分割裁定案が提示されると、各州の支配権をめぐってボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力との間で再び激しい戦火が交えられた。殊に93年5月にはクロアチア人勢力が臨時首都と定めた古都のモスタルで激しい砲撃戦を展開し、ネレトヴァ川に架かる橋のすべてが砲撃で落とされた。
米国では93年1月に民主党のビル・クリントンが大統領に就任すると、大統領選で主張していたセルビア悪をユーゴスラヴィア問題の解決の基調に据えた政策を採るようになっていた。しかし、ボスニア政府軍とクロアチア人勢力軍との間の戦闘が続いていては困難と見て、両者を統合する軍事作戦を主な内容とする「新戦略」を立案する。米政府は94年に入ると新戦略の実施に取りかかり、先ずクロアチア共和国に圧力をかけ、強硬派のボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領を解任させた。そして、2月24日にボスニア政府とクロアチア人勢力の代表を集めて強引に停戦に合意させる。次いで2月26日に、ボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼び寄せ、「ワシントン協定」に合意させた。
公表された協定の内容は、「1,ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力で『ボスニア連邦』を構成する。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来国家連合を形成するための予備協定の締結」に合意するというものである。ボスニア連邦の創設はともかくとして、クロアチア共和国がユーゴ連邦から分離独立した経緯を考慮すればボスニア連邦との国家連合の形成することなどあり得るはずもないが、ユーゴ和平国際会議が和平に尽力している傍らで、ボスニア問題にクロアチア共和国をワシントンに呼び寄せた不自然さを糊塗するための欺策として公表したのである。
米国は新戦略に基づくセルビア人征圧計画を着々と進める
米政府が新戦略に基づくワシントン協定に込めた意図は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍の3者の共同作戦によるクロアチア・クライナ・セルビア人共和国およびボスニア・セルビア人共和国の征圧にあり、これにNATO軍を絡ませるという壮大な計画であった。94年の1年間はその準備に当てられた。まず、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の統合司令部を設置させ、次いで武器の流入を容易にするために、国連決議による米軍の密輸監視を緩和して武器の密輸を促した。そして、米軍の特殊部隊を派遣して通信と兵站を整備し、米軍事請負会社MPRIにクロアチア共和国軍とボスニア連邦軍の作戦指導と訓練を実施させた。
新戦略に沿ってクロアチア共和国軍は作戦を始動させる
95年1月、クロアチア共和国政府は共同作戦の準備が整うと、作戦の障害になる国連保護軍・UNPROFORの排除を企図する。トゥジマン・クロアチア大統領はUNPROFORの存在が和平の障害になるとの理由をつけ、ガリ国連事務総長に撤収を要請する書簡を送付した。国連安保理では一部に異論が出されたものの結局これに応え、3月に安保理決議981~983を採択してUNPROFORを3分割し、クロアチアには削減した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。
1995年5月、クロアチア共和国軍は国連保護軍が縮減されるのを見届けると「稲妻作戦」を発動し、セルビア人勢力の支配地「西スラヴォニア」を攻略した。EC諸国の一部がこれを咎めて攻撃中止を要請すると、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は「作戦が終了すれば撤退する」と言い逃れたが、撤退することはなかった。それどころか、7月に入るとクロアチア共和国軍はボスニア領内に越境し、ボスニア連邦統合軍と共同で「‘95夏作戦」を実行した。この作戦は、ボスニア西部からクライナ・セルビア人共和国の首都のクニンに至る幹線の要衝であるリヴノとグラホヴォなどを確保し、ボスニア・セルビア人勢力によるクロアチア・クライナ・セルビア人共和国への物資の補給路を断つとともに、首都クニンを四方から包囲する態勢を整えるところにあった。
新戦略に基づく大規模な「オペレーション・ストーム」を発動
そして8月4日、クロアチア共和国軍は兵員15万余を動員した「オペレーション・ストーム(嵐作戦)」を発動する。この嵐作戦は、クライナ・セルビア人共和国を4つの方面から攻撃してセルビア人勢力軍と住民を追放することを目的としていた。第1軍はクロアチア北部のザボルスコから南下し、ビハチを拠点にしているボスニア政府軍の第5軍団と共同でクライナ・セルビア人勢力軍を挟撃する。第2軍は中部ペトリニャおよびグリナを攻略して南下し、ボスニア政府軍の第5軍団と接合する。第3軍はウドビナからグラチャツのクライナ・セルビア人勢力を攻撃する。第4軍は、クライナ・セルビア人共和国の首都クニン制圧を目標とし、ボスニア政府軍の第4軍団が「‘95夏作戦」で確保したリヴノとグラホヴォの幹線道路からクニン攻略作戦に参加する、という大規模な共同軍事行動であった。
巧みな共同作戦でクロアチア・セルビア人共和国を潰滅させる
この共同作戦が巧だったのは、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国が内紛を抱えて弱体化していることを見越した上で、クロアチア内の相互連携の幹線道路を遮断したこと。さらに、ボスニア政府軍が南部で陽動作戦を展開してボスニア・セルビア人勢力の行動を牽制しつつ、救援に赴けないようにボスニア側の幹線道路を遮断したことにある。NATO軍もこの作戦を支援し、NATO軍への攻撃態勢を取ったなどの理由をつけてクライナ・セルビア人勢力の通信基地やミサイル基地を空爆した。クライナ・セルビア人勢力軍は分断されたために4万弱の兵員しか動員できなかったことから、クロアチア共和国軍とボスニア連邦軍の共同作戦に対抗できるはずもなかった。セルビア人勢力軍はたちまち総崩れとなり、住民ともどもクロアチアから脱出するしかなかった。クロアチア共和国軍は、この脱出行の群衆を砲撃して殺戮しただけでなく、二度と戻って来られないように建物に放火し、破壊した。
赤十字国際委員会・ICRCによると、このときクライナ地方から難民となって脱出したセルビア人住民は20万から25万人といわれる。このセルビア人追放作戦に対し、ドイツとフランスは中止を要請したが、米国は黙認し、NATO軍はセルビア人勢力軍の基地を空爆してクロアチア共和国軍を援護した。この一連の軍事作戦は、米軍事請負会社・MPRIによって指導されていたから、米国が黙認したのは当然であった。国連安保理は8月10日、クロアチア共和国に対して軍事行動を停止するよう求める決議1009を採択したが、嵐作戦は既に終了しており、決議は意味をなさなかった。この嵐作戦によって、クロアチア・クライナ・セルビア人共和国は実質的に消滅した。
クロアチア共和国軍はボスニアに侵攻しボスニア政府軍と共同作戦を実行
クロアチア共和国軍はクライナ地方を制圧したのち、さらにクロアチアの「東スラヴォニア」の攻略に取りかかったが、EC諸国から圧力をかけられたことでこれを断念する。そこで、クロアチア共和国軍は「ミストラル作戦」に切り替えてボスニア領内に侵攻してボスニア・セルビア人共和国の大統領府が置かれていたバニャ・ルカ攻撃を敢行する。これに共調したボスニア政府軍は、バニャ・ルカ近傍のヤイツェなどの攻撃を実行した。
クロアチア共和国軍とボスニア政府軍がバニャ・ルカ周辺を攻撃している最中の8月28日に、サラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が発生し、市民の多数に犠牲者が出るという事態が出来した。NATO軍はこれをセルビア人勢力によるものと即断し、1日後の30日未明に「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動して空陸からボスニア・セルビア人勢力の攻撃を開始した。ボスニア・セルビア人勢力は、NATO空軍の空爆に加え、NATO加盟国主体で構成された陸上の緊急展開部隊・RTF、クロアチア共和国軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力の5者による攻勢に曝されたものの屈服するつもりはなかった。しかし、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受け入れる形で、9月末には停戦協定に応じる。
新戦略の仕上げとしてクライナ・セルビア人共和国は消滅させられる
11月に米オハイオ州デイトンのライトパターソン空軍基地で行なわれた米国の主導のボスニア紛争に関するデイトン和平交渉で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国家形態が定められた。中央政府としてボスニア・ヘルツェゴヴィナを設置し、エンティティとしてのボスニア連邦が51%を領有し、ボスニア・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)が49%を領有するというものである。
そして、国連の暫定統治機構として国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHを設置し、治安活動部隊はNATO諸国主体の和平維持部隊・IFORが担うことになる。
この交渉において付随的にクロアチア問題も取り上げられ、クロアチア・クライナ・セルビア人共和国を消滅させるとともに「東スラヴォニア」の処遇方針も決められた。96年1月、国連安保理は決議1037を採択し、「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム・国連暫定統治機構・UNTAES」が設置され、このUNTAESがクロアチア共和国に併合するまでの移行期間の統治を行なうことになる。UNTAESは文民部門と軍事部門から構成され、クロアチア共和国の圧力を排除しつつセルビア人住民の権利を確保し、「治安維持、武装解除、難民の帰還、警察および司法機関の設立、公共サービス」などの任務を遂行した。2年後の98年1月、安保理決議1145によって「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム」は自治州としてクロアチア共和国に統合された。UNTAESは任務を終了したが、東スラヴォニアには引き続き国連文民警察サポート・グループ・UNPSGが設置され、クロアチア警察の人権侵害行為などを監視する任務を担うことになる。
<参照;ユーゴスラヴィア王国、ユーゴスラヴィア連邦、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ>
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ボスニアを戦乱に陥れたイゼトベゴヴィチ大統領
1991年の国勢調査によると、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはムスリム人が44%、セルビア人が31%、クロアチア人が17%、その他8%と、ユーゴスラヴィア連邦の中でもっとも民族が混住している地域である。この地で民族対立を煽るようなことがあれば、悲惨な事態を招くことは十分に予測できた。
1991年6月19日全欧安保協力会議・CSCEがユーゴ連邦の統一を支持するとの声明を出したのを後目に、スロヴェニアとクロアチア共和国は6月25日に独立宣言を発した。このために、スロヴェニアとクロアチアでは武力衝突が起こることになる。
これを目の当たりにしたボスニアのムスリム人の実業家で政治家でもあったズルフィカルパシチは、ボスニアにおける民族対立による武力衝突が起こることを危惧し、それを回避するために和平を模索して動いた。そして、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)の委任を得た上で、ボスニアのセルビア人勢力指導者のカラジッチおよび、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領と交渉し、91年7月に「両民族間の平和的な関係を確認する協定」をまとめ上げ、調印直前まで漕ぎつけた。この合意を知ったボスニアの民衆は民族間で抱き合って歓声を上げたという。
ところが、米国とイスラム諸国を歴訪して帰国したイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)は、土壇場になってこの合意文書への調印を拒否する。そして、イゼトベゴヴィチ大統領は、92年1月にスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立が主要国に承認されたのを見ると、ボスニアをユーゴ連邦から分離独立させることに踏み切る。イゼトベゴヴィチは2月17日にフランスを訪問し、シラク大統領と会談して欧米諸国の意向を掴み取ると、2月28日にはセルビア人住民の反対を押し切り、ムスリム人とクロアチア人のみで住民投票を強行し、高率の賛成を得ると3月3日に独立を宣言した。それ以来、多民族国家であるボスニアでの民族対立は先鋭化し、3民族による三つ巴の領域確保戦争へと雪崩れ込むことになる。
米国は当初、ユーゴスラヴィア連邦の分離独立問題に慎重な姿勢を取っていた。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ブッシュ大統領のユーゴ紛争への対処策を批判し、これを政争の具とする。このことが影響を与えたのか、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言すると、4月にスロヴェニアおよびクロアチアとともに3ヵ国を一括承認した。
クロアチアと同様ボスニアも連邦人民軍を侵略軍として扱う
ボスニアには第2軍管区のユーゴ連邦人民軍が駐屯していたが、独立宣言後は侵略軍として扱われ、ムスリム人兵士、およびクロアチア人兵士は連邦人民軍から離脱し、それぞれの防衛隊に加わっていった。そして、ボスニア防衛隊はクロアチア共和国がそうしたように、連邦人民軍の兵舎を封鎖して電気や水道を止め、武器を置いて撤退せよと迫った。当然、武力衝突が起こったが、国際社会はユーゴ連邦人民軍のみを非難して撤退を迫った。そのため、連邦人民軍は92年5月に撤収を宣言する。連邦人民軍は武器の大半を帯同して撤収したが、ボスニア出身のセルビア人兵士も多くの武器を確保して残留した。曲がりなりにも連邦人民軍の訓練を受けていたボスニア・セルビア人勢力は戦術面でクロアチア人勢力やボスニア政府軍よりも優れていたこともあり、緒戦では有利に支配領域を拡大して行くことになる。
クリントン米政権はセルビア人勢力を屈服させるための強硬策を推進する
93年1月にユーゴ問題に関する強硬派の民主党のビル・クリントンが米大統領に就任すると、明確に武力介入による解決策を採用する。クリントン米政権は、セルビア悪を基本線としてクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧すれば、ユーゴスラヴィア紛争は解決すると分析していたのである。
ボスニア内戦は3民族による三つ巴の内戦
イゼトベゴヴィチ大・ボスニア統領は、EC諸国や米国主導のNATO諸国の支援をあてにして旧ユーゴ和平国際会議の裁定案を拒否し続け、武力による統一国家建設の強硬路線を改めようとはしなかった。このため、ムスリム人勢力と化していたボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力、ボスニア・セルビア人勢力の三つ巴の武力衝突は激化して行った。
93年5月、ボスニア・クロアチア人勢力はボスニア南部のモスタル市を臨時首都と決め、ムスリム人住民を排除するべく激しい武力攻撃を仕掛けた。モスタル市はボスニア政府の第4軍団の防衛地域だったこともあり、両軍はネレトヴァ川をはさんで激しい砲撃戦を展開することになる。この戦闘でオスマン帝国が支配した時代に建造された400年の歴史を持つ石橋「スタリ・モスト」を含むすべての橋がクロアチア人勢力の砲撃で崩落した。
クリントン政権はこのボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力の激しい戦闘にしばし戸惑った。しかし、セルビア悪を前提とした政策を改めることなく、セルビア人勢力を屈服させるための「新戦略」を立案する。
ボスニア政府の武闘路線にムスリム人アブディッチ幹部会員が反旗を翻す
一方、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領の武力統一路線をめぐってはボスニア政府部内でも対立があり、穏健派のムスリムで実業家でもあるアブディッチ幹部会員は政治交渉によるボスニア問題の解決を提言する。しかし、それが拒否されたためアブディッチは幹部会を離脱し、93年9月にビハチを中心都市とする「西ボスニア自治州」を設立する。さらに、住民に呼びかけて憲法制定会議を開催。憲法を制定した上で、「西ボスニア共和国」の設立を宣言して大統領に就任した。憲法を制定したといっても、ボスニアからの分離独立を企図したものではなく、イゼトベゴヴィチ大統領の武闘路線を和平路線に転換させることを促しつつ、武闘路線に加担しない自治共和国として自治権の確保を意図したものであった。しかし、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はこれを認めず、西ボスニア共和国設立宣言は違憲だとして政府軍の出動を命じた。
アブディッチ大統領はボスニアのクロアチア人勢力およびセルビア人勢力と和平路線を模索する
1993年10月、西ボスニア共和国のアブディッチ大統領はボスニア・クロアチア人共和国大統領の強硬派と言われたマテ・ボバンと会い、「ボスニアでのあらゆる戦争を終了させ、継続的な平和を確立するために行動する」との共同声明に調印した。翌10月22日にはミロシェヴィチ・セルビア大統領の仲介により、ボスニア・セルビア人共和国のカラジッチ大統領とアブディッチ西ボスニア共和国大統領がベオグラードで会合し、「継続的な平和に関する宣言」に署名した。11月には、アブディッチ大統領とボスニア・セルビア人共和国のルキッチ首相、ボスニア・クロアチア人共和国のプルリッチ首相の3者がクラドゥシャで「政治・経済協力に関する共同宣言」に署名し、ボスニア内の3地域間での物資の自由な移送や経済関係の正常化などの合意がなされた。この第3極の形成で、戦闘が沈静化すると思われたがそうはならなかった。ボスニア政府軍は西ボスニア共和国への攻撃を強化するとともに、ボスニア・クロアチア人勢力軍との戦闘も続けたからである。
クリントン米政権は和平を模索するアブディッチ派の「西ボスニア共和国」の成立には一顧だにせず
クリントン米政権は、セルビア悪を前提とした政策を立案していたこともあり、ムスリム人のアブディッチがボスニア政府から離反した意味を顧慮することはなかった。そしてセルビア人勢力を征圧するための「新戦略」の推進に突き進むのである。
1994年2月に至り、新戦略の第1段階として、先ずトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、強硬派のボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領を解任させる。次いで、94年2月24日にボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力に圧力をかけて両者間の戦闘を停止させた。さらに、26日にはボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させる。
この協定の公表された内容は、「1,ムスリム人勢力としてのボスニア政府とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国による『ボスニア連邦』を設立させる。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』との間で将来国家連合を形成するための準備協定に合意する」というものである。ボスニア連邦の設立はともかくとして、ボスニア連邦とクロアチア共和国の国家連合を形成することは、各共和国がユーゴ連邦からの分離独立した経緯を考慮すればあり得るはずもないが、旧ユーゴ和平国際会議が和平交渉に尽力している傍らで米国が独自に介入した不自然さを糊塗するための、国際社会向けの目眩ましとして発表したのである。そして、94年をクロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力の訓練と装備の充実に充てた。訓練を施したのは米軍事請負会社・MPRIやCIAなどであった。
「西ボスニア共和国」は新戦略による「ボスニア連邦」の成立で窮地に陥る
ムスリム人による反ボスニア政府の西ボスニア共和国にとって、ボスニア連邦の成立はボスニア・クロアチア人勢力との断絶だけでなく、敵対勢力の増大を意味した。この西ボスニア共和国の処遇について、国際社会はほとんど関心を持たなかった。そのため、国連の明石康事務総長特別代表が仲介したボスニアの包括的な停戦合意がなされたのち、ボスニア政府軍が西ボスニア共和国への攻撃をほしいままにしても国際社会はほとんど反応しなかった。
94年6月には、米国の梃子入れで精強となったボスニア政府軍の第5軍団が圧倒的な軍事力で西ボスニア共和国に猛攻撃を加えた。そして8月、西ボスニア共和国が最後の拠点としたヴェリカ・クラドゥシャにボスニア政府軍が入域するに至り、西ボスニア共和国は崩壊状態に陥った。その後、ボスニア・セルビア人勢力およびクロアチアのクライナ・セルビア人勢力の援護を受け、西ボスニア共和国軍は態勢を立て直して攻勢に転じ、12月にはヴェリカ・クラドゥシャを奪還して西ボスニア共和国を再興した。
94年12月、明石国連特別代表の仲介で、ボスニア政府およびボスニア・セルビア人勢力そして西ボスニア共和国のアブディッチが4ヵ月間の停戦に合意し、調印が行なわれた。この経緯からすれば、ボスニアの内戦は沈静するのではないかとの期待が持たれた。しかし、米国が立案した新政略に和平は含まれていなかった。
デイトン和平交渉で「西ボスニア共和国」は無視されて消滅
米国の新戦略に基づく作戦の準備が整った1995年1月、クロアチア共和国のトゥジマン大統領はガリ国連事務総長に書簡を送り、国連保護軍・UNPROFORがクロアチアの和平の妨げになっているとの理由をつけて、撤収を要請した。国連安保理では異論が出されたものの、結局これに応える形で3月に決議981~983を採択し、国連保護軍・UNPROFORを3分割してクロアチアには縮減された国連信頼回復活動・UNCROを残置し、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPが配備された。
クロアチア共和国軍は国連保護軍が縮減されたのを見届けると、5月に「稲妻作戦」を発動して国連保護地域・UNPAに指定されたクロアチア・クライナのセルビア人居住地の「西スラヴォニア」を攻略した。この軍事行動に対してフランスとドイツが攻撃中止を要請すると、トゥジマン・クロアチア共和国大統領はセルビア人勢力軍を追放すれば撤収すると言い逃れたが、撤収することはなかった。その上、7月にはクロアチア共和国軍はボスニアに越境してボスニア政府軍とともに「‘95夏作戦」を発動し、ボスニアからクロアチアの「クライナ・セルビア人共和国」に至る幹線の要衝のリヴノとグラホヴォなどを占領。ボスニア・セルビア人勢力軍がクロアチア・セルビア人勢力の支援に赴く回廊を遮断した。
新戦略によるセルビア人勢力征圧作戦が完遂される
そして8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員した大規模な「嵐作戦」を発動し、クロアチア・クライナ地方のセルビア人勢力軍およびセルビア住民の掃討作戦を開始する。この作戦は4方面軍で構成され、クロアチアの「クライナ・セルビア人共和国」を包囲殲滅することを企図した大規模なものであった。クライナ・セルビア人共和国は既に稲妻作戦で東西に分断されていたことから4万人弱の兵員しか動員できなかったために戦線はたちまち崩壊し、住民ともどもクロアチア領から脱出せざるを得なかった。赤十字国際委員会・ICRCによると、このときクロアチア領から追放されたセルビア人は20万から25万人に及ぶという。
クロアチア共和国軍はクライナ・セルビア人共和国を崩壊させると、「ミストラル作戦」に転換してボスニアに侵攻し、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府があるバニャ・ルカおよび周辺の攻略をボスニア政府軍とともに敢行した。
クロアチア共和国軍とボスニア政府軍の共同作戦が展開する中、8月28日にマルカレ市場で爆発事件が起こされた。NATO軍はこの事件をセルビア人勢力によるものと即断し、1日後の30日未明にボスニア・セルビア人勢力に対する「デリバリット・フォース作戦(周到なる軍事作戦)」を発動する。NATO軍は激しい空爆を行なうとともに、陸上ではNATO加盟国主体の国連緊急対応部隊・RTFが激しい砲撃を加えた。NATO軍、国連緊急対応部隊、クロアチア共和国軍、ボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力の5者による激しい共同作戦に対し、西ボスニア共和国はもとよりボスニア・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)軍にも対抗する戦力はなかった。そのため、ボスニア・セルビア人共和国は、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領の助言を受けて屈服に近い形で和平交渉に入ることを受け入れる。
95年11月、米国主導のボスニア和平交渉が米国オハイオ州のデイトンにある軍事基地で行なわれた。その交渉に和平を願ったアブディッチ西ボスニア共和国大統領が招かれることはなかった。国際社会は政治交渉による解決を求めたアブディッチ西ボスニア共和国大統領の存在を無視したのである。その上で、その和平交渉で成立した「デイトン合意」において西ボスニア共和国は消滅させられた。
<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、アブディッチ、イゼトベゴヴィチ>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
クロアチア共和国とセルビア共和国とが接する東部国境地帯
クロアチア共和国内でセルビア人が主に居住していたのは、首都のザグレブおよび南西部ボスニアと国境を接するクライナ地方と東部のセルビア共和国との国境地帯の東スラヴォニア・バラニャ・西スレム地方である。
民族主義者のトゥジマンは実権を握るとクロアチア共和国の分離独立とクロアチア人化を進める
1989年11月に東欧の社会主義圏が崩壊すると、クロアチア共和国議会は12月に複数政党制の導入を決める。そして、90年4月に行なわれた議会選挙では民族主義者のトゥジマンが率いる「クロアチア民主同盟」が勝利し、トゥジマンがクロアチア幹部会議長(大統領)に就任した。90年7月、トゥジマン幹部会議長はクロアチア共和国のクロアチア人化政策を押し進め、憲法を修正してクロアチア共和国を「クロアチア人および全市民の国民国家」と定義してクロアチア人を主要民族と位置づけ、国旗を第2次大戦時のナチス・ドイツ傀儡ファシスト・グループ・ウスタシャの「クロアチア独立国」が使用した赤白の格子を交互にした市松模様風のものを模して規定した。第2次大戦中、ウスタシャのクロアチア独立国はクロアチア人純化政策を強行した際に、セルビア人を50万から60万人殺害した政権である。
第2次大戦時の「クロアチア独立国」の悪夢を避けるためにセルビア人住民は自治権を要求
クロアチア共和国政府がクロアチア民族化を進めることに第2次大戦中の悪夢を甦らせたセルビア人住民は、同じ90年7月に「クロアチア・セルビア民主党」が主導して「セルビア国民会議」を設置し、議長に強硬派のバヴィチを就けた。セルビア国民会議は、自治権を確保するための住民投票を8月に行なうと決定。クロアチア共和国政府が住民投票の禁止令を発する中、セルビア国民会議はセルビア人住民による住民投票を強行し、99%の賛成を得て「クライナ・セルビア人自治区」の設定を表明した。91年2月、自治区の首相に就任したバヴィチは国民会議と自治区の執行会議を動かしてクロアチア共和国からの分離独立とユーゴスラヴィア連邦への残留を決定する。
武力衝突の挑発を行なったクロアチア警察
1991年5月、東スラヴォニアのヴコヴァル近郊のボロヴォ・セロにクロアチア警察官が侵入し、銃を乱射しながら役場に掲げられたセルビア国旗を引き千切るという事件が起こされる。そのために、セルビア人住民との間で銃撃戦が展開された。このボロヴォ・セロ事件は、双方で15人の死者と数十人の負傷者を出すまでに至る。この事件がクロアチア共和国政府とクライナ・セルビア人勢力との対立を決定的なものとした。これをきっかけに、東スラヴォニア地方でも自治区設定の是非を問う住民投票が行なわれ、自治区の設定に賛成多数を得ることになる。
ECの和平への尽力を無視したドイツとバチカン市国
91年6月23日にECは臨時外相会議を開き、スロヴェニアとクロアチアの一方的な独立宣言は認められないとの方針を示した。しかし、委細かまわずクロアチア共和国とスロヴェニア共和国はともに6月25日に独立宣言を強行した。両国の独立宣言の背後にはドイツとバチカン市国の独立促進の働きかけがあった。
にもかかわらず、ECはユーゴ連邦の武力衝突を回避するために6月28日に首脳会議を開き、スロヴェニアとクロアチアに独立宣言の3ヵ月間の凍結を合意させた。さらに、9月3日に「ユーゴ和平会議」を設置してキャリントン英元外相を議長に任命した。しかし、ドイツとバチカン市国は、3ヶ月間の独立宣言を単なる冷却期間としか受け取らなかった。
そして、ドイツはEC諸国に先駆けて12月23日に単独で両国の独立を承認し、バチカンは翌92年1月13日にやはり単独で両国の独立を承認した。EC諸国はこれに引きずられるようにして1月15日に両国の独立を承認することになる。
これを受けて、スラヴォニア地方のセルビア人住民はスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言した6月25日の同日、「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム・セルビア人自治区」を設立して対抗した。
クロアチア共和国のユーゴ連邦からの分離独立でクライナ・セルビア人共和国を設立
91年12月、クロアチアの「クライナ・セルビア人自治区」が「クライナ・セルビア人共和国」への昇格を宣言すると、「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム・セルビア人自治区」もこれに加わり、クロアチアのセルビア人住民は「クライナ・セルビア人共和国」で統一されることになる。クライナ・セルビア人共和国大統領には、クニン市長に就いていた強硬派のバヴィチが就任。バヴィチは支持基盤をクライナ地方に置いていたが、クライナ・セルビア人共和国をクロアチア共和国から分離させてユーゴ連邦へ統合することを主張した。
一方、穏健派のハジッチやラシュコヴィチはスラヴォニア地方を拠点とし、クロアチア共和国内での自治権確保を模索していた。この強硬派と穏健派の対立は、92年1月にヴァンス国連事務総長特使が提示した和平案をめぐって決定的となる。バヴィチがこれに強硬に反対し、和平案を潰すために議会をクライナ地方のクニンで開いて住民投票にかけることを決定した。これに対して穏健派は、スラヴォニア地方のグリナでセルビア人共和国議会を開いてバヴィチを解任し、閣僚の更迭および住民投票の決定を破棄してパスパリ議会議長を大統領代行に就け、のちにハジッチを大統領に選出した。バヴィチはこれに従わずにクライナ地方のクニンで大統領を自称したため、クライナ・セルビア人共和国はぎくしゃくした状態が続くことになる。
主要国のスロヴェニアおよびクロアチア共和国の独立承認で武力衝突が激化
EC諸国がドイツとバチカン市国の圧力に屈して、92年1月15日にクロアチア共和国とスロヴェニア共和国の分離独立を主要国が承認したことをきっかけにして、クロアチア共和国軍とクロアチア・セルビア人共和国軍との間での武力衝突が激化した。
国連安保理はこの武力衝突を抑止するために、92年2月に決議743を採択し、クロアチアの紛争地域への国連保護軍・UNPROFORの派遣を決める。そして、クロアチア共和国軍の支配地とクライナ・セルビア人共和国軍支配地の境界の東スラヴォニア、西スラヴォニア、クライナ、ダルマツィアの4地域を国連保護地域・UNPAに設定し、UNPROFORを駐屯させて武力衝突の回避を図った。UNPROFORが配備されたことで、ひとまずクロアチアでの武力衝突は沈静化するかに見えた。しかし、クロアチア共和国軍は92年6月に「ミリィフツィ・プラトー作戦」を敢行し、国連保護区・UNPAに設定されたダルマツィア地方のセルビア人住民を攻撃して追放した。
1992年10月、クロアチア共和国に対抗する形で「クライナ・セルビア人共和国」と「ボスニア・セルビア人共和国」の両議会が合同会議を開き、両共和国の統一に関する決議を採択した。しかし、実質的な統一国家を形成するに至らなかった。一方、クロアチア共和国は着々とクロアチア・セルビア人共和国の領域の制圧を図り、93年1月には「マスレニツァ作戦」を発動してダルマツィア地方の国連保護地域・UNPAに駐屯しているUNPROFORの監視所を砲撃して排除しつつザダル周辺を制圧。93年9月には「メダック・ポスト作戦」を実行し、やはりダルマツィア地方の国連保護地域・UNPAのゴスピッチ周辺を制圧した。国連保護軍の司令官は、国連決議743に違反していると抗議し、攻撃を中止するよう要請したがクロアチア共和国軍はこれを無視して作戦を完遂した。これに対して国連安保理は、議長声明を表明することですませた。
米政府はセルビア人征圧計画の「新戦略」を立案する
他方、ヴァンス・オーエン和平会議両共同議長は93年1月にボスニアを中央政府の下に10のカントン・州に分割し、自治州とする和平裁定案を提示する。この裁定案は当事者の受け入れるところとはならず、むしろ自治州の権限を確保することを目的とした武力紛争を誘発することになった。ヴァンス国連事務総長特使はこれを見て辞任する。
後任のシュトルテンベルグとオーエン両共同議長は93年5月、ヴァンス・オーエン裁定案を基礎としたボスニア・ヘルツェゴヴィナを3共和国の連合国家とする案を提示する。しかし、セルビア人勢力とクロアチア人戦力は受諾をする意向を示したものの、ボスニア政府が条件をつけたためこれも不調に終わった。そればかりか、カントン分割が基礎となると捉えたボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の間に領域確保のための熾烈な戦闘をもたらすこととなった。殊にクロアチア人勢力が臨時首都に定めた古都のモスタル市では激烈な砲撃戦が展開され、ネレトヴァ川に架かる橋はすべて砲撃で落とされた。
クリントン米政権は、この両者が戦火を交えていては、セルビア人勢力を征圧することは困難と見て、94年に「新戦略」を立案する。新戦略の描く筋書きは、公表された「ボスニア連邦」構想とは別に、クロアチア共和国およびボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力を統合して統合共同作戦を実行させ、それにNATO軍を絡ませてクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を屈服させるというものである。
新戦略の第1段階として、まず強硬派のボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領を解任させ、次いで94年2月24日にボスニア政府軍とボスニア・クロアチア勢力軍の代表を呼び集めて強引に停戦に応じさせる。そして26日には、ボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。94年の1年間は統合作戦の準備期間に当てられ、米軍事請負会社・MPRIと米CIAがクロアチア共和国軍およびボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の作戦指導と訓練を行なった。
クロアチア共和国軍は国際社会の和平への努力を無視して大規模な制圧作戦を展開
1995年1月、新戦略による軍備強化と統合共同作戦の準備が整うと、トゥジマン・クロアチア大統領はガリ国連事務総長に書簡を送り、和平の障害となるとの理由をつけて国連保護軍・UNPROFORの撤収を要求した。国連安保理はこれに応えて決議981~983を採択し、国連保護軍・UNPROFORを3分割してクロアチア共和国内には縮減した国連信頼回復運動・UNCROを残置し、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。
95年5月、クロアチア共和国軍は国連保護軍が移動して縮減されたのを見届けると、一連の大規模なセルビア人勢力の制圧作戦を開始する。先ず、国連決議の保護地域・UNPAである「西スラヴォニア」を制圧するための「稲妻作戦」を発動し、国連信頼回復活動・UNCROの監視所を砲撃して排除しつつ、2日で西スラヴォニアを陥落させた。ドイツとフランスがこの軍事行動の中止を要請すると、トゥジマン・クロアチア共和国大統領はセルビア人勢力軍を掃討した後には撤収すると言い逃れたが、作戦が終了しても撤収することはなかった。西スラヴォニアが制圧されたことによって、クライナ・セルビア人共和国は「東部スラヴォニア」地方と「西南部のクライナ地方」に分断された。
8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員した大規模な「嵐作戦」を発動する。この作戦は見事に統制がとられ、4方面からクライナ地方のセルビア人共和国に総攻撃をかけることになる。これを迎え撃つクライナ地方のセルビア人勢力軍は東西に分断されたことで4万人弱の兵員しか確保できず、クロアチア共和国軍15万の兵員とそれをに呼応したボスニア政府軍の挟撃に合い総崩れとなって崩壊した。クロアチア共和国軍は、クライナ地方のセルビア人共和国を殲滅させた後、「東スラヴォニア」の攻略に取りかかったが、EUなどの圧力で武力制圧を断念する。
クロアチア共和国軍は新戦略によるセルビア人制圧のためのボスニア越境作戦を敢行
クロアチア共和国軍は東スラヴォニアの攻略を断念すると、「ミストラル作戦」に切り替えてボスニア領内に侵攻し、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府が置かれているバニャ・ルカの攻略に取りかかった。ボスニア政府軍はこれと共同行動を取り、近傍のヤイツェなどを攻略する。
この共同作戦が続いている最中の8月28日にサラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こされ、市民多数が死傷した。
NATO軍の「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」は米国の新戦略の最終作戦
NATO軍はこの事件をボスニア・セルビア人勢力が起こしたものと即断し、検証を省いて1日余りしか経たない30日の未明に「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動してボスニア・セルビア人勢力を空陸から激しく攻撃した。クロアチア共和国軍の越境攻撃とボスニア政府軍の共同行動、およびNATO軍の空陸からの攻撃に、ボスニア・セルビア人勢力は対抗するすべがなく、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領の助言を受けて屈服する形で停戦協定に応じる。
「東スラヴォニア自治州」は国連暫定統治機構・UNTAESを経てクロアチアに統合
NATO軍がボスニアのセルビア人勢力を屈服させた後の95年11月に持たれたボスニア和平協議で、「東スラヴォニア」は猶予期間を経てクロアチア共和国へ統合されることが合意され、この地域は暫定的に国連の保護下に置かれることになる。
留保された東スラヴォニアは、96年1月に国連安保理決議1037で「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム暫定統治機構・UNTAES」の設置を採択して国連の管理下におかれる。セルビア人勢力の武装解除とクロアチア共和国への行政権限の移行措置を実施するためである。東スラヴォニアは穏健派のハジッチの拠点地域であり、クロアチア内での自治権確保を求めていたことから、UNTAES設置によるクロアチア共和国への再統合方針を受け入れる。
UNTAESは、軍事部門と文民部門で構成され、クロアチア共和国側が行なうおそれがあるセルビア人住民への人権侵害を抑止しつつ、「非武装化、難民・避難民の帰還、治安維持、警察および司法機関の設置、復興支援」などの任務機関を設置する。UNTAESは活動期限を2度延長したが、98年1月に採択された国連安保理決議1145によって、「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム」はクロアチア共和国の自治州として吸収された。決議1145は、UNTAESを解消するとともに、移行措置として「国連文民警察サポート・UNPSG」を設置し、「クロアチア共和国政府による人権侵害行為の是正、民族対立の緩和、難民帰還」などの任務を受け継がせた。98年10月以降は、欧州安保協力機構・OSCEが東スラヴォニアのセルビア人住民への人権侵害などを監視することになる。
<参照;トゥジマン、メシッチ、クロアチア、クライナ・セルビア人共和国>
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複数政党制の導入によって民族主義政党が台頭
89年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東欧諸国は雪崩をうつようにして社会主義体制を抛棄していった。ユーゴスラヴィア連邦もその影響を受け、89年12月にユーゴスラヴィア連邦共産主義者同盟が一党独裁を放棄する方針を決定する。それ以来、ユーゴ連邦内の各共和国が複数政党制を導入し始めた。
90年1月に行なわれたユーゴ連邦共産主義者同盟の党大会でスロヴェニア代表は数多の改革案を持ち込み、ユーゴ連邦を国家連合とするとの提案をしたがそれが否決されると、共産主義者同盟を脱退すると宣言して退席し、次いでミロシェヴィチ・セルビア大統領の説得を振り切ってクロアチアの代表も退場してしまう。これがユーゴ連邦の各共和国の対立を決定的にした。これ以来、スロヴェニアとクロアチアはユーゴ連邦からの分離独立の気運を高めて防衛隊を設立し、ハンガリーなど東欧諸国から武器を密輸して来るべき武力紛争に備えるようになる。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでもムスリム人住民は90年5月に民族主義政党「民主行動党」を結成する。これに対抗してボスニアのセルビア人住民は、6月に民族主義政党「ボスニア・セルビア民主党」を結成。7月にはボスニア議会が複数政党制の導入を決議する。続いてボスニアのクロアチア人住民は8月に民族主義政党「クロアチア民主同盟」をクロアチア共和国の「クロアチア民主同盟」の支部として結成した。
11月に行なわれた複数政党制によるボスニア議会選挙は、アンケート調査では民族主義政党を禁止すべきだと答えた人が過半数を超えていたことから、非民族主義政党が有利だとの予測がなされていた。ボスニアの有力なメディアも、ボスニアで紛争が起こることはないと見ていた。しかし、その予測は覆り、ムスリム人の「民主行動党」、セルビア人の「ボスニア・セルビア民主党」、クロアチア人の「クロアチア民主同盟」の民族主義政党がそれぞれの民族分布を反映して圧勝し、議席数の8割を占めた。このことが、民族対立を顕在化させることになる。
スロヴェニアおよびクロアチアの独立の動きがボスニアにも波及
一方、クロアチア共和国の民族主義者フラニョ・トゥジマンは、80年代末に世界のクロアチア人ディアスポラを訪ね巡り、クロアチア民族主義を説いて回っていた。そして、ディアスポラからの資金援助を得て89年に「クロアチア民主同盟」を結成して党首に就いた。90年4月に行なわれた大統領選と議会選でクロアチア民主同盟が過半数を獲得し、トゥジマンが大統領に就任する。そして7月に憲法を改定し、「クロアチア人および全市民の国民国家である」と謳い上げてクロアチア人によるクロアチア国家の建設を宣言した。
そして、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国がユーゴ連邦からの分離独立の動きを強める。それに危機感を抱いたボスニアのセルビア人住民は、4月にバニャ・ルカで「ボスニア・クライナ自治体同盟」を創設し、自治権限を大幅に委譲させる地域化を提言した。ボスニア政府はマケドニア政府と共同で主権国家による国家連合構想を表明するが、民族主義は先鋭化しつつあり、もはや大勢を動かすものとはならなかった。
全欧安保協力会議・CSCEは、ユーゴ連邦内における武力衝突が増大することを危惧し、91年6月19日に開いた外相協議会で「ユーゴ連邦の統一を支持する」との声明を発表した。スロヴェニア共和国とクロアチア共和国はこれを意に介することなく、予定通り6月25日にユーゴ連邦からの独立宣言の発出を強行した。
これに対し、ボスニアのセルビア民主党は、ユーゴ連邦からの一方的な離脱は認められないと主張する一方で、6月27日に「ボスニア・クライナ自治体同盟」と「クロアチア・セルビア人自治区」との合同議会を開催し、経済や文化等の関係強化と将来に向けた協力に関する宣言を採択した。
スロヴェニア共和国は、独立を宣言すると郷土防衛隊が直ちに連邦政府の施設を接収した。これに対し、ユーゴ連邦の首相に就いていたクロアチア人のアンテ・マルコヴィチはスロヴェニアの接収を解除するために、2000人の連邦人民軍を派遣する。しかし、その時に備えて第5軍管区の連邦人民軍のスロヴェニア人を吸収して6万の兵員を整えていたスロヴェニア郷土防衛隊は圧倒的な兵力で連邦人民軍を包囲して攻撃し、捕虜とした。これがスロヴェニアの10日戦争である。欧州の主力メディアはこの時の戦闘行為について、連邦人民軍がスロヴェニアを侵略した行動であると報じた。
クロアチア共和国では、独立宣言の時点でクロアチアの防衛隊は既に8万余の兵員が備えていた。そして全人民防衛体制によって各地に配備されていた軍需物資を奪取するとともに、その軍事力で第4軍管区の連邦人民軍の兵舎を包囲し、やはり電気や水道の供給を遮断して襲撃を繰り返した。連邦人民軍はこの事態を打開するために戦車隊などの増援部隊を送ったが、主としてクロアチアの民兵隊が行く手を阻んだためにヴコヴァルなどで激しい武力衝突が起こされた。
ムスリム人実業家ズルフィカルバシチの「歴史的協定」をイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は拒否する
ボスニアの「ムスリム・ボスニア人組織党」の党首であり実業家のズルフィカルパシチは、スロヴェニアとクロアチアと同様の武力衝突がボスニアにも飛び火することを危惧し、紛争を回避する方策を模索した。91年7月、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)の委任を取り付けると、カラジッチ・ボスニア・セルビア人勢力代表とミロシェヴィチ・セルビア共和国幹部会議長との交渉を重ねる。そして、歴史的協定といわれる「両民族間の平和的な関係を確認する協定」を成案にして調印直前にまで漕ぎ着けた。この和平案が合意されたことを知った民衆は民族間をこえて喜び合い、抱擁しあったという。
ところが、この間米国とイスラム諸国を歴訪して帰国したイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は、土壇場で理由を示さずに協定への調印を拒否する。民衆は、イゼトベゴヴィチが拒否した後も暫くは諦めきれずにいたが、次第に対抗する行為をとり始めた。
ECは武力衝突の回避を図ったがドイツとバチカン市国は意に介さず
ECは同じ91年7月に首脳会議を開き、ユーゴ連邦の紛争を回避するための方策を協議し、クロアチアおよびスロヴェニア両国に独立宣言の3ヵ月間凍結を含む「ブリオニ合意」を受け入れさせた。そして8月にはEC和平会議を設置し、キャリントン英元外相を議長に任命する。しかし、80年代からユーゴ連邦の解体を働きかけていたバチカン市国と東西ドイツ再統一の余勢の中にあるドイツは、3ヵ月の凍結期間を冷却期間としか受け取らず、EC諸国に水面下で独立を承認させるための働きかけを続けた。
スロヴェニア共和国のルペン外相は、「ブリオニ合意」が成立した直後に「EC監視団の1員が、3ヵ月の凍結期間終了後のスロヴェニアは自由だと語った」と内幕を明かした。
ボスニア議会はセルビア人議員の反対を仕切って独立確認議案を採択
91年10月に開かれたボスニア議会は、ムスリム人の「民主行動党」がユーゴ連邦から分離独立した上でボスニアの統一国家を維持する方針を譲らず、ボスニア・セルビア民主党は各民族の主権の確立およびユーゴスラヴィア連邦への残留を強硬に主張したため、両者の思惑が真正面から衝突して紛糾した。セルビア民主党の議員が議場から退席した後に、ムスリム人の民主行動党が提出した「ボスニアの独立を確認する」文書をクロアチア民主同盟の賛成の下に採択したため、ボスニアにおける3民族協調政権は事実上崩壊した。
危機感を抱いたボスニア・セルビア人勢力およびクロアチア人勢力が自治区を創設
ボスニアのセルビア人住民は、それぞれの地域で自治区の設立を推進し始める。9月12日に「ヘルツェゴヴィナ・セルビア人自治区」の設立を宣言。9月16日には「ボスニア・クライナ・セルビア人自治区」の設立を宣言。10月22日に「ロマニヤ・セルビア人自治区」の設立を宣言。10月28日に「北東ボスニア・セルビア人自治区」の設立を宣言。11月5日には「北ボスニア・セルビア人自治区」の設立を宣言。翌92年1月10日には「ビハチ・セルビア人自治区」が設立を宣言するというように進行した。
ボスニアのクロアチア人住民もこの動きに呼応するように、92年1月に「ボスニア・ボサヴィナ・クロアチア人自治区」および「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共同体」などの自治区を設立する。このため、ボスニアのムスリム人とセルビア人およびクロアチア人が共生していた105の自治体の内、102の自治体で民族による地域の囲い込みが進行した。
国際社会のスロヴェニアとクロアチアの独立承認がボスニアにも紛争を巻き起こす
ECが要請したスロヴェニアとクロアチアの独立宣言の凍結期間がすぎると、ドイツのコール首相は11月6日に開かれた議会で「ECは、間もなく両国の独立を承認するだろう」と述べ、12月23日に議会は単独で両国の独立を承認する。バチカン市国国務省のソダノ枢機卿は11月26日に米・英・仏・独・伊・ベルギー・オーストリアの大使を招き、1ヵ月以内に両国の独立を承認するよう要請。そして、翌92年1月13日に他国に先駆けて両国の独立を承認した。EC諸国はこれに引きずられるようにして、1月15日にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認してしまう。
一方、ボスニアのセルビア人住民は91年11月に各地域における住民投票を実施し、圧倒的多数がユーゴ連邦への残留を支持する。セルビア人国民会議はそれを受け、92年1月にユーゴ連邦の構成単位としての「ボスニア・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」の建国を宣言し、ラドヴァン・カラジッチを大統領に選出した。
92年2月21日、国連安保理は決議743を採択し、ユーゴ連邦での武力衝突を抑止するために国連保護軍・UNPROFORの派遣を決定する。そのような中、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はスロヴェニアとクロアチアが国際社会から独立を承認されたことから、ボスニアの分離独立を推進すると表明した。
「リスボン合意」を拒否して内戦への道を選んだイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領
ECは、ボスニアにおいてクロアチアと同様の内戦は避けなければならないと捉え、ボスニア和平に関する国際会議を開くことにする。ポルトガルのJ・クティリェロを議長に据え、第1回を92年2月14日にボスニアのサラエヴォで開き、第2回を2月21日にポルトガルのリスボンで開いた。
イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長はリスボンで和平会議が行なわれている傍らで、2月末にユーゴ連邦からの分離独立の是非を問う住民投票をセルビア人住民が反対する中で強行し、99%の賛成を得ると3月3日には独立宣言を表明した。EC和平会議はイゼトベゴヴィチの行動に妨げられながらも3月18日に第5回会議を開き、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの新憲法秩序の諸原則に関する宣言」に合意させ、3民族の代表の署名に漕ぎ着けた。
この「リスボン合意」と称する合意の主旨は、「1,ボスニア・ヘルツェゴヴィナは独立国家とする。2,三民族が地域別に国家としての権限を有する連合国家とする。3,連合国家の上に中央政府を置き、外交、防衛、金融を担わせる」というものである。この宣言に、ムスリム人代表としてのイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領、セルビア人勢力の代表カラジッチ・スルプスカ共和国大統領、クロアチア人代表のボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共同体大統領らは揃って署名した。
ところが、ボスニアの独立を宣言していたイゼトベゴヴィチ大統領は内心この連合国家構想に不満を抱いており、帰国するとツィンマーマン駐バチカン米大使に善後策を相談した。ツィンマーマン米大使は、署名を撤回することは可能だとの助言を与えた。イゼトベゴヴィチ大統領は、ツィンマーマン米大使の助言を得てリスボン合意の署名を撤回する、と表明する。しして、直後にボスニアの軍団編制に取りかかった。編制は5軍団制で、第1軍団はサラエヴォ、第2軍団はトゥズラ、第3軍団はゼニツァ、第4軍団はモスタル、第5軍団はビハチの防衛を任務とした。
民主党のビル・クリントン米大統領がユーゴ問題への強硬策を採る
米国としては、当初はユーゴ連邦の分裂を望んでいなかった。それは、スロヴェニアとクロアチアが独立宣言を発した翌日の6月26日に、ブッシュ大統領が「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」と軍事的な解決を回避するよう呼びかけていたことに表わされている。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領候補として立候補した際、ユーゴ問題を政争の具として取り上げ、ブッシュ政権の対応は軟弱だと批判した。それを契機にして、米政府は次第に強行策をとり始めるようになる。そして、米国は4月にスロヴェニアとクロアチアそしてボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を一括して承認することに踏み切る。EC諸国は、これに追随してボスニアの独立を承認した。
ボスニアの独立が承認されたのを見て、セルビア人国民会議はユーゴ連邦への残留を規定した「ボスニア・セルビア民族共和国憲法」を制定する。
ボスニアの各民族勢力は着々と軍備を整える
ボスニアには第2軍管区のユーゴ連邦人民軍が駐屯していたが、当初は連邦人民軍の任務である連邦制の維持のために各民族間の武力衝突を抑制する行動を取っていた。しかし、ボスニア政府がユーゴ連邦からの離脱の動きを強める中で、ムスリム人およびクロアチア人兵士が武器を所持して離脱し、各民族の防衛隊や民兵組織に加わり始めた。そして、ボスニア政府とともにユーゴ連邦人民軍を侵略軍と決めつけ、クロアチア共和国における行為に倣うように電気や水道の供給を止め、兵舎を包囲して襲撃するなどの行為を取るに至る。ムスリム人兵士とクロアチア人兵士が離脱してセルビア人が多数を占めるようになった連邦人民軍は、次第にセルビア人勢力寄りの行動を取るようになっていく。
このことが国際社会の非難を浴びたため、連邦人民軍は5月に出された安保理決議752を受ける形でボスニアからの撤収を表明する。そして、ユーゴ連邦人民軍をユーゴ連邦軍として改編し、撤収するに当たって主要な武器は帯同したものの、残留を希望したボスニア出身のセルビア人兵士とともにかなりの兵器を残置した。
セルビア人勢力は兵器を多量に確保して軍団を編成
ユーゴ連邦軍が撤収したことで、セルビア人勢力は92年5月、残留した連邦人民軍兵士を中核として6個の軍団を設立する。ヘルツェゴヴィナ軍団、サラエヴォ=ロマニャ軍団、東ボスニア軍団、ドリナ軍団、第1クライナ軍団、第2クライナ軍団の6軍団である。そして、総司令官には第1クライナ軍団のラトコ・ムラディッチが就任した。軍団体制を整備したセルビア人勢力は、優勢な軍事力で領域を拡大していき、92年末にはボスニアの7割を支配するまでになる。
これに対し、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、クロアチア人勢力の防衛会議およびクロアチア共和国との軍事協力を強化する協定を結ぶことで対抗した。EC和平会議のキャリントン議長は、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領に現実を直視して和平交渉に応じるように説得するが、イゼトベゴヴィチは外部の圧力と支援を期待して武力によるボスニアの統一に拘り、和平会議の裁定案にあれこれと理由をつけて拒否し続けた。これを見てキャリントン和平会議議長は、ロンドン会議の直前に辞任した。会議は急遽EC側の議長として、オーエン元外相を選任する。
ヴァンス・オーエンの和平裁定案をきっかけに3民族の領域争いが激化
1992年8月に開かれた旧ユーゴ和平会議は、国連側の特使となったヴァンス米元国務長官とEC側の議長として新たに選任任されたオーエン議長による合同和平会議として運営された。
93年1月、ヴァンス・オーエン和平国際会議両共同議長がボスニアを「10カントン・州」に分割する裁定案を提示し、3月には修正案を示した。ミロシェヴィチ・セルビア大統領はこの裁定案を評価し、カラジッチ・スルプスカ共和国大統領に裁定案を受諾するよう圧力をかけた。カラジッチ大統領はミロシェヴィチ・セルビア大統領の圧力に屈してこれを受け入れるが、ムラディッチ総司令官の反対の意を受ける形でボスニアのセルビア人議会はこれを否決してしまう。
一方、ボスニア・クロアチア人勢力は分割が予定されている州の支配権を確保することを企図し、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に援軍の派遣を求めた。5月に援軍が到着するとモスタル市を臨時首都と定め、クロアチア人のみの地域とするべくムスリム人の排除攻撃を仕掛けた。モスタル市はボスニア政府軍の第4軍団の拠点だったことから厳しい攻防戦が展開されることになる。この戦闘で、ネレトヴァ川に400年前のオスマン帝国時代に架けられた美しい石橋「スタリ・モスト」を含め、6つの橋は砲撃ですべて落とされた。8月、クロアチア人勢力は「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の建国を宣言してモスタル市を首都とする。
米国は「新戦略」によってセルビア人勢力征圧を企図する
米国は、93年1月にユーゴ問題への強硬策を唱えていたクリントンが大統領に就任し、セルビア悪に基づく介入策を立案していたため、このボスニア・クロアチア人勢力軍とムスリム人勢力としてのボスニア政府軍との激しい戦闘に当惑した。
そこで、米国はセルビア人勢力を征圧する基本線は変えないままの「新戦略」を策定する。先ず、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、強硬派のボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領を解任させる。そして、レッドマン米特使が2月24日にボスニア政府とクロアチア人勢力の代表を呼び集めて強引に停戦合意に調印させた。次いで、2月26日にボスニア政府、ボスニア・クロアチア人勢力およびクロアチア共和国政府の代表を米国に呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させる。公表されたワシントン協定の内容は「1,ムスリム人勢力の『ボスニア政府』とクロアチア人勢力の『ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国』とで『ボスニア連邦』を構成する。2,その『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来国家連合を形成するための予備協定に合意する」というものである。
ボスニア連邦の設立はともかくとして、ボスニア連邦とクロアチア共和国が国家連合を形成することなど、ユーゴ連邦からの分離独立の経緯を見ればあり得ることではない。この項目は、明石康国連特別代表が94年1月に和平特使としてボスニアに派遣されたばかりであり、またECのボスニア和平国際会議が和平に尽力している最中に、米国がボスニア問題にクロアチア共和国を米本土に呼びつけた不自然さを糊塗するために編み出した、見え透いた目くらましであった。だが、この術策に国際社会はほとんどが騙された。米国の新戦略に込めた意図は、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するために、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍を統合した共同作戦を行なわせ、それにNATO軍を絡ませるという大規模な軍事作戦を実行するところにあった。
94年は新戦略のための準備期間に充てられる
この共同作戦のために、94年の1年間は準備期間に充てられた。まず、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍との間に統合司令部を設置させた。次いで、米退役軍人などを米軍事請負会社・MPRIを通じてクロアチアとボスニアに送り込み、軍事訓練と作戦を指導した。武器の調達は、国連安保理決議で禁止された武器禁輸決議の監視業務を緩めて密輸を促した。不足分は米軍の輸送機を使用し、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍の支配地域の空港に空輸した。兵員はボスニア政府軍はもとよりだが、米CIAが対ソ・アフガニスタン戦争のムジャヒディーンを民兵として引き入れた。この中には後にアルカイダと称される者たちも含まれている。その上で、米軍の特殊部隊を送り込み、通信と兵站業務を整備した。
トゥジマン・クロアチア共和国大統領は新戦略発動のために国連保護軍の撤収を要求
1995年1月、準備を整えたクロアチア共和国のトゥジマン大統領は、国連保護軍・UNPROFORの存在がクロアチアの和平の障害になっているとの理由をつけ、ガリ国連事務総長に撤収を要求する書簡を送付する。国連安保理はこれに応え、3月に決議981~983を採択し、国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアには縮小した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。
クロアチア共和国軍は新戦略に基づく統合共同作戦を開始する
クロアチア共和国軍は、国連保護軍が分割に伴う移動を終了させたのを見届けると、5月1日に「稲妻作戦」を発動してセルビア人居住地の「西スラヴォニア」を攻略した。この軍事行動に対し、フランスとドイツが中止を要請したが、トゥジマン・クロアチア大統領はセルビア人勢力軍掃討作戦が終了すれば撤退すると言い逃れたが、撤退することはなかった。そればかりか、7月に入るとクロアチア共和国軍はボスニア領内に越境し、ボスニア政府軍と共同で「‘95夏作戦」を実行してクロアチアのクライナ・セルビア人共和国の首都クニンに至る幹線の要衝であるリヴノとグラホヴォなどを占拠した。この作戦は、次に予定された「嵐作戦」の際、ボスニア・セルビア人勢力がクライナ・セルビア人共和国を支援できないように、ルートを遮断することにあった。
95年8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員し、クロアチア・クライナ地方のセルビア人を掃討する大規模な「嵐作戦」を発動した。嵐作戦は、クロアチア共和国軍が4つの方面軍を編成し、それに統合司令部を形成したボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍を絡ませるという統合共同作戦であった。クロアチア共和国軍は、セルビア人共和国の首都のクニンを攻撃する際、国連信頼回復活動・UNCROの駐屯地を攻撃して国連の要員を殺害し、拘束して人間の盾として戦闘部隊の先頭を歩かせることまでしたが、国際社会はこれを不問に付した。
ボスニア政府軍はボスニア東南部のスレブレニツァやゴラジュデなどで陽動作戦を行ない、スルプスカ共和国軍がクロアチアのセルビア人勢力への支援に向かえないようにしていた。
NATO軍は、嵐作戦を支援する軍事行動を取り、セルビア人勢力軍の通信施設やミサイル基地を空爆した。クライナ・セルビア人共和国軍は3万余の兵員しか動員できなかったため、クロアチア共和国軍の15万余の軍事力に対抗できるはずもなくたちまち総崩れとなり、住民とともにクロアチア脱出を余儀なくされた。赤十字国際委員会・ICRCによると、この作戦でクロアチアから追放されたセルビア人は20万人から25万人に及ぶという。クロアチア共和国軍はクライナ・セルビア人共和国の首都クニンを陥落させると、「東スラヴォニア」の攻略に取り掛かるが、これは西側諸国の圧力を受けて断念する。すると、クロアチア共和国軍は「ミストラル作戦」に切り替えてボスニアに侵攻し、スルプスカ共和国の大統領府が置かれているバニャ・ルカ攻略に取りかかった。ボスニア政府軍はクロアチア共和国軍の作戦に呼応し、近傍のヤイツェを攻略する。
NATO軍の軍事作戦は新戦略によるセルビア人勢力征圧の最終戦
クロアチアとボスニア両軍の共同作戦が続けられている最中の8月28日に、サラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こされた。NATO軍はこれをボスニア・セルビア人勢力の犯行と即断し、30日未明に「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動してボスニアのセルビア人勢力に空陸から猛攻撃を加えた。ボスニア政府軍はNATO軍の攻撃に共調し、クレンバック、ボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュなど次々とセルビア人勢力の支配地域を制圧し、ボスニアのおよそ半分を支配する戦果を上げた。ボスニア・セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」は、クロアチア共和国軍とボスニア連邦軍に加えてNATO軍の空陸からの攻撃に対抗できるはずもなく、屈服する形で和平交渉に応じることになる。
後に、マルカレ市場爆発事件は、セルビア人勢力の仕業に見せかけたムスリム人勢力によるものとの可能性が指摘された。実際は、米国が新戦略を完成させるために米CIAなどの情報工作機関を通じて起こさせた可能性が高い。
イゼトベゴヴィチの統一路線は結実せず国際管理下に置かれたボスニア
95年11月に戦後処理として行なわれたボスニア和平交渉は、米オハイオ州デイトンにある軍事基地において米国の主導の下に進められた。スルプスカ共和国の代表は、カラジッチ大統領が4月に旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに起訴に伴う指名手配されたために出席できず、コリェヴィチ副大統領とクライシュニク議会議長が参加したもののほとんど存在を無視され、スルプスカ共和国の権益代表はミロシェヴィチ・セルビア大統領が代行した。国連および連絡調整グループの国々も招かれはしたが、交渉では傍役の地位しか与えられなかった。
デイトン和平合意の主な内容は、「1,エンティティとしての『ボスニア連邦』にはボスニアの51%の領域を配分し、『スルプスカ共和国』には49%の領域を配分する。2,このボスニア連邦とスルプスカ共和国の両機構の上に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの中央政府が設置され、主に外交と防衛および金融を担う」というものである。
デイトン和平合意に伴って95年12月に進駐したNATO諸国主体の平和実施部隊・IFORは、96年には軍事力行使が可能な平和安定化部隊・SFORに交替して軍事部門を担った。民生部門は、国連安保理が95年12月に決議1035を採択して「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBH」を設置し、ボスニアの行政の整備と監視活動を行なうことになる。2002年、UNMIBHは米国が国際刑事裁判所・ICCの訴追対象から米国の要員を外すことを要求したことから紛糾し、突如終了することとなる。その任務は欧州連合のEUPMが引継ぎ、SFORの任務は04年にEUFORが受け継いだ。
統一国家に拘ったためにボスニア内戦を長引かせたイゼトベゴヴィチは03年に死去するが、直前に行なわれたインタビューでムスリム人の被害についてしばしば誇張があったと語っている。彼が拘ったボスニア・ヘルツェゴヴィナの国家形態は25年を経ても統一されることはなく、内戦の傷跡となった3民族の対立はそのままに続いている。
<参照;ユーゴスラヴィア連邦、ボスニア、クロアチア、クライナ・セルビア人共和国>
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ドイツとバチカン市国はスロヴェニアとクロアチアの分離独立を画策
ツィンマーマン駐バチカン米大使の「大使の物語」によると、バチカン市国は80年代の後半に、カトリック圏としてのスロヴェニアとクロアチアをユーゴ連邦から分離独立させるべく働きかけを始めていた。
のちにクロアチアの大統領になる民族主義者のトゥジマンは、世界に散ったクロアチア人ディアスポラを訪ね回ってクロアチア民族主義を説いて回った。そして、88年にコール・ドイツ首相に会い、ユーゴ連邦からの独立運動の際の援助を申し入れた。コール・ドイツ首相はこのトゥジマンの申し入れを快諾したものと見られる。このころからクロアチアとスロヴェニアの分離独立に積極的に関与し始めたからである。89年9月、スロヴェニアではユーゴ連邦からの分離独立を規定する憲法を成立させた。
89年11月にベルリンの壁が崩壊すると、コール・ドイツ首相はすぐさま東西ドイツの再統一に取りかかった。そして、90年3月に行なわれた東ドイツの議会選挙に露骨に介入し、1年も経ない90年10月にドイツの再統一を果たした。ドイツの再統一には資金がかかることから、経済圏の拡大を視野にユーゴ連邦のスロヴェニアとクロアチアを取り込むべくコール独首相は分離独立工作を強めていく。
クロアチア共和国は89年12月に複数政党制の導入を決める。直後の12月26日に開いたユーゴスラヴィア連邦共産主義者同盟中央員会は、クロアチアの主張を入れて複数政党制の導入を決めることになった。
複数政党制の導入に伴って民族主義政党が台頭する
90年7月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの議会も複数政党制の導入を決議する。そして、90年11月に行なわれたボスニア議会選挙では、非民族主義政党が有利との世論調査の予測を覆し、ムスリム人の民族主義政党「民主行動党」、セルビア人の民族主義政党「ボスニア・セルビア民主党」、クロアチア人の民族主義政党「ボスニア・クロアチア民主同盟」とそれぞれの民族主義政党が圧勝し、議会の8割を占めた。だが、このときは3民族政党とも連立政権の成立に協調し、幹部会議長(大統領)にはムスリム人のイゼトベゴヴィチ、首相にはクロアチア人のペリヴァン、議会議長にはセルビア人のクライシュニクがそれぞれ就任した。しかし、民族主義政党の台頭はボスニア全般の政治的雰囲気を民族主体のものに変えていくことになる。
バチカン市国とドイツは権益を優先し民族衝突を意に介さなかった
欧州共同体・ECは、ユーゴ連邦で武力紛争が起こることを危惧し、91年6月19日に開いた外相協議会で「ユーゴ連邦の統一を支持する」との声明を表明した。ドイツとバチカン市国との働きかけを受けていたスロヴェニアとクロアチアはECの声明を意に介さず、直後の6月25日にユーゴ連邦からの独立宣言を強行発信した。宣言を発したことで、両国で武力衝突が起こる。ECは6月28日、スロヴェニアとクロアチアにおける武力衝突が拡大することを危惧し、独立宣言を3ヵ月間凍結する「ブリオニ合意」を両国に受諾させた。しかし、ドイツとバチカン市国はこれを冷却期間としか受け取らなかった。
ムスリム人政治家の和平の試みをイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が拒否する
1991年7月、事態の推移を憂慮したムスリム人の実業家でボスニア幹部会員のズルフィカルパシチが和平を試みた。ズルフィカルパシチはイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)の委任を取り付けると、カラジッチ・ボスニア・セルビア人勢力代表とミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領に働きかけ、歴史的協定と称された「両民族間の平和的関係を確認する協定」をまとめ上げ、調印直前まで漕ぎつけた。この協定の成案を知ったボスニアの民衆は民族に関わりなく歓声を上げて抱擁しあったという。ところが、米国とイスラム教国訪問から8月に帰国したイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は土壇場で調印を拒否した。イゼトベゴヴィチが歴訪した国から何を得たかは明らかではないが、この歴史的協定といわれた合意文書が成立していれば、ボスニア内戦は避けられた可能性が高い。
91年10月に開かれたボスニア議会において、ムスリム人の民族主義政党「民主行動党」がユーゴ連邦から分離独立したうえでボスニアの統一国家を維持すべきだと強硬に主張し、クロアチア人の民族主義政党「クロアチア民主同盟」もこれに同調した。これに対し、「ボスニア・セルビア民主党」は各民族の主権の確立とユーゴ連邦への在留を主張して譲らなかった。議会は紛糾し、セルビア民主党の議員は退席してしまう。議場に残った民族主義政党に属さない野党会派が、ユーゴ連邦への残留を要請する議案を提出したものの否決され、ムスリム人の民主行動党とボスニア・クロアチア民主同盟の与党のみで、ユーゴ連邦から分離独立した上でボスニア・ヘルツェゴヴィナとしての統一国家を維持するという議案を可決した。
ドイツとバチカン市国はECの危惧をよそにスロヴェニアとクロアチアの独立を先行承認する
ブリオニ合意の凍結期間が過ぎると、ドイツのコール首相は91年11月6日に、連邦議会で「クロアチア共和国とスロヴェニア共和国を、ECは間もなく国家として承認することになるだろうと」述べ、EC諸国に働きかけていることを明らかにするとともに、12月23日には他国に先駆けて単独で両国の独立を承認してしまう。
一方のバチカン市国国務省のソダノ枢機卿は、11月26日に米、英、仏、独、伊、ベルギー、オーストリアの大使を招き、1ヵ月以内に両国の独立を承認するよう要請し、自らは92年1月13日に他国に先駆けて両国の独立を承認した。ECの主要国はそれに引きずられるようにして、1月15日にがスロヴェニアとクロアチアの独立を承認する。これがクロアチア共和国とクロアチア・セルビア人勢力との対立を先鋭化させることになった。
クロアチア人勢力もボスニアにおける自治体を結成する
ボスニア・クロアチア民主同盟はムスリム人の民主行動党と同調していたが一体感を抱いていたわけではなく、セルビア人勢力が自治区を設立するのを見ると、それに対抗する形で92年1月にクロアチア人勢力の、「ボスニア・ポサヴィナ・クロアチア人自治区」、「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共同体」、「中部ボスニア・クロアチア人共同体」を設立した。このボスニアのクロアチア人勢力の中には2つの潮流が存在した。西部ヘルツェゴヴィナ出身のクロアチア人の強硬派のマテ・ボバンは、「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共同体」の大統領に就くとクロアチア共和国のトゥジマン大統領との結び付きを強め、ボスニアを分割してクロアチアへ併合することを目指した。中部ボスニアを足場とする穏健派のクリュイッチは、「ボスニア・クロアチア民主同盟」の党首として、ボスニアのユーゴ連邦からの分離独立を目指す方向では同じだが、多民族国家としてのボスニアの統一を維持するという立場をとっていた。しかし、やがてボバンら強硬派が党勢を支配するようになり、92年2月にクリュイッチはボスニア・クロアチア民主同盟党首の辞任を余儀なくされる。
ボバンら強硬派は、クロアチア民主同盟の実権を握ると、ボスニア・クロアチア防衛会議を設立してすぐさま部隊を編成し、「南東ヘルツェゴヴィナ軍」、「北西ヘルツェゴヴィナ軍」、「中央ボスニア軍」、「ポサヴィナ軍」の4方面軍体制を整え、支配領域の拡張に備えた。
ボスニア内戦を回避するための「リスボン合意」を米大使の助言でイゼトベゴヴィチ大統領が拒否
イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はEC諸国がスロヴェニアとクロアチアの分離独立を1月15日に承認したのを見て、ボスニアもユーゴ連邦から独立させると表明した。一方でECは、ボスニアではクロアチアのような武力衝突は回避しなければならないと思量した。そこで、ボスニアに関する和平会議を設定し、ポルトガルのJ・クティリェロを議長に据えて第1回会議を92年2月14日にサラエヴォで開き、2回目をポルトガルのリスボンで開いた。イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長はECが和平国際会議を開いている傍らで、分離独立の施策を進めた。2月29日に独立の可否を問う住民投票をセルビア人住民がボイコットする中で強行し、高率の賛成を得ると3月3日には事実上の独立宣言を表明した。
ECは、イゼトベゴヴィチ大統領の行動を加味しつつ、3月18日にリスボンで開いた第5回会議で「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの新憲法秩序の諸原則に関する宣言」なる裁定案を提示した。この裁定案に3民族代表のイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領、カラジッチ・セルビア人勢力代表、ボバン・クロアチア人勢力代表が署名する。
この「リスボン合意」の内容は、「1,ボスニア・ヘルツェゴヴィナは独立国家とする。2,ボスニアは3民族が地域別に国家としての権限を有する連合国家とする。3,連合国家の上に中央政府を置き、外交、防衛、金融を担う」というものである。ところが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は署名をしたものの、合意内容の連合国家構想に不満を抱いていた。彼はポルトガルから帰国するとツィンマーマン駐バチカン米大使に対処を相談する。ツィンマーマン米大使は、署名を撤回することは可能だと助言した。イゼトベゴヴィチはツィンマーマン米大使の助言に添って、リスボン合意の署名を撤回すると表明する。
クリントン大統領による米国の変容
米国はスロヴェニアとクロアチアの独立宣言に対し、ブッシュ大統領が直後の6月26日に「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」と呼びかけたように、当初はユーゴ問題に対して慎重な姿勢を見せていた。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際にブッシュ大統領のユーゴ問題への取り組みは生温いと批判したことで、ユーゴ問題が政争の具となり、この影響を受けたブッシュ政権は次第に強硬な姿勢を取るようになって行った。そして、ボスニアが独立を宣言したのを受け、92年4月7日にボスニア・ヘルツェゴヴィナをスロヴェニアとクロアチアとともに一括承認した。ECはこれを追ってボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を承認する。これに対し、ボスニア・セルビア人勢力は「ボスニア・セルビア人共和国」の設立を宣言する。このことが、ボスニア内の3民族の対立を決定的なものにした。
「リスボン合意」の破棄によってボスニア内戦は不可避となった
ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派ボバンは防衛会議の部隊の編成を整えると、92年10月にはクロアチア人勢力の領域を拡張・確保するためにムスリム人勢力と化していたボスニア政府領域のビテズやキセリャックへの武力攻撃を開始した。さらに、モスタルからセルビア人住民を追放するためにセルビア人勢力との戦闘を行なう。
93年1月、ヴァンス・オーエン・ボスニア和平国際会議両共同議長がボスニアを10カントン・州に分割する裁定案を提示し、さらに3月には修正案を示した。ミロシェヴィチ・セルビア大統領はこの裁定案を評価してセルビア人勢力に受け入れるよう圧力をかけ、カラジッチ・セルビア人共和国大統領に不承不承ではあったものの受け入れさせるが、ボスニア・セルビア人議会がこれを拒否してしまう。
クロアチア人勢力は「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の建国を宣言
ボスニア・クロアチア人勢力は、分割した際の州の支配権を確保するためにクロアチア共和国に援軍の派遣を要請し、援軍が得られるとモスタル市をクロアチア人勢力の首都に確定することを目指し、5月にムスリム人勢力を排除するために激しい攻勢に出る。モスタル市はボスニア政府軍の第4軍団の拠点であったことからネレトヴァ川を挟んでの厳しい攻防戦となった。
この砲撃戦で、オスマン帝国時代の400年前に建造されたネレトヴァ川に架かる記念碑的な大理石の古橋「スタリ・モスト」を含む6本の橋はすべて破壊された。そして93年8月、ボスニアのクロアチア人勢力はモスタル市を臨時首都とし、「ボスニア・ボサヴィナ・クロアチア人自治区」と「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共同体」および「中部ボスニア・クロアチア人共同体」を統合して「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の創設を宣言する。クロアチア人勢力とムスリム人勢力の戦闘は各地で続けられ、中央部のトラヴニクおよびフランシスコ修道院とモスクが併存する古い町フォイニツァでも攻防戦が繰り返された。
セルビア人勢力悪で固まっていた国際社会は、この両者の激戦に当惑した。そこで、93年8月に国連安保理は決議859を採択し、クロアチア共和国軍がボスニア政府軍攻撃に加わっていることを咎め、トゥジマン・クロアチア大統領に経済制裁を科すと警告した。
米国は「新戦略」を立案しクロアチア共和国とボスニア政府にセルビア人勢力征圧作戦「ワシントン協定」に合意させる
米国のユーゴスラヴィア紛争への戦略は、クリントンが大統領に就任して以来単純なセルビア悪説に基づくセルビア人勢力を征圧することに移行していた。そのためには、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の戦闘は障害であった。そこで米政府は、94年に「新戦略」を策定し、それを実行に移す。先ず、クロアチア共和国のトゥジマン大統領にボスニアにおける戦闘を停止するよう圧力をかけた。トゥジマン大統領はこれに応じ、強硬派のボバン・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領を解任し、穏健派のズバクを大統領に据える。それを受けて米国のレッドマン特使は2月24日にボスニア・クロアチア人勢力とボスニア政府軍代表者を呼び集め、停戦協定に合意させた。次いで、26日にボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相をワシントンに呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させた。
公表されたワシントン協定は主に2つの内容で構成されていた。「1,ボスニア共和国のムスリム人勢力としてのボスニア政府とクロアチア人勢力のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とで『ボスニア連邦』を構成する。2、『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来国家連合を形成するための予備協定に合意する」というものである。
ボスニア連邦を形成することはともかくとして、ボスニア連邦とクロアチア共和国が国家連合を形成することなど、ユーゴ連邦の解体過程を考慮すればあり得ることではない。しかし、同時期に旧ユーゴ和平国際会議が和平の枠組みを模索して2月末に会議を開くことで合意していたことがあり、その最中に米国がボスニア問題にクロアチア共和国を呼びつけてまで独自の和平協定を締結させることは、和平国際会議の存在を軽視する行為であるとの批判を浴びかねなかった。それを避けるために、ボスニア連邦とクロアチア共和国との国家連合構想を提示して国際社会を欺いたのである。
クロアチア共和国・ボスニア政府は新戦略に基づく軍事作戦を着々と準備
米国の新戦略に込めた真の意図は、ボスニア政府軍とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国軍およびクロアチア共和国軍を統合した共同作戦でクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を攻撃し、これにNATO軍を絡ませて征圧するというものである。そして、94年は米国の新戦略を実行に移すための準備期間に充てられた。先ず、ボスニア政府軍とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国軍に統合司令部を設置させた。次いで、米国の退役軍人などを米軍事請負会社のMPRIを通して両国に送り込み、ボスニア連邦軍とクロアチア共和国軍の訓練と作戦を指導した。武器は、国連安保理決議713による武器禁輸措置の監視任務を緩和して密輸を促し、不足分は米軍機を使用してそれぞれの支配地の空港に空輸した。兵員は、ボスニア政府軍を補強する民兵として、米CIAが対ソ・アフガニスタン戦争の際に仕立て上げた戦士ムジャヒディーンを引き入れもした。この中には後にアルカイダと称される者たちも含まれていた。その上で、米軍特殊部隊を送り込んで通信と兵站業務を整備した。
95年1月、トゥジマン・クロアチア大統領は軍事作戦の準備が整うと、国連保護軍・UNPROFORの存在がクロアチアの和平の障害になっているとの理由をつけ、ガリ国連事務総長に撤収を要請する書簡を送付した。国連安保理では異論が出されたものの結局この要請に応え、3月に決議981~983を採択してUNPROFORを3分割し、クロアチアに国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアに国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアに国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにする。
国連保護軍の分割後に新戦略によるセルビア人勢力の征圧作戦を開始する
クロアチア共和国軍は、国連保護軍が3分割による移動を終えると、5月1日に「稲妻作戦」を発動し、クロアチアにおけるセルビア人居住地の「西スラヴォニア」への攻撃を開始した。このとき、ボスニア連邦を構成しているボスニア政府軍とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国軍は共同で、ボスニア・セルビア人勢力軍が支援に赴くことを阻止するために幹線を押さえるとともに、東南部のスレブレニッツァやゴラジュデなどで陽動作戦を展開した。
フランスとドイツがクロアチア共和国軍に軍事行動の中止を要請すると、トゥジマン大統領はセルビア人勢力軍を掃討すれば撤退すると弁明したが、撤退することはなかった。それどころか、クロアチア共和国軍は7月になるとボスニア領内に越境し、ボスニア連邦の統合軍と共同で「‘95夏作戦」を発動し、ボスニア領内からクライナ・セルビア人共和国の首都クニンに至る幹線の要衝であるリヴノとグラホヴォなどを攻撃して占拠した。この作戦の狙いは、次ぎに予定した「嵐作戦」の際に、ボスニアのセルビア人勢力がクロアチアのセルビア人勢力の支援に赴けないようにするところにあった。
純粋クロアチア人国家を目指したトゥジマン・クロアチア大統領
そして95年8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員し、クライナ・セルビア人共和国の潰滅を目的とした大規模な軍事作戦「オペレーション・ストーム(嵐作戦)」を発動した。この作戦は、4方面からクライナ地方を攻撃する軍事行動で、これにボスニア政府軍およびヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国軍が2つの戦線で接合し、クロアチア・クライナ地方に越境して首都クニン攻略に参加するという大規模なものとなった。クロアチア共和国軍はクライナ・セルビア人共和国の首都クニンを攻略した際、国連信頼回復活動・UNCROの監視所を砲撃して国連要員を死亡させ、拘束した国連要員を人間の盾として戦闘部隊の先頭を歩かせるということまでしたが、国際社会は不問に付した。
NATO軍は、この作戦を支援するために、クライナ・セルビア人共和国軍がレーダー照射など敵対的行動を取ったなどの理由をつけてセルビア人勢力のミサイル基地や通信施設などを空爆した。この大規模な作戦を迎え撃ったクライナ・セルビア人共和国軍の戦闘員は4万人弱しか確保できなかったことからたちまち総崩れとなり、セルビア人住民とともにクロアチアを脱出した。赤十字国際委員会・ICRCによると、このとき追放されたセルビア人住民は20万人から25万人に及んだという。
NATO軍の「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」も新戦略に基づくもの
クロアチア共和国軍は嵐作戦を成功させると、そのままボスニア領内に侵攻して「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府が置かれているバニャ・ルカの攻略に取りかかった。ボスニア連邦の統合軍もこのクロアチア共和国軍と共調して、近傍のヤイツェなどの攻撃に加わった。
クロアチア共和国軍とボスニア連邦軍が統合作戦を実行している最中の8月28日、サラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こされた。NATO軍はこの事件の実行者をセルビア人勢力と即断し、30日未明に「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動し、空陸からセルビア人勢力軍への激しい攻撃を展開した。ボスニア・セルビア人勢力は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国軍に加え、NATO軍の激しい攻撃に耐えられるはずもなく、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受けて停戦協定に応じることになる。
ボスニア内戦は壮大な破壊をともなった新国際秩序形成のための実践だった
95年11月に米国のオハイオ州デイトンにある軍事基地で行なわれた和平交渉には、当事者のイゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領、トゥジマン・クロアチア大統領、ズバク・ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国大統領は参加したが、カラジッチ・ボスニア・セルビア人共和国大統領はICTYが起訴し、指名手配していたために参加できなかった。そのため、セルビア人共和国の権益代表はミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領が務めることになる。国連代表および連絡調整グループの国々も呼び集められたが、交渉は米国が主導し、当事者のボスニア・クロアチア人勢力もボスニア・セルビア人勢力ともども傍役しか与えられなかった。
ここでまとめられた「デイトン和平合意」は、ボスニア政府およびヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とで構成するボスニア連邦に51%の領域を配分し、セルビア人勢力のスルプスカ共和国に49%を配分すると決められる。そして、中央政府としてボスニア・ヘルツェゴヴィナを置き、その下にエンティティとして過渡的に「ボスニア連邦」と「スルプスカ共和国」の国家連合を置く、というものであった。95年12月にパリで細目が詰められ、正式な調印式が行われ、「デイトン・パリ協定」となった。
ボスニアは内戦によって国家機能を喪失し国際管理下に置かれる
デイトン・パリ協定に基づき、進駐したNATO軍主体の平和実施部隊・IFORが軍事部門を担い、民生部門は国連安保理決議1035によって「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBH」を設置し、行政の整備および指導と監督を行なうことになる。
その後、NATO軍のIFORは和平安定化部隊・SFORと換わったが、米国が国際刑事裁判所・ICCによる米国要員の免責を要求したことからUNMIBHは突如廃止されることになった。そして欧州連合のEUFORに代わり、UNMIBHはEUPMに交替したが、中央政府としてのボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そのエンティティとしての「スルプスカ共和国」、および「ボスニア連邦」で構成されている形態は26年を経た2021年に至っても解消していない。
<参照;ユーゴスラヴィア連邦、ボスニア、クロアチア、スルプスカ共和国>
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11,「大セルビア主義」
バルカン諸国の多くは、14世紀以来400年にわたってオスマン帝国の支配下にあった。
1875年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの農民が租税の高騰に対してオスマン帝国の支配に対する反乱を起こし、それにセルビア、モンテネグロ、ブルガリアが続いた。これらの反乱は鎮圧されたものの、オスマン帝国も国力を消尽することになった。これにつけ込んだロシア帝国が1877年に露土戦争を仕掛け、コンスタンチノーブルの近郊まで攻め込んだ。オスマン帝国はここにいたって講和を申し出、サン・ステファノ条約およびベルリン条約が結ばれ、バルカン諸国のセルビア、モンテネグロ、ルーマニアがオスマン帝国から独立し、ブルガリアが自治公国として認められた。
しかし、漁夫の利を得る如くしてハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保し、1908年にはこれを併合した。これが、セルビア人社会の中では反ハプスブルク帝国の思潮が渦巻き、第1次大戦後の遠因となる。
ハプスブルク帝国の拡張主義に危惧を抱いたロシア帝国が、これを牽制するためにバルカン諸国に同盟を結ぶことを呼び掛ける。これに応えたギリシア、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアが4ヵ国による「バルカン同盟」を形成した。バルカン同盟は形成する過程で、ロシアの思惑とは異なり、オスマン帝国が支配するマケドニアとアルバニアそしてトラキアを奪還することに目的が変遷していた。そして1912年10月、バルカン同盟はオスマン帝国に宣戦布告して第1次バルカン戦争を開始した。戦闘準備が整わなかったオスマン帝国は敗退を重ね、第1次バルカン戦争はバルカン同盟側の勝利で終わる。しかし、マケドニアの領有権を巡ってブルガリアが不満を爆発させ、13年6月にマケドニアに駐屯していたセルビアとギリシアの部隊に攻撃を仕掛けたことで第2次バルカン戦争が起こされた。この無思慮なブルガリアの戦闘行為は、ルーマニアやオスマン帝国を呼び込むことにもなり、第2次バルカン戦争はブルガリアの惨めな敗北に終わった。この2回にわたるバルカン戦争でオスマン帝国のバルカン支配は縮小されることになったが、ハプスブルク帝国のボスニア併合問題は残されていた。
ヨーロッパ諸国の帝国主義の終焉をもたらした第1次大戦
1914年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで行なわれた軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れたハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子をセルビア人青年が爆裂弾と銃撃によって暗殺するという「サラエヴォ事件」が起こされた。ロシアが仲裁に入り、セルビアが譲歩案を出すが、ハプスブルク帝国はこれを退け、ドイツ帝国との同盟を確認すると、セルビアに宣戦を布告する。英・仏・露の三国協商はそれぞれの思惑を秘めて対ハプスブルク帝国・ドイツ帝国同盟に宣戦布告したことで、第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は第1次世界大戦へと拡大していった。
4年余り続いた戦争は、米国が連合国側に立って参戦したことで、ハプスブルク帝国・ドイツ帝国同盟側は追い詰められて1918年11月に、ともに敗北する。
カラジョルジェヴィチ国王の「大セルビア主義とユーゴスラヴィア主義」
第1次大戦で戦勝国となったセルビアは「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」を建国し、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政から国王となった。カラジョルジェヴィチの念頭には、大戦中に設立された「ユーゴスラヴィア委員会」が提唱した近代化策、および大戦後に組織された「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」が提唱した南スラヴ民族地域を統合した「ユーゴスラヴィア主義」が意識されていた。そのため、アレクサンダル国王は当初、立憲君主制を目指していたものの次第に独裁制を強め、29年には「ユーゴスラヴィア王国」に改称する。
これに反発したクロアチアは当時の思潮となっていたファッシズムを採りいれ、ファシスト・グループ・ウスタシャを結成した。アレクサンダル国王はこれを追放すると、アンテ・パヴェリチはウスタシャ党の拠点をイタリアに移した。そして、ユーゴ王国をテロによって妥当すると宣言した。そして、1934年10月にフランスを訪問したアレクサンダル国王はフランス外相とともにマルセイユで暗殺してしまう。フランス政府がイタリアにパヴェリチの身柄引き渡しを要求するが、ファシズム・イタリアのムッソリーニ政権はこれを拒否した。
第2次大戦がバルカン諸国の命運を決める
この間、ドイツではヒトラーのナチズムが台頭し1933年1月には首相に就任した。すると3月には、「全権委任法」を制定して憲法を無効化し、10月には国際連盟およびジュネーブ条約から脱退して軍備の強化を始めた。34年には、オーストリアの首相を暗殺。35年にはザール地方を編入し、ユダヤ人の公民権を剥奪する。36年にはラインラントに進駐し、スペイン内戦に加担して、ゲルニカを空爆。38年9月には、英・仏・独・伊によるミュンヘン会談を開かせて、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合を認めさせた。さらに39年3月にはチェコスロヴェキアに進駐する。
そして、39年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦を開始し、40年には西ヨーロッパ大陸のほとんどを征服した。さらに、ヒトラー・ナチス・ドイツ総統は英国本土上陸作戦を企てるが、英国の巧みな抵抗に遭いこれを一時棚上げした。そして、ソ連を植民地化した上でその物量をもって再び英国本土上陸作戦を行なうという策に転換し、40年7月に対ソ戦の立案を命じた。これが「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。
バルバロッサ作戦を実行するにあたって軍需物資の調達領域の確保と侵攻ルートを安定させるために、バルカン諸国のすべてを支配する計画に着手する。そこで、バルカン諸国で未だ中立国に拘っているユーゴスラヴィア王国とギリシア王国に、41年4月に侵攻して占領した。
ペータル・ユーゴスラヴィア国王はロンドンに亡命し、王国軍のセルビア人将校が「チェトニク」を組織して王国の復権を目指した。
クロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャはナチス・ドイツの侵攻を歓迎し、傀儡国家「クロアチア独立国」を設立する。ウスタシャ政権のクロアチア独立国の版図はスロヴェニアの一部とクロアチア、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含んだ。そして、カトリック教徒の純粋なクロアチア人国家の建設を目指し、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人と位置づける一方で、正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけ、3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺すると宣言して実行した。このとき殺害されたセルビア人は50万から60万人といわれる。
他方、占領軍に対する抵抗組織として多民族で構成されヨシプ・ブロズ・チトー率いる「パルチザン」が全土に組織された。パルチザンは「友愛と統一」を掲げて占領軍に対して困難な戦いを果敢に挑み続けることになる。
ナチス・ドイツ同盟軍対ソ戦バルバロッサ作戦を発動
ナチス・ドイツはユーゴ王国とギリシア王国を支配下に置くと、対ソ侵攻「バルバロッサ作戦」を41年6月22日に発動する。これを迎え撃つことになるソ連軍側は、態勢が整わないまま総崩れとなり、敗走する。当時のソ連のスターリン書記長は猜疑心の強い人物で、自らの地位を脅かしかねない膨大な国民を処刑するかシベリア送りとしていた。ソ連赤軍の司令官級も例外ではなくおよそ2万人がその対象となっていた。そのスターリンが何故かヒトラーがソ連に侵攻することはないと確信していたのである。そのために前線の司令官には、ナチス・ドイツを刺激するなとの指示が出されていた。ソ連軍は臨戦態勢がとれないままに、ナチス・ドイツの侵攻を受けたことから、緒戦の敗北は必然といえた。
9月には、ナチス・ドイツ同盟軍の北方軍にレニングラードを包囲され、中央軍にはモスクワ近郊にまで迫られた。バルバロッサ作戦は成功するかに見えた。不意をつかれた形のソ連政府は機関の一部を後方に移管するとともに、工場などもウラル東方に移設した。
そして9月末に米・英・ソの会談を行ない、米国が英国のために制定した「武器貸与法」をソ連にも適用することなどを決める。さらに在日ドイツ大使館の要員にもなっていた、ジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、日本軍は南方に関心が向いており、シベリアに侵攻することはないとの情報を打電したのを受け取った政府高官がスターリンを説得してシベリアに配備されていた精強な部隊をモスクワ防衛のために移動させた。それからの反撃は激しいものとなった。
一方、ナチス・ドイツの南方軍はウクライナのキエフを陥落させると、象徴としてのスターリングラードの攻略に取りかかる。42年8月に始められたこの攻略戦は、すさまじい市街戦に突入することになり、その消耗戦を支える補給ルートが伸びきっていたことでまかなえず、冬季の戦闘にも堪えられずに逆に43年1月末に9万人の捕虜を出して降服する。これ以降、ナチス・ドイツ同盟軍が東部戦線で勝利する見込みは立たなくなった。
他方、西部戦線は、英国が自国の権益を護るために地中海域における戦線構築に拘ったために、なかなか実施されなかった。チャーチル英首相は、自国の権益が確保されることが明らかになったのちに、西部戦線の構築に踏み切る。そして、44年6月になってようやく、「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」として実行されることになる。
東部戦線はナチス・ドイツ同盟軍をソ連赤軍が圧倒し、45年4月にはベルリンの砲撃を開始した。敗北を自覚したヒトラー総統は4月30日自殺した。これに伴ってナチス・ドイツは5月8日に降服し、第2次大戦における欧州戦線は終結した。
ユーゴスラヴィア連邦は民族主義を否定
第2次大戦でも戦勝国となったユーゴスラヴィアは、戦後の45年11月に行なわれた制憲議会選挙で、人民戦線派が大勝した。46年1月に採択された新憲法でユーゴスラヴィア王国は廃され、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」が建国されることになる。それ以来、クロアチア人のチトー大統領は民族主義を封印する政策を取ったこと、社会主義そのものが民族主義を否定していたこともあって、ユーゴ連邦内で「大セルビア主義」が唱えられることはなかった。
民族主義を復活させたスロヴェニア・クロアチア・ボスニア・コソヴォ
民族主義を抑制したチトーが1980年に死去すると、欧米諸国及びバチカン市国の働きかけもあってスロヴェニアやクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナそしてコソヴォに民族主義が台頭する。91年6月、スロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言すると、ボスニアも追随して92年3月に独立を宣言した。そのため、民族主義が前面に躍り出て対立は先鋭化することになった。
クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力はユーゴ連邦との統合を望んだ
クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力は、第2次大戦中の悪夢の再現を恐れ、自治を模索するとともにユーゴ連邦の維持を強く求めた。ユーゴ連邦の維持が叶わないとなると、やがてセルビア共和国と合併した「大セルビア」を望むようになる。しかし、民族主義を否定するセルビア社会党が与党であるセルビア共和国政府は、ユーゴ連邦の維持には同意しているものの、大セルビア建設の要求は拒否し続けた。
セルビア共和国との統合を拒否されたクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力は、両勢力の間での統合を試みることになる。クロアチアとスロヴェニアが独立宣言を強行した91年6月に、「ボスニア・クライナ自治体同盟」と「クロアチア・セルビア人自治区」は合同議会を開いて経済や文化の関係強化と将来に向けた協力に関する宣言を採択した。91年10月には、ボスニア・クライナ・セルビア人自治区のカラジッチ代表とクロアチアのクライナ・セルビア人自治区のバビッチ代表が会談し、両地区の統一に向けた合意をする。さらに、92年10月には、両セルビア人勢力はプリエドルで協議し、「1,通貨の統一。2,国籍の統一。3,国章の統一。4,国歌の制定。5,軍事協力協定」などの協力宣言を行なった。この両者の合意の根底には、地域における少数派に陥ることを回避するとともに大セルビアへの思惑が含意されていたと見られる。
セルビア共和国の「大セルビア主義」は一部の民族主義者が唱えたもの
クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力の思惑とは別に、ユーゴ連邦解体戦争の最中にセルビア共和国内で「大セルビア主義」を唱えたのは、民族主義政党の「セルビア急進党」党首のシェシェリおよび「セルビア再生運動」党首のドラシュコヴィチである。ただし、シェシェリは確信的であったが、ドラシュコヴィチの主張は状況に応じて揺らぐ程度のものだった。シェシェリ急進党党首は、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYでの証人尋問で、「大セルビア主義はセルビア急進党だけが唱えたのであり、ミロシェヴィチ大統領がそれを主張したことはない」と証言している。ミロシェヴィチ大統領自身、94年12月のCNNの「ラリー・キング・ライブ」に出演し、「大セルビア主義が、私自身の構想であったことは一度もなく、欧米諸国の中傷である」と語っていた。にもかかわらず、欧米諸国はミロシェヴィチ大統領が大セルビア主義を推進するためにユーゴスラヴィア内戦を起こしたのだ、とする非難を繰り返し浴びせ続けた。このプロパガンダの方が、セルビア悪説を国際社会に広め易く、ユーゴ連邦の解体に結びつけられると分析したからである。
西側のプロパガンダとしての大セルビア主義
西側諸国が意図的・便宜的にこれを喧伝したため、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYでも内戦の原因となった状況証拠として大セルビア主義を戦争犯罪容疑の傍証に加えて尋問している。もとよりそれを立証するに足る証拠を見出すことはできなかったが、ミロシェヴィチ・ユーゴ元大統領が2006年3月に獄死させられたために、立証は立ち消えとなった。
クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力が、大セルビアの設立を夢見ていた可能性は否定できないものの、それは傍流の集団である。セルビア共和国の与党だった穏健派のセルビア社会党は民族主義に否定的だったことから、党首としてのミロシェヴィチ・ユーゴ連邦元大統領の下のセルビア共和国がそれを主要な政策としたことは一度もなく、検討した気配もない。ここから考察できることは、大セルビア主義がユーゴ連邦に関する紛争の原因となったことはないということである。しかし、ユーゴ連邦解体戦争の原因を大セルビア主義に求めるジャーナリストや学者や政治家は今も後を絶たない。
<参照;カラジッチ、ミロシェヴィチ、セルビア、旧ユーゴ国際戦犯法廷>
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12, 「大クロアチア主義」
「大クロアチア主義」はファシスト・グループ「ウスタシャ」が唱える
イタリアでは1920年代に入るとファッシズムが台頭し、1922年には「国家ファシスト党」が結党された。その年の10月に黒シャツ隊によるローマ進軍が敢行され、ムッソリーニが政権を掌握する。そして、25年12月には首席宰相および国務大臣なる職制を設置してムッソリーニによるファッシズム独裁体制を確立する。29年には国家ファシスト党による議席独占体制を作り上げイタリアのファッシズム体制は確定した。とはいえ、王制は存続した。
西欧での政治動向に敏感に反応したクロアチア人のアンテ・パヴェリチは、クロアチア権利党から離脱してファシスト・グループ「ウスタシャ」を1929年に結党した。独裁態勢を強めたユーゴスラヴィア王国政権はこのウスタシャを国外追放処分とする。そこで、ウスタシャはファッシズムの本家イタリアに亡命してそこを拠点とした。そして、パヴェリチはユーゴスラヴィア王国をテロによって打倒し、大クロアチアを建設すると宣言する。
1934年に独裁王カラジョルジェヴィチ・ユーゴ国王がフランスを訪問した際、これを好機と捉えたウスタシャはアレクサンダル・ユーゴ国王とバルトゥ・フランス外相をフランスのマルセイユで暗殺する。フランス政府はパヴェリッチの身柄引き渡しをイタリア政府に要求するが、ムッソリーニのイタリア・ファッシズム政権はこれを拒否した。
ドイツにおけるナチズムの台頭と第2次大戦
ドイツではイタリア・ファッシズムの台頭と歩調を合わせるようにしてヒトラーのナチズムが台頭し、1933年には政権を掌握する。すると、たちまち憲法を無効にする全権委任法を制定し、国際連盟から脱退するなど、国際機関や条約からの離脱を図る一方で、ファッシズム・イタリアとの関係を深めていった。さらに領土の拡張を図り、35年にザール地方を併合し、38年にはオーストリアを合邦化し、英・仏・伊・独の首脳によるミュンヘン会談を開かせてチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合を認めさせた。
そして、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結すると9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めてしまう。英・仏は9月3日に対独宣戦布告をするが、有効な戦線を構築できないでいた。するとナチス・ドイツ軍は、40年5月に大陸に派遣していた英国軍をフランスのダンケルクに追いつめて駆逐し、6月にパリに入城して西ヨーロッパの大半を占領した。その余勢を駆って英本土への上陸作戦を試みるが、英国の巧みな抵抗で阻止されたために一時的に断念する。
ソ連を植民地化する意図で始められたバルバロッサ作戦
そこで、ヒトラーはソ連を植民地化してそこから得られる物量をも使って英本国を屈服させる方針に転換し、侵攻作戦「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦」の立案を命じた。
ソ連への侵攻作戦を実行するためには、軍需物資調達領域の拡大と侵攻ルートの後背地の安全を確保する必要があった。そのためには、未だに同盟に加盟することに肯じないユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配しなければならなかった。ギリシアは英国の海上ルートを通じた援助の手が伸びていたこともあり、加盟を受け入れさせる望みはないと分析し、ギリシア侵攻作戦「マリタ作戦」を立案した。残るユーゴスラヴィア王国に対しては威しと甘言を用い、41年3月25日に加盟を承認させる。
ところが第1次大戦で敵対したドイツとの同盟を望まない民衆と軍部の一部が連携してクーデターを起こし、加盟条約を廃棄するよう要求する。狼狽したユーゴ王国政府はナチス・ドイツに対し、加盟条約は有効であると弁明するが、ヒトラーはこれを許さず、4月6日にギリシアへの「マリタ作戦」をユーゴ王国にも拡張適用して、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアとともにナチス・ドイツ同盟軍が侵攻した。ユーゴ王国は11日間、ギリシア王国は14日間で陥落した。ユーゴ王国が短期間で陥落した背景にはファッシズム・グループ・ウスタシャの影響下にあったスロヴェニアとクロアチア人で構成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。
ファシスト・グループ・ウスタシャは「大クロアチア」を達成する
クロアチアのウスタシャはナチス・ドイツ同盟国軍の侵攻を歓迎し、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチが帰還してナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。クロアチア独立国の範囲は、スロヴェニア南部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半に及び、一時的にせよ「大クロアチア」を達成した。
ウスタシャ政権は、クロアチア独立国をカトリック教徒の純粋なクロアチア人国家とすることを主要な政策として掲げ、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人とする一方で正教徒セルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけ、3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を殺害すると宣言して実行した。ウスタシャ政権治世の4年間に殺害されたセルビア人は、50万人とも60万人ともいわれ、ユダヤ人も2万人、ロマ人も3万人が殺害されている。
ユーゴスラヴィア王国は同盟国に占領されたのち、ユーゴ王国軍の残党が「チェトニク」を結成して王国の復旧のために同盟軍と戦うと宣言したが、ナチス・ドイツにせん滅すると威されるとたちまち屈して、抵抗戦をやめて内部領域争いに転じてしまう。一方、共産党が核となったチトー率いる「パルチザン」がユーゴ王国全域に組織され、果敢に抵抗戦を行ない、ナチス・ドイツ同盟国軍を悩ませた。
対ソ連バルバロッサ作戦は緒戦では戦果を挙げるが失敗に終わる
対ソ連バルバロッサ作戦は、ナチス・ドイツ軍300万とその他同盟軍250万計550万の兵員が動員され、41年6月22日に発動された。緒戦は、スターリンがヒトラーを信頼するという信じがたい不手際による臨戦態勢を採っていなかったことにより、ソ連赤軍は大敗を喫した。そのために、9月にはナチス・ドイツ同盟軍は北方軍がレニングラードを包囲し、中央軍はベラルーシ(白ロシア)のミンスクを陥落させてモスクワの近郊まで迫り、南方軍はウクライナのキエフを陥落させてスターリングラードの攻略を目前にし、バクー油田の確保まで視野に入れるという大戦果を挙げ、ソ連は崩壊するかに見えた。しかし、それからのソ連軍はよく耐えて反撃に備えた。
42年8月に始められたナチス・ドイツ南方軍によるスターリングラード攻防戦はすさまじい市街戦となり、その戦闘による消耗と補給線が伸びきってしまったことによる物資不足で、逆にナチス・ドイツ南方軍が43年1月末に9万人の捕虜を出して降服することになった。これ以降、様々な戦線で一進一退の攻防はあったものの、ナチス・ドイツがソ連を屈服させる見込みは立たなくなった。
44年6月に連合軍による「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」が成功し、ナチス・ドイツは本格的な東西二正面作戦を強いられることになる。そして、45年4月にソ連軍はベルリン攻撃に着手し、ヒトラーは4月30日に自殺してナチス・ドイツは降服した。こうして欧州戦線における第2次大戦はナチス・ドイツの敗北に終わった。
第2次大戦で敗北者となった「ウスタシャ」の残党はユーゴ連邦にテロ行為を繰り返した
ナチス・ドイツの降服に伴って傀儡国家クロアチア独立国は消滅することになり、ウスタシャの残党は周辺諸国にディアスポラとなって散った。しかし、彼らはその後も徒党を組み、1960年代末から70年代にかけてユーゴスラヴィア連邦に対して在外大使館、列車、劇場、市場などを爆破するテロ行為を激しく繰り返した。彼らの念頭に「大クロアチア国家」の建設があったかどうかは明らかではないが、ユーゴ連邦をテロ行為で揺さぶって弱体化させ、あわよくば「クロアチア独立国」を再興しようとの底意があった可能性は否定できない。しかし、クロアチア人のチトー大統領が各民族の宥和と抑制策を実施したことで、ユーゴ連邦内でのクロアチア人の民族主義は、ウスタシャの残党以外では抑制されていた。これはカリスマ性を備えていたチトーが生きている限りであったといえる。
大クロアチア構想を復活させたクロアチアの民族主義者
大クロアチア主義を復活させたのはクロアチア民像主義者のフラニョ・トゥジマンである。彼はパルチザンとして戦い将軍の地位にまで上り詰めたが、戦後は歴史学者に転じた。そして、トゥジマンは歴史学者として第2次大戦時のウスタシャ政権がセルビア人を50万人前後殺害したとされている史実を、3万人余りにすぎないと書き換えて「クロアチア独立国」の犯罪行為を薄めるという作為を行なった。
さらに、トゥジマンは80年代の後半になると、世界のクロアチア人ディアスポラたちを訪問してクロアチア民族主義を説いて回った。88年にはドイツのコール首相を訪ね、独立運動への援助を要請していた。そして、89年6月にディアスポラの資金援助を受けて「クロアチア民主同盟」なる新党を結成した。折も折、89年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国は雪崩を打つように社会主義制度を放棄していく。ユーゴ連邦もこの影響を受け、複数政党制の導入が進められた。
トゥジマンは90年5月に行なわれた複数政党制導入に伴う選挙でクロアチア共和国の大統領に選出されることになる。トゥジマンはクロアチアの大統領に就任すると90年7月には新憲法を制定し、「クロアチア共和国はクロアチア人とその他の少数民族による民主的統一国家である」と規定する。12%を占めるセルビア人を少数民族という表現で2級市民として扱い、クロアチアの民族主義を露骨に表現した。
バチカン駐在の米大使ツィンマーマンによると、バチカン市国は80年代の中ごろから、スロヴェニアとクロアチアをユーゴ連邦から分離独立させるべく画策していたという。両国がカトリック教徒圏だったことから教徒圏の拡大を図ったものであった。
トゥジマンはボスニアの一部を併合する大クロアチアを企てる
そして91年6月25日、クロアチアはスロヴェニアとともに強引にユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。次いで、大クロアチアを念頭に、ボスニアのクロアチア人住民の居住地域を分離してクロアチアに併合するとの意図の下に、ボスニアのクロアチア人に「クロアチア民主同盟」の支部を組織させ、このボスニア・クロアチア民主同盟を通してボスニアのクロアチア人を意のままにした。
ボスニア内戦が始まると、トゥジマンは大クロアチア構想を実現するためにセルビア共和国のミロシェヴィチ大統領を引き込み、ボスニアのクロアチア人居住地とセルビア人居住地を分割して併合する密約を結んだ。そして、92年10月にはクロアチア共和国軍をボスニアに送り込み、クロアチア防衛評議会軍とともにムスリム人勢力軍との戦闘を始めた。ボスニアの内戦が、ムスリム人勢力を代表するボスニア政府とセルビア人勢力との闘いだけでなく、クロアチア人勢力がボスニア政府の支配地域を攻撃して三つ巴の戦闘となったのは、トゥジマンの「大クロアチア主義」が絡んでいた。
さらに、93年1月にヴァンス・オーエン和平会議両共同議長による10カントン・州分割裁定案が提示されると、ボスニア・クロアチア人勢力は州の支配権を確保するためにムスリム人勢力への攻撃を再燃させ、5月にはモスタル市を「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の臨時首都とするべく激しい攻撃を実行した。
クリントン米政権の「新戦略」でトゥジマンの大クロアチア主義は封印される
米国の対ユーゴ政策は、ユーゴ連邦が自由主義市場経済を受け入れさえすれば、連邦の形態そのものの解体まで望んでいたのではなかった。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ブッシュ政権の対ユーゴ政策は生温いと批判したことをきっかけに、次第に強硬な政策を取り始めることになる。
93年1月に大統領選に勝利したクリントン大統領が就任すると、単純なセルビア悪に基づく施策を実行する。その観点からすれば、ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力間の戦火は、障害であった。そこで、米国は「新戦略」を立案し、94年2月にトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、ボスニア・クロアチア人勢力の「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の強硬派のマテ・ボバン大統領を解任させた。次いで、ボスニア政府とクロアチア人勢力との戦闘を停止させる。その上でボスニア政府のシライジッチ首相とヘルツェグ・ボスニア・クロアチア人共和国のズバク新大統領およびクロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼び寄せ、「ワシントン協定」に合意させた。ワシントン協定の公表された内容は「1,ボスニア政府とクロアチア人勢力による『ボスニア連邦』を形成する。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』で将来国家連合を形成するための予備協定に合意する」というものである。
このワシントン協定の意図するところは公表されたものとは異なり、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人共和国に統合共同本部を設置し、それにクロアチア共和国およびNATO軍を絡ませてクロアチア・セルビア人共和国とボスニア・セルビア人共和国を征圧するというものであった。そして、94年を米軍需請負会社・MPRIを派遣して訓練や武備の増強などの準備期間に充当することにした。
トゥジマンは、このワシントン協定に不満だった。協定に拘束されると、ボスニアのクロアチア人居住地を併合する大クロアチア建設が困難となるからである。だが、ともかくこの時点では米国の要求を受け入れ、クロアチア共和国内の棘となっているクライナ・セルビア人共和国を潰してセルビア系住民を追放し、純粋クロアチア人国家とすることに切り替えた。
95年に入ると、クロアチア共和国軍は「クライナ・セルビア人共和国」を潰滅させるための波状的な軍事作戦を発動する。この一連の作戦で西スラヴォニアやクライナ地方のセルビア人を掃討した上で、「一定の家屋財産の暫定的接収と管理」なる法を適用して家屋と財産を没収し、さらにセルビア人が再び戻って来ることが不可能なように住宅に放火し、破壊した。トゥジマン大統領は一連の軍事作戦が成功した際、「われわれは自由な独立国家クロアチアをうち立てた」と自讃し、手を突き上げて喜びを表した。
クロアチア共和国軍は引き続き、国連保護地域となっているセルビア系住民の居住地の「東スラヴォニア」を攻略してクロアチアからセルビア人を一掃することを企てたが、これは国際社会の圧力を受けて断念する。
「大クロアチア」を諦めきれなかったトゥジマン・クロアチア大統領
クロアチア共和国軍は東スラヴォニア攻略を断念すると、ボスニア領内に侵攻する「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府があるバニャ・ルカ攻撃を実行した。これと共調してボスニア政府はバニャ・ルカ近郊のヤイツェを攻略し、周辺の重要拠点を陥落させていった。このクロアチア共和国軍とボスニア政府軍の軍事行動が行なわれている最中の8月28日、サラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こされる、のちに、ムスリム人勢力の自作自演が疑われる事件である。
NATO軍は、このマルカレ市場事件をボスニア・セルビア人勢力によるものと即断し、「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動し、空爆のみならず陸上からもNATO諸国主体で構成された国連緊急対応部隊がセルビア人勢力への砲撃を行なった。ボスニア・セルビア人勢力の戦意は衰えていなかったものの、この大規模な統合共同軍事作戦に対抗する軍事力はなく、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受け入れて和平交渉に応じる。
ボスニア和平交渉は、米国のオハイオ州デイトンのパターソン空軍基地で行なわれた。「デイトン和平交渉」の主な内容は、中央政府としてボスニア・ヘルツェゴヴィナをおき、エンティティとしてのボスニア連邦を設置してこれが51%を領有し、もう一つのスルプスカ共和国が49%を領有するというものである。さらに、細目を詰めて「デイトン・パリ和平協定」とする。
デイトン・パリ和平協定の受諾を余儀なくされても、トゥジマンは大クロアチアを諦めたわけではなかった。98年に開いたクロアチア民主同盟・HDZの大会で、トゥジマン大統領は「ボスニアのクロアチア人居住地を含む大クロアチア建設」を示唆する演説を行なってそれを表出した。この発言には、クロアチア共和国を支援してきた米政府もさすがに苦々しい思いを抱いたのであろう、ゲルバード米特使が「ボスニア和平協定を反故にしようとする発言は慎むべきだ」とたしなめている。大クロアチア主義は99年にトゥジマンが死去したことで影を潜め、それ以来クロアチアで大クロアチア主義は取り沙汰されてはいない。
<参照;トゥジマン、パヴェリチ、クロアチア、ユーゴスラヴィア王国>
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13,「大アルバニア主義」
統一国家を夢想したアルバニア人
イリュリア人を祖先とするといわれるアルバニア人は民族国家を形成することができず、オスマン帝国やイタリアなどによる周辺の強国に分轄統治されてきた。
1875年、オスマン帝国の支配下に置かれていたボスニア・ヘルツェゴヴィナで徴税の高騰に対する農民の反乱が起こされる。これに呼応してセルビアやモンテネグロおよびブルガリアでも反乱を起こったが、オスマン帝国はこれを鎮圧する。しかし、オスマン帝国はこの反乱鎮圧で国力を少なからず消尽した。これに付け込んだロシア帝国は1877年に露土戦争を仕掛ける。オスマン帝国は頑強に抵抗するものの敗退を重ねてコンスタンチノーブル近郊まで攻め込まれるに及び、講和を申し入れる。
露土戦争後の1878年にサン・ステファノ条約およびベルリン条約によって、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が認められたものの、アルバニアの独立は顧みられなかった。アルバニア人は再分割されることを阻止するために宗教党派を超えた「プリズレン連盟」をコソヴォのプリズレンで結成し、アルバニア人による統一的な自治を求めて活動した。しかし、国際政治の思惑に翻弄された揚げ句、オスマン帝国によってプリズレン連盟は1881年に解散させられる。解散させられたとはいえ、プリズレン連盟のアルバニア人統合の思想は受け継がれた。
露土戦争によってバルカン4ヵ国は独立を認められるがアルバニアは独立できず
ハプスブルク帝国は、露土戦争に関係しなかったにもかかわらず、ベルリン条約でボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保する。そして、1908年にはこれを併合した。これが第1次大戦の遠因となる。ボスニアに反ハプスブルク帝国のボスニア青年運動などが起こり、多数の秘密結社が結成されることになったからである。
1912年、ロシア帝国はハプスブルク帝国の領域拡張策に危惧を抱き、それを牽制するためにバルカン諸国に同盟を形成するよう働きかけた。これに応えたセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシア4ヵ国による「バルカン同盟」を9月までに形成した。バルカン同盟は形成する過程でロシア帝国の思惑とは異なり、オスマン帝国をバルカン諸国から排除する方針に転換し、10月にオスマン帝国に宣戦布告する。
バルカン戦争でアルバニアの独立が承認される
アルバニアは1912年の第1次バルカン戦争が始まると、独立を宣言する。第1次バルカン戦争はオスマン帝国に対してバルカン同盟側の勝利に終わるが、マケドニアの領有を巡ってブルガリアが不満を鬱積させ、マケドニアに進駐していたセルビアとギリシaの部隊にブルガリア軍が攻撃した。第2次バルカン戦争である。この無思慮なブルガリアの攻撃は周辺諸国をも巻き込み、ルーマニアとオスマン帝国までがブルガリアに対して参戦したため、ブルガリアは惨めな敗北を喫した。バルカン戦争後のロンドン講和条約で列強はアルバニアの独立・主権公国とすることを認め、大公が選定された。しかし、大公の支配範囲は一部地域にとどまった。第1次および第2次バルカン戦争によってバルカン諸国へのオスマン帝国の支配権は削減された。
しかし、ハプスブルク帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合問題は残された。
ハプスブルク帝国のボスニア併合が第1次大戦の原因
1914年6月28日、ボスニアで行なわれた軍事演習の観閲のためにサラエヴォを訪れたハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子が、ボスニアの秘密結社の一員に暗殺されるという「サラエヴォ事件」が起こされた。ロシア帝国が仲裁に入り、セルビア王国が譲歩案を提出するがハプスブルク帝国はこれを許容せず、ドイツ帝国との同盟を確認すると7月28日に宣戦を布告した。
これに対し、英・仏・露の三国協商は植民地の確保をめぐってかねてから対立していたドイツ帝国とハプスブルク帝国同盟に対してセルビア側に立って宣戦を布告する。バルカン諸国も事態の進展を眺めながら、それぞれに領土的野心を抱いて参戦していく。こうして、第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は第1次大戦へと拡大していった。
第1次大戦にアルバニアは国家として参戦したわけではないが、ハプスブルク帝国に支配されたり、イタリアやフランスの軍隊が駐屯したりと通過地点として利用された。戦争はずるずると4年余も続けられたが、米国が参戦するに及び第1次大戦はセルビア側に立った三国協商の連合国側が勝利して終結する。この大戦で大英帝国以外の帝国はほぼ消滅した。
大戦後にアルバニアは、イタリアやユーゴスラヴィア、ギリシアなどが領有権を要求したが講和会議においてかろうじて国家の存続が認められた。しかし、アルバニア系住民が多数を占めるコソヴォはモンテネグロやセルビア側に組み込まれ、大アルバニアが実現することはなかった。
第2次大戦前にファシズム・イタリアに占領されたアルバニア
その上、アルバニアは第2次大戦が始まる直前の39年4月にイタリアに占領され、併合されてしまう。アルバニア国内ではイタリアの傀儡政権への対抗およびナチス・ドイツに対するレジスタンスを主張する派と、コソヴォを自国の領土とすることを目指して戦うべきだと主張する民族派が対立して内部での武力衝突に発展し、四分五裂状態に陥った。
戦間期に台頭したナチス・ドイツは、1933年にヒトラーが政権を握ると、国際条約を次々と破棄し、領域の拡張を始めた。そして、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶと、翌9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めてしまう。英・仏は直ちにナチス・ドイツに宣戦布告するが、有効な対抗策を打ち出せないでいた。それを見たナチス・ドイツは40年3月にデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻して大陸に派遣していた英国軍をフランス領ダンケルクで追い落とし、さらに6月にパリに入城してヒトラーは勝利を宣言した。
さらにナチス・ドイツは英本土上陸作戦を企てるが、英国の頑強な抵抗でこれを一時的に断念する。そこでヒトラーは、ソ連を植民地化した上でその物量をもって英国への侵攻作戦を行なう方針に転換し、対ソ侵攻作戦の立案を命じる。
対ソ戦のためにナチス・ドイツ同盟軍はユーゴ王国およびギリシア王国に侵攻
対ソ戦を始めるためにはさらに軍需物資の調達領域の拡張と、侵攻ルートの後背地を安定させる必要性からバルカン諸国を支配下に置くことを企図する。そして、1941年4月6日にナチス・ドイツ軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍の同盟軍がユーゴ王国とギリシア王国に侵攻した。ユーゴ王国は7日間、ギリシア王国は11日間で占領された。
ナチス・ドイツ同盟軍は、バルカン諸国を支配下に置くと、6月22日に対ソ連「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」を発動し、550万の兵員でソ連領に侵攻した。ソ連はスターリンの誤った認識のために臨戦態勢を整えていなかったことから、ナチス・ドイツ軍は緒戦で大戦果を上げ、9月にはモスクワ近郊まで攻め込まれた。
しかし、ソ連の懐は広大であった。やがて反撃を受け、43年1月にスターリングラード攻防戦でナチス・ドイツの南方軍が敗北を喫すると、もはやドイツの勝利は見込み薄となった。44年6月、西部戦線において連合国による「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」が成功する。これ以降ナチス・ドイツは二正面作戦を戦わなければならず、敗北への道を転がり込んでいくことになる。
アルバニアは自力で解放して王政を廃止し人民共和国を建国
アルバニアはイタリアに占領されたものの、42年9月には民族解放戦線を組織して抵抗戦を始めていた。そして、43年3月には共産党の第1回全国会議を開き、ホジャを書記長に選出。43年9月にイタリアが降服するとその武器を奪取し、侵入してきたナチス・ドイツとの戦いを続けた。44年5月にはユーゴスラヴィアのパルチザンに倣って「第1回人民解放反ファシスト会議」を開いて臨時政府を樹立する。ユーゴスラヴィアのパルチザンの支援を受けたレジスタンスはナチス・ドイツ同盟軍に対して果敢に戦い、44年10月には首都ティラナを自力で解放した。
1945年4月にソ連赤軍はベルリン攻撃に入り、敗北を自覚したヒトラーは4月30日に自殺し、ナチス・ドイツは5月8日に連合国に無条件降伏した。
戦勝国となったアルバニアは、45年12月に制憲議会選挙を実施して解放戦線主体の政党が勝利すると、46年1月に王制を廃止し、人民共和国の成立を宣言した。そしてソ連の中央集権型社会主義を採用し、ソ連を頂点とする社会主義圏に属することになる。アルバニア系住民が多数を占めるコソヴォは、やはり自力でユーゴスラヴィアを開放したユーゴ連邦人民共和国に取り込まれた。アルバニアは民族主義を否定する社会主義体制を採ったため、大アルバニア主義は影を潜めたかに見えた。
アルバニアはユーゴ連邦がコミンフォルムから追放されたことで、社会主義圏の一員としてユーゴ連邦との経済協定を破棄する。しかし、弱小国の経済運営は好転しなかった。そのため隣国ユーゴ連邦との関係改善を模索するが、ソ連指導部はこれを認めなかった。そこで、経済関係改善のために、既に中ソ対立が明らかになりつつあった1959年に中国との間に貿易協定を結ぶ。このことが影響を与え、1961年にはソ連とアルバニアは国交断絶に至る。このころからアルバニアは殻に籠もるようになり、全国土に防衛のためのトーチカを数万規模で建造するなどを行なったことで経済はさらに悪化していった。もはやアルバニアから大アルバニアの思潮が生まれることはなくなった。
大アルバニア主義はアルバニアからコソヴォ解放軍へ移る
時を経た1968年、ユーゴ連邦の中で最貧地域から脱せずにいたセルビア共和国のコソヴォ自治州のアルバニア系住民は、不満を鬱積させて自治州の共和国への昇格と権利拡大を求めて暴動を起こした。暴動は鎮圧されるが、74年憲法によってコソヴォ自治州にも共和国並みの行政権限が与えられたものの、もはやアルバニア系住民はそれに満足しなかった。
そして、チトーが死去した翌81年に共和国への昇格を求めて再び暴動を起こす。この暴動の首謀者の裁判で、「被告らの最終目標は、コソヴォ自治州およびマケドニアとモンテネグロ共和国の一部を分離してアルバニアに統合することにあった」との判決が出された。このように、大アルバニア主義はコソヴォのアルバニア系民族の目標と位置づけられるようになる。
コソヴォ自治州のアルバニア系住民の独立志向は根強く持続し、それを反映して多数派であるアルバニア系住民によるセルビア人住民への嫌がらせや迫害が行なわれた。1953年には、セルビア人とモンテネグロ人などがコソヴォに28%居住していたが、1987年には10数%に激減している。ジャーナリストで作家のクリス・ヘッジの調査によると、1966年から89年までに嫌がらせを受けてコソヴォ自治州から脱出したセルビア人は13万人に及ぶという。
コソヴォのアルバニア系住民による他民族迫害の実態を目の当たりにしたミロシェヴィチは、セルビア幹部会議長に就任すると89年にセルビア憲法を修正し、コソヴォ自治州の行政権限を著しく削減した。このことが新たな対立を生むことにもなる。
1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義圏が雪崩をうって資本主義制度への転換に突き進んだ。コソヴォ自治州でも直ちに反応し、12月23日に「コソヴォ民主連盟・LDK」を結成し、イブラヒム・ルゴヴァが党首に就いた。一方で88年に若者たちは武力で独立を獲得することを掲げたコソヴォ解放軍・KLAを結成していた。
コソヴォ自治州のアルバニア系住民は、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニアの分離独立が国際社会に承認されるのを見ると、92年5月にセルビア共和国の禁止通達を無視して議会選挙を実施し、穏健派といわれるルゴヴァが自治州政府の大統領に就任した。穏健派といわれながらもルゴヴァは強固な意志の持ち主で、「コソヴォからセルビア人がいなくなるか、無視できるくらいに減少し、熟れた果実のように独立がなることを目指す」としていた。ルゴヴァが大アルバニア主義者であったかどうかは明らかではないが、アルバニア語による教育を実施していたことから類推すると、アルバニアとの統合を念頭に置いていたと見るのが自然である。
コソヴォ解放軍・KLAが「大アルバニア主義」を復活させる
大アルバニア主義を明確に活動の方針として復活させたのは、コソヴォ解放軍・KLAである。結成当時のコソヴォ解放軍は若者中心の弱小組織だったために、アルバニア系住民にも支持されなかった。そこでKLAは、ユーゴ連邦解体戦争が始まったことを好機としてクロアチアやボスニアの内戦に参加し、戦闘の経験を積むことにした。ボスニア戦争にはコソヴォ解放軍のメンバーだけでなく、セルビア共和国南部のサンジャック地方に居住するアルバニア系住民もムスリム人勢力軍に加わっており、後のコソヴォ紛争にも参加している。
ボスニア紛争が1995年に「デイトン・パリ協定」によって終結すると、クロアチアおよびボスニアの内戦で戦闘経験を積んできたコソヴォ解放軍・KLAの兵士たちはコソヴォに帰還してコソヴォ解放軍の活動を活発させることになる。
ユーゴ連邦解体戦争は、ボスニアとクロアチアの紛争を終結させたデイトン・パリ協定によって終結するかに見えた。しかし、米国はこれで終わらせるつもりはなかった。翌96年6月にミロシェヴィチ・セルビア大統領を説き伏せてコソヴォのプリシュティナに「情報・文化センター」の設置を認めさせる。直後にコンブルム米国務次官補は「米国がコソヴォ問題に関与し続けることの一例である」と露骨に表現した。
1997年に隣国アルバニアが政治的・経済的混乱に陥ると、コソヴォ解放軍・KLAはその乱れに乗じて武器を大量に入手し、直ちに武力闘争を開始する。資金は、スイスに拠点を置いたアルバニア系ディアスポラの「亡命政府」が「共和国基金」を設立して集め、またアヘンルートでも稼いで戦闘資金とした。そして翌98年5月には、コソヴォ自治州の25%を支配下に置くほどに勢力をのばした。セルビア共和国は、ユーゴ連邦解体戦争の過程でセルビア悪のプロパガンダに苦しめられたことからコソヴォ解放軍に対する鎮圧行動をためらっていた。国際社会の非難を恐れていたセルビア共和国としても、コソヴォ解放軍が4分の1もの地域を支配するまでになった状態を容認するわけにはいかなかった。そこで、セルビア共和国の治安部隊が本格的な鎮圧行動に取りかかると、国際社会は囂々たる非難をセルビア共和国に浴びせる。そしてセルビア悪に基づくユーゴ問題への強硬策を策定したクリントン米政権は、米国が主導するNATO軍によるセルビア共和国への空爆を企図する。
NATOは人道的介入を冠した「ユーゴ・コソヴォ空爆」を行なう
この後に開かれた「ランブイエ和平交渉」は、かかわった6ヵ国の連絡調整グループが和平に尽力する。しかし、結局オルブライト米国務長官が交渉の場に乗り込んで決裂に持ち込み、人道的介入なる名称を冠したNATOによる空爆へと導いた。1999年3月24日発動されたNATO軍の「アライド・フォース作戦」は熾烈を極め、ミサイルや通常爆弾のみか劣化ウラン弾も使われ、鉄道、工場、病院、学校、メディアなど無差別爆撃となった。
NATOのユーゴ・コソヴォ空爆は中国とロシアの安全保障政策に多大な影響を与える
このときNATO軍は中国大使館にもミサイル3発を打ち込んだ。米国は誤爆と謝罪したが、中国はそれを受け入れなかった。このNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は中国とロシアの安全保障体制に深甚な影響を与えた。ロシアは直ちに「新戦略概念」をうちだし、核戦争に備える演習を実施。中国はこれに対抗するための防衛体制の再編に取り組むことになる。専守防衛のための陸軍の増強に取り組んでいた方針を転換し、電子戦に備えた海空の高度な戦闘能力を保有することになる。
セルビア共和国は屈服を余儀なくされる
NATO軍の空爆によってセルビア共和国は屈服を余儀なくされ、セルビア治安部隊はコソヴォ自治州から撤収させられた。
コソヴォ解放軍・KLAは、セルビア治安部隊が撤収すると、コソヴォ自治州を純粋なアルバニア人国家とするとの意図の下に、セルビア人住民に迫害を加えて追放し始める。そのために、NATO軍の干渉前には10%を占めていたセルビア人住民は4.5%に激減した。コソヴォ解放軍の企図が、どの時点でコソヴォ自治州の分離独立から大アルバニアの建設に転換したのかは明らかではないが、恐らくルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領などから引き継がれたアルバニア系住民の悲願であったものと見られる。
コソヴォ解放軍はセルビア南部とマケドニア北部の分離闘争を仕掛ける
コソヴォ解放軍・KLAは、99年から2000年にかけてセルビア共和国のサンジャック地方を中心に「プレシェヴォ・ブヤノヴァツ・メドゥヴェジャ解放軍・LAPBM」を結成させ、NATO軍の支援を期待しつつ武力攻撃を展開した。しかし、これはセルビア治安部隊の反撃を受けたため、達成は困難と見られた。
そこで、コソヴォ解放軍・KLAは、軍備の乏しいマケドニア共和国のアルバニア系住民居住地の分割を先行させることにする。そして、2001年1月に北部のアルバニア系住民に「民族解放戦線・NLA」を結成させ、3月には本格的な武力攻撃を開始した。このKLA・NLAの軍事行動に米軍事請負会社・MPRIや米CIAなどが密かに関与していた。
マケドニア共和国政府はかねてからこの事態を危惧して国連予防展開軍・UNPREDEPの配備継続を要請してきていたのだが、空爆を開始する直前の99年2月に国際政治の駆け引きの中でUNPREDEPは撤収していた。貧弱な武力しか備えていなかったマケドニアはたちまち押し込まれ、KLA・NLAはマケドニア共和国北部の30%を支配するまでになる。これに対してマケドニアは急遽ウクライナなどから攻撃ヘリの貸与を受けるなどをして総動員体制によって必死の反撃を行なった。そして、ようやくマケドニア軍がKLA・NLAを追い詰めていくと、NATOが乗り出して停戦交渉に合意させる。
この時、マケドニア軍が包囲したKLA・NLAの兵員を米軍が仕立てた護送車で米軍事請負会社・MPRIやCIA要員などともに搬送した。これを見たマケドニアの住民はこの車列に投石するなどで抗議の姿勢を示した。
大アルバニア建設に失敗したコソヴォはセルビアからの分離独立に向かう
結局、コソヴォ解放軍が企図したセルビア南部とマケドニア北部を分割する大アルバニア建設は失敗に終わる。コソヴォ解放軍は、大アルバニア形成への企てには失敗したものの、コソヴォ自治州をセルビア共和国から分離独立させることを諦めたわけではなかった。そのため、「ランブイエ和平交渉」に盛り込まれた3年後に協議するとの条項の実現を国際社会に迫った。
国連はこれに応じ、05年にアハティサーリ前フィンランド大統領を特使に任命して打開策を模索する。しかし、セルビア共和国としては民族揺籃の地であるコソヴォを切り捨てることなど論外であり、コソヴォ解放軍は自治権の拡大で済ませることは受容できないと主張し続けたために、打開策を見出すことができないままに仲介策は挫折した。
コソヴォ政府は強引にセルビア共和国から分離独立を宣言
2008年2月、コソヴォ解放軍・KLAの政治局長だったハシム・タチがコソヴォ自治州暫定政府の首相に就任すると独立を宣言し、コソヴォ議会に独立宣言を採択させた。西側諸国の大半は予定調和のごとく承認するが、多くの国はこのような形の独立の経緯を容認するところとはならず、1年を経た後も国連加盟国192ヵ国のうち承認した国は54ヵ国にとどまった。もとより、セルビア共和国は民族揺籃の地であるコソヴォの独立を認めていない。
コソヴォが独立を達成したことからすれば、隣国アルバニアとの合併による大アルバニアの実現を急ぐものと見られたが、コソヴォ政府は弱体化したアルバニアを侮蔑視し、アルバニア政府はコソヴォの粗暴さを良としないため、コソヴォとアルバニアが合併する政治的な協議は見通しが立っていない。
大アルバニア建設の意志は継承される
2010年10月、セルビア、マケドニア、モンテネグロ、ギリシアのアルバニア系住民の代表がアルバニアのティラナに集まり、「自然なアルバニア」のスローガンを掲げ、すべてのアルバニア人の統一国家を目指すためのプロジェクトを立ち上げた。
一方で、98年に欧州安保協力機構・OSCEコソヴォ停戦合意検証団・KVMの団長を務め、ユーゴ・コソヴォ空爆を導く役割を果たした米外交官ウィリアム・ウォーカーは、2010年11月に「コソヴォのアルバニア人にはアルバニアと合体する権利がある」との声明を発表した。
バルカン諸国に点在するアルバニア系住民地域を大アルバニアとして統合するには、NATOの軍事力を頼りにしなければならないが、99年のユーゴ・コソヴォ空爆のような軍事力支援の可能性は極めて低いことから、大アルバニア建設の実現は望み薄である。
大アルバニアを表した地図は現存する。それによると、アルバニアを中心としてコソヴォ自治州からセルビア南部のサンジャック地方のアルバニア系住民の居住地、さらにマケドニア北部のアルバニア系住民の居住地にモンテネグロの一部が含まれている。コソヴォ解放軍・KLAは、この版図に準じた大アルバニアを構想していたものと見られるが、中心にコソヴォ自治州を置いたものであろう。
<参照;コソヴォ自治州、アルバニア>
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