ユーゴスラヴィア連邦解体戦争・コラム

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1.*ユーゴ戦争と「国連」の対応

2,*ユーゴ戦争と「EC・EU」の対応

3,*ユーゴ戦争と「ドイツ」の対応

4,*ユーゴ戦争と「バチカン市国」の対応

5,ユーゴ戦争と 「米国」の対応

6,*ユーゴ戦争と「ソ連・ロシア」の対応

7,*ユーゴ戦争と「北大西洋条約機構・NATO」の対応

8,*「パルチザン」

9,*「ウスタシャ・(蜂起する者)」

10,*「チェトニク・(隊を組むもの)」

11,*「ユーゴ人民解放反ファシスト評議会・AVNOJ」

12,*「アルバビア人麻薬コネクション・ルート」

13,*ユーゴ戦争と「米中央情報局・CIA」

14,*「アメリカ民主主義基金・NED

15,*ユーゴ戦争と「ドイツ連邦情報局・BND」

16,*ユーゴ戦争と「アメリカのPR会社」,

17,*ユーゴ戦争と「OSCE・全欧州安全保障協力機構

18,*「国際行動センター・IAC」

19,*「国際危機グループ・ICG」

20,*「ビルダーバーグ会議」

21,*「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」

22,*ユーゴ戦争と「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」

23,*ユーゴ戦争と「国際司法裁判所・ICJ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1,ユーゴ戦争と「国連の対応」

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争では武力衝突の回避に尽力した

1991年6月25日にユーゴスラヴィア連邦のスロヴェニア共和国とクロアチア共和国が分離独立を宣言した。これに対し、欧州共同体・ECは外相会議を開き、善後策を検討する。そして、7月にスロヴェニアとクロアチア両国における武力衝突を抑制するために独立宣言を3ヵ月間凍結させる「ブリオニ合意」を受諾させ、停戦を監視するためのEC監視団を派遣することを決定した。ECの主要な国は、この凍結期間中に対応策を見出そうとしたのだが、ドイツとオーストリアとイタリアおよびバチカン市国は3ヵ月の凍結期間を単なる冷却期間としか受け取らず、スロヴェニアとクロアチアのユーゴ連邦からの分離独立を支持して陰に陽に画策した。

91年12月、ペレス・デクエヤル国連事務総長は紛争が激化することを危惧し、ドイツのゲンシャー外相にクロアチア共和国およびスロヴェニア共和国の独立承認を再考するよう、書簡を送った。しかし、ゲンシャー・ドイツ外相はこれに対し「独立承認が紛争を回避する最良の道だ」との返書を提出した。ドイツの目論見は、東西ドイツ再統一のコストを補填するためにドイツ経済圏の拡大を図ることにあった。ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の初期の段階では、ECが主導権を握っており、スロヴェニアおよびクロアチアが独立を宣言した後も、国連は91年9月に安保理で武力紛争の拡大を防ぐための「ユーゴスラヴィア連邦への武器禁輸」決議713を採択したのみで、直接的な和平仲介には乗り出せずにいた。

ECは91年9月にキャリントン英元外相を議長とした「旧ユーゴ和平会議」を始動させたが、国連は10月に至ってヴァンス米元国務長官を事務総長特使としてクロアチアに派遣する。ヴァンス国連特使は11月、クロアチア共和国軍によるユーゴ連邦人民軍の兵舎の封鎖を解除させ、武力衝突を停止させた。クロアチア共和国は紛争の最中にあり、国家としての形態が定まっていないにもかかわらず、ドイツは91年12月23日に単独で承認し、次いでバチカンが翌92年1月13日に承認したため、EC諸国もそれに引きずられる形で1月15日にスロヴェニアおよびクロアチア両国の独立を承認した。そのためクロアチアでは共和国軍とセルビア人勢力間の武力衝突が一層激化する。これを見て国連安保理は、92年2月にクロアチアの内戦を抑制するために決議743を採択して安全地域を設定し、国連保護軍・UNPROFORをクロアチア政府軍とクロアチア・セルビア人勢力との境界付近の4地区に派遣した。

同じ2月末、イゼトベゴヴィチ・ボスニア政府幹部会議長(大統領)はEC諸国がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認したのを見て、セルビア系住民が反対するのを押し切って住民投票を強行し、投票総数の90%を超える圧倒的な支持を受けて3月3日には独立を宣言した。EC諸国と米国はボスニアの独立を4月に承認する。この拙速な国家承認が、クロアチアおよびボスニアの紛争を解決困難なものにした。ボスニアの独立宣言は、域内のムスリム人勢力、クロアチア人勢力、セルビア人勢力およびユーゴ連邦人民軍が絡んで武力衝突を激化させることになったからである。

異様な国際社会の新ユーゴ連邦への対応

国連安保理は、ボスニアの独立宣言に伴う武力衝突が拡大するのを危惧し、92年4月に決議749を採択して国連保護軍・UNPROFORの任務をボスニア地域へ拡大する。ECおよび米国は、この武力衝突の原因はユーゴ連邦人民軍とセルビア共和国にあると非難し、国交断絶を示唆した。これに対し、ヴァンス国連事務総長特使は4月24日にボスニア紛争の現状とその拡大については、「潔白な当事者はおらず、すべての当事者が戦闘の勃発と継続に何らかの責任を負っている」との報告書を国連に提出した。ガリ国連事務総長も、「ボスニア紛争には、セルビア人のみではなく、多くの民族にも責任がある。ボスニア・セルビア人勢力はセルビア共和国の指示は受けていない」との報告書を安保理に提出したが、国際社会におけるユーゴ連邦およびセルビア共和国非難の流れは変わらなかった。

国連は新ユーゴ連邦の加盟を認めず諸機関から排除に動く

ユーゴ連邦議会の連邦院は、国際社会がスロヴェニア共和国とクロアチア共和国ならびにボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国を独立国として承認するのを見て、もはやユーゴ連邦を維持することは困難と判断し、92年4月27日にセルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国の2国で旧ユーゴ連邦を継承する形態での「(新)ユーゴスラヴィア連邦」を建国する新憲法を採択した。しかし、国連は新ユーゴ連邦の加盟を認めなかった。

それどころか、国連安保理は92年5月にセルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国で構成された新ユーゴ連邦に「包括的な経済制裁」を科す決議757を採択し、ボスニアからのユーゴ連邦人民軍の撤退を突きつける。一方、国連安保理は同じ5月に、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニアの国連加盟を勧告し、総会はその加盟を承認した。

他方で、新ユーゴ連邦への包囲網は着々と敷かれていき、国連安保理が92年5月に包括的経済制裁757を採択したのに続き、6月に「関税と貿易に関する一般協定・GATT」が加盟資格を停止する。9月には新ユーゴ連邦には国連加盟継承資格がないとして加盟を否定する国連安保理決議777を採択。同じ9月に国際原子力機関・IAEAも追放決議を採択した。さらに国連安保理は、11月に新ユーゴ連邦への追加経済制裁787を採択する。

この安保理決議を受け、NATO加盟諸国は、経済制裁を実効あらしめるためとの理由をつけてアドリア海に艦隊を集結させ始めた。翌93年2月に「国連人権委員会」は、マゾビエツキ人権問題特別報告者が「紛争のすべての指導者が残虐行為と無関係とはいえない」との報告書を提出しているのを無視し、セルビア人勢力の「レイプ」と「民族浄化」を非難する決議を採択。93年4月には、国連社会経済理事会から新ユーゴ連邦を排除する決議を安保理および総会で採択。93年5月には世界保健機構・WHOまでが政治性を発揮し、新ユーゴ連邦を活動から排除する決議を採択した。ヴァンス国連特使が「ボスニア紛争にはすべての当事者に責任がある」と報告し、ガリ国連事務総長が「新ユーゴ連邦はボスニア・セルビア人勢力に指示は出していない」との安保理への報告書を無視し、国連の諸機関が新ユーゴ連邦を相次いで排除したことは、国際社会が正常な知覚を欠いていたことを示している。

国連の諸機関は新ユーゴ連邦への孤立化政策をとる

ECの「旧ユーゴ和平会議」は、キャリントン英元外相を議長としてクロアチアの和平に向けた調整を始めていたが、ボスニアにおける武力衝突が拡大したことからボスニア和平にも乗り出す。キャリントン議長は、精力的にボスニアの3民族と会談を重ねたが、ECと米国が新ユーゴ連邦に経済制裁を科す中、ボスニア政府は和平よりもセルビア人勢力を屈服させることに拘ったために、和平の見通しは立たなかった。キャリントン議長はボスニア政府の対応を見て92年8月のロンドン拡大和平国際会議の前日に辞任してしまう。ロンドンで開かれた拡大和平国際会議は、急遽EC議長国のメージャー英首相とガリ国連事務総長が共同議長として運営したが、表層的な会議の賑わいに反し、実質的な和平には寄与しなかった。

「旧ユーゴ和平国際会議」のヴァンス国連事務総長特使も限界を意識して辞任

ヴァンス国連事務総長特使は改編された「旧ユーゴ和平国際会議」の共同議長に就任するとEC側のオーエン共同議長とともに、93年1月に和平案を提示する。提案の主要な内容は、「ボスニアを10のカントン・州に分割して自治州とし、国家形態は非中央集権国家とする。中央政府は外交、国際関係などのみを担う。紛争の焦点となっている3民族混住地のサラエヴォは非軍事化する」というものであった。イゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領はサラエヴォを非軍事化するのは受け入れられないと反対を表明。カラジッチ・セルビア人勢力の代表は「進展があった」と評価したが、セルビア人勢力の強硬派が裁定案はボスニアを実質的に支配している領域が反映されていないと異議を唱えたために「ヴァンス・オーエン案」は成立しなかった。

国連保護軍の司令官は現地の実情に即した対応をしたが罵倒の対象にされる

国連保護軍・UNPROFORの任務は、「ユーゴスラヴィア危機の全般的解決策を交渉するのに必要な、平和および安全の諸条件を醸成するための暫定的組織」とされたが、実際の任務は戦闘の監視と人道援助物資輸送の保護であった。旧ユーゴスラヴィアの政治情勢を支配していたのはNATO諸国といえるが、国連保護軍の司令官たちはNATO軍の意向に従属していたわけではない。国連保護軍の司令官たちは、保護軍に与えられた任務を忠実に遂行し、比較的公正な視点で任務に携わっていた。ただし、実態報告や発言は尊重されることなく、抑制されるか無視されることがほとんどだった。それどころか、ECおよびNATOの意向に添わない発言をする者は非難に曝され、場合によっては更迭された。国連保護軍司令官のマッケンジー将軍が92年9月にカナダに帰任した際の記者会見で、「セルビア人勢力の『強制収容所』の存在を否定」した。すると、米国議会やメディアが囂々たる非難を浴びせたために、カナダ陸軍からの退役を余儀なくされ、功績と将来の道を断たれた。フランスのモリヨン将軍は、ボスニア政府が流布したボスニア東部のチェルスカなどでのムスリム人に対する迫害、特に女性に対するレイプなどの迫害を現地視察によって否定したが、その発言は聞き流された。

ボスニア政府軍は都市を拠点にセルビア人居住地域を攻撃する

ボスニアのムスリム人勢力は、主として都市を拠点にして周囲のセルビア人居住区への攻撃を行なっていた。スレブレニツァを本拠としていたボスニア政府軍28師団のオリッチ司令官は、ムスリム人勢力の領域拡大を図り、周辺のセルビア人住民の村への出撃を繰り返した。93年3月、セルビア人勢力はこれに対して反撃を加え、スレブレニツァを陥落寸前まで追いつめた。すると、国連安保理は直ちに反応し、4月にスレブレニツァを非軍事化することを条件として「安全地域」とする決議819を採択した。セルビア人勢力が攻撃できないようにしたのである。安保理決議819は武装勢力の非武装化を含めていたのだが、オリッチの28師団が武装解除に従わず、スレブレニツァが非軍事化されることはなかった。さらに安保理は、5月に決議824を採択し、安全地域をサラエヴォ、トゥズラ、ジェパ、ゴラジュデ、ビハチへと拡大する。このような情勢の中、ヴァンス国連特使は和平仲介の限界を認識し、5月に辞任してしまう。

米国は「新戦略」にクロアチア政府・ボスニア政府・クロアチア人勢力を呼びつけて合意させる

ボスニア内戦では、セルビア人勢力とボスニア政府の武力衝突のみが注目を浴びているが、実際にはボスニア政府とクロアチア人勢力との間でも支配領域をめぐって厳しい戦闘が交えられていた。93年に入ると、ボスニア政府軍とクロアチア人勢力は中西部の支配領域をめぐって激しい戦いを繰り広げた。5月にはクロアチア人勢力はモスタル市を臨時首都とすることを目論見、激しい砲撃戦を仕掛けた。このときネレトヴァ川に架けられていた6本の橋はすべて落とされた。オスマン帝国時代に建造された美しいアーチ状のネレトヴァ石橋「スタリ・モスト」もクロアチア人勢力軍の砲撃で崩落した。

93年1月に就任したクリントン米大統領は「セルビア悪」に基づくユーゴスラヴィア連邦の解体政策を進めていたことから、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の間の武力衝突は障害であった。そこで、米政府はセルビア人勢力を征圧するための「新戦略」を立案し、クロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力を統合共同作戦に引き込むこと1を企図する。そして94年2月、先ず、ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派マテ・ボバン大統領を解任させ、次いでクロアチア共和国のグラニッチ外相とボスニア政府のシライジッチ首相およびクロアチア人勢力の「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」のズバク新大統領を米国に呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させた。

この協定の公表された内容は、一つはボスニア政府とクロアチア人勢力のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国を統合して「ボスニア連邦」を設立すること、もう一つはこの「ボスニア連邦」と「クロアチア共和国」が将来連合国家を形成するための予備協定に合意する、というものであった。これは、「旧ユーゴ和平国際会議」が和平に尽力している最中に米国が独自に介入する不自然さを糊塗するための表層を取り繕ったものであった。米国政府の新戦略の真の目的は、クロアチア共和国とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力の3者を統合共同作戦に糾合し、クロアチアのセルビア人勢力とボスニアのセルビア人勢力を征圧する作戦を実行させるところにあった。その上で、NATO軍はこの共同作戦に適宜加担するというものである。

NATOは明石康国連事務総長特使を辞任に追い込む

94年1月、ガリ国連事務総長は「旧ユーゴ和平国際会議」の共同議長を務めているシュトルテンベルク国連特使とは別に、和平全般を統括する指揮官としての国連特別代表に明石康事務次長を任命した。しかし、明石国連特別代表が和平交渉の指揮を執り始めたこの時期は、米国が新戦略を立案して実行に移し始めた時と重なっていた。そのため、明石国連特別代表がボスニア政府代表やセルビア人勢力代表と会談し、和平のあり方を模索しても、それが実現する見込みは全くなかったのである。明石国連特別代表が努力して停戦協定を締結させても、ボスニア政府は米軍が主導するNATO軍がボスニア政府を支援してくれることが想定されているために協定を守るつもりはなく、セルビア人勢力軍に攻撃を仕掛けてはセルビア人勢力に反撃させてNATO軍の空爆を呼び込むということを繰り返した。

明石特別代表が、交渉による解決を目指してNATO軍の空爆を回避するための交渉を行なうと、ボスニア政府は明石特別代表がセルビア寄りだとして激しい非難を浴びせ、解任をさえ要求した。にもかかわらず明石特別代表は努力を続け、94年12月にはボスニア政府とボスニアのセルビア人勢力との間に4ヵ月間の停戦の合意に漕ぎ着ける。しかし、ボスニア政府は期限切れの95年4月に停戦延長を拒否する。この延長拒否にはワシントン協定を含む米国の新戦略が絡んでいた。

クロアチア共和国政府は作戦の障害になる国連保護軍の撤収を要求

クリントン米政権は、新戦略に基づく統合共同作戦を実行するために94年を準備期間と定め、米軍事請負会社・MPRIおよび米CIAなどを送り込み、訓練を施すとともに共同作戦の準備を整えさせた。しかし、共同作戦を実行するためには国連保護軍・UNPROFORの存在が障害となりかねなかった。そこで、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は95年1月、和平の妨げになると言い立てて国連保護軍の撤収を執拗に要求した。国連安保理では異論も出されたものの、結局クロアチア政府の要求に応えて95年3月に決議981~983を採択して国連保護軍・UNPROFORを3分割し、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。この決議によって、クロアチアには1万2000人から8700人に縮小された国連信頼回復活動・UNCROが残されることになる。

クロアチア共和国軍は国連部隊の再編成が終わると、待ちかねたように5月1日に「稲妻作戦」を発動し、クライナ・セルビア人共和国が支配する「西スラヴォニア」を攻略した。ボスニア政府軍は同じ5月、訓練を受けて精強化した特殊部隊を出動させ、サラエヴォ市の周囲のイグマン山に拠点を構えているセルビア人勢力の掃討作戦を敢行した。ボスニア・セルビア人勢力はこのボスニア政府軍の特殊部隊の攻撃に対抗するために、国連保護軍に提出していた重火器を取り戻して応じた。NATO軍はこれを激しく非難し、通告期限までに返還しなかったとしてセルビア人勢力軍を空爆した。しかし、ボスニア政府軍のこの作戦は正面攻撃に拘った稚拙な行動だったために大敗北を喫し、ボスニア政府の精鋭部隊は壊滅的な打撃を受ける。ボスニア政府はこの失敗を隠蔽することと、西部における戦闘から目を逸らすために、東南部のスレブレニツァ、ゴラジュデ、ビハチ、トゥズラのボスニア政府軍に周囲のセルビア人居住地への攻撃を実行するよう、陽動作戦をかねた指令を出した。

ボスニア・セルビア人勢力はこのボスニア政府軍の攻勢が陽動作戦であることに気付かず、これに対抗するために「クリバヤ95作戦」を7月に発動して初動地にスレブレニツァを選んだ。このスレブレニツァ攻略の際にスレブレニツァ事件が起こされたとされる。米国は直ちに反応し、検証することなく虐殺があったと宣伝した。

同じ7月、スレブレニツァ事件騒ぎに乗じてクロアチア共和国軍はボスニアに越境し、ボスニア政府軍との共同作戦「‘95夏作戦」を発動し、ボスニアからクロアチアのクライナ・セルビア人共和国に至る幹線の要衝であるリヴノとグラホヴォを制圧した。この作戦によって、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国の首都であるクニンへ至るボスニアからの幹線は遮断され、ボスニアのセルビア人戦力がクロアチアのセルビア人勢力へ支援する道は断たれることになった。

和平に尽力した明石康国連特別代表を排除したNATOとボスニア政府

最高責任者としての明石康特別代表の任務は和平の実現にあったが、NATO軍を含む国連保護軍の軍事行動の許諾権を有する責任者でもあった。彼は軍事行動を否定したわけではないが、可能な限り政治交渉による解決を模索した。そのことがNATO軍の空爆によるセルビア人勢力の屈服を目指すボスニア政府や米政府の批判の対象となり、やがてNATO軍は明石特別代表から軍事行動の許諾権を剥奪してしまう。95年7月、米当局者はNATOの会議において、明石国連特別代表に与えられていた軍事力行使の発動権限を拒否すると表明。米政府はガリ国連事務総長に対し明石特別代表の権限をNATO軍に委譲するよう要求した。ガリ事務総長はそれを受け入れ、セルビア人勢力への空爆の発動権限をNATO軍の司令官と現地の国連保護軍の司令官に与えた。国連が掌握していた文官による最高指揮権を、現地武官が行使できるようにしたのである。これ以後、国連は傍役に追い込まれてしまう。

クロアチア政府軍とボスニア政府軍によるクライナ・セルビア人共和国の壊滅作戦

クロアチア政府軍は8月4日、15万余の兵員を動員した大規模なクロアチアのセルビア人を掃討する「嵐作戦」を発動した。この作戦は4方面からクライナ・セルビア人勢力を掃討するもので、UNCROの国連部隊の監視所を砲撃して占拠し、包囲して禁足令を出した上でクライナ・セルビア人勢力に大攻勢をかけ、セルビア人勢力を壊滅させることに成功した。このときボスニア政府軍は「‘95夏作戦」で制圧したリヴノとグラホヴォの守備を固めるとともに、その幹線を利用してクロアチアのセルビア人勢力軍を攻撃する。さらに、ビハチのボスニア政府軍の第5軍団も出撃してクロアチアのセルビア人勢力軍を攻撃した。

これを迎え撃つことになったクライナ・セルビア人勢力軍は4万弱程度の兵力であり、クロアチア政府軍の15万余に加えて、ボスニア政府軍の数万人の兵力に太刀打ちできるはずもなく、たちまち戦線は崩壊し、列をなしてセルビア人住民とともにクロアチアを脱出する。クロアチア共和国軍は、この避難民の列に砲撃を浴びせた。

赤十字国際委員会・ICRCによると、このときクロアチアを脱出したセルビア人住民は20数万人におよんだという。クロアチア政府軍は、「嵐作戦」でクライナ・セルビア人共和国を壊滅させると、そのままボスニア領内に侵攻し、ボスニア政府軍と共同でボスニアのセルビア人勢力への攻撃を続行した。ボスニアのセルビア人勢力はクロアチア共和国とボスニア連邦の大規模な共同作戦の攻撃に曝されることになる。

ボスニアのセルビア人勢力軍の壊滅を企図したNATO軍の「デリバリット・フォース作戦」

このような状況下の8月28日、ボスニアのマルカレ市場で爆発があり、多数の死傷者が出るという事件が起こされた。NATO軍はこの事件をセルビア人勢力が起こしたものと即断し、検証することなく直ちに「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動し、NATO軍は空爆を行なうとともに、陸上に進駐したNATO加盟国で編成された国連軍の緊急対応部隊が、ボスニアのセルビア人勢力の軍事拠点を苛烈に攻撃した。

マルカレ市場爆発事件は、国連の英専門家や国連保護軍の露専門家が、セルビア人勢力による砲撃である証拠はなく、むしろムスリム人主体のボスニア政府軍の行為だった可能性があると報告したが、NATO加盟国から任命された司令官の指揮下となっていた国連保護軍はこれを却下した。

NATO軍の空陸からの作戦と共調してクロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍がセルビア人勢力への攻撃を行なったから、セルビア人勢力はほとんど対抗する力を失い、停戦協定に合意せざるを得ないところまで追いつめられた。この後に開かれた米国主導の「デイトン和平交渉」は、当事者のボスニア・セルビア人勢力も傍役に追いやられ、国連事務局も関与する余地は与えられなかった。

米国主導のNATO軍が国連を傍役にした最初の例がユーゴ連邦解体戦争

ユーゴ連邦解体戦争の過程で国連は交渉による和平の成立に尽力したが、クロアチア共和国政府とボスニア政府は米国が主導するNATO軍の力による征圧に頼ったため、国連の努力は尽く不調に終わった。NATO諸国が国連の役割に期待したのは、難民高等弁務官事務所・UNHCRに求められている人道的任務の難民・避難民に救援物資を届けることであって、政治的な交渉力ではなかった。ボスニア危機で、国連が重要な権能を発揮することは一度も許容されることはなかったのである。国連は便宜的に、クロアチア共和国政府とボスニア政府およびその「後見人」となったNATOの意のままに利用されたのであった。

米国のシンクタンクIPSの研究員フィリス・ベニスは、「バルカン半島で国連が国際的に重大な役割を演ずることはなく、西側諸国も戦略的に国連を重視しなかった。ボスニア紛争で国連が演じた役割は、米国および欧州の同盟諸国に政策の道具として強制されたもので、道化師の役回りを演じさせられた。国連の代わりに中心的役割を担ったのは、NATOやEUや連絡調整グループだった」のだと分析した。

ユーゴ連邦解体戦争の総仕上げとしてのコソヴォ紛争

クリントン米政権はユーゴ連邦解体戦争におけるボスニア紛争を終結させた「デイトン・パリ協定」で終わらせるつもりはなかった。コソヴォ自治州問題への関与を企図していたのである。そのため、協定成立後の翌96年6月にクリストファー米国務長官はミロシェヴィチ・セルビア大統領を説得してコソヴォのプリシュティナに米「情報・文化センター」の設置を認めさせた。情報・文化センターは米CIAが拠点としているところである。直後にコンブルム米国務次官補は「米国がコソヴォに関与し続けることの一例である」と露骨に述べた。これ以後、米CIAは情報・文化センターを通じてコソヴォ解放軍・KLAの活動を支援することになる。

コソヴォ解放軍・KLAの武力闘争

コソヴォは第2次次大戦後に、ユーゴ連邦セルビア共和国の中に自治州と位置づけられていた。しかし、コソヴォ自治州はユーゴ連邦の中における最貧国から抜け出せなかったことからしばしば暴動を起こした。そのため、ユーゴ連邦政府は改定した74年憲法において各共和国およびコソヴォ自治州とヴォイヴォディナ自治州に共和国なみの行政権限を与えた。にもかかわらず、コソヴォ自治州のアルバニア系住民は自力で経済を興すことはできず、ただひたすら共和国になれば最貧国から脱出が可能となるかの如き幻想を抱き、共和国とすることを要求して暴動を繰り返した。

1989年に東欧の社会主義圏が崩壊するとコソヴォもその影響を受け、アルバニア系住民は一層独立を志向するようになる。そして、イブラヒム・ルゴヴァらが「コソヴォ民主連盟」を設立して大統領に就任し、政治的手段によって独立を目指すと宣言する一方で、武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする若者たちで編制したコソヴォ解放軍・KLAが武力闘争を始めた。

1997年に隣国アルバニアが社会主義制度から資本主義制度へ転換する過程で政治的・社会的混乱が起こると、コソヴォ解放軍はそれに乗じてアルバニアから大量の武器を入手し、すぐさま武力闘争を活発化させた。セルビア共和国は、ユーゴ連邦解体戦争の過程で「セルビア悪」のブラック・プロパガンダによって孤立化させられて苦しんだことから、コソヴォ解放軍・KLAの武力攻撃を鎮圧できないでいた。そのため、コソヴォ解放軍はコソヴォ自治州の25%を支配するまでになる。セルビア共和国としては、セルビア王国揺籃の地の4分の1を占拠される事態を許容するわけにはいかなかった。そこで治安部隊がコソヴォ解放軍の鎮圧に乗り出していく。すると西側諸国はこれを民族迫害だとして囂々と非難し、国連安保理は98年9月にセルビア共和国に対し即時停戦と治安部隊の撤退を要求する決議1199を採択する。そして低強度紛争にすぎないコソヴォ紛争に対し、NATO軍は空爆を辞さないとしてアドリア海に大艦隊を集結させ、空軍はNATO加盟国の空軍基地に航空機を集結させ始めた。

ユーゴ・コソヴォ空爆は既定路線として実行される

このときは、ロシアの提言により、安保理1199に基づく停戦協定の遵守状況を国際社会に認知させるために、欧州安保協力機構OSCEの停戦合意監視団KVMの受け入れをユーゴ連邦に受諾させた。OSCE・KVM監視団員は98年10月から1600名が順次コソヴォ自治州に派遣されることになるが、米政府はこのOSCE・KVMの団長に曰くのあるウィリアム・ウォーカーを就任させるとともに団員の中に米CIAおよび英MI6を潜り込ませた。その上、コソヴォ自治州の代表をルゴヴァ暫定大統領ではなく、コソヴォ解放軍の若いタチ政治局長を指名するという策まで弄した。

ウォーカーKVM団長は遅れて99年1月にコソヴォに入るとすぐさま「ラチャク村虐殺事件」を捏造し、国際社会にセルビア悪を再認識させるという工作を行なう。これを受けてオルブライト米国務長官はミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を「1939年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえて激しく非難し、NATO軍による武力介入が不可欠との雰囲気を醸成させた。

ランブイエ和平交渉を不成立に終わらせたオルブライト米国長官

NATOは直ちに空爆を実行しようとしたが、このときは6ヵ国で構成した「連絡調整グループ」による「和平交渉」がフランスのランブイエで99年2月から行なわれることになる。連絡調整グループが「ランブイエ和平交渉」仲介の主役のように見られているが、実際に交渉を支配したのは米国の特使である。コソヴォ自治州の代表にルゴヴァ自治州大統領ではなくコソヴォ解放軍の若い30歳の政治局長を任命させるという作為をこらした。さらに、途中からオルブライト米国務長官が協議の場に乗り込んでランブイエ和平交渉を引き回し、国連が関与する余地を与えなかった。クリントン米政権は、ユーゴ連邦・セルビア共和国政府およびミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の崩壊と屈服を目標としていたことから、国連の関与など問題外だったのである。オルブライト米国務長官は交渉の主導権を掌握すると、和平交渉の条項の中にユーゴ連邦全土にNATO軍を配備させよとの軍事条項を突き付け、ユーゴ連邦に拒絶させるという策謀を行ない、セルビアが傲慢な対応に終始したとの印象を国際社会に植え付けてコソヴォ・ユーゴ空爆へと導いた

国連安保理決議を回避するためにつけられた人道的介入

コソヴォ紛争において国連の機関に求められたのは、98年3月の安保理決議1160によるユーゴ連邦への経済制裁と、98年9月の決議1190による即時停戦の維持と対話をもとめるもの、および98年10月の安保理決議1203によるOSCEの停戦合意検証団のコソヴォ自治州への派遣の決定であり、武力行使に必要な安保理の決議は議題に上げられることさえなかった。

米国主導のNATO軍は、コソヴォ解放軍・KLAによるコソヴォ自治州の武力闘争を支持し、それに対するセルビア政府の鎮圧行動を非人道的な虐殺行為だと断じた。その上で、低強度紛争にすぎない鎮圧行動を一刻も猶予がならない迫害と言い立てて「人道的介入」なる耳障りのいいプロパガンダによって国連安保理の決議を回避し、99年3月24日から6月10日にかけてユーゴスラヴィア連邦全土に激しい空爆を加えて徹底的に破壊した。空爆による難民膨大な数に上ると、安保理は空爆最中の99年5月14日に決議1239を採択して難民支援を各国に要請することになる。

NATO軍が国土を破壊し国連加盟国が復興費用を負担するシステムを構築

NATO空爆後のコソヴォ自治州の地位は、安保理決議1244によって国連コソヴォ暫定行政ミッション・UNMIKが設置されその統治下で暫定政府が行政を行ない、セルビア共和国政府の権限は剥奪された。決議1244に伴う事務総長報告によると、復興は欧州連合・EUが主導することにされているが、このことは米国主導のNATO軍は破壊のための軍事行動を実行し、その後の費用は国連加盟国に負担させるという仕組みを国際社会は押し付けられたことを意味する。現実に、ドナウ川に架けられていた6本の橋はNATOの空爆によってすべて破壊されたがその再建を担ったのはEUであり、米国は担っていない。このシステムはのちのアフガニスタンやイラク侵攻作戦でも採用されることになる。

NATO軍による支配下で大アルバニア構想を実行したコソヴォ解放軍

コソヴォ解放軍・KLAは、NATO空爆後にセルビア共和国の治安部隊が撤収させられると、「大アルバニア」建設を夢想した。そして、セルビア共和国内に居住するアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を結成させて分離闘争を仕掛けた。しかし、このKLAの武力活動に対してNATO軍は表向きの支援を与えることができなかったため、割譲闘争はうまくいかなかった。するとKLAは軍備の貧弱なマケドニアに方向を転換し、マケドニアのアルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させてKLA・NLA連合部隊で、やはりアルバニア人居住地の分割闘争を開始した。

マケドニア政府はこのような事態を危惧して国連に予防展開軍・UNPREDEPの駐留を要請していたのだが、UNPREDEPはNATO軍がユーゴ・コソヴォ空爆を開始した99年3月の1ヵ月前に国際社会の政治的駆け引きに翻弄された挙げ句に撤収してしまっていた。その上、軍備の乏しかったマケドニアはたちまちKLA・NLAに押し込まれ、国土の30%を占拠されることになる。狼狽したマケドニア政府はウクライナから攻撃ヘリの貸与を受けて総動員態勢で反撃を行なう。5ヵ月にわたる戦闘でマケドニア政府軍はようやくKLA・NLAの連合部隊を追いつめた。ここにいたって、NATOが介入し、戦闘を停止させる。

コソヴォ解放軍はコソヴォの独立を宣言する

コソヴォ解放軍は大アルバニア構想を挫折させたものの、コソヴォ自治州の分離独立を諦めたわけではなかった。そこで国際社会にランブイエ和平交渉の条項に組み込まれていた3年後にコソヴォの独立問題を協議するとの条項の履行を強く求めた。

これを受けて国連は2005年にアハティサーリ元フィンランド大統領を国連のコソヴォ問題担当特使に任命する。アハティサーリは国連特使として任命されたにもかかわらず、国連ではなくNATOの意向に沿ってコソヴォ自治州の最終地位問題に関する仲介作業を進めた。しかし、コソヴォ自治州のアルバニア系住民は独立以外の国家形態を受け入れず、セルビア政府としては民族揺籃の地を放棄する意志はなかったため交渉は成立しなかった。そこで、アハティサーリ特使は2007年に国連安保理決議による解決を図る。しかし、独立問題を安保理で決議することに疑問が出されたために、決議案は採択に至らなかった。

この経緯に痺れを切らしたハシム・タチ元KLA政治局長は、08年2月に自治州政府首相に選出されると独立を宣言し、議会がそれを追認した。米国および主要なEC諸国は予定調和の如く直ちにこの独立を承認したが、この独立のあり方に疑問を抱いたスペインやギリシアなどの国は数多おり、1年を経ても国連加盟国192の内54ヵ国しか承認しなかった。その後、次第にコソヴォの独立を承認する国は増大していくことになる。

ユーゴ連邦解体戦争に関する国連安保理決議ならびに総会決議の採択

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争に関する国連安保理決議と総会決議は以下の通りである。

1991年09月25日・決議713;ユーゴスラビア連邦内の紛争を平和的に解決するよう促し、武器・装備の禁輸に関する決議。

91年11月27日・決議721;ユーゴスラヴィア連邦に国連平和維持活動・PKO設置計画を立てるよう事務総長に勧告する決議。

91年12月15日・決議724;ユーゴスラヴィア連邦へ国連保護軍・PKOの軍事委員会を含む予備人員派遣に関する決議。

92年01月08日・決議727;クロアチア共和国紛争地域に国連軍事監視団・連絡将校50人を派遣する決議。

92年02月07日・決議740;ユーゴスラヴィア連邦の紛争地域に国連平和維持軍先遣隊の75人を増員する決議。

92年02月21日・決議743;ユーゴスラヴィア連邦の紛争地域への国連保護軍・UNPROFORを配備する決議。

92年04月07日・決議749;ユーゴスラヴィア連邦の紛争地域へのUNPROFORを5月中旬までに全面展開する決議。

92年05月15日・決議752;ボスニア内戦への外部の軍事組織の干渉排除、およびボスニアの民兵組織の武装解除決議。

92年05月18日・決議753;国連総会に対するクロアチア共和国加盟推進への勧告決議。

92年05月18日・決議754;国連総会に対するスロヴェニア共和国加盟推進への勧告決議。

92年05月20日・決議755;国連総会に対するボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国加盟推進への勧告決議。

92年05月22日・国連総会決議、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの3共和国の国連加盟を承認する決議。

92年05月30日・決議757;ボスニアでの戦闘停止、外部干渉の停止、領土保全、新ユーゴスラヴィア連邦への医薬品と食

料を除く、包括的制裁の実施に関する決議。ボスニアに侵攻しているクロアチア共和国軍に即時撤退を求

める決議。

92年06月08日・決議758;ボスニアのサラエヴォ空港の再開など、UNPROFORの職務権限および兵員増に関する決

議。

92年06月18日・決議760;決議757による制裁の人道的物資に対する不適用に関する決議。

92年06月29日・決議761;ボスニアのサラエヴォへの緊急援助、空港再開および国連保護軍・UNPROFORの配備決議。

92年06月30日・決議762;クロアチア共和国のセルビア人居住地域への攻撃停止と撤退。UNPROFORの配備強化決

議。

92年07月13日・決議764;ボスニアのサラエヴォ空港の安全維持のためのUNPROFORの配備強化決議。

92年08月07日・決議769;クロアチアの国連安全地域・UNPAにおけるUNPROFORの入管業務など職務権限および

兵員増を求める決議。

92年08月13日・決議770;ボスニアのイスラム人勢力を救援する、人道援助の促進とUNPROFORの武力行使を容認す

る決議。

92年08月13日・決議771;ボスニアにおけるジュネーブ条約の遵守、および国際赤十字委員会の査察受け入れ決議。

92年09月14日・決議776;国連保護軍・UNPROFORおよび国連要員の保護と任務拡大に関する決議。

92年09月19日・決議777;新ユーゴスラヴィア連邦(セルビア共和国・モンテネグロ共和国)の国連への自動加盟を否定

し、国連から追放する決議。

92年10月06日・決議779;UNPROFORのプレヴラカ半島の武装解除など任務権限拡大に関する決議。

92年10月06日・決議780;旧ユーゴスラヴィアの人道法違反を調査する専門家委員会の設置に関する決議。

92年10月09日・決議781;ボスニア全域の上空の軍事飛行禁止空域設定に関する決議。

92年11月10日・決議786;決議781のボスニア上空の軍事飛行禁止に関する決議の再確認と、UNPROFOR増強決議。

92年11月16日・決議787;ボスニアでの民族浄化を非難し、新ユーゴ連邦に対する海上封鎖など経済制裁強化決議。

92年12月11日・決議795;CSCEと協調し、UNPROFORをマケドニア共和国に展開することを事務総長に要請する決

議。

92年12月18日・決議798;ボスニア地域における拘置所の廃止、ならびにムスリム人女性へのレイプなどの蛮行を非難し、EC調査団の受け入れを求める決議。

93年01月25日・決議802;クロアチア共和国軍の「マスレニツァ作戦」による国連安全地域・UNPA「ピンク・ゾーン」への侵

入およびUNPROFORへの攻撃を非難し、撤退を要求する決議。

93年02月19日・決議807;クロアチア共和国軍の停戦協定違反を非難しつつUNPROFORの国連安全地域・UNPAで

の活動の保障、およびボスニアにおけるUNPROFORの活動の保障、および期限延長決議。

93年02月22日・決議808;国際人道法違反に対する、「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」設置に関する決議。

93年03月30日・決議815;クロアチアにおけるクロアチア共和国軍の国連安全地域への不侵犯を要求し、国連保護軍・U

NPROFORの期限延長に関する決議。

93年03月31日・決議816;ボスニア上空の飛行禁止の遵守に必要な、武力行使を含む措置に関する決議。

93年04月07日・決議817;マケドニア共和国の国連加盟推進に関する総会への勧告決議。

93年04月16日・決議819;ボスニアのセルビア人準軍事組織の民族浄化を非難。および非同盟諸国会議提出のスレブレ

ニツァを安全地域とし、ボスニア・セルビア人勢力の準軍事組織の撤退を要求する決議。

93年04月17日・決議820;新ユーゴ連邦の外貨資産を凍結し、経済制裁に関する臨検を強化する決議。

93年04月28日・決議821;新ユーゴ連邦の国連追放決議への異議申し立ての否決、および国連経済社会理事会から排

除を勧告する決議。

93年04月29日・国連総会決議;新ユーゴ連邦を国連経済社会理事会から追放する決議を採択。

93年05月06日・決議824;ボスニアのサラエヴォ、ゴラジュデ、ジェパ、ビハチ、トゥズラを国連安全地域・UNPAとして宣

言する決議。

93年05月25日・決議827;国連人道法違反に対する「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の設立および規程承認に関する決

議。

93年06月04日・決議836;クロアチア共和国軍などがボスニア紛争に介入していることに対し、UNPROFORに空軍力使

用を含む「近接航空支援」なる武力行使を容認する決議。英・仏・露の3ヵ国は賛成せずに欠席する。

93年06月10日・決議838;ボスニア・ヘルツェゴヴィナの政治的独立および他国の干渉の排除、ならびに新ユーゴ連邦の

ボスニア・セルビア人勢力への支援の排除、国際監視団の国境配備に関する決議。

93年06月18日・決議842;マケドニアの国連保護軍・UNPROFORへの米国軍の参加を歓迎する決議。

93年06月18日・決議843;決議721の武器禁輸決議によって配置された禁輸に関する安保理委員会の下の作業部会設

置に関する決議。

93年06月18日・決議844;ボスニアの安全地域防衛のための国連保護軍・UNPROFORの増強に関する決議。

93年06月18日・決議845;マケドニア共和国の国名に関するギリシアとマケドニア間の協議による解決を促す決議。

93年06月30日・決議847;国連保護軍・UNPROFORの期限延長に関する決議。

93年08月09日・決議855;新ユーゴ連邦政府に対し、コソヴォ自治州の人権抑圧調査をしているCSCEの任務への協力

を促す決議。

93年08月24日・決議859;ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力間の休戦協定の遵守、ならびにモスタルの戦闘

地域への国連難民高等弁務官事務所・UNHCRの救援への保障、ボスニア・セルビア人勢力の国際人道

法違反を非難、包括的政治解決を確認する決議。

93年09月30日・決議869;クロアチア共和国政府の撤退要求に対し、国連保護軍・UNPROFORの1日期限延長をする決議。

93年10月01日・決議870;クロアチア共和国政府の撤退要求に対し、UNPROFORの4日期限延長をする決議。

93年10月04日・決議871;UNPROFORの期限延長、およびクロアチアにおける国連平和維持計画の実施。

94年03月04日・決議900;ボスニアのサラエヴォの公共サービスなど日常生活の回復、およびモスタルなど3地域も安全地

域に広げる決議。

94年03月31日・決議908;UNPROFORの期限を9月まで延長し、要員を追加派遣する決議。

94年04月22日・決議913;ボスニアのセルビア人勢力に対して拘束した国連保護軍要員を解放すること、およびボスニア

政府とボスニア・セルビア人勢力に対して停戦協定を即時締結するよう要求する決議。

94年04月27日・決議914;クロアチアおよびボスニアへのUNPROFORの要員を最大6550人追加派遣する決議。

94年07月08日・決議936;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの首席検察官にゴールドストーンを任命する決議。

94年09月23日・決議941;ボスニアのセルビア人勢力の国際人道法違反および「民族浄化」を非難する決議。

94年09月23日・決議942;ボスニアのセルビア人勢力への対外交渉および金融商業取引を禁止する制裁に関する決議。

94年09月23日・決議943;新ユーゴ連邦への制裁の一部、民間航空機の乗り入れ、スポーツ・文化交流などの緩和決議。

94年09月30日・決議947;ユーゴスラヴィアに駐留するUNPROFORの駐留期限を6ヵ月延長する決議。

94年11月19日・決議958;決議836に基づく空軍力の使用範囲を、クロアチア領内にも拡大する決議。

94年11月19日・決議959;安全地域の再定義とUNPROFORの職務権限に関する決議。

94年12月14日・決議967;新ユーゴ連邦からの一定の医薬品を輸出する許可に関する決議。

95年01月12日・決議970;新ユーゴ連邦への制裁の暫定的停止を、さらに100日間延長する決議。

95年03月31日・決議981;クロアチアに配置するUNPROFORを、国連信頼回復活動・UNCROに縮減改編する決議。

95年03月31日・決議982;国連保護軍・UNPROFORの展開地域をボスニアに限定する職務権限に関する決議。

95年03月31日・決議983;UNPROFORを改編し、マケドニア共和国に国連予防展開軍・UNPREDEPを派遣する決

議。

95年04月19日・決議987;ボスニア派遣の国連保護軍・UNPROFORへの攻撃を非難する決議。

95年04月21日・決議988;新ユーゴ連邦への制裁の暫定的停止の再延長に関する決議。

95年04月28日・決議990;クロアチア配備の信頼回復活動・UNCROの兵力を、1万2000人から8750人に削減する決

議。

95年05月01日・決議992;ドナウ川の自由航行ならびに新ユーゴ連邦が賦課をかけることの禁止、および経済制裁による

商品流通の監視強化等に関する決議。

95年05月17日・決議994;クロアチア共和国軍の「西スラヴォニア」への軍事行動の停止と部隊の撤退、ならびに国連信頼

回復活動・UNCROの自由な活動の保障を要求する決議。

95年06月16日・決議998;ボスニア駐留国連保護軍・UNPROFORおよび国連安全地域・UNPFの兵力増員の許可に関する決議。

95年07月05日・決議1003;新ユーゴ連邦に関する経済制裁の暫定的停止を延長し、人道的物資以外の新ユーゴ連邦と

ボスニアとの間の物資の搬入の禁止、ICTYへの協力に関する決議。

95年07月12日・決議1004;ボスニアのセルビア人勢力のスレブレニツァ攻撃を非難し、国連指定の安全地域からの撤退と

UNHCRの救援物資輸送の自由通行を要求する決議。

95年08月10日・決議1009;クロアチア共和国に対し、セルビア人居住地への軍事行動を停止するよう要求する決議。

95年08月10日・決議1010;ボスニアのセルビア人勢力によるスレブレニツァおよびジェパへの攻撃に対する非難と戦闘行

為の停止、ならびに国際機関の立ち入りを認めるよう要求する決議。

95年09月15日・決議1015;新ユーゴ連邦への制裁の暫定的停止の再々延長を認める決議。

95年09月21日・決議1016;ボスニアにおけるボスニア政府軍とクロアチア共和国軍のセルビア人地域への戦闘行為停止

を要請し、政治交渉による和平を求める決議。

95年11月09日・決議1019;ボスニアのスレブレニツァ、ジェパにおける人道法違反について、事務総長に調査を要請する決議。

95年11月22日・決議1021;ユーゴスラヴィア全土への武器禁輸措置を解除する決議。

95年11月22日・決議1022;旧ユーゴスラヴィアの紛争の政治的解決、ボスニア紛争の解決に寄与する「デイトン合意」を

歓迎し、新ユーゴ連邦への経済制裁解除等に関する決議。

95年11月30日・決議1025;クロアチア信頼回復活動・UNCROの職務権限を1月15日に終了させる決議。

95年11月30日・決議1026;マケドニア派遣の予防展開軍・UNPREDEPの職務権限延長に関する決議。

95年11月30日・決議1027;ボスニア配備のUNPREDEPの任期を96年1月31日までとする決議。

95年12月15日・決議1031;ボスニアの国連保護軍・UNPROFORの任務を、北大西洋条約機構・NATO主導の多国籍

軍ボスニア和平履行部隊・IFORに移譲する決議。

95年12月21日・決議1034;ボスニア紛争における人道法違反の調査、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの権限および協力

の要請、訴追されたものの政治活動の禁止、難民・避難民の帰還への協力等に関する決議。

95年12月21日・決議1035;国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの文民部門の設置、国連国際警察タス

クフォース・UNIPTFの文民警察を設置する決議。

96年01月15日・決議1037;「東スラヴォニア、バラニャ、西スレム暫定統治機構・UNTAES」設置に関する決議。

96年01月15日・決議1038;ダルマツィア地方のプレヴラカ半島での国連信頼回復活動・UNCROを国連監視団・UNM

OPに変更し、展開を継続する決議。

96年02月13日・決議1046;マケドニア派遣のUNPREDEPの兵員増加に関する決議。

96年05月30日・決議1058;マケドニア派遣のUNPREDEPの任期延長に関する決議。

96年07月15日・決議1066;プレヴラカ半島の非武装化および帰属の政治的解決および国連プレヴラカ監視団・UNMO

Pの任期延長に関する決議。

96年10月01日・決議1074;ボスニアにおける国連保護軍・UNPROFORを多国籍の和平安定化部隊・SFORへの交

替、およびユーゴ連邦への経済制裁の全面的解除に関する決議。

96年11月27日・決議1082;マケドニア派遣のUNPREDEPの職務権限延長に関する決議。

96年12月12日・決議1088;ボスニアへの多国籍和平安定化部隊・SFOR設置、および国連・国際警察タスク・フォースU

-IPTFの職務権限に関する決議。

97年01月14日・決議1093;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

97年03月31日・決議1103;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの要員の増加に関する決議。

97年04月09日・決議1105;マケドニア派遣のUNPREDEPの兵員削減を停止し、再配置に関する決議。

97年05月16日・決議1107;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの要員を120名増員する決議。

97年05月28日・決議1110;マケドニア派遣のUNPREDEPの任期延長に関する決議。

97年06月12日・決議1112;ボスニアのUNMIBH上級代表をK・バルトからC・ウエステンドルプへの交替および上級代表

の権限の確認に関する決議。

97年07月14日・決議1119;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議

97年07月14日・決議1120;「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム暫定統治機構・UNTAES」の任期延長に関する決議。

97年11月28日・決議1140;マケドニア派遣のUNPREDEPの期限延長に関する決議。

97年12月04日・決議1142;マケドニア派遣のUNPREDEPの任期延長に関する決議。

97年12月19日・決議1144;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの任期延長、国連・国際警察タスク・フォー

スUNIPTFの職務権限に関する決議。

97年12月19日・決議1145;「東スラヴォニア・バラニャ・西スレム暫定統治機構・UNTAES」の任期終了、および国連文

民警察支援グループ・UNPSG設立に関する決議。

98年01月13日・決議1147;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

98年03月31日・決議1160;ユーゴ連邦に対する武器禁輸制裁措置および治安活動の停止、ならびにICTYへの報告などを求める決議。

98年05月13日・決議1166;「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の審理を促進するための追加臨時裁判官の選出と裁判所

規定の修正。

98年05月21日・決議1168;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの国連国際警察タスク・フォース・UNIPTFの要員を30名増加する決議。

98年06月15日・決議1174;ボスニア・ヘルツェゴヴィナのUNMIBHの上級代表、UNIPTF、多国籍和平安定化部隊・SFORの任務拡大および権限の確認。ICTYへの協力の要請等に関する決議。

98年06月15日・決議1183;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

98年07月16日・決議1184;ボスニア・UNMIBHによるボスニアの司法制度に関する評価と支援に関する決議。

98年07月21日・決議1186;マケドニア・UNPREDEPの兵力増強および職務権限拡大、および期限延長に関する決議

98年09月23日・決議1199;コソヴォ自治州独立紛争について、即時停戦とセルビア治安部隊の撤退を求める決議。

98年10月24日・決議1203;セルビア共和国に対し、OSCE停戦合意検証団・KVMの自由な調査の受容要請決議。

98年11月17日・決議1207;ユーゴ連邦当局に「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の調査団を受け入れるよう求める決議。

99年01月15日・決議1222;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

99年02月28日・安保理で国連予防展開軍・UNPREDEPの任期延長が討議されたが、中国が拒否権を行使したため採択不能となる。

99年05月14日・決議1239;コソヴォ自治州を含む旧ユーゴスラヴィアの難民、避難民への人道支援を要請する決議。

99年06月10日・決議1244;コソヴォ紛争に関するユーゴ連邦との停戦協定の承認。コソヴォ自治州に国連コソヴォ暫定

統治ミッション・UNMIKを設立し、国連により任命された特別代表が民政を統括し、軍事部門はNATOを

主体としたKFORが担い、コソヴォの最終的地位の問題が平和的に解決されるまでUNMIKとKFORがセ

ルビアの一部にとどまることを規定する決議。6月12日の事務総長報告で各種機関の任務が確定。

99年06月18日・決議1247;ボスニア・ヘルツェゴヴィナのUNMIBHおよびUN-IPTF、多国籍和平安定化部隊・SFOR

の任期延長、および各国に資金援助を要請する決議。

99年07月15日・決議1252;国連プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

99年08月03日・決議1256;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・UNMIBHの上級代表をウエステンドルプからW・ペトリッチに交替する決議。

00年01月13日・決議1285;国連プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

00年06月21日・決議1305;国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの任期延長に関する決議。

00年07月13日・決議1307;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

00年10月31日・決議1326;ユーゴスラヴィア連邦の国連再加盟を総会に勧告する決議。

00年11月01日・国連総会決議;ユーゴスラヴィア連邦の国連再加盟の承認を全会一致で採択。

00年11月30日・決議1329;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYおよびルワンダ国際刑事法廷・ICTRの審理を促進するため

の追加臨時裁判官の任務に関する裁判所規定の修正、および国家の裁判よりICTYが優先することの確認

決議。

01年01月12日・決議1335;国連プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

01年03月21日・決議1345;マケドニア共和国におけるテロ活動をするアルバニア人武装勢力を非難し、国境の変更は認めない決議。

01年04月27日・決議1350;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの判事の任命に関する決議。

01年06月21日・決議1357;国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの期限延長に関する決議。

01年07月11日・決議1362;プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

01年09月10日・決議1367;ユーゴスラヴィア連邦への武器禁輸決議1160を解除する決議。

01年09月26日・決議1371;マケドニアに関する決議1345に基づき、武器密輸の国境における阻止、ならびに他国による

国境の変更を認めないとする決議。

02年01月15日・決議1387;国連プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

02年03月05日・決議1396;国連ボスニア・ミッションUNMIBH管轄下のUN-IPTFをEUの警察ミッション・EUPMに任務移管する決議。

02年05月17日・決議1411;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの規則の一部改定に関する決議。

02年06月21日・決議1418;国連ボスニア・ミッション・UNMIBHおよび多国籍安定化部隊・SFORの任期延長提案に対

し、米国が米国軍兵士をICCの訴追対象から外すよう求めたことにより、暫定的に任期を6月30日まで延長

する決議。

02年06月30日・決議1420;国連ボスニア・ミッション・UNMIBHの多国籍安定化部隊・SFORの期限を6ヵ月延長する決

議案が米国の反対により否決されたことにより、暫定的に7月3日まで延長する決議案を採択。

02年07月03日・決議1421;ボスニアのUNMIBHのSFORの延長期限を米国の提案により7月15日まで延長する決議。

02年07月12日・決議1423;米政府要求の平和維持活動に従事する米国要員に対するICCの訴追を1年間猶予の条件を

受け入れ、その上で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHおよび国連国際警察タスク・フォー

ス・UNIPTFの12月31日までの最終任期延長、IPTFのEUPMへの任務移譲、SFORの12ヵ月間任務を

延長すること、ならびに旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYへの協力に関する決議。

02年07月12日・決議1424;国連プレヴラカ監視団・UNMOPの任期延長に関する決議。

02年08月14日・決議1431;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYおよびルワンダ国際刑事法廷・ICTRに関する裁判所規定の修正決議。

02年10月11日・決議1437;国連プレヴラカ監視団・UNMOPの最終的な任期延長に関する決議。

03年07月11日・決議1491;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHの国際警察タスク・フォース・UNIPTFをE

U警察ミッションに交替させ、国際社会による復興の継続、難民・避難民の帰還の促進、ICTYへの協力の

要請、多国籍安定化部隊・SFORの権限強化等に関する決議。

03年08月28日・決議1503;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYおよびルワンダ国際刑事法廷・ICTRの閉廷計画に関する協

力要請決議。

03年09月04日・決議1504;ICTYおよびICTRの首席検察官を任命する決議。

04年03月26日・決議1534;ICTYおよびICTRの閉廷計画の進捗状況、ならびに訴追の対象を責任程度の高い者に専念

すること、安保理に裁判の進捗状況を半年に一度の報告を求める決議。

04年07月09日・決議1551;ボスニア駐留の多国籍安定化部隊・SFORの任務の拡大、ならびにEUの警察ミッション・EU

PMの派遣を歓迎し、ボスニア上空の航空管制、ICTYへの協力要請に関する決議。

04年10月14日・決議1567;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの裁判官の候補を選任し、国連総会に送付する決議。

04年11月22日・決議1575;ボスニア・ヘルツェゴヴィナに関する、デイトン和平合意の実現を図り、復興事業、難民・避難

民の帰還の促進、ICTYへの協力要請等に関する決議。

05年01月18日・決議1581;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに関し、臨時裁判官の任務に関する決議。

05年04月20日・決議1597;ICTY裁判所規定の改定、および追加臨時裁判官の選任と総会への名簿送付に関する決

議。

05年07月26日・決議1613;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの追加臨時裁判官の名簿を総会に送付する決議。

05年09月30日・決議1629;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの裁判官の資格に関する決議。

05年11月21日・決議1639;ボスニア・ヘルツェゴヴィナのデイトン・パリ合意の完全履行を要請し、ボスニアの国家統合、

多国籍安定化部隊・SFORのEUFORへの権限委譲と北大西洋条約機構・NATO本部との提携および

権限、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYへの協力、ならびに難民・避難民の帰還の促進に関する決議。

06年01月28日・決議1660;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの常任判事と臨時判事の資格と権限に関する決議。

06年04月10日・決議1668;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの裁判官の事案に係わる任務の継続に関する決議。

06年06月22日・決議1691;モンテ・ネグロ共和国の国連加盟を勧告する決議。

06年06月28日・国連総会決議;モンテ・ネグロ共和国の国連加盟を全会一致で承認。加盟国は192ヵ国となる。

06年11月21日・決議1722;ボスニア・ヘルツェゴヴィナのデイトン・パリ合意の完全履行、多国籍安定化部隊・SFORのE

UFORへの権限委譲およびNATO本部の継続関与、欧州連合の警察ミッション・EUPMの継続、ICTY

への協力要請、難民・避難民の帰還促進に関する決議。

07年06月29日・決議1764;ボスニア和平履行会議の上級代表の交替および事務所の閉鎖に関する決議

07年07月20日・安保理は、コソヴォ自治州の最終地位をめぐる決議案の採択を断念する。

07年09月14日・決議1775;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの首席検察官カルラ・デル・ポンテの任期を延長する決議。

07年11月21日・決議1785;ボスニア・ヘルツェゴヴィナの和平合意の履行に関する当事者の責任、ならびにEUへの統合

に合致する制度の確立、難民・避難民の帰還の促進、ICTYへの協力要請、多国籍安定化部隊・SFOR

のEUFORへの権限委譲およびNATO本部との継続的連携に関する決議。

07年11月28日・決議1786;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの首席検察官ブラメーツの任命および2010年12月にICTYを

完了することの確認に関する決議。

08年01月20日・決議1800;ICTYの審理を2010年までに終了すること、追加臨時裁判官は12名を超えないことを求める

決議。

08年09月29日・決議1837;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの期限を、第1審の裁判は08年12月31日まで、上訴審裁判

は10年の12月31日までに完了することを前提にした常任裁判官および臨時裁判官の任期に関する決

議。

08年11月20日・決議1845;ボスニアの「デイトン・パリ合意」の完全履行、上級代表の最高権威の確認、SFORの後継組

織のEUFORの権限とNATO現地軍に対する関係国の協力、復興における当事者の努力と責任、ならびに難民・避難民の帰還の促進、ICTYへの協力等に関する決議。

08年12月12日・決議1849;ICTYの裁判を決議に基づいて完了させるために、追加臨時裁判官の増員を認可する決議。

09年03月25日・決議1869;ボスニアの平和履行評議会の上級代表の交替と権限の確認に関する決議。

09年07月07日・決議1877;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの10年末までの期限内に裁判をすべて完了させるための常

任裁判官および臨時裁判官の任期に関する決議。

09年11月18日・決議1895;ボスニアの「デイトン・パリ合意」への当事者の履行、ならびにEU統合への努力、EUFORと北

大西洋条約機構・NATO本部との任務の連携および各国機関の協力、ICTYへの協力、上級代表の権

限の確認に関する決議。

09年12月16日・決議1900;ICTYの存続期限を、2010年から2012年に延長する必要を提起する決議。

10年03月18日・決議1915;ICTYの裁判の迅速な審理、および追加臨時裁判官の増員を許可する決議。

10年06月29日・決議1931;旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの存続期限を、2010年から2012年まで延長させ、それに伴い

常任裁判官および臨時裁判官の任期を定める決議。

10年12月22日・決議1966号・安保理は旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYおよびルワンダ国際刑事法廷・ICTRの業務を20

14年末までに完了させることを要請し、国際残余のメカニズム(特別裁判所ならびに国内裁判所)の設置を

決定する決議。

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22年03月02日・総会決議;ロシア軍の即時撤退を求める決議。賛成・141,反対・5、棄権・35、

22年03月24日・総会決議;ウクライナでの人道状況の改善を求める決議。賛成・140,反対・5,棄権・38、

22年04月07日・総会決議;国連人権理事会でのロシアの資格停止を決める決議。賛成・93,反対・24,棄権・58,

22年10月12日・総会決議;ロシアがウクライナ南東部4州を併合したことを非難し、ロシア軍のウクライナからの撤退を求める決議を採択。賛成・143,反対・5、棄権・35,無投票・10.

22年11月14日・総会決議;ウクライナ侵攻を続けるロシアへの損害賠償を求める決議を採択。賛成・94。反対・14。棄権・

73。無投票・12。

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民衆を苦しめる経済制裁

 92年に決議された新ユーゴスラヴィア連邦への経済制裁は苛酷なものとなった。湾岸戦争における経済制裁が医薬品と食糧の輸出入を除くとされていながら50万人のイラクの人々の命を奪ったように、セルビアの人々は国連の意図的な怠慢によって医薬品夜食量の入手が阻まれてやはり命を奪われることになった。このときの紛争はクロアチア人勢力やムスリム人勢力がそれぞれ領土争いに狂奔していたにもかかわらず、セルビア人のみに科した経済制裁の偏頗性は明らかにセルビア人勢力のみを潰すという意図が込められていたのである。

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争で設置された国連の機関

ユーゴ連邦解体戦争で国連が設置した機関は、「国連保護軍・UNPROFOR」、「国連クロアチア信頼回復活動・UNCRO」、「国連予防展開軍・UNPREDEP」、「国連プレヴラカ監視団・UNMOP」、「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBH」、「国連・国際警察タスク・フォース・UNIPTF」、「国連東スラヴォニア、バラニャ、西スレム暫定統治機構・UNTAES」、UNTAESの後継組織としての「国連文民警察支援グループ・UNPSG」、「国連コソヴォ暫定統治ミッション・UNMIK」、「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」などである。

米国主導のNATO軍の空爆で導入し米国の都合で潰されたUNMIBH

「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBH」は、ボスニア内戦を終結させたデイトン合意後の95年12月に採択された安保理決議1035により、暫定統治機構としてボスニアに設置された。この決議によって、軍事部門は国連保護軍・UNPROFORから北大西洋条約機構・NATO軍主体の和平履行部隊・IFORに置き換えられた。UNMIBHは、主として民政部門と国際警察タスク・フォース・UNIPTFを担当し、軍事部門はNATOのIFORが担い、それをUNMIBHとしての上級代表事務所が統括した。UNMIBHの上級代表はボスニアにおける最高権威者としての権限を有し、警察機構を再編成して訓練し、法を整備して行政組織を改革するとともに選挙を管理し、人権侵害を調査して救済措置を監視する任務が与えられた。しかし、UNMIBHは付与された権限を次第に拡張し、「ボスニア連邦」および「スルプスカ共和国」両機構の大統領の罷免権をも行使するようになった。ウエステンドルプ上級代表は99年にセルビア急進党のポプラシェン・スルプスカ共和国大統領を罷免したのである。

国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHは、ワシントン協定で分離させた「ボスニア連邦」と「スルプスカ共和国」を究極的には統合することを目標としていた。しかし、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力とで構成しているボスニア連邦内でさえ厳しい戦闘を行なった後遺症としての不信が内在化していたため、ボスニアにおける3民族の融合は困難を極め、UNMIBHは任務を解消する見通しが立たず任務の延期が積み重ねられた。

米国はICCの訴追対象から自国の要員を外すよう要求しUNMIBHの延長に拒否権を行使する

ところが、2002年7月にUNMIBHの任期継続の決議案が安保理に提案された際、米国政府が自国の要員を条約成立が目前に迫っていた国際刑事裁判所・ICCの訴追の対象外とすることを要求した。それが受け入れられなかったために、米政府はUNMIBHの延長を拒否した。米国の拒否権によって延長決議案が葬り去られたたことで、UNMIBHは02年12月に唐突に任務を終了させられた。米国は国連のミッションUNMIBHを解消させただけでなく、NATO軍主体の和平安定化部隊・SFORも欧州連合のEUFORに交替させ、国連の警察ミッション・UNIPTFの任務も欧州連合警察ミッション・EUPMへと委譲させた。米国はデイトン・パリ合意後にボスニアに恒久的な軍事基地の建設を果たしたことから、UNMIBHを存続させる必要性は薄いと判断したのである。米国にとって、国連のボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBHは米国の戦略的意図のために利用する程度のものでしかなかったのである。

クロアチア共和国政府の統一国家づくりに奉仕したUNTAES

「国連東スラヴォニア・バラニャ・西スレム暫定統治機構・UNTAES」は、クロアチア共和国軍が1995年にクライナ・セルビア人共和国のクライナ地方のセルビア人勢力を掃討したのち、東部のセルビア人居住地東スラヴォニア地方を攻略しようとしたが、国際社会に阻止され、その結果として国連が暫定的に統治するために設置した機構である。96年1月に国連安保理決議1037で設置されたUNTAESの最終目標は、政治交渉によって東スラヴォニア地方をクロアチア共和国に再編入させることにあった。UNTAESは、文民部門と軍事部門で構成され、文民部門は行政公共サ-ビスや経済復興、難民・避難民の帰還および警察制度を担い、軍事部門は治安維持とセルビア人勢力の武装解除を担った。セルビア共和国がクロアチアの東スラヴォニア地方との統合を望まなかったこともあって、東スラヴォニアのセルビア人勢力はクロアチア共和国への再編入に合意するしか選択肢は残されていなかったのである。

UNTAESは、クロアチア共和国との統合計画に沿って任務を遂行し、1997年12月の安保理決議1145で任務を「国連文民警察支援グループ・UNPSG」に引き継いだ。UNPSGは文民警察180名を配置し、難民・避難民の帰還とクロアチア共和国の軍・警の行動監視の任務を担い、1998年10月にその活動を終了させた。結局、東スラヴォニア・バラニャ・西スレム統治機構・UNTAESはクロアチア共和国と米国の新戦略であるクロアチア・セルビア人勢力征圧の後始末を担わされたのである。

クロアチア共和国が分離独立したことによるプレヴラカ半島の帰属に国連が関与

1991年6月にクロアチア共和国が独立宣言を発したことによって、アドリア海に臨むダルマツィア地方のプレヴラカ半島の領有権がクロアチア共和国とユーゴ連邦との間で争われた。このプレヴラカ半島をめぐる紛争を抑止するために、当初は、国連保護軍・UNPROFORが派遣されたが、95年1月にクロアチア政府がUNPROFORの撤退を要求したため、3月に決議981で国連信頼回復活動・UNCROに変更され、さらに96年1月には安保理決議1038で「国連プレヴラカ監視団・UNMOP」が設置されることになった。任務はプレヴラカ半島の帰属を政治交渉によって解決することにあり、UNMOPの監視の下でクロアチア共和国とユーゴ連邦の政治交渉は続けられたが、2001年12月に両国が国境管理制度の議定書に署名してクロアチアに帰属することになり、02年10月の安保理決議1437でUNMOPの任務は解消された。

空爆後のコソヴォの行政機構を司るためのUNMIKが設置される

NATOとユーゴ連邦との停戦協定が結ばれた後の1999年6月10日、国連安保理は決議1244号によって「国連コソヴォ暫定行政ミッション」の設置を決める。任務は行政、司法を国連のミッションが担い、治安活動はNATOがコソヴォ平和維持部隊・KFORを編制して派遣し、復興はEUが主導するものとされた。統治機構は国連事務総長が任命する事務総長特別代表が副代表などとともに司り、初代特別代表には「国境なき医師団」創設者の一人であるベルナールュネルが就いたが任務は困難を極めた。セルビア共和国が担っていた行政機構と治安部隊が撤収させられたからである。のちにドイツの情報局・BNDが報告することになるように、コソヴォ解放軍主体の暫定政府は、意欲も能力もなかったのである。その上、アルバニア系住民は、セルビアの治安部隊が撤収したことに乗じて、セルビア人住民の追い出しを図ったことがある。

2008年にタチ解放軍元政治局長が暫定政府首相に再就任すると、独立を議会に議決させて独立宣言を発した。それに伴ってUNMIKは任務の一部を新政権に移管し、また欧州連合・法のミッション・EULEXに権限を委ねようとしたものの、2021年の時点で解散するに至っていない。現在の任務は、セルビア系住民をアルバニア系住民が迫害するのを防護するために、主として北部のミトロヴィツァ周辺の行政支援をすることにとどまる。

NATO諸国に利用された国連機関

国連はユーゴ連邦解体戦争で数多の安保理決議を採択したが、和平に十分な役割を果たすことはなかった。事務局は

和平達成のために尽力していたものの、次第にメディアと紛争を取り巻く国際社会の雰囲気に巻き込まれてしまうことになり、安保理はユーゴ連邦セルビア共和国への制裁と軍事力行使の許諾を与える機構として利用された。国連は国際社会における最高の権威ある機関ではなく、大国の思惑に翻弄され、利用された揚げ句、後始末を委ねられる国際機関に貶められたのである。米国は安保理決議を回避して軍事行動に踏み切る対応を、2003年のイラク戦争でも踏襲することになる。

ユーゴ連邦解体戦争で翻弄された国連のスタッフ

ユーゴ連邦解体戦争に関わった国連事務総長はデクエヤル、ガリ、アナンの3人である。デクエヤルはECおよび米国と

の政治的力関係に左右され、初動に後れての関与しかできなかった。そのことがユーゴ問題の解決を武力に偏重させることになり、より複雑にした。ガリ事務総長は、初期には比較的冷静な判断を示した。ボスニア紛争に関し、「セルビア人のみでなく多くの民族にも責任がある。ボスニアのセルビア人勢力はセルビア共和国の指示を受けていない。ボスニアのセルビア人勢力を、誰が政治的に統制しているかは不明確」と述べ、「セルビア悪」説に偏ることのない報告書を安保理に提出した。だが結局NATO諸国の圧力に屈し、次第にNATO諸国の言いなりになり、NATOの軍事力行使の権限を明石特別代表から国連保護軍の現地司令官とNATO軍の司令官に委譲することを認めるしかなかった。

ガリ事務総長は再任を拒否され後任のアナン事務総長は対米従属姿勢を執る

国連の事務総長は2期務めるのが慣例だったが、ガリ事務総長が国連の権威と独自性を打ち出したことが米国の忌諱に触れ、米大統領選挙でクリントン現大統領とドール候補の政争の具にされて事務総長の再選を阻まれ、1期で辞任した。後任のアナンは、前任のガリ事務総長が再任を拒否されたのを見て、米国に逆らえないことを痛切に自覚させられたのか、米国の政策を追認することを余儀なくされた。彼の見て見ぬ振りをする優柔不断な態度は、「イラク石油と食糧交換計画」において300億ドルを超える不正資金を生み出すという腐敗をもたらし、国連の信用を著しく失墜させることにもなった。

アナン事務総長はのちに対米従属主義者といわれて批判を浴びるが、ユーゴ・コソヴォ空爆の際にはさすがに安保理決議が回避されたことに対し「外交的解決が失敗し、平和を求めて武力行使が正当化されるかも知れないようなときがあるのは実に悲劇的だ。いかなる武力行使の決定にも安保理が関与すべきだ」との批判的コメントを出した。

シンクタンク1PS研究員のフィリス・ベニスが指摘したように、「国連はユーゴ連邦解体戦争において米国およびNATO加盟諸国に道具として利用された」にすぎなかったのである。

1992年から1996年まで第6代国連事務総長を務めたブトロス・ガリは退任後に米国の国連に対する姿勢について、著書で次のように記している。「国連は現在唯一の強国である米国の唯一の財産であり、米国は脅迫を行ない、拒否権を行使して自己の利益のために、この世界組織を操っている。米国は、国連が意のままになればその行動を合法的に進めようとして“ならず者国家”に制裁を加え、自国に対して世界世論の風当たりが強くなると国連を軽視する」と。

ロシアがウクライナに侵攻するが安保理は機能せず

2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻した。「特別軍事作戦」と名付けられたこのロシアの軍事行動に対し、国連安保理は軍事行動の停止と撤退を求める決議案を提出したが、5大国に付与された「拒否権」をロシアが行使したため、安保理決議が採択されることはなかった。そこで、西側諸国は総会決議でロシアに圧力をかけたものの、事態を好転させることはできていない。

国連改革は幾たびかとなえられてきたが、5大国の保有する拒否権に阻まれて手がつけられることはなかった結果がこのような機能不全に陥ったのである。核兵器の使用が取りざたされるこの戦争を止めることができないとすると、国連の存在意義そのものが問われることになる。

<参照; クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ自治州>

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2,ユーゴ戦争と「EC・欧州共同体/EU・欧州連合」の対応

EC/EUの形成

欧州連合・EUの前身は、第2次大戦後の対立・紛争の解消を図るために、1952年7月23日に設立された欧州石炭鉄鋼共同体に始まる。翌53年1月1日に欧州経済共同体・EECと欧州原子力共同体・Euratomが設立された。次いで1967年、前者の3つの共同体を一つの枠組みに入れる欧州共同体・ECとして67年7月1日に統合された。

1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが再統一されると、さらに共同体の拡大が図られ、1993年11月1日に欧州連合・EUとして発足し、現在に至っている。

EUの諸機関は、欧州理事会(首脳会議)、EU理事会(閣僚会議・立法)、欧州委員会(行政府)、欧州議会(立法府)からなる。欧州理事会の議長は6ヵ月交替の輪番制だったのを、2009年12月1日から常任議長制を採用し、EU大統領と称するようになる。欧州議会議員は各国の住民の直接選挙によって選出される。それ以外の機関として、欧州中央銀行・ECB、欧州司法裁判所・ECJが設置されている。

バルカン支配はECおよび米国の地政学的要請

バルカンは西側から見て中東の産油国や社会主義圏を臨む地域にあり、中でもユーゴスラヴィアは大きな位置を占めているために、ここに拠点を確保することはECや米国にとって重要な地政学的要請であった。ECおよび米国は、冷戦の間は独自の社会主義路線を採っていたユーゴスラヴィア連邦の社会主義体制を自由主義体制側に引き寄せ、社会主義体制を放棄させることによって東欧をも連鎖的に崩壊へと導く戦略を立てていた。そのために世銀およびIMFや西側諸国の銀行団は、ユーゴ連邦への巨額の融資にも応じた。融資による負債がユーゴ連邦の政治・経済を束縛し、西側によるコントロールを容易にすると分析したからである。西側の思惑通り、ユーゴ連邦経済は融資によって発展したが、73年から始まったオイルショックが絡んだ融資負債の増大は激しいインフレをもたらした。

1978年8月の社会学会でブレジンスキー米大統領安全保障問題担当補佐官は、「1,ユーゴ連邦の分離主義的・民族主義勢力のすべてに援助を与える。2,EC諸国は、対ユーゴスラヴィア連邦の信用供与を続けるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、経済的・政治的措置によって容易に保障される。3,チトーの死後にユーゴスラヴィアの軟化に向けて組織的に取り組むべきである」と表明した。

国際債権団はブレジンスキーの方針に沿ってユーゴ連邦に「ショック療法」を処方した

1980年にチトーが死去すると、IMFはすぐさまユーゴ連邦に「第1次経済安定化政策」の導入を要請し、83年には「第2次経済安定化政策」を受け入れさせた。この経済安定化政策はユーゴ連邦に激しいインフレをもたらして経済を混乱させ、いたずらに借款を増大させた。ユーゴ連邦の対外債務は、81年には192億ドル、83年には185億ドル、87年には対外債務は200億ドルを超え、インフレは2700%に達して経済を混乱させたために政治・社会は動揺した。ユーゴ連邦全体が政治的動揺に陥っているとき、外部の工作者が民族主義を煽るのは容易いことであった。

クロアチア民族主義者のトゥジマンは、80年代の後半になると世界のクロアチア人ディアスポラを訪ね歩き、クロアチア民族主義を説いて回った。そして、冷戦崩壊直前の88年にドイツを訪れ、コール独首相と会談し、分離独立への支援を要請した。

1989年にクロアチア人のアンテ・マルコヴィチがユーゴ連邦首相に就任すると、西側諸国の「国際債権団」は、自由主義市場経済に移行させるための緊縮財政と国営企業の民営化路線の仕上げに取りかかり、「ワシントン・コンセンサス」に基づく「構造調整プログラム」を受け入れさせた。マルコヴィチ連邦首相はその経済政策を忠実に受け入れ、緊縮財政を実施して補助金や賃金を抑制し、銀行を含む国営企業を矢継ぎ早に民営化させ、企業の整理統合を推し進めた。その「ショック療法」はインフレを一時的に鎮静化させたが、個々の企業労働者の解雇につながったためにストライキが頻発し、社会的混乱をもたらしたばかりかユーゴ連邦政府への求心力を失わせた。

89年11月にベルリンの壁が瓦解し、欧米の思惑と異なり、東欧の社会主義圏がユーゴスラヴィア連邦より先に崩壊してしまう。ECや米国には一瞬戸惑が広がったものの、これを好機としてユーゴ連邦にも社会主義体制の残滓を速やかに放棄させ、自由主義市場経済体制に移行させるべく介入を強化した。ドイツの連邦情報局・BNDと米国の中央情報局・CIAは密接な連携をとり、ユーゴスラヴィア連邦の各共和国の民族主義者への煽動工作を強化した。

ユーゴ連邦の共産主義者同盟の瓦解で対立が激化

90年1月、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟は党大会を開いたが、党の改革をめぐってスロヴェニアが独立連合国家を主張し、セルビアが連邦制の維持を譲らなかったために議論は平行線をたどり、スロヴェニアの幹部会員が退場したことによってユーゴ連邦共産主義者同盟は事実上瓦解した。これ以後スロヴェニアとクロアチアは独立を目指して突き進んでいく。スロヴェニアは91年2月に憲法を修正したため、共和国の憲法を連邦憲法より上位に置き、クロアチア共和国もスロヴェニアに倣って憲法を修正し、セルビア人住民との対立が一触即発の緊張状態をもたらした。

挑発をしたのはクロアチア警察隊である、91年5月1日、クロアチア警察は私服でヴコヴァルのボロボ・セロに銃撃しながら侵入し、村役場に掲げられていたセルビア共和国国旗を引き裂いたためにセルビア人住民と銃撃戦となり、クロアチア警察官2人が拘束された。翌日クロアチア警察は300人を動員してボロボ・セロを襲撃したために激しい銃撃戦が行なわれた。この事件はクロアチア共和国におけるクロアチア人とセルビア人の対立を決定的なものにした。この事件を指導したのは、のちにクロアチア共和国の国防相に就任することになるカナダ在住のウスタシャのディアスポラである出戻りクロアチア人のシュシャクである。 

欧州共同体・ECは武力紛争の回避を試みる

ECの主要国である英・仏は、社会主義の残滓を抱えていたユーゴ連邦を資本主義体制化させることを目標にしていたにしても、武力紛争まで視野に入れていたわけではない。ECは、スロヴェニアとクロアチアが独立宣言をする直前の91年6月23日に臨時外相会議を開き、「ユーゴスラヴィア危機は話によって解決されるべきで、一方的宣言による独立は認められない」との方針を決定し、「もし両国が一方的に独立宣言をした場合は、高官レベルの接触を拒否する」ことを確認している。しかし、ドイツとオーストリアおよびバチカン市国の働きかけを受けていたクロアチアとスロヴェニアは、委細構わず6月25日に独立宣言を強行した。

スロヴェニア共和国は独立を宣言すると、ユーゴ連邦政府管轄の国境管理事務所や空港など30数ヵ所の施設を占拠した。マルコヴィチ連邦首相は占拠された連邦機関を放置するわけにはいかず、翌6月26日に権限の回復を目的にユーゴ連邦人民軍およそ2000人を派遣する。スロヴェニア共和国防衛隊は万全な体制を整えており、3万5000人を擁してこれを迎え撃った。この圧倒的な兵力の差と戦闘を予定していなかった連邦人民軍が、スロヴェニア防衛隊に対抗できるはずもなかった。たちまち連邦人民軍は包囲され、投降して拘束されるか孤立して銃撃に耐えるしかなく、10日間で敗退する。

一方のクロアチア共和国では、連邦人民軍は初期の段階にはクロアチア警察とセルビア人住民との銃撃戦に介入して停止させるなど、中立的な姿勢を示していた。

91年7月5日、ECは緊急外相会議を開き、武力衝突を抑制することを目的として、ユーゴスラヴィア連邦全域を対象に武器を禁輸し、当面スロヴェニアおよびクロアチアの独立承認をしないことで合意した。そして7月7日、ECはブリオニ島でユーゴ連邦政府とスロヴェニア共和国およびクロアチア共和国と協議し、「ブリオニ合意」を受諾させた。合意内容は、「1,両国の独立宣言を3ヵ月間凍結させる。2,凍結期間中はユーゴ連邦政府の機関の業務を尊重する。3,ユーゴ連邦の将来の形を協議する。4,ECが停戦監視団を派遣する」というものである。ドイツとオーストリアおよびバチカンを除けば、ECの中には紛争を回避するための慎重な対応を求めた国も少なくなかったのである。

スロヴェニアとクロアチアの民族主義者は自民族の利益のみを優先した

スロヴェニアの少数民族は僅かだったが、クロアチアには多数のセルビア人住民が数百年にわたって居住していた。クロアチアのセルビア人やロマ人などの少数民族は、存在を無視された形で独立が進められていることへの不満に加え、第2次大戦中のナチス・ドイツ支配下におけるクロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャによる虐殺の恐怖が拭えておらず、クロアチアの独立は悪夢の再現でしかなかった。このような過去に怯えるクロアチアのセルビア人住民は、クロアチアが独立を宣言した直後の6月27日にクロアチアの「クライナ・セルビア人自治区」と「ボスニア・クライナ自治体同盟」が統一宣言を出した。

ECは独立宣言凍結中の91年8月、「ユーゴ和平会議」を設置して英元外相のキャリントン卿を議長に指名する。キャリントン議長はすぐさまハーグで和平会議を開催し、マルコヴィチ連邦首相、ロンチャル連邦外相、クチャン・スロヴェニア大統領、トゥジマン・クロアチア大統領、ミロシェヴィチ・セルビア大統領、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)、ブラトヴィチ・モンテネグロ大統領、グリゴロフ・マケドニア大統領、そしてEC理事会およびEC加盟国代表、欧州委員会代表を参加させた。

しかし、当事者のスロヴェニアとクロアチアは、ドイツとバチカンの水面下での働きかけを受けて分離独立へと活発に動いていた。スロヴェニアのルペル外相は、「スロヴェニアは和平会議の結果にかかわらず、10月7日に独立する」と表明した。この思惑の食い違う中で、和平会議における合意が得られるはずもなかった。ECの加盟国の多くがユーゴ連邦の統一を前提にした和平を目標としていたのに対し、ドイツとオーストリアおよびバチカン市国はこのECの方針を単に冷却期間を設定したものとしか受け取らなかったからである。地域の安定よりも自己の権益を優先して周辺諸国に両国の独立承認を働きかけ続けたドイツとバチカン市国の意図は、経済圏の拡大とカトリック圏の拡張にあった。

ECはドイツとバチカン市国に引きずられて歴史的過誤を冒す

バチカン市国は、ソダノ枢機卿が11月に米・英・仏・独・伊・ベルギー・オーストリアの大使を招き、スロヴェニアとクロアチア両共和国を1ヵ月以内に国家として承認するよう要請する。一方のドイツは「スロヴェニアとクロアチアの独立承認が紛争を抑制することになる」と主張し、3ヵ月の凍結期間が終わると12月23日に単独で両国の独立を承認した。これを追うようにしてバチカン市国は、ECにさきがけて92年1月13日に両国の独立を承認してしまう。

イギリスやフランスの政府内にはクロアチアとスロヴェニアの早期承認に対する迷いはあったが、結局ドイツとバチカン市国の両者に引きずられるようにして、ほとんどのEC諸国は1月15日に両国の独立を承認する。のちに、フランスのデュマ外相は「ドイツに引きずられてしまった」と慨嘆した。

スロヴェニアとクロアチアの独立宣言がボスニアにも波及する

ECおよびバチカンが両国を承認すると、ドイツが主張した和平の方向には進まず、クロアチアでの武力衝突は激化した。そこでECおよび米国は国連を巻き込み、92年2月に安保理決議743を採択させ、国連保護軍・UNPROFORの設置を決議してクロアチアに送り込み、武力衝突の障壁として一時的な抑え込みを図った。しかし、スロヴェニアとクロアチアの独立強硬策は直ちにボスニアへ飛び火することになる。

ボスニア議会は既に91年10月に独立を目指す決議をしており、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はこの方針に添って、ボスニアの独立を企図することになったからである。スロヴェニアとクロアチアにおける武力衝突を見れば、ボスニアの独立への動きには慎重さが求められるが、EC諸国は、ボスニア政府に対して冷静な対応を求めるよりも、独立を実行するには住民投票が必要であると手続き論を重要視した助言にとどまった。

そこで、イゼトベゴヴィチはセルビア人住民が強硬に反対しているにもかかわらず、2月末にムスリム人とクロアチア人のみで住民投票を強行し、99%の賛成を得て3月早々には独立を宣言する。当初、ボスニア政府とセルビア人勢力間で話し合いも持たれたが、4月にはECおよび米国が独立を承認してしまう。国際社会の独立承認によって、双方の話し合いは無意味なものと化した。当時ボスニアのサラエヴォは民族融和の象徴的な存在であり、地方のメディアはサラエヴォで武力衝突など起こり得ないと報じていた。しかし、これはあまりにも楽観的すぎた。

当時のブッシュ米政権が92年4月になるまで両国の独立を承認しなかったのは、ボスニアの動向を見極めていたことと、ユーゴ連邦の社会主義体制の放棄は求めていたものの武力紛争までは望まなかったためである。しかし、92年の大統領選挙に立候補した民主党のクリントンがユーゴ問題を政争の具に取り入れた。それ以来米政権は次第に強硬な政策を取り入れるようになる。これには米軍産複合体の意向が働いていた可能性が高い。

国際社会は新ユーゴスラヴィア邦の孤立化政策をとる

国際社会がボスニアの独立を承認したのを見て、セルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国は92年4月に旧ユーゴ連邦を継承する形で新「ユーゴ連邦」を形成する。この新ユーゴ連邦への国際社会の対応は、並はずれて偏頗なものだった。92年5月にはスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ3国の国連加盟を承認したにもかかわらず、新ユーゴ連邦の加盟は認めなかったばかりか、同じ5月に国連安保理は決議757による包括的経済制裁を採択した。さらに、ECは石油禁輸と資産凍結などの経済制裁で合意する。92年6月には、「関税と貿易に関する一般協定・GATT」が加盟を停止する。これを受け、ECは92年9月に開いた非公式外相会議において新ユーゴ連邦の国連からの追放を提言。ECの提案によって安保理は新ユーゴ連邦の国連加盟資格を否定する決議777を採択した。それに倣ってIAEAも同じ9月に追放を決議する。

国連人権委員会は、93年2月にマゾビエツキ人権問題特別報告者が、「紛争のすべての指導者がその残虐行為に無関係とはいえない。人権侵害の数字で信頼できるものはない」と報告したにもかかわらず、国連安保理は92年12月に決議788でセルビア人勢力によるムスリム人女性に対するレイプと民族浄化を非難する決議を採択した。93年4月にはEC諸国の提案で国連安保理と総会が経済社会理事会からの排除を決議。93年5月にはWHOまでが政治性を発揮して加盟資格を剥奪するという異様さを示した。一国の内戦における一方の当事者への国際機関の排除決議は、明らかに妥当性を欠いていた。

クロアチア共和国軍の軍事作戦は不問に付す国際社会

この国際社会の偏った対応は個々の事象にも表れた。クロアチア政府軍は国連の仲介による停戦合意を破り、92年6月には国連の安全地域に指定されたクロアチア南部のダルマツィアア地方で国連保護軍の監視所を攻撃して機能不全にした上で「ミリェフツィ・プラトー作戦」を実行し、セルビア人支配地域を制圧。93年1月から2月にかけて「マスレニッツァ作戦」を発動してダルマツィア地方のザダル周辺を制圧。93年9月には「メダック・ポケット作戦」でセルビア人勢力の支配地区のゴスピッチを激しく攻撃してセルビア人住民を追放した。しかし国連安保理は、これらの国連保護軍を攻撃し排除した3作戦を不問に付したばかりか、ドナウ川での些末な石油の密輸に対して「悪質な違反行為」とする非難声明を出し、クロアチアの軍事行動の注意をそらすという偏向ぶりを示した。メディアやPR会社ルーダー・フィンが「強制収容所」や「民族浄化」なる文言を使い始めると、国際社会はその存在の確認をしないままにセルビア人勢力側のみが行なっているものとして「民族浄化」なる文言を非難に濫用した。

EC和平会議のキャリントン議長を辞任に追い込む

一方で、ECユーゴ和平会議のキャリントン議長は和平を模索し、92年7月にロンドンで和平会議を開いたが、ボスニアのシライジッチ外相がボスニア・セルビア人勢力の代表と会うのを拒否したため、個別会談となった。キャリントン議長は「1,永続的な停戦。2,国連による重火器の管理。3,難民の帰郷。4,キャリントン議長の下でのロンドン和平会議の継続」などをまとめ上げた。しかし、ボスニア政府は、北大西洋条約機構・NATO軍にセルビア人勢力を攻撃させて屈服させるための工作に意を砕いていたこともあって、和平会議における停戦協定などに従うつもりはなかった。そして、ボスニア政府軍はまるで和平会議をあざ笑うかのように停戦決議を無視してセルビア人勢力への武力攻撃を行なった。キャリントン議長は、第1回のロンドン和平会議が終了して旬日を経ない7月24日に「ボスニアのムスリム人武装勢力が停戦協定を無視して戦闘を続けている」として厳しく批判し、「このままでは当面和平提案を行なうことはしない」と述べた。結局、和平に尽力したキャリントンEC和平会議議長は、米国およびボスニア政府の態度とEC諸国の対応に見切りをつけ、ロンドンの拡大和平国際会議前日の8月25日に「米国は、もう少し譲歩する必要がある」とのコメントを残して辞任する。

ドイツとオーストリアおよびバチカン市国は和平より利害を優先する

EC諸国の一部の思惑と、和平会議に与えられた役割との間には乖離があった。特にECのドイツとオーストリアおよびバチカン市国と米国は和平会議を支援するよりも、政治的・軍事的圧力によってセルビア人勢力を屈服させる意向を抱いていた。政治的な解決よりも利害を優先させた力の政策である。キャリントン議長が辞任を強いられたのには、そのような国際社会の思惑が絡んでいた。

ECおよび国連共同の和平国際会議も有効性を発揮できず

ドイツおよび米国などの思惑はあったにせよ、ECは和平会議に国連を引き込み、「旧ユーゴ和平国際会議」に拡大してECと国連の代表による共同議長制で打開を図ることにした。これがヴァンス・オーエン両共同議長による旧ユーゴ和平国際会議である。ヴァンス米元国務長官は国連特使として、オーエン英元外相はEC側の代表としてユーゴ和平国際会議を司った。

しかし、この会議に参集した関係国は、ボスニア和平を実現させるという熱意に欠けていた。またボスニア政府が契約した米国のPR会社のルーダー・フィンは会見場にムスリム人避難民を連れ込んでメディアの前で証言させ、セルビア人勢力を非難させるという工作を行なって和平会議の雰囲気を阻害した。

そのため、ロンドン和平拡大国際会議は成功しなかったものの、ヴァンス・オーエン両共同議長は任務を遂行し続け、93年1月に現実的な和平案を提示した。即時停戦と、ボスニアを10のカントン・州に分割し、それぞれを自治州として非中央集権国家とするという調停案である。この調停案が示されると、ボスニアの3民族勢力は10州に分割される前にそれぞれの地域での主導権を掌握するため、武力闘争を激化させることになる。しかし、このヴァンス・オーエン案を受け入れるところとはならなかった主な原因は、セルビア人勢力やクロアチア人勢力も一部には異議を述べていたものの話し合いに応じる姿勢を示していたが、一方のイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領がボスニアの統一に拘ってすべてを拒否したからである。米国ではクリントンが93年1月に大統領に就任し、セルビア悪に基づく政策を強化することを宣明していた。イゼトベゴヴィチ大統領の拘りの背後には、クリントン米政権の支持があった。ヴァンス和平会議共同議長は限界を感じ、健康を理由にして93年5月2日に辞任する。

和平案をことごとく拒否したイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領に反旗を翻したムスリム人勢力

ボスニアの内戦の激化と長期化は、外部の支援を当てにしたイゼトベゴヴィチ幹部会議長が和平案をことごとく拒否したところにある。この頑ななイゼトベゴヴィチ大統領の態度に、ムスリム人勢力からも反旗を翻す者が出た。93年9月、ボスニア幹部会員の穏健派ムスリム人実業家のアブディッチがイゼトベゴヴィチの強硬路線に反対し、ビハチ地域を「西ボスニア自治州」として自治宣言を出したのである。イゼトベゴヴィチ大統領は、直ちに西ボスニア自治州の制圧を命じた。軍備の乏しい西ボスニア自治州はたちまちボスニア政府軍に蹂躙されてしまう。

米政府は「新戦略」を立案して独自の介入を企図

ECの一部と米国は、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を屈服させれば紛争は解決できると安易に分析していた節があり、それに添った対応策を取ったために紛争の解消を困難にしていた。93年5月にはクロアチア人勢力が臨時首都とすることを目論んだモスタル市では、ボスニア政府軍とクロアチア人勢力間で支配圏をめぐって激しい戦が行なわれ、その際ネレトヴァ川に架かるすべての橋が砲撃で落とされた。その中にはオスマン帝国の支配期に建造された美しいアーチ状の石橋「スタリ・モスト」も含まれていた。

一方、国連は94年1月に明石康国連事務次長を国連事務総長特別代表に任命し、ボスニア和平の最高責任者とした。明石特別代表は和平に向けて各民族勢力の代表たちと誠実に会談を重ねて解決の方策を探るが、北大西洋条約機構・NATOはセルビア人勢力への空爆計画を共同声明として発表し、EUも外相理事会でNATO軍の空爆を容認する声明を出すという、和平に冷水を浴びせるような対応を示した。和平国際会議および国連が和平を模索していたその傍らで、米国はクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧するための独自の「新戦略」を打ち出すのである。

「ワシントン協定」締結で決められたクロアチアの「民族浄化」作戦

94年2月、新戦略策定に伴ってクリントン政権はトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、ボスニア・クロアチア人勢力強硬派のマテ・ボバン大統領を解任させるとともにボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力の戦闘を停止させる。その上で、94年2月にボスニア政府のシライジッチ首相、ボスニアのクロアチア人勢力のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、およびクロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させた。「ワシントン協定」の内容は、ムスリム人勢力としての「ボスニア政府」とクロアチア人勢力の「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」でエンティティとしての「ボスニア連邦」を設立すること、もう一つはこの「ボスニア連邦」と「クロアチア人共和国」との間で将来連合国家を形成するための予備協定に合意する、というものである。

米国の新戦略の本質はそのような上辺を取り繕ったところにあるのではなく、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力への厳しい対処法を3つの勢力に合意させることにあった。クロアチア共和国および「ボスニア連邦」が、両国のセルビア人勢力を征圧するための統合共同作戦を実行させるというものである。この作戦にはNATO軍も参加させるという含みを持たせていた。それからの1年間は、統合作戦を実行するための準備期間に当てられた。

旧ユーゴ和平国際会議の和平は米の新戦略が背景にあったため進展させられず

この間にも、旧ユーゴ和平国際会議はオーエン・シュトルテンベルグ両共同議長が和平仲介を再開し、93年11月には裁定案を提示して和平交渉を行ない、94年2月にも開いたが具体的な進展は見られなかった。94年5月には、EU・米・露など7ヵ国による拡大和平外相会議が開かれ、占有領土についてセルビア人勢力は49%、ボスニア連邦は51%とする調停案を提示した。この調停案に対し、セルビア人勢力が恒久的な停戦を条件に受諾を表明したにもかかわらず、ムスリム人勢力のボスニア政府は現状が固定化されることは容認できないとして拒否した。

ガリ国連事務総長が任命した明石国連特別代表も、ボスニア政府およびボスニア・セルビア人勢力の指導者に会い和平を模索し続けていた。しかし、イゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領は、明石特別代表の公平な視点での交渉態度をセルビア人勢力の側に立っているとして解任を要求した。

NATO軍はセルビア人勢力のみを対象とした武力行使をエスカレートさせていく

NATO軍は94年に入ると、セルビア人勢力を対象とした空爆態勢を整え、アドリア海に艦隊を配置。94年2月にはセルビア人勢力の航空機を撃墜し、4月には繰り返しセルビア人勢力のみを空爆した。明石特別代表は空爆対象を停戦違反したすべての勢力と考えていたのに対し、イゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領は、NATO軍はセルビア人勢力を空爆するものと捉えていた。ボスニア政府軍はNATO軍が自勢力を攻撃することはないと見込んだ上で、停戦協定の履行期間中の6月に東部のオズレン地区、北東部のブルチコ、ドボイなどのセルビア人住民居住区を攻撃した。さらに復活したボスニア北西部の反政府派ムスリム人地区「西ボスニア自治州」のビハチを攻撃したが、NATO軍はこれを黙認した。そればかりか11月に行なったボスニア政府軍による西ボスニア自治州での攻防戦では、クロアチア・セルビア人勢力が西ボスニア自治州支援に赴くことを断ちきることを目的としてウドビナ空港を空爆し、さらにセルビア人勢力の通信基地を空爆して破壊し、相互の連絡網を遮断した。

クロアチア共和国軍は国連保護軍を排除して統合共同作戦を開始する

95年1月、クロアチア政府は1年をかけた準備が整うと、国連保護軍の存在が和平の妨げになっているとの理由をつけ、撤収を執拗に要求した。国連安保理は一部から異論は出されたものの結局この要求に応え、3月に安保理決議981~983を採択してUNPROFORを3分割し、クロアチアには縮減した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配置させることにした。

クロアチア共和国軍はUNCROに縮減されたのを待ちかねるようにして5月1日に「稲妻作戦」を発動し、セルビア人居住区の「西スラヴォニア」の攻略を開始した。このとき、フランスとドイツが武力攻撃を停止するよう要請するが、クロアチア共和国は言を左右にしてこれをかわした。ボスニア政府軍の陽動作戦は、巧に隠し持った重火器を持ち出してセルビア人勢力軍に大攻勢かけたが、国連保護軍・UNPROFORはこれを見て見ぬ振りをする。一方で、NATO軍はセルビア人勢力が重火器を国連保護軍から取り戻して使用したことを咎め、指定した期日通りに返還しなかったとして空爆を行なった。この空爆には、米軍機だけでなく、イギリス、フランス、スペイン、オランダの空軍機も加わっていた。これに抗議したボスニアのセルビア人勢力が、国連保護軍の兵士を人質にして人間の盾としたため、NATO軍は空爆を停止せざるを得なくなる。

ボスニア政府はスレブレニツァなどの部隊に陽動作戦を指令

ボスニア政府軍はさらに攻勢をかけ、サラエヴォを見下ろす位置にあるイグマン山に布陣するセルビア人勢力を排除するために、米軍事請負会社MPRIの訓練を受けて精鋭化した特殊部隊1万数千人を投入した。この作戦は多数の兵員を動員したにもかかわらず、余りにも単純な正面攻撃作戦であったためにセルビア人勢力の反撃にあって大敗する。ボスニア政府軍はこの失策を隠蔽することと、主要な戦線が西部にあることをセルビア人勢力に気付かせないために、ボスニア東南部のトゥズラ、ゴラジュデ、ジュパ、スレブレニツァのムスリム人部隊にセルビア人住民地区への攻撃をかけるよう陽動作戦をかねた指令を出した。

セルビア人勢力軍はこの作戦の意味に気が付かず、ボスニア政府支配地域の南東部の部隊の攻撃を封じるために、7月に「クリバヤ95作戦」を発動した。セルビア人勢力軍が発動したこの作戦はさしたる抵抗を受けることなくスレブレニツァ制圧する。そして、スレブレニツァでは女性と子どもなど2万人をバスなどでボスニア政府支配地域に送り出す一方で、兵役可能年齢の男性を拘束した。さらに、スレブレニツァから脱出を敢行した1万数千人のスレブレニツァの28師団兵士や行政員などを追撃して戦闘を交えた。この作戦の際に捕捉したムスリム人男性を殺害したとされたのが、スレブレニツァ事件である。このスレブレニツァ事件を米国とメディアが大々的に喧伝し、ボスニア・セルビア人勢力の行為を非難した。

クロアチア共和国軍の「民族浄化作戦」を国際社会は黙認した

同じ7月、クロアチア共和国軍はボスニアに越境し、ボスニア政府軍の第4軍団、ボスニア・クロアチア人勢力軍の3者とともに「‘95夏作戦」を発動し、クロアチアのクライナ地方へ至るボスニアの要衝のリヴノとグラホヴォを制圧した。この作戦によって、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国の首都クニンは3方向からの包囲網が敷かれることになる。クロアチア政府軍とボスア政府軍による共同作戦はクロアチア内戦における最終段階へと進み、8月4日にクロアチア政府軍は兵員15万余を動員した大規模な「嵐作戦」を発動する。この作戦の目的は、クロアチア共和国内のセルビア人住民を一掃して純粋なクロアチア人の国家とするところにあった。クロアチア共和国軍は、4方面からクライナ・セルビア人共和国を攻撃して壊滅させる作戦を遂行するために、国連信頼回復運動・UNCROの監視所を砲撃して12ヵ所を占拠し、UNCROのクニン本部も包囲して、国連保護軍が外部に出られないようにして監視の目を封じた。クロアチア共和国軍のセルビア人住民に対する作戦が国際社会に漏れることを恐れたために国連軍の監視活動を封じたのである。さらにボスニア政府軍第5軍団も出撃し、ボスニア・クロアチア人勢力軍は共闘して「‘95夏作戦」で確保したボスニア西部からクロアチア南部に至る交通の要衝であるリヴノおよびグラホヴォからボスニアのセルビア人勢力がクライナ・セルビア人共和国の支援に赴けないようにするとともにクライナ・セルビア人勢力軍を攻撃した。

これを迎え撃つことになったクライナ・セルビア人共和国のセルビア人勢力軍の兵力は西スラヴォニアが攻略されたために4万弱しか動員できなかったことから対抗できずに戦線はたちまち崩壊し、住民ともどもクロアチアから脱出することになった。このとき難民として脱出したセルビア人勢力軍と住民は、赤十字国際委員会・ICRCの発表によると20万人から25万人に及ぶという。

クロアチア共和国軍はボスニアに越境してボスニア・セルビア人勢力を攻撃

クロアチアの軍事作戦が発動されると英・仏・独は非難声明を出し、クロアチア共和国軍が唯一のセルビア人住民居住地域となった「東スラヴォニア」の攻略に取りかかる姿勢を示すとそれを抑止したもののそれ以上の措置は取らなかった。この作戦のクロアチア共和国政府軍の顧問を務めたのが米国の軍事請負会社・MPRIであり、NATO軍の作戦要領を使用していた。クロアチア共和国軍の一連の作戦によって、クロアチア内で56万人を占めていたセルビア人は「東スラヴォニア」在住の4.5%・20万人に激減した。クロアチア共和国軍は、クライナ地方のセルビア人を掃討すると、そのままボスニア領に侵攻し「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニア・セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」の大統領府があるバニャ・ルカ攻略を実行したが、さすがにバニャ・ルカはクロアチア共和国軍の大軍が攻撃しても容易には攻略できなかった。

北大西洋条約機構・NATOの「デリバリット・フォース作戦」も「新戦略」に連なる統合作戦

この統合作戦の最中の8月28日、サラエヴォのマルカレ市場への爆破事件が起こされた。この事件を、NATO軍はセルビア人勢力による砲撃と即断し、「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動した。NATO空軍とNATO加盟国主体の国連の緊急対応部隊によるセルビア人勢力への大規模な空陸による攻撃に踏み切ったのである。

このマルカレ市場の砲撃は、のちにムスリム人勢力による可能性が指摘されたが、米国が立てた新戦略の一環としてCIAの工作で実行された可能性の方が高い。このNATO軍の空陸からの周到な作戦は苛烈なもので、ボスニアのセルビア人勢力の軍事力はほとんど壊滅させられたといわれるほどの凄まじいものであった。作戦は懲罰的な性格を帯びたものであるとともに、クロアチア共和国およびボスニア政府軍の共同作戦の際の残虐行為から国際社会の目を逸らせるものでもあった。

NATO軍は軍事力でボスニアのセルビア人勢力をねじ伏せた上で、ボスニアの和平交渉を米国のオハイオ州デイトンの軍事基地に関係者を呼び集めて「デイトン和平交渉」を挙行した。この和平交渉は徹底して米国主導で進められ、EUと国連は添え物でしかなかった。また、当事者であるボスニアのセルビア人勢力も、和平交渉では傍役に置かれたのである。

ドイツはこの和平交渉での米政府の対応を外交報告書で厳しく批判したが、その原因をつくり出した責任がドイツにあることには触れていない。デイトン合意の主な内容は、「1,ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の『ボスニア連邦』の領域は51%とし、セルビア人勢力の『スルプスカ共和国』は領域を49%とする。そして、『ボスニア連邦』と『スルプスカ共和国』が『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ』としての連合国家を構成する」というものである。このデイトン合意によってボスニアの戦闘は停止したが、内戦の傷跡はそれぞれの民族の中に深く刻み込まれ、3民族の融和は極めて困難なものとなった。

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の最終仕上げとしてのコソヴォ自治州の独立

EUおよび米国にとって、ボスニアの紛争が停止してもユーゴスラヴィアへの介入はそれで終わりを遂げたわけではない。セルビア共和国とモンテ・ネグロで構成されている新ユーゴ連邦を解体させ、両共和国を自由市場経済社会に取り込むことと、コソヴォ自治州の処遇を確定する後処理があるからである。

そこで米国は、96年にミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領をジュネーブに呼び寄せてコソヴォ自治州に米国の「情報・文化センター」の拠点を置くことを認めさせた。情報・文化センターはCIAが拠点とするところである。

コソヴォ自治州はセルビア共和国の公式の統治機構とは別に、アルバニア系住民がコソヴォ自治州臨時政府を設立して実質的な統治権限を行使していた。自治政府のルゴヴァ大統領は交渉による穏健な独立をめざしてきたが、交渉による独立路線に飽き足らない若者たちの強硬派は武力による独立を掲げて88年にコソヴォ解放軍・KLAを結成していた。KLAは、97年にアルバニアが社会主義体制から資本主義体制への転換過程で経済的・政治的混乱に陥り、武器を大量に流出させた際、それを入手して武力闘争を公然化した。そして、98年に入るとコソヴォ自治州とアルバニアとの国境地帯を中心に支配地域を拡大する。

米政府は98年2月にゲルバード特使をコソヴォに派遣し、穏健派を集めてKLAをテロ組織だと言明する。米政権が何故KLAをテロ組織と公言した理由は不明だが、ユーゴ連邦はその発言をKLAへの鎮圧を容認するものと受け取り、コソヴォ解放軍をテロ組織として治安部隊を投入して鎮圧をし始めた。ところが、国連安保理は98年3月に決議1160を採択してユーゴ連邦への武器の禁輸とセルビア治安部隊の撤退を要請し、米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国はユーゴ連邦への制裁措置を協議する。  

国際社会のセルビアへの非難に意を強くしたコソヴォ解放軍・KLAは、武力闘争を強化して98年5月には自治州の4分の1の地域を支配するまでになった。EUはコソヴォ解放軍の武力行使を咎めることなく6月にはユーゴ連邦への新規投資の禁止などの経済制裁を科し、セルビア共和国がアルバニア系住民を迫害し、「民族浄化」をしているとして激しく非難した。

事態の推移を見極めていた米政府は、5月にホルブルック特使をユーゴ連邦に派遣して治安活動を止めるよう要請するとともに、情報文化センターで任務に就いていたCIA要員の手引きでコソヴォ解放軍・KLAに接触し、「自由の戦士」と讃えて写真を公表した。

ウォーカーKVM団長は「ラチャク村事件」を捏造

98年9月、国連安保理は即時停戦とセルビア治安部隊の撤退を求める決議1199をユーゴ連邦に突きつける。これに対してユーゴ連邦はロシアの助言を受け入れ、コソヴォ紛争の実態の認識を期待して欧州安全保障協力機構・OSCEの調査団の受け入れを表明する。OSCEは一旦これを断るが直ぐに撤回し、OSCE停戦合意検証団・KVMを組織してコソヴォに2000人の検証団員を派遣すると決定した。ところが、この停戦合意検証団・KVMの団長に曰く付きの米外交官ウィリアム・ウォーカーを任命したことで、この検証団の性格が明らかとなる。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使として赴任していた1981年12月、エルサルバドルの独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊」が独裁政権に批判的なカトリック教会を襲撃して司祭と子どもを殺害した事件を容認し、擁護した人物である。このとき、エルモソテ村周辺の住民およそ1000人が虐殺された。

ウォーカーKVM団長は、検証団員の中に米CIAや英MI6などの諜報部員を潜り込ませてコソヴォ自治州に入ると、すぐさまセルビアの治安部隊がコソヴォのアルバニア系住民40数名を虐殺したとする「ラチャク村虐殺事件」を捏造した。オルブライト米国務長官はそれに呼応し、ミロシェヴィチ大統領を「1938年のアドルフ・ヒトラー」に譬えて非難した。この事件は、虐殺ではなく戦闘による死者であることがのちの検証で明らかにされるのだが、ウォーカー団長とオルブライト米国務長官にとっては、ミロシェヴィチと「セルビア悪」を印象づければ十分であった。NATO軍は既に海空に爆撃体制を整えており、直ちにユーゴ連邦への空爆を発動する姿勢を示したが、この時点ではEUが「連絡調整グループ」による和平交渉を提唱したことで一時的にせよ武力行使は止められた。

NATO軍の「アライド・フォース作戦」はユーゴ連邦解体の最終章

しかし、米国は和平交渉による解決を望んでおらず、NATO軍の武力行使によるユーゴ連邦の屈服を目指していた。ともあれこの時点では、6ヵ国構成された「連絡調整グループ」による「ランブイエ和平交渉」が行なわれることになる。EU主導の「ランブイエ和平交渉」は困難を極めたが、それなりに尽力して和平達成の見通しが立つところまで漕ぎ着けた。すると、オルブライト米国務長官が交渉の場に乗り込み、米国の交渉術である土壇場で条件のハードルを上げるということを露骨に実行し、ユーゴ連邦が拒否するように仕向けた。米国がハードルとして突きつけた「軍事条項B」は、ユーゴ連邦全土にNATO軍を進駐させよという占領条項ともいうべき理不尽な要求であったから、ユーゴ連邦が拒否するのは当然であった。この軍事条項は、軍事行動に積極的だったブレア英政権を除く連絡調整グループの国やメディアには秘匿されていたため、ラチャク村事件でセルビア悪の印象が国際社会に浸透していたことと相俟って、NATO軍の空爆やむなしとの雰囲気が醸成された。

人道的介入とは真逆のNATO軍の無差別爆撃

そして1999年3月24日、NATO軍はコソヴォのアルバニア系住民の迫害を止めるためと称し、安保理決議を回避した上で「慈悲深い天使の作戦」なる戯れ言のような名を冠した「アライド・フォース作戦(同盟国の軍事作戦)」を発動する。この同盟の軍事作戦はアドリア海に米・英・仏の空母3隻を配備し、航空機およそ1000機を投入するという大規模な空爆作戦で、軍事施設のみならず、放送局、鉄道施設や道路、橋梁、工場、病院、学校、そして中国大使館にまでミサイルを3発撃ち込んだ。

この「ユーゴ・コソヴォ空爆」は国際の安全保障体制に甚大な影響を与えることになり、中国およびロシアの軍備改編・増強に奔らせることになる。この78日間に及ぶ苛烈なユーゴ・コソヴォ空爆が人道的介入を目的としたものでなかったことは、当事者の次のような発言に表されている。

ロバートソン英国防相はNATOが空爆を開始した当日の下院議会で、「今年のラチャク村に至までは、ユーゴ連邦当局よりもコソヴォ解放軍の方がより多くのコソヴォでの死者に責任があった」と答弁した。クラークNATO軍最高司令官は空爆開始直後に、「NATO軍の作戦はセルビア人の民族浄化を防ぐものではなかった。コソヴォのセルビアの治安部隊に対する戦争でもなかった。こうした意図はなく目的でもなかった」と述べた。これらの発言を見るとNATO諸国がユーゴ連邦を徹底して解体する意図の下に行動していたことが分かる。

NATOの軍事行動に合わせるように「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」は、空爆の最中の5月にミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を証拠もないままに起訴する。

NATO軍の苛烈な「慈悲深い天使の作戦」、即ちユーゴ・コソヴォ空爆によってユーゴ連邦は屈服を余儀なくされた。停戦協定を受け入れたユーゴ連邦は、コソヴォ自治州からセルビア治安部隊を撤収させることになる。NATO軍はコソヴォ治安維持部隊・KFORを編成して進駐し、国連は暫定統治機構・UNMIKを組織してコソヴォの行政を担った。

米国はCIAおよびその外郭団体の民主主義基金・NEDを駆使してミロシェヴィチ大統領を追い落とす

一方、空爆を受けたユーゴ連邦はかえって結束を固めることになり、EUおよび米国が意図したミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の失脚は実現しなかった。そこで、米国はミロシェヴィチ大統領の追い落としを図る。それを察したミロシェヴィチは大統領選を前倒しして体制の強化を目指し、再選を果たした。ところがこれが裏目に出る。敗退したとされたコシュトニッツァ候補の支持者たちが選挙に不正があったとして大規模な抗議行動を始めたのである。その抗議行動に参加したのは若者であった。

この若者を組織して運動資金を投入したのが米国の民主主義金・NEDや米CIAであり、「オトポール(拳)」なる団体を結成させ、その拳を突き上げるプラカードを象徴として掲げることなど、事細かに抗議運動の進め方を指導した。この若者を主体とした抗議デモが国会議場に雪崩れ込むまでになり、ミロシェヴィチ大統領は事態を収拾するために2000年10月に辞任する。

しかし、ミロシェヴィチ大統領を排除しても、セルビア共和国は必ずしもEUや米国の意図通りにはならなかった。EUや米国に対する不信が根強く残り、のちにユーゴ連邦を構成していたモンテ・ネグロ共和国の分離独立は果たせたものの、セルビア共和国は米国の意思に従うことがなかったからである。

大アルバニアを目指したコソヴォ解放軍を支援したNATO軍

コソヴォ解放軍・KLAの指導者たちは、NATO軍がセルビア治安部隊を排除してくれたことから、「大アルバニア」の建国を構想した。そこで、先ず大アルバニアの核となるコソヴォ自治州からセルビア人住民を追放して純粋なアルバニア系住民だけの地域とすることを実行した。このアルバニア系住民によるセルビア系住民の追い出し作戦によってコソヴォに12%ほどいたセルビア人は4%ほどに激減した。しかしコソヴォを純粋アルバニア系住民の地域とすることには無理があった。UNMIKとNATO軍主体のKFORは、建前としてセルビア人住民の居住権を保障しなければならなかったからである。

次いでコソヴォ解放軍は、セルビア共和国南部のアルバニア系住民の居住地域とマケドニア共和国北部のアルバニア系住民居住地区を割譲させて併合することへと歩を進める。コソヴォ解放軍はセルビア共和国南部に「プレシャヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を組織させて武力闘争を始めた。KLAは、停戦協定によってコソヴォ自治州とセルビア共和国の境界に設定された非武装地帯からLAPBMの支援攻撃を行なったが、NATO軍の直接的な支援を受けられないコソヴォ解放軍がセルビア治安部隊を圧倒することは望み薄といえた。

NATOとEUは侵略したコソヴォ解放軍を咎めずマケドニアの反撃を抑制する

そこで、KLAは01年3月には軍備の脆弱なマケドニア共和国に鉾先を向け、北部のアルバニア系住民地区に「民族解放軍・NLA」を結成させ、この地域を割譲させるための武力闘争を仕掛けた。武備の乏しかったマケドニア軍は一時KLA・NLA連合部隊に国土の30%を支配されるまでになるが、ウクライナから攻撃ヘリなどの武器の貸与を受けて反撃に転じた。

このとき、欧米はコソヴォ解放軍の武力攻撃を抑制するのではなく、ソラナEU共通外交上級代表とNATOのロバートソン事務総長をウクライナに送り込み、マケドニアに武器供与をしないよう働きかけた。EUは、コソヴォ解放軍の武力攻撃は黙認するが、マケドニアの反撃は抑制するという対応を採ったのである。ウクライナからの武器貸与を受けられなくなったマケドニア軍は困難に陥るが、他の国から武器の供給を受けるとともに総動員体制を敷き、01年8月にはようやくKLA・NLAの包囲攻撃を行なえるまでになった。この紛争に表向き軍事支援することを憚ったNATOは、仲介者として停戦に乗り出す。マケドニア軍に包囲されたKLA・NLA部隊の中に戦闘を指導した米軍の関係者がいたからである。そして、停戦協定が成立すると米軍はCIAや軍事請負会社MPRIの要員を保護し、バスなどを仕立てて護送した。これを見たマケドニア市民は、通行を妨げて投石するなどの事件を起こした。結局、コソヴォ解放軍・KLAの武力による大アルバニア構想は、失敗に終わる。

国連は安保理決議でコソヴォの実質的独立を図るが頓挫する

以後、コソヴォ解放軍・KLA主体のコソヴォ暫定自治州政府は、セルビア共和国から分離独立することに回帰する。そこで、コソヴォ暫定自治州政府は国際社会に対し、ランブイエ和平交渉における和平条項の1つに含まれていた3年後の独立に向けた協議の促進を迫った。

国連は、2005年になってアハティサーリ前フィンランド大統領をコソヴォ問題特使に任命する。アハティサーリ特使は、国連の特使として任命されたにもかかわらずNATO諸国の意向に添う内容でコソヴォの最終地位案を策定した。コソヴォの独立は明記しないが実質的な独立を保証するという裁定案を、国連安保理決議で決定させようとしたのである。しかし、紆余曲折を経た上で07年に行なわれた安保理協議では、ロシアやベルギーなど理事国の中から国家主権の侵害になりかねない事柄を安保理決議で強制することに異議が出され、再びセルビア共和国とアルバニア系住民による直接交渉に委ねられることになった。セルビア政府は自治権拡大などの大幅な譲歩を示したが、アルバニア系住民側が分離独立以外は認めないとの強硬姿勢を崩さないために交渉は決裂する。このKLAのコソヴォ暫定自治政府の強硬な対応の背後には米国の意向が働いていた。

コソヴォ自治州は独立を宣言するが承認国は少数にとどまる

コソヴォ解放軍の政治局長だったタチ民主党党首は2008年1月にコソヴォ自治州首相に再選出されると、独立を選択すると表明。そして暫定コソヴォ自治州議会に決議を採択させ、08年2月17日にコソヴォ共和国として独立を宣言した。米政府は予定調和の如く翌18日に承認することをコソヴォ自治州に伝え、EUは18日に外相理事会を開いてコソヴォ自治州の独立問題を協議した。EUとしてはNATO空爆の後始末としてのコソヴォ自治州の独立を容認する雰囲気が支配する中で異論も出され、英・独・仏・伊は独立を承認する姿勢を示したものの、スペイン、ルーマニア、ギリシア、キプロス、ブルガリア、スロヴァキアは態度を留保した。そのため、独立承認はそれぞれが独自の判断で行なうことになる。

EUにおけるコソヴォ自治州独立への疑問はその他の諸国にも影響を及ぼし、独立宣言から1周年を経た2009年2月に至っても国連加盟国192ヵ国の内54ヵ国しか承認していない。8年を経た2016年に至って、ようやく113ヵ国が承認するまでに漕ぎ着けた状態である。

それにしてもこのNATOのユーゴ連邦空爆は、ロシアと中国の安全保障体制に多大な影響を与えることになった。

NATOのユーゴ・コソヴォ空爆はロシアと中国に軍備再編を促す

中国にとってNATOはヨーロッパの軍事組織であり、アジアにまで係わることはないと見て経済成長に邁進していた。しかし、NATO軍が駐ベオグラード中国大使館にミサイルを撃ち込んできたことに、ロシアと同様に安全保障関係者は衝撃を受けた。NATOは誤爆だと釈明したが、もちろん誤爆ではない。NATOの空爆によってセルビア軍の通信網が破壊されたため、中国大使館がその独自の通信網をセルビア側に使用させているとの疑惑に係わる、懲罰的ともいうべきミサイル攻撃だったのである。中国はこのミサイル攻撃を受けたことでNATOを仮想敵国と位置づけざるを得なくなった。  

それからの中国の軍備再編は迅速であった。専守防衛のための陸軍を削減して海軍と空軍の改編、および将来の電子戦に備えて軍備の知能化を図ることになる。1999年当時の海軍は名ばかりの態勢だったが、それを補うために南沙諸島に軍事基地の建設を始めたばかりか、ウクライナから購入した空母を改造して「遼寧」とし、2022年には空母3隻を含む大艦隊を所有するまでになっている。この中国の軍備増強に対しNATO諸国は危惧を唱えているが、中国に軍備増強の契機を与えたのが欧米諸国の砲艦外交だったことについての反省は見られない。

NATO軍の中国大使館ミサイル攻撃に、中国がどれほどの衝撃を受けたか。それはNATOのユーゴ・コソヴォ空爆から23年を経た2022年5月7日に、中国外交部の報道官は「中国人民は5月7日を決して忘れない」とのコメントを発出した。すなわち、この文言の中にNATOに対する中国側の考え方のすべてが表されている。

ロシアはユーゴ・コソヴォ空爆を見てNATOを仮想敵国と位置づける

NATOのユーゴ・コソヴォ空爆時のロシアは、エリツィン政権が親欧米型の民主化路線を採っていた。そして、コソヴォ紛争では外交交渉による解決が可能だとして和平に奔走した。しかし、NATOやEU諸国はソ連の社会主義体制からロシアとしての資本主義体制に移行する過程で経済的低迷を招いて弱体化していたロシアの意向など採るに足らないものとして、ことごとく無視した。

その上でNATO・EU諸国が、安保理決議を回避してまで「低強度紛争」に過ぎないコソヴォ紛争への対処としてユーゴ連邦への軍事力を行使する砲艦外交を見せつけられるにおよび、ロシアは愕然とさせられた。この態様はロシアにとってNATO諸国は共存しうる国々ではなく、仮想敵国となりうる国家群として捉え直すことを余儀なくさせられることになる

そこでロシアは、ユーゴ・コソヴォ空爆中の1999年5月には早くも安全保障会議を開き、「国家安全保障概念」と「軍事ドクトリン」の刷新に取り組む。この軍備再編には翌2000年に大統領に就任することになるプーチンが安全保障会議書記として密接に関わっていた。そして2001年には核戦争を想定した軍事演習をヨーロッパ側と極東で実施するまでに及ぶ。このNATOのユーゴ・コソヴォ空爆に端を発したNATOの東方拡大策が、のちのロシア軍によるウクライナへの軍事力行使へと繋がっていくことになる。即ち、NATOのユーゴ・コソヴォ空爆がロシアの軍事行動および中国の軍備増強への淵源となったのである。

NATOの覇権主義と東方拡大

NATOは仮想敵国としたワルシャワ条約機構が冷戦終結後の1991年に解散したことからすれば、解体することが当然である。しかし、NATOは解体するどころか逆に組織強化と東方拡大を図ることになる。その理由は、軍産複合体の生き残り策だったといえよう。NATOはユーゴ連邦解体戦争を生き残り策として利用した。1999年のユーゴ・コソヴォ空爆は、そのために強引に人道的介入なる理屈をつけて実行されたのである。

NATOはユーゴ・コソヴォ空爆後にも11ヵ国を加盟させているが、その中の4ヵ国は旧ユーゴ連邦内の共和国である。さらにNATOは、東方拡大を促進し、2008年にはブッシュ米大統領の提案でウクライナとジョージアをNATOに加盟させることで合意する。これはロシア包囲網策だといっても過言ではない。

NATOのロシア包囲網は拡大強化路線を選択する

ロシアはこのNATO拡大の動向に危惧を表明したもののNATOは聞く耳を持たなかった。米国の外交官でソ連専門家であるジョージ・ケナンは、NATOの東方拡大に懸念を表明したがNATO諸国はこれらをも無視した。

このように、ロシアの脅威論を無視しつつ東方拡大を図るNATOを動かしているのは軍産複合体である可能性が高いが、その姿は見えない。軍産複合体の範囲は軍部や軍需産業や諜報機関などの直接的な機関だけでなく、議員や識者など安全保障関係者全てを含む極めて広範囲であるだけに政策の発信源が捉えどころがなくなっているからだ。

ウクライナの政変時にロシアはクリミア半島を併合

2014年のウクライナの政変を操ったのは米国の機関であるが、このときウクライナの親ロ政権が親欧米政権に転換され

た。ロシアはウクライナのクリミア半島のセヴァストポリ特別市に租借地としての軍港を設置していたが、クリミアにNATOの軍

港や空軍基地が設置されることになれば、そこから排除されかねないとの危機感を抱いた。そこで、クリミア半島で多数派を占めるロシア人住民に住民投票を行なわせた上で併合を強行した。プーチン・ロシア大統領は併合するにあたり、「コソヴォの先例がある」とその正当性を主張した。それに対し、欧米諸国はコソヴォ例外論に基づき、ロシアに経済制裁を科すことを選んだ。

ロシアの対応を促したのは、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆とコソヴォなど旧ユーゴ連邦共和国内への米軍基地設置にあり、その後の独立承認にある。EU・NATO諸国はこのような影響を与えうると深慮した上で、コソヴォの独立問題に関与してきたようには見えない。セルビア悪説を振り撒き、それが世界に浸透していることを利用し、セルビアへの軍事介入をした対応の誤りを糊塗するために、コソヴォの独立を認めざるを得なくなり、コソヴォ問題だけは特別に扱うことが可能だと楽観視していたように見える。

NATO諸国はロシアの軍事侵攻に備えるためにウクライナ軍への訓練を実施

NATO諸国はウクライナ政変後の2015年から、ロシアの侵攻を前提にしてウクライナに軍事顧問団を送り込み、ウクライナ軍の訓練を始めた。この実態は秘匿されたものではなく、ニュース映像でも流されたほどあからさまなものである。このNATO諸国がウクライナへの軍事訓練などに投じた資金援助は、ロシアがウクライナへ侵攻するまでの2022年までに既に40億ドルに達していた。

2021年3月、ゼレンスキー・ウクライナ大統領は、クリミア奪還の政令を出し、ウクライナ軍の南方移動を命じた。さらに同5月に、NATO軍とウクライナは黒海で「欧州防御21」なる軍事演習を行なった。この演習に先立ち、ウクライナのアレスドヴィチ大統領顧問は「ロシアとの戦争を前提とした演習である」と口走った。

これらのNATOの軍事演習に対抗する形でロシア軍は21年10月頃からウクライナ国境地帯に大規模な軍隊を集結し始めた。米国はこのロシア軍の動向を非難するとともに、12月にロシアとの直接交渉を行なった。ロシアはこの交渉においてNATOの不拡大を要求したが米国はこれを突っぱね、ロシア軍のウクライナ国境地帯からの撤退を迫った。結局この米ロの交渉は、何物をも生み出さない無意味なものとなった。

ロシアはNATOの東方拡大を阻止するためにウクライナに侵攻する

22年2月24日、ロシア軍は北方、東方、南方の3方向からウクライナへの「特殊軍事作戦」なる名を付けた軍事侵攻を開始する。NATOの東方拡大がロシアにとって脅威だとしても、軍事的解決は愚行である。

EU諸国はロシアの蛮行に衝撃を受けたように見える。しかしNATO加盟国としてEUは、これを予想しないで軍事演習を行なっていたのか。それにしてもEUは、すぐさまロシアに対する経済制裁を発動と同時にウクライナに兵器などの供与を迅速に決めた。即ち、ロシアのウクライナ侵攻はロシアとNATOの代理戦争と化したのである。

破壊と殺戮を積み重ねるのみの武器供与でウクライナ戦争を継続させる知性

EU・NATO加盟諸国は経済制裁と武器の供与を拡大させ続けているが、それだけでウクライナ戦争を終息させることは望めない。EUが政治・経済的機構であるならば、外交交渉による解決策を示す叡智が求められているのではないか。声高にロシアを責めて弱体化を図るだけでは、ウクライナに破壊と殺戮の山を築くだけである。EUは当事者ではないにもかかわらず興奮状態に陥っており、その対応には知性が感じ取れない。ロシアのウクライナ侵攻は許容できない所業にしても、ウクライナへの武器供与の継続のみでは知恵がなさ過ぎる。

ロシアのNATO脅威論にいずれは対処せざるを得なくなる。いずれにしても核戦争を避けるためには外交交渉による解決を図るしかない。

フィンランドとスウェーデンがNATOに加盟することの知性

フィンランドとスウェーデンは22年5月、ロシアのウクライナ侵攻を危機だとしてNATOに加盟するための申請をした。NATOは6月に首脳会議を開き、両国の加盟に合意する。両国はこの半年余り前に、NATO加盟国ではないにもかかわらずその一員として遙か離れたアジアの地であるアフガニスタンで破壊と殺戮に加担してきた。NATO軍がアフガニスタンで殺害した犠牲者は17万人であり、その内の5万人は市民である。それに加担した反省が両国からは聞こえてこない。もはや1年も経ずに不都合な事実は忘却したような姿勢である。

もっとも、フィンランドとスウェーデンはロシアのウクライナ侵攻以前にもNATO軍と合同演習を行なっていたことを考察すると、この時期のNATO加盟申請は口実にすぎないとも言える。

アフガニスタン侵攻によるその地の人々の人命はとるに足らないが、近隣のウクライナでのできごとは許容できず、また自国の守りをNATOの軍事同盟に委ねようということなのかも知れないが、この二重基準は、先進国の正義と公平は重要だが、後進国のアジアの国々はそれに該当しないということなのだろう。この態様を見るとロシアのウクライナ侵攻の愚行もさることながら西欧・EUの思考の底の浅さを見せつけられる思いがする。EUが政治的・経済的同盟であるならば、軍事同盟を強化することではなく、なぜロシアがウクライナに侵攻したのかの理由を検証し、それをもとに外交的努力に傾注して戦闘停止を働きかけるのが国際政治のあり方に適うのではないか。軍事力に対するに軍事力で対抗するのでは際限がなく、やがてEUそのものが破滅への道をたどることになるだろう。

西欧の二元論的・・二項対立的思潮の傲慢さ

顧みると、ユーゴ連邦内戦争にNATOが露骨に武力行使をした背景には何があるのか。これには欧米の深奥に潜む二元論的・二項対立的思潮が存在していると指摘できる。「善・悪」、「正・邪」、「正統・異端」、「文明・野蛮」、なる自己を上位に位置づける二元論的思潮である。西ヨーロッパは文明国であり東ヨーロッパは後進国であり、さらに遠いアジア・アフリカは野蛮な地域であるという格付けである。4大文明はヨーロッパで勃興したのではないにもかかわらず、後進地域としてのヨーロッパが4大文明の先進地域を凌駕することになると、傲慢さを強めるこの倫理性の底の浅い思潮は人間の持つ宿業ともいえよう。

EU諸国の国家理性の到達度とユーゴスラヴィア連邦への関与

この思潮から、メディアもヨーロッパの知性といわれる者たちも免れていない。彼らのほとんどが認知バイアスに捉われてセルビア悪に傾き、武力行使を支持し、これに異を唱えるものを異端として攻撃して沈黙に追いやった。これが当時の欧米の理性の到達点であった。ユーゴ連邦解体戦争はこれらの欧米の風潮の上に、それぞれの地域における民族主義者が跋扈してユーゴ連邦解体戦争を激しいものとさせたのである。この事例は、メディアや識者も「世論の汚染」の渦から抜け出せないことを示している。

岩田昌征教授は、ユーゴ連邦解体戦争の要因について、内部要因を51%、外部要因を49%と分析したこの分析は概ね妥当なものといえよう。即ち、NATOが干渉しなければ、あのような悲惨な内戦にはならなかったといっていい。

西欧の歴史的責任

欧米の対応を分析すると、思潮の深層には十字軍派遣思想および植民地主義的意識が未だに存在しているといえる。植民地化にされた国々は、その文化および経済・社会の破壊を余儀なくされ、1世紀くらいではそれを拭うことは困難である。文化が破壊されるからである。EU諸国は未だにアジアに植民地を保有している。現在、ヨーロッパは難民問題に悩まされている。その原因は複雑であり、要約することは難しいが、かつての植民地支配や大国の干渉による問題が底層にあることは疑う余地がない。これに対してどのような対応を採るかは、植民地主義を採った国々や干渉を続けている国々の責任である。EUを形成した諸国がこの責任の大半を負っていることは言をまつまでもない。ヨーロッパの理性の到達点がどの時点にあるかを判断するのは困難だが、未だ望ましいといえる段階に至っていないとはいえよう。

ロシアのウクライナへの軍事侵攻に対するEUの対応の浅薄さを見ると、地球の未来は期待できないのかも知れない。

<参照; 国連の対応 米国の対応 ドイツの対応 NATOの対応>

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3,ユーゴ戦争と「ドイツの対応」

ドイツ人はゲルマン民族に類するが、スカンジナヴィア半島南部あたりが発祥地といわれ、BC8世紀頃から移動をし始めた。以来、ヨーロッパ各地に進出し、さまざまな領邦国家を建設する。

神聖ローマ帝国の版図を拡張し、キリスト教の布教、十字軍の派遣、騎士団の派遣、ハプスブルグ帝国の版図の拡大などによって、周辺地域に大量に移住した。

ドイツのバルカン半島との関わりは、中世ドイツの東方への植民に始まる。13世紀、ドイツ圏としてのハプスブルグ帝国はスロヴェニアおよびクロアチアを占領し、600年あまりにわたって政治、経済、宗教、文化的影響を与え続け、第1次大戦後まで両国を支配下に置いた。ドイツがスロヴェニアとクロアチアを植民地扱いするのにはこのような歴史的背景がある。

ハプスブルク帝国はオスマン帝国に対する防御のため南スラヴ諸国の間に軍政国境地帯クライナを設定する

オスマン帝国による1529年の第1次ウィーン包囲、1683年のウィーン包囲を受けたハプスブルク帝国は、南部の防衛を固める必要に迫られていた。18世紀に至り、ハプスブルク帝国のマリア・テレジアはオスマン帝国の北進への防備のため、クロアチアのスラヴォニアとセルビアのヴォイヴォディナからハンガリー、ブルガリア、ルーマニアに至る地域に軍政国境地帯を設定してドイツ人やクロアチア人やセルビア人およびハンガリー人、ブルガリア人、ルーマニア人をそれぞれ武装入植させた。いわゆる屯田兵である。クロアチアとボスニアの国境となっているウナ川の両岸地帯には主としてセルビア人やクロアチア人が入植し、これがクロアチアとボスニアのクライナ(辺境)の地名の由来となる。

1875年にオスマン帝国が徴税を引き上げたことに対し・ボスニアで反乱が発生する。反乱はセルビア、モンテ・ネグロ、そしてブルガリアにまで及んだが、オスマン帝国はこれらすべてを武力で鎮圧した。しかし、オスマン帝国側も少なくない損害を受けた。

露土戦争の結果セルビアとモンテ・ネグロおよびルーマニアが独立国家となる

オスマン帝国の衰退に乗じてロシア帝国は1877年にいわゆる露土戦争を仕掛け、コンスタンティノーブルの近郊まで攻め込んだ。オスマン帝国はここに至って講和を申し入れ、1878年にサン・ステファノ条約とベルリン条約を締結する。この条約によってセルビアと、モンテ・ネグロ、ルーマニアが独立国となり、ブルガリアは自治侯国として認められた。しかし、マケドニアはオスマン帝国に戻された。ところが、ハプスブルク帝国は漁夫の利を得るがごとくしてボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保し、1908年にはこれを併合した。これが、第1次大戦の遠因となる。ボスニアに反ハプスブルク青年運動などの秘密結社を多数生み出すことになったからである。

ドイツは第1次および第2次の両大戦でユーゴスラヴィアと敵対する

ハプスブルク帝国のボスニア併合に危機感を抱いたロシア帝国は、バルカン諸国に働きかけて「バルカン同盟」の結成を促した。これに応じたセルビアとブルガリアが1912年3月に同盟条約を結び、5月にはギリシアとブルガリア、8月にはモンテ・ネグロとブルガリア、9月にはセルビアとモンテ・ネグロが同盟条約を結んだことで交差した形の4ヵ国によるバルカン同盟が成立する。しかし、このバルカン同盟を結成する過程で、バルカン諸国は対象国をハプスブルク帝国からオスマン帝国に変容させていった。

そして、10月にマケドニアとアルバニアおよびトラキアの奪還を求めてオスマン帝国に宣戦布告し、第1次バルカン戦争を起こした。防衛体制を整えていなかったオスマン帝国は敗退を重ね、マケドニアとトラキアおよびアルバニアから撤退する。ところが、マケドニアの領有権をめぐってブルガリアが憤懣を爆発させて、マケドニアに進駐していたギリシアとセルビアの部隊に攻撃を仕掛け、第2次バルカン戦争を始めてしまう。このマケドニアの衝動的な戦闘行為は周辺の反発するところとなり、ルーマニアとオスマン帝国までがセルビアとモンテ・ネグロおよびギリシア側に立って参戦したためブルガリアは惨めな敗北を喫した。第2次バルカン戦争でブルガリアはマケドニアの山岳地帯ピリン・マケドニアをかろうじて確保したものの南ドブルジャをルーマニアに割譲させられるという結果をもたらした。ともあれ、バルカン地域のオスマン帝国の支配領域は大幅に縮小された。とはいえ、ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した問題は残されていた。

第1次大戦のきっかけはサラエヴォ事件だが列強はそれぞれの野心を抱いて参戦する

1914年6月、ハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子がボスニアで行なった軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れた。これを好機と捉えたボスニアの「黒手組」に属するセルビアの青年がフェルディナンド皇太子に爆弾と銃撃を浴びせて暗殺するというサラエヴォ事件を起こした。この時ロシアが仲裁に入り、セルビア王国は大幅な譲歩を示すが、ハプスブルク帝国はこれを許容せず、ドイツ帝国との同盟を確認すると7月28日にセルビアに宣戦布告した。これに対し、英・仏・露による三国協商を形成していたロシア帝国が7月31日に動員令を出すと、ドイツ帝国が8月1日に総動員令を出してロシアに宣戦布告する。ドイツは8月2日に英・仏との戦争に備えてベルギーに領域通過の許可を要求すると同時にルクセンブルクを占領。8月3日にはフランスに宣戦布告し、4日にはイギリスにも宣戦布告した。こうして第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は第1次大戦へと拡大することになった。

ハプスブルク帝国とドイツ帝国の同盟に対して三国協商の英・仏が参戦した背景には植民地支配に係わる確執があった。植民地経営の後発国としてのドイツはイギリスとの間に戦争が起こることを予測して建艦競争を始めていたし、フランスとの間にもモロッコなどの支配権をめぐる一触即発の雰囲気の中にあったからである。

バルカン諸国もそれぞれ領土的野心を抱いて成り行きを見定めて対応を決めることになる。オスマン帝国は二股をかけたが、結局14年11月に三国協商側に宣戦を布告して交戦状態に入る。ブルガリアはマケドニアの領有を企図して15年9月にドイツとの同盟側に立って参戦。イタリアは同盟側と条約を結んでいたにもかかわらず、15年5月に協商側に立って参戦する。ルーマニアは直ちに中立を宣言するが、16年8月には協商側に立って同盟側に宣戦を布告。ギリシアは、ドイツ系のコンスタンティノス国王がドイツ側に立つことを主張し、ヴェニゼロス宰相が三国協商側に立つことを主張したため、国論が二分された。しかし、ヴェニゼロス宰相が16年10月に臨時政府を樹立し、国王を退位させてアレクサンドロス皇太子を国王に据えると、17年7月に協商側に立って参戦した。

第1次大戦は初めての近代的総力戦となる

ハプスブルク中央同盟側は短期間で終結すると見ていたものの勝利の見通しが立たず、ずるずると大戦は4年余りも続いた。この間における兵器の発達はめざましいものがあった。ドイツは毒ガスを開発し、開戦翌年の1915年には実戦に投入した。さらにドイツは海戦で潜水艦Uボートを投入して戦果を挙げ、航空機は初期には偵察用だったものが空中戦や爆撃を行なうまでになる。戦車は英国軍が1916年9月に塹壕戦用に開発したタンクとして投入したのが最初だったが後には戦車戦を行なうまでになる。火砲の発達も目覚ましく50キロ砲や列車砲が開発された。

延々と4年も続いた戦争は目的を見失って迷走し始め、大戦に対する厭戦気分は各国に蔓延した。ドイツ帝国内ではドイツ革命が起こり、ヴィルヘルム皇帝が居場所を失って1918年11月にオランダに亡命し、ハプスブルク帝国のカール世も退位させられた。両皇帝が退位したことによって、中央同盟側は三国協商・連合軍側に敗北したことになる。

この大戦でドイツ帝国およびハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)は消滅し、ブルガリア帝国、オスマン帝国、そしてやはり17年に革命が起こったロシア帝国と、帝国を名乗っていた国のほとんどが瓦解した。当然ながら、ハプスブルク帝国はスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナに対する支配権を失うことになる。このとき、スラヴォニアとヴォイヴォディナに入植していたドイツ人の多くは移住を余儀なくされた。

大戦による人的損害は膨大なものとなり、両陣営合わせて動員された兵員数は6000万人を超え、死者数は凡そ1000万人、負傷者は2000万人を出した。戦闘に巻き込まれた民間人の死者数も700万人にも上り、米国の軍隊によって持ち込まれたスペイン風邪は疲弊した人々の間に広がり、この感染によって死亡した人々は4000万人ともいわれる。

一方、敗戦国ドイツに課せられた賠償金は、経済学者のケインズやウィルソン米大統領の批判を浴びながらも、1320億金ドイツ・マルクという途方もないものとなった。これが第2次大戦の遠因ともなる。

南スラヴ民族としての統一国家が建設される

戦勝国となったセルビアは、条約によってスロヴェニアとクロアチアおよびボスニアを包摂して1918年に「スロヴェニア・クロアチア・セルビア人王国」を建国し,セルビア人のアレクサンドル・カラジョルジェヴィチが摂政に就任するがやがて国王となり立憲態勢を尊重すると宣言する。しかし、次第に独裁体制を強め、29年には議会を解散させて独裁体制を固めて「ユーゴスラヴィア王国」と改めた。

ユーゴスラヴィア王国が同じ南スラヴに属する民族で成立したとはいえ、ハプスブルク帝国に600年にわたって支配され、文化や経済的結び付きを強く持っていたスロヴェニアとクロアチアは、王国の中でも異端であり続けた。

クロアチア人のアンテ・パヴェリチは当時勃興していたファシズムに傾倒し、ファシスト・グループ・「ウスタシャ」を結成し、王国政府の弾圧を受けると本拠をイタリアに移し、ユーゴスラヴィア王国をテロリズムによって打倒すると宣言した。そして1934年にカラジョルジェヴィチ国王がフランスのマルセイユを訪れると、ウスタシャはバルトゥ・フランス外相ともどもカラジョルジェヴィチ国王を暗殺する。このウスタシャの行動が、第2次大戦におけるユーゴスラヴィア王国内の分裂をもたらすことになる。

ドイツではナチスが台頭し第2次大戦を引き起こす

ドイツでは第1次大戦後の処遇に不満を抱くものたちを巧みに組織したヒトラーが台頭していた。ヒトラーはナチ党を足場に1933年1月に首相に就任する。すると、直ちに国会を解散。多数党を形成すると、3月にいわゆる「全権委任法」を制定して憲法を無効化した。そして、同月には早くもダッハウに最初の強制収容所を建設し、反ナチの姿勢を示した者を収容し始める。7月にローマ教皇庁との間に政策協約を結ぶと、10月には国際連盟とジュネーブ軍縮条約から脱退して軍備増強を始めた。

翌34年1月に、ポーランドと不可侵条約を締結。7月にはナチ党員がオーストリアのドルフース首相を暗殺。8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領を兼任して総統と称した。35年には、ザール地方を編入し、ユダヤ人の公民権を剥奪。36年には、ヴェルサイユ条約とロカルノ条約を廃棄してラインラントに進駐。さらに、独・伊の枢軸秘密協定を結び、日独防共協定を締結する。37年には、スペインのフランコ反乱軍に加担してゲルニカを空爆した。そして、軍首脳部と将来の戦争計画を密議する。38年になると、ヒトラーは国防軍最高司令官に就任。3月にオーストリアに親ナチのザイス・インクヴァルトを首相に就任させ、3月にナチス・ドイツ軍を進駐させて合邦化。9月にはズデーテン地方の処遇のために英・仏・伊・独によるミュンヘン会談を開かせ、ドイツに併合することを列強に承認させた。

39年に入るとハンガリーと防共協定を結び、チェコスロヴァキアにナチス・ドイツ軍が進駐して占領。8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。

これに対し、英・仏は9月3日にドイツに宣戦を布告し、英国は大陸派遣軍を送ったが有効な戦線を構築できないでいた。それを見透かしたナチス・ドイツは、40年4月にはデンマークに進駐するとともにノルウェーにも侵入し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領。英国の大陸派遣軍を仏領ダンケルクに追いつめて撤退させた。そして6月にはフランスの要塞マジノ線を回避する形でフランスの防衛戦を突破してパリに入城し、ヒトラーはエッフェル塔を背景にして勝利を宣言した。

ヒトラーはこののち英本土への上陸を企て「海獅子作戦」を発動するが、英国の海軍力と空軍力に阻まれ、それを実現することは当面困難と見た。そこで、ソ連を植民地化してその物量をもって英国への再侵攻計画へと転換する。それが40年12月ころには対ソ戦「「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。

バルバロッサ作戦を実行に移すためには、産油地帯へのアクセスおよび軍需物資の調達地域の拡大と侵攻ルートを安定化させる必要があるとヒトラーは考量した。そのためにはバルカン諸国の中で未だナチス・ドイツ同盟に加盟していないユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配下に置く計画を立てる。しかし、ギリシア王国には英国の海上を通じた支援の手が伸びており、同盟に加盟させることは不可能と見られた。そこで、ギリシア侵攻作戦である「マリタ作戦」を立案する。

一方のユーゴスラビア王国は威しと甘言で41年3月25日に同盟に加盟させることを受け入れさせる。ところが、第1次大戦で敵対したドイツと同盟をくむことを良しとしない市民と軍部の一部がクーデターを起こし、同盟から離脱するよう要求する。狼狽した王国政府はドイツに対し条約は有効だと弁明するが、ヒトラーはこれを受け入れず、ギリシア侵攻作戦である「マリタ作戦」をユーゴスラヴィアにも拡張適用し、4月6日にナチス・ドイツ同盟軍のイタリア、ハンガリー、ブルガリアとともにユーゴスラヴィアとギリシアに侵攻した。ユーゴスラヴィア王国は11日間、ギリシアは14日間で同盟軍に屈服した。ユーゴスラヴィアが11日間で占領された背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響下にあったスロヴェニアとクロアチア人で編制された第4軍と第7軍がナチス・ドイツとの戦闘を拒否したことがあった。

ドイツはスロヴェニア北部とセルビアおよびモンテ・ネグロを占領し、イタリアはスロヴェニアのリュブリャナから南半分とダルマツィア地方とコソヴォを支配下におき、ハンガリーはヴォイヴォディナを獲得し、ブルガリアは歴史的な係争地であるマケドニアを確保した。ユーゴスラヴィア王国政府とギリシア王国政府はともにロンドンに亡命政府を樹立する。

ナチス・ドイツを歓迎したクロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャ

スロヴェニアとクロアチアはナチス・ドイツの侵攻を大歓迎して無血入城させ、クロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャがナチス・ドイツの保護下に傀儡国家「クロアチア独立国」を設立した。ウスタシャを創設したアンテ・パヴェリチは亡命先のイタリアから帰還し、ヒトラーを模倣して総統を僭称した。そして、カトリック教徒のクロアチア民族をドイツ民族と同じアーリア人種と称し、セルビア正教徒のセルビア人を異教徒・異民族として国家最大の敵と位置づけて排除の対象とした。

クロアチア独立国の版図はスロヴェニアの一部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含む。

一方ユーゴスラヴィア内の抵抗組織として、王国軍の残党である「チェトニク」と、チトー率いる民衆の武装勢力である「パルチザン」が組織された。チェトニクは結成当初はナチス・ドイツと戦うと宣言したがナチス・ドイツから「ドイツ兵1人を負傷させたらセルビア人50人を殺し、ドイツ兵1人を殺せばセルビア人100人を殺す」と脅されると、同盟軍への抵抗戦を留保して内部領域争いに転じた。チトー率いるパルチザンは、ナチス・ドイツのソ連侵攻作戦に合わせるようにしてゲリラ戦を開始する。

ナチス・ドイツの対ソ連バルバロッサ作戦は失敗に終わる

バルバロッサ作戦はナチス・ドイツ軍300万、同盟軍250万を合わせて550万を超える兵員を動員して41年6月22日に発動された。

ソ連のスターリン書記長は猜疑心の強い男で、自らの地位を脅かす虞のある者たちを大量に処刑するかシベリアの収容所送りにしていた。その範囲はソ連赤軍の将軍や司令官にも及び、元帥を含むおよそ2万の将兵を反逆者として処分していた。そのため、ソ連赤軍の戦闘力は著しく弱体化していた。この自国民を信頼していなかったスターリンが、不可侵条約を結んだにしても西ヨーロッパの大半を占領下に置いたヒトラーを信頼したのは謎である。当然、500万を超える軍隊が国境地帯に集結していたのだから、その情報は複数の機関からもたらされていた。しかし、その情報を謀略だとして切り捨て、現地の部隊にはドイツを刺激するなとの指示まで出していた。

このような中で行なわれたナチス・ドイツ軍の侵攻は緒戦で大戦果を挙げることになる。ソ連赤軍は迎撃態勢が整わないまま敗走を重ね、9月にはナチス・ドイツの北方軍にレニングラード(サンクト・ペテルブルク)を包囲され、南方軍にウクライナのキエフを占領され、中央軍にはベラルーシ(白ロシア)のミンスクを攻略されてモスクワ近郊にまで迫られた。ソ連は政府機関や産業施設をウラルなどの後方に移動しなければならないほどに追いつめられたのである。

この時期、在日ドイツ大使館の要員となっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが日本軍はソ連に侵攻することはないとの情報をソ連に向けて送信した。これを目にした政府高官がスターリンを説得して対日戦に備えてシベリアに配備していた部隊を呼び戻し、モスクワ防備と反撃に充てた。

41年9月には米・英・ソの会談が持たれ、米国が英国への支援のために41年3月に制定した「武器貸与法」をソ連にも拡張適用をすることで合意する。この、米国からソ連への軍需物資の搬入ルートには北海や黒海、そして千島列島の海峡などが使われた。

クロアチア独立国の政権は同じスラヴ民族の虐殺に奔る

この間に行なわれたナチス・ドイツのユーゴスラヴィアにおける物資収奪とユダヤ人やセルビア人への虐殺は凄まじいものであったが、それに輪をかけて少数民族の虐殺を実行したのがクロアチア独立国の「ウスタシャ政権」であった。ウスタシャ政権の人種問題担当のブダク教育大臣は、クロアチア独立国に居住している200万人のセルビア人の3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺すると言明した。ウスタシャ政権はその方針に沿って強制収容所を各地に建設し、セルビア人やロマ人(ジプシー)やユダヤ人など少数民族を収容し、虐殺した。その数は50万人から60万人に達するといわれている。そのあまりの残虐さに、ナチス・ドイツ親衛隊・SSの高官は占領政策に波及することを惧れて直接抗議するとともに、ヒトラーに対して野蛮な行為を諫めるよう進言したほどであった。

ヒトラー総統の自殺によってナチス・ドイツは崩壊

42年8月、ナチス、ドイツの南方軍は局面を打開するために油田地帯に通じる象徴的な都市であるスターリン・グラードの占領を目指す作戦を発動した。しかし、戦線が延びきったために物資の補給がままならないことと冬期戦への備えがなかったことなどから、逆に43年1月に9万人の捕虜とともに降服に追い込まれてしまう。さらに43年7月に行なわれたクルスクの戦車戦でも勝利を得ることができなかったばかりか、スターリン・グラードの攻防戦に敗北したことによってレニングラードの包囲戦が逆包囲を受けることにもなり、もはやナチス・ドイツの東方戦線における勝利は見込めない状態となった。

連合国はパルチザンを支援してバルカンにおける同盟軍を追いつめる

チャーチル英首相はナチス・ドイツが東方戦線に転じても、西部戦線を構築せず、中東の油田地帯の権益を優先して地中海域における反攻作戦を優先させていた。英政府は当初、ロンドン亡命政府の管轄下にあるチェトニクを支援していたものの、チェトニクがナチス・ドイツとの抵抗戦を抛棄しているのを見て、43年5月にパルチザンに軍事使節団を送る。英国の軍事使節団は、命の危険にさらされながらもパルチザンと行動をともにしてパルチザンが果たしているゲリラ戦の有用性を把握し、それをチャーチル英首相に送った。この間イタリアは国内の反乱が起こったこともあって43年9月に降服する。

チャーチル英首相は43年11月に開いた英・米・ソ首脳による「テヘラン会談」において、パルチザンを支援することの有効性を提案する。米・ソ両首脳の承認を得たチャーチル英首相は直ちに援助物資をパルチザンに届けるとともに英国軍のパラシュート部隊をも派遣した。連合国の支援を受けられるようになったパルチザンは創設時に8万人にすぎなかった構成員を次第に増大させ、やがて80万人を超えるほどに増強し、ナチス・ドイツ軍の7次にわたる猛攻にも耐え抜き、ナチス・ドイツの高官をして「チトーのような不屈の将軍が1人でもいれば」と賛嘆させるほどの抵抗戦を展開した。

ダンケルクで追い落とされてから4年余りのちに連合国はノルマンディ上陸作戦を発動

連合国は英軍がダンケルクから追い落とされてから4年余りを経た44年6月にようやく「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動して西部戦線を構築した。そして、8月にはパリを奪還する。西部戦線が構築されたことに呼応したソ連赤軍は東部戦線で大攻勢に転じ44年8月にはルーマニアのブカレストとチェコスロヴェキアのプラハを陥落させ、9月にはブルガリアのソフィアを奪還した。こうして、ナチス・ドイツは東西両戦線で次第に追いつめられていくことになる。

ここに至ってソ連軍はようやくユーゴスラヴィアのパルチザンと接触した。パルチザン率いるチトーは、ソ連が大戦開始時の39年にフィンランドに侵攻してその一部を占領したことに不信を抱いており、ソ連軍がユーゴスラヴィア領域に入域するに際し、任務が完遂されたのちには撤収するという条件を付けた。そして44年10月に共同作戦でセルビアのベオグラードを奪回する。ソ連赤軍はユーゴスラヴィアからナチス・ドイツ同盟軍を排除すると、約束に従ってユーゴスラヴィアから撤収した。

ヒトラーが敗北を自覚して自殺したことでナチス・ドイツは崩壊する

ソ連軍は45年4月に入るとベルリンの攻撃を開始する。ヒトラー・ドイツ総統は敗北を自覚し、4月30日に自殺。後継者のデーニッツ提督が1945年5月8日に降服文書に署名したことによって、第2次大戦における欧州戦線は終結した。

第2次大戦における欧州戦線の兵員の動員数は1億人近くに及び、兵員の死者数はおよそ2500万人、民間人の死者数は5000万人。そのうちドイツの兵員の死者数は550万人で民間人の死者数は300万人。ソ連の兵員の死者数は900万人で民間人の死者数は1500万人を超えたといわれる。

敗者となったクロアチア独立国のウスタシャはディアスポラとなる

ナチス・ドイツの敗北に伴い、クロアチア独立国を建設したクロアチアのウスタシャ政権の主立った者たちは各国に逃亡し、ディアスポラとなった。多くは敗戦後の混乱状態にあったドイツに入国した。そして、ナチス・ドイツ時代の対ソ諜報機関が米国の政治的思惑で存続することになった「ゲーレン機関」などと関係を持っただけでなく、政界や財界、学界やジャーナリズムなどにも食い込んで活躍し、ドイツの外交政策にも影響を及ぼすようになっていった。また、各国に逃亡したクロアチアのウスタシャの残党は、1970年代前後にユーゴスラヴィア連邦の在外公館を襲撃し、旅客機や列車を爆破し、映画館に爆弾を仕掛けるなどでユーゴ連邦への破壊工作を行なう。

コミンフォルムから追放されたユーゴ連邦を融資攻勢で西側陣営に引き寄せる米国

ユーゴスラヴィアは大戦後の1946年に憲法を制定して王制を廃し、社会主義制度を採用した。そして社会主義圏の一員として戦後復興に取りかかり始めた。しかし、戦後処理の一環としてイタリアとトリエステの領有を争い、ギリシアの人民戦線派への支援を継続し、ブルガリアと「バルカン連邦」構想を提唱するなど独自の外交を展開したことがソ連指導部の忌諱に触れた。1948年に開かれたコミンフォルム第2回大会においてユーゴ連邦が反社会主義的な行動を取ったとして除名処分にした上で、経済制裁を科した。ユーゴ連邦は、この社会主義圏の敵視政策によって経済的困窮に陥る。

これを見た米国を中心とする西側諸国はユーゴ連邦を自由主義陣営に引き込めると分析し、米英仏は共同で融資攻勢に踏み切った。ドイツは自国の復興のために、この初期の融資団には加わっていない。ユーゴ連邦は、この西側の融資によって経済的破綻を免れるが、これ以来西側経済圏に取り込まれ、借款に依存するようになって行った。ドイツは戦後の奇跡の復興を成し遂げると、西側の経済圏に取り込まれたために社会主義国としては開放的だったユーゴ連邦のかつての支配地域だったスロヴェニアやクロアチアに経済的影響力を及ぼして行くようになる。

社会主義国としてのユーゴスラヴィア連邦の崩壊は西側の既定政策

ユーゴ連邦は西側の融資を友好関係にあるための経済的活動だと捉えていた節がある。しかし、社会主義圏を崩壊させることは西側諸国共通の一貫した目標であり続け、ユーゴスラヴィア連邦はその最も容易な対象と見られていた。

1978年に開かれた社会学会でブレジンスキー米大統領補佐官が披瀝したように、ユーゴスラヴィア連邦の「民族主義を煽り、金融によって経済的・政治的圧力手段を形成し、消費者的メンタリティを助長し、メディアや映画など文化的な領域に浸透させ、連邦内に自由主義的な雰囲気を醸成して社会主義を放棄させる」ことにドイツも加担した。ドイツの連邦情報局・BNDはゲーレン機関時代に築いた米国CIAとの特殊な関係から、互いに協力しあいながらユーゴ連邦の内部情報を収集するとともに、工作を行なった。ドイツにはウスタシャの残党などの移住者が多数存在したことから、クロアチアとスロヴェニアの民族主義者を培養することにさほどの困難はなかった。

ウスタシャ政権時のセルビア人虐殺について、50万人ではなく3万5000人にすぎないと修正するなど偏執的ともいえる民族主義者のトゥジマンは、世界の各地に散ったクロアチア人ディアスポラを訪ね歩くとともに、88年にドイツを訪問してコール・ドイツ首相に会っている。何が話し合われたかは明らかではないが、ドイツとクロアチアとの関係を強化する方策について話し合われただろうことは推察できる。トゥジマンは、のちにクロアチアの大統領に就任することになる。

ドイツのユーゴ連邦への干渉はスロヴェニアおよびクロアチアを経済圏に囲い込むのが目的

89年11月、突如ベルリンの壁が崩壊し、それを契機に東欧の社会主義圏が雪崩を打つように体制を転換する。西ドイツのコール政権は直ちに東西ドイツの再統一に乗り出し、東ドイツの議会選挙に露骨に干渉して速やかな再統一を綱領とする政党を勝利に導き、壁崩壊から1年も経ない90年10月には東西ドイツの再統一を成し遂げた。統一には莫大な資金が投じられたが、その費用を賄うために通商圏の拡大を目指し、ポーランド西部、チェコ共和国、そしてスロヴェニアとクロアチアを含むドイツの経済圏の拡張を企図する。スロヴァキアをドイツ経済圏に組み入れなかったのは、スロヴァキアは経済的、文化的にハンガリー圏と深く結びついた地域だったからである。ドイツが中立国を自称しているオーストリアを引き込み、バチカン市国とともにスロヴェニアとクロアチアの分離独立を強引な手法で推進したのは、バチカンにとっては両国がカトリックの信仰国であったことから影響圏の拡大が見込まれること、ドイツにとっては両国が伝統的に経済圏の一部だったからである。

ドイツと協調したオーストリアのモック外相は、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言する直前の91年6月19日に開かれたCSCE・全欧安保協力会議の外相協議会に、スロヴェニアのルペル外相をオーストリア外交団の一員に加えて会議に出席させるという、ユーゴ連邦の代表団を後目にした露骨な国際外交への干渉を行なった。ともあれ、このCSCEの外相会議では取り敢えずユーゴ連邦の統一を支持するとの声明が採択された。

スロヴェニアとクロアチアはドイツとバチカンの支援をあてにして一方的な独立宣言を発する

しかし、ドイツやオ-ストリアおよびバチカンの支持が得られるとの確信を抱いていたスロヴェニアとクロアチアは、CSCE外相会議直後の6月25日に一方的に独立宣言を発した。武力紛争を予期して増強していたスロヴェニア防衛軍は、独立宣言を発すると同時にユーゴ連邦政府所管の入管事務所や関税事務所など30数ヵ所を襲撃して占拠する。通常の国際関係では、政治交渉によって連邦を形成していた施設の処遇を処理した上で独立を宣言する。それを省いて独立宣言を発したということは、交渉ではなく武力による独立を指向したということを意味する。このため、スロヴェニアとクロアチアに軍管制によって駐屯していた連邦人民軍は微妙な立場におかれることになった。連邦人民軍の任務は国防とともにユーゴ連邦の政治体制を護ることにあったからだ。

連邦政府は所管する施設の管理権限の回復を図るために、連邦人民軍2000人をスロヴェニアに派遣した。しかし、連邦軍は混成部隊であり、スロヴェニアと本格的な戦闘をする意思は希薄であった。それに対するスロヴェニア防衛隊は、独立を武力で勝ち取るのだとの意欲に満ち溢れた兵士3万5000人が迎え撃ち、連邦人民軍の兵士を包囲して攻撃を加えた。彼我の兵力と意欲の差から勝敗は明らかであり、10日間でスロヴェニア共和国側の勝利に終わる。欧州のメディアはこの戦闘をあたかもユーゴ連邦人民軍が侵略したかのように報じた。これが、スロヴェニアのいわゆる10日戦争である。

独立を宣言したもう一方のクロアチア共和国内でも、共和国防衛軍と連邦人民軍やセルビア人住民との間に小競り合いが始まることになる。クロアチア共和国側は、駐屯していた第4軍管区のユーゴ連邦人民軍を侵略軍と決めつけ、兵舎への電気・水道などの供給を止め、包囲して銃撃し、武器をおいて撤退せよと迫った。ユーゴ連邦人民軍は包囲された第4軍管区の部隊の包囲を解除するために新たに部隊を送り込むが、それがクロアチア防衛隊との間の武力衝突を激化させた。

ドイツとバチカンの拙速な分離独立の煽動工作が内戦を誘発した

ECの主要国の英仏はユーゴ連邦に自主管理社会主義制度の放棄を求めていたものの、戦乱は避けたいと考えていた。そこでECは91年7月、ユーゴ連邦とスロヴェニアおよびクロアチアを招いて「ブリオニ合意」を受諾させる。ブリオニ合意の内容は、「1,両国は独立宣言の実施を3ヵ月間凍結する。2,凍結中は連邦憲法および連邦当局の管轄下に税関を管理する。3,国境警備は連邦人民軍が行なう。4,ユーゴ連邦の将来像については協議を続ける。5,ECの停戦監視団を受け入れる」ことなどである。ECが両国に3ヵ月の独立宣言凍結を受け入れさせた理由は、武力衝突を鎮静化させてその間に政治解決を模索することにあった。しかし、ドイツとバチカンは3ヵ月の凍結期間を冷却期間程度にしか捉えなかった。

ブリオニ合意を不満としたゲンシャー・ドイツ外相は8月にECに緊急会議を開かせ、両国の独立承認を議題に載せるように要請した。しかし、ECはこれを受け入れなかった。そして、ECは9月に「ユーゴ和平会議」を設置してハーグで会議を開くことにする。この間、クロアチアではクロアチア共和国防衛隊とユーゴ連邦人民軍およびセルビア人住民との間で武力衝突が頻発していた。和平会議の議長の任に就いたキャリントン英元外相は、和平会議の意図するところに従って誠実にクロアチア内の武力衝突を解消するために尽力する。

権益擁護のために独断専行したドイツとバチカン市国

一方ドイツは、凍結期間が過ぎるとスロヴェニアとクロアチアの独立承認のための工作を強めた。11月に開かれた連邦議会において、コール・ドイツ首相は「EC諸国は間もなくスロヴェニア共和国とクロアチア共和国を国家として承認するだろう」と演説し、スロヴェニアとクロアチアの民族主義者を鼓舞する。ドイツは東西ドイツの再統一で経済が疲弊したことから、経済圏の拡張先としてスロヴェニアとクロアチアの独立を推進したのである。

ペレス・デクエヤル国連事務総長は紛争が拡大することを危惧し、ゲンシャー・ドイツ外相に対してスロヴェニアとクロアチアの早期承認を再考するようにとの書簡を送付した。ゲンシャー外相は、「独立を希望する諸共和国の承認を拒否すれば、ユーゴ連邦人民軍による武力行使がさらに拡大することは必至である。パリ憲章によればヨーロッパの国境は不可侵であり、武力による変更はできないとされている点を思い起こしていただきたい」と返答した。ドイツは、スロヴェニアがユーゴ連邦に統合されるまで国家を形成したことはなく、クロアチアが武力による国境の変更を企図して独立を確保しようとしている矛盾を無視し、あたかも両国のユーゴ連邦からの分離独立を承認すれば、平和が訪れるかのような無思慮な政治見識を披瀝して自国の国益追求の意図を隠蔽したのである。その陰で、スロヴェニアとクロアチアの防衛隊などには不要になった旧東ドイツの兵器や高性能の武器まで供与していた。

バチカン市国は西欧諸国の大使を招き両国の独立承認を働きかける

同じ91年11月、バチカン市国のソダノ国務長官は、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オーストリアの大使を招き、スロヴェニアとクロアチアを1ヵ月以内に独立国として承認するよう要請した。ドイツは、それを受ける形でユーゴ連邦との交通・運輸協定を停止し、12月23日にEC諸国に先駆けてスロヴェニアとクロアチア両国の分離独立を承認した。ドイツの対応で特徴的だったのは、当時のヘルムート・コール首相のキリスト教民主同盟・CDU党首やゲンシャー外相の自由民主党の与党だけでなく、野党だったドイツ社会民主党・SPDも緑の党も、率先してスロヴェニアおよびクロアチアのユーゴスラヴィア連邦からの分離独立の承認を推進したことにある。東西ドイツ再統一の権益がドイツの政治家たちの認識をユーゴ連邦解体一色に染めてしまったのである。それがどのような結果を招くかについて、ドイツのあらゆる分野の人たちが思い及ばなかったのは、人間が如何にそのときの雰囲気に左右されるかを示している。

これに同調したバチカン市国は翌92年1月13日にECに先行して承認する。これに引きずられるようにしてEC諸国および周辺諸国は15日にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認することになった。このドイツとバチカン主導の稚拙な功利的外交手段によるスロヴェニアとクロアチアの独立承認が、ボスニアをも引き込んだ悲惨なユーゴスラヴィア連邦解体戦争を誘発することになる。ドイツはこの両国の独立承認にあたって、クロアチアのセルビア人など少数民族の去就に配慮した気配はない。

のちにデュマ・フランス外相は、「ユーゴ紛争を複雑にしたドイツの責任は大きい」と述べ、さらに当時のゲンシャー・ドイツ外相の強引な説得工作によって「EC諸国として、両国の独立承認に足並みを揃えざるを得なかった」と語っている。

ユーゴ連邦解体戦争に関するドイツのメディアは偏向に染められていた

当時のドイツ国内は、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争中ほとんどセルビア批判一色に染められた。それにはメディアの姿勢が多大な影響を与えていた。リベラル左派の「シュピーゲル」紙は、当初はユーゴ連邦の各民族の動向を批判的な視点で報じていた。しかし、91年7月8日号でスロヴェニアとクロアチアの分離独立を推進する方向に転換すると、ユーゴスラヴィアの連邦体制を維持しようとしたセルビア共和国に対して極端な批判的論調の記事を掲載するようになる。保守的右派の主要紙である「フランクフルター・アルゲマイネ」紙はかねてからセルビア批判を繰り広げていたから、「シュピーゲル」紙の転換によってドイツ国内の主な報道機関の論調はセルビア批判一色に染められることになった。僅かに地方紙に、単純な二元論ではない意見が掲載されることはあったが、これら地方紙はドイツの言論界に影響を与えることはなかった。このメディアの事情が、ドイツでの一般人はもとより知識人や学者や政治家たちの認識をも誤らせることになったのである。

ドイツ政府は、米国のPR会社ルーダー・フィンが流したセルビア人勢力が「強制収容所」を設置しているというプロパガンダを信じ、確認するために偵察機を飛ばすということまでしている。もとより、この偵察飛行で「強制収容所」らしきものが発見されることはなかった。

キャリントン和平会議議長はドイツの対応を批判

ユーゴ連邦解体戦争の火付け役を演じた強硬派のゲンシャー・ドイツ外相は、ドイツ経済圏にスロヴェニアとクロアチアの取り込みが確定したことでドイツの役割は終わったと考えたのか、ボスニア内戦が激化の徴候を見せ始めた92年5月に辞任する。 

91年8月からEC和平会議の議長を務めたキャリントン英元外相は紛争を抑制するべく尽力したが、ドイツが拙速にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認したことによる紛争がボスニアにも飛び火し、収まる見通しが立たなかった。彼は、92年8月のロンドン拡大和平会議の直前に抗議の意を込めて辞任する。キャリントンは、のちに「旧ユーゴスラヴィア内戦の原因をつくったのはドイツである」と厳しく批判している。ゲンシャー辞任後に外相に就任したキンケルは、スロヴェニアとクロアチアの武力衝突に対する反省からか、ボスニア内戦に関しては「連絡調整グループ」の一員として参加し、主導的な姿勢は見せなかった。しかし、ボスニア紛争はヨーロッパの問題だとの意識を強く持っており、のちの米国の引き回しに対しては批判的な視点で見ていた。

 クリントン米政権はセルビア悪を前提にボスニア内戦を激化させた

ボスニア内戦の発端は、イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長が、スロヴェニアとクロアチアの独立宣言に刺激を受けてセルビア人住民が反対する中、主としてムスリム人とクロアチア人によるユーゴ連邦からの分離独立を求める住民投票を2月に強行したことにある。内戦の様相は主にセルビア人勢力とムスリム人勢力としてのボスニア政府との間で支配領域の争奪が行なわれたが、クロアチア人勢力もこれに絡み、三つ巴の内戦となっていた。

当時のブッシュ米大統領は、当初ユーゴスラヴィア解体への介入に慎重な姿勢を示していたが、92年の大統領選において民主党のクリントン候補がユーゴ問題へのブッシュ大統領の取り組みを批判したことによってこの問題が政争の具と化した。大統領選に勝利したクリントン大統領は、93年1月に就任すると単純なセルビア悪説を採用して「新戦略」を策定し、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力に「ボスニア連邦」を形成させ、それにNATO軍を絡ませてセルビア人勢力を征圧する統合共同作戦を実施させる計画を策定した。1年半余りかけて実行したこの戦略は米国の思惑取りに進行した。

デイトン和平交渉ではドイツは何らの役割も与えられなかった

ボスニア・セルビア人勢力へのNATO軍の空爆後に行なわれたボスニア紛争の和平交渉は、95年11月に米国のオハイオ州デイトンの空軍基地に当事者と「連絡調整グループ」の関係者が集められ、米国主導で進められた。ドイツの代表団も参加したものの、ドイツには何らの役割も与えられなかった。後にドイツ外務省は、アメリカ政府が専横的にデイトン和平交渉を引き回したことに対して批判的文書を公表した。「1,ヨーロッパの問題がアメリカで行なわれた。2,米国のみが当事者と交渉し、コンタクト・グループは文書を見せられただけだった。3,セルビア人勢力の代表は交渉から排除され、すべてミロシェヴィチが交渉していた。そのため、ボスニア・セルビア人勢力の代表は合意文書の署名を拒否した」などと批判した。

批判は当を得ているとしても、ドイツが性急にスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認したことによるボスニア内戦を誘発したという事実に対する自己批判はなかった。ドイツが無思慮な功利的関与をしなければ、あのような悲惨なユーゴ連邦解体戦争は起こらなかったことは確実だからである。ドイツは第2次大戦における事象への反省から外国に軍隊を派遣することには慎重な姿勢を見せていたのだが、ユーゴ連邦解体戦争への自らの誤った外交政策を反省することなく、この経験を経ると国連の平和維持活動などに積極的に参加するようになる。

94年に連邦憲法裁判所は、「NATOの域外においても、国連活動であればドイツ連邦軍を派遣することは原則的に認められる」との判断を示した。それ以来、人道的支援やNATO軍の後方支援ばかりでなく、のちの国連安保理決議を経ないコソヴォ紛争への介入に見られるように戦闘行動にも積極的に派兵するようになっていった。憲法裁判所の判断は無視されるようになったのである。

好戦的なクリントン米大統領とブレア英首相

コソヴォ紛争は、コソヴォ自治州の分離独立を目指したコソヴォ解放軍・KLAを結成した若者たちがユーゴ連邦解体戦争における西欧諸国の対応を見て戦闘行動こそが国際社会の耳目を引きつける最良の手段と分析して武力闘争を展開した低強度紛争であった。

クリントン米政権は、ボスニア内戦をNATOの軍事力を使って収束させた1年後の1996年6月にミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領をジュネーブに呼びよせ、コソヴォ自治州に「情報・文化センター」の設置を認めさせてコソヴォ問題への関与を明示した。情報・文化センターは米CIAの活動拠点とするところだからである。

一方、英国も武力介入には慎重な姿勢を示してきたが、労働党のブレアが首相になるとユーゴスラヴィア紛争の背景に深甚な考慮をすることなく、浅薄な人道論を掲げてユーゴスラヴィア解体戦争にのめり込んでいった。それがコソヴォ紛争に伴う「ユーゴ・コソヴォ空爆」の背景である。

NATOにとって予定調和のユーゴ・コソヴォ空爆

99年3月24日に始められたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆としての「アライド・フォース作戦」は、米英が主導した形ばかりにされた「ランブイエ和平交渉」でオルブライト米国務長官が介入してユーゴ連邦が拒否するようにし向け、占領条項ともいえる「軍事条項」を突きつけて実行したものであった。この苛烈なNATOの軍事作戦は、国連安保理の決議を回避して行なわれたが、あきらかに国連憲章に違反した行動であり、地域の軍事同盟であるNATO軍が、国連安保理を無視して世界規模での軍事行動を展開する端緒ともなった。2001年のアフガニスタン戦争および2003年に米・英・豪有志軍のみで実行されたイラク戦争も安保理決議を回避して行なわれることになる。これが中東地域を不安定にする契機ともなる。

判断力を失ったドイツの知識人と政治家たち

このときドイツ連邦軍は、第2次大戦後はじめて「国連活動であれば許容される」という連邦憲法裁判所の判断を逸脱し、安保理決議を回避したNATO軍の域外での軍事作戦であるユーゴ・コソヴォ空爆の実戦に参加した。この空爆の最中の5月に与党だった緑の党は臨時大会を開き、NATO軍の空爆とドイツ連邦軍の加担について激しい議論を展開した。大会では、党の執行部からはフィッシャー外相の外交努力を評価する意見が出されたが、批判派からは空爆の即時停止要求が出されて激しく対立し、フィッシャー外相に赤い塗料が投げつけられるという事件が起こった。しかし結局、執行部が提案した「期限付き空爆停止勧告決議」が444対318で採択され、ドイツは空爆に加担する。ドイツ社会民主党・SPDの党首のシュレーダー首相が「空爆は徐々に効果を上げており、現時点で戦略を変える必要はない」と述べる程度の認識だったのである。ドイツ・キリスト教民主同盟・CDUは空爆の推進派だったから、もはやドイツ国内で軍事行動に歯止めをかける有力な政党は存在せず、ドイツ連邦軍はNATO軍の一員として空爆への参加を続行した。

ナチス・ドイツへの反省を逆手に取ったドイツ

元吉瑞枝熊本女子大教授はこのドイツの対応について、批判的論考を月刊誌「情況」に寄稿している。それによると、「ドイツでは空爆に参加する最も有力な論拠として、自国が犯したアウシュヴィツの犯罪を、第2次大戦中ナチスによって攻撃されたユーゴスラヴィアに適用し、セルビアをナチスに、ミロシェヴィチをヒトラーに、セルビアによる被害者をアウシュヴィツの犠牲者に譬えるという論法が声高に語られるようになっていたのである。シュレーダー首相は『東西再統一後、ドイツが特別扱いされる理由は何もない』と述べ、フィッシャー外相は『自分が第2次大戦から学んだことは2度と戦争を繰り返すなということだけではなく、2度とアウシュヴィツを繰り返すなということでもあった』と語り、空爆は正しい戦争であるということにされた」と元吉は批判している。さらに元吉教授は政界の主立った者や知識人の動向にも触れ、「シュミット元首相やヴァイツゼッカー前大統領やドイツ民主社会党・PDSの一部はユーゴ・コソヴォ空爆に反対したが、キリスト教民主同盟・CDU/CSU、ドイツ社会民主党・SPD、緑の党の右派、68年世代や、反体制派たちは賛成して多数派を形成した。

知識人ではハーバーマス、ギュンター・グラス、エンツェンスベルガー、オクタビオ・パスなどが人道主義を掲げて空爆に賛成し、反対派のペーター・ハントケやディーター・フォルテなどが『平和は正しい戦争にまさる』と空爆反対の立場を主張すると、袋叩きに合う世界となった」と記述。「リベラル左派に位置するハーバーマスが空爆中の99年4月に『獣性と人間性』という論考を『ツァイト』紙に寄せた内容は『世界市民権』という新しい概念で、『このような介入は、武力によるものであっても、国際社会によって権限を与えられた、平和のための使節として理解されるべきものとなる』」との論述を展開したのに対し、「他者は裁いても自らは裁かれないこのような権力システムそのものを問うのが、ハーバーマスらのフランクフルト学派や68年代の思想の生命だったのではないか」と批判している。いわばヨーロッパの思潮の底流に自らを「正義」の位置に定め、それに当てはまらない他者を「悪」とする二元論的分析を適用するという過ちを犯したのである。

因みに、ドイツ連邦情報局・BNDは、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆の前に「空爆を始める以前、3月24日までのコソヴォでは、ユーゴスラヴィア警察によるアルバニア系住民への暴力行為がごく一部に見られただけであり、アルバニア系住民全体を対象とする『民族浄化』は存在しなかった」との報告をまとめている。これを政府関係者が見たかどうかは明らかではないが、この報告から導かれるのはいわゆる「低強度紛争」に該当する治安活動にすぎなかったというものである。にもかかわらず、ドイツ政府およびメディアや知識人といわれる人たちは、事実に基づかない論理でセルビア悪を唱え続けたのである。

このことの意味は、ヒトラーとアウシュヴィツの負の遺産を逆手にとって、それを再発させないためには軍事力を行使することも許されるという倒錯した論理が、ドイツ人の思考の主流になりつつあるということをこの事例は表している。

第2次大戦後最大の過誤を犯したドイツに反省は見られるか

ドイツは、ユーゴ連邦解体戦争において特殊な役割を果たしてきた。その起点となるのは東西ドイツの再統一に伴う経済圏の拡張を図るという功利的な側面としてのスロヴェニアとクロアチアを取り込む政策である。これとは逆の側面としてのナチス・ドイツ時代に他民族を迫害した経験からくる人道上の問題への転倒した反応である。メディアの報道の立脚点が一色に染まってしまったことがそれにあたる。ではドイツの知識人たちがほとんど同じような思考・論調になった原因は何か。この思想的背景には欧米の思潮の深奥に存在する二元論的・二項対立的思考がある。「善・悪」、「正統・異端」、「文明・野蛮」、正義は我にありとの思考様式である。西ヨーロッパは文明国であり、東ヨーロッパは野蛮な側面を内包した国々であるとの分析であり、もう少し拡大するとヨーロッパの文明に対しアジアやアフリカは野蛮な側面から脱し切れていないとの思潮である。ドイツはヒトラーのゲルマン民族優秀説による悲劇を経験していながら、この思潮から抜け出せていない。

軽くなったドイツの知識社会

ドイツは、ユーゴ連邦解体戦争を誘発した重大な責任を負っていることが明確であるにもかかわらず、ドイツ国内でユーゴ連邦解体戦争について深甚な反省がなされた気配がない。また、ドイツに唆されたとはいえ、EC・EUおよび米国がセルビア悪説を唱えて武力行使にのめり込み、ユーゴ連邦解体戦争の主役となって破壊行為に加担して行なった罪責も問われなければならない。ドイツだけの独立承認であれば、スロヴェニアやクロアチアおよびボスニアの民族主義者たちも、外部の支援をあてにした武力による独立闘争を抑制せざるを得なかったと考えられるからである。ドイツをはじめとするEC・EUおよび米国などのユーゴ連邦解体戦争への対応は国益優先にとどまっており、現時点での欧米の国家理性の到達点がこの程度のものであることを示している。

ドイツの軍事行動はさらに拡張してアフガニスタン侵略戦争へとのめり込む

ユーゴ連邦解体戦争における軽はずみな行為が、のちにNATOの条約の域外であるアフガニスタン戦争への派兵を容易にすることになる。NATO諸国は、2001年に始められたアフガンニスタン戦争において、米国が9・11事件でテロ組織に攻撃を受けたということが自衛権行使の正当化の理由にされ、加盟国が攻撃された場合は支援する責務があるとのNATO条約による集団的自衛権の履行を要請されて加担させられることになったからである。ドイツの当初の役割は国連安保理決議によるISAFの一員としてアフガニスタンの治安維持とされたがそれは名目であり、まもなくISAFはNATOの指揮下に入りその任務はタリバン掃討作戦へと拡大し、2021年8月までのおよそ20年間アフガニスタンにおける破壊と殺戮を行なうことになったのである。

ドイツが加担したコソヴォ独立国を図った主要なメンバーは犯罪者だった

NATOの空爆を引き込むことに成功したコソヴォ解放軍は、暫定政府を経て、2008年に独立を宣言し、欧米諸国はこれを承認した。独立国となった政府の要職を占めたのはコソヴォ解放軍の主要な一員であり、ハラディナイが首相となり、タチが大統領に就任した。しかしこの主要メンバーは、コソヴォ紛争中にセルビア人やロマ人およびコソヴォ解放軍の武力闘争に批判的だったアルバニア系住民やセルビア人およびロマ人などおよそ300人をアルバニアに拉致して殺害し、その臓器を売買するという犯罪を実行していた疑いが持たれていた。この嫌疑について、当時の旧ユーゴ戦犯法廷・ICTYの首席検事のカルラ・デル・ポンテが調査するよう命じたが、多数を占めていた米国人スタッフの沈黙の壁に阻まれ、ICTYはそれを闇に葬った。

しかし、後にスイス出身のマーティー欧州議会議員がこれを調査して欧州議会に持ち込んだことから、ICTYの後継組織の特別法廷がハラディナイとタチの審理を始めることになり、両者はコソヴォ政府の要職から辞任することになる。特別法廷の審理は2021年の段階では明らかになっていない。

ロシアのウクライナ侵攻の愚行に軍備増強で応じるドイツ

NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆を契機に軍備再編を成し遂げていたロシアは、2021年10月にウクライナとの国境地帯に大規模な兵員を集結させた。米政府は、この事態に警告を発しつつ12月に米・ロ会談を行なうが、ロシアのNATOの東方不拡大要求を議題として扱うことさえ拒否したために交渉は決裂した。するとロシアは、翌22年2月24日にロシア軍はドンバス地方のロシア系住民をジェノサイドから保護するためとの名目をつけて隣国ウクライナに軍事侵攻し、その日の内にウクライナの軍事施設83ヵ所をミサイルなどで攻撃した。このロシアの軍事侵攻に係わる米政府の警告について、ドイツは半信半疑だったように見える。そのため、当初はそれへの対処に戸惑いを見せたものの、やがて軍備増強を表明する。従来のGDP比1.5%だった軍事予算を2.0%に引き上げると宣言したのである。ロシアのウクライナ侵攻が愚行であることは論をまたないが、軍事行動に対して軍備増強で応える国家理性は信頼に値するものなのか。ドイツの今後のNATOにおける挙動は、歴史的過去を抱えるだけに注目に値する。

<参照; 国連の対応、EC・EUの対応、米国の対応、ソ連・ロシアの対応、NATOの対応>

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4,バチカン市国の対応

キリスト教が東西に分裂して成立したカトリック

バチカン市国はカトリック教徒の総本部である。ローマ法王庁のある中央の面積は、440平方メートルで世界最小国。ただし、他の地域に別荘や聖堂をいくつか所有している。国籍を有する人口は1000人足らずだが、法王庁の警備は伝統的にスイスの傭兵が行なっているため、この傭兵を含めると実際の住民はもう少し多い。一方、カトリックの信徒は全世界におよそ12億人いるといわれる。

初期のキリスト教は迫害の対象だったが、313年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教の布教を許可し、キリスト教はようやく公的な活動ができるようになる。330年にコンスタンティヌス帝がビザンツにローマ帝国を遷都し、392年にキリスト教をローマ帝国の国教とした。しかし395年、ローマ帝国が東西に分裂したため、ローマに教皇庁が置かれ、コンスタンティノーブルには総主教座が置かれることになった。そして1054年にはキリスト教そのものが東西に分裂し、ローマのキリスト教がカトリック教会と称し、コンスタンティノーブルのキリスト教が東方正教会あるいは単に正教会と称されるようになる。

バルカン諸国の多くは正教会に属したが、ハプスブルク帝国の支配を受けたスロヴェニアとクロアチアはカトリックの影響下におかれた。

1305年、教皇庁の内部抗争とフランス国王フィリップ4世との対立の後、フランス人の教皇クレメンス5世が選出されたことで、フランスのアヴィニヨンに教皇庁が移された。これは「アヴィニヨンの捕囚」といわれ、ローマに教皇庁が戻ったのは70年余りのちの1377年である。しかし、イタリア人の教皇とフランス人の教皇がそれぞれに選ばれて再び対立し、それを解消しようとして教会会議で新教皇を選出したことから3人の教皇が存在することになった。1417年、コンスタンツ公会議で他の教皇を廃位し、新しい教皇を選出したことによって39年にわたる分裂も解消した。それ以来、ローマ・カトリックはイタリア人が教皇を務めてきた。1452年、ビザンツ帝国の東方教会はローマ教皇が全キリスト教会の長であることを認めると表明した。

ところが翌53年、ビザンツ帝国はオスマン帝国の攻撃で崩壊してしまう。しかし、コンスタンティノーブル総主教座はオスマン帝国によって存在することを容認されたため、正教会としてオスマン帝国支配下のバルカン諸国への影響を保ち続けた。

キリスト教は3つの主要教派に分かれる

1517年、マルティン・ルターが免罪符の販売などを批判する「95ヵ条の論題」をローマ教皇に突きつけたことから宗教改革が始まる。1529年、ルター派諸侯と南ドイツの都市代表が「プロテウサチオ」を提出したことで、ルター派の宗教改革はプロテスタントと呼ばれるようになり、キリスト教の教派はカトリックと東方正教そしてプロテスタントと大きく3つに分かれることになった。キリスト教は激変を迎えたが、カトリックの総本山の教皇庁はローマに所領とともに存在し続けた。

1861年、細分化されていたイタリア半島に統一王朝のイタリア王国が建国されると、ローマ教皇庁との間に支配領域をめぐって対立が顕在化した。1870年にイタリア国王エマヌエーレ2世は国家統合を企図して教皇領となっていたローマ市を攻撃して陥落させた。しかし、教皇は王国とのすべての協定を拒否してバチカン宮に閉じこもってしまう。

第1次大戦後に、イタリアにファッシズムが台頭し、1922年にムッソリーニ内閣が誕生した。1929年、教皇庁はようやくムッソリーニ政権との間に「ラテラノ条約」を締結し、現在の「バチカン市国」が確定した。ラテラノ条約は、2つの議定書からなっている。「1,領土を確定する。2,カトリシズムをイタリアの国教とする。政府が財政の支援をする。聖職者の政治活動を禁止する」などが主な内容である。ラテラノ条約が成立すると、教皇はようやくバチカンでの閉じ籠もりを停止した。一方、ラテラノ条約にある聖職者の政治活動を禁止する議定書が守られることはなかった。そのためバチカン市国の機構は国家元首としての法王を頂点にして、聖なる宗教を司る部局と俗なる外交や政治を司る国務省以下9つの省と裁判所が設立された。現在、法王の下には180人前後の枢機卿団がおり、機構の主要な長を担当し、選挙権を保持する枢機卿がコンクラーベで法王を選出する。法王は終身制である。

ローマ法王庁は徹底した反共産主義を貫きナチス・ドイツを支持した

バチカン市国は徹底して反共主義を貫いてきた。1939年9月にナチス・ドイツがカトリック教国のポーランドに侵攻して第2次大戦を始めても、ナチス・ドイツが反共主義であるということをもって批判を控えた。

1940年、ナチス・ドイツは西ヨーロッパの大半を占領すると、英国への上陸作戦を試みた。しかし、このヒトラー・ドイツ総統の目論見は英国の海空軍による巧みな抵抗戦に遭い、実現は困難視された。そこで、ソ連を植民地化してその物量をもって再上陸作戦を実行する方針に転換する。そして、対ソ侵攻作戦に立案を命じる。それが「バルバロッサ作戦」として成案を見る。

ナチス・ドイツはソ連への侵攻を控え、地政学的な必要性と軍需物資の調達を容易にするためにバルカン全土を日・独・伊3国同盟の枢軸側に引き込むことを企図した。バルカン半島の中で同盟に加盟することを拒み続けたのはユーゴスラヴィア王国とギリシア王国である。ギリシアは、英国の海上からの支援を受けていたために加盟は見込めなかったことから、ギリシア侵攻計画である「マリタ作戦を」作成する。

一方のユーゴスラヴィア王国政府はナチス・ドイツの威しと甘言に屈し、41年3月25日に加盟を受諾してしまう。しかし、第1次大戦で敵国として戦ったドイツとの同盟に反発した王国軍の一部と市民が一緒になってクーデターを起こし、同盟条約の破棄を宣言した。狼狽した王国政府は、条約は有効であると弁明するが、ナチス・ドイツは4月6日にマリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用して同盟国のイタリア、ブルガリアおよびハンガリーとともにユーゴスラヴィア王国に侵攻して全土を占領した。 

カトリック教徒が多数を占めるスロヴェニアとクロアチアは、ナチス・ドイツの侵攻を大歓迎する。クロアチアでは、ファシスト・グループ・ウスタシャを創立したアンテ・パヴェリチが亡命先のイタリアから帰還し、ナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」を建国してヒトラーに倣い総統を僭称する。そして、その領域をスロヴェニアとボスニア・ヘルツェゴヴィナにまで広げた。パヴェリチ総統は、クロアチア人はドイツ人と同じアーリア人種であると称し、正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵対勢力と位置づけた。そして、3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺すると宣言してそれを実行に移した。このときのクロアチア独立国に殺害されたセルビア人は、50万人ともいわれる。

第2次大戦中にバチカンはクロアチアのウスタシャ政権を積極的に支持

バチカンは、クロアチアのウスタシャ政権のセルビア人をカトリックに改宗させる政策を歓迎し、クロアチアのカトリック教会に直接指示を与えるなどして政治に積極的に関与した。クロアチアのアロイジェ・ステピナツ・ザグレブ大司教は、パヴェリチがクロアチア独立国を建国した際、「神の祝福の表れ」と讃美し、クロアチア独立国の議会議員にもなった。そしてウスタシャ政権を積極的に支持するよう域内の各教会に回状を出した。多数の聖職者たちはその指示を受けてウスタシャに加入し、またウスタシャの部隊に従軍司祭を派遣した。クロアチア独立国に組み込まれたボスニア・クロアチア人のカトリック司教座も回状を出し、「アンテ・パヴェリチの戦いは、明らかに聖なる定めに従ったものである。クロアチア民族にとってセルビア人は最大の敵であり、ユダヤ人、フリーメーソン、共産主義者とならぶ悪の手先である」と記述した。

ナチス・ドイツの敗退後も逃亡者を支援したバチカン

1945年5月、ナチス・ドイツが降服したことで第2次大戦の欧州戦線は終わりを告げるとともに、クロアチア独立国も消滅する。すると、教皇庁は「ラットライン」なる逃亡支援組織を設置してアンテ・パヴェリチらウスタシャ政権の高官など多数の逃亡を援助した。また、ラットラインはナチス・ドイツの高官たちが反共主義者であるということをもって組織的に保護し、国外逃亡を助け、アイヒマンやバルビーやメンゲレなどをカトリック教国の南米に逃亡させた。

社会主義体制の崩壊に尽力したバチカン

1964年、ローマ・カトリックは対立してきた東方正教のギリシア正教会と歴史的な和解を行なうが、社会主義諸国を国家として認めない政策を採り続け、ユーゴスラヴィア連邦を承認したのは1966年になってからである。

ローマ法王は、教皇庁がイタリアに戻って以来イタリア人が法王を務めてきたが、78年にポーランド人のヨハネ・パウロⅡ世が就任して慣例に終止符を打ち、2005年にドイツ人のベネディクト16世、13年にはアルゼンチンのフランシスが法王に就任している。

パウロⅡ世は78年に法王に就任して以来26年間法王の地位を務めるが、極端に社会主義制度を忌避し、社会主義体制の崩壊に関与し続けた。パウロ世は、自らがポーランド出身だということもあり、ポーランドの社会主義政権の崩壊に力を注いだ。ポーランドのカトリック教会は、ポーランド政府が教会内部への干渉を避けたことを利用し、民主化を求める活動家たちに集会の場を提供した。それが効果を上げ、ポーランドはベルリンの壁が崩壊するより前の89年9月には非社会主義政権を誕生させた。

バチカンは、ユーゴスラヴィア連邦の解体にもいち早く手をつけた。ツィンマーマン駐バチカン米大使の「大使の物語」によると、法王庁は既に80年代の半ば頃にはスロヴェニアとクロアチアをユーゴ連邦から分離独立をさせるよう欧米諸国に強く働きかけており、両国のカトリック聖職者たちにも指示を与えていたという。バチカンの行動は、ズビグニュー・ブレジンスキー米大統領補佐官が78年の社会学会においてユーゴ連邦解体策に言及したことと符合する。89年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義圏の政治体制も解体した。この東欧の社会主義国の解体にもバチカンは深く関わっていたが、この崩壊を奇貨としてユーゴ連邦解体への関与を強めた。

セルビア正教会を貶めたクロアチアのカトリック聖職者

スロヴェニア共和国とクロアチア共和国が独立宣言を発するより4ヵ月前の91年2月、クロアチアのカトリック司教が世界の司教およびカトリック教会に回状を出した。その内容は「セルビア正教会に支援されたベオグラードは、ユーゴ連邦の社会主義が維持されるように提唱している。セルビア人が支配するユーゴ連邦政府とユーゴ連邦人民軍は中央集権主義者であり、スロヴェニアとクロアチアに見られる西側の文化的、民主的伝統に反している」というものである。チトー亡き後のこの時期、連邦幹部会は各共和国と自治州の持ち回りで選出される幹部会議長によって構成されており、持ち回り連邦幹部会議長はセルビア人のヨヴィッチであったものの、このときの連邦首相はクロアチア人のマルコヴィチであり、国防相のカディエヴィチはクロアチア人とセルビア人の混血であることからすると連邦政府も連邦人民軍もセルビア人が支配していたわけではない。クロアチアのカトリックの司教はそのような実態を無視してユーゴ連邦の分裂を唆したのである。ローマ教皇庁は、ギリシア正教と歴史的な和解をしているが、スロヴェニアとクロアチアのカトリック教会が、セルビア正教会を貶めることに何のためらいも見せなかったのは、第2次大戦時のウスタシャ政権支持の経緯が基層となっていると見られる。

91年5月に行なわれたクロアチア共和国の国家防衛隊の観閲式には、カトリック聖職者たちが列席する。さらに、独立宣言時の武力衝突に備えた国家防衛隊が、各地に配置される際にはカトリック教会で祝福を与えている。翌月の6月25日にスロヴェニア共和国とクロアチア共和国はユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。この宣言によって、たちまちスロヴェニア共和国とクロアチア共和国において武力衝突が頻発するようになった。

バチカン市国は紛争を抑制するのではなく権益を優先した

91年7月、ECは武力衝突を鎮静化するために仲介に乗り出して「ブリオニ合意」を締結させ、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立宣言を3ヵ月間凍結させた。ECの思惑は、3ヵ月間の凍結期間の間に政治的な解決を模索するところにあった。しかし、バチカン市国とドイツはそのようには受け取らず、単なる冷却期間と見なした。凍結期間が過ぎると、バチカン市国のソダノ国務長官は11月にアメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オーストリアの大使を招き、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国を1ヵ月以内に独立国家として承認するよう要請した。一方、ドイツはEC諸国の意向など委細構わず91年12月23日に両国の独立を承認してしまう。これを追うようにしてバチカン市国は翌年の1月13日、EC諸国に先行してスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認した。

この際、ローマ教皇庁は「クロアチアとスロヴェニアが主権独立国家の仲間入りをすることで、バルカン地域の平和実現や、より幅広く統合された世界の建設に貢献する道を探ることを希望した」と表明し、EC諸国、非EC諸国を問わず、強力に両国の独立承認を促した。2日後の1月15日、EC諸国は雪崩れ込むようにして両国を承認する。このバチカン市国とドイツおよびEC諸国の拙速な独立承認が、この後ユーゴスラヴィア連邦を泥沼の内戦へと突き落とすことになる。民族対立が激化し、武力衝突が起こっている現実を勘案すれば、強引な独立承認が悪影響を与えることは目に見えていた。しかし、バチカン市国はカトリックの影響圏の拡大を優先し、ドイツは経済圏の拡大を求めて両国の独立を推進したのである。

ボスニアで武力衝突が起こっても、バチカンは暫く沈黙していた。ボスニアの住民の多くはイスラム教徒とセルビア正教徒であり、カトリック教徒は17%の少数派でクロアチア共和国の庇護を受けていたからだ。しかし、93年にクロアチア人勢力がムスリム人勢力の攻撃を受けて苦戦を強いられると、教皇庁はNATO軍とクリントン米大統領に紛争への介入を要請した。ユーゴ連邦解体戦争でバチカンは、同じキリスト教でありながら正教徒の苦境には無関心を装うなど他の宗派の信仰者の被害には無頓着だったが、カトリック教徒の被害については神経をとがらせるという露骨な対応を示したのである。このため、ボスニアは三つ巴の激しい内戦に突入することになる

バチカンの政治的意図はカトリックの勢力圏拡大にあった

1998年10月、第2次大戦中にナチス・ドイツに支配されていたウスタシャ政権のクロアチア独立国で大司教を務めていたアロイジェ・ステピナツを「福者」として「列福」した。ステピナツ大司教は、ナチス・ドイツ政権下に傀儡国家クロアチア独立国を設立したファシスト・グループ・ウスタシャのパヴェリチ政権を祝福した人物である。ウスタシャ政権はセルビア人の3分の1をカトリック教に強制的に改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺し、さらにロマ人およびユダヤ人を迫害し、虐殺した政権である。法王庁は列福に際し、「ステピナッツ枢機卿がセルビア人をカトリックに改宗させたのは、人命救助のためだった」と釈明した。バチカンは、99年のNATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」には、一応反対の意向を表明している。コソヴォ自治州の住民は、ほとんどがイスラム教徒とセルビア正教徒なので、信仰にまつわる直接的な利害がないことと関係があると思われるが、空爆の停止に積極的な行動を示したわけではない。

イラク戦争では積極的に戦争阻止に動いたバチカン

2003年の米・英・豪によるイラク戦争に対しては、精力的に戦争阻止に動いた。国連安保理決議による承認を得ようとした米国に対し、カトリック信者の多い中南米を中心に、安保理決議に反対するように働きかけた。これが効を奏したのであろう、米・英は安保理で決議案を採択に持ち込むことはできなかった。イラク攻撃直前にパウロⅡ世はサンピエトロ広場に集まった数万の聴衆を前に、「私は第2次大戦を経験し、神のお陰で生き延びた世代に属する者です。だから、あなたたち若者にこう訴える義務があるのです。もう二度と戦争をしてはいけない」と訴えた。戦争を忌避する思想を抱いていたのであれば、なにゆえに内戦の危険性を孕んだスロヴェニアとクロアチアの拙速な分離独立を諸国に働きかけたのか。バチカンは、やはり東西冷戦構造の東側の解体の下地つくりに努力してきたことの延長線でしか、ユーゴスラヴィア問題を捉えられなかったといえる。

<参照;ステピナッツ、 パヴェリチ、 ウスタシャ、 クロアチア、 旧ユーゴスラヴィアの宗教分布>

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5,ユーゴ戦争と「米国・USAの対応」

ヒトラー率いるナチス・ドイツが台頭すると国際条約を破棄して領域拡大を図る

1933年1月、アドルフ・ヒトラー・ナチス・ドイツ総統はヒンデンブルク大統領から首相に任命されると、3月には全権委任法を成立させて憲法を無効化し、独裁体制を築く。そして10月には国際連盟およびジュネーブ軍縮条約から脱退して軍備を強化する。35年にはザール地方を再編入し、36年3月にはヴェルサイユ条約およびロカルノ条約を破棄した。さらに、10月にはスペイン内戦に介入してゲルニカを爆撃した。37年にはイタリアと防共協定を結ぶ。38年3月には、親ナチと化していたオーストリアに軍を進駐させて合邦化し、9月には英・仏・伊・独の首脳を集めてミュンヘン会談を開かせ、チェコのズデーテン地方の併合を認めさせた。

ヒトラーは第三帝国を妄想して第2次大戦を始める

そして、39年8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を開始する。米国はドイツに多額の投資をしており、中立法にも縛られて静観した。

英国とフランスは2日後の9月3日にドイツに宣戦布告をする。しがし、フランスは要塞のマジノ線に籠もり、英国は大陸に遠征軍を派遣するが有効な戦線を構築できないでいた。それを見透かしたナチス・ドイツ軍は1940年4月にデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領した。そして5月に英国の大陸派遣軍をフランス領ダンケルクに追いつめて追い落とし、6月にはフランスの要塞マジノ線を迂回する形でパリに入城してヒトラーは勝利を宣言した。次いで、ナチス・ドイツは英本国上陸作戦を企図し、「海獅子作戦」を発動して激しい空爆を行なうが、レーダーで捕捉された爆撃機が撃墜されるなどの多大な損害を受けたために、一時的に断念せざるを得なくなる。

ナチス・ドイツはソ連を植民地化して再度米本土上陸作戦に転換する

そこでヒトラーは40年7月、かねてからの目標であったソ連を植民地化すること、そしてその物量をもって再度英国本土攻略に転換して対ソ侵攻作戦の立案を命じた。これが「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見ることになる。このバルバロッサ作戦を実行するに際し、軍需物資の調達領域の拡張と戦線を構築した際の後背地の安全を確保する必要性から、未だナチス・ドイツ同盟への加入を拒んでいるバルカン諸国の中のユーゴスラヴィア王国とギリシア王国の2国を加盟させる計画を立てた。

ギリシアに対しては、イギリスが海上からの支援が行なわれていることから加盟を促すことは困難と見て「マリタ作戦」を立案する。一方のユーゴスラヴィアへは41年3月25日に威しと甘言によって同盟に加盟させることに同意させた。ところが、第1次大戦で敵対国として戦ったドイツと同盟を結ぶことを潔しとしない民衆が抗議行動に立ち上がり、これに呼応して軍部がクーデターを起こして同盟条約を破棄せよと王国政府に迫った。狼狽したユーゴ政府はドイツに対し条約は有効だと弁明するがヒトラー・ナチス総統はこれを許容せず、4月6日にギリシアへのマリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用して同盟軍とともに侵攻し、占領した。

ナチス・ドイツ軍はギリシアとユーゴスラヴィアを占領すると、41年6月22日にバルバロッサ作戦を発動し、同盟軍を含めて550万の兵員で三方面軍を編制してソ連領に侵攻した。

スターリン・ソ連書記長は猜疑心の強い人物で自国民を信用せず、大量の粛清者を出していたにもかかわらず何故かヒトラーを信用し、前線にナチス・ドイツ軍を刺激するなとの指示を与えていた。そのため臨戦態勢をとれないでいたソ連軍はたちまち敗走し、9月にはナチス・ドイツの北方軍にレニングラードを包囲され、中央軍にはモスクワの近郊まで迫られ、南方軍にはウクライナのキエフが陥落された。

日本が対米宣戦布告をしたことを契機に米国も第2次大戦に参戦

フランクリン・ルーズベルト米大統領は、チャーチル英首相の要請を受けて41年3月に武器貸与法を成立させていた。ソ連が危機に陥る中の9月、米英ソの高官会議が開かれて武器貸与法のソ連への適用が決められた。

41年12月8日に、日本はハワイの真珠湾を攻撃して米国に宣戦を布告してしまう。それに倣ってドイツとイタリアが対米宣戦布告をしたことで、米国も第2次大戦に参戦することになる。米国はこれを契機に武器貸与法によるソ連への軍需物資の援助を本格化させた。

武器貸与法に投じられた米国の予算はおよそ500億ドル(現価7000億ドル)に及び、英国には310億ドル、ソ連には110億ドル、フランスへは30億ドル、中国には16億ドル、その他である。ソ連に供与された物資は航空機、戦車、トラック、機関銃、機関車船舶、食糧、綿など多岐にわたり、輸送は北海、イランを通して黒海、千島列島などの海上輸送および空輸で行なわれた。

それでも、苦戦が強いられていたソ連は連合国にヨーロッパ西部における戦線を形成してほしいとの要請を行なったにもかかわらず、チャーチル英首相は米国の提言をも無視して中東の油田地帯の権益を優先し、西部戦線の構築を後回しにした。

米国軍が直接欧州戦線に参戦したのは、42年11月の北アフリカ戦線からである。ここで勝利を得ると、43年7月にはシシリー島に英米連合軍が上陸作戦を敢行した。イタリアが43年9月に国内の反乱もあって降服すると、連合軍はイタリアに侵攻してきたナチス・ドイツと交戦することになった。ここに至っても、連合軍は西部における戦線を構築しなかった。そのため、東部戦線における独ソ戦は激烈な消耗戦が展開された。

チャーチル英首相はユーゴスラヴィアの「パルチザン」支援を提案

チャーチル英首相は、大陸反攻作戦の手段の一つとしてバルカン諸国における戦線構築を選択した。そして、43年5月にユーゴスラヴィアで果敢に同盟国軍と戦っているパルチザンに軍事使節団を送る。派遣された英軍の観戦武官は命の危険に曝されながら、パルチザンの戦いが連合国軍の戦略に寄与しているとの報告をチャーチルに送った。チャーチルは43年11月にテヘランで開いた米英ソの三首脳会談で、パルチザンに軍事援助をすることの有用性を提言して承認を得た。これを契機にして連合国の英・米によるパルチザンへの軍事援助が始まる。

東部戦線におけるソ連軍が優勢になったのを見て連合軍はようやく西部戦線を構築する

英・米・カナダの連合軍は、ダンケルクから追い落とされてから4年後の44年6月になってようやく「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動し、西部戦線を構築した。そのころ東部戦線では、ソ連軍がスターリングラードの攻防戦で勝利し、ウクライナのキエフを奪還していたから、ノルマンディ上陸作戦が連合国の勝利にどれほど寄与したのかは不明である。

ユーゴスラヴィアではパルチザンが連合国の支援を受けつつ、ナチス・ドイツをバルカンに引きつけてねばり強い戦いを展開した。東部戦線におけるソ連赤軍は、44年9月にはチェコのプラハとブルガリアのソフィアを奪還してナチス・ドイツ同盟軍に対して優位に立ち、44年10月にはパルチザンとともにユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを奪還した。

ノルマンディ上陸作戦に成功した連合軍は西部からナチス・ドイツ軍を追い詰め、ソ連赤軍は45年4月20日からベルリン攻撃を開始し、4月25日にはエルベ河で米軍とソ連軍が合流した。ヒトラー・ナチス総統は敗北を自覚して4月30日に自殺する。ヒトラーが築いたナチス・ドイツは崩壊し、後継者に指名されたデーニッツが5月8日に降服文書に調印したことで、第2次大戦における欧州戦線は終結した。

大戦後に独自路線を歩もうとしたユーゴ連邦をソ連は社会主義圏から追放する

ユーゴスラヴィアは第2次大戦に勝利した後の1946年1月に新憲法を制定して王制を廃した。そして、ソヴィエト連邦の中央集権型社会主義制度を採用してソ連邦を中心とした社会主義圏の一員となる道を選択した。

ところが、ユーゴスラヴィア連邦がブルガリアとの間の「バルカン連邦」構想を提唱し、戦後処理の一環としてイタリアとの間でトリエステの領有権を争い、またギリシアのパルチザンを支援し続けるなど、独自の外交姿勢を示したことがソ連指導部の怒りを買う。そして、48年6月に開かれたコミンフォルム第2回大会でユーゴ連邦を除名した。社会主義諸国はユーゴ連邦をコミンフォルムから追放しただけでなく、経済制裁を科し、圏内で50%を占めていた貿易からも締め出したため、ユーゴ連邦は経済危機に陥った。

チャーチル英首相は「鉄のカーテン」を唱えて冷戦構造を煽った人物として知られるが、のちにソ連は約束を一つも破らなかったと語ったのはこのソ連のギリシアへの対応を含んでいるものと推察できる。

米国はコミンフォルムから追放されたユーゴ連邦を自由主義陣営に取り込めると見る

ソ連のユーゴ連邦追放を見た米国は、ユーゴ連邦を自由主義陣営に取り込む好機と捉えた。そこで、1948年12月にはユーゴ連邦の在米凍結資産5500万ドルの解除を行ない、49年には西側諸国と経済協力条約を結び、米輸出入銀行に2000万ドル、世界銀行に2500万ドルの融資を行なわせた。さらに52年には、米・英・仏の3ヵ国共同で9000万ドルの融資を与えている。この西側の援助によってユーゴ連邦の経済は破綻を免れ、相応の経済発展を成し遂げた。しかし、ユーゴ連邦は西側のこの気前のいい融資を友誼の印と受け取ったため、借款への依存体質が作り上げられていくことになる。このことは、ユーゴ連邦に社会主義制度を放棄させようと目論んでいた米国にとっては極めて都合のいい変化であった。

とはいえ、ユーゴ連邦は社会主義制度を放棄するつもりはなかった。そこで、53年憲法によって独自の自主管理社会主義制度を編みだし、63年憲法でそれを深化させた。さらに、74年憲法によってユーゴ連邦内の共和国や自治州および各企業に大幅な分権化にともなう権限を付与した。分権化によって与えられた自由な経済活動に伴い、各共和国や企業が西側からの借款を安易に得たこともあって経済は一時的な活況をもたらした。

しかし、第4次中東戦争に絡む73年に始まったオイルショックはとりわけユーゴ連邦経済に深刻な影響を与える。その不況を切り抜けるためにユーゴ連邦が選んだのはさらなる外資への依存である。そのため、借款は累積し、ユーゴ連邦全体では莫大な負債を抱え込んだため、恒常的なインフレ経済に落ち込んだ。

この間、1968年に「プラハの春」といわれるチェコスロヴァキアの民衆による民主化のデモが起こされた。これを社会主義国で構成した「ワルシャワ条約機構」軍が侵攻して鎮圧する。チトー・ユーゴ連邦大統領は「ワルシャワ条約機構」の行動を激しく非難するとともに、自国内の防衛体制を見直して「全人民防衛体制」なる軍事システムを構築し、各地に武器・弾薬庫を設置してすべての人民が兵士となる道を開いた。これが、後のユーゴ解体戦争で内戦に陥らせる原因ともなる。

社会主義制度を放棄させるための米国のユーゴ連邦への関与政策

一方米国は、78年8月にスウェーデンで開かれた第11回社会学会において、カーター政権のブレジンスキー米大統領安全保障問題担当補佐官が、アメリカからの参加者を前にユーゴ連邦に社会主義制度を放棄させる方策について講演を行なう。その講演内容は、「1,ソ連に対抗する力としてのユーゴスラヴィア連邦中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的・民族主義的勢力すべてに援助を与える。ソ連におけるロシア人とウクライナ人、チェコスロヴァキアにおけるチェコ人とスロヴァキア人、ユーゴスラヴィアにおけるクロアチア人とセルビア人の間の緊張と不和が物語るように、民族主義は共産主義より強力である。2,ユーゴスラヴィアにおける反共産主義闘争において、マスメディア、映画制作、翻訳活動など文化的およびイデオロギー領域に浸透すべきである。3,共産主義的な平等主義に反する闘争において、ユーゴスラヴィアにおける『消費的メンタリティ』を一層刺激する必要がある。4,ユーゴスラヴィア連邦の対外債務の増大は、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いることができる。それゆえ、EC諸国の対ユーゴ連邦新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に補償される。5,ユーゴスラヴィア連邦のさまざまな異論派グループを、ソ連やチェコスロヴァキアと同じやり方でシステマティックに支援すべきであり、彼らの存在と活動を世界に広く知らせるべきである。彼らは必ずしも反共産主義的である必要はなく、むしろ『プラクシス派』のような『人間主義者』の方がよい、アムネスティ・インタナショナルのような国際組織を活用すべきである。6,『Xディ(チトーの死)』の後にユーゴスラヴィアの軟化に向け、組織的に取り組むべきである。それには民族間関係が重要なファクターとなる。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟・SKJとユーゴスラヴィア人民軍・JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJは既に政治的独占を失っているし、JNAは外敵には強いが内部からの攻撃には弱い。全人民防衛体制は両刃の剣である」というものである。

米国の政策は、このような工作を実施することによってユーゴスラヴィア連邦を先行して自由主義陣営に取り込み、ソ連圏に入っている東欧諸国に社会主義制度放棄の雪崩現象を起こさせ、自由主義陣営に勝利を呼び込むことにあった。

米欧はユーゴ連邦を借款づけ政策で社会主義体制の崩壊を企図した

1980年にチトーが死去すると、IMFはすぐさまブレジンスキーが示した方針に沿い、81年にユーゴ連邦にマクロ経済改革の「第1次経済安定化政策」を導入させる。さらに、83年には「第2次経済安定化政策」を実施させた。その意図するところは、IMFおよび世界銀行や商業銀行などを利用して融資を与え、外資導入の借款財政によって経済が発展するような体質にさせ、金融面からユーゴ連邦の経済政策を自由主義市場経済に誘導する政策である。これらの西側の融資によるユーゴ連邦の対外債務は、80年には168億ドル、81年には192億ドル、82年には185億ドル、87年には200億ドルに達した。この債務増大がユーゴ連邦経済の足かせとなり、連邦体制への求心力を弱めることになった。

国際債権団は後戻り不可能な「ショック療法」を押し付ける

1989年3月にユーゴ連邦首相に就任したクロアチア人のアンテ・マルコヴィチは、すぐさま米国を訪問する。IMF、世界銀行、商業銀行などの国際債権団は新規融資の条件として、新自由主義市場経済に基づく「構造調整プログラム」の受容を要求した。マルコヴィチ連邦首相はこの構造調整プログラムを受け入れると、国際債権団は直ちに後戻り不可能な「ショック療法」に取りかかり、自主管理制度の中核をなす「連合労働基礎組織・TOZD」の撤廃と公営企業制度の廃止を要求。次いで「企業改革法」、「貿易機構の規制の撤廃」、「金融運用法」、「外国人投資法」、「金融関係法」などを制定させた。

さらに、「国際債権団」は、「非銀行系の金融機関の仲介会社、投資管理企業、保険会社」を設立し、国営企業の整理を促すとともに外資の参入および企業の売却を取り扱わせた。世界銀行はこのとき、ユーゴ連邦の7500企業の内の2400の企業が不健全企業だと指摘し、外資による企業買収の先導役を果たした。その上で、ユーゴ連邦の金融の骨格をなしていた「中央銀行・共和国と自治州の銀行・商業銀行」の三層構造を解体した。数多の銀行が閉鎖されたことで、融資停止の対象となった企業は倒産した。

ユーゴ連邦の財政再建は必然であったにしても、国際債権団に押し付けられてマルコヴィチ連邦首相が実施した「緊縮財政による補助金の削減、賃金の凍結、金融の抑制、国営企業の民営化、不採算企業の整理統合」というショック療法は、インフレを一時的に抑制したものの大量の失業者を生み出したことでユーゴ連邦の経済を著しく疲弊させた。企業の倒産は増大し、鉱工業生産はマイナスとなり、国内総生産は大幅に下落し、国民を困窮に陥れた。このことが、ユーゴ連邦政府への求心力を減退させた。

米欧によるユーゴスラヴィア連邦の経済的コントロールが効を奏し始めていた89年11月に突如ベルリンの壁が瓦解し、連鎖的に東欧諸国が社会主義制度を抛棄して資本主義制度を取り入れた。ユーゴ連邦に社会主義体制を先行放棄させる政策を進めていた米国は、その逆転現象にしばし戸惑いを隠せなかった。しかし、予定が狂ったとしても東欧の社会主義圏の崩壊が資本主義圏の勝利を意味することに変わりはない。米欧は引き続き、社会主義の残滓を包含しているように見えるユーゴ連邦を速やかに自由主義市場経済に転換させる方針を推進する。

とはいえ、米国は初めからユーゴスラヴィア連邦そのものの解体まで望んでいたわけではなかった。ユーゴ連邦が国家の体制をそのままに社会主義制度を放棄して自由主義市場経済に転換すれば、そこに覇権を及ぼすことが可能と考えていたからである。EC諸国の多くも、ユーゴスラヴィア連邦の混乱を伴う分裂そのものを望んでいたわけではなかった。

米国はドイツおよびバチカン市国と協調してユーゴ連邦解体を推進する

ところが、ドイツとオーストリアおよびバチカン市国は独自にユーゴ連邦の解体を画策していた。バチカン市国はポーランドの社会主義体制解体への関与によってカトリック教圏に引き込むことに成功した手法を使い、同じカトリック教国のスロヴェニアとクロアチアをユーゴ連邦から分離させることを目標にして働きかけてきた。バチカンの工作を知悉していたツィンマーマン駐バチカン米大使の「大使の物語」によれば、バチカンは80年代半ばからスロヴェニアとクロアチアをユーゴ連邦から分離独立させるべく欧米諸国に働きかけてきた。

ドイツは、88年にコール首相がのちにクロアチアの大統領に就くことになる民族主義者のトゥジマンと密かに会い、支援を約していた。コール独首相は89年にベルリンの壁が崩壊するとすぐさま東西ドイツの再統一に取りかかり、東ドイツの議会選挙に露骨に介入して速やかな再統一を掲げる政党を勝利に導いた。そして、壁の崩壊から1年も経ない90年10月には東西ドイツの再統一を成し遂げる。しかし、それには財政的な負担が重くのしかかることになった。その経済的負担をスロヴェニアとクロアチアをドイツ経済圏に引き込んで賄うべく、ユーゴ連邦の速やかな解体を画策したのである。

バチカン市国とドイツの支持を得たスロヴェニアとクロアチアは委細構わず独立を宣言する

全欧州安全保障協力会議・CSCEは、スロヴェニアとクロアチアが独立宣言をする直前の91年6月19日に臨時会議を招集し、スロヴェニアとクロアチアの独立の動きを抑制する意図の下にユーゴ連邦の統一を支持するとの声明を発表した。ところが、この会議でオーストリアの外交団は、スロヴェニアのルペル外相を同伴させるという外交上異常な行為をとった。このようなドイツとオーストリアおよびバチカン市国の裏側からの働きかけを受けていたスロヴェニアとクロアチアは、CSCEの声明など委細構わず、旬日も経ない6月25日にユーゴ連邦からの分離独立宣言を発した。

軍管区制によって配備されていたユーゴ連邦人民軍を侵略軍として排除する

スロヴェニアとクロアチアには軍管区制によってユーゴ連邦人民軍が駐屯していたのだが、両国が一方的な独立宣言をしたことで微妙な立場におかれることになる。連邦人民軍の役割は国防と連邦体制の維持にあったからである。このような場合、連邦人民軍などの連邦機関の処遇は、政治交渉によって権限の処理をするものだが、スロヴェニアとクロアチアはこの政治交渉を省いて独立宣言を強行したために混乱が生じた。

スロヴェニアは独立宣言をすると、すぐさまスロヴェニア郷土防衛隊を動員して連邦政府の施設を武力で接収したため、連邦人民軍との間に武力衝突が起こることになる。連邦人民軍は各民族の混成隊であり、内戦を予定していなかったために戦闘意欲に乏しく、たちまちスロヴェニア郷土防衛隊に屈服した。これがスロヴェニアの10日戦争である。 

スロヴェニアでの推移を見たクロアチア郷土防衛隊は、第4軍管区の連邦人民軍を与し易しと捉え、侵略軍と非難して電気や水道を止めた上で兵営を包囲して攻撃し、武器をおいて撤退せよと執拗に迫った。そのために連邦人民軍とクロアチア防衛隊との間でも武力衝突が起こった。91年8月、連邦人民軍はこの包囲と攻撃を排除するために新たな戦車部隊を救援に向かわせると、クロアチア防衛隊と民兵部隊は民族混住地であるヴコヴァルで無益な阻止戦を挑んだ。ヴコヴァルでの戦闘が激化すると、国際社会はユーゴ連邦人民軍の対応を侵略軍として囂々たる非難を浴びせた。

ドイツとバチカン市国は委細構わずユーゴ連邦の解体を強引に進める

一方でECは調停に乗り出し、7月にはスロヴェニアとクロアチアに独立宣言を3ヵ月凍結する「ブリオニ合意」を受け入れさせた。ECとしては、3ヵ月間の凍結期間中に政治的解決を模索する意図を抱いており、9月にはEC和平会議を設置してキャリントン英元外相を議長に任命した。同じ9月に国連安保理は、武力衝突の抑制を目的としてユーゴスラヴィア連邦全域への武器禁輸決議713を採択した。

ECの対応にもかかわらず、ドイツとバチカン市国は3ヵ月の凍結期間を冷却期間程度にしか受け取らなかった。凍結期間が過ぎるとバチカン市国のソダノ国務長官は、91年11月に米・英・独・仏・伊・オーストリア・ベルギーの大使を招き、スロヴェニアとクロアチアを1ヵ月以内に独立国家として承認するよう要請した。コール・ドイツ首相は同じ11月に連邦議会において、「スロヴェニア共和国とクロアチア共和国を、EC諸国がまもなく国家として承認することになるだろう」と演説し、キャリントンEC和平会議議長の和平への尽力に冷や水を浴びせ、12月23日には両国の独立を単独で承認してしまう。バチカン市国もそれを追うようにして翌92年1月13日に両国の独立を承認する。EC諸国は、それに引きずられて同年1月15日には両国の独立承認へと追随した。のちにフランスの外相は、ドイツに引きずられてしまったとの慨嘆を口にした。

対ユーゴ強硬路線を主張したクリントン大統領候補

ブッシュ米政権は、この時点ではスロヴェニアとクロアチア両国の性急な独立宣言に疑問を抱いていた。ブッシュ大統領は91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言したことに対し、翌26日に「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」と語っていたことがそれを示している。しかし、次第に米国内でユーゴスラヴィア問題への対応に変化が生じていく。92年の大統領選に立候補した民主党のビル・クリントン候補が、ブッシュ政権のユーゴスラヴィア問題への対処が生ぬるいと批判し、ユーゴ問題を政争の具としつつあったからである。この背後に軍産複合体の働きかけがあった可能性は否定できない。

ボスニアもスロヴェニアとクロアチアの後を追う

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの議会はスロヴェニアとクロアチアの独立宣言を見て、91年10月にセルビア人の議員が退場する中、事実上の独立を謳った決議を採択した。イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長はこの決議を背景に、EC諸国がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認すると、92年2月末にセルビア系住民の反対を押し切ってユーゴ連邦からの分離独立の可否を問う住民投票を強行し、ムスリム人住民とクロアチア人住民からの圧倒的な賛成票を得ると、3月早々に独立宣言を発した。

国連安保理は戦火の拡大を抑制するために、92年2月に安保理決議743を採択してユーゴスラヴィア連邦の紛争地帯に国連保護軍・UNPROFORの派遣を決定する。

民主党候補のビル・クリントンの政治的批判を受けたブッシュ政権は、ボスニアが独立宣言を発したのに合わせ、スロヴェニアとクロアチアともども4月に3国の独立を一括して承認することに踏み切った。ECもそれに追随してボスニアの独立を承認する。この欧米諸国の拙速な独立承認は、ボスニアの武力衝突の火に油を注ぐ結果をもたらした。

セルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国は同じ92年4月、米国およびECがスロヴェニアとクロアチアおよびボスニアの独立を承認したのを見て、旧ユーゴ連邦の維持は不可能と判断し、憲法を修正して旧ユーゴ連邦の国家資格を継承する形での新「ユーゴスラヴィア連邦」の設立を宣言した。しかし、国際社会はこれを認めなかった。

スロヴェニアとクロアチアの独立に倣ったボスニアも連邦人民軍を攻撃

ボスニアの第2軍管区の連邦人民軍も当然ながら多民族の混成軍であったから、ムスリム人兵士もクロアチア人兵士もセルビア人兵士も含まれており、当初は民族間の武力衝突を抑制する行動をとっていた。しかし、ムスリム人兵士およびクロアチア人兵士が武器を携帯して次第に連邦人民軍から離脱し、それぞれ民族別の領土防衛隊に入って行くことになる。ボスニア政府の「ムスリム領土防衛隊」は連邦人民軍から離脱した兵士で増強されると、連邦人民軍を侵略軍として非難するとともに、クロアチアで行なわれたと同じように連邦人民軍の兵営を封鎖し、襲撃して武器を奪取し、ボスニアからの撤退を要求した。連邦人民軍はムスリム人とクロアチア人が離脱したためにセルビア人兵士とモンテ・ネグロ人兵士の比率が増大し、ムスリム郷土防衛隊との対立が先鋭化する過程で次第にセルビア人勢力に加担するようになって行く。

西欧を主とする国際社会はボスニア政府が連邦人民軍を侵略軍と非難することに同調し、92年5月に国連安保理は連邦人民軍を外部の軍事組織と位置づけて干渉を排除する決議752を採択する。やむなく、ユーゴ連邦人民軍は同5月にボスニアから撤収することを宣言するとともに、ユーゴスラヴィア連邦人民軍を「ユーゴスラヴィア連邦軍」として編成替えをした。ユーゴスラヴィア連邦軍は撤収するに際し、ボスニア出身のセルビア人兵士の残留希望者とともに武器の多くを残した。曲がりなりにも中立を守ろうとしていた連邦人民軍が撤収すると、民族間の対立は剥き出しとなり、多量の武器を得たセルビア人勢力軍は軍事的な統制を欠いていたムスリム人勢力軍を圧倒してたちまち支配領域を拡大し、領土の60%を確保するまでになる。

強硬姿勢に転じた米国はセルビア断罪を推進する

ベーカー米国務長官は92年5月に新ユーゴ連邦に対する包括的経済制裁を安保理に提案し、決議757を採択させる一方で、「新ユーゴ連邦に対する経済的、外交的手段を尽くした時点で、多国間軍事行動に訴えるべき」と早くも軍事力行使に言及した。この国連安保理の包括的経済制裁は、新ユーゴ連邦の経済に深刻な打撃を与えた。6月にミロシェヴィチ・セルビア大統領は、「経済制裁を解除するならば、大統領を辞任する用意がある」と表明したが、国際社会はこの表明を無視した。そればかりか、ブッシュ米大統領は直後に新ユーゴ連邦に対する経済制裁に関する行政命令に署名をする。

セルビア悪のプロパガンダが蔓延る

これと歩調を合わせるように、92年8月2日のニューズディ紙はガットマン記者の「死のキャンプ」という見出しで、ボスニアのセルビア人勢力が「強制収容所」を設置しているとのセンセーショナルな記事を掲載した。この記事は現地で取材したものではなく、クロアチアの首都ザグレブで数人のムスリム人からの聞き取りを軸としてそれに風聞や対立する側のプロパガンダを付け加えてまことしやかな記事に仕立て上げたものであった。いわばフェイクニュースに類するものであるが米国社会はこれを評価してピューリッツァ賞を授与する。

国連安保理はこの記事を受ける形で公式協議を開き、8月13日に「すべての強制収容所、刑務所、拘禁施設が赤十字国際委員会・ICRCなどの人道援助機関の立ち入りを継続的に受け入れること、ボスニア救援を促進するための武力行使を容認する」との決議770を採択した。このようにして欧米における世論は、セルビア人悪のプロパガンダが定着していった。

ボスニア政府はNATO軍の空爆を誘導するために武力衝突を頻発させた

一方、英インディペンデント紙は、ロンドン拡大和平国際会議が開かれる直前の92年8月22日にボスニアに関する国連の秘密文書を暴露した。この秘密文書はセルビア人勢力の犯行のように見せかけたムスリム人勢力の犯行の可能性を示唆したもので、「1,92年5月27日のパンを買う市民の行列へのミサイル攻撃。2,8月4日にサラエヴォを脱出する家族が狙撃され、その子どもを埋葬する墓地が砲撃された事件。3,米テレビ・ディレクターが狙撃された事件」などを列挙したものであった。この報道を見て、ボスニア政府の幹部会員の1人は政府の行為を恥じて辞任した。しかし、国際社会におけるこれ以上の反応は見られなかった。

EC和平会議のキャリントン議長が抗議の意を込めて辞任する

他方、EC和平会議のキャリントン議長は、繰り返し和平案を提示するなどの尽力をしていた。しかし、クロアチアおよびボスニア政府は、ドイツ政府やバチカン市国、そして政策転換した米政府などから陰に陽に支援を受けられることが期待できるようになると傲慢な姿勢を示すようになり、両国は和平交渉に応じるどころかしばしば停戦協定を破った。そのため、キャリントン議長は「ムスリム人武装勢力が停戦協定を無視して戦闘行動を続けている」と批判し、ロンドンの「拡大和平国際会議」の前日の8月25日に抗議の意を込めて辞任する。

キャリントン議長が辞任したため、急遽EC議長国のメージャー英首相とガリ国連事務総長を共同議長として拡大和平国際会議は開かれることになった。拡大会議は関係国が多数参加したにもかかわらず、米国のPR会社ルーダー・フィンがボスニアのムスリム人避難民を会見場に連れ込んでセルビア人勢力の犯罪行為を告発するなどの妨害行為を行なって紛糾させたために見るべき進展はなく、「行動計画」や声明を発表して閉会した。その後ユーゴ和平国際会議は、新たに選任されたヴァンス国連特使(米元国務長官)とオーエンEC和平会議議長(英元外相)が共同議長として運営されることになる。

後任のイーグルバーガー国務長官も強硬策を実行

ベーカー米国務長官が92年8月にブッシュ米大統領の補佐官に転じると、後任としてイーグルバーガーが国務長官に就任した。イーグルバーガー国務長官はより強硬な対応を示し、92年10月に国連安保理でボスニア上空の飛行禁止空域を設定する決議781を採択させ、「セルビア軍機が違反すれば、米軍機によって撃墜する」とセルビア軍機だけを攻撃の対象とすると発言した。

1992年10月、ヴァンス・オーエン和平国際会議両共同議長は、包括的なボスニア和平裁定案を公表し、93年1月の和平国際会議でこれを提示した。和平案の概要は、「1,停戦実現のための一歩としてサラエヴォを非軍事化する。2,ボスニアを10のカントン・州に分割してそれぞれを自治州とする。3,中央政府は主として外交を担う。4,ムスリム人勢力とクロアチア人勢力は合わせて50%、セルビア人勢力は50%をそれぞれ領有する」というものである。米政府は、この裁定案はムスリム人勢力に不公平なものなので修正する必要があると発言して牽制した。アスピン米次期国防長官も、上院外交委員会において軍事介入に積極的な姿勢を示した。

この間、クロアチア共和国軍が93年1月に南部ダルマツィア国連保護地域のクロアチア・セルビア人勢力に対して「マスレニツァ作戦」を敢行し、セルビア人住民を追放したが、国際社会がクロアチア共和国に対する経済制裁を検討することはなかった。

NATOの軍事力行使をECに強要する米政府

米政府は同じ93年1月に国家安全保障会議を開き、「1,ムスリム人勢力への安保理の武器禁輸決議の解除。2,セルビア人勢力への空爆。3,多国籍軍によるセルビア人勢力の包囲。4,ムスリム人保護地域の設置」などをとりまとめた。イーグルバーガー米国務長官は、メージャー英首相にムスリム人勢力への武器禁輸の解除を打診したが、紛争が激化するおそれがあると捉えていたメージャー英首相の賛意は得られなかった。結局、ヴァンス・オーエン両共同議長による裁定案は、米国のムスリム人勢力への支援の言動を背にして強硬姿勢を採ったボスニア政府が10の自治州への分割およびサラエヴォの非軍事化について拒否したこと、セルビア人勢力がボスニアを連合国家とするとの主張を取り下げなかったために和平は成立しなかった。

国際協調を無視して独自の行動を展開するクリントン米政権

同年1月20日にクリントンが米大統領に就任すると、選挙公約に従ってユーゴ連邦への対応策をより強硬にしていくことになる。国務長官に就任したクリストファーは2月、旧ユーゴ和平国際会議が和平に尽力している傍らで、「セルビア人勢力に対する経済制裁の強化を図ること。和平国際会議の和平案について事前に米国に知らせること。さらに米国独自の和平案を提示する」という米国主導の対応策を示した。

英国際戦略研究所はこの米政府の対応について、「和平国際会議の和平案に米国の承認を求めるということは、米国が欧州安定化の原動力であることを米国民に見せるためのものである」と批判した。米国の外交は、国内向けの政策を優先していると指摘したのである。

1993年3月、米国はボスニア政府のムスリム人住民が飢餓状況に陥っているとの誇張した宣伝を真に受け、ボスニア政府への支援の姿勢を示すためにムスリム人勢力への物資投下作戦を実行した。この米国の物資投下作戦の物資の中に武器が含まれていたとの疑惑もあり、食糧や医薬品にしても国連保護軍・UNPROFORが支援していた国連難民高等弁務官事務所・UNHCRの援助物資の輸送に比してシンボル以上の効果を上げたわけではなく、英・米・独・仏・露を引き込みながら実行した物資投下作戦は3月の1ヵ月間のみの実施に終わった。93年4月、国連特使のヴァンス和平国際会議共同議長(米元国務長官)はこの推移を見て、健康上の理由をつけて辞任する。後任にはノルウェーのシュトルテンベルク元外相が就いた。

執拗にボスニア政府への支援を企てる米国

米政府は、93年5月にオーエン・シュトルテンベルグ和平国際会議両共同議長が新たな和平裁定案を提示している最中に、NATO軍にセルビア人勢力への空爆を実行するよう提起し、和平に水を差した。さすがに、セルビア人勢力側に厳しい姿勢を見せていたオーエン共同議長もこの空爆に否定的見解を述べてこれを止めた。それでもなお米政府は、8月に再びNATO軍に対してボスニアのセルビア人勢力への空爆を提案する。NATOが緊急高官会議で空爆の具体化を検討し始めると、クリントン米大統領は歓迎の意を表明する。しかし、EC諸国が戦火の拡大と国連保護軍・UNPROFORの安全を危惧して反対したため、93年中にNATO軍の空爆が行なわれることはなかった。しかし、ムスリム人勢力としてのボスニア政府側の戦況が不利になると、米政府は三度ボスニア政府への武器禁輸を外すよう国連安保理決議の採択を要求する。しかし、このときもEC諸国が紛争を激化させるとして反対を貫いたために成功していない。このため、米国は事態を打開する米国主導の対策を立てる必要に迫られた。

ボスニアにおける3民族の三つ巴の戦い

ボスニア紛争は、ボスニア政府とセルビア人勢力の間だけで戦われていたのではない。ボスニアのクロアチア人勢力は、ボスニア政府と協調してセルビア人勢力に対抗する一方で、クロアチア共和国軍を迎え入れて自勢力の支配領域の拡大を図り、92年10月頃からムスリム人勢力と闘うという三つ巴の戦闘が行なわれていた。特に、93年1月に和平国際会議が10カントン・州の裁定案を提示して以来、ボスニア政府軍とクロアチア人勢力軍は支配領域確定争いで激しい戦闘を交えるようになった。

ボスニア・クロアチア人勢力は、モスタル市を「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の臨時首都と定め、93年5月からモスタル市のムスリム人勢力を排除するために激しい攻勢を仕掛けた。数ヵ月にわたって続けられたネレトヴァ川を挟んでの激烈な攻防戦において、川に架けられていた6つの橋はクロアチア人勢力の砲撃によってすべて破壊された。オスマン帝国時代に建造されたネレトヴァ川の美しいアーチ状の石橋「スタリ・モスト」もクロアチア人勢力の砲撃で崩落した。この様相に、セルビア悪を前提にした政策を立案していた米政府はしばし戸惑った。にもかかわらず、クリントン米政権はセルビア悪を見直すことなく事態を米国主導で一挙に解決するための「新戦略」を策定する。

米政府は新戦略を立案しクロアチア共和国とボスニア政府に「ワシントン協定」を押し付ける

米政府の新戦略は、複雑な段階を踏んで実行するように構成されていた。目標は、紛争を防止することにはなく、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するところにあった。

新戦略の第1段階として、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力を掛け、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の強硬派であるマテ・ボバン大統領を解任させる。

第2段階として、94年2月24日にボスニア政府とクロアチア人勢力の代表を集めて停戦協定に合意させる。

第3段階として、2日後の2月26日にボスニア政府のシライジッチ首相、ボスニア・クロアチア人勢力のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領およびクロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼びつけて「ワシントン協定」を締結させる。米政府が公表したワシントン協定の骨子は「1,ボスニア政府とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国を統合してエンティティとしての『ボスニア連邦』を設立する。2,設立された『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来国家連合を形成するための予備協定に合意する」というものであった。ユーゴ連邦の解体過程を考量すれば、ボスニア連邦とクロアチア共和国が国家連合を構成することなどあり得ないが、国際社会はこの欺瞞的な内容を受容した。

これは、同時期にジュネーブで旧ユーゴ和平国際会議の共同議長による和平交渉が行なわれていたことから、米国がクロアチア共和国を絡ませた仲介をすることは批判の対象とされかねなかったため、もっともらしい理屈を編みだし、国際社会の疑惑を回避する情報操作を含めたものであった。

94年の1年間は統合共同作戦実行のための準備期間にあてる

新戦略の第4段階として、94年の1年間を統合共同作戦のための準備期間に充当した。先ず、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍による統合司令部を設立させる。次いで、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍に軍事訓練を施すために、米軍事請負会社・MPRIを通じて退役軍人やCIA要員などを両国に送り込んだ。さらに、兵站・通信を任務とする米特殊部隊を派遣し、通信網を整備するとともに兵站を整えさせた。

米国が単独で強硬策を実行している傍らで、英・独・仏はロシアを呼び込んで「連絡調整グループ」を94年4月に設置し、5月に「1,4ヵ月間の停戦。2,領土分割はセルビア人勢力が49%、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力が51%とする」などの共同0コミュニケを発表した。しかし、イゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領は、クリストファー米国務長官とボスニア政府およびボスニア・クロアチア人勢力との間で、ボスニア連邦の領土を58%とするとの「ウィーン協定」を結んでいたことから、連絡調整グループの停戦4ヵ月の提言を2ヵ月で十分などと主張して軽くあしらった。

一方、クリントン大統領は94年11月、安保理決議713で採択された武器密輸に関する米軍の監視活動を一時緩和する大統領令に署名し、ボスニア政府軍への武器の密輸を促した。西欧同盟・WEUの事務局長はこれに異議を述べたが、米国は大統領令を撤回するどころか、密輸の監視緩和だけでは武器を十分に整えられないとして米軍の輸送機を使用し、クロアチア共和国やボスニア政府軍支配地域の空港に軍需物資を直接輸送した。この米軍機による輸送が軍事請負会社によるものか、CIAによるものか、米軍が直接行なったのかは必ずしも明らかではないが、米軍輸送機が使われたことは明白であった。

作戦遂行の障害になる国連と国連保護軍の排除を実施

新戦略に基づく第5段階は、監視機関としての国連保護軍・UNPROFORを排除すること、および国連による文民統制の権限を軍事的な決定過程から外すことである。

1995年1月、トゥジマン・クロアチア大統領は戦備が整うと、国連保護軍の存在が和平の妨げになっているとの理由を付け、クロアチアからの撤収を要請する書簡をガリ国連事務総長に送付した。国連安保理では一部に異論が出されたものの、結局これに応じることになる。3月末に決議981~983を採択して国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアには縮減した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することになった。

セルビア人勢力を排除する大規模な共同作戦を発動

第6段階は、統合共同作戦を実行に移すことである。クロアチア共和国軍は国連保護軍が3分割されたのを見届けると、95年5月1日、セルビア人住民の居住地であるクロアチアの「西スラヴォニア」を制圧する「稲妻作戦」を発動する。クロアチア共和国軍は戦車や装甲車および重砲を投入して国連保護軍・UNCROの監視所を砲撃し、監視活動を停止させた上で進撃してセルビア人住民を追放した。フランスとドイツが軍事攻撃を停止するよう要請したがクロアチア共和国軍はこれを言葉でかわして作戦を終了させた。

一方、NATO軍はクロアチア共和国軍の作戦に合わせてクロアチア・セルビア人勢力のレーダー・システムがNATO軍機を照射したとの理由をつけて通信基地を空爆し、共同作戦を支援した。ボスニア政府軍は共同作戦の一環として、サラエヴォ周辺のセルビア人勢力を一掃するための作戦を計画する。このとき投入されたボスニア政府軍は、米軍事請負会社・MPRIなどの訓練を受けて精強となった特殊部隊であった。しかし、単純な正面攻撃を行なったためにセルビア人勢力に見破られて反撃に遭い、あえなく敗北を喫する。ボスニア政府軍はこの作戦の失敗を隠蔽するためとNATO軍の空爆を呼び込むために、スレブレニツァ、トゥズラ、ゴラジュデ、ジェパのムスリム人部隊に周辺への攻撃を強化するよう指令を出した。これには、ボスニア・セルビア人勢力軍を東南部に集中させるための陽動作戦が兼ねられていた。ボスニア政府軍の指令を受けた飛び地のムスリム人勢力は、セルビア人住民の村や町を攻撃して略奪し、破壊し、殺害を繰り返した。

オーエン和平会議共同議長も米国の政策に抗議して辞任する

1995年6月、オーエン和平国際会議共同議長は、この推移を見て辞任を表明する。オーエン英元外相は共同議長を辞任するに際し、「この1年間、ボスニアの紛争当事者の和平協議はうまく進まなかった。交渉が進展するためには米国が妥協する必要がある」と述べ、米国がムスリム人勢力であるボスニア政府寄りの姿勢を採り続けていることが和平の障害になっていると批判した。しかし、新戦略の遂行に傾注していた米政府が耳を傾けることはなかった。

一方ボスニア・セルビア人勢力は、ボスニア政府軍の陽動作戦に眩惑された。セルビア人勢力は、米国の新戦略に基づくワシントン協定の意味を十分理解していなかったからと見られる。この時点での重要な戦局は、ボスニアの西北部にあったにも関わらず、セルビア人勢力は東南部のムスリム人の飛び地の制圧に拘ったところにずれが表れている。セルビア人勢力軍は、陽動作戦で活発化したスレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパのムスリム人勢力軍の飛び地を制圧する「クリバヤ95作戦」を立案し、7月6日に発動した。このときのセルビア人勢力の作戦で、スレブレニツァ虐殺事件が起こったとされている。

クロアチア共和国軍はボスニアに侵攻して幹線道路を制圧

クロアチア共和国軍は稲妻作戦を成功させると、7月26日にボスニア領内に越境してボスニア政府軍とともに「‘95夏作戦」を実行する。両軍は、ボスニアからクロアチアのクライナ・セルビア人共和国に至る幹線道路の要衝であるリヴノとグラホヴォおよびグラモチュを攻撃して制圧した。この要衝が押さえられたため、クロアチア・クライナ・セルビア人共和国の首都クニンは南・西・東の3方から包囲される形となった。他方、ムスリム人勢力軍はジェパ近郊に駐留していた国連保護軍のウクライナ部隊を包囲してその武器と装甲車を奪うという行動に出た。ウクライナ部隊は、武器の一部を破壊してムスリム人勢力軍が戦闘に使用するのを防いだが、一部は略奪された。ボスニア政府軍は、国連保護軍の武器を奪うという略奪行為を起こす一方で、NATO軍にセルビア人勢力軍への空爆を要請するという臆面の無さぶりを発揮した。これに対し、フランス政府は厳しく批判したが、クリントン米政権は逆にボスニア政府を支援するために、米連邦議会においてセルビア人勢力に対する軍事力行使を強化すると表明する。

米国主導のNATO軍が明石国連特別代表の権限を奪う

ガリ国連事務総長は、94年1月に明石康事務次長を国連事務総長特別代表に任命してボスニア和平への全権を与えて交渉に当たらせていた。しかし、明石国連特別代表がNATO軍の空爆についてしばしば慎重な姿勢を示したため、米政府は明石特別代表に付与されていた軍事力行使を要請する指揮権限を剥奪させ、95年7月に現地のNATO軍司令官および国連保護軍司令官に武力行使の権限を委譲させた。これ以後、国連の文民統制の役割は後退させられ、米国が主導するNATO軍が完全に実権を掌握してしまう。

クロアチアの軍事作戦ではNATO軍の作戦ソフトが使用される

第7段階は8月4日に発動された「嵐作戦」である。この嵐作戦はクロアチア共和国軍が15万余の兵員を動員した大規模なものであった。嵐作戦は、クロアチア共和国軍を4つの方面軍に編成し、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国を掃討するという本格的な軍事作戦として実行された。クロアチア共和国軍と共調したボスニア政府軍は、ビハチを拠点にしている第5軍団および第4軍団が「‘95夏作戦」で確保したリヴノとグラホヴォの幹線道路から首都クニン攻略作戦に参加する、という共同作戦となった。クロアチア共和国軍は、この作戦でも国連信頼回復活動・UNCROのクニン本部を包囲し、監視所を砲撃して国連要員3人を死亡させ、12ヵ所を占拠するなどの攻撃を行なった。NATO軍はこのクロアチア共和国軍の国連軍攻撃を抑制することはなく、逆にクロアチア・セルビア人勢力のミサイル基地が攻撃態勢を取ったとの理由をつけて空爆し、クロアチア共和国軍の作戦を援護した。

迎え撃ったクロアチア・クライナ・セルビア人共和国軍は、稲妻作戦で東西に分断されたことから戦闘員3万数千人程度しか確保できず、クロアチア政府軍の15万余の兵力に加え、ボスニア政府軍とNATO軍による統合軍事作戦に対抗する術はなかった。クロアチア・セルビア人勢力軍はほとんどの戦線で敗退し、避難するセルビア人住民とともにセルビア共和国やボスニア・セルビア人勢力の支配地域に脱出した。

赤十字国際委員会・ICRCによると、このときに脱出したクロアチアのセルビア人住民は20数万人といわれる。このクロアチア共和国軍の軍事行動に対し、ドイツとフランスおよび英国は中止を要請したが、米政府とNATOは沈黙を守った。それどころか直後にNATO軍は、現地司令官の判断でボスニアのサラエヴォ近郊でセルビア人勢力がムスリム人勢力と交戦したとして、セルビア人勢力側を空爆した。

のちに、クロアチア共和国のグラニッチ外相は一連の軍事作戦について、「米CIAから情報提供を受けて作戦を実行した、米国とパートナーシップの関係にあった」と発言している。米政府はこの作戦終了後に、「この軍事行動は将来への展望を開くものだ」と語っているが、この言葉がユーゴ連邦解体戦争の一連の作戦の実態を表している。

クロアチア共和国軍のセルビア人勢力掃討作戦からボスニアのセルビア人勢力征圧へ

クロアチア共和国政府軍は嵐作戦を成功させた後、クロアチア東部のセルビア人居住地の「東スラヴォニア」の攻略に取りかかろうとしたが、さすがにこれはEU諸国に抑えられて断念する。そこで、「ミストラル作戦」に切り替えてボスニア領内に侵攻し、ボスニア政府軍と共同でボスニア・セルビア人勢力の制圧に取りかかった。クロアチア共和国軍はボスニア・セルビア人勢力の大統領府がおかれているバニャ・ルカ攻撃を敢行し、ボスニア政府軍はバニャ・ルカ近傍のヤイツェを攻略し、さらにボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュなどを攻略した。EC諸国の中にはこれを非難する国もあったが、彼らは米国の支持を受けているためにそれを無視した。

マルカレ市場事件とNATO軍の「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」も新戦略の一環

第8段階は、NATO軍による「周到な軍事作戦」の発動である。ボスニア領内でクロアチア共和国軍とボスニア政府軍が共同作戦を展開している最中の8月28日、サラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こり、市民多数が死傷した。NATO軍は事件を検証することなくセルビア人勢力が行なったものと即断し、国連安保理決議を経ることなく1日余りのちの30日未明にデリバリット・フォースを発動した。NATO軍はこの周到な軍事作戦に米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」をアドリア海に配置し、攻撃機を発艦させて空爆を行なった。さらに、400機の攻撃機をイタリアのアビアーノNATO空軍基地など周辺の15ヵ国18ヵ所の空軍基地から投入した。

作戦には、NATO海空軍およびNATO加盟諸国で構成された国連緊急対応部隊・RRF、クロアチア共和国軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力軍の5者が参加し、ボスニア・セルビア人勢力への空陸からの激しい攻撃を行なった。地上軍1万数千人の緊急対応部隊・RRFは600発の砲弾をセルビア人勢力に浴びせ、NATO空軍は2週間あまりにわたって2500回以上の爆撃を行なうという激しいものとなった。このNATO軍の攻撃で、ボスニア・セルビア人勢力の軍事施設の多くが破壊された。ボスニア政府軍はこのNATO軍の攻撃作戦を利用し、セルビア人勢力の支配地域を攻撃して奪回し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの領土の50%を超える領域を制圧するまでになる。

NATO軍がデリバリット・フォース作戦発動のきっかけとしたマルカレ市場の爆発事件は、国連の英・露の専門家による検証ではムスリム人勢力が起こした可能性が高いと指摘された事案である。しかし、実際はNATO軍の作戦発動のきっかけを与えるために米CIAが絡んで計画した事件であるとの見方が有力である。

米政府主導で行なわれたボスニア和平交渉

ボスニア・セルビア人勢力は5者による攻撃を受けてもなお戦闘を続けようとした。しかし、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領の助言を受けて入れて停戦交渉を受け入れた。

ボスニア和平交渉は国連の関与を外し、95年11月に米国オハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地で行なわれた。米政府主導の和平協議は、NATO関係諸国とイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長、トゥジマン・クロアチア大統領、ミロシェヴィチ・セルビア大統領を呼びつけ、ボスニア・セルビア人勢力およびボスニア・クロアチア人勢力を傍役に退けて合意させる。これが「デイトン和平合意」である。

合意の主な内容は、ボスニアの国家としての形態は、「中央政府としての『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ』を設定し、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力によるエンティティとしての『ボスニア連邦』とセルビア人勢力による『スルプスカ共和国』の連合国家とする。領土分割の割合は『ボスニア連邦』が51%、『スルプスカ共和国』は49%とする。その領域を実態あるもとして確定する」というものである。デイトンの和平案は、さらにパリで細部が詰められて「デイトン・パリ協定」として正式に調印された。この協定内容は、94年5月の連絡調整グループの調停案および、ユーゴ和平国際会議のオーエン・シュトルテンベルグ和平案とも基本線で変わりはなく、連合国家の形態はセルビア人勢力が主張していたものである。即ち、ユーゴ和平国際会議でこれを詰めれば交渉による和平合意は可能であったことを示している。

ところが、外部の支援を頼って統一国家に拘る姿勢を示したムスリム人勢力のイゼトベゴヴィチ大統領が拒否し続け、それを米政府が支持したため、戦闘をいたずらに長引かせることになったのである。あるいは、米政府が主導するNATO軍によって、セルビア人勢力を屈服させることを目的とした軍事行動を選択したという可能性も否定できない。その意図するところは、米国による「新世界秩序」の創成のために、世界に向かって「パックス・アメリカーナ」を認知させ、権益の最大化を図るとともに、国内に向けては米国が世界の指導者であるという満足感を与えつつ、指導者層を信服させることを企図したものということである。

NATO軍は、和平協定が成立すると平和履行部隊・IFORをボスニアに進駐させて軍事部門を担った。文民統治部門は、95年12月に国連安保理決議1035を採択して「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBH」を設置して上級代表を置き、ボスニア連邦とスルプスカ共和国を統括した。UNMIBHが設置されたことで難民・避難民の帰還が進められたが、首都サラエヴォがボスニア連邦の領域とされたことから、セルビア人住民12万人が集団脱出に追い込まれたが、彼らの権利はほとんど顧みられることがなかった。

ユーゴスラヴィア連邦の完全な解体を企図したクリントン米政権

クリントン米政権は、クロアチアとボスニアのセルビア人勢力を武力で抑え込んで和平に持ち込んだものの、これでユーゴ連邦解体戦争を終わらせるつもりはなかった。クリストファー米国務長官は、デイトン・パリ和平協定が成立した翌年の96年6月、ミロシェヴィチ・セルビア大統領に、「情報・文化センター」をコソヴォ自治州の州都プリシュティナに設置させることを受け入れさせた。情報・文化センターはCIAの拠点となる施設である。この拠点を開設するに当たって、コンブルム国務次官補は「米国がコソヴォに関与し続けることの一例である」とコソヴォ自治州の波乱を予見させるコメントを発した。

米政府はコソヴォ紛争でコソヴォ解放軍の武力闘争を支援

コソヴォ自治州はセルビア共和国に属し、1991年の国勢調査では、アルバニア系住民が82%、セルビア人10%、その他8%である。82%のアルバニア系住民は自治権の拡大にあきたらずに独立を目論み、度々暴動を起こしていたが、穏健派の指導者イブラヒム・ルゴヴァは政治交渉による独立を志向していた。しかし、その穏健な方針を良しとしない若者たちが、武力による独立を掲げて88年にコソヴォ解放軍・KLAを結成していた。しかし、この組織はアルバニア系住民の支持するところとならなかったため、KLAのメンバーは内戦中のクロアチア共和国軍やボスニア政府軍の中に入り込み、独立にまつわる戦闘での経験を積んだ。そして、ボスニア内戦のデイトン・パリ和平協定後にコソヴォ解放軍に戻り、組織を強化した。

コソヴォ解放軍はアルバニアの政治的混乱に乗じて武器を大量に入手し武力闘争を活発化させる

1997年、隣国のアルバニアが経済的破綻から政治的混乱に陥り、武器の管理が疎かになると、コソヴォ解放軍・KLAはその武器を大量に入手し、直ちに武力闘争の規模を拡大した。KLAの武力攻撃が激しさを増すと、米政府は98年2月にゲルバード特使を派遣し、コソヴォ自治州のアルバニア系住民の穏健派を集めてコソヴォ解放軍は「テロ組織」であると言い渡す。国際社会の非難を危惧してコソヴォ解放軍・KLAの鎮圧をためらっていたユーゴ連邦政府は、このゲルバード米特使の発言がKLA鎮圧を容認するものと受け取り、治安部隊の投入を強化した。ところが、翌3月には米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国が外相会議を開き、ユーゴ連邦への武器の禁輸、政府の輸出信用状の発行停止、セルビアの抑圧者へのビザ発給停止などの制裁を決める。同じ3月、国連安保理は再び武器禁輸などの制裁決議1160を採択する。オルブライト米国務長官は、セルビア治安部隊が住民弾圧を止めなければ必要な措置を取るとの武力行使を前提とした警告を発した。

国際社会のこの反応を見たコソヴォ解放軍は武力闘争を活発化させ、98年5月にはコソヴォ自治州のおよそ25%の地域を支配下に置くまでになる。この事態の展開に合わせるように、米政府は6月にホルブルック米特使をコソヴォに送り込み、情報・文化センターに所属するCIA要員の手引きでコソヴォ解放軍と接触して彼らを「自由の戦士」と讃えさせた。そして、一方のユーゴ連邦には、コソヴォ自治州から治安部隊を撤収させるよう要求する。しかし、コソヴォ解放軍が自治州の4分の1を支配する事態を容認できないユーゴ連邦政府は、鎮圧行動を強化してKLAを次第に追いつめていった。この推移を見たG8は、6月のロンドン会議でセルビア治安部隊の撤収とユーゴ連邦への新規投資の停止などの制裁を決める。国連安保理は9月、ユーゴ連邦に追い打ちをかけるように「即時停戦とセルビア治安部隊を撤収させた上での対話を求める」との決議1199を採択した。

米政府はコソヴォ紛争では当初から国連安保理決議を回避する方針

1998年10月、事態を憂慮したロシアのイワノフ外相はミロシェヴィチ・ユーゴ大統領と会談し、欧州安全保障協力機構・OSCEの調査団を受け入れるよう助言した。ユーゴ連邦はこの助言にしたがってOSCEの調査団の受け入れを表明するが、OSCEはこれを一旦拒否する。この間、ホルブルック米特使は頻繁にユーゴ連邦を訪れたが、その内容は公表されなかった。しかし、ホルブルックの報告を受けたオルブライト米国務長官は「ミロシェヴィチ大統領は事態の深刻さを理解していない。我々は武力行使に安保理決議は必要ないという考えだ。ロシアの反対は武力行使の妨げにはならない」と、国連の存在を否定するような傲慢な意向を表明した。

NATOはすぐさま大使級理事会を開いたが、空爆に踏み切る場合の国際法上の根拠を何に求めるのかが詰め切れなかった。その間、ホルブルック特使はベオグラードを訪れてミロシェヴィチ大統領と会談を重ね、「1,経済制裁は継続する。2,NATO軍機によるユーゴ連邦領空の検証作業を実施する。3,コソヴォ解放軍との対話の努力を求める。4,2500人規模の新たな警察を組織し、司令官をアルバニア人、副司令官をセルビア人とする。5,OSCEの監視団2000人を受け入れる」などの合意を取り付けた。

米政府はOSCEコソヴォ停戦合意検証団に米CIA・英MI6などの情報要員を潜り込ませる

OSCEは中立的な機構であるかのように見られていたが、米政府はOSCEのコソヴォ停戦合意検証団・KVMの団長に曰く付きのウィリアム・ウォーカー米外交官を任命させるという細工を施した。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使に任じていた際、エルサルバドル独裁政権の殺人部隊といわれた「アトラカトル大隊」を支援して独裁政権に批判的だった教会の襲撃を容認し、イエズス会士や女性や子どもの殺害事件を容認し、擁護した人物である。この曰のあるウォーカーがOSCE・KVM団長に就任したことで、米政府のコソヴォ自治州に対する処理方針は明らかとなった。検証団は10月末から12月に掛けて1600人が順次コソヴォ自治州に入って行くことになるが、ウォーカーKVM団長はその中に米CIAや英MI6などの諜報工作員百数十名を紛れ込ませていた。情報部員を潜ませた目的は、「1,ユーゴ連邦の評価を貶める事件の捏造工作をすること。2,予定されているNATO軍による空爆の目標地点を調査すること。3,コソヴォ解放軍に接触してNATO軍空爆の際の標的を連絡させるための衛星電話を渡すこと」にあった。

ウォーカーKVM団長はラチャク村虐殺事件を捏造する

1999年1月15日、遅れてコソヴォに入ったウォーカー団長はラチャク村で行なわれたセルビア警察部隊とコソヴォ解放軍の武力衝突を、丘の上から観戦していた。この戦闘はセルビア警察部隊の勝利で終わり、セルビア警察部隊がラチャク村から撤収すると、コソヴォ解放軍はその後を襲ってラチャク村を再占拠した。ウォーカー団長は、その日は何も言わずにその場を離れた。翌16日、コソヴォ解放軍はOSCE検証団員やメディアの記者たちを呼び集め、窪地に並べられた45人の遺体はセルビア治安部隊が虐殺した民間人であると説明した。午後になってウォ-カーKVM団長はその場に現れ、「私が個人的に見たものから、この犯罪を大虐殺、人間に対する罪だと表すること、またセルビア治安部隊を告発することにためらわない」との声明を出し、予定通り「ラチャク村虐殺事件」なるものを捏造した。オルブライト米国務長官は直ちに反応し、ミロシェヴィチ大統領をナチス・ドイツの「1938年のアドルフ・ヒトラー」であると譬え、民族浄化を行なっていると非難してセルビア悪を印象づけることに一役を買った。このラチャク村虐殺事件なるものは、フィンランドの検視団などの複数の検証では、遺体のほとんどはコソヴォ解放軍の兵士であり、1体を除いて戦闘での死亡の可能性が報告されたものである。

米国の交渉術は土壇場で条件のハードルを高くすることにある

NATO軍は即刻空爆態勢を取ったが、EUはロシアを引き込んだ連絡調整グループによる和平交渉を提案し、ともかくも「ランブイエ和平交渉」が行なわれることになる。米政府はすぐさま和平交渉に介入し、コソヴォ自治州側の代表をルゴヴァ自治州大統領ではなく、コソヴォ解放軍の30歳の若いタチ政治局長とするように指示した。和平交渉はメディアのアクセスを遮断し、フランス北部のランブイエ城に閉じこめて2月6日から2週間の期限付きで始められた。

ラチャク村虐殺事件の雰囲気を引きずる中ではあったが、6ヵ国の連絡調整グループは和平交渉に尽力し、和平は成立するかに見えた。ところが、途中からオルブライト米国務長官が交渉の場に乗り込み、内容に容喙して主導するようになったため、交渉はまとまらなかった。コソヴォ自治州のタチ代表が独立を確定するよう強硬に主張したからである。

最終と位置づけられた3月15日に再開された和平交渉においてオルブライト米国務長官は、米政府の交渉術の常套手段である土壇場になって交渉条件のハードルを上げるという手法を行使した。オルブライト米国務長官がユーゴ連邦側に突きつけたハードル条項は、ユーゴスラヴィア連邦全土にNATO軍を駐留させ、行動の自由を確保した上で費用の一部を負担せよ、という軍事条項の「付属B項」である。一方のコソヴォ自治州のタチ代表に対しては、「3年後には独立について協議する」と言い含め、和平案の受諾を表明させた。もとより、ユーゴ連邦政府が全土をNATO軍に占領させるような条項を許諾するはずもなく、再開されたランブイエ和平交渉は3月18日に決裂した。このとき、ランブイエ和平交渉の調停者である6ヵ国による連絡調整グループへは、武力行使に積極的だったブレア英首相を除いて付属B項の存在は知らされなかった。そのため、国際社会はユーゴ連邦側が傲慢な対応をしていると思い込まされた。情報から遮断されていたメディアも、付属B項については知るよしもなかった。

米政府主導のNATOは、ラチャク村事件の捏造を初めとして、策謀を積み重ねて和平交渉を決裂させ、その責任をすべてユーゴ連邦側に被せ、NATO軍の空爆は必然だと思わせるという巧妙な詐術を使ったのである。

「人道的介入」を信じさせられた国際社会の知力

NATO軍は既に2月の半ば頃からイタリアのアビアーノ空軍基地などに集結し始めていたが、3月18日に交渉が決裂したことを受けて時間切れを宣言する。そしてNATO軍は国連安保理の決議を回避し、3月24日に「アライド・フォース作戦(同盟軍事作戦)」を発動した。安保理決議を回避し、交渉の時間切れを宣言して軍事力を行使するやり方は、03年のイラク戦争でも踏襲されることになる。「ユーゴ・コソヴォ空爆」は表向き「民族浄化」を止めさせる人道的介入だと称されたが、後にNATOの事務総長に就任することになるロバートソン英国防相は空爆を開始した3月24日に開かれた英下院議会で、「今年の初めのラチャク村に至るまでは、ユーゴ連邦当局よりも、コソヴォ解放軍・KLAの方が、より多くのコソヴォの死者に責任があった」と答弁した。のちに米大統領選に立候補することになるクラークNATO軍最高司令官は空爆開始直後に、「NATO軍の作戦はセルビア人の民族浄化を防ぐものではなかった。コソヴォとセルビアの治安部隊に対する戦争でもなかった。こうした意図はなく、目的でもなかった」と述べている。これらの発言は、アライド・フォース作戦に人道的介入なる美辞を冠したのが国際社会を欺くための作為にすぎなかったことを示している。

もっとも、ユーゴ・コソヴォ空爆は米国だけが主導したのではない。英国のブレア首相の回顧録によると、自分が米国を主導したのだと誇らしげに記述していることを勘案すれば、慎重だった英国もこの時点では主戦論が主流になっていたといえる。

コソヴォ紛争は「低強度紛争」に類するものでNATO軍の介入は覇権が目的

のちの検証によると、コソヴォ紛争におけるアルバニア系およびセルビア人双方合わせた犠牲者は1500人前後である。この死者数が多いか少ないかは個々の紛争事例による検証が必要とされるが、武力紛争としては「低強度紛争」に類するものであり、NATO軍が人道的介入の名を冠した大規模な軍事作戦を行わなければならないような事態ではなかった。この実態について、米政府はコソヴォの州都プリシュティナに情報・文化センターを設置し、CIAが情報工作を行なっていたこと、さらにOSCE・KVMの検証団の調査をふまえれば、十分に知り得ていたはずである。にもかかわらず、米政府はコソヴォでは10万人あるいは22万人が行方不明だとのブラック・プロパガンダを行ない、メディアを含めて国際社会はこれを信じ込まされて人道的なユーゴ・コソヴォ空爆に喝采を送った。国際社会の知力がどの程度のものかをこの事例は示している。

大規模な会戦を思わせる陣容を整えたNATOの海・空軍

米国が主導したNATO軍のアライド・フォース作戦は、大艦隊をアドリア海に集結させて実行された。米海軍は原子力空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊にミサイル巡洋艦「ヴェラ・ガルフ」と「レイテ・ガルフ」および水陸両用強襲揚陸艦「キアサージ」を伴い、イギリス海軍は軽空母「インヴィンシブル」艦隊を派遣し、フランス海軍は空母「フォッシュ」艦隊を派遣し、その他各国の駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻、潜水艦3隻など大海戦なみの陣容を整えていた。空軍は、イタリアのアビアーノNATO軍基地など周辺国の基地におよそ1000機を集結させ、さらに米長距離爆撃機のB-52、B-1B、F-117が、英国や米国の基地から出撃した。このNATO軍の陣容は、連邦解体によって僅か1000万人余りの人口に縮小させられた小国に対する軍事作戦としては異様ともいえる態勢であった。

中国大使館にもミサイルを撃ち込んだ破壊のための破壊に終始したNATO軍の空爆作戦

6月9日までの78日間におよんだNATO空軍の総出撃回数は3万4000回に及び、セルビア共和国の本土とコソヴォ自治州の社会的インフラ破壊を徹底的に実行した。ドナウ川に架けられていた橋をすべて空爆で崩落させ、テレビ・ラジオ局、発電・変電所、ガス、水道、病院、診療所、学校、交通機関、道路、産業施設、住宅などすべてが爆撃の対象となった。産業施設への爆撃は、化学プラントなどから有害物資がドナウ川を汚染させ、空気を汚染させた。さらに、NATO軍は人道的介入と称しながら、劣化ウラン弾やクラスター爆弾などの非人道兵器を使用した。爆撃の対象は、ユーゴ連邦軍の施設は当然ながら、インフラにとどまらず、市場での買い物客、走行中の列車、アルバニア系住民の避難民の車列ばかりか、駐ベオグラード中国大使館にまでもミサイル3発を撃ち込んだ。NATOは誤爆だと釈明したが、もちろん誤爆ではない。この中国大使館へのミサイル攻撃は、その後の国際安全保障体制に大きな影響を与えることになる。

米国防総省の発表によると、ユーゴ連邦側の損害は、対空迎撃能力の80%以上を破壊。ミグ21戦闘機24機を破壊。ミグ29戦闘機14機を破壊。SA3ミサイル10基を破壊。第1陸軍部隊35%を破壊。第2陸軍部隊20%を破壊。第3陸軍部隊60%を破壊。戦車・装甲車120台を破壊。兵員輸送車220台を破壊。軍用車輌製造施設40%を破壊。弾薬製造施設65%を破壊。航空機製造施設70%を破壊。テレビ・ラジオ局45%を破壊。ドナウ川沿岸道路70%を破壊。橋梁50%を破壊。コソヴォへの連絡道路50%を破壊。鉄道100%を破壊。製油施設10%を破壊。石油関連施設60%を破壊。セルビア社会党本部に重大な損害。大統領公邸へ重大な損害。炭素繊維爆弾などでベオグラードの70%を停電させ。セルビア共和国全土の35%を停電状態とした。

ユーゴ連邦が発表した被害では、民間人の死者1200人、負傷者5000人、工場や発電所は200ヵ所が破壊され、学校・教育施設は300ヵ所、橋梁50ヵ所以上、主要道路15ヵ所、民間空港5ヵ所、被害総額は297億ドルという巨額に上るとされた。

このとき、コソヴォの住民の難民・避難民は80万人におよんだが、そのほとんどはNATOの空爆を避けるためであり、またコソヴォ解放軍がセルビア治安部隊の民族浄化を印象づけるために追い立てた人たちであり、さらに空爆に憤ったセルビア人民兵組織が迫害した人たちであった。こうした実態を無視した米国が主導した国際社会は、80万人のコソヴォの住民の難民・避難民はすべてセルビア治安部隊が追い出したものと宣伝した。

ユーゴ連邦の国力を疲弊させることを目的として行なわれたNATO軍の爆撃

NATO軍の空爆がどのような意図の下に行なわれたかは、ユーゴ連邦がG8の和平案の受け入れを表明した6月3日以降の空爆の回数にそれが表れている。和平案受諾が既に確定している最後の3日間の空爆回数は、6日に爆撃機が630回出撃し、7日には483回出撃し、8日には657回出撃して無意味な破壊行為を続けた。人道的介入と称しながらなぜこれほどの破壊行為をNATO軍は行なったのか。

後に、NATO軍の高官は次のように語っている。「ユーゴ・コソヴォ空爆におけるユーゴ連邦の民間施設への爆撃は、もちろん誤爆ではない。民間施設への爆撃は、ユーゴ連邦の国家そのものを疲弊させることを目的として行なわれたものであり、戦後の復興に多大な経費をかけさせることによってユーゴ連邦軍の軍事力を弱体化させることにあった」と述べた。この発言は中国大使館へのミサイル攻撃も誤爆ではなかったことをも意味するが、そもそもNATO軍の空爆は人道的介入の意図の下に行なわれたのではなく、ユーゴ連邦に甚大な損害を与えることそのものが目的であり、復讐される虞れのない懲罰的な破壊行為を享楽したのである。時折、米兵の中から「石器時代に戻してやる」との暴言が吐かれることがあるが、そのような意識の下に空爆は実施されたものといえよう。

米国はコソヴォを地政学的支配地域に組み込むことに成功

ジュネーブ諸条約では、「妥当な軍事目標の要件として、民間施設への攻撃を回避すること、一般市民の保護」を義務づけているが、NATO軍がそのような配慮をすることはなかった。歴史が積み上げてきた非戦条約や人道的措置に関する条約は、NATO軍にとっては存在しないも同然の退廃状況にあったのである。

国連環境計画・UNEPが後に調査したところによると、NATO軍の空爆による破壊状況は、「1,ベオグラード郊外の工場地域のパンチェヴォは、破壊された工場から流出した水銀などが排水路に流れ出している。2,クラグエヴァツの自動車工場では、PCBやダイオキシン汚染が見られる。3,ヴォイヴォディナ自治州のノヴィサドの精油所からの油の流出は、地域住民の飲料水を汚染している可能性がある。4,ボールの精錬所では、二酸化硫黄が大気中に放出され、PCB汚染も見つかっている。5,劣化ウラン弾については使われた場所の情報を公表し、人々を近づけない措置を取らなければならない」と指摘したように、NATO軍の武力行使は環境への汚染をも顧慮しない非人道的なものであった。

NATO軍は、空爆によって屈服させた停戦協定で、ユーゴ連邦セルビア共和国の治安部隊をコソヴォ自治州から撤収させた。そして米国は、直ちにコソヴォ自治州内に欧州における最大級の「ボンド・スティール」軍事基地を建設し、地政学的な支配領域を確保する。

NATOの支援を受けたコソヴォ解放軍は「大アルバニア」の建設を構想する

一方、NATO軍の庇護を意識したコソヴォ解放軍・KLAは、「大アルバニア」の建設を構想する。大アルバニアの実績を見せつけることによって、国際社会にコソヴォ自治州の独立を否応なく認めさせられると見込んだからである。そこで、停戦協定によって設定されたコソヴォ自治州とセルビア共和国の境界の5キロ幅の非武装地帯に拠点を設置し、先ずセルビア共和国南部のアルバニア系住民居住地域を分離併合させることを目標に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を組織して武力闘争を仕掛けることになる。コソヴォ解放軍は州境に設定された拠点からセルビア共和国に攻撃を行ない、LAPBMとともに分離併合闘争を始めたのである。しかし、NATO軍の直接的な軍事支援を得られないコソヴォ解放軍の試みは、セルビア治安部隊の反撃にあって容易に達成できそうになかった。

そこでKLAは、軍備の弱体なマケドニア共和国に矛先を変えた。そして北部のアルバニア系住民居住地域の分離併合に取りかかり、アルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させ、01年3月にマケドニア北部に侵入した。このKLA・NLAの武力行動には米軍が濃厚に絡んでおり、一時期マケドニアの30%を支配するまでになる。しかし、マケドニア政府軍がウクライナから攻撃ヘリの貸与を受けるなど総力をあげて反撃したことによって、KLA・NLAは敗退する。このとき、米軍がマケドニア政府軍に包囲されたKLA・NLAの兵士や米CIAおよび米軍事請負会社MPRIの要員を保護するという行動に出て、トラックやバスなどで護送した。これに憤ったマケドニア住民は、この護送車の車列の進行を妨げて投石するなどの事件を起こした。

大アルバニア設立に失敗したコソヴォ解放軍は強引にコソヴォの独立を宣言する

コソヴォ解放軍の無思慮な大アルバニア構想は、2001年5月にセルビア南部で敗退し、8月にはマケドニアで敗退したことで敢えなく潰えたが、コソヴォ解放軍主体の暫定政府が独立を断念したわけではなかった。ランブイエ和平交渉の際、3年後に独立問題を協議するとの米政府の保証の実現を執拗に要求し続けたのである。そのため、国連は05年にアハティサーリ元フィンランド大統領を特使として裁定に当たらせた。しかし、セルビア共和国は自治権の拡大で譲歩を示したもののセルビア王国揺籃の地を手放すことは論外であり、コソヴォ解放軍は独立の確定に固執したことから、交渉がまとまることは望めなかった。そこで、アハティサ-リ国連特使は国連に持ち込み、安保理決議による解決を図ろうとする。これも、ロシアやベルギーなどの理事国から異論が出されたため、この方式も断念せざるを得なかった。

2008年1月、ハシム・タチ・コソヴォ解放軍元政治局長は、コソヴォ暫定政府の首相に再就任すると直ちに独立を宣言するとの声明を発し、2月17日にコソヴォ自治州暫定議会にそれを採択させる。米・英・仏・独などが予定調和の如く翌18日にこの独立を承認したものの、NATO軍の軍事力行使によって独立を獲得するというコソヴォのありようを国際社会は容易に認めるところとはならなかった。独立を宣言して1年を経た09年2月の段階で、国連加盟192ヵ国のうち承認したのは54ヵ国のみである。5年後の13年2月に至っても、独立を承認した国は98ヵ国に留まっている。

米政府が国際刑事裁判所・ICCの訴追対象から外すように特権を求めたためUNMIBHは解消される

ボスニアの三つ巴の内戦は各民族に深刻な傷跡を刻み込み、95年に内戦が終了して数年を経ても民族間の融和は進まなかった。そのため、UNMIBHはずるずると任務の延長を繰り返してボスニアの政治的統括を行なっていた。しかし、国際刑事裁判所・ICCの条約が発効する直前の2002年に、米政府が米国の駐留要員をICCの訴追の対象としないことを要求したために紛糾することになる。EUは、この米政府の要求に難色を示したのである。米政府は、恒久的な特別扱いが認められないとなると、UNMIBHの任期延長の安保理決議に拒否権を行使した。そのため、安保理は2002年12月に決議1423を採択してUNMIBHを解消した。EUとしては、UNMIBHが解消されてもボスニアの状況を放置するわけにはいかないことから、欧州連合のEUPMが警察部門を引き継ぎ、NATO軍事部門のSFORはEUFORに置き換え、NATOはボスニアに本部だけを残す形となった。米国は、NATOを引き込んで深く関与したボスニア・ヘルツェゴヴィナの政治的安定よりも、米国の権益擁護を優先したのである。

米国の新世界秩序創成の犠牲となったユーゴスラヴィア連邦

バルカンの地域は、中東から西アジアにかけた産油地帯に睨みをきかす地勢であり、東方のロシアのみならず西ヨーロッパをも視野に入れた地政学的に重要な位置にある。米国は軍事介入によってこの地域に政治的地歩を築いただけでなく、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニアおよびコソヴォに恒久的な軍事基地を建設するという望外の成果を得た。現在、コソヴォの首都のプリシュティナには、コソヴォの独立に貢献したクリントン米元大統領の3mの巨大な立像が建立されており、街路名にはオルブライト米元国務長官など米政府高官の名前が付けられている。

米国の戦略通りに進行したユーゴ連邦解体戦争

米国は冷戦終結後、社会主義諸国が組織していたワルシャワ条約機構を1991年に解体させる際に、NATOを東欧諸国に拡大させることはしないとゴルバチョフ・ソ連大統領に口頭で約していたが、エリツィン・ロシア共和国大統領が社会主義体制を放棄したことに乗じてそれを反故にした。そして、1999年にチェコ、ハンガリー、ポーランドをNATOに加盟させる。ユーゴ連邦解体戦争が終結すると、スロヴェニアを2004年に、クロアチアを09年に加盟させる。

NATOに加盟させられたスロヴェニアとクロアチアは、米政府の目論見通りに2001年の9・11事件後に始めたアフガニスタン戦争において、NATO軍主体の国際治安支援部隊・ISAFに引き込まれた。ISAFの設立は安保理決議に基づいているものの国連軍ではなく、実質はNATO軍の指揮下に入った組織である。

ユーゴ・コソヴォ空爆はロシアと中国に衝撃を与え軍備再編を促した

ユーゴ・コソヴォ空爆は想定外の影響を世界にもたらした。それは南オセチアやアブハジアの独立宣言にとどまらず、ロシアと中国の安全保障体制に衝撃を与えることになったからである。当時、ロシアと中国は現況において大規模な外部勢力による武力行使が実行されるような事態はないと分析していた。

ロシアのエリツィン大統領は、米国を信頼して社会主義体制から米国主導の資本主義体制への体制転換に余念がなかった。しかし、社会主義から資本主義への転換過程で経済が低迷したため、国力は著しく低下して軍備予算は削減されていた。当時のロシアはユーゴスラヴィア和平に尽力していたが、それがことごとく無視された上、米国主導のNATO軍がユーゴスラヴィアへの武力行使を実行したことに愕然とさせられた。そこでロシアはNATOの武力行使に対抗すべく、空爆最中の99年5月に「国家安全保障概念」および「軍事ドクトリン」を策定するなど核戦争にも備えた大規模な軍事編制を実施することになる。これには、のちに大統領になる安全保障会議書記だったプーチンが密接に関わっていた。

ロシアによるクリミア半島の併合はユーゴ・コソヴォ空爆の余波

ロシアの大統領となったプーチンは、米国が絡んで2014年に起こされたウクライナ政変において、ロシア人住民が多数を占めるクリミア半島を、住民投票を行なわせた上での併合を強行した。ロシアとしては、ウクライナにNATOの軍事基地が建設されることになれば、クリミア半島のセヴァストポリ特別市に租借していた軍港が閉鎖されることが想定され、黒海地域における安全保障上の大問題となるからである。これに対して欧米は経済制裁で応じたが、プーチン大統領は「コソヴォの例がある」と述べて正当性を主張した。欧米諸国は「コソヴォは例外である」として別扱いを要請しているが、コソヴォの独立承認が遅々として進まないのは、それを例外として認めない国が多数存在していることを示している。

大使館爆撃を受けてNATOを仮想敵国と位置づけた中国

中国は当時、NATOは関係の薄い軍事同盟とみていたことから、専守防衛で充分と考え、経済発展に邁進していた。しかし、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆の際、駐ベオグラード中国大使館がミサイル攻撃を受けたことでそれが幻想であることに気づかされた。NATO軍は誤爆だと釈明したが、もちろん誤爆ではない。それからの中国の反応は迅速であった。NATO軍を仮想敵国と定め、専守防衛に備えていた陸軍を削減して形ばかりだった海軍を増強し、空軍を「攻防兼備型」に編制替えして電子戦に備えるなど高機能の軍備改編に向かったのである。

米国はNATOのユーゴ・コソヴォ空爆の中ロへの影響を調査

米国防総省は、ユーゴ・コソヴォ空爆を行なった1年余りのちの2000年6月に、この軍事行動がロシアと中国の安全保障体制にどのような影響を与えたのかについて調査を行ない、報告書を作成している。それによると、中国とロシアが軍備の近代化や「戦略的協力」に努め、中国が台湾海峡やシナ海における米軍との軍事衝突に備えを整える契機となったと記述している。

しかし、ユーゴ・コソヴォ空爆が中・ロの軍備体制を強化することになった失政を認知することはNATOを核とする西側全般の安全保障体制に影響を与えかねないことから、ロシアと中国が軍備の改編増強していることを脅威だとして非難する言辞を弄して関心を逸らしている。それのみか、2021年現在に至ってNATO主要国の米・英・仏・独はアジア太平洋地域にまで戦闘艦艇を派遣して軍事演習を行なうまでになる。これが現時点における安全保障に係わる世界の理性の到達度である。

さらに、米国の上院外交委員会は2022年9月に「台湾政策法案」を賛成多数で可決した。内容は「1,台湾の軍装備の近代化などを目的として4年間で45億ドルの軍事支援を行なう。2,NATO非加盟の主要な同盟相手として台湾を指定すること。3,台湾の国際機関への加盟を支援すること」などである。要するにNATOがアジアに進出することを鮮明にしたのである。これは、NATOの覇権を全世界に及ぼすことを目標として掲げたことを意味する。

他者の基本的人権を尊重しない米国

民主主義の概念は多岐にわたるためにこれを定義づけるのは容易ではない。しかし、その中心となる理念を要約すると「基本的人権の尊重」にあるといえる。

米国は民主主義諸国の盟主と自認しているが、そもそも米国の成り立ちは、民主主義の基本理念とはかけ離れたものであった。北米大陸に押し寄せた移民、難民としての入植者たちは文明の利器としての武器を用いて野蛮人と位置づけた先住民を迫害し、戦闘死や餓死や疾病などで犠牲になった先住民は人口数千万人のうち1900万人に及んだという研究報告もある。

19世紀末にアメリカの先住民は56万人しか残らなかったからである。2010年の時点では290万人である。

人種差別の終わりが見えない米国

米国は、1863年の奴隷解放宣言を発したのちもあらゆる場面で制度的差別が続けられたが、およそ100年後の1964年に「公民権法」が成立してようやく制度上の差別は取り除かれたように見えた。しかし、21世紀に至っても「BLACK LIVES MATER」なるスローガンを掲げた抗議活動が続けられていることからすると、米国において民主主義の基本概念である基本的人権が尊重されるには至っていないといっていい。さらに、2021年にもなお投票権の制限をかけるような州法の改定が行なわれている。これが、米国の民主主義制度の到達度なのである。

アメリカの世紀として世界覇権国家を目指した米国

米国は、社会主義のソ連に対抗する形で中南米に加えてアジアやアフリカ諸国に様々な干渉をして独裁者を育て、そこから権益を得てきた。コンゴのモブツ、フィリピンのマルコスやインドネシアのスハルト、そしてチリのピノチェトなどがその典型である。これらの国は、民主主義制度などかけらも持ち合わせていない文字通りの独裁国家として長期にわたって存続し続けた。米国が支えたからである。

1989年にソ連圏の社会主義諸国が制度的崩壊を起こすと、もはや武力による反抗をおそれることがなくなったことを好機と捉え、独自にあるいはNATO諸国を率いて弱小国への露骨な軍事干渉を行ない、覇権国家意識を増大させてきている。

覇権国家を目指す米国の内政・外交の失政

米国の外交政策は、表向き民主主義の擁護者であることを唱えるものの事態にとって何が望ましいのかではなく、どのような解決が米国に利益をもたらすのかが優先される。米国が民主主義を唱道するのは内政・外交向けの制度的建前であって、彼らが外交において民主主義を尊重することはほとんどない。米国は正義を体現する世界の例外的存在であるが故に、米国の行為はすべてにおいて肯定されるべきであるという例外論を展開する。

米国の権益を優先させてユーゴ連邦解体戦争に関与

米国はどちらが親米国家になりうるかを判断の基準にしてセルビア悪の善悪二元論を展開して世界を幻惑し、クロアチアとボスニア内戦およびコソヴォ紛争の一方に加担するという対応を採り、いずれも目的を達成した。その意味で、米国はユーゴ連邦解体戦争においてほぼ望み通りの権益と秩序を確保したといえる。セルビア共和国を除く、旧ユーゴスラヴィア連邦のすべての共和国とコソヴォを親米国家とすることに成功したからである。米国の最終の目的は、米国の権益を世界に張り巡らす新世界秩序における覇権国家の形成にあり、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争はその過程での犠牲である。

秘密工作で紛争や戦争を続けてきた米国

カーター米第39代大統領は2019年に興味深い発言をしている。「アメリカは建国243年の歴史の中で、国として戦争をしていない年月は16年間しかない。小さな軍事侵攻などを含めれば、戦争がない歴史は僅か5年しかない。戦争をしていない大統領は自分だけだ」と誇らしげに語っている。しかし、カーター政権当時アフガニスタンにはソ連軍が侵攻しており、それに対抗するためにカーター政権は反ソ軍として戦ったムジャヒディーンを訓練して武器を供与して戦わせている。のちに敵対することになるアルカイダを育成したのも、カーター政権時のブレジンスキー大統領安全保障担当補佐官だったことを思量すると、米国が世界に対して軍事干渉をしなかった年月はほとんどないといっていい。のちにZ・ブレジンスキーはインタビューに応じ、ソ連が崩壊する一因となったのだから「得たものの方が多かった」と誇らしげに語っている。

9・11事件にアフガニスタンのタリバン政権は関与していないにもかかわらずアフガニスタンに軍事侵攻

カーター元大統領の発言を証するかのように、9・11事件が起こるとブッシュ米政権はユーゴ・コソヴォ空爆から2年後の2001年10月7日にアフガニスタンに軍事侵攻した。侵攻の理由は、9・11事件に当時のタリバン・アフガニスタン政権は直接かかわりがなかったにもかかわらず、9・11事件の実行者をアルカイダであると決めつけた上、その犯行者を匿っているとの言いがかりをつけ、外交努力を省いて報復戦争としてアフガニスタン侵攻を始めたのである。

「不朽の自由作戦」と名付けられたこのアフガン侵攻は、まず特殊作戦部隊を送り込んで地元の軍閥に金を与えて買収し、強大な軍事力を形成してタリバン政権を崩壊させた。

そして、アルカイダの関係者と目星をつけた人々をキューバのグアンタナモ収容所や世界の親米・従米国家と化した国々に設置した収容所に拘束して拷問にかけた。CIAは「拷問手引き書」なる文書を作成しており、それに則って拷問を行なったのである。ここには人々の基本的人権を尊重する意識の一欠片も見いだせない。

この間における軍事行動も恣意的なもので、アルカイダであるかタリバンであるかの見極めをすることなく、集落を爆撃した。しかし、この無差別爆撃がアフガニスタンの人々怒りをかき立てることになり、タリバンの勢力を増大させることになる。

米国は報復戦争に43ヵ国を引き込む            

アフガニスタン戦争は9・11事件に対する報復戦争として始められた軍事行動だが、NATOの規定第5条には加盟国の一国が攻撃を受けた場合には加盟国はこれを支援しなければならないことになっており、その規定に基づいてすべてのNATO加盟諸国は米国のアフガニスタン戦争に加わっていった。

また報復戦争に正当性を付加させるために、12月には国連安保理決議として治安維持活動・ISAFの設置を採択させ、NATO加盟諸国28ヵ国のみか加盟候補国など15ヵ国も引き込んだため、43ヵ国が世界でもっとも貧しい国の一つであるアフガニスタンに軍事攻撃を行うことになったのである。

20年間アフガニスタン戦争を戦い続けた米国は敗退して撤退

大所帯となったアフガニスタン侵攻軍は統一性欠き、それぞれがタリバンと戦うという事態が出来した。米国はアルカイダとタリバンを同一し、アルカイダの指導者のオサマ・ビン・ラディンを除去すればアフガニスタン戦争を終結させられると見込んだ。そして2011年に至り、オバマ政権は特殊部隊をパキスタンに送り込んで暗殺する。ブッシュ米大統領はアルカイダに法の裁きを受けさせると述べていたものの、次のオバマ政権はオサマ・ビン・ラディンを法で裁く手段は存在していたにもかかわらず殺害するという作戦を行使した。この暗殺で9・11事件がなぜ起こされたのかを明らかにするという方策は失われた。ユーゴ連邦解体戦争におけるミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領の医療措置を怠って獄死させたと同じような手法を、アフガニスタンでも行なったのである。この実況中継下で行われた国家テロともいうべき作戦は、アフガニスタン戦争になんらの好転ももたらさずにタリバン武装勢力は増大し続けた。

米国はアフガニスタンを民主主義国家にすると駐留の理由を変容させつつ、アフガニスタン政府軍をタリバンと戦わせるとの意図の下に訓練を施した。しかし、アフガニスタン政府軍はタリバンと戦い続ける意義を見いだすことができなかったのであろう、米国の思い通りの成果を上げることはできなかった。そして、米国はおよそ20年間戦い続けた末にようやく実態に気がついたのであろう、疲れ果てて2021年8月末に撤退した。

米国はアフガニスタン侵略で人々を苦しめた上撤退後に資産を凍結するという非道

米ブラウン大学の推計によると、アフガニスタン戦争における犠牲者数は、米軍兵士は2400人余り、ISAFとして派遣されたNATO加盟国と加盟候補国軍は1100余名である。一方で無差別攻撃によるアフガニスタン人の犠牲者は16万7000人を超える。その内の5万人は市民である。タリバンの犠牲者数もさることながら3分の1が市民であることを考量すると、米国が人々の基本的人権を尊重するどころか、原住民の命など取るに足らないと考えていることをこの数は示している。

侵略した国からはいずれ撤退しなければならないので、その撤退措置は当然としても、米国はなぜか撤退後にアフガニスタンの資産を凍結するという経済制裁を科している。アフガニスタンに兵員を派遣したISAF・NATO諸国もこれに倣った。日本も銀行間取引を停止した。そのため、撤退後にアフガニスタンの金融は機能しなくなって輸出入は途絶え、各国の支援団体も現地に支援金を送付することができず、現金そのものを携帯して持ち込まなければならない事態となった。これが民主主義を標榜し、人権の尊重を唱える国際社会の理性の実態なのだ。

国連食糧計画・WFPは、アフガニスタンが諸国の経済制裁により物資も輸入できないことに加え、干魃にも見舞われたこともあって物価が高騰し、失業者も増大したためアフガニスタン人の過半数は餓死寸前の状態にあると警告している。

怪しげな情報でイラクに侵攻し油田地帯を確保しようとした米国

2003年に始めたイラク戦争では、米国は国連安保理においてイラクが大量破壊兵器を所有しており、速やかな軍事行動が不可欠だと断言した。国連のイラク大量破壊兵器査察団の団長をしていた専門家のスコット・リッターがイラクに大量破壊兵器は存在しないと出版物を通して警告したものの、無視された。

その上、独・仏・露など国連加盟国の大勢が反対していることが明らかになると、国連安保理決議を回避し、米・英・豪3ヵ国で有志連合軍を編成してイラクに武力侵攻を行ない、フセイン政権を打倒した。ところが、占領してみると、大量破壊兵器製造設備の片鱗すら発見できなかった。いわば偽情報をまき散らしてイラクに侵攻したことになる。

米国はコソヴォ紛争でも偽情報をまき散らしてNATOによる空爆を実行した

同じ手法は、コソヴォ紛争が低強度紛争に過ぎなかったにもかかわらず、22万人が危機にさらされているとの偽情報を流した挙げ句「慈悲深い天使の作戦」なる美辞を冠して国連安保理の決議を回避し、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆を行なったことである。慈悲深い天使の作戦とは耳慣れない文言だが、かつてローマ法王ピオ12世がスターリン・ソ連書記長に対し「私たちには天使の師団がいる」と投げかけたのを想起させたつもりなのか。いずれにせよ自らを天使の位置に引き上げて軍事作戦を実行するのは理知の域を逸脱していよう。

その後のイラクにおける占領行政も粗雑きわまるもので、フセインが築いた統治機構を破壊した上で、イスラム教のシーア派とスンニ派の宗派対立を利用したため、宗派による内戦が起こる。この内戦の中からISが派生し、それが世界に広がってテロを起こすという混乱を招くことになった。すると、米国はISをテロ組織として指定し、新たなテロとの戦いなるものを始めた。ISとの戦いはシリアにも広がったが、クルド人民防衛軍の活躍もあってISの勢力は衰えた。米国はその状況を見定めると、2021年12月にはイラクにおける軍事任務を終了させると発表し、2500人を残置させてイラク軍への支援と訓練を施すことにした。中東の混乱は米国の恣意的な戦争に起因しているが、なお関与を続けるとしているのである。

この誤った情報で18年間続けたイラク戦争における米兵の犠牲者は4500人ほどである。一方、イラク人の犠牲者数はおよそ36万人と推定されているが、圧倒的な差である。この差異は、目的を達成するためには人々の人権や人命など顧慮するに足りないとの思考が深層で働いているといっても過言ではない。

米国はイラクとアフガニスタンで8兆ドルを費やし50万人以上を殺害

このアフガニスタンとイラクへの軍事介入に要する経費は、当初500億ドルと見積もられていた。しかし、2021年の米ブラウン大学の研究報告によると総額は8兆ドルに及ぶという。その内訳は、アフガニスタン戦争で2.3兆ドル、イラクで2.1兆ドル、退役軍人関連で2.3兆ドル、その他1.3兆ドルと試算されている。アフガニスタン戦争にNATO軍として参加した諸国の経費は明らかになっていないが、日本もアフガニスタンへの支援金との名目で70億ドルを超える経費を負担している。

この、巨額の資金を投入して米国は何を得ようと企図していたのか。米国の目標は、イラクとアフガニスタンが地政学的に中国とロシアを視野においた地域であり、また周辺の石油資源地帯を支配下に置くことによって世界に覇権を及ぼすことが可能であるとの意図が透けて見えるが、このいずれもが失敗に帰したといえる。それにしても、この巨額の経費はどこに消えたのか。恐らく軍産複合体の権益に流れたのであろうとの推察は可能である。

世界に干渉し続ける軍事国家としての米国

米国は、現在70数ヵ国を超える国や地域に800から900に及ぶ軍事基地に類する施設を所有し、100ヵ国を超える国々に特殊部隊を派遣している。そのため、毎年世界のすべての国の国防費を上回る8000億ドル超を計上しているが、「国務省」や「国際開発庁」、「国土安全保障省」およびユーゴ解体戦争で任務を果たした「軍事請負会社」などに配分された秘密経費を算入すると、1兆ドルに迫る軍事関連予算が使われているといわれる。米国は、同盟国を含めてこの圧倒的な軍事力で民主主義諸国の安全保障を擁護しているのだと唱え、様々な形で軍事的な干渉を続け、多くの人々を殺傷してきている。この米国の軍事干渉によって殺傷された人々の人権が尊重されることはない。

米国が操ったウクライナ政変

2014年にウクライナで政変が起こる。この政変に米国が関与していたことは、ネオコンであるヴィクトリア・ヌーランド国務次官補とシェフリー・P・パイアット駐ウクライナ米大使が交わした電話録音が暴露されたことで明らかとなっている。彼らはウクライナの親露派だったヤヌーコヴィチ大統領を退陣させたのちの後継者について実名を挙げて意見を交換していたのである。また、ヌーランドはキエフでの反政府デモの中に姿を現し、何かを群衆に配布している様子がニュース映像に捉えられていた。ヌーランドが属したネオコンは、2006年の段階で「ウクライナをNATOとEUに編入させるよう」に主張していた。

もっとも、米国がウクライナに関与したのはネオコンが最初ではない。米国は、第2次大戦後の早い時期にウクライナの独立国家を目指していた「ウクライナ・ナショナリスト組織・OUN」を支援し続けていたのである。

ロシアがこの事実をどのように解したかは明らかではないが、クリミア自治共和国の親露派勢力に住民投票を行なわせた上で3月にはロシアに併合するという強引な措置に出た。クリミア半島のセヴァストポリ特別市にはロシアが租借した軍港があり、ウクライナに米国ないしNATOの基地が設置されれば、ロシアの黒海艦隊が排除されかねなかったからである。

一方、米国はウクライナがNATO加盟国ではないにもかかわらず、政変後の2015年から米国の武器を供与してウクライナ軍の訓練を始めた。このころからウクライナに各国から民兵として流入した者たちが10万人を超えたとある情報が伝えているので、訓練を受けた者の中に民兵が混入していた可能性は高い。即ち米国はかなり早い段階でウクライナに軍事介入していたのである。この軍事訓練の事実はテレビの映像でも流されたので、かなりあからさまに行なわれていたといえる。ある研究によると、2015年から2022年のロシアのウクライナ侵攻までの間にNATO諸国がウクライナに供与した軍事支援は40億ドルを超えるという。

ゼレンスキー大統領とNATOは共同行動を取る

訓練の成果が充分に上がったと判断したのか、ゼレンスキー・ウクライナ大統領は、2021年3月にクリミア奪回の政令を発し、南方にウクライナ軍を移動させた。それに合わせるようにNATO軍は黒海とバルト海で軍事演習を行なう。それに対抗するようにロシアも演習を複数回行なった。

さらに、21年9月にゼレンスキー・ウクライナ大統領は米国を訪問し、バイデン大統領にウクライナのNATOへの加盟について道筋をつけるように要請した。これに対抗するように、ロシアは10月にウクライナの国境地帯に大規模な軍隊を集結させ軍事演習を行なうことになる。

ロシアのウクライナ侵攻への米国の対処

2021年12月、ロシア軍のウクライナ国境集結問題を解消するためにと称した米・ロ間で話し合いが持たれた。この交渉でロシアは主として4つの要求を提示した。「1,NATOの東方不拡大を約束すること。2,NATO加盟国の軍隊を1997年以前の状態に戻すこと。3,ロシア周辺国からNATO軍の中距離ミサイルおよび短距離陸上ミサイル基地を撤去すること。4,NATO加盟国はウクライナの加盟を含め、さらなる拡大をしないよう約束すること」である。米政府はこのロシア側の要求を拒否し、直ちにウクライナ国境からの撤収を求めた。

さらに、ウクライナ側は、ミンスク停戦合意を無視し、2月16日からウクライナ東部ドンバス地方への攻撃を激化させた。

プーチン・ロシア政権は愚かにもウクライナに軍事侵攻する

ロシアにとってNATOがいかに脅威であり、挑発行為をおこなったとしても、大国としての軍事侵攻は避けるべきだが、ロシア軍は22年2月24日にウクライナに侵攻するという愚行を敢行した。

これに対し、米国とNATO諸国はロシアへの厳しい経済制裁を科すとともに、ウクライナに武器を供与してこの戦争を煽って破壊と殺戮に加わった。

米国人ジャーナリストのクリス・ヘッジスは、「軍産複合体は、冷戦終結による利益減少に甘んじる気はなかった。NATO拡大に新たな市場を見出し、元共産圏諸国をEUとNATOに加盟させる政策を開始した。全ての戦争は悪である」と記述した。

この言葉を裏付けるようにバイデン米大統領は、ウクライナ軍に提供している対戦車ミサイル「ジャベリン」を製造しているロッキード・マーティン社の工場を訪問し、関係者を激励した。このジャベリンはウクライナ戦線で有効性を発揮し、ロシア軍は苦戦に陥ってキーウ近郊から撤退した。さらに米政府は、このウクライナ戦争は長引くだろうとのコメントを繰り返している。このコメントの意味するところは、ウクライナ戦争を長期化させることを米国が望んでいることを示している。このロシアとNATOの代理戦争によって軍産複合体は権益を拡大させ、NATO・米国の覇権を確立することが可能となるからである。それを示すかのように、バイデン米大統領は、22年5月にフィンランドとスウェーデン首脳との3者会談で両国にNATO加盟を勧めている。

米国の政治学者イアン・ブレマーは、この経緯を称してウクライナ戦争をロシアとNATOの代理戦争だと述べている。クリス・ヘッジスの発言を裏付けたものである。このウクライナ戦争の結末は見とおせない。「終末戦争」も考慮しなければならないからである。

米国は新たな米・英・豪による軍事同盟「AUKUS」を結成

ウクライナ戦争が始まる前年2021年に米国は、驚くべき政治的行動を展開した。8月にアフガニスタンから撤退すると9月に米・英・豪3ヵ国で構成する「オーカス・AUKUS」なる軍事同盟の創設を発表した。この軍事同盟の締結はヨーロッパ諸国にも秘密にされていたことから、衝撃が奔った。この軍事同盟は中国包囲網の一環と目されているが、ヨーロッパ諸国の安全保障体制にも影響を与え、再び独自の軍事同盟を組織したいとの声が高まった。

しかし、欧州における新たな軍事同盟が世界の安全と平和に寄与するかといえばそれは幻想である。軍事同盟の仮想敵国とされた国々はそれに対抗して軍備を強化することになるからである。

オーカスの創設は、現在機能不全に陥っている米・豪・ニュージランドで構成する「アンザス条約」の代わりのものであるとか、中国包囲網の一環であるとか評されているが、その面を含むにしても、アフガニスタンおよびイラクからの撤退による軍産複合体の権益の減退を補填するものとの見方も可能である。なぜなら、米国はNATO加盟国や日本に、GDPの2%程度にまで軍事予算を増やせと要求しているからである。軍事予算を2%に増額したからといって世界が安全になるとは考えがたいが、米国製の武器を購入させることを目論んでいるとはいえよう。

世界を分断する民主主義サミット

さらに米国は民主主義サミットを提唱し、参加国を111ヵ国に選別して2021年12月に開催した。このような行為は世界を分断する契機にはなっても、世界平和に寄与することはない。端的にいえば、米国は共和政体を採用している新自由主義市場経済(株主優先主義)に基づく資本主義国とはいえても、内外の人々の基本的人権を尊重する民主主義国家であるとは言い難く、それに対抗する専制主義国家も鎧を固めるからである。

「プーチンの戦争」および「オルブライトの戦争」にまつわる米国の覇権戦争はいつ終わるのか

ユーゴ・コソヴォ空爆が「オルブライトの戦争」であり、ロシアのウクライナ侵攻が神経症的「プーチンの戦争」と称されるものであるならば長引くことは必然であり、破壊と殺戮が積み上がり続け、明らかな勝者を見いだすことは困難であろう。とすれば外交的努力でしか解決しない。

同様に、この米国が主導するNATOの存在はいずれ見直さざるを得なくなる。「米国は世界であり、世界は米国である」との思潮の中にある米国にそれだけの理性が芽生えるかどうか、これは22紀を迎えることが展望できるかどうかの課題である。

<参照; 国連の対応、EUの対応、ドイツの対応、NATOの対応>

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6,ユーゴ戦争と「ソ連・ロシアの対応」

ロシアとユーゴスラヴィアは同じスラヴ民族

ロシアは多民族国家であるが、主な民族は東スラヴ族である。スラヴ族の起源はドニエブル川付近であろうということしかわかっていない。スラヴ族起源をノルマン人に措く説もある。

スラヴ族は3つに分けられる。南スラヴ族は旧ユーゴスラヴィアのスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテ・ネグロ人、マケドニア人、ボスニア人そしてブルガリア人である。西スラヴ族はポーランド人とチェコ人およびスロヴァキア人であり、ロシア人とウクライナ人およびベラルーシ人は東スラヴ族に属する。ヨーロッパにおいてスラヴ族は2億人を超える最大の民族となっている。

ロシアはキエフ公国を揺籃の地とし、モスクワ公国に移って以後ここを中心として勢力を拡大していくことになる。1613年にロマノフ朝が擁立され、以後1917年に革命で打倒されるまでツァーリ制から帝政へと発展しつつ300年間続いた。東スラヴ族としてのロシア人の宗教は、主としてキリスト教東方正教である。

ロシア帝国の南下政策

ロシア帝国は黒海への出口としてのクリミア半島をめぐってオスマン帝国とたびたび露土戦争といわれる戦火を交えた。また、バルカン諸国へは同族・同宗ということもあって、関心の強い地域であった。1875年にオスマン帝国の支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナで民衆が反乱を起こし、それがバルカン諸国の反乱へと拡大すると、それに乗じる形で1877年にロシア帝国はオスマン帝国に対していわゆる露土戦争を仕掛けた。

オスマン帝国は頑強に抵抗したものの、衰退しつつあった帝国は如何ともしがたくロシア帝国軍にコンスタンティノーブル近郊まで攻め込まれた。オスマン帝国は講和を申し出て、サン・ステファノ条約によってセルビア、モンテ・ネグロ、ルーマニアの独立が認められ、ブルガリアは自治公国となった。ロシア帝国はベッサラビアとザ・カフカースに領域を拡張したが、ベルリン条約によって列強の干渉を受けて削減された。この条約の結果にロシア住民は反発し、アレクサンダルⅡ世は「人民の意志」なる結社によって暗殺されてしまう。

ハプスブルク帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合が第1次大戦の遠因

この条約に係わる混乱に乗じてハプスブルク帝国は漁夫の利を得る如くしてボスニア・ヘルツェゴヴィナを支配下に置いた。そして1908年には併合してしまう。これが第1次大戦の誘因となる。ボスニアに青年ボスニア運動なる民族主義運動を誘発することになり、セルビア人将校による「黒手組」などの秘密結社が多数叢生したからである。

一方、ドイツではヴィルヘルム皇帝がハプスブルク帝国と同盟を結び、植民地主義の後発国として拡張政策に乗り出した。この動向を危惧したロシア帝国は1891年にフランスと政治協定をむすび、1904年には英・仏協商協定を締結し、1907年に露・英協商を結んだことで露・仏・英による三国協商が成立した。

バルカン同盟とオスマン帝国とのバルカン戦争

ロシア帝国は、ハプスブルク帝国がボスニアを1908年に併合したことに危惧を抱いており、この拡張政策を牽制するために1912年にバルカン諸国にハプスブルク帝国に対する同盟を形成するように働きかけた。バルカン諸国はこれに応じ、3月にセルビアとブルガリアが同盟を結び、5月にはギリシアとブルガリア、8月にはモンテ・ネグロとブルガリア、9月にはモンテ・ネグロとセルビアが同盟条約を締結し、交差した形の4ヵ国による「バルカン同盟」が成立した。

この同盟が成立する過程で、ロシア帝国の思惑とは異なり、4ヵ国同盟の対象はハプスブルク帝国からオスマン帝国が支配するバルカン地域のマケドニア、アルバニア、トラキアの奪還へと変貌していた。そして、9月27日に同盟が成立すると10月8日にモンテ・ネグロがオスマン帝国に宣戦布告し、続いてセルビア、ギリシア、ブルガリアが宣戦を布告して第1次バルカン戦争が始められた。オスマン帝国は十分な戦線を整えられないままに敗退を繰り返し、第1次バルカン戦争はバルカン同盟側の勝利に終わる。

1913年5月に講和会議が開かれるが、マケドニアの領有権をめぐってブルガリアが不満を募らせ、マケドニアに駐留していたセルビアとギリシアの部隊を攻撃したことによって第2次バルカン戦争が始められた。この無分別なブルガリアの行動はルーマニアとオスマン帝国の干渉を呼び込むことになり、ブルガリアは惨めな敗北を喫する。ブカレストの講和会議で、ブルガリアはピリン・マケドニアの領有は認められたもののマケドニアはセルビアとギリシアに分割され、ルーマニアには南ドブルジャを割譲させられた。第1次、第2次バルカン戦争でアルバニアは独立し、オスマン帝国はエディルネを再領有した。バルカン同盟の一つの目的は達成されたものの、ハプスブルク帝国によるスロヴェニアとクロアチア支配に加えてボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合問題は残されていた。

ハプスブルク帝国の皇太子フェルディンナンドの暗殺を契機に第1次大戦が始まる

1914年6月28日、ボスニアで行なわれた軍事演習の観閲のためにハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子がサラエヴォを訪れた。これを好機と捉えた秘密結社黒手組の支援を受けていたスラヴ民族主義者のセルビア人が、爆弾と銃撃で暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。ロシア帝国が仲裁に入り、セルビアが譲歩案を提示するが、ハプスブルク帝国はそれを拒絶し、ドイツとの同盟関係を確認すると1914年7月28日にハプスブルク帝国がセルビア王国に宣戦を布告した。

これに対し、ロシアは7月30日に総動員令を発する。これを見たドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告。三国協商を形成していたフランスはロシアの要請を受けて8月1日に総動員令を発する。ドイツはフランスおよび英国との戦闘にそなえて、8月2日にベルギーに領域通過許可を要求し、8月3日にフランスに対して宣戦を布告した。英国は遅れて8月4日にドイツに対して宣戦を布告する。こうして、第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は第1次大戦へと拡大していった。

第1次大戦は領域分割戦争

バルカン諸国はこれを領土獲得の機会と捉え、それぞれの思惑を抱いて参戦していくことになる。オスマン帝国は同年11月にドイツの同盟側に立って三国協商側に宣戦を布告。ブルガリアは翌15年10月にやはりドイツの同盟側に立って三国協商側に宣戦を布告。ルーマニアは中立を宣言していたが16年8月に協商側に立って参戦。しかし、17年にロシアで革命が起こると同盟側と休戦協定を結ぶ。ギリシアは親独派の国王と親協商側の宰相とに二分して態度が定まらなかったが、16年10月に宰相側が臨時政府を樹立して国王に退位を迫り、17年7月に協商側に立ってドイツ同盟側に宣戦を布告した。

三国協商が参戦した理由の一つには植民地を拡大するという思惑があった。大戦を開始した翌15年には、衰退しつつあったオスマン帝国を潰してアラブ諸国を分割するということを企てた。それは、サイクス・ピコ協定という秘密協定を英・仏・露で結ぶという形となって現れることになる。

三国協商を形成していたロシア帝国は貴族性に基づく将軍の指揮のまずさから大敗北を喫する。そして1917年2月に革命が起こり、ロマノフ王朝は瓦解し、3月にドイツとの間にブレスト・リトフスク条約を結んで大戦から離脱した。

ずるずると果てしなく続いて目的を失った第1次大戦は、米国が17年5月に参戦するに至り、戦線は連合国側に傾いた。ドイツでは厭戦気分が蔓延して18年11月に革命が起こり、居場所を失ったヴィルヘルム・ドイツ皇帝がオランダに亡命したことでドイツ帝国は崩壊し、ハプスブルク帝国のカール世も退位したことで第1次大戦は三国協商・連合国側が勝利するという形で終結した。

膨大な損害を出して帝国のほとんどが消滅した第1次世界大戦

第1次大戦に動員された兵員は両側合わせて6000万人を超え、兵員の死者は1000万人、戦傷者は2000万人に達した。民間人の死者も700万人に及び、さらに永引いた戦争で疲弊したヨーロッパで流行したスペイン風邪による死者は4000万人を超えたといわれる。

ドイツに課せられた賠償金は1320億金ドイツ・マルクという、経済学者のケインズが批判した途方もない懲罰的なものとなった。これがドイツ人の対外敵愾心を醸成させることにもなり、第2次大戦の遠因となる。

ともあれ、この大戦でハプスブルク帝国、ドイツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国とヨーロッパにおける帝国は大英帝国を除いてほとんどが消滅した。ポーランドは独立し、バルカンのユーゴスラヴィアは「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」となる。王国の摂政から国王となったセルビア人のアレクサンダルは、やがて独裁体制を強めていく。

世界の干渉戦争を乗り越えてソ連に社会主義国が誕生する

革命後のソ連は赤軍と皇帝派の白軍による内戦が戦われたのみか、大戦中の18年に囚われのチェコ軍を救出するとの名目で始められたロシア革命を潰すための米・英・伊・日などの列強による干渉戦争でしばらくは混乱した。しかしそれらをいずれも克服し、1922年12月にポルシェヴィキによるソヴィエト連邦の樹立が宣言された。

レーニンが死去してスターリンが実権を握ると、中央集権化を強めていく。スターリンの政策は、国内での中央集権化だけでなく、各国で結成された共産党にもコミンテルンを通してソ連共産党への従属と忠誠を求めるというものであった。戦間期のソ連とバルカン諸国との関係は表向き希薄に見えたが、ソ連は1937年に東欧およびバルカン諸国に社会主義革命を広めるため、ソ連共産党に忠実な各国の共産党指導者をそれぞれの国に送り出した。後に、ユーゴスラヴィア連邦の指導者となるヨシプ・ブロズ・チトーもその1人だった。

大戦後にイタリアにファッシズムとドイツにナチズムが台頭する

一方、当時の国際政治状況は、イタリアにファッシズムが勃興し、ドイツにはヒトラー率いるナチズムが台頭した。ユーゴスラヴィア王国の独裁体制に反発したクロアチアでは、ファシスト・グループ・ウスタシャが結成される。ウスタシャの創立者のアンテ・パヴェリッチはファッシズム・イタリアに拠点を置き、クロアチアの独立を唱えた。そして、34年にフランスを訪れたアレクサンダル・ユーゴ国王とフランスのバルドゥ外相をマルセイユで暗殺する。フランス政府がパヴェリッチの引き渡しをイタリアに求めるが、ムッソリーニ率いるファッシズム・イタリア政権はこれを拒否した。

戦間期にドイツではヒトラー率いるナチスが台頭し第2次大戦を始める

ドイツでは反共主義を唱えたヒトラーのナチスが政治を左右するようになる。このヒトラーを、やはり反共主義者のヒンデンブルク大統領が1933年1月に首相に指名する。ヒトラーは政権を掌握すると3月には憲法を無効化する「全権委任法」を制定し、10月には国際連盟とジュネーブ軍縮条約からの脱退を宣言する。34年にはオーストリア首相を暗殺。35年にはザール地方を併合。36年にはヴェルサイユ条約を破棄する。そして、37年11月にイタリアとの間で防共協定を結び、38年3月には親ナチ化していたオーストリアを合邦化し、39年3月にチェコスロヴァキアを併合する。さらに、39年8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、およそ1週間後の9月1日にナチス・ドイツはポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。

英・仏は9月3日にドイツに宣戦布告をするが、有効な戦線を構築できなかった。それを見透かしたナチス・ドイツは、40年2月に独ソ間で軍需物資の原料を相互に供給する経済協定を結ぶと、4月にはデンマークとノルウェーに侵攻。さらに5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻し、大陸に派遣していた英国軍をフランス領のダンケルクに追いつめて駆逐した。そして、6月にはパリに入城して勝利を宣言する。ナチス・ドイツは余勢を駆って「海獅子作戦」を発動し、英本土への上陸作戦を試みるが、英国の海空による頑強な抵抗を受けたことで、一時的に断念せざるを得なかった。

ヒトラーはソ連を植民地化するための侵攻計画を命じる

そこで、ヒトラー総統は40年7月、かねてからの狙いであったソ連を植民地化することを企て第ソ侵攻作戦の立案を命じた。それが「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。その意図は広大なソ連の物量を確保し、そののちに英国を屈服させるための大規模な戦争を仕掛けるというところにあった。その作戦を実行に移すためには、軍需物資の調達地の拡大と後背地の安全を図るためにバルカン半島の支配が不可欠と考えた。しかし、ユーゴ王国とギリシア王国は言を左右にしてナチス・ドイツとの同盟関係に難色を示していた。ギリシアには既にイギリスの海上を通じた支援の手が伸びていたことから、ギリシアが同盟国となることは望めなかった。そのため、ナチス・ドイツはギリシア侵攻作戦である「マリタ作戦」を立案する。

ナチス・ドイツはユーゴスラヴィア王国およびギリシア王国を占領

ユーゴスラヴィア王国としては、第1次大戦でドイツ圏と戦ったことから親協商意識が根強くあり、敵対してきた同盟国側に加入することを潔しとしなかった。そこでユーゴ王国は、ソ連との間に通商条約や武器提供取り決めなどを交わしてドイツとの同盟国側を牽制しようとした。しかし、猜疑心の強いスターリン・ソ連書記長が不可思議なことにヒトラーを信頼しており、ドイツを刺激することを封じたためにそれは実現しなかった。万策つきたと判断したユーゴスラヴィア王国政府はナチス・ドイツの威圧に屈して41年3月25日に国同盟に加盟することを受諾する。

ところが、王国の軍部の一部や民衆がこれに抗してクーデターを起こして同盟への加盟を破棄するよう要求した。狼狽したユーゴ王国政府はナチス・ドイツに対して条約は有効だと弁明するがヒトラーはこれを許容せず、ギリシア征服のためのマリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用し、41年4月6日に同盟を構成していたイタリアおよびハンガリー、ブルガリア、ルーマニアとともにユーゴスラヴィア王国とギリシア王国へ侵攻して両王国の軍隊を粉砕し、全土を占領した。ユーゴスラヴィア王国とギリシア王国政府はともにイギリスに亡命する。

ユーゴ王国は親独のファシスト・グループと反独の民族戦線とに分裂

ユーゴ王国軍が短期間に屈した背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響を受けていたスロヴェニアとクロアチア人で編成された第4軍と第7軍がナチス・ドイツ同盟軍への防衛戦を拒否したことがあった。その影響下にあったスロヴェニアとクロアチアの市民はナチス・ドイツ軍の侵攻を歓迎したのである。ナチス・ドイツ軍を引き入れたクロアチアのウスタシャは、アンテ・パヴェリチを首班とする傀儡政権「クロアチア独立国」を設立する。

一方、ユーゴ王国内で同盟国軍に抵抗する勢力として、王党軍の残党ミハイロヴィチ大佐率いる「チェトニク」が組織された。しかし、チェトニクはナチス・ドイツに「ドイツ兵1人1人を負傷させれば50人を殺す。1人を殺せばセルビア人100人を殺害する。」との脅迫を受けるとナチス・ドイツとの戦いを封印してしまう。他方、ソ連帰りのヨシプ・チトーが「パルチザン」を結成して対同盟戦線を形成した。

成功するかに見えたバルバロッサ作戦とソ連の対応

ユーゴ王国とギリシア王国を占領したナチス・ドイツ軍は、41年6月22日に独ソ不可侵条約を破棄してバルバロッサ作戦を発動し、300万のドイツ軍と同盟国軍の250万、合わせて550万の兵員を動員してソ連に侵攻した。

当時、ソ連の書記長だったスターリンは猜疑心の強い男だったが、なぜかヒトラーを信用し、ドイツがソ連を侵攻することはないと確信していた。その確信に基づいたのか、自らの地位を脅かしかねない者を反ソ的として秘密警察を通して数百万人を粛清した。粛清は赤軍の有能な将校にも及び、元帥を含むおよそ2万数千人の司令官級の将校を処刑し、流刑に処した。そのため、当時のソ連赤軍は戦闘指揮さえおぼつかない若い将校が司令官を占めるというほどに弱体化していた。

ソ連との国境地帯に550万を超える軍団が終結していたのだから、当然その事実は複数の情報源からもたらされていた。

当時、在日ドイツ大使館の要員にもなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、スターリン宛にナチス・ドイツがソ連に侵攻する日時までをも含む詳細な情報を送信していた。にもかかわらず、スターリンはそれを謀略だとして鼻であしらった。情報源には英国政府からのものまであったのだが彼は英国の情報よりもヒトラーを信頼してそれを退けた。そればかりか、スターリンはドイツの侵攻作戦が迫っている6月にヒトラーに手紙を送ることさえした。ヒトラーはそれに対し、「ドイツはソ連にいかなる領土的、経済的要求もしていない」との内容の返書を送る。猜疑心の強いスターリンがヒトラーのこの見え透いた返書を信じ、その手紙を重要な閣僚に見せつけて自らの判断の正しさを誇ったのである。

スターリン・ソ連書記長の愚かな対応が緒戦での敗北を招く

前線の司令官たちはナチス・ドイツ軍の集結を目前にしていながら、スターリンの「ドイツを刺激するな」との指示に逆らえないこともあって、臨戦態勢を取れないでいた。そのような状況下にあったソ連へのナチス・ドイツのバルバロッサ作戦は、緒戦で圧倒的な成功を収めることになる。ヒトラーを信頼し続けてナチス・ドイツ軍の侵攻を招いた独善的で凡庸な判断を強要したスターリンは、この時点で失脚させられてしかるべきだったのだが、粛清を免れていた側近たちはそうせずに彼を支えた。そして、独ソ戦を「大祖国戦争」と位置づけ、慌てて兵士を徴募した。応募した兵士は1ヵ月で100万人を超える。

しかし、緒戦の態勢の欠陥は立て直しようもなく、9月にはナチス・ドイツ同盟軍の北方軍はレニングラードの包囲を行ない、南方軍はウクライナのキエフを陥落させてスターリングラードの攻略とバクー油田地帯とを視野に置くほどになり、中央軍はベラルーシ(白ロシア)のミンスクを陥落させてモスクワ近郊にまで迫った。ソ連の政府機関は一部を残して後方に移転し、軍需工場などもウラル地方に移させざるを得なくなる。

その敗勢の中で米・英・ソは41年9月にモスクワ会議を開き、連合国の形成に合意し、英国への支援のために成立させた米国の武器貸与法をソ連にも適用することが決められた。この協定によるソ連への米英からの支援物資は、北海やイランを通した黒海および千島列島を通じて輸送された。

そして、再びリヒャルト・ゾルゲが送信した「日本は南方に関心があり、ソ連に侵攻する意図はない」との情報を目にした政府高官がスターリンを説得し、対日戦に備えてシベリア方面に派遣していた精鋭部隊を呼び戻して反撃を開始する。シベリアからの精鋭軍がナチス・ドイツの中央軍への反撃に加わったことで、ドイツのモスクワ攻略の可能性は潰えた。1941年10月、日独防共協定を結んでいた日本の官憲はゾルゲの行為を察知して逮捕し、44年11月に処刑する。いわゆるゾルゲ事件である。

ナチス・ドイツの北方軍によるレニングラード包囲戦は多数の餓死者を出す

ナチス・ドイツ北方軍はレニングラードを900日わたって陸海空軍による補給路を遮断する包囲攻撃を行なったため、市民の食糧不足は熾烈を極め、飢餓や疾病による死者は60万人に及んだという。ただ一箇所、ラドガ湖が冬季に氷結したときのみ車両による補給路を確保したものの、やがてそのルートもナチス・ドイツ軍の攻撃を受けるようになった。作曲家のショスタコヴィチはこの包囲攻撃の最中に交響曲第7番「レニングラード」を作曲して演奏に漕ぎ着け、ロシア国民を鼓舞した。

スターリングラードの攻防戦に敗北したナチス・ドイツはソ連の植民地の野望が潰える

一方、バルバロッサ作戦の初期の成功に気をよくしたヒトラー・ドイツ総統は、南方軍に象徴的存在としてのスターリングラードの攻略を命じる。南方軍は42年8月からスターリングラード攻撃を始め、攻略は成功するかに見えた。しかし、それからの攻防は凄まじい市街戦となり、街の中の建物1棟1棟の奪取戦が展開されたことで、双方の損害はおびただしいものとなった。消耗戦を強いられたナチス・ドイツ軍は補給線が伸びきっていたことと相俟って次第に戦闘力を失い、攻略するどころか43年1月30日に9万人の捕虜を出して降服することになる。南方軍がスターリングラード攻防戦に敗北したことで、もはやナチス・ドイツの勝利の見込みは立たなくなった。ヒトラー総統はスターリングラード攻防戦の敗北に気落ちしたのか、それ以降公式の場における演説はしていない。

第2次大戦中はユーゴスラヴィア支援に消極的だったソ連

一方、ユーゴスラヴィアの戦線ではパルチザンが困難な戦いを続けていた。ソ連としては42年1月に米・英・ソ間で連合国共同宣言に調印しており、その上、英米連合軍に西部戦線を構築するよう要請していたこともあり、連合国の意に添わないことは極力避けようとした。そのため、英米連合国に気遣いをして共産主義者のチトーが率いる人民戦線のパルチザンを評価しなかったばかりか、ユーゴ王国のロンドン亡命政府系のチェトニクを支持し、パルチザンにチェトニクと共同戦線を形成するよう容喙した。さらに、ソ連は43年5月にはコミンテルンを解散するということまでする。

しかし、チャーチル英首相はソ連の要請を無視し続け、米国の提案をも退けて英国の中東油田地帯の権益を護るために地中海地域での戦線構築に拘っていた。

チャーチル英首相はパルチザンへの支援に踏み切る

そして、ユーゴ王国亡命政府麾下のチェトニクがナチス・ドイツへの抵抗戦を放棄していたことに見切りをつけ、43年5月に英軍の視察団をパルチザンに送り込んだ。英軍の観戦武官は命の危険に曝されながら、パルチザンの部隊がナチス・ドイツの部隊をユーゴスラヴィアに膠着させるという連合国に有益な戦線を形成していたことを見て取り、その実態をチャーチル英首相に報告した。報告を受けたチャーチル英首相は、43年11月に開かれた三国首脳によるテヘラン会談において、米・ソの両首脳にパルチザンへの支援を行なうよう提案する。米・ソの承認を得たチャーチルは、パルチザンに援助物資を送るとともに英軍の落下傘部隊を派遣した。

英国はようやく西部戦線を構築する

チャーチル英首相は、英軍がダンケルクから追い落とされてから4年後の44年6月に至ってようやく西部戦線における戦線の構築に取りかかり、6月6日に「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動した。この連合軍による作戦は成功し、ナチス・ドイツ軍は東西両面作戦を展開しなければなくなる。もはや、ナチス・ドイツの勝利の見込みは消滅した。

ソ連赤軍は西部戦線が構築されたことと相俟って大攻勢に転じ、44年8月にはルーマニアのブカレストとチェコスロヴァキアのプラハを陥落させ、9月にブルガリアのソフィアを落とすと、ようやくユーゴスラヴィアのパルチザンと接触した。連合国の支援を受けて余裕ができていたパルチザンは、ソ連赤軍が任務終了後に撤収することを条件にユーゴスラヴィア領内に入ることを了承し、10月にソ連赤軍とパルチザンは共同でベオグラードを攻撃して奪還する。ソ連赤軍は、ユーゴスラヴィアからドイツ同盟軍を排除すると、約束通り撤収した。

45年に入るとソ連軍は怒涛のようにドイツ領に侵攻し、4月にはベルリン攻撃に入った。敗北を自覚したヒトラーは、45年4月30日に自殺し、後継者のデーニッツが45年5月8日に降服文書に署名したことによって欧州戦線は終結した。ナチス・ドイツが敗北した主な原因はソ連の軍事力を過小評価したことと、東西二正面戦線を維持できると錯誤したことによる。

膨大な人的損失を出した欧州戦線

欧州戦線でナチス・ドイツと連合軍の双方が動員した兵員の総数は1億人近くに達し、兵員の死者数は2500万人前後。その中でナチス・ドイツ軍の兵員の死者数は500万人余り、ソ連赤軍の死者数は1000万人を超えたといわれる。一方で、民間人の死者数は5000万人前後と圧倒的な民間人の死者を出した。中でもソ連の民間人の死者数は1500万人余りと突出している。現代の戦いは、民間人の犠牲が多数に上る傾向を示している。独ソ戦で民間人の犠牲者が多数に上ったのは、それぞれの軍隊が進撃した際に、恣意的に民間人を虐殺したことも挙げられる。尚、民間人の死者数でソ連に次いで多いのは中国でやはり1500万人前後である。ユーゴスラヴィアにおける死者数は170万人とされているが、そのうち100万人は内戦による死者といわれる。

ソ連はユーゴ連邦を反社会主義として排除する

大戦後のユーゴスラヴィアでは、1945年11月に行なわれた制憲議会戦で人民戦線派が王党派を圧倒して勝利した。そして、46年1月に新憲法を制定して王制を廃止し、ソ連の中央集権型の社会主義体制を採用する。しかし、ユーゴ連邦が戦後処理の一環としてのトリエステの領有をイタリアと争い、さらにソ連の意向に反してギリシアの内戦に関与し続けたこと、47年にはブルガリアとの「バルカン連邦」構想を提起したことが分派行動としてソ連指導部の逆鱗に触れた。ソ連指導部は、大戦中に連合国の支援を受けたことからユーゴ連邦がトリエステの領有を争うことは望まず、また、ギリシアは英国の支配圏にするとの密約があったからである。ソ連指導部としては、些末な領域争いによって連合国側を刺激し、東欧諸国の支配権が崩されかねないことを懸念したのである。のちに、冷戦を煽ったチャーチル英元首相がソ連は約束を破らなかったと述懐したのは、このギリシアをめぐる関連を指してのことだと推察し得る。

そこで、ソ連指導部は48年6月に開いた第2回コミンフォルム大会において、ユーゴ連邦を社会主義圏の結束を乱すものとして追放した。さらに、49年1月に設立されたコメコン・友好協力相互援助条約からユーゴ連邦を排除し、経済制裁を科した。そのため、50年にはユーゴ連邦と社会主義圏との貿易量が50%からゼロにまで落ち込んだ。この敵対関係は政治・経済にとどまらず、国境紛争にも及んで銃撃事件が頻発し、ユーゴ連邦は国防予算をGDPの23%に達するまで増加せざるをえない状態に追い込まれる。

ユーゴ連邦を社会主義体制から資本主義体制へと転換させる好機と捉えた米国

コミンフォルムからの追放を見た米国は、ユーゴスラヴィア連邦を西側に取り込めると分析し、48年12月にはユーゴスラヴィアの在米凍結資産5500万ドルを解除した。さらに、49年に米輸出入銀行も2000万ドルを貸与し、世界銀行に2500万ドルの借款に応じさせ、52年には米・英・仏が共同して9000万ドルの融資を与えた。

対立と宥和を繰り返したソ連とユーゴスラヴィア連邦

ユーゴ連邦はコミンフォルムから追放された後、ソ連型の中央政権型ではない社会主義制度を模索し、53年憲法によって独自の自主管理型社会主義制度を採用した。このことが、ソ連との関係を一層難しくさせた。しかし、同じ年の53年3月にユーゴ連邦に対して強硬な姿勢を採っていたスターリンが死去すると、ソ連指導部は宥和政策を採るようになる。55年にフルシチョフ第1書記がユーゴ連邦を訪問し、コミンフォルムからのユーゴ連邦追放はスターリンの過ちだったと謝罪した。その上で、ソ連・ユーゴ連邦建設計画援助協定を締結した。56年2月、フルシチョフ第1書記が秘密報告でスターリン批判を行ない、その流れに沿って4月にはユーゴ連邦との間の桎梏となっていたコミンフォルムを解散した。

ソ連がユーゴ連邦に宥和姿勢を示しても、ユーゴスラヴィア側は西側との結び付きを解消したわけではなかった。ソ連はそのようなユーゴ連邦に対し、米帝国主義への接近を図って社会主義圏の分裂を画策しているとして修正主義批判を行なう。それに対してユーゴ連邦は、ソ連の強権支配と個人崇拝批判で応酬した。60年に開かれた81ヵ国の共産党の首脳会議では、すべての首脳がユーゴ連邦を批判するという、ユーゴ連邦にとっては孤立感を深める深刻な事態に至る。

非同盟諸国会議に傾注するユーゴ連邦

このようにソ連とユーゴ連邦の両国間は宥和と対立が交互に繰り返えされ、根本的な友好関係は築けなかった。チトーが非同盟諸国首脳会議に力を入れたのは、この社会主義諸国や各国共産党の動向と無関係ではない。

1955年に開かれたバンドン会議(アジア・アフリカ首脳会議)の流れを汲んで1961年に開かれた第1回の非同盟諸国首脳会議として位置づけられる中立国首脳会議は、ユーゴ連邦のベオグラードで開催され、25ヵ国が参加した。

1963年になると、フルシチョフ・ソ連首相がユーゴスラヴィア連邦を訪問し、65年にはチトー・ユーゴ大統領がモスクワを訪問して友好関係を確認し合う。しかし、ソ連は非同盟諸国会議の価値を認めようとはしなかったため、両国間はぎくしゃくした関係が続いた。

ユーゴ連邦はワルシャワ条約軍のチェコ侵入を非難

1968年、チェコスロヴァキアで「プラハの春」といわれる運動が起こった。ソ連は制限主権論を唱え、ワルシャワ条約機構の軍隊をプラハに侵攻させてプラハの春を潰すと、ユーゴ連邦はこれを厳しく批判して対立を再燃させた。ユーゴ連邦はこのプラハの春の事態を深刻に受け止め、翌69年、これに対処するための「全人民防衛体制」なる独特の軍事制度を編み出す。この体制によって、ユーゴ連邦は各共和国にそれぞれの「領土防衛隊」を設置して各共和国に軍管区を設置して武器庫をそれぞれの地域に設置した。この軍備拡散策がのちのユーゴ解体戦争で各共和国の武装を容易にすることになる。

1970年代も、ソ連とユーゴ連邦はつかず離れずの関係が続いたが、ユーゴ連邦は原則を崩さなかった。79年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、ユーゴ連邦政府はこれも厳しく批判した。

80年にユーゴ連邦のカリスマ的存在だったチトーが死去する。チトー―は死に際に、西側の外交官にソ連を警戒するようにとの言葉を残している。チトーの死去後、西側諸国はユーゴ連邦にワシントン・コンセンサスに基づく新自由主義市場経済の導入を要請した。この後戻り不可能な「ショック療法」はユーゴ経済を混乱させ、連邦政府への求心力を損なうこととなった。

88年になってゴルバチョフ・ソ連首相とユーゴ連邦との間に相互の立場を尊重する「新ベオグラード宣言」を合意するが、翌89年11月に突如ベルリンの壁が瓦解し、これを契機に東欧の社会主義圏が崩壊していった。

国力を失ったロシアが提唱した政治解決はNATO諸国から無視される

東欧の崩壊を見たユーゴ連邦内の各共和国の民族主義者たちは、ドイツとバチカン市国その他の煽動工作を受けて蠢き出す。ユーゴ連邦では、スロヴェニアとクロアチアが91年6月25日にユーゴ連邦からの分離独立を宣言したために、武力衝突が頻発することになった。EC諸国は、ヨーロッパにおける武力紛争は望まなかったことから「旧ユーゴ和平会議」を設置してキャリントン英元外相を議長に選出して和平に当たらせることにした。しかし、ベルリンの壁崩壊後に東西ドイツの再統一を果たしたコール・ドイツ首相は、ドイツ経済圏の拡大を企図してユーゴ連邦の各共和国の民族主義者を煽り、EC諸国に先駆けて91年12月23日にスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認してしまう。またバチカン市国もカトリック圏の拡大を目指してやはりEC諸国に両国の独立承認を働きかけつつ、EC諸国より先の92年1月13日に独立を承認した。EC諸国もドイツとバチカン市国に引きずられるようにして1月15日に両国の独立を承認した。このことが民族間対立を先鋭化させ、武力衝突を激化させることになった。のちに、フランスの外相はこの事態について「ドイツに引きずられてしまった」と述懐した。

親米国家路線にのめり込んだエリツィン・ロシア

それからのユーゴ連邦内の紛争に際し、ゴルバチョフ・ソ連首相は「ユーゴ連邦への国際機関の関与は抑制するべきだ」とのコメントを発したものの、有効な対策は打ち出せなかった。91年8月にソ連に政変が起こり、混乱の中でエリツィンが実権を掌握し、ソ連は社会主義制度を放棄してロシアとすると、米国はロシアに経済コンサルタントを送り込み、ユーゴ連邦に実施させたと同じように社会主義体制への後戻り不可能な「ショック療法」を実行させた。それからのエリツィンのロシアは内政・外交とも米国追随が目につくのみで、ユーゴ連邦問題には全欧安全保障協力会議・CSCEを通しての義務的な参加にとどまった。

1993年に入り、クロアチア共和国軍がセルビア人勢力への数次にわたる軍事作戦を実行すると、ロシアはようやく意見を表明し始める。クロアチア共和国の軍事行動を批判し、制裁を提唱する一方で、米国の軍事力行使による解決には懸念を表明し、和平に奔走し始めら。チェルキン露ユーゴ問題特使とコーズィレフ露外相は精力的に各国を訪問してユーゴ連邦問題に関する和平を模索する。しかし、欧米による社会主義体制への不可逆的ショック療法を押し付けられて国力を失っていたロシアの意向にNATO諸国が耳を傾けることはなかった。

米国は主導権を握るためにボスニア政府とクロアチア共和国を引き込む

とはいえ当時のブッシュ米政権は、ユーゴスラヴィア問題はヨーロッパの問題であるとして干渉には比較的慎重な姿勢を示していた。そのことはスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言した翌6月26日に「話し合いによる解決が重要だ」と述べたことに表されている。しかし、民主党のビル・クリントンが92年の大統領選に立候補した際、ブッシュ政権のユーゴスラヴィア問題への取り組み方は生ぬるいと批判して政争の具としたことによって、米国のユーゴスラヴィア問題への対応に変化が生じる。これにはクロアチアとボスニアが依頼した米国のPR会社ルーダー・フィンが「民族浄化」や「強制収容所」などの用語を編み出してプロパガンダを行なったことも大きな影響を与えている。あるいは、軍産複合体が背後で政策の変更を画策していた可能性も否定できない。そのような政治的雰囲気の中でブッシュ政権は、スロヴェニアとクロアチアの独立承認には慎重であったもののボスニアが独立宣言を発すると、92年4月に3ヵ国を一括して承認した。

クリントン米政権は「セルビア悪」を基調とした干渉に乗り出す

大統領選に勝利したクリントンは93年1月に就任すると、公約通りにセルビア悪を前提にしたユーゴスラヴィア問題への干渉に乗り出していくことになる。しかし、ボスニア紛争は、セルビア人勢力とボスニア政府間の領域争いにとどまるものではなかった。ボスニア・クロアチア人勢力が絡んだ三つ巴の紛争であり、それぞれが自陣営の領域拡大を図って争っていたのである。

クロアチア人勢力とムスリム人勢力としてのボスニア政府との争いは、93年5月にクロアチア人勢力がモスタル市をクロアチア人勢力の臨時首都にするべくムスリム人勢力の追放作戦を展開した戦闘が最も激しいものとなった。この時のクロアチア人勢力による砲撃でネレトヴァ川に架かった橋はクロアチア人勢力の砲撃ですべて落とされた。この橋の中にはオスマン帝国が支配した時代に架けられた石橋「スタリ・モスト」も含まれている。

米政府はこのムスリム人勢力とクロアチア人勢力の激しい戦闘に戸惑った。セルビア人勢力を屈服させればユーゴ紛争は解決すると分析していたからである。そこで米国は「旧ユーゴ和平国際会議」が和平協議を続けている最中であるにもかかわらず、独自の「新戦略」を立案することになる。

まずトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力を掛け、ボスニア・クロアチア勢力の強硬派のマテ・ボバンを解任させる。次いで94年2月24日にムスリム人勢力としてのボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力を呼び寄せて圧力をかけ、停戦を受諾させた。次いで、2月26日にはボスニア政府のシライジッチ首相、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に招致して「ワシントン協定」に合意させた。このワシントン協定は表向き、ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力による「ボスニア連邦」の設立と、「ボスニア連邦」と「クロアチア共和国」が将来国家連合を形成するための予備協定に合意するというものであった。しかし、米国のワシントン協定に含ませた戦略はそのような単純なものではなく、セルビア人勢力を征圧するためにボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍およびクロアチア共和国軍を統合し、その軍事行動に米国主導のNATO軍も加えた統合共同作戦を実行させるところにあった。

このときから、米政府はユーゴ連邦問題を交渉による和平を求めるのではなく、米国主導のNATOの軍事力による解決に向けて突き進んでいくことになる。そして94年の1年間を、クロアチア共和国軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力軍に米軍事請負会社MPRIを送り込んで装備の充実と訓練に充当した。

「連絡調整グループ」による政治解決を目指したEUはロシアを引き込む

94年4月、米国が強硬姿勢を示す中で英・独・仏は国際社会の意見の食い違いを調整する必要に迫られ、ロシアを含めたボスニア紛争に関する「連絡調整グループ」の設置を提案した。そして5月にはこの連絡調整グループを中心とした外相会議を開き、「1,当面4ヵ月間の停戦に合意する。2,ボスニアの領土配分を、セルビア人勢力は49%、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力のボスニア連邦は51%とする。3,戦闘行為の包括的停止と政治解決に努力し、武力による紛争解決は認めない。4,新ユーゴ連邦への国連制裁は、和平合意後に段階的に解除する」との共同コミュニケを発表した。しかし、ムスリム人勢力のイゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領は、停戦は2ヵ月で十分だと述べるなど、連絡調整グループの外相会議による調停案を率直に受け入れる姿勢を示さなかった。そして、停戦期間を1ヵ月に短縮してしまう。その後も連絡調整グループ外相会議は各民族勢力の和平への仲介を継続し、領土分割の割合について、セルビア人勢力が49%、ボスニア連邦が51%の受け入れに原則合意させるが、その地図をめぐって各民族から異論が出され、ムスリム人勢力、セルビア人勢力とも拒否した形となった。

EUは米政府が提唱したボスニア政府軍への武器禁輸解除決議を拒否する

この間の94年9月、ボスニア政府軍が停戦協定を無視してサラエヴォでのセルビア人勢力を攻撃するという事件を起す。これに対し、ローズ国連保護軍司令官がボスニア政府に警告を出した。ボスニア政府軍が停戦協定を敢えて破ってまでセルビア人勢力への攻撃を敢行したのは、セルビア人勢力が国連保護軍に供託した重砲を取り戻す行為を誘発させ、NATO軍が空爆することを期待してのことと見られる。NATO軍はこれに応えるように9月にイグマン山のセルビア人勢力の陣地に対して空爆し、引き続き11月にはボスニアのセルビア人勢力の通信施設をミサイル基地であるとして空爆し、さらに、クロアチア共和国内のセルビア人勢力のウドビナ空港を空爆した。

さらに、オルブライト米国連大使は10月にボスニア政府への条件付き武器禁輸措置を解除する決議案を安保理に提出する。しかし、EC諸国は国連保護軍が危険に曝されるとしてこれを拒否した。そこで米国は、独自にボスニアへの武器禁輸措置に伴う監視を緩和して密輸を促すという措置を取り、米軍輸送機を使って武器をクロアチア共和国とボスに政府側に搬入した。

米国の新戦略によるクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力征圧作戦を発動

クロアチア共和国は戦闘準備が整うと、95年1月に国連保護軍・UNPROFORの存在が和平を阻害しているとの理由をつけてクロアチアから撤収するよう国連に要求する。安保理では一部異論が出されたものの、3月には決議981~983を採択した。決議内容は、国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアには縮減した国連信頼回復活動・UNCROを残置し、ボスニアには国連保護軍・UNPROFORをマケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配置するというものである。

国連保護軍の再配備が終わると、クロアチア共和国軍は95年5月1日に「稲妻作戦」を発動し、クロアチア・セルビア人の居住地の「西スラヴォニア」を攻略して制圧した。英仏両国政府はこれを批判したものの、米国とNATOは沈黙した。7月に入るとクロアチア共和国軍はボスニアに進攻してボスニア政府軍と共同で「‘95夏作戦」を実行し、ボスニア西部からクロアチアのクライナ・セルビア人共和国に至る幹線の要衝であるリヴノとグラホヴォを占拠する。

クロアチア共和国軍の嵐作戦とNATO軍の「デリバリット・フォース作戦」は新戦略の仕上げ

1995年8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員した大規模な「嵐作戦」を発動した。クロアチアのセルビア人勢力軍と住民を追放するための軍事作戦である。この作戦は、クロアチア共和国軍が4方面からセルビア人居住地域を攻略し、これに呼応したボスニア政府軍は第4軍団と第5軍団を動員して「95夏作戦」で占拠したリヴノとグラホヴォを抑えて包囲するという統合共同行動を取り、ボスニアのセルビア人勢力の動きを制するというものであった。このとき、ボスニアのセルビア人勢力の主力はスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデの攻略に取りかかっていたこともあって相互援助協定を結んでいたにもかかわらず、クロアチアのクライナ・セルビア人勢力への救援に向かえていない。

嵐作戦に対するクロアチアのセルビア人勢力軍は3万5000人ほどの兵員しか動員できなかったことから、15万余のクロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍の膨大な兵力に対抗できるはずもなく、たちまち戦線は崩壊した。赤十字国際委員会・ICRCによると、このときクロアチアから追放されたセルビア人住民は20数万人に及ぶという。

クロアチア共和国軍は「オペレーション・ストーム」を完遂すると、そのままボスニア領内に進攻して「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府があるバニャ・ルカ攻撃に取りかかった。ボスニア政府軍はクロアチア共和国軍と共同してバニャ・ルカ近隣に兵を進め、ヤイツェなどを攻略した。

この共同作戦が展開されている最中の8月28日、サラエヴォの「マルカレ市場の爆発事件」が起こされる。NATO軍はこの爆発事件をセルビア人勢力によるものと即断し、1日余りのちの8月30日未明に「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動してボスニア・セルビア人勢力への空陸からの攻撃作戦を敢行した。この5者による共同作戦にボスニアのセルビア人勢力が対応できるはずもなく、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受け入れて停戦に合意した。

国力を衰退させたエリツィン・ロシアの意向は無視される

ボスニア内戦の戦後処理は、95年11月に米国のオハイオ州デイトンにある軍事基地において米政府主導で行なわれ、ロシアは連絡調整グループの一員として加わったが何らの役割も期待されなかった。ボスニア紛争の和平交渉による「デイトン合意」の結果、派遣することになったNATO主導のボスニア和平実施部隊・IFORにロシアの部隊も参加したものの、米国の思惑に従った後始末に参加させられたのみであった。この「デイトン合意」にコソヴォの問題は触れられていない。

コソヴォ自治州に米「情報・文化センター」を設置して情報工作を行なう

ボスニア内戦は終結させたものの、米国はこのデイトン合意でユーゴスラヴィア問題への干渉を終わらせるつもりはなかった。そのため、翌96年6月に米国はミロシェヴィチ・セルビア大統領をジュネーブに呼び寄せてコソヴォ自治州に「情報・文化センター」の設置を認めさせた。情報・文化センターは米CIAの拠点とするところである。これを受け入れたミロシェヴィチ・ユーゴ大統領は、この段階ではコソヴォ問題は政治的な解決が可能であると考えていたように見える。

コソヴォ自治州のアルバニア系住民の中には合法的にコソヴォ自治州を独立へと導くことを企図している穏健といわれるルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領の一派と、武力闘争によって独立を獲得することを目指しているコソヴォ解放軍・KLAが併存していた。米国は情報・文化センターを通して武闘派のコソヴォ解放軍・KLAへの接触工作を行なうことにしたのである。コソヴォ解放軍は、デイトン合意の中にコソヴォのアルバニア系組織がかねてから要望していた独立問題が触れられていなかったことから、武力による紛争を起こさなければ国際社会は取り上げないと学んだ。

コソヴォ解放軍の武力による分離独立を支援する国際社会

1997年、隣国のアルバニアでは社会主義から資本主義への移行に失敗し、ネズミ講なる怪しげな金融詐欺事件が起こされた。コソヴォ解放軍は、この政治的・社会的混乱に乗じてアルバニアから武器を大量に確保することに成功する。そして、コソヴォ解放軍はすぐさまセルビア共和国からの分離独立を目指して、コソヴォで武力闘争を活発化させた。これに対し、米国は98年2月にゲルバード特使を派遣してルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領ら穏健派を集めてコソヴォ解放軍を「テロリスト」であると表明する。

セルビア政府は、ユーゴ連邦解体戦争の過程で欧米からセルビア悪の批判を浴びせられて苦境に立たされた経緯からコソヴォ解放軍の武力闘争に手を拱いていた。そこにゲルバード特使の発言が飛び込んできたのでそれを真に受け、コソヴォ解放軍への治安活動を強化して鎮圧に乗り出した。すると、NATO諸国は、G8の会合を利用してユーゴ連邦のみを非難して制裁を科し、NATO軍の武力介入をほのめかして威圧した。

その上で米国は98年5月、情報・文化センターに属するCIA要員の手引きでホルブルック特使をコソヴォ解放軍に接触させて認知し、「自由の戦士」と讃えさせた。米国の公的支持を得たコソヴォ解放軍は激しい武力闘争を仕掛け、コソヴォ自治州の25%を支配するまでになる。ユーゴ連邦としては、国際社会から非難されてもコソヴォ自治州の4分の1を支配された状態を放置するわけにも行かず、鎮圧行動を強めた。セルビア治安部隊がコソヴォ解放軍を追いつめると、国連安保理は9月に決議1199を採択し、停戦およびセルビア治安部隊のコソヴォ自治州からの撤退とコソヴォ解放軍との対話を義務づける。

ロシアはOSCEコソヴォ検証団の派遣を提案して和平を模索したが

親米路線に浸りきっていたエリツィン・ロシア大統領は、親米ゆえの自らの意見を米国も耳を傾けると信じていた。しかし、国際政治環境は社会主義体制から資本主義体制への移行に躓いて弱体化したロシアの意向など顧慮するに値しないという方向に傾斜していた。それでもエリツィン大統領は、ユーゴ問題は外交的手段による解決が可能だと捉えていた。そこで、イワノフ露外相をユーゴ連邦に送り込み、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領に欧州安全保障協力機構・OSCEの検証団を受け入れるよう説得した。ロシアの助言を受け入れたユーゴ連邦はOSCEの検証団によるコソヴォ自治州内の査察を容認する。

98年10月、米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国で構成される「連絡調整グループ」がコソヴォに検証団を派遣することを提言する。OSCEはそれを受ける形でコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織し、調査員2000人をコソヴォに派遣することを決定した。

「ユーゴ・コソヴォ空爆」はNATOの既定路線

しかし、このOSCEのコソヴォ停戦合意検証団・KVMの団長に、曰く付きのウィリアム・ウォーカー米元駐エルサルバドル大使を起用したことでコソヴォ紛争の帰趨は明白となった。ウォーカーKVM団長は、駐エルサルバドル大使だった際、エルサルバドルの独裁政権を容認し、その暴虐な政治を擁護した人物である。ウォーカーは検証団員の中に米CIAや英MI6などの諜報部員数十人を潜ませてコソヴォ自治州に入ると、たちまち「ラチャク村虐殺事件」を捏造した。このラチャク村虐殺事件なるものは、ウォーカー団長が1月15日のコソヴォ解放軍とセルビア治安部隊との戦闘を観戦していたにもかかわらず、その際は何も言わずに退去した。ウォーカーKVM団長は翌16日に再び現地を訪れ、戦闘地域となった場所に集められた遺体はセルビア治安部隊による民間人の虐殺によるものと断言した事件である。これを受けてオルブライト米国務長官は、「ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領は、1939年のアドルフ・ヒトラー」だと非難し、再びセルビア悪を国際社会に印象づけてNATO軍による武力行使をほのめかした。

ユーゴ・コソヴォ空爆は「オルブライトの戦争」

この時点でEUは必ずしもNATO軍の武力行使を望んでおらず、ロシアを含む連絡調整グループを編制して「ランブイエ和平交渉」の場を設定し、和平交渉を進める策を選択した。連絡調整グループは困難な交渉を粘り強く続け、和平成立直前までこぎ着けた。ところが、途中からオルブライト米国務長官が介入し、米国の交渉の常套手段である土壇場で条件のハードルを上げるということを行なう。即ち、最終交渉となった3月15日にユーゴスラヴィア連邦全土にNATO軍を駐留させよという軍事条項を突きつけて、ユーゴ連邦側に拒否するようにし向けたのである。ユーゴ・コソヴォ空爆が「オルブライトの戦争」といわれるのはこの交渉術による。のちに米政府の高官は、ユーゴ連邦が拒否するように様々な条件を詰め込んだと述べている。この軍事条項の「付属B項」は秘密裏にユーゴ連邦側に提示され、連絡調整グループの中ではユーゴ空爆を強く主張していたブレア英首相以外には知らされなかったとから、国際社会にはユーゴ連邦が強硬姿勢を示してランブイエ和平交渉を破綻に導いたとの印象が与えられた。そのため、NATO軍による空爆もやむなしとの雰囲気が醸成されたのである。

NATOは国連安保理決議を回避してユーゴ・コソヴォ空爆を強行する

ロシアはこのコソヴォ紛争は「低強度紛争」にすぎないと把握しており、それ故に交渉による解決が可能だとして和平に奔走していた。しかし、このロシアの尽力はことごとく無視された上、拙速なNATOの武力行使に愕然とさせられたのである。

それでも、ロシアのプリマコフ首相がNATO軍の空爆に反対する声明を発表したのだが、NATO諸国はこれを無視した。NATOはロシアの意向を無視しただけでなく国連安保理決議をも回避し、「慈悲深い天使の作戦」なる自らを人類の上位におくという名称を付けて国際社会を幻惑した上で「同盟の軍事作戦」を99年3月24日発動した。このNATO軍の大規模な「ユーゴ・コソヴォ空爆」は、セルビア共和国が反撃出来ないことを見越した支配者意識を濃厚に漂わせた懲罰的な軍事力行使であった。

のちの検証によれば、コソヴォ紛争による犠牲者はロシアが把握していたように双方合わせて1500人ほどの「低強度紛争」に類するものであった。にもかかわらず、人道上一刻も猶予ならない状態にあるとのプロパガンダを行なってNATOは空爆を実行したのである。

ロシアは、このNATO軍の空爆に抗議してモスクワにあるNATO事務所の退去を要求し、地中海へ黒海艦隊の派遣を実施するとともに、主要8ヵ国による和平会議を提唱した。このロシアの提唱したG8の会議がまとめた和平枠組みが、後に重要な意味を持つことになる。そして、チェルノムイルジン露元首相をユーゴ問題特使に任命し、政治的解決を図るべく精力的にユーゴ連邦や各国の首脳との会談を繰り返した。親米路線を採っていたエリツィン露大統領自身も欧米の首脳に電話をかけ、首脳宛に親書を送り、空爆停止と政治的解決を求めた。しかしNATO諸国は、社会主義体制から資本主義体制への転換課程で混乱状態に陥っていたロシアの対応などに顧慮することはなく、ユーゴ連邦の屈服を目的とした激しい空爆を継続した。

ロシアの仲介がユーゴ・コソヴォ空爆を停止させることになる

ユーゴ連邦としては、NATO軍の理不尽な軍事干渉に屈服するつもりはなかったため、NATO軍の破壊行為は続けられ、セルビア人やアルバニア人住民は難民・避難民となってコソヴォ自治州から周辺地域に脱出した。空爆の対象は軍事関連施設だけでなく、社会的インフラや学校や病院、メディア、工場などあらゆる建造物のみか、駐ベオグラード中国大使館へもミサイル3発を撃ち込んだ。NATOは誤爆だと釈明したが、もちろん誤爆ではない。のちに米政府の高官がNATOの空爆で誤爆はしていないと発言していることからも中国大使館へのミサイル攻撃は懲罰的な攻撃であったことは明白である。このNATOの軍事行動がロシアと中国の軍備を再編させることになる。

膠着状態に陥ったユーゴ・コソヴォ空爆は、短期間で終わると考えていた主戦論者のブレア英首相とオルブライト米国務長官が時おり強硬意見を発するのみで、解決策を示すことはなかった。ロシアのチェルノムイルジン特使は、ベオグラードでミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領と会談し、取って返してNATO諸国の首脳たちと協議を重ねるなど、空爆停止に至る解決策を模索し続けた。ただし、チェルノムイルジン特使の役割は、親米のエリツィン大統領の意向に従い、NATO諸国が意図する方向での解決策をミロシェヴィチ大統領に受け入れさせることにあった。

    ロシアの尽力がNATOのユーゴ・コソヴォ空爆を終結させる

ユーゴ・コソヴォ空爆が開始されて72日目の6月3日、ロシアのチェルノムイルジン特使とEUのアハティサーリ特使がユーゴ連邦を訪問し、5月の始めにG8が声明で発表した内容に沿った和平案での合意にこぎつけた。この和平案からはNATO軍によるユーゴ連邦全土の駐留条項は削除されていた。合意案は、当初のランブイエ和平交渉で解決可能な内容だったのである。とはいえ、ロシアのチェルノムイルジン特使の仲介がなければ、NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆はずるずると続けられ、破壊と殺戮の山が築かれたことは疑いない。

1999年6月9日、NATO軍とユーゴ連邦軍との間に停戦交渉が成立する。しかし、コソヴォ自治州に進駐する各国部隊の指揮権をめぐって、NATO軍とロシア軍との間に齟齬が生じた。折衝はまとまらないままロシア軍も独自にコソヴォの首都プリシュティナに進駐して空港を抑える。このロシアの部隊の派遣をめぐってNATO軍司令部との間に軍事衝突に発展しかねない険悪な空気が漂った。が、ともかく双方の連絡を密にするということで決着し、ロシア軍は3600人の部隊を駐留させ、NATO軍のKFORもコソヴォに進駐させ、セルビアの治安部隊は撤収させられた。

コソヴォ解放軍の「大アルバニア」構想への道を開いたNATO軍の空爆

空爆停止後、コソヴォ解放軍・KLAはセルビア治安部隊の撤収を奇貨と捉え、セルビア共和国南部のアルバニア系住民居住地域のサンジャク地方と、マケドニア共和国北部のアルバニア系住民居住地域を併合させる「大アルバニア」構想を企てる。そして、まずKLAはセルビアのサンジャク地方に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を結成させ、コソヴォ解放軍とともに武力闘争を始めた。しかし、このKLAの攻撃はセルビア治安部隊の反撃に遭い、思うように進まなかった。そこでKLAは、武備の乏しい弱小国のマケドニア共和国に矛先を向け、北部のアルバニア系住民居住地域に「民族解放軍・NLA」を組織させてKLAとともに2001年3月から武力闘争を開始する。

このような事態を虞れていたマケドニア政府は国連の予防展開軍・UNPREDEPの駐留を望んでいたのだが、経済的援助を求めて台湾との国交を結んだことが中国の不興を招いた。そして、駐留延長を求める安保理決議に中国が拒否権を行使したことによって、既に国連予防展開軍・UNPREDEPは撤収してしまっていた。

このため、KLA・NLA合同部隊に対抗できるほどの軍備がなかったマケドニアは、一時期30%の地域を支配されるまでになる。狼狽したマケドニア政府は、ウクライナから攻撃ヘリ2機の貸与を受け、さらに東欧諸国から武器の供与を受けて総動員体制を整え、01年8月には何とかKLA・NLA合同部隊を包囲攻撃するまでになった。すると、NATOが仲裁に介入し、停戦に持ち込んだ。

この包囲されたKLA・NLAの合同部隊の中には密かに米CIAと軍事請負会社MPRIが軍事顧問として加わっていた。そのため、米軍は停戦合意後にマケドニア共和国軍に包囲されたKLA・NLAおよびCIAや軍事請負会社・MPRIの要員を、バスなどを仕立てて護送するという処置に出た。この護送バスはマケドニア住民の憤激にあい、激しい罵声と投石を受ける。

大アルバニアの構想に失敗したコソヴォ解放軍は分離独立へと切り替える

このようにして、KLAが企図したセルビア南部とマケドニア北部の領土割譲策の大アルバニア構想は失敗に終わる。コソヴォ解放軍は大アルバニアへの拡張構想はあきらめざるを得なかったものの、コソヴォ自治州そのものの独立を放棄したわけではなかった。コソヴォ自治州暫定政府はランブイエ和平交渉案に含まれていた3年後に独立に関する協議を行なうとの条項を実施に移すよう執拗に要求し続けた。

そこで国連は、2005年にアハティサーリ・フィンランド前大統領を国連特使に任命してその任に当たらせることにする。しかし、セルビア共和国が王国揺籃の地であるコソヴォの分離独立を許容するはずもなく、また国連安保理決議による解決策には理事国内からも異論が出されたため、それが実現することはなかった。

コソヴォの一方的な独立宣言に欧米主要国は直ちに承認する

2008年1月、コソヴォ解放軍の政治局長だったタチがコソヴォ暫定自治政府の首相の座に再就任すると、コソヴォの独立を達成させると宣言し、2月にコソヴォ自治州議会にセルビア共和国からの独立宣言を強引に可決させた。この国際慣習法上疑義の多い独立宣言に対し、米英などNATO諸国の大半は予定調和の如く直ちに承認したものの、スペイン、ギリシアなどは承認せず、ロシアは国際法に反するこのコソヴォ自治州の独立宣言は認められないとの立場から批判した。国際社会もNATO軍の武力に支えられたこのコソヴォの独立宣言は国際慣習法に合致しない疑いがあると見ており、1年を経るに至っても国連加盟国192ヵ国のうち54ヵ国しか承認しなかった。

ユーゴ・コソヴォ空爆はロシアと中国の安全保障政策に深甚な影響を与えた

ユーゴ・コソヴォ空爆がロシアと中国に与えた影響は多大なものであった。当時のロシアのエリツィン政権は親米路線に貫かれており、NATO軍が安保理決議なしにユーゴ・コソヴォ空爆のような大規模な軍事力を行使するとは予想していなかったからである。当時のロシアの防衛政策は、西欧諸国に対して軍事力が弱体化していることを認識していながらそれを補うような対応ができていなかった。しかし、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を目の当たりにして安全保障関係者はこのような事態に対処しなければならないと自覚させられる。

そこで、NATO軍のユーゴ空爆最中の99年5月に安全保障会議を開き、「国家安全保障概念」および「軍事ドクトリン」を見直す検討を始め、10月には新国家安全保障概念を策定し、直ちに議会に諮る。議会は、新安保概念を翌2000年1月に承認し、新軍事ドクトリンを翌年4月に承認するという素早い対応を取った。そして、2001年2月には核戦争を想定した演習をヨーロッパ側と極東で実施し、大陸間弾道ミサイルの射撃訓練を行なうほどの対応をとることになった。このロシアの軍備再編には、翌2000年に大統領に就くことになるKGB出身のプーチンが安全保障会議書記として密接にかかわっていた。

NATOは東方拡大策によりロシア包囲網を形成する

ベーカー米国務長官は東西ドイツ再統一の際の交渉で、ゴルバチョフ・ソ連大統領とNATOの東方拡大はしないとの口約束をかわしていた。しかし、この約束はソ連邦が崩壊すると反故にされた。そして12ヵ国で発足したNATO加盟国は、冷戦後にポーランドを皮切りにチェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ブルガリア、エストニア、ラトビア、リトアニア、アルバニア、ルーマニア、スロヴェニア、クロアチア、モンテ・ネグロ、北マケドニアなどの18ヵ国が加盟し、2020年現在30ヵ国となった。旧ユーゴ連邦に属した国であるスロヴェニア、クロアチア、モンテ・ネグロ、北マケドニアの4ヵ国も加盟した。ロシアはこのNATOの東方拡大策に対し、ことあるごとに外交的課題の一つとして取り上げるよう求めてきたが、それはことごとく無視された。

ロシアはNATOへの警戒心からクリミア半島の併合策を採る

さらに、2008年にはブッシュ米大統領がウクライナとジョージアをNATOに加盟させるよう提案し、NATO加盟諸国はこれに合意した。ロシアがこのNATOの包囲網を脅威と受け取るのは必然でもあった。

2014年1月に米国が絡んだウクライナ政変が起こる。ロシアはクリミア半島のセヴァストポリ特別市に軍港を租借していたことからそれを維持する必要性に迫られることになった。クリミアにNATO軍の基地がされると、ロシアの黒海艦隊は黒海から締め出されることになるからである。そこで、クリミアにロシア人が多数居住していたことを利用し、住民投票を行なわせた上で3月にはクリミアを併合するという強引ともいえる処置をとらせることにもなった。NATO諸国はこれを非難し、ロシアに経済制裁を科すという対応を取る。それに対し、プーチン・ロ大統領は「コソヴォの例がある」と前例に触れてその正当性を主張した。

ロシアのウクライナ侵攻は1999年に発動したNATOのユーゴ・コソヴォ空爆に淵源がある

岩田昌征教授によると、この14年4月にプーチン大統領は次のように述べている。「NATOは、私たちをばらばらにしようとしている。彼らがユーゴスラヴィアに対して何をやったか見なさい。諸々の小部分に分割し、今や使えるすべてを使って、遠隔操作しようとしている」とNATO脅威論に言及した。遠隔操作とは、ロシアの周辺国にNATO加盟を匂わせた挙げ句、アフガニスタン戦争に43ヵ国も引き連れて破壊と殺戮に加担させたことなどをも含まれていよう。さらに、プーチン大統領の言葉を裏付けるように、ロシアの博物館において1999年のNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆がことさらに強調されて展示されていることなどを考えると、ここに一つの淵源があると考えるべきだろう。

NATO諸国はウクライナに武器を供与するとともに軍事訓練を施す

NATO諸国は2015年になるとウクライナに武器を供与しつつ、その訓練部隊を派遣してウクライナ軍の訓練を行ない始めた。これは密かに行なわれたのではなく、ニュース映像にも流されたほど露骨な行為であったことからロシアへの牽制策であったと見られる。それにしてもNATOのこの軍事支援はロシアがウクライナへの侵攻するまでに、既に40億ドルを超えるほどの巨額のものであった。このことからするとNATOはある意図を抱いてウクライナへの訓練を施していたとの分析も可能である。そして、ウクライナは2019年に憲法を改定し、NATO加盟を明記した。

2021年5月、NATOはウクライナを組み入れて黒海で軍事演習を行なう。これに先立つ4月にウクライナの大統領補佐官は黒海におけるNATOとの軍事演習は「ロシアとの戦争に備えたものだ」と口走った。さらに、バイデン米大統領はゼレンスキー・ウクライナ大統領を9月にホワイトハウスに招き、ウクライナのNATO加盟に理解を示し、ロシアがウクライナに侵攻した場合には米国が全面的に支援すると表明した。これに危機感を抱いたロシアは、21年10月頃からウクライナとの国境地帯に10数万人の兵員を配備して牽制し、ベラルーシで合同演習を実施した。

NATOのウクライナへの不拡大を要求

2021年12月に至り、緊迫した事態を打開するとの名目で米・ロの外相会談が開かれた。その際にロシアは主として三つの要求を提示している。「1,NATOの東方不拡大を条約として確約すること。2,NATO加盟国を1997年の時点まで戻すこと。3,NATOの基地をロシア周辺国から撤去すること」などである。ウクライナにNATOの核ミサイルが設置されると、数分でそれがモスクワに到達することになる。ロシアの首脳部がこれを回避したいと考えるのは当然ともいえる。これに対して米国はロシアの提示は拒否した上で、ウクライナ国境地帯に配備しているロシア軍を撤退させよとの要求を繰り返したのみであった。

ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻は愚行

米国およびNATO諸国との外交が膠着状態に陥っていた中、ロシアは突如2月24日にウクライナへの侵攻を北部ベラルーシからキエフ方面、東部ドンバス地方、南部クリミア半島の3方面から開始した。そして、ロシア政府はこの日のうちにウクライナの軍事基地の83ヵ所を攻撃したと発表。米政府がロシア軍はウクライナに侵攻するとの観測を発信し続けたものの、多くの国やウクライナ国民も半信半疑であったためにロシアの軍事侵攻は衝撃を与えた。

ロシアのこのウクライナへの軍事行動は国際法上の妥当性を欠いた行為といえるが、開戦の口実はいずれの戦争でも同じようなものといえるものの、これは1999年3月にNATO軍が発動したユーゴ・コソヴォ空爆と多くの点で類似している。

NATOは1999年のユーゴ・コソヴォ空爆に際し、外交交渉を重視することなく空母3隻を含む艦隊をアドリア海に集結させ、セルビア共和国がコソヴォのアルバニア系住民に対して行なっている迫害は一刻も猶予ならないとのプロパガンダを発して安保理決議を回避した上でユーゴ・コソヴォ空爆を実行した。そして、ユーゴ連邦を屈服させた上でNATO軍をコソヴォに進駐させた。

ロシアは2022年のウクライナへの軍事侵攻に当たって国境地帯に大規模な軍事力を集結させた上で、ドンバス地方のロシア系住民の迫害を保護する必要性に迫られたという口実を使って軍事侵攻に踏み切った。

どちらも住民保護を掲げているが、「低強度紛争」ではあるにしても大規模な軍力行使をしなければならないような事態ではなかった。すなわち、どちらも実態を誇張したプロパガンダといってもいい。さらに、どちらも弱者に対する強者の軍事行動であること、そして傀儡国家を擁立することを目的としていることで共通している。ユーゴ・コソヴォ空爆は「オルブライトの戦争」といわれたが、ロシアのウクライナ侵攻は「プーチンの戦争」とも称される所以である。

ロシアは核兵器の使用を前提にした臨戦態勢に入ったと公言

ただ、両紛争で大きく異なるのはプーチン露大統領が「核兵器」の使用に言及したことである。そして、核兵器の使用を前提にした臨戦態勢に入ったと公言した。

当然ながら、核兵器を所有している国はこれに対応してそれぞれに撃ち込む目標を定めていようが、このような緊張状態に中では何が起こるか分らない。この戦争が長期化すれば偶発的な「終末戦争」に至らないという保障はない。

ロシアの軍備強化がNATOのユーゴ・コソヴォ空爆に端を発しており、そのNATOを仮想敵国と位置づけざるを得なかったとしても、その脅威を取り除く手段として隣国ウクライナを征服してもそれで脅威が解消するわけではない。NATO側は、これに対抗してその存在価値を高める方向に突き進むからだ。

ロシアの軍事作戦は膠着状態に陥り部分的動員令で兵員を増強する

緒戦は優勢に見えたロシア軍はウクライナ軍の反撃にあって損耗が激しくなり、兵員不足に陥った。これにはNATO諸国が既にウクライナ軍を訓練していたことおよび新たな武器供与が効を奏し始めたことがあった。そこでプーチン露大統領は8月に部分的動員令に署名する。30万人の兵員を補充することを目論んだのである。ただ、動員令を発して一時的に兵員を増加させたとしてもその兵員をすぐさま前線に送り出せるわけではない。ハイテク兵器を扱うには訓練が必要だからである。この動員令に一部のロシア人は敏感に反応し、ロシア国外に脱出する人が増えた。

さらに、ウクライナの反攻が勢いを増しつつある中、プーチン大統領はロシア軍の支配領域が多いウクライナのルガンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソンの4州に形式的な住民投票を行なわせた上で、10月4日にロシアに併合する大統領令に署名した。この無思慮ともいえる措置がどのように意図の下に行なわれたのかは不明である。NATOによるウクライナへの核ミサイル配備を阻止するためなのか。あるいは、領土を割譲させるのが目的だとするとロシアは侵略戦争を行なったとの歴史に刻まれる汚名が着せられることになる。いずれにしても、不安定要素を抱え込むことになるので蛮行に継ぐ妄動であるといえる。

迷走するロシアの対応

そもそもロシアにとってNATOの東方拡大が脅威だとしても、それを排除するためにウクライナに軍事侵攻してどのようにしようとしていたのかその意図が見えない。10数万の兵員で一つの国を支配できるはずもないことは明らかだから、ウクライナ全域を占領しようとしたのでないことは推察可能である。とはいえ、ウクライナの4州を併合することが目的だったとも考えがたい。また、4州をロシアに併合したからといってNATOの東方拡大の脅威が解消するわけではない。NATOは、存在価値を高めるために必ず対抗措置をとる。軍産複合体の権益を維持することを放棄しないからだ。ロシアは迷走状態に陥っているように見える。

ロシアのウクライナ侵攻は歴史的愚行

ロシアのウクライナ侵攻は歴史的愚行であることは言うまでもない。NATOの東方拡大による脅威は外交交渉によって解決するのが国際政治というものだろう。NATOを率いる米国がアフガニスタンに侵攻してタリバン政権を崩壊させ、イラクに侵攻してサダム政権を壊滅させた。その前例があるとしても、米国以外の他国が行なうことは許されないのが国際政治なのだ。

NATO諸国はコソヴォの独立は特殊事例と主張したが直ちに中・ロに波及

NATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆は、ロシアと中国にとって先進国としての敬意の対象であった米国を警戒すべき仮想敵国へと変貌させるきっかけをもたらした。このようにユーゴ・コソヴォ空爆は、世界の軍事的な緊張を高める負の側面を与えることになったのである。即ち、ロシアのウクライナ侵攻は、ユーゴ・コソヴォ空爆中の国家安全保障概念の改訂に淵源が求められるのである。ロシアはこのNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆を深刻に受け止め、自国の軍備態勢を強化した経緯があるからだ。

ウクライナ戦争はNATOとロシアの代理戦争

米国とNATO諸国は、冷戦終結で勝利を謳歌した。しかし、NATO・軍産複合体にとって権益を維持するためには仮想敵国の存在が不可欠であった。そこでNATO・軍産複合体は中・ロの脅威論を唱えていなければならなかったし、また中・ロにもNATOは脅威であると意識させることが必要であった。

アメリカの国際政治学者のイアン・ブレマーは、ウクライナ戦争は「NATOとロシアの代理戦争」と述べている。このウクライナ戦争の本質はここにある。プーチン・ロシア大統領が独裁的側近政治を行なったためにNATOの意図を見通すことができず、側近も強硬派であったために過剰な反応をした結果、NATO・軍産複合体の巧みな罠にはまったものだといえる。

ともあれ、ロシアにとってNATOが脅威であり、また挑発されたとしてもこの代理戦争で得るものは何もない。国家の信用を失墜させるばかりか、人的・物的資源を消尽させて国家を弱体化させ、世界を不安定化させるのみだからである。プーチンによるウクライナ侵攻に対抗するNATOは、ウクライナに武器の供与を増大させているが、この双方の愚行によってウクライナ戦争は長引くことになる。その結末は見とおせないが、このNATOとロシアの代理戦争は終末戦争に至るのかどうか、人類の英知が試されている。

大使館にミサイルを撃ち込まれた中国は軍備再編に取りかかる

一方の中国は、元来NATOを自国に対する脅威とは見なしていなかった。しかし、NATOが国連安保理を回避してまで域外への軍事力を行使したばかりか、駐ベオグラード中国大使館がミサイル攻撃を受けたことによってその想定を改める必要に迫られた。1999年当時の中国の国防概念は専守防衛に限定し、それに対応した戦力しか備えていなかった。しかし、ユーゴ空爆はその概念を打ち砕くものとなったからである。そこで、中国は直ちに将来戦に対する検討に取りかかり始めた。そして、専守防衛の陸軍を削減して電子戦への知能化を推進し、形ばかりだった海軍を増強させ、軍事基地を拡張して即応体制を整備することになった。中国の軍備拡張は、米国が主導するNATO軍への備えである。

こののちも中・ロ首脳会談を頻繁に開き、戦略的結びつきを深めていく。この中国の軍備拡充について、米政府とNATOは自らの行為がもたらした不都合な事実を忘却し、ひたすら中国脅威論を主張しているが、これは知性の欠如とのいうべき事態である。このような政策を採っているNATO諸国の思惑はどこにあるのか。民主主義国家と強権主義国家の対立などという単純なものではない。覇権主義および軍産複合体の権益を擁護するためだといっていい。

国際社会の叡智はいずれに求められるのか

2022年末、西側といわれる国際政治はロシアを責め立てて経済制裁を科し、ウクライナへの軍事支援に傾倒するのみで、停戦に尽力しているようには見えない。この不安定な国際秩序のまま未来を迎えることになるのか。あるいは人類の叡智とはこの程度のものと見るべきなのか。いずれにしても、NATOを支える軍産複合体の権益を優先させ、中・ロを仮想敵国に措定し続けて終末戦争に臨むことは理にかなわないので、22世紀を迎えるためにも共存を目指すべきだろう。

<参照;国連の対応、EUの対応、NATOの対応、米国の対応、ドイツの対応>

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7,ユーゴ戦争と「北大西洋条約機構・NATOの対応」

NATOは冷戦構造の中で設立された軍事機構

第2次大戦後の連合国を含む諸国の関係について、フランクリン・ルーズベルト米大統領は対等の国家として外交関係を構築する意図を持っていた.しかし、第2次大戦が終結するより前の1945年4月に死去したために彼の理念は受け継がれることはなかった。

チャーチル英首相の反共主義に基づくソ連嫌いと理念なきトルーマン米大統領の外交政策によって、連合国を構成してナチス・ドイツを降服に追い込んだソ連との共同行動を顧みることなく、西側はソ連を仮想敵国として位置付けた。それを察知したソ連は強硬路線をとるようになり、陸の孤島となっていたベルリンをソ連圏に取り込むことを企図して48年6月に「ベルリン封鎖」を実行する。これに対し、米国を主とした西側諸国は輸送機を大量に送り込むことで、封鎖を無意味なものとすることに成功した。ソ連は物資輸送作戦の効果を見てベルリン封鎖を解除する。

北大西洋条約機構・NATO(North Atlantic Treaty Organization)」は、冷戦体制が顕著になり始めた48年のベルリン封鎖をきっかけにして、49年4月に米・英・加・仏・伊・ポルトガル・デンマーク・ノルウェー・アイスランド・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの12ヵ国が参加してワシントンの国務省講堂で設立された。NATOは北大西洋同盟とも呼ばれる。設立の主な目的は、加盟国の安全保障を確保するための軍事同盟であり、域内の何れかの国が攻撃された場合、共同で応戦する義務を負うとした機構である。組織は、「北大西洋理事会・AC」であらゆる問題が協議されるが、決定は全会一致が原則である。事務総局を統括する事務総長がNATOの理事会の議長を務めるなど運営に重要な役割を果たしている。

軍事同盟の共通の仮想敵国は社会主義圏であったが、第2次大戦後間もないということもあって、当初はドイツの脅威も念頭に置かれていた。

社会主義圏はNATOに対抗する組織としてワルシャワ条約機構を結成

6年後の1955年5月、NATOに対抗する形で「ワルシャワ条約機構」の結成がソ連と東欧7ヵ国による社会主義諸国で承認された。同年、ドイツがNATOに加盟したことで、NATOはワルシャワ条約機構を仮想敵国の同盟として明確に位置づけた。

NATO発足時の戦略は「大量報復戦略」だったが、67年になると「対話と抑止」という柔軟路線に転換する。この60年代後半ごろから西ヨーロッパは、ドイツに対する脅威はもとより、ソ連に対しても差し迫った脅威はなくなりつつあると考えるようになっていた。ところが、国際政治の表層の、主として米・英からソ連の脅威が声高に唱えられ、NATO軍の強化策が推進された。このように、米国と西ヨーロッパ諸国の安全保障の脅威に対する姿勢に違いはあったものの、ともかくもNATO軍は1度も軍事力を行使することなく冷戦を乗り切った。

冷戦終結後にNATO諸国は社会主義圏の「ワルシャワ条約機構」の解体を図る

1989年11月、唐突にベルリンの壁が瓦解すると、翌12月にゴルバチョフ・ソ連大統領とブッシュ米大統領がマルタ島で会談し、冷戦体制を終結させた。この会談では、NATO加盟を東方に拡大させないとの合意がなされていたが、NATO諸国は直ちにワルシャワ条約機構を解体させることに力を注ぎ、91年3月にはこの軍事機構を廃止させることに成功した。脅威の対象が消滅したことに伴ってNATOも当然解散する方向に向かうものと見られていたが、米国はNATOを欧州への影響力行使および東方拡大の拠点として残置することを模索し、「新戦略概念」なる政策を考案する。

NATO解体の論調を封じることになったユーゴスラヴィア紛争

折りもおり、91年6月にスロヴェニア共和国とクロアチア共和国がユーゴスラヴィア連邦からの分離独立宣言を強行する。スロヴェニアの郷土防衛隊は独立宣言を発すると直ちに連邦政府の施設を武力で接収したため、軍管区制によって駐屯していたユーゴ連邦人民軍との間で武力衝突が発生した。連邦人民軍は各民族の混成部隊であり内戦を想定していなかったことから戦闘意欲に乏しく、たちまちスロヴェニアの防衛隊に敗退した。これがスロヴェニアの10日戦争である。この経緯において、連邦政府の施設を武力で接収したのはスロヴェニア側であるにも関わらず、国際社会はユーゴ連邦政府の対応を厳しく非難した。スロヴェニアでの戦闘の推移を見たクロアチア政府は、駐屯していた連邦人民軍を侵略軍と決めつけて兵舎を包囲し、電気や水道の供給を止め、武器を置いて撤退せよと迫ったためにここでも武力衝突が起こった。この問題がNATOの存廃を検討する機会を奪うことにもなる。

ドイツとバチカン市国がスロヴェニアとクロアチアの分離独立を画策

91年7月、欧州共同体・ECは武力衝突を抑止するための仲介に乗り出す。ユーゴスラヴィアのブリオニにおいて協議を行ない、「スロヴェニアとクロアチアの独立宣言の3ヵ月間の凍結。およびEC監視団を受け入れること。ユーゴスラヴィア連邦の将来のあり方について協議すること」などの「ブリオニ合意」をユーゴ連邦政府とスロヴェニアおよびクロアチア政府に受諾させた。さらに、9月にはEC和平会議を設置し、キャリントン英元外相を議長に任命した。ECが和平会議を設置した意図は、3ヵ月の停戦期間中に政治的な解決策を見出すことにあった。同年9月に国連安保理は旧ユーゴスラヴィア連邦全体への武器禁輸決議713を採択する。

ところが、ドイツおよびバチカン市国は3ヵ月の停戦期間を単なる冷却期間程度にしか捉えなかった。ドイツのコール首相は、東西ドイツの再統一を90年10月に成し遂げていたが、その経済的負担をドイツ経済圏の拡大によって切り抜けようと企図していたからである。また、88年にクロアチアのトゥジマンと会談した際に交わした独立への支援を行なうとの密約を実行に移したものとも見られる。コール・ドイツ首相は、91年11月に開かれた連邦議会において、「ECはスロヴェニア共和国とクロアチア共和国を間もなく承認することになるだろう」と述べ、ECに働きかけていることを披瀝し、91年12月23日に先行して両国の独立を承認した。

バチカン市国は、スロヴェニアとクロアチアがカトリック教徒の優勢な国であることから、カトリック教圏の拡張を目指して80年代の中頃から両国に対して独立を働きかけていた。バチカン市国は、3ヵ月の凍結期間が過ぎるとソダノ国務長官が11月に米・英・仏・独・伊・ベルギー・オーストリアの大使を呼び集めて、スロヴェニアとクロアチアの独立を1ヵ月以内に承認するよう要請した。そして、92年1月13日にやはり他国に先駆けて両国の独立を承認した。EC諸国もそれに引きずられるようにして1月15日に両国の独立を承認してしまう。のちにフランスの外相は、この経緯についてドイツに引き回された、と述懐した。

ボスニアはEC諸国の対応を見て独立に踏み切る

ボスニア議会は、既に91年10月にセルビア人議員が退場する中で独立を指向する決議を採択していた。イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長は、EC諸国がスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認するのを見届けると、セルビア人住民の反対を押し切って92年2月29日にユーゴ連邦からの分離独立の是非を問うムスリム人とクロアチア人のみによる住民投票を強行し、多数の賛成を得ると3月3日には独立を宣言した。このため、ボスニア領内のムスリム人住民とクロアチア人住民およびセルビア人住民との間に武力衝突が頻発し、やがて激化していくことになる。

米国の対応は民主党のビル・クリントン大統領候補がユーゴ問題への強硬姿勢を示したことで変貌していく

当時のブッシュ米大統領は、この段階ではユーゴスラヴィアの分裂を望んでいなかった。それはスロヴェニアとクロアチア両国が分離独立を宣言した翌26日に、「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを出したことに表わされている。しかし、92年の大統領選に立候補した民主党のビル・クリントンがユーゴ問題を政争の具として取り上げたことへの対応もあって強硬路線へと舵を切る。それは、4月にボスニアを含むスロヴェニアおよびクロアチアの独立を一括承認に踏切ることとなり、NATO諸国はそれに倣ってボスニアを追加承認することへと連鎖した。

国連安保理はユーゴスラヴィアにおける武力衝突を抑制するべく、92年2月に決議743を採択し、旧ユーゴ連邦への「国連保護軍・UNPROFOR」の派遣を決定する。

この推移を見たセルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国はユーゴスラヴィア連邦の再構成はあり得ないと判断し、92年4月に旧ユーゴ連邦を継承する国家としての新「ユーゴスラヴィア連邦」を形成する。しかし、国際社会はこの旧ユーゴ連邦の継承を認めなかったばかりか、国連安保理は5月に新ユーゴ連邦に対する包括的経済制裁決議757を採択した。

NATO軍は条約の定める域外の紛争に介入し始める

当初、NATO諸国はユーゴスラヴィアが条約の適用地域外であることから軍事的な関与はためらっていた。しかし、92年5月に平和維持活動の可能性について協議に入る。そして6月、NATO外相会議でユーゴ紛争解決に協力する用意があるとの声明を発表。西欧同盟・WEUと共同してNATO条約に定める域外のボスニア内戦に対しても加盟国の艦隊を配備することを決定した。

NATO内部では、条約の域外に兵力を派遣することに異論も出されたが、92年7月には早くも安保理決議757による経済制裁を実効あるものとするとの理由をつけ、米・独・伊・トルコ・ギリシア・スペイン・オランダの艦隊をアドリア海に集結させ始めた。9月には国連の活動を保護するとの名目で、国連の指揮の下との限定付き条件でNATO軍6000人の地上兵力をボスニアへ派遣することを決定する。NATO軍の派遣理由は、経済制裁を確実なものにするための監視活動と国連保護軍の活動の保護を行なうものとされたが、仮想敵であったワルシャワ条約機構が消滅した後のNATOの存続理由を確保する意図が含まれていた。さらに、国連安保理が10月にボスニア上空の飛行禁止空域を設定する決議781を採択したことで、NATO空軍は監視活動に入る口実を確保した。そして、11月には新ユーゴ連邦の船舶航行の海上封鎖を決定し、12月にはNATO国防相会議を開き、国連の要請があればセルビア人勢力への軍事行動に移る用意があると、武力行使に積極的な姿勢を示した。

NATO軍は密かにクロアチア共和国軍を支援していた

NATO軍は表層の軍事的活動とは別に、密かにクロアチア共和国を支援していた。クロアチア共和国軍は92年6月、ダルマツィア地方の国連指定の安全地域の国連保護軍を排除した上で、クロアチア・クライナ・セルビア人共和国の最南部で「ミリィフツィ・プラトー作戦」を実行して制圧した。

93年1月には「マスレニッツァ作戦」を敢行し、ザダル周辺地域を制圧。この作戦でクロアチア共和国軍は国連保護軍の監視所を攻撃して12人を死亡させた。さらに、93年9月には「メダック・ポケット作戦」でゴスピッチ周辺地域を制圧し、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国の首都クニンの包囲体制を敷いた。これらの作戦のいずれも、NATO軍の作戦要領を米国の軍事請負会社・MPRIがクロアチア共和国軍に与えて応用したもので、NATO軍の関与なくしては実行が困難な軍事行動であった。

NATOは93年6月に、「国連保護軍が武力攻撃された場合には防御のための空軍力を提供する」との共同声明を発表していたが、クロアチア共和国軍が作戦遂行時に国連保護軍を攻撃し、保護軍兵士を多数死傷させたにもかかわらず、これを不問に付した。NATO軍の軍事行動の対象は、明確に新ユーゴ連邦およびセルビア人勢力に限定されていたのである。NATO軍は、93年8月になるとさらに踏み込んで空爆計画を策定し、国連保護軍が攻撃された際にはNATO軍によるセルビア人勢力への空爆を実行することを決める。このNATO軍の方針が表明されると、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領とトゥジマン・クロアチア大統領は、国連保護軍の代わりにNATO軍による平和維持軍を派遣するよう要請した。NATO軍は、紛争の一方の当事者に下請け機関と見做されたのである。

ボスニア紛争は3民族による三つ巴の内戦

ボスニア内戦は、ボスニア政府軍とセルビア人勢力との間だけで武力衝突が行なわれていたのではない。93年1月のユーゴ和平国際会議の「カントン・州分割」裁定案が提示されて以来、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の間で支配領域確定のための戦闘が激しく交わされるようになっていた。特にクロアチア人勢力が臨時首都とすることを企図した93年5月からのモスタル市の攻防戦ではネレトヴァ川を挟んで激しい砲撃戦が行なわれ、ネレトヴァ川に架かる6本の橋はすべて落とされた。このとき、400年前のオスマン帝国支配時代に建造された美しいアーチ状の石橋「スタリ・モスト」もクロアチア人勢力軍の砲撃で破壊された。

米国は「新戦略」を策定してクロアチアとボスニアに「ワシントン協定」を呑ませる

クリントンは大統領選に勝利を収めて93年1月に就任すると、公約通り強硬策を採用した。クリントン米政権はこの両者による武力衝突が続いている限り、セルビア人勢力を屈服させることは不可能と分析し、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力を統合させる「新戦略」を策定する。

先ず、トゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力を掛けてボスニア・クロアチア人勢力の強硬派の大統領マテ・ボバンを解任させる。次いで、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力の戦闘を停止させた。その上で、94年2月末にボスニア政府のシライジッチ首相、ボスニア・クロアチア人勢力のズバク新大統領、クロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させた。ワシントン協定の内容は、「1,ボスニア政府とボスニアのクロアチア人勢力で『ボスニア連邦』を設立する。2,この『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来国家連合を形成するための予備協定に合意する」ものと発表された。米政府としては、「旧ユーゴ和平国際会議」が和平交渉に尽力している最中にクロアチア共和国政府とボスニア政府など紛争当事者をワシントンに呼び寄せて協定を締結させることは批判されかねなかったことから、それを避けるためには見え透いていてもクロアチア共和国とボスニア連邦との国家連合構想を付け加えたのである。

新戦略は、NATO軍およびクロアチア共和国とボスニア連邦を統合したセルビア人勢力の征圧にある

ワシントン協定に含められた新戦略は、公表されたような単純なものではなかった。新戦略は、クロアチア共和国軍とムスリム人勢力としてのボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍の3者による統合共同作戦を実行させ、それにNATO軍を適宜関与させてクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するという戦略であった。

そして、それからの94年の1年間は、クロアチア共和国軍、ボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍の装備の充実と軍事訓練などの準備期間に当てられた。

NATO結成以来軍事力を初めて行使した地域がユーゴスラヴィア

一方、NATO軍は独自に当事者として乗り出すことを大使級協議で決める。他方、ガリ国連事務総長は94年1月に明石康事務次長をユーゴ紛争解決に関する最高指揮官として特別代表に任命した。しかし、NATOはこれを後目に94年2月には明石国連特別代表を介さずに直接セルビア人勢力およびボスニア政府に対してボスニアのサラエヴォ市の20キロ圏からの重火器の撤去を命令する。さらに、ボスニア上空の飛行禁止空域でボスニア・セルビア人勢力の空軍機と見られる対地攻撃機4機を撃墜し、NATO創設以来、初めて実戦での軍事力を行使した。

NATO軍は軍事力行使をさらに拡大し、4月には国連安保理決議836に基づく明石国連特別代表の要請を受ける形で、ボスニアのゴラジュデを包囲するセルビア人勢力軍に対して空軍機による初の対地攻撃となる空爆を実行した。ボスニアでは和平国際会議を介して3民族の間で共存の連合国家構想が協議されていたが、このNATO軍の空爆で構想は潰えることになった。NATO軍は、さらにセルビア人勢力への空爆を継続するよう主張したが、最高指揮官を務める明石国連特別代表は空爆の続行を認めず、政治交渉による解決を模索した。これに対して5月、オルブライト米国連大使は空爆の継続を強硬に主張して明石特別代表の対応を激しく非難する書簡をガリ国連事務総長に送付した。ボスニア政府も明石特別代表の処置を声高に非難しながら、一方でNATO軍の空爆を好機と捉え、セルビア人勢力への拠点攻撃を開始する。

94年5月、ガリ国連事務総長はこの行動に対し、「ボスニア政府は、国連の指定する安全地域を、セルビア人勢力を攻撃するための拠点にしている」と厳しく批判したが、NATO諸国はこれを無視した。明石特別代表の協議による解決方針にもかかわらず、NATO軍はセルビア人勢力への空爆を次第にエスカレートさせていく。94年8月にはサラエヴォ近郊のイグマン山に駐屯するセルビア人勢力を空爆。9月にもNATO軍はサラエヴォ近郊のセルビア人勢力軍を空爆した。NATO国防相会議では、エスカレートするNATOの軍事力行使に対し、欧州側からの慎重な対応を求める意見と米国の徹底的な空爆を主張する意見の対立が表面化した。しかし、結局米国の主張に押し切られ、セルビア人勢力への空爆の強化が決められることになる。

国連当局はNATOの軍事力優先政策を批判

このNATOの決定について国連当局は、「NATOは本質的に敵を特定し、武力を誇示し、勝利を得たがる機構だ。国連の仕事は平和維持であり、組織文化の違いだ」と批判した。NATO軍は国連当局の批判など意に介さず空爆を激化させる。94年11月にはクロアチアのセルビア人勢力のウドビナ空港空爆へと拡大し、続いてボスニア・セルビア人勢力の通信基地などを空爆した。これは米国の新戦略に基づくセルビア人勢力征圧作戦の一環として実行されたものであった。

トゥジマン・クロアチア大統領は国連保護軍の撤収を要求する

1995年1月、統合共同作戦の準備を整えたトゥジマン・クロアチア共和国大統領は、国連保護軍・UNPROFORが和平の妨げになっているとしてこれを撤収させ、代わりにNATO軍を進駐させるよう要求する書簡をガリ国連事務総長に送付した。クロアチア政府の要請を受けた国連安保理は一部で異論が出たものの、95年3月に決議981~983を採択して国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアには国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを分割配備することを決定する。その結果、クロアチア共和国政府の要求に沿い、8700人ほどに縮小した国連信頼回復活動・UNCROがクロアチアに残置された。

クロアチア共和国軍は米国の新戦略に基づく軍事行動を開始

95年5月、クロアチア共和国軍は国連保護軍が縮小されたのを見届けると「稲妻作戦」を発動し、クロアチア・セルビア人勢力の支配地域「西スラヴォニア」を戦車や戦闘機を投入して制圧した。このときボスニア政府軍は、ボスニア南部で陽動作戦を行なうと同時にボスニアから西スラヴォニアに至る幹線道路を抑え、ボスニア・セルビア人勢力が支援に赴くことを阻止した。クロアチア共和国軍の作戦に対し、フランスやドイツなどECの一部の国は軍事力行使の中止を要請したが、NATOおよび米国は黙殺した。

NATO軍は新戦略に基づく共同作戦を実行

そればかりか、NATO軍はボスニアのセルビア人勢力が協定に基づいて国連保護軍に引き渡していた重砲4門をボスニア政府軍の攻撃を受けたために取り戻したまま期限までに返却しなかったことを理由として、イグマン山のセルビア人勢力への空爆を実行した。ボスニア・セルビア人勢力は、NATO軍の空爆に抗議して国連保護軍・UNPROFORの兵士を拘束して人間の盾にする。このため、NATO軍はセルビア人勢力への空爆を一時的に停止せざるを得なくなる。

一方、ボスニア政府軍はこのNATOの空爆を利用し、イグマン山のセルビア人勢力への攻略戦を企図する。この攻略戦を実行したボスニア政府軍は、米軍事請負会社・MPRIの訓練を受けて精強となっていた特殊部隊が当てられた。しかし、自らの精強ぶりを過信したのか、単純な正面突破作戦を敢行したため、セルビア人勢力軍の厳しい反撃にあって手痛い損害を受けた。ボスニア政府はこの敗退を隠蔽するため、国連安全地域に指定されているスレブレニツァ、トゥズラ、ゴラジュデ、ジェパ、ビハチのムスリム人勢力に、周辺へのセルビア人居住地に攻撃を加えるよう指令を発した。当該地のムスリム人勢力はこの指令にしたがって、セルビア人居住地に激しい攻撃を繰り返えすことになる。

陽動作戦に乗せられたボスニア・セルビア人勢力

ボスニア・セルビア人勢力はこのムスリム人勢力の攻撃を抑制する必要に迫られ、反撃のための作戦を策定して7月6日に「クリバヤ95作戦」を発動し、スレブレニツァからジェパへの攻撃を開始した。このときセルビア人勢力が実行したクリバヤ95作戦によって11日にスレブレニツァを制圧した際に、「スレブレニツァ事件」が起きたとされた。

同じ7月、クロアチア共和国軍はボスニア領に越境してボスニア政府軍との共同作戦「‘95夏作戦」を実行し、ボスニアからクライナ・セルビア人共和国に至る幹線の要衝であるリヴノおよびボサンスカ・グラホヴォを確保した。この作戦によって、ボスニア・セルビア人勢力とクロアチア・セルビア人勢力間の往来は遮断されることになる。米政府はこれらのクロアチア共和国軍やボスニア政府軍の軍事行動を許容したのみか、セルビア人勢力がスレブレニツァを制圧した際に虐殺を行なったとの発表を12日に行ない、世界の目をスレブレニツァに引きつけるためのプロパガンダを行なった。しかし、赤十字国際委員会・ICRCは、この時点において虐殺の証拠は見いだせないと否定する発表を行なっている。

NATOは軍事力行使の障害となる国連の明石特別代表の指揮権を取り上げる

同95年7月、NATO軍はもはや形式にすぎなくなっていた明石国連特別代表の最高指揮官の権限を外し、国連軍の現地司令官とNATO軍司令官に出撃の権限を付与するという、制服組のみの判断で武力行使が実行できるように画策した。ガリ国連事務総長も圧力に屈してこれを容認する。

クロアチア共和国軍は1995年8月4日、NATO軍が明石国連特別代表の権限を剥奪したのを見定めると、停戦協定を破棄して15万余の兵力を動員する大規模な軍事作戦「オペレーション・ストーム(嵐作戦)」を発動し、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国支配地域のセルビア人住民追放作戦を敢行した。クロアチア共和国軍は4つの軍団を編制してクライナ・セルビア人共和国を攻撃し、ボスニア政府軍の第4軍団と第5軍団は共同作戦を展開してクライナのセルビア人勢力軍を挟撃した。

クロアチア共和国軍は嵐作戦を敢行した際、国連信頼回復活動・UNCROの監視所を砲撃して国連要員3人を死亡させ、12ヵ所を占拠して国連要員の監視行動を阻止した。その上で、安保理決議で安全地域に指定されていたクロアチア・セルビア人共和国の首都クニン市を攻撃し、逃げまどう住民に砲弾を浴びせた。NATO軍は国連軍を保護するとの声明を出していたにもかかわらず、クロアチア共和国軍の国連保護軍への攻撃を不問に付す一方で、クロアチア共和国軍の軍事行動に連動してクロアチア・セルビア人勢力の通信基地などを空爆した。

クロアチア・セルビア人共和国を崩壊させることに関与したNATO軍

クロアチア・セルビア人勢力は稲妻作戦によって東西に分断されたため3万余の兵員しか動員できず、15万余のクロアチア共和国軍に対抗できるはずもなく、たちまち総崩れとなって住民とともにクロアチアから脱出した。赤十字国際委員会・ICRCによると、クロアチア政府軍の熾烈を極めた稲妻作戦および嵐作戦によって、クライナ地方のセルビア人住民の20万人から25万人が難民としてボスニアのセルビア人地域やセルビア共和国に逃れたという。クロアチア共和国軍は、嵐作戦を完了させるとそのままボスニア領内に侵攻して「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府があるバニャ・ルカを攻撃し、共調したボスニア政府軍はバニャ・ルカの南のヤイツェなどを攻略した。

NATO軍は統合作戦の仕上げとして「デリバリット・フォース作戦」を発動

クロアチア共和国軍がボスニア領内で、バニャ・ルカを攻撃している最中の8月28日、ボスニアのサラエヴォ市の青空市場マルカレで爆発があり、38人が死亡するという事件が起こされた。NATO軍はこの事件を検証することなくセルビア人勢力によるものだと即断し、1日余り後の30日に「オペレーション・デリバット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動した。デリバリット・フォース作戦は、アドリア海に米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」の艦隊を配置し、イタリアのアビアーノNATO空軍基地など周辺諸国15ヵ国の18の空軍基地に400機の戦闘爆撃機を配備し、セルビア人勢力への攻撃に投入した。地上からはNATO加盟国主体の国連緊急対応部隊・RRF1万数千人が参加し、空陸からボスニア・セルビア人勢力地域を攻撃した。NATO空軍は2週間あまりにわたって2500回以上の爆撃を行ない、米・英・蘭などによる緊急対応部隊・RRFは600発の砲弾をボスニア・セルビア人勢力に浴びせた。NATOの作戦に共調してクロアチア共和国軍はバニャ・ルカ攻撃を続行し、ボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍はセルビア人勢力の支配地域のヤイツェ攻略に引き続き、クレンバック、ボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュを攻撃し、ボスニアの領土の50%余りを確保した。

マルカレ市場への砲撃事件は、国連の英・露の専門家がセルビア人勢力による証拠はなく、むしろボスニア政府軍による行為の可能性が高いとの報告を出したが、なぜか国連保護軍がこれを却下した怪事件である。

NATO軍はクロアチアおよびボスニア内戦では一方の側に加担した

NATOの海空軍、NATO加盟国主体の国連緊急対応部隊・RRF、クロアチア政府軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力軍の5者による共同作戦を受けてもボスニア・セルビア人勢力は戦闘を継続する意欲を見せていたが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言によって9月14日に停戦協定に合意する。

ガリ国連事務総長は、この事態の推移を見て現状を追認し、すでに縮小していた国連保護軍・UNPROFORをNATO軍と入れ替える提案をした。この措置によって、ボスニアはNATO軍が完全に支配する地域となった。NATO軍はデリバリット・フォース作戦の発動に示されるように、ボスニア内戦を抑制するのではなく、一方の側に立った当事者として行動したのである。のちに、この一連の作戦でNATO軍は「劣化ウラン弾」を大量に使用していたことが判明する。

ボスニア・セルビア人勢力から当事者性を排除したデイトン和平交渉

1995年11月、米国オハイオ州デイトンの空軍基地で開かれた米政府主導のボスニア和平交渉では、当事者であるボスニア・セルビア人勢力は傍役として扱われた。和平交渉は米国の主導の下に行なわれ、招聘されたのは、トゥジマン・クロアチア共和国大統領およびイゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領、そしてミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領であった。

この和平交渉の「デイトン合意」で定められた内容は、中央政府としてのボスニア・ヘルツェゴヴィナを設置し、エンティティとしての「ボスニア連邦」の領域が51%、セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」が49%とされた。これは、オーエン・シュトルテンベルグ和平会議両共同議長が93年に出した裁定案および94年の連絡調整グループの和平案と大枠で異なるものではなく、NATO軍が空爆をしなければ得られない成果ではなかった。新戦略に伴うNATO軍を絡めた大規模な作戦は、米国の意に従わないセルビア人勢力への懲罰的行動として実行されたのである。

デイトン合意はパリで行なわれた協議で細目が詰められ「デイトン・パリ協定」として調印された。これに伴い、国連保護軍は撤収し、NATO軍が「和平実施部隊・IFOR」としてボスニアに進駐して軍事的な支配権を確保することになる。

95年12月に採択された安保理決議1035では「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッションUNMIBH」の設置が決められ、これが文民統治を担うことになる。NATO軍は96年末、積極的な軍事力行使が可能な「和平安定化部隊・SFOR」に任務替えを行なう。このNATOのSFORがボスニアの軍事部門を担い、UNMIBHの上級代表が民生部門を統括することになった。

米政府はユーゴ連邦の完璧な解体を企図しCIAの拠点をコソヴォに設置

ユーゴ連邦解体戦争はこれで終結するかに見られたが、クリントン米政権はなお干渉を継続する計画を立てていた。そのため、ミロシェヴィチ・セルビア大統領をジュネーブに呼びつけ、空爆を停止して1年後の96年6月にコソヴォ自治州のプリシュティナに米「情報・文化センター」を設置することを認めさせた。情報・文化センターは米CIAが拠点とするところである。直後にコンブルム米国務省次官補は「米国がコソヴォ問題に関与し続けることの一例である」と露骨に述べた。ミロシェヴィチ・セルビア大統領がCIAの拠点をコソヴォに設置することを何故認めたのかは謎であるが、ボスニア内戦が終結したことでの気のゆるみがあったと思われる。

コソヴォ自治州のアルバニア系住民は82%を占めていたが、その住民たちはユーゴ連邦からの分離独立を望んでいた。イブラヒム・ルゴヴァらはベルリンの壁が瓦解した直後の89年12月に「コソヴォ民主連盟」を結成し、政治的交渉による独立を達成することを目標に掲げて活動を始め、自ら自治州大統領の地位に就いていた。その一方で、合法的な行動にあき足らない若者たちはコソヴォ解放軍・KLAを88年に結成して武力闘争による独立を目指していた。この武闘派は、当初アルバニア系住民にも相手にされなかったが、その主要なメンバーはクロアチアやボスニアで始まった内戦に参加して戦闘の経験を積み、両国の内戦が終結するとコソヴォ自治州に戻って武力による分離独立活動を始める。米国は、このコソヴォ解放軍を情報・文化センターに拠点を置くCIAが支援するべく画策したのである。

コソヴォ解放軍・KLAに翻弄されたユーゴ連邦・セルビア共和国

1997年に隣国アルバニアが社会主義制度から資本主義制度を導入するに際して政治的・経済的混乱を起こすと、コソヴォ解放軍・KLAはそれに乗じてアルバニアの武器を大量に確保し、その武器を使って本格的な武力闘争を開始した。

当初ユーゴ連邦は、ユーゴ連邦解体戦争で流布されたセルビア悪説が再燃するのを怖れてコソヴォ解放軍の武力闘争への鎮圧行動をためらっていた。すると、98年2月にゲルバード米特使がコソヴォ自治州を訪問し、ルゴヴァ派などの穏健な指導者を集めて「コソヴォ解放軍はテロ組織だ」と言い渡した。ユーゴ連邦政府は、このゲルバードの発言をコソヴォ解放軍への鎮圧行動を容認するものと解して治安部隊にコソヴォ解放軍の鎮圧作戦を命じる。

ところが、セルビア共和国の治安活動をEUおよび国連安保理は激しく非難し始め、98年3月に経済制裁や武器を禁輸する安保理決議1160を採択した。コソヴォ解放軍はこの国際社会の反応を見て武力攻撃を強化し、5月にはコソヴォ自治州の25%を支配下に置くまでになった。セルビア共和国としては国際社会に激しく非難されても、セルビア王国の揺籃の地であるコソヴォ自治州の4分の1の領域をKLAが支配していることを許容するわけにはいかず、鎮圧行動を強化した。それを見た米国は、5月にホルブルック特使をユーゴスラヴィアに送り込んで、セルビア治安部隊の撤収を強要するとともに、情報・文化センターに属する米CIA要員の手引きでコソヴォ解放軍に接触し、「自由の戦士」として讃えた。しかし、セルビア共和国は鎮圧作戦を継続し、8月にはコソヴォ解放軍をアルバニアの山岳地帯へ撤退させるほどに追いつめた。

コソヴォ紛争ではNATO軍が主役を演じる

それに対し、NATO軍は軍事介入計画の作成に取りかかり、9月には国連の存在を無視して大使級協議でユーゴ連邦側に空爆の警告を出す。コーエン米国防長官は、ユーゴ連邦が即刻停戦し、2週間以内に治安部隊を撤収させないならば、NATO軍が空爆を実施するとの警告を発した。クリントン米大統領もIMFなどの総会で、「ユーゴ連邦は今すぐコソヴォでの暴力を止めなければNATO軍は行動を起こす用意がある」と演説する。このように、米国とNATOは世界の支配者の地位を確保したかのように、ユーゴ連邦への非難と警告を繰り返し発した。

1998年10月、ロシアのイワノフ外相はユーゴ連邦に対し、事態の打開のためには欧州安保協力機構・OSCEの調査団の受け入れが必要だとの助言を与えた。ユーゴ連邦外務省はそれを受けてコソヴォ自治州へのOSCE調査団の受け入れを表明したが、なぜかOSCEは調査団派遣の要請を拒否した。こののち、米・英・独・仏・伊・露の「連絡調整グループ」6ヵ国が協定案を策定し、それを基本としてホルブルック米特使は頻繁にミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を訪問した。その交渉内容は明らかにされなかったが、オルブライト米国務長官は記者会見で「ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領は現在の事態の深刻さを理解していない。期限は設けていないがあと数日で時間は尽きようとしている。われわれは武力行使に国連安保理決議は必要ないという考えだ」との国連を軽視する傲慢な態度を示した。ともあれ、ホルブルック米特使とミロシェヴィチ大統領との間で停戦に関する合意が成立し、OSCEの停戦合意検証団・KVMを組織して2000人の団員をコソヴォ自治州に派遣することを決定する。次いで、NATO軍はクラーク欧州軍最高司令官をユーゴ連邦に派遣し、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領との間でコソヴォ自治州からのセルビア治安部隊の撤収条件について合意を見た。この経緯からすれば、コソヴォ紛争の政治解決は可能に思われた。

ユーゴ連邦解体戦争から始まった米国の国連安保理決議を回避する対応

ところが、OSCEの停戦合意検証団・KVMの団長に曰くのある米外交官のウィリアム・ウォーカーが任命されたことで、コソヴォ問題の帰趨は明白となった。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使だった際、エルサルバドル独裁政権への抗議の姿勢を示したカトリック教会を、独裁政権の殺人部隊「アトラカトル部隊」が襲撃して司祭やシスターや子どもを虐殺した事案を容認し、擁護した人物である。この事件の際、アトラカトル大隊はエルモソテ村周辺の住民およそ1000人を虐殺した。

KVMは、98年10月から12月にかけて1600人ほどの調査員を順次コソヴォ自治州に送り込んだが、ウォーカーKVM団長は策士ぶりを発揮し、米CIAや英MI6などの情報部員百数十人をKVMに潜ませた。そしてユーゴ連邦を貶めるための画策を行なわせ、NATO軍の空爆の標的となる可能性のある施設などを調査し、コソヴォ解放軍と接触させて衛星電話を渡して空爆時に連絡をさせるための準備をさせた。

ウォーカーKVM団長は99年1月にコソヴォに入ると、たちまち「ラチャク村虐殺事件」なるものを捏造し、セルビ共和国の非道性を言い立てるブラック・プロパガンダを展開した。これを受けてオルブライト米国務長官は、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を第2次大戦時の「ナチス・ドイツのヒトラー」に譬えてセルビア悪説を再燃させる。このオルブライト米国務長官の発言が、その後のコソヴォ自治州をめぐる帰結を指し示している。

米英が主導するNATO諸国は、すぐさま空爆を実行する態勢を取ったが、このときは6ヵ国からなる「連絡調整グループ」が「和平交渉」による解決を提案する。連絡調整グループによる和平交渉はメディアのアクセスを遮断してフランスのランブイエ城で行なわれたことで「ランブイエ和平交渉」といわれる。米国はこの交渉団の成員にも容喙し、コソヴォ自治州の代表団長に30歳の若いコソヴォ解放軍の政治局長をつけ、穏健派と言われたルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領を副代表に格下げさせた。

このようなこともあって交渉は困難を極めたが、交渉団の尽力によって和平が成立するかに見えた。すると、オルブライト米国務長官が交渉の場に乗り込み、米国の常套手段である最終段階で条件のハードルを上げるという手法を行使し、ユーゴ連邦に受諾しなければ重大な結果を招くと威した。オルブライト米国務長官がユーゴ連邦に突きつけたハードル条項は、ユーゴ連邦にとって受け入れ難い軍事条項の「付属文書B」であった。この「軍事条項B項」は50ページからなる占領条項ともいうべき内容で、ユーゴスラヴィア連邦全土にNATO軍を駐留させ、その費用の一部をユーゴ連邦が分担せよ、というものだったことからユーゴ連邦が受け入れるところとはならなかった。一方のコソヴォ自治州のタチ代表も独立の確定に拘ったため交渉は成立せず、再交渉が設定された。

NATO軍の大規模な軍事力行使は人道的介入とは乖離

最終交渉と位置づけられた3月15日から行なわれたランブイエ和平交渉でも、オルブライト米国務長官は軍事条項の受諾をユーゴ連邦に迫った。しかし、NATO軍の占領を意味する条項をユーゴ連邦が受け入れるはずもなく、当然の如く交渉は決裂した。オルブライト米国務長官がユーゴ連邦に提示したハードル条項の付属文書は、交渉仲介の主役であるはずの連絡調整グループには、軍事力行使に積極性を示したブレア英首相を除いて秘匿するという作為が行なわれたこともあり、国際社会はユーゴ連邦が傲岸な拒否をしたものと受け取らされた。オルブライト米国務長官はハードル条項を秘匿したまま、「ランブイエ和平交渉の決裂の責任はすべてユーゴ連邦にある」と宣言した。ユーゴ連邦セルビア悪が再び浸透することになった国際社会は、NATO軍のユーゴ連邦への空爆を当然のこととして受け入れた。それを受けたNATO軍は、直ちにユーゴスラヴィア連邦への「オペレーション・アライド・フォース(同盟の軍事作戦)」の発動を決定する。

NATO軍は国連安保理決議を回避してユーゴ・コソヴォ空爆を実行

このとき既に、アドリア海にはNATO海軍の大艦隊が集結していた。米海軍の空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊、イギリス海軍の軽空母「インヴィンシブル」艦隊、フランス海軍の空母「フォッシュ」艦隊、その他米海軍のミサイル巡洋艦「ヴェラ・ガルフ」と「レイテ・ガルフ」、水陸両用強襲揚陸艦「キアサージ」、および加盟国の駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻、潜水艦3隻など、アドリア海周辺には大規模な海戦を連想させるほどの陣容が戦闘体制を整えていた。爆撃機は、イタリアのアビアーノNATO空軍基地を中心に周辺の加盟国の18の基地におよそ1000機が終結しており、米空軍の長距離戦略爆撃機B52、B1B、F117も米国本土や英国の基地で出動態勢に入っていた。

NATO軍は99年3月24日、国際法における軍事力行使の唯一の承認機関である国連安保理決議を回避し、人道的介入の名を冠したアライド・フォース作戦を発動して「ユーゴ・コソヴォ空爆」を実行に移した。NATO軍の恣意的なユーゴ連邦への空爆は、こうして始められた。

コフィ・アナン国連事務総長は、安保理決議を経ないNATO軍の軍事行動は国連憲章に違反していたことから、当然ながらユーゴ・コソヴォ空爆を批判した。

人道的介入は、第2次大戦後に採択された「人道に対する罪」を前提としたものであるが、人道という倫理性を内包した行為に対しては立場によって異なる解釈がありうる。だからこそ、NATOという地域の軍事同盟が恣意的に人道的介入などと大義名分を掲げることは許されず、少なくとも国連安保理決議を経なければならないはずであった。しかし、米国主導のNATOは世界の支配者の如き対応を示したのである。

NATO軍の「人道的介入」は国際社会を惑わすための欺瞞的言辞

国際社会は人道的介入の名称に欺かれたが、当事者のNATO首脳の思惑は人道的介入とは別のところにあった。クラークNATO軍最高司令官は空爆開始直後、「NATO軍の作戦はセルビア人の民族浄化を防ぐものではなかった。セルビアとコソヴォの治安部隊に対する戦争でもなかった。こうした意図はなく、目的でもなかった」と発言している。

のちにNATO事務総長に就任することになるジョージ・ロバートソン英国防相も、NATO軍が爆撃を開始した3月24日に開かれた英国の下院議会で、「今年の初めのラチャク村事件に至るまでは、ユーゴスラヴィア連邦当局よりもコソヴォ解放軍・KLAの方が、より多くのコソヴォの死者に責任があった」と答弁した。これらの発言は、喧伝されたセルビア悪説が当を得ていなかったことを示し、NATO軍の軍事力行使が人道的介入とは別の意図の下に行なわれたことを示唆している。メディアはコソヴォ自治州の紛争について、情報不足も相俟ってセルビア治安部隊の鎮圧行動のみを非難し続けていたが、NATO諸国はコソヴォ紛争の実態を正確に把握していたのである。しかし、国際社会にはセルビア悪説が浸透していたため、メディアや知性たちがNATO軍の人道的介入の欺瞞性について批判することはほとんどなかった。

破壊者としての存在を見せつけたNATO軍

3月24日から開始されたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は、熾烈を極めた。爆撃の対象は軍事施設にとどまらず、ユーゴスラヴィア連邦全土の都市におよび、テレビ・ラジオ局、産業施設、発電・変電所、ガス、水道、病院、診療所、学校、交通機関、道路などインフラすべてに及び、ドナウ川に架けられていた橋梁をすべて崩落させ、住民の生活を苛酷な状態に陥れた。化学プラントへの爆撃は、有害物質がドナウ川を汚染し、空気を汚染した。ジュネーブ諸条約では、「妥当な軍事攻撃の要件として、民間施設への攻撃を回避すること、一般市民を保護すること」などを義務づけている。しかし、NATO軍はこれを無視し、劣化ウラン弾やクラスター爆弾を使い、メディアの施設をミロシェヴィチの宣伝機関であるとして爆撃した。さらに、市場での買い物客や祝祭の集まりや走行中の列車やアルバニア系住民の避難民の車列をも空爆し、報道の車列をも爆撃してタイムズの記者を殺害したのみか、駐ベオグラード中国大使館をも標的にするという無差別攻撃を実行した。歴史が積み重ねてきた非戦条約や人道的措置に関する条約は、NATO軍にとって対象を非難する材料ではあっても、自らを律する理念としては存在しないも同然の軍事行動だった。

このユーゴ・コソヴォ空爆の際、コソヴォ自治州住民の40%に及ぶ85万人が難民となっている。この難民の増大は、セルビアの民族浄化の企図を示す証拠だと喧伝された。しかし、難民・避難民はNATO軍の無差別ともいえる空爆を避けるための人々が大半であり、セルビア治安部隊の報復的な追い立てと、その非道さを印象づけるためにコソヴォ解放軍・KLAがつくり出した難民が加わったものであった。

NATOの軍事行動はユーゴ連邦の国力を疲弊させて従属国家とすることにあった

NATO軍は苛烈な空爆を6月9日までの78日間続け、ユーゴ連邦政府がG8の提案した仲介案を中核とした和平案の受諾を表明した6月3日以降も、攻撃を緩めるどころか激しい空爆を続行した。6日には爆撃機を430回出撃させ、7日には483回出撃し、8日には657回出撃して無意味な破壊を続けた。この行動に見られるように、NATO軍の空爆はセルビア共和国政府とコソヴォ自治州との間の紛争を解消するためのものではなく、NATO諸国の威光と権益に従わない国に対する懲罰的行為を意味した。

つまりユーゴ・コソヴォ空爆は、クラークNATO軍司令官が指摘したようにコソヴォ自治州をめぐる紛争を解消するためでも双方の和平を得るためでもなく、ユーゴスラヴィア連邦・セルビア共和国が米英主導のNATO諸国に再び反抗する余力を持つことのないように国力を疲弊させて従属を余儀なくさせるところにあった。NATO軍が空爆に人道的介入を冠したのは、NATOの非人道的武力行使を正当化し、国際社会が営々として築いてきたジュネーブ条約に違反する行為であることを想起させないための、国際社会を欺く目くらましとして用いられたのである。

NATOのユーゴ連邦への内戦介入は自己保存と覇権にあった

NATOはユーゴ・コソヴォ空爆中の1999年4月24日に結成50周年を迎え、ワシントンで式典を開いた。この式典における協議においてユーゴ連邦へのNATO軍の空爆を正当化するとともに、「新戦略概念」を明確にして加盟国の域外への軍事行動を正式な活動領域として取り入れる。オルブライト米国務長官はNATO軍の活動範囲は「中東から中央アジアまで」を含ませると言明してNATOを永続させるための戦略概念を提示し、その後のアフガニスタン戦争への拡大を暗示した。このNATO創設50周年式典のスポンサーとなったのは、フォード、ゼネラル・モーターズ、ハニーウエルなどの軍需関連の米国の大企業12社である。この企業群が見返りとして期待するのは、戦争に伴う調達利益であろう。

IPSのフィリス・ベニスはNATOが存在と全世界的な展開を意図したと分析

米国のシンクタンクIPS(Institute for Policy Studies)研究員のフィリス・ベニスはNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆について、「NATOはソ連の消滅によって存在理由も消滅した。NATOは新戦略概念を構想し、機構自体の存続とNATOが今後も欧州内・米欧間関係の中心的位置を占める理由を正当化して『相互運用能力』の名目で兵器の製造・取得および軍拡の継続を合理化した。同盟の安全のためには、全世界的な動きもまた考慮に入れなければならなかった」と分析している。

この新戦略概念によって、同盟諸国の領域を越えた地域にNATO軍の部隊を展開するという道筋をつけるものとなった。このNATO軍のユーゴ連邦解体戦争における一連の行動によって、国連安保理に付与された武力行使に関わる固有の国際的正当性はNATOに奪い去さられ、国連の役割は矮小化されることになった。NATOは、ユーゴ連邦への国際的軍事介入を実行することで、国連憲章に拘束されない軍事力行使を正当化する権限を獲得し、世界の強制執行官となったのである。

コソヴォ紛争は「低強度紛争」にすぎなかった

NATOが人道的介入として空爆に踏み切ったコソヴォ紛争というのはどのような状態にあったのか。98年9月に、人権団体「国際人権連盟」と「フランス・リベルテ」が調査報告を発表している。それによると、ゲルバード米特使が「コソヴォ解放軍を「テロ組織」であると言い渡した98年2月からセルビアの治安部隊がテロ組織の鎮圧活動を本格化して半年余りのち、「この7ヵ月にわたるコソヴォ自治州におけるセルビア治安部隊とアルバニア系武装組織との戦闘で、およそ700人を超える死者が出ている」としている。この時期は西側諸国がセルビア治安部隊の行為は民族浄化であるとして囂々たる非難を浴びせた情況下にあった。700人の犠牲者数が侮れない数であることは言をまたないが、これはセルビア人とアルバニア系住民双方の犠牲者であって、アルバニア系武装組織のみの死者数ではない。とすれば、紛争としては「低強度紛争」に該当する。NATO軍が大艦隊を派遣して空爆をしなければならないような情況とはいえない。NATOのユーゴ・コソヴォ空爆後の調査によっても、全体としておよそ1500人前後の犠牲者数であったとされている。即ち、コソヴォ紛争はNATOがユーゴ・コソヴォ空爆をしなければならないような事態ではなく、終始「低強度紛争」にすぎなかったのである。フィリス・ベニスが分析したように、ユーゴ・コソヴォ空爆はNATOの存在価値を高めるための軍事力行使だったのである。

西側諸国は地政学的な要衝としてバルカン支配を目的としてユーゴ連邦解体を行なう

NATO軍の空爆後に、平和維持軍・KFORの司令官としてコソヴォに進駐したマイケル・ジャクソン英将軍は、「我々はこの国を横断するエネルギー回廊の安全を保障するために、ここに長期にわたって留まるだろう」と述べた。ユーゴ・コソヴォ空爆は人道的介入が目的ではなく、エネルギー回廊を確保することが目標だったと露骨に語ったのである。これは、第2次大戦時にチャーチル英首相が採用した戦略を想起させる。

NATO軍主体の平和維持軍・KFORは、コソヴォに進駐すると協定にあったコソヴォ解放軍・KLAの武装解除を形式的にしか行なわず、コソヴォ解放軍の主力を「コソヴォ防衛隊」に編成替えして温存した。そしてKLAの政治局長だった30歳の若いハシム・タチを暫定首相に就け、コソヴォ解放軍の将兵たちを暫定政府の閣僚に任命した。このようにしてNATO諸国は実質的にコソヴォ解放軍を温存させたのである。このことが、コソヴォ解放軍に「大アルバニア」建設の幻想を抱かせ、マケドニア紛争を起こさせることになる。

NATOは世界覇権の軍事組織として君臨することを目指している

ユーゴ連邦解体戦争の本質は内紛である。NATO諸国が当事者の一方に加担するようなことがなければ、あのような悲惨な紛争となるようなことはなかった。米国主導のNATOが、政治的、経済的、軍事的な支配の企図を抱いて根拠の乏しいセルビ悪説を流布し、セルビアのみを軍事力行使の対象にした。このような関与のあり方が許されるならば、弱小国は大国の傘の下でしか存在し得なくなり、19世紀の植民地主義的な世界に逆戻りすることになる。岩田昌征教授は、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の要因について、内部要因が51%、外部要因が49%と分析している。この分析は、妥当性があるといえよう。

NATO諸国はユーゴ連邦を解体させた余勢を駆って弱小国への内政干渉を続ける

NATO諸国は、ユーゴ連邦解体戦争が成功した余勢を駆って東欧諸国の大統領選挙に露骨に介入するようになる。セルビア大統領選挙では、ミロシェヴィチ大統領を落選させるために資金を提供し、情報工作を行なってコシュトニッツァを当選させただけでなく、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアに現地事務所を設置し、それぞれの国の選挙に干渉した。

地政学的覇権を目指したNATO

NATO諸国が一致して軍事力行使に加わっていたとしても、その内部が一枚岩だったというわけではない。仏・独などが曲がりなりにも政治交渉を重視していたのに対し、米・英側は軍事力行使による解決を重視するという姿勢を示しており、両者間に微妙な差異が見られるからである。オーストリア、ベルギー、ルクセンブルグは仏独側に立ち、米英枢軸側に立つのはデンマーク、オランダなどである。仏独側はヨーロッパをEUによって統合して経済的発展を目指すことを目標としているが、米英枢軸側は圧倒的な軍事力でヨーロッパの安全保障を担保することでNATOに従わざるを得ないと思わせることを目指している。  

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争において、NATOの中のこの両極の姿勢は顕在化した。米国はNATO軍としての軍事力でセルビア人勢力を屈服させると、ボスニアとコソヴォそしてマケドニアに恒久的な米軍基地を建設し、ヨーロッパ全域と中近東およびロシアを視野に置いた地政学的戦略拠点を確保したからである。

NATO軍の空爆後にコソヴォ解放軍は「大アルバニア」を構想する

NATOのユーゴ・コソヴォ空爆によってセルビア共和国の治安部隊が撤収すると、コソヴォ解放軍はセルビアとマケドニアに在住するアルバニア系住民の居住地域を分離割譲させる「大アルバニア」建設を構想する。そして、先ずセルビア共和国南部のアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドベジャ解放軍・LAPBM」を結成させ、セルビアからの割譲闘争を仕掛けた。しかし、これはセルビア治安部隊の反撃を受けて簡単には進まなかった。

すると、コソヴォ解放軍は軍備の乏しいマケドニアに矛先を向けてアルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させ、2001年3月から武力闘争を開始した。軍備の脆弱なマケドニアはたちまち押し込まれて国土の3分の1を占領されるという事態が出来した。狼狽したマケドニア政府はウクライナから攻撃ヘリの貸与を受けるなどをして反撃に転じた。

このときNATOのソラナ事務総長は、コソヴォ解放軍の武力闘争を諫めるのではなく、ウクライナを訪問してマケドニアに攻撃ヘリの貸与を止めるように要請した。ウクライナはこのソラナの圧力を受けて攻撃ヘリの貸与を停止する。再び困難に陥ったマケドニア政府は、それでも周囲からの武器の供与を受けて総力戦を展開してKLA・NLAの連合部隊を追いつめていった。ここに至って密かにKLA・NLAを支援してきたNATOの米軍は休戦の仲裁に入る。このときマケドニア政府軍がKLA・NLAの連合部隊を包囲していたのだが、休戦に入ると米軍が護送車を送り込み、KLA・NLAの部隊を指導していた米CIA要員や軍事請負会社MPRIの要員を搬送した。これに気付いたマケドニアの住民たちは護送車を取り囲んで投石や罵声を浴びせるという事件を起こした。

NATOの軍事力によって最終解決の独立を果たしたコソヴォ

コソヴォ解放軍・KLAの大アルバニア構想は、このセルビアとマケドニアにおける敗北によって潰えることになった。しかし、コソヴォ自治州をセルビア共和国から分離独立させることを諦めたわけではなかった。2003年になるとコソヴォ解放軍主体の暫定政府はランブイエ和平協定の条項に含まれていた、3年後にコソヴォ自治州の独立問題を再協議するとの条項の実現を執拗に要求する。国連はこの要請に応えて2005年にアハティサーリ・フィンランド前大統領を仲裁者に指名し、調停に当たらせた。アハティサーリは、国連安保理決議によるコソヴォの独立を画策するが、安保理事国から国家の独立を安保理が決めることに異議が出されたため、その打開策は実現しなかった。

コソヴォ解放軍のタチ元政治局長は、2008年に暫定政府の首相に再就任すると、2月に独立宣言書をコソヴォ議会に採択させ、セルビア共和国からの独立を宣言する。NATO加盟国の多くは予定調和の如く直ちにコソヴォの独立を承認したが、スペインやギリシアなど一部の国はコソヴォの独立の手法に疑問を呈し、承認を見送った。コソヴォの独立のあり方に疑問を抱いた国は少なくなく、コソヴォの独立を承認した国は1年を経ても国連加盟国192ヵ国のうちの54ヵ国にとどまった。

NATO軍に支えられたコソヴォの独立宣言は、すぐさまグルジアからの独立を志向しているアブハジアや南オセチアに波及し、両国の議会が独立を宣言し、さらに2014年に起こされたウクライナ政変時のロシアによるクリミア半島併合に口実を与えた。このように、コソヴォの独立宣言は、世界の安全保障に影響を与えることになったのである。

コソヴォ解放軍の首脳はセルビア人やロマ人などを拉致して殺害し臓器を売買していた

NATOの空爆を引き込むことに成功したコソヴォ解放軍の指導者であったハラディナイとタチらは、コソヴォ紛争前後にセルビア人やロマ人たちを殺害して臓器売買するという犯罪を犯していた。その実態を旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYのカルラ・デル・ポンテ首席検察官は在任中に把握しており、検察局に調査をするよう指示したが、多数を占めていた米国人スタッフたちの沈黙の壁に阻まれて彼らを起訴することができなかった。そこでカルラ・デル・ポンテは、退任後に「追跡;私と軍の犯罪者」なる著書を発刊して暴いた。

しかし、コソヴォ解放軍は自由の戦士であり、セルビア共和国は悪であるという前提で軍事介入をしてきたNATO諸国の意図を忖度したICTYは、この犯罪について調査することさえしなかった。ICTYの設立目的は、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領とセルビア人だけを裁くことにあったからである。ICTYが国際法に基づいた法の執行機関ではなく、安保理の下部機関である政治組織に過ぎないことをこの事例は端無くも示したことになる。

そのため、彼らはその犯罪を暴かれることなく独立宣宣言直後に首相と大統領の地位に就いた。ところが、スイスのマーティー欧州議会議員が実態を調査した報告をEU議会に提出したことから、ICTYの後継組織である国連が運営する「特別法廷」が審理を開始する。そのため、ハラディナイ・コソヴォ首相とタチ・コソヴォ大統領は、辞任を余儀なくされることになった。

NATOは圧倒的な軍事力を擁する世界を差配する集団となる

NATOは、多国間条約によって成り立っているとはいえ、国連憲章に則って設置された集合体ではない。NATOは、ユーゴ連邦解体戦争への関与に見られるように、国連憲章を軽視して安保理の権限を剥奪し、自己保存を目的化し、自己の権益のための国際秩序を要求し、圧倒的な軍事力によって世界の強制執行官に居座ったきわめてまがまがしい集団だといえる。

NATOはユーゴ・コソヴォ空爆の最中の1999年4月に結成50周年集会を開き、活動範囲を加盟国以外にも拡大する新戦略概念を策定した。既にNATOは条約の規定以外の地域でも軍事力行使を実行していたのだがそれを追認する体裁を整えたのである。

NATOが軍事力を行使した国や地域は、クロアチア内戦、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦、コソヴォ・セルビア紛争。アフガニスタン戦争、マケドニア紛争、リビア内戦である。いずれも、NATO加盟国への反撃をするだけの軍事力を持たない弱小国への武力行使である。

ユーゴ・コソヴォ空爆はロシアの軍備体制に多大な影響を与える

このNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆は、ロシアと中国の安全保障関係者に激震を与えた。ロシアは親米を自認していたエリツィン大統領の下、ユーゴ問題は話し合いで解決可能であると捉えて特使を頻繁に派遣して仲介の労を惜しまなかったものの、それがことごとく無視されてユーゴ・コソヴォ空爆が実行されたことに愕然とさせられたからである。当時ロシアは米国の助言を受けながら社会主義体制から資本主義体制への転換に邁進していた。しかし、それは内部腐敗もあって経済は混乱を極め、国力が著しく低下していた。当然ながら経済力の低下に伴い軍事費も削減された。それでもヨーロッパにおいて大規模な戦闘行為が起こされることはないと判断していたこともあって、軍備は疎かにされていた。しかし、ユーゴ・コソヴォ空爆を目の当たりにし、いかに親米姿勢を示していても、ロシアへの武力攻撃はありうると分析した。そこで空爆継続中の99年5月に「国家安全保障概念」および「軍事ドクトリン」の改定に取り組むことになる。これには後にロシアの大統領に就任することになるプーチンが安全保障会議書記として深くかかわっていた。このユーゴ・コソヴォ空爆の過程で親米路線を採っていたエリツィン大統領は、さすがにたまりかねたのであろう「ロシアが核保有国であることを忘れるな」と口走った。そして、ロシアは2001年にはNATOと米国との核戦争を想定した大規模な演習をヨーロッパ側と極東側で実施するまでになる。

中国もNATO軍による大使館へのミサイル攻撃を受けて軍備再編を図る

中国にとって、NATOは遠い存在であり、それが自国の脅威となるとは捉えていなかった。そのため中国は、防衛体制を専守防衛で十分と判断し、経済発展に傾注していた。ところが、ユーゴ・コソヴォ空爆において、駐ベオグラード中国大使館にミサイル3発が撃ち込まれて死者を出したことに驚愕した。NATO軍は誤爆だったと謝罪したが、それをそのまま信じるほどの素朴な安全保障関係者はいない。NATOとしては、中国大使館の無線がセルビア共和国に利用されているのではないかという疑惑に対する軽い懲罰程度に考えたのかも知れないが、中国はそのように受け取ってはいない。

中国はすぐさまNATOが仮想敵国になり得ると措定し、軍備編制に取りかかる。そして専守防衛を任務としていた陸軍部隊を削減し、ハイテク兵器に対応できる軍備編成に取り掛かかった。空軍も「攻防兼備型」に転換し、海軍の増強にも力を注ぐことになる。南沙諸島に強引に前進基地を建設したのもそれ所以である。さらに、ウクライナから空母を購入して「遼寧」として改造したのもその一環である。2022年の時点で中国は空母3隻を有する海軍大国へと変貌した。そしてロシアと頻繁に会合を持ち、連携を深めていく。NATOの空爆を受けた23年後の2022年5月7日に、中国外交部の副報道局長は記者会見で次のように述べた。「中国人民は1999年5月7日を永遠に忘れない」と。この発言は、NATOの中国大使館へのミサイル攻撃を誤爆とは見ていないことを示している。

このように、NATOのユーゴ・コソヴォ空爆は中・露の軍備体制に大きな変革をもたらし、米中対立およびロシアのウクライナ軍事侵攻の淵源となったのである。

アフガニスタン戦争におけるNATO軍の介入

2001年に米国で9・11事件が起こされる。米政府は、この事件の犯行者を「アルカイダ」によるものと即断した。そして、その首謀者をアフガニスタンのタリバン政権が匿っているとして、一方的にアルカイダを引き渡せと要求するのみで外交努力を続けることなく、9・11事件から1ヵ月も経ない10月7日に「不朽の自由作戦」を発動してアフガニスタンに侵攻した。

9・11事件と「不朽の自由」との結びつきは不明だが、米国は国連安保理決議を経ることなく防衛戦争だとしてアフガニスタンに米軍の特殊部隊を侵攻させ、軍閥に金を与えて共同作戦を展開してタリバン政権を崩壊させた。

アフガニスタン派遣のISAFはNATO軍

NATO軍は規約5条により加盟国が攻撃された場合には、共同行動をとなければならないことになっている。しかし、このときはNATO加盟国としてではなく、国連安保理決議1386号を01年12月に採択させて「国際治安支援部隊・ISAF」を設置させて治安維持を目的としてアフガニスタンに派遣することにした。安保理決議によりISAFが設置されることになったとはいえ、国連軍としての派遣ではないことから、有志軍はまもなく戦闘部隊へと変貌する。指揮権はNATO欧州連合軍最高司令部が掌握し、その作戦司令の下に治安維持を担うことになった。それはまもなく名目化してタリバンとの戦闘部隊へと転換していったのである。

アフガニスタン戦争に参加させられた旧ユーゴ連邦の共和国

ISAFとしてのNATO軍の派遣軍には全加盟国28ヵ国が参加しており、最盛期には非加盟国15ヵ国も加わったために、総勢43ヵ国の陣容となり、兵員は10万人を超えた。この中には、当然ながら旧ユーゴスラヴィア連邦から分離独立してNATOに加盟したスロヴェニアとクロアチアも参加している。さらに、NATOには加盟していないが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナと北マケドニアも加わった。米国の報復戦争になにゆえ43ヵ国もの国が参加を強いられたのかは明らかではないが、ブッシュ大統領の「味方か、敵か」の威しに従属したのであろうと推察できる。

米軍主導のNATO軍のアフガニスタンへの関与は膨大な破壊と殺戮をもたらす

タリバンは911事件に関与しておらず、また自国以外の地域や国に対して主体的にテロ行為をしたことはない。にもかかわらず、NATO軍はアフガニスタンではタリバンを敵対勢力として戦い続け、破壊、殺戮行為を実行した。しかし、43ヵ国もの国を引きずり込んだNATO傘下のISAFは、正当性を欠いているが故に弱小な武器しか持たないタリバンとの戦いに勝利を収めることはできなかった

20年間の戦闘に疲れ果てた米国は、2021年8月30日に米軍を撤退させる。英国軍はこの米軍の動きに合わせて撤退している。ISAFの任務は2014年に終了したことになっているが、参加国がそれぞれどの段階で撤退したのかは必ずしも明らかではない。

NATO軍・ISAFの戦闘行為による犠牲者は3500人ほどだが、アフガンニスタン全体の犠牲者は16万7000人に及ぶと試算されている。このうち5万人は市民である。このNATOの20年間にわたる無差別攻撃によるアフガニスタン住民の苦難はいかなるものであったのか、想像を絶する。

しかも、米国は撤退すると同時にアフガニスタンへの経済制裁を科して資産を凍結した。ISAFに参加したNATO諸国もこれに倣って銀行間取引を停止したために、アフガニスタンは輸出入ができなくなり、困窮に陥った。日本もこれに追随したことで援助団体は送金できなくなり、現金を携えてアフガニスタンに運ばざるを得ない事態が出来した。これが正義と人権を尊重せよと唱道する欧米とそれに追随する諸国の理性なのである。国連食糧計画・WFPは、アフガニスタンの人口の半数が栄養失調状態に陥りかねないと警告を発したが、侵攻国はそれに充分な関心を示さない。時折女性の人権侵害について口を挟むのみである。

NATOの東方拡大は至上命題となる

外交官で駐ユーゴスラヴィア大使を勤めたこともあるジョージ・ケナンは、ロシアは「安全保障恐怖症」状態にあり、NATOの東方拡大は新冷戦になるとして反対をした。にもかかわらず、NATOの東方拡大は至上命題の様相を呈し、1999年3月にはポーランドとチェコ、ハンガリーを加盟させた。これはクリントン大統領の意向に基づくもので、このときペリー国防長官は異議を申し立てて辞任した。その後も東方拡大は続き、2004年には旧ユーゴ連邦に属したスロヴェニアを含む、スロヴァキア、ブルガリア、ルーマニア、エストニア、ラトビア、リトアニアが加盟した。

そののちもブッシュ大統領がNATOの東方拡大を提案

2008年に開かれたNATOの首脳会議では、ブッシュ米大統領がウクライナとジョージア(グルジア)をNATOに加盟させるよう提案してロシアを刺激した。その後もNATOの東方拡大は留まるところを知らず、2009年にはやはり旧ユーゴ連邦のクロアチアが加盟。2017年には旧ユーゴ連邦のモンテ・ネグロが、2020年には北マケドニアが加盟したことによって12ヵ国で発足したNATO加盟国は30ヵ国へと拡大した。旧ユーゴ連邦でNATOに加盟していない国はボスニア・ヘルツェゴヴィナとセルビアを残すのみとなる。このNATOの東方拡大政策が、ロシアと中国にとって包囲網が敷かれたと受け取るのは当然といえる。

ウクライナ政変には米国が関与

2014年に米国が絡んだウクライナ政変が起こる。この政変によってウクライナ政権は、親露派から親NATO派へと転換した。ウクライナ政変は2013年から始まっているが、米国がどの段階から介入したのかは必ずしも明らかではない。しかし、14年にヴィクトリア・ヌーランド国務次官補と駐ウクライナ米大使がヤヌーコヴィチ大統領の後継者について電話でのやりとりをしていたことが暴露され、またV・ヌーランドがキエフの広場の群衆に紛れ込んで何かを配布していたことがニュース映像で捉えられていたことからするとかなり深く関与していたことと推察できる。さらに、米国は第2次大戦後にウクライナに存在していた独立を目指した「ウクライナ・ナショナリスト組織・OUN」を支援していたことを考慮すると、かなり早い段階から係わっていたと指摘できる。

危機感を抱いたロシアはクリミア半島をコソヴォに倣って独立国としたのちに強制併合

危機感を抱いていたロシアはウクライナにNATOや米国の基地が設置されると、クリミアのセヴァストポリ特別市に租借していた軍港が排除されると捉え、これを阻止するためにクリミア在住のロシア住民が多数であることを利用して住民投票を行なわせ、共和国として独立国とさせた上で強制併合した。これに対して欧米諸国はロシアに経済制裁を科し、G8から追放したが、プーチン露大統領は「コソヴォの例がある」と主張して併合を正当化した。

ウクライナにとってこれは許容し得ない事態と捉え、NATO諸国に介入するよう要請した。これに応じてNATO諸国などから民兵として参加する者たちが続出した。この民兵たちの出身国は19ヵ国に及び、総数は10万人を超えたという。米・英軍は2015年からこれらの民兵に対し高性能の武器を供与してその訓練を行ない始めたのである。2015年から22年にロシアがウクライナに侵攻するまでのNATOの軍事支援額は40億ドルに達し、その中にはジャベリンなどの対戦車ミサイルなども供与されていた。この訓練を施された民兵の中に「アゾフ連隊」を構成する者たちがおり、のちに内務省に吸収されてロシアの侵攻軍との戦闘で重要な役割を果たすことになる。これがウクライナのNATO化への一段階だといっていい。

ウクライナへのNATO関与の第2段階

第2段階はウクライナが2019年に憲法を改定し、EUとNATOへの加盟を明記したことである。ロシアにとって隣国ウクライナがNATOに加盟することになれば、仮想敵国と国境を接することになり、ミサイルはモスクワまで数分で到達する。これにロシアが相当な危機感を抱いたことは疑いない。

さらに、ゼレンスキー・ウクライナ大統領は、2021年3月にクリミア奪還の政令を出し、ウクライナ軍を南方に移動させた。同じ5月にNATOはウクライナを参加させて「欧州防衛21」と名付けた軍事演習を黒海で実施した。この演習に先立つ4月にウクライナのアレストーヴィチ大統領顧問は「演習はロシアとの戦争を想定したものであり、ロシアとの軍事対決がテーマだ」と口走った。この軍事演習をロシアは当然把握していた。

2021年のNATO加盟国の動きは活発化し、英・仏・独が海軍艦艇を太平洋地域に派遣して米軍とともに軍事演習を行なうほどになった。9月にはゼレンスキー・ウクライナ大統領が米国を訪問してバイデン米大統領にNATO加盟への道筋をつけてくれるよう要請した。これが直接の動因か明らかではないが、ロシア2021年10月に入るとウクライナの国境地帯に大規模な兵員を集結させ始めた。

NATOとウクライナはロシアを挑発する

この事態に対処するために12月に米・ロの外交交渉が開かれることになるが、この交渉でロシアは主として3つの要求を提示した。その内容は「1,NATOの東方不拡大を確約すること。2,NATOの加盟国は、軍事基地の設置を1997年以前の状態に戻すこと。3,ロシア周辺諸国に配備されたNATOの中距離および短距離陸上ミサイルを排除すること」である。米国はこれを拒否した上で、ウクライナの国境地帯に集結させたロシアの軍隊を撤退させよと突き放した。

プーチン・ロシア政権はこれを最後通牒と受け取ったのか、ウクライナとの国境地帯に配備した兵員を増強させてベラルーシで軍事演習を行なった。しかし、この段階でプーチン・ロシア大統領がウクライナ侵攻を決断したとは考え難い。ウクライナとNATO諸国に、ロシアの決意を示して再考を促したと見るべきだろう。ところが、ウクライナの対応は交渉による解決策を目指すのではなく、逆に停戦を定めたミンスク合意をないがしろにしてルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国の親露派勢力地域を攻撃するという挑発行為に出た。22年2月16日からルガンスクとドネツク両州の人民共和国への攻撃を激化させたのである。

ロシアはウクライナへの軍事侵攻という愚行を敢行する

躊躇していたプーチン・ロシア大統領は2月21日に、ウクライナのルガンスクとドネツク両共和国の独立を承認する。そしてこのドンバス地方の両国の要請を受ける形で2月24日に布告することなく「特別軍事作戦」と称してウクライナへ侵攻し、ウクライナの軍事施設への攻撃を開始した。

NATO加盟諸国やEUは、なぜロシアの警告を真面目に受け取って外交交渉による解決策をとらなかったのか。それにはNATOの東方拡大を止められない外交政策があるのであろう。さらに、アジアをも巻き込む意図を持っていたからと考えられる。その深奥では、NATO内部の軍産複合体の権益が絡んでいると見られる。即ち、ウクライナはNATOとロシアの代理戦争の場としての犠牲に選定されたのである。

ウクライナの不幸は、ゼレンスキー・ウクライナ大統領はミクロな知恵は持っているがこの世界システムを知らないことだろう。それを示すかのようにゼレンスキー大統領は、NATO軍によるウクライナ上空に「飛行禁止区域」を設定するように求めた。NATOによる飛行禁止空域の設定は、ロシア軍とNATO軍の直接対決することを意味する。そうなれば核戦争となりかねない事態が出来する。ゼレンスキー大統領はこの想像力さえ欠いていたのである。もっとも、彼の言動の背後には側近やNATO諸国の働きかけがあるとの推察は可能である。

ロシアのウクライナ侵攻はNATOのコソヴォ空爆と類似

いずれの戦争でも開戦の理由は同じようなものとなるが、ロシアのウクライナ侵攻は、1999年のNATOによるユーゴ・コソヴォ空爆と類似している。

1999年にNATOは、ユーゴ・コソヴォ空爆に先だってアドリア海に米・英・仏の空母3隻を含む艦隊を配備し、「低強度紛争」にすぎないセルビア治安部隊とコソヴォ解放軍との紛争を10万人から22万人が危機に瀕しているとのプロパガンダを発し続けた。そして、コソヴォのアルバニア系住民を迫害していることは一刻も猶予がならないとして「慈悲深い天使の作戦」なる呼称をつけ、安保理決議を回避した上で人道的なる空爆を実行した。

2022年のロシアのウクライナへの侵攻においても、ウクライナの国境地帯に大軍を集結させた上で、ドンバス地方のロシア系住民がジェノサイドに遭っているとの口実をつけ、それを排除し、保護するためだとの言いがかりをつけてウクライナに軍事侵攻をし始めた。

さらに、両事例とも、傀儡国家を擁立することを目的としていたことで類似している。このどちらも「低強度紛争」にすぎないものであり、大規模な軍事力行使をしなければならない状態であったとはいえない。

NATO諸国の大規模な経済制裁とウクライナへの武器供与では解決しない

ロシアの愚行に対するNATO加盟諸国の対応は、大規模な経済制裁を科すとともに、大量の武器をウクライナに供与することによってこの難題を切り抜けようとしている。明確に、ロシアとNATOの代理戦争と化したのである。ロシアのウクライナ侵攻は、理性を欠いた行為であることは論をまたないにしても、やはり政治交渉で解決を図る努力が不可欠である。その選択を放棄すれば破壊と殺戮が積み重なるだけである。

フィンランドとスウェーデンがNATO加盟を図る

フィンランドとスウェーデンはロシアのウクライナ侵攻を見ると待ちかねたように22年5月にNATOへの加盟を申請する。NATOは6月に首脳会議を開き、両国のNATO加盟議定書に署名した。フィンランドとスウェーデンは既にNATOとの共同軍事訓練を実施していたから、NATO加盟は既定路線といえる。

それにしても、少し前の21年8月まで続いたNATO指揮下のアフガニスタン戦争に両国とも加担して17万人に及ぶアフガニスタン人を犠牲にした戦闘に参加した罪責について両国はどのように総括したのか。自らの国の安全保障は重要だが、アジアの国への破壊と殺戮はとるに足らないと考えたのであろうか。

NATOの新戦略概念においてロシアに加えて中国も脅威と位置づける

22年6月のNATO首脳会議では「戦略概念2022」が策定されているが、ここにロシアのウクライナ侵攻問題が含まれるのは当然としても、それに加えて南シナ海に並びに北極海域おける中国脅威論に言及しているのは、何を求めているのか。ユーゴ・コソヴォ空爆の際に中国大使館にミサイルを撃ち込んで軍備再編を促し、その軍備が増強されると脅威だとして批判するのは、場当たり的というよりもNATOの存続と増強を図る軍産複合体の権益擁護によるものと見られる。

遠のく世界の平和

ロシアがNATOの東方拡大に脅威を抱くのは理解できるにしても、この脅威を取り除くのにウクライナに軍事侵攻したことは政治的にも軍事的にも容認し得ない所業である。しかも、ロシアが核兵器の使用を視野に入れた臨戦態勢を採ったことは、仮想敵国を威すつもりかも知れないが正常な国家理性からはかけ離れている。必然的に、核兵器禁止条約など歯牙にもかけない核所有国は臨戦態勢を採るであろうから世界はきわめて危機的な状況に陥り、偶発的な核戦争が起こらないとはいえない事態を招来している。

偶発的な核戦争が起こる可能性は高くはないとしても、核兵器を所有することが国家の安全保障にとって不可欠と考える国が増大することになる。すなわち、核軍縮および通常兵器の軍縮も遠のき、世界は不安の中で過ごさなければならなくなることになる。現実にNATO諸国の首脳は、軍備増強を公言している。これは世界平和にとって逆向きの思考であろう。

世界の理性は仮想敵国を解消し得るか

21世紀の現在、世界の理性は軍事同盟を必要としない程度には進化させてきたように見えた。一方でそれにしがみつく強力な権益集団が存在するために、軍事同盟を解消することは困難を伴う。

ジャーナリストのクリス・ヘッジスはNATOの東方拡大について2022年2月に次のように述べている。「軍産複合体は、冷戦終結による利益減少に甘んじる気はなかった。NATO拡大に新たな市場を見出し、元共産圏諸国をEUとNATOに加盟させる政策を推進した」と。

NATOとロシアの代理戦争を停止させるための

繰り返すが、ウクライナ戦争はNATOとロシアの代理戦争である。あからさまに言えば、米国と英国がウクライナをそそのかしてロシアを戦争に引き込んだということである。EUはそれを理解していないのか、それともNATOを存続させるためには米・英の策動もやむを得ないと思量しているのか、いずれであれ破壊と殺戮の後始末をEUは負わされることになる。

地球はNATOの専有物ではない。覇権主義と軍産複合体の権益擁護のために、この奇跡の惑星をゆだねるわけにはいかない。安全保障関係者のみにこの世界を委ねることは人類の存続をも危うくしかねないことから、いずれかの段階でNATOを含むすべての軍事同盟は解消させる努力をしなければならない。この課題を解消するには粘り強い外交交渉が不可欠だが、枠組みの転換は政治家だけに委ねていては達成できない。すべての人がこの戦争の本質を理解して声を上げる必要があるだろう。

終末時計は現在100秒前であるが、これを巻き戻すにはどのような思考の転換が必要かを考慮するときがきている。

北大西洋条約・NATO加盟の東方拡大の推移12ヵ国 → 30ヵ国

加盟年月                国名                                          所属・地域

1949年04月   (創設)アイスランド、アメリカUSA、英国UK、イタリア、オランダ      創設西側諸国12ヵ国

カナダ、デンマーク、ノルウェー、フランス、ベルギー

ポルトガル、ルクセンブルク

1952年02月       ギリシア、トルコ、                                        中立国

1955年11月       西ドイツ                                                西側諸国

1982年05月       スペイン                                                中立国

1990年10月       東西ドイツ再統一して加盟                                 西側諸国

1999年03月       チェコ、ハンガリー、ポーランド                              旧ソ連圏社会主義圏

2004年03月       エストニア、スロヴァキア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア        旧ソ連圏社会主義圏

ブルガリア                                               旧ソ連圏社会主義圏

スロヴェニア                                             旧ユーゴスラヴィア連邦

2009年04月      アルバニア                                              旧社会主義国

クロアチア                                              旧ユーゴスラヴィア連邦

2017年06月      モンテ・ネグロ                                            旧ユーゴスラヴィア連邦

2020年03月      北マケドニア                                             旧ユーゴスラヴィア連邦

<参照; 国連の対応 米国の対応 EC・EUの対応 ドイツの対応>

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8,ユーゴスラヴィア・「パルチザン」

ハプスブルク帝国の拡張政策が第1次大戦の遠因

第1次大戦の遠因は、ハプスブルク帝国が露土戦争後にボスニア・ヘルツェゴヴィナの領土を支配下に置いたところにある。露土戦争に敗北したオスマン帝国は1878年、列強の仲介でサン・ステファノ条約およびベルリン条約を結び、セルビアとモンテ・ネグロおよびルーマニアの3国が独立国として承認され、ブルガリアも自治公国として認められることになった。一方で、戦争の当事国ではないにもかかわらず、ハプスブルク帝国はオスマン帝国の衰退に乗じてボスニア・ヘルツェゴヴィナを属領とした。そして、1908年にはこれを併合してしまう。これに義憤を抱いた南スラヴ民族の中から「青年ボスニア運動」が勃興し、またセルビア人将校による「黒手組」など反ハプスブルク帝国組織が叢生することになった。

ロシア帝国はこのハプスブルク帝国の拡張政策を危惧し、1912年にバルカン諸国に同盟を結成させてハプスブルク帝国を牽制させる外交を展開した。これに応じたバルカン諸国は、3月にセルビアとブルガリア、5月にギリシアとブルガリア、8月にモンテ・ネグロとブルガリア、9月にモンテ・ネグロとセルビアが条約を締結したことによって4ヵ国による交差した「バルカン同盟」が成立した。

このバルカン同盟が成立する過程で、ロシア帝国の思惑とは異なり、同盟の対象がハプスブルク帝国からオスマン帝国へと変容していった。そして、9月に同盟が成立するとマケドニアとアルバニアおよびトラキアをオスマン帝国から奪還することを掲げ、10月にモンテ・ネグロが先陣を切ってオスマン帝国に宣戦布告し、それにセルビア、ギリシア、ブルガリアが続いた。不意を突かれた形のオスマン帝国は敗退を重ね、コンスタンティノーブル周辺を除きバルカンの支配地域からほとんど排除された。

しかし、マケドニアの領有をめぐってブルガリアが不満を鬱積させ、13年6月にマケドニアに進駐していたセルビアとギリシアの部隊を攻撃して第2次バルカン戦争を始めてしまう。この無思慮なブルガリアの武力攻撃は周辺諸国の反発を招き、ルーマニアとオスマン帝国も対ブルガリアとして参戦したため、ブルガリアは惨めな敗北を喫した。結果としてマケドニアの主要な地域はギリシアとセルビアが分割し、ブルガリアはピリン・マケドニアの山岳部の領有を認められたものの、ルーマニアに南ドブルジャを割譲させられた。

サラエヴォ事件をきっかけに第1次大戦が始まる

バルカン戦争でオスマン帝国はバルカン地域から大きく後退されたものの、ハプスブルク帝国が併合したボスニア・ヘルツェゴヴィナを含む南スラヴ民族諸国の支配問題は残されていた。

1914年6月、ハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子がボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れた。これを好機と捉えたボスニアのセルビア人たちの黒手組はフェルディナンド皇太子に爆弾と銃撃を浴びせて暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こす。ロシアが戦争を回避するために仲裁に入り、セルビア王国政府が大幅な譲歩案を提示するがハプスブルク帝国はこれを拒否し、ドイツ帝国との同盟を確認すると7月28日にセルビアに対して宣戦を布告した。

これに対し、英・仏・露の三国協商を形成していたロシアが7月30日に総動員令を出すと、ドイツ帝国が翌8月1日に総動員令を発するとともにロシアに宣戦を布告する。続いてドイツ帝国は8月2日に英仏との戦争に備えてベルギーに領域通過を要求すると同時にルクセンブルクを占領し、3日にはフランスに宣戦布告し、4日には英国にも宣戦を布告する。フランスも英国もそれに応じたことで第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は、欧州の大半を巻き込む大戦へと展開することになった。

開戦に際し、ハプスブルク帝国軍はオーストリアとハンガリーだけでなく、支配下に置いたバルカン諸国のスロヴェニアやクロアチア、そしてボスニアからも徴兵した。のちに「パルチザン」を率いてナチス・ドイツ同盟軍と戦うことになるヨシプ・ブロズ・チトーはクロアチア人として徴兵され、ロシア戦線へ送られた。負傷してロシア帝国側の捕虜になるが、そのロシア滞在時に様々なことを学んで帰ることになる。

第1次大戦は近代戦の経験がない両陣営にいたずらな消耗戦を強いるのみであった。一方で戦中における兵器の発達は恐るべきものがあり、開戦後1年を経ない内に毒ガスが投入された。大砲は野砲から長距離砲へと発展し列車砲も開発された。また、戦車も開発され、航空機も偵察用から爆撃機へと変容した。

兵器は発達したものの戦争の目的は見失われ、終結の見通しがつかないままだらだらと続けられた。しかし、17年4月にアメリカが参戦し、18年7月に西部戦線で連合軍が反撃を始め、9月にはバルカン地域でも連合軍が攻勢に出た。ドイツでは18年10月に艦隊の出動命令を水兵が拒否する事件をきっかけにドイツ革命が起こる。ヴィルヘルム・ドイツ皇帝は居場所を失って18年11月にオランダに亡命した。このことによって4年年余り続いた大戦は終わりを迎える。

第1次大戦の損害は膨大なものとなり、両軍の動員した兵員数は6000万人を超え、死者はおよそ1000万人、戦傷者は2000万人に及んだ。そして、ドイツには1320億金マルクという莫大な賠償金が課せられた。これがドイツ国民に対外敵愾心を育むことになる。

戦勝国となったユーゴスラヴィアでは王国が建国されやがて独裁制を敷く

大戦後の18年12月、ユーゴスラヴィアは「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」が成立し、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチを摂政に据える。アレクサンダルはやがて国王に就任し、重要な閣僚をセルビア人で占めるなど独裁色を強めていく。そして29年には憲法を廃止して議会を解散し、国名をユーゴスラヴィア王国とした。このことがクロアチア人の反発を招き、クロアチア農民党から分派したクロアチア権利党はクロアチアの独立を唱えるようになり、1932年にはファシスト・グループ「ウスタシャ」を設立。党首に就いたアンテ・パヴェリチはファシズム政権となっていたイタリアに本拠を置き、テロによってユーゴスラヴィア王国を打倒すると宣言した。そして、34年にはフランスを訪れたアレクサンダル国王をフランス外相とともに暗殺する。フランス政府はイタリアにパヴェリッチを引き渡すよう要求するが、ムッソリーニ・イタリア政府はこれを拒否した。

第2次大戦においてスロヴェニアとクロアチアはナチス・ドイツの侵攻を歓迎

一方、ドイツでは敵愾心を煽ったヒトラーによるナチズムが台頭していた。ヒトラーは33年に首相に就任すると第三帝国を妄想し、次々と国際条約を破棄すると同時に軍事力を増強して周辺地域を併合した。そして39年8月23日に対ソ不可侵条約を締結すると、翌9月1日にはナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。英仏はこれに対して宣戦布告するが、有効な戦線を構築するには至らなかった。

ナチス・ドイツはこれを見て先制攻撃を仕掛け、40年4月にデンマークとノルウェーを占領。5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻。次いで大陸に派遣していた英国軍をフランス領ダンケルクに追いつめて撤退させ、さらに6月にはフランスのマジノ要塞を迂回する形で防衛戦を突破してパリに入城し、ヒトラーは勝利を宣言した。その上で英本土上陸「海獅子作戦」を発動するが、巧みな英国の迎撃戦でそれは達成できなかった。そこで、ヒトラーはソ連を植民地化することでロシアの資源を利用して英国を占領する方針に転換する。そして、40年7月に対ソ戦の立案を命じた。それは、「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。

バルバロッサ作戦を実行に移すためには軍需物資の調達地域の拡張と侵攻ルートの安定を確保する必要があるとナチス・ドイツは考えた。そこで、バルカン諸国のなかで未だ同盟に加盟していないギリシア王国とユーゴスラヴィア王国を支配する計画に取り掛かる。ただ、ギリシアには英国の海上を通じた援助の手が伸びていたことから、同盟への加盟は望み薄とみてギリシア王国を攻略する「マリタ作戦」を立案する。そして、ユーゴ王国に対しては威しと甘言で3月25日に同盟側に加盟させる。しかし、第1次大戦で敵対したドイツと同盟を結ぶことを受け入れがたいとした市民と軍部が連携する形でクーデターを起こし、王国政府に同盟国への加盟を撤回するよう迫った。王国政府は狼狽してドイツに対して条約は有効であると弁明するがヒトラーはそれを許容せず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴ王国にも拡張適用し、41年4月6日にナチス・ドイツを主軸とする同盟国のイタリアおよびハンガリーとブルガリアの同盟軍がユーゴスラヴィア王国全土に侵攻した。ユーゴスラヴィア王国軍は11日間で粉砕され、王国政府はロンドンに亡命する。ナチス・ドイツはスロヴェニアの北部とクロアチアおよびセルビアとモンテ・ネグロを占領し、イタリアはスロヴェニアのリュブリャナの南半分とダルマツィア地方およびコソヴォを支配下におき、ハンガリーはヴォイヴォディナを、ブルガリアはマケドニアを獲得した。

ユーゴ王国軍が11日間の短期間で粉砕された背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響を受けていたスロヴェニア人とクロアチア人で編成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。クロアチアとスロヴェニアはナチス・ドイツの同盟国の侵攻を大歓迎し、クロアチアのウスタシャはスロヴェニアの一部とクロアチアとボスニアを含むナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の設立を宣言する。ウスタシャ政権は純粋なクロアチア民族国家とすることを目標に掲げ、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人とする一方で、正教徒のセルビア人を最大の敵と位置づけ、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を抹殺するとの政策を宣言し、実行に移した。

一方、残存した王国軍のミハイロヴィチ大佐は「チェトニク」を結成して同盟国占領軍への抵抗を宣言し、ナチス・ドイツ軍への攻撃をしかけた。ところが、ナチス・ドイツが「ドイツ軍兵士1人を殺せば報復としてユーゴスラヴィア人100人を殺害する」との強烈な脅しをかけて実行に移すと、たちまち屈してナチス・ドイツ同盟軍との戦いを留保し、パルチザンおよびウスタシャとの支配領域争いに転じた。

「パルチザン」は第2次大戦時に対同盟国として結成されたレジスタンス

第1次大戦でハプスブルク帝国の一員として参戦させられたチトーは、同盟国軍が侵攻した直後から抵抗運動の「パルチザン」の組織化を図り、ナチス・ドイツのバルバロッサ作戦の発動に合わせるようにして6月には同盟軍への抵抗戦を開始する。

パルチザンは当初、セルビアのベオグラードに最高司令部を置いたがナチス・ドイツ同盟軍の攻勢に押され、南部のウジツエに拠点を移して「ウジツエ共和国」を建国し、「ウジツエ宣言」を発した。しかし、そこも圧迫を受けると、山岳地帯の多いボスニアに本拠地を移す。スロヴェニアでは後に自主管理社会主義を提唱するカルデリが「スロヴェニア民族解放委員会」を結成する。7月にはモンテ・ネグロでも人民委員会が結成されるなど、占領下に置かれたセルビア、モンテ・ネグロ、マケドニア、ヴォイヴォディナなどにも続々と武力抵抗運動が組織され、短期間のうちに8万人がパルチザンに参加した。それぞれの地域に生まれたパルチザンは、占領軍のドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、そしてウスタシャ政権のクロアチア独立国に対してそれぞれ独自にゲリラ戦を開始した。

チトーが率いたパルチザンは、「友愛と統一」を掲げて民族の平等に基づいた多民族国家を提唱し、報復や略奪を禁じ、厳格な規律の下に、占領軍とその協力者をユーゴスラヴィア全人民の革命的蜂起によって打ち破ろうと呼びかけた。チトーはクロアチア人だが、パルチザンのメンバーは当初セルビア人が多かった。しかし、ドイツ軍の虐殺だけでなくウスタシャおよびチェトニクの蛮行が広まると、クロアチアからもボスニアからもパルチザンへの参加者は増大していった。

ナチス・ドイツ同盟軍およびウスタシャやチェトニクとの戦いに苦闘したパルチザン

ナチス・ドイツ同盟軍はウスタシャの傀儡組織をも動員し、圧倒的な軍事力でパルチザンに対して7次にわたる総攻撃をかけた。当初8万人にすぎなかったパルチザンはしばしば窮地に陥ったが、正面攻撃を避けて攻勢を巧にかわして持ちこたえた。そして42年11月、パルチザンがボスニアのビハチで第1回の「ユーゴスラヴィア民族解放反ファシスト会議・AVNOJ」を開き、6項目の綱領を採択する。そして43年9月にイタリアが降服すると、スロヴェニアやダルマツィアやコソヴォに進駐していたイタリア部隊の武装解除を行ない、その武器を大量に確保するとともに、イタリア師団の一部をパルチザン部隊に編入させるということまでした。

テヘラン会談で連合軍はパルチザン支援を決める

連合国の米英は当初、ユーゴスラヴィア王国の亡命政府を保護していたこともあって王国軍としてのチェトニクを支援していた。しかし、チェトニクがナチス・ドイツとの戦いを放棄して領域争いに転じているのを見て、チャーチル英首相は43年5月にパルチザンへ軍事使節団を送る。英国の使節団が目の当たりにしたのはパルチザンがナチス・ドイツの同盟軍を相手に困難な戦いを挑み、同盟軍をユーゴスラヴィアに引き付けている様相だった。そこで観戦武官はパルチザンが劣勢とはいえナチス・ドイツ同盟軍およそ20個師団をユーゴスラヴィアに膠着させ、連合軍のヨーロッパ戦線に貢献しているとの報告チャーチルに送る。

報告を受けたチャーチル英首相は、43年11月に開いた米・英・ソの連合国首脳によるテヘラン会談で、パルチザン支援が連合国にとって有益であると提案し、米ソ両首脳にこれを承認させた。連合国の承認を得ると英国は、すぐさまパルチザンへの軍需物資の援助を始めるとともに、英軍の落下傘部隊をも派遣した。

同じ43年11月に、パルチザンはユーゴスラヴィア民族解放反ファシスト会議・AVNOJ第2回大会をヤイツェで開き、各地のパルチザンを統合して臨時政府を設立する。これをユーゴスラヴィアの最高立法行政機関とし、チトーを首班とする全国解放委員会を樹立した。ソ連はナチス・ドイツへの反撃を強めていた時期であったが、パルチザンを余り評価していなかった。その上、米国の武器貸与法による軍事援助を受けていた連合国への配慮から、チトーらの国家樹立の方針に難色を示して王国政府軍のチェトニクとの統一戦線を維持するようパルチザンに容喙し、またパルチザンが編制した「プロレタリア旅団」にも難色を示した。

パルチザンは8万から80万人へと増強されて全土を解放

パルチザンは連合国の援助が受けられるようになったことから兵員は増大し続け、発足時には8万人にすぎなかった兵員は80万人に達する。このことによって、ユーゴスラヴィアを自力で解放することも可能であるとの自信が芽生えていた。それに加えてソ連が大戦初期にフィンランドに侵攻し、一部を領有したことに不信感を抱いていた。そのため、遅きに失したソ連軍のユーゴスラヴィア領域内への軍事進攻には条件を付けた。ソ連赤軍に対し、ユーゴスラヴィア解放後には領域内から撤収するとの協定を結んだ上で領域への進攻を許諾した。チトーは、ソ連赤軍を駐留させておくと国家運営にも容喙されかねないと警戒したのである。ともあれ、パルチザンとソ連赤軍は共同戦線を構成して44年10月にユーゴスラヴィアの首都ベオグラードをナチス・ドイツ同盟軍から奪還した。

さらに、パルチザンは45年4月にはボスニアのサラエヴォを解放し、5月にはクロアチアのザグレブを攻略してナチス・ドイツ同盟軍とウスタシャの残存部隊を降服させた。結成当初パルチザンの民族構成はセルビア人が多数を占めていたが、全土を解放した時にはウスタシャのクロアチア独立国の蛮行に反発したクロアチア人などが半数近くを占めるまでになっていた。

全土を解放したパルチザンはユーゴ連邦人民共和国の中核を為す

ベオグラード奪還後の44年11月、英国の仲介でチトー率いるパルチザン・AVNOJとロンドンに亡命していた王国政府が「チトー・シュバシッチ協定」を結び、民主連邦臨時政府を組織することで合意し、国際的な承認を得た。そして45年3月にはチトーを首班とし、シュバシッチを外相とするなど亡命政府から2名を入閣させる連合政府が樹立された。

45年5月、ナチス・ドイツ同盟側の敗戦が明白になったとき、ドイツ兵やウスタシャやチェトニクがオーストリア国境地帯に逃亡した。英軍はそれを捕虜として拘束し、数万人をパルチザンにそのまま引き渡した。パルチザンはこの捕虜を国内の他の地点に移動させるためとして、徒歩行進を強行した。ほとんどの捕虜がこの「死の行進」といわれる移動で死亡し、生き残った者も処刑された。これがパルチザンの起こした「ブライブルク事件」と言われる汚点である。45年5月8日にナチス・ドイツが降服し、欧州戦線は終結を見る。大戦中にユーゴスラヴィアで戦死した兵員は170万人及んでいるが、そのうちの100万人は内戦によるものといわれている。ウスタシャとチェトニクそしてパルチザンによる対立抗争はそれほど激しかったのである。

パルチザンを主体とした人民戦線派が選挙で勝利し王制を廃止する

戦勝後に開かれた臨時国民会議でペータル国王はパルチザン主導の政府に不満を抱き、王国政府側の閣僚を引き上げるという政治的駆け引きを行なう。西側諸国にも批判されたこの国王の駆け引きは失敗に終わる。45年11月に行なわれた憲法制定議会選挙でパルチザンの人民戦線側が90%前後の票を獲得して圧勝することになったからである。制憲議会は46年1月に「新憲法」を制定して王制を廃し、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」の建国を宣言した。これに伴ってパルチザンは解消した。

ブライブルク事件はセルビア人による民族浄化ではない

1990年代のユーゴ連邦解体戦争中、クロアチア人はブライブルク事件をセルビア人による民族浄化だと宣伝した。しかし、パルチザンの総司令官がクロアチア人のチトー元帥だったのであり、パルチザンの半数近くがクロアチア人やボスニア人だったことを勘案すれば、セルビア人に責任を負わせるのはこの時期に飛び交った悪意あるプロパガンダにすぎない。このブライブルク事件は「友愛と統一」を掲げた民族横断的なパルチザンの汚点には違いないが、内戦がいかに激しいものだったのかを示す事例といえよう。

チトーは首相から終身大統領に就任するが、彼が帯びていたカリスマ性によって大戦中の民族間対立問題を抑制したことから、彼が存命中は民族問題が顕著化することはなかった。しかし、彼が死去すると民族主義を煽る者たちが蠢きだし、やがてユーゴスラヴィア連邦解体戦争へと雪崩れ込んでいくことになる。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、セルビア>

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9,ユーゴスラヴィア・「ウスタシャ・(蜂起する者)」

「ウスタシャ」はクロアチアのファシズム民族主義組織

第1次大戦後、「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人王国」の摂政から国王に就任したセルビア人のアレクサンダル・カラジョルジェヴィチは、当初は立憲君主制を目指すと宣言したが、次第に独裁体制を強めていく。これに対し共和制を主張するクロアチア農民党が対立し、1928年6月に党員のラディチが議会内で射殺されるという事件が起こる。このことがクロアチア人の中に反セルビア人意識を醸成することになった。

1929年に世界恐慌が起こり、農民主体のバルカン諸国は経済危機に陥り、暴動が頻発する。これに対し、ユーゴスラヴィア王国と改称して国王に就いていたアレクサンダルは憲法を廃止し、議会を解散して独裁体制を敷き、民族主義者や社会主義者への弾圧を強めた。クロアチア農民党から分派したクロアチア権利党のアンテ・パヴェリッチは、ユーゴスラヴィア王国の打倒とクロアチアの独立を掲げて1932年にファシスト・グループ「ウスタシャ」を結成した。ウスタシャは、イタリアのファッシズム独裁者ベニート・ムッソリーニの庇護を受けてイタリア国内に拠点を置き、次第に勢力を拡大して行く。

1934年10月、ウスタシャに属していたマケドニア人が訪仏中のアレクサンダル国王とバルトゥ・フランス外相をマルセイユで暗殺する。フランスはパヴェリッチに死刑判決を下し、イタリアに対して身柄引き渡しを要求するが、ムッソリーニのファシズム・イタリアはこれを拒否した。

この時期ドイツでは、第1次大戦の莫大な賠償金を課せられたことに対する敵愾心を利用したヒトラーがナチスを台頭させた。1933年には反共主義者のヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名する。首相に就くとヒトラーは、世界恐慌を脱しつつあったなかで軍備増強を図る。そして国際条約をすべて破棄しつつ、周辺地域の合併を強行した。

ナチス・ドイツの「バルバロッサ作戦」に伴う侵攻を歓迎したウスタシャ 

ナチス・ドイツは、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結すると、9月にポーランドに侵攻して第2次大戦を始める。これに対し、英仏が9月3日にナチス・ドイツに宣戦を布告し、英国は大部隊を大陸に派遣した。しかし、有効な戦線を構築できないでいるのを見るとナチス・ドイツは先制攻撃をしかける。40年4月にデンマークとノルウェーに進駐し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、英軍を仏領ダンケルクに追い詰めて撤退させ、6月にはフランスの要塞マジノ線を迂回する形で防衛線を突破し、ヒトラーはパリに入城してエッフェル塔を背景に勝利を宣言した。さらに、英本土上陸を試み「海獅子作戦」を発動するがこれは英国の巧妙な防御に阻まれて一時的に断念する。

ヒトラーは英国上陸作戦を断念したからと言って第三帝国の建設を断念したわけではなかった。そこでソ連を植民地化することに転換し、その物量をもって再度英本土上陸作戦実行する方針に転換して対ソ戦の「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」を立案する。

ヒトラーは、バルバロッサ作戦を実行に移すには、軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの安定を確保するために、バルカン諸国のなかで未だ同盟国への加盟を渋っているユーゴ王国とギリシア王国を支配下に置く必要があると考えた。ただ、ギリシア王国には英国の支援の手が伸びており、同盟への加盟の可能性は薄かった。そこでギリシア侵攻作戦の「マリタ作戦」を立案する。

ユーゴスラヴィア王国に対しては威しと甘言で、3月25日に同盟への加盟に合意させた。ところが、第1次大戦で敵対したドイツと同盟を結ぶことをよしとしない市民と軍の一部がクーデターを起こして内閣を倒し、同盟への加盟を撤回するよう要求した。ユーゴ王国政府は狼狽してナチス・ドイツに条約は有効だと弁明するが、ヒトラーはこれを許容せず、4月6日に「マリタ作戦」をユーゴ王国にも拡張適用してユーゴ王国とギリシア王国にナチス・ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリーとともに侵攻を開始した。ユーゴ王国は11日間、ギリシアは14日間で粉砕される。ユーゴ王国が11日間で粉砕された背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響を受けていたクロアチア人とスロヴェニア人で編制された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。

スロヴェニアとクロアチアは同盟軍の侵攻を歓迎し、ウスタシャの創立者であるアンテ・パヴェリチが亡命先のイタリアから帰還。そして、スロヴェニアの一部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含むナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」の設立を宣言した。パヴェリチは傀儡国家の建国を宣言すると、ヒトラーを模倣して総統を僭称する。このクロアチア独立国のウスタシャ政権は人種主義に色濃く染まっており、クロアチア人は北方神話に基づく「アーリア人種」で、スラヴ民族は劣等人種であると規定する法律を制定した。ウスタシャはこの思想に基づき、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人とする一方で正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけ、クロアチアの全土にヤセノヴァッツ収容所群やゴスピッチ収容所群などの強制収容所を設置し、少数民族のユダヤ人やロマ人(ジプシー)とともに拘留して凄まじい撲滅政策を実行した。

セルビア人を改宗させ、追放し、殺害する

ウスタシャ政権の人種問題担当のブダク教育大臣はゴスピッチ収容所で、「クロアチア独立国内のセルビア人の3分の1をカトリックに強制改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を抹殺せよ」と演説した。クロアチア独立国設立直後から始まったこの少数民族撲滅政策は45年4月まで続き、虐殺されたセルビア人の数は50万人とも60万人ともいわれる。

クロアチアのカトリック聖職者たちはウスタシャのセルビア人カトリック教化策を歓迎し、ウスタシャの絶滅政策に積極的に協力した。クロアチア民族主義のウスタシャは、ボスニアをクロアチア独立国の版図にしたことから、ムスリム人をイスラム化された準クロアチア人として取り込むこともした。ウスタシャに引き入れられたムスリム人は「エスエス師団」などの民兵組織をつくらされ、セルビア人だけでなくユダヤ人やロマ人などの少数民族の村を襲撃して撲滅を実行した。ムスリム人の中でも上層部の特権階級を形成していた者たちは、ウスタシャのセルビア人虐殺や戦闘に積極的に加担した。虐殺は常軌を逸した残忍なものであったため、治政への反動を恐れたナチス・ドイツの突撃隊隊長が諫めざるを得ないほどのものであった。

この少数民族撲滅政策によって、クロアチアのセルビア人の30%、ユダヤ人の70%、ロマ人の90%が虐殺されたといわれる。この残忍性が住民の間に広まると、ナチス突撃隊長が危惧したことが現実のものとなり、クロアチア人やムスリムの中からも「友愛と統一」を掲げた民族横断的な「パルチザン」に参加する者が増大した。

大戦後に国外に逃亡したウスタシャはクロアチアの独立運動を継続

45年5月8日にナチス・ドイツが降服して欧州戦線が終結すると、アンテ・パヴェリチをはじめウスタシャの指導者など数万から十数万人が国外に逃亡し、ディアスポラとなった。ウスタシャや同調者たちが逃亡先に選んだ国はドイツ、オーストリア、ベルギー、カナダ、アルゼンチンなどだったが、最も多かったのは敗戦で混乱していたドイツである。彼らは、ドイツの諜報機関のゲーレン機関に入ったり、学者や知識人として生きるなどそれぞれに地歩を築き、ドイツの政治への影響力を行使するようにもなっていた。

第2次大戦後にウスタシャはユーゴ連邦に破壊的テロ行為を行なう

戦勝国となったユーゴスラヴィアは、46年に憲法を制定して王制を廃し、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国として社会主義制度を取り入れ、パルチザンを率いたチトーが首相から大統領に就いた。

ユーゴスラヴィアが社会主義国となった後も、国外に脱出したウスタシャの残党は国内外でクロアチアの分離独立を要求して暗殺や破壊工作を繰り返した。特に60年代後半から70年代半ばにかけて、旅客機や列車を爆破し、映画館やレストランに爆弾を投げ込み、ユーゴ連邦の在外大使館や領事館を占拠して爆破したり、連邦国内に潜入して銃撃戦を起こすなど、過激なテロ行為を執拗に繰り返した。

ユーゴ連邦からの分離独立戦争でも活動したウスタシャ

ウスタシャの残党が三度過激な活動を行なうのは、91年から始まったユーゴスラヴィア連邦解体戦争におけるクロアチアの分離独立戦争時である。彼らは外国からクロアチアに戻ると、ある者はクロアチア共和国政府軍の要職に付き、ある者は民兵を組織した。この民兵組織はクロアチア共和国中央政府の統制に従わず、過激なクロアチア民族主義ウスタシャの手法を発揮してクライナ地方のセルビア人勢力に対する残虐な行為を重ねた。内戦を経てほぼ純粋なクロアチア人による独立国となったクロアチア共和国は、第2次大戦中のナチス・ドイツの傀儡国家クロアチア独立国が使用した赤白の市松模様の盾型紋の旗をアレンジして国旗として制定している。この事例は、クロアチア人たちが今もウスタシャに愛着を持っていることを表している。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、クロアチア>

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10,ユーゴスラヴィア・「チェトニク・隊を組むもの」

第1次大戦後の戦間期に台頭したナチスを率いたヒトラーは「第三帝国」を妄想し、1933年に首相に就任すると国際条約を破棄し、周辺地域を併合した。そして39年9月にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めてしまう。さらに、40年には西ヨーロッパ諸国に侵攻し、フランスを屈服させると、英本土上陸を試みる「海獅子作戦」を発動した。しかし、英国の海空による巧みな迎撃戦によってヒトラーはそれを一時的に断念させられる。そこで矛先を東に向け、ソ連を植民地化した上で、その物量をもって英国上陸を再挑戦することにする。

この対ソ戦の「バルバロッサ作戦」を敢行するにあたり、ヒトラーは軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの安定確保のために未だ同盟軍に加盟していないバルカン地域のギリシア王国とユーゴスラヴィア王国を支配する必要があると考量し、1941年4月に攻撃して占領した。

「チェトニク」はユーゴスラヴィア王国軍

1912年の第1次バルカン戦争において、チェトニクと名付けられたセルビア王国側の不正規のゲリラ部隊が、オスマン帝国軍と戦っている。それがそのまま存続したわけではないが、ユーゴ王国政府がロンドンに亡命すると、残存した王国軍のセルビア人士官たちが「チェトニク」と称する部隊を創設し、対同盟国軍に対する抵抗戦を行なうと宣言した。

しかし、チェトニクは大セルビア主義を信奉した民族主義的性格を色濃く内包しており、セルビア王国の再建を目標としていたため、セルビア人の間にしか受け入れられなかった。とはいえ、ロンドンに亡命した王国政府からは絶大な信頼を受け、チェトニクを率いたミハイロヴィチ大佐は亡命王国政府の陸軍大臣にも任命されている。

一方、クロアチアにはファッシズムに傾倒したアンテ・パヴェリチ率いる「ウスタシャ」の思潮が蔓延していたため、ナチス・ドイツの侵攻を歓迎したばかりか、傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。そしてその版図をボスニア・ヘルツェゴヴィナにまで拡大し、ムスリム人に「エスエス師団」を組織させることまでした。そして、正教徒のセルビア人を国家最大の敵と位置づけ、その掃討に踏み込む。

ナチス・ドイツの脅しに屈服して占領軍への抵抗戦を放棄したチェトニク

他方で、チトーが組織した人民戦線派の「パルチザン」がやはりナチス・ドイツ同盟軍への抵抗戦を始めていた。チェトニクもこのパルチザンと連携してドイツ軍と戦う姿勢を見せたが、王国の亡命政権は同盟国への直接的抵抗よりも連合軍の反攻に備える待機戦術を主要な政策としていたこともあって、パルチザンの戦術・戦略とは融合できなかった。それに加え、ナチス・ドイツ軍が「ドイツ兵1人を殺害すればセルビア人100人を殺害し、ドイツ兵1人の負傷者に対しては50人を殺す」と宣言して実行に移し始めたため、ミハイロヴィチ大佐はこの脅迫に屈してナチス・ドイツ同盟国軍との戦いを留保し、王国内の支配領域の拡大に転換するようになる。

チェトニクは領域争いと報復に終始

チェトニクが最も激しく戦った相手は、ファシスト・グループ・ウスタシャがクロアチアとボスニアを版図として建国した「クロアチア独立国」軍であり、ボスニアのムスリム人の「エスエス・SS師団」であった。チェトニクは、ウスタシャとエスエス師団が実行したセルビア人住民殺害に対する報復と保護のために、ウスタシャがやったことと同じようにクロアチア人住民とムスリム人住民の村を襲撃しては虐殺した。チェトニクの戦いは、第2次大戦におけるユーゴスラヴィアの戦線が恰も民族間闘争であるかのような振る舞いとなった。チェトニクが殺害したクロアチア人やムスリム人は数万人に上るといわれる。

連合国からも見放されるようになるチェトニク

連合国側は当初はロンドン亡命政府と連携しているチェトニクを支援していた。しかし、チェトニクがナチス・ドイツ同盟軍との戦いを放棄しているのを知ると、バルカン地域における反攻作戦の見直しを図る。

そして、英国は43年5月にパルチザンに軍事使節団を送る。英軍の観戦武官は命の危険にさらされながら、パルチザンがナチス・ドイツ同盟軍の大部隊をユーゴスラヴィアに引き付けているのを目の当たりにし、パルチザンを支援することの有用性をチャーチル英首相に報告した。

43年11月に開いた連合国の米英ソ三首脳によるテヘラン会談において、チャーチル英首相はパルチザンへの軍事支援が連合国にとって有益であると提案し、米ソ両首脳に承認させた。米ソ首脳の承認を得るとチャーチルはパルチザンへの援助物資の送付を始めるとともに、英軍の落下傘部隊まで派遣した。

ナチス・ドイツの「バルバロッサ作戦」は失敗に終わる

41年6月22日に発動されたナチス・ドイツ同盟軍のバルバロッサ作戦は、総勢550万の兵員を動員してソ連領に侵攻した作戦である。緒戦はソ連側の不手際もあって敗勢に追い込み、9月にはナチス・ドイツの中央軍はベラルーシ(白ロシア)のミンスクを陥落させてモスクワ近郊にまで迫り、北方軍はレニングラードを包囲し、南方軍はウクライナのキエフを占領するなど、ナチス・ドイツの作戦は成功するかに見えた。

しかし、それからのソ連軍はよく耐えた。レニングラードは900日の攻囲戦に耐え、モスクワ防衛には対日戦に備えてシベリア方面に配備していた部隊を呼び戻して反撃に転じた。ナチス・ドイツ同盟軍の南方軍は42年8月にスターリングラードへの攻撃を開始し、数週間で陥落させる計画だったが、補給線が伸びきってしまったことと冬季戦に対する備えがなかったために、逆に43年1月末に9万人の捕虜を出して降服した。スターリングラードの攻防戦の勝敗は東部戦線における戦況の転換点となった。

西部戦線では英軍がダンケルクから追い落とされてから4年後の44年6月にようやく「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」が発動された。作戦は成功し、8月にはパリが奪還される。そして、東部戦線では45年4月にはソ連軍がベルリン攻撃を開始するに至る。

王制の廃止とともにチェトニクも消滅する

大戦の帰趨が明らかになりつつあった44年6月、チャーチル英首相の仲介でユーゴ王国のロンドン亡命政府とパルチザンとの間で会談が持たれ、11月に「チトー・シュバシッチ協定」を結び、民主連邦臨時政府が成立した。さらに、英国は仲介を重ね、大戦終結直前の45年3月に亡命王国政府とパルチザンによる連立政府を正式に樹立させた。そして、新政府の首班にはパルチザンを率いたチトーが就任する。チェトニクは大戦中に領域争いに狂奔していたにすぎず、もはや連立政府に関与する主要な構成組織とは見られなかった。

ソ連赤軍は45年4月にベルリン攻撃を開始した。敗戦を自覚したヒトラーが45年4月30日に自殺し、5月8日にナチス・ドイツが降服したことによって欧州戦線は終結する。

チェトニクを足掛かりにしていたペータル・ユーゴ国王は政治的実態を見誤っていた。大戦後の8月に開かれた臨時国民会議の際、連立政府がパルチザン主導であることに不満を抱き、ペータル国王は亡命政府側の閣僚をすべて引き上げるという政治的駆け引きを行なう。この西側諸国にも批判されたペータル国王の駆け引きは、11月に実施された制憲議会選挙で惨敗するという結果をもたらした。制憲議会は46年1月に新憲法を制定して王制を廃止する。王制派のチェトニクを率いたミハイロヴィチ大佐は国外に逃亡したが、46年に逮捕され、裁判で死刑判決を受けた。

ユーゴ連邦解体戦争でチェトニクを名乗る民兵が現れる

消滅したはずのチェトニクの亡霊が、91年のユーゴ連邦解体戦争の過程で三度、姿を現すことになる。それはかつての王制派ではなく、クロアチア人勢力の極右民族組織に対抗するセルビア人勢力側の過激な民兵組織の一員として名乗る者たちが現れたのである。そして、クロアチア内戦ではクロアチア側がセルビア人勢力側を「チェトニク」と呼称して非難を繰り返し、セルビア人勢力側はクロアチア政府側を「ウスタシャ」と罵倒して応戦した。かつての対立が時を超えて民族主義者たちの中に蘇り、悪用されたのである。

ただし、ウスタシャのディアスポラが国外から帰国してクロアチア政府の要人の地位に就いたのに比して、チェトニクが内戦において一民兵組織として粗暴な行動をとったものの、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国やボスニアのスルプスカ共和国の要人に就くというようなことはなかった。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、ウスタシャ、パルチザン>

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11,「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト評議会・AVNOJ」

「パルチザン」の統合組織としてのAVNOJ

1939年9月にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めたナチス・ドイツは、翌40年に西ヨーロッパの大半を支配下に置くと、「海獅子作戦」を発動して英本土上陸を企てたものの英軍の巧みな迎撃で挫折した。そのため、ヒトラーはソ連を植民地にすることを先行させる方針に転換し、1939年に独ソ不可侵条約を締結していたにもかかわらず、早くも40年7月には対ソ侵攻作戦の「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」の立案を命じた。

ナチス・ドイツは、対ソ戦を実行に移すためには軍需物資の調達地域の拡張と侵攻ルートの安定を確保する必要性から、バルカン諸国のすべてを支配下に置かなければならないと考量した。そこで未だナチス・ドイツ同盟に靡かないユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配する計画に取り掛かる。しかし、ギリシアには英国による海上からの支援の手が伸びており、同盟に加盟させる見込みは薄かった。そこで、先ずギリシア王国への侵攻作戦「マリタ作戦」を立案する。

そして、一方のユーゴ王国に対しては、威しと甘言を弄して41年3月25日に同盟への加盟を承諾させた。ところが、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟に納得しない市民と軍部の一部がクーデターを起こし、同盟との加盟条約の廃棄を要求する。狼狽した王国政府はナチス・ドイツに対して条約は有効だと弁明するが、ヒトラーはこれを許容せず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴ王国にも拡張適用し、4月6日にナチス・ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリーとともに侵攻を開始した。ユーゴ王国は11日間、ギリシアは14日間で占領される。ユーゴ王国が11日間で占領された背景には、ファッシズム・ウスタシャの影響を受けていたスロヴェニア人とクロアチア人で編成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。

クロアチアはナチス・ドイツ同盟軍の侵攻を歓迎し、ファシスト・グループ・ウスタシャの党首アンテ・パヴェリッチが亡命先のイタリアから帰還してナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。一方、ユーゴ王国の残存軍のミハイロヴィチ大佐はセルビア人士官たちによる「チェトニク」を編成して率い、ナチス・ドイツ同盟軍との抵抗戦を行なうと宣言するが、ヒトラーにせん滅すると脅されると同盟軍との抵抗戦を留保してユーゴスラヴィア国内の支配領域争いに転じた。

「パルチン」は徹底して同盟軍との抵抗戦を継続

これに対し、第1次大戦でハプスブルク帝国領内のクロアチア人として徴兵されてロシア戦線で戦わされた経験を持つヨシプ・チトーが民族横断的な「パルチザン」を組織し、ナチス・ドイツが対ソ戦のバルバロッサ作戦を発動すると同じ時期にナチス・ドイツ同盟軍への抵抗戦を開始した。しかし、圧倒的な同盟軍の戦力に押し込まれ、本部をベオグラードから南部にウジツエに移さざるを得なかった。さらに、パルチザンはナチス・ドイツ同盟軍に押し込まれ、山岳地帯のボスニアへと移動した。

パルチザンの相手は、ナチス・ドイツ同盟軍に加え、ウスタシャ軍、チェトニク軍と多様な種類の軍事組織であった。しかし、パルチザンは「友愛と統一」を掲げた民族横断的な組織であったことから、当初はセルビア人主体の構成だったものがクロアチア独立国の民族主義的残虐さに嫌悪感を抱いたクロアチア人やムスリム人も多数参加するようになっていく。そして、42年11月には、早くもボスニアのビハチでユーゴスラヴィア各地のパルチザン組織を集めた第1回「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト評議会・AVNOJ」を開くまでになる。この時点から、各地でそれぞれの態勢でゲリラ戦を展開していたパルチザンは、統合された組織として行政や議会の役割を持った部門をも設置するようになった。

ナチス・ドイツのバルバロッサ作戦は失敗に終わる

ナチス・ドイツ同盟軍は41年6月22日に「バルバロッサ作戦」を発動し、550万の兵員を動員してソ連領に侵攻した。ソ連側は、スターリン書記長のナチス・ドイツが侵攻することはないとの誤った認識の下に臨戦態勢を採っていなかったことから、ナチス・ドイツ軍は破竹の勢いで目標に迫った。北方軍はレニングラードを攻囲し、中央軍はベラルーシのミンスクを陥落させてモスクワの近郊まで迫り、南方軍はウクライナのキエフを陥落させてバクーの油田地帯の占領を視野に入れた。

そして、42年8月には象徴的な都市としてのスターリングラードの攻防戦に取り掛かる。しかし、スターリングラードの攻防戦は市街戦となったために消耗戦となり、ドイツからの補給線が伸びきったために弾薬や糧秣のみならず、冬季戦に備えた兵士の装備が整わなかったことから戦闘能力が失われ、逆に43年1月末には9万人の捕虜を出して降服させられた。この戦線で敗北したことからナチス・ドイツ同盟軍の東部戦線における勝利の見込みは薄くなる。

連合国はパルチザン支援に踏み切る

他方、英国はナチス・ドイツの英本土上陸作戦は阻止したものの、西部戦線の構築をせずに中東の油田地帯の権益を護るために地中海域での戦線構築に拘っていた。そして、欧州大陸への逆上陸作戦として43年5月にパルチザンに軍事使節団を送る。英軍の観戦武官は命の危険に曝されながらパルチザン部隊に帯同し、パルチザンがナチス・ドイツ同盟軍の大部隊をユーゴスラヴィアに膠着させていることの有用性をチャーチル英首相に報告する。

その報告を受けたチャーチル英首相は、43年11月に開いた連合国英・米・露の三首脳によるテヘラン会談において、ユーゴ王国軍のチェトニクへの支援ではなくパルチザンを援助することが連合国にとって有益であると提案し、米ソの両首脳に承認させた。連合国の承認を得ると、英国は直ちにパルチザンへの援助物資を送るとともに英軍の落下傘部隊をも派遣した。

同じ43年11月に、パルチザンは第2回ユーゴ人民解放反ファシスト評議会・AVNOJ会議を開き、この組織をユーゴスラヴィアの最高立法・行政機関とし、チトーを首班とする臨時政府を樹立した。ソ連は軍事支援を受けていた米英連合国への配慮からこのAVNOJの決定に難色を示してチェトニクと統一戦線を形成するよう容喙し、すぐにはパルチザン支援に動かなかった。

44年に入ると、東部戦線におけるソ連軍の優勢は明白となり、米・英もようやく西部戦線の構築に取りかかり「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を6月6日に発動する。

戦後政府の中核を形成したAVNOJ

チャーチル英首相は抜け目なく戦後構想を立て、ソ連との間で東欧やバルカンの影響圏について秘密協定を結び、44年6月にAVNOJ代表のチトーと王国亡命政府代表のシュバシッチとの間に協議を促し、44年11月に「チトー・シュバシッチ協定」を結ばせた。

協定は、「1,ロンドン亡命政府はAVNOJをユーゴ国内における唯一の政治的権威と認める。2,パルチザン部隊を正式の軍隊として承認する。3,君主制にするかどうかは戦後に決定する。4,連立政権には亡命政権から民主的で進歩的な人々を参加させる」などが決められた。続いて終戦直前の45年3月に、やはり英国の仲介でロンドン亡命政府とAVNOJによる連立政権が正式に樹立された。

45年4月30日に敗北を自覚したナチス・ドイツのヒトラー総統が自殺したことで、第2次大戦における欧州戦線は終結する。

戦勝国となったユーゴスラヴィアは、45年8月にユーゴスラヴィア臨時国民会議を開く。このとき、ペータル・ユーゴ国王がAVNOJ主導の政府に不満を抱き、全閣僚を引き上げるという政治的駆け引きを行なった。連合国にも批判されたこの国王の駆け引きは失敗に終わり、45年11月の制憲議会選挙でAVNOJを中心とする人民戦線派が連邦院で90.5%、民族院で88.7%を獲得するという勝利をもたらした。46年1月の制憲議会で制定された「新憲法」で王制は廃され、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」政府が成立した。このときの人連邦民共和国政府の母体となったのは、パルチザンを中核としたAVNOJである。

<参照;チトー、ユーゴスラヴィア王国>

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12,「アルバニア人麻薬コネクション・ルート」

コソヴォ解放軍の軍資金はヘロインの密輸で賄われた

ソ連軍が1979年に侵攻して始まったアフガニスタン戦争において、反ソ連・反政府の武力抵抗として組織されたムジャヒ

ディーンの活動資金の一部は、アフガニスタンの各地で栽培されたケシによるアヘンの密売で賄われた。ソ連軍はムジャヒ

ディーンのゲリラ戦争に悩まされ、88年には完全撤退する。その後もアフガニスタンで生産されたアヘンは、さまざまなルー

トでロシアやヨーロッパに流通することになる。

1989年に東欧の社会主義圏が崩壊し、アルバニアにもその影響がおよぶと、資本主義の意味を理解しなかった社会は混乱へと追い込まれ、その過程でヘロインを流通させるマフィアが生まれる。アフガニスタンで生産されたアヘンは、イラン、トルコ、アルバニア、マケドニア、コソヴォの流通の過程でヘロインに精製され西ヨーロッパやアメリカに持ち込まれることになった。

1997年に武力闘争を本格化させたコソヴォ解放軍・KLAの活動資金の一部は、ヘロインの売買による莫大な直接的利益およびマフィアからの売却益で賄われ、その資金を武器購入や戦費に当てた。当時、バルカン・ルートでヨーロッパに流れるヘロインの末端価格は年間4000億ドルに上ったといわれる。米CIAはKLAがヘロインの密輸に関与していることは知悉していたが取り締まることはなく、むしろ保護していたために米麻薬取締局・DEAも有効な対策が立てられなかった。このアヘン・ヘロインをめぐる実態は、ドイツ情報機関・BNDも把握していた。

コソヴォ解放軍はヘロインのみならず臓器の売買も手がけた

ヘロイン密売の犯罪者集団でもあったコソヴォ解放軍・KLAは、米国の覇権主義によるユーゴ・コソヴォ空爆の支援を受けてコソヴォ自治州からセルビア共和国の統治を排除することに成功する。NATO軍によってセルビア警察の関与が排除されたため、麻薬を取り締まる部署が存在しなくなったことからKLAなどの密売人たちは犯罪者として扱われることなく、マネーロンダリングを果たして財界人へと上昇を遂げた者が多数に上った。

ドイツ情報局・BNDは、2005年の報告書でコソヴォ自治州のアルバニア人による犯罪組織について次のように記述している。「コソヴォにおける政治・経済および国際的な組織犯罪の間を結ぶ連結環が、例えばタチ、ハラディナイ、ハリティのような主要な働きをする人物を通じて存在する。犯罪組織は不安定を助長する。彼らは急速に発展する彼らのビジネスにとって有害となりうる、正常に機能し、秩序ある国家の建設にはまるで関心がない」と。

流通のヘロイン・コネクションの80%にアルバニア人が関わるようになり、現在もアルバニアおよびコソヴォ経由の欧米へのヘロイン・ルートは存在している。

旧ユーゴ国際戦犯法定・ICTYのカルラ・デル・ポンテ首席検察官は、2007年に退任したのち「追跡;私と軍の犯罪者」という回想録を出版した。そこでカルラは、「99年のNATOのユーゴ・コソヴォ空爆後に、コソヴォ解放軍のタチ、ハラディナイ、チェクらがセルビア人やKLAに従わない少数民族などを含め凡そ300人をアルバニアに連れ出して殺害し、その臓器を密売していた」と記述した。コソヴォ解放軍とアルバニアのマフィア組織が一帯となって行っていたことは疑いないが、デル・ポンテはICTYの首席検察官に在任当時、この事案を調査するよう部下に命じたが、米国人が主体となっていたスタッフの沈黙の壁に阻まれたという。

<参照;カルラ・デル・ポンテ、コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍・KLA・NLA>

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13,「米中央情報局・CIA」

前身のOSSは第2次大戦における対敵情報工作機関

米CIA(Central Intelligence Agency)の前身は、第2次大戦時の1942年6月に設置された米国の秘密工作機関である戦略事務局・OSS(Office of Strategic Services)である。OSSは、対敵情報工作機関としてドイツや日本に関する情報収集や戦線の後方撹乱などを任務とした。OSSは、第2次大戦後も日本やイタリアやドイツで情報工作を行なっており、ドイツでは戦犯に指定されることを避けるために売り込みに来たナチス・ドイツの諜報機関であったゲーレン中将の一派をアメリカに亡命させて保護し、対ソ連諜報機関の「ゲーレン機関」として利用するという対応を取った。OSSは主として敗戦国の日・独・伊に活動の主力をおいたが、他の民主主義国にも支部を設置して情報収集工作を実施した。OSSの初期の欧州における活動資金の大半は、マーシャル・プランから流用された。

OSSは中央情報グループ・DIGから政策調整局・OPCを経て、1947年7月に成立させた「国家安全保障法」に基づいて9月に中央情報局・CIAに改組された。組織は、現在5つの部門に分けられている「作戦本部・DO」、「分析本部・DA」、「科学技術本部・DS&T」、「デジタル革新本部・DDI」、「支援本部・DS」などである。支援本部は、バージニア州のラングレーに置かれている。

民主主義国での工作の成功例は日本とイタリア 

CIAの主な任務は、冷戦中のソ連圏の社会主義諸国に対する情報工作であったが、東西対立を反映して民主主義諸国の保守政党に親米政策を採用させるために資金を援助し、メディアをも抱き込んで宣伝工作に利用した。さらに、右翼や闇の組織などにも資金を提供してリベラルや左派や労働組合に対して直接または間接的な弾圧および弱体化工作を実施した。CIAの工作で最も効果を上げたのはイタリアと日本だといわれる。

イタリアではキリスト教民主党を与党として長期政権の地位にとどまらせるために、野党をおとしめる宣伝活動に直接・間接に関与し続けた。そのために、イタリアの政界は腐敗し、政治家とマフィアの結び付きが抜き差しならないまでになる。

日本においてCIAは政権与党の自民党に50年代から60年代にかけて多額の資金を供与し、長期政権を維持させた。CIAの資金受領に関与したのは自民党の岸信介、賀屋興宣、佐藤栄作などである。自民党が親米政策を採用し、沖縄返還後も占領時代と同様の基地を残すことを許容する選択をせざるを得なかったのは、この資金供与を受けたことが一因となっている。日本の右翼でCIAの資金授受に関与したのは児玉誉士夫や赤尾敏などである。右翼が親米であり続け、一部の右翼が現在も日の丸と星条旗を一緒に掲げているのは資金の供与を受け続けた恩義があるからだ。連合軍の占領時代、CIAとは別にGHQのウィロビー少将が日本における諜報部門を統括しており、有末精三元陸軍中将や河辺虎四郎元陸軍参謀次長などが接触して米軍の諜報活動に関わっていた。

イラン・イラク・インドネシア・ベトナム・チリ・ニカラグアへの政権転覆工作を行なう

政府転覆の典型例はイランやイラクおよびインドネシアやチリなどへの工作である。

中東のイランでは、1951年にイギリスが利権を持つアングロ・イラニアン石油会社を接収して国有化すると、主導したムハンマド・モサデグ政権の打倒に動き、1953年に軍のクーデターをサポートしてモサデグを失脚させ、パーレビ国王を権力の座に戻して英米の石油権益を回復させた。

イラクでは容共主義者のカセム首相が石油産業の国有化をほのめかしたことから、毒殺を試み、それに失敗すると63年にクーデターを起こさせて倒した。エジプトでは、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領暗殺計画を数度にわたって実行したが失敗し、70年にナセルが急死したために中止したとされているが、ナセル急死の原因は必ずしも明らかではない。

アジアでは、1949年に中国において中国共産党政権が誕生すると、工作員を中国本土に送り込んだだけでなく、長期的な対策として国民党の残党をラオス・タイ・ビルマにまたがる「黄金の三角地帯」と言われる地域に拠点を構えさせ、自給自足の資金源としての麻薬の栽培を奨励した。麻薬売却益はのちのベトナム戦争においても現地の活動資金源として利用されることになる。

インドネシアではスカルノ大統領が容共的だとして打倒の対象とし、65年にハジ・ムハンマド・スハルト将軍の軍事クーデターを支援して軍事独裁政権を成立させた。このときCIAは数千名のブラック・リストをスハルトに渡して虐殺させた。このクーデター後にスハルト軍事独裁政権が共産主義者や容共主義者として殺害した人は50万に及んだ。

ベトナム戦争では麻薬栽培を奨励しのちのアフガニ戦争でも麻薬生産を促した

ベトナムでは、大戦後も植民地を維持しようとしたフランスを支援し、フランス軍が敗退した後は直接管理に乗りだして17度線を引き、南ベトナムとして支配力を及ぼそうとした。しかし、それに反発する南ベトナム住民の中から1962年に南解放戦線が組織され、南ベトナム政府を打倒する武力組織が活動を始めた。これに対し、米国は南ベトナムに司令部を設置して政府軍とともに鎮圧行動に乗りだしていく。ところが、ゴ・ジン・ジエム南ベトナム大統領が独善的で意に添わない態度をしめしたため、CIAは軍部を抱き込み63年11月にクーデターを起こさせて殺害した。さらに、ベトナムの山岳民族を戦争に利用するために麻薬の栽培を奨励し、それをCIA所属の航空会社「エア・アメリカ」を使って米国内に運び込んで売りさばく手はずまで行なった。以降、米国は最盛期には50万の兵力を投入して北ベトナムへの空爆や枯れ葉剤を散布し、北ベトナム軍が南下するホーチミン・ルートと言われる森林地帯を丸裸にした。この枯れ葉剤・エージェント・オレンジを浴びたベトナム人はその後何代かにわたって遺伝子の損傷を受けた。枯れ葉剤を浴びたのはベトナム人だけでなく米兵の中にもいる。この米国の「ドミノ理論」によるベトナム戦争は10数年に及び、1975年に撤退するが、この間にベトナム人はおよそ300万人が死亡し、米兵は5万人が犠牲となった。この戦争でCIAが直接関与して殺害したベトナム人は2万人に及ぶという。

カンボジアでは国王追放のクーデターを起こさせる

カンボジアでは、シアヌーク国王が中国に接近して容共政策を採用したことから、70年に親米のロン・ノル将軍にクーデターを起こさせてシアヌーク国王を追放し、その後のカンボジアを混乱に陥れた。ラオスではジャール平原に基地を建設し、王党派を支援するとともに、ベトナム攻撃に利用した。その上で、北ベトナムが構築した南ベトナムに通じるホーチミン・ルートを破壊するためと称してラオスに膨大な空爆を行ない、ラオスを疲弊させた。

79年に始まった対ソ連アフガニスタン戦争では、ブレジンスキー米大統領安全保障問題担当補佐官がのちに語ったように、ソ連軍をアフガニスタンに引き込むために78年からパキスタンに基地を設置して訓練を施すとともにムジャヒディーンに武器や資金を提供し、アフガニスタンに争乱を巻き起こしてアフガニスタン政府がソ連軍の介入を要請するように画策した。またムジャヒディーンの戦闘資金不足を補うために麻薬の栽培を奨励したことで、アフガニスタンは麻薬の栽培で「黄金の三角地帯」を凌駕し、ソ連軍兵士の麻薬中毒を増大させるとともに、欧米に大量の麻薬を流通させることにもなった。

ラテン・アメリカでは、61年にキューバの反革命傭兵軍を組織してビッグス湾に上陸させてクーデターを実行させたが失敗に終わる。その後もフィデル・カストロ議長の暗殺計画を繰り返し実行したが、これも成功しなかった。チリでは、73年に公正な選挙で成立したアジェンデ政権が社会主義的政策を採用すると表明したことが、米国の忌諱に触れ、米企業の権益を侵害するとして政権を潰すことを企図する。キッシンジャー米国務長官はCIAを使い、チリにおける最大の権益を持つ企業である米通信会社AT&Tやコカ・コーラの会社から資金を提供させ、ピノチェト将軍を唆して軍事クーデターを実行させてアジェンデ政権を転覆させた。ピノチェト将軍による独裁政権はアジェンデ政権派数万人を殺害し、1973年から1999年までの26年間独裁体制を維持した。この間に、ピノチェト大統領はミルトン・フリードマンが唱えた新自由主義市場経済を世界で初めて導入した。

CIAの活動を抑制しようとした時期もあったが秘密工作は続けられた

これらのCIAの工作に対し、ニクソン政権が72年に起こしたウォーター・ゲート事件をきっかけにしてメスが入れられた。連邦上院のチャーチ委員会、連邦下院のパイク委員会、ロックフェラー委員会などでCIAの非法性が批判に晒された。ここで検討された内容がすべて明らかにされることはないが、関与したある上院議員は自らの国のしている実情を知って気持ちが悪くなったと慨嘆した。

ニクソン大統領辞任の跡を継いだフォード大統領は、76年に「政府関係職員が、政治的暗殺に関わることを禁止する」との大統領令に署名した。CIAは、連邦議会での批判と大統領令による暗殺禁止令によって活動を制限されることになる。とはいえ、CIAが対外工作を止めたわけではなかった

中米では、79年にニカラグアのソモサ独裁政権を打倒したサンディニスタ革命を潰すことを企てる。80年に、ソモサ独裁派の武装組織コントラを組織して支援した。さらに、80年に始められたイラン・イラク戦争では表向きイラクを支援しているように装いながら、敵方のイランにも武器を売りつけ、その代金をニカラグアの反政府武装集団コントラに提供するという「イラン・コントラ事件」を起こした。エルサルバドルでは、独裁政権に批判的な教会を殺人部隊「アトラカトル大隊」に襲撃させてイエズス会士やその子どもを殺害させた。この時アトラカトル大隊を擁護した駐エルサルバドル米大使が、のちのコソヴォ紛争に停戦合意検証団長として関与することになるウィリアム・ウォーカーである。

CIAは暗殺禁止令を受け民主主義基金・NEDなどを設立して活用する

批判を受け続けたCIAは、活動の制約を免れる必要性から活動の一部を外郭団体に担わせるという手法を編み出す。83年に民主主義基金・NEDを設立してNGOと称し、資金の流れを分散化して工作の一部を分担させた。NEDはNGOと称しても、資金のほとんどはCIAから給付されているので、CIAの下部機関であることに変わりはない。このほか国際開発局・USAIDなどの外郭団体も創設された。

冷戦終結後にCIAは経済問題にも関与

冷戦終結後、CIAは経済問題に対する情報収集にも活動の範囲を広げた。日本には各界に数百人におよぶCIAエージェントがいるといわれるほどに社会に浸透している。日米自動車交渉では通産省の盗聴を行ない、オレンジ自由化交渉では農水省、電気通信交渉では通産省の日本人エージェントが米国側に情報を提供した。日本の首相を引きずり降ろすための情報工作が効を奏しているのは各界のCIAのエージェントが蠢いているからである。もとより、CIAの工作は第2次大戦における敗戦国としての日本やイタリアやドイツだけでなく、世界の諸国の政治体制のありようにも介入し、情報を収集するだけでなく、国家や政権を転覆させる工作や、要人暗殺にも多大な精力を注いできたのである。

CIA・NEDはユーゴスラヴィア連邦の解体戦争に深く関与

欧米によるユーゴスラビア連邦の社会主義を崩壊させる計画は、ブレジンスキー米大統領補佐官が78年に開かれた社会学会で「ユーゴ連邦の自主管理体制の崩壊をあらゆる手段を使って実行する」と表明した。ヨシプ・ブロズ・チトーが80年に死去すると、直ちに破壊工作は実行に移され、IMFはユーゴ連邦に借款の返済と新規融資を条件に「第1次経済安定化政策」の導入を要求し、83年には「第2次経済安定化政策」を受け入れさせた。この安定化策はユーゴ連邦の経済を混乱させることになり、CIAは各共和国のユーゴ連邦政府への求心力を低下させる工作を続けた。

米CIAと英MI6およびドイツ連邦情報局・BNDは、冷戦崩壊後も社会主義の残滓を手放さないユーゴ連邦の解体を明確な目標とし、情報工作機関のみか軍事請負会社の要員をユーゴ連邦の各共和国に送り込んだ。そして、民族主義者の煽動工作を強化して防衛隊や民兵組織に軍事訓練を施し、作戦を指導してきた。

ボスニアの内戦では、パキスタンの情報機関ISIを使い、ムスリム人勢力に武器と傭兵を送り込んだ。ボスニアのムスリム人勢力軍には、ISIおよび米軍事請負会社を通して中国、北朝鮮およびイランなどから武器を供給させた。イランは武器だけでなく革命防衛隊の隊員を送り込んでいる。また、アフガニスタン戦争で活躍した「アフガニ」といわれたムジャヒディーンを送り込んだだけでなく、イラン、パキスタン、サウジアラビア、スーダン、マレーシア、ブルネイでも傭兵を募集して送り込んでいる。

「ワシントン協定」に基づく統合軍事作戦でCIAはクロアチア共和国軍とボスニア政府軍に情報を提供

ボスニアでは93年当時、ボスニア政府とセルビア人勢力との間の戦闘だけでなく、ボスニア政府とクロアチア人勢力との間でも領域支配をめぐって激しい戦火が交えられていた。1993年1月に成立したクリントン米政権の方針はセルビア悪に基づく政策の下に、セルビア人勢力を屈服させることにあった。そのため、この両者が武力衝突をしていてはセルビア人勢力の征圧は困難と見て「新戦略」を立案する。

94年2月24、米政府はボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍間の戦闘停止を圧力をかけて合意させ、26日にはボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力およびクロアチア共和国の代表をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。この新戦略の目的は公表された内容とは異なり、協定に合意した3者による統合共同戦線を構成させ、それに適宜NATO軍を絡ませてクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するというものである。

それからの94年の1年間は、統合共同作戦を実行するための準備期間に充てられた。先ず、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍との統合司令部を設置させ、CIAと軍事請負会社・MPRIの軍事顧問団を送り込み、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍の訓練と作戦指導を施した。武器は、安保理決議713による武器禁輸の海上での監視を緩めて密輸を容易にするとともに、米軍の輸送機の所属マークを隠して直接にクロアチア政府およびボスニア政府の支配地域の空港に搬入した。この米軍輸送機がCIAのものか、軍事請負会社・MPRIがチャーターしたものか、あるいは米軍が直接搬入に関わったものなのかは明らかではないが、米国の軍用機を使用したことは疑う余地がない。この新戦略の中で、CIAはクロアチア政府軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力間の調整を行ない、またセルビア人勢力の情報を提供した。

統合共同作戦の実行のために国連保護軍の削減を要求したクロアチア政府

クロアチア共和国は統合作戦を実行する準備が整った95年1月、作戦の障害になる国連保護軍・UNPROFORの撤収を、和平の妨げになっているとの理由をつけて執拗に要求する。国連安保理では多少の異論があったものの、95年3月に安保理決議981~983を採択して国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアには縮減した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPが配備されることになった。

95年5月1日、クロアチア共和国軍は国連軍の再配備を待ってクロアチア・セルビア人地域の「西スラヴォニア」を攻略する。次いで7月に行なったボスニアからクロアチアへ至る幹線道路を制圧する「‘95夏作戦」および8月に発動されたクロアチア・セルビア人勢力壊滅作戦である「嵐作戦」においても、CIAおよび軍事請負会社・MPRIがNATO軍の作戦ソフトを提供し、指示も与えた。後にクロアチア軍諜報局長だったマルキッツァ・レビッチは、「嵐作戦はペンタゴンとCIAの監督の下に作戦を実施した」とメディアに語っている。この3つの作戦でクロアチアのセルビア人住民20数万人がクロアチアから追放された。

クロアチア共和国軍は嵐作戦に完勝すると「ミストラル作戦」に切り替えてそのままボスニア領内に侵攻し、セルビア人勢力の大統領府があるバニャ・ルカ攻撃を敢行した。共調したボスニア政府軍はセルビア人勢力の拠点であるバニャ・ルカ近傍のヤイツェなどを攻略し、さらにクレンバック、ボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュなどに攻撃を加えた。この5者による攻撃にボスニアのセルビア人勢力は追いつめられて、停戦に合意させられることになる。

のちに、クロアチア軍諜報局長だったマルキッツァ・レビッチは、「嵐作戦はペンタゴンとCIAの監督の下に実施した」とメディアに語っている。この3つの作戦でクロアチアのセルビア人住民が20万から25万人がクロアチアから追放された。

ボスニア・セルビア人勢力に対しNATO軍はオペレーション・デリバリット・フォースを発動する

この統合された共同作戦の仕上げは、マルカレ市場の爆発事件をきっかけにNATO軍が発動した「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」である。この事件は、クロアチア共和国軍とボスニア連邦による共同作戦が進行している最中の8月28日に、サラエヴォのマルカレ市場に再び砲弾が撃ち込まれて死者が多数出たというものである。NATO軍はセルビア人勢力による犯行だと即断し、1日余りのちの30日未明にデリバリット・フォース作戦を発動した。作戦は、NATO軍の空軍にNATO加盟国主体の陸軍で構成された国連緊急対応部隊が加わって空陸からボスニアのセルビア人勢力を攻撃するという形で進行した。NATOの空爆を受けてもボスニア・セルビア人勢力は戦闘意欲を失わなかったが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受け入れて停戦に合意した。

マルカレ市場事件は自作自演か

ボスニア・セルビア人勢力の息の根を止めることになったマルカレ市場爆発事件は、国連の英・露の専門家の調査で、セルビア人勢力の行為であるとの証拠はなく、ムスリム人勢力が実行した可能性が高い、と指摘された。しかし、これはそのような単純な事件ではなく、米国の新戦略に基づいてCIAが絡んで起こされた可能性が高い。

米政府はコソヴォ紛争を引き起こすためにCIAの拠点「情報・文化センター」を設置する

ともあれ、クロアチアとボスニアの内戦が「デイトン・パリ協定」によって、ユーゴ連邦解体戦争は終結したかに見えた。しかし、米政府はこれでユーゴ連邦解体戦争を終わらせるつもりはなかった。

クリストファー米国務長官は「デイトン・パリ和平協定」が締結された翌96年6月、ミロシェヴィチ・セルビア大統領にコソヴォ自治州の州都プリシュティナに「情報・文化センター」を設置することを要求し、これを受け入れさせる。情報・文化センターはその名称が示唆するように、CIAの拠点となるところである。直後にコンブルム米国務次官補は、情報・文化センターを設置させた意図について、「米国がコソヴォに関与し続けることの一例だ」と露骨に語った。ミロシェヴィチが情報・文化センターの意味するところを知らなかったのか、あるいはボスニア和平が成立して経済制裁が緩和されたことによる気の緩みがあったのか、いずれかは分からないがこれが禍根を残すことになる。CIAは、コソヴォ自治州に情報・文化センターが設置されると、そこを拠点にしてコソヴォ解放軍・KLAと接触し、活動を支え始めた。

コソヴォ解放軍はアルバニアから武器を大量に入手すると武力闘争を活発化させる

1997年に隣国アルバニアで社会主義制度から資本主義制度への転換過程で政治的・経済的混乱が起こると、コソヴォ解放軍はこれを好機と捉え、どさくさに紛れてアルバニアの武器を大量に入手する。コソヴォ解放軍はこの武器を手に、直ちにセルビア共和国からの分離独立を目的とした武力闘争を活発化させた。ユーゴ連邦セルビア共和国は、先のユーゴ連邦解体戦争におけるセルビア悪のプロパガンダに苦しめられたことから、当初は鎮圧行動をためらっていた。しかし、コソヴォ解放軍が自治州の4分の1を支配する事態は、許容できるものではなかった。そこで、ユーゴ連邦セルビア共和国が鎮圧行動を強化すると、国際社会はこれをアルバニア系住民への迫害であるとして非難し始める。

98年5月、米政府はこれに乗ずる形でホルブルック特使をユーゴスラヴィアに送り込み、ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領に治安活動を止めるよう強く迫った。CIAはこのとき、ホルブルック米特使をコソヴォ解放軍・KLAの幹部に引き合わせ、国際社会に認知させるために「自由の戦士」と讃えさせた。コソヴォ解放軍・KLAが国際社会に認知されたことで、CIA、米国防総省情報局DIA、英MI6、SASは行動の枷が取れ、直接あるいは軍事請負会社と契約してKLAに軍事訓練を施し、武器を提供することになる。セルビア治安部隊とKLAの武力衝突が激しくなると、国際社会と称されるEUとG8および米国は、セルビア治安部隊がアルバニア系住民への「民族浄化」を行なっているとして囂々たる非難を加える。そしてユーゴ連邦に制裁を科すとともに、セルビア共和国に停戦とコソヴォからの治安部隊の撤収を要求しつつ、NATO軍は空爆態勢を整えた。

ユーゴ連邦政府は欧州安保協力機構・OSCEの調査を要請するがCIAはそれを利用する

ユーゴ連邦政府はコソヴォ紛争の実態を国連などの公的な調査もなしに武力行使を迫る国際社会の対応に困惑した。そこにロシアの仲裁が入る。ロシアのイワノフ外相は、ユーゴ連邦政府に第三者機関と見なされる欧州安保協力機構・OSCEの検証団による視察を受け入れるよう勧告した。ユーゴ連邦政府はその助言を受け入れ、コソヴォにOSCEの検証団を派遣するよう要請する。

CIAとKLAは共同で「ラチャク村虐殺事件」を捏造する

欧州安保協力機構・OSCEは、98年10月に停戦合意検証団・KVMを組織して検証団員2000人をコソヴォ自治州に派遣することを決定する。しかし、OSCE・KVMの団長に曰くのあるウィリアム・ウォーカー米元駐エルサルバドル大使を任命したことで、コソヴォの帰趨は明白となった。ウォーカー団長はエルサルバドル大使だった際、独裁国家に批判的だったカトリック教会を襲撃させて司祭一家を殺害した事件に関わっていた人物である。ウォーカー団長はKVMを編成する際、検証団員の中にCIAやDIA、英国のMI6やSASなどの情報機関員を多数紛れ込ませた。

検証団員1600人は順次コソヴォ自治州に入って行くことになるが、遅れてコソヴォに入ったウォーカー団長は、すぐさまCIAの工作が絡んだ「ラチャク村虐殺事件」を捏造する。事件は、セルビア治安部隊がアルバニア系住民40数名を虐殺したとするものである。実態は、並べられた死体はコソヴォ解放軍の兵士であり、戦闘で死亡した者たちであったのだが、ウォーカー団長の捏造に呼応したオルブライト米国務長官はミロシェヴィチ・ユーゴ大統領をナチス・ドイツの「ヒトラー」に譬えて激しく非難した。潜入したCIA要員は、ラチャク村事件の捏造だけでなく、NATO軍の空爆の目標となる施設の調査を任務としており、コソヴォ解放軍に接触して衛星電話を与え、空爆目標の誘導を行なわせる手はずも整えた。このときは「連絡調整グループ」が関与して「ランブイエ和平交渉が行なわれ、NATOの空爆は回避された・

「ランブイエ和平交渉」はフランスのランブイエ城においてメディアのアクセスを遮断して行なわれる。米政府は直ちに介入し、自治州臨時政府の長に就いていた穏健派といわれるイブラヒム・ルゴヴァ自治州政府大統領を交渉団の副代表に格下げし、コソヴォ解放軍・KLAの30歳の若いタチ政治局長を代表に据えるという作為を行なう。その上で、途中からオルブライト米国務長官が和平交渉を主導し、タチ政治局長を言いくるめて和平案に調印させる。一方で、ユーゴ連邦側にはユーゴスラヴィア全土にNATO軍を駐留させてその費用の一部を負担させるという受け入れ難い「軍事条項」を突きつけ、予定通り決裂に持ち込んだ。この「付属条項B」といわれる軍事条項はユーゴへの空爆に積極的だったブレア首相の英国以外には秘匿されていたことから、国際社会はユーゴ連邦が傲慢な対応を示したものと受け取り、NATOの空爆もやむなしという雰囲気が醸成された。

3月18日にランブイエ和平交渉が決裂したとき、既にNATO軍はアドリア海に大艦隊を集結させ、戦闘爆撃機が発進態勢を整えていた。NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は既定路線だったのである。

CIAが調査した目標とKLAが誘導した地点をNATO軍は徹底的に爆撃

99年3月24日、NATO軍は「アライド・フォース作戦(同盟の軍事作戦)」なる「ユーゴ・コソヴォ空爆」を発動する。アドリア海に集結したのは、米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊、米ミサイル巡洋艦2隻、水陸両用強襲揚陸艦1隻、英海軍の軽空母「インヴィンシブル」艦隊、仏海軍の空母「フォッシュ」艦隊などの他、加盟国の駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻、潜水艦3隻などの大艦隊であった。攻撃機は空母からの他イタリアのアビアーノNATO空軍基地など周辺国の基地から発進させるとともに、イギリスや米国本土からB-52、B-1B、B-2、F-117長距離爆撃機など、およそ1000機におよぶNATO加盟国の空軍機が参加した。空爆対象は、KVM調査団に潜り込ませていたCIA要員が調査した標的に加え、コソヴォ解放軍・KLAが地上から衛星電話で爆撃目標を誘導した。NATO空軍への反撃力を持たないユーゴ連邦軍は耐えることしかできなかった。そのため、78日間の空爆後に和平を受け入れる。その条件は、自国のコソヴォ自治州から行政権と治安活動を放棄させられるという屈辱的なものであった。 

空爆後にコソヴォ解放軍の「大アルバニア」建設のための戦闘を支援したCIA

セルビア治安部隊が撤収したことで行動の自由を得たコソヴォ解放軍・KLAは、「大アルバニア」の建設を目論むことになる。そして、セルビア共和国南部のアルバニア系住民居住区に「プレシェヴォ・ブヤノヴァツ・メドヴェジャ解放軍LAPBM」を結成させてセルビア共和国からの分離を企てて武力闘争を開始した。もとより、表向きNATO軍の軍事力支援のないKLAの安易な武装闘争が容易に達成されるはずもなく、戦闘はずるずると続けられた。

そこでKLAは、もう一方の大アルバニアの対象地域である軍備の劣弱なマケドニアのアルバニア系住民居住地の分離に取りかかる。マケドニアにKLAの分派としての「民族解放軍・NLA」を結成させ、2001年3月にマケドニア共和国に武力侵攻した。この武力侵攻に関し、米軍事請負会社MPRIおよび米CIAがこれを支援し、NATO軍の一部もこれに共同してKLA・NLAを支援した。そのため、KLA・NLAは、一時期マケドニアの30%の地域を支配するまでになる。

狼狽したマケドニア政府は、ウクライナから攻撃ヘリの貸与を受けるなど東欧諸国から武器を入手して反撃に転じた。このときEU監視団の一員としてドイツ軍がマケドニアの国境地帯に配備されていたのだが、KLA・NLAはこのドイツ部隊に激しい砲撃を加えている。ドイツ監視団部隊が国境警備において武装組織の越境を厳しく取り締まっていたことが、KLA・NLAの行動の障害となっていたからである。

英サンディ・タイムズ紙はこのマケドニアの戦争について、「NATO軍は、米国に訓練・武装されたKLA軍との戦闘に直面」との批判的記事を掲載した。NATO加盟国の多くはマケドニア紛争を抑制しようとしたのだが、米国がマケドニア紛争を抑制するよりもコソヴォ解放軍の支援を優先したために、KLA・NLAの大アルバニア主義による武力行動とNATO軍の一員であるドイツ軍が銃火を交えるという捻れた関係が露呈したことを、この記事は指摘したのである。

ともあれ、マケドニアは総動員態勢で防戦し、ようやくKLA・NLAを追いつめた。すると、EUとNATOがKLA・NLAを救出するために調停に乗り出して停戦が実現する。このとき米軍は、マケドニア軍に包囲されたKLA・NLAと指導していたCIA要員および米軍事請負会社・MPRIの要員を保護するためにバスなどで護送した。この光景を見たマケドニアの住民は憤りの余り、バスの通行を妨害し、投石するという事件を起こしている。

メディアの記者やPR会社もCIAに協力している

CIAは情報工作機関であるために活動内容は秘匿されているが、フォード大統領による1974年の大統領令で活動が制約されたため、外郭団体の「民主主義基金・NED」だけでなくメディアやPR会社を利用して情報工作を行なってきた。CIAの業務の60%は民間業者が請け負っている。報道機関の中には社命でCIAに協力するところもあり、また経営者が知らないところでCIAに協力している記者たちもいた。メディアとの直接的な接触が望ましくない場合は、軍事請負会社や民主主義基金・NEDやPR会社を仲介役として使い、それがまた下請け機関に委託されるという構造を為している。

CIAは9・11事件を利用したのか

2001年に9・11事件が起こると、CIAは4日後に「世界的規模での攻撃マトリクス」なる計画書を策定し、最高機密文書に指定した。世界的規模の攻撃計画書を僅か4日で作成できるものなのか、それともこのような計画を予め想定していたということなのかは不明である。ラムズフェルド国防長官はこの計画策定後、「複数の指揮官の下、アメリカを含む60ヵ国に及ぶ国々で、一種の闇の世界で活動しなければならない」と述べ、その作戦計画を明かした。また、チェイニー副大統領も「アメリカ合衆国は、一種の闇の世界で活動しなければならない」とテレビで語った。この極秘文書の策定と2人の高官の発言を重ね合わせると、9・11事件はまるで予定調和のように見える。これは、CIAをめぐる謎である。

アフガニスタンのタリバン政権は9・11事件に関与していないにもかかわらず米軍は作戦を発動

ブッシュ政権は、フォード大統領の暗殺禁止令を廃止するとともにFBIの任務である国内の捜査権をもCIAに与える。そして、9・11事件を起こしたのは「アルカイダ」と決めつけ、そのアルカイダをアフガニスタンのタリバン政権が匿ったとして早くも10月7日にアフガニスタン戦争を始めた。この戦争でCIAは先遣隊として米軍特殊部隊と共同でアフガニスタンに潜入して後方撹乱を展開するとともに、北部同盟や軍閥および部族長などに巨額のドルを与えて買収してタリバン攻撃に引き込み、数日でタリバン政権を蹴散らした。

分析力に欠けるCIA

米政府が捕捉している情報は日々膨大な量に及ぶ。CIAが収集している情報も膨大な量であるが偏りがあり、政策遂行に肝要な情報分析力は決定的に不足している。それが顕著に表れたのがイラク戦争に至る情報分析である。これはイラクに限ったことではない。おしなべて、CIAは情報の収集量に比して分析能力が低いといわれる。

フェイクニュースを流してイラクに侵攻した米有志連合軍

2003年のイラク戦争では、当時のCIAのテネット長官がイラクは大量破壊兵器を所有しており、またアルカイダとフセイン・イラク政権が密接な関係を持っているとの不確かな持ち込み情報を断定的に大統領に報告した。

パウエル米国務長官は国連安保理において、信頼するに足りない情報を基に、石油燃料の輸送トラックを化学兵器製造用の移動トラックであると断言し、イラク戦争は不可欠であると演説して世界を唖然とさせた。仏・独・露は反対を表明したが、このいかがわしい分析に基づいて米・英・豪有志軍はイラクへの武力攻撃を強行する。そして、サダム・フセイン・イラク大統領を拘束し、形式的な裁判で処刑させた。

証拠もないまま容疑を被せて人々を秘密収容所に拘束し尋問する

米国はアフガニスタンにおいてもイラク戦争においてもテロ容疑者と推定しただけで一般人を拘束し、キューバのグアンタナモ収容所やイラクのアブグレイブや米国の法律の保護のおよばない東欧や中東諸国などに秘密収容所を設置して収容し、拷問を伴う尋問を行なっていた。これらの行為の一部はのちに暴露されることになるが、CIAがこれに濃厚に関与していた。この拷問にはCIAが作成した複数の「拷問手引き書」なるものが使われている。

秘密収容所は、ユーゴ連邦を解体したのちにこれらの国に進駐した米軍がコソヴォ自治州にボンド・スティール基地を設置したのみかマケドニア共和国にも設置したといわれる。2000年にミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を追い落とした「オトポール・(拳)」運動の組織に関与したのもCIAである。この組織は2022年現在もセルビアのベオグラードに事務所を設置している。

米国の情報機関の組織構造は9・11事件後に再編される

かつて、CIAは国家安全保障会議・NSAに属しており、CIAの長官は中央情報長官も兼ねていて組織上は情報工作機関を統轄する形態として予算の配分権も握っていた。しかし、9・11事件以後に情報の一元化を図る必要があるとして、CIAその他の情報機関を統合管理する国家安全保障省・DIA」が新設された。CIAはその中の一機関として組み込まれ、CIA長官の上に国家情報長官が置かれることになった。2007年段階での米国の情報部門の関連予算の総額は400億ドル前後であり、情報に携わる人員は10万人に及ぶ。CIAそのものの予算は2013年の時点で150億ドル前後、人員は2万人余りである。関係機関は全米民主主義基金・NED、米国国際開発庁・USAID、文化自由会議、タビストック人間関係研究所、アメリカ対日協議会などであるが、その他私企業も利用している。

米CIAが時の政府とかかわりなく情報機関の間で密接な関係を持っている国は、英・仏・独・加・豪・ニュージランド・イスラエル・ポーランド・ヨルダン・サウジアラビアなどである。

CIAの秘密工作も漏れ出すことがある

CIAの任務は国家安全保障に係わる事柄であり、諜報機関であることからその内実が明らかにされることはほとんどない。しかし、多くの人の努力によってその秘密が暴かれつつある。1987年にはCIAの任務に幻滅した元CIAの職員が自ら組織を作り、その内実を明らかにしたことがある。それによると、「第2次大戦以降、アメリカ合衆国と戦争状態にない国におけるアメリカの秘密工作活動の結果、死亡した人の数は少なくとも600万人に上っている」との声明を出した。その死者数の膨大さに驚愕するが、それが民主主義を標榜する国の秘密情報機関としてのCIAの活動の実態なのだ。

2000年代に中・東欧や中央アジアで民主化運動として政権交代を起こしたのにもCIAが密接に関与している。2003年

のジョージア(グルジア)のバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命などのカラー革命と言われた民主化運動にもCI

Aが関与していた。2015年5月には、アルカイダを率いていると言われたオサマ・ビン・ラディンを暗殺。2020年1月には、イ

ランの書く名簿上板のスレイマニ司令官の暗殺にもCIAは関与した。

ロシアのウクライナ侵攻という愚行

2022年2月24日にロシア軍は布告することなくウクライナに軍事侵攻した。この行為は明白にロシアの愚行といえるが、その淵源をたどっていくと、短期的には2014年のウクライナ政変に行き着く。この政変にCIAが関与していた可能性も否定できないが、なによりその後に徴募された民兵の訓練にCIAが係わっていたようだ。スイスの諜報部員のジャック・ボーは、22年2月のウクライナ側からのドンバス攻撃にアメリカ人が指導や助言をしており、その際にCIAの傭兵が関与した可能性も指摘している。

<参照;コソヴォ自治州、クロアチア、ボスニア、ユーゴ・コソヴォ空爆、ドイツ連邦情報局・BND、米国の対応>

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14,「アメリカ民主主義基金・NED」

NEDは米中央情報局・CIAの偽装外部機関

1972年に、ニクソン米政権が民主党本部の盗聴を実行したことが暴かれたいわゆる「ウォーター・ゲート事件」をきっかけにして、CIAの活動も批判の矢面に立たされることになる。上院のチャーチ委員会、下院のパイク委員会、ロックフェラー委員会がCIAの行為を調査の対象とし、その非法性を暴いた。CIAは、政府機関として何らかの対処をしなければならないほどに追いつめられた。

そこで、CIAは直接的な諸外国への違法な情報工作の実態を隠蔽するために、「民間の非政府活動により、世界中の民主的組織を支援する」という名目を立て、秘密工作とは無縁の組織との印象を抱かせる「米国民主主義基金・NED」という外郭団体を83年に設立した。この米国民主主義基金は民間の非政府組織」と称してはいるものの、民間からの寄付は僅少で活動資金のほとんどは連邦政府予算によって賄われているので、NGOとは名ばかりのCIAの下部組織である。

NEDが資金を提供している主な組織は、「米国際開発局・USAID」、「国際共和研究所」、「国際問題民主研究所」、労働組合AFL・CIOの所属組織「米国国際労働連帯センター」、「米国自由労働開発機構・AIFLD」、および米国商工会議所所属の「国際民間企業センター」などで、資金を提供することによってCIAの代替機関としての情報収集工作活動を実施させている。

「イラン・コントラ事件」・「パナマ侵攻」・「ハイチの大統領失脚」にNEDが関与

83年に設立されたNEDは、すぐさまオリバー・ノース中佐に資金を供与して「イラン・コントラ事件」を工作した。1980年に始められたイラン・イラク戦争では、米国は表向きイラクを支援している体裁を取っていたにもかかわらず、ノース中佐が相手のイランにイスラエルを通して武器を売りつけ、その売却代金をニカラグアの反政府組織「コントラ」に資金として提供し、ゲリラ闘争を行なわせた。これが露見するとイラン・コントラ事件として刑事事件となり、ノース中佐は一審裁判で有罪判決を受けたものの、上訴審で無罪とされる。

また、パナマのノリエガ将軍にも資金を提供し、中南米の独裁政権を支持させ、左派政権に対する反政府武装勢力を支援させた。しかし、ノリエガ将軍が次第に米国から距離を置くようになると、89年にパナマに米軍を侵攻させて逮捕し、麻薬取引の容疑で米国の国内法で裁判を行なって有罪とした。

89年に冷戦が解消すると、NEDはモンゴル、ブルガリア、アルバニアの選挙を操るための工作資金を流し込んだ。ハイチでは90年の選挙の際、アリスティド大統領を失脚させるための資金を親米支配層や右翼集団に渡した。米国自由労働開発機構・AIFLDは「労資協調を確立する」と銘打って、労働組合を潰すために第3世界ばかりでなくフランスやポルトガル、スペインなどの先進国へも工作員と資金を送り込んだ。その他、諸国のメディアへの工作、市民組織や学生運動、政治グループへの資金提供、技術支援、物品提供、訓練プログラム、広報活動などを直接、間接に行なっている。

ユーゴ連邦解体戦争におけるミロシェヴィチの引きずり降ろしおよび世界のカラー革命工作にも関与

ユーゴスラビア連邦では、NEDは公営企業の民営化を推進するための法制度の変更を行なわせ、ユーゴ連邦の経済を混乱させ、連邦への求心力を失わせた。また、反ミロシェヴィチ大統領の勢力に対し、永年にわたり資金を提供し、ユーゴスラビア連邦の政治的混迷を助長した。ユーゴ連邦解体過程で大規模な工作を行なった顕著な事例は、2000年の大統領選で若者の運動体である「オトポール・Otpor・拳」と18の政党に資金を投入して大衆運動を組織し、ミロシェヴィチ大統領を引きずり下ろしてコシュトニツァを大統領に引き上げた「ブルドーザー革命」といわれた事件である。NEDは米国際開発局・USAIDとともに運動のやり方を指導し、ポスター、Tシャツ、携帯電話などの物品を提供し、活動家には援助資金が与えられた。この若者たちのオトポールは、NEDやUSAIDなどの支援工作によってメンバーは7万人に膨れあがり、議会を包囲してミロシェヴィチ政権を崩壊させ、コシュトニツァを大統領に押し上げた。

オトポールはミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を引きずり下ろした後もNEDからの資金提供を受けてベオグラードに事務所を維持し続けている。NEDはオトポールのベオグラード事務所を拠点として旧ソ連圏における民主主義革命の呼称とともに、社会主義者および親ロ派を引きずり落とすための運動に利用している。オトポールが掲げた「拳」のTシャツはその後もシンボルマークとして使われている。2003年にグルジアの「バラ革命」でシュワルナゼを退陣させ、2004年にウクライナの「オレンジ革命」でユシチェンコを大統領に選出させ、2005年にキルギスタンでの「チューリップ革命」でアカエフ大統領を退陣させるなどの「カラー革命」でもNEDが資金を提供した。

ベネズエラは石油の推定埋蔵量が世界一といわれていることもあり、米国はこの権益をめぐって執拗な干渉を続けている。チャベス・ベネズエラ大統領が石油産業を国有化したことで米国企業の利益が損なわれたことから、チャベス政権に対する2002年の軍事クーデターにNEDが資金を提供して実行させた。しかし、これは民衆がチャベス大統領を支持する大規模なデモを行なったことで失敗に終わる。また、チャベス大統領が死去した後を継いだマドゥロ大統領を引きずり下ろすために、2018年に経済制裁を科すとともにグアイド国会議長を暫定大統領に仕立てて撹乱工作を続けている。NEDのベネズエラに対する工作には、ベオグラードのオトポール事務所で訓練された工作員が入り込んでいるといわれる。

<参照;米国の対応、米中央情報局・CIA>

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15,「ドイツ連邦情報局・BND」

BNDはナチス・ドイツの対ソ連諜報機関が母体

ドイツ連邦情報局・BND(Bundesnarichtendienstes)」は、第2次大戦中にナチス・ドイツの対ソ連諜報機関として設置された「陸軍・東方外国軍課」が母体となっている。東方外国軍課の責任者となったラインハルト・ゲーレン中将は、ソ連の内部に諜報網を張り巡らして正確な情報分析が可能な機構に仕立て上げた。ただし、ヒトラー総統は東方外国軍課の情勢分析を十分に重用することはなかった。ゲーレンはナチス・ドイツの敗退が濃厚になると、戦後もソ連に対抗する機関が必要になるとの見通しを立て、対ソ諜報に関する資料を山小屋などに秘匿して復活に備えた。敗戦後の45年8月、ゲーレンは諜報の資料を携えて駐留米軍を訪れ、対ソ諜報機関の必要性を売り込み、機関の存続の有用性を説得した。欧州駐留アメリカ軍総司令部参謀部軍事情報部・USFET・G2はこの対ソ情報機関の存在価値を認め、戦犯の対象から外して保護し、46年7月に対ソ情報工作機関としての「ゲーレン機関」を設置させて資金を与えた。

BNDの前身のゲーレン機関は米中央情報局・CIAの資金で存続

米国の庇護を受けたゲーレン機関は、ナチス・ドイツ時代の東方外国軍課のメンバーを中核に、元外交官や元公務員およびナチス・ドイツの元高官やSS隊員やゲシュタポなどを採用して拡大した。米国側の管轄は当初は連合国欧州軍最高司令部・G2であったが、49年7月1日に米中央情報局・CIAが設置されるとそこの管轄に移される。ドイツは戦後東西両陣営によって占領状態が続けられたため、49年まで独立国家としての政府が存在しなかった。西ドイツとしての正式の内閣が発足したのは49年9月になってからである。そのためにゲーレン機関はドイツ人による諜報機関として存在していながら、報告先はドイツ政府ではなく資金の供給元である米国の政府機関という関係が1956年まで続いた。

西ドイツ政府は、ゲーレン機関とは別に国内治安情報機関として内務省管轄の「憲法擁護局・BfV」を50年9月に設置した。ゲーレン機関は対国際共産主義諜報機関としてこの「憲法擁護局」と併存し、米・独両政府に情報を提供する2君に仕える組織として運営される。ゲーレン機関は、ソ連圏に張り巡らした諜報員からの情報によってかなり正確な情報分析を米国に提供したことは疑いないものの、自らの存在価値を認めさせるためにソ連の脅威を誇大に報告もした。それが西側諸国の政策に影響を与え、冷戦の対立を激化させることにもなった。「ゲーレン機関」は52年にナチス・ドイツの親衛隊の幹部アドルフ・アイヒマンの潜伏先を突き止めていながら情報をドイツ政府にもCIAにも伝えずに秘匿するなど、特定の権益を優先させてもいた。

ゲーレン機関が西ドイツ「連邦情報局・BND」となる

55年5月5日、西ドイツはNATOへの加盟が認められたことから西側諸国の一員としての地位を確保する。それに伴い、西ドイツ政府はゲーレン機関を正式な対外諜報機関として吸収することになり、56年4月1日に政府の内閣官房に付属する機関としての「連邦情報局・BND」を設置して米CIAの管轄から外した。初代のBND長官は、「ゲーレン機関」創設者のラインハルト・ゲーレン元中将が就任し、56年から68年まで務めた。ユーゴ連邦解体戦争中にドイツ外相の任にあったクラウス・キンケルも、79年から82年までBNDの長官を務めている。

「ゲーレン回顧録」では、BNDの情報分析が正確であったことを幾つか列挙している。「1,1956年2月のソ連共産党第20回大会のフルシチョフ秘密報告の全文をすぐさま入手して発表したこと。2,56年10月のハンガリー事件ではワルシャワ条約機構が戦車を侵攻させて民衆の反乱を鎮圧したが、ソ連は衛星国のぐらつきを軍事力によって平定したにすぎず、周囲に広がる虞れはないと分析したこと。3,同時に起こった英・仏・イスラエルとエジプト間で起こったスエズ動乱の際、ブルガーニン・ソ連首相がロンドンとパリとにミサイル攻撃をも辞さないとの警告を発したが、これはソ連の単なる口先だけの威しにすぎないと分析したこと。4,61年8月のベルリンの壁建設を予測する報告を行なっていたこと。5,67年の第3次中東戦争におけるイスラエルの攻撃の日時を正確に予言したこと。6,68年にソ連軍戦車がチェコの「プラハの春」を潰しにかかった事件について、他国へ拡大することはないと分析したこと」などである。

BNDはドイツ政府の機関でありながら米CIAと密接な関係を保つ

BNDは第2次大戦後に米国が保護育成したゲーレン機関を基盤としていることもあって、ドイツの時の政権とは関わりなく米中央情報局・CIAとは密接な関係を保っている。2003年の米・英・豪の有志軍によるイラク戦争では、ドイツ政府が公式にはイラク攻撃に反対していたにもかかわらず、BNDはバグダッドに潜入して米軍にイラクの攻撃目標などの情報を提供していた。

ユーゴ連邦解体戦争ではCIAと連携して諜報工作を実施

ユーゴ連邦解体戦争では、かなり早い段階からCIAと協調してユーゴスラビア連邦内に工作員を送り込んでいた。コール・ドイツ首相がスロヴェニアとクロアチアをドイツ経済圏に取り込もうとしていたことから、BNDは両国の民族主義者に働きかけてユーゴ連邦からの分離独立を画策した。スロヴェニアやクロアチアの共和国の防衛組織に情報を提供し、訓練を施し、両国のユーゴ連邦からの独立戦争の戦いに協力してドイツの経済的権益を確保することに貢献した。

BNDはユーゴ連邦解体戦争には積極的に加担したが、2005年の報告書ではコソヴォについて次のような分析を行なっている。「コソヴォにおける政治・経済および国際的な組織犯罪の間を密接に結ぶ連結環が、例えばタチ、ハラディナイ、ハリティのような主要な働きをする人物を通して存在する。犯罪組織は不安定を助長する。彼らは急速に発展する彼らのビジネスにとって有害となりうる、正常に機能し、秩序ある国家の建設には関心がない」と記述。米国が自由の戦士として称賛し、大規模な空爆まで行なって支援したKLAの指導者たちは、コソヴォ自治州を国家として機能するように整備することよりも個人的な利益を得ることに最大の関心があった、ということをBNDは報告したのである。BNDは、ユーゴ・コソヴォ空爆には協力したが、コソヴォ解放軍が母体となった自治州の政権の実態については極めて批判的だったことが窺える。BNDの組織は9課に分けられ、職員は7000人を超え、その内2000人余が外国支局に属し、内外の諜報活動を行なっている。

2017年、ドイツのシュピーゲル誌が、BNDは英BBC、ニューヨーク・タイムズ、ロイター通信など外国通信社の記者の電話を盗聴していた、と報じた。

<参照;ドイツの対応、米中央情報局・CIA>

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16,「アメリカのPR会社」

メディアに影響力を行使する

アメリカには、PR会社が6000ほどある。ほとんどはコマーシャルPRだが、政府の情報操作に関与していることが少なくない。ある調査によると、アメリカの平均的新聞のニュースの40%は、PR会社からのプレスリリースや回覧文書や示唆によるものだといわれる。ウォールストリート・ジャーナル紙の記事の半分以上が、「全面的にプレスリリースに基づいていた」との調査もある。PR会社は、単にプロパガンダをしているだけでなく、クライアントと政治家との仲介役も引き受ける。

虚偽の証言をさせて湾岸戦争へ導いたヒル&ノートン社

国際関係で注目を浴びたのは、1990年の「湾岸戦争」の際にクウェート政府に依頼された「ヒル&ノートン社」が、クウェートの大使の娘に米下院議会で虚偽の証言をさせた事例である。この15歳の大使の娘は、「病院に乱入してきたイラク兵たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを取り出して床に投げつけました」と涙ながらに証言した。これが、米議会の議員を湾岸戦争への賛成に雪崩れ込ませる働きをした。ヒル&ノートンは、この少女が駐米クウェート大使の娘であり、クウェートで生活してさえいなかったことを隠蔽していた。ヒル&ノートンの元幹部は政界にも食い込み、クリントン政権の初期にはホワイトハウスの顧問兼戦略立案者の地位に就いていた。だが、湾岸戦争でのこの虚偽の事実が明るみに出ると、スキャンダルとして社の評価は下落した。

ルーダー・フィン社はユーゴ連邦解体戦争で悪意あるプロパガンダを流布した

ユーゴスラビア連邦解体戦争に積極的に関与したのは、ルーダー・フィン社である。1991年にはクロアチア共和国と契約を結び、クロアチアのユーゴ連邦からの独立の正当性をPRする業務を行なっていた。スロヴェニア共和国のPRを請け負っていたのは、フィリス・カミンスキー社である。ルーダー・フィン社は、クロアチアに加え、92年にボスニア・ヘルツェゴヴィナの外相であるシライジッチの依頼を受けて契約を結ぶ。これが見事な成果をあげ、「セルビア悪」説を世界に広めるのに貢献した。ルーダー・フィン社は世論を動かす方法として、ボスニア政府発の膨大な未確認情報をメディアや諸国政府の関係機関に垂れ流すという手法をとった。さらに、有力なメディアの記者たちにシライジッチ外相との単独インタビューを持ちかけてメディアをセルビア悪に引き込んだ。

米議員とともに政策に影響を及ぼし国際会議を取り仕切ったPR会社

ルーダー・フィン社をボスニアのシライジッチ外相に引き合わせたのは、ボブ・ドール米上院議員だといわれる。ドール米上院議員はボスニア内戦に関し、安保理決議713で禁止されたユーゴスラヴィア連邦全域への武器禁輸を、ボスニア政府のみ解除させる決議案を上院に提出して可決させるなど、米政府のボスニア政策に大きな影響力を行使し続けた。ルーダー・フィン社は、1992年6月に「イスラム諸国会議機構」の会議をボスニアのために開かせ、さらに92年8月のロンドン和平会議ではボスニアのムスリム人難民を記者会見場に引き入れて証言させ、セルビア悪を印象づけることに成果を上げた。 

93年にボスニア政府軍とクロアチア正規軍およびクロアチア人勢力軍の連合軍が戦闘を始めると、ルーダー・フィン社は両勢力のPRを同時に行なうことが困難になったために、クロアチア共和国のPRをウォーターマン社に譲る。ウォーターマン社は早速クロアチアのトゥジマン大統領を、ドール米上院議員、バイデン米上院議員などに引き会わせた。

ルーダー・フィン社は93年6月の国際人権会議において会議の運営を誘導し、国連の対応への非難決議およびボスニア政府への武器禁輸を解除するよう国連安保理に要請する決議を採択させるなどの画策を行なった。人権会議が武器の輸入を認めるよう要請することは、人権会議の存立基盤を揺るがしかねない矛盾だが、ルーダー・フィン社は巧に会議の雰囲気をつくりあげる役割を果たした。

ルーダー・フィン社は「民族浄化」・「強制収容所」の用語をメディアに売り込みナチス・ドイツを想起させる

「民族浄化」という文言をボスニア内戦で最も効果的に使い始めたのは、ルーダー・フィン社である。民族浄化が意味するものは、ある地域から異民族を移住・追放・排除して民族の純化を図るというもので、必ずしも抹殺を意味するものではない。しかし、第2次大戦でナチス・ドイツが行なったユダヤ民族浄化を連想させ、迫害、暴力、拷問、レイプ、追放、虐殺を思い浮かべさせる。ボスニア内戦では、戦闘の過程でセルビア人もクロアチア人もムスリム人も同じように残虐なことをしていたにもかかわらず、ルーダー・フィン社はセルビア人だけが民族浄化を行なっているとのプロパガンダを流し続けた。そのため、ECのユーゴ和平会議の議長を務めたキャリントン英元外相は、「セルビア人だけが民族浄化を実行しているとされ、他の民族がセルビア人を排除し、虐殺した際には民族浄化なる文言が使用されることはなかった」と否定的見解を述べざるを得なかった。このように、PR会社は民族浄化なる文言を巧に利用してナチス・ドイツのホロコーストをイメージさせ、セルビア人は特殊残虐な人間であるとの印象を世界に広げて貶めるという効果を上げた。「強制収容所」なる言葉を使い始めたのもこのルーダー・フィン社である。これも世界の人々にナチス・ドイツの強制収容所をイメージさせ、一部のメディアの便乗した報道によってセルビア悪説が一層印象づけられることになった。

ユーゴ連邦政府はPRの重要性を認識していなかった

ユーゴ連邦政府は、自らの政策のPRについての重要性を認識していなかった。真実はやがて理解されるだろうという素朴な観念を抱いていたからである。しかし、ルーダー・フィン社によるPRの絶大な影響力に気づき、遅ればせながら米国のPR会社に依頼したが、既にセルビア悪説に世界が染まっていた中で自社の評判を落とすような冒険をするPR会社はなかった。またユーゴスラビア連邦と契約することは、既に採択されていた安保理の経済制裁決議に抵触するおそれもあり、契約に意欲を示したPR会社も結局は断ってきた。そのため、ユーゴ連邦およびクロアチアとボスニアのセルビア人勢力は、PR会社とそれに影響を受けたメディアや政治家のほしいままな言動に翻弄されることになったのである。

<参照;クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ>

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17,「OSCE・欧州安全保障協力機構」

冷戦時の突発的な戦争を回避する信頼醸成の機構として設立

OSCE(Organization for Security and Co-operation in Europe)は、欧州・中央アジア・北米の57ヵ国で構成する世界最大の安全保証機構である。

OSCEの前身としてのCSCE・全欧州安全保障協力会議の設立は、1954年に開かれた米・英・仏・ソ外相会議で、ソ連のモロトフ外相が欧州の安全保障に関する国際会議の開催を提唱したのが端緒である。68年には、欧州が中部欧州相互均衡兵力削減交渉の逆提案をするなどの駆け引きが行なわれ、設立は先延ばしにされた。75年8月1日、ヘルシンキで35ヵ国が参加して開かれた首脳会議で、「ヘルシンキ宣言」を採択し、東西両陣営の相互信頼を醸成するためのフォーラムとして全欧州安全保障協力会議・CSCEは設立された。ヘルシンキ宣言の最終文書は領土保全に関し、「参加国は、すべての参加国の領土保全、政治的独立または統一に反する国連憲章の目的と原則に一致しないあらゆる行動、とりわけ武力行使または武力による威嚇の禁止、または国際法上の義務の誠実な履行をする」との原則を規定した。

その後ベオグラード、マドリード、ウィーンなどで会議が重ねられ、「紛争の平和的解決、地中海問題、経済協力、環境、情

報、人権、文化遺産」などに関する専門家会議フォーラムなどを重ね、冷戦時の東西相互信頼醸成に一定の役割を果たした。

90年11月、パリで開かれた首脳会議で冷戦の終焉を宣言するとともに、「新たな欧州のためのパリ憲章」を採択する。

CSCEの目的である紛争の平和的解決から紛争の加担へ

91年6月25にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの独立宣言を強行すると、武力衝突が頻発することになる。CSCEは35ヵ国が参加した協議を行ない、「緊急対応メカニズム」を発動させ、「戦闘行為の停止。ユーゴ連邦人民軍およびスロヴェニア、クロアチア両軍の撤収」を求める議長声明を採択し、スロヴェニアに停戦監視団を派遣した。

92年7月に開かれたCSCE首脳会議で、ムスリム人勢力を代表する立場のイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が、ブッシュ米大統領に対しサラエヴォを攻撃しているセルビア人勢力の陣地を空爆して欲しいと要請した。ブッシュ米大統領は空爆を検討すると応じ、会議において「ボスニアではこの瞬間にも民族浄化が行なわれている」と演説した。CSCEの原則である紛争の平和的解決、相互信頼醸成が遠ざけられた瞬間であった。CSCEは「ユーゴ危機に関する宣言」を出し、セルビア共和国を非難しつつ調査団の派遣を決議した。その上で、新ユーゴ連邦(セルビア共和国とモンテネグロ)のCSCEの加入資格を停止するなどの対応を取る。この措置はCSCEが掲げた「予防紛争、平和維持活動」などの理念が如何に脆いものであるかを示すものとなった。

CSCEから行動を伴う欧州安全保障機構としてのOSCEへ

結局、CSCEは世界におけるあらゆる問題について、とりわけ安全保障については紛争を避ける組織との理念を掲げながら、ユースラヴィア連邦解体戦争では何らの役割を果たすことはなかった。再びその組織が取り沙汰されるのは、コソヴォ紛争においてである。

94年12月、ブダペストでの首脳会議で、CSCEの理念を引き継ぐとともに行動を伴う組織へと改革が行なわれ、95年1月1日に欧州安全保障協力機構・OSCEとして53ヵ国が参加する機構となった。

OSCEはコソヴォ紛争で相互信頼ではなく当事者の一方に加担する

コソヴォ紛争は、コソヴォ解放軍・KLAがコソヴォ自治州をセルビア共和国から分離独立させることを企図して武力闘争を開始したことに始まる。コソヴォ解放軍は、97年に隣国アルバニアが政治的混乱に陥った際、それに乗じて武器を入手すると、武力闘争を本格的に展開し始めた。セルビア共和国は、かつてセルビア悪説に苦しめられたことから、コソヴォ解放軍の武力攻撃に対して本格的な鎮圧行動に乗り出すことをためらっていた。98年2月にゲルバード米特使がコソヴォを訪問し、ルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領などの穏健派の指導者を集めてコソヴォ解放軍はテロリストであり、米国政府は支持しないと伝える。セルビア共和国はこのゲルバードの発言をKLA鎮圧の容認と受け取り、治安部隊を増強して鎮圧行動を強化した。

米国はコソヴォ解放軍をテロリストから「自由の戦士」称賛へと転換

すると、オルブライト米国務長官は一転してセルビア共和国がアルバニア系住民を迫害していると激しく非難し始めた。これを受ける形で国連安保理は98年3月、ユーゴ連邦に対する武器禁輸決議1160を採択する。EUもこれに呼応して新規投資を禁止する制裁決議を採択するとともに、セルビア治安部隊に対してコソヴォ自治州から撤退するよう要求した。欧米の干渉が強くなるにつれてコソヴォ解放軍・KLAは武力闘争を活発化させ、5月には一時的にコソヴォ自治州の25%を支配するまでになる。この状況を見計らっていた米政府は、5月にホルブルック米特使を派遣してセルビア共和国に自制を求める一方で、CIAの手引きでコソヴォ解放軍の指導者に接触して組織を認知し、「自由の戦士」と讃えた。ホルブルック特使のKLA認知行動はKLAの武力攻撃をさらに活発化させることになったが、ユーゴ連邦としてはコソヴォ解放軍が自治州の4分の1を支配する事態を容認するわけにはいかなかった。

欧州安保協力機構・OSCEに紛争の正当な検証を委ねるがその任を果たさず

武力攻撃を始めたのがコソヴォ解放軍であるにもかかわらず欧米諸国はそれを非難することはなく、治安活動をするセルビア共和国への非難を強めるという偏頗性を示し、国連安保理は98年9月に決議1199を採択して即時停戦と治安部隊の撤退を命令する。セルビア共和国は、国際社会の誤解に基づく非難をかわす必要に迫られ、ロシアのイワノフ外相の助言を受け入れて欧州安保協力機構・OSCEの調査団をコソヴォ自治州に派遣するよう要請した。OSCEの中立性とパリ憲章を信じていたからである。

OSCEはなぜかこれを一旦断るが直ぐに撤回し、直ちにコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織して団長に米国の外交官ウィリアム・ウォーカー元駐エルサルバドル大使を任命した。ウォーカーがKVMの団長に就任したことで、コソヴォ紛争の去就は明白となった。ウォーカー団長は駐エルサルバドル米大使だった際、エルサルバドルの殺人部隊「アトラカトル大隊」が時の独裁政権に批判的だった教会を襲撃し、イエズス会士と娘および家政婦を銃撃して処刑することに関与した経歴を持つ人物である。ウォーカーを団長に任命したことは、OSCEの本来の設立目的である紛争の平和的解決、相互の信頼を醸成する機構としての責務を放棄したことを意味する。

ウォーカーKVM団長は米CIAや英MI6などの情報部員を引き連れてコソヴォに入る

OSCE・KVM検証団は2000人で構成されることになり、98年10月末から12月末までに1600人の検証団員が順次コソヴォ自治州に入り、全域に配備された。ウォーカーKVM団長はこの検証団の中に、米CIA要員や米軍の諜報機関員および米軍事請負会社ダインコープの社員、さらに英国の諜報機関MI6および特殊部隊SASを多数潜り込ませた。諜報員たちの目的は、コソヴォ自治州の紛争の実態を検証することにはなく、予定されていたNATO軍による空爆を誘導することおよび爆撃目標を特定するところにあり、さらにコソヴォ解放軍に衛星通信の電話を渡して空爆の標的を誘導させるという任務を担っていた。OSCEが、米国の外交政策の実行機関として利用され、貶められることになったのである。

ウォーカーKVM団長はすぐさまラチャク村事件を捏造

コソヴォ解放軍・KLAは、このOSCE検証団の配備を好機と捉え、セルビア警察や治安部隊、およびセルビア住民への攻撃を増大させた。この間のKLAの攻撃回数は500回を超えている。99年1月に行なわれたラチャク村での戦闘はその1つであり、この戦闘をウォ-カーKVM団長は高台から視察していた。ウォーカーはその際には何も言わず、翌日になってラチャク村での戦闘地区に戻り、そこに並べられていた40人の死体を見るやいなやセルビア治安部隊が虐殺したアルバニア系住民であると即断し、「セルビア治安部隊を告訴することに躊躇しない」との声明を発表した。この報を聞いたオルブライト米国務長官は連携しているかのように、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を「1939年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえ、「1999年に、こうした野蛮な民族浄化が行われることを見過ごすことはできない」と激しく非難した。セルビア悪説から脱却していないメディアも同調してウォーカー団長の発言をそのまま報じ、ユーゴスラヴィアへの空爆を許容する雰囲気を醸成した。ウォーカー団長の一瞥のみがOSCEの調査団の調査であるかの如き様相を呈し、実際の調査は無視されたのである。

専門家の調査によるとラチャク村の事件は虐殺ではなかった

ラチャク村事件の概要は、1月14日にパトロールしていたコソヴォ自治州の警察官をコソヴォ解放軍・KLAが待ち伏せ攻撃を行なって殺害した。それに対してセルビア治安警察がKLAを追跡して銃撃戦を展開し、KLAの戦闘員40人前後が死亡する。KLAはその死者を埋葬せずに、民間人の衣服を着せてウォーカーKVM団長らに公開した、というものである。

ウォーカーとともにこの死体を検証したプリシュティナのドニナ・マクシモヴィチ地方検事は、のちに「民間人の虐殺であるという判断は間違っている」との報告書を作成した。フランス人のジャック・プロドムKVM団員は、「戦争に至るまでの数ヵ月間、ペチ地域を自由に動き回っていたが、同僚の誰も集団あるいは個人が殺害や放火といった体系的迫害といえる事態には遭遇しなかった」と述べた。

フィンランドの専門家は直後に調査してラチャク村の虐殺を否定したが、2001年2月にその報告書を「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」に届けた。しかし、ICTYはそれを握りつぶした。EUの監視団もコソヴォ自治州に入っていたが、この監視団もラチャク村の事件報告書を作成してICTYに提出した。しかし、ICTYはそれを直ちに機密書類扱いにして封印してしまう。これらの複数の報告書を見る限り、コソヴォ自治州での紛争はOSCEの原則である「紛争の平和的解決、相互信頼醸成」によって解決が可能であったといえる。

OSCE・KVMの任務は紛争を回避することが本務だが空爆を誘導した

だが、OSCEのウォーカーKVM団長は、別の任務を演じてラチャク村事件を捏造し、セルビア悪を印象づけてNATO軍の空爆やむなしとの世論を誘導する役割を担ったのである。ウォーカー団長が騒ぎ立てたことによって、KVMがコソヴォ自治州全域で行なった紛争に関する実態調査報告書は無意味なものにされた。ウォーカーKVM団長にとってはコソヴォ紛争の実態に関わりなく、ユーゴ連邦への空爆の誘導が本務であったのである。

この後に設定された「ランブイエ和平交渉」は、オルブライト米国務長官がユーゴ連邦側に占領条件ともいうべき軍事条項を突きつけて拒絶させ、すべての責任をユーゴ連邦に被せてNATO軍の「アライド・フォース作戦」の発動へと導いた。このNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は、3月24日から78日間にわたって行なわれ、ユーゴ連邦が再起不能になるほどの苛烈なものとなった。後の検証では、コソヴォ紛争における犠牲者数は双方合わせて千数百人である低強度の紛争にすぎず、NATO軍が大規模な軍事介入をしなければならない事態ではなかったのである。

米国の意のままに利用されたOSCEは権威を失墜する

OSCEは欧州諸国の相互の安全を保障するために20数年かけて練り上げられたものだが、その設立理念は米国がNATO軍の空爆を誘導するために利用したことで、粉飾されていたにせよ、形式的に備えられていたはずの権威は著しく失墜することになった。以後、OSCEは影の薄い存在となっている。

それから20数年を経て、OSCEの名がメディアに登場するのは、2021年のロシアとウクライナとの紛争において、NATOがウクライナを加盟させるべく画策していることに対し、プーチン・ロシア大統領がOSCEの規定では「自国の安全を保障するために、他国の安全保障を踏みにじってはならない」はずだ、と述べたことによる。しかし、OSCE加盟国は現在57ヵ国に及んでいるが、参加国がウクライナ問題を真剣に討議する気配はない。国際社会は、OSCEよりNATOの方が重要だと考えているように見える。

<参照;コソヴォ自治州、米国の対応、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>

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18,「国際行動センター・IAC」

クラーク米元司法長官が中心となって設立

1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争終結後、イラクが石油利権をめぐって1990年にクウェートに侵攻したことに対し、米国は多国籍軍を編成してイラクに侵攻して屈服させた。この過程で多国籍軍はイラクに対して無差別爆撃を行ない、避難した民間人をもミサイル攻撃で殺害した。

この多国籍軍の武力行使に対し、ラムゼイ・クラーク米元司法長官は、92年2月に湾岸戦争に関する戦争犯罪を裁く民間法廷、「ラムゼイ・クラーク法廷 - イラク国際戦争犯罪法廷」を開いた。その法廷を運営する過程で国際行動センター・IACが設立された。設立当初は、ラムゼイ・クラーク米元司法長官がIACの代表を務めたが、のちにサラ・フランダースが共同代表となる。IACは設立以来、戦争反対の立場から、国連や米政府に対して提言するなど積極的な働きかけを行なってきた。湾岸戦争後のイラクへの経済制裁に反対し、イラクへの飛行禁止空域設定と空爆に対して中止するよう抗議声明を出した。さらに、湾岸戦争で大量に使用された「劣化ウラン弾」による疾病のメカニズムや被害状況および米軍などの対応について詳細な調査研究を行ない、「劣化ウラン弾 - 湾岸戦争で何が行なわれたか(Metal of Dishonor Depleted Uranium)」を発刊している。

NATOおよび米国の戦争犯罪を裁く民衆法廷を開く

1999年5月、国際行動センター・IACはNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆の最中に現地に入り、NATO軍の空爆の非道な実態を告発した。IACは「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の設置当初からNATOの影を指摘し、批判を加えてきた。2000年6月、IACの呼びかけで「米国・NATOのユーゴ市民に対する戦争犯罪を裁く国際法廷」をニューヨークで開催し、米国とNATOの政治・軍事指導者に有罪判決を下した。01年5月には、朝鮮戦争における国連軍の戦争犯罪を裁く「コリア国際戦犯法廷」の開廷に参画する。

2001年の9・11事件が起こされると、被災者に対する哀悼の意を表するとともに、新たな侵略戦争に強い反対の意向を表明する声明を発表。10月には、米国が9・11事件の首謀者を「アルカイダ」がと決めつけ、アフガニスタンの「タリバン」政権がアルカイダを匿っていることを理由にアフガン攻撃を開始する。それに対し、アフガニスタンへの攻撃は中央アジア支配を企図するものだとして、爆撃の中止を要求する声明を発表した。

さらに、米国が9・11事件に絡めてイラクがアルカイダと密接な関係があるとの風説を流しつつ、イラクが国連安保理決議に違反して大量破壊兵器を所有しているとの怪しげな言説を主張したことに対し、2003年3月にANSWERを組織し、アメリカ全土で15万人のイラク戦争反対集会を開催する。その後も、イラクからの米軍の撤退を要求する米国内での行動を組織した。

ICTYにおけるミロシェヴィチ裁判の弁護活動を行なう

2001年7月にミロシェヴィチ前ユーゴ大統領のICTYの裁判がハーグで始められると、ラムゼイ・クラーク代表が被告側の特別補佐人となり、IACとともに弁護活動を精力的に行なう。法廷の裁判官と検察官による様々な妨害にもかかわらず、証人尋問と弁護活動によりミロシェヴィチ元大統領の罪状が殆ど風聞によるものであることは明らかになりつつあった。ところが、ICTYがミロシェヴィチ・ユーゴ元大統領の心臓病の悪化を仮病として治療申請を無視して放置したため、ミロシェヴィチ元大統領は誰に見とられることなく06年3月に獄死させられた。ラムゼイ・クラークを中心としたIACなどの弁護活動は完結しないまま終結したが、1年後の07年に国際司法裁判所・ICJは、ボスニア内戦およびスレブレニツァ事件について、セルビア共和国が直接関与した証拠はないとの判断を示し、IACのミロシェヴィチ元大統領に対する弁護活動の正当性を補完した。

2005年5月、国連チャーチセンターで開かれた、「劣化ウラン廃絶に関するワークショップ」ではIACが中心的な役割を果たした。07年3月、「恒久民族民衆法廷」の設置を世界のさまざまな団体とともに提唱する。

<参照;クラーク、ラムゼイ・クラークの国際戦犯法廷、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>

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19,「国際危機グループ・ICG」

投資家のジョージ・ソロスが設立した西側の権益擁護組織 

ICG(International Crisis Group)1995年、投資家のジョージ・ソロスと米大使や国務次官補を歴任したモートン・アブラモヴィツらが設立し、ベルギーのブリュッセルに本拠を置いた。表向きは、諸国政府や財団の寄付でまかなう国際的非政府組織いわゆるNGOである。世界の18ヵ所に支部が置かれている。

組織の目的は、「国家が反乱や暴動が拡大する危機に陥った場合、政治的アナリストを派遣し、高度の政策提言を通して致・命的な紛争に至る前の段階で解決に努力する」というものである。一見公平・中立的な政治目標を達成する組織のように見えるが、当初の目的は「主として、NATO主導のバルカン再編に関与する諸政府に政策指針を提供するために設置を考案した」シンクタンクである。米国の国際行動センター・IACのサラ・フランダース共同議長は、「NATO軍が率いるバルカンの再編を指導・手引きするために、ジョージ・ソロスが設置したシンクタンクだ」と批判している。

ユーゴスラヴィア連邦の解体を組織の目的に掲げる

フランダースの指摘にあるように、ICGは「ユーゴ連邦の解体、ミロシェヴィチ政権の打倒、コソヴォ解放軍・KLAへの支援、コソヴォ自治州の分割、NATO軍のユーゴ連邦攻撃を応援、戦犯の逮捕」を目的に掲げ、ユーゴ連邦の解体に寄与した。コソヴォ自治州の統治権限をユーゴ連邦から剥奪した翌2000年に、オーストラリアの元外相だったガレス・エバンスがICGの会長に就任している。ガレス・エバンスは外相の任にあった際、インドネシアのスハルト軍事独裁政権の東チモール武力併合を擁護した人物である。彼が併合を擁護した思惑の中には、東チモール海に埋蔵されている石油と天然ガスの利権獲得が念頭にあったことは疑いない。ICGは、2000年にコソヴォ北部のヨーッロッパ有数のトレプチャ鉱山と精錬所をセルビアの企業から取り上げ、KLAに引き渡すという利権工作もしている。そしてこのトレプチャ鉱山は、世界有数の米非鉄金属会社フリーポート・マクモラン社の投資の対象となっている。

2005年1月、ICGは「コソヴォの最終的地位に向けて」という報告書を作成する。この報告書は、コソヴォ自治州の独立を最終的地位として強調し、欧米は連携にもっと配慮すべきだとしている。この報告書をメディアに配布したのは、コソヴォのプリシュティナにある米国務省の出先機関である。国連は「コソヴォの最終地位確定」の特使にマルッティ・アハティサーリ・フィンランド前大統領を選定し、彼はICGの報告書の筋書き通りのコソヴォの最終解決案を作成してコソヴォ自治州の独立に関与した。

西側諸国の資本の利益を管理する

その後、ICGの共同議長にクリストファー・パッテン元香港総督が就任し、理事には軍事専門の投資会社カーライル・グループのフランク・カールッチ名誉会長・米元国防長官、ブレジンスキー米元大統領安全保障問題担当補佐官、ウェズレイ・クラーク元NATO軍最高司令官、そしてコソヴォの最終解決案を提示したアハティサーリ元フィンランド大統領などが名を連ねている。ICGは「クライシス・ウォッチ」なる月刊誌を発行し、暴動の起こる可能性のある世界の地域などについての概説を発表している。

アーバー旧ユーゴ国際戦犯法廷・元ICTY首席検察官は西側の利益に貢献したとしてCEOに

ガレス・エバンスICG会長の後任として、ICTYの首席検察官だったルイーズ・アーバー前国連人権高等弁務官が2009年にCEO兼任として就任した。

ルイーズ・アーバーは、ユーゴ連邦解体を画策したジョージ・ソロスが資金援助した「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の首席検察官に選出されると、1999年のNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の最中の5月に、風聞を証拠としてミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を起訴するという西側体制への迎合ぶりを示した人物である。その後、カナダ最高裁判事、国連人権高等弁務官を経て、ジョ-ジ・ソロスが設立した危機管理グループ・ICGの会長に迎えられたのである。この人事の循環を見ると、ユーゴスラヴィア連邦の解体が、西側諸国の国際的枠組みによって実行されたものであることが透けて見える。

ICG設置の当初の目的であったバルカン半島の分割支配が達成したことを勘案すれば解散しても良いと考えられるが、現在もなお存続し、米・英・独・加・豪・日など22ヵ国から資金提供を受けて運営している。当初のバルカンから世界レベルの危機管理、即ち西側諸国の資本の利益を管理することに転換したからである。

<参照;アーバー、ソロス、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY>

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20,「ビルダーバーグ会議」

社会主義圏を崩壊させる目的で設立

「ビルダーバーグ会議(Bilderberg Conference)」は、英国王立国際問題研究所の発案で1954年に設立された。オラン

ダのベルンハルト公を議長として第1回の会合をビルダーバーグ・ホテルで開いたことからこの名称が用いられている。当初の目的は、「ソ連圏を崩壊させる」ところにあった。毎年1回開かれるが、この会議は極めて秘密主義で、招かれるのは西側の国王、大統領、首相、大臣、大使、大企業のオーナー、金融財閥などの130人前後に限定されている。会議の参加者は、メモや録音をしてはならず、会合の内容を外部の者に漏らしてはならないという厳しい禁止規則に縛られている。

国際機関に影響力をおよぼす

厳しい秘密主義であるためにその概要を知ることも困難だが、調査したダニエル・エスチューリンによると現在の目標は、「1,知的エリートによる金融システム、メディア・システムにより世界政府ないし、世界支配機構を設立すること。2,多国籍企業の利権を国家主権の上位に置き、国境を越えて世界の国民に奉仕させること。3,世界単一宗教を受容させること。4,国民総背番号制および人体埋め込みマイクロ・チップを施して個人を監視すること」などである。国民総背番号制とマイクロ・チップの人体への埋め込みは一部実施されており、世界政府と宗教の項を除けば新自由主義市場経済の綱領でもある「ワシントン・コンセンサス」と内容が酷似している。

ビルダーバーグ会議の影響下にある国際機関は、エスチューリンによると「1,国際連合・UN。2,米国政府。3,欧州連合・EU。4,世界銀行・WB。5,国際通貨基金・IMF。6,欧州中央銀行・ECB。7,世界貿易機関・WTO。8,NATO。9,ローマクラブ。10,経済協力開発機構・OECD。11,米外交問題評議会・CFR。12,世界経済フォーラム・WEF。13,世界保健機構・WHO」などの主な国際機関である。

ビルダーバーグの世界操作

ビルダーバーグ会議が画策した一般に知られている事例は、「1,73年のオイルショックに関し、スウェーデンのサルトヨバーデンでの会議で原油価格を3.5倍に値上げすることに合意し、それをOPECに実行させた。石油メジャーは莫大な利益を上げたが、世界の経済は混乱し、疲弊した。2,1978年、イタリアのアルド・モロ首相を赤い旅団に殺害させた。モロ首相が推進したイタリアの繁栄と安定政策を望まなかったためといわれる。3,中東の安定を望まず、不安定化を画策した。4,レーガン米政権に戦略防衛構想・SDI、スターウォーズ計画を採用させた。5,2003年のイラク戦争では、米国は02年に開戦する意向を持っていたが、それを03年3月まで延期させることで合意させた。6,ユーゴスラヴィア問題に関しては、ユーゴ連邦の分割および国境線の引き直しの素案をつくり、これを実行させた。7,セルビア共和国のコソヴォ自治州問題では、セルビアからコソヴォを分離し、国連の信託統治にした後にアルバニアに編入する計画を立案した。8,セルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州は、ハンガリーに返却する。9,コソヴォ問題を解決するために、ギリシアとトルコ間にキプロスをめぐる戦闘を起こさせて、それをバルカンにまで拡大させる。10,ケベック州を除くカナダ全土をアメリカに統合する」などという途方もないことも検討されていた。しかし、この計画案のいくつかはリークされたために中止された。ビルダーバーグ会議そのものは権力を持つ組織とはいえないが、英王立国際問題研究所・RIIA、米外交問題評議会・CFR、日米欧三極委員会・TLCとも密接な関係があり、影響下にある組織を操ることで、支配層の権益の確保を目標としている。

<参照;米国の対応、NATOの対応>

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21,「ヒューマン・ライツ・ウォッチ・HRW」

ソ連圏の人権侵害を告発するために設立された団体

HRW(Human Rights Watch)は、1978年に人権宣言「ヘルシンキ宣言」が出されたことに呼応してフォード財団からの資金の提供を受け、米国ヘルシンキ・ウォッチ委員会として発足したNGOである。初期の目標は、ソ連圏の社会主義諸国の人権問題の監視活動であり、それを通してソ連圏の弱体化および東欧との結び付きの離反を図ることに置かれた。88年に幾つかのNGOを統合して「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」に改組する。運営は寄付によって賄われているが、2006年の収入は3980万ドルという巨額なものである。

以来、HRWは世界での人権侵害に対して積極的な発言をしてきている。しかし、そのメンバーの中には、米元国務省高官のモートン・アブラモヴィツ、ウォーレン・ツィンマーマン米元駐バチカン大使、ジャック・マトロック米元駐ソ連大使、ビル・グリーン米共和党元下院議員、ハーバート・オークン米元国連大使、ファンドマネージャーのジョージ・ソロスなどを含み、西側支配層の利益を損なうような事例についての発言は極めて巧妙に避けて来た。

戦争は最大の人権侵害だが、米英が支持する側であるイスラエルなどや米英が直接行なう戦争に対しては批判を避け、対象となる国および集団・組織や第3者の行為に対してのみ厳しく批判してきた。人権に対する捉え方にも政治的な偏向が拭えず、1991年に行なわれた湾岸戦争ののちの米国主導の経済制裁で、イラクの子どもが飢えや疾患で50万人死亡した事柄に対してオルブライト米国務長官が「それに値する」と切って捨てた発言に、HRWは何らのコメントもしなかった。

ユーゴ解体戦争では最大の人権侵害である戦争を焚き付けたHRW

1995年7月、ヒューマン・ライツ・ウォッチの執行理事ケネス・ロスは記者会見で、「ボスニアでの罪のない民間人の大虐殺を終わらせるために、多数の国による行動をとるときが来た。それから逃げるのではなく、力の行使がなされなければならない。とりわけ、アメリカの指導力が必要とされている」と述べ、27の非政府組織が署名した形式の手紙を読み上げて武力行使を煽った。直後の8月にNATO軍が「デリバリット・フォース・作戦」を実行するが、HRWはNATO軍が国連安保理決議を回避して実行した軍事行動に対する免罪符を与える役割を果たしたのである。

クロアチア共和国が、95年5月から8月にかけて実行した「稲妻作戦」および「嵐作戦」でクロアチアに居住する20数万人のセルビア人住民を無差別に攻撃して追放した民族浄化ともいうべき作戦に対しては、「セルビア人住民は自発的に整然と退去した」と、まるでクロアチア政府軍の戦闘行為が存在しなかったかのように擁護したばかりか、国連のクロアチア軍批判に対して逆に国連を非難した。HRWは数量操作をも行ない、ボスニア内戦の犠牲者について20万~30万人説を吹聴してセルビア人勢力非難の根拠としたが、ボスニアの「研究・文献情報活動センター」の詳細な調査で犠牲者は10万人以下であることが明らかになっても、その初期に唱えたセルビア悪説に結びつけた死者数を訂正する努力はしていない。

NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の苛烈さについては受容

99年3月24日に発動されたNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆では、民間人の被害を過小に発表する。この時の空爆による民間人の死者は、複数の調査によると1200~1500人であり、セルビア共和国の公式推計では1800人であったが、HRWは500人と少なく見積もって発表している。NATO軍はユーゴ・コソヴォ空爆において、学校、病院、キリスト教の中世の教会などの宗教施設、発・送・配電施設、上下水道、メディアセンター、交通機関、橋梁、工場、化学工場、肥料工場、農場、農作物、家畜など生活基盤となるものも徹底的に空爆によって破壊したが、この事実に対してアムネスティ・インタナショナルは批判したが、HRWは何らのコメントも発表しないという明らかな偏向ぶりを示した。

ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」にも深く関与している。ユーゴ連邦解体戦争の責任はすべてベオグラードのセルビア人指導部にあると公言し、その主張に合わせるための裏付けのない証拠集めをして膨大な研究報告書らしき体裁を整え、ICTYへの影響力を行使している。

HRWは西側の利益を擁護する立場から告発する

人権擁護団体を称するのであるならば、最大の人権侵害をもたらす戦争を回避する主張を唱えると考えられがちだが、HRWは人権擁護の名における戦争を煽ることを厭わない。米・英・豪の有志軍がイラクを攻撃する1年前の2002年3月、HRWのケネス・ロス執行理事はウォールストリート・ジャーナルに「サダムを起訴せよ」との論文を掲載した。米・英がイラク侵攻計画を作成していた時期に、サダム・フセイン大統領が犯罪者であることを印象づけ、戦争に突入した場合の戦争犯罪行為に弁明の余地を与えることを志向してこの論文を執筆したことは疑う余地がない。

2003年のイラク戦争による被害についても、英国の医学誌「ランセット」が03年3月の開戦以来18ヵ月で戦争による死者が10万人に及ぶと発表した際にも、加害側が米・英・豪有志軍であるが故にその論考を見もせずに、HRWの上級軍事評論家マーク・ガルラスコは、「この調査結果は、著しく誇張され、重複勘定のため膨張傾向にある」として空爆を擁護した。

人権団体であることを表明しつつ偏見を助長するHRW

非人道的な兵器についても、それを西側諸国が使用するものである限り批判しない。クラスター爆弾は爆発すると広範囲な対象物を破壊し、多くの人たちを殺傷するだけでなく、残留爆弾として子どもや農作業をする人々を長期にわたって殺傷する人命・人権・人道に反する兵器であるが、HRWはその使用を批判したことがない。劣化ウラン弾についても同様である。クラスター爆弾については、HRWの思惑を超えて2010年8月に使用が禁止される条約が発効した。

HRWは、米英およびNATO諸国やイスラエルが関わりないところでは、それなりに人権侵害への警告を発信している、というのがこの組織の特質である。

<参照;ICTY、ジョージ・ソロス、NATOのユーゴ・コソヴォ空爆>

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22,「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」

ICTYは国連安保理決議によって設置された特殊な機関である

正式名称は「旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所・International Criminal Tribunal for the Former Yugoslavia」あるいは「1991年以後、旧ユーゴスラヴィアの領域内で行なわれた国際人道法に対する重大な違反について責任を有する者の訴追のための国際刑事裁判所(International Tribunal for the Prosecution of Persons Responsible for Serious Violations of International Humanitarian Law Committed in the Territory of the Former Yugoslavia since 1991)で、93年5月に国連安保理決議827によって設置された。2017年12月21日に閉廷式典が開かれ、残された裁判は国連に設置された国際刑事裁判メカニズムなる特別法廷が継承する。

組織は裁判局と検察局、事務局からなる。裁判局は裁判官と補佐たちで構成する。検察局は捜査や証拠収集などのスタッフを抱える。書記局はICTYの運営を担当する。

設置の目的は、1991年1月1日以後の旧ユーゴスラヴィア領域内で行なわれた人道法違反について責任を有する個人を訴追・処罰すること、および旧ユーゴスラヴィアにおける和解を促進することにより平和再建に貢献する、というものである

犯罪対象は、「1,ジュネーブ条約の重大な違反となる行為。2,戦争放棄・慣例の違反。3,ジェノサイド罪。4,人道に対する罪」である。

ユーゴ連邦解体戦争は民族主義者の利己的な思考によって始められた

ユーゴスラヴィア解体戦争は、ユーゴ連邦の中で比較的裕福なスロヴェニアとクロアチアの民族主義者が、ユーゴ連邦から分離独立した方が有益であると思考したことに根源があった。

91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立宣言を強行したことによって、民族間の対立が先鋭化して武力紛争が発生した。スロヴェニアは独立宣言とともにスロヴェニア内のユーゴ連邦の施設を武力で接収し、第5軍管区としてスロヴェニアに駐屯していたユーゴ連邦人民軍を侵略軍と決めつけて撤退を迫った。これに対し、ユーゴ連邦政府は連邦の施設を確保するために、スロヴェニアに2000人の連邦人民軍を送る。ユーゴ連邦人民軍は民族混成部隊であり、戦闘をするつもりはなかった。しかし、スロヴェニア政府は「全人民防衛体制」によって配置されていた「領土防衛隊」を基礎として3万5000人を擁する共和国の軍隊に編成替えをしており、その圧倒的な戦力で迎え撃ち、連邦人民軍の兵士の多くを捕虜にして10日間で勝利を収める。これがスロヴェニアの10日戦争である。

一方、クロアチアではクロアチア政府の分離独立宣言の動向に対して、セルビア人住民は自治区を設立するなどの対抗をして一触即発の状態にあった。クロアチアのセルビア人住民が敏感に反応したのには、第2次大戦中の「クロアチア独立国」が純粋クロアチア人国家建設のためにセルビア人住民など少数民族を虐殺した悪夢を甦らせたことがあった。

EC諸国は、戦乱の拡大を防止させるためにユーゴ連邦政府とスロヴェニアおよびクロアチア共和国政府を招聘して和平会議を開き、独立宣言を3ヵ月間凍結する「ブリオニ合意」を受諾させた。しかし、ドイツとバチカン市国はこの3ヵ月の凍結期間を冷却期間としかとらえず、スロヴェニアとクロアチアの独立を唆し、ドイツは単独で91年12月23日に両国の独立を承認し、それに続いてバチカン市国は92年1月13日にEC諸国に先駆けて独立を承認してしまう。EC諸国もこれに引きずられるようにして1月15日に両国の独立を承認した。このことがクロアチア・セルビア人共和国を設立させる契機となり、3年余にわたる紛争を誘発させることになる。のちにフランスの外相は、この進行状況について、「ドイツの強引さに引きずられた」と述懐した。

イゼトベゴヴィチの強引な独立宣言がボスニア内戦の原因

スロヴェニアとクロアチアでの武力紛争を目の当たりにしたボスニアには慎重さが求められるはずだが、民族主義者でありムスリム主義者のイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)は、ムスリム人としての自民族の権益を優先した。1991年の時点におけるボスニアの民族構成は、ムスリム人が43%、セルビア人が31%、クロアチア人が17%、その他8%と民族が最も混住した地域であったから、対立が先鋭化すれば武力衝突が起こることは充分に予測できた。しかし、イゼトベゴヴィチはそのような思慮をめぐらすことができる人物ではなかった。

彼は国際社会がスロヴェニアとクロアチア両国のユーゴ連邦からの分離独立を承認すると、セルビア人住民の反対を押し切り、2月末にムスリム人とクロアチア人のみで住民投票を強行し、3月3日にボスニアの独立を宣言してしまう。この背景には西側諸国が「バダンテール委員会」や外交ルートを通じてイゼトベゴヴィチ大統領に、形を取り繕うための住民投票を勧奨していたことがあった。このボスニア政府の行為がボスニアのムスリム人住民、クロアチア人住民、セルビア人住民の3民族の対立を決定的にした。それ以後、3民族はそれぞれの支配領域の拡大を図り、内戦に突入していく。

当初、セルビア人勢力が武器を多量に確保したことおよび統制のとれた戦術を行使したこともあって、戦闘はセルビア人勢力側が優勢に進んだ。国際社会は、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領に住民投票の実施を強行させて対立の原因をもたらしたあやまちを糊塗するためか、セルビア人勢力側を激しく非難する。

ICTYの設置は欧米の政治的意図を推進するのが目的

1993年2月22日国連安保理は、1991年以降の旧ユーゴスラヴィア領域内の紛争に伴い、集団殺害(ジェノサイド)や民族浄化等の人道法違反事件が発生したことに対処する必要性を唱え、「1、国際人道法違反に対して責任を有する者の訴追のための国際裁判所を設立すべきこと。2、設立する裁判所の詳細につき事務総長が報告書を提出すことを規定」する決議第808号を採択。その決議に基づき、国連事務総長は裁判所規定などを提出する。

93年5月5日、ガリ国連事務総長が旧ユーゴの戦争犯罪を裁く「国際法廷」の構想を安保理に報告。5月22日、米・英・仏・露・スペインの5ヵ国の外相がワシントンに集まり、ボスニア紛争に対する「アクション・プラン」を策定して共同声明を発表。その中に、ボスニア紛争の戦争犯罪を裁くための国際戦争犯罪法廷の早期設置が盛り込まれていた。このときの米・英・仏・露・スペイン5ヵ国の外相たちの関心はボスニア内戦におけるセルビア悪に基づくセルビア人勢力の犯罪を裁くことにあり、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争全般のことは念頭になかった。

3日後の5月25日に開かれた国連安保理では、旧ユーゴスラビア連邦で起きた「国際人権法規の重大な違反」を訴追対象とすると枠が広げられ、国際法廷の設置に関する安保理決議827を全会一致で採択する。決議には、旧ユーゴスラヴィア国際裁判所規程と裁判所をオランダのハーグに設置することが含まれていた。

ICTYは国連安保理の下部の政治的機関で存立根拠の国際法も国際条約もない

裁判所規定によると、組織は裁判局と検察局、書記局に分かれ、裁判局は第1審裁判部と上訴審裁判所で構成されることになる。書記局の職員は最大でおよそ1200名に及んだ。

ICTYは安保理決議によって国際法廷の体裁を整えたように見えるが、国連憲章には国際司法裁判所・ICJ以外に刑事裁判所を設置する規程はなく、安全保障理事会の規定にも国際法廷を設置する権限付与の条項はない。ICTYを設置する国際条約も存在しないことから、ICTYは条約に基づく国際刑事法廷ではなく、安保理の下部に属する政治機関といえる。

政治学者のダグラス・ラミスは、この裁判所の設立根拠に疑問を呈している。即ち、「歴史上かつてない政治体制が創設されようとしている。国連憲章第7章にはその設置根拠はない。国連が逮捕し、起訴、収監する権限を持つならば、国家にのみ許されてきた主権を帯びることになる。ICTYそのものが法律の作り手になっている」と法廷の設置と存在のあり方に疑義を呈した。

アムネスティ・インタナショナルは、「残念ながらこれまでの経緯から言って、臨時法廷は特定の国の政治的利益のために開設され操作されることが多すぎる。臨時法廷は真の独立性や不偏不当性を持たず、国際法においてきちんと確保されている正義と公正の基本要件を満たさない危険性が高い」と警告した。この警告は、ICTYの本質的問題を剔抉していたといえる。

1993年7月、アメリカ法律家協会・ABA特別調査団は、「旧ユーゴスラヴィア国際法廷に関する報告書」を作成し、150件の全般的および個別的懸念を指摘し、勧告を行なった。しかし、安保理がICTYの問題点としてこれらの提案を真剣に討議することはなかった。

つまるところ、ICTYは国際法に基づいた国際裁判所ではなく、安全保障理事会が設置を決めた国際法廷の外形を取り繕った政治機関ということになる。この政治的機関であることがICTYの運営にも色濃く反映され、先進強国の思惑に沿った政治的断罪が行なわれる要因となった。ICTYは、存立基盤への疑義が呈されたことにとどまらず、運営についても次のような問題点があった。「1,伝聞証拠の恣意的使用を許可したこと。2,法医学的証拠の完全な欠如を許容したとはいえないまでも、その根拠のあやふやな提出の条件を大幅に緩めたこと。3,被告側が証人に反対尋問する権利を大幅に削減したこと。4,被告が原告と直接対決する権利を制限したこと。5,法の下の保護の平等、即ち被告の基本的な権限が無視されたこと」などである。

ICTYはこれらの問題をはらんだまま開設され、始動した。

国連機関の関与を強めても国際法上に認められた裁判所とはならない

この時期、ECが設置した「旧ユーゴ和平会議」や国連による和平交渉など和平への取り組みが精力的に進められており、それを妨げかねない国際刑事法廷を設置する必然性はなかった。にもかかわらず、拙速に設置を強行した背景には、内戦の違法行為を公正に裁くことにはなく、ユーゴスラヴィア連邦を威圧することによって米国の政治的影響力を行使し易くするところにあった。これを推進したのは、クリントン米大統領とイーグルバーガー米国務長官およびオルブライト米国連大使(のち国務長官となる)である。クリントン米大統領は、92年の大統領選の際、ブッシュ現大統領のユーゴスラヴィアへの関与について微温的であると批判し、関与を強めると主張していた。クリントン米大統領は93年1月に就任すると選挙戦における公約を実施するために、ユーゴ問題への関与を強めていくことになる。

一方、ICTYは速成で設置が決められたことから国連安保理にはそれに充当する予算がなかった。そのために、法廷を設置し、運営する費用を外部の寄付に頼らざるを得ず、かねてからユーゴ連邦解体に深く関わっていた投資家のジョージ・ソロスなどの個人を含めて米国側が負担した。経費の負担に伴って、スタッフの大勢は米国人に占められることになる。

国連安保理は、93年8月に初代の首席検察官としてベネズエラの法律家ラモン・エスコヴァル・サロムを事務総長の指名に基づいて任命し、11月には判事11名の名簿を提出し、国連総会はこれを承認した。サロム首席検事がハーグに赴任してみると、スタッフも揃っておらず、調査資料も全く存在しないような状態だった。彼はこのありさまを見て間もなく辞任してしまう。

ICTYの起訴の根拠は伝聞情報が主なものだった

ボスニア政府はICTYが政治的機関であるが故に利用できると考え、早速レイプが2万件あったとの報告書を具体的な証拠を示さずに旧ユーゴ問題専門家委員会に提出した。専門家委員会の委員長に就任していたオランダの国際法学者カルショーフェンは、このレイプ事件に関する証拠の法的信用性を批判した後、専門家委員会を去った。カルショーフェンは法学者として、一方的な伝聞に類するものを証拠として採用させようとした圧力に堪えることを潔しとしなかったのである。

ICTYはカルショーフェンの辞任などに委細構わず、ニューズ・ウィーク誌が93年1月にレイプに関する特集を組んだ記事を、証拠として取り込むという粗雑さを示した。ICTYはメディアと同様、一方的な情報や伝聞を証拠として採用せざるを得ないほど機能の乏しい体制だったのである。とはいえ、捜査官の中にはクロアチア情報センター・CICのようなプロパガンダ機関から出された疑義のある資料を封印した者もいた。この取り扱いの仕方を考量すれば、宣伝文書や伝聞情報のすべてを証拠として採用していたわけではない。

国連・安保理はICTYに実績を上げることを要請した

当初、ICTYの裁判局と検察局の間には、運営方針について微妙な緊張関係があった。裁判局の裁判官たちは、実績を示すために上位の責任者から裁きたいという思惑を抱いていた。検察局としては、戦争犯罪の証拠をほとんど掌握していなかったこともあり、また大物を法廷に引き出す手立てもなかったことから、末端の戦争犯罪を裁くことによって証拠を下から積み上げていく手法を採らざるを得なかった。このためICTYの内部ではぎくしゃくした関係が続いていた。その上、検察局は、国連安保理やメディアなどの外部からの要請にも応えなければならない切迫感にとらわれていたのである。このような雰囲気の中で、ICTYはドイツ当局が伝聞情報をもとに逮捕し、起訴していたセルビア人のドウシコ・タディチを起訴第1号とすることにした。

ドイツ当局はあやふやな告発を受けてタディチを逮捕

タディチは、ムスリム人が92%を占めるコザラツの町で、カフェ・バーを経営しながら日本の「カラテ」を教えて日常の生活を営んでいた。当然ながら、圧倒的なムスリム人の町でカフェ・バーを経営していたことからバーの客やカラテの教え子もムスリム人が多く、隣人たちとも良好な関係を築いていた。そのため、ボスニアが独立を宣言して以来の民族対立を憂い、近傍のプリエドルのセルビア人のナショナリストたちと対立した。過激なセルビア人ナショナリストたちは、プリエドルとバニャ・ルカの途中にあるコザラツの町のムスリム人を排除することを企図していた。それを実行に移すにあたって、武力行使に反対するタディッチは邪魔な存在になった。身の危険を感じたタディッチは、92年5月に家族とともに列車でバニャ・ルカに避難する。ほとんど同時にセルビア人勢力はコザラツへの攻撃を始め、町に砲撃を加えて破壊し、ムスリム人を排除しつつ拘束もした。その後、タディチだけは近傍の町プリエドルに戻る。タディッチはムスリム人排除には関与していなかったのである。

ニューヨーク・タイムズ紙が掲載したガットマン記者のブラック・プロパガンダが影響を与える

その直後の92年8月に、ニューヨーク・タイムズ紙のガットマン記者はクロアチアのザグレブに滞在して現場に足を踏み入れることなく、噂とムスリム人などから得た一方的な情報でオマルスカ収容所の非人道性を誇張して記事にした。この記事は国際社会を憤激させるに充分な効果を発揮する。一部のナショナリストや民兵たちが、収容者に対して残虐な行為をしたことのすべてについて否定はし得ないにしても、絶滅収容所に譬えるガットマン記者の記述はフェイクニュースかプロパガンダに類するものと言って良い代物だった。

しかし、ガットマン記者の記事を見たメディアはそれを事実だと受け取り、カラジッチ・セルビア人共和国大統領が許可したこともあってオマルスカ収容所に取材陣が殺到した。しかし、強制収容所と決めつける証拠を探し出すことはできなかった。

ところが、93年2月に、ドイツの国営TVのクルーもプリエドルに取材に現れる。その時、プリエドルを支配していたセルビア人のナショナリストらは自らが行なった非道な行為の罪状をタディッチに被せることを企み、TVクルーにタディチを取材するように勧めた。ドイツのTVクルーはタディチに取材を申し入れるが、タディチはオマルスカ収容所に足を踏み入れたことさえなかったことから取材を拒否した。タディッチに焦点を合わせることに決めていたドイツの取材クルーはタディチの姿を密かに映し、オマルスカ収容所の番組の中でモンタージュして放映した。この放送が、ドイツの国内世論に甚大な影響を与える。

タディチはそのことを十分認識しないままに、93年8月に兄のいたドイツのミュンヘンに家族を送り出し、当人も戦乱を避けるためとナショナリストたちの迫害から逃れるために、兄のところに身を寄せることにして11月にはユーゴスラヴィアを脱出してミュンヘンに向かった。

一方、ドイツ当局は、国営TVの影響を受け、難民登録に殺到していたムスリム人からタディチの情報を聞き取っていた。ムスリム人は難民登録をするに際し、自らの被災状況を説明するに当たっていずれも誇張を交えつつ、タディチに姿形が似ていた者の犯行をタディチに虐待されたと言い立てた。ドイツ当局は、タディチがオマルスカ収容所で残虐な行為を働いたとの難民の証言を真に受ける。そして、ドイツ当局は94年2月に路上で彼を逮捕する。ドイツ当局のタディチに対する処遇は、国際人権規約に規定する「推定無罪の原則」とはかけ離れたもので、手錠や足鎖をはめて階段を上り下りさせるなど、重罪人として扱った。ドイツ当局がタディチを逮捕した目的は、彼を戦争犯罪者として国内法で裁くことにあり、その意図にしたがって、彼を起訴した。

実績を上げることを焦ったが故に不正義を体現したICTY

ICTYは設置されて1年近くを経ているにもかかわらず、実質的な審理に取りかかれないでいた検察局はこのタディチに多大な関心を示し、94年4月に彼を起訴第1号とするとともにドイツ連邦当局に身柄引き渡しを要求した。ドイツ当局はタディチの身柄引き渡しを渋ったものの、結局ICTYに引き渡した。ICTYはドイツからタディチの身柄を引き受けはしたが、彼の罪状についての証拠は何一つ把握していなかった。事態を打開するためには、証人を捜し出して証拠を固めることから始めなければならなかったのである。タディチを起訴するか否かについてはICTY内にも異論があったが、94年11月には国連の行財政問題諮問委員会・ACABQから実績を上げなければ、次年度の予算は計上しないことになると示唆された。内外との緊張関係の中で検察局として要請に応えるためには、伝聞情報であれ、宣伝文書であれ、何でも証拠として取り込み、その者の地位にかかわらず戦争犯罪者として起訴しなければならない切羽詰まった状況に置かれていた。そこで、ICTYの検察局は実績を示すために、ボスニア・セルビア人勢力の責任者でも指揮官でもない小者といえるタディチを、伝聞情報を基に起訴第1号に据えた。これはICTYの設立目的に照らしても、著しくかけ離れた措置といえる。

メディアは、ICTYの起訴第1号であることから、「セルビアの屠殺者」などとの見出しを付けてセンセーショナルに報じた。ICTYの起訴状には、タディチがオマルスカ捕虜収容所、ケラテルム捕虜収容所、トゥルノポリェ収容所で被収容者たちを殴打し、殺害し、セルビア人勢力軍の1分派が92年5月から始めたコザラツおよびプリェドル攻撃の際にムスリム人虐殺に関与した、との34の罪状が記載された。これほどの場所を渡り歩いて犯罪を起こすこと事態、超人的な能力が必要だが、そのためタディチは超能力的変質者と位置づけられた。タディチ自身は、トゥルノポリエ収容所には5回ほど行ったと述べたが、オマルスカ捕虜収容所にもケラテルム捕虜収容所にも足を踏み入れたことはないと証言している。トゥルノポリェ収容所は赤十字国際委員会・ICRCが視察している開放的な収容所で、収容者は自由に出入りが許されており、虐待など起こり難い場所であった。またタディチは、セルビア人勢力がコザラツ攻撃を行なった92年5月には50キロ離れたバニャ・ルカにいたと述べ、一貫して無罪を主張した。

起訴第1号のタディチは否応なく有罪とする

ICTYとしては、起訴第1号であるが故に有罪としなければ、存在意義そのものが問われかねない事情を抱えていた。そのため、ICTYの訴訟指揮は、本人の陳述を虚言として退ける予断が支配した裁判であった。一審の法廷には115人の証人が出廷し、500以上の証拠が提出されている。ところが、レイプに関する証人が土壇場で断ってきたり、虐殺を目撃したとして証言台に立った証人が、ボスニア当局に脅迫されて偽証をしたことが明らかになったりして彼が現場にいたかどうかを特定することさえ困難を極めた。タディチの無罪を立証する可能性のある証言者の中には、「彼をオマルスカ収容所で見掛けたことはない」との証人も複数いたが、それらの証言は尽く無視され、あやふやな証人の証言のみが真実だとされた。96年11月に出された判決では、34の罪状ではなく、9つの罪障のみを有罪として重罪者として20年の拘禁刑が科せられた。双方が控訴した上級審では、さらに罪状が加えられ拘禁刑25年の重罪判決が出された。ところが、2000年1月にはなぜか刑期が20年に戻されている。

ICTYの存在価値を示すために裁かれたタディチ

ICTYの本来の任務の中には、国際の平和と安全ならびに国際秩序の維持が入れられている。そのことから紛争当事者の重要な地位にある人物を裁くために、国際司法機関としての役割が付与されたのである。

その任務からすれば、タディチのような指揮命令系統の上位に属さない人物を扱うこと自体目的からはるかに逸脱しているといえる。即ち、タディチのような身分の者の罪状を裁くのにICTYは不適切であり、せいぜい国内裁判所が裁くべき対象であった。にもかかわらず、敢えてICTYが取り上げたのには、ICTYそのものの機関としての存在価値を示すことのみに向けられていたことがあった。

タディチは14年余り服役した後の2008年7月に釈放されると、ICTYに再審を要求するが却下されたため、自らに着せられた冤罪を晴らすための記録の出版を志ざす。しかし、無冠の者の記録の出版に応じるところはなく、ようやくセルビア正教会の助力で出版にこぎつけた。日本でも岩田昌征教授の尽力で2013年に「旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の戦犯第1号日記」として出版された。世に冤罪は後を絶たないが、権威づけられた国際裁判所といえども、その弊害から免れないことをタディチの事例は示している。

ムスリム人勢力のナセル・オリッチは民兵集団を結成してセルビア人住民を迫害

ボスニアのセルビア人1市民に重罰を科したICTYは、ボスニアのムスリム人軍人のナセル・オリッチにはどのように対処したのかを見てみる。ボスニアのスレブレニツァのポトチャリ警察支所長だったムスリム人のナセル・オリッチは、ボスニアが独立を宣言した直後の92年4月にムスリム人の「ポトチャリ郷土防衛隊」を立ち上げる。そして直ちに「スレブレニツァ郷土防衛隊」に拡張し、スレブレニツァが73を占めるムスリム人による多数居住地域であることを利用してセルビア人住民の居住地を襲撃して家屋を破壊し、殺害し、セルビア人を追放してスレブレニツァをムスリム人のみの街とした。以後、スレブレニツァをめぐりオリッチの部隊とセルビア人勢力との攻防戦が繰り返されることになる。

国連指定「安全地域」を武力攻撃の拠点として利用したムスリム人勢力

国連安保理は93年4月、ボスニア政府の要請に応えてスレブレニツァ攻防戦におけるセルビア人勢力側の行動を厳しく非難するとともに、スレブレニツァを「安全地域」に指定する決議819を採択する。次いで5月には決議824を採択し、ムスリム人住民が多数居住するサラエヴォ、トゥズラ、ゴラジュデ、ジェパ、ビハチの5ヵ所を安全地域に加えた。ボスニア政府軍のナセル・オリッチの部隊は、安全地域に指定されたスレブレニツァを拠点として周辺のセルビア人の村々への攻撃をしてはスレブレニツァに戻るという、安全地域を城塞都市のように利用した。

ガリ国連事務総長はムスリム人勢力の軍事行動に対し、「ムスリム人勢力が、NATOの空軍力に守られた『安全地域』をセルビア人勢力への攻撃拠点としているケースがある。国連保護軍の中立性の見地からも、『安全地域』のあり方を再検討すべきだ」との報告書を94年5月に安保理に提出した。しかし、安保理がこの報告書を真剣に検討した形跡はない。

オリッチの部隊はセルビア人居住地域攻撃による功績で、94年1月にはボスニア政府軍第2軍団の8師団、即ち28師団に昇格し、オリッチは准将に昇進して師団長に就いた。このナセル・オリッチをめぐるICTYの対応は、タディチへの処遇と全く異なるものとなる。後述するが、オリッチは上訴審で無罪とされるのである。

ボスニア内戦の一方の当事者のみを起訴するICTY

ボスニア内戦はムスリム人勢力とセルビア人勢力間の戦闘だけが行なわれていたわけではなく、クロアチア人勢力とムスリム人勢力との間でも支配領域の拡大をめぐってモスタルなど南部地域で熾烈な戦闘を行なっていた。クリントン米政権はこのクロアチア人勢力とムスリム人勢力とが戦闘を交えていてはセルビア悪説に基づくセルビア人勢力を圧服させることは実現不可能と分析し、94年に「新戦略」を立案する。そして94年2月にクロアチア共和国、ボスニア政府、ボスニア・クロアチア人勢力の代表を呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。ワシントン協定の目的は、協定に合意した3者を統合して共同作戦を実施させ、セルビア人勢力を征圧するところにあった。そして94年の1年を訓練と武備を整える準備期間とした。

95年1月、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は新戦略に基づく軍事作戦の準備が整うと、国連保護軍・UNPROFORの存在が和平の障害になっているとの理由をつけて撤収するよう要請する書簡を国連に送付する。国連安保理はこれを受けて3月に決議281~283を採択して国連保護軍を3分割し、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEP、クロアチアには縮減された国連信頼回復活動・UNCROが残された。

これに呼応するかのように、ICTYの検察局は95年4月24日、突如ボスニアのセルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ共和国大統領とムラディッチ総司令官およびスタシニッチ秘密警察首脳の3名をボスニア内戦で戦争犯罪を行なったとして起訴した。この時期、「連絡調整グループ」および明石国連特別代表が和平調停に尽力していた。この起訴はそれに水を差すものとして関係者の眉をひそめさせた。起訴は、安保理およびICTYの裁判局の要請に応える意味であったのだが、この時も検察局は何一つ起訴に相当する証拠を把握していたわけではなかった。言わば国際社会の世論に迎合する方途としての起訴であった。

クロアチア共和国は米国の新戦略に基づき軍事作戦を発動する

クロアチア共和国軍は国連保護軍が3分割されて縮小したのを見届けると、5月1日に「稲妻作戦」を発動してセルビア人勢力の居住地域である「西スラヴォニア」を攻略した。一方のボスニア政府軍も、米国の新戦略に基づく軍事力増強計画によって精強となった軍隊でセルビア人勢力を粉砕する試みを実行に移した。先ずサラエヴォ郊外のイグマン山に陣取っているセルビア人勢力を一掃するための攻撃に取りかかるが、この攻撃はセルビア人勢力に見破られていたために手痛い敗北を喫してしまう。ボスニア政府軍はこの壊滅的な作戦の失敗を隠蔽するために95年5月に陽動作戦を企て、スレブレニツァの28師団およびビハチ、トゥズラ、ゴラジュデ、の部隊に、セルビア人支配地に攻撃を仕掛けるよう指令を発した。ボスニア政府軍の一斉攻撃を受けたセルビア人勢力は、反転攻勢を企図して「クリバヤ95作戦」を立案し、初動地としてスレブレニツァのオリッチの28師団の破壊活動を抑制することにして、95年7月6日に作戦を発動した。

ボスニア政府はスレブレニツァを戦略的に放棄する

ところが、ボスニア政府軍第2軍団と28師団では理解し難いことが行なわれていた。遡ること3ヵ月前の95年4月に、ボスニア政府軍第2軍団はトゥズラで行なった軍事訓練にオリッチ司令官ともども28師団の将校のほとんどを参加させていた。訓練が終了してもスレブレニツァに戻したのは副司令官と大隊長の2人だけで、オリッチ師団長を始めとして将校のほとんどは帰隊しなかったのである。この対応を見ると、ボスニア政府軍はかなり早い段階にスレブレニツァの戦略的放棄を決めていたと推察される。それを証明するかのように、セルビア人勢力軍がクリバヤ95作戦によってスレブレニツァを包囲すると、7月10日にボスニア政府軍のハリロヴィチ参謀長は、28師団をスレブレニツァから撤退させるようにデリッチ第2軍団司令官に命じた。28師団はこの命令を受け、ムスリム人の女性と子どもや老人を放置したまま、夜陰に乗じてスレブレニツァの行政員と戦闘可能な男性1万2000人から1万5000人を引き連れてスレブレニツァから脱出し始めた。

セルビア人勢力軍は、これらの事態を全く把握していなかった。もし、28師団のオリッチ司令官を始めとする将校団が不在であることが伝わっていれば、クリバヤ95作戦などという大仰な作戦をスレブレニツァに適用することも発動することもなかったと考えられる。セルビア人勢力はスレブレニツァの攻略作戦でムスリム人勢力の抵抗をほとんど受けなかったために、7月11日には予定外の占領をしてしまうことになる。

証拠がないままスレブレニツァの虐殺事件が喧伝される

米政府は7月12日、このスレブレニツァ攻略戦においてセルビア人勢力軍による大規模なムスリム人虐殺があったと発表した。米政府は、無人偵察機や衛星によってこの地域の監視を行なっており、虐殺の証拠写真があると表明した。セルビア人勢力がスレブレニツァを占領した12日は、国連保護軍のオランダ部隊駐屯地に押し掛けた主としてムスリム人住民の女性と子どもと老人の避難民2万数千人の処遇をめぐって、セルビア人勢力のムラディッチ総司令官とUNPROFORの地域派遣オランダ部隊のカレマンス大佐とが協議を始めていた時期である。ムラディッチ総司令官はこの協議で、ムスリム人避難民の中から16才から65才の男性を選別することを要求し、女性と子どもや老人たち2万人の保護を確約してバスなどの車輌を仕立てて移送を始めた段階であり、少なくともこの時点では虐殺事件は起こりようがなかった。拙速な米政府の虐殺説にはボスニア政府との間の含みがあったと見られる。

セルビア人勢力は女性と子どもと戦闘員を選別している過程でオリッチの師団兵員がいないことに気づき、直ちに脱出行の部隊への追撃を決行する。スレブレニツァから脱出しつつあった28師団兵士たちは行政員や市民を帯同していたとはいえ戦闘員であり、追撃してきたセルビア人勢力と戦闘を交え、一時的ではあれセルビア人勢力の司令官を捕虜とするなどの戦果を挙げることもあった。しかし、非戦闘員を含んだ一行は追撃してきたセルビア人勢力の攻撃には耐えられず、大混乱に陥り、多数が捕虜となった者たちが、セルビア人勢力に虐殺されたとされた。

「嵐作戦」および「デリバリット・フォース作戦」への批判を躱すための虐殺説

一方のクロアチア共和国軍は、クライナ・セルビア人共和国の掃討作戦である「嵐作戦」を8月4日に発動し、15万余の兵員を動員した新戦略の仕上げとしての総攻撃を続行した。この作戦の正当性と残虐性に対し、英・仏・独の政府が懸念を表明して停戦を求めていた。この要請を躱すためには、スレブレニツァでの虐殺事件の発生情報を流してメディアの目を逸らす必要があった。8月10日にオルブライト米国連大使は安保理で衛星写真を示し、スレブレニツァ陥落後にムスリム人2000人から2700人がセルビア人勢力に虐殺された可能性があると主張した。しかしそこに写されていたのは土盛りした集団埋葬地らしきものにすぎなかった。翌11日、赤十字国際委員会・ICRCのソマルガ委員長は「ボスニア東部でセルビア人勢力がムスリム人住民を大量虐殺した、との米国の主張を裏付ける証拠はない」との否定的見解を示した。

NATO軍は、ボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国を屈服させるための「デリバリット・フォース作戦」の発動を計画していたこともあり、作戦を発動した際の批判を避けるためにはセルビア悪を強く印象づけておく必要もあった。そして、NATO軍は8月28日に起こされたサラエヴォのマルカレ市場事件をきっかけにして作戦を発動する。このデリバリット・フォース作戦は、クロアチア共和国軍がミストラル作戦」によってボスニアに侵攻し、これと呼応したボスニア政府軍が全土でセルビア人勢力への攻撃を行なっていた軍事行動と関連づけたものであった。ボスニア・セルビア人勢力は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍に加えてNATO軍の空爆とNATO加盟国で構成された国連緊急展開部隊の地上攻撃を受けることになったため、四面楚歌状態に陥った。そこで、ボスニア・セルビア人勢力はミロシェヴィチ新ユーゴ連邦大統領の説得を受けて停戦を受諾する。ボスニア政府軍とクロアチア共和国軍のセルビア人勢力への攻撃はこの後もずるずると続けられたが、11月にはボスニア和平交渉が米オハイオ州デイトンの空軍基地で行なわれることになる。

ICTYは公平公正ではなく選択的、象徴的に起訴をする

ICTYはデイトン和平交渉の最中の11月16日、ボスニアのセルビア人勢力の要求を牽制するため、証拠を確保できなかったにもかかわらずカラジッチ・スルプスカ共和国大統領とムラディッチ・スルプスカ共和国総司令官をスレブレニツァの虐殺に関与した疑いで追起訴した。スレブレニツァの虐殺が実際にあったのかどうかさえ定かではない段階でICTYが起訴したのは、米政府のより詳細な証拠写真をあてにしたからである。しかし、米政府はオルブライト米国連大使が示した土盛り写真以外に、確たる証拠となるものを提示することはなかった。事件の証拠となる詳細な写真は実際には存在しなかったのである。

ゴールドストーンICTY首席検事は、「ICTYの起訴が必ずしも公正、平等ではなく、選択的かつ象徴的になる」と発言し、ICTYが政治的組織であることを認めている。その言葉通り、のちにカルラ・デル・ポンテ首席検察官が起訴することになるクロアチアのアンテ・ゴドビナ将軍とムラデン・マルカク内務省特別警察官を起訴しなかった。一方で、カラジッチ・スルプスカ共和国大統領とムラディッチ・スルプスカ共和国総司令官の起訴の証拠としてあてにしていた米国の衛星写真が手に入らないことが分かると、「アメリカからスパイ衛星の写真は提供されなかった」と苦情を述べた。シュラーク上級検事もカラジッチとムラディッチを追起訴した半年後の96年4月に、「セルビア人勢力の指導者たちを告発する、何の証拠も見つけられなかった」と率直に述べている。にもかかわらず、ICTYは「デイトン合意」後の96年7月にカラジッチとムラディッチの国際逮捕令状を出した。証拠なしに逮捕令状を出した目的は、ボスニア・セルビア人勢力の首脳に戦争犯罪容疑者の烙印を押すことでセルビア悪説を世界に印象づけ、NATO軍の軍事行動を正当化する政治的意図を発信するところにあった。

起訴したあとで証拠固めに奔走したICTY

ICTYは米政府からの証拠写真の入手が望めなくなったことで、追起訴したスレブレニツァ虐殺の証拠を独自に確保する必要に迫られた。そこで、検察局は国連の専門家に依頼して96年7月からスレブレニツァ周辺の発掘作業を始める。しかし、このとき発掘されたのは1週間で150遺体、次の1週間で15遺体、1ヵ月かかつて250遺体を発掘したにすぎなかった。しかも、250の遺体そのものも虐殺されたとするムスリム人の遺体と特定できたわけではない。伝聞情報によって起訴した後で証拠の収集をする検察局の対応は、断罪を前提としたものであり、国際人権法の精神からも著しく乖離しているといわなければならないが、これが当時のICTYの実態だった。

スレブレニツァ事件はICTYの存在を認知させるための裁判となる

ICTYは、カラジッチ・スルプスカ大統領とムラディッチ総司令官に逮捕令状を出したものの拘束することが叶わないために、両者の公判廷を開けずにいた。そこで、実績を示すためにスレブレニツァ攻撃のクリバヤ95作戦に関わった者すべてを法廷に引き出すことにする。先ず、1998年10月にクリバヤ95作戦の指揮官の1人だったラディスラブ・クルスティチ・ドリナ軍団司令官を95年7月11日から11月1日の間に起こされたスレブレニツァ事件の罪状で起訴し、12月2日にNATO軍の安定化部隊・SFORに逮捕させた。2001年8月2日に出した第1審判決では、「ジェノサイド罪」、「人道に対する罪」、「戦争の法規・慣例違反」の正犯として有罪とし、46年の禁固刑を言い渡した。2004年4月に出された控訴審判決では、「ジェノサイド罪」は正犯ではなく共犯に変更され、35年の禁固刑が確定した。クルスティチ将軍は、スレブレニツァ攻略後はドリナ軍団の司令官として直ちにジェパ攻撃に取りかかるとともにゴラジュデ攻防戦の総指揮を執っており、スレブレニツァの事件なるものには直接関与していない。控訴審裁判部はその事実を把握していたことから、有罪宣告をすることは困難だと判断していた。しかし、政治的理由から有罪とする必要があった。そこでICTYは、「ジェノサイド罪」については正犯ではなく共犯とし、犯罪発生期間をボスニア内戦が既に終結していた11月まで引き延ばし、司令官の地位にあるものとしてスレブレニツァの虐殺を容認しただけでなく、再埋葬などの後処理に関わったという罪状を被せたのである。

政治的な意図としての「ジェノサイド罪」の適用

次いで、「クリバヤ95作戦」でスレブレニツァ攻撃に参加したドリナ軍団傘下のブラトゥナッツ旅団長のビドイェ・ブラゴイェヴィチ大佐も、スレブレニツァから28師団兵士とともに脱出した行政員などの住民を追撃して捕捉し、殺害したとして98年10月に起訴した。05年1月17日に出された第1審判決は「ジェノサイド罪」を適用して断罪した。控訴審の判決は07年5月に出されたが、やはり「ジェノサイド罪」が適用されて15年の禁固刑が確定した。この控訴審の判決文は、スレブレニツァから脱出したムスリム人がほとんど民間人であることを強調し、28師団兵士の存在を希薄化させるため「少なくとも一部は武装し、制服を着用していたが、大多数は民間人であった」と記述した。オリッチの28師団の兵士数は4000人から8000人説まであるが、それを確定しないままICTYはあたかも軍事組織としての28師団が存在しなかったかのように判定し、ブラゴイェヴィチ大佐に見せしめとしての重罪判決を出した。

さらに、ICTYの検察局は2006年8月4日にセルビア人勢力の7人を訴追した。ボスニア・セルビア人勢力軍・VRS幕僚のグベロ将軍、VRS幕僚のミレティチ将軍、VRS幕僚のベアラ大佐、ドリナ軍団のポポヴィチ中佐、ズボルニク旅団のパンドゥレヴィチ大佐、ズボルニク旅団のニコリッチ中尉、内務省警察特殊部隊のボロブチャニン大佐の7被告を一件にまとめ、「スレブレニツァ・トライアル」として起訴し、一括審理することにした。ICTYは、スルプスカ共和国の主要な幕僚、ドリナ軍団、ズボルニク旅団、内務省警察特殊部隊などを網羅し、スレブレニツァ攻略のクリバヤ95作戦に関わったとしてハーグの法廷で裁いたのである。

ICTYはオリッチ28師団司令官の犯罪行為を無罪判決として政治的な配慮をする

ICTYは、セルビア人勢力だけを裁くのは均衡を欠くと考えたのか、ボスニア内戦が終結してから8年後の2003年3月、スレブレニツァのムスリム人勢力のナセル・オリッチ28師団司令官をセルビア人殺害の容疑で起訴し、逮捕した。訴因は、オリッチが92年6月から93年3月にかけてセルビア人住民1200名を殺戮したとし、住民殺害、非人道的な行為、破壊活動、捕虜の虐待・拷問など5つの罪であり、18年の禁固刑を求刑した。セルビア人勢力側の調査では3562人が殺害されたとする事案である。

1審では国連保護軍・UNPROFORのモリヨン元司令官が証言台に立ち、「ナセル・オリッチはボスニア政府軍から命令を受け、スレブレニツァを拠点として周囲のセルビア人の192の村々を破壊した。捕捉した捕虜には拷問を加え虐殺した。セルビア人勢力が起こしたスレブレニツァの事件は、オリッチの行為が引き起こしたものと確信している」と証言した。さらに、ICTYでの訴訟指揮に合致しないとして、証言台に立つことを却下されたムスリム人の元スレブレニツァ地方執行委議長のイブラン・ムスタフィチは、「仕組まれた混沌」を発刊し、「国連保護軍のオランダ部隊は、ナセル・オリッチの部隊が、セルビア人の村々を破壊し、虐殺した行為について十分承知していたが、自分たちの任務を無傷で終えるために、静観していた」と記述した。

ICTYの裁判局はこれらの証言や著書があったにもかかわらず、2006年6月30日に出したオリッチに対する判決では2年の禁固刑とし、3年の未決勾留期間を算定して即時釈放した。検察局が控訴した控訴審判決は08年7月3日に出され、「オリッチが、犯罪に責任ある部隊を支配していたことは確証できなかった」として無罪判決を出した。オリッチの部隊ともいえる軍事組織が9ヵ月にわたって犯した犯罪行為について、指揮官のオリッチがその部隊を指揮していたかどうか確認できなかった、と矛盾に満ちた判断を示したのである。

「ジェノサイド罪」適用は政治的思惑が働いた結果

「ジェノサイド」は曖昧さの伴う概念だが、ナチス・ドイツのユダヤ人絶滅を想起させる戦争犯罪でもある。ICTYの裁判所規程による「ジェノサイド罪」は必ずしも民族抹殺を意味するのではなく、適用の最大の要件は曖昧なジュネーブ諸条約に対する重大な違反行為である集団殺害である。この曖昧さが、ジェノサイドの持つ印象とは別に判事の恣意的な判断を容易にさせることにもなった。

ナセル・オリッチは支配地域を拡大するために、スレブレニツァの周囲のセルビア人の村々を襲撃して破壊と殺戮を繰り返し、無差別に1200人から3500人を殺害したいわば集団殺害に類する犯罪を行なっている。ICTYは、このオリッチ准将の犯罪についてはジェノサイド罪で起訴することもなく、無罪の判決を出した。これに対し、セルビア人勢力はスレブレニツァ占領後に女性と子どもと老人のおよそ2万人をバスなどでボスニア政府支配地域へ移送している。このことから明らかなように、セルビア人勢力が民族としてのムスリム人をジェノサイド罪に該当するような集団殺害をする意図を抱いていたとはいえない。しかしICTYは、司令官のクルスティチ将軍は虐殺事件といわれる行為に直接関与していないにもかかわらず、ジェノサイド罪の共犯が適用されて極刑といえるような35年の禁固刑を科したのである。この不公正な判決の差は、ICTYがセルビア人勢力側への懲罰のために設置された政治的機関であることを示している。この懲罰的意図によって、ICTYの検察局がスレブレニツァ事件で起訴したセルビア人勢力の関係者は21名に及ぶ。

セルビア共和国の治安問題にすぎないコソヴォ紛争にNATO軍が干渉

1999年3月24日、NATO軍はコソヴォ紛争に介入し、国連憲章に基づく安保理決議を回避し、人道的介入と称して「アライド・フォース作戦」を発動して78日間におよぶ「ユーゴ・コソヴォ空爆」を実行した。この国際慣習法に違反したNATOの空爆は熾烈を極めた。ICTYのルイーズ・アーバー首席検察官は、空爆の最中の99年5月22日にミロシェヴィチ・セルビア大統領を起訴する。これは、NATO軍の苛烈な空爆が国際法違反であるとの批判を避けるための側面支援策でもあった。起訴事由は、コソヴォ紛争において、人道に対する罪、ならびに戦争の法規・慣例違反を計画し、教唆し、命令し、支援し、準備し、実施し、ラチャク村の虐殺事件を実行したなど、12の罪障で数百人のアルバニア系住民を殺害したとの戦争犯罪容疑である。

この時点ではラチャク村の事件を含めてコソヴォ紛争の実態は明らかではなく、起訴はしたものの起訴事由を構成する証拠は皆無に等しかった。だが、NATO諸国にとってミロシェヴィチ・セルビア大統領を断罪することそのものが目標であり、そのためにこそNATO軍は懲罰的なユーゴ・コソヴォ空爆を実行したのである。欧米諸国の意向を体現するICTYは、証拠のあるなしに関わりなくミロシェヴィチ大統領を法廷に引き出すことそのものを目的化していた。ICTYの裁判局は、セルビア人勢力およびセルビア共和国の首脳を裁くことがICTYの設立意図だと捉えており、アーバー首席検察官がミロシェヴィチ大統領を起訴したのを見て歓声を上げたという。

コソヴォ自治州には、OSCEの停戦合意検証団・KVMの検証団員1600名が調査に入っており、ユーゴ・コソヴォ空爆で中断されたものの、それまでの間は調査をしていた。ICTYはその検証団の報告をも検証しないまま起訴を行なったのである。のちに、EU調査団が起訴事由の1つであるコソヴォ自治州のラチャク村のいわゆる虐殺事件について、報告書を提出したが、ICTYはこれを直ちに機密書類に指定して公表を抑えた。ラチャク村の事件については、幾つかの公的機関が虐殺を否定する報告書を提出しているところから、EUの報告書も虐殺を否定する内容だった可能性が高い。ICTYは、起訴および公判維持にとって都合の悪い証拠は公開しない方針を採用していたのである。国連安保理から政治機関としての使命が与えられているとしても、国際裁判所の名を冠しているからには訴訟指揮には公平さが求められる。しかし、証拠となる可能性のある公的書類を隠蔽するようでは公正な裁判が行なわれることは望めない。

NATO諸国の戦争犯罪は不問に付すICTY

一方、アメリカ大陸法律家協会は、1999年5月にNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆に参加して実行した諸国の指導者と司令官を旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに告発した。クリントン米大統領、オルブライト米国務長官、コーエン米国防長官、ブレア英首相、クレティエン・カナダ首相、ソラナNATO事務総長、クラークNATO軍最高司令官、その他を被告とし、「国連憲章違反」、「NATO条約違反」、「ジュネーブ条約違反」、「国際人道法に対する違反」を犯しているとの理由に基づく告発である。これに対し、アーバー首席検察官は「NATO加盟諸国の国籍所持者が国際法違反を犯したという主張に対して、私はコメントしない。NATOの指導者たちは、ユーゴ連邦での作戦を、国際人道法を完全に遵守して進めると確約した。私はその確約を受け入れた」と述べた。確約と実行行為は別物のはずだが、ICTYが主としてNATO加盟諸国の資金で運営されていることから、NATO軍の罪を裁くことはしないという、裁判所に求められている公正・公平・正義とはかけ離れた意向を表明した。

NATOは国際司法裁判所・ICJも旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYもNATOの影響下にあると威圧

ユーゴ・コソヴォ空爆が行なわれている最中の同じ5月、シェイNATO報道官は、「皆さんご承知のように、NATOなくして国際司法裁判所・ICJはないだろうし、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYなるものもないだろう。なぜなら、NATO諸国は、これら2つの法廷を設立して資金を提供し、日毎それらの活動を支援する国々の先頭に立っているからだ。われわれは国際法の侵害者ではなく、後援者なのだ」と、NATO軍が国際法に違反した軍事行動を行なっているとの批判を否定しつつ、ICTYとICJがNATOの影響下にあることを露骨に表現し、NATOの利益に反する裁判所の運営は許されないことを示唆した。のちにアーバー首席検察官は、ICTYがNATOの影響下にあるとの批判を気にしたのか、「NATOから指図を受けたことは一度もないし、ICTYがNATOに求めたこともない」と弁明した。

ICTYはNATO諸国の意思に添ってミロシェヴィチを裁いた

アーバー首席検察官は、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を起訴すると、役割は終わったとして任期途中の1999年8月に辞任した。その後を継いだカルラ・デル・ポンテ首席検察官は、NATO諸国の指導者が告訴されていることをメディアに尋ねられると、「検討する」と答えた。しかし、数日後にICTYの検察局は、「NATOはICTYの検察局による調査対象とはなっていない。コソヴォ紛争におけるNATOの行為について、公式の調査は行なわれていない」との否定的声明を発表した。そして2000年6月、カルラ・デル・ポンテ首席検察官は国連安保理で、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の犯罪性について、「調査はしたが国際法上の責任を問う根拠はない」と虚偽の報告をした。地域の軍事同盟にすぎないNATO軍が、国連安保理決議を経ずに軍事力を行使し、劣化ウラン弾およびクラスター爆弾を使用し、走行中の列車を標的にし、避難中のアルバニア系住民を爆撃し、病院や学校および鉄道や橋梁や電気・水道など社会的インフラならびに放送局などを、再起が危ぶまれるほどに破壊し、人々を殺戮したにもかかわらず、国際法上の責任は問えないとしたのである。一方で、セルビア共和国内の治安の問題にすぎないコソヴォ紛争への治安活動の責任は問えるとする。この根拠は、国際法上のものではなく政治的判断である。国連安保理決議によって設立されたICTYは、国連憲章第7章に基づく安保理決議の欠如の意味を考量すべきだが、NATO軍が安保理決議を回避して軍事力を行使したその行為の妥当性そのものについてさえ検討した気配はない。ICTYにとって、国連憲章に基づいた安保理決議よりも世界に覇権を及ぼすNATO諸国の意向の方に価値があると判断したのである。

ICTYは公平さを装うためのおざなりの起訴を行なう

ボスニアのセルビア人勢力のカラジッチ大統領とムラディッチ総司令官を証拠もないままに95年4月に起訴してから6年の歳月を経た2001年5月、ICTYは国際社会への政治的影響力が希薄になったと判断したのであろう、クロアチアの嵐作戦の指揮を執ったアンテ・ゴドビナ将軍とラヒム・アデム将軍の2人を秘密裏に起訴した。ところが、カルラ・デル・ポンテ首席検察官は同年7月にクロアチア政府にこのことを知らせ、ゴドビナ将軍に逃亡の機会を与えるという理解しがたい行為を採った。アデム将軍は逃亡しなかったために身柄を拘束されたが、ゴドビナ将軍は逃亡先にスペインのカナリア諸島を選んで潜伏する。2005年12月にカナリア諸島で逮捕されるまでの4年余り、ゴドビナ将軍は自由な生活を謳歌した。

ゴドビナ将軍に対するICTYの第1審の判決は2011年4月に出され、クロアチア・クライナ地方のセルビア人を永久追放する「民族浄化作戦計画」を実行したとして禁固24年の量刑を科した。しかし、上級審はゴドビナ将軍が「意図して市民を標的にしておらず、攻撃が違法であったとはいえない」として、12年11月に無罪判決を出した。特別警察司令官のアデム将軍も同様の理由で無罪としている。クロアチア居住のセルビア人住民20数万人を追放し、脱出中の避難民の列の中に砲撃を加えた軍の指揮官に無罪判決を出したことは、ICTYがクロアチア人やムスリム人に政治的配慮を示したことを表している。

ミロシェヴィチ大統領の裁判は列強の意志に従わなかった見せしめ

カルラ・デル・ポンテ首席検察官は、アーバー前首席検察官が起訴したミロシェヴィチ大統領の戦争犯罪の証明を引継いだことから、証拠固めに忙殺された。コソヴォ紛争に関するミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の戦争犯罪の証拠は、伝聞情報や被害者とされたコソヴォ解放軍・KLAやアルバニア系住民の証言以外に何もなかったからである。2001年4月1日、デル・ポンテ首席検察官はかねてから接触していたジンジッチ・セルビア首相と共謀し、セルビア共和国の政治的混乱に乗じてミロシェヴィチ前大統領を逮捕させた。そして、6月28日にセルビアの憲法裁判所が審議している最中に、米英両軍が協力してヘリコプターでハーグの法廷に強制移送した。

ミロシェヴィチ前大統領は2001年7月から始められた公判の冒頭で、ICTYは国際法に則った裁判所ではないと存在基盤そのものを否認した上で、「クロアチア、ボスニア、コソヴォで行なわれたことは新たな植民地主義にすぎない。私はNATO軍の空爆に対し、誇りを持って抵抗したのだ」と欧米の軍事介入を批判した。ICTYはミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領の否認と批判を聞き流し、断罪を前提とした訴訟指揮を行なった。すべての証拠や証言は有罪を証明すると見られるもののみが重視され、無罪を証明する証拠や証言は虚偽・虚言として露骨に排除した。

被告人側のカナダのエドワード・グリーンスパン弁護士は、ミロシェヴィチ裁判の初期の記録を検討したのち、「ハーグでは、正義は、明らかに、また疑いもなく、なされていないと見られる。裁判長のリチャード・メイは、公平な振りさえしない、実際に関心のある振りさえしない、彼は明白にミロシェヴィチを非難する。結果は確実だ。それは見せ物裁判である。これはリンチである」と批判した。ICTYの裁判官の意識には、恣意的な被告に対しては推定無罪の原則は存在していなかったのである。

ミロシェヴィチ大統領側の証人はICTYの侮辱の対象

ICTYの裁判所規程には証人の保護規程があるが、ミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領側の証人の保護は軽視された。当時、ミロシェヴィチ前大統領側の証人に立つにはそれなりの覚悟が必要であった。本人はもとより、関係者の生命が脅かされることがあったからである。

コソヴォ自治州ウロシェヴァツのアルバニア系住民の森林監視員シャバン・ファズリュウは、ミロシェヴィチ側の証人に立つに際し、アルバニア系住民のナショナリストから脅迫を受けていた。ファズリュウはICTYに家族の保護を求めたが、ICTYはその要請を無視した。そのため、ファズリュウがハーグに赴いたときに娘が誘拐されるという事件が起こった。事件の知らせはファズリュウにも届いていたが、彼はハーグ法廷の証人席に立った。そして、ファズリュウはアルバニア系住民であるにも関わらず、「コソヴォ紛争ではコソヴォ解放軍とNATO軍に責任があり、ユーゴスラヴィア軍とセルビア警察は適切に振る舞っていた」と証言した。このとき、サクソン検察官はファズリュウに対し、「あなたの娘は誘拐されたのではなく、父親を恥じて家出をしたのではないか」となじったのである。これが、ICTYの判・検事の品性であり、人権感覚であった。

厄介払いとして獄死させられたミロシェヴィチ大統領

このような訴訟指揮が行なわれていたミロシェヴィチ前大統領の裁判は、検察官側が295人という多数の証人を立てて証言に長時間を費やしても裁判官はそれを容認した。検察官側が数多の証人を立てたのは、ICTYが証言以外の証拠を得ていなかったからである。一方、ミロシェヴィチ前大統領が反対尋問を始めると裁判官はそれをしばしば遮るという不均衡な対応を取った。クラークNATO軍最高司令官およびウォーカーOSCE・KVM団長が証人となった場面ではミロシェヴィチ前大統領の質問を60回も遮っただけでなく、ミロシェヴィチ前大統領が被告側の証人を申請しても、あれこれと理由を付けてはそれを却下した。

ICTYの予断による訴訟指揮は人身保護に関する認識にも現わされた。ミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領が持病の心臓病が悪化したために治療を求め、ロシア政府が身柄を保障するとした上で治療を申し出たにもかかわらず、彼の持病を虚言として治療を拒否した。そのため、ミロシェヴィチ前大統領は治療を受ける権利も剥奪されて拘置所に放置され、誰に見とられることもなく2006年3月に獄死させられた。ICTYの規程では、有罪とされるまでは無罪と推定されるとの被告人の法的権利を規定しているが、被告人自身の人身の保護規定はない。図らずもこの速成の杜撰な裁判所規程が、被告の人命を軽視するという行為となって露呈した。

ICTYの希薄な人権意識によって重要な当事者であるミロシェヴィチ・ユーゴ前大統領が獄死させられたために、ユーゴ連邦解体戦争の真実は覆い隠されることになった。にもかかわらずICTYは、ミロシェヴィチを獄死させて判決を出せなかったことを糊塗するために、ミラン・ミルテノヴィチ・元セルビア大統領、ニコラ・シャイノヴィチ元ユーゴ連邦副首相、ドラゴリュブ・オイダニチ元国防相、ネボイシャ・パヴコヴィチ元参謀総長、ウラジミル・ラザレヴィチ元司令官、スレテン・ルキチ元公安局長らを起訴した。しかし、ラチャク村事件が捏造だったことがミロシェヴィチ裁判で明らかにされたことから、ユーゴ・コソヴォ空爆の主な理由とされた事件であったにもかかわらず起訴事実からは外されていた。

ICTYはミロシェヴィチ・セルビア大統領を裁くことを目的として設置された

柴亘弘教授は「ユーゴスラヴィア現代史」の中で、「旧―ユーゴ戦犯法廷・ICTYは主としてミロシェヴィチ・セルビア大統領を裁くために、国連安保理決議によって設置された政治的な裁判所である」と指摘している。その指摘が適格なのは、ICTYは徹頭徹尾「セルビア悪」を前提として運営されたからである。

コソヴォ紛争は低強度の武力衝突に過ぎない

後の検証によれば、コソヴォ紛争はコソヴォ解放軍・KLAとセルビア治安部隊の低強度の紛争であり、1年余りの武力衝突による両者の死者は千数百名にすぎなかった。ドイツ外務省は、空爆前の99年1月に諜報報告をまとめているが、そこでは「コソヴォ自治州において、アルバニア民族に関連した明白な政治的迫害があったとは立証できない」と記述している。空爆直前の3月19日に、カナダ陸軍退役軍人でKVM検証団のプリシュティナ現地事務所長を務めたローランド・キースは、「校舎への砲撃など、セルビア側による理性を超えた破壊は見られたが、計画された政策というにはほど遠かった。あの段階を民族浄化とはいえない」と語っていた。ロバートソン英国防相は空爆が始まった3月24日当日の下院議会で、「99年1月までは、コソヴォ解放軍・KLAの方がセルビア治安当局よりも多くの死傷者を出していた」と述べている。この発言から見えてくるのは、コソヴォ紛争は低強度の武力衝突であり、少なくとも世界最強の軍事同盟であるNATO軍が、行動を起こさなければならないような事例ではなかったのである。

ICTYは安保理の政治的な下請け機関でしかなかった

ICTYはコソヴォ紛争においてミロシェヴィチ・ユーゴ元大統領などセルビア人だけを裁いては公平性に欠けると考えたのか、6年後の2005年3月にアルバニア系住民のラムシュ・ハラディナイ・コソヴォ自治州首相を逮捕し、起訴した。起訴事由は、98年から99年のコソヴォ自治州の紛争時に、コソヴォ解放軍・KLAの司令官をしていたハラディナイが、セルビア人、ロマ人、そしてKLAの軍事行動に批判的なアルバニア人同胞を誘拐、レイプ、拷問、殺人、民族浄化を実行したなどの37の訴因であり、25年の禁固刑が求刑された。ハラディナイはハーグに出廷して勾留されたが、国連コソヴォ暫定行政ミッション・UNMIKがICTYに干渉し、裁判を停止するよう圧力をかけたためにハラディナイは即時仮釈放された。第1審の審理は形式的に続けられたものの裁判局の訴訟指揮は一方的で、検察側が申請した証人のほとんどを却下しただけでなく、採用された者も脅迫されたり、殺害されるなどで、結局証言したのはセルビア人1人だけだった。ハラディナイの第1審判決は2008年4月3日に出され、37の訴因のすべてについて無罪とした。しかし、上級審は検察側の証拠の扱いに問題があるとして差し戻し審を命じる。差し戻し審は2012年11月、ハラディナイが「セルビア人住民の虐殺に関与した証拠はない」として無罪判決を出した。ハラディナイは、99年のNATO軍によるユーゴ・コソヴォ・空爆の際の標的選びに協力した貢献者だったから、ICTYとしては彼を有罪にするわけにはいかなかったのである。

無罪とされたハラディナイやタチらは紛れもない犯罪者

カルラ・デル・ポンテ首席検事は2007年にICTYを退任した後、回顧録「追跡・私と軍の犯罪者」を出版した。そこには、99年にコソヴォ自治州のアルバニア系住民の武装組織のコソヴォ解放軍・KLAの要職を占めていたハラディナイ、タチ、チェクらが、セルビア人およびKLAに批判的なアルバニア人を含む300人を拉致してアルバニアに送り、そこで殺害して臓器を売買していたことが記述されていた。カルラ・デル・ポンテ前首席検察官は、在任中にハラディナイやタチ、チェクらがこのような犯罪に手を染めていたことを把握しており、検察局にその調査を命じていたのだが、ICTYのスタッフのほとんどが米国人で占められていたことによる「沈黙の壁」に阻まれたために起訴することはできなかった。ICTYは国際法に基づいた司法機関ではなく、安保理の下部機関である政治機関である限界をこの事例は端無くも示した。ICTYは、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領をおよびセルビア人を裁くために設置した意図の下に政治機関として設置したこものであることをこの事案は明白にした。この機関の内情を知悉したカルラ・デル・ポンテは、そのために退任後に「追跡;私と軍の犯罪者」なる著書で暴露するという手段をとったのである。

米国は、CIAが拠点とする情報・文化センターをコソヴォ自治州に設置していたことからすれば、カルラが把握していたKLAの首脳たちの蛮行を知っていたことは疑いないが、CIAはこれには一言も言及していない。手先としてのKLAの悪事には沈黙するというのが、米国の政治手法なのであろう。ロシアなどがKLAの殺人・臓器売買の実態究明を要求したが、ICTYは調査をしないと表明している。

ハラディナイとタチはマーティー欧州議会議員の調査により裁かれることになる

2010年になって、スイス人のマーティー欧州議会議員がこの案件について現地調査をした報告書を欧州議会に提出したことから再び表面化し、欧州議会の委員会は調査をすると約した。ICTYは7年後の2017年12月に閉廷して解散しているが、その間にもこれを扱わず、その後に国連に設置された特別法廷(国際刑事裁判メカニズム)が2019年7月にハラディナイ・コソヴォ首相を審問することになり、ハラディナィは首相職の辞任を余儀なくされた。2020年になって、タチ・コソヴォ大統領もやはり特別法廷の審問の対象となったため、タチも大統領職を辞任した。特別法廷がこの両者の犯罪をどのように取り扱うかは、2021年の段階で不透明である。

不問に付されたトゥジマン大統領とイゼトベゴヴィチ大統領

ミロシェヴィチ大統領は獄死させられたが、一方の当事者であるトゥジマン・クロアチア大統領およびイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が訴追されることはなかった。トゥジマン大統領は、95年にブリオニ島における軍の指揮官たちとの会合で、「セルビア人たちが事実上消滅するような打撃を与える」ことを指示した。指示に従ってクロアチア共和国軍は直ちに「稲妻作戦」および「嵐作戦」によってクライナ地方のセルビア人住民の掃討作戦を敢行し、クライナ・セルビア人共和国を潰滅させて念願のクロアチア共和国をクロアチア人に純化した国とすることに成功した。この過程で実行された嵐作戦は凄まじいもので、セルビア人居住地域を無差別攻撃して破壊しただけではあきたらず、戻ることが不可能なように町や村ごと焼き討ちにし、脱出する避難民の中に砲弾を撃ち込むという非人道的な猛爆撃を加えて多数の死傷者を出し、20数万人を追放した。ICTYは、この非人道的な武力攻撃を指示したトゥジマン・クロアチア大統領の犯罪行為を不問に付した。この作戦にはNATO軍および米CIA、米軍事請負会社・MPRIが関与していたからである。

イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領については、彼がイスラム諸国会議に支援を要請してまで武力によるボスニアの統一に拘った揚げ句、虚偽の情報を流し、和平を妨害して内戦を長引かせ、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人3勢力それぞれによる虐殺を惹起させ、ボスニア内戦において多くの犠牲者を出す結果を招いた責任も不問に付された。ICTYは、欧米が支援していたトゥジマン・クロアチア大統領とイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はNATO諸国側の者と位置づけ、統治者の犯罪行為の責任を問うことはなかったのである。

メディアの伝聞情報に左右されるICTYの判検事たち

2001年8月にICTYの判事に任官した多谷千香子日本の元検事は、退任後に「民族浄化を裁く」との著書を表したが、これを見るとICTYがどのような認識で裁判を進めていたかの一端が読みとれる。この著者の記述は徹頭徹尾セルビア悪の予断に基づいており、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の大セルビア主義が紛争の元凶だと決めつけ、ユーゴ連邦人民軍を侵略軍と位置づけ、戦争の際にはしばしば現われるイエロー・ジャーナリストのロイ・ガットマン記者を評価し、スレブレニツァの虐殺を一方的情報で事実だと認定し、コソヴォ紛争はコソヴォ解放軍ではなくてミロシェヴィチが起こしたもの、との認識で記述している。

ICTYの判・検事たちのユーゴ連邦解体戦争に関する認識の低さがこの法廷を歪ませる

多谷ICTY元判事の著書からは、いかにICTYの判事・検事がヨーロッパやバルカンの歴史や国際政治力学に疎いかが伝わってくる。東欧社会主義圏の崩壊とともに、澎湃として湧き上がったユーゴ連邦各共和国の民族主義者を煽ったのは欧米とバチカン市国である。この民族の混住地域で一方的な民族主義者たちによる分離独立が強行されれば、紛争が起こることは目に見えていた。にもかかわらず、ドイツ、オーストリア、バチカン市国および米国が民族主義者を支持して煽り、分離独立を強硬に推し進め、それに周辺諸国が追随した。この西側の干渉が、ユーゴ連邦内の各共和国の民族主義者を鼓舞することになり、ユーゴスラヴィア連邦を内戦至らせた一因なのである。セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の各勢力それぞれが戦闘の過程で非人道的行為を行なったことは否定できないが、特定の勢力だけが突出して惨虐だったということはなく、犠牲者の数は民族の比率にほぼ合致している。英雄譚ならいざ知らず、破壊と殺戮を伴う戦闘行為に美しいなどということはあり得ない。だからこそ、武力衝突は避けなければならない。セルビア単独悪説は、ユーゴスラヴィア連邦を解体させるために武力紛争を惹起させることになった欧米諸国の、誤った外交と軍事力行使を糊塗するために展開したプロパガンダの1つである。この政治力学が、ICTYの判事・検事には理解できていない。

ミロシェヴィチが「大セルビア」を表明したことはない

多谷ICTY元判事はミロシェヴィチの大セルビア主義が元凶であるとしているが、ミロシェヴィチ大統領はユースラヴィア連邦を維持し、クロアチアとボスニアにおける少数民族となったセルビア人住民の権利を擁護したことは疑いないものの大セルビア主義に言及したことはない。当時、ユーゴ連邦政府を構成する要人の地位にあった者であれば、連邦の維持に尽力するのは当然である。クロアチア人のマルコヴィチ連邦首相も、当初は連邦を維持するために同族のクロアチア人に罵倒されながらもクロアチアの議会で連邦維持の必要性を演説するなど、懸命の努力をしていた。ミロシェヴィチ大統領に民族主義的要素がなかったとはいえないが、彼は民族の利益よりも新ユーゴ連邦と欧米諸国との関係の修復を優先する、いわゆる冷徹な合理主義者としてこの内戦に関与していたのである。

ICTYの法的な存立根拠に瑕疵があるとしても国際裁判は公正でなければならない

さらに多谷元判事は、「ICTYが設立当初からミロシェヴィチ大統領を戦犯として捜査・起訴していればスレブレニツァの虐殺やコソヴォ紛争は避けられたかも知れない」と述べているが、浅薄な理解といわねばならない。のちに国際司法裁判所・ICJは、スレブレニツァ事件に関し「新ユーゴ連邦およびセルビア共和国が組織的に関与したことは証明できない」との判断を示した。これだけでも、多谷ICTY元判事の推論がいかに見当違いだったかが分かる。また、スレブレニツァに国連保護軍として駐留していたオランダの国立戦争資料研究所も、ミロシェヴィチ大統領が関与した証拠はないとの結論を導き出している。

多谷ICTY元判事は著書の中で、ユーゴ連邦人民軍は侵略軍であるとの文言を頻出させているが、ユーゴ連邦では連邦人民軍を軍管区体制として各共和国に駐屯させていたのであって紛争が起きてから進駐したのではない。また、ロイ・ガットマン記者の評価は論外であり、ガットマンの記事がニューズ・ウィーク誌に掲載された直後にナイルズ米国務次官補が「セルビア人がボスニアに設置した強制収容所で拷問や殺害を行なっていることは確認できていない」と否定したことを上げるだけで、彼の記事の信憑性を否定するに充分である。因みにガットマン記者はボスニアに足を踏み入れたことはなく、クロアチアのザグレブで1人のムスリム人の証言だけをもとにして記事を書き上げた、典型的なイエロー・ジャーナリストである。多谷元判事の予断は尽く否定されるのだが、司法に係わるものが巷間に流布されている情報を事実として受け入れてしまう認識のありようには、軽薄の誹りだけでは済まない慄然とさせるものがある。

ここで取り上げたのは問題の一端にすぎないが、多谷ICTY元判事の個人的な思いこみや資質に帰すべきではなく、ICTY内部の支配的な雰囲気の中で醸成された判・検事たちの認識を表していると見るべきである。ここから汲み取れるのは、ICTYは政治的組織である国連安保理決議によって設置されたことから基本的な性格付けがなされた法廷であり、Justice・公平・公正・正義を体現する裁判所ではなく、国際社会の政治的卑俗さの中で運営されている政治的機関だということを明確に表している。

ICTYが不問にしたユーゴ連邦解体戦争における戦争犯罪

ICTYは、セルビア人勢力に対する起訴には力を注いだが、他の勢力が起こした戦争犯罪についてはほとんどを黙過した。「1,1991年から始まったクロアチア内戦時のクロアチア共和国のチェク将軍(のちのコソヴォ解放軍・KLAの司令官)の戦争犯罪に対しては、国連保護軍のカナダ部隊が集めた証拠を退けるという恣意的な対応を示した。2,クロアチア共和国軍が91年にドゥブロヴニクから4000人のセルビア人を追放したことも不問に付し、その隠蔽工作にも加担した。3,92年にボスニア・クロアチア人勢力がモスタル市から2万5000人のセルビア人を強制排除した事件も無視した。4,93年に、トゥジマン・クロアチア大統領がボスニアにクロアチア共和国軍を送り込み、ムスリム人勢力の地域を攻撃し、モスタルの古橋を破壊したことも不問に付した。5,クロアチア共和国軍が95年に実行したクロアチア・クライナ地方からセルビア人20数万人を追放し、虐殺した『稲妻作戦』や『嵐作戦』に関するトゥジマン・クロアチア大統領の戦争犯罪についても調査をする姿勢さえ見せなかった。6,サウジアラビアと米国が国連安保理の『旧ユーゴスラヴィア連邦への武器禁輸決議713』に違反し、ボスニア政府へ3億ドル相当の武器を密輸したことについても、ICTYは捜査をすることさえ拒否した」などである。

政治的意思によって訴訟指揮を貫いたICTY

ボスニア内戦による犠牲者数は、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領が誇張して述べた20万人や30万人ではなく、2007年にサラエヴォのミルサド・トカチャの調査センターが公表した10万人前後であることが判明している。民族別の犠牲者数は民族の割合をほぼ反映しており、戦争犯罪に類することも民族別に極端な差は認められない。にもかかわらず、この戦犯法廷が起訴した民族別件数は、セルビア人が圧倒的に多い。2008年4月の時点でICTYが起訴したのは、セルビア人93人、クロアチア人31人、ムスリム人14人、コソヴォのアルバニア系6人、マケドニア人3人であり、しかも判決の量刑に極端な差がある。ゴールドストーン首席検事が語った選択的、象徴的な起訴方針が貫かれたことが理解される起訴数である。

ICTYはユーゴ解体戦争で対立を先鋭化させ負の役割を演じた

ICTYは、ユーゴスラビアの解体戦争の真実を明らかにすることには、殆ど関心を示さなかった。ただひたすら政治的に膾炙された戦争犯罪者といわれる人たちを裁くことに努めたのである。このことは、設立と運営に関与した一部の者たちには政治的意思を貫き通し得たとして満足をもたらしもしたが、ICTYの行為はしばしば和平交渉の仲介者の眉をひそめさせてもいた。ICTYは、ユーゴ連邦解体戦争の停止に寄与するどころか、対立を煽り、和平を妨げ、一方的な断罪を行なって紛争の政治的解決を困難な状態に追い込み、内戦をより悲惨なものにするという負の役割を担ったのである。

国際刑事裁判所・ICCの模範とはならなかったICTYの訴訟指揮

ICTYは設立が予定されていた国際刑事裁判所・ICCの先駆としての役割が期待されてもいたのだが、模範どころかICTYの訴訟指揮の実態を見れば、国際裁判所に公平・公正・正義を期待することがいかに困難かの先例を示してしまったといえる。元来、政治的な鬩ぎ合いの機関である安保理によって権限と政治的な意味を付与された裁判所に、ICCに求められる公正な裁判を期待すること自体に無理があった。国際訴訟といえども、その時点の政治状況の影響力から逃れられない、という負のイメージを残す役割をICTYは演じたからである。所詮、ICTYは普遍的な国際裁判所としてではなく、安保理常任理事国の影響下にあった軍事裁判所に類する機能を発揮した政治的機関にすぎなかったといえる。

「人道的な罪」で訴追しながら非人道的な扱いに終始したICTY

ICTYは被告とした者たちを「人道に対する罪」で裁きながら、セルビア人被告に対する扱いは極めて非人道的なもので

あった。ジョルディ・ジュキッチ将軍は、癌にかかっており、それが極めて重篤であったにもかかわらず逮捕して拘留し、病院で治療することもしなかったために、5ヵ月後に死亡した。ミラン・コヴァチェヴィチも、逮捕されたのちに医療支援を受けられずに獄死した。モミール・タリッチも、ICTYの勾留施設で獄死している。

セルビア人のシモ・ドリェヤツァは逮捕の過程で、抵抗したとして射殺された。ドラガン・ガゴヴィチェもやはり逮捕の過程で殺害された。ノヴィツァ・ヤニッチは、ハーグへの引き渡しを拒んだ上で自殺したが、ハーグはのちにヤニッチの告発を撤回している。ヴライコ・シュトイリィコヴィチは、ハーグへの引き渡しを拒んで自殺を図った。ミラン・バビッチ・クライナ・セルビア人共和国大統領は、ICTYの勾留施設で自殺したと発表され、またスラヴコ・ドクマノヴィチもICTYの勾留施設で自殺したと発表されているものの、殺害された可能性も否定できない。スロボダン・ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦元大統領は、心臓病の疾患を患っていたが、彼がその治療を要求しても仮病だとして放置され、獄死したことなどから考察すると、ハーグの法廷を含む勾留所でのセルビア人への扱いは異常であったといえる。一方で、ハーグの勾留施設においてクロアチア人やムスリム人は1人も死亡していない。

ボスニア内戦は、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の3民族勢力が三つ巴で戦った紛争である。内戦の死者数についての調査は幾つかあるが、サラエヴォのミルサド・トカチャの調査センターが発表したものによると、死者・行方不明者は9万7200人で、その内ムスリム人が65%の6万3100人、セルビア人が25%の2万4300人、クロアチア人が8%で7700人、その他2%で1900人とある。確かにムスリム人の犠牲者数は多く、クロアチア人は少ないが、ムスリム人勢力がセルビア人勢力とクロアチア人勢力の双方と戦闘を交えたことから犠牲者が増大した可能性は否定できない。

人口比が91年の段階でムスリム人が43.7%、セルビア人が31.4%、クロアチア人が17.3%、その他7.6%で、ムスリム人人口が多数であったことからするとムスリム人の犠牲が極端に多いとは言い切れない。

クロアチア共和国が責任逃れの告訴を行なう

ICTYの裁判と並行して、当事国や周辺諸国でも派生的にユーゴ内戦の当事者を裁いた。クロアチア共和国の裁判所は、クロアチア人の戦犯容疑者に対して名ばかりの裁判を行ない、一事不再理の原則を盾にとってハーグへの引き渡しを事実上阻止した。

他方、クロアチア政府はセルビア人100人を容疑者不在のまま起訴するという行為をなしている。さらにクロアチア政府は、99年7月にユーゴスラヴィア連邦を「ジェノサイド罪」でICTYに告訴し、「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約の適用」を申請した。クロアチア政府は告訴の理由として、ユーゴ連邦がクロアチアのセルビア人勢力を軍事支援したためにクロアチア国民が推定2万人死亡したことを上げ、さらに95年5月から8月にかけて自らが行なった稲妻作戦および嵐作戦の際に、ユーゴ連邦政府がセルビア人住民をクロアチアから逃げるように唆して民族浄化の条件をつくったことなどを列挙した。クロアチア共和国軍は稲妻作戦および嵐作戦で、セルビア人居住地を砲爆撃で破壊し、殺害し、掃討しただけでなく、セルビア人が帰還しても生活ができないように地域のインフラを破壊し、家屋を破壊し、クロアチア共和国をクロアチア人のみの共和国にすることを企図した。のちに、協定によってセルビア人が元の村へ戻ると、住居が破壊されていただけでなく、クロアチア人に脅迫されて再び難民とならざるを得なかった事象である。告訴の意図は、クロアチア政府自身が行なった両作戦におけるセルビア人住民への残虐な武力行使による犯罪行為と、その後のセルビア人帰還民への対応に対する批判を、被害関係者を告訴することによって罪をセルビア側に転嫁し、思考を混乱させてトゥジマン大統領らが犯した罪から目を逸らせて訴追を免れようとする老獪な試みであったといえる。

NATO諸国も独自に戦争犯罪の裁判を行なう

ドイツのカイ・ネーム検事総長はセルビア人51人を捜査中であり、ハーグへの引き渡しを可能にする法律を準備中だと言明した。ドイツ政府はこの発言に呼応するように、ボスニアの正体不明の人権団体が提出した1300名の戦争犯罪者名簿に基づいて、身元も確認せずにセルビア人を逮捕した。逮捕された者が無実を訴えても、ドイツの判事は私に裁判権はないと言い放ちハーグに送り込んだ。オーストリアの検察は、ボスニアのセルビア人が仮収容所で1人を殺害したとして、大量殺害容疑で起訴した。1人の殺害に大量殺害容疑が適用されたことは関係者に衝撃を与えた。オーストリアの迎合した起訴は、何らの証拠を示すことが叶わす、容疑者は結局無罪で釈放される。デンマークの裁判所は、1人のムスリム人を、クロアチア人たちが収容者を殺害するのを手伝ったとして起訴し、禁固8年の判決を言い渡した。

ICTYは2001年1月、ボスニア政府から引き渡されたボスニアのスルプスカ共和国のセルビア人クルスマノヴィチ大佐の審理を行なったが、大量殺人を行なった証拠はないとして無罪とした。しかし、その身柄を釈放せずに、対立するボスニア政府に引き渡すという、裁判所規程にも定めのある一事不再理の法原則にも反する著しい人権侵害行為をも行なった。クルスマノヴィチ大佐の身柄を渡されたボスニア政府は、彼を独自の裁判にかけることになる。

偏見と権益と国際政治力学に支配されたICTY

2013年4月10日、ニューヨークの国連本部でICTYの活動に関する検討会が開かれた。その検討会に出席したトミスラヴ・ニコリッチ・セルビア大統領はICTYの公平性について言及した。ユーゴ連邦解体戦争において「セルビア人が戦争犯罪行為でICTYから受けた刑期の合計は1150年であり、それに対するムスリム人およびクロアチア人が受けた刑期の合計は55年にすぎない。これは明らかに公平性を欠いている」と指摘した。1150年と55年の比率は21倍である。この極端な刑期の差はICTYが明らかにセルビア悪に基づく偏見と欧米諸国の国際政治力学が加味された結果といえる。あるいは、ICTYが公正を本務として思量したとしても、認知バイアスに陥っていたことを示しているといっていい。国際裁判であるが故に、公正と公平と正義が支配すると考えるのは幻想であることを、はしなくもこの計数は示している。

ICTYが起訴した人数は161人、その内91人が有罪、18人が無罪、起訴取り下げ20人、死亡17人である。10%を超える人が死亡するというのは異常と言える。

ICTYは任務を全うせずに閉廷し特別法廷に審理を委ねる

ICTYは2017年12月21日に閉廷式典が行なわれたが、ICTYが起訴した者の審理と判決が完了したわけではない。その余は残務として国連国際刑事裁判メカニズム、即ち特別法廷が引き継いだ。その特別法廷が審理を続けて出した主な判決は、2018年4月11日にセルビア人勢力の民兵組織を率いたヴォイスラヴ・シェシェリ・セルビア急進党元党首の禁固10年の判決と、2019年3月20日にラドヴァン・カラジッチ・スルプスカ共和国元大統領に出した終身刑である。シェシェリについては何故か刑期を満たさずに釈放している。

カルラ・デル・ポンテ元首席検察官が著書で暴露したにもかかわらず、ICTYが起訴しなかったことでコソヴォ独立政府の要職に就いたハラディナイ首相とタチ大統領は、その罪障がEU議会で取り上げられたのちに、特別法廷が審問を始めたことになる。そのため、ハラディナイ首相が2019年7月、タチ大統領が2020年11月に辞任を余儀なくされた。21年の段階で特別法廷の審理の結果は不明である。

ICTYに関与した首席検察官と裁判所長

ICTY裁判所長                                                首席検察官

アントニオ・カッセーゼ(伊)(93年11月~97年11月)        ラモン・E・サロム(ベネズエラ)(93年10月~93年12月)

ガブリエル・K・マクドナルド(米)(97年11月~99年11月)    グラハム・グレウイット()(93年12月~94年8月)

クロード・ジョルダ(仏)(99年11月~03年2月)              リチャード・ゴールドストーン(南ア)(94年8月~96年9月)

テオドール・メロン(米)(03年2月~05年)                  ルイーズ・アーバー(加)(96年10月~99年9月)

ファウスト・ポカール(伊)(05年~08年)                   カルラ・デル・ポンテ(スイス)(99年8月~07年9月)

パトリック・リプトン・ロビンソン(ジャマイカ)(08年~11年11月) セルジュ・ブラメーツ(ベルギー)(08年1月~14年5月~)

テオドール・メロン(米)(11年11月~17年12月)

<参照;ミロシェヴィチ、トゥジマン、イゼトベゴヴィチ、嵐作戦、コソヴォ解放軍、スレブレニツァ事件、報道機関の対応>

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23,ユーゴ戦争と「国際司法裁判所・ICJ

ICJは常設国際司法裁判所・PCIJの後継組織

国際司法裁判所・ICJ(International Court of Justice)の前身は、1922年に国際連盟の中に設置された「常設国際司法裁判所・PCIJ」である。第2次大戦後の1946年、国際連合の中に国際司法裁判所・ICJが設置されたのに伴い、PCIJは閉鎖された。

ICJは国連の主要な常設の司法機関として、国際司法裁判所規定に基づいて運営され、オランダのハーグに本部を設置している。裁判官は国籍の異なる15人で構成され、安保理および総会で選出する。任期は9年間である。役割は、国家間の法律的紛争を裁判によって解決し、または法律的問題に意見を付与し、判決・命令を出す権限を持つ。国連付属機関が法的意見を求めた場合には「勧告的意見」を出すことができる。

当事者となるのは国家のみで、個人や法人は対象とならないが、その当事国は国連加盟国の他、非加盟国でも国連総会の決議で当事国となることができる。ただし、裁判を開始するためには当事国となる国家が同意しなければならない。

ボスニア政府は頻繁にICJの判断を求める

ユーゴスラヴィア問題では数回関わっている。最初は、1993年3月20日にボスニア政府が提訴したセルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国で構成する新ユーゴ連邦政府に対する案件である。新ユーゴ連邦がボスニア内戦において、集団虐殺禁止条約、戦争犠牲者保護に関する4条約、国連憲章などの国際合意に違背しており、「1,人権侵害の即時中止。2,ボスニアが外部から軍事支援を受ける権利の確認」を求めるというものである。司法裁判所は、提訴から3週間足らずの93年4月8日、新ユーゴスラヴィア連邦政府がボスニア内戦の直接の当事者ではないにもかかわらずICJは、「ボスニアでの虐殺行為防止のために、あらゆる努力をするよう求める」との裁定を下した。

2件目は、やはりボスニア政府が「デイトン和平交渉」が成立してボスニア内戦が終息した1996年に、「92年から95年にかけての内戦時にセルビア共和国政府がイスラム教徒を殺害したのは『国家的ジェノサイドである』として提訴した。この判決は2007年2月26日になって出された。判決は、「1,92年から95年のボスニア紛争中に発生したセルビア人勢力による一連の行為は、ジェノサイド条約上のジェノサイドとはいえない。2,セルビア政府が国家的なジェノサイドを行なったと認定することはできない。3,スレブレニツァについてはジェノサイドと認定するが、スレブレニツァ事件についての行為を行なった団体自体または代表がユーゴスラヴィア連邦の国家機関であったとはいえない。4,ユーゴスラヴィア連邦による指示または実行支配下で行なわれたともいえない。セルビア共和国の国家自身の責任を認定することはできない。5,ジェノサイド条約に規定されている防止義務については、ボスニアのセルビア人に影響力があることを重視し、セルビア共和国が同条に違反したと認定する」というものであった。このようにボスニア内戦時のムスリム人勢力への殺害については、セルビア政府の国家的関与はなかったとの判断を示しているが、スレブレニツァの殺害については、民兵組織による「ジェノサイド」があったとの裁定を下した。ただし、この裁定を下すにあたってICJは独自の実質的証拠調べは行なわず、国連の「スレブレニツァ陥落報告書」と「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の証拠によって判断した。

NATOの「ユーゴ・コソヴォ空爆」については管轄権に欠けるとして却下

3件目は、新ユーゴスラビア連邦政府が1999年4月28日に、米国が主導したNATO軍の空爆に対し、「1,NATO軍10ヵ国の空爆を停止させる仮保全措置を指示すること。2,ユーゴ連邦の領土に対するNATO軍の攻撃の適法性について」の判断を示すことをICJに求めた。ICJの裁決の内、1の空爆停止措置については、米国がこの訴訟に同意していないことから「管轄権に明らかに欠ける」との裁定を99年6月2日に出した。2の適法性についても、5年以上を経た2004年12月に管轄権がないとして却下した。スレブレニツァの事案については管轄権を認め、NATO軍および米国の行為については裁く管轄権はないと否定している。スレブレニツァについては裁判を国家が同意したが、NATO軍は裁判に同意しなかったから管轄できなかったということなのである。この事例は、強者は裁けないということを示している。

2008年2月に、コソヴォ自治州が独自に独立を宣言したが、セルビア共和国はこの独立を国際法上許されない行為として、ICJの判断を求めた。ICJは2010年7月22日、「国際法は、一般的に独立宣言を禁じる規定はない」としてコソヴォの独立宣言は妥当との判断を示した。この判断は、2014年のウクライナ政変時に行なわれたロシアによるウクライナ・クリミア半島の併合に正当性を与える口実となる。プーチン・ロシア大統領の「コソヴォの例がある」との主張に根拠を与えたからである。

<参照;ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、セルビア、スレブレニツァ事件 旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY>

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