ユーゴスラヴィア連邦解体戦争・コラム

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(1)地域・領土

 

1,*「バルカン地域

2,*「バルカン地域の主な民族

3,*「ユーゴスラヴィア王国

4,*「ユーゴスラヴィア連邦

5,*「旧ユーゴスラヴィア連邦の社会構成

6,*「旧ユーゴスラヴィアの人口構成

7,*「旧ユーゴスラヴィアの宗教分布

8,*「セルビア

9,*「モンテ・ネグロ(ツルナ・ゴーラ)

10,*「スロヴェニア

11,*「クロアチア

12,*「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

13,*「マケドニア

14,*「コソヴォ自治州

15,*「ヴォイヴォディナ自治州

16,*「クライナ地方・軍政国境地帯

17,*「ダルマツィア地方

18,*「アルバニア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1,「バルカン地域」

バルカンの総面積はおよそ77万平方キロ、人口は凡そ6700万人。「バルカン」とは山脈を意味するトルコ語で、オスマン帝国が用いた地域への呼称である。現在のバルカンといわれる諸国にはアルバニア、ギリシア、クロアチア、スロヴェニア、セルビア、ブルガリア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、モンテ・ネグロ、ルーマニア、およびトルコの一部が含まれるが、多数を占めるのはスラヴ系諸族である。バルカン諸国といわれるのを好まない人たちもいる。クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの中のボスニア連邦である。

バルカンはヨーロッパにおいて最初に農耕社会が成立した地域である。ギリシアのポリスに見られるようにヨーロッパにおいて都市が築かれたのもバルカン地域が最初といわれる。

古代バルカンには、イリュリア人、ギリシア人、ゲタイ人、スラヴ人、トラキア人(ダキア人)、パンノニア人、マケドニア人、モエシア人がいた。言語的には、インド・ヨーロッパ語族に属する。スラヴ族の出自はドニエブル川沿岸だといわれるが、明確ではない。古代スラヴ語は11世紀末くらいまではほとんどのスラヴ族に通じた。その後各地に散ったスラヴ族は方言が発達し、また列強支配の影響を受けてそれぞれの地域で言語を発達させた。そのために、現在は東スラヴ語(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)、西スラヴ語(スロヴァキア、チェコ、ポーランド)、南スラヴ語(クロアチア、スロヴェニア、セルビア、ブルガリア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、モンテ・ネグロ)に分類される。スラヴ族は2億人を超えるヨーロッパ最大の民族である。

バルカンはその名の通り山がちであるがルーマニアに見られるように農耕地に適した平原もある

バルカンはルーマニアのカルパチア山脈、ブルガリアのバルカン山地、ロドペ山地、旧ユーゴスラヴィアのシャール山地、ベレビト山地、ベリカペラ山脈、ギリシアのピンドス山地、オトリス山地などが走っている山塊の多い地域であり、黒海、エーゲ海、イオニア海、アドリア海など海にも囲まれている。

バルカンには6世紀の半ば、モンゴル系の遊牧民族と言われるアヴァール族が現れ、支配下においたスラヴ民族とともにバルカンに侵入する。このようにバルカンには内陸アジアの騎馬民族も痕跡を残したが、もっとも影響を与えたのはギリシアとローマである。ギリシアには数万年前から人々が居住したと言われるが、前22世紀ごろがバルカンの南海岸地帯を支配し始めた。そのため、この地域にはギリシア文化の影響が色濃く反映され、地名にそれが残されている。ドナウ、サヴァ、ボスナ、ドリナ、ネレトヴァ、モラヴァ、イスケルなどがそれである。

民族の通過地点としてのバルカンは南スラヴ族が多数を占める

バルカン諸国のうち南スラヴ族が多数居住する地域は、クロアチア、スロヴェニア、セルビア、ブルガリア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、モンテ・ネグロである。

スロヴェニア」は、南スラヴ民族系のカランタン人がカランタン公国を設立したが、まもなくフランク王国に支配される。14世紀以降は神聖ローマ帝国の領土に編入される。15世紀にはハプスブルク帝国の所領になったが、独立国を目指す意欲は希薄であり、20世紀に至るまで国家を形成したことがない。宗教はハプスブルク帝国やハンガリーの影響を受け、カトリックが優勢であり、文化もハプスブルク帝国の影響を色濃く受けている。

クロアチア」は、スロヴェニアとともにフランク王国の支配下に入る。ローマ帝国が東西に分裂すると東ローマ帝国を引き継いだビザンツ帝国の支配下に入る。9世紀頃クロアチア人としての意識が芽生えて一体化が進み、南スラヴ民族としてのクロアチア人が王国を形成したのは924年である。しかし、まもなくハンガリー王国に滅ぼされ、セルビアおよびボスニアとともに支配下に置かれた。14世紀には勃興したオスマン帝国の支配を受ける。

セルビア」は、南スラヴ民族として6世紀にバルカンに移住。長い間ビザンツ帝国の支配下に置かれた。宗教は一族がローマ教会に接近するが、再びビザンツ帝国に征服されたことで正教徒が多数を占める。1168年にステファン・ネマニャがセルビアのほとんどを統一してネマニッチ朝を創設し、セルビア王国を建国した。14世紀にはステファン・ドシャンが中世セルビアの黄金時代を築く。しかし、このころからオスマン帝国のバルカン侵攻が始まり、1389年6月28日にコソヴォにおける戦いで、セルビアのラザール公率いるキリスト教諸侯軍が敗北してオスマン帝国の支配下に入った。

モンテ・ネグロ(ツルナゴーラ)」・黒い山はイタリア語による他称である。地元ではツルナ・ゴーラと称している。他称の通りの山がちな国で、セルビア人と同じスラヴ族で明確に区別はできない。モンテ・ネグロの地において1040年にゼータと称した公国が設立されているが、これはセルビア人による国家といわれている。しかし、国際社会に認知されたのはいわゆる露土戦争後の1878年に結ばれたサン・ステファノ条約やロンドン条約によって承認されてからである。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」は、山岳で隔てられる地域であったことから分割支配が続き、統一する勢力は現れなかった。12世紀には、クロアチアやハンガリーおよびセルビアによって分割支配される。14世紀にトブルトコが国内の対立する勢力を鎮圧して王国とする。そののち400年間オスマン帝国に支配されることになる。このとき、支配階級の中から権益を得るためにムスリムに改宗するものが多数に上った。

マケドニア」は、アレクサンドロス大王を輩出したギリシア地域を支配した古代マケドニアの地域および民族と同一ではない。マケドニアにも南スラヴ族が6世紀頃に移住し始めた。そののち、ビザンツ帝国がバルカン地域支配の拠点として一時期統治下においた。13世紀には第2次ブルガリア帝国が版図を拡大し、その中にマケドニアが入った。そのため言語にブルガリア語の影響が入った。14世紀にはセルビア王国に一時期支配される。セルビアのドシャン王は、バルカン半島の3分の2を支配し、マケドニアのスコピエで戴冠式を行なっている。しかし、まもなくオスマン帝国に支配されその期間は500年に及んだ。その間に国家を再興させるような運動は起きていない。

ブルガリア」は、7世紀に黒海北岸に成立したブルガール人部族連合国家がハザール王国に追われてバルカンに移動したことに始まる。9世紀にビザンツ帝国との戦争に勝利して南スラヴ民族を支配し、アドリア海に至る第1次ブルガリア帝国を建国して隆盛した。ところが、数の上で優る南スラヴ民族に同化されてブルガリアはスラヴ化してしまう。

東西キリスト教に挟まれたブルガリアは、やがてビザンツ帝国の東方正教を選択した。こののち、ブルガリアはビザンツ帝国に滅ぼされて一時期消滅する。12世紀になると第2次ブルガリア帝国が再興され、13世紀にはマケドニアを含む最大版図を形成した。この歴史的経緯があるためにブルガリアはマケドニアの権益にこだわることになる。しかし、14世紀に入るとブルガリアはオスマン帝国に征服され、19世紀まで支配され続けた。

ルーマニア」は一般的にトラキア人(ダキア人)・ゲタイ人を先祖とするといわれているが、BC106年にローマ帝国に占領され、およそ160年間支配され続けたことでローマの土地としての「ルーマニア」と言われるようになった。ただし、ルーマニアとしての国家の正式呼称は1862年に至ってからである。キリスト教の受容はブルガリアの東方正教から始まったが、その後ハンガリーの影響を受けてカトリックも入ることになる。しかし、国家を形成したのはかなり遅く、14世紀にワラキア公国を創設したのが最初である。その後オスマン帝国に支配される。

アルバニア アルバニア人は古代イリュリア人を先祖とするといわれ、スラヴ族ではない。言語はインド・ヨーロッパ語族。民族は、アルバニア人が大半を占めるが、ギリシア系住民が12%ほど南部国境付近に居住している。14世紀から15世紀にかけてオスマン帝国がバルカンに進出した際、スカンデルベグが一時期抵抗したものの、敗北して支配されることになる。このオスマン帝国の支配下で、多くのアルバニア人がキリスト教からイスラム教に改宗した。当時のアルバニアにおける宗教分布は、北部の10%がカトリック教徒、南部の20%が東方正教、70%がイスラム教徒である。アルバニアは19世紀になるまで500年間オスマン帝国に支配され続け、目立った動きはなかった。 

「ギリシア」は、数万年前から人が住み始めたといわれるが、有史として記録されるのはBC2200年頃からである。文字を発明したのはBC800年頃である。その後、4大文明といわれるナイル文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明とならび称されるほどの文明を形成した。いわばヨーロッパ文明の発祥の地と言っても過言ではない。

ギリシア人は、黒海、エーゲ海、アドリア海に至る沿岸から北上してポリスを形成し、最盛期にはポリスは1500に達したといわれる。ポリスは都市国家と称されることが多いが、必ずしも都市を形成したわけではないので「共同体国家」との呼称がふさわしい。BC5世紀から4世紀にかけて西洋哲学の基礎を築いたソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者を輩出させた。

紀元前4世紀にマケドニアが勃興し、ギリシアのポリスを征服し始める。アレクサンドロス3世はアリストテレスの薫陶を受けたと言われているが、BC336年に王位に就くとアルバニア人の先祖といわれるイリュリア諸族を征服し、さらにギリシアのほぼ全土を支配下に置くと東方遠征を始めた。BC333年にペルシャを支配し、BC331年にはエジプトを征服してプトレマイオス朝を建ててアレクサンドリアを建設する。さらに、BC326年にはインドのパンジャブにまで侵攻した。しかし、長期の遠征に疲れ切った部下の諫めを受けてBC324年にバビロンに帰還するが、再びアラビア半島の遠征を企図したとき熱病にかかり、BC323年に32歳の若さで死去した。アレクサンドロスの死後、彼が築いた広大なギリシア帝国の後継を巡ってペルディッカス、アンティパトロス、アンティゴノス、デメトリオス、リュシマコス、セレウコス、エウメネス、プトレマイオスに分裂して熾烈な闘争が起きて衰退した。

BC2世紀にローマ帝国が台頭し、ギリシアは属州とされた。西暦4世紀にローマ帝国は東西に分割され、東ローマ帝国はビザンツ帝国となり、一時的にギリシアは消滅した。その後フン族やゲルマン系の東ゴート族に襲われるが、いずれも定着するには至らなかった。ビザンツ帝国は次第にギリシア化されていくことになるが、ビザンツ帝国は、隣接するペルシャ帝国との戦争を続ける中、度重なる異民族の侵入に対しては守勢に回らざるを得ず、南スラヴ民族の定住を許し、バルカンのスラヴ化が現出した。

バルカン諸国はオスマン帝国に支配される

オスマン帝国のバルカン侵攻は14世紀にはじまり、1389年にセルビアが占領され、1394年にワラキアを支配下に置く。1453年にはビザンツ帝国のコンスタンチノーブルを陥落させたことでビザンツ帝国も消滅する。しかし、ギリシア人は残った。さらに、1456年にはモルドヴァを、1459年にセルビア、1463年にボスニア、1483年にヘルツェゴヴィナ、1499年にモンテ・ネグロ、1502年にアルバニアを占領するなどバルカン諸国の大半はオスマン帝国の支配下に入った。

オスマン帝国は、16世紀には最盛期を迎え1529年には第1次ウィーン包囲をするに至るまでになる。そして、1683年には第2次ウィーン包囲を行なうが、この時はポーランド軍の奇襲にあって手痛い打撃を受けて敗退する。この敗北が、オスマン帝国の衰退への道を辿らせることになるが、それでもバルカン諸国の支配は20世紀まで続いた。

ウィーン包囲を2回にわたって経験したハプスブルク帝国は、オスマン帝国の侵入に備えるために、ハンガリーからアドリア海に接するダルマツィアまで軍政国境地帯(クライネ)を設置し、主としてセルビア人とクロアチア人を入植させた。いわば屯田兵を入植させて防備を固めたのである。これがクライナ(辺境)地方の名称の始まりである。

バルカン諸国は19世紀までオスマン帝国の支配下に置かれるが、400年にわたって支配したにもかかわらず、イスラム教がボスニアとアルバニアおよびマケドニアの一部以外に拡大しなかったのは、オスマン帝国がユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」として尊重し、租税を納めることを優先してイスラム教への改宗にそれほどの熱意を示さなかったことがある。

そのためバルカンの宗教分布は、西ハンガリーおよび北西のスロヴェニアとクロアチアではカトリック教が優勢で、南部および南西バルカンのブルガリア、セルビア、ギリシアなどでは東方正教が優位を保った。イスラム教はボスニア・ヘルツェゴヴィナ、アルバニア、西部マケドニアで改宗が進んだのはイスラム教に改宗したことが支配階級に上昇する可能性が高かったからからである。ユダヤ教徒は、オスマン帝国がヨーロッパ諸国で迫害されたユダヤ人を受け入れたこともあり、バルカン諸地域に多数在住することになった。

バルカン諸国に民族国家が成立

18世紀から19世紀かけてバルカン諸国にも民族主義が萌芽し、民族国家を目指す独立運動が頻発するようになる。ギリシアは、1821年にオスマン帝国からの独立を目指して反乱を起こす。戦いには敗北するが列強の介入を受けて1830年、バルカン諸国では最初にオスマン帝国からの独立王国となることが認められた。

しかし、それ以外のバルカン諸国は単独で独立を確保するには至らず、1878年の露土戦争後に列強が介入したサン・ステファノ条約とベルリン条約をまたなければならなかった。しかも、この時に独立国家として認められたのは、モンテ・ネグロ王国とセルビア王国そしてルーマニア王国のみであり、ブルガリアは自治公国にとどめられた。なお、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の力は強大であった。

1912年、オスマン帝国が支配するマケドニア、アルバニア、コソヴォ、トラキアを奪還するために、モンテ・ネグロ、ブルガリア、セルビア、ギリシアの4ヵ国が「バルカン同盟」を形成し、オスマン帝国に宣戦を布告し、第1次バルカン戦争を始めた。備えが十分ではなかったオスマン帝国の敗北が明らかになると、列強が介入しロンドン講和会議が開かれた。

このときに結ばれたロンドン条約でマケドニアに関するブルガリアの権益がほとんど認められなかったことから、ブルガリアがギリシアとセルビアのマケドニア進駐部隊を1913年6月に攻撃した。このことで、第2次バルカン戦争が起こされた。このブルガリアの思慮を欠いた戦争にはギリシアとセルビア側にルーマニアとオスマン帝国まで加わったためにブルガリアは孤立して敗北した。この後に結ばれたブカレスト条約で、アルバニアの独立が認められ、ブルガリアはマケドニアの一部の領有は認められたものの、ルーマニアに南ドブルジャを割譲させられた。

この条約によって、ハプスブルク帝国は漁夫の利を得るが如くしてオスマン敵国の支配地域だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを確保し、1908年にはこれを併合した。このことが、第1次大戦の遠因となる。この併合に反発したボスニア内に「ボスニア青年運動」が勃興し、秘密結社が多数叢生することになったからである。

第1次大戦は領土分割の欲望が背景となった戦争

1914年6月28日、秘密結社の中の「黒手組」のセルビア人が、ボスニアのサラエヴォで行なわれた軍事演習の観閲に訪れたハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子を爆弾と銃撃で暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。ロシア帝国が仲裁に入り、それに応じたセルビア政府が大幅な譲歩案を提示するが、ハプスブルク帝国はそれを一顧だにせず、ドイツ帝国との同盟を確認すると最後通牒を突きつけ7月28日にセルビア王国に宣戦を布告した。この第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は、当初の予想を覆して第1次大戦へと展開することになる。

第1次大戦は、ハプスブルク帝国を形成しているオーストリア・ハンガリーとドイツが同盟を形成し、セルビア側には英・仏・露の三国協商がついて戦われた。当時、遅れてきた植民地国としてのドイツと英仏間は緊張状態にあり、また三国協商側は衰退しつつあったオスマン帝国の解体による中東への支配を目論んでいた。バルカン諸国もそれぞれに領土的野心を抱いていて、きっかけさえあれば戦争に至る状況の中にあったのである。

第1次大戦はそれぞれの思惑を内包して同盟国側と協商側に分かれて戦われた。同盟側にはオスマン帝国とブルガリア、ハプスブルクの支配下にあったスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの住民が徴兵さて参戦させられた。協商側はモンテ・ネグロ王国、イギリス王国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国、ルーマニア王国、ギリシア王国である。ルーマニアはロシアの軍事力をあてにして協商側について参戦する。ギリシアは両派に分かれて分裂状態にあったものの17年6月にヴェニゼロス宰相が臨時政府を樹立し、コンスタンティノス国王に退位を迫り協商側について同盟側に宣戦を布告した。

ハプスブルク・ドイツ同盟側が敗北しドイツに苛酷な賠償が課せられる

1918年9月にハプスブルク帝国が講和を申し出、ドイツ帝国内では厭戦気分も手伝ってドイツ革命が起こり、居場所を失った皇帝ウィルヘルムがオランダに亡命し、ハプスブルク帝国のカール世が退位したことにより、4年間戦われた第1次大戦は1918年11月に終結した。

この大戦において、同盟を形成したハプスブルク帝国とドイツ帝国は瓦解し、ブルガリア帝国もオスマン帝国も消滅した。ロシア帝国は革命によって崩壊するなどしたことで、大英帝国を除いてヨーロッパの帝国と称した国のほとんどが姿を消した。その結果、ハプスブルク帝国はスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を失い、ブルガリアはワラキアをルーマニア領割譲し、トラキアをギリシアに、西部国境地帯をセルビアに割譲した。

戦勝国となったセルビア・クロアチア・モンテネグロ・ボスニア・ヘルツェゴヴィナは統合され、1918年12月1日に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」を建国し、セルビア人のアレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政に就き、のちに国王となった。そして、アレクサンダルは1929年1月6日に「ユーゴスラヴィア王国」と改称し、独裁体制を固めていく。アルバニアは条約によって独立国となった。

バルカン諸国はナチス・ドイツの台頭を警戒したが経済恐慌に喘いだ

戦後の混乱から安定に向かいつつあった世界経済は、戦勝国として享楽した米国発の恐慌が農業国だったバルカン諸国を痛撃した。当時の農林水産業の従事者は、ユーゴスラヴィアが76%、ブルガリアが75%、ルーマニアが72%、アルバニアが80%、ギリシアは60%であった。このように農業従事者が大半であったにもかかわらず、人口増加に追い付く農業技術の革新は進まず、農民の生活は経済恐慌にあえいだ。そのため農民の不安は増大してクロアチア農民党やファシズムや共産党など様々な政党の活動が活発化し、それへの対処としてアレクサンダル・ユーゴ国王は中央集権的な独裁体制を強めた。

ヒトラーの第三帝国建設の妄想から第2次大戦が始まる

ドイツでは恐慌の中にナチズムが台頭しており、ナチズムを率いたヒトラーは33年1月に政権を掌握すると、3月に全権委任法を制定し、10月には国際連盟から脱退する。バルカン諸国は危機感を抱き、33年にユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、ルーマニア3国が小協商会議を開き共通の安全保障を協議した。翌34年にはユーゴスラヴィア、ルーマニア、ギリシア、トルコによる「バルカン協商」が締結されたものの、ナチス・ドイツに対してはほとんど無力であった。この時期、ナチス・ドイツの政策も相俟ってバルカン諸国のドイツへの経済的依存度は極めて高く、貿易はユーゴスラヴィアが輸出入とも50%、ブルガリアは輸出の63.6%、輸入が57.9%、ルーマニアは輸出の35.9%、輸入が48.5%であり、ドイツと断絶して経済を運営することは困難であった。4ヵ国による同盟を結んだといえ、工業化の進んでいたドイツとの軍事力の格差を補うことは論外であった。

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領を兼任して総統兼首相に就任する。1935年には国際連盟の管理地区だったザール地方を確保し、36年にはスペイン内戦に加担してゲルニカを空爆する。38年3月には親ナチと化していたオーストリアに進駐して合併化。9月にはチェコスロヴァキア領となっていたズデーテン地方を英・仏・伊の列強を巻き込んだミュンヘン協定を開かせて併合した。ヒトラーはこれに満足せず、39年3月にはチェコスロヴァキアに進駐して占領してしまう。

さらに、ナチス・ドイツは1939年8月23日にソ連との間に独ソ不可侵条約を結んでポーランドの分割を密約し、およそ1週間後の9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。

英・仏は直ちにナチス・ドイツに宣戦布告をするが、有効な戦線を構築できなかった。それを見透かしたナチス・ドイツは、翌40年4月にはデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領。5月に英国の大陸遠征軍をフランス領ダンケルクから追い落とすと、フランスの要塞であるマジノ線を迂回する形で6月には早くもパリに入城して勝利を宣言した。なお、ナチス・ドイツは英本土上陸作戦を企図する「海獅子作戦」を発動したが、これは英国の海空の頑強な抵抗に遭ったためにこれを一時断念する。

ナチス・ドイツは無謀な対英・ソ二正面作戦を敢行する

英本土上陸作戦を一時的に断念したヒトラーは、ソ連を植民地化してその物量をもって再度英本土上陸作戦を行なう方針へと転換し、対ソ戦の立案を命じる。その作戦は「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。ヒトラーは対ソ戦を遂行するためには軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの安定を確保する必要があると考え、バルカン諸国を支配下に置く計画を実行に移し始めた。そこで、40年11月にはハンガリーとルーマニアおよびチェコスロヴァキアを同盟側に加盟させ、次いで41年2月にはブルガリアを同盟に加盟させた。

残るはギリシア王国とユーゴスラヴィア王国である。この時期、ギリシアには既に英国軍が海上を通じて支援を実行しており、これを同盟国とすることには無理があった。そこで、ギリシアを占領するための「マリタ作戦」が立てられる。一方のユーゴスラヴィア王国も第1次大戦でドイツを敵国として戦った経緯があったために、中立国の維持に拘っていた。しかし、3月にナチス・ドイツは圧力をかけつつ中立的立場を保証するとの条件付きの提案に王国政府は渋々と加盟を同意した。

ところが、先の大戦で敵対したドイツとの同盟を潔しとしない市民とユーゴ王国軍が協調して軍事クーデターを起こして内閣を倒した。これを見たヒトラーは、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴスラヴィアに拡大適用して4月6日に、イタリア、ブルガリア、ハンガリーの同盟国とともにユーゴスラヴィア王国とギリシア王国とに侵攻して全土を分割占領した。

同盟国側は1次大戦で割譲させられた地域を確保し、ブルガリアはマケドニアを、ハンガリーはバラニャを、ドイツはスロヴェニア北部とクロアチアおよびセルビアとクライナを、イタリアはスロヴェニアのリュブリャナ以南とダルマツィアの海岸地帯と諸島ならびにボスニアの一部およびアルバニアを支配し、モンテ・ネグロを保護領とした。ギリシアは、ナチス・ドイツの直接の占領下に置かれた。

クロアチアはファシスト・グループ「ウスタシャ」が傀儡政権を設立する

ファシスト・グループ・ウスタシャの思潮が支配的だったスロヴェニアとクロアチアは、ナチス・ドイツの侵攻を大歓迎する。41年4月9日、ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリチはイタリアから帰還し、ナチス・ドイツの庇護を受けてクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含む傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。パヴェリチのクロアチア独立国政府はただちに「クロアチア郷土防衛隊」を創設し、次いで「ウスタシャ民兵」を編成。この軍事組織を基に純粋なクロアチア人による国家の建設を掲げ、敵対勢力と位置づけたセルビア人やロマ人の少数民族を拘束し、排除し、虐殺し、ユダヤ人はナチス・ドイツの「最終解決」に協力して収容所に移送した。

ユーゴ王国内に同盟軍への抵抗組織チェトニクとパルチザンが結成される

ユーゴスラヴィア王国内には、王党派政府軍の残党が「チェトニク」を組織して対独戦の戦闘を企図する。一方、同盟国側占領軍に対するレジスタンスとしての「パルチザン」が結成される。王党派のチェトニクは、結成当初は同盟国軍と戦うと宣言したものの、ナチス・ドイツに殲滅すると脅迫されるとたちまち屈してパルチザンやウスタシャとの支配領域争いに転じた。このため、パルチザンは同盟国占領軍とウスタシャ政権軍およびチェトニク王党派軍との困難な戦いを強いられることになる。

バルカン諸国の中で、大戦中に武力抵抗組織が結成されたのはユーゴスラヴィアとアルバニアおよびギリシアのみである。ユーゴスラヴィアは、この同盟国軍に対する抵抗とウスタシャおよびチェトニクとの厳しい内戦で、ヨーロッパで最も破壊された国となった。しかし、この戦闘でナチス・ドイツ軍はおよそ20個師団が膠着させられるなどの苦戦を強いられることになる。

ナチス・ドイツの対ソ「バルバロッサ作戦」は成功するに見えたが

ナチス・ドイツ軍はユーゴスラヴィアとギリシアを占領すると、41年6月22日にバルバロッサ作戦を発動し、ナチス・ドイツ軍300万の兵員と同盟国の250万と合わせて550万の兵員を北方・中央・南方の三方面軍に編制してソ連領に侵攻した。ナチス・ドイツの侵攻への態勢を整えていなかったソ連軍はずるずると敗走を続け、9月にはモスクワ近郊まで押し込まれた。そして政府機関の一部と外国の公館の後方への移動を行なわざるを得ないほどに窮迫し。しかし、在日ドイツ大使館の要員にもなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、日本は南方に関心が移りシベリアを攻撃することはないとの情報をソ連に向けて送信した。この情報によって日本との戦闘に備えてシベリア地方に配備していた精強な部隊を呼び戻してモスクワ防備に充てる。さらに、米国が英国のために制定した「武器貸与法」の拡大適用を受けて物資の支援を受けるようになると、ソ連赤軍はナチス・ドイツへの本格的な反撃を開始する。

ナチス・ドイツの南方軍は、9月にウクライナのキエフを陥落させた余勢を駆って、42年8月から象徴としてのスターリングラードの攻略とバクー油田地帯の領有を目指して攻撃を開始する。しかし、これは厳しい市街戦に持ち込まれて消耗したことと、補給線が伸びきって物資不足に陥ったために、南方軍は逆に9万の捕虜を出して43年1月にソ連軍に降服するという展開となった。ヒトラー総統はこれ以降、劣勢を自覚したのか公の場での演説をしなくなる。

連合国の支援を受けたパルチザンはナチス・ドイツ同盟軍と対抗する

英国は、東部戦線で苦戦していたソ連が連合国による西部戦線を開いてほしいとの要請を、中東の油田地帯の権益を優先させて地中海地域での戦線に拘り、西部戦線における大陸反攻作戦を構築することはなかった。それでバルカン半島地域の戦線構築を模索していた。それまでユーゴスラヴィア戦線では王党派のチェトニクを支援していたものの、チェトニクがナチス・ドイツとの戦闘を放棄していることを知るに及び、43年5月にパルチザンに軍事使節団を送り込む。英軍の観戦武官は命を失いながら、パルチザンがナチス・ドイツに対する戦闘で連合国に有益な戦線を構築していることを確認する。

その報告を受けたチャーチル英首相は、43年11月に開かれたテヘラン会談において連合国がパルチザンへの軍事支援を行なうことが有用であると提案し、ルーズベルト米大統領とスターリン・ソ連書記長に承認させた。この会談の決定に伴って、パルチザンは連合国からの援助物資を受けられるようになり、戦線の立て直しが可能となった。さらにチャーチルは、パルチザンの戦闘支援として英軍の落下傘部隊をも派遣する。

チャーチル英首相は西部戦線を構築するとスターリン・ソ連首相とバルカンの支配領域について密約を結ぶ

ソ連政府は、ユーゴ共産党が主導するパルチザンの功績を評価せず、すぐには支援の手を差し伸べなかった。そればかりか米国の「武器貸与法」の適用をしてくれた連合国への気遣いからか、パルチザン率いるチトーに対してロンドンに亡命していたユーゴ王国政府旗下のチェトニクと協調するようにと容喙した。その上、「コミンテルン」の解散をしてまで連合国の意向に気を遣った。

英国はダンケルクから追い落とされてから4年を経た44年6月にようやく「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を米・カナダなどとともに発動し、西部戦線を構築する。そして8月にはパリを奪還した。

西部戦線を構築したチャーチル英首相は44年10月にモスクワを訪問し、スターリン・ソ連首相と大戦後のバルカン諸国の処遇について密約を交わした。のちに明らかにされたところによると、バルカン諸国への権益をユーゴスラヴィアはソ連と英国の権益を半々の5対5、ギリシアは英国の権益下に1対9、ルーマニアは9対1、ハンガリーは5対5、ブルガリアは7対3という植民地分割を想起させるようなものであった。

このころのパルチザンは連合国の支援を受けて80万に達する大部隊となっており、もはやソ連の支援がなくてもナチス・ドイツ同盟軍に対抗できるほどの勢力を築いていた。パルチザンを率いていたチトーは、ソ連が対戦開始直後の39年にフィンランドに侵攻してその一部を占領したことなどへの不信を抱いていた。そのため、赤軍がユーゴスラヴィアの領域に入るのはナチス・ドイツとの戦いにおいてのみであると限定し、その後は駐留しないとの約定を交わした上で入域を許諾した。

そして、44年10月にユーゴ王国の首都ベオグラードを共同作戦によって奪還する。その後、パルチザンとソ連赤軍は45年4月にボスニアのサラエヴォ、5月にはクロアチアのザグレブを解放し、ナチス・ドイツ同盟軍とクロアチア独立国軍を掃討した。クロアチアのウスタシャは、ユーゴスラヴィアを脱出しディアスポラとなる。ソ連赤軍はチトーとの約定に従ってナチス・ドイツを掃討したのち直ちにユーゴスラヴィアから撤収した。

第2次大戦後のバルカン諸国の動向

第2次大戦における欧州戦線は、45年4月に入ってソ連軍がベルリン攻撃を開始する。地下壕に入ったヒトラーは敗北を自覚し、4月30日に自殺した。ナチス・ドイツは崩壊し、後継者のデーニッツが45年5月8日に無条件降服に調印したことで第2次大戦における欧州戦線は終焉を迎える。

同盟国の主軸であったドイツおよびオーストリア、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアは敗戦国となって獲得した領土はすべて返還させられた。バルカン諸国における戦後処理は、国家単位の権益剥奪にとどまらず、ドイツ人に対する報復的な権利剥奪や強制移住がポーランドやチェコスロヴァキア同様徹底して行なわれた。

第2次大戦後、バルカン諸国のユーゴスラヴィア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニアでは王制が廃止され、ギリシア王国を除いて社会主義国となる。

ユーゴ連邦はソ連指導部の逆鱗に触れてコミンフォルムから追放される

ユーゴスラヴィアは戦後の憲法制定議会で王制を廃し、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国となった。しかし、ユーゴ連邦が戦後処理としてイタリアとトリエステの領有を争い、さらにギリシアの人民戦線派の支援を続け、またブルガリアと「バルカン連邦」構想を提唱するなど独自の外交を展開し始めたことが、ソ連指導部の逆鱗に触れた。

1948年に開かれた第2回コミンフォルム大会で、ユーゴスラヴィア連邦は「反ソ的」として追放され、経済制裁を科されて社会主義諸国との貿易額がゼロになるほどの仕打ちを受けた。ようやく戦後復興が軌道に乗り始めたユーゴスラヴィアとしては、西側諸国に接近するより他に経済を立て直す術はなかった。米国はこれを見てユーゴスラヴィアを西側に引き込めると分析して資産凍結の解除や融資に応じた。この西側の待遇によってユーゴスラヴィアは経済危機を脱し、ソ連型の中央集権型社会主義ではない非同盟の独自の自主管理社会主義を導入することになる。

アルバニアは、第2次大戦直後は社会主義圏に取り込まれ、隣国ユーゴスラヴィアとの関係は良好であった。しかし、ユーゴスラヴィアがコミンフォルムから追放されると関係は悪化した。さらに中ソ論争が起こるとソ連との外交関係を断絶する。中国とは1960年代には良好だったものの、70年代に入ると修正主義論争が起こり中国との関係も悪化した。そのため、国際的にはほとんど孤立状態に陥った。孤立化による強迫観念にとらわれたアルバニア政府は、全土に小型要塞を構築するなどで国力を蕩尽した。

ギリシアは大戦後に内戦を経験するが、社会主義化を危惧した米英の支援を受けてバルカン諸国としては唯一西側に残った。そして、NATOには1952年に加盟する。1967年、冷戦体制の中で反共を掲げるパパドプロスなどの軍部がクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立。米国はこれを支持する。この軍部独裁政権は73年に王制を廃止し、共和制を樹立してパパドプロスが大統領に就任する。しかし、翌74年にキプロスで起こされたクーデターの支援をめぐって海軍と空軍が対立し、第2次軍事クーデターが起こる。これをきっかけに、軍事独裁政権は崩壊する。同年国民投票が行なわれ、王制廃止が確定する。ECには1981年に加盟が認められた。

ベルリンの壁崩壊に伴って社会主義圏は崩壊

1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、それに続いて中・東欧諸国は社会主義体制を放棄した。しかし、冷戦崩壊後の西側の投資は、東欧諸国が期待したような形で行なわれなかったために経済体制の移行は困難を極めた。国連の統計によると、バルカン諸国のGDPは、90年には10%減少し、91年は14%減少し、92年にも10%減少した。GDPの減少により失業率は10%~20%に上昇する。そのため、国民の生活は一時的にせよ困窮に陥った。その後のEC・EU諸国の投資によって、中・東欧の経済は活性化し、表層では豊になったように見えるが、多くの企業は効率が低いとして閉鎖されたために失業者は増大し、労働力は流出した。その結果、所得格差は拡大し、跛行的な経済発展となっている。

ユーゴスラヴィア解体戦争が始まる

東欧諸国の体制崩壊は、独自の非同盟自主管理社会主義路線をとってきたユーゴスラヴィア連邦を微妙な状況下に置くこ

とになった。東欧圏の諸国のように、一挙に「資本主義体制」へと雪崩れ込むことができなかったからである。元来、西側にと

ってユーゴスラヴィアは東欧の社会主義国への影響をおよぼすための窓口としての価値を有する国家であった。そのため

に経済援助もしてきたのだが、東欧の社会主義国が崩壊した後では存在価値が低下したのみか、独自の社会主義体制の残滓を抱えた国は欧米諸国の国策の障害とさえ見られるようになったのである。

EC・EUは武力衝突を避けようとしたがドイツとバチカンは自利を優先し米国は覇権のために武力行使を優先させる

とはいえ、EC・EUはユーゴスラヴィアの内戦を望んだわけではない。EC・EU加盟諸国の大半は基本的には内戦を何と

か回避しようと努め,「ユーゴEC和平会議」や「ユーゴ和平国際会議」などを設置して和平に尽力した。ミッテラン仏大統領は

ボスニアの戦闘地域にも訪れて現地の情況を視察し、メージャー英首相はクリントン米大統領が提案したボスニア政府への

武器禁輸緩和やNATO空爆などの強行策を何度か退けもした。しかし、ブレア英首相が1997年に首相の座に着くと政策

は一変する。彼は武力行使に積極的な提言を行なったのである。

その中で、ドイツとバチカン市国の対応は全く異なっていた。東西ドイツの再統一を成し遂げたコール独首相はその経費負担を賄うために経済圏の拡大を企図し、スロヴェニアとクロアチアの独立を強行させて取り込むことを優先させたために武力紛争になることを軽視したのである。バチカン市国は、カトリック教圏の拡張と安定化を期待して武力紛争による人命が失われることを無視した。

一方のクリントン米政権は、国内の要請に基づく世界への覇権をおよぼすためにユーゴスラヴィア連邦を解体する対象とした。そして、ユーゴスラヴィア内の民族主義者を教唆して支援する策を選択し、独立を促したためにユーゴ連邦は解体へと向かって悲惨な内戦の渦に巻き込まれることになった。

結局、ユーゴ連邦は内部の民族主義者の思惑と、それに乗じた西側の諸国の軍事干渉を受けた結果、スロヴェニア、ク

ロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテ・ネグロ、コソヴォへと7つに分裂した。岩田昌征教授は、ユーゴ連邦解体戦争の要因を、内部要因が51%、外部要因が49%と分析している。この分析は妥当性がある。

アフガニスタン戦争に加担したバルカン諸国

2001年に米国で9・11事件が起こる。米国はこの事件を起こしたのが「アルカイダ」であると即断し、アフガニスタンに潜入していたオサマ・ビン・ラディン・アルカイダ指導者の引き渡しを当時のタリバン・アフガニスタン政権に要求した。タリバンは引き渡しに関して条件を求めるが、米国は外交交渉を続けることなく報復戦争として事件から1か月も経ない10月7日に英国とともにアフガニスタンに軍事侵攻を開始した。この米国のアフガニ紫檀への軍事力行使は国連安保理決議を経ていないが、NATO諸国は条約の第5条の規定に従って米国の報復戦争に加担してアフガニスタンに軍事侵攻した。このNATOの侵攻作戦には加盟28ヵ国にとどまらず、加盟候補国など15ヵ国が引き込まれた。スウェーデンとフィンランドは加盟国ではないにもかかわらず参加している。旧ユーゴ連邦諸国も6ヵ国のうち4ヵ国が加担した。直前まで旧ユーゴ連邦諸国があれほど悲惨な内戦を経験していながら、なお最貧国の一つであるアフガニスタンへの軍事侵攻に加担した理由は明らかではないが、NATO加盟国からの要請を受けたのであろうとの推察は可能である。旧ユーゴ連邦の中でアフガニスタン戦争に加わらなかったのはセルビアとモンテ・ネグロの2国である。

二級国家として扱われるバルカン諸国

NATOは軍事同盟として東方拡大に意欲的で、2021年段階でウクライナをめぐって駆け引きが行なわれている。それに比して政治的・経済的機構としてのEUは比較的慎重であるが、ロシアがウクライナへの軍事侵攻をしたことをきっかけにしてロシアに対抗する手段としてウクライナを加盟させようと意欲をしめしている。

バルカン諸国の両機関への加盟状況を見ると、ギリシアは西側陣営であったことから特別扱いでNATOには結成して間もない1952年に加盟し、ECには1981年に加盟している。他のバルカン諸国は冷戦終結後である。中でもスロヴェニアは比較的富裕だったことから2004年にNATOとEU双方に加盟が認められた。ルーマニアとブルガリアはNATOに04年、EUに07年に加盟が認められ、クロアチアはNATOには09年に加盟が認められたものの、EU加盟はICTYに非協力的だったこともあって4年後の13年までかかっている。アルバニアはNATOには09年に加盟しているが、EUへの加盟は達成していない。貧困国だからだと見られる。モンテ・ネグロはNATOに2017年に加盟したが、EUへの加盟は21年の段階で認められていない。北マケドニアはNATOには2020年に加盟しているが、EUへは加盟候補国である。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビアは2021年の段階でEUは加盟候補国扱いで、NATOにも加盟していない。トルコは、NATOへはギリシアと同じ日に加盟しているが、EUへの加盟は望み薄である。コソヴォの扱いは、いずれにしても遅れるだろう。

バルカン諸国の2021年段階におけるEU加盟およびNATO加盟情況

EU加盟国                       EU加盟候補国                  NATO加盟国                                                                

ギリシア・     1981年 01月01日       トルコ                       トルコ・         1952年02月18日

スロヴェニア・ 2004年05月01日       アルバニア                   ギリシア・       1952年02月18日

ブルガリア・   2007年01月01日       北マケドニア                 スロヴェニア・    2004年03月29日

ルーマニア・  2007年01月01日       セルビア                     ルーマニア・    2004年03月29日

クロアチア・   2013年07月01日       ボスニア・ヘルツェゴヴィナ      ブルガリア・     2004年03月29日

モンテ・ネグロ                  クロアチア・     2009年04月01日

アルバニア・    2009年04月01日

モンテ・ネグロ・  2017年06月05日

マケドニア・     2020年03月27日

バルカンの火薬庫は常に大国の思惑が絡んで翻弄されてきた 

バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と別称されるが、この弱小国を戦乱の渦に巻き込むのは常に大国の思惑が絡んでお

り、地域独特の政情によるものではない。遠くはローマ帝国、神聖ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)そしてオスマン帝国、さらにはハプスブルク帝国、フランスのナポレオン帝国などの支配や干渉である。そして、ナチス・ドイツの「第三帝国」の妄想によって起こされた第2次大戦中の分割支配である。大戦後もソ連とドイツその他のEU諸国および米国の覇権争いの犠牲とされてきた。

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争も、列強の国策に従わずに弱小国の立場を弁えなければ、国連の決議があるかどうかにかかわりなく破滅の対象にされたということなのである。

<参照;アルバニア、クロアチア、コソヴォ、スロヴェニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテ・ネグロ>

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2,「バルカン地域の主な民族」

バルカンは多民族混淆の地域

バルカンは、民族移動の通過地域となったために、さまざまな民族が混住している。南スラヴ民族は6世紀末ごろから南下してバルカン地域に定住化し始めた。ヨーロッパにおいて農耕を始めたのは、バルカン地域が最初であったといわれている。

バルカンの住民は、ギリシア人、ルーマニア人、アルバニア人、ブルガリア人、スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテ・ネグロ人、ハンガリー人、ユダヤ人、ロマ人、ドイツ人、ロシア人、ウクライナ人、アルメニア人、タタール人、イタリア人、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人などである。

ギリシア人はギリシア民族。アルバニア人は古代イリュリア人を先祖とするといわれる。ルーマニア人はダキア人とローマ人との混血化したもの。バルカン半島に居住する多数派を占めているのは南スラヴ民族であり、ドイツ人、ハンガリー人、ロシア人、ウクライナ人、アルメニア人、タタール人、イタリア人、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、ユダヤ人、ロマ人は少数民族として混住している。

スラヴ民族は東、西、南に分かれ、東スラヴ族はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、西スラヴ族は、ポーランド人、チェク人、スロヴァク人、ソルブ人、南スラヴ族は、スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテ・ネグロ人、マケドニア人、ブルガリア人である。スラヴ語は印欧語諸族に属する。スラヴ人は、2億1000万に及ぶヨーロッパ最大の民族である。

ユーゴスラヴィアの主要な民族は南スラヴ民族

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人の名称は、ユーゴスラヴィア連邦の63年憲法でイスラム教徒に対して信仰者を名乗ることを認定したもので人類学上の民族名ではない。現在はボシュニャク人と名乗ることが多いが、この中にはクロアチア人も含まれ、いわゆるボシュニャク人は民族を表すものではない。また、ユーゴ連邦の中のユーゴスラヴィア人と称している人たちの出自は同じ南スラヴ民族であり、ユーゴスラヴィア連邦の国民であることを誇りとするための自称であって所謂民族名を表しているのではない。

セルビア人、クロアチア人という名称はペルシャ人が入り込んだ際に持ち込んだといわれるが、それは人種や民族について述べたのではなく、カトリック教徒をクロアチア人、東方正教徒をセルビア人と称したのが、のちに民族を表すようになった。民族の分類は、歴史的な支配者となったハプスブルグ帝国やオスマン帝国、および19世紀後半のオーストリア・ハンガリー二重帝国などの干渉や占領によって居住領域や国境が確定されたため、習俗や文化がそれぞれに固定化されて民族と称するようになった。

ギリシアは多民族の混住化が進んでいるものの、アレキサンダー大王の時代の古代マケドニアと混同することを嫌い、旧ユーゴスラヴィアに属したマケドニア人なる民族を認めていない。

バルカンはヨーロッパの火薬庫などと称されることがあるが、不安定要素の大半は周囲の列強の思惑によるものであって必ずしも多民族混住地域であるからではない。

<参照;バルカン地域、ユーゴスラヴィア王国、ユーゴスラヴィア連邦>

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3,ユーゴスラヴィア王国

強国に翻弄され続けた南スラヴ民族

旧ユーゴスラヴィアに含まれることになる南スラヴ族のスロヴェニア人は7世紀ごろカランタニア公国を樹立したとされるが8世紀にはフランク王国に支配され、第1次大戦後までの間一度も独立国家を形成したことはない。10世紀には東フランク王国に支配され、13世紀以降は第1次大戦後までハプスブルク帝国に支配され続けた。クロアチアは、924年にトミスラヴ公がクロアチア王国の成立を宣言するが、12世紀初頭にはハンガリー王国に支配され、そののちハプスブルク帝国の支配下に入り、やはり第1

次大戦後まで国家を形成することはなかった。セルビアは、1168年にステファン・ネマニャがネマニッチ王朝を創設して王国として2世紀ほど隆盛を極める。しかし1389年、バルカン支配に乗り出したオスマン帝国軍をセルビア人のラザール公がキリスト教連合軍を率いてコソヴォ・メトヒヤで迎え撃つが、内部の裏切りもあって敗北してしまう。この手痛い敗北を喫した6月28日はセルビア人にとって「聖ヴィドの日」として刻まれることになる。

オスマン帝国は、1453年にコンスタンチノーブルを陥落させてビザンツ帝国を消滅させ、 さらに1459年にはセルビア全域がオスマン帝国軍の統治下に置かれ、以後400年間セルビア王国は消滅することになった。ボスニアは1463年に、ヘルツェゴヴィナは1483年にオスマン帝国に占領される。これ以降、ボスニア・ヘルツェゴヴィナではイスラム教への改宗が進んだ。

バルカンにおけるナショナリズムの勃興とバルカン戦争

しかし、18世紀末になると、フランス革命などの影響を受けたナショナリズムがバルカン諸国にも波及し、オスマン帝国の支配に対する反乱が頻発するようになる。1804年、セルビアではオスマン帝国の地方の支配層に対する農民が蜂起し、カラジョルジェを指導者とする第1次セルビア蜂起を起こした。しかし、オスマン帝国の圧倒的な軍勢に鎮圧される。1815年にはオブレノヴィチを指導者とする第2次蜂起が起こされたが、オブレノヴィチは自治権の確保へと譲歩したことから、オスマン帝国はこれを受け入れて自治公国の世襲的自治権を授与されるという形での支配形態を取る。その後もセルビアにおける二大勢力となったオブレノヴィチ家とカラジョルジェヴィチ家の勢力は対立抗争を重ねる。しかし、列強の思惑をうまくかわしたカラジョルジェヴィチが後に王国を形成することになる。

列強の一角をなすロシアは、黒海沿岸地域の不凍港を獲得するための南下政策によってオスマン帝国との露土戦争を繰り返した。1877年に始まった露土戦争でオスマン帝国は頑強に戦ったもののコンスタンチノーブルの近郊まで攻められるという大敗北を喫し、隆盛を極めたさしものオスマン帝国も衰えが明白となった。その後のサン・ステファノ条約およびベルリン条約で、セルビア、モンテ・ネグロ、ルーマニアは独立を達成し、ブルガリアは公国の創設が承認される。しかし、マケドニアはオスマン帝国領に戻された。

このときハプスブルク帝国は、漁夫の利を得るごとくボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチアの支配権を確保する。これに対し、ボスニアではムスリム人を中心に激しい抵抗闘争が起こる。ハプスブルク帝国はこれを鎮圧するが、クロアチア内でも独立を目指す動きが出てくる。このような状況のもと、ハプスブルク帝国は1908年にボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合してしまう。このハプスブルク帝国の一方的な行為はロシアの反発を招くとともに、ナショナリズムに突き動かされるようになっていた南スラヴ民族の憤激をかい、反ハプスブルク、南スラヴ民族の統一をめざす運動が広がった。これが第1次大戦の遠因となる。ボスニア内にはナショナリズムに突き動かされた若者を中心とした「青年ボスニア運動」が興され、秘密結社が叢生することになったからである。

第1次、第2次バルカン戦争で対立が激化する

問題はマケドニアの処遇である。マケドニアは、かつてビザンツ帝国、セルビア帝国、ブルガリア帝国がそれぞれ支配していた時期があった。そのため隣接国はそれぞれに領域確保権争いを演じる。ブルガリアは言語がブルガリア語ときわめて近いことを理由としてブルガリア人だと主張し、ギリシアはスラヴ語を話すスラヴ化されたギリシア人だと主張し、セルビアは聖者の祝祭日の慣習がセルビア正教に近いことからセルビア人であると、それぞれにマケドニアへの主権を主張した。これに対し、1893年には「内部マケドニア革命組織・VMRO」が結成され、自治を獲得するための蜂起を主張する者たちも現れた。

この情勢を見たロシアは、ハプスブルク帝国の拡張政策に対抗する勢力をバルカン諸国に形成させることの重要性を認識し、1912年にセルビア、ブルガリア、モンテ・ネグロおよびギリシアに同盟条約を結ぶよう働きかけた。これに応じ、3月にはセルビアとブルガリアが同盟条約を結び、5月にはギリシアとブルガリア、8月にはモンテ・ネグロとブルガリア、9月にはモンテ・ネグロとセルビアが条約を締結するという交差形の4ヵ国による「バルカン同盟」が成立した。ロシア帝国が意図したのはハプスブルク帝国への対抗策であったが、バルカン諸国は同盟条約を形成する過程で、その目的を変容させていった。オスマン帝国が支配するバルカン半島のマケドニア、アルバニア、トラキアを奪還するための軍事同盟へと変貌したのである。

9月27日にバルカン同盟が完成すると10月5日にはモンテ・ネグロが先端を切ってオスマン帝国への宣戦布告を行なう。次いでセルビア、ブルガリア、ギリシアが参戦し、オスマン帝国への第1次バルカン戦争が開始された。不意を突かれた形のオスマン帝国が敗走を重ねると、英仏などの列強が介入してロンドンで講和会議が開かれる。1913年5月にはロンドン条約が結ばれ、オスマン帝国のバルカンにおける地域の領土はバルカン諸国に大幅に割譲された。

ところが、マケドニアの分割領有を巡ってブルガリアが不満をつのらせ、ブルガリアの部隊がマケドニアに駐留していたセルビアとギリシアの部隊を攻撃したことによって、13年6月に第2次バルカン戦争を発生させることになる。この無思慮なブルガリアの武力解決策は、セルビアとギリシアのみならずモンテ・ネグロやルーマニアなどバルカン諸国が一致して反撃するところとなったばかりか、オスマン帝国の参戦をも呼び込んだため、ブルガリアは手痛い敗北を喫した。

その後に開かれたブカレスト講和会議においてブルガリアはピリン・マケドニア地方の領有権は認められたものの、ルーマニアに南ドブルジャを割譲し、オスマン帝国にもエディルネの領有を承認させられたばかりか、マケドニアの主要部分はセルビア、モンテ・ネグロ、ギリシアに分割領有されることになった。このブルガリアの屈辱は、第1次大戦への参戦にも影響を与えることになる。このブカレスト条約において、アルバニアの独立が認められている。

とはいえ、第1次、第2次バルカン戦争で衰退を余儀なくされたのはオスマン帝国であった。バルカン諸国はオスマン帝国の支配から脱して概ね国境を確定させたからである。

第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は第1次大戦へと変容する

一方、ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したことをよしとしないナショナリズムに目覚めた「青年ボスニア運動」の中から1911年にセルビア人将校たちによる「黒手組」結成される。そして、1914年6月28日にボスニアで行なわれた軍事演習の観閲に訪れたハプスブルク帝国の皇太子フェルディナンドを暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。

これに対してロシアが仲裁に入り、セルビア王国がハプスブルク帝国側の条件をほぼ受け入れると表明するが、ハプスブルク帝国はこれを無視してドイツ帝国との同盟を確認すると、7月28日に最後通牒を突きつけてセルビアに宣戦を布告した。この第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は、ハプスブルク帝国の無思慮によって第1次大戦へと展開することになる。武備が貧弱であったにもかかわらずハプスブルク帝国がセルビアに宣戦を布告したのは、セルビア単独であれば容易に潰せるとの安易な判断に基づくものであった。しかし、国際情勢はそのような単純なものではないことがすぐに明らかになる。そして、同盟国の相手であったドイツ帝国が主体となった大戦へと変容するのである。

周囲の列強は、ハプスブルクの宣戦布告に直ちに反応した。三国協商を形成していたロシアがセルビア側に立って7月30日に総動員令を発すると、それに対抗する形でハプスブルク帝国と同盟を結んでいたドイツ帝国が8月1日に総動員令を発してロシアに宣戦を布告する。さらに、ドイツは8月2日にフランスとイギリスとの戦争に備えるためにベルギーに領域通過許可を要求し、ルクセンブルクを占領してしまう。そして8月3日にはフランスとイギリスに宣戦を布告した。これに応じてフランスは同日に対ドイツ宣戦布告をし、イギリスは8月4日にやはり対独宣戦を布告した。オスマン帝国は、11月には同盟側について三国協商側に宣戦布告をする。イタリアはドイツとの間で同盟条約を結んでいたもののそれを破棄し、15年5月に協商側に立って参戦した。

バルカン諸国もそれぞれ領土的野心を抱いており、自国に有利な条件を提示した側について参戦していく。ブルガリアはバルカン戦争の屈辱を果たすべく、同盟側の条件を受け入れて15年10月にセルビア・三国協商側に宣戦を布告した。ルーマニアは当初中立を宣言していたが、16年8月に協商側に立って参戦したもののロシア革命が起こると同盟側と休戦協定を結ぶ。ギリシアは、親独の国王派と親協商の宰相側とで国内が二分していた。しかし、協商派が臨時政府を樹立して国王に退位を迫るとともに17年7月に同盟側に宣戦布告をした。第3次バルカン戦争ともいうべき事件は、このような経過をたどって、ヨーロッパの大半を巻き込む第1次大戦となっていった。

英・仏・露の三国協商側がセルビア側に立って参戦したのは、フランスとドイツとはかねてからモロッコを巡る対立があり、この緊張関係からきっかけさえあれば戦端を開く状態にあった。イギリスとドイツの対立は植民地経営の後発国としてのドイツが拡張政策を取り始めており、既に建艦競争を行なっていたことから、これまたきっかけさえあれば戦端を開く状況下にあった。一方で、イギリスとフランス両国にはオスマン帝国を解体して中東を分割支配するという思惑も隠されていた。それは仏・英・露による秘密協定である「サイクス・ピコ協定」によるアラブの分割となって表れる。

初めての総力戦となった第1次世界大戦

第1次大戦は軍事技術の面から見ると中世の戦争から近代戦へ移行する過程ともいえる戦争であった。そのため作戦は混乱を極めた。当初騎兵師団が投入されたが、その運搬や飼料の確保に多大のエネルギーを要した割には有効な戦績は挙げられず、やがて淘汰されていく。当時の大砲の口径はおおむね100mm前後であったが、大戦後半になると口径400mmを超える列車砲も投入され、射程距離も50kmを超えるほどの火砲も開発された。航空機は、偵察用であったものが戦闘機となり、爆撃機が開発されるなどの発達を示した。戦車は塹壕戦への対処策としてイギリスが開発したが、やがて戦車戦を行なうまでに改良される。さらに、ホスゲン、マスタードガス、塩素ガスなどの毒ガスが戦場において初めて使用された。

数ヵ月で終わると見られていた戦争は、いつ終わるかの見通しがたたないままずるずると続けられた。しかし、ドイツの潜水艦Uボートが無差別攻撃をするに及んだため米国が17年4月に参戦し、ドイツ国内では物資不足による日常生活に深刻な影響が出始めたことで厭戦気分が広がって騒乱が起こり、戦争の帰趨は見え始めた。ロシア帝国は革命によって崩壊し、レーニンは17年10月26日に開かれたソヴィエト大会で「平和についての宣言」を発し、ウィルソン米大統領は18年1月8日に開かれた連邦上下両院における演説で「世界平和の原則14箇条」を発表した。のちに、この平和原則14箇条の提唱によって国際連盟が創設されることになる。1918年11月、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世は厭戦気分から発生したドイツ革命が勃発したため、居場所を失ってオランダに亡命してしまう。この逃亡劇によって4年余りにわたった第1次大戦は終結し、三国協商側・連合国側とドイツとの休戦協定が締結されることになった。

大戦に動員された兵員は両陣営を合わせて6000万人を超え、死者は1000万人に達し、戦傷者は2000万人を超えた。死傷者は戦闘員にとどまらず、非戦闘員の死者も700万人を超えた。その上、戦場となって国土が破壊されたばかりでなく、疲弊した住民に「スペイン風邪」が蔓延して世界に広がったことから、戦死者を超える2000万人から4000万人に及ぶといわれる死者を出した。

苛酷な第1次大戦の戦後処理

この第1次大戦で帝国を名乗っていたドイツ帝国、ハプスブルク帝国、ロシア帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国は解体し、領土は大幅に割譲された。中でもオスマン帝国は、トルコの部分を除きアラブとマグレブといわれる地域はイギリスとフランスの植民地として割譲された。一方で、1815年にロシア帝国、プロイセン、ハプスブルク帝国に分割されていたポーランドが100年を経て独立国として再建されるなど、フィンランド、リトアニア、ラトビア、アルバニアを含め9つの共和国が誕生した。

戦後処理としてヴェルサイユ条約が結ばれるが、ドイツに課せられた賠償金は苛酷なものであった。1320億金マルクの支払いが課せられたからである。この賠償金について、経済学者のケインズやウィルソン米大統領および仏陸軍元帥フォッシュなどが批判したが、戦勝国の政治家たちはドイツに支払い能力がないことを知りながら利益を優先して懲罰的な賠償を課したのである。この苛酷な賠償金がドイツ人に敵愾心を内在化させ、ヒトラーの台頭を受け入れる要因の一つとなる。この賠償金の支払いが完了したのは、およそ90年後の2010年10月である。

セルビアは戦勝国として王国を設立

セルビア軍は緒戦で敗北を喫したものの、大戦中の1915年4月に「ユーゴスラヴィア委員会」を設立して南スラヴ民族の社会発展を提唱し、国家創設を企図した。18年10月には「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」を設立し、ハプスブルク帝国領内の南スラヴ地域を統合した国家の宣言が行なわれた。

しかし、講和会議において民族会議の提唱は認められず、セルビア王国主導における国家建設が進められ、18年12月に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の樹立が宣言され、摂政にアレクサンダル・カラジョルジェヴィチが就いた。

当初、摂政皇太子アレクサンダルは立憲君主制を目指し、新憲法への忠誠を宣言した。しかし、憲法制定議会選挙で共産党の議員が第3党に躍進すると、共産党議員の権利を剥奪する。そのため、共産党員以外のセルビア人議員が過半数を占めることになった。クロアチア共和農民党は、連邦主義を唱えて新憲法に反対したものの20年の制憲議会選挙には参加した。そして、急進党と民主党の連立内閣が誕生する。アレクサンダル・カラジョルジェヴィチは、21年6月に制定した「ヴィドヴダン憲法」で王位に就き、中央集権体制を強めて国民保護法の適用により共産党を非合法化する。その上で、その後に組閣された歴代内閣の首相および外相、国防相などの主要閣僚にセルビア人を据えた。

ユーゴスラヴィアの1921年の時点における人口は凡そ1200万人で、民族構成はセルビア人・40.42%、クロアチア人・29.17%、スロヴェニア人・8.5%、マケドニア人・5.0%、ドイツ人・4.33%、ハンガリー人・3.92%、アルバニア人・3.67%、その他・4.99%。宗教別分布は、東方正教徒が48.7%、カトリック教徒が37.45%、イスラム教徒が11.2%、ユダヤ教徒が0.49%、その他2.16%であった。

独裁体制を強化したアレクサンダルがユーゴ王国を不安定化させる

1928年、議会内でセルビア急進党のモンテ・ネグロ人議員がクロアチア共和農民党の議員を射殺するという事件が起こる。それに抗議する激しいデモを組織したクロアチア共和農民党は連邦制を要求した。これに対し、アレクサンダル国王は、29年にヴィドヴダン憲法を停止し、議会を解散するとともに政党の活動を禁止して独裁体制を敷き、国名を「ユーゴスラヴィア王国」とした。この独裁体制に反発したクロアチア人は激しく抵抗し、クロアチア権利党のアンテ・パヴェリチはイタリアに亡命してファシスト・グループ「ウスタシャ」を結成する。そして、テロリズムによってユーゴスラヴィア王国を打倒すると宣言する。

1929年に始まった世界恐慌のあおりを受けたバルカン諸国は、経済的困難に直面することになる。ドイツでも経済危機は同様であったが、それに便乗したヒトラーがナチズムを創設し、1933年には首相に就任する。それを警戒したバルカン周辺諸国は34年にユーゴスラビア王国、ルーマニア王国、ギリシア王国、トルコの4ヵ国で「バルカン協商」を創設し、国境の相互保障や紛争に関する協議を取り決め、バルカン銀行を設立して凌ごうとした。しかし、ドイツの経済政策も相まって、バルカン諸国のドイツ経済圏への依存体質は強まっており、「バルカン協商」はナチス・ドイツへの対抗組織にはなり得なかった。

このような国際情勢の緊張の中、独裁制を強化したアレクサンダル・ユーゴ国王は、34年10月にマルセイユでウスタシャに属するマケドニア人にバルトー仏外相ともども暗殺されてしまう。フランスはウスタシャ党首のパヴェリッチに死刑判決を宣告してイタリア政府に身柄の引き渡しを要求するが、ムッソリーニのファシズム政権となっていたイタリア政府はこれを拒否した。ユーゴ王国の後継者となったペータルⅡ世の摂政パヴレ公は、アレクサンダル国王の独裁体制が国内を混乱させたとして穏健策を採り、クロアチア人の政治犯を 釈放して議会を再開したものの、政治状況は安定しなかった。39年に王国政府のツヴェトコヴィチ首相は、クロアチア人との宥和を図るために農民党のマチェク党首と協議し、「スポラズム」という歴史的協定を結び、クロアチアの自治権を認めた。協定によってクロアチア自治州には議会と知事も置かれ、農民党のマチェクがユーゴ王国政府の副首相に就任する。クロアチア自治州はクロアチア、スラヴォニア、ダルマツィア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部地域を含み、ユーゴスラヴィア王国の3分の1に達するほどの広大な領域であったが、パヴェリチのウスタシャはこの協定を受け入れなかった。

ナチス・ドイツの電撃作戦に抗しきれなかった西ヨーロッパ諸国

この間、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツは第三帝国の建設を妄想し、1938年3月に親ナチ政権となっていたオーストリアにナチス・ドイツ軍を進駐させて併合する。次いで9月に英・仏・伊・独首脳を集めて開かせたミュンヘン会談でチェコスロヴァキアのズデーテン地方の領有を認めさせ、10月には併合してしまう。翌39年3月にチェコスロヴァキアを占領。さらに、37年にイタリアと防共協定を結んでいたにもかかわらず、8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にはポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。

これを見た英・仏はドイツに宣戦を布告する。これに対し、ナチス・ドイツは40年4月にデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領。英国の大陸遠征軍をフランスのダンケルクに追いつめて撤退させ、6月にはフランスが要塞として築いたマジノ線を迂回して防御線を突破し、パリに入城するとエッフェル塔を背景にヒトラーは勝利を宣言した。

ナチス・ドイツ同盟国のユーゴ侵攻で王国は混乱に陥る

ナチス・ドイツはフランスを占領して西ヨーロッパの大半を占領下に置くと、英本土上陸を企図して「海獅子作戦」を発動した。しかし、これは英国の空海軍の頑強な抵抗によって一時的に断念せざるを得なくなる。そこでヒトラーは、39年に独ソ不可侵条約を結んでいたにも関わらず、ソ連を植民地化してその物量をもって英国への再侵攻を企てることにし、40年7月に対ソ連侵攻作戦の立案を命じた。この対ソ侵攻作戦は「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。

ヒトラーはこの作戦を遂行するためには、未だ同盟国側に靡かないユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配して軍需物資の調達領域の拡張と作戦の背後の安全を確保する必要があると考量した。そこで、ナチス・ドイツは英国の支援を受けていて靡かないギリシアに対する「マリタ作戦」を立案する。

ユーゴスラヴィア王国は、ドイツ同盟側の圧力にもかかわらずソ連との間で武器供与の取り付けを試みるなど懸命に中立を維持しようとした。ところが、ソ連は土壇場になってドイツを刺激することを危惧してユーゴ王国への武器供与の約束を反故にしてしまう。孤立したユーゴ王国はドイツの圧力に屈し、41年3月25日に同盟への加盟を受諾した。しかし、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟に反対するセルビア人を中核とする人々と、ナチス・ドイツ同盟に加盟することによって独立を果たそうとするクロアチア人とが対立する中、軍部が27日にクーデターを起こして中立政策を掲げた。

ユーゴ王国でクーデターが起こされたことを好機と捉えたナチス・ドイツはユーゴ王国政府の弁明に耳を貸すことなく、ギリシアへの「マリタ作戦」をユーゴスラヴィア王国にも拡張適用して4月6日に発動し、南バルカンに侵攻した。10日にはイタリア、ハンガリー、ブルガリアの同盟軍も侵攻し、ユーゴ王国軍を11日間で粉砕した。ユーゴ王国のペータルⅡ世国王と王国政府はロンドンに亡命し、亡命政府を設置する。ギリシアは英国軍の支援を受けて頑強に抵抗し、14日間持ちこたえたが占領される。

この侵攻作戦によって、ドイツは北スロヴェニアとクロアチアおよびセルビアを占領し、セルビアにネディッチ将軍を首班とする傀儡政権を擁立した。イタリアは南スロヴェニアとダルマツィア海岸およびアドリア海諸島ならびにモンテ・ネグロとコソヴォを占領し、ハンガリーはヴォイヴォディナを、ブルガリアはマケドニアを併合した。

4月10日にナチス・ドイツの機甲部隊がクロアチアのザグレブに侵攻すると、ファシスト・グループ・ウスタシャは大歓迎し、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチが帰国してナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国・NDH」の樹立を宣言して総統を僭称した。クロアチア独立国は、クロアチアとボスニアおよびスロヴェニアの一部を含む広大な地域を支配領域とした。

粉砕されたユーゴ王国軍のミハイロヴィチ大佐は敗残のセルビア人士官を中心とした部隊の「チェトニク」を組織する。一方、チトーら共産党が主導する人民戦線派は「パルチザン」を組織して拠点をセルビアのベオグラードに置いたが、ナチス・ドイツ軍医圧迫されるとウジツエに移動して「ウジツエ共和国」の建国を宣言した。そして、ナチス・ドイツが「バルバロッサ作戦」を発動するとこれに合わせる形で同盟軍に対する抵抗闘争を開始する。ミハイロヴィチ大佐率いるチェトニクはユーゴ王国の復活を念頭に占領軍に対する抵抗を宣言したものの、ナチス・ドイツ軍に「ナチス・ドイツの兵士1人が死亡すればセルビア人100人を殺す」と脅されると、たちまち矛先を変えて同胞のウスタシャやパルチザンとの間の支配領域争いに転じた。

クロアチアのウスタシャ政権は民族主義的大虐殺を行なう

ファシスト・グループ・ウスタシャが樹立した傀儡政府クロアチア独立国の国家目標は、クロアチア人による純粋なクロアチア民族国家を建設するところにあった。パヴェリチ・ウスタシャ総統は、ボスニアのムスリム人たちをクロアチア人に準ずる民族と位置づける一方で、ユーゴ王国政権への復讐心を絡めて純粋民族国家の建国を宣言した。そして、クロアチア独立国の最大の障害が正教徒のセルビア人の存在にあると決めつけ、この民族を消滅させるための排除方針を宣言する。そして、ヤセノヴァッツ収容所群などを設置してセルビア人の3分の1をカトリック教に改宗させてクロアチア人とし、3分の1を国外追放し、3分の1を殺害するとの計画を宣言して実行に移した。ユダヤ人に対してはナチス・ドイツの「最終解決」に協力して強制収容所に送り出す。この計画によって、虐殺されたセルビア人やユダヤ人やロマ人など少数民族は60万人を超えたといわれる。

このため、ユーゴスラヴィア王国は複雑な関係にある勢力が混在して戦闘が続けられるという陰惨な情況下に置かれることになった。祖国解放を目指した「パルチザン」は、ナチス・ドイツを主とする同盟側の占領軍に加え、ロンドン亡命政権麾下の「チェトニク」、ナチス・ドイツの傀儡政権「クロアチア独立国」軍と対戦せざるを得なくなったために戦いは困難を極め、根拠地をボスニアの山岳地帯に移しながらナチス・ドイツの7次にわたる攻勢に耐えた。

ヒトラーの第三帝国建設の妄想の崩壊

ナチス・ドイツは、ユーゴスラヴィアとギリシアを占領すると、6月22日に対ソ戦の「バルバロッサ作戦」を発動し、ナチス・ドイツ軍300万の兵員に同盟軍250万を加えた550万を動員してソ連領に侵攻した。ソ連のスターリンは独ソ不可侵条約を結んでいたこともあって、ドイツと対戦することはないと見ていた。しかも、スターリンの路線に忠実でない者や地位を脅かしかねない将官などを大量に粛清していたために戦闘力は大幅に減退していた。スターリンはヒトラーとの約定を信じ、在日ドイツ大使館の要員ともなっていた諜報員のリヒャルト・ゾルゲが独ソ開戦の日にちまで送信したにもかかわらず、それらの情報を一蹴して耳を貸さなかった。英国もナチス・ドイツ軍の動向を知らせる情報を送ったが、それも謀略として無視した。

スターリンの思い込みと、粛清によるソ連軍の指揮能力が弱体化していたことから、ソ連軍の前線はたちまち崩壊し、9月には同盟側の北方軍にレニングラードを包囲され、南方軍にはウクライナのキエフを陥落させられ、中央軍にはモスクワ近郊にまで迫られた。そして、モスクワの陥落も目前に迫ったことから外国公館の外交官や政府の機関の一部を後方に移動させるという事態に至る。

しかし、ゾルゲが10月に打電した、日本が対ソ戦に踏み切ることはないとの情報に接したソ連の高官がスターリンを説得し、対ソ戦に備えてシベリアに配備していた冬季戦への備えもある重装備の兵員を呼び戻して12月には反撃に転じた。そのことで、ようやくモスクワの陥落は免れた。さらに、米国が英国のために成立させていた「武器貸与法」をソ連にも拡張適用して軍需物資の援助を始めたことから物資不足も解消していった。

一方、ナチス・ドイツ同盟軍の南方軍は、膠着した局面を打開するために42年8月に象徴としてのスターリングラード攻防戦に取り掛かる。数週間で陥落させられると見込んでいた同盟軍は市街戦に引きずり込まれて消耗したばかりか、冬季戦に備えていなかったことと補給線が伸びきっていたことから戦闘能力が失われ、逆に43年2月には9万人の捕虜を出して降服させられた。このスターリングラード攻防戦に敗北したことで、東部戦線におけるナチス・ドイツ軍の勝利は見込めなくなった。ヒトラーはこのスターリングラードの攻防戦に敗北したことで気落ちしたのか、これ以降公での演説をしなくなる。

チャーチル英首相は「パルチザン」への軍事援助を連合国に提案

英国はナチス・ドイツの英本土上陸作戦を阻止したものの、スターリン・ソ連首相のたびたびの要請があったにもかかわらず西部戦線の構築をしなかった。中東地域の油田地帯の権益を優先するために、地中海域での戦線構築を優先させていたのである。そのため、ユーゴスラヴィアの戦線に対しては、ユーゴ国王がロンドンに亡命していることもあってユーゴ王党派のチェトニクを支援していた。しかし、チェトニクがナチス・ドイツ軍との戦闘を放棄して領域争いに転じているのを知ると、チャーチル英首相は43年5月にパルチザンに観戦武官を送り込む。英軍の観戦武官は命の危険にさらされながらパルチザンの戦いが、ナチス・ドイツ軍20個師団相当をユーゴスラヴィアに膠着させていることを目の当たりにし、パルチザン支援が連合国にとって有用であるとの報告書をチャーチルに送る。

連合国の支援を受けたパルチザンは困難な戦いを凌ぎきる

報告を受けたチャーチル英首相は、43年11月に開いた英米露連合国三首脳のテヘラン会談において、パルチザンへの支援を提案した。米国とソ連がその提案を承認すると、英国は直ちにパルチザンへの軍需物資の援助を実行に移すとともに、英軍の落下傘部隊まで送り込んだ。この支援策によって、パルチザンは戦線を維持し、拡大し続けることが可能となり、「友愛と統一」を掲げて民族横断的な組織運営を行なったこともあって、結成時には8万人にすぎなかった兵力はやがて80万人に達することになる。

ソ連は43年2月にスターリングラードの攻防戦に勝利し、大戦の帰趨が明らかになってからも、連合国から軍需物資の援助を受けていることから5月にはコミンテルンを解散するなどの気遣いを見せ、パルチザンへはチェトニクとの協調をするよう容喙した。

東部戦線での帰趨が明らかになりつつあった44年に西部戦線が構築される

英国は東部戦線での帰趨が明らかになりつつあった44年6月にようやく西部戦線の構築をした。ダンケルクから追い落とされてから4年余りを経た44年6月に至り、米・英・加なdの連合軍による「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動したのである。

ノルマンディ上陸作戦が発動されたことによって余裕ができたのか、ソ連軍もようやくパルチザンに接触してユーゴスラヴィア戦線に乗り出す。しかし、パルチザン率いるチトーはソ連軍がフィンランドに侵攻して一部を占領したことに警戒心を抱き、ソ連軍との間にユーゴスラヴィアを解放した後にはソ連軍を引き上げるとの約定を取り交わした後にソ連軍が領域に入ることを受け入れた。

そして、4年10月、パルチザンとソ連軍は共同でナチス・ドイツ軍に攻勢をかけてベオグラードを奪還した。さらに、45年4月にはボスニアのサラエヴォ、5月にはクロアチアのザグレブを解放して、ナチス・ドイツ軍とクロアチア独立国軍の残党を掃討した。作戦が終了するとソ連軍は約定を護ってユーゴスラヴィアから撤収した。

ヒトラーが自殺したことでナチス・ドイツは崩壊する

45年4月30日にヒトラーが自殺し、5月8日にナチス・ドイツが降服したことにより、6年近く続いた第2次大戦における欧州戦線は終結した。ユーゴスラヴィアは大戦中に170万人が犠牲になったといわれているが、その大半は内戦による死者といわれる。特にクロアチア人によるウスタシャとセルビア人主体のチェトニク間の領域争いは激しいものとなり、それが後のユーゴスラヴィア解体戦争における民族主義を掲げた戦いに多大な影響を及ぼすことになる。

ユーゴスラヴィア王国はユーゴスラヴィア人民共和国へ

大戦末期の45年3月には、パルチザンが圧倒的な優勢となった中でイギリスの仲介で王国亡命政府とパルチザンの連立政権が樹立された。しかし、45年8月に開かれたユーゴスラヴィア臨時国民会議で、ペータル国王は王国派の閣僚を引き上げるという政治的駆け引きを行なう。この西側諸国からも批判されたペータル国王の駆け引きは失敗に終わる。11月に実施された制憲議会選挙でパルチザンを核とする人民戦線派が連邦院で90.5%、民族院で88.7%の票を獲得して大勝したからである。この制憲議会で46年1月に制定された憲法によって王制は廃止され、ユーゴスラヴィア王国は消滅することになった。

<参照;バルカン地域、ユーゴスラヴィア連邦>

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4,「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」

第2次大戦におけるユーゴスラヴィア王国

第2次大戦時、ナチス・ドイツ率いるヒトラー総統は1940年6月にパリに入城して西ヨーロッパの大半を占領下に置くと、勝利を宣言した。ヒトラーは、なお英本土上陸を企てるが、これは英国軍の巧みな抵抗によって一時的に断念させられる。そして、ソ連を植民地化した上でその物量をもって降った日英本土上陸を行なうことに転換し、39年に独ソ不可侵条約を結んでいたにもかかわらず、40年7月に対ソ戦の立案を命じる。

ヒトラー・ドイツ総統は、対ソ戦を発動するためには戦略上未だ同盟に靡いていないバルカン半島のギリシア王国とユーゴスラヴィア王国を支配下に置く必要があと考えた。ギリシアはイギリスの海上を通した援助を受けていたこともあり、ナチス・ドイツの同盟国になる可能性はなかった。そこで、ナチス・ドイツはギリシアへの侵攻計画の「マリタ作戦」を作成する。

もう一つのユーゴスラヴィア王国は何とか中立を保とうとしてソ連に支援を要請していたが、ソ連はドイツを刺激するとして武器の援助を断った。そのため、ペータル国王はナチス・ドイツの威しと甘言に屈して41年3月25日に同盟への加盟に同意してしまう。これに対し、第1次大戦時に敵国として戦ったドイツとの同盟に不満を抱いた王国軍の一部と市民が協調して2日後の3月27日にクーデターを起こし、ナチス・ドイツとの同盟の破棄を要求した。狼狽したユーゴ国王はあくまでナチス・ドイツとの同盟条約の有効性を表明したものの、ヒトラーはこの事態を許容せず、ギリシアへの侵攻作戦「マリタ作戦」をユーゴ王国へも拡張適用し、4月6日にイタリア、ハンガリー、ブルガリアの同盟軍とともにユーゴスラヴィア王国とギリシア王国に侵攻した。ユーゴスラヴィア王国軍はこれを迎撃する態勢が整わなかったことと、クロアチア人で編制された第4軍などが親ナチスを掲げて反乱を起こしたことなどが相俟って総崩れとなり、11日間で占領されてしまう。そして、ユーゴ王国政府はカイロを経てロンドンに逃れて亡命政府を樹立した。マリタ作戦で蹂躙されたギリシアは英連邦軍の支援を受けて頑強に抵抗したが、ナチス・ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリーなどの同盟軍に抗しきれずに14日間で屈服させられ、王国政府はやはりロンドンに亡命した。

国内分裂で戦場と化したユーゴスラヴィア

ユーゴ王国に対して反乱を起こしたクロアチアでは、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチが帰還してファシスト・グループ「ウスタシャ」によるナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言し、スロヴェニアの一部とクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を統治下に置いた。クロアチア独立国が支配したクロアチアにはセルビア人が13%、ボスニアには31%が居住していた。ヒトラーに倣ってクロアチア独立国の総統を僭称したパヴェリチは、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人と位置づける一方で正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけ、セルビア人の3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を殺害し、3分の1を追放すると宣言して実行に移した。このとき殺害されたセルビア人は40万人から50万人に上る。ユダヤ人に対してはナチス・ドイツの方針に従い、強制収容所送りとした。

一方、総崩れとなったユーゴ王国軍のセルビア人将校たちの一部は「チェトニク」なるセルビア人将校を中心とした抵抗部隊を組織し、ナチス・ドイツ同盟軍と戦う姿勢を示した。しかし、ナチス・ドイツ軍に「ドイツ兵1人を殺せばセルビア人100人を殺す」などと脅されると、ナチス・ドイツ同盟軍との戦闘を停止してユーゴスラヴィア内の領域争いに転換してしまう。他方、チトー率いる共産党が主導した人民戦線派は「パルチザン」なる組織を結成し、ナチス・ドイツの「バルバロッサ作戦」の発動に合わせるようにしてナチス・ドイツ同盟軍、クロアチア独立国軍、チェトニク軍との戦闘を開始した。

成功するかに見えたナチス・ドイツ「バルバロッサ作戦」

ナチス・ドイツのバルバロッサ作戦は41年6月22日に発動され、ナチス・ドイツ軍300万、同盟軍合わせると550万の兵力

を動員してソ連領土に侵攻した。同盟国軍は全軍を3方面に分け、北方軍をレニングラード(サンクトペテルブルク)への攻撃に向かわせ、南方軍にウクライナの穀倉地帯とバクー油田の確保に割き、中央軍をモスクワ攻略に向かわせた。そして9月には北方軍はレニングラードを包囲し、南方軍はウクライナのキエフを陥落させ、中央軍はベラルーシ(白ロシア)のミンスクを陥落させてモスクワの近郊に迫るほどの戦果を挙げた。

緒戦でソ連軍が敗走を重ねた背景には、猜疑心の強いスターリンの誤った認識があった。スターリンは自らの地位を脅かしかねない政治局員や軍部の高級将官たちを粛清していた。そのため、ソ連赤軍は著しく戦闘能力が低下していたのである。さらに、1939年に独ソ不可侵条約の締結に応じたヒトラーを米・英・仏の首脳よりも信じたのである。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、ユーゴ王国やギリシア王国まで占領した現実を目の当たりにしながら、スターリンはヒトラーがソ連に侵攻する

ことはあり得ないと信じようとしたのである。

スターリンは、駐日ドイツ大使館の要員ともなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、バルバロッサ作戦の開戦日の情報をソ連政府に打電したにもかかわらず、それを無視したばかりか、6月22日にナチス・・ドイツ軍がソ連領に侵攻したとの参謀部からの緊急電話さえ否定しようとさえしたのである。このような状況下にあったソ連軍が敗走を重ねたのは

当然ともいえた。

ナチス・ドイツ軍がモスクワの目前に迫ったことに慌てたソ連政府は、政府機関や軍需工場などをウラル山脈の後方に移動させるほどの対応を取らざるを得なくなる。9月の段階ではナチス・ドイツのバルバロッサ作戦は成功するかに見えた。

しかしゾルゲが、41年10月に日本軍は南方に関心を移しており、ソ連に侵攻することはないとの情報をソ連に送信した。その情報に接した政府の高官がスターリンを説得し、対日戦に備えてシベリアに配備していた冬季戦にも対応可能な重装備の部隊をモスクワの戦線に呼び戻して12月から反撃に転じた。

さらに、米国は英国とナチス・ドイツの戦いを支援するために、武器貸与法を41年3月に成立させていたが、これをソ連にも拡張適用し、様々なルート通して軍需物資の支援を始めていた。その一つに日米が対立していたにもかかわらず、千島列島のルートが使われた。この援助によってソ連の各方面の反撃が容易になる。 

ソ連軍の反撃に遭って思うように戦果を挙げられなくなったナチス・ドイツ同盟の南方軍は、象徴的な都市であるスターリングラードへの攻撃を42年8月に開始し、9月には速くも市内への突入を始めた。この市街戦はナチス・ドイツの作戦の誤りといわれる。すなわち、市街戦が激烈を極め建物ごとに占拠と反撃が繰り返され、ドイツ軍は消耗戦を強いられることになったからである。しかもドイツ軍は簡単に落とせると見ていたために、冬季戦の備えがなかった。11月に入ると冬季戦に備えたソ連軍が反撃を開始する。補給線が伸びきっていたナチス・ドイツ軍は物資不足も相俟って戦闘力が極度に低下し、逆に43年1月31日にパウルス元帥がソ連軍に降服したことでこの攻防戦には決着が付いた。このスターリングラードの攻防戦において、ナチス・ドイツ同盟軍は9万人の捕虜を出し、85万に及ぶ死傷者を出して敗れたことが、ナチス・ドイツの行方に暗い影を落とした。

テヘラン会談で連合軍はチェトニクではなくパルチザン支援へと転換

一方、チトー率いるパルチザンは42年11月に「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」の第1回大会を開いて立法行政機関を設置し、民族主義を払拭して「友愛と統一」を掲げて人心を掌握し、ナチス・ドイツ同盟国の占領軍に対して果敢な戦いを展開した。

大陸への反攻を模索していたチャーチル英首相は、パルチザンのこの活動に注目して43年5月に軍事使節団を送り込む。そしてパルチザンがナチス・ドイツ同盟軍のかなりの軍団をユーゴスラヴィア戦線に引き付けているのを見て取る。チャーチル英首相は、43年11月に連合国を構成した米・英・ソの3首脳で開いたテヘラン会談において、パルチザンを支援することが連合国にとって有益であると提案し、これを米・ソ両首脳に認めさせた。そしてすぐさま、チャーチルはパルチザンへの軍需物資の援助を開始するとともに、英軍の落下傘部隊をも送り込んだ。第7次にわたるナチス・ドイツ同盟軍の総攻撃を受けてパルチザンは苦戦を強いられていたが、この支援を受けてパルチザンは息を吹き返し、80万の勢力を誇るまでになっていく。そして、ナチス・ドイツ同盟軍のおよそ20個師団をバルカンに膠着させるほどの抵抗戦を展開した。

ソ連指導部は、このパルチザンの戦いを評価していなかった。大軍団による大戦しか想定していなかったからである。そのため、テヘラン会談後もパルチザンへの支援に動くことはなかった。そればかりか、連合国に気を使ったスターリンはチトーに対しロンドンに亡命しているユーゴ王国政府と協調せよと容喙した。ソ連がユーゴスラヴィアのパルチザン支援に動いたのは、44年6月に連合国による「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)が実行されたのちの大戦の帰趨が明白になってからである。

連合国の援助を受けられるようになったパルチザンは、必ずしもソ連軍の支援を必要としてはいないようになっていた。そのような実態からチトーはソ連軍のユーゴスラヴィアへの常駐を望まず、ナチス・ドイツ軍を駆逐した後には撤収することをソ連側に約束させた上でソ連赤軍の領域への進軍を容認し、44年10月にパルチザンとソ連赤軍が共同作戦を実行して首都ベオグラードを奪還した。さらに、45年4月にはボスニアのサラエヴォ、5月にはクロアチアのザグレブを奪還したのち、ソ連赤軍は約定通りユーゴスラヴィアに常駐することなく引き上げた。

ソ連赤軍が45年4月にベルリン攻撃を開始すると、敗北を自覚したナチス・ドイツ・ヒトラー総統は4月30日に自殺する。ヒトラーの自殺によってナチス・ドイツは崩壊し、後継者のデーニッツが5月8日に連合国に無条件降服したことによって第2次大戦における欧州戦線は終結した。

人民戦線派は王制を廃して「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」となる

パルチザンはユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJとして発展して立法行政機関をも保持していたが、大戦末期の1945年3月に英国の仲介で亡命王国政府との連立政府の樹立を受け入れた。しかし、戦後の8月に開かれた臨時国民議会において、ペータル・ユーゴ国王が王国政権側の閣僚を引き上げるという連合国にも批判された政治的駆け引きを行なう。この西側諸国にも批判されたペータル国王の駆け引きは、11月に行なわれた制憲議会選挙で人民戦線派側が連邦院90.5%、民族院88.7%の票を獲得する結果を招くことになり、失敗に終わる。両院議会でユーゴスラヴィア王国の王制は廃され、ほぼ王国の領域を継承した「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」の建国が議決された。そして46年1月、ユーゴスラヴィアはソ連の憲法をモデルにした中央集権型の社会主義憲法を採択し、新たに組織されたコミンフォルムの本部をユーゴスラヴィアのベオグラードに設置するなど、社会主義諸国との協調態勢を取った。

復興途上に友邦の社会主義国から経済制裁を受ける

ところが、ユーゴ連邦がイタリアとトリエステの領有をめぐって争い、ギリシアの人民戦線は支援を送り、またブルガリアと「バルカン連邦」の構想を提唱するなど、独自の外交路線を示したたことがスターリン・ソ連共産党書記長の逆鱗にふれ、48年7月に開かれた第2回コミンフォルム大会で、ユーゴ連邦は「反ソ的」として除名処分にされてしまう。コミンフォルム加盟国が追放決議に伴って経済制裁を科したため、社会主義圏との貿易量が大半を占めていたユーゴ連邦は経済危機に陥った。

これを見た西側諸国は、ユーゴ連邦を西側に引き寄せるための好機と捉えて借款を与えることを決める。49年に米国や西側諸国はユーゴ連邦と経済協力条約を調印し、54年までに2500万ドルの資金を提供すると約した。一方でユーゴ連邦は社会主義体制の在り方を模索し、50年にはソ連の中央集権型社会主義ではない分権型の自主管理社会主義を採用することにする。さらに、52年には党名を「共産党」から「共産主義者同盟」へと改称し、党の役割を「指令」することから「説得と指導」へと転換した。

チトー・ユーゴ大統領は非同盟諸国会議を設立する

1955年、インドネシアのスカルノ大統領などの呼びかけによって、アジア・アフリカの中立国など29ヵ国が集まる「バンドン会議」がインドネシアで開かれた。唯一、ヨーロッパの国として参加したユーゴ連邦のチトー大統領はその精神を継承することを意図し、1961年に25ヵ国の首脳をベオグラードに招いて「非同盟諸国会議」の前身としての中立国首脳会議を主催した。 

「非同盟諸国会議」は以後3年毎に開くことが決められ、この運動は第17回が開かれた2016年まで続き、この年における参加国は120ヵ国、オブザーバー参加国は17ヵ国、オブザーバー参加組織は10にまで拡大して存続した。

ユーゴ連邦は63年に憲法を改定し、国名を「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」から「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」に改め、65年には一部市場メカニズムを導入し、自由化と分権化を進めた。しかし、68年にチェコスロヴァキアで「プラハの春」運動が起こされ、それをワルシャワ条約軍が潰したことがユーゴ連邦に危機感を抱かせた。そこで、翌69年にユーゴ連邦は軍管区制によって各共和国に配置されている連邦人民軍の他に、全国民に防衛義務を課す「全人民防衛体制」を採用する。そして、武器・弾薬を全土にくまなく配備し、人民すべてが侵略軍に即座に対応できるような体制に整えた。このことが、後のユーゴ解体戦争においてそれぞれの勢力に武器の奪取を容易にさせる原因ともなった。

コソヴォ自治州の権利拡大要求とクロアチアの独立要求に対して74年憲法で一層の分権化を進める

周辺国の動揺にとどまらず、68年にはユーゴ連邦内でもコソヴォ自治州においてアルバニア系住民が権利拡大と共和国への昇格を要求し、暴動を起こした。さらに、第2次大戦時のファシスト・グループ・ウスタシャの残党たちが60年代後半から70年代にかけて列車や駅や映画館や在外大使館に爆発物を仕掛ける事件が頻発していた。70年から71年にかけてはクロアチアのユーゴ連邦からの分離独立を要求する「クロアチアの春」などの騒動も起こされた。

第4次中東戦争に絡む73年に始まった第1次オイル・ショックで世界経済が混迷すると、ユーゴスラヴィア経済も多大な影響を受けて低迷した。そのような中でユーゴ連邦政府は、コソヴォやクロアチアの要求の一部を組み入れた「74年憲法」を制定する。この憲法は、連邦政府による経済政策の統治権限を大幅に縮小させる一方で、各共和国の行政権限を拡大させるにとどまらず、コソヴォ自治州およびヴォイヴォディナ自治州の自治権限をも共和国並みに拡張させた。そのため、連邦政府は外交と軍事を除いて各共和国や自治州に直接指示することが難しくなり、その政策が恣意的な外貨借款を行なって負債を増大させたことにもつながった。このことが、ユーゴ連邦全体の経済運営に対して連邦政府としての有効な抑制策がとれなくなる要因となった。

二度にわたるオイル・ショックがユーゴ経済を衰退させてしばしば暴動を起こした。この暴動は、次第にコソヴォ自治州をセルビア共和国から分離独立させる要求へと変貌して行き、武力組織が結成されて闘争を仕掛けることになる。

第1次オイル・ショックによる経済が回復しないうちに、79年のイラン革命に伴って起こった第2次オイル・ショックでユーゴ連邦経済はさらに一方、ユーゴ連邦内の最貧地区のコソヴォ自治州は、アルバニア系住民がその後も不満を鬱積させて共和国への昇格を求め打撃を受ける。ユーゴ連邦の各共和国は、この経済不況を外国からの再借款で切り抜けようとした。この借款財政が連邦経済をさらに悪化させ、インフレが増大することになり、国民の生活を苦しめることになる。この連邦経済運営の失政は各共和国の失政でもあったのだが、すべてが連邦政府の責任に転嫁され、各共和国の民族主義者の台頭を招いて独立志向を強めさせる要因の1つになった。

ユーゴスラヴィア連邦の解体は西側諸国の永年の懸案であった

ズビグニュー・ブレジンスキー米大統領安全保障問題担当補佐官は、78年8月にスウェーデンで開かれた第11回世界社会学者会議で、アメリカ人参加者を対象に次のような講演をした。要旨;「1,ソ連に対抗する力として、ユーゴスラヴィア連邦中央集権勢力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的、民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。ソ連におけるロシア人とウクライナ人、チェコスロヴァキアにおけるチェコ人とスロヴァキア人、ユーゴスラヴィアにおけるセルビア人とクロアチア人の間の緊張と不和が物語るように、民族主義は、共産主義より強力である。2,ユーゴスラヴィアにおける反共産主義闘争において、マスメディア、映画制作、翻訳活動など、文化的・イデオロギー領域に浸透すべきである。3,共産主義的平等主義に反対する闘争において、ユーゴスラヴィアにおける『消費者メンタリティ』を一層刺激する必要がある。4,ユーゴスラヴィアの対外債務の増大は、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いることができる。それ故、ヨーロッパ共同体諸国の対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けられるべきである。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に補償される。5,ユーゴスラヴィアのさまざまな異論派グループを、ソ連やチェコスロヴァキアの場合と同じやり方でシステマティックに支援すべきであり、彼らの存在と活動を世界に広く知らせるべきである。必ずしも、彼らが反共産主義的である必要はなく、むしろ『プラクシス派』のような『人間主義者』の方がよい。この支援活動で、アムネスティ・インタナショナルのような国際組織を活用すべきである。6,Xディ(チトーの死)の後に、ユーゴスラヴィアの軟化に向け、組織的に取り組むべきである。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟・SKJとユーゴスラヴィア人民軍・JNAがユーゴスラヴィア連邦維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJは既に政治的独占を失っているし、JNAは外敵には強いが、内部からの攻撃には弱い。全人民防衛体制は、諸刃の剣である」とのユーゴ連邦解体のシナリオを提示した。

国際債権団はユーゴ連邦の自主管理社会主義解体策に取りかかる

チトーが1980年に死去すると、西側諸国はブレジンスキーが指し示したユーゴ解体シナリオに沿って、社会主義諸国弱体化の突破口を求めて動き始めた。国際通貨基金・IMFは、81年に「第1次経済安定化策」を提示し、83年には「第2次経済安定化政策」の導入を求めた。しかし、この貿易の自由化と銀行貸し出しの凍結措置は激しいインフレーションを引き起こし、ユーゴスラヴィアの国民の生活水準は急激に低下した。86年にミクリチ連邦首相は、これらの経済対策に失敗して数ヵ月で辞任。88年には、ヴォイヴォディナ自治州やモンテ・ネグロで激しいデモが発生することになる。

1989年にユーゴ連邦首相に就任したクロアチア人のアンテ・マルコヴィチは国際債権団の「ワシントン・コンセンサス」に基づく「構造調整プログラム」をそのまま受け入れ、「企業改革法」、「貿易機構の規制撤廃」、「金融運用法」、「外国人投資法」、「社会資本法」、「金融関係法」などを相次いで制定し、国際債権団の要求に応えた。「国際債権団」を構成するIMFや世界銀行や国際金融団は、ユーゴスラヴィアへの借款に応じる替わりに返済条件を厳しくした。さらに、インフレを抑制するためと称して緊縮財政を要求し、市場の開放および国有企業の民営化、企業の整理統合を要請した。マルコヴィチ連邦首相の経済政策は、インフレーションの抑制には効力を発揮したものの、企業の倒産と失業を増加させたため、大規模なデモが起こるなど社会不安を増大させた。この社会状況が、ユーゴ連邦への求心力をさらに失わせ、西側による民族主義的工作を容易にした。

89年に東欧の社会主義圏の崩壊がユーゴ連邦の解体圧力となる

ユーゴ連邦における経済・政治構造が激変する中、89年11月に突如ベルリンの壁が瓦解し、連鎖的に東欧諸国は社会主義体制を放棄していった。東欧の社会主義圏の解体は、ユーゴ連邦への西側諸国の対応に少なからず影響を与えた。西側諸国にとって、社会主義諸国解体への突破口としてのユーゴ連邦の存在価値が、東欧諸国の社会主義体制の放棄によって著しく低下したからである。もはや、西側諸国にとってユーゴ連邦は、経済的な支援をしつつ社会主義を放棄させるという緩慢な政策をとる対象ではなくなったのである。

ユーゴ連邦のGDPは90年の時点で84兆円、各共和国の1人あたりのGDPは、スロヴェニア共和国が7000ドル、クロアチア共和国が5300ドル、ヴォイヴォディナ自治州が3800ドル、セルビア共和国が3000ドル、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国が2500ドル、モンテ・ネグロ共和国が2300ドル、マケドニア共和国が2200ドル、コソヴォ自治州が1800ドルと富裕な地域と貧困な地域との間にはかなりの格差があった。この格差を埋めるためには、比較的富裕なスロヴェニアやクロアチアから貧困な地域へ所得の再分配を行なわざるを得なかったが、これが両地域の住民にとっては搾取と感じられ、不満を募らせることになった。ここに、富裕なスロヴェニアとクロアチア両共和国に民族主義者が台頭する素地があった。

スロヴェニアとクロアチアはドイツとバチカンの画策で独立を強行する

1990年10月に東西ドイツの再統一を成し遂げたコール・ドイツ政権はその経費を賄うために経済圏の拡大を企図し、スロヴェニアとクロアチアを囲い込むことを画策した。バチカン市国はカトリック圏のスロヴェニアとクロアチアの教徒の囲い込みを目標にし、米国はバルカン諸国への覇権をおよぼすために公然とスロヴェニアとクロアチアの民族主義者を支援し、分離独立への方策を画策し始めた。

それに力を得たスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の民族主義者たちは、連邦憲法より共和国の憲法が優先するとの法を制定して法の下克上を進めた。ユーゴ連邦の憲法裁判所が、両国の立法措置は違憲であるとの判断を示しても、両国はこれを無視した。ユーゴ連邦の法秩序は、共和国が分離独立を宣言するより前に自壊状態に陥っていた。

91年6月19日に全欧州安全保障協力会議・CSCEの外相会議がベルリンで開かれ、ユーゴ連邦内の紛争に対し「対話継続による、平和的解決」をよびかけたが、スロヴェニアとクロアチア両共和国は、これを無視する形で91年6月25日にユーゴ連邦からの独立宣言を強行した。

スロヴェニアとクロアチアの独立宣言は、ユーゴスラヴィア連邦の維持を存立基盤とする連邦人民軍の干渉を招き、またクロアチア共和国内において少数派となるセルビア人住民との武力衝突を誘発した。クロアチアのセルビア人住民にとって、クロアチアの独立宣言は第2次大戦時のファシスト・グループ・ウスタシャ政権の悪夢の再来であったからである。第2次大戦時に設立されたナチス・ドイツの傀儡政権「クロアチア独立国」は、クロアチア人に純化した国家とするために、セルビア人など少数民族50万~60万人を虐殺したといわれる、その悪夢である。

独善的なドイツとバチカン市国の分離独立工作によってユーゴ連邦解体戦争が起こる

欧州共同体・ECは、武力衝突を抑制するために仲介し、7月にスロヴェニアとクロアチアに「ブリオニ合意」による独立宣言の3ヵ月間の凍結を受け入れさせた。EC諸国は、この3ヵ月間の凍結期間中に交渉による解決策を模索する意図を持っていたが、ドイツとバチカン市国はこれを冷却期間としか捉えず、スロヴェニアとクロアチアの独立承認こそが武力衝突を回避するための最善策だと主張して画策し続けた。

クロアチアのセルビ人住民は、クロアチア共和国の独立宣言に対抗するために、それまで自治区を設立していた地区を統合して「クライナ・セルビア人共和国」の設立を91年12月に宣言した。もはや、クロアチアにおける民族衝突は避けられない事態が進行していた。

「ブリオニ合意」による3ヵ月の凍結期間がすぎると、ヴァンス国連事務総長特使(米元国務長官)が和平に尽力しているのを後目に、コール・ドイツ首相は91年11月に開かれた連邦議会で「ECはまもなく両国を国家として承認するだろう」と演説し、独自にセルビアとモンテ・ネグロに経済制裁を科すとともに、12月23日にスロヴェニアとクロアチアの独立を単独で承認してしまう。バチカンもこれに追随し、やはり他国に先駆けて翌92年1月13日に両国の独立を承認した。EC諸国は、これに引きずられるようにして1月15日にスロヴェニアとクロアチアの独立承認に踏み切る。これが、クロアチア共和国政府とクロアチア・セルビア人住民勢力との武力衝突を一層激化させる契機となった。国連安保理は、ヴァンス国連特使の提言を受けてクロアチアの内戦を抑制するために92年2月に決議743を採択し、クロアチア内に保護地域を設定するとともに国連保護軍・UNPROFORの派遣を決定する。これに伴って、ユーゴ連邦人民軍はクロアチアから撤収していった。

この間、マケドニア共和国はユーゴ連邦政府との政治交渉によってユーゴ連邦からの分離独立を91年11月に達成した。マケドニアには、この時点では民族主義が表面化していなかったことから、交渉による独立が可能だったのである。

イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はスロヴェニアとクロアチアの後を追う

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの民族構成は、91年の時点でムスリム人が44%、セルビア人が31%、クロアチア人が17%、その他8%とユーゴ連邦の中でもっとも微妙な割合で民族が混住していた。それ故に、クロアチアでの武力衝突を目の当たりにしていることからすれば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいてユーゴ連邦からの分離独立に踏み切るにはそれなりの慎重さが求められたはずだが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領(幹部会議長)は、フランス政府に接触してEC諸国の感触をつかむと、92年2月末にセルビア人住民の反対を押し切ってムスリム人とクロアチア人のみで住民投票を強行し、3月早々に独立宣言を発した。ボスニア政府のこの強硬手段が3民族の対立を尖鋭化させ、ボスニアにおいて三つ巴の激しい内戦を引き起こすことになる。

ユーゴ連邦人民軍・JNAは、当初は3民族間の武力衝突を抑制する行動をとっていたものの、人民軍からムスリム人兵士およびクロアチア人兵士が離脱してそれぞれの勢力軍に入っていったためにセルビア人兵士が多数を占めるようになると、対応は次第に変容して行くことになる。ムスリム人兵士の加入で強化された「ムスリム人郷土防衛隊」は、駐屯しているユーゴ連邦人民軍二対して電気や水道などの供給を停止するとともに、武力攻撃を加えて武器の引き渡しを要求しつつボスニアからの撤退を迫った。連邦人民軍を取り巻く情勢は、もはや中立的立場を維持することが困難な状況となっていた。当時のブッシュ米政権は、ユーゴ問題に対しては慎重な姿勢を示していた。しかし、民主党のクリントンが92年の大統領選に立候補した際、ブッシュ政権のユーゴ問題への政策が生温いと政争の具として取り上げたことで、ブッシュ大統領のユーゴへの対処を変化させ、強硬策を採り始めることになる。そして、スロヴェニアとクロアチアの独立承認には慎重さを示していたにもかかわらず、ボスニアが独立を宣言すると、92年4月に3ヵ国をあっさり承認してしまう。EC諸国もそれに倣い、同じ4月にボスニアの独立を承認した。

国際社会は「ユーゴ連邦悪」を唱えて国連の諸機関から追放する

一方、ユーゴ連邦を維持することが不可能と分析したセルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国は、92年4月に旧ユーゴ連邦を継承する憲法を採択して新「ユーゴスラヴィア連邦」を設立した。しかし、国際社会はこれを認めようとしなかった。クロアチアとボスニアにおける武力衝突は「セルビア悪」に基づいているとのプロパガンダが浸透しつつあったことが、「新ユーゴ連邦悪」へと転移していたからである。そのため、国連は5月にスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国連加盟は承認したが、新ユーゴ連邦の国連加盟資格の継承を認めなかった。

その上、安保理は同じ5月に新ユーゴ連邦への包括的経済制裁決議757を採択する。6月には、「関税と貿易に関する一般協定・GATT」が加盟資格を停止。そして9月には、国連安保理は逆に新ユーゴ連邦を国連から追放する決議777を採択してしまう。さらに、同じ9月に「国連原子力機関・IAEA」が新ユーゴ連邦の追放決議を採択。93年4月には、国連総会が「経済社会理事会」から追放する決議を採択する。そして遂に、93年5月には世界保健機構・WHOまでが、新ユーゴ連邦を活動から排除する決議を採択した。ヴァンス国連ユーゴスラヴィア問題特使が、「ボスニア紛争には、すべての当事者に責任がある」との報告を国連に提出していたにもかかわらず、国連諸機関はまるで集団ヒステリーにかかったかのように異常な反応を示し、一方的に「新ユーゴ連邦」のみを追放する措置を採択していったのである。

国際社会はクロアチア共和国軍の軍事行動には寛容さを示す

国際社会の一方的な「セルビア悪・新ユーゴ連邦悪」視は、和平を促すどころか現実に起こっていることから目をそらし、反対勢力の軍事行動を助長することになった。92年3月にユーゴ連邦人民軍がクロアチア共和国から撤収すると、クロアチア共和国軍は余裕ができたのか、4月にはボスニア領内に侵攻してボスニア・クロアチア人勢力の支配領域拡大に加担し始めた。しかし、このクロアチア共和国の行為が国際社会から非難されたり、経済制裁措置を受けることはなかった。

国際社会の反応を確認したクロアチア共和国軍は、国連安保理指定の保護地域・UNPAへの軍事行動へと拡大していく。92年6月には「ミリィフツィ・プラトー作戦」を発動し、国連保護地域・UNPAのダルマツィア地方の最南端を攻略してセルビア人住民を追放。93年1月には、「マスレニツァ作戦」を発動してやはりUNPAのダルマツィア地方の中間に位置するザグレブとザダルを結ぶマスレニツァ橋を攻略。93年9月には、「メダック・ポスト作戦」を発動してセルビア人勢力を制圧し、「クライナ・セルビア人共和国」が首都としていたクニンに至る西南部の要衝をすべて確保した。これらの3つの軍事作戦遂行時に、国連保護軍の監視所が攻撃されて被害が出ているにもかかわらず、安保理は議長声明ですませた。

ユーゴ連邦人民軍はユーゴ連邦軍に改編してボスニアから撤収すると表明

ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、欧米諸国が92年4月に独立を承認して以来、対立が先鋭化していき、もはや3民族の共存は望めない情勢となっていた。92年4月には、3民族の宥和を求める「市民的抵抗運動」などが繰り返しデモを行なったが、武装民兵に銃撃されて多数の死傷者が出るに及んでこの市民運動は潰されてしまう。

国連安保理は92年4月に決議749を採択し、ボスニアへも国連保護軍・UNPROFORを派遣することを決める。ボスニアのムスリム人郷土防衛隊が、連邦人民軍の武器と施設を奪うことを企図して襲撃を繰り返したため、連邦人民軍は武力攻撃を停止させるために戦闘体制を取るとの声明を発表する。しかし、もはや連邦人民軍にこの民族主義的な武力衝突を抑制する役割を果たすことができないことは明白であった。そこで、5月にセルビア人兵士とモンテ・ネグロ人兵士の希望者を残して引き上げると表明した。そして、連邦人民軍・JNAを改編し、新ユーゴ連邦のユーゴスラヴィア軍・VJとすることを明らかにした。ユーゴ連邦軍は重火器の多くを帯同してボスニアから撤収するが、その際に重火器の一部を残留したセルビア人兵士が確保した。ボスニアのセルビア人勢力は、ユーゴ連邦軍から確保した重火器によって、領域拡大闘争を有利に進めていく。そして、ボスニアの70%に及ぶ領域を支配するまでになった。とはいえ、ムスリム人は都市生活者が多く、セルビア人は元来農業従事者が多かったことを考慮すると、70%の領域が途轍もない広さとは必ずしもいえない。

ボスニア・ムスリム人勢力は国連指定「安全地域」を拠点として武力攻撃を仕掛ける

ボスニアのスレブレニツァはムスリム人が73%を占めており、スレブレニツァ警察署ポトチャリ支所長だったムスリム人のナセル・オリッチが独立宣言後の92年4月に民兵組織「ポトチャリ郷土防衛隊」を結成する。そして翌5月には、「スレブレニツァ郷土防衛隊」に拡張させた。さらに、ムスリム人住民が多数であることを利用して行政権力を握ると、セルビア人住民を排除してスレブレニツァ市をムスリム人の街に純化した。そして、オリッチの「スレブレニツァ郷土防衛隊」はスレブレニツァを拠点として周辺のセルビア人住民の村や町を攻撃して支配地域の拡大を図り、93年1月には900を支配するまでになる。セルビア人勢力としてはオリッチの部隊の破壊と殺戮と領域拡大を放置するわけにはいかず、翌2月にスレブレニツァ攻撃を行なうことにする。 

セルビア人勢力軍がスレブレニツァを包囲すると、ボスニア政府が窮状を国連保護軍に訴えた。国連安保理はこれに応じ、93年4月に決議819でスレブレニツァを「安全地域」に指定する。オリッチの部隊はスレブレニツァが「安全地域」に指定されると、そこを拠点に周囲のセルビア人居住地を攻撃しては戻るという、国連保護軍に護られた城塞都市として利用するようになる。のちに、ガリ国連事務総長が「ムスリム人勢力が国連保護軍に護られた安全地域を攻撃の拠点にしている実情が見られる。国連の中立的立場からしてこれを見直す必要がある」との報告書を安保理に提出したが、安保理はこれを無視した。

ボスニア・クロアチア人勢力はクロアチア共和国軍とともに支配領域拡大を図る

ボスニアのクロアチア人勢力軍は、当初はムスリム人勢力としてのボスニア政府軍とともにセルビア人勢力に対抗していた。しかし、92年7月に自治区設立を宣言すると、母体のクロアチア共和国軍とともに自勢力の支配領域の拡張に向かうことになる。一方ボスニア政府は、ムスリム人勢力の劣勢を補うために、92年5月に米PR会社「ルーダー・フィン」と契約し、国際社会の関与を促す宣伝をするよう求めた。ルーダー・フィン社は、すぐさまセルビア人勢力が「民族浄化」を行なっているとのプロパガンダを流した。民族浄化とはナチス・ドイツのユダヤ人虐殺を想起させる文言であり、これが強烈なイメージを作り出し、「セルビア悪」は国際社会に深く浸透することになった。このルーダー・フィン社のPR活動は絶大な効果を発揮したのである。

ECが設置した旧ユーゴ和平会議のキャリントン議長(英元外相)はボスニア和平に尽力していたが、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領がボスニアの統一に拘り、3民族それぞれが自勢力の支配領域拡張に拘っていたために交渉が進展することはなかった。92年8月、限界を感じたキャリントンEC和平会議議長は、「米国はもう少し譲歩すべきだ」と述べて辞任する。キャリントン議長の辞任を受け、国連とECは急遽「旧ユーゴ国際和平会議」に拡大して和平交渉を進めることになる。

93年1月、「旧ユーゴ国際和平会議」のヴァンス(米元国務長官)・オーエン(英元外相)両共同議長は、「ボスニアを10のカントン・州に分割して非中央集権国家とする」との和平案を提示する。しかし、3民族の各勢力はあれこれと異議を申し立て、和平案を有利に進めるために実質的な支配領域の拡大に動いた。にもかかわらず、ヴァンス・オーエン両共同議長は5月に修正和平案を再提示した。このセルビア人勢力の領域が50%、ムスリム人とクロアチア人の領域が合わせて50%という10州の分割案を3民族の代表が合意し、調印する。ところがセルビア人勢力の議会は、領域の70%を支配しているにもかかわらず、50%に縮小されることを受け入れず、否決してしまう。新ユーゴ連邦政府はこのセルビア人勢力の対応を許容せず、「人道援助を除く物資の援助を停止する」とのボスニア・セルビア人勢力への制裁を発表した。

一方、国連安保理は5月に決議824を採択し、スレブレニツァに加えてサラエヴォ、ジェパ、トゥズラ、ゴラジュデ、ビハチを国連軍が保護する「安全地域」に指定する。

同じ5月、ボスニア南部のモスタル市では、クロアチア人勢力が臨時首都とすることを目論み、クロアチア共和国軍とともにムスリム人勢力を掃討するために激しい攻勢をしかけた。このクロアチア人勢力軍の砲撃で、ネレトヴァ川に架けられた橋は全て破壊され、「スタリ・モスト」といわれたオスマン帝国時代に建造された記念碑的な石橋も崩落した。

米政府は「セルビア悪」に基づく「新戦略」を立案する

民主党のクリントンが92年の大統領選に勝利し、93年1月に大統領に就任するとユーゴ問題に対してセルビア悪を前提に、セルビア人勢力を征圧すれば解決するとの単純な思考による強硬策を押し進める。

ところが、現実にはセルビア人勢力とボスニア政府の戦いだけではなくボスニア政府とクロアチア人勢力との間でも激しい戦闘が行なわれており、そのことに政権はしばし戸惑った。しかし、セルビア悪の路線は変えることなく、ボスニア内戦を終結させるための新たな対処策としての「新戦略」を策定する。そして、クロアチア共和国に圧力を掛け、ボスニア・クロアチア人勢力の強硬派のマテ・ボバン代表を更迭させる。次いで、93年2月、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍に圧力をかけて停戦に合意させる。その上で、クロアチア人共和国とボスニア・クロアチア人勢力およびボスニア政府を米国に呼び寄せて94年3月に「ワシントン協定」なるものを締結させた。

公表されたワシントン協定は、ムスリム人勢力としてのボスニア政府とボスニアのクロアチア人勢力のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とを合併させて「ボスニア連邦」とし、このボスニア連邦とクロアチア共和国が将来連合国家を形成するというものである。ボスニア連邦の形成はともかくとして、ユーゴ連邦解体の経緯を見ればボスニア連邦とクロアチア人共和国の連合国家などあり得る事柄ではない。しかし、ボスニア連邦の形成だけでは、旧ユーゴ和平国際会議が和平に尽力している傍らで米国が独自の和平交渉を行なうことは批判を浴びかねないことから、この奇妙な連合国家構想を付け加えて国際社会を眩惑したのである。

ワシントン協定に内包されていた意図は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力に統合共同作戦を実施させてクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を屈服させるとの対処策である。それからの94年の1年間は、クロアチア共和国軍、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア勢力軍に対し、CIAおよび米軍事請負会社・MPRIなどを派遣して軍事訓練を施し、武装を強化させることに充てた。

クロアチア共和国軍とボスニア政府軍は新戦略に基づく統合共同作戦を発動

95年1月、トゥジマン・クロアチア大統領は新戦略発動の準備が整うと、国連保護軍・UNPROFORの存在が和平の妨げとなっているとして、クロアチアから撤収させるよう、ガリ国連事務総長に書簡を送付する。国連安保理は、クロアチア共和国の要請に応じて、3月に国連保護軍を3分割させる決議981~983を採択し、クロアチアには縮小した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを分割配置することにした。クロアチア共和国軍は国連軍の移動を見届けると、95年5月に米国の新戦略に沿った「稲妻作戦」を発動し、クロアチアのセルビア人勢力支配地区の「西スラヴォニア」を制圧した。独・仏・英はこのクロアチア共和国軍の作戦を咎めたが、米政府は沈黙していた。

ワシントン協定の意味を理解していなかったボスニア・セルビア人勢力

ボスニア・セルビア人勢力は、米国の新戦略に基づくワシントン協定が含む意図を理解していなかったと見られる。当時の戦況は、クロアチア共和国軍が絡む北西部が重要な地域であったにもかかわらず、ボスニア・セルビア人勢力は東南部のムスリム人勢力の飛び地の制圧に拘っていたからである。そのための「クリバヤ95作戦」を策定し、7月6日にスレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパの攻略に取りかかった。このときの作戦でスレブレニツァの虐殺事件が起こったとされた。

ボスニア・セルビア人勢力がスレブレニツァに引き続きジェパ、ゴラジュデ攻撃を行なっていた同じ時期の7月26日、ボスニア政府軍は越境してきたクロアチア共和国軍を迎え入れ、統合共同作戦「‘95夏作戦」を実行する。「クライナ・セルビア人共和国」の首都クニンへ至るボスニア側の要衝のリヴノ、ボサンスコ・グラホヴォ、グラモチュを難なく占拠し、ボスニア・セルビア人勢力とクロアチア・セルビア人勢力との往還路を遮断した。このように、ボスニア政府軍はクロアチア共和国軍との統合共同作戦に主眼を置いており、東南部のムスリム人居住地の戦闘はボスニア・セルビア人勢力軍のなすがままにさせ、これを国際社会の批判と介入を呼び込む誘因とすることを意図していたのである。しかし、ボスニア・セルビア人勢力はこれに気付いていなかったように見える。

米国の新戦略に基づく最終作戦としての「嵐作戦」とNATO軍の「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」

95年8月4日、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員する大規模な「嵐作戦」を発動し、4方面軍を編成して「クライナ・セルビア人共和国」に襲いかかった。迎え撃ったクライナ・セルビア人共和国は、「西スラヴォニア」が陥落して「東スラヴォニア」からの応援を求めることが不可能なことと、ボスニア・セルビア人勢力の支援も望めないことから、動員できた兵員は4万弱であったためにたちまち総崩れとなり、住民ともども脱出するよりほかなかった。クロアチア共和国軍は、脱出するセルビア人住民の難民の列に砲弾を撃ち込み、殺戮を恣にした。赤十字国際委員会・ICRCによると、このときクロアチアから脱出した難民・避難民は20数万人に及ぶ。この「嵐作戦」に、ボスニア政府軍も北西部側から共調行動を取っている。クロアチア共和国軍は、「クライナ・セルビア人共和国」を潰滅させると、純粋なクロアチア人国家とするために残りのセルビア人住民居住地域の東スラヴォニア攻略に取りかかった。これは、さすがにEU諸国が諫めたために断念する。

そこで、クロアチア共和国軍は「ミストラル作戦」に切り換えてボスニア領内に侵攻し、ボスニアのセルビア人共和国の首都のバニャ・ルカ攻撃を実行する。一方のボスニア政府軍は、共同作戦の一環として近傍のヤイツェを陥落させ、さらにボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュ、クレンヴァクフなどいずれも北西部の要衝を攻略し、およそボスニアの50%超を支配下に置いた。

その後、東スラヴォニアには96年1月に採択された安保理決議1037によって国連暫定統治機構・UNTAESが設置され、一時期国連の管理下に置かれることになる。

NATO軍は条約の域外への武力行使を発動

このクロアチア共和国軍とボスニア政府両軍の統合共同作戦が継続する中、サラエヴォのマルカレ市場爆発事件が起こされる。すると、NATO軍はそれをセルビア人勢力が起こしたものと即断し、「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動した。このマルカレ市場爆破は、国連保護軍の調査によるとムスリム人勢力の自作自演といわれた事件である。ボスニアのセルビア人勢力は、米国によって強化されたクロアチア共和国軍とボスニア・クロアチア人勢力軍およびボスニア政府軍に加え、NATO空軍による空爆と、NATO加盟国主体の国連の緊急対応部隊から陸上砲撃を受けるという窮地に追い込まれた。

ボスニア・セルビア人勢力は、5勢力からの包囲攻撃を受けても屈服するつもりはなかったが、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受けて和平交渉を受容することにする。クロアチアのクライナ・セルビア人共和国を潰し、ボスニアのセルビア人共和国(スルプスカ共和国)を屈服させることを目的とした、米国の新戦略は見事な成果を収めたのである。

ボスニア・セルビア人勢力の代表を排除して行なわれたデイトン和平交渉

95年11月、米オハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に関係者が呼び集められて「デイトン和平交渉」が米国主導で進められた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナを非中央集権の連合国家とし、エンティティとしてのボスニア連邦の支配領域を51%、スルプスカ共和国(セルビア人勢力)の支配領域を49%とした。このデイトン合意は、12月にパリで細目が決められた上で正式に調印式が行なわれ、「デイトン・パリ和平協定」となる。この和平協定の成立によって、ユーゴ連邦解体戦争は終結したかに見えた。

米CIAは「情報・文化センター」を拠点にコソヴォ解放軍・KLAを指導・訓練

しかし、クリントン米政権は、これでユーゴ連邦解体戦争を終わらせるつもりはなかった。翌96年6月にクリストファー米国務長官はミロシェヴィチ・セルビア大統領と交渉し、コソヴォ自治州の州都プリシュティナに「情報・文化センター」の設置を認めさせたのである。情報・文化センターなるものは世界の国々にも設置されているが、米CIAが活動の拠点とするところである。センターの設置が決まると、コンブルム米国務次官補は「米国がコソヴォに関与し続ける一例である」と露骨に表現した。以来、CIAはコソヴォ解放軍・KLAと密に接触することになる。

翌97年、隣国アルバニアが経済的無秩序に伴う政治的混乱に陥ると、武器の管理が疎かになり大量に流出した。コソヴォ解放軍・KLAは、そのアルバニアの武器を入手すると、すぐさまコソヴォ自治州の武力による分離独立闘争を本格化させた。

コソヴォ解放軍が戦闘を激化させても、セルビア政府はユーゴ連邦解体戦争時のセルビア悪説に苦しめられたことから、治安部隊によるコソヴォ解放軍への鎮圧行動をためらっていた。

ところが、米政府は98年2月にゲルバード特使をコソヴォに送り込み、ルゴヴァ自治州大統領などの穏健派といわれる者たちを集めてコソヴォ解放軍は「テロ組織」だと明言させる。ユーゴ連邦政府は、このゲルバード米特使の言明を鎮圧容認と受け取り、治安活動を強めた。すると国際社会は、またもやユーゴ連邦がコソヴォのアルバニア系住民を迫害しているとして囂々たる非難を浴びせ始めた。そして米・英・仏・独・伊・露による「連絡調整グループ」を含む9ヵ国が武器禁輸に加えて、輸出信用状の発行を停止すると発表する。

これを受けて国連安保理は武器禁輸決議1160を採択する。コソヴォ解放軍は、国際社会の反応を得て勢いづき、98年5月にはコソヴォ自治州の25%を支配するまでに勢力を拡大した。その実態を無視したG8は、ユーゴ連邦に対してコソヴォ解放軍と対話をするように求め、オルブライト米国務長官は、住民弾圧を止めなければ「必要な措置を取る」と武力行使を辞さないとの警告を発した。さらに米政府は、6月にホルブルック特使をコソヴォに送り込み、情報・文化センターに駐在するCIAの手引きでコソヴォ解放軍の幹部たちと写真を撮り、彼らを「自由の戦士」と讃える。その一方で、ユーゴ連邦には自治州から撤退することを要求した。

国際社会の誤解を解くために要請したOSCE調査団はユーゴ連邦を貶める工作を行なう

ユーゴ連邦としては、コソヴォ自治州の4分の1を支配する事態を容認するわけにはいかなかった。そこで鎮圧行動を強めてコソヴォ解放軍を追いつめていく。9月に入ると国連安保理は、「即時停戦と治安部隊の撤退および対話を求める決議1199を採択。NATOは安保理決議を受け、空爆の警告を出すことを決めるなど、ユーゴ連邦包囲網を狭めていった。コーエン米国防長官がさらに強い警告を発する中、ユーゴ連邦はコソヴォ紛争の実態と国際社会の理解との乖離を埋める必要に迫られた。そこで、ロシアのイワノフ外相の助言を受け入れ、中立的だと考えられていた欧州安全保障協力機構・OSCEによるコソヴォ調査団の派遣を要請した。

OSCEは一度は断るがすぐに撤回し、コソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織して2000人の検証団員の派遣を決める。ところが、KVMの団長に曰のある米外交官ウィリアム・ウォーカーが任命されたことでコソヴォの帰趨は明白となった。ウォーカーは駐エルサルバドル大使だった際、独裁政権の「アトラカトル大隊」が政権に批判的だったカトリックの司祭やシスターと子どもの虐殺を容認し、擁護した人物である。98年10月から検証団員1600人は順次コソヴォに入っていくことになるが、ウォーカーはこの中に米CIAや英MI6などの諜報部員百数十名を潜り込ませた。諜報工作員の任務は、「1,ユーゴ連邦の評価を貶めること。2,NATO軍が空爆する際の標的を探ること。3,コソヴォ解放軍と接触し、衛星電話を渡してNATO軍の空爆の目標と成果を連絡させること」にあった。

99年1月にコソヴォ自治州に入ったウォーカーKVM団長は、すぐさまラチャク村でセルビア警察部隊が民間人45人を虐殺したとの事件を捏造し、声高に非難する。のちに、フィンランドの検視団が虐殺を否定する事件である。しかし、オルブライト米国務長官はミロシェヴィチ・ユーゴスラヴィア大統領を「1938年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえて激しく非難し、これを受けて国連安保理はラチャク村事件を非難する議長声明を採択した。NATO軍はすぐにでも軍事行動に踏み切る姿勢を示すが、このときは6ヵ国の連絡調整グループが介入して和平交渉を行なうことになる。

「ランブイエ和平交渉」の主導権を握ったオルブライト米国務長官

99年2月から始められた「ランブイエ和平交渉」は、メディアのアクセスを遠ざけて進められた。米政府は直ちに介入し、コソヴォ住民側の代表を老練なルゴヴァ自治州大統領ではなく、コソヴォ解放軍の30歳の若いタチ政治局長を代表にするよう指示する。ランブイエ和平交渉は、タチ政治局長がコソヴォ自治州の独立の確定に拘り、セルビア共和国としては王国揺籃の地を手放すことは論外だったことから、交渉は難航した。それでも、「連絡調整グループ」の仲介者の尽力によって妥協の手がかりがほのかに見えるところまで漕ぎつけた。

ところが、途中からオルブライト米国務長官が交渉の場に乗り込み、主導権を握ってしまう。そして、再開された交渉の最終日の3月18日、コソヴォ解放軍のタチ政治局長を説得して和平案への合意を表明させ、一方のユーゴ連邦側にはユーゴスラヴィア全土にNATO軍を駐留させて自由な行動を認容するとともに費用の一部を負担せよ、との占領条項ともいえる「付属B項」を突きつけて受け入れを拒否させた。この「軍事条項」である「付属B項」は、NATO軍の介入に積極的だったブレア首相の英国を除いて「連絡調整グループ」には秘匿されていたため、国際社会はユーゴ連邦が傲慢にも和平を拒否したものと受け取らされた。このようにして、NATO軍によるユーゴ連邦への武力行使も止むなしとの雰囲気がつくり出された。

「ユーゴ・コソヴォ空爆」は米国主導の既定路線

さらに、米国政府はセルビア治安部隊のアルバニア系住民への「民族浄化」は一刻も猶予ならないとのコメントを繰り返し、NATO軍による軍事行動の正当性を「人道的介入」と位置付けた。コソヴォ紛争の実態は、米国の情報・文化センターが情報を収集しており、またOSCE・KVMの1600名の停戦監視要員が調査をしていたことを勘案すれば、その報告を参照すべきであると考えられる。しかし、OSCE・KVM監視団の調査事例として取り上げられたのは、ウォーカーKVM団長が言及したラチャク村事件のみである。人道的介入を掲げながら、その内実は実態には関係なくNATO軍が既に戦闘態勢を整えており、空爆の発動理由をいかに真実らしく見せかけるかのみであったのである。オルブライト米国務長官はランブイエ和平交を決裂させると、アルバニア系住民への迫害は一刻も猶予がならないとのプロパガンダを行なった。そして、NATO軍は国連安保理決議を回避し、99年3月24日に「慈悲深い天使の作戦」なるものを冠した「アライド・フォース作戦(同盟軍事作戦)」を発動した。

大戦なみの軍事力を配備した「アライド・フォース作戦」

ユーゴ・コソヴォ空爆に参加した艦隊は、米国の原子力空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊、英海軍の軽空母「インヴィンシブル」艦隊、フランスの空母「フォッシュ」艦隊やその他の国の駆逐艦やフリゲート艦および潜水艦など、大戦並みの陣容が配備され、空軍は13ヵ国からおよそ1000機が投入されるという大規模な戦闘態勢をとった。78日間に及んだ空爆でNATO軍は3万6000回出撃し、その内米軍は2万2300回を占めた。爆撃の対象は軍事関連施設にとどまらず、空港、港湾、道路、橋梁、鉄道、工場、放送局、病院、学校、住宅地など無差別な爆撃が行なわれた。NATO軍の空爆によるユーゴスラヴィアの損害は、数十年程度では復興できないほどの規模の破壊であった。この空爆で中国の大使館にもミサイル3発が撃ち込まれた。米政府は誤爆であったと釈明したが、中国は誤爆とは受け取らなかった。このNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆は、ロシアと中国の防衛体制に多大な影響を与え、中・露はこれを機に軍備を強化していくことになる。

停戦交渉は難航したが、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆の破壊力はすさまじく、ユーゴ連邦は和平案を受け入れるしかなかった。6月10日に国連安保理決議1244が採択され、コソヴォ自治州からユーゴ連邦の治安部隊も警察部隊も撤収させられ、セルビア共和国のコソヴォへの統治権は奪われた。そして、NATO軍主体の平和維持部隊・KFORが送り込まれ、行政支援として国連行政支援機構・UNMIKが設置される。

米政府は、ユーゴ連邦の治安部隊が撤収すると、すぐさま広大な「ボンド・スティール空軍基地」をコソヴォに建設する。米政府としては、ユーゴ連邦にコソヴォの統治権を返還する意志がないことを見せ付けたのである。

懲罰としてのミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の追放と獄死

これで、西側諸国のユーゴ連邦への関与が終わったわけではなかった。ユーゴ・コソヴォ空爆への抵抗を続けたミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領への懲罰である。ユーゴ・コソヴォ空爆が終結した6月中に、早くもユーゴ連邦内でミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の退陣と議会選挙を求める集会が開かれた。この抗議集会の背後には米国政府の関与があり、民主主義基金・NED、国際開発庁・USAIDやソロス財団やコソヴォに開所した情報文化センターを通じて資金や物品を提供し、訓練を受けた者たちがミロシェヴィチの打倒に動き出したのである。この集会は頻繁に開かれ、「オトポール・拳」のプラカードを掲げた学生集団が多数を占めるようになった。その抗議集会に押される形で、ユーゴ連邦上下両院は選挙法を改定し、大統領選と議会選を前倒しで行なうことを決議する。9月に行なわれた大統領選は与党のミロシェヴィチと野党連合のコシュトニツァの対抗戦となり、混乱の中コシュトニツァが新大統領に選出された。

コシュトニツァ政権で選対本部長を務めた民主党党首のジンジッチが首相に選出されると、密かにミロシェヴィチ前大統領を拘束して米軍ヘリコプターで旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYのあるハーグに送り込んだ。ICTYにおいてミロシェヴィチの罪を問うことは困難だとの見通しが語られる中、ミロシェヴィチが治療を訴えた心臓病を仮病だとして放置されて獄死したため、ミロシェヴィチの罪状の判断が示されることはなかった。

「オトポール(拳」」の活動と新ユーゴ連邦の解体

その後、ミロシェヴィチ追い落としで活動したオトポールが外国から資金援助を得ていたとのうわさが広まり、セルビアの中では支持を失っていくが、ベオグラードに革命の輸出の拠点として存在し続け、世界諸国における体制転換の際に資金援助や訓練などを行なうようになる。2003年のグルジアの政変、2004年ウクライナの政変や2005年から始まるベネズエラの政変にもオトポールが関与している。

ユーゴ連邦は、国際社会が認めようとしなかったにせよ、セルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国両国による「新ユーゴ連邦」が暫く持続していた。しかし、モンテ・ネグロは国際社会の「セルビア悪」の風潮の中で連邦を構成することの政治的・経済的な不利益を否応なく意識させられた。そこで、親欧米で独立指向のジュカノヴィチがモンテ・ネグロの大統領に選出されると新ユーゴ連邦からの分離独立を画策し、2003年2月に第1段階としてユーゴ連邦を「セルビア、モンテ・ネグロ」の国家連合とする。次いで、06年6月にはモンテ・ネグロとセルビアとの国家連合も解消して独立を宣言した。新ユーゴ連邦といわれた最小の連邦国家も、この両国の分離によって完璧に消滅することになる。ジュカノヴィチはこれで役割を果たしたと考えたとの推察が可能だが、やがて政界引退を表明する。

コソヴォ解放軍・KLAの幹部たちの臓器売買の犯罪

その後のコソヴォ自治州は、混乱を極めた。純粋なアルバニア系住民の国家とすることを企図してアルバニア系住民がセルビア人住民を襲撃し始めたからである。このアルバニア系住民のセルビア人住民への襲撃による死者はユーゴ・コソヴォ空爆以前の紛争による死者を上回った。さらに、コソヴォ解放軍・KLAの幹部たちは、セルビア人住民だけでなく非KLAのアルバニア系住民やその他の少数民族およそ300人を拘束してアルバニアに連行して殺害し、その臓器を密売した。

それを公にしたのは、ICTYの前首席検察官のカルラ・デル・ポンテである。カルラは、そのことを任期中に把握しており、それを調査するよう部下に指示したが、ICTYの米国人が多数を占めていた内部職員たちの反応は「沈黙の壁」であった。そこでカルラは退任後に「追跡;私と軍の犯罪者」としてイタリアで出版し、コソヴォ解放軍・KLAの幹部でその後コソヴォ自治政府の政府を担うことになったハラディナイ、タチ、チェクらを実名でその悪行を明らかにした。しかし、ICTYはこの件についての調査はしないと表明する。ICTYは、人道に係わる罪を裁くことが任務とされて安保理の下部機関として設立されたのだが、やはり安保理の政治性を内包したことから抜け出せない組織だったのである。

図に乗ったコソヴォ解放軍の「大アルバニア」建設計画と米国の関与

このように、コソヴォ解放軍・KLAは犯罪者集団の性格   を内包した組織だったが、NATO諸国の支援に乗じて「大アルバニア」の建設を構想する。

そして、ユーゴ・コソヴォ空爆後の和平条項によってコソヴォ自治州とセルビア共和国との境界に設定された5キロの非 武装地帯に拠点を築き、そこを基地としてセルビア側に攻撃を 仕掛けては戻るということを繰り返した。さらにセルビア南部 のアルバニア系住民が多数居住している地域に「プレシェヴ ォ・ブヤノヴァッツ・メドベジャ解放軍・LAPBM」を結成 させ、その地域をセルビア共和国から分離させる攻撃を開始し た。しかし、これはセルビア共和国軍の反撃するところとなり 頓挫する。そこで、コソヴォの南に位置する軍備の脆弱なマケドニアに矛先を変え、マケドニアに居住する21%のアルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させる。そして、アルバニア系住民が多数居住する北部地域を武力によってマケドニアから分離させ、コソヴォ自治州に合併させるべく戦闘を開始する。このコソヴォ解放軍と民族解放軍の武力攻撃は貧弱なマケドニアの軍勢を圧倒し、たちまちマケドニアの30%を支配するまでになった。このコソヴォ解放軍・KLAの戦闘を指導していたのは米CIAや米軍事請負会社・MPRIであり、KLA・NLAの目論見は成功するかに見えた。もとよりマケドニア政府としては国土を囓り取られることを認めるわけにはいかず、軍備の劣性を東欧からの武器の貸与を受けるなどをして総動員態勢で反撃し、KLAを包囲するまで追い詰める。この時に至ってNATOは停戦の仲介に入り、KLAを救援するという対応をした。NATOの介入によってコソヴォ解放軍が壊滅することは免れたが、「大アルバニア」の建国もあえなく失敗に終わる。

コソヴォの独立はユーゴ連邦解体の最終章

コソヴォ解放軍は、「大アルバニア」構想は断念させられたものの、コソヴォの独立を諦めたわけではなかった。「ランブイエ和平交渉」の条項に含まれていた、独立に係わる再協議の約定の実施を執拗に迫ったのである。

西側諸国はやむなく国連に委ねてアハティサーリ・元フィンランド大統領を事務総長特使として任命させ、コソヴォ問題の解決を委ねた。

アハティサーリは、コソヴォ自治政府とセルビア共和国の代表を呼び寄せて協議を行なうが、セルビア共和国としてはセルビア王国揺籃の地を手放すことなど論外と主張し、コソヴォ自治政府は独立以外の方策を受け入れることはできないとの主張を繰り返すのみであったため対立は解けず、協議による解決には至らなかった。そこで、アハティサーリ特使は国連安保理決議による強制独立承認に持ち込むが、これもベルギーやロシアなどの理事国から疑念が出されたために成功しなかった。

米国の「新世界秩序」形成の犠牲となったユーゴスラヴィア連邦

2008年2月、コソヴォ解放軍のハシム・タチ(サチ)元政治局長が首相に就任すると、コソヴォ自治州暫定議会にセルビア共和国からの独立宣言を採択させる。欧米各国はこの一方的な独立宣言を予定調和のように直ちに承認し、ユーゴ連邦解体戦争を完成させた。しかし、このような形での独立国家の成立に対する諸国の疑念は深く、1年を経た2009年の2月の段階でも、コソヴォ国家を承認したのは国連加盟国193ヵ国のうちの54ヵ国にとどまった。しかし、西欧諸国の説得が効を奏しつつあるのか、10年後の2018年には116ヵ国が承認するまでになる。

ユーゴスラヴィア連邦が欧米諸国によって解体させられた理由は、東欧諸国が社会主義体制を放棄したにもかかわらず、ユーゴ連邦が自主管理社会主義的残滓を抱え込んでいたからである。これを「ショック療法」によって完全に社会主義的要素を払拭させるには、民族主義を煽ることが最善だと捉えた。欧米諸国にとって、あのような内戦は予想外だったにせよ、ユーゴスラヴィア連邦を解体することは予定された政策目標であった。

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争は、さほど異なっているとはいえない南スラヴ民族の間の民族主義に基づく誹謗中傷、虚偽、欺瞞が絡んだ悲惨な破壊と殺戮によって民族間に拭いがたい憎悪を残したのみで、未来に対する何ものをもつくり出さなかった。中央集権型の社会主義体制ではない独自の自主管理社会主義の試みは、世界の知識人の中に大いなる関心を抱かせてはいたものの、民族主義者と西側の利害の前に悲惨な姿をさらして崩壊した。ユーゴスラヴィア連邦の解体は、かねてブレジンスキー米大統領補佐官が示唆した方針に沿って徹頭徹尾先進諸国の干渉の下に進められ、西側諸国の権益を拡張するために、国連安保理決議を回避したNATO軍の初の、しかも域外への実力行使によって完遂された。その後の旧ユーゴスラヴィア連邦の各共和国の産業は西側の資本が蹂躙し、主な企業のほとんどが支配されることになった。ユーゴ連邦はイラク、アフガニスタン、リビアとともに、米国の「新世界秩序」形成の犠牲にされたのである。米国の戦史上最長といわれるアフガニスタン戦争は20年を経た2021年8月に、疲れ果てた米軍が撤退したことで一応の終結を見た。しかし、米国が国家資金を凍結したことなどで悲惨な状態に置かれている。

旧ユーゴスラヴィア連邦の後継国は後進性から免れていない

旧ユーゴ連邦は、分離独立を果たして豊になったのかといえば、必ずしもそうではない。世界経済フォーラムが2015年に発表した「世界競争力指数」のよると、もっとも富裕で進んでいたといわれたスロヴェニアでも59位であり、マケドニアが60位、モンテ・ネグロが70位、クロアチアが77位、セルビアが94位、ボスニアは111位に位置づけられる。コソヴォはランキング外である。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、セルビア、スロヴェニア、クロアチア、モンテ・ネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ>

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5,「旧ユーゴスラヴィア連邦の民族構成」

ユーゴスラヴィア連邦は1991年の時点で、7つの国境を有し、6つの共和国があり、5つの民族を含み、4つの言語を話し、3つの宗教を信仰し、2つの文字を使い、1つの連邦国家を構成している、と称されてきた。

7つの国境  ; イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアと国境を接していた。

6つの共和国; スロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテ・ネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア

6つの共和国の他に、セルビア共和国内にヴォイヴォディナ自治州とコソヴォ自治州が含まれた。

5つの民族; スロヴェニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、モンテ・ネグロ人を表しているが、元来は南スラヴ族である。他にアルバニア系住民が多数居住している。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人は信仰による別称で、主として南スラヴ民族である。

コソヴォとセルビア南部およびマケドニアに居住するアルバニア人系住民はイリュリア人を先祖とするといわれる別の系統の民族である。その他にハンガリー人、ロマ人、トルコ人、スロヴァキア人、ルーマニア人、ブルガリア人、ルテニア人、イタリア人、チェコ人、ウクライナ人、ヴラフ人、ドイツ人、ロシア人などが居住している。

4つの言語; 南スラヴ諸語: スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語

4つの言語に分類されているが、バルカンのブルガリアからセルビア、クロアチア、モンテ・ネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、スロヴェニアに至る南スラヴ諸語は11世紀くらいまで古代スラヴ語を共通語としており、それぞれ方言程度の違いしかなかった。セルビア語は、南ヘルツェゴヴィナのシト方言を基礎にしてクロアチアより先に標準語化された。クロアチア語もセルビア語に遅れて別の人物によって同じ南ヘルツェゴヴィナのシト方言を基礎にして標準語化された。1850年、同じシト方言を基礎として別々の人物と時期に標準語化されたセルビア語とクロアチア語を、「セルボ・クロアチア語」の文章語としての統一を「ウィーン合意」で確認した。しかし、その間ハプスブルク帝国支配下のクロアチアで開かれた1861年の議会で、言語の呼称問題が討議され、クロアチア語、セルビア語の区別をつけずに「ユーゴスラヴィア語」なる呼称とすることが採択されている。その後1世紀を経た1950年に再度「ノヴィ・サド決議」が為されるが、クロアチア側が民族主義を意識してこの決議を70年代になって否定する。91年以後はユーゴ連邦が解体されたため、クロアチアの民族主義によって別の言語であるとするようになった。スロヴェニア語は、セルボ・クロアチア語とは文法が少し異なる。マケドニア語は、ブルガリア語の影響を色濃く受けている。

4つの言語以外に多く使われている言語は、アルバニア語およびハンガリー語である。

3つの宗教;カトリック教、東方正教、イスラム教

実際には、カトリック教会も分派があり、プロテスタント諸派もあり、東方正教も各正教会があり、宗教団体は50ほどある。イスラム教は、ボスニアのムスリム人およびアルバニア人ともスンニ派である。

2つの文字;ラテン文字、キリル文字

カトリック圏のスロヴェニアとクロアチアはラテン文字。東方正教圏のセルビアとマケドニアおよびモンテ・ネグロはキリル文字を使用することが多い。ボスニアはラテン文字とキリル文字両方を使ったが、現在はラテン文字が優勢となっている。

1つの国家;ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国。1946年1月に成立した憲法でユーゴスラヴィア王国の王制が廃止され、社会主義連邦共和国となった。そののちの91年から99年にかけて内戦が発生して解体された。

<参照;ユーゴスラヴィア連邦の紛争前の人口構成、ユーゴスラヴィア連邦、旧ユーゴスラヴィアの宗教分布>

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6,「旧ユーゴスラヴィア連邦の紛争前の人口構成」

スラヴ人は東スラヴ人、西スラヴ人、南スラヴ人に分類される。主として、東スラヴ人はロシア、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)。西スラヴ人は、ポーランド、チェコ、スロヴァキア。南スラヴ人は、スロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテ・ネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、ブルガリアに居住する。ユーゴスラヴィアは、南スラヴの意である。

ユーゴスラヴィア連邦は多民族国家で、連邦全体の人口は1991年の時点で2350万人。民族構成は、南スラヴ人が81.4%・1913万人、それ以外の民族は18.6%・437万人で、アルバニア系住民が半数を占める。

ムスリム人およびユーゴスラヴィア人は民族名ではない。1963年の憲法改定で、他民族・他宗教の融合を図るために、民族とは異なるユーゴスラヴィア人およびムスリム人という概念を導入した。ムスリム人とはイスラム教を信仰する人という意味を表しており、ユーゴスラヴィア人とは民族間の結婚による混血で民族のアイディンテティが曖昧な場合か、あるいはユーゴスラヴィア連邦の国民であることを自覚した人たちの自称登録民族名で、連邦政府がこれをも民族として認定した。

ドイツ人は、第2次大戦までは50万人前後居住していたが、ユーゴスラヴィア王国が枢軸側に占領された際にナチス・ドイツに協力したため、戦後はほとんどが追放されて僅かしか残っていない。ユダヤ人は、バルカン地区に多数居住していたが、クロアチアのウスタシャ政権がナチス・ドイツによる「最終解決」に協力したことにより、ほとんどが失われた。

1991年にユーゴ連邦として最後の人口調査が行なわれる

*旧ユーゴスラヴィア連邦共和国: 1991年の人口調査・2350万人;

セルビア人(36.3%)・853万人、クロアチア人(19.8%)・465万3000人、ムスリム人(8.9%)・209万2000人、

スロヴェニア人(7.8%)・183万3000人、マケドニア人(6.0%)・141万人、モンテ・ネグロ人(2.6%)・61万1000人、

以上が南スラヴ人。それ以外の民族構成は、アルバニア人(7.7%)・181万人、ハンガリー人(1.9%)・44万7000人、

ロマ人(0.8%)・18万8000人、トルコ人(0.4%)・9万4000人、スロヴァキア人(0.4%)・9万4000人、

ルーマニア人(0.2%)・4万7000人、ブルガリア人(0.2%)・4万7000人、ルテニア人(0.1%)・2万4000人、

チェコ人(0.1%)・2万4000人、イタリア人(0.1%)・2万4000人、ウクライナ人(0.1%)・2万4000人、

その他・1.3%・30万6000人

連邦の首都;ベオグラード市

クロアチア共和国 :1981年;人口・401万1600人;

クロアチア人(86.1%)・345万4700人、セルビア人(13.2%)・53万1500人、

ハンガリー人(0.6%)・2万5600人 

1991年; 人口・478万4000人;

クロアチア人(78.1%)・373万6000人、セルビア人(12.2%)・58万1000人、

ムスリム人(0.9%)・4万3000人、ユーゴスラヴィア人(2.2%)・10万6000人、

その他(6.6%)・33万4000人

2020年;人口  410万5000人

ザグレブ市;2001年:81万150人

クロアチア人・75万83人(92%)、セルビア人・1万8811人(2.41%)、

ムスリム人・1万4134人(1.82%)、アルバニア人・6389人(0.83%)、

ロマ人・3946人(0.55%)、スロヴェニア人・3225人(0.41%)、

ヴコヴァル市;91年人口・8万4000人

クロアチア人・3万6900人(43.9%)、セルビア人・3万1900人(38%)、

その他・1万5200人(18%)

2001年;人口・3万1670人、クロアチア人(57.5%)・1万8200人、

セルビア人(44.2%)・1万4000人、その他(9.6%)・3060人

スロヴェニア共和国 :1981年人口・177万7600人; 

スロヴェニア人(96.3%)・171万2000人、 クロアチア人(3.1%)・5万5600人、

ハンガリー人(0.5%)・9500人

1991年 人口・196万6000人;スロヴェニア人(87.6%)・166万4000人、

クロアチア人(2.7%)・5万1000人、セルビア人(2.4%)・4万6000人、

ムスリム人(1.4%)・2万7000人、その他(5.9%)・11万2000人

2020年  人口・207万9000人

リュブリャナ市;1686年 人口22,600人、1931年には60,000人

2002年・カトリック教・39.2%、無宗教・30.2%、その他不明・19.3%、イスラム教・5,0

セルビア共和国

人口・1981年;817万2500人 

セルビア人(75.6%)・618万2100人、アルバニア人(15.9%)・130万300人、

ハンガリー人(4.8%)・39万500人、クロアチア人(1.8%)・14万9000人、

モンテ・ネグロ人(1.8%)・14万7000人

1991年;人口・970万人;

セルビア人(65.8%)・638万3000人、 アルバニア人(17.2%)・166万8000人、

ムスリム人(4.0%)・38万8000人、ユーゴスラヴィア人(3.2%)・31万人、

モンテ・ネグロ人(1.4%)・13万6000人、クロアチア人(1.1%)・10万7000人、

その他(8.9%)・86万3000人

2020年;人口 ・690万8200人

ベオグラード市;1991年155万2150人

セルビア人・141万7180人(89.9%)、ユーゴスラヴィア人・2万2160人(1.4%)、

モンテ・ネグロ人・2万1190人(1.3%)、ロマ人・1万91190人、クロアチア人・1万380人、マケドニア人・

8370人、ムスリム人・4620人、

ノビ・パザル市(セルビア・サンジャク地方);人口・5万人;

アルバニア人(80%)・4万人、その他(20%)・1万人いちたろう一太郎プロテスタントその他・0.7%。2002年157万6120人(ベオグラード)

*ヴォイヴォディナ自治州 :1981年;人口・203万人;

セルビア人(54.0%)・109万6200人、ハンガリー人(18.2%)・36万9500人、

クロアチア人(5.4%)・10万9600人、スロヴァキア人(3.4%)・6万9000人、

ルーマニア人(2.3%)・4万6700人、モンテ・ネグロ人(2.1%)・4万2600人、

ルシン人(1.0%)・2万300人

 1991年 人口・203万人;

  セルビア人(57.2%)・116万1000人、ハンガリー人(16.9%)・34万3000人、

 ユーゴスラヴィア人(8.4%)・17万人、クロアチア人(4.8%)・9万7000人、

 モンテ・ネグロ人(2.2%)・4万5000人、スロヴェニア人(0.8%)・1万6000人、

 その他(9.7%)・19万7000人。

2020年・189万1700人

ノヴィ・サド市;2002年人口・299万人 ;

セルビア人(76.7%)・229万3300人、ハンガリー人(5.24%)・16万200人、

ユーゴスラヴィア人(3.17%)・9万5700人、スロヴァキア人(2.41%)・7万1700人、

クロアチア人(2.09%)・6万2800人、 その他(9.91%)・29万6000人。

* コソヴォ自治州 :1991年人口・200万人;

 アルバニア人(82%)・164万人、セルビア人(10%)・20万人、ムスリム人(3%)・6万人、

 ロマ人(2.0%)・4万人、モンテ・ネグロ人(1.0%)・2万人、その他(2.0%)・4万人

19世紀にはコソヴォの人口構成は、スラヴ族の方が多数を占めていた。20世紀の統計は以下の通り。

1953年; アルバニア人・64%、 セルビア人とモンテ・ネグロ人合わせて27.9%を占める。

81年; アルバニア人・77.5%、 セルビア人13.3%、 ムスリム人3.7%、 モンテ・ネグロ人1.7%、 その他3.8%

87年; アルバニア人・80%、 セルビア人とモンテ・ネグロ人は合わせて10数パーセントにまで減少。

09年; アルバニア人・92%、 セルビア人4.5%、その他3.5%

1953年から1991年までの18年間にコソヴォ自治州のアルバニア人住民は18%増加し、セルビア人住民を含む他の民族はすべて激減している。これは高い出生率による人口構成の変化によるものではなく、コソヴォ自治州のアルバニア系住民が他民族の住民を圧迫・排除・追放していったことによる。

1999年の「ユーゴ・コソヴォ空爆」後には、アルバニア系住民は、純粋なアルバニア人によるコソヴォ独立国とするために、セルビア人だけでなく他の少数民族も迫害し、排除したため少数民族は18%から8%へと減少した。それに伴ってアルバニア人は82%から92%に10%増加している。

13年;人口 184万7700人

*プリシュティナ市1961年;人口・38,593人、アルバニア系・49%、セルビア人・38%、 その他・13%

1981年;人口・108,083人、アルバニア系・70%、セルビア系・19%、 その他・11%

モンテ・ネグロ共和国 :1981年;51万6300人,    

モンテ・ネグロ人(77.6%)・40万500人、ムスリム人(15.1%)・7万8000人、アルバニア人(7.3%)・3万7700人 91年;人口・65万人; モンテ・ネグロ人(61.8%)・40万2000人、 ムスリム人(146%)・9万5000人、 アルバニア人(6.6%)・4万3000人、セルビア人(9.3%)・6万人、 ユーゴスラビア人(4.0%)・2万6000人、その他(3.7%)・2万4000人

2020年;  人口62万8000人

ボドゴリツァ市;91年 11万8000人、モンテ・ネグロ人(57%)・6万7000人、セルビア人(23%)・2万7000人、

アルバニア人(5%)・5900人、ムスリム人(2.2%)・2600人、その他(12.8%)・1万5500人 

* ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国 :81年;人口・370万⒏900人;  ムスリム人(43.9%)・163万000人、

セルビア人(35.6%)・132万700人、クロアチア人,(20.4%)・75万8000人

1991年;人口・435万5000人;  ムスリム人(43.7%)・190万3000人、

セルビア人(31.4%)・136万7000人、クロアチア人,(17.3%)・75万3000人、

ユーゴスラヴィア人(5%)・21万8000人、その他(2.6%)・11万3000人、

2020年;  人口  330万1000人

サラエヴォ市;1981年;人口・38万人; ムスリム人(41.5%)・15万8000人、 セルビア人(27.3%)・10万4000人、

ユーゴスラヴィア人(17.7%)・6万7000人、クロアチア人(8.9%)・3万4000人、

その他(4.6%)・1万7000人

1991年;人口・52万6000人

ムスリム人(49.3%)・25万9300人、セルビア人(29.9%)・15万7200人、

クロアチア人(6.6%)・3万4700人、ユーゴスラヴィア人(10.7%)・5万6200人、

その他(3.5%)・1万6400人、

バニャ・ルカ市 ;1981年・人口・93,389人(50.86%)、

クロアチア人(16.57%)・30,442人、ムスリム人(11.83%)・21,726人、

ユーゴスラヴィア人(17.07%)・31,347人、その他(3.65%)・6,714人、

1991年・人口・195,692人、セルビア人(54.61%)・106,826、クロアチア人(14.83%)・29.062人、ムスリム人・28.558人(14.59%)、ユーゴスラヴィア人23,656人(12.08%)、その他・7,626人(3.89%)、(ボスニア・スルプスカ共和国の実質的な首都となる)

スレブレニツァ市;1991年・人口・3万7000人、 ムスリム人(73%)・2万7010人、セルビア人(25%)・9250人、

その他(2%)・740人

プリェドル市;1991年 人口・3万4627人、セルビア人(40.3%)・1万3969人、

ムスリム人(38.6%)・1万3372人、 クロアチア人(5.1%)・1756人、

ユーゴスラヴィア人その他(16.0%)・5530人

モスタル市;1991年・クロアチア人40%、ムスリム人40%、セルビア人20%

ズボルニク市;1991年・ムスリム人59%、他41%

ブラトゥナッツ市 ;1991年・ムスリム人64%、その他36%

ビシェグラード市  ;1991年 ムスリム人63%  その他37%

*マケドニア共和国 :1981年;174万3000人、

マケドニア人(73.4%)・127万9300人、アルバニア人(21.6%)・37万7200人、

トルコ人(4.9%)・8万6600人

1991年 人口・220万人; マケドニア人(64.6%)・142万1000人、

アルバニア人(21.0%)・46万2000人、セルビア人(2.4%)・5万3000人、

ムスリム人(2.0%)・4万4000人、ユーゴスラヴィア人(0.8%)・1万8000人、

その他(10.2%)・22万4000人

スコピエ市;1981年  408,000人

<参照;旧ユーゴスラヴィア連邦の構成>

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 

7,「旧ユーゴスラヴィアの宗教事情」

カトリック教、東方正教、イスラム教が主要な宗教

旧ユーゴスラヴィア連邦での主要な宗教は、カトリック教、東方正教、イスラム教の3つである。地域別の分布は、北部のスロヴェニアはほとんどがカトリックであり、クロアチアはカトリックが主流で東方正教の中のセルビア正教が少数派をなし、セルビアはセルビア正教とイスラム教が混住し、モンテ・ネグロはセルビア正教が主流であり、マケドニアは東方正教が主流でイスラム教徒が30%前後を占めている。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは民族を反映してムスリム人のイスラム教徒が多数を占め、次いでセルビア人のセルビア正教、クロアチア人のカトリックという宗教分布を示している。コソヴォは多数派のアルバニア系住民がスンニ派のイスラム教を信仰し、セルビア系住民はセルビア正教である。これ以外にもプロテスタント諸派やユダヤ教その他の宗徒がいる。

ユーゴスラヴィアは支配した国の宗教が反映された

8世紀ごろスロヴェニアおよびクロアチアはフランク王国の支配の影響を受けたためローマ・カトリックを受容し、9世紀にはセルビアとマケドニアはビザンツ帝国の支配を受けたことにより東方正教を受容した。セルビアは12世紀のネマニッチ朝時代にスラヴ語による典礼を行なうようになり大主教座を設立してセルビア正教となった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのキリスト教は、北部や中央部はローマ・カトリックの影響を受けてカトリック教徒となり、東部のセルビア国境近くは東方正教が主となるが、キリスト教の中で異端とされているボゴミール派の影響を受けた独自のボスニア教会をも維持したことで、主として3つの派に分かれている。

オスマン帝国の北進によるイスラム教の浸透

14世紀に入ると、オスマン帝国がバルカン半島を侵食し始める。1389年6月にオスマン帝国軍がコソヴォに侵攻し、セルビアのラザール公がキリスト教徒諸侯軍を率いて迎え撃つが敗北する。この「コソヴォの戦い」での勝利を契機に、オスマン帝国軍はバルカン半島の大半を支配するようになる。1453年にはコンスタンチノーブルを陥落させて、ビザンツ帝国を崩壊させ、1459年にはセルビア全土を支配下に置き、1460年にはペロポネソスを征服し、1463年にはボスニア、1483年にはヘルツェゴヴィナ、1499年にはモンテ・ネグロ、1502年にはアルバニアを完全に占領し、1526年にはハンガリーを破り、1529年には第1次ウィーン包囲を行なうまでになった。

コソヴォをネマニッチ朝の揺籃の地にしていたセルビア人はオスマン帝国の支配を嫌い、北部に移住する。その空疎となった土地に、既にイスラム教徒化していたアルバニア系住民が入植した。コソヴォやセルビア南部およびマケドニア北部にアルバニア系住民が多数を占めるようになった背景には、このような事情があった。

とはいえ、オスマン帝国は支配下に置いた民族に改宗を強要したわけではない。オスマン帝国はキリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」として尊重し、宗教には寛大で納税の義務さえ果たせばよしとして敢えてイスラム化政策を採らなかったために、当初はイスラム教に改宗する人々は限られていた。しかし、支配階層に入るにはイスラム教に改宗することが求められたために上層階級の者たちから改宗が進み、庶民もイスラム教に改宗することが経済的に有利であることから次第にイスラム教が浸透していった。ボスニアのスラヴ民族がムスリム化していったのも、社会生活上の有利さを求めたことによる。ムスリム人と称しているのは、憲法の規定により申告した際の呼称であり、同じ南スラヴ民族である。

ボスニアとコソヴォはオスマン帝国の治世にイスラム化が進む

コソヴォのイスラム教徒とボスニアのイスラム教徒は民族としての出自の違いもあり、同じムスリムでも異なった信仰形態を取っている。ボスニアのムスリムは世俗的であり、都市部では混住して他の宗徒との結婚にも拘ることもなく、改宗にも寛容だった。そのため、ボスニアの都市部では異教徒との間の婚姻が40%にも及んでいた。ただし、農村部では閉鎖性が残存し、異教徒や異民族を住民として受け入れることに消極的で、ときとして異教徒は侵入者として扱われた。

ユダヤ教徒がバルカン諸国で比較的多数を占めていたのは、14世紀頃から中欧やスペインなどでユダヤ人排斥運動が激しくなったため、宗教的に寛容なオスマン帝国領内に移動したことによる。ユダヤ教徒はユーゴスラヴィアではボスニアを中心として移り住み、シナゴーグを建設してコミュニティを形成した。ユダヤ教徒がユーゴスラヴィアから激減することになったのは、第2次大戦でナチス・ドイツなど枢軸国がユーゴスラヴィア王国全土を占領した際、クロアチアがナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」を設立してユダヤ人の「最終解決」に協力したことによる。

ユーゴ連邦政府は宗教施設に補助金を交付して保護した

第2次大戦後、ユーゴスラヴィアが社会主義国家となっても、連邦政府は反政府的な行動を取らない限り、宗教には基本的に干渉しない政策を取り、宗教施設の建設や行事にも補助金を交付した。

1980年のユーゴスラヴィア連邦の宗教構成は、東方正教が、45.4%で、主な信仰者はセルビア人、マケドニア人、モンテ・ネグロ人、その他で、セルビア正教会、マケドニア正教会、ルーマニア正教会、ロシア正教会があった。カトリック教徒は30.8%で、主な信仰者はスロヴェニア人、クロアチア人その他で、ローマ・カトリック教会、自由カトリック教会がある。プロテスタントは少数派だが、クロアチア福音教会、ボスニア福音教会、スロヴェニア福音教会、ヴォイヴォディナ福音教会、カルヴァン派教会、バプティスト教会、メソディスト教会、ナザレ派教会、エホヴァの証人、モルモン教などがある。イスラム教徒は17.0%でスンニ派である。

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争をめぐる宗教枢軸

ユーゴ連邦解体戦争は表明的には宗教戦争の様相を呈したが、宗教戦争ではない。民族主義者が宗教団体を利用し、また宗教団体がナショナリズムを利用して絡み合いが生じたことで、あたかも宗教戦争の様相を呈した。

紛争中、ナショナリズムが宗教戦争の形をとったために相手の宗教施設を破壊の対象とし、国家間の支援のあり方にも影響を与えた。スロヴェニアとクロアチア両共和国は、同じカトリック圏としてのバチカン市国、ドイツ、オーストリアなどが支援。ムスリム人勢力としてのボスニア政府には、イスラム教国のトルコ、イラン、サウジアラビア、パキスタン、マレーシアなどが武器や資金そして兵士の供給などで支援した。クロアチアおよびボスニアのセルビア人住民はキリスト教東方正教だが、同じ東方正教としてのセルビア、ロシア、ギリシアなどが支援し た。しかし、そのような成り行きとはなったものの、宗教の違いが内戦をもたらした主因とはいえない。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、ユーゴスラヴィア連邦、ボスニア、クロアチア、スロヴェニア、セルビア、マケドニア>

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8,「セルビア」

セルビア人は旧ユーゴスラヴィア連邦内で最大の民族集団

セルビアの名称は「スラヴの民」の意である。スラヴ族の出自は明確ではないがヨーロッパ中央部のドニエブル川とビスワ川周辺であろうといわれている。セルビア共和国の面積は、1991年の時点で8万8200平方キロ。旧ユーゴスラヴィア連邦では最も広い面積を持つ。首都はベオグラード市で、ユーゴスラヴィア連邦の首都を兼ねていた。

人口は、1991年の国勢調査でセルビア共和国の970万人。セルビア人は65.8%・638万3000人、アルバニア系17.2%・166万8000人、ムスリム人4.0%・38万8000人、ユーゴスラヴィア人3.2%・31万人、モンテ・ネグロ人1.4%・13万6000人、クロアチア人1.1%・10万7000人、その他8.9%・86万3000人。

セルビア共和国は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテ・ネグロ、マケドニア、アルバニア、そしてヴォイヴォディナ自治州およびコソヴォ自治州と境界を接していたアドリア海には、旧ユーゴスラヴィア連邦時にはモンテ・ネグロやクロアチアを通して接していたが、ユーゴスラヴィア解体戦争の結果、内陸国となった。

6世紀にバルカンに移住したセルビア人

6世紀から7世紀にかけてバルカンに移住したセルビア人は、国家を形成できずにビザンツ帝国やブルガリア帝国の支配下に置かれていた。この時期にギリシア正教の洗礼を受ける。1077年、「ゼータ王国」としてローマ教皇から王権を授けられてセルビア人の王国を形成すると、一転してローマ・カトリックを受け入れる。その後、12世紀初頭にビザンツ帝国に征服されると、カトリックから東方正教会に帰属先を転換した。

1168年にネマニッチ王朝を創設したセルビア王国は、12世紀後半から14世紀半ばにかけてマケドニア、ボスニア、アルバニア、ギリシアの中部までを含む最大版図を獲得する。セルビア王国の最盛期を築いたステファン・ドシャン・ウロシュ4世は、バルカン全土を征服して「大セルビア帝国」を建設する野心的な計画を立て、ビザンツ帝国のコンスタンチノーブルに攻め入ったがオスマン帝国の支援を受けたビザンツ帝国を攻め落とすことができなかった。このビザンツ帝国の振る舞いが、オスマン帝国のバルカン侵攻への端緒を与えることになる。1355年にステファン・ウロシュ4世が死去すると、セルビアの最大版図は四分五裂してしまう。

セルビア王国は「コソヴォの戦い」でオスマン帝国に敗北する

バルカン侵出を始めたオスマン帝国とセルビア軍は戦いを余儀なくされるが、1389年6月28日の「コソヴォ・メトヒヤの戦い」でネマニッチ朝を再興しようとしていたラザール公率いるキリスト教徒諸侯軍は決定的な敗北を喫する。ラザール公が捕らえられて斬首された6月28日は、セルビア人にとって屈辱の日であると同時に英雄譚であり、「聖ヴィドの日」として民族の再興を誓う象徴的事件として記憶された。1459年にはセルビア王国の大半がオスマン帝国の支配下に入り、多くのセルビア人が難民となって北部のハプスブルグ帝国領に逃れた。さらにオスマン帝国はバルカンへの侵攻を継続し、1463年にボスニア、1483年にはヘルツェゴヴィナも支配した。

オスマン帝国は支配下に置いた地域の人々の宗教には寛大であり、ユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」として尊重もしたことから、東方正教徒の改宗を強要することはなく、ヨーロッパでの迫害から逃れるために移住してきたユダヤ教徒もバルカン諸国に居住した。しかし、支配階層にはイスラム教徒であることが求められたため、ボスニア・ヘルツェゴヴィナではスラヴ民族たちも次第にイスラム教に改宗していった。 

一方のハプスブルク帝国は、スロヴェニアを13世紀に支配し、14世紀にはクロアチアを支配領域に入れた。しかし、オスマン帝国の攻勢は厳しく、1529年に首都ウィーンが第1次包囲を受けるまでになる。この時はオスマン帝国軍の攻撃を退けたが、ハプスブルク帝国はこの脅威を教訓として、クロアチアとボスニアの間のクライナ地方を「軍政国境地帯」とし、セルビア人、クロアチア人やドイツ人を入植させて盾の役割を果たさせることにする。

ドイツ人は第1次、第2次の二つの大戦を経てセルビアからほとんど追放されたが、クライナ地域のセルビア人は後のユーゴスラヴィア解体戦争において紛争の当事者となる。

セルビア王国の領域を確定

19世紀初頭、オスマン帝国が度重なる戦争の費用を賄うために租税を高騰させたことに対し、農民の反乱が繰り返し起こされるようになる。セルビア王国内部では、カラジョルジェヴィチ家とオブレノヴィチ家の対立が深刻さを増していたが、ともかくセルビアは1867年にはオスマン帝国軍と戦って独立を達成した。そして、露土戦争後の1878年に結ばれたサン・ステファノ条約およびベルリン条約でセルビア公国とモンテ・ネグロ公国およびルーマニア公国が独立国として確定される。そして、1903年にはカラジョルジェヴィチ家が最終的にセルビアの王位を確保した。しかし、この条約でハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)は、スロヴェニアとクロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保し、さらに1908年にはこれを併合してしまう。これが第1次大戦の遠因となる。ハプスブルク帝国のこの一方的な併合がスラヴ民族の反発を招き、ボスニア内に青年ボスニア運動が数多興り、主としてセルビア人将校からなる秘密結社「黒手組」が結成された。

第1次、第2次バルカン戦争でオスマン帝国の支配を排除

1912年、ロシア帝国はこのハプスブルク帝国の拡張政策を警戒し、バルカン諸国に同盟を形成するように働きかけた。バルカン諸国はこれに応え、3月にセルビアとブルガリア、5月にギリシアとブルガリア、8月にモンテ・ネグロとブルガリア、9月にモンテ・ネグロとセルビアと4ヵ国が交差する形での「バルカン同盟」を完成させた。ところが、バルカン同盟に参加した4ヵ国は、同盟を形成する過程でロシアの意図から離れてバルカン半島に支配地を持つオスマン帝国を排除することを目的とするように変容していた。そして9月27日に4ヵ国の同盟が完成すると、翌10月18日にオスマン帝国が支配していたマケドニア、コソヴォ、トラキア、アルバニアを奪還することを目標に掲げてモンテ・ネグロがオスマン帝国に対して宣戦を布告し、次いでセルビア、ブルガリア、ギリシアが宣戦するという形で第1次バルカン戦争が開始された。

第1次バルカン戦争では三国協商を形成していたイギリス、フランス、ロシアはバルカン同盟を支援したが、ドイツ帝国、ハプスブルク帝国、イタリアの三国は同盟を形成してオスマン帝国を支援するという形をとった。戦いはバルカン同盟側の勝利に終わり、ロンドン条約によってセルビア王国とモンテ・ネグロ王国はマケドニアを分割領有し、ギリシア王国はクレタ島などの島嶼を割譲させた。ところが、大ブルガリアの建設を企図していたブルガリアはマケドニアをセルビアとギリシアが分割領有したことに不満を抱き、翌13年6月にマケドニアに駐屯していたセルビアとギリシアの部隊を攻撃するという形で第2次バルカン戦争を起こす。この思慮を欠いた戦争は、ルーマニアとオスマン帝国の介入をも呼び込んだこともあり、ブルガリアは惨めな敗北を喫し、マケドニアのピリン・マケドニア山脈の一部の支配は認められたものの、ルーマニアに南ドブルジャを割譲させられることになった。オスマン帝国は、ブルガリアからエディルネを再領有したもののコンスタンチノーブル周辺地域を除いてバルカン諸国への影響力は激減した。「バルカン同盟」のオスマン帝国排除の目的はおおむね達成されたものの、ハプスブルク帝国が併合したボスニア・ヘルツェゴヴィナ問題は残っていた。

第1次大戦後に「ユーゴスラヴィア王国」が成立

1914年6月28日、青年ボスニア運動の秘密結社「黒手組」のセルビア人青年が、軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れたハプスブルク帝国の皇太子フェルディナンドを暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。セルビアと関係の深かったロシア政府が仲介に入り、セルビア王国政府が譲歩条件を提示したものの、ハプスブルク帝国は委細構わずドイツ帝国との同盟を確認するとセルビアに最後通牒を突き付けて7月28日に宣戦を布告した。

親セルビアのロシア帝国が同年7月30日に総動員令を出すと、ハプスブルク帝国と同盟を結んでいたドイツ帝国は8月1日に総動員令を発してロシアに対して宣戦を布告した。ロシアもこれに応じて8月2日にドイツに対して宣戦を布告すると、英仏露の三国協商を形成していたフランスが8月3日に、英国は8月4日に対独宣戦布告を発した。こうしてハプスブルク帝国とセルビアの第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は、ヨーロッパの大半を巻き込む第1次大戦へと拡大することになる。オスマン帝国は、ドイツがロシアに宣戦布告した8月2日にドイツとの同盟条約を締結し、ドイツ側に立つことになる。イタリアは、ドイツとの同盟条約を締結していたものの、それを破棄して15年5月に協商側に立って参戦する。

三国協商側がセルビア側に立って参戦した原因には、フランスとドイツはかねてからモロッコを巡る対立があり、きっかけさえあれば戦火を交えるほどの緊張状態にあった。イギリスがドイツに宣戦布告したのは、植民地獲得の後発国だったドイツが拡張政策を取り始めており、既に建艦競争を行なっていたことから、英独間の緊張状態も極限に達していたことがあった。さらに英仏露の三国協商側は14年11月にオスマン帝国に宣戦を布告するが、この宣戦布告の背景にはオスマン帝国が支配するアラブやマグレブ諸国の分割支配の狙いがあった。それはやがて「サイクス・ピコ秘密協定」となって露見することになる。

バルカン諸国の思惑は、この戦争がハプスブルク帝国のスラヴ圏の領土を併合したことによって始まったこともあり、それぞれに領土の割譲を目論んで参戦していくことになる。モンテ・ネグロは「バルカン同盟」を形成していたことから14年8月5日にはハプスブルク帝国とドイツ帝国の同盟側に宣戦を布告した。第1次、第2次バルカン戦争で不満を鬱積していたブルガリアは、翌15年9月にドイツの同盟側に立って参戦する。ルーマニアは当初は中立宣言を出していたが、16年8月に協商側に立って参戦した。

セルビアは緒戦では敗退し、南部のニシュに政府を移して14年12月に戦争目的を宣言する。このニシュ宣言の主旨は、ハプスブルク帝国の支配下に置かれているスラヴ民族であるスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人を一つの国家に統合することにあった。

総力戦となった大戦は膨大な被害を出して帝国を消滅させる

ハプスブルク帝国とセルビア王国間の紛争に過ぎなかった戦いは、次第にドイツ帝国と三国協商との戦いに変容し、4年余りに及ぶ総力戦となった。17年にはロシア帝国で革命が起こって退場したが、米国が参戦したことで同盟側の敗色が濃厚となる。長引く戦争で生活物資にも事欠くようになったドイツでは厭戦気分が濃厚となり、18年11月に革命が起こされた。民意を喪ったドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世が18年11月10日にオランダに亡命したことによって同盟側の敗北が決定し、第1次大戦は終結する。

この大戦に動員された両側の兵力は6000万人を超え、兵士の1000万人が死亡し、戦傷者は2000万人を超えた。そして、ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、ブルガリア帝国、そして革命によるロシア帝国の崩壊があり、大英帝国以外のヨーロッパのほとんどの帝国は消滅した。ドイツに課せられた戦後賠償は、英国の経済学者ケインズやウィルソン米大統領など戦勝国の中からも批判の声が挙がったほどに苛酷なものとなり、1320億金ドイツ・マルクという支払い不能といわれるものとなった。

南スラヴでは民族会議などが結成されるがカラジョルジェヴィチが独裁政権を樹立

戦間期に南スラヴでは、ユーゴスラヴィア委員会、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議、セルビア政府、野党が参集して統一国家の議論を重ねた。しかし、戦後の講和会議ではその存在が認められず、セルビア王国政府の権利だけが容認され、1918年12月に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とされて摂政にセルビア王国のアレクサンダル・カラジョルジェヴィチが就任する。

1920年11月に行なわれた憲法制定議会選挙で民主党と急進党の連立内閣が誕生すると、中央集権的な体制を確立する憲法の制定を目指した。連邦主義を唱えていたクロアチア共和農民党はこれに反発して審議をボイコットする。しかし、21年6月に「ヴィドヴダン憲法」が制定され、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国は立憲君主制国家としてアレクサンダルが国王に就任する。アレクサンダルは第3党に躍進していた共産党を非合法化し、議会での発砲事件をきっかけに独裁制を敷いた。そして、アレクサンダル国王は29年に憲法を停止して議会を解散。政党の活動を禁止して独裁体制を強化し、国名を「ユーゴスラヴィア王国」と改称した。これに反発したクロアチア人たちの中からファシスト・グループが輩出し、32年に「ウスタシャ」を結成してファッシズム・イタリアに拠点を置いた。

このような緊張状態にあった中、アレクサンダル独裁王は1934年10月にフランスを訪問する。これを好機と捕らえたファシスト・グループ・ウスタシャはフランスの外相とともにアレクサンダルを暗殺してしまう。フランスはイタリアにパヴェリチの身柄引き渡しを要求するが、ファッシズム・イタリアはこれを拒否した。

ユーゴ国王には息子のペータルが就くことになったが、成年に達していなかったためにパヴレ公など3人が摂政を務めた。パヴレ公たちは政治的安定を確保するために独裁体制を緩和し、39年3月にはクロアチア自治州の設立を認めた。しかし、ウスタシャはこの自治州を認めず、あくまでクロアチアの独立の達成を主張した。

第三帝国を妄想したアドルフ・ヒトラーが第2次大戦を始める

この間、ドイツでは1933年1月にヒンデンブルク大統領が、ナチスの党首ヒトラーを首相に任命した。フランスはこの動きを警戒し、バルカン諸国に働きかけてバルカン協商を34年2月に創設させたが、参加したのはルーマニア、ユーゴスラヴィア、ギリシア、トルコの4ヵ国にとどまった。この背景には、ナチス・ドイツ政権の経済政策があった。バルカン諸国は、ドイツの経済圏に取り込まれ、輸出入とも50%前後に達するほどの依存体質にされていたのである。

世界恐慌を乗り越えて経済的復興を成し遂げつつあったドイツは、ナショナリズムを煽ったヒトラーのアーリア人種優越主義を受け入れやすい素地があり、その経済的基盤の上に軍備を増強していった。「第三帝国」を妄想するようになったヒトラーは、38年3月に親ナチ政権となっていたオーストリアに軍隊を進駐して合邦化する。9月にはズデーテン地方の処遇をめぐって英・仏・独・伊4ヵ国によるミュンヘン会談を開かせ、併合を認めさせた。さらに、38年12月に独仏相互不可侵条約に調印すると、39年3月にチェコスロヴァキアを占領して保護領とする。

第2次大戦を始めたナチス・ドイツ

そして、39年8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を開始した。これに対応し、9月3日に英・仏がドイツに宣戦を布告する。ソ連は、独ソ不可侵条約に付随した密約によってポーランドに侵攻し、東半分を占領してしまう。英国は宣戦布告に伴って大陸に派遣軍を送るが有益な戦線を構築することができずにいた。一方のフランスは要塞のマジノ線に籠もって待機するという戦術を採った。

1940年に入ると、ナチス・ドイツ軍は英国とフランスとの戦争に備え、4月にデンマークとノルウェーに侵攻する。5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、フランス領ダンケルクに駐屯していた英国軍を追い詰めて撤退させた。そして、6月にはフランスのマジノ線を迂回して防御線を突破し、パリに入城して戦勝を宣言した。ナチス・ドイツは、こうして西ヨーロッパ大陸の大半を占領下に置くことになる。

ナチス・ドイツは対ソ「バルバロッサ作戦」遂行のためにユーゴ王国とギリシア王国に侵攻する

ナチス・ドイツ率いるヒトラー総統は、なお「海獅子作戦」を発動して英本土上陸を試みるが、英国軍の巧みな迎撃戦を突破することができなかったためにこれを一時的に断念する。そしてソ連邦を植民地化し、そこから得られる物量をもって英本土上陸作戦を再開することにする。そこで、40年7月に対ソ連侵攻作戦の立案を命じる。それが「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。

この作戦を実行に移すためには、軍需物資の調達地域の拡大と侵攻ルートの安全確保のために、バルカン半島で未だに同盟国に加わっていない、ユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配する必要があった。ギリシア王国には既に海上ルートを通じた英国の支援の手が入っており、この国が同盟国に入る可能性はなかったためにギリシアへの侵攻作戦である「マリタ作戦」を立案した。

ユーゴスラヴィア王国は、第1次大戦でドイツ帝国と戦った経緯から反ドイツ意識が根強く残っており、何とか中立を守ろうとしてソ連に武器の供与を求めた。しかし、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたためにナチス・ドイツを刺激することを危惧してこれを断ってしまう。窮したユーゴ王国政府は、41年3月25日にナチス・ドイツ同盟側に加盟することを約定する。これに反発した民衆は抗議デモを行ない、それに呼応したユーゴ王国軍の一部がクーデターを起こし、同盟への加盟を破棄するよう王国政府に要求した。王国政府はこの要求を拒否してナチス・ドイツに条約の継続を弁明するが、ヒトラーはこれを許容せず、ギリシアへの侵攻計画「マリタ作戦」の発動をユーゴスラヴィアにも拡張適用して、ギリシア王国とユーゴスラヴィア王国への侵攻を開始した。

1941年4月6日、ナチス・ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリーの同盟軍40個師団がユーゴスラヴィアとギリシアに侵攻し、戦闘態勢の整わない両王国軍を粉砕した。ユーゴスラヴィア王国軍が11日間で崩壊した一因には、クロアチア人で編成された第4軍がファシスト・グループ・ウスタシャの影響下に親ナチを掲げて反乱を起こしたことがあった。王国軍が総崩れとなったため、ユーゴ王国政府はカイロを経てロンドンに亡命する。

同盟側のバルカン支配の態様は、ナチス・ドイツがセルビアと北スロヴェニアおよびクロアチアを支配。イタリアが南スロヴェニアとダルマツィアおよびアドリア海諸島を占領し、コソヴォをアルバニアに併合して支配下に置く。ブルガリアは念願のマケドニアを占領し、ハンガリーがセルビアのヴォイヴォディナを占領した。ギリシアはナチス・ドイツ、イタリア、ブルガリアが分割占領。セルビアには旧王国軍のミラン・ネディチ将軍によるナチス・ドイツ傀儡政権「国民救国政府」が設置された。

クロアチアはウスタシャが「クロアチア独立国」を建国し民族浄化を図る

クロアチアでは、ファシスト・グループ・ウスタシャがナチス・ドイツの侵攻を大歓迎し、総統を僭称したアンテ・パヴェリチを首班とするナチス・ドイツの傀儡政権「クロアチア独立国」の設立を宣言する。

一方、ナチス・ドイツ同盟軍への抵抗組織としてチトー率いる民族横断的な「パルチザン」がベオグラードで結成された。そこが圧迫されると、セルビア南部のウジツェに移動して「ウジツェ共和国」の建国を宣言し、同盟軍を駆逐するとの宣言を発した。他方、王国軍は粉砕されたものの、セルビア人のミハイロヴィチ大佐が王党派「チェトニク」の抵抗部隊を結成してユーゴ王国の再興を掲げ、パルチザンと提携してナチス・ドイツ同盟軍と戦うと表明した。しかし、ナチス・ドイツが「ドイツ兵1人が殺されれば、セルビア人100人を殺す」と脅すとたちまち屈し、パルチザンおよびクロアチア独立国との支配領域争いに転換する。

ナチス・ドイツはバルカン半島を征服すると、41年6月22日に「バルバロッサ作戦」を発動し、300万のナチス・ドイツ軍と同盟国250万、合わせて550万の兵員を動員してソ連に侵攻した。

スターリン・ソ連首相は猜疑心が強いにもかかわらずヒトラーを信用する

スターリン・ソ連書記長は猜疑心が強い人間でありながらナチス・ドイツがソ連を攻撃することはないと固く信じており、英国からの情報も、駐日ドイツ大使館の要員となっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが開戦日までを特定して打電した情報をも無視した。しかも、特有の猜疑心から自らの地位を脅かしかねない政治家やソ連赤軍の将兵を、シベリア送りにしたり処刑したりしていたために、ソ連軍の指揮系統はきわめて脆弱な態勢となっていた。その上、前線の司令官たちにはナチス・ドイツを刺激するなとの指示を与えていたために、前線では臨戦態勢がとれないでいた。そのような状態にあったところにナチス・ドイツ同盟550万の軍勢が侵攻してきたのだから、敗退するのは目に見えていた。前線は崩壊状態となって後退を続け、凡そ50万のソ連軍将兵が捕虜となる。ナチス・ドイツの南・北・中央の3方面軍の内の中央軍はベラルーシ(白ロシア)のミンスクを陥落させると、9月にはモスクワ近郊にまで迫った。

追いつめられたソ連政府は、「大祖国戦争」と呼称して兵員を徴募するとともに、猜疑心から信用していなかった英国の斡旋で、米国が英国への援助を目的として41年3月に成立させていた「武器貸与法」の適用を受けられるようになる。また、ゾルゲが日本はソ連領への侵攻を計画していないとの情報をソ連に向けて送信した。これを目にしたソ連政府のある高官がスターリンを説得し、対日戦に備えてシベリア方面に派遣していた精鋭部隊を呼び戻した。この対応によって、12月にはナチス・ドイツへの反撃が開始されることになる。

第2次大戦でナチス・ドイツの傀儡政権ウスタシャがセルビア人を虐殺

ウスタシャによって建国されたナチス・ドイツの傀儡政権「クロアチア独立国」は、版図をスロヴェニアの一部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半に広げ、クロアチア人による民族国家の建国を宣言した。ウスタシャはこのナショナリズムを遂行するためにボスニアのムスリム人を準クロアチア人とする一方で正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と措定し、セルビア人の3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を殺害すると宣言した。このウスタシャ政権の方針によって虐殺されたセルビア人は50万人ともいわれる。さらに、ウスタシャ政権はナチス・ドイツの意を体し、ユダヤ人の「最終的解決」に協力して収容所へ移送した。

パルチザンは困難な戦いに耐え抜きユーゴスラヴィアを解放する

パルチザンは民族横断的な「友愛と統一」を掲げ、ユーゴスラヴィアの各民族が参加していたが、圧倒的なナチス・ドイツ同盟国軍に加え、ウスタシャ政権の軍隊および王党派チェトニクの部隊を相手に戦わなければならなかった。そのためセルビアにおける拠点を失い、42年にはボスニアの山岳地帯に拠点を移すなど困難な戦いを強いられた。しかし、同年11月にはボスニアのビハチで第1回「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」を開き、行政組織をも整えるまでになる。

英国は、スターリン・ソ連首相から西部戦線を構築してほしいとの要請を受けていたが、その準備に取りかかることなく、中東地域の油田地帯の権益を護ることを優先して地中海域における戦線構築に拘っていた。そしてユーゴ王国旗下の王党派チェトニクを支援していたが、チェトニクがナチス・ドイツ同盟軍への抵抗戦を抛棄しているのを見て、43年5月にパルチザンに軍事使節団を送る。英軍の武官は命を失いながらパルチザンとナチス・ドイツとの抵抗戦の状況を観戦し、その有益性を見て取り、チャーチルに報告する。報告を受けたチャーチル英首相は、43年11月に開かれた米・英・露首脳によるテヘラン会談においてパルチザンを支援することが連合国にとって有用であるとの提案を行なう。チャーチルは米露首脳の承認を得ると、すぐさまパルチザンに軍需物資の支援を行なうとともに、英軍の落下傘部隊まで送り込んだ。連合国の支援を受けられるようになったパルチザンは、結成時には8万人にすぎなかった構成員が80万人に膨れあがるほどになる。

パルチザンは困難な戦闘を戦い抜いて国土を解放する

連合国の物資援助を受けたソ連赤軍は43年1月にスターリングラード攻防戦でドイツ軍を降服させ、9万人を捕虜にすると戦況は一転した。幾つかの戦線で一進一退を繰り返したものの、ナチス・ドイツ軍が勝利する可能性はほとんどなくなる。

このような情況の下、英国はダンケルク撤退から4年を経た44年6月ようやく米英連合軍による「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動した。この作戦は成功し、ナチス・ドイツは東西両戦線で敗北を重ねることになる。

状況を見極めたチャーチル英首相は44年10月にモスクワを訪れてスターリン・ソ連首相と会談し、バルカン諸国の処遇について秘密裏に協定を結んだ。その内容は、東欧諸国の権益は概ねソ連にあることを容認するとともにギリシアは英国の権益下に置き、ユーゴスラヴィアの権益は英ソ両方で半々にするというものであった。

パルチザン率いるチトーは、ソ連が大戦開戦後にフィンランドに侵攻して一部を占領したことに不信を抱いていた。一方、ソ連政府はパルチザンを余り評価しておらず、ソ連赤軍はテヘラン会談後もパルチザン支援に躊躇っており、パルチザンに対してロンドン亡命政府と協調するようにとまで容喙した。

そのため、チトーはソ連軍に対し、任務が終了したらユーゴスラヴィアの領域から撤収するようにとの条件付きでユーゴスラヴィアに兵員を進めることを認めるとの約定を交わす。そして、戦況の帰趨が明らかになった1944年10月に、ソ連軍はユーゴスラヴィアに進攻してパルチザンとともにセルビアのベオグラードを奪還した。

ヒトラーの自殺で第2次大戦における欧州戦線は終結する

45年4月20日にソ連軍がベルリン攻撃を開始すると、敗北を自覚したヒトラーが4月30日に自殺し、後継を託されたデーニッツが5月8日に降服に調印したことで第2次大戦における欧州戦線は終結した。6年にわたって続けられた欧州戦線における死者は4000万人余りに上った。

ユーゴスラヴィアでは大戦末期の45年3月に、英国の仲介でパルチザンとロンドン亡命政府との連立政権が樹立される。大戦後の45年8月に開かれたユーゴスラヴィアの連立政権下の臨時国民会議で、ペータル国王は国王派の閣僚をすべて引き上げるという政治的駆け引きを行なう。西側諸国にも批判されたこの駆け引きは失敗に終わる。11月に行なわれた憲法制定議会選挙で、ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ派が連邦院では90.5%、民族院では88.5%の票を獲得するほどの圧倒的な支持を受けることになったからだ。続いて開かれた憲法制定議会では新憲法を制定して君主制を廃し、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国を樹立してチトーを首班に選出した。

チトーは第2次大戦中の民族虐殺問題を封印する

クロアチア人であるチトーは、民族主義が連邦の統一を危うくするとしてそれを封印する政策をとり、大戦中にクロアチアのウスタシャがセルビア人を大量に虐殺した問題を取り上げることを封印し、虐殺が行なわれた施設や死体が投棄された場所をコンクリートで封鎖したりもした。また、連邦内の最大民族であるセルビア人が支配的地位を占めることを避ける措置も採用する。

ユーゴ連邦は他の東欧諸国とは異なり、第2次大戦を独自に戦い抜いたことで、ソ連圏の中では特別な地位が与えられ、戦後に創設されたコミンフォルムの本部がベオグラードに置かれるほどの扱いがなされた。チトーはソ連型の中央集権体制の社会主義を採用し、概ねソ連の社会主義体制に忠実であった。

コミンフォルム追放がユーゴ連邦独自の自主管理社会主義体制を構築する契機となる

ところが、戦後処理の一環としてトリエステの領有をめぐってイタリアと争い、ギリシアの人民戦線派への支援を続けたこと、またブルガリアとの「バルカン連邦」構想を表明したため、ソ連と対立することになる。対立は歪められ、反ソ的として48年に開かれた第2回コミンフォルム大会で追放が決議される。社会主義圏の諸国はユーゴ連邦をコミンフォルムから追放したのみならず経済制裁を科したことでユーゴ連邦は経済的困窮に陥ることになる。社会主義圏との貿易量が50%からゼロにまで落ち込んだからである。さらに、敵意に満ちた社会主義諸国との国境紛争が頻発したことで、防衛体制を強化する必要に迫られ、防衛費がGDPの23%にまで増大したために戦後復興は困難となった。

そこで、ユーゴ連邦はギリシアやトルコと軍事同盟を締結し、非同盟諸国との活発な外交を展開するとともに西側陣営に借款を要請する。米英仏は速やかに反応し、翌49年には2500万ドルの借款に応じた。この国際関係の中で、ユーゴ連邦はソ連の中央集権型社会主義を検討し直し、分権型の労働者による自主管理型社会主義を編み出すことになる。「53年憲法」で自主管理社会主義制度の導入を明文化し、63年憲法および74年憲法の改定によって連邦政府の行政権限を大幅に連邦内各共和国および自治州に委譲するとともに、自主管理制度を深化させた。

ユーゴスラヴィア連邦の分裂

第4次中東戦争に端を発した73年のオイル・ショックは、ユーゴ連邦の経済運営に深刻な影響を与えた。ユーゴ連邦はこの経済危機を借款によって切り抜けようとした。

その最中の78年、ブレジンスキー米大統領安全保障担当補佐官は第11回社会学者大会において、米国からの参加者を前にユーゴ連邦解体の手法を講演した。その要旨は・「1,ソ連に対抗する力としてユーゴ連邦中央集権権力を支援するが、同時に共産主義の天敵である分離主義的、民族主義的諸勢力すべてに援助を与える。2,ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的・政治的圧力の手段として用いることができる。債権者にとって一時的にマイナスであっても、それは経済的・政治的措置によって容易に保障される」と述べた。西側諸国はこのブレジンスキーの提言に沿い、スロヴェニアやクロアチアに借款を与えるとともに民族主義の煽動工作を進めることになる。

89年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東欧諸国は雪崩をうつようにして社会主義制度を放棄する。西側諸国の煽動工作を受けて民族主義を台頭させたスロヴェニアとクロアチアは、東欧の社会主義圏が崩壊するより前の89年初頭から複数政党制を導入し、政党を結成した。90年から91年にかけて各共和国で行なわれた議会選挙では、共産主義者同盟系の政党がほとんどの共和国で敗北した。しかし、セルビア共和国は、共産党を改組したセルビア社会党が8割近い圧倒的な支持を得て勝利する。セルビア社会党が勝利した要因には、民族主義に煽られなかったことが上げられる。この時、民族主義を前面に押し出したセルビア再生運動は僅か8%を得たにすぎない。セルビア社会党が採用した重点政策は、ユーゴスラヴィアの連邦制の維持にあった。しかし、91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアが独立宣言を発し、92年3月にボスニア・ヘルツェゴヴィナが追随したことによってユーゴ連邦は解体戦争へと進んでいくことになる。

ユーゴ連邦解体戦争の全ての段階で欧米諸国がミロシェヴィチ悪説を流布したのは、戦争犯罪に類することがあったからではない。欧米諸国にとって、自主管理社会主義の放棄を完全に宣言しないミロシェヴィチを放逐することは既定路線であり、すべてはこの方針に従って欧米の政策は推進された。

その前哨は、冷戦が終結する前の89年の半ばに表面化していた。この年の6月28日に、セルビア共和国はコソヴォ・ポーリェの戦いの600年祭を挙行した。この記念祭に欧米とバチカン市国の外交官が招かれたが、彼ら全員が出席を拒否した。あまつさえ、出席を拒否したツィンマーマン駐バチカン米大使は、記念祭で行なったミロシェヴィチの演説の一部の文言だけを取り上げて歪曲し、戦争を煽ったと非難したのである。ミロシェヴィチがどの程度の権力志向を持っていたかについては必ずしも明らかではない。ただ、ユーゴスラヴィアの連邦体制を維持することがユーゴスラヴィアにとって望ましいと考えたからそれを主張した。しかし、それが困難と理解した92年4月の時点で、セルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国の両共和国で新ユーゴ連邦を形成したことからすれば、現実的な合理主義者であるといえる。

国連諸機関は紛争当事者ではない新ユーゴ連邦に制裁を科という異常な反応をし続けた

にもかかわらず、欧米諸国がミロシェヴィチ悪説を喧伝して彼を政権から引きずり降ろすことを画策し、ユーゴスラヴィア解体戦争中の武力紛争をミロシェヴィチ悪、セルビア悪と決めつけてセルビアのみに制裁を加えた。国際社会がユーゴ紛争の期間中にユーゴ連邦の全域に制裁を加えたのは、91年9月に出した国連安保理決議713による「武器の禁輸措置」のみである。

それ以外は、すべて新ユーゴ連邦ないしはセルビア共和国に対する実害を加える目的としての制裁措置を科した。92年4月に新ユーゴ連邦が成立した直後の5月に安保理決議757で「包括的経済制裁」を科し、次いで6月にはGATT・関税と貿易に関する一般協定が資格停止処分を決議した。さらに、9月には新ユーゴ連邦の国連加盟資格を剥奪する安保理決議777を採択して国連から追放し、同月にIAEA・国際原子力機関も追放を決議した。翌93年2月には「国連人権委員会」が非難決議を採択し、4月には新ユーゴ連邦の海外資産を凍結する決議を採択。「国連経済社会理事会」も新ユーゴ連邦を追放する決議を採択した。翌5月にはWHO・世界保健機構までが新ユーゴ連邦を排除する決議を採択する。ヴァンス国連事務総長特使が「ボスニア紛争にはすべての当事者に責任がある」と述べ、ガリ国連事務総長が「新ユーゴ連邦はボスニアのセルビア人勢力に指示は出していない」との報告書を安保理に提出しているにもかかわらず、国連の諸機関は一度として他国への越境攻撃をしたことはない紛争の当事者とはいえない新ユーゴ連邦のセルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国のみに相次いで制裁を科し続けたのである。

一方、クロアチア共和国軍はしばしば協定違反を繰り返しているが、それに対しては非難決議ないし、要請決議を採択するにとどまっており制裁決議は一度としてなされていない。93年6月および95年9月には明らかにクロアチア共和国軍がボスニアに侵攻して軍事行動を行なったことは国際社会も認めているが、この際にも安保理は是正決議を採択はしたものの、制裁を科すことはなかった。この偏頗性は、理性を欠いた国際社会の異常な反応といえる。

セルビア共和国は難民・避難民を受け入れクロアチアのような民族迫害は起こらなかった

セルビア共和国の民族構成は1991年の時点で、セルビア人66%・638万人、アルバニア系17%・166万人、ムスリム人4%・38万人、ユーゴスラヴィア人3%・31万人、モンテ・ネグロ人1.4%・13万人、クロアチア人1%・10万人、その他9%・86万人である。ボスニアほどではないが、それなりの民族混住地域といっていい。しかし、のちのコソヴォ紛争を除けば、ユーゴ連邦解体戦争中に民族紛争は起こっていない。それなりに宥和して居住していたのである。

しかも、ユーゴ連邦解体戦争中に生じた、膨大な難民および避難民を最も受け入れたのはセルビア共和国である。内戦中にセルビア共和国が受け入れた難民や避難民は、セルビア人だけではない。ボスニア内戦中にもムスリム人の難民7万人がセルビア共和国に雪崩れ込んでいる。その難民が厚遇されたわけではないが、追い返されてもいない。欧米のメディアはこれらの事実を無視し、証拠もなしにミロシェヴィチ・セルビア大統領が「大セルビア主義」を実現するためにクロアチアやボスニアで紛争を画策していると宣伝し、ミロシェヴィチ大統領を支える民族としてのセルビア悪を世界に流布し、セルビア民族悪魔説を浸透させた。

米政府はコソヴォ分割を画策し「情報・文化センター」をプリシュティナに設置する

ともあれ、クロアチアとボスニアでの内戦が「デイトン・パリ協定」によってユーゴ連邦解体戦争は終結したかに見えた。しかし、米政府は、これでユーゴ連邦解体戦争を終わらせるつもりはなかった。コソヴォ自治州の分離独立への関与が残されていたのである。

コソヴォは、セルビア人にとっては中世のセルビア王国の揺籃の地であり、オスマン帝国と戦って敗れた英雄譚の記念の地である。その記念碑的なコソヴォは、オスマン帝国に支配され続けたこともあって、15世紀以降移り住んだイスラム教徒のアルバニア系住民が増大した。そのコソヴォは第2次大戦後にユーゴスラヴィア連邦に統合されたものの、近代化に乗り遅れて最貧地区であり続けた。そのことからしばしば不満が噴出し、暴動を繰り返した。そして、貧困の原因を他に求め、独立さえすれば貧困から抜け出せるとの幻想を抱いた。そこから、ルゴヴァを指導者とする政治交渉による独立派が生まれ、セルビア共和国から分離独立するための組織的な運動を始める。しかし、政治的な交渉にあき足らない若者たちは、武力闘争による独立を目標に掲げたコソヴォ解放軍・KLAを88年に結成する。若者たちはKLAを結成したものの、住民からもならず者扱いで相手にされなかった。そこで、KLAのメンバーはクロアチアやボスニアの内戦に参加して戦闘の経験を得て帰還し、組織を強化していった。

コソヴォ解放軍・KLAはアルバニアから武器を大量に入手すると武力闘争を活発化させる

クリントン米政権は、ユーゴ連邦解体戦争を完成させるために、コソヴォ解放軍・KLAを利用することを念頭に置いていた。クリストファー米国務長官はデイトン・パリ和平協定が成立した翌96年6月、コソヴォ自治州のプリシュティナに「情報・文化センター」の設置をミロシェヴィチ・セルビア大統領に受け入れさせた。情報・文化センターは同様な組織が世界各地に置かれているが、米CIAが拠点としているところである。情報・文化センターがプリシュティナに設置されると、CIAはそこを拠点としてコソヴォ解放軍と接触し、ユーゴ連邦解体戦争の最終章に向けて活動を始めた。

97年に隣国のアルバニアが社会主義制度から資本主義制度への転換の過程で経済的・政治的混乱に陥り、武器の管理が疎かになると、コソヴォ解放軍・KLAはこれに乗じて大量の武器を手に入れ、本格的な武力闘争を開始した。当初、セルビア共和国政府は先のユーゴ連邦解体戦争の過程でセルビア悪に苦しめられたことから、国際社会の非難を惧れてコソヴォ解放軍が支配地域を拡大しても本格的な鎮圧行動をためらっていた。

すると、98年2月にゲルバード米特使がコソヴォを訪れ、ルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領の政治解決を目指す穏健派を集めた場において、コソヴォ解放軍をテロ組織であると公言する。ユーゴ連邦政府は、このゲルバード特使の発言をKLAに対する鎮圧行動を容認するものと受けとめ、治安部隊を増強してKLAの鎮圧を本格化した。ところが、国際社会は一転してこれを民族迫害だとして非難を浴びせ、国連安保理は翌3月に再びユーゴ連邦への武器禁輸などの制裁決議1160を採択する。次いで、EUは新規投資の禁止などの経済制裁を科すことを決定した。コソヴォ解放軍は国際社会のセルビア非難に力を得て武力攻撃を活発化させ、98年5月にはコソヴォ自治州の25%に及ぶ地域を支配するまでになる。ユーゴ連邦としては、拡大するコソヴォ解放軍の軍事行動に対して手を拱いているわけにはいかず、鎮圧行動を強化してコソヴォ解放軍を追いつめて行った。

ユーゴ連邦解体の総仕上げとしてのコソヴォ紛争

これを見た米国は早くも同じ5月にホルブルック特使をコソヴォに派遣してゲルバードの前言を取り消し、情報・文化センターに駐在していたCIAの手引きでコソヴォ解放軍の幹部と面談するとともに彼らを「自由の戦士」として称揚する。これに呼応して、オルブライト米国務長官もセルビアの治安活動を激しく非難した。国連安保理は畳みかけるように、「即時停戦およびセルビア治安部隊の撤退と対話の開始を求める」決議1199を採択する。

NATO軍はセルビアへの武力行使の準備をし始め、アルバニアおよびマケドニアで軍事演習を行なうなど、ユーゴ連邦への包囲態勢を敷いた。ユーゴ連邦は、国際社会の非難に対処する必要に迫られ、コソヴォにおける実態を理解させるために、話し合いによる解決に尽力していたロシアのイワノフ外相の助言を受け入れ、欧州安全保障協力機構・OSCE調査団のコソヴォへの派遣を受諾する意向を表明した。これに応じたOSCEは98年10月にコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織し、2000人の検証団員を派遣することを決める。

曰く付きのウォーカーをOSCE・KVMの団長に据える

このOSCE・KVMの団長に曰つきの米外交官ウィリアム・ウォーカーが任命されたことで、コソヴォ紛争の去就は決定づけられることになる。ウォーカーは米元駐エルサルバドル大使を務めた際、独裁国家やその武装組織を支援して独裁体制に批判的だった司祭などの住民虐殺を容認し、擁護した人物である。

KVMの団員1600人は98年10月から順次コソヴォ自治州に入っていくことになるが、ウォーカー団長はその中に米CIA要員や英MI6など情報部員百数十人を潜り込ませた。情報工作員の任務は「1,ユーゴ連邦の評価を貶めること。2,予定しているNATO軍の空爆の目標を定めること。3,コソヴォ解放軍に衛星電話を渡して、空爆の成果を連絡させること」にあった。ウォーカー団長は遅れてコソヴォ自治州に入ると、すぐさま99年1月にラチャク村虐殺事件を捏造し、セルビア悪を世界に印象づけ、NATO軍による空爆やむなしとする国際世論づくりの役割を果たした。これは、後にフィンランドの検視団が虐殺を否定する事案である。

ラチャク村虐殺捏造事件を受けてNATO軍はすぐにも空爆を発動すると表明したが、この時は米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国で構成する連絡調整グループによる「ランブイエ和平交渉」が行なわれることになる。ランブイエ和平交渉はメディアのアクセスを遠ざけ、秘密交渉の形式で行なわれた。セルビアとしては民族揺籃の地としているコソヴォの独立を容認することは論外であり、コソヴォ解放軍にとっては独立以外の解決策は容認しないとの主張を繰り返すのみであったことから、交渉は難航を極めた。しかし、「連絡調整グループ」の調停員たちは粘り強く交渉を続けて妥協点を提示し、コソヴォ和平は成立するかに見えた。

すると、途中からオルブライト米国務長官が割り込んで交渉を主導することになる。そして、コソヴォ解放軍・KLAのコソヴォ独立の確定要求に対し、3年後に見直すとの一時しのぎの甘言で和平案に形式的な調印をさせた。その一方で、ユーゴ連邦側には「全土にNATO軍を駐留させよ」との受け入れ難い「付属条項B」を突きつけて拒絶させ、セルビアが和平を妨げている元凶であるとの印象を与えるという策を弄した。「付属条項B」は、NATOによる武力行使に積極的だったブレア英首相には知らせたものの他の連絡調整グループの交渉担当官には秘匿していたため、ユーゴ連邦の和平案拒絶は傲慢な姿勢によるものとの印象を与え、武力行使もやむなしとの雰囲気が醸成された。

また、OSCE・KVMの監視団1600名が調査した報告は顧みられず、米CIAがプリシュティナに設置した情報・文化センターの情報収集も取り上げられることなく、ただラチャク村における40数人の遺体を大仰に取り上げ、NATO軍は反撃されることがないことを見越した武力攻撃に突っ込んでいくことになる。

破壊のための破壊として行なわれたNATOの「ユーゴ・コソヴォ空爆」

国際社会を欺くことに成功した米政府はNATO軍を主導し、人道的に一刻の猶予もならないとの理由をつけて国連安保理決議を回避した上で、NATO条約域外のセルビア共和国に「人道的介入」の名を冠した「アライド・フォース作戦」を99年3月24日に発動する。アライド・フォース作戦に参加したNATOの陣容は、アドリア海に米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊、英海軍の軽空母「インヴィンシブル」艦隊、フランスの空母「フォッシュ」艦隊やその他のフリゲート艦および潜水艦を配備し、空軍は13ヵ国がおよそ1000機を投入するなど、まるで大戦なみの大規模なものであった。

この陣容で始められたNATO軍の空爆はすさまじいものとなる。NATO軍の空爆は、初期の段階こそ軍事施設を目標としていたが、その後は無差別となり、空港、港湾、道路、鉄道、ドナウ川に架かるすべての橋梁を破壊、工場、放送局、病院、学校、そして住宅地にまで及んだ。この空爆で中国の大使館にもミサイル3発を撃ち込んで死傷者を出すということまでした。米政府は誤爆だと釈明したが、中国は誤爆と受け取ることはなかった。このユーゴ・コソヴォ空爆は、中国とロシアの防衛体制に緊張をもたらし、軍備強化のきっかけを与えることとなる。

米政府の空爆の目的は、セルビア共和国のあらゆる施設を破壊して国力を衰退させて屈服させ、コソヴォを放棄させるところにあった。コソヴォ空爆時に80万人といわれる膨大な難民・避難民が発生したが、そのほんどはNATO軍の空爆を避けるために脱出したのであり、セルビア治安部隊の追い立てによるものは少数である。この時に避難したアルバニア系住民の中の比率は40%だが、セルビア系住民の中の比率が60%に及んでいたことが、避難が空爆によるものであることを示している。

停戦交渉は難航したが、NATO軍の空爆はすさまじく、反撃することが不可能なセルビア共和国としては和平案を受け入れるしかなかった。6月10日に国連安保理決議1244が採択され、コソヴォ自治州からセルビア共和国の治安部隊や警察部隊が撤収させられた。セルビア共和国のコソヴォへの統治権はNATOの武断政治によって奪われたのである。それを追うようにしてNATO軍主体の部隊・KFORが進駐して軍事部門を担い、行政は国連暫定行政支援機構・UNMIKが設置されることになる。UNMIKの役割は文民上級代表の下、暫定民政、制度構築、人道支援、復興支援の4つを実施することにあった。

一方で、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYは、空爆の最中の5月にミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領をアルバニア系住民への迫害を実行したとして証拠も示さずに起訴し、NATOの空爆を正当化する役割を果たした。

コソヴォ解放軍はNATOの空爆でセルビア治安部隊が撤退すると大アルバニア建設を構想する

国際社会の軍事および民事の保護を受けることになったコソヴォ解放軍・KLAは、「大アルバニア」構想の実現に向けて蠢き出す。手始めに、和平協定によってセルビア共和国との間に設定された5キロ幅の非武装地帯に拠点を置き、南セルビアのアルバニア系住民の居住地を分離させることを目的として2000年11月に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」を組織させて武力闘争を開始する。コソヴォ解放軍は、非武装地帯からセルビア共和国に侵入したり、攻撃を仕掛けるなどでLAPBMの武力闘争を支援したが、この武力行使は成功する見込みは立たなかった。

そこでコソヴォ解放軍は軍備の脆弱なマケドニアのアルバニア系住民の居住地域の奪取に転換し、マケドニア北部に居住するアルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を組織させ、2001年3月から本格的な分離闘争を仕掛けた。マケドニアはこのような事態を危惧して国連予防展開軍・UNPREDEPの配備を求めていたのだが、UNPREDEPの配備は国際政治の駆け引きに巻き込まれて1999年2月に終了しており、もはや国連を当てにすることもできない状態となっていた。

そこを突かれたマケドニアは、KLA・NLA連合部隊の攻撃に耐えられず、たちまち30%の地域を占拠される事態が出来する。狼狽したマケドニア政府はウクライナから攻撃ヘリ2機の貸与など周辺諸国から武器の供給を受け、半年近い激戦の末にようやくKLA・NLAを撃退することに成功した。

コソヴォの独立工作は国際慣習法違反

コソヴォ解放軍の「大アルバニア」建設構想は挫折したものの、コソヴォ自治州の独立を諦めたわけではなかった。2002年3月にコソヴォ自治州のアルバニア系住民は暫定自治政府機構・PISGを設立し、UNMIKから行政権の一部の委譲を受けると、暫定政府はランブイエ和平交渉の際の3年後の見直し条項を盾に、欧米諸国に独立国家としての承認を執拗に働きかけた。

これを受けて国連は、05年にアハティサーリ元フィンランド大統領をコソヴォ特使に任命して処理に当たらせる。アハティサーリ特使は1995年に設立された「国際危機グループ・ICG」が作成した処理策に基づき、コソヴォを独立国として明記はしないが国際的な監督下に外交権および司法、行政、軍事力を有する実質的な独立国家とする最終地位案を編み出した。この奇異な斡旋案は、セルビア共和国およびコソヴォ暫定政府双方とも受け入れるところとはならなかった。そこで、アハティサーリ国連特使は安保理に付託して決議による強制的な解決を図ることにする。しかし、主権国家の領土分割を、安保理の決議で強制的に決めることに理事国のベルギーやロシアが疑問を呈したために、再度当事者の交渉が繰り返されることになる。

コソヴォ自治州の一方的な独立宣言はNATO諸国の事前了承済み

1999年のユーゴ・コソヴォ空爆以来、コソヴォ解放軍などによる迫害でコソヴォから避難したセルビア人住民は多数に上り、10%から4.5%に激減していた。セルビア共和国としてはコソヴォ在住のセルビア人が減少したからといって、セルビアの伝統的、精神的な拠り所ともなっているコソヴォ・メトヒヤの領土主権を、NATO諸国に強制されても容易に放棄するわけにはいかなかった。一方のアルバニア系住民は、セルビアからの分離独立を達成して大アルバニアの足がかりとすることを目標としており、その主張を譲る気はなく、双方に接点がない以上、直接交渉がまとまる可能性はなかった。

痺れを切らしたコソヴォ自治州暫定政府は、ハシム・タチ・コソヴォ解放軍の元政治局長が2008年2月に再び首相に就任すると、2月17日に自治州暫定議会にセルビア共和国からの独立宣言を採択させる。すると、翌18日には予定調和の如く、米、英、イタリア、フランスなどEU加盟の大半の国々はこの独立を承認した。ロシア、中国、スペイン、ギリシアなどは一方的な独立宣言に疑問を呈して承認していない。コソヴォ政府は6月に独立を規定した憲法を発効させたが、セルビア人住民はこのコソヴォの独立を受け入れず、6月には独自の議会の成立を宣言した。

国際社会はコソヴォの独立のあり方に疑念を示す

国際社会はこのような国際慣習法違反の疑いが強い独立国家の誕生に疑念を抱く国が多く、1年を経た2009年2月の段階で「コソヴォ共和国」を承認した国は、国連加盟国192ヵ国のうちの54ヵ国にとどまった。

コソヴォの独立国承認は、西側諸国の働きかけもあって、8年後の2016年には111ヵ国に増加した。セルビア共和国は、EUがコソヴォの独立を認めることを加盟条件としているものの、2021年の段階でも認めるに至っていない。

欧米諸国は、コソヴォ問題は特別な事例であり、他には波及しないとの楽観的な言説を撒き散らして決着を図ったが、この前例はたちまちグルジアの南オセチア共和国とアブハジア共和国の独立宣言へと飛び火したばかりか、2014年の米国が絡んだウクライナ政変時に、ロシアがクリミア半島を併合することへの口実を与えることになった。

さらに、ユーゴ・コソヴォ空爆時にNATO軍が行なった駐ベオグラード中国大使館へのミサイル攻撃は、中国の軍事編制に重要な影響を与えた。陸軍中心の専守防衛体制から、仮想敵国への対処防衛へと転換させることになったのである。

セルビアはアフガニスタン戦争に加担せず

2001年に始められたアフガニスタン戦争に加わらなかったのは旧ユーゴ連邦6ヵ国の中でセルビアとモンテ・ネグロ両国のみである。NATOの空爆を受けたセルビアが、NATO指揮下のアフガニスタン戦争に加担することを望まなかったのは当然ともいえるが、最貧国の一つであるアフガニスタンに43ヵ国もの国々が侵攻して破壊と殺戮を行なうことに躊躇いがあったであろうという推察は可能である。

内戦の悲惨さを経験したばかりのスロヴェニア、クロアチア、北マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはNATO指揮下のISAFに実戦部隊を派遣している。それぞれの政治的主若生は明らかではないが、内戦の過程で陰に陽にNATOの支援を受けた恩義からNATOの要請に応じたものとの推察は可能である。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、ユーゴスラヴィア連邦、コソヴォ自治州、NATOの対応、米国の対応>

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9,「モンテ・ネグロ・(ツルナ・ゴーラ)」

モンテ・ネグロは山岳国家

面積は1万3812平方キロ。首都はチトーグラード(現ポドゴリツァ市)。モンテ・ネグロは石灰岩質の低山が国土の大半を占めているが、平地は肥沃である。「モンテ・ネグロ(黒い山)」は、交易が盛んだったヴェネツィア共和国による他称で、地元ではツルナ・ゴーラと称すことが多い。モンテ・ネグロ人は男女とも体格はいい。

1991年の国勢調査での人口は68万人。モンテ・ネグロ人は62%・42万人、ムスリム人15%・10万人、セルビア人9%・6万人、アルバニア人7%・5万人、その他マケドニア人、スロヴェニア人、ユーゴスラヴィア人などを合わせると7%・5万人である。

モンテ・ネグロ共和国は、アルバニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォに境界を接しており、西南はアドリア海に面している。セルビア王国の一地方であった時期もあったが、セルビア王国が分裂した際に「モンテ・ネグロ公国」とした。15世紀から19世紀初頭にかけて400年間オスマン帝国の攻撃を受けたものの、その山岳地形の特性と公国の中央集権制および近代化政策が住民に支持されていたことで、概ね公国は維持されてきた。

露土戦争後にモンテ・ネグロは独立国家となる

1877年に始まった露土戦争でオスマン帝国は大敗北を喫し、ロシア帝国にコンスタンチノーブルの近郊まで攻め込まれた。その時点で列強の仲裁が入り、1878年に締結された「サン・ステファノ条約」と「ベルリン条約」によって、モンテ・ネグロとセルビアおよびルーマニアの独立が承認され、ブルガリアは公国としてオスマン帝国の影響下に置かれることになった。一方で、ハプスブルク帝国は漁夫の利を得る如くしてスロヴェニアとクロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保し、1908年には併合してしまう。このことが第1次大戦の遠因となる。ボスニア内に反ハプスブルク帝国を掲げる秘密結社が数多結成されることになったからである。この間、モンテ・ネグロは1905年に憲法を制定して正式にモンテ・ネグロ王国となり、1908年にはブルガリア公国がオスマン帝国の支配を脱してブルガリア帝国となった。

第1次バルカン戦争はロシアの思惑を超えてオスマン帝国の排除へ

ロシア帝国は、ハプスブルク帝国のバルカン支配への拡張に危機感を抱き、1912年にバルカン諸国に同盟条約を結ぶよう働きかける。バルカン諸国はこれに応じ、12年3月にセルビア王国とブルガリア帝国が同盟条約を結び、5月にギリシア王国とブルガリア帝国が同盟を結び、8月にはモンテ・ネグロ王国とブルガリア帝国が同盟を結び、9月にはモンテ・ネグロ王国とセルビア王国が同盟を結ぶという経緯を経て4ヵ国が交差するような形で「バルカン同盟」が形成された。このバルカン同盟が成立していく過程でバルカン諸国の思惑はロシアの意図とは異なるものに変貌し、バルカン諸国からオスマン帝国を排除することを目的とするようになっていった。オスマン帝国との戦争の目的に掲げたのは、オスマン帝国が支配しているバルカン半島のマケドニア、コソヴォ、アルバニアそしてトラキアを奪還するところにあった。

1912年9月27日にバルカン同盟が完成すると、先端を切ってモンテ・ネグロが10月8日にオスマン帝国に宣戦を布告し、次いで10月17日ブルガリア帝国とセルビア王国が後を追い、さらに10月19日にギリシアが宣戦布告するという慌ただしい形で第1次バルカン戦争は開始された。

オスマン帝国は不意を突かれた形で戦闘態勢が整わないまま、バルカン同盟に圧倒されて敗北する。すると、列強が干渉してロンドン講和会議が開かれ、13年5月に結ばれた条約によってマケドニアはセルビアとギリシアが分割領有し、アルバニアは独立を認められることになった。しかし、ブルガリア帝国は主戦場でオスマン帝国と戦ったにもかかわらず、トラキアは得たもののマケドニアへの権益が認められなかったために不満を募らせた。

そして、ブルガリア帝国は翌13年6月に、マケドニアに駐屯していたセルビアとギリシアの部隊への攻撃を行ない、第2次バルカン戦争を起こす。この思慮を欠いたブルガリアの第2次バルカン戦争には、周辺国のルーマニアとオスマン帝国も対ブルガリア戦争に加わったことで、ブルガリア帝国は惨めな敗北を喫した。戦勝国となったモンテ・ネグロ王国はマケドニアの大半とノヴィ・バザルをセルビア王国と折半して領有することになり、ギリシアはテッサロニキを含むマケドニア沿岸を獲得し、ルーマニアは南ドブルジャを割譲させ、オスマン帝国はトラキアのエディルネを再領有することになった。ブルガリアは大幅に領域を割譲されることになったのである。バルカン半島におけるオスマン帝国の影響力は大幅に縮小されることになったものの、ハプスブルク帝国によるクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合問題が燻っていた。

第3次バルカン戦争が第1次大戦に拡大

1914年6月28日、ハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子が併合したボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れた。この時、「青年ボスニア運動」の中から生じた秘密結社「黒手組」のセルビア人が爆裂弾と銃撃で皇太子を暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。戦乱を避けるためにロシアが仲裁に入り、セルビア王国がハプスブルク帝国の要求をほとんど受け入れると表明したにもかかわらず、ハプスブルク帝国はドイツ帝国との同盟を確認するとセルビアに最後通牒を突き付け、7月28日に宣戦を布告する。この第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は、ハプスブルク帝国の思惑を超え列強を巻き込んだ第1次大戦へと拡大していくことになる。

英・仏・露の三国協商を結んでいた親セルビアのロシア帝国が7月30日に総動員令を出すと、8月1日にハプスブルク帝国と同盟を結んでいたドイツがロシアに宣戦を布告。ロシアもこれに対抗して8月2日にドイツに宣戦布告をすると、ドイツは英仏との戦争に備えるためにベルギーに領域通過を要求するとともにルクセンブルクを占領し、オスマン帝国と同盟を結ぶ。そして、8月3日にフランスに宣戦を布告してベルギーに侵攻。フランスはこれに応じてドイツに宣戦を布告し、8月4日にイギリスがドイツに宣戦布告した。続いてバルカン同盟を形成していたモンテ・ネグロがハプスブルク帝国に宣戦を布告するというように戦線は大戦へと変貌していった。

バルカン諸国は、多民族国家で領土が狭いこともあり、それぞれに有利な条件を提示した側に付くために様子をうかがっていた。モンテ・ネグロはバルカン同盟をセルビアと結んでいた関係から、8月5日にハプスブルク帝国に対して宣戦を布告するが、たちまち同盟側の攻撃に屈し、国王はフランスに亡命してしまう。オスマン帝国は8月に同盟側と協定を結び、11月に協商側に宣戦を布告。イタリアは三国同盟と条約を結んでいたがそれを破棄して15年5月に協商側に立って参戦する。ブルガリアは、15年9月にマケドニアの確保を目論んで同盟側に立って協商側に宣戦を布告。ルーマニアは開戦初期には中立を宣言していたものの、協商側の領土割譲条件を受け入れて16年8月に協商側について同盟側に宣戦を布告した。しかし、17年にロシアで革命が発生すると12月には同盟側と休戦協定を結んで戦線から退場する。ギリシアは、国内が親独派と親協商派に二分されて争いが起こり、親協商側のヴェニゼロス宰相は15年に協商軍の通過を許可するなどで協商側に協力していたが、17年7月には臨時政府を樹立して新独派の国王に退位を迫るとともに同盟側に宣戦を布告した。

数ヵ月で済むとのドイツ帝国・同盟側の思惑は外れ、大戦は4年を超える総力戦となり、国力は疲弊していった。17年4月に米国がドイツに宣戦を布告する。しかし、ロシアでは11月に革命が起こって退場した。18年11月には疲弊したドイツ国内でも革命が発生し、国民の信頼を喪ったヴィルヘルム皇帝がオランダに亡命したことに伴って、第1次大戦は終結を迎える。

第1次大戦で動員された兵員は6000万人を超え、1000万人の兵士が死亡し、戦傷者は2000万人を超えた。講和会議でドイツに課せられた賠償金は1320億金ドイツ・マルクという、支払い不能とみられたほど苛酷なものであった。この大戦でドイツ帝国、ハプスブルク帝国、ロシア帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国と、大英帝国を除くほとんどの帝国が消滅した。

戦勝国となったユーゴスラヴィアでは王国が成立

この間、ユーゴスラヴィアでは、1914年12月にセルビア政府が南部のニシュに拠点を移し、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人すべての解放と統一を戦争目的とするニシュ宣言を出した。一方、ハプスブルク帝国内の南スラヴ人の指導者の一部は15年4月に「ユーゴスラヴィア委員会」を設立。17年にはウィーン帝国議会南スラヴ系議員は「ユーゴスラヴィア・クラブ」を設立。18年10月には、クロアチアのザグレブで「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人民族会議」が設立された。そして、11月にはユーゴスラヴィア委員会、スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人民族会議、セルビア王国政府がジュネーブで合同会議を開き、国家樹立のジュネーブ宣言を出した。

モンテ・ネグロ議会は同11月、セルビアおよびハプスブルク帝国内の南スラヴ地域との統一を正式に決議する。しかし、大戦後の講和会議では列強が発言権を与えなかったため、セルビア王国政府が主導する形で、12月に「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」の樹立を宣言し、モンテ・ネグロはこの中に吸収され、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政とされた。戦勝国と位置付けられた新国家の範囲は、セルビア王国、モンテ・ネグロ王国、クロアチア、スロヴェニア、ヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ダルマツィアで構成され、領域は拡張された。このとき定められた国境線は、後のユーゴスラヴィア解体戦争まで概ね維持された。

アレクサンダル国王は次第に独裁体制を強める

大戦後の1920年に、ユーゴスラヴィアでは制憲議会選挙が行なわれ、共産党が第3党に躍進する。急進党と民主党の連立内閣は「ヴィドヴダン憲法」を制定し、次第に中央集権体制を強化して21年には共産党を非合法化するとともに摂政アレクサンダルを国王に就任させた。アレクサンダル国王は主要な閣僚をセルビア人で固めつつ、29年には「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」を「ユーゴスラヴィア王国」に改称するとともに憲法を停止し、政党の活動を禁止して独裁制を敷いた。これに反発したクロアチアの民族主義者はクロアチアの独立を掲げ、ファシスト・グループ「ウスタシャ」を結成し、イタリアに拠点を置いた。

このような緊張状態の中、34年にアレクサンダル国王はフランスを訪問する。ウスタシャはこれを好機ととらえ、マルセイユでフランス外相とともにアレクサンダルを暗殺した。フランスがイタリアに犯人の引き渡しを求めるが、ムッソリーニのファシズム政権はこれを拒否する。

アレクサンダルの後継者として息子のペータルが王位に就くが、成年に達していなかったために、パヴレ公など3人が摂政になる。パヴレ公はアレクサンダル独裁王の執政が反発を招いたとして、クロアチアを自治州に格上げするなど緩和策を採った。しかし、ウスタシャはこれを認めず、あくまで独立のために戦うと宣言した。

ドイツではヒトラーが政権を掌握すると「第三帝国」を妄想する

この間、ドイツでは1933年1月にナチス党を率いるアドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、3月には「全権委任法」を制定して憲法を無効化し、中央集権体制を整えた。さらにナチ党以外の政党活動を禁止し、国際連盟を脱退する。世界恐慌を乗り切って経済成長を軌道に乗せると、アーリア人種優位説を唱えてナショナリズムを煽り、「第三帝国」の建設を妄想して軍備拡張を推し進めた。これに危機感を抱いたフランスはバルカン諸国に働きかけてバルカン協商の設立を促す。しかし、34年に創設されたバルカン協商に参加したのはユーゴスラヴィア、ルーマニア、ギリシア、トルコの4ヵ国にとどまった。その背景にはドイツの経済政策があった。世界恐慌による農産物の下落で喘いでいたバルカン諸国は、ドイツが農産物を輸入してくれるのを頼みとしており、ドイツとの輸出入依存度がそれぞれ50%前後に達するよう仕向けられていたからである。

ナチス・ドイツは、36年にヴェルサイユ条約を破棄してラインラントを再占領すると、鉱工業による経済再興に成功して世界恐慌から脱していく。37年にはスペイン市民戦争におけるフランコ総統側に加担してゲルニカを空爆する。11月にはイタリアと防共協定を結び、38年3月には親ナチ政権となっていたオーストリアに進駐して合邦化する。9月にはズデーテン地方の領有権をめぐるミュンヘン会談を開かせ、これの併合を認めさせた。39年に入ると、3月にチェコスロヴァキアに進駐して保護領化する。それを見たイタリアは39年4月アルバニアに侵攻して占領。モンテ・ネグロ王国はイタリアの傀儡国家として復活し、自治を許された。

ナチス・ドイツは8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。これを見た英仏は9月3日にドイツに宣戦を布告。独ソ不可侵条約で秘密協定を交わしていたソ連はポーランドの東側から侵攻して東半分を占領した。

さらに、ナチス・ドイツは40年4月にデンマークに進駐し、5月にはオランダとベルギー、ルクセンブルクに侵攻。宣戦布告に伴って大陸に派遣していたイギリス軍をフランス領ダンケルクに追い詰めて撤退させると、6月にはフランスへの攻撃に転じ、要塞のマジノ線を迂回する形で防衛戦を突破してパリに入城した。ナチス・ドイツは僅か2ヵ月で西ヨーロッパの大半を占領下に置いた。ナチス・ドイツは余勢を駆って英本土上陸作戦の「海獅子作戦」を発動するが、英国海空軍の反撃に遭い一時的にせよ断念せざるを得なくなる。イタリアはこの段階に至り、ドイツとの同盟側として英・仏に宣戦を布告した。

ソ連の植民地化を図るためのバルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)

ヒトラー・ナチス・ドイツ総統は英本土上陸を棚上げして視線を東に移し、ソ連を植民地化した上でその物量をもって英国本

土への上陸を再考することにする。そこで、ヒトラーは対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦の立案を命じた。この作戦を実行に移

すには、軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの後背地の安全確保のためにバルカン諸国のすべてを支配下に置く必

要があると思考した。すでにルーマニアとブルガリアは圧力に屈して同盟に加わっていたが、ユーゴスラヴィア王国は中立
に拘り、ギリシア王国には海上を通じた英国の支援の手が伸びていたため同盟に加盟する可能性はなかった。そこで、ギリシアへの侵攻計画「マリタ作戦」立案するとともに、ユーゴ王国対しては同盟への加入を威しと甘言を弄して受諾させた。

ところが、第1次大戦において敵対国として戦ったドイツとの同盟を受け入れ難い国民が異議を唱え、それに呼応した将

校団がクーデターを起こし、中立を維持することを宣言する。狼狽したユーゴ王国政府は、同盟への加盟は有効であると弁

明するが、ヒトラーはこれを許容せず、「マリタ作戦」をユーゴ王国にも拡張適用して4月6日に同盟国軍とともに侵攻した。

ユーゴ王国政府軍は抵抗するが、ファッシズム・ウスタシャの思潮が浸透していたスロヴェニア人とクロアチア人で構成された第4軍と第7軍が反乱を起こし、ナチス・ドイツ軍を歓迎したために11日間で敗北する。ギリシア軍も英連邦軍の支援を受けながら頑強に抵抗したがやはり14日間で占領された。モンテ・ネグロも当然ナチス・ドイツの占領下に置かれるが、パルチザンとして第2次大戦が終結するまで山岳地帯を利用したゲリラ戦を戦い抜いた。

ナチス・ドイツは、バルカン諸国を支配下に置くと、1941年6月22日に対ソ戦のバルバロッサ作戦を発動し、ナチス・ドイ

ツ軍300万、同盟国軍250万、計550万の兵員を動員してソ連領に侵攻した。スターリン・ソ連共産党書記長が独ソ不可侵

条約に信を置き、ナチス・ドイツを刺激するなとの指示を前線に命じていたため、臨戦態勢をとれないでいたソ連軍は敗退を

重ね、9月にはナチス・ドイツ中央軍がモスクワ近郊にまで迫ることになる。対ソ・バルバロッサ作戦は成功するかに見えた。

しかし、米国が英国支援のために41年3月に制定していた「武器貸与法」がソ連にも拡張適用されるようになり、また在日ドイ

ツ大使館の要員にもなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲからの日本軍はシベリアに侵攻する意図は持っていないと

の情報を得ると、対日戦に備えてシベリアに配備されていた部隊を呼び戻してドイツへの反撃を開始した。

ナチス・ドイツ同盟軍占領下のユーゴスラヴィアでは内戦が激化

クロアチアでは、ファシスト・グループ・ウスタシャがナチス・ドイツを歓迎し、傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言してスロヴェニアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を版図に組み入れ、純粋クロアチア人国家の建国を宣言した。そして正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置づけ、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を殺害すると宣言して実行に移した。このクロアチア独立国の政策によって殺害されたセルビア人は、50万人を超えたという。

一方、ユーゴ王国の王党派の将校たちは「チェトニク」なる軍事組織を結成し、ユーゴ王国の再興を目的として同盟軍に対して戦うと宣言した。しかし、ナチス・ドイツに「ドイツ兵1人を殺せば、セルビア人100人を殺す」と脅されると、同盟国への抵抗戦を棚上げして各派との領域争いをするようになる。

ユーゴスラヴィアで唯一ナチス・ドイツ同盟軍への抵抗戦を行なった「パルチザン」

他方、同盟軍に対する抵抗組織としてヨシプ・ブロズ・チトーが率いる共産党が主導した「パルチザン」が結成され、ナチ

ス・ドイツのバルバロッサ作戦が発動されるのと呼応するように活動を開始した。パルチザンはナチス・ドイツ同盟軍に加え、

クロアチア独立国のウスタシャおよび王党派のチェトニクを相手にしなければならなかったために戦いは困難を極めた。

ソ連政府は英国に対し、西部戦線を構築してほしいと要請していたが、英国は中東の油田地帯の権益を優先して地中海地

域での戦線に拘っていた。そのため、英国はユーゴ戦線において亡命政府王党派のチェトニクを支援していた。しかし、チ

ェトニクがナチス・ドイツ同盟国軍との戦いを放棄しているのを知るにおよび、43年5月にパルチザンに軍事使節団を送り込

んだ。英国の観戦武官は命の危険に曝されながら、パルチザンがナチス・ドイツ同盟軍との抵抗戦で連合国にとって有用な

戦いを行なっているとの報告をチャーチル英首相に送った。報告を受けたチャーチルは、43年11月に連合国三首脳で開

いたテヘラン会談においてパルチザンを支援することが有益であるとの提案をした。米ソ両首脳はこれを承認し、連合国は

パルチザンへの軍事支援を開始することになる。連合国の支援を受けられるようになったパルチザンは、発足した当初は8

万人に過ぎなかった構成員が「友愛と統一」を掲げて民族性の垣を取り払ったことと相俟って80万人にまで膨れ上がること

になる。

東部戦線では、43年1月にソ連赤軍がスターリングラード攻防戦で勝利したことでナチス・ドイツの敗色が濃厚となる。ここ

にいたって英国と米・加の連合軍は、ようやく西部戦線を構築することになる。44年6月に「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動し、8月にはパリを解放した。もはや東西両戦線でナチス・ドイツが勝利する見込みはなくなる。ユーゴスラヴィアではパルチザンがようやくに到達したソ連赤軍とともに、44年10月にベオグラードを解放する。そして、45年4月にソ連赤軍がベルリン攻撃を開始すると、敗北を自覚したヒトラー・ナチス・ドイツ総統が4月30日に自殺する。後継を託されたデーニッツが5月8日に降服文書に調印したことで、第2次大戦における欧州戦線は終結した。

ユーゴスラヴィアは王制を廃止して人民共和国となる

ユーゴスラヴィアでは、終戦直前の45年3月に英国の仲介でロンドン亡命政府とパルチザンとの連合政府が発足した。し

かし、45年8月に開かれた臨時国民会議でペータル国王が国王側の閣僚をすべて引き上げるという政治的駆け引きを行な

う。西側諸国にも批判されたこの国王派の駆け引きは失敗に終わる。11月に行なわれた制憲議会選挙で、人民戦線派は

連邦院で90.5%、民族院で88.7%の票を獲得することになったからである。この制憲議会で王制は廃され、「ユーゴスラ

ヴィア連邦人民共和国」が建国されることとなった。この時の憲法によってイタリアの傀儡国家とされていたモンテ・ネグロ王

家も廃され、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国に統合されて「モンテ・ネグロ人民共和国」となった。

独自の外交を展開したユーゴ連邦は社会主義圏から追放される

チトー率いるユーゴ連邦は46年にソ連の中央集権型の憲法を採択する。しかし、ユーゴ連邦がイタリアとトリエステの領有権をめぐって争い、ギリシアの人民戦線を支援し続けたこと、およびブルガリアと「バルカン連邦」構想を検討するなど、独自の外交を展開したことがソ連指導部の怒りをかった。そして、1948年6月に開かれた第2回コミンフォルム会議で、ユーゴ連邦は反ソ的として追放される。この追放に伴う経済制裁を受けたことでユーゴ連邦経済はたちまち困窮に陥った。それを見た西側諸国は、ユーゴスラヴィアを西側諸国に引き込む好機と捉え、ユーゴ連邦に経済援助を与える。ユーゴ連邦はこの西側の援助を受けたことで経済破綻を免れたが、ソ連圏の社会主義諸国との対立から社会主義体制を再考する必要に迫られた。そして、独自の自主管理型社会主義を編み出し、53年憲法でそれを明記した。

さらに、1963年に憲法を改定し「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」と改称する。それに伴って、モンテ・ネグロも「モンテ・ネグロ社会主義共和国」となる。この間のユーゴ連邦は、決して平坦なものではなかった。チトーは第2次大戦中の民族対立が再燃するのを抑制するために、クロアチア独立国が行なった歴史的事件を封印する政策を採った。しかし、ヨーロッパにディアスポラとなって散ったウスタシャの残党が、1960年から70年代にかけてユーゴ連邦の在外大使館や航空機、列車、市場、劇場などに爆弾を仕掛けたり、襲撃したりした事件が頻発していた。クロアチアでは、71年に「クロアチアの春」と称されることになる学生を中心とした大規模なストライキも発生した。この時はチトーのカリスマ性が効を奏して沈静化に成功し、74年に憲法が改定され、各共和国に大幅な権限移譲が行なわれ、自治州にも共和国なみの権限が与えられた。

この間、チトーはアジア・アフリカ諸国を主な参加国とする非同盟諸国会議を主催することになる。チトーは80年に死去するが、3年に1度開かれる非同盟諸国会議は2016年まで続いた。

西側諸国がユーゴ連邦の民族主義者を扇動したためにユーゴ連邦解体戦争は悲惨なものとなる

1989年11月にベルリンの壁が瓦解し、東欧の社会主義諸国が雪崩をうって資本主義制度を採用することになる。ユーゴスラヴィアは地方分権化が進んでいたために、東欧諸国のような崩壊に至ることはなかったが、スロヴェニアとクロアチアは東欧の崩壊に先駆けてユーゴ連邦からの分離独立に動き出していた。このスロヴェニアとクロアチアの独立にはドイツとバチカン市国を主とした西側諸国の密かな支援工作があった。そして、両国は91年6月25日に連邦からの分離独立を宣言した。ECが紛争を回避するために仲介に入り、独立宣言の3か月の凍結を承諾させた際にも、コール・ドイツ首相は議会において冷却期間に過ぎないと述べ、バチカン市国は西側諸国の大使を集めて独立を承認するよう働きかけた。そして、冷却期間が過ぎるとドイツとバチカン市国が率先して両国の独立を承認し、EC諸国はそれに引きずられるようにして独立を承認した。

スロヴェニアとクロアチアの独立宣言がボスニアにも波及

ボスニア・ヘルツェゴヴィナは1991年の国勢調査によると、ムスリム人が44%、セルビア人が31%、クロアチア人が17%

とユーゴ連邦の中でも民族の分布が微妙な割合で混住していた。クロアチアにおいて独立をめぐってクロアチア人住民とセルビア人住民の間に抗争が起こり、内戦状態であることを見れば、ユーゴ連邦からの分離独立はより慎重でなければならないと予測できたはずである。しかし、ムスリム人のイゼトベゴヴィチ・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ幹部会議長(大統領)は、無分別なボスニアの独立を企図した。そして、92年2月にセルビア人住民の反対を押し切って、ムスリム人とクロアチア人だけで独立の是非を問う住民投票を強行する。そして3月に独立を宣言すると、EC諸国はこぞって独立を承認した。その後のボスニアは、ムスリム人勢力、クロアチア人勢力、セルビア人勢力の悲惨な三つ巴の紛争が発生することとなる。

モンテ・ネグロは親セルビア派から反セルビア派への政権交替でユーゴ連邦から分離独立

モンテ・ネグロは山岳が多いこともあって、近代的工業は発展しなかった。ユーゴ連邦解体戦争前の時点で、最も富裕だったスロヴェニアと比較すると1人当たりの所得は3分の1以下にすぎない。スロヴェニアおよびクロアチアが独立志向を高めたのには、モンテ・ネグロなどへの所得の再分配を良しとしなかったことが要因の一つとしてあげられる。

1991年から始まったユーゴ連邦解体戦争において、モンテ・ネグロ共和国政府は親セルビア派が政権を担っていたこともあり、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナが分離して旧ユーゴ連邦が解体したのちの92年4月に、セルビア共和国とともに新ユーゴ連邦を構成した。親セルビア派に限らず、モンテ・ネグロの住民は小国であることによる分離独立への不安を抱いており、共和国全体としては分離することには消極的であった。

しかし、分離独立派のジュカノヴィチが98年の選挙で連邦派のブラトヴィチ大統領に勝利して大統領に就任すると、独立に向かって着々と手を打ち始める。99年に通貨改革を断行してドイツ・マルクを導入し、独立のための住民投票を実施しようとした。だが、モンテ・ネグロの憲法上、大統領は国家元首ではあるものの儀礼的な役割しか与えられておらず、行政上の権限は首相にあった。そこで、ジュカノヴィチ大統領は2002年に大統領職を辞任して2003年に首相の地位を獲得すると、直ちにセルビア共和国との連邦を解消して「セルビア/モンテ・ネグロ」の国家連合とした。

EUはモンテ・ネグロの独立強硬策が武力衝突をもたらすことを危惧し、ジュカノヴィチ政権に住民投票を経るよう条件を付ける。条件とは、「50%以上の投票率で、55%以上の賛成票があること」というものである。その条件を満たすための政治的駆け引きが行なわれたために住民投票の実施は遅れ、3年後の2006年5月にようやく実施された。住民投票の結果は、投票率86.5%、分離独立賛成の票は55.5%と辛うじてEUの条件を満たした。これを受けてジュカノヴィチ政権は、6月にモンテ・ネグロ共和国として独立を宣言する。EUは直ちに承認し、国連も加盟を認めた。このモンテ・ネグロの分離独立で、セルビア共和国はアドリア海への出口を失うことになる。

2007年10月に新憲法を制定し、国名を「モンテ・ネグロ共和国」から「モンテ・ネグロ」に改称する。議会は1院制で。議員定数は81。直接選挙で選出し、任期は4年。宗教は、東方正教のセルビア正教会とモンテ・ネグロ正教会を合わせて74%と正教が優勢であるものの、イスラム教徒も18%を占めている。

モンテ・ネグロは2017年6月にNATO加盟が認められたが、NATOの指揮下のISAFとしてのアフガニスタン戦争には加担していない。

独立後も経済は低迷しているが、中国の一帯一路の対象国となっており、セルビアとモンテネ43ヵ国グロを結ぶ高速道路の建設が行なわれている。EUへの加盟は2022年の段階では候補国扱いである。

<参照;セルビア、ユーゴスラヴィア連邦>

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10,「スロヴェニア」

スロヴェニアの面積は2万251平方キロと小国である。首都はリュブリャナ市。スロヴェニアの地域名は「スラヴの地」の意からきている。人口は、91年の国勢調査では196万人。スロヴェニア人87.8%・172万6000人、クロアチア人2.6%・5万1000人、セルビア人2.4%・4万6000人、ムスリム人1.4%・2万7000人、ハンガリー人0.4%、イタリア人0.2%、ドイツ人0.03%、その他5.2%・10万1000人。ドイツ人は第1次、第2次大戦を通じて排除され、激減したため少数である。スロヴェニアはオーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチアと境界を接しており、第2次大戦後に獲得した回廊を通してアドリア海に面している。クロアチアへと続く西南部は石灰岩のカルスト台地を形成しており、鍾乳洞は1万を超えて風光明媚な国といえる。

600年間ハプスブルク帝国の支配下にあったスロヴェニア

南スラヴ民族は、6世紀ごろからバルカン地域に移住し、サヴァ川の北のスロヴェニアの地に定着した。7世紀にカランタニア公国を樹立しているがこれがスロヴェニア人の部族が成立させた最初の国とみられる。しかし、8世紀になるとフランク王国の支配下に入り公国は消滅する。フランク王国の支配下にあるころ、この地域にキリスト教が伝えられ、カトリック教を受け入れるようになっていった。その後、神聖ローマ帝国やヴェネツィアの支配を経て13世紀にハプスブルク帝国の支配を受け、それ以降600年間その統治下に置かれた。

ハプスブルグ帝国に支配され続けたため、スロヴェニアは中世を通じて国家を形成したことはなく、歴史の中で重要な役割を演じたこともなかった。スロヴェニア人が集住して都市を形成している地域では、文化や建築様式にオーストリアやドイツの影響が色濃く反映されているのは支配下に置かれたことによる。14世紀以降、オスマン帝国がバルカンに侵攻して多くの国が支配されたが、スロヴェニアはハプスブルグの支配下にあったことからその影響を免れた。

その間、知識人の間に民族意識を喚起する運動が展開され、「スロヴェニア語」の正書法の確立などが図られた。イタリアから始まり、フランスでナポレオンを誕生させることになった1848年革命はスロヴェニアにも影響を与え、スロヴェニア人居住の統一と自治という要求が出されたが、それ以上の運動に発展することはなかった。スロヴェニアがユーゴスラヴィアで比較的裕福だったのは、ハプスブルク帝国内で19世紀に蒸気機関を取り入れて繊維産業を発展させ、鉄道を建設したことなどが挙げられる。

ハプスブルク帝国がスロヴェニア、クロアチア、ボスニアを併合したことが第1次大戦の遠因となる

1877年に始まった露土戦争でロシア帝国はオスマン帝国に勝利し、コンスタンチノーブルの近郊に迫るほどに追い詰める。その後に結ばれたサン・ステファノ条約およびベルリン条約で、セルビア公国とモンテ・ネグロ公国およびルーマニア公国の独立が承認される一方で、ハプスブルク帝国はスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を確保した。そして、1908年にはそれを併合してしまう。これに対して、激しい反発が起こり、ボスニアにセルビア人将校たちによる「黒手組」などの秘密結社が数多結成されることになった。この併合が、第1次大戦の遠因となる。

ロシア帝国はこのハプスブルク帝国の拡張政策を抑制するために、バルカン諸国に同盟を結ぶよう働きかけた。バルカン

諸国は、まず3月にセルビアとブルガリアが同盟条約を結び、次いで5月にギリシアとブルガリアが同盟を結び、8月にはモンテ・ネグロとブルガリアが同盟を結び、9月にはモンテ・ネグロとセルビアが同盟を結ぶという形で交差した4ヵ国による「バルカン同盟」が成立した。このバルカン同盟の目的は成立の過程でロシアの思惑から離れ、オスマン帝国から、マケドニア、アルバニア、コソヴォ、トラキアを奪取するというものに変容していた。そして、10月にはモンテ・ネグロがオスマン帝国に宣戦を布告する。それに続いてブルガリア、セルビア、ギリシアがオスマン帝国に宣戦を布告して第1次バルカン戦争が始まる。オスマン帝国は不意を突かれた形でずるずると敗退すると、列強が介入して講和会議が開かれ、ロンドン条約が結ばれた。

この条約でマケドニアがセルビアとギリシアに分割領有されたことに不満を抱いたブルガリアは、無謀にも13年6月にマケドニアに駐留していたセルビアとギリシアの部隊への攻撃を始めたことで第2次バルカン戦争が開始された。ブルガリアは、セルビアとギリシアに加えてモンテ・ネグロ、ルーマニア、そしてオスマン帝国からも攻撃されることになり敗北する。戦後に開かれたブカレスト条約で、ブルガリアはピリン・マケドニア周辺とトラキアの一部の領有が認められたものの、マケドニアとコソヴォの大半はセルビアとモンテ・ネグロに分割され、ルーマニアには南ドブルジャを割譲させられた。アルバニアはこの時の条約で独立が認められる。

スロヴェニアは第1次大戦後にようやく南スラヴ民族国家に包摂をされる

第1次、第2次バルカン戦争が決着すると、1908年にハプスブルク帝国が併合した南スラヴ民族のスロヴェニア、クロアチ

ア、ボスニアの問題が浮上してくることになる。1914年6月、ハプスブルク帝国の皇太子が、ボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにサラエヴォ訪れたとき、青年ボスニア運動の中から生じた「黒手組」のセルビア人が爆弾と銃撃で皇太子を暗殺するという「サラエヴォ事件」が起こされた。ロシアが紛争の仲裁に入るが、ハプスブルク帝国はドイツ帝国との同盟を確認するとセルビアに最後通牒を突き付け、7月28日にセルビアに宣戦を布告した。この第3バルカン戦争ともいうべき紛争は、直ちに列強を巻き込んだ第1次大戦へと展開することになる。

英・仏・露の三国協商を結んでいた、ロシア帝国は同月30日に総動員令を発すると、ドイツ帝国はこれに対抗して8月1日に総動員令を出すと同時にロシアに宣戦布告した。そして、フランスが8月3日にドイツに対して宣戦布告し、イギリスは4日に対独宣戦を布告した。

バルカン諸国は、それぞれの領土的野心を抱いて協商側につくか同盟側につくかを見定めていた。オスマン帝国は同盟側に立ち、14年11月に三国協商側に宣戦布告。ブルガリアはマケドニアの領有を目論んで15年10月に協商側に宣戦を布告する。ルーマニアは14年8月に中立を宣言するが、16年8月に至って協商側に立って同盟側に戦争布告した。

ギリシアは、親独派の国王と親露派のヴェニゼロス宰相との間で国論が二分されていた。しかし、16年10月にヴェニゼロスが臨時政府を樹立し、国王に退位を迫るとともに17年7月に同盟側に宣戦を布告した。スロヴェニアとクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナは、ハプスブルク帝国領となっていたため、同盟国軍として徴募され、対セルビア・協商側と戦うことになる。

戦勝国としてユーゴ国王に就いたアレクサンダルは独裁制を強める

セルビア政府は緒戦で押し込まれ、ベオグラードから南部のニシュに政府を移し、12月にスロヴェニア人、クロアチア人、セ

ルビア人の南スラヴ民族による統一国家を建設するという「ニシュ宣言」を出す。ハプスブルク帝国内の南スラヴ民族の指導者は、15年4月にパリでユーゴスラヴィア委員会を設立。さらに、17年にはハプスブルク帝国の議会の南スラヴ系議員はユーゴスラヴィア・クラブを設立。そして、18年10月にはクロアチアのザグレブで「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人民族会議」が設立された。

数ヵ月で終わると見られていた大戦は総力戦となって塹壕戦になってずるずると続けられ膠着状態に陥った。しかし、アメリ

カが17年4月に参戦したこともあって戦線に変化が現れ始めた。いかし、4年余り続いたことで民衆は生活物資が欠乏したことで疲弊したドイツでは2018年11月革命が起こる。民意を喪ったヴはィルヘルム皇帝がオランダに亡命したことで、第1次大戦は終結する。

第1次大戦に動員された兵員は6000万人を超え、戦死者はおよそ1000万人、負傷者は2000万人に達した。この膨大な

犠牲者を出した反省から、1920年1月にウィルソン米大統領が提唱した平和14ヵ条の原則に基づいて国際連盟が発足し、1928年にはパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が締結されるが、この条約の精神が生かされることはなかった。

大戦後の講和会議では、「ユーゴスラヴィア委員会」や「民族会議」は出席が認められず、会議に出席したアレクサンダル・

カラジョルジェヴィチ・セルビア国王の権限を認めて「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の建国が承認され、アレクサンダルは摂政に就いた。一方、スロヴェニアは戦勝国の権利として、オーストリア領だったケルンテン州のスロヴェニア人多数居住地域をスロヴェニア領に組み入れようとした。しかし、サン・ジェルマン条約が要請した住民投票でオーストリア領に帰属することになったため、スロヴェニア領への併合はならなかった。

摂政に就いたセルビア人の国王アレクサンダルは、1921年に国王に昇格すると独裁体制を強化して29年にヴィドヴダン憲

法を停止し、議会を解散するとともに政党の活動を禁止して独裁体制を敷き、国名を「ユーゴスラヴィア王国」とした。この独裁体制に反発したクロアチア人は激しく抵抗し、クロアチア権利党のアンテ・パヴェリチはイタリアに亡命してファシスト・グループ「ウスタシャ」を結成する。そしてユーゴスラヴィア王国の打倒を宣言した。この状況の中、34年にアレクサンダル独裁王はフランスを訪問する。これを好機と捉えたウスタシャはマルセイユでバルトゥ・フランス外相とともにアレクサンダルを暗殺する。フランス政府はイタリア政府に犯人の引き渡しを要求するが、ムッソリーニ・ファシズム政権はこれを拒否した。

スロヴェニアは、南スラヴ人国家としてのユーゴスラヴィア王国領に組み込まれることになったものの、ハプスブルグ帝国から

長期間支配されていたため、スロヴェニア人の深層心理にはスラヴ民族国家への帰属意識より、オーストリアを通した西欧への親近感が形成されていた。このことも、のちのユーゴスラヴィア連邦解体戦争において、連邦から分離独立を図る要因の1つとなっている。

ナチス・ドイツのヒトラーは「第三帝国」を妄想して第2次大戦を始める

ドイツでは、第1次大戦への反省から当時最も先進的だといわれたワイマール憲法を19年7月に制定する。しかし、同時にヒ

トラーによるナチ党が結成されるなど、政治は安定しなかった。反共主義者ヒンデンブルク大頭領が33年1月にヒトラーを首相に「指名すると、3月には全権委任法を制定して憲法を無効化し、10月には国際連盟から脱退した。35年に世界恐慌から脱出すると再軍備を宣言し、36年にはヴェルサイユ条約を破棄し、ラインラント地方にナチス・ドイツ軍を進駐させて併合。37年にはスペイン内戦における反乱軍フランコ側に立って参戦してゲルニカを空爆し、イタリアと防共協定を締結。38年3月には親ナチ政権となっていたオーストリアに進駐して合併し。9月には英・仏・独・伊によるミュンヘン会談を開かせてズデーテン地方の併合を認めさせた。39年に入ると、3月にチェコスロヴァキアにナチス・ドイツ軍を進駐させて占領した。そして39年8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を開始した。これに対し、英・仏は9月3日にドイツに対し宣戦を布告する。

ナチス・ドイツは、英仏との戦争に備えて40年4月にデンマークとノルウェーに侵攻し、さらに5月にはにオランダ、ベルギー、

ルクセンブルグに侵攻。宣戦布告に伴って大陸に派遣していた英国軍をフランス領ダンケルクに追いつめて撤退させた。そして、6月にはフランスのマジノ油彩を解する形でパリに入城し、ヒトラーはフランスに対する勝利を宣言した。西ヨーロッパのほとんどを占領下に置いたナチス・ドイツは「海獅子作戦」を発動して英本土への上陸作戦を実行するが、英国軍の巧みな反撃に遭いこれを一時的に断念する。そこで、ヒトラーはかねてからの目標であったソ連領を植民地化してその物量を基にして英国本土上陸を再戦することに転換する。そして、ヒトラー40年7月には対ソ侵攻作戦の立案を命じる。

ユーゴスラヴィア全土はナチス・ドイツ同盟軍に蹂躙される

対ソ侵攻作戦を実行に移すには、軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの安全確保のために、バルカン諸国で未だ同盟に加入しないユーゴスラヴィアとギリシアを支配下に置く必要があると考えた。ギリシアには英国の支援の手が入っていたことから同盟への加盟は望めなかったために、武力による占領計画「マリタ作戦」を策定した。残るユーゴスラヴィアは、第1次大戦の敵国との同盟を受け入れられずに中立に拘っていたが、ナチス・ドイツの甘言と威しに屈して41年3月に同盟側に加盟させられた。これに反発した市民と軍人の一部が参加して抗議デモを行ない、次いで王国軍の一部がクーデターを起こす。狼狽したユーゴ王国政府は、ドイツとの約定に変わりはないと弁明するが、ヒトラーはこれを許容せず、4月6日にギリシアへの侵攻作戦「マリタ作戦」をユーゴスラヴィアにも拡張適用してナチス・ドイツは同盟軍とともに侵攻し、占領した。軍備が劣勢であった上に、クロアチア人とスロヴェニア人で編成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたため、ユーゴ王国軍は11日間で崩壊し、王国政府はロンドンに亡命する。スロヴェニアとクロアチアはナチス・ドイツ軍の侵攻を歓迎するが、スロヴェニアはドイツに北部地方、イタリアに首都のリュブリャナ以南の地域、ハンガリーには東部のマリボル周辺が占領され、3分割されてしまう。

ユーゴスラヴィアは民族主義が台頭し内戦が繰り広げられる

クロアチアではファシスト・グループ「ウスタシャ」がナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言し、スロヴェニ

アの一部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を版図とした。そしてイタリアから帰還したアンテ・パヴェリチがヒトラーに倣って総統を僭称し、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人とする一方で、正教徒のセルビア人を「クロアチア独立国」の最大の敵と位置付け、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の一を殺害すると宣言しそれを実行に移した。この時に殺害されたセルビア人は50万人を超える。

セルビアには、ロンドン亡命政権系統の王党派軍「チェトニク」とチトー率いる共産党が主導する人民戦線派「パルチザン」

が組織された。「チェトニク」は同盟国軍への抵抗組織として結成されたにもかかわらず「ドイツ兵1人が殺されればセルビア人100名を殺す」と脅されるとたちまち屈して、ユーゴスラヴィア王国内の領域争いに転じてしまう。

「パルチザン」は「友愛と統一」を掲げ、民族横断的な組織としてベオグラードに本部を置いたが、ナチス・ドイツ同盟軍の攻

撃を受け、南部のウジツェに本部を移して「ウジツェ共和国」の建国を宣言した。しかし、ナチス・ドイツ軍の攻勢に耐えられず、ボスニアの山岳地帯に本部を移して同盟国との抵抗戦争を続ける一方、42年11月にはボスニアのビハチで第1回の「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」を開き、行政組織も整えた。

第三帝国を妄想したヒトラーは二正面作戦で窮地に陥る

バルカン半島を支配下に置いたヒトラーは、6月22日に300万のナチス・ドイツ軍と同盟国軍250万を加え550万の兵員を動

員して対ソ戦の「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」を発動した。対独戦への備えを怠っていたソ連軍は圧倒され、9月にはモスクワ近郊に迫られるほどの窮地に陥った。しかし、在日ドイツ大使館の要員にもなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、日本軍はシベリアに侵攻することはないとの情報を打電する。この情報を受けたソ連軍は日本との戦争に備えてシベリア地方に配備していた部隊を引き上げて対処。さらに、米国が英軍のために制定した「武器貸与法」をソ連にも拡張適用して物資の援助が受けられるようになると、41年12月には早くも対独への総反撃に移った。そして、ヒトラーにモスクワ攻撃を諦めさせる。42年2月にスターリングラード攻防戦に勝利したソ連軍は、43年11月にはウクライナのキエフを解放するなど、ナチス・ドイツが占領していた地域を次々と奪還していった。

連合国の援助を受けながら「パルチザン」はユーゴスラヴィアを解放

アフリカ戦線では有利な対独戦を展開していた英国は、ヨーロッパでは油田地帯の権益を護る必要性から地中海地域での

戦線の維持に拘っていた。そこで、43年5月にパルチザンに軍事視察団を送り込む。観戦武官は命の危険に曝されながら、パルチザンが同盟軍との戦闘でナチス・ドイツ軍20個師団を膠着させており、連合国が支援することの有用性をチャーチル英首相に報告する。

報告を受けたチャーチルは43年11月に開かれた英・米・ソ三首脳によるテヘラン会談で、連合国による「パルチザン」支援

を提案した。米ソの承認を得たチャーチル英首相は、すぐさま軍需物資を「パルチザン」に届けるとともに、英国の落下傘部隊まで送り込んだ。パルチザンはこの援助物資によって部隊を増強し、ナチス・ドイツの7次にわたる大攻勢に耐え抜いた。

この間、43年9月にイタリアが連合軍に降服する。スロヴェニアのパルチザンはスロヴェニア南部に駐留していたイタリア軍の武装を解除して武器を確保している。

44年6月に米英連合軍による「ノルマンディ上陸」作戦が成功すると、ナチス・ドイツに二正面作戦を戦う余力はなく、もはや

勝利する見込みはなくなる。そして、45年4月にヒトラーが自殺したことでナチス・ドイツは崩壊し、5月に降服して第2次大戦の欧州戦線は終結した。

ハプスブルグ帝国下で発達した近代工業をさらに発展させる

大戦直前の45年3月に英国の仲介で、ロンドン亡命政府と「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」が連合政

府を樹立し、チトーが首相に就任した。しかし、政権運営をめぐって意見が合わず、ペータル国王は王党派の閣僚をすべて引き上げるという政治的駆け引きを行なう。この戦勝国にも批判されたペータルの駆け引きは失敗に終わる。11月に行なわれた制憲議会選挙で、人民戦線派が連邦院で90.5%、民族院で88.7%の票を獲得することになったからである。96年に開かれた議会で王制は廃止され、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」の建国が宣言され、ソ連型の中央集権型社会主義が取り入れられた。

大戦直後のユーゴスラヴィア連邦全域の平均的農業人口は75%程度だったが、スロヴェニアはハプスブルク帝国支配下で

工業化が進んでいたため農業人口は55%と最も低かった。スロヴェニアは第2次大戦において、クロアチア独立国の版図に入っていたためこの工業地帯を含めて比較的破壊を免れていた。そこで、ユーゴスラヴィア連邦政権はスロヴェニアの優位性を活用して戦後復興の経済的発展の牽引地域として初期投資の優遇措置をとった。そのことが、基礎的な工業の基盤の上にさらなる工業の発展をもたらすことになり、ユーゴスラヴィア連邦の中では最も豊かな地域であり続けることになった。この相対的豊かさゆえに、スロヴェニア人は連邦内の貧困地域への所得の再分配に対して搾取されていると受け取り、ユーゴ連邦に帰属していることは不利だとの不満をくすぶらせていた。

ユーゴ連邦の独自外交が反ソ的としてコミンフォルムから追放される

戦後復興の最中の48年、ユーゴ連邦はブルガリアとバルカン連邦構想など独自の外交を展開したことが、反ソ的としてコミ

ンフォルムから除名され、社会主義圏から経済制裁を受けた。そのため、西側からの融資によって経済復興と発展を図らざるを得なくなった。

米国はこの事態についてユーゴスラヴィアを自由主義側に引き込む好機と捉え、凍結資産5500万ドルの解除を行ない、さらに西側の諸国にも融資を行なわせた。しかし、ユーゴ連邦は社会主義体制を放棄することなく、ソ連型の中央集権型社会主義ではない自主管理型社会主義を採用した。しかし、各共和国への分権化に伴う恣意的な借款が増大したために資金がだぶつき、54年を100とすると89年には1385という凄まじいインフレに陥った。

相対的豊かさの故に民族の利益を優先したスロヴェニア

この間、1968年にチェコスロヴァキアで「プラハの春」なる運動が起こされた。この民衆の民主化を求めた運動は、ワルシャ

ワ条約軍によって鎮圧される。ユーゴ連邦の大統領となっていたチトーはこれを厳しく批判するとともに、ユーゴスラヴィアの防衛体制を強化する対策を実施する。全国民が即座に防衛に参加できるように「全人民防衛体制」なる制度を導入した。そして、連邦中にあまねく部隊を配置するとともに、武器や弾薬庫を各地に配備した。これがのちのユーゴスラヴィア解体戦争で各共和国が武装を強化するために使われることになる。

インフレや経済停滞に対する失政に対し、スロヴェニアは自らの政策を反省することなく、ユーゴ連邦政府の無策によるもの

として非難する声を高める。また、他の共和国とは異なり、人口比でスロヴェニア人が87%と圧倒的多数を占めており、マイノリティの意向を無視し得たことも、スロヴェニアの民族主義者が独立志向でまとまることを容易にした。東欧の崩壊が兆す前の89年1月、スロヴェニアは他の共和国にさきがけて複数政党制の導入を決める。そして、ミラン・クチャンは民族主義政党「スロヴェニア民主同盟」を結成して党首に就任。89年9月にはスロヴェニア共和国憲法の修正を行ない、ユーゴ連邦からの離脱権および政治、経済上の主権と民族自決権を規定し、連邦憲法より共和国憲法を上位に位置づけた。この一方的な憲法修正は連邦憲法の規定から逸脱する違憲行為であったが、この憲法修正によって連邦政府はスロヴェニアを法的に統制する権限を実質的に剥奪されることになった。スロヴェニア政府は連邦から離脱する権限を法的に備えるとともに、独立宣言後の武力抗争に備えて武器を密輸し、スロヴェニア駐屯の連邦人民軍の武器庫や全人民防衛体制によって配備された武器庫からも手に入れるという周到さを示した。

スロヴェニアがユーゴスラヴィア連邦解体の端緒をつけた

90年1月、ユーゴ連邦共産主義者同盟第14回臨時大会で、クチャンらスロヴェニア幹部会員はユーゴ連邦を解体して連合

国家とすることを強硬に主張し、それが受け入れられないとなると会場から退席した。このクチャンらスロヴェニア幹部会員の退場によって、ユーゴ連邦共産主義者同盟は事実上瓦解した。次いで、3月には国名から社会主義を削除し、「スロヴェニア共和国」と改称した。90年4月に行なわれたスロヴェニア議会選挙で、クチャンが党首を努めるスロヴェニア民主同盟を中核とした政党連合・DEMOSは214議席中124議席を獲得し、共産主義者同盟系の政党を圧倒する。この議会で、クチャンは初代大統領に選出される。クチャンは大統領に選出されると、強化した「スロヴェニア領土防衛隊」を共和国軍と位置づけて閲兵式まで行なった。

90年12月には連邦政府が反対する中、独立の是非を問う住民投票を強行し、投票率89%、独立賛成88%の結果を得た。

91年6月25日、住民投票による圧倒的な賛成を背景に、スロヴェニアはクロアチアとともにユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。独立宣言とともにスロヴェニア政府は、連邦政府所管の国境地帯の管理所や関税事務所を接収するためにスロヴェニア領土防衛隊を差し向け、国境の事務所などを襲撃する。スロヴェニア防衛隊は、警備していた連邦軍兵士を銃撃して射殺するなどの強硬措置で連邦政府の施設を占拠した。予期していなかった連邦軍の国境警備隊は、何が起こったのか理解出来ぬままに白旗を揚げた。スロヴェニアのみか西側諸国のTVメディアは、連邦軍兵士が白旗を揚げて歩くシーンを何のコメントも付けずに繰り返し流し、あたかも連邦軍がスロヴェニア領土防衛隊の兵士を攻撃したものと印象づける作為的な報道をした。

クロアチア人のマルコヴィチ連邦首相が独自の判断で連邦軍を派遣

当時のクロアチア人のアンテ・マルコヴィチ・ユーゴ連邦首相は、スロヴェニアの強硬策の連絡を受けると、連邦幹部会に諮

ることなく連邦人民軍に対してスロヴェニア領土防衛隊に占拠された連邦政府所管の施設を確保せよとの指示を出した。出動した

連邦人民軍の兵士は、30数ヵ所の施設を収容する必要があったにもかかわらず僅か2000人程度にすぎなかった。これを

迎撃したスロヴェニア郷土防衛隊は、3万5000人の兵員を動員するという本格的な戦闘態勢を整えていた。連邦人民軍は、ユーゴスラヴィア連邦の統一を維持するという使命感はあったものの戦力の差が圧倒的であり、また戦闘の意味をよく理解していなかったために戦意に乏しかった。これに対するスロヴェニア領土防衛隊は、独立を戦いとるのだとの意欲に燃えており、この著しい戦力と戦意の差が戦闘の帰趨を決めた。赤十字国際委員会・ICRCの報告によると、この「10日間戦争」といわれる戦闘でのユーゴ連邦人民軍兵士の死者は39名、スロヴェニア領土防衛隊の死者は4名、警官隊4名と犠牲者に極端な差が出ているが、これは戦力と戦意の差がもたらしたものである。

スロヴェニアの功利的な独立がボスニアの内戦を誘発した

ECは、両国の拙速な独立宣言によるユーゴ連邦人民軍との紛争が起こると、ユーゴ連邦政府に多くの責任を帰しつつ戦

闘停止の仲介に乗り出した。ECの停戦仲介を受けて連邦人民軍とスロヴェニアおよびクロアチア政府は3ヵ月間の独立移行への凍結と停戦に合意し、連邦人民軍はスロヴェニアから撤収する。ECが、スロヴェニアとクロアチアに独立移行の3ヵ月間凍結を受容させたのは、その間に政治的解決を模索する意図が含まれていたと考えられるが、ドイツ政府とバチカン市国は単なる鎮静期間程度としか捉えなかった。

ドイツとバチカン市国の功利的対応がユーゴ内戦を悲惨なものにした

バチカン市国のソダノ枢機卿は91年11月にアメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オーストリアの大使を集めて1ヵ月以内に両国の独立を承認するように働きかけた。コール・ドイツ首相は11月に開かれた連邦議会において、独立承認が唯一

武力衝突を回避する手段だと主張して周辺諸国に独立承認を働きかけるとともに、単独で91年12月23日に両共和国の独立

を承認してしまう。これを追ってバチカン市国は翌92年1月13日に独立を承認する。この強引なドイツとバチカン市国に引き

ずり込まれるようにしてECおよび周辺諸国は、1月15日にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認した。このドイツとバチカン

市国の対応が、クロアチアとボスニアに悲惨な内戦を誘発することになるが、紛争の火種を撒いた責任の一端はスロヴェニア

にある。しかし、スロヴェニアの対応が批判されることはなかった。

スロヴェニアはNATOとEUに旧ユーゴ連邦の中で優先的に加盟

欧米諸国が92年に独立を承認した後、スロヴェニア共和国の政府収入は30%ほど減少した。原因は、スロヴェニアが旧ユースラヴィア連邦内で最も工業化が進んでいたにしても、その販路のかなりの割合はユーゴスラヴィア連邦全体との結び付きの中で処理されて豊かさを形成していたものであり、西側諸国の製品に比べるとその工業製品は必ずしも水準を満たすものではなかったからである。しかし、次第に経済は安定成長を見せるようになり、2004年3月にはNATOの東方拡大政策によって加盟が認められ、同年5月にはEUにも加盟した。そして、2007年には「ユーロ」を通貨として導入する。08年にはEUの議長国を務めるなど西側諸国の一員として、コソヴォ自治州の独立問題を推進する役割を与えられもした。

功利的立ち回りをしたスロヴェニアの民族主義者クチャン

スロヴェニアがユーゴ連邦からの分離独立を強行した理由として、コソヴォ自治州の自治権縮小を図ったミロシェヴィチに代表される「大セルビア主義」への警戒があったとする説がある。しかし、先進工業地域としてのスロヴェニアが得た利益をコソヴォやマケドニアなどに再配分することに大いなる不満をぶつけていた利己心を考慮すると、スロヴェニアがコソヴォ自治州のアルバニア系住民の人権に関心を抱いていたとは考え難い。しかも、89年初頭から進めた手際の良い分離独立への諸策を見ると、大セルビア主義への警戒心は独立を強行するための口実にすぎないと見るべきだろう。クチャンらが民族主義的利己心の充足を意図していたところにバチカン市国やドイツなどの外部の働きかけがあり、それを利用したのがユーゴ連邦解体戦争におけるスロヴェニアの民族的功利性の発露というべきものであった。600年におよぶ支配者だった西側への憧憬も影響を与えた可能性は否定できない。スロヴェニアは、同じ南スラヴ族でありながらバルカン諸国地域に含まれることに忌避感を抱いているところにそれが表されている。

2012年、スロヴェニアはクロアチアのEU加盟問題を阻止した。その裏には、アドリア海に面する港湾の地先の領有の問題

が絡んでいた。その交渉を有利にするすめるために、政治的駆け引きを行なったのである。そのこともあってクロアチアはEU

に加盟することは1年遅れ、2013年にようやく加盟を達成することになった。これが、スロヴェニアとクロアチアが同日に独立宣言をした協調路線の結末である。

スロヴェニアはアフガニスタン戦争にNATOの一員として軍隊を送り込む

スロヴェニアはNATOやEU加盟に優先的な取り扱いを受けたことに応えるためか、2001年に始められた米英およびNATOによるアフガニスタン戦争においてNATO指揮下のISAFの一員として積極的に軍隊を送り込んでいる。同じ国家を形成していた旧―ユーゴ連邦からの分離独立を図ったとき、軍管区体制で駐留していたユーゴ連邦人民軍を侵略軍として非難を浴びせた過去を持ちながら、最貧国のアフガニスタンに軍事侵攻して破壊と殺戮に加担することに躊躇いを抱くことはなかったのだろうか。NATOが外交よりも軍事力行使を優先する機構であることが影響を与えていたのであろう。また、アフガニスタン戦争を開始するにあたり、ブッシュ米大統領が「敵か味方か」の立場を鮮明にするように求めたことに従ったともいえる。

<参照;クチャン、クロアチア、ユーゴスラヴィア連邦>☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11,「クロアチア」

面積は5万6538平方キロ。首都はザグレブ市。クロアチアの地域名は「山の民」の意である。

人口は、91年の国勢調査では460万人。クロアチア人は78.1%・359万2000人、セルビア人は12.2%・56万1000人、ユーゴスラヴィア人2.2%・10万1000人、その他7.5%・34万5000人である。クロアチア共和国は、ハンガリー、スロヴェニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナと境界を接しており、西側は長い海岸線によってアドリア海に面している。スロヴェニアと続く南西部はカルスト台地を形成し、海岸線は複雑に入り組んでおり風光明媚である。

6~7世紀に南下した南スラヴ・クロアチア諸部族はクロアチアの地に定着し、セルビア人は東側に定住した。クロアチアは、バルカン地域を支配していたローマ帝国の文明に接してその恩恵を受ける。その後、クロアチア人は暫くフランク王国の支配を受けるが、着々とその支配領域を広げ、924年にフランク王国の支配を脱し、ドリナ川の北とドラヴァ川の西を境界としてクロアチア王国を建国する。キリスト教の西方教会と東方教会が1054年に最終的に分裂した際には、クロアチアはハンガリー王国の影響下にあったことから、西方教会側に残留した。12世紀に入ると、ハンガリー王国はクロアチアとダルマツィアおよびボスニアとセルビアをも支配下に置き、国家としてのクロアチアは一時的に消滅する。

オーストリア・ハプスブルグ帝国に600年間支配されたクロアチア

14世紀、ダルマツィア地方の沿岸部はヴェネツィアに支配されて地中海文明の影響を受けたが、中央部はハプスブルグ帝国に支配された。この帝国の支配時期にスロヴェニアと同様西欧文化が深く浸透し、カトリックへの帰依を強めた。しかし、ビザンツ帝国が1453年にオスマン帝国に滅ぼされ、クロアチアも一時期支配される。1529年にウィーンがオスマン帝国軍に包囲されたことから、ハプスブルグ帝国はオスマン帝国の北進に備え、クロアチアとボスニアの境界地域の軍事化を進め始める。西部のダルマツィア地方の一部、クライナ地方、東部のスラヴォニア地方を含めて軍政国境地帯として18世紀までに制度化し、主としてドイツ人、およびセルビア人とクロアチア人の武装集団をバルカン版屯田兵として移住させた。これが、クライナ地方(辺境)の地名の始まりである。このハプスブルグ帝国の対策が、クロアチアとボスニアのクライナ地方に多数のセルビア人が居住することになった主な要因である。

クロアチア人を覚醒させたナポレオン

クロアチアの転機は、1805年のナポレオンの東方支配によってもたらされた。ナポレオンはハプスブルグ帝国から奪ったクロアチアを「イリュリア諸州」として統治した。間もなくナポレオンはハプスブルク帝国に敗北して撤退するが、この僅か8年の支配の間にクロアチア人は民族意識を再び覚醒させた。イリュリア主義が生まれ、クロアチア語による新聞を発行、義務教育の導入、科学芸術アカデミーの設立、クロアチア語による文学の著作などその影響は広範囲に及んだ。

1912年にセルビア王国とモンテ・ネグロ王国とブルガリア帝国およびギリシア王国が「バルカン同盟」を結び、オスマン帝国に支配されているマケドニア、コソヴォ、トラキアを奪還するために第1次バルカン戦争を仕掛けて勝利する。しかし、マケドニアをセルビアとギリシアが分割領有したことに不満を抱いたブルガリアがマケドニアを確保するべく攻撃を開始したために第2次バルカン戦争が起こる。ブルガリアが起こした第2次バルカン戦争は、セルビアとギリシアのみかモンテ・ネグロ、ルーマニアやオスマン帝国までが対ブルガリアとして参戦したため、ブルガリアは敗退した。

一方、スラヴ民族国家のスロヴェニアとクロアチアおよびボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に置かれたままであったため、第1次大戦を誘発することになる。

第1次大戦後にクロアチアはハプスブルク帝国の支配を脱する

1914年6月28日、ハプスブルク帝国のフェルディナンド皇太子がボスニアのサラエヴォで行なわれた軍事演習を観閲に訪れた際、「青年ボスニア運動」のセルビア人青年が暗殺するという「サラエヴォ事件」が起こされた。戦乱を回避する為にロシアが仲介に入るが、ハプスブルク帝国およびドイツ帝国は同盟関係を確認すると7月28日にセルビアに宣戦を布告する。これに対し、露・仏・英の三国協商がセルビア側に加担したことから第1次大戦が始まることになる。

バルカン諸国は入り乱れて同盟国と協商側に分かれて参戦するが、それぞれが領土的野心を抱いていた。また、三国協商側がセルビア側に立って参戦した背景には、第1次および第2次バルカン戦争で衰退したオスマン帝国を解体し、その領土を分割占領するという領域拡張の意図が隠されていた。それは大戦中にロ・仏・英の協商側が密かにサイクス・ピコ協定を結び、アラブを植民地化することを企図していたことに表れている。さらに英国は、植民地後進国としてのドイツが権益を拡張しようとしていたことを阻止するとの思惑も抱いていた。

クロアチアはこのときスロヴェニアとボスニア・ヘルツェゴヴィナとともにハプスブルク帝国の支配下にあったためにハプスブルク帝国軍の部隊としての兵士が徴募され、同じスラヴ民族国家と戦うことになった。しかし、クロアチア内部にはユーゴスラヴィア委員会を結成するなどでハプスブルク帝国の支配から脱する方策を模索する動きもあった。

第1次大戦はヨーロッパの大半を巻き込んで、いつ終息するか見通しも立たないままだらだらと続けられた。1917年4月に米国が参戦するに及び、大戦の雰囲気がかわる。ドイツ国内では厭戦気分が蔓延して革命も起こった。居場所を失ったヴィルヘルム・ドイツ皇帝が2018年11月にオランダに逃亡したことにともなって、オーストリア・ハンガリー帝国の同盟側の戦線が崩壊して終結する。その結果、同盟国を形成したハプスブルク帝国、ドイツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国では革命が勃発するなどで、ヨーロッパにおいて大英帝国を除いて帝国との称名は消滅した。

クロアチアのファッシスト・グループ「ウスタシャ」がユーゴスラヴィア国王を暗殺

第1次大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人民族会議」が結成され、各民族がそれぞれの建国を協議するが、列強の思惑はそれを許さず、これに乗じたセルビアのアレクサンダル・カラジョルジェヴィチの軍がこれを潰し、1918年2月に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」を樹立し、摂政に就いた。1921年に国王となったアレクサンダルは、次第に中央統制を強め、これにクロアチア農民党が反発するとこれを弾圧して潰した。29年に「ユーゴスラヴィア王国」と改称したアレクサンダルは憲法を廃止し、独裁体制を敷く。

これに反発したクロアチア権利党の党員だったアンテ・パヴェリチは、イタリアに亡命。30年にファッシスト・グループ「ウスタシャ」を結成してテロリズムによってユーゴスラヴィア王国を打倒してクロアチアの独立を獲得すると宣言する。そして1934年、アレクサンダル国王が訪仏した際、ウスタシャの一員であるマケドニア人がマルセイユでアレクサンダル国王とバルトゥ・フランス外相を暗殺する。フランス政府はアンテ・パヴェリチに死刑の判決を下してイタリアに身柄引き渡しを要求したが、ムッソリーニ率いるファシスト政権のイタリアはこれを拒否した。

ナチス・ドイツが台頭し国際機関から離脱する

この間ドイツではヒトラーが率いるナチスが台頭し、1933年に政権を掌握すると第三帝国の樹立を宣言する。そして、すぐさま全権委任法を制定して憲法を無効化した。さらに国際連盟とジュネーブ条約から脱退した。1937年にイタリアと防共協定を締結。1938年3月にオーストリアに進駐して合邦化。9月には英・仏・伊・独の4ヵ国によるミュンヘン会談を開かせてチェコスロヴァキアにズデーテン地方の割譲を認めさせた。翌39年3月にはチェコスロヴァキア国家そのものを占領してしまう。

そして、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結して密約を交わすと、ナチス・ドイツ軍は9月1日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦を開始した。9月3日に英・仏はナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して宣戦を布告するが有効な対処ができなかった。ソ連はナチス・ドイツのポーランド侵攻に呼応する形でポーランドの東部に侵攻。ナチス・ドイツはポーランドのワルシャワを制圧すると、一転して40年4月には西ヨーロッパの国々の攻略に乗り出し、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻して占領する。宣戦布告に伴って大陸に派遣していた英国軍はフランス領ダンケルクに追いつめられ、5月に35万の部隊を撤退させられた。ナチス・ドイツは英国軍を大陸から追い落とすとフランス本国の占領に向けて要塞のマジノ線を迂回する形で防御を突破し、6月にはパリに入場して勝利を宣言した。この結果ナチス・ドイツはスペインとポルトガルを除き、西ヨーロッパのほとんどを支配下に置くことになった。さらに、ナチス・ドイツは英本国への侵攻を企て「海獅子作戦」を発動するが、英国の巧みな防御によって断念させられた。そこで、ヒトラーはソ連を植民地化してその物量をもって再度英本土上陸作戦実施することへと転換し、ソ連への侵攻計画の立案を命じた。

対ソ戦「バルバロッサ作戦」の発動を企図したナチス・ドイツはユーゴスラヴィアとギリシアを制圧  

ナチス・ドイツにとって独ソ不可侵条約は便宜的なもので、条約を守ろうという意識は端からなかった。日本、イタリア、ハンガリーなどと防共協定を結んでいたところにそれが見られる。そのため、40年7月ころから密かに対ソ戦の計画を練っていたという。対ソ侵攻作戦を実行するためには、軍需物資の調達地域を拡大する必要および後背地の安定を確保するためには、バルカン半島の中でいまだに従属していないユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を同盟国側に引き込むべく圧力をかけた。ギリシア王国には英国から海上を通じた支援の手が伸びており、同盟に加盟することは望めなかった。そこで、ナチス・ドイツはギリシア侵攻計画の「マリタ作戦」を立案する。

一方でユーゴスラヴィア王国は威しと甘言に屈し、41年3月に同盟国側に加盟することを受諾した。すると、第1次大戦で

敵国として戦ったドイツとの同盟関係を拒否した市民と軍部が連携してクーデターを起こす。狼狽したユーゴ王国政府はナ

チス・ドイツとの条約は有効だと弁明するが、ナチス・ドイツ同盟軍はこれを許さず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴ王国へ

拡張適用し、4月6日に作戦を発動して全土を分割占領した。ユーゴ王国政府はユーゴを脱出してロンドンに亡命政府を設

置する。

ナチス・ドイツの対ソ「バルバロッサ作戦」は成功するように見えたが

ユーゴスラヴィアとギリシアを抑えたナチス・ドイツは41年6月22日、満を期して対ソ戦「バルバロッサ作戦」を発動し、ナチス・ドイツ軍300万と同盟軍250万を含む550万の兵力を動員してソ連領に侵攻した。

ソ連のスターリンは猜疑心の強い人物で、自らの地位を脅かしかねない膨大な者たちを処刑するかシベリアに流刑者として送っていた。その中には2万人に及ぶ将校などが含まれていたため、前線の指揮能力は弱体化していた。その上、前線の司令官たちに、ドイツ軍を刺激するなとの指示が出されていたため、司令官たちは臨戦態勢をとれないでいた。このような事情下にあった前線は不意を突かれた形となってソ連赤軍は大混乱に陥った。そして、9月にはウクライナのキエフが陥落し、レニングラードが包囲された。10月にはモスクワ近郊にナチス・・ドイツ軍が迫り、ソ連は主要な機関を後方に移すまでに追いつめられた。

しかし、駐日ドイツ大使館の要員にもなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが、日本は南方を目指しており、シベリアに出兵することはないとの情報を送信したことを受け取ったことで、ソ連軍は精鋭のシベリア派遣軍を呼び戻す。さらに、10月には米国との間に武器貸与協定を結び、支援物資を受けられることになったソ連赤軍は12月からナチス・ドイツ軍への反撃に転じることになる。

ウスタシャはナチス・ドイツ同盟軍の侵攻を歓迎して「クロアチア独立国」を設立

クロアチアのファシスト・グループ・ウスタシャはナチス・ドイツ軍のユーゴ王国への侵攻を歓迎し、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチを首班とするナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国・NDH」の建国を宣言した。アンテ・パヴェリチはヒトラーに倣って総統を僭称してクロアチア領土防衛隊を編成し、またウスタシャの民兵組織をも設立した。そしてクロアチア独立国はナチス・ドイツの同盟側に加わり、ソ連に宣戦布告をする。

クロアチア独立国・NDHの領域は、クロアチアとスロヴェニアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含み、人口は650万人に及んだ。人口構成は、クロアチア人が52%・340万人、セルビア人が29%・190万人、ムスリム人が11%・70万人、ドイツ人が15万人、ユダヤ人が2万人であった。パヴェリチのウスタシャ政権は、クロアチア人による純粋な国家の建設を目標とし、その最大の敵を正教徒のセルビア人と位置づけた。そして、強制収容所を支配地の各所に建設し、徹底的な弾圧政策を実行した。その内の最も大規模な収容所がヤセノヴァッツ収容所群とゴスピッチ収容所群である。

クロアチア独立国のウスタシャ政権は第2次大戦中にセルビア人など少数民族を虐殺

ウスタシャ政権の人種問題担当ミレ・ブグダ教育大臣は収容所において、クロアチア独立国の支配地域に居住していた190万人の「セルビア人の3分の1をカトリックに改宗させ、3分の1を追放し、3分の1を抹殺する」と表明し、実行した。ウスタシャ政権はさらに、ナチス・ドイツのユダヤ人への「最終解決」にも協力して収容所に移送して殺害した。さらにロマ人および反ファシストのクロアチア人をも拘引して収容した。ウスタシャの純化政策による犠牲者数は50万人ないし60万人といわれる。ヤセノヴァッツ収容所群では、少数民族は虐待され、斧で殴り殺され、射殺されるなど言語に絶する殺害のされ方をした。そのあまりの残虐さに、ナチス・ドイツ親衛隊・SSの高官は占領政策に波及することを危惧して直接抗議するとともに、ヒトラーに対して野蛮な行為を止めさせる指示を出すよう要請したほどであった。

クロアチア人のほとんどはカトリック教会に属しているが、ザグレブのステピナッツ大司教はウスタシャの残虐な行為に対して抗議することはあったものの、ほとんどの政策には公然と支持を与えていた。そのためカトリックの神父や司祭たちは、ウスタシャによるセルビア人虐殺やユダヤ人迫害に積極的に協力した。

ウスタシャとチェトニクおよびナチス・ドイツ同盟軍に対するパルチザンとの戦いは熾烈を極める

他方、ユーゴスラヴィア王国内にはナチス・ドイツ同盟軍との抵抗組織として共産党が主導する「パルチザン」が各地に結成されるが、王国軍の残党を中心としたセルビア人を主体とした軍事組織「チェトニク」も設立された。チェトニクは当初、ナチス・ドイツ同盟軍に対する抵抗闘争を行なうと表明したものの、ナチス・ドイツに「ドイツ兵人1人を負傷させれば50人を殺す、1人を殺せば100人を殺す」と脅されるとたちまち屈してユーゴスラヴィア内部の支配領域争いに転じた。

チェトニクはユーゴスラヴィア王国の再建を目指していたこともあり、クロアチア独立国のウスタシャとの領域争いは激烈を極めた。このことが、後のユーゴスラヴィア解体戦争においてクロアチアをウスタシャと蔑称し、セルビアをチェトニクとして民族主義を煽る象徴として相互に非難しあうプロパガンダに利用されることになる。パルチザンは多民族で構成されていたこともあって民族主義とは無縁であったが、ナチス・ドイツ同盟軍への抵抗戦と同時に、民族主義者のウスタシャとチェトニクとの内戦も戦わなければならなくなった。

パルチザンはユーゴスラヴィアを解放しウスタシャは国外に逃亡してディアスポラとなる

ナチス・ドイツ同盟軍は、ユーゴスラヴィア戦線においてパルチザンに対して7次にわたる総攻撃を仕掛けたが壊滅させるどころか持て余していた。連合国側は当初、ロンドン亡命政府旗下のチェトニクを支援していたが、チェトニクがナチス・ドイツとの戦いを放棄して領域争いをしているのを知るにおよび見切りをつける。そして、1943年11月に開かれた米・英・ソの三国首脳によるテヘラン会談において、パルチザンがナチス・ドイツ軍をユーゴスラヴィアに膠着させている実績を認めて支援をすることを承認する。パルチザンは連合国側の物資支援を受けられるようになったことから、結成時には8万人に過ぎなかったが、兵員を増加させてナチス・ドイツ同盟軍との困難な戦いに耐え抜いた。そして、大戦終了時には「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」へと発展し、陣容は80万人に膨れ上がっていた。

ソ連政府は、連合国による西部戦線の構築を望んでいたことから連合国の意向に気を遣い、ユーゴスラヴィアのパルチザンが苦境に陥っていた際にもその支援に動くことはなかった。そればかりか、連合国の意向を慮って43年5月にコミンテルンを解散することまでした。ソ連がパルチザンの支援に加わったのは第2次大戦の帰趨が決定的になってからである。

43年1月にスターリングラードの攻防戦に勝利したソ連軍は、11月にはウクライナのキエフを奪還する。翌44年8月にはルーマニアおよびハンガリー、9月にはブルガリアを占領してバルカン地域に軍勢を進めた。

パルチザン率いるチトーは、大戦が開始された際にソ連がフィンランドに侵攻してその一部を占領したことに対してソ連指導部に不信を抱いていた。そのため、ソ連赤軍がユーゴスラヴィアの領域に入ることに条件を付けた。ナチス・ドイツ同盟軍を駆逐したのちには速やかに撤収するとの約定である。その条件の下にソ連赤軍はユーゴスラヴィアに入域し、44年10月に首都ベオグラードを奪還した。次いで、45年4月にはボスニアのサラエヴォ、5月にはクロアチアのザグレブに立てこもったクロアチア独立国軍を壊滅させた。

45年4月にソ連軍がベルリン攻撃に取りかかると、敗北を自覚したヒトラーは4月30日に自殺し、後継者のデーニッツが5月8日に降服文書に調印したことによって第2次大戦における欧州戦線は終結した。

クロアチアのディアスポラはユーゴ連邦へのテロ攻撃を繰り返す

クロアチア独立国を建国したウスタシャに属した者たちやナチス・ドイツに協力したクロアチア人の多くはユーゴスラヴィアから脱出し、ドイツやアメリカやカナダなどに渡ってディアスポラとなった。脱出したウスタシャの中の過激な者たちは1960年代から70年代にかけて、ユーゴ連邦の海外領事館や大使館、さらにユーゴ国内の鉄道駅や映画館および旅客機や列車になどに爆弾を仕掛けてユーゴ連邦に揺さぶりをかけた。

一方で、ドイツに逃亡した彼らの中にはドイツの敗戦後の混乱に乗じて政・財界や学界やジャーナリズムに入り込んで活躍したり、ナチス・ドイツ時代の諜報機関としての「ゲーレン機関」にも入り込んで情報工作に関与し、ドイツの外交政策を動かすほどの影響力を行使した者もいた。これらの者たちは、のちのユーゴ解体戦争でも民兵として戻り、またプロパガンダで効果的な働きをした。

逃亡し損なったウスタシャやナチス・ドイツ同盟軍に協力した者は厳しく処罰もされたが、ユーゴ連邦政権が樹立されたのちは、クロアチア人のチトーが過去の事件に対する封じ込め政策をとったことから、大戦中に起こされた問題が抑制されて各民族は次第に融和していった。

クロアチアは大戦後順調な発展を遂げると分離独立の民族主義者が蠢き出す

大戦終結直前の1945年3月に英国の仲介で亡命政府と人民戦線のAVNOJの連立政府が成立する。ところが、ペータル国王が連立政府の閣僚の任命に不満を抱き、国王側の閣僚を引き上げるという政治的駆け引きを行なう。この欧米諸国にも批判された国王の駆け引きは失敗に終わる。45年11月に行なわれた制憲議会選挙でAVNOJ側が圧倒的な勝利を獲得し、46年1月の制憲議会において王制の廃止が宣言され、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が建国されることになったからである。

このとき成立した憲法によって、クロアチアはユーゴ連邦人民共和国の一つに組み込まれる。クロアチアは既に工業化の基礎的な条件が整っていたこともあり、戦後は順調な経済発展を見せた。金属鉱業、造船業、化学工業、発電所の建設などで工業化が進み、工業生産はユーゴスラヴィア連邦6共和国全体の4分の1、造船は4分の3、化学工業は3分の1を占め、国民所得の3分の1を占めるようになった。また、アドリア海沿岸地域のダルマツィア地方は風光が明媚な上に、ローマ時代からの遺跡群やヴェネツィアに支配されていたドゥブロヴニクの建築群もあり、観光地としても繁盛した。クロアチアは、ユーゴ連邦の他の共和国に比較すると、やはり破壊を免れたスロヴェニアとともに裕福な地域を形成したのである。この経済的な優位性が、ユーゴスラヴィア南部の後進的な地域に対する再分配を搾取と捉える者が出てきて、のちの独立推進の動因の1つともなった。

工業化と観光で裕福となったクロアチアはユーゴ連邦からの離脱を図る

順調に見えたクロアチアの経済発展も、第4次中東戦争に端を発した73年および79年の二度のオイル・ショックの影響を受けて沈滞する。分権化が進んでいた各共和国や企業は、このときの外貨不足をそれぞれ西側諸国から恣意的な借款で切り抜けようとした。この恣意性が、ユーゴ連邦全体として膨大な負債を負うことになる。

1978年にブレジンスキー米大統領補佐官が「金融を含むあらゆる手段を使ってユーゴスラヴィア連邦を崩壊に導く」と公言したが、西側諸国は、この方針に沿ってユーゴ連邦の社会主義体制を転換させることを目標にした金融政策を採用した。このためユーゴ連邦は、80年代になると激しいイフレに見舞われることになる。

国際政治学者の定形衛は、クロアチアおよびコソヴォの紛争は、「ディアスポラ・在外居留同胞(仮称)」の関与がなければあのような紛争には至らなかった可能性が高い」と指摘する。クロアチア民族主義者のフラニョ・トゥジマンは、民族主義的言辞で度々有罪の判決を受けて懲役刑に服しながらその主義を貫き、世界のクロアチア人移民社会を訪問してクロアチア独立への意志を呼び覚ますとともに、民族主義政党設立への資金援助を求めた。1987年にはカナダのディアスポラに接触し、支援の幅を広げていく。ここで出会ったG・シュシャクがのちにクロアチア政府の国防相になり、ディアスポラを呼び集めることに尽力し、クロアチア・セルビア人勢力の追放作戦の指揮を執ることになる。さらに民族主義者のトゥジマンは、88年にドイツを密かに訪れてコール・ドイツ首相と会い、クロアチアのユーゴ連邦からの分離独立への支援を要請した。クロアチアをドイツ経済圏に取り込めると見做したコール・ドイツ首相は、トゥジマンに資金援助と武器の供給を約束する。

クロアチアはユーゴ連邦からの分離独立に向けて着々と準備した

ベルリンの壁が崩壊した直後の89年12月、トゥジマンは、クロアチア人のディアスポラなどからの資金援助を受けて「クロアチア民主同盟・HDZ」を創設して党首に就任した。そして、スロヴェニアに次いで複数政党制を導入する。同時にユーゴ連邦からの分離独立を模索するとともに、独立宣言後の戦闘に備えて密かに武器の購入を画策した。90年に入るとクロアチア政府は警察軍の武装を強化するために、半ば公然と大規模な武器の密輸を行ない始めた。1990年5月に議会選挙が行なわれ、議席数351のうちHDZが206議席を獲得してトゥジマンがクロアチア大統領に選出される。この議席数351のうち、ディアスラのために12議席の枠を予め設定するなどの細工を施していた。そして、純粋なクロアチア民族による建国が謳われ、公用文の文字はキリル文字を禁止し、ラテン文字のみの使用とした。国旗は第2次大戦時の「クロアチア独立国」時の赤白の盾形紋をアレンジしたものが採用された。

このころから、クロアチア共和国ではセルビア人への嫌がらせや、迫害が頻発し始める。民家への襲撃、放火、そして民間であるか公営であるかを問わず、セルビア人への指名解雇が行なわれた。警察は人員過剰などの理由をつけて、セルビア人警察官を解雇した。

ファッシズム・ウスタシャと同様純粋クロアチア人国家を目指したトゥジマン大統領

1990年7月、クロアチア共和国は新憲法を制定し、「クロアチアはクロアチア人その他の少数民族による民主的統一国家である」とする民族国家であることを濃厚に織り込んだ宣言を発した。そしてトゥジマン大統領は、コール・ドイツ大統領が約していたドイツの優秀な武器を積極的に導入する。武装を強化したクロアチアの部隊は、第5軍管区としてクロアチアに駐屯していたユーゴ連邦人民軍よりも部分的には優れた武器を備えるまでになる。

クロアチア共和国の分離独立の動きにクロアチア独立国の民族浄化を想起したクロアチアのセルビア人住民は、クロアチア政府の反対を押し切って自治区設立の住民投票を実施し、12月に「クライナ・セルビア人自治区」創設を宣言した。クライナ・セルビア人自治区は強硬派のバビッチが実権を掌握する一方、東部のスラヴォニアは穏健派のラシュコヴィチおよびハジッチが実権を握るという分裂が起こる。

1991年2月、クロアチア共和国議会はクロアチア共和国憲法に違反すると判断したユーゴ連邦憲法や法令について共和国では適用しないとする「施行法改正案」を採択した。次いで5月には、ユーゴ連邦を解消して国家連合とすることの是非を求める住民投票を実施し、セルビア人住民の多数が投票をボイコットする中、94.3%の賛成を得た。

同じ2月、クロアチアのカトリックの司教は世界のカトリック教会に、「セルビア正教会に支援されたベオグラードが支配するユーゴスラヴィア連邦は中央集権主義者であり、共産主義型の社会主義が維持されるように提唱し、西ヨーロッパの伝統を持つクロアチアとスロヴェニアの民主的伝統に断固として反対している」との回状を送付した。

チトーの民族融和政策は一握りの民族主義者によって踏みにじられる

独立騒ぎになるまでのクロアチア人の中には、ユーゴスラヴィア連邦の一員としてセルビア人ともスロヴェニア人とも融和して生活しており、湧き上がる民族主義を鎮静化しようとして行動を起こした人たちもいた。そのグループが反ナショナリズムのテレビ番組を制作して放送を試みたが、クロアチア政府は妨害電波を発信してそれを妨げ、反ナショナリズムの記事を載せたリベラルな週刊誌の販売も禁止した。

しかし、この段階までは、クロアチア政府とセルビア人自治区との間で話し合いが続けられており、迫害や暴力行為が散発していたものの、戦闘にまでは至らなかった。ところが、91年5月、ヴコヴァル近郊の民族混住地であるボロボ・セロにおいてクロアチアの警察官が銃を乱射しながら役場に掲げられていたセルビアの国旗を引きちぎるという事件が起こされた。このクロアチア警察官の乱入を指揮したのがディアスポラとしてクロアチアに呼び寄せられていたシュシャクであった。この事件を契機に一挙にクロアチア人とセルビア人との間で緊張が高まり、やがて内戦へと陥っていくことになる。シュシャクはこの事件の功績が認められて91年9月には国防相に昇格する。

クロアチアはスロヴェニアとともにユーゴ連邦からの分離独立を強行する

91年6月25日、トゥジマン・クロアチア大統領はスロヴェニアとともに独立宣言を発する。クロアチア東部に居住しているセルビア人住民はこの独立宣言に対抗し、同日に「スラヴォニア・バラニャ・西スレム・セルビア人自治区」の設立を宣言した。クロアチアにはクライナ地方とスラヴォニアに56万人のセルビア人が居住していたが、クロアチアが独立宣言を発したことで、クロアチア政府とセルビア人住民との対立は決定的となった。独立宣言後に、クロアチアにおける少数民族迫害は一層激しくなり、セルビア人を解雇し、露骨に村八分にし、地域によっては賃貸住宅からも閉め出し、住居が爆破されるという事件も頻発した。このことが、セルビア人住民の間に第2次大戦中のファシスト・グループ・ウスタシャ政権「クロアチア独立国」のセルビア人虐殺の悪夢を甦らせることにもなり、クロアチア・セルビア人勢力も自治区設立を宣言した地域では、クロアチア人住民の迫害と追放を行なうようになった。

武器の奪取を目的にユーゴ連邦人民軍を攻撃したクロアチア治安部隊

ECは91年7月、武力衝突を鎮静化させるために、スロヴェニアおよびクロアチアとユーゴ連邦政府間の休戦協定を仲介し、独立宣言の3ヵ月間凍結を内容とする「ブリオニ合意」を受諾させた。ECの思惑は、3ヵ月の独立宣言凍結の間にユーゴ連邦政府とクロアチア政府およびセルビア人住民との間の紛争への打開策を見出すことにあった。ECは91年9月3日に臨時外相会議を開き、EC・「旧ユーゴ和平会議」を設置して英元外相のキャリントンを議長に任命した。

一方、ユーゴ連邦人民軍は微妙な立場に置かれることになる。クロアチアには連邦人民軍の第5軍管区の司令部が置かれていたが、クロアチア政府はこれを侵略軍と決めつけ、武器を置いて撤収するよう迫ったからである。その上で、クロアチア内の連邦人民軍駐屯地の施設や兵営への水道や電気の供給を止めたばかりか、クロアチア民族防衛隊や警察部隊が周囲を包囲して銃撃を行ない、連邦人民軍の施設や兵営など20数ヵ所を占拠した。そのため、連邦人民軍参謀本部は、クロアチア民族防衛隊による連邦軍兵舎の包囲を排除するため、セルビアとボスニアの駐屯地から連邦人民軍の戦車をクロアチアに送り込む。このとき、通過地点となるクロアチア領内の民族混住地のヴコヴァルでクロアチア民族防衛隊が激しく抵抗したため、連邦人民軍も厳しく応戦することになり、ヴコヴァルは破壊された。

ドイツとバチカンによるクロアチアとスロヴェニアの分離独立工作が内戦をもたらす

ECのユーゴ和平会議の議長に任命されたキャリントン議長は精力的に動き、9月17日にはクロアチア共和国、セルビア共和国、ユーゴ連邦政府を呼び寄せて和平会議を開き、「即時停戦、武装勢力の解体、連邦人民軍の駐屯地への撤収」などの協定を締結させた。しかし、クロアチア政府はこれに従うつもりはなく、停戦協定締結3ヵ月後の10月には議会が独立宣言を満場一致で採択した。この動きに対抗してクロアチアのセルビア人勢力は、12月に「クライナ・セルビア人自治区」と「スラヴォニア・バラニャ・西スレム・セルビア人自治区」を統合した「クライナ・セルビア人共和国」の創設を宣言する。

ドイツのコール首相も事態を傍観するつもりはなく、「ドイツはスロヴェニア、クロアチア両国の独立がいつまでも延び延びにされないよう努めていく」と国会で演説し、バチカン市国とともにEC諸国にスロヴェニアとクロアチアの独立承認を強く迫った。そして91年12月23日、ドイツは単独でスロヴェニアとクロアチアの独立を承認してしまう。バチカン市国も他国に先駆けて翌92年1月13日に両国の独立を承認した。EC諸国もドイツとバチカンに引きずられる形で1月15日にスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立を承認する。このことがクロアチア共和国政府とクライナ・セルビア人共和国の交渉による解決を困難にし、対立を抜きがたいものにした。

国連決議を無視して軍事作戦を発動したクロアチア共和国政府軍

91年11月、デクエヤル国連事務総長は対立を緩和するためにヴァンス米元国務長官を特使に任命し、仲裁に当たらせた。ヴァンス特使は92年1月にクロアチア共和国軍とユーゴ連邦人民軍との間に停戦協定を成立させる。

国連安保理はクロアチアの停戦合意を担保するために、92年2月に国連保護軍・UNPROFORを紛争地に配備する決議743を採択して「国連安全地域・UNPA」を設定する。UNPROFORの進駐に伴い、連邦人民軍はクロアチアから完全に撤収する。クロアチア政府は連邦人民軍が撤収したことを奇貨とし、「クライナ・セルビア人共和国」は国内国だとして武力平定の態勢を取り、国連安全地域・UNPAであることなど委細構わず攻撃を繰り返すようになった。

そして、92年6月には「ミリフィツィ・プラトー作戦」を発動し、国連安全地域のダルマツィア地方のセルビア人住民居住地の南部を攻撃して制圧。93年1月には「マスレニツァ作戦」によって国連安全地域のセルビア人勢力支配地のザダル周辺を制圧。93年9月には「メダック・ポケット作戦」を発動し、やはり国連安全地域のゴスピッチ周辺を制圧した。しかし、国際社会はクロアチア政府軍の国連安保理決議違反行為に対して黙認した。

クリントン米政権はユーゴ内戦に直接介入する「新戦略」を立案する

当時のブッシュ大統領は、ユーゴ連邦の紛争には慎重な姿勢を示していた。それはクロアチアとスロヴェニアが独立を宣言した翌6月26日のコメントにそれが表されている。ブッシュ大統領は「必要なのは話し合いだ」とのべた。しかし、92年の大統領選に立候補した民主党のビル・クリントンは、このブッシュ政権のユーゴ問題への取り組みを批判してこれを政争の具としたのである。このころから、米政府のユーゴ問題への取り組みは強硬となっていく。

一方、ボスニア内戦は、ムスリム人勢力としてのボスニア政府とボスニア・セルビア人勢力との間だけで争わいたのではない。ムスリム人勢力とクロアチア人勢力との間でも領域争いを展開し、激しい戦火を交えていたのである。

クリントンは大統領選に勝利して93年1月に大統領に就任するが、この三つ巴の争いにしばし戸惑った。しかし、彼は単純なセルビア悪を前提とした考えを変えることはなかった。セルビア人勢力を征圧することによってユーゴ問題を解決できると捉え、「新戦略」を立案する。そして、第1段階としてトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、ボスニア・クロアチア勢力の強硬派マテ・ボバンを解任させる。

次いで第2段階として94年1月に、圧力を掛けてボスニア政府軍とクロアチア人勢力軍の戦闘停止に合意させる。第3段階として、94年2月末にクロアチア共和国のトゥジマン大統領とグラニッチ外相、ボスニア政府のシライジッチ首相、およびボスニアのクロアチア人勢力であるヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領の3者を米国に呼びつけ、「ワシントン協定」に合意させた。米政府は、この協定で2つのことが合意されたと発表した。1つは、敵対していたボスニアのクロアチア人勢力とムスリム人勢力としてのボスニア政府とが合邦して「ボスニア連邦」を設立すること。もう1つは、成立した「ボスニア連邦」と「クロアチア共和国」が将来連合国家を形成するための予備協定に合意したというものである。しかし、これは表向きの理由であり、「旧ユーゴ和平国際会議」が和平に尽力している傍らで米国が独自の仲介工作をしている不自然さから、国際社会の目を逸らすための術策だった。ワシントン協定における米政府の新戦略の目的は、クロアチア政府軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍によるセルビア人勢力征圧の統合共同作戦を実行させるところにあった。この共同作戦にはNATO軍の関与も含まれていた。

第4段階として、ワシントン協定に合意させた後の1年間はクロアチア共和国政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍およびボスニア政府軍の軍事訓練をCIAおよび米民間軍事会社・MPRI社に請負わせ、武器供給は武器禁輸決議による監視を緩めて密輸を促すとともに、密かに米軍の輸送機で輸送して備えさせた。

セルビア人勢力を掃討する準備を整えたものの、大規模な軍事行動を起こすには国連保護軍・UNPROFORの監視が障害になる。そこで、第5段階として、トゥジマン・クロアチア大統領に国連保護軍の駐留は和平に逆効果であるとして撤収を強硬に要求させた。異論は出されたものの国連安保理はクロアチア政府の要求に応え、95年3月にUNPROFORを3分割する決議981~983を採択する。この決議により、クロアチアには縮小した国連信頼回復活動・UNCROとして残留させ、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPが配置された。

「稲妻作戦」・「‘95夏作戦」・「嵐作戦」はNATO軍の作戦要領に基づく

それを待ちかねていたクロアチア政府は第6段階として95年5月に米民間軍事請負会社・MPRIの指導で精強となった

共和国軍に、セルビア人勢力の支配地区「西スラヴォニア」攻略の「稲妻作戦」を発動した。クロアチア共和国軍は、国連の

監視所を攻撃して撤収させた上で、クロアチアのセルビア人勢力の拠点の一つである「西スラヴォニア」を3日間で陥落させ

た。ボスニア政府軍はこの攻撃に合わせてボスニア南東部で陽動作戦を展開するとともにクロアチアとの国境地帯に軍隊を

移動し、ボスニアからクロアチアのスラヴォニアに至る幹線道路を抑えてセルビア人勢力の支援を断つ作戦を実行した。こ

の稲妻作戦に対し、英国とフランスはクロアチア政府に戦闘の停止を要請するが、NATO軍はクロアチア共和国軍の国連

保護軍への攻撃については何らの対応策もとっていない。

ところが、同じ時期ボスニア政府軍がセルビア人勢力軍に大攻勢をかけ、それに対抗するためにセルビア人勢力軍が国連保護軍に提出していた重砲を取り戻すと、NATO軍は協定違反であるとして期日までに返還することを命令する。そして、それに従わないとの理由をつけてサラエヴォとパレのセルビア人勢力軍を空爆した。次いで7月に、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍は「‘95夏作戦」と称する共同作戦を展開し、ボスニア西部の要衝グラモチュやリヴノを攻略し、クロアチアのセルビア人勢力が首都としていたクニンへと続く幹線道路を支配下に置いた。クロアチアのクライナ・セルビア人共和国の首都のクニンは、ボスニアのセルビア人勢力からの補給路が断たれると同時に包囲網を敷かれたかたちとなった。

クロアチア共和国在住のセルビア人追放作戦

そして第7段階として、8月4日にクロアチア政府軍は15万人を超える兵員を動員し、クライナからのセルビア人一掃を目的とした大規模な「嵐作戦」を敢行する。クロアチア共和国軍はこの嵐作戦で4つの方面軍を編制した。第1軍団がザグレブから南下してボスニア国境までを確保する。第2軍団がカルロヴァツからボスニア国境までを攻略する。第3軍団はダルマツィアからクライナ地方を攻略する。第4軍団はクライナ・セルビア人共和国の首都クニンを制圧するというものである。さらに、ボスニアのクロアチア人勢力のクロアチア防衛会議軍は南部からクニンに向けてセルビア人勢力の掃討に加わる。

ボスニア政府軍は、第4軍団が「‘95夏作戦」で確保した南部のリヴノとグラホヴォの幹線を抑え、ボスニアのセルビア人勢力軍がクロアチア・セルビア人勢力軍支援に向かうのを阻止する態勢をとる。第5軍団は拠点のビハチから出動してヴェリカ・クラドシャやグリナなどを陥落させ、ボスニアのセルビア人勢力との連携を断ち、クロアチアとの国境地帯に軍隊を進めてクライナ・セルビア人共和国軍を背後から攻撃するとともに、ボスニアのセルビア人勢力がクライナ・セルビア人共和国軍への支援に赴くのを阻止した。この一連の作戦に使用されたのはNATO軍の作戦要領であり、米軍高官が嵐作戦の最中に、クロアチア共和国のシュシャク国防相に電話をかけて作戦を指導もしていた。

マルカレ市場の爆発事件はNATO絡みの共同作戦の一環

これに対するクロアチア・セルビア人勢力軍は総勢6万人弱であり、しかも「稲妻作戦」で分断された東スラヴォニア地区

にも分散していたことから、クライナ地方における戦闘に参加できた兵員は3万人あまりにすぎなかった。セルビア人勢力の

兵力3万人余りでは、クロアチア共和国軍の15万人余の兵力とボスニア政府軍との共同作戦には抗するすべもなく、ほとんどの地域で抵抗することなく離散した。クロアチア共和国軍はセルビア人住民掃討の過程で、セルビア人住民の住居を砲撃し、放火して焼失させるなどの破壊行為を行ない、再びセルビア人が戻ってこられないようにするとともに、脱出する避難民の列の中に砲弾を撃ち込んで殺戮した。この一連の共同作戦で、クライナ・セルビア人共和国の住民20万人から25万人が脱出したと赤十字国際委員会・ICRCは発表している。

クロアチア共和国軍は「嵐作戦」でクライナ地方のセルビア人勢力を一掃すると、引き続き東スラヴォニアおよびスレムの

セルビア人居住地域の攻略に取りかかろうとしたが、国際社会から制止されて断念する。そこで方向を転換してボスニア領

に侵攻しボスニア政府軍との共同作戦としての「ミストラル作戦」を発動してボスニアのセルビア人勢力軍への攻撃に転換し

た。この作戦でクロアチア共和国軍は、ボスニアのセルビア人勢力が大統領府を置いているバニャ・ルカを陥落させるため

の攻勢を続行するなどで10月まで転戦することになる。

クロアチア共和国軍とボスニア政府軍の共同作戦に合わせるようにして、8月28日にサラエヴォ市のマルカレ市場において爆弾が爆発する事件が起こされた。NATO軍はボスニア・セルビア人勢力が砲撃したと即断し、待ちかねていたかのように1日余りのちの30日未明に「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動した。NATO空軍とNATO諸国主体の国連緊急対応部隊はボスニアのセルビア人勢力に対して空陸合わせた凄まじい砲撃と空爆を実行する。ボスニアのセルビア人勢力にはボスニアのクロアチア人勢力軍を含む5者に対抗するほどの軍事力はなかったため、次第に追いつめられていった。クロアチア共和国軍とボスニア政府軍および、NATO空軍と陸軍の緊急対応部隊がこれほどの連携を保って共同作戦を実行できたのは、「ワシントン協定」締結時の協議に基づいたからであり、米国政府の新戦略は見事なまでに成功を収めたのである。

クロアチアは純粋クロアチ人国家とすることをほぼ達成する

クロアチア共和国軍の嵐作戦で追放されたセルビア人住民20数万人は、セルビア、モンテ・ネグロ、ボスニア・ヘルツェ

ゴヴィナおよびコソヴォに逃れた。トゥジマン・クロアチア大統領は、初期の目的であるユーゴ連邦からの分離独立ならびに

クロアチア人のみのクロアチア国家とすることをほぼ達成した際、歓喜のポーズを取った。このポーズの映像はニュースでも

流されている。クロアチアの国連安保理決議違反の行動は、米国とNATO軍が関与していたことから、国際社会やメディア

から咎められることはなかった。NATO軍は世界の支配者としての軍事組織の位置を獲得したのである。

クロアチアの人口動態は、内戦が始まる前の91年の国勢調査では、人口460万人、クロアチア人78.1%、セルビア人1

.2%、その他9.7%であったが、内戦後の01年の調査による人口は17万人減少して443万人となり、クロアチア人が89.

6%、セルビア人は半数以下の4.5%に減少し、その他5.9%となった。クロアチア紛争を経た10年間で、クロア チア人の

人口比率が11.5%増大し、セルビア人が7.7%減少し、少数民族も3.8%減少したことになる。12%から4.5%に減少したセ

ルビア人の主な居住地は国連暫定統治機構・UNTAESが管轄することになったヴコヴァルを含む「東スラヴォニア」周辺

であり、クロアチア・クライナ地方には脱出できなかったセルビア人住民数千人が残留するのみである。なお、クロアチアの

人口は減少を続け、2020年の段階で410万人となっている。

内戦はクロアチアにも大きな被害を与えた

クロアチア共和国はユーゴ連邦からの分離独立戦争には勝利したものの、軍事費に多額の出費を余儀なくされたため、

国家財政を破綻させることにもなった。なにより精神的な荒廃が甚だしく、政府はまともな統治ができないほどに腐敗が蔓延

した。一部の者は時流に乗って高級車を乗り回す者も出たが、企業はまともに稼働せず、失業率は一時25%に及んだ。そ

して、旧ユーゴ連邦時代にはいなかったホームレスが1万人を超えるまでになっている。

クロアチアは武力闘争が一段落した後、EUに加盟を申請する。しかし、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYが、95年の稲妻作戦および嵐作戦でセルビア人住民に対する虐殺、追放、などの非人道的行為を行なったクロアチアのアンテ・ゴドビナ将軍およびイヴァン・チェルマク将軍を訴追していたにもかかわらず、クロアチア政府はそれに対して「祖国戦争」の英雄だとして引き渡すことを拒否したことから、加盟は見送られた。

クロアチアはアフガニスタン戦争に加担する

しかし、NATOは東方拡大政策によって2009年に加盟を認める。すると、クロアチア政府は2001年に始められたアフガニスタン戦争におけるNATO指揮下のISAFに軍隊を派遣し、破壊と殺戮に加担した。このことは、NATOが武力行使偏重の組織であることをよく表している。

旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの偏頗性

旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYはクロアチア共和国軍に敗退したクライナ・セルビア人共和国の政治家ミラン・バビッチや

ゴラン・ハジッチを訴追し、バビッチは懲役13年の判決が言い渡されたが、2006年3月に不審な獄死をしている。

またICTYは、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を起訴して獄死させたものの、もう一方の当事者であるトゥジマン・クロアチア大

統領およびイゼトベゴヴィチ・ボスニア政府大統領については調査もしていない。さらに、ボロボ・セロ事件を引き起こしてク

ロアチア内戦へと誘導し、クロアチア在住のセルビア人に対して残虐の限りを尽くして追放したクロアチアのディアスポラで

あるシュシャク・クロアチア国防相を訴追することもなかった。

スロヴェニアはクロアチアのEU加盟を阻む

内戦後のクロアチアとしては、内戦による経済的損害を立て直すために、EUに加盟することを急いでいた。しかし、スロヴ

ェニアがアドリア海に面する港の地先の領有権を争点としてクロアチアのEU加盟を阻んだため、2012年の1年間は放置されることになった。ともあれ、EU諸国の仲介によって翌2013年にはEU加盟を果たし、クロアチアは28ヵ国目のEU加盟国となる。

内戦を直接経験したことはないが、クロアチア政府とセルビア政府の関係はその後もぎくしゃくしたものとなった。しかし30年

近くを経た2020年の時点において、クロアチア人とセルビア人の個の関係では徐々に融和しつつあるように見える。

<参照;トゥジマン、パヴェリチ、バルカン地域、ユーゴスラヴィア王国>     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

12,「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」

面積は5万1000平方キロ。北部をボスニア、南部をヘルツェゴヴィナと称し、通常ボスニアで総称する。首都はサラエヴォ市。人口は91年の国勢調査で436万人。ムスリム人43.7%・190万人、セルビア人31.4%・137万人、クロアチア人17.3%・75万人、ユーゴスラビア人5%・22万人、その他2.6%・9万人である。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、クロアチア、セルビア、モンテ・ネグロと境界を接しており、僅かにアドリア海に出る狭い回廊を有している。

6世紀末ごろから、ボスニアにも南スラヴ民族が定住し始める。ボスニアは山岳地帯が優勢なために、統一国家はなかなか形成されなかった。その間、ビザンツ帝国やブルガリア帝国、クロアチア王国に支配され、12世紀にはハンガリーに併合された。ハンガリーは実質的な統治を行なわなかったために、ボスニアの有力貴族が首長を僭称して統治していた。

14世紀後半にボスニア王国はトブルトコⅠ世が豊富な鉱物資源の富を財源として領土を拡張し、セルビア、ダルマツィアなどの一部を領有して1377年に王国を建国した。1390年にはクロアチアの一部の領有を宣言して絶頂期を迎える。しかし、翌年トブルトコⅠ世が死去すると王国は勢いを失い、北部は再びハンガリーに支配されることになる。当時のボスニアの宗教事情はキリスト教が主流だが、カトリック、東方正教、ボスニア教会と3つに分かれていた。

オスマン帝国支配下でボスニアにイスラム教が浸透する

この間オスマン帝国はバルカン諸国に北侵し始めており、1389年6月にコソヴォ・メトヒヤの戦いではキリスト教徒諸侯を率いたセルビア軍を撃破した。続いて1463年にボスニアを支配し、1483年にはヘルツェゴヴィナに侵攻してボスニア全域を征服する。さらに1499年、オスマン帝国はモンテ・ネグロをも支配下においた。オスマン帝国はさらに北進を続け、1529年には第1次ウィーン包囲を行ない、1683年には20万の大軍で第2次ウィーン包囲が行なった。この第2次ウィーン包囲は、ポーランド軍の奇襲によってオスマン帝国軍が手痛い打撃を受けて撤退した。しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配は続けられた。この第2次ウィーン包囲戦に敗れたオスマン帝国軍が大量のコーヒー豆を残したことで、ウィーンにカフェ文化が生まれる。

オスマン帝国支配下のボスニアでは、キリスト教徒とユダヤ教徒は「啓典の民」として寛大に扱われ、イスラム教への改宗を強制するようなことは行なわれなかった。とはいえ、オスマン帝国は行政官や軍人は他の帝国領などからイスラム教徒を送り込み、それにともなって移住してきたイスラム教徒たちが支配階級を形成する。彼らは地主となり、カトリック教徒や東方正教徒の多くは小作人にされた。やむなくボスニア人たちは、支配階級に入り込むために徐々にイスラム教に改宗して行き、やがて一般住民もイスラム教徒に改宗していくようになる。当時は、キリスト教からイスラム教に改宗することも、その逆もさほどの拘りはなかったからである。このようにして、オスマン帝国のバルカン支配はおよそ400年間続けられた。

露土戦争をきっかけにモンテ・ネグロ、セルビア、ルーマニアの独立が認められる

しかし、1848年のフランス、オーストリアおよびドイツで起こった革命は、東欧やバルカン諸国にナショナリズムを覚醒させるという影響を与える。

1875年、オスマン帝国が租税を高騰させたことに不満を抱いたボスニア・ヘルツェゴヴィナの農民が蜂起した。これが周辺国にも波及し、セルビア公国とモンテ・ネグロ公国がオスマン帝国に宣戦を布告。次いでブルガリアの農民も蜂起する。オスマン帝国は騒乱の鎮圧には成功するが、国力を消尽するという負の事態を招くことになった。

機会を窺っていたロシア帝国は、1877年4月にオスマン帝国に宣戦布告をしたことで露土戦争が勃発した。オスマン帝国は頑強に抵抗するが、やがて戦況は一転してロシア帝国軍が圧倒することになり、コンスタンチノーブル近郊にまで迫るほどに侵攻した。ここに至りオスマン帝国が講和を申し出たことによって停戦が成立する。1878年2月に結ばれたサン・ステファノ条約で、オスマン帝国はロシア帝国にベッサラビアと小アジア東部を割譲させられ、モンテ・ネグロ、セルビア、ルーマニアの独立の承認とボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与とマケドニアを含むブルガリア公国の設立を認めさせられた。

ここで列強のハプスブルク帝国とイギリス、およびドイツが介入し、ベルリン講和会議が開かれることになる。ベルリン条約ではブルガリアが3分割され、マケドニアはオスマン帝国に戻され、イギリスはキプロス島を獲得し、ハプスブルク帝国はスロヴェニアとクロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴヴィナを支配下に置くことが認められた。しかし、このハプスブルク帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ支配には激しい反乱を招くことになる。この反乱は、ハプスブルク帝国が大軍を派遣して鎮圧したことで失敗に終わった。鎮圧に成功したハプスブルク帝国は、1908年にボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合してしまう。

このハプスブルク帝国の強硬手段がナショナリズムに火をつけるきっかけを与え、第1次大戦の遠因となる。ボスニアにハプスブルク帝国を打倒する「ボスニア青年運動」やセルビア人将校などによる「黒手組」などの秘密結社が数多結成されることになったからである。

ハプスブルク帝国のボスニア併合は、列強にも影響を与えた。ロシア帝国は、ハプスブルク帝国の拡張政策を牽制するためにバルカン諸国に同盟の結成を働きかけた。バルカン諸国はこれに応え、1912年3月にセルビアとブルガリアが同盟条約を結び、5月にはギリシアとブルガリアが同盟し、8月にはモンテ・ネグロとブルガリアが条約を取り決め、9月にはモンテ・ネグロとセルビアが同盟条約を締結するという4ヵ国が交差する形での「バルカン同盟が」成立した。このバルカン諸国の同盟は、成立していく過程でロシアの思惑とは異なり、オスマン帝国が支配するバルカン地域を奪還するためのバルカン同盟へと変貌して行く。12年9月27日に同盟が完成すると、10月8日には、モンテ・ネグロ王国がオスマン帝国に宣戦を布告するという慌ただしい形で第1次バルカン戦争は開始された。モンテ・ネグロに続いてセルビア、ブルガリア、ギリシアが参戦し、マケドニア、アルバニア、トラキアの奪還が掲げられた。

不意を突かれたオスマン帝国は、戦闘態勢が整わないままずるずると敗走を重ね、第1次バルカン戦争は圧倒的なバルカン諸国の勝利となった。すると列強が介入し、ロンドンで講和会議が開かれる。ロンドン条約ではアルバニアの独立が認められ、セルビアとギリシアはマケドニアを占領して分割領有する。このマケドニアの処遇をめぐってブルガリアが不満を鬱積させて、マケドニアに駐留していたセルビアとギリシアの部隊への攻撃を行なった。こうして、第2次バルカン戦争は13年6月に起こされた。

この無思慮なブルガリアの武力攻撃は周囲のバルカン諸国の反発をかい、モンテ・ネグロとルーマニアの宣戦布告を招いたばかりかオスマン帝国からも攻撃されるなど、四面楚歌に陥ったブルガリアは惨めな敗北を喫した。この後に開かれたブカレスト講和会議では、アルバニアの独立が確認され、マケドニアはセルビアとギリシアそしてモンテ・ネグロで分割領有され、ブルガリアにはかろうじてピリン・マケドニア山脈周辺領有を許されるという形となった。しかも、ルーマニアには南ドブルジャの割譲を求められ、オスマン帝国にはエディルネを譲ることになった。とはいえ、第1次、第2次バルカン戦争の結果は、ブルガリアがオスマン帝国からトラキアを得たことによって、オスマン帝国はコンスタンチノーブル周辺を除いてバルカン諸国の地域への影響力を大幅に失うことになった。

残る問題は、ハプスブルク帝国が併合した南スラヴ族が居住するスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナである。

第1次大戦は領土拡張戦争

このような緊張状態を抱えていた最中の1914年6月28日、ボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにハプスブルグ帝国のフェルディナンド皇太子がサラエヴォを訪れた。これを好機と捉えたボスニアの秘密結社「黒手組」のセルビア人が、皇太子の乗った車に爆弾を投げつけ、さらに銃撃して暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。

ロシア帝国は戦争を回避するために仲裁に入り、セルビアはこれに応じて大幅な譲歩を含む条約文書をハプスブルク帝国に提示した。しかし、ハプスブルク帝国はこれを退け、ドイツ帝国との同盟を確認すると7月28日にセルビアに対して宣戦を布告した。この第3次バルカン戦争ともいうべき事件は、ハプスブルク帝国の思惑を超えて第1次大戦へと展開することになる。

親セルビアの思惑から仲裁に入ったロシア帝国は、ハプスブルク帝国の宣戦布告を見て7月30日に総動員令を発する。すると、それに対抗してドイツ帝国が8月1日に総動員令を発してロシアに宣戦布告した。さらに、ドイツ帝国は8月2日にフランスとイギリスとの戦争に備えるためにベルギーに領域通過許可を要求するとともにルクセンブルクを占領する。そして、ドイツ帝国は8月3日に英・仏・露の三国協商を形成していたイギリスとフランスに宣戦布告をした。フランスはそれに応じて同日にドイツに宣戦を布告し、イギリスも8月4日にドイツに宣戦布告をした。対して、オスマン帝国は11月に同盟側に立って協商側に宣戦布告をする。イタリアはドイツとの間に同盟を結んでいたもののそれを破棄し、15年5月に協商側に立って参戦した。こうしてサラエヴォ事件は欧州大戦へと拡大することになっていった。

ドイツがイギリスとフランスに宣戦布告をした背景には、植民地主義の後発国だったドイツが植民地の拡張に動き、既にイギリスとドイツは建艦競争が始めており、きっかけさえあれば戦端を開きかねない事情を抱えていた。ドイツとフランス間にもモロッコなど植民地確保をめぐる対立があり、一触即発の状態にあった。

バルカン諸国を見ると、ハプスブルク帝国に支配されていたスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナは当然のごとく同盟側の一員として兵員が徴募された。他のバルカン諸国はそれぞれに領土的野心を内包させており、ブルガリアはバルカン戦争の屈辱を晴らすために同盟国側に立って15年10月に三国協商側に宣戦布告をする。ルーマニアは当初は中立を守っていたが、16年8月に協商側に立って参戦したもののロシアが革命によって戦線から離脱することになると、ドイツとの間で休戦協定を結ぶ。

ギリシアは、親ドイツの国王派と親協商派のヴェニゼロス宰相とが対立して国論が二分していたが、協商派が臨時政府を樹立して国王に退位を迫るとともに17年7月に同盟側に宣戦布告をした。緒戦で敗北したセルビアは南部のニシュに拠点を移し、ニシュ宣言でセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ人などすべての南スラヴ族の解放と統一を戦争目的に掲げた。

膨大な損害を出して終結した第1次世界大戦

数ヵ月で終わると見られていた第1次大戦は、同盟国側にハプスブルク帝国とドイツ帝国およびオスマン帝国、ブルガリア帝国、三国協商側にセルビア、ロシア、フランス、イギリスなどが参戦して総力戦の様相を呈することになった。このヨーロッパの大半を巻き込んだ大戦はずるずると続けられ、膠着状態に陥って目的を見失いながら、4年余り続けられた。しかし、ドイツの潜水艦が無差別攻撃をするに及び、米国が1917年4月に参戦。戦況は協商側が連合国を形成したことで同盟側が劣性となっていく。1918年1月8日に開かれた米連邦議会において、ウィルソン米大統領が「世界平和の14ヵ条」を発表する。ドイツ帝国内では長引く戦争で物資不足に陥り、日常生活に深刻な影響が出始めて厭戦気分が広がった。1918年11月にドイツ革命が起こり、ヴィルヘルムⅡ世は軍部と民衆の信頼を失ってオランダに亡命し、11月11に代表が降服に調印。同日ハプスブルク帝国もカール世が退位したことによって帝国が崩壊して第1次大戦は終結を迎えた。

この大戦で、ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国、ロシア帝国など、大英帝国以外の欧州における帝国と称した国はすべて消滅した。

第1次大戦で動員された兵員はおよそ6000万人、死者は1000万人、戦傷者は2000人を超えるなど膨大な損害を出した。戦死傷者は兵員にとどまらず、民間人も700万人が死亡した。戦後に開かれた連合国賠償委員会は、ドイツに支払い不可能な1320億金ドイツ・マルクの賠償を課す。これがドイツを困窮に陥れただけでなく、国際社会への反発を内包させることになる。また、戦争で疲弊した欧州では戦中からスペイン風邪が流行して世界中に広まり、およそ4000万人前後が死亡するという災厄をもたらした。

南スラヴ民族によるユーゴスラヴィア王国にボスニア・ヘルツェゴヴィナも包含される

大戦の主役から外れていたセルビアは、とにもかくにも戦勝国側に立つことになった。そこで、大戦直後の2018年12月に「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人王国」を建国するとボスニア・ヘルツェゴヴィナはその領域に取り込まれた。摂政から国王に就いたセルビア人のアレクサンダル・カラジョルジョヴィチは次第に独裁体制を強化し、1929年には「ユーゴスラヴィア王国」と改称した。さらにアレクサンダルは議会を解散し、政党の活動を停止して文字通り独裁王の名を恣にした。クロアチアの権利党はこれに反発し、ここから分派したファシスト・グループ「ウスタシャ」のアンテ・パヴェリチは、拠点をイタリアに移し、ユーゴスラヴィア王国の打倒を宣言する。

この緊張状態の中、34年10月にアレクサンダル・ユーゴ国王はフランスを訪問する。ウスタシャはこれを好機と捉え、ウスタシャのマケドニア人がマルセイユでフランス外相ともどもアレクサンダルを暗殺してしまう。フランス政府がイタリアに犯人の引き渡しを求めるが、ムッソリーニのファシズム国家を形成していたイタリアはこれを拒否した。

アレクサンダルの後を継いだペータル国王は未成年だったためにバヴレ公など3人が摂政に就く。パヴレ公はアレクサンダルの独裁制が混乱を招いたとして、クロアチアの自治州を認めたものの、ウスタシャはこれを容認せず、あくまでクロアチアをユーゴスラヴィアから分離独立させると表明した。

第2次大戦でユーゴスラヴィア王国はナチス・ドイツ同盟国に占領される

一方、ドイツでは33年1月にナチを率いるヒトラーが首相に就任した。すると、ヒトラーは3月に全権委任法を制定し、当時もっとも先進的といわれたワイマール憲法を無効化してしまう。そして、10月には国際連盟から脱退し、ジュネーブ軍縮条約からも脱退して軍備強化を図っていく。36年にはラインラントの非武装地帯にナチス・ドイツ軍を進駐させて占領下に置いた。37年にはイタリアとの間に防共協定を締結。38年3月には親ナチ政権になっていたオーストリアに進駐して合邦化した。9月にはズデーテン地方の問題を巡って英仏独伊の4者によるミュンヘン会談を開かせ、併合を認めさせた。

そして、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を開始する。これに対し、英・仏は9月3日にドイツに宣戦を布告する。しかし、英・仏は宣戦布告をしたもののナチス・ドイツに対する有効な戦線を構築することができなかった。これを見たナチス・ドイツは、40年4月にイギリスとフランス軍に対抗するためにデンマークとノルウェーに進駐し、5月には宣戦布告によって大陸に遠征していたイギリスの大陸派遣軍をフランス領ダンケルクに追い詰めて撤退させ、さらにフランスの要塞マジノ線を迂回する形で防衛線を突破して6月にはパリに入城し、勝利を宣言した。

ヒトラー総統はフランスを征服すると、「海獅子作戦」を発動して英本土上陸を試みるが、これは英国の巧みな防衛戦に阻まれ、一時的にせよ断念させられる。もとより、ヒトラーは英国の占領を諦めたわけではなかった。それを達成するためにはソ連を植民地化して、そこで得られる物量をもって再度英国本土上陸を図る方針へと転換したのである。

そこで、独ソ不可侵条約を締結していたにもかかわらず、40年7月ころに対ソ戦の立案を命じる。ヒトラーはこの作戦を実行するためには、軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの後背地の安全確保のためにバルカン半島の支配が不可欠と思量した。バルカン諸国のルーマニアとブルガリアは同盟に加盟させていたことから、未だに同盟に靡かないのはユーゴスラヴィア王国とギリシア王国である。ナチス・ドイツはこの両国を同盟の支配下に置くことを企図した。

とはいえギリシアには海上を通じた英国の支援の手が伸びていたことから、交渉による同盟加盟は望めなかった。そこで

ギリシア侵攻作戦「マリタ作戦」を立てる。もう一つのユーゴ王国は、第1次大戦で敵対したドイツと同盟を結ぶことは潔しとせ

ずに中立に拘っていたが、ソ連に武器の提供を求めたもののスターリン・ソ連書記長はナチス・ドイツを刺激することを避けるためにユーゴ王国の要請を断った。窮したユーゴ王国は、ナチス・ドイツの威しと甘言に屈するしかなかった。そこで王国政府は3月25日に同盟への加盟を受諾する。すると、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟を受け入れがたいとする市民と軍部が一体となってクーデターを起こし、同盟への加盟を拒否する声明を出す。狼狽した王国政府はナチス・ドイツとの条約は有効であると弁明するが、ヒトラーはそれを許容せず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用し、4月6日に同盟軍とともにユーゴスラヴィアとギリシアに侵攻した。ユーゴスラヴィア軍はよく抵抗したがファシスト・グループ・ウスタシャの思潮の影響を受けていたスロヴェニアとクロアチア人で編成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたため11日間で王国軍は粉砕され、王国政府はロンドンに亡命する。ギリシアも英連邦軍の支援を受けて頑強に抵抗したが、やはり14日間で占領された。

同盟軍に占領されたユーゴスラヴィアは分裂して内戦状態となる

ウスタシャの創設者アンテ・パヴェリチはイタリアの亡命先から帰還し、ナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」を設立してスロヴェニアとボスニア・ヘルツェゴヴィナをその支配領域として併合した。

ウスタシャのクロアチア独立国は純粋なクロアチア民族国家とすることを目的に掲げ、その障害となる正教徒のセルビア人を最大の敵と位置づけ、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を抹殺すると宣言して実行し始めた。ボスニアのムスリム人はクロアチア人に準ずる民族として処遇されたことからウスタシャ政権下に「エスエス師団」などを編制し、ナチス・ドイツとウスタシャに協力してセルビア人やユダヤ人など少数民族の迫害に加担した。このことが、のちのユーゴスラヴィア解体戦争で民族意識を再燃させることになる。

一方、ユーゴ王国軍の残党はセルビア人将校主体の「チェトニク」を組織し、ナチス・ドイツ同盟軍への抵抗を宣言した。しかし、ナチス・ドイツに「ドイツ兵1人を殺せば、セルビア人100人を殺す」と脅されると、たちまち抵抗戦を棚上げし、ユーゴ内部の領域争いに転じる。

他方、ヨシプ・ブロズ・チトーは反同盟軍および反ウスタシャ政権への抵抗組織として「パルチザン」をベオグラードで結成し、ナチス・ドイツ同盟軍への抵抗運動を開始する。しかし、武備に乏しいパルチザンは同盟軍に圧迫され、南部のウジツェに拠点を移して「ウジツェ共和国」の建国を宣言する。しかしそこも激しい攻撃を受けたため、ボスニアの山岳地帯に拠点を移した。パルチザンは同盟国軍に加え、ウスタシャとチェトニクとも戦わなければならなかったため困難を極めた。しかし、次第にユーゴスラヴィア全土にパルチザンの抵抗運動が組織化されていくことになる。

バルバロッサ作戦はソ連軍の反撃を受けて失敗に終わる

ナチス・ドイツはバルカン半島を占領すると、41年6月22日に同盟軍を併せて550万の兵員を動員して対ソ戦の「バルバロッサ作戦」を発動する。スターリン書記長のドイツを刺激するなとの指令を受けて臨戦態勢をとれないでいたソ連赤軍はドイツの侵攻に態勢を立て直せないままに敗走を重ね、9月には同盟軍の北方軍にレニングラードを包囲され、南方軍にはキエフが陥落させられ、中央軍にはモスクワ近郊にまで迫られた。しかし、ドイツの在日大使館の要員にまでなっていたジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲが送信した日本がソ連を侵攻することはないとの情報を受け、日本との戦争に備えてシベリア方面に派遣していた精強な軍を呼び戻してモスクワ防衛に備えた。また米国が英国のために制定した「武器貸与法」をソ連にも拡張適用して軍需物資の援助が受けられるようになったことから、ソ連赤軍は12月から反撃を開始した。

ナチス・ドイツは中央軍によるモスクワ占領はあきらめたものの、南方軍はウクライナを制した後の42年8月に象徴的な都市としてのスターリングラードへの攻撃を開始した。容易に陥落できると見ていたスターリングラード攻防戦は激烈な市街戦が展開されることになる。このスターリングラードの攻防戦は、街区の1棟1棟の争奪戦になったために、ナチス・ドイツ軍は膨大な損耗を強いられることになる。しかも、ナチス・ドイツ軍の補給線が伸びきってしまったことと、冬季の戦闘に備えていなかったことから、逆に43年1月31日には9万人の捕虜を出して降服した。これ以降ナチス・ドイツ軍が勝利する見込みは立たなくなった。

連合軍の軍事援助を受けるようになったパルチザンはナチス・ドイツ同盟軍の攻撃に耐えて勝利する

一方、英国はソ連からたびたび要請された西部戦線の構築ではなく、中東の油田地帯の権益を護るために地中海域での戦線に拘っていた。そして43年5月、ユーゴスラヴィアで抵抗戦を行なっているパルチザンに軍事使節団を送り込んだ。英軍の観戦武官は命を失いながら、パルチザンの抵抗がナチス・ドイツ同盟軍をバルカン諸国に引き留めていることの有用性を見て取った。

報告を受け取ったチャーチル英首相は、43年11月に行なわれた米英ソの首脳によるテヘラン会談において、パルチザンへの軍事援助の有用性を説き、米ソ両首脳に了承させた。英国は米ソの承認を得ると直ちにパルチザンへの援助物資を送るとともに、英軍の落下傘部隊をも送り込んだ。連合国からの物資援助を受けられることになったパルチザンは結成時には8万人に過ぎなかった構成員が増大し続けてやがて80万人にまで膨れ上がるまでになり、第7次にわたるナチス・ドイツの大規模攻勢を耐え抜いた。

英国は、ダンケルクから撤退させられてから4年を経てようやく西部戦線を構築することになる。米英加の連合軍は、「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を44年6月に発動した。この作戦は成功し、8月にはパリを奪還した。ナチス・ドイツは東西二正面における総力戦を強いられることになり、敗色は覆い隠せないものとなる。

ソ連はパルチザンの抵抗戦をほとんど評価せず、43年11月のテヘラン会談後もパルチザンに対してロンドンの亡命政府と協調するように容喙した。しかし、ソ連赤軍は東欧諸国でナチス・ドイツ同盟軍を撃退すると、44年10月にはようやくユーゴスラヴィア戦線に軍を進め、解放後には軍を撤収すること条件にパルチザンとの共同作戦を展開し、ベオグラードを奪還した。

なおユーゴスラビアでの戦闘は続き、ボスニアのサラエヴォが陥落したのは45年の4月、クロアチアのザグレブに立て籠もったクロアチア独立国が降服したのは5月に入ってからであった。敗退したクロアチア独立国のウスタシャたちはディアスポラとなって各地に脱出した。

ソ連赤軍は、45年4月にベルリン攻撃を開始する。敗北を自覚したヒトラーが4月30日に自殺したことで、ナチス・ドイツは崩壊し、後継者のデーニッツが5月8日に降服文書に調印したことで第2次大戦における欧州戦線は終結した。

パルチザンがユーゴスラヴィアを解放し社会主義国を建国

ユーゴスラヴィアはこの大戦中に全土で170万人の犠牲者を出し、産業は壊滅的な打撃を受けた。中でも、主戦場となったボスニア・ヘルツェゴヴィナの被害は甚大であった。

ユーゴスラヴィアは、大戦終結直前の45年3月に英国の仲介により、ロンドン亡命政府とパルチザンの臨時政府を樹立する。しかし、8月に開かれた臨時国民議会でペータル国王が亡命政府側の閣僚をすべて引き上げるという政治的駆け引きを行なう。この西側諸国にも批判された国王の駆け引きは、11月に行なわれた制憲議会選挙で人民戦線派が連邦院で90.5%、民族院で88.7%の票を獲得することになり失敗に終わる。そして46年1月に制定された新憲法で王制が廃止され、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」の建国が宣言された。このユーゴ連邦の中に当然ながらボスニアも含まれた。ユーゴ連邦人民共和国の社会主義制度は、ソ連の中央集権型を採用する。

社会主義圏から追放されたユーゴスラヴィア連邦

戦後、ユーゴ連邦の首相の地位に就いたチトーは、独自の外交を展開した。トリエステの領有権をイタリアと争い、ブルガリアと「バルカン連邦」を構成する構想を提唱し、なおギリシアの人民戦線への援助を続けた。これが、ソ連指導部の逆鱗に触れた。1948年6月に開かれたコミンフォルム第2回大会で、ユーゴ連邦は反ソ的であるとして除名処分を受けることになる。これに伴って社会主義圏から経済制裁を科されたことにより、ユーゴ連邦は計り知れない打撃を受けた。ユーゴ連邦の輸出入は社会主義圏との取引が50%を占めていたのがゼロになったからである。経済的困窮に陥ったユーゴ連邦としては、事態を打開するためにも西側に頼るしかなかった。

これに対して西側諸国は敏感に対応した。ユーゴ連邦を西側に取り込み、それを通して社会主義圏の崩壊につなげる可能性を見て取ったからである。米国は、48年12月にユーゴ連邦の凍結資産550万ドルを解除し、さらに49年9月には輸出入銀行が2000万ドルの借款に応じ、世界銀行は2500万ドルの融資を行なった。52年10月には米・英・仏との間で経済援助協定を締結し、9000万ドルの援助を受けた。

チトーはボスニアの復興を優先させたが必ずしも先進地域とはならなかった

ユーゴ連邦はこれらの西側の融資を受け、大戦中にボスニアが多大な犠牲を与えたことに配慮した政策を実施する。ゼニッツァ製鉄所、トゥラヴニク兵器工場、ウニス金属工業、マグライ製紙工場など有数の企業を置いて重工業の重点地域とした。この重点政策によってボスニアは目覚ましい発展を見せる。ボスニアは工業化とともに都市化も進行し、都市のムスリム化と称されるほどにムスリム人の都市への流入が著しく、ムスリム人の70%が都市住民となった。とはいえ、ボスニア全体が富裕になったといえるまでにはならなかった。

ユーゴ連邦としては、ソ連が主導する社会主義圏から制裁を受けたことから、社会主義制度に対する見直しを行なう。そして、中央集権型社会主義制度ではない自主管理社会主義制度を編み出した。53年憲法で自主管理社会主義を明記し、63年憲法、さらに74年憲法で自主管理社会主義制度を深化させ、連邦内の各共和国に行政権限を大幅に移譲する制度を確立させていった。

しかし、第4次中東戦争に端を発した73年のオイル・ショックでユーゴ連邦経済は手痛い打撃を受けることになる。物価は高騰し、輸出はままならなかったからである。ユーゴ連邦は、この経済危機を借款財政で切り抜けようとした。そのため、インフレはますます昂進し、借款は返済困難なほどに増大した。このことが、ユーゴ連邦中央政府への求心力を損なうことになる。

スロヴェニアおよびクロアチアに続いてボスニアにも民族主義が台頭する

89年11月から始まった東欧の社会主義圏崩壊の前後に、ユーゴ連邦の各共和国では複数政党制の導入が図られる。少し遅れてボスニアでも、90年11月に複数政党制による議会選挙が行なわれる。選挙前に行なわれた世論調査では、民族主義政党には否定的な意見が多数を占めたが、結果は、ムスリム人の「民主行動党・SDA」が36%、セルビア人の「ボスニア・セルビア民主党・SDS」が30%、クロアチア人の「ボスニア・クロアチア民主同盟・HDS」が19%と民族主義政党が85%を占めた。 

ボスニア政権は、大統領に最大民族を占めるムスリム人の民主行動党のイゼトベゴヴィチ、議会議長にセルビア民主党のクライシュニク、首相にはクロアチア民主同盟のペリヴァンが就任するという、民族の比率を色濃く反映した配置となった。スロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を指向する中、イゼトベゴヴィチ大統領は当初、ユーゴスラヴィア連邦をそれぞれが独立した連合国家として維持するなどの提案をしていた。

ズルフィカルパシチの「歴史的協定」を潰したイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領

一方で、ボスニアのムスリム人の「民主行動党・SDA」は、クロアチアとスロヴェニアが独立宣言をするより前の91年3月ご

ろから「愛国者同盟」なる秘密軍事組織を組織し、内戦に備えて武器を入手し始めていた。「愛国同盟」には連邦人民軍の

ムスリム人将校や兵士などが離脱して加わり、サラエヴォなどの主要な街を隠然と支配し、市民を任意に連行し、拘束し、闇

に葬るなどの違法な行為を行なっていた。首都サラエヴォにはセルビア人が30%居住していたにもかかわらずである。

ドイツとオーストリアおよびバチカン市国の支援を受けたスロヴェニアとクロアチアが91年6月25日に独立を宣言すると、

たちまちスロヴェニアで武力衝突が起こり、次いでクロアチアにも波及した。

ECはこの武力衝突を停止させるため、7月7日にユーゴ連邦政府とクチャン大統領、トゥジマン大統領をブリオニ島に呼

び寄せて独立宣言を3ヵ月間凍結する「ブリオニ合意」を受け入れさせた。同じ91年7月、この動向を見ていたボスニアのムスリム人実業家で「ムスリム・ボスニア人組織」党首のズルフィカルパシチは、ボスニアでの武力衝突を回避するために民族間の宥和に動いた。先ずイゼトベゴヴィチ大統領の委任を得てセルビア人勢力の指導者のカラジッチと会談し、さらにミロシェヴィチ・セルビア大統領の同意をも得て、「両民族間の平和的な関係を確認する協定」を成案とした。

イゼトベゴヴィチは歴史的協定の調印を拒否する

協定の内容は「1,ムスリム人側とセルビア人側がそれぞれの主張を撤回する。2,ボスニアにおけるセルビア人の領域設定を停止すること。3,ムスリム人およびセルビア人両民族の主張と平等性を相互に承認する。4,統一的連邦とボスニア共和国の付加文書を承認する。5,ボスニア駐留のユーゴ連邦人民軍の司令官に、ムスリム人司令官を増員すること」などである。

この協定の内容が市民に伝えられると、険悪な状態に陥っていたムスリム人とセルビア人は喫茶店やバーで同席して語り合い出した。ところが、イスラム諸国と米国を歴訪して帰国したイゼトベゴヴィチは土壇場になってこの協定への署名を拒否する。イスラム諸国とムスリム人勢力の強硬派および米国政府が署名を妨げたためといわれる。協定の調印が成立しなかったことが伝えられてもムスリム人とセルビア人の一部の人たちは諦めきれず、南部の町トレビニェや東部の町ズボルニクなどでは両民族合同の祝祭大集会を開いたりした。しかし、ズルフィカルパシチの尽力が生かされることはなかった。この歴史協定が成立していれば、ボスニア内戦は起こらなかった可能性が高い。

国連安保理は武器禁輸決議を採択

国連安保理は91年9月、独立宣言によってクロアチアなどで始まっていた民族間の武力衝突の激化と長期化を防止するために、ユーゴスラヴィア連邦の各共和国に武器を供与することを禁止する決議713を採択する。しかし翌10月、ボスニア議会はスロヴェニアとクロアチアが独立宣言をしたことに倣い、セルビア人議員が退場する中でユーゴ連邦からの事実上の独立を謳った宣言文書を採択する。

ドイツとバチカン市国は7月に独立宣言を凍結したブリオニ合意後もスロヴェニアとクロアチアの独立承認を早めるよう働きかけ続け、ドイツは12月23日に単独で両国の独立を承認し、バチカンは翌92年1月13日にやはり単独で両国の独立を承認した。セルビア人勢力の議会はボスニア幹部会に対抗し、92年1月に「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」を樹立すると宣言する。ECは、ドイツとバチカン市国の独立承認に引きずられるようにして92年1月15日にスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認する。このことが、クロアチア政府とクロアチア・セルビア人勢力との武力衝突を頻発させることになった。

この間、マケドニアはユーゴ連邦政府との交渉を経たのちの91年11月に議会が独立を宣言する。マケドニアで紛争が起こらなかったのは、民族主義を煽るような指導者がいなかったことによる。

ひたすら外部の支援をあてにしたムスリム人勢力

目前で起こったスロヴェニアとクロアチアにおける武力衝突を考慮すれば、ボスニア政府には慎重な対応が求められるはずだが。イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長(大統領)は委細かまわず分離独立への道を突き進めた。ECは、ボスニア政府の拙速な行為を抑制するのではなく、独立承認を得るためには住民投票が必要だとの助言を与えてボスニア政府の独立への行為を促すという対応をした。この助言を受け、ボスニア政府はセルビア系住民が反対する中、92年2月末に分離独立を問う住民投票を強行する。事前の世論調査ではユーゴ連邦の維持を望む人たちが圧倒的だったが、実際に住民投票が実施されると、セルビア人住民のボイコットで投票率は65%にとどまったものの、独立への賛成票が99%に及んだ。これを得たイゼトベゴヴィチ大統領は3月3日に独立宣言を発する。ボスニアは民族混住の模範といわれている地域であり、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人、その他の民族が網目模様のように居住していたから、独立を強行すれば民族間衝突が起こることは目に見えていた。ムスリム人勢力が支配的なボスニア政府側には「愛国同盟」などの民兵組織が数多族生したがいずれも軽武装であり、必ずしも先の見通しを充分に立てて独立に踏み切ったのではなかった。ひたすら、欧米やイスラム諸国の支援をあてにしていたのである。

ブッシュ米政権は当初ユーゴ連邦の紛争への介入には慎重な姿勢を示していた。しかし、民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補した際、ブッシュ政権のユーゴ連邦への取り組みは生温いと批判して政争の具としたことで米政府はユーゴ紛争への関与の度合いを強めていく。そして、92年4月7日にはスロヴェニアとクロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を一括して承認した。

ボスニア政府は、米国とECの独立承認を待ちかねたようにして武力衝突に備える態勢を取っていく。4月15日にボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国軍を創設したのである。編成は5軍団制で、第1軍団はサラエヴォ、第2軍団はトゥズラ、第3軍団はゼニツァ、第4軍団はモスタル、第5軍団はビハチの防衛を任務の中心とした。軍団を編成したとはいえ、機甲師団を備えるまでには至らなかった。

5月に入ると国連はスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの加盟を承認する。この独立承認は武力衝突を抑制するどころか、民族間の対立を激化させ、武力衝突を頻発させることになる。

このボスニア・ヘルツェゴヴィナの対応を見て、セルビア共和国とモンテ・ネグロ共和国は連邦の維持は不可能と判断し、92年4月に両国のみで(新)ユーゴ連邦の建国を宣言した。

無統制なボスニア・ムスリム人勢力の軍事組織

ボスニア内戦が始まるとムスリム人勢力の支配地域の経済基盤はたちまち破綻し、無統制な闇市場が支配するところとなった。ボスニア政府は共和国軍を編成したものの、実権を握ったのは外国の犯罪組織に属していたような者たちであり、勝手に軍資金を調達し、兵士を徴募し、闇市場を取り仕切った。地域防衛も規律の取れない民兵組織が支配した。当時のボスニアには3勢力合わせて10万人の民兵が存在したといわれるが、その内ムスリム人民兵が6万人、セルビア人民兵が3万人、クロアチア人民兵が1万人であった。多数を占めていたムスリム人勢力が初期の武力衝突でセルビア人勢力に圧倒されたのは、ムスリム人の武装組織が軍隊としての統制が取れていなかったからでもある。

ユーゴ連邦人民軍の存在意義はユーゴスラヴィア連邦の維持

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはユーゴ連邦人民軍の第2軍管区に該当し、当然連邦人民軍はこの軍管区に駐屯していたが、ボスニアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言したことで、連邦人民軍の帰属が曖昧になったため微妙な立場に置かれることになった。連邦人民軍の存在基盤はユーゴ連邦を維持させるところにあるとされていたことから、当初は積極的な行動を控え、既に始まっていた3民族間の武力衝突を抑制し、政治的解決を誘導する行動を取っていた。しかし、ボスニア政府は連邦人民軍を侵略軍と決めつけ、装備と武器を置いて直ちに撤退せよと迫り、連邦人民軍の武器や装備の奪取を試みて兵営への武力攻撃を繰り返した。さらに、連邦人民軍のムスリム人およびクロアチア人の将兵は武器を持って脱出した。そのため、連邦人民軍内のセルビア人将兵の割合が増大し、それに伴ってセルビア人勢力寄りの行動を取るようになっていく。他方、連邦人民軍の予備部隊もセルビア側からボスニアに侵入する動きを見せていた。連邦人民軍のこの傾斜を、ボスニア政府およびECや米国は激しく非難した。

連邦人民軍はこの非難をかわすために、ボスニアがECなどから独立を承認されてから1ヵ月あまり後の92年5月にユーゴ連邦人民軍をユーゴ連邦軍に改編して撤収すると宣言。そして、大半の重火器は帯同してボスニアから撤収したものの、残留を希望したボスニア出身のセルビア人将兵もかなりの武器を確保した。連邦人民軍の撤収によって各民族の民兵組織が直接対峙することになり、ボスニア政府軍とセルビア人勢力間だけでなく、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力間の武力衝突も激化することになった。

欧米のムスリム人勢力への一方的な加担がモラルハザードを起こした

内戦の初期は、装備や武器を多数確保していたセルビア人勢力が戦いを優勢に進め、ボスニア全土の70%を支配下に置くまでになる。しかし、セルビア人勢力が確保した70%の多くは農村地帯で、元来セルビア人住民は農民が多く、60数%におよぶ農地を耕作していたことを考慮すればさほど驚くほどのことではなかった。残りの30%には都市部や工業地帯が多く含まれており、ムスリム人やクロアチア人の多くが都市住民であることを反映していた。

劣勢だったボスニア政府は国際社会の同情を引き寄せるために米PR会社のルーダー・フィン社と契約を結び、「セルビア悪」を流布させるという手法を採った。この術策は効を奏し、国際社会はムスリム人勢力としてのボスニア政府支援に傾斜していく。米政府は、セルビア悪を前提にして安保理の武器禁輸決議713をボスニア政府に関してのみ解除する決議を採択するよう執拗に働きかけるようになる。しかし、ECは米国の提案は紛争をさらに激化させることになるとして受け入れなかった。そこで、米国は武器密輸船の監視を緩め、ボスニア政府軍に武器が渡るように画策するとともに米軍事請負会社MPRIを送り込んだ。ボスニア政府軍は武器が徐々に充足されるとともに、アフガン戦争帰還兵のムジャヒディーンも受け入れるなどで軍事力を増強し、さらに米軍事請負会社の軍事訓練を受けたことによって劣勢だった戦闘を有利に進められるようになり、次第に失地を回復していく。他方、地続きのセルビア共和国からもセルビア人民兵組織が侵入し、クロアチア共和国側からもクロアチア人民兵組織やクロアチア共和国正規軍の一部が侵攻した。この数多の民兵組織の関与がそれぞれの陣営での統制を失わせ、ほしいままな残虐行為が行なわれることにもなった。

ECは武力衝突を回避するために和平会議を設置する

ECは、新ユーゴ連邦への経済制裁を行なう一方で、和平会議をも設置している。このECの旧ユーゴ和平会議の議長にキャリントン英元外相を就任させ、91年9月に会議を開いた。キャリントン議長は和平への道を模索して精力的に動いたが、ボスニア政府はほとんど非協力的と言えるような対応をし続けた。また、関係諸国も協力的とはいえるものではなかった。そのため、92年8月に開かれるロンドン和平会議の前日にキャリントン議長は辞任してしまう。そこで、ECと国連が共同で構成する「旧ユーゴ和平国際会議」が設置されることになる。

93年1月に「旧ユーゴ和平国際会議」のヴァンス・オーエン両共同議長は、ボスニア内戦の一時停止を最優先し、その先に実質的な紛争終結を意図して裁定案を提示した。ボスニアを10のカントン・州に分割してそれぞれが自治権を行使するという和平案である。しかし、10カントン案は各民族の受け入れるところとならず、却って3民族の支配領域拡張争いを激化させるという副次的な紛争を誘発した。

ムスリム人勢力は国連保護区のスレブレニツァを攻撃拠点として利用

ボスニア内戦の象徴的な戦場の一つは、スレブレニツァである。スレブレニツァ市は人口3万7000人で、ムスリム人が73%・2万7000人、セルビア人25%・9300人、その他2%・700人の混住地域だった。しかし、イゼトベゴヴィチが3月に独立を宣言すると、スレブレニツァにも民族主義勢力が台頭し、ムスリム人勢力が急進派の「民主行動党・SDA」、セルビア人勢力が急進派の「セルビア民主党・SDS」を結成して対立を先鋭化させた。

ボスニア政府は92年3月に独立を達成すると、すぐさまポトチャリ警察支所長だったナセル・オリッチに武装集団を組織するよう指令を出した。オリッチは指令にしたがい、4月に「ポトチャリ郷土防衛隊」を結成し、5月には「スレブレニツァ共同防衛隊」に編成替えをした。

スレブレニツァのムスリム人勢力はオリッチの武力組織の力を背景に行政機関を掌握すると、多数派の力を恃んでセルビア人住民を迫害し、スレブレニツァから完全に排除した。この功績が認められ、6月にオリッチはボスニア政府軍の参謀部から「スレブレニツァ区域統合部隊司令官」に任命され、正規軍の司令官となる。オリッチの部隊はスレブレニツァを拠点として周辺のセルビア人の町や村を襲撃して略奪や殺害を繰り返し、93年1月にはジェパを含む900の地域を支配するまでになる。

オリッチの部隊の破壊活動に対し、セルビア人勢力軍が抑制するためにスレブレニツァを包囲すると、93年4月に国連安

保理は決議819を採択し、スレブレニツァを国連保護軍・UNPROFOR監視下の「安全地域・UNPA」に指定した。スレブレニツァが安全地域と指定されるとナセル・オリッチはこれを国連軍に護られた要塞都市として利用し、周辺のセルビア人の村を攻撃しては戻るという作戦を展開した。94年1月、ナセル・オリッチの部隊はこの作戦による武功によってボスニア政府軍の28師団として編成され、オリッチは准将に昇格して司令官となる。28師団は編成されるとさらに周辺の村々への襲撃と略奪と殺戮を繰り返した。

ガリ国連事務総長は安全地域の実態を批判

ガリ国連事務総長は94年5月、「ムスリム人勢力がNATOの空軍力に護られた安全地域をセルビア人勢力への攻撃拠点としているケースがある。国連保護軍の中立性の見地からも、安全地域のあり方を再検討すべきだ」との報告書を安保理に提出した。しかし、この報告書が安保理で真剣に検討された気配はない。国連保護軍の司令官だったモリヨン将軍は、この時期のオリッチ部隊の行為について旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYにおける証言で次のように述べている。「ナセル・オリッチはボスニア政府軍から命令を受け、スレブレニツァを拠点として周囲のセルビア人の192の村々を破壊した」と。

首都サラエヴォ攻防戦はボスニア内戦の象徴的な戦場となる

ボスニア政府軍とセルビア人勢力とのもう一つの象徴的な戦場は、サラエヴォ市における銃砲撃戦である。サラエヴォ市は9地区に分かれており、91年の時点で人口が52万6000人居住しており、ムスリム人49%・26万人、セルビア人29%・16万人、クロアチア人7%・3万5000人、ユーゴスラヴィア人18%・6万8000人、その他4%・1万5000人の54万人と混住していた。

サラエヴォ包囲戦では、ムスリム人勢力のボスニア政府軍が市の中心部に布陣し、セルビア人勢力はサラエヴォ市を包囲するとともにイグマン山に陣営を敷いていた。初期の軍備からすればセルビア人勢力軍が圧倒的な優位にあり、サラエヴォ市を占拠することはさほど困難ではなかったがセルビア人勢力はそれをしなかった。セルビア人勢力の目的はボスニア政府を屈服させることにはなく、サラエヴォのセルビア人住民保護と有利な和平条件を獲得することにあったからである。

ボスニア政府は米PR会社ルーダー・フィンを使ってプロパガンダを行なう

だが、イゼトベゴヴィチは和平案を拒否し続けた。彼の意図は、セルビア人勢力を屈服させた上でムスリム人優位のボスニア統一国家を確保するところにあった。だから和平はもとより停戦でさえも、それが事態を固定化する可能性があると見るとそれを理由として拒否した。しかし、軍事力でセルビア人勢力を屈服させる力はボスニア政府軍にはなかった。そこで、国際社会の力をたのみ、とりわけ米国主導のNATO軍の軍事力によるセルビア人勢力の弱体化を期待し、さまざまな策謀を行なう。ボスニア政府が契約した米ルーダー・フィンPR会社は、ムスリム人勢力の意を体し、セルビア人勢力による「民族浄化」、「強制収容所」、「レイプ被害」、およびムスリム人の被害や犠牲者数を過大に算出し、メディア通じて国際社会に流布させるという役割を果たした。

国際社会のムスリム人への同情とセルビア人勢力への非難を呼び込むためには、ムスリム人住民の受けた惨禍を過大に見せる必要があった。そのため、サラエヴォがセルビア人勢力に包囲されて食糧難に陥っても、ボスニア政府はムスリム人住民の移動を禁じた。ボスニア政府軍が、しばしばECが仲介した停戦合意を破ってセルビア人勢力軍への攻撃を行なったのも、セルビア人勢力をサラエヴォから排除するという意図の下に行なったものではなく、セルビア人勢力に反撃させて国際社会のセルビア人勢力への非難を喚起するところにあった。ボスニア政府軍は、時折り自陣のムスリム人居住域の市場に砲撃して死傷者を出し、それをセルビア人勢力の非道な行為として逆宣伝に使うということまでした。

サラエヴォでのセルビア人勢力の非道な行為として世界にとどろかせたのは、スナイパー通りでの狙撃による市民の殺害である。この狙撃を実行した一方は紛れもないセルビア人勢力だが、それを際だたせるために、ボスニア政府は子どもを乗せたバスをスナイパー通りに送り出して狙撃を誘発するということまでした。しかも、狙撃はセルビア人勢力だけではなくボスニア政府軍も実行していたのである。非難を浴びせられながらもセルビア人勢力軍がサラエヴォの布陣に拘ったのは、戦略的にも重要な地点であるだけでなく、セルビア人住民16万人が居住していたために安易に放棄はできなかったからである。

モスタルでのクロアチア人勢力とムスリム人勢力との戦いでネレトヴァ古橋が破壊される

ボスニア内戦は、ムスリム人勢力のボスニア政府軍とセルビア人勢力軍の戦闘のみが大きく取り上げられているが、実際には3民族による三つ巴の戦いが繰り広げられていた。92年10月には、サラエヴォの北西のビテズおよびキセリャック、ノヴィ・トラヴニクの支配権をめぐって、クロアチア人勢力軍とボスニア政府軍の間に激しい戦火が交えられた。さらに、クロアチア人勢力はモスタル市を臨時首都とすることを企図し、93年5月ごろからセルビア人を抑制・排除した上で、ムスリム人を追放するために攻撃をかけ始めた。

1993年8月、クロアチア人勢力は「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」の設立を宣言すると、モスタル市の支配権を確立するためにムスリム人勢力に対して本格的な砲撃戦を仕掛けた。モスタル市の人口は12万人、クロアチア人40%・4万8000人、ムスリム人40%・4万8000人、セルビア人20%・2万4000人であったが、ネレトヴァ川を境にして大まかに東西に分かれて居住していた。ネレトヴァ川の西側を制していたのはクロアチア人勢力軍であり、東側のムスリム人勢力軍を制してクロアチア人のみの街とすることを目指して激しい攻撃を展開したのである。この戦闘で、ネレトヴァ川に架かっていた6ヵ所の橋が全て落とされる。400年前のオスマン帝国治世の時期に建造されたネレトヴァの古橋「スタリ・モスト」は美しい橋として観光名所にもなっていたが、この時の攻防戦の際にクロアチア人勢力が撃ち込んだ砲弾で破壊された。

米政府は「新戦略」を策定しクロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力の征圧を企図

クリントン米政権は、セルビア悪を基本としてセルビア人勢力を屈服させることでユーゴ紛争は解決可能と分析していた。そのためボスニア・クロアチア人勢力とボスニア政府軍の激しい戦闘に少なからず戸惑った。しかし、セルビア悪を前提としたセルビア人勢力を屈服させる政策を変えることはなかった。そこで、クロアチア人勢力とムスリム人勢力を統合させる「新戦略」を策定する。

第1段階として94年1月に両勢力の軍幹部を呼びつけ、停戦に合意させた。第2段階として、2月末にボスニア共和国のシライジッチ首相およびクロアチア人勢力のヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国のズバク新大統領、さらにクロアチア共和国のグラニッチ外相を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。ワシントン協定は、公式的にはムスリム人勢力であるボスニア政府とヘルェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とで「ボスニア連邦」を設立すること、さらにボスニア連邦とクロアチア共和国が将来「国家連合」を形成するための予備協定に合意するものとして発表された。 

この表向きの合意は、「旧ユーゴ和平国際会議」が和平に尽力している傍らで米国が独自の和平仲介工作をしていることの不自然さを糊塗するためのものであり、米国の戦略的意図はもっと深いところにあった。それは、ボスニア政府とヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とクロアチア共和国との3者による統合共同作戦によって、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧させるところにあった。

それからの1年間は共同作戦のための準備に当てられた。米国防総省およびCIAとパキスタンの情報機関・ISIはムスリム人勢力に武器を供給し、スーダンの「第3世界救援委員会」なる団体や各地の慈善団体から資金を供与するとともに、イランの革命防衛隊やイラクのムジャヒディーンなどの戦闘員を送り込んだ。さらに、CIAや米民間軍事会社・MPRIをボスニアとクロアチアに送り込んで政府軍への軍事訓練を施すとともに、米軍の兵站・通信を任務とする特殊部隊をも派遣した。この工作によってボスニア政府は第6軍団と第7軍団そして予備軍団を増設編成した。

統合共同作戦は「稲妻作戦」「‘95夏作戦」「嵐作戦」「ミストラル作戦」「ウナ作戦」として発動

95年1月、準備を整えたクロアチア共和国のトゥジマン大統領は軍事衝突を回避するために配備されていた国連保護軍・UNPROFORが和平の妨げになっているとの理屈をつけ、撤収させるよう国連に執拗に要求した。国連安保理はこれを受け、3月に決議981~983による3分割案を採択する。クロアチアには国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPとして3分割し、縮小配備させることになる。

縮減した国連軍の配置転換が終了すると、クロアチア共和国軍は5月1日に「稲妻作戦」を発動し、セルビア人住民居住地域の「西スラヴォニア」を攻略した。この作戦は3日間で終了する。英・独・仏の3ヵ国はこの軍事行動を停止するよう要請したが、米国は黙認した。この作戦の際、強化されたボスニア政府軍はボスニア・セルビア人勢力軍が救援に赴くことを阻止するために、南東部で陽動作戦を展開するとともにクロアチアとの国境地帯に軍を移動して幹線を抑えるという共同作戦を実行した。後にクロアチア共和国のシュシャク国防相が語ったように、「CIAの指導を受けたこの作戦」はボスニア政府との連携強化の下に行なわれた。

続いて5月、ボスニア政府は訓練で精強となっていた部隊を、サラエヴォ近郊のイグマン山に陣取っているセルビア人勢力を制圧する作戦に取りかかった。ところがこのボスニア政府軍の軍事行動は、セルビア人勢力軍に見破られていたために大敗北を喫する。このとき、ボスニア・セルビア人勢力軍は迎撃するために国連保護軍に提出していた重砲を取り戻して応じた。すると、NATO軍はセルビア人勢力軍に即刻重砲の返還を要求し、期日までの返還指示に従わなかったとしてセルビア人勢力軍への空爆を行なう。セルビア人勢力軍は、このNATO軍の空爆への報復として国連保護軍要員を拘束して「人間の盾」にした。これがまた国際社会の激しい非難を浴びることになる。

ボスニア政府はイグマン山での精強部隊の大敗北を隠蔽するため、陽動作戦を兼ねてスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデ、ビハチ、トゥズラの各部隊に周辺のセルビア人居住域を攻撃するよう指令を出した。このボスニア政府軍の周辺地域への攻撃行動が、セルビア人勢力軍に反撃作戦を企図させることになる。

スレブレニツァ事件はセルビア人勢力を征圧する共同作戦の過程で起こる

とはいえ、ボスニア・セルビア人勢力はワシントン協定が企図した意味を理解していなかったようにみえる。戦局は、クライナ・セルビア人共和国が絡むボスニア北西部が重要な局面となることを洞察できなかったからである。そのため、セルビア人勢力軍は、南東部のムスリム人勢力の飛び地となっているスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデにおけるボスニア政府軍の陽動作戦に惑わされ、そこを制圧することに拘ることになった。そこで、セルビア人勢力はこの飛び地で襲撃を繰り返すムスリム人勢力軍の行動を抑制するため、7月に「クリバヤ95作戦」を発動した。

ところが、クリバヤ95作戦の対象地であったスレブレニツァの28師団内では奇妙なことが行なわれていた。28師団のナセル・オリッチ司令官をはじめとするほとんどの将校が、4月にトゥズラで行なわれた軍事訓練に参加したままスレブレニツァの28師団に戻らなかったのである。将校のいない部隊は、戦闘指揮ができないただの武装集団に過ぎない。

ボスニア政府軍は、この時点でスレブレニツァを無防備状態にしてセルビア人勢力軍の侵犯に任せ、その際に起こるであろうムスリム人住民の被害を非難の口実にすることを意図していたとみられる。セルビア人勢力軍は28師団の異変に気付かず、クリバヤ95作戦の初動地にスレブレニツァを選んだ。

セルビア人勢力軍がスレブレニツァに接近しつつあった7月10日に、ボスニア政府軍のハリロヴィチ参謀長はデリチ第2軍司令官にスレブレニツァの28師団の撤退を命令した。命を受けた28師団の兵士とスレブレニツァの行政担当者や住民を含む主として男性1万2000人から1万5000人が、ボスニア政府軍支配地域のトゥズラに向かって密かに脱出行を始めた。それに気が付いていないセルビア人勢力軍は、さしたる抵抗を受けることなく7月11日にスレブレニツァを予定外の占領をすることになる。セルビア人勢力軍を迎えたのは、28師団の兵士ではなく国連保護軍とムスリム人の女性や子どもや老人など2万数千人人の避難民であった。セルビア人勢力のムラディッチ総司令官は、この膨れあがっていた避難民への対処を国連保護軍と協議しなければならなくなった。そこで、バスなどを調達してムスリム人女性と子どもや老人2万人をムスリム人勢力支配地域に移送するとともに、兵員となる可能性のある年齢の男性千数百人を拘束した。

その過程で、スレブレニツァの28師団兵士や行政員が存在していないことに気付いた。そこで、すぐさま脱出行の28師団の追撃を開始することになる。28師団を含む脱出の一行は途中でセルビア人勢力軍と戦闘を交えながらボスニア政府の第2軍が支配するトゥズラに向かっていたが、セルビア人勢力軍の司令官を拘束するなどの打撃を与えるほどの戦闘力を保持していた。しかし、多勢に無勢であったことで、ある者はセルビア人勢力軍に捕捉され、ある者は戦死し、ある者は脱出に成功した。このクリバヤ95作戦時に、セルビア人勢力が数千人の男性を虐殺したと流布されたのがスレブレニツァ事件である。

脱出者の救援に向かわなかったボスニア第2軍団

このとき、トゥズラに駐屯していたボスニア政府軍の第2軍団は脱出行の救出に積極的な行動を取っていない。僅かに28師団の師団長であるオリッチ准将が予備中隊数百人を率いて救出に向かい、数千人を救出したのみである。中隊規模で数千人の救出に成功していたことを勘案すれば、大隊規模で救出に向かっていればほとんどの犠牲者を出さずに済んだ可能性が高い。しかし、ボスニア政府の第2軍団はそれをしていない。

そのため、脱出に成功した兵士の1人が憤りのあまり救出に動かなかった第2軍団のデリッチ司令官に向けて発砲するという事件が起こった。銃弾はデリッチ司令官に当たらず、護衛兵に当たり、発砲した兵士は射殺された。このデリッチ第2軍団司令官はのちのボスニア議会で「スレブレニツァの脱出行は概ね成功した」と述べている。国際社会がスレブレニツァの虐殺事件として非難している最中に、脱出行は概ね成功したと発言した真意がどこにあるのか定かではない。のちに、ICTYでシェシェリ・セルビア急進党党首は、民兵組織が1200人程度を殺害した可能性があると証言した。この証言が正しいとすると、殺害を否定することはできないが、デリッチ第2軍団司令官の発言などを勘案すると、国際社会で膾炙されている8000人殺害説は誇張された数である可能性が高い。

米国が立案した新戦略に基づく共同作戦でクロアチア・セルビア人戦力は瓦解

ボスニア・セルビア人勢力が南東部の攻略作戦に拘っている中、クロアチア共和国政府軍は新戦略に基づいた作戦を着と実行に移した。7月にはボスニア政府軍との共同作戦である「‘95夏作戦」を発動する。この作戦はボスニア政府軍の第4軍団とクロアチア政府軍との共同行動として実行され、クライナ・セルビア人共和国の首都であるクニンへ至るボスニア南部の交通の要衝であるリヴノとボサンスカ・グラホヴォ、グラモチュを制圧した。この作戦によって、クライナ・セルビア人共和国の首都クニンは、既に93年のマスレニツァ作戦などで南西部が抑えられていたことから、3方向から包囲される形となった。スレブレニツァ事件が大きな問題となっている陰で、クロアチア共和国政府軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍の防衛会議は次の大規模な作戦の準備を整えていた。そして、8月4日に「嵐作戦」を発動する。

NATO軍の支援を受けたムスリム人勢力のボスニア政府軍

嵐作戦は、クロアチア共和国政府軍が15万余の兵員を動員して4つの方面から攻撃を仕掛けるという本格的な軍事作戦

であった。これに呼応して、ボスニア・クロアチア防衛会議は南部からクニンに向けてセルビア人勢力を掃討する作戦を実

行。ボスニア政府軍は、第4軍団が「‘95夏作戦」で確保した南部のリヴノとグラホヴォの幹線道路を確保してボスニア・セル

ビア人勢力の救援を阻止し、第5軍団は北西部のビハチから出動して国境地帯からクライナ・セルビア人共和国軍を攻撃

するとともに、ボスニアのセルビア人勢力がクロアチア・クライナ地方へ支援に赴くのを抑止する任務を担った。

この嵐作戦の際、クロアチア共和国軍は逃避行のセルビア人住民の中に砲弾を撃ち込んで殺戮した。赤十字国際委員会・ICRCによると、クロアチア・クライナ地方から追放されて脱出したセルビア人住民は20数万人に及んだという。クロアチア共和国軍は、クロアチア領クライナ地方のセルビア人掃討作戦が終結すると、引き続き「ミストラル作戦」を発動してボスニア領内に侵攻。ボスニア・セルビア人勢力が首都としているバニャ・ルカを攻撃し、ボスニア政府軍とともにボスニアのセルビア人勢力軍掃討の共同作戦を実行した。ボスニア政府軍は「ウナ作戦」を発動して応じ、バニャ・ルカ近傍のヤイツェを陥落させ、さらにクレンヴァクフ、ボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュ、などを攻略してボスニアのおよそ半分を支配するまでになり、セルビア人勢力軍を追いつめた。ボスニア南東部の攻略に拘っていたボスニア・セルビア人勢力はこれに対し、満足な対処ができなかった。その実態を咎めたカラジッチ・スルプスカ共和国大統領は、セルビア人勢力のムラディッチ総司令官を解任した。しかし、主要な将官の反抗でカラジッチはやむなくその措置を撤回させられる。

マルカレ市場の爆破事件はムスリム人勢力の自作自演の可能性

ボスニア政府のイゼトベゴヴィチ大統領はあくまでセルビア人勢力を屈服させることに拘り、国際社会のセルビア人勢力へ非難を激化させるためのさまざまな策謀を行なった。その例の一つが「マルカレ市場爆破事件」である。この市場では数度の爆発事件が起きているが、95年8月28日に起こされた事件では住民38人が死亡するという惨事となった。このマルカレ市場の爆破事件は、のちの国連その他の調査では、ムスリム人勢力の自作自演である可能性が指摘されることになる。

NATO軍と国連緊急対応部隊のデリバリット・フォース作戦も新戦略の共同作戦の一環

NATO軍は8月28日にマルカレ市場爆発事件が起こされるとセルビア人勢力が砲撃したものと即断し、待ちかねていた

かのようにNATO空軍とNATO加盟諸国主体の国連緊急対応部隊が「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事

作戦)」を発動した。NATO軍はセルビア人勢力の拠点を徹底的に空爆すると同時に、NATO加盟国主体の国連緊急展

開部隊は地上から砲撃を加えた。クロアチア共和国軍はミストラル作戦でボスニアに侵攻し、ボスニア政府軍はウナ作戦で

西部地域を攻撃していたから、クロアチア人勢力のクロアチア防衛会議軍を含めると5者によるセルビア人勢力撃破の共同

作戦が展開されたことになる。

マルカレ市場爆破事件に絡めたNATO軍の空爆作戦の目的は、1994年2月に結ばれたワシントン協定に基づく共同

作戦でボスニアのセルビア人勢力を屈服させることにあった。それとともに、クロアチアが直前に実行したクライナ地方のセ

ルビア人勢力への掃討作戦である嵐作戦での戦争犯罪に国際社会の関心が向くのを逸らせる意図も隠されていた。

明石康国連ユーゴ問題特使の役割も制限される

この間、94年1月に就任した明石康国連特別代表は、ボスニア和平を政治交渉によって解決することを目標として精力

的に取り組んでいた。その努力により和平の曙光が見出されつつあったとき、NATO軍は明石特別代表の軍事力行使に

関わる指揮権限を剥奪してセルビア人勢力への空爆を実行した。米国は明石国連特別代表主導の和平を望んでおらず、

あくまで米国主導の解決でなければならなかったのである。それを見て明石特別代表は間もなく辞任する。このNATOの

空爆で戦闘能力を減殺されたセルビア人勢力は、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受け入れるかたちで和平交渉

に応じた。

デイトン和平協議ではクロアチアとボスニア・セルビア人勢力は関与させられず

95年11月、アメリカのオハイオ州にある米軍基地デイトンで行なわれた米政府主導の和平交渉において、ともかくも「デイトン和平合意」が成立した。合意の主な柱は、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力のエンティティとしての「ボスニア連邦」が領土の51%を占有し、セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」が49%を占め、両邦で中央政府「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」を構成するというものである。この和平案は94年5月の連絡調整グループの案と大筋で異なるところはなかった。

デイトン合意はパリ和平会議によって細目が詰められ「デイトン・パリ和平協定」となる。その合意によってボスニアに「国連ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション・UNMIBH」が設置され、ボスニア連邦およびスルプスカ共和国の行政・警察部門を統括し、軍事部門はNATO軍主体の平和実施部隊・IFORが進駐することになった。NATO軍主体のIFORは96年12月に平和安定化部隊・SFORに改編されたが、UNMIBHは2002年12月まで存続し、その後は「欧州連合警察ミッション・EUPM」に移され、2004年12月以降は欧州連合の部隊・EUFORが担うことになる。

ボスニア戦争は宗教別民族の紛争の様相を見せたが宗教戦争ではない

ボスニア戦争は、ムスリム人勢力のイスラム教、セルビア人勢力のセルビア正教、クロアチア人勢力のカトリックと民族別の

宗教対立の様相を見せたが、内戦の本質はそこにはない。また、同じスラヴ族が主要な民族であることを考慮すると民族紛

争ともいえない。ボスニアでは宗教や民族の違いをさほど意識することなく日常生活が営まれ、相互の婚姻も頻繁に行なわ

れていた。クロアチア人勢力はバチカン市国などから支援を受けたが内戦の過程でカトリックを前面に掲げたわけではなか

った。セルビア人勢力もセルビア正教を前面に立てたことはなく、セルビア共和国の拡大を主張したこともない。

にもかかわらず宗教戦争の様相をかいま見せたのは、ムスリム人勢力としてのイゼトベゴヴィチ大統領が宗教を意識して

外部のイスラム諸国に支援を要請し、またイスラム主義者たちを民兵として取り入れたことなどが反映されたからである。イゼ

トベゴヴィチ大統領は内戦後、ムスリム人にイスラム主義を日常生活に取り入れるよう求め、イスラム教徒の礼拝やアラビア

語の使用を義務化する宗教を柱にした国家建設を目論んだ。しかし、それはボスニアの世俗主義のムスリム人たちの受け

入れるところとはならなかった。

ボスニア内戦の犠牲者数は20万人ではなく3勢力合わせて10万人

ボスニア内戦は徹頭徹尾セルビア悪の評価の中で行なわれ、ムスリム人勢力は被害者であるとされていた。それは、ボス

ニア内戦における死者数20万から30万人と水増しして流布されたところにある。これはボスニア政府のイゼトベゴヴィチ大

統領およびボスニア政府が契約した米PR会社ルーダー・フィンのプロパガンダによるところが多い。それに追随したメディア

が検証することなく報じたために、恰もそれが事実であるかの如く国際社会に浸透した。

では、セルビア悪による犠牲者数はそれに合致するほどの犠牲者数の差をもたらしたのだろうか。ボスニアの内戦の犠牲者

数の調査は幾つかあるが、いずれも9万人から10万人台と報告している。しかも、犠牲者の比率は民族別構成比率を反映してはいるものの、特定の民族が多いとはしていない。

2007年にサラエヴォのミルサド・トカチャの「研究・文献情報センター・RDC」が調査したところによると、死者・行方不明者

は9万7207人でムスリム人が65%の6万3180人、セルビア人が25%の2万4300人、クロアチア人が8%で7770人、その他

が1940人としている。確かにムスリム人の死者数の割合は多いが、人口比が91年の時点で、ムスリム人が43.7%、セルビア

人が31.4%、クロアチア人が17.3%、その他7.6%で、ムスリム人の人口が多数であること、さらにムスリム人勢力がセルビア

人勢力ばかりでなくクロアチア人勢力の双方と戦闘を行なったことが犠牲者数の増加に影響を与えたといえる。むしろ、3勢

力が三つ巴の戦闘をしたことからすれば、クロアチア人の犠牲者数が少ないことに気付く。これは、クロアチア共和国軍が加

担したことが有利に働いたものと見られる。また、この程度の死者数の比率の差は、虐殺の存在の確証を表すものとはいえ

ない。

旧ユーゴ国際戦犯法廷の偏頗性

セルビア悪がもたらした偏頗性は、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYの判決にも著しい影響を与えている。セルビア人の戦

争犯罪に対する刑期の合計が1150年であり、ムスリム人とクロアチア人の戦争犯罪の刑期の合計は55年であることを比較

すると、21倍の差となる。いずれの戦争もそうであるが、ボスニア戦争はお互いに破壊と殺戮を行なったのであり、美しい戦

争を行なった勢力と醜悪な戦争を行なった勢力などという区別は存在しない。とすると、このICTYの刑罰刑期の差は、明ら

かに国際社会の偏見が反映されたものであるといえる。偏見は平和にとって害悪しかもたらさない。

デイトン・パリ協定によって派遣された国連のUNBIHMはボスニアの融和に寄与しようとしたが、それは2021年の段階に至

っても成功していない。

ボスニアも最貧国の一つであるアフガニスタン戦争に加わる

ボスニア・ヘルツェゴヴィナは旧ユーゴ内戦でもっとも激しく戦われた経験を有する国であることからすると、戦争の悲惨さ

を充分に味わっているはずである。ところが、2001年に始められた最貧国の一つであるアフガニスタンへの戦争に、NAT

O加盟国ではないにもかかわらず、最終的に加わっている。このことは、国際政治の中で弱小国の立場がいかに政治的に

脆弱な存在として扱われるかを示す事例といえる。

<参照;イゼトベゴヴィチ、マルカレ市場事件、スレブレニツァ事件、ユーゴスラヴィア王国>

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13,「マケドニア」

面積は2万5713平方キロ。首都はスコピエ市。人口は91年の国勢調査では220万人。民族の分布は、マケドニア人が64.6%・142万人、アルバニア人が21%・46万人、セルビア人が2.4%・5万人、ムスリム人が2%・4万人、ユーゴスラビア人が0.8%・2万人、その他、ギリシア人、ブルガリア人、ルーマニア人、トルコ人などが10.3%・22万人である。

マケドニアは、ブルガリア、ギリシア、アルバニア、コソヴォ、セルビアと境界を接している。

アレクサンドロス大王のマケドニアと同じではない

多民族国家の典型のようにマケドニアには多くの民族が居住しているが、それはこの地が周辺の強国に翻弄されたことによる。マケドニアの地名は、アレクサンドロス大王を排出した土地として知られるが、古代マケドニアは大王の時代を最大版図としてギリシア全土に覇権をおよぼしたことから、現在のマケドニアの一部が含まれたもののアレクサンドロス大王の主要な拠点はエーゲ海を臨む南部である。

マケドニアは前2世紀にローマ帝国に支配され、AD395年に東西ローマ帝国が分裂して以来ビザンツ帝国が統治下に置いてバルカン支配の拠点とした。6世紀ごろ南スラヴ民族がバルカン地域に移住をはじめ、マケドニアの地にも南スラヴ民族が入り込み多数を占めるようになった。現在のマケドニアは南スラヴ系住民が多数であり、古代マケドニアとは民族の構成が異なる。マケドニアはブルガリア帝国が支配下に置いたこともあって、言語はブルガリア語の影響を色濃く受けている。

周辺の強国に翻弄され続けたマケドニア

セルビア王国が支配下に置いたのは14世紀になってからで、セルビアのドシャン王はこの地の首都スコピエで戴冠式を行なっている。やがて、マケドニアはオスマン帝国に占領され、500年間マケドニアは支配されることになる。

1848年にフランスやオーストリアで革命が起こると、ナショナリズムの機運がバルカン諸国にも波及した。そして、1875年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで、オスマン帝国支配への反乱が起こる。次いで、ブルガリアでも反乱が起こされた。オスマン帝国はこれを鎮圧したものの、この反乱によりオスマン帝国は国力を消尽することになった。

これを見たロシア帝国は、南スラヴ民族諸地域への権益を確保する意図のもと、1877年にオスマン帝国に宣戦を布告して露土戦争を仕掛けた。オスマン帝国は頑強に抵抗するが、ロシア帝国はやがて防衛線を突破してコンスタンチノーブル近郊まで侵攻した。ここでオスマン帝国が講和を申し出てサン・ステファノ条約およびベルリン条約が結ばれる。この条約でセルビア、モンテ・ネグロ、ルーマニアの独立が認められるが、ブルガリアは自治公国となり、マケドニアはオスマン帝国の領有が続けられることになる。漁夫の利を得る形となったハプスブルク帝国は、スロヴェニアとクロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を確保する。これに対しボスニアやクロアチアでは激しい抵抗が起こるがハプスブルク帝国はいずれもこれを鎮圧した。そして、1908年にはボスニアを併合してしまう。これが第1次大戦を誘発することになる。併合に反発した南スラヴ民族が、ハプスブルク帝国打倒を企図して秘密結社を数多結成することになったからである。

第1次、第2次バルカン戦争でマケドニアは翻弄される

1912年、ロシア帝国はハプスブルク帝国の拡張主義を牽制にするためにバルカン諸国に働きかけ、「バルカン同盟」を結ばせる外交を展開した。それに応じたバルカン諸国は、3月にセルビアとブルガリアが同盟条約を結び、5月にはギリシアとブルガリアが条約を締結し、8月にはモンテ・ネグロとブルガリ、9月にはモンテ・ネグロとセルビアが条約を結ぶという4ヵ国が交差する形での「バルカン同盟」が成立した。ところが、バルカン同盟は成立する過程でロシアの思惑を離れ、オスマン帝国がバルカン半島に領有するマケドニアとアルバニアおよびトラキアを奪還することを目的とした同盟へと変貌していった。

そして、9月に「バルカン同盟」が成立すると、10月に先陣を切ってモンテ・ネグロがオスマン帝国に宣戦を布告する。次いで、セルビア、ブルガリア、ギリシアが宣戦布告して第1次バルカン戦争が開始された。

オスマン帝国は戦闘準備が十分に整わないままに圧倒されて敗北する。マケドニアを奪還した同盟国は、この地の大半をセルビアとギリシアで分割領有した。ブルガリア帝国はマケドニアの領有を目的に参戦し、12万人の犠牲を出して戦ったにもかかわらずその功績が認められなかったことに不満を抱き、翌13年6月にマケドニアに駐留していたセルビアとギリシアの部隊に攻撃を加え、第2次バルカン戦争を起こした。この思慮を欠いたブルガリアの第2次バルカン戦争は、攻撃されたギリシアやセルビアのみかモンテ・ネグロやルーマニアおよびオスマン帝国軍もブルガリア攻撃に加わったためにブルガリアは孤立して惨めな敗北を喫した。結局マケドニアの主要な地域はセルビアとギリシアが分割領有し、ブルガリアはピリン・マケドニア山地周辺の領有を認められたものの、ルーマニアに南ドブルジャを割譲させられた上、オスマン帝国にもエディルネなど大幅に領土を割譲させられた。この屈辱が、ブルガリアを第1次大戦でドイツとの同盟国側へと加わらせる要因となる。

第1次大戦はハプスブルグ帝国がボスニア併合に拘ったために起こる

バルカン戦争でオスマン帝国をバルカンからほとんど排除することに成功したものの、ハプスブルク帝国による南スラヴ民族諸国の支配問題は残されていた。このような緊張の中、ハプスブルク帝国の皇太子フェルディナンドが1914年6月28日にボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにボスニアのサラエヴォを訪れた。これを好機と捉えたセルビア人将校を中心とする「黒手組」に属するセルビア人が、爆弾と銃撃でフェルディナンド皇太子を暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。

ロシア帝国が紛争を仲裁するために介入し、セルビア王国政府がそれに応じて大幅な譲歩を表明するが、ハプスブルク帝国はこれを退け、ドイツ帝国との同盟を確認すると、7月28日にセルビアに宣戦を布告した。この第3次バルカン戦争ともいうべき紛争は、ハプスブルク帝国の思惑を超えて第1次大戦へとなだれ込むことになる。

ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)側に立って参戦したのはドイツ帝国、オスマン帝国で、15年にはブルガリア帝国がマケドニアを確保することを目論んで同盟側につく。セルビア側にはフランスとイギリスおよびロシアの三国協商側がついた。大戦が始まるとマケドニアはブルガリア帝国に占領され、1918年の終戦まで支配下に置かれることになる。ロシア帝国は17年に革命が起きたために戦線を離脱するが、米国が17年に参戦する。

第1次大戦後の講和会議が第2次大戦の遠因となる

数ヵ月で終わると見られていた戦争は4年余り続き、厭戦気分の中でドイツ革命が起こり、国民の信を喪ったヴィルヘルム・ドイツ皇帝が11月10日にオランダに亡命し、ハプスブルク帝国はカール世が退位したことで第1次大戦は終結を迎えた。この大戦ではセルビア王国などの協商側が勝利し、ドイツ帝国、ハプスブルク帝国、ブルガリア帝国、そしてロシア帝国を含むほとんどの帝国は瓦解した。

両陣営で動員された兵員は6000万人に達し、およそ1000万人の兵士が死亡し、戦傷者は2000万人を超えた。民間人も700万人が死亡し、大戦中に発生した疾病は世界に広がり、疲弊した人々4000万人前後が死亡するという世界規模での災厄をもたらした。

ドイツに課せられた賠償は1320億金ドイツ・マルクで、経済学者ケインズやウィルソン米大統領が批判した莫大な額となった。これがドイツの生活を苦しめ、敵愾心を醸成することになる。

戦後の講和会議で、結局マケドニアはギリシアと「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」に分割して組み込まれた。1918年12月に「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人王国」が建国され、セルビア王国のアレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政に就き、21年には国王に即位する。

カラジョルジェヴィチは当初は「憲法を尊重すると」と述べたが、次第に独裁体制を強化していく。そして、29年に「ユーゴスラヴィア王国」と改称してマケドニアを組み込んで独裁体制を固め、政党活動を禁止し、議会を解散した。このことがクロアチア住民の反発を招き、クロアチア権利党から分離したファシスト・グループ「ウスタシャ」の結成へと至る、このような緊張状態の中にあった1934年にアレクサンダル独裁王はフランスを訪問する。ウスタシャの一員はこれを好機と捉え、フランスのバルトゥ外相とともに暗殺してしまう。

ドイツでは第三帝国を妄想したヒトラーが台頭して第2次大戦が起こされる

この間、ドイツではナチスが台頭し、1933年に党首のヒトラーが首相に就任すると、第三帝国を妄想して着々と戦争への準備を整えていった。そして39年8月に独ソ不可侵条約を結ぶと、9月1日にナチス・ドイツ軍はポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。これに対して英国とフランスは9月3日に宣戦布告する。英国は宣戦布告に伴って大陸に派遣軍を上陸させるが、有効な戦線を構築することはできなかった。それを見透かしたナチス・ドイツは40年4月にデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領。英国の大陸派遣軍をフランス領ダンケルクに追いつめて撤退させ、6月にはフランスの要塞マジノ線を迂回する形でパリに入城して勝利を宣言した。さらに、ヒトラーは「海獅子作戦」を発動して英本土上陸を企てるが、英海空軍の巧みな抵抗でこれを一時的にせよ断念させられる。そこで、ソ連を植民地化してその物量をもって英国を屈服させることに切り替え、ソ連侵攻計画の立案を命じた。

対ソ作戦のためには、軍事物資の調達と侵攻ルートの安定を確保するバルカン諸国の中で未だに同盟へ靡いていないギリシアとユーゴスラヴィアを加盟させる必要があると思考した。ただ、ギリシアには海を通じた英国の支援の手が伸びており、同盟に加入する可能性は低かった。そこで、ギリシア侵攻作戦である「マリタ作戦」を立てる。そして、ユーゴ王国には威しと甘言を弄して3月25日には同盟に加盟させることに成功する。ところが、第1次大戦で敵対した経験を忘れていない市民と軍部の一部が反発してクーデターを起こして同盟から脱退することを要求する。狼狽した王国政府はナチス・ドイツに同盟条約は守ると弁明するが、ヒトラーはこれを許容せずに、マリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用して1941年4月6日に同盟軍とともに両国に侵攻して占領した。ユーゴ王国政府はロンドンに亡命する。

ナチス・ドイツの侵攻を歓迎したスロヴェニアとクロアチア

ナチス・ドイツの同盟軍の侵攻をスロヴェニアとクロアチアは歓迎し、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチ・ウスタシャ党首が帰還してナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国を宣言した。ブルガリアは念願のマケドニアを占領し、イタリアは南スロヴェニアとモンテ・ネグロ、アルバニアとコソヴォを占領した。

ナチス・ドイツはバルカンを支配下に置くと、41年6月22日に550万の兵員を動員して対ソ戦の「バルバロッサ作戦」を発動し、ソ連領に攻め込んだ。ソ連のスターリン書記長は猜疑心の強い男で、自らの地位を脅かしかねない将兵を含む膨大な数の有能な人々を粛清していたが、なぜか独ソ不可侵条約を結んだヒトラーを信頼し、ナチス・ドイツが対ソ戦を実行することはないと妄信していた。そのため、前線の指揮官にナチス・ドイツを刺激するなとの指示さえ与えていた。スターリンの指示に従わなければ粛清される虞を抱いていた指揮官たちは臨戦態勢をとれないでいた。このような状態にあったソ連軍の前線は総崩れとなり、9月にはモスクワ近郊まで攻め込まれる事態となる。

この経緯を見ればバルバロッサ作戦は達成するかに見えた。しかし、ソ連は対日戦に備えてシベリア方面に駐留させていた部隊を呼び戻し、米国が英国のために制定していた「武器貸与法」をソ連にも拡張適用して軍需援助が受けられるようになると、12月から反撃に転じる。

ユーゴスラヴィア王国内は「ウスタシャ」「チェトニク」「パルチザン」による内戦が戦われる

ユーゴ王国内には王国軍の残党によってセルビア人主体のユーゴ王国の復興を目的とする「チェトニク」が組織され、さらにチトー率いる民族横断的な同盟軍に対する抵抗組織「パルチザン」が結成された。チェトニクは占領軍に対する抵抗戦を宣言するがナチス・ドイツから「ドイツ兵1名を殺せばセルビア人100名を殺す」と脅されると、たちまち同盟国への抵抗戦を留保して内部の領域争いに転じた。

ウスタシャのクロアチア独立国は純粋なクロアチア人国家の建設を行なうと宣言し、セルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と措定して3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を殺害すると宣言して実行した。このウスタシャの政策によって第2次大戦中に殺害されたセルビア人は、50万人前後といわれる。

ソ連は英国に対して西部戦線の構築を要請していたが、英国は中東の油田地帯の権益を護ることを優先して地中海域での戦線構築を模索していた。しかし、ユーゴスラヴィア戦線で王党派のチェトニクがその役割を抛棄していることが明らかとなると、43年5月にパルチザンに軍事使節団を派遣してその抵抗戦の状況を観察させた。観戦武官は命を失いながら、パルチザンがナチス・ドイツの大部隊をユーゴスラヴィアの領土に引きつけている実態をチャーチルに報告する。

報告を受け取ったチャーチル英首相は11月に開いたテヘラン会談においてパルチザンを支援することが連合国にとって有用だとの提案を行ない、米ソ首脳の承認を得る。チャーチルはすぐさまパルチザンに軍需物資を援助するとともに英国の落下傘部隊をも送り込んだ。パルチザンは連合国の支援が受けられるようになると部隊を増強し、ナチス・ドイツ同盟軍の7次にわたる大攻勢を凌ぎきった。

ソ連は43年2月にスターリングラード攻防戦に勝利すると、次第にナチス・ドイツ軍を追いつめていく。この攻防戦に敗北したのち、ヒトラーは公的な場での演説をしなくなる。

連合軍は、英軍がダンケルクから追い落とされて4年後の44年6月に米・英・加などによる「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動し、ようやく西部戦線を構築する。ノルマンディ上陸作戦は成功を収め、8月にはパリを奪還した。東西二正面戦線を戦わなければならなくなったナチス・ドイツ軍が勝利することは、もはや絶望的といえた。

ヒトラーの自殺によって第2次大戦の欧州戦線は終結する

ソ連軍は44年10月になってようやくユーゴスラヴィアの領域に進軍し、パルチザンとの共同作戦を行なってベオグラードを奪還した。そして、ナチス・ドイツ同盟軍およびクロアチア独立国のウスタシャをユーゴスラヴィアから撃退する。連合軍は、米英による西ヨーロッパ戦線とソ連による東部戦線とで大攻勢をかけ、45年4月にソ連軍がベルリン攻撃を開始すると、敗北を自覚したヒトラーは4月30日に自殺する。後継者のデーニッツが45年5月8日に降服文書に調印したことで、第2次大戦における欧州戦線は終結を迎えた。

大戦後の制憲議会で王制は廃止されユーゴ連邦人民共和国が建国される

ユーゴスラヴィア王国は、大戦後に実施された選挙によって選出された憲法制定議会で王制が廃され、「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」として建国された。マケドニアは共和国としてユーゴ連邦の構成単位として組み込まれ、その構成民族をマケドニア民族と規定した。ユーゴ連邦は新憲法で社会主義体制を採用するが、それはソ連の中央集権型社会主義であった。

しかし、イタリアとトリエステの領有問題で争い、ギリシアの人民戦線派への支援を続けたことおよびブルガリアと「バルカン連邦」構想などを提唱したことがソ連指導部の怒りをかい、翌48年に開かれた第2回コミンフォルム大会で除名処分を受ける。戦後の復興途上にあったユーゴ連邦は除名に伴う経済制裁を受けて困窮に陥った。この経済的破綻を凌ぐには、西側諸国の借款を頼るしかしかなかった。西側諸国はこれに応じユーゴ連邦に借款を与えることを容認する。この時期からユーゴ連邦は西側諸国との結びつきを強めていくことになるが、社会主義を抛棄したわけではなく、ソ連型の中央集権体制ではなく、独自の労働者による自主管理型社会主義体制を採り入れることになる。

パルチザンを率いて戦い抜いたチトーはカリスマ性を備えて首相から終身大統領となるが、内戦中の民族対立が再燃しないように心を砕き、その問題に封印して論議しないような対策を講じた。しかし、大戦後にディアスポラとなったウスタシャの残党が、60年代から70年代にかけてユーゴスラヴィアの鉄道や劇場や旅客機爆弾を仕掛けて破壊するなどのテロ行為が頻発させ、政治的な不安定が続いた。とはいえ、チトーが生存している間はそのカリスマ性によってユーゴ連邦が揺るぐことはなかった。

ユーゴ連邦の社会主義体制解体は西側諸国の既定路線

しかし、西側諸国にとってユーゴスラヴィア連邦の社会主義体制を解体することは、48年に融資に応じた時からの既定路線であった。

1980年にチトーが死去すると、西側諸国はブレジンスキー米大統領補佐官が指し示したシナリオに沿って社会主義諸国弱体化の突破口を求めて動き始めた。IMFは81年に「第1次経済安定化策」を提示し、83年には「第2次経済安定化政策」の導入を求めた。しかし、この経済安定化策は激しいインフレーションを引き起こし、ユーゴスラヴィアの国民の生活水準は急激に低下した。そのため、コソヴォやクロアチアでデモが頻発するようになり、これがスロヴェニアとクロアチアやコソヴォなどで民族主義者の台頭を誘発することになる。後にクロアチアの大統領に就くことになるフラニョ・トゥジマンは、87年頃から世界に散ったウスタシャなど「ディアスポラやドイツのコール首相などと接触し、クロアチアの分離独立への支援を要請して回っていた。

1989年のベルリンの壁の崩壊は民族主義者の蠢きを促す

89年11月にベルリンの壁が崩壊し、それに続いて東欧諸国が社会主義体制を放棄すると、トゥジマンはディアスポラの支援を受けて12月に「クロアチア民主同盟・HDZ」を結成して党首に就任し、複数政党制の導入の先陣を切った。

コソヴォ自治州のアルバニア系住民の知識層の独立を志向する者たちは「コソヴォ民主同盟・LDK」を同年12月に結成し、イブラヒム・ルゴヴァが大統領に就任する。LDKは武力による独立ではなく政治交渉による独立獲得を目標としていた。ルゴヴァは穏健派といわれながらも寛容さはなく「コソヴォからセルビア人がいなくなるか、無視できないくらい少数にして、熟れた果実が落ちるようにコソヴォの独立を達成する」と宣明しセルビア人のみにとどまらずアルバニア系住民であれ批判する者は排除した。それでも、このルゴヴァの政治的解決に飽き足らない若者たちが、傍らで武力闘争による独立を勝ち取るための民兵組織コソヴォ解放軍・KLAを結成した。この組織がのちに主役を演じることになる。

スロヴェニアとクロアチアの独立宣言と欧米の承認が内戦を誘発する

スロヴェニアとクロアチアは独立志向を強めてユーゴ連邦憲法を無視する法の下克上を行ない、91年6月25日にユーゴ連邦からの独立を宣言するに至る。これが民族間の対立を深め、武力衝突を誘発することになった。ECは武力紛争を回避するために、独立宣言の3ヵ月間の凍結を認めさせ、EC和平会議を設置する。しかし、ドイツとバチカン市国はこの凍結期間を単なる冷却期間としか受け止めず、EC和平会議の活動を後目に、ドイツは91年12月に他国に先駆けてスロヴェニアとクロアチアの独立を承認した。バチカン市国もECに先駆けて翌1月13日に両国の独立を承認してしまう。ドイツの性急な政治的行為の裏には、東西両ドイツ統一にともなう経費を賄うために両国を自国の経済的領域に囲い込むという思惑が隠されていた。

1992年1月15日、ECはドイツとバチカン市国に引きずられる形でスロヴェニアとクロアチアの独立を承認する。この独立承認はドイツ政権が表向きに主張したようなクロアチアに平穏をもたらすどころか、武力衝突を誘発させることになる。国連安保理は2月、この武力衝突を抑制するために国連保護軍・UNPROFORをクロアチアの紛争地に派遣する決議743を採択した。

マケドニアはユーゴ連邦から交渉によって分離独立を果たす

他方、マケドニア共和国はユーゴスラヴィア連邦政府との交渉を重ね、91年11月に他の共和国に先駆けてユーゴ連邦からの独立を達成する。この独立協定に伴ってユーゴ連邦人民軍はマケドニアから撤収することになったたが、その際にほとんどの武器や装備を帯同したためマケドニアには僅かな武器しか残されなかった。

マケドニア共和国のグリゴロフ大統領は、「コソヴォ自治州でアルバニア系住民とセルビア系住民との民族紛争が激化すれば、マケドニアにも飛び火してバルカン全体に戦争が拡大する」と語り、波及を危惧して国連保護軍の派遣を要請した。グリゴロフはその後の推移を予見していたのである。国連はマケドニアの要請に応じ、92年12月に国連保護軍UNPROFORを派遣した。

米国はボスニア政府とクロアチア人勢力に圧力をかけセルビア人勢力への統合作戦へと誘導

ブッシュ米政権は91年当時、ユーゴ問題への関与には慎重な姿勢を示していた。しかし、92年の大統領選に立候補した民主党のクリントンがブッシュ大統領の対応を生温いと批判したことで政争の具となり、ブッシュ政権も次第に強硬な政策を採るようになる。この背後には、軍産複合体の権益が絡んでいた可能性が高い。

クリントン大統領は大統領選に勝利して93年1月に就任すると、「セルビア悪」を前提としたセルビア人勢力を屈服させる構想を立てた。そのため、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力間の激しい武力衝突にはしばし戸惑うが、セルビア人戦力悪を前提とした政策を見直すことはなかった。

クリントン米政権はユーゴスラヴィア内戦を米国の力で終わらせるための「新戦略」を策定した。そして、クロアチア共和国、ボスニア政府、ボスニア・クロアチア人勢力を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させる。ワシントン協定の公表された内容はボスニア政府とクロアチア人勢力で「ボスニア連邦」を設立し、そののちクロアチア共和国とボスニア連邦とが国家連合を形成する準備協定を結ぶというものであった。しかし、秘められた内容は公表とは異なり、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力に統合作戦本部を設置させ、それにNATO軍を絡ませてクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を屈服させることにあった。そして、94年はその準備期間に充てられた。

95年1月、統合作戦の準備が整うと、クロアチア共和国のトゥジマン大統領は、国家を統一するための和平の妨げになるとの理屈をつけ、国連保護軍・UNPROFORの撤収を執拗に要求する。それに応じた国連安保理は、3月に決議981~983を採択して国連保護軍・UNPROFORを3分割し、クロアチアに国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPが配備されることになる。

ボスニア・セルビア人勢力はNATO軍の空陸からの攻撃に屈服する

クロアチア共和国は、国連保護軍が縮減されてUNCROとされると、95年5月に米政府の新戦略に基づいたクライナ・セルビア人勢力を一掃するための端緒としての「稲妻作戦」を発動し、クロアチア・セルビア人勢力の拠点であった「西スラヴォニア」を制圧する。さらに7月には「95夏作戦」を発動してボスニアからクロアチアに至る幹線道路を制圧する。そして、8月4日、クロアチア共和国軍は15万の兵員を4方面軍に編制した「嵐作戦」を発動した。クロアチアのクライナ・セルビア人勢力軍は3万人余の兵力しか動員できなかったことから、戦線はたちまち崩壊し、クライナ・セルビア人勢力軍はセルビア人住民とともにボスニアに難民となって離脱した。国際赤十字委員会・ICRCによると、このときクライナから脱出したセルビア人住民は、20万から25万人に上るという。

クロアチア共和国軍は「クライナ・セルビア人共和国」を潰滅させると、「ミストラル作戦」に切り替えてボスニア領内に侵攻し、ボスニア・セルビア人勢力の大統領府があるバニャ・ルカ攻撃を行なう。ボスニア政府軍は共同作戦としてやいつぇやボサンスカ・ペトロヴァッツなどの攻撃に取りかかった。この両国がミストラル作戦を実行している最中の95年8月28日、サラエヴォのマルカレ市場で爆発事件が起こされる。後の国連の調査によるとムスリム人勢力の自作自演といわれる事件である。

NATO軍は、マルカレ市場爆発事件をセルビア人戦力によるものと即断し、これを口実としてボスニア・セルビア人勢力に対して「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を1日余りのちの9月1日に発動し、ボスニア・セルビア人勢力に空爆を実行するとともに、陸上からもNATO加盟国主体の緊急展開部隊を進駐させて、ボスニア・セルビア人勢力への砲撃を行なった。ボスニア・セルビア人勢力には、ボスニア政府軍、ボスニア・クロアチア人勢力軍、クロアチア人共和国軍に加えてNATOの空陸両軍に対抗するほどの戦力はなかった。そのためミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領の助言を受け入れて、和平交渉へと進むことになる。

ボスニア和平交渉は米国のオハイオ州デイトンのパターソン空軍基地で米国主導の下で進められた。主な内容は、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」を中央国家とするが、その下にエンティティとしての「ボスニア連邦」と「スルプスカ共和国」を配する。領域はボスニア連邦51%、スルプスカ共和国が49%を占める、というものである。ユーゴ連邦解体戦争は、これで終結したかに見えた。けれども、米政府はユーゴ連邦解体戦争をそれで終わらせるつもりはなかった。

米国はコソヴォを拠点化することを企図していた

「デイトン・パリ協定」が締結された翌96年6月、クリストファー米国務長官は、コソヴォ自治州の州都プリシュティナに「情報・文化センター」の設立をミロシェヴィチ・セルビア大統領に受け入れさせた。情報・文化センターは、同様の組織が世界各国に置かれているが、CIAが拠点としているところである。直後にコンブルム米国務次官補は、「米国がコソヴォに関与し続けることの一例だ」と露骨に語った。コンブルムはコソヴォ紛争を予言したのである。

コソヴォ解放軍はアルバニアの政治的混乱に乗じて武器を大量に入手して武力闘争を活発化させる

コソヴォ解放軍・KLAは翌97年に隣国のアルバニアで政治的混乱が起こると、管理が疎かになった機に乗じて大量の武器を確保し、すぐさまコソヴォの独立を目指して武力闘争を活発化させた。

セルビア共和国は、クロアチアとボスニア紛争において「セルビア悪」に苦しめられたことからその鎮圧を躊躇っていた。しかし、98年2月にゲルバード米特使がコソヴォを訪問した際、コソヴォ解放軍をテロ組織と言明したことを言葉通りに受け取り、セルビア共和国はコソヴォ解放軍の鎮圧に本格的に取り組むようになる。すると、国連安保理はセルビアへの武器禁輸決議を採択し、G8やEUも民族迫害であると激しく非難した。国際社会の反応に力を得たコソヴォ解放軍は5月にはコソヴォ自治州の25%を支配するまでになる。国際社会の非難を受けても、セルビア共和国としてはこの状態を放置するわけにもいかず、鎮圧行動を強化してコソヴォ解放軍を追い詰めていく。これを見た米政府はホルブルック特使をコソヴォに送り込み、情報・文化センター滞在のCIAの手引きでコソヴォ解放軍の司令官と引き合わせて写真を撮らせ、コソヴォ解放軍を「自由の戦士」と称えた。一方で、セルビア当局に対してはアルバニア系住民への民族浄化を止めよと鎮圧行動は激しく非難した。そして9月には国連安保理がセルビア治安部隊の撤収を求めた決議を採択する。そしてそれを受け入れなければNATOの空爆がありうるとほのめかし、NATO軍はアドリア海に戦闘艦艇を終結させ始めた。その間にもホルブルック特使は数度にわたってセルビアを訪れてミロシェヴィチと会談し、停戦の合意と治安部隊の撤収を要求した。

欧州安保協力機構・OSCEは米国の策謀に利用される

ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領は停戦に合意する一方、イワノフ・ロシア外相の助言を受け入れ事態の打開策としOSCEの停戦監視団の受け入れを表明する。OSCEはこの提案を受諾して停戦合意監視団・KVMを組織して1600名の監視団員をコソヴォに送り込んだ。ところが、このOSCE・KVMの団長に曰くのある駐エルサルバドル米元大使ウィリアム・ウォーカーを任命したことで、コソヴォ問題の帰趨は明白となった。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使だった際、独裁体制を敷いた政権に抗議したイエズス会士や娘の殺害を容認し、擁護した人物である。この事件の際、エルサルバドル独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊は、エルモソテ村周辺の住民およそ1000人を虐殺した。

ウォーカーは99年1月にコソヴォに赴任するとすぐさま「ラチャク村の虐殺」事件を捏造した。これに応じてオルブライト米

国務長官はミロシェヴィチ大統領を「99年のアドルフ・ヒトラー」だとして激しい非難を浴びせる。そしてすぐにでもNATO軍

による空爆を実行させようとしたが、このときは米・英・仏・独・伊・露6ヵ国で構成した「連絡調整グループ」による和平交渉を

行なうことになる。メディアのアクセスを封じて始められたこの「ランブイエ和平交渉」は困難を極めたが、仲裁者のねばり強

い交渉によって和平の兆しがほのかに見えるところまで進んだ。ところがこの進行を妨げるように、オルブライト米国務長官が

割り込んで主導権を握ってしまう。そして、コソヴォ解放軍・KLAの若い政治局員の30歳のタチ代表に和平案の受け入れ

を表明させる一方で、セルビア側にはNATO軍の全土駐留を認めよとの「付属B項」を押しつけて拒絶させ、セルビアが傲

慢にも和平を妨げているとの「セルビア悪」の印象を国際社会に浸透させる役割を果たした。

NATOのユーゴ・コソヴォ空爆はオルブライトの戦争

オルブライト米国務長官は和平交渉を3月18日に不調に導くと、NATO軍はすぐさま3月24日に一刻も猶予がならない

人道上の被害を回避するためとの理由をつけて国連安保理決議を回避し、NATO条約の域外であるユーゴスラヴィアに

拡大適用して「ユーゴ・コソヴォ空爆」である「アライド・フォース作戦」を発動する。

ユーゴ・コソヴォ空爆は、アドリア海に米・英・仏の空母3隻を中核とする艦隊を派遣し、航空機は凡そ1000機を周囲の航空基地などを使用した大戦並みの陣容で空爆を実行した。反撃される虞のないNATO軍は、78日間にわたって懲罰の意味を込めた激烈・無差別な空爆を続行する。橋梁、港湾、鉄道、発電所、化学工場、学校、病院、放送局など、修復不可能なほどの破壊行為が行なわれた。勝利するという選択肢のないセルビア共和国としては、どこかの時点で和平に応じるしかなかった。6月9日にセルビア共和国は、コソヴォから治安部隊や警察を撤収させるという屈辱的な和平案を受け入れる、と表明したことでユーゴ・コソヴォ空爆は終了した。

コソヴォ解放軍は「大アルバニア」建設を目標にセルビアとマケドニアに武装闘争を仕掛ける

コソヴォ自治州からセルビア共和国の治安部隊や警察部隊が撤収すると、NATO軍主体の平和維持軍・KFORと国連行政支援機構・UNMIKが派遣される。

西側諸国の支援によってコソヴォの支配権を得た形のコソヴォ解放軍やアルバニア系住民は、純粋なアルバニア系住民による国家の建設を目指してコソヴォに居住していたセルビア人の迫害を実行し始め、襲撃を繰り返して12%を占めていたセルビア人住民を4.5%にまで減少させた。コソヴォ解放軍はさらに「大アルバニア主義」を掲げ、セルビア共和国に17%居住しているアルバニア系住民の地域を武力で割譲させることを企図し、2000年11月に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ・PBM」解放軍を結成させてゲリラ戦を仕掛けたが、これは失敗に終わる。

そこで軍備の貧弱な隣国マケドニアに方向転換し、北部を中心に21%を占めるアルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させ、01年3月に武力侵攻をし始めた。マケドニア共和国は、独立はしたものの一人当たりのGDPは2000ドル余りで豊かさとはほど遠く、ユーゴ連邦時代に得られていた再分配を失ったことから経済運営は困難を極めていた。そこで、経済援助を期待して台湾と99年1月に外交関係を樹立させた。これが中国の不興を買い、ユーゴ・コソヴォ空爆直前の99年2月にUNPRODEPの駐留期限延長決議が中国の拒否権によって否決され、撤収してしまっていた。グリゴロフ・マケドニア前大統領の危惧が現実化したのである。

NATO軍はKLA・NLAのマケドニア侵攻を支援していた

米軍はこのKLA・NLAのマケドニア侵入作戦に顧問団を派遣しており、また米軍事請負会社・MPRIが軍事訓練を施し、軍事物資を供給するなどの支援をしていた。マケドニア共和国は、武器の購入資金を賄えなかったためにウクライナに攻撃ヘリ2機の貸与を申し入れ、それを使用してKLA・NLAに対抗した。

ところが、EUのソラナ共通外交上級代表とロバートソンNATO事務総長はKLA・NLAの武力闘争を抑制するのではなく、ウクライナを訪問してマケドニアへの攻撃ヘリの貸与を止めるよう圧力をかけた。この圧力によってウクライナが武器の供給を停止したためにマケドニア軍は武備に事欠き、KLA・NLAとの戦闘は困難に陥った。KLA・NLAは機に乗じてマケドニア政府軍を圧倒し、マケドニア北部一帯から国土の30%を確保して主要都市のテトヴォを支配下に置き、首都のスコピエに迫るまでに勢力を伸ばした。

KLA・NLAがマケドニアで戦闘活動を展開していた時期、マケドニアにはEU監視団としてのドイツ軍部隊が紛争予防のために駐屯していた。KLA・NLAはこの駐留ドイツ軍に激しい砲撃を浴びせる。KLA・NLAがドイツ軍に砲撃を浴びせたのは、ドイツ軍がコソヴォ自治州からマケドニアに侵入する武装集団を厳しく取り締まっていたからである。KLA・NLAがドイツ軍を攻撃したのには別の理由も隠されていた。アメリカとドイツの間には、地域支配に関する確執があった。米国はKLA・NLAに密かに武器を供給しており、KLA・NLAにマケドニアを支配させることによってアメリカの覇権を及ぼすことを意図していた。バルカンにおいて、ドイツの影響力はすでにかなり浸透しており、米国はこれを削ぐためにマケドニアからドイツを排除することを望んでいのである。この米国の思惑とKLA・NLAの目論見が一致してドイツ軍を攻撃したのである。ドイツはこのアメリカの意図を見抜いていた。そのため、マケドニア政府軍にドイツ軍の武器を密かに与えてもいた。攻撃ヘリを取り上げられて押され気味だったマケドニア政府軍は総力戦体制を敷き、ドイツの武器と他の東欧諸国などからも供給を受けて反撃に転じ、KLA・NLAを包囲攻撃するまでに追いつめた。状況の変化に不利と見たKLA・NLAは、NATOの仲介を求めて条件闘争に転換し、停戦に応じた。このとき米軍は、マケドニア政府軍に包囲されたKLA・NLAと米CIA要員および米軍事請負会社・MPRI要員を保護するためにバスなどを仕立てて安全地帯まで護送するという行動を取った。これを見たマケドニア住民は憤りの余り、バスの通行を阻止したり、投石するという事件を起こした。

KLA・NLAはひとまず矛を収める

ともあれ、和平協定によってマケドニア政府は憲法を改定し、アルバニア語の公用語化、公務員の採用枠の拡大などアルバニア人の権利を大幅に取り入れ、マケドニア紛争は一応の終結を見る。この紛争に乗じて米国は抜け目なくマケドニアへの地歩を築いた。その後、アルバニア系住民が多数となったテトヴォには、EU諸国の支援によって形ばかりの「テトヴォ大学」が建設された。この大学では、協定によってマケドニア語、アルバニア語、英語が使われているが、80%はアルバニア系の学生である。アルバニア系住民が支配したテトヴォ市のモスクには、アルバニアの国旗が掲げてある。

アフガニスタン戦争に軍隊を派遣したマケドニア

マケドニア共和国は1991年に交渉によるユーゴ連邦からの独立を果たしたことで、コソヴォ解放軍との戦闘はあったもの

の本格的なユーゴスラヴィア連邦解体戦争を経験していない。それは内戦を避けようとした当時の政治家の意志が働いたあ

たからであろう。ところが、2001年に始められたアフガニスタン戦争には加盟国ではないにもかかわらずNATO指揮下のIS

AFの一員として軍隊を派遣し、最貧国の一つであるアフガニスタンへの破壊と殺戮戦争に加わった。また、2003年に米英

豪の有志連合軍が始めたイラク侵攻戦にも、のちに参加している。これが時の経過とともに政府を形成する者たちの知性の

変化なのか、あるいはNATO加盟諸国の圧力に屈したのかは明らかではないが、米国の要請に屈した可能性の方が高い

ように思われる。

「マケドニア共和国」と名乗れない独立国家

国名をめぐってはギリシアとの間に対立が生じ、国連への加盟には旧ユーゴスラヴィア・マケドニア共和国の暫定国名を使わざるを得なかった。ギリシアでは、マケドニアを「スコピエ共和国」と呼ぶ。ギリシア人の中には、アレクサンドロス大王の時代を懐旧してマケドニアはギリシアのものだと主張する者もおり、マケドニア人の中にはギリシアのテッサロニキまでを含む領域がマケドニアであると主張する者もいる。

このように、マケドニアとギリシアの間では国名をめぐって確執が続いていたが、2019年1月に「北マケドニア共和国」とすることでギリシアとの間で合意がなされ、国連への加盟国名も北マケドニア共和国とすることが承認された。

NATOは、北マケドニアを2020年3月に正式加盟を承認したが、EUは2021年の段階で加盟候補国にとどめている。

<参照;グリゴロフ、コソヴォ解放軍・KLA・NLA、国連の対応>

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14,「コソヴォ自治州・コソヴォ・メトヒヤ」 → 「コソヴォ共和国」

東側をコソヴォ、西側をメトヒヤといい、セルビアではコソヴォ・メトヒヤと称しているが、アルバニア系ではコソヴォとしか称さない。州都はプリシュティナである。コソヴォは、アルバニア、マケドニア、セルビア、モンテ・ネグロと境界を接している。面積は1万900平方キロ。

人口は1991年の国勢調査ではおよそ200万人、アルバニア人82%・164万人、セルビア人12%・24万人、ムスリム人3%・6万人、モンテ・ネグロ人1%・2万人、その他4%・8万人である。その後、1991年年から始まった旧ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の過程で、スロヴェニアやクロアチアおよびボスニアから追放されたセルビア人がコソヴォに難民として居住することになったために、一時的にセルビア人の比率は91年の時点より増大していた。

コソヴォはセルビア王国揺籃の地

コソヴォは中世セルビア王国の揺籃の地で、12世紀に創設されたネマニッチ王朝時代の遺跡やセルビア正教会の修道院や美術品が多数残されている。ネマニッチ王朝時代のセルビアはヨーロッパでも先進的で豊かであり、ビザンツ帝国に比肩するほどであった。セルビア正教会が確立したのもネマニッチ王朝時代であり、グラチャニツァ大聖堂もこの時に建造されている。その歴史的経緯から、セルビア人にとって民族揺籃の地として意識されている。

14世紀に入るとオスマン帝国が隆盛し、バルカン半島に触手を伸ばし始めた。14世紀半ばには東ローマ帝国のトラキアに進出し、次いでテッサロニキも占領。オスマン帝国軍はさらに北上し、1389年6月にはセルビア王国の中心地であったコソヴォに侵攻した。セルビアのラザール公がキリスト教の連合軍を率いて迎え撃つが、連合軍内部の裏切りもあってキリスト教徒軍は敗退する。このときラザール公は捕らえられて斬首されるが、この敗退を決定的にした6月28日はセルビア民族にとっては屈辱の日であり、英雄譚の日でもあり、失地回復を誓い合う日として心に深く刻まれることになる。この戦闘での敗退後、コソヴォ在住のセルビア人の大半はセルビア正教の大主教アルセニエに率いられて周辺の地域に移住した。その後に生じた空白地帯にオスマン帝国がイスラム教に改宗したアルバニア人を移住させたために、コソヴォの民族構成に大幅な変化が生じた。

コソヴォはオスマン帝国支配下でアルバニア人が増大する

1453年に、オスマン帝国がコンスタンチノーブルを陥落させたことでビザンツ帝国は崩壊する。以後、500年余りの間コソヴォ地域はオスマン帝国の統治下に置かれることになる。16世紀以降、オスマン帝国はクリミア半島をめぐってロシアとたびたび戦闘を繰り返すが、1877年に始まった露土戦争で敗退する。78年に結ばれたサン・ステファノ条約はバルカン半島の支配領域の改編にまで及んだため、コソヴォのアルバニア人は分割されることを恐れ、「アルバニア民族の権利擁護のための中央委員会」を結成してオスマン帝国内にとどまる形での自治を求め、コソヴォの地名をとった「プリズレン連盟」を結成する。「連盟」は、コソヴォの共和国への昇格、「大アルバニア主義」などへと綱領を発展させ、独立を要求して暴動を起こしたものの鎮圧される。その後、サン・ステファノ条約は列強の思惑によってベルリン条約として締結され、コソヴォはオスマン帝国の支配下に置かれることになった。

第1次大戦は帝国主義による戦争

1912年、モンテ・ネグロ王国、セルビア王国、ギリシア王国、ブルガリア帝国が「バルカン連盟」を結び、オスマン帝国が支配するマケドニア、コソヴォおよびトラキアを奪還するために第1次バルカン戦争を起こした。この第1次バルカン戦争はバルカン連盟側が勝利し、コソヴォはセルビア王国とモンテ・ネグロ王国に分割されて併合される。しかし、ハプスブルク帝国がスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配権を手放さなかったことから民族主義を誘発した。奇しくも1914年6月28日にボスニアのセルビア人がオーストリアの皇太子を暗殺した「サラエヴォ事件」が起こされる。それをきっかけに第1次大戦が勃発した。

第1次大戦は、ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)とドイツ帝国、ブルガリア帝国などの同盟側とセルビア・英・仏・露などの協商側で戦われた。14年に始まった大戦は4年間続き、18年に連合国を構成した協商側が勝利し、敗退したハプスブルク帝国、ドイツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国および革命が起きたロシア帝国など大英帝国以外ほとんどの帝国は崩壊した。

セルビア王国側は1918年12月に「スロヴェニア・クロアチア・セルビア王国」を建国し、のちに「ユーゴスラヴィア王国」とした。コソヴォには、第2次大戦までの間にセルビア人の入植が進み、コソヴォ地域のセルビア人は増加した。

ナチス・スドイツは対ソ戦を企図してユーゴスラヴィア王国とギリシア王国に侵攻

この間、ドイツではヒトラー率いるナチスが台頭し、1933年に政権を掌握すると第三帝国の建設を妄想して蠢き始めた。直ちに国会を解散。3月には全権委任法を制定して憲法を無効化し、10月には国際連盟を脱退する。36年に日独防共協定、37年に独伊防共協定を締結する。38年3月にはオーストリアにナチス・ドイツ軍を進駐させて支配下に置き、10月にはチェコスロヴァキアのズデーテン地方をめぐって兵・仏・伊・独4ヵ国からなるミュンヘン会談を開かせ、併合を認めさせた。さらに、1939年3月にはチェコスロヴァキアそのものを占領する。8月23日に独ソ不可侵条約を締結すると、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めた。

これに対して英・仏は9月3日にドイツに宣戦を布告するが、有効な戦線を構築することができなかった。それを見透かしたナチス・ドイツは、西ヨーロッパを支配下におくために40年4月にデンマークとノルウェーおよびオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻。大陸に遠征していた英国軍をダンケルクに追いつめて撤退させた。そして、要塞マジノ線に立てこもったフランス軍を迂回する戦法を採って防衛戦を突破し、6月にパリに入場して勝利を宣言した。さらに、40年9月には日・独・伊三国同盟を締結する。ヒトラーは引き続き「海獅子作戦」を発動して英本土上陸作戦を企図したが、英国の巧みな抵抗を受けてこれを一時的に断念する。

ヒトラーはソ連を植民地化することを企てる

そこでヒトラーは、ソ連を植民地化してその物量をもって再度英国の占領を企てる方針に転換して対ソ戦の立案を命じた。対ソ戦を実行するためには、軍需物資の調達地域の拡大と侵攻の際の後背地の安全を確保するため、バルカン半島で未だに中立国に拘っているユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を支配下に置く必要があると判断した。

ギリシアは英国の海上を通じた支援を受けていたことから圧力による従属化は不可能と分析し、「マリタ作戦」計画を立案した。ユーゴスラヴィア王国はソ連との軍事協定に期待していたが、スターリン・ソ連書記長はドイツを刺激しかねないとの思惑を抱いていたため、断念せざるを得ない状況下に置かれた。そのため、41年3月25日にナチス・ドイツの威しと甘言に屈して同盟国入りを受け入れる。ところが、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟に拒否感を抱いていた市民と軍部の一部がクーデターを起こし、内閣を倒した。狼狽したユー王国政府は、条約は有効だとナチス・ドイツに伝えるが、ヒトラーはこれを許容せず、ギリシアへの「マリタ作戦」をユーゴスラヴィアにも拡張適用し、41年4月6日に同盟軍とともにギリシア王国とユーゴスラヴィア王国に侵攻した。ユーゴスラヴィア王国政府は脱出してロンドンに亡命政府を樹立する。

ナチス・ドイツを歓迎したクロアチアのファシズム・グループ

ユーゴ王国内のクロアチアはナチス・ドイツの侵攻を歓迎し、ファシスト・グループ「ウスタシャ」の党首としてイタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチが帰国して4月9日にナチス・ドイツ傀儡政権「クロアチア独立国」の樹立を宣言する。ウスタシャ政権のクロアチア独立国は、クロアチアとスロヴェニアおよびボスニアを支配下において純粋なクロアチア人国家建設を標榜し、ナチス・ドイツに協力しつつ非クロアチア人を迫害して排除した。

コソヴォ地域はアルバニアとともにイタリアに占領されてアルバニアに併合されたために、アルバニア人が移住してアルバニア化が進む。イタリアのファシストの影響を受けたアルバニア系住民はナチス突撃隊としてのスケンテルベク師団が結成され、多数のアルバニア人が参加してナチス・ドイツに協力するようになった。

ユーゴスラヴィア内では「ナチス・ドイツ同盟軍」・「ウスタシャ」・「チェトニク」対「パルチザン」の戦場となる

ユーゴスラヴィア国内には、粉砕されたとはいえ王国軍の残党がいた。ミハイロヴィチ王国軍大佐はこの王国軍をまとめて「チェトニク」とし、王国の再興を目指してナチス・ドイツと戦うと宣言した。ところが、ナチス・ドイツから絶滅するとの脅迫を受けるとチェトニクは抵抗戦を棚上げし、ユーゴ国内における領域争いに転じてしまう。

一方、ユーゴスラヴィアにはナチス・ドイツ同盟軍への抵抗組織として共産党が主導するチトー率いる「パルチザン」が結成されて戦闘を開始する。このためユーゴスラヴィアは、ナチス・ドイツ同盟軍とウスタシャとチェトニクに対するパルチザンの戦いという陰惨な状況に陥った。

ナチス・ドイツの「バルバロッサ作戦」の失敗

ユーゴスラヴィアとギリシアを占領下においたナチス・ドイツは、41年6月22日に対ソ戦バルバロッサ作戦を発動し、同盟国軍合わせて550万の兵力を動員してソ連領に侵攻した。スターリン・ソ連書記長の思いこみで臨戦態勢を採っていなかったソ連軍は大混乱に陥り、後退を余儀なくされる。しかし、広大なロシアを簡単に制圧できると予測したナチス・ドイツはやがて苦戦を強いられることになる。

パルチザンは劣勢ながら転戦しつつナチス・ドイツ同盟軍と戦い続け、ナチス・ドイツ軍のかなりの軍団をユーゴスラヴィアに釘付けにした。連合国側は、当初ロンドンの亡命王国政府側のチェトニクを支援していたが、チェトニクがナチス・ドイツとの戦闘を放棄し、領域争いに転じていることに見切りをつけ、ナチス・ドイツ軍をユーゴスラヴィアに膠着させているパルチザンを支援することが有用だと判断してパルチザンを支援するようになる。

パルチザンは困難な戦いを強いられていたが、連合国の支援を受けられるようになったことによって、結成時には8万人に過ぎなかった兵員は「友愛と統一」のスローガンに魅力を感じた人々が馳せ参じるようになり、ユーゴスラヴィアを解放した時点では80万の勢力となっていた。コソヴォを支配していたイタリアが1943年9月に降服するとその軍備を接収するなどで軍備を増強した。

西部戦線を構築するよりも自国の権益を優先させた英国

英国は、スターリン・ソ連首相の西部戦線を構築してほしいとの要請に応えず、自国の中東地域の油田地帯の権益を優先し、地中海域における戦線に拘っていたが、ダンケルクから追い落とされて4年後の44年6月にようやく「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動して西部戦線を構築した。この作戦は成功を収め、8月にはパリを開城した。ナチス・ドイツ軍が精強だとしても、連合国の二正面戦線と戦うには戦力が足らず、もはや勝利は望めない状態となった。

ソ連は共産党主導のパルチザンの戦いをほとんど評価せず、また連合国側にも配慮して支援することをためらっていた。しかし、チャーチル英首相とスターリン・ソ連首相との間で戦後のユーゴスラヴィアの扱いについて合意を得たことから、ようやくソ連軍はユーゴスラヴィアに赤軍を派遣することになる。そして1944年10月にベオグラードを奪還し、45年4月にはボスニアのサラエヴォ、5月にはクロアチアのザグレブを解放し、ナチス・ドイツ及び「クロアチア独立国」の残党を掃討した。掃討されたウスタシャたちは、ディアスポラとなって各地に逃亡した。

ソ連赤軍が45年4月にベルリン攻撃をするにおよび、敗北を自覚したヒトラー総統が4月30日に自殺したことでナチス・ドイツは崩壊した。5月8日、後継者のデーニッツが降服文書に署名したことによって第2次大戦における欧州戦線は終結した。

第2次大戦において、ユーゴスラヴィアの犠牲者は170万を数え、その多くがウスタシャ、チェトニク、パルチザンとの国内対立戦による犠牲者だった。このことが、のちのユーゴスラヴィア解体戦争の際の民族対立を煽るプロパガンダに利用される要素となる。

人民戦線派は制憲議会で王制を廃止する

パルチザンは「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議・AVNOJ」なる暫定政府を組織していた。大戦後の45年11月に行なわれた憲法制定議会選挙では、「AVNOJ」の人民戦線派が連邦院および民族院ともに90%前後の票を獲得して勝利する。翌46年1月に開かれた制憲議会で採択された憲法によって王制が廃止され、ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言された。そして、パルチザンを率いたチトーが首相に選出される。

コソヴォはユーゴスラヴィア連邦セルビア共和国の一部に組み込まれ、コソヴォ・メトヒャ自治区として自治権を得た後、63年憲法で自治州に格上げされた。チトー政権は大戦中ファシズムに支配されていたコソヴォ自治州のアルバニア系住民を取り込むため、壮大なプリシュティナ大学を建設する。しかし、コソヴォは周囲諸国の強国に支配され続けたこともあって、近代化から取り残され、貧困から脱出できなかった。

1968年、不満を鬱積させたコソヴォのアルバニア系住民は権利拡大やコソヴォ自治州の共和国昇格を求めて暴動を起こす。暴動は鎮圧されたが、不満を緩和するために74年憲法でコソヴォ自治州とヴォイヴォディナ自治州は、共和国なみの自治権限が付与された。それに伴って、自治州の政治・警察機構は多数派のアルバニア系住民による運営が行なわれるようになる。だが、コソヴォ自治州のアルバニア系住民は、もはや自治権限の拡大では満足しなくなっていた。

後進地域コソヴォのアルバニア系住民は暴動を繰り返す

1981年3月にプリシュティナ大学の学生が、大学の待遇改善を求めて抗議行動を起こすと、これに呼応したアルバニア系

住民が加わったことで暴動はコソヴォ自治州全土に広がった。この騒乱はユーゴスラヴィア連邦人民軍と治安警察によって鎮

圧されるが、この騒動に伴ってアルバニア系住民の民族主義的意識は一層増強されることになる。コソヴォ自治州における

アルバニア系住民は圧倒的多数であったことから、セルビア人への嫌がらせや、暴行などの迫害行為が頻発するようになって

いった。セルビア科学アカデミーが1986年にまとめた調査報告によると、「コソヴォにおけるセルビア人が物理的、政治的、法

的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と記述するほど緊張が高まっていた。

1987年にセルビア共和国幹部会議長に就任したスロボダン・ミロシェヴィチは、その年の4月にコソヴォ自治州におけるア

ルバニア系住民とセルビア人住民との間にある緊張を緩和するためにプリシュティナに赴いた。しかし彼がそこで目にしたの

は少数派のセルビア人住民のデモを多数派のアルバニア系警察官が暴力で弾圧する情景だった。

他方、セルビア共和国内においてコソヴォの状況の改善を求めるセルビア人のデモも頻発したことから、ミロシェヴィチは反対を押し切って89年3月にコソヴォ自治州の権限を大幅に縮小するセルビア共和国憲法を改定してしまう。このことがコソヴォ自治州のアルバニア系住民を一層憤激させ、対立は抜き差しならないものとなる。このようなコソヴォの状況下の89年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国は雪崩をうって社会主義体制を放棄して行った。

ベルリンの壁が崩壊するとコソヴォ自治州のアルバニア系住民は「コソヴォ民主連盟」を設立

国際情勢の変化を見て取ったコソヴォの知識人たちは1989年12月に「コソヴォ民主連盟・LDK」を結成し、イブラヒム・ルゴヴァを党首に選出する。LDKは、非暴力の政治闘争による「コソヴォ共和国」の独立国家を目指し、着々と体制を整えていった。92年5月24日には、多数派を占めるアルバニア系住民がセルビア共和国憲法を無視して独自に議会選挙と大統領選挙を実施し、LDK党首のルゴヴァを自治州大統領に選出した。

コソヴォ民主連盟はスイスに亡命政府を樹立

ルゴヴァとともにLDKの結成に重要な役割を果たしたB・ブコシは、スイスに「コソヴォ共和国」の亡命政府を設立して首相に就任する。そして、ヨーロッパの各地に40万人移住していたアルバニア系ディアスポラからの資金集めとLDK党員への募集を行ない始めた。ブコシが設置した「共和国基金」は、個人の収入の3%を納めさせるという手法である。スイスの検察庁がこの資金の流れに違法性の疑いがあるとして手入れを行なうという一幕もあった。この「共和国基金」は莫大な資金を集めることに成功し、基金によってコソヴォの臨時政府の運営費のみか、コソヴォにおける医療機関や学校や衛星テレビの経営にまで及び、さらにアメリカにおける支部のロビー活動の費用も賄うほどに潤った。このロビー活動の結果、ボブ・ドール連邦議員やT・サントス連邦議員らを巻き込んでいく。

ルゴヴァの独立構想は純粋なアルバニア人のみの国家

コソヴォ民主連盟・LDKは穏健な知識人の集まりと言われていたとはいえ反対者への寛容さがほとんどなく、「コソヴォからセルビア人がいなくなるか、無視できるくらい少数にして、熟した果実が落ちるようにコソヴォの独立を達成する」と宣明し、セルビア人のみならずアルバニア系住民であれ批判したものは罵倒され、迫害され、村八分にされた。このため、コソヴォからセルビア人だけでなくアルバニア系住民も離れていった。

ジャーナリストのクリス・ヘッジズによると、66年から89年の間にコソヴォ自治州から迫害されて去ったセルビア人は13万人に上るという。コソヴォ自治州の雰囲気はもはや多民族共存の意識がきわめて乏しい状態となり、セルビア共和国の管轄下にあったとはいえ多数派のアルバニア系警察官がセルビア人民に暴行を働くことは稀ではなく、これに抗議するセルビア人住民とアルバニア系住民との間の衝突が頻発するようになった。

この間、コソヴォのアルバニア系住民の中の青年層を中心とする過激派は武力によるコソヴォの独立を目標に掲げて88年

に「コソヴォ解放軍・KLA」を結成していた。結成当時は、ドレニツァ地方のはみ出し者の集団に過ぎなかったが、このはみ出

し者たちはルゴヴァのLDKの微温的な態度にあき足らないと感じていた者たちの支持を得て次第に組織を拡大していくこと

になる。

コソヴォ解放軍はクロアチアやボスニア内戦に参加して経験を積む

のちにコソヴォ解放軍・KLAの主要なメンバーとなる者たちは、反セルビア人勢力のボスニア政府軍およびクロアチア共和国軍の戦闘に参加し、軍事的な訓練と経験を積んでいた。

一方、4年間にわたって続けられた三つ巴のボスニアおよびクロアチア紛争は、95年8月にNATO軍が武力介入し、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を屈服させた。その後始末として95年11月に米国で開かれた和平協定は「デイトン・パリ合意」として結実する。しかし、このデイトン合意にはアルバニア系住民の強い要求があったにもかかわらず、コソヴォ問題については全く触れられなかった。

国際政治学者の定形衛は、「このデイトン合意でコソヴォが無視されたことが、武力による騒動を起こさなければ国際社会は関心を持たないとアルバニア系住民の心に刻み込まれた」と指摘する。事実、このころからならず者の集団であったコソヴォ解放軍・KLAへの支持が高まっていくことになる。既に、LDKによってアルバニア系のディアスポラの中にコソヴォへの関心が喚起されていたことから、KLAが「故郷は呼んでいる」との基金への呼びかけに応える素地ができていた。さらに、基金のみにとどまらず、戦闘員としてのKLAへの参加を望む者たちが引きも切らぬ状態となっていったのである。

米政府は「デイトン合意」後にコソヴォ自治州にCIAの拠点を設置させる

米政府は、ボスニア戦争を終結させるためには「デイトン合意」を優先させなければならず、そのためにコソヴォを犠牲にしたように見せかけたが、これでユーゴスラビア連邦解体戦争を終わらせるつもりはなかった。

「デイトン・パリ和平協定」が成立した翌96年の6月、クリストファー米国務長官はミロシェヴィチ・セルビア大統領にコソヴォ自

治州の州都プリシュティナに「情報・文化センター」の設置を受け入れさせる。情報・文化センターは米CIAの拠点となるところ

である。このセンターの設置について、コンブルム米国務次官補は「米国がコソヴォ問題に関与し続けることの一例である」と

露骨に語って以後の推移を予言した。そして米CIAは、情報・文化センターを拠点にしてドイツの連邦情報局・BNDや英国の

MI6などと連携し、コソヴォ解放軍・KLAのメンバーに訓練を施すなどさまざまな工作を行なうことになった。

国際社会の関心を引くために武装闘争を仕掛けたコソヴォ解放軍

1997年に隣国アルバニアにおいて社会主義体制から資本主義体制に移行する過程で政治的混乱が起こると、国家の統

制が乱れて武器庫から武器が大量に持ち出され、これをコソヴォ解放軍が入手する。武器を手にしたコソヴォ解放軍・KLA

は、すぐさま武力による地域支配を実行に移し始めた。先ず、隣国アルバニアとの回廊地帯を支配し、国境地帯のアルバニ

ア側に拠点を築き、ツァハン収容所などを設置してKLAの武力闘争に批判的な「コソヴォ民主連盟・LDK」の幹部たちを拘

束して収容した。このツァハン収容所には米特殊部隊の関係者も出入りしていた。即ち、コソヴォ解放軍の武力闘争は初めか

ら米国政府公認だったのである。

セルビア共和国の治安活動を国際社会は民族迫害だと非難

セルビア共和国は、ユーゴ連邦解体戦争で一方的な「セルビア悪」説で苦しめられた経緯から、コソヴォ解放軍・KLAの武

力闘争に対して効果的な鎮圧行動をとれないでいた。すると、98年2月23日に米国のゲルバード特使がコソヴォを訪問し、コソヴォ民主連盟l・LKD」など穏健派アルバニア系住民を集めてコソヴォ解放軍を「テロリスト集団」だと言い渡した。ユーゴ連邦のセルビア当局は、ゲルバード米特使の発言をKLAへの鎮圧行動を容認するものと受け取り、治安部隊を強化してKLAの排除に乗り出す。ところが、両者間の武力衝突が激しくなると、国際社会はセルビア側の治安活動を激しく非難し、国連安保理は3月31日にユーゴ連邦への武器禁輸決議1160を採択した。G8もNATO軍による武力行使を示唆し、EUもコソヴォからの治安部隊の撤退と対話を要求。受け入れなければ、経済制裁措置をとると警告した。国際社会のユーゴ連邦批判に力を得たコソヴォ解放軍は、98年6月にはペチ、ジャコヴィツァ、オラホヴァツ、マリシェヴォを制圧してコソヴォ自治州の25%を支配地域とし、マリシェヴォを臨時首都とした。コソヴォ解放軍の戦闘員の中には、ディアスポラからの参加にとどまらずボスニア内戦でも活動したイラン革命防衛隊やアフガニと呼ばれた「ムジャヒディーン」なども多数入り込んでいた。資金は、KLAが設立した「故郷が呼んでいる」へのディアスポラからの送金と、アルバニアを経由して欧州へ運び込むアヘン・ルートとしての利益でまかなわれた。

ユーゴ連邦を追いつめていく欧米諸国

米国はこの状況を見て、98年6月24日にホルブルック特使をコソヴォに送り込み、情報・文化センターを拠点にしているCI

Aの手引きでコソヴォ解放軍の司令官と並んで写真を撮るなどの認知行動を行ない、「テロリスト集団」と断定したゲルバート特使の前言を翻して「自由の戦士」と讃えた。その上で、セルビア当局の鎮圧行動はアルバニア系住民に対する「民族浄化」であるとして激しく非難した。ユーゴ連邦としては、国際社会の批判を受けてもKLAがコソヴォ自治州の4分の1を支配する状態を放置するわけにはいかず、鎮圧行動を強化する。この鎮圧強化策によってコソヴォ解放軍が追いつめられると、国連安保理は9月23日にセルビア治安部隊の即時停戦と撤収および監視団の受け入れを要請し、受け入れなければ経済制裁の追加措置をとるとの決議1199を採択する。

米政府は再三ホルブルック特使をベオグラードに派遣し、ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領に停戦の合意を迫った。長い交渉の末、10月13日に停戦は合意された。ユーゴ連邦は、この交渉において国際社会の歪曲を解消する必要があると覚らされたため、中立性が高いと見られていた欧州安全保障協力機構・OSCEの監視団による調査と検証の受け入れを表明する。OSCEは一旦これを拒否するが、すぐに撤回してOSCE停戦合意検証団・KVMを急遽編成し、2000人の検証団員のコソヴォへの派遣を決定した。

ユーゴ連邦解体戦争の最終章としてのコソヴォ紛争

ところが、このOSCEの停戦合意検証団・KVMの団長に就いたのが曰くのある米外交官のウィリアム・ウォーカーなる人物

である。この人事で、コソヴォ自治州の帰結は決定づけられたといえる。ウォーカー米外交官は、イラン・イラク戦争の最中にイ

ラン・コントラ事件に関与してイランへの武器密輸で売却益を確保すると、その資金をニカラグアの反政府組織「コントラ」に供与し、ニカラグア政府の弱体化に寄与。さらに、88年に米駐エルサルバドル大使として赴任すると、独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊」を支援し、独裁政権に異議を唱えていた教会を襲撃してイエズス会士や娘や家政婦の殺害を容認し、擁護した人物である。この事件の際、「アトラカトル大隊」はエルモソテ村周辺の住民およそ1000人を虐殺した。

ラチャク村の事件は米CIAとウォーカーKVM団長の策謀

OSCE・KVMの検証団員は98年10月から1600人が順次コソヴォ自治州に入っていく。ウォーカーKVM団長は、この検

証団の団員の中に米CIAや英MI6の情報工作要員を多数潜り込ませるという作為を施した。情報工作員の役割は、「1,ユーゴ連邦の評価を貶めること。2,予定されているNATO軍による空爆作戦の標的を探ること。3,コソヴォ解放軍に接触して衛星電話を渡し、NATO軍の空爆の際の効果を連絡させること」にあった。

遅れてコソヴォ自治州の視察に入ったウォーカーは、99年1月15日にラチャク村で行なわれたコソヴォ解放軍とセルビア警察部隊の武力衝突を丘の上から観戦した。この武力衝突はセルビア側の勝利で終わるが、このときウォーカーは何も言わずにその場を立ち去った。翌16日に、再びラチャク村の視察に現れたウォーカーは、捏造された虐殺事件をメディアに公表する。ウォ-カーは、セルビア治安部隊によって「アルバニア系の丸腰の民間人45人が殺害され、切り刻まれた証拠があり、その多くは至近距離から射殺された」との虐殺説を言い立てて、再び「セルビア悪」説を世界に印象づける役割を果たした。

このラチャク村の虐殺事件は、フィンランドの検視団の検視によると、ほとんどがコソヴォ解放軍の兵士であり、戦闘によって死亡した者たちであったことが明らかになる事件である。フィンランドの法医学者たちの最終報告書では、「ラチャク村で発見された45の遺体には、1発から20発の銃創があり、1体だけ至近距離から銃撃されたと考えられる火薬痕があった。OSCEのKVMの発言のような遺体切断の痕跡はない。セルビア治安部隊による大量処刑の証拠はなく、アルバニア系住民であるということも確認できなかった」と記述された。

ICTYのミロシェヴィチ裁判の弁護側から提出された証拠書類では、「ラチャク村の45遺体の内30遺体がコソヴォ解放軍の遺体だった。この遺体の多くは、コソヴォ解放軍がOSCE検証団の関心を引くために行なった急襲作戦による戦闘死だった」と既述された。

ECコソヴォ監視団も報告を作成し、2000年6月21日に旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYに提出されるが、直ちに機密書類に指定されて公表されなかった。NATO軍の空爆に関する不都合な内容のものは隠蔽されたのである。

オルブライト米国務長官が「ランブイエ和平交渉」の破綻を演出  

ラチャク村の事件後に米・英・独・仏・伊・露」の6ヵ国からなる「連絡調整グループ・CG」が仲介して開かれた「ランブイエ和

平交渉」は、コソヴォ自治州の住民側の交渉団の代表が米国によって指名され、30歳の若いタチ・コソヴォ解放軍の政治局長が団長となり、ルゴヴァ自治州暫定政府大統領は副代表に落とされた。この米国の作為は、もはやコソヴォ問題は話し合いで解決するものとは考えていないことを示している。このような米国の意図はあったものの「連絡調整グループ」は和平の成立に尽力し、和平は達成するかに見えた。

ところが、オルブライト米国務長官が途中から交渉の場に乗り込んで主導することになる。そして、コソヴォ自治州の独立確定に拘るタチKLA政治局長を言いくるめて和平案の受諾を表明させ、一方のユーゴ連邦側には「1,セルビアの治安部隊はすべて撤退すること。2,NATO軍をユーゴスラヴィア全土に駐留させ、その移動の自由を保障すること。3,NATO軍にはユーゴ連邦の法律は適用されない。4,駐留に伴う諸経費の一部については免除措置をとる」という、到底受け入れられない軍事条項の「付属B項」を突きつけて拒絶させた。その上でオルブライト米国務長官は、決裂の責任をすべてユーゴ連邦に被せてNATO軍の空爆を導入するという方策付けを行なったのである。

行方不明者が10万人に上るとのブラックプロパガンダを流布した米国

オルブライト米国務長官の方策を補強するように、ディヴィッド・シェーファー米コソヴォ問題担当大使はランブイエ和平交渉が決裂すると、「コソヴォの死者・行方不明者が10万人におよぶ可能性がある」という荒唐無稽な発言をした。数ヵ月間の戦闘で10万人単位の人が犠牲になる戦闘は、大会戦か無差別絨毯爆撃などの大規模なものでなければ起こらないが、米政府のプロパガンダは常にこのようなものであり、これが国際社会の世論を撹乱する役割を果してきたのである。

NATO軍が空爆作戦を実行する直前の99年1月のドイツ外務省諜報部報告では、「コソヴォ自治州において、アルバニア民族に関連した明白な政治的迫害があったとは立証できない。治安部隊の活動の標的となったのは、軍事的な反対勢力と、それを実際に支援した人々であった」と記述している。

「ユーゴ・コソヴォ空爆」はNATO軍事同盟の覇権政策

米国が主導するNATO軍は、OSCE・KVM検証団の5ヵ月におよぶ検証報告を検討することもなく、真偽の疑わしいラチ

ャク村事件だけを人道的破局のように喧伝し、「人道的介入」との耳あたりのいいスローガンを掲げ、国連安保理決議を回避して国際法上違法とされる地域的軍事同盟による「アライド・フォース作戦」を1999年3月24日に発動し、「ユーゴ・コソヴォ空爆」を開始する。

この作戦に動員されたNATO軍の艦隊は、米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」、英国海軍の軽空母「インヴィンシブル」、フランス海軍の空母「フォッシュ」、その他ミサイル巡洋艦2隻、駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻、潜水艦3隻、強襲揚陸艦1隻、その他イタリア、ギリシアなどのNATO諸国から参加した艦艇をアドリア海に配置して実行された。空軍は戦略爆撃機やイタリアのアビアーノNATO空軍基地などや、空母から発進する戦闘爆撃機など997機が空爆に参加した。

ドイツ空軍はこのとき、第2次大戦以後で初めて実戦に参加した。このNATO軍のアライド・フォース作戦による空爆は熾烈を極め、発電所や鉄道、橋などのインフラや放送局、工場、学校、病院、住宅などを修復不能なほどに徹底的に破壊した。この空爆は、「人道的」とは名ばかりの欧米支配者による政治的・懲罰的な軍事力行使であった。

英国はコソヴォ自治州における戦闘の実態を正確に把握していたがNATO軍の空爆に積極的に参加した

ロバートソン英国防相は、NATOの空爆が開始された3月24日の下院議会において、「コソヴォ解放軍の方が、セルビア当

局よりも多くの死者を出していた」と答弁した。このようにブレア政権下の英国政府はコソヴォの実情を把握していたにもかかわらず、英国軍はNATO軍の一員として空爆に積極的であった。緊急性が謳われた人道的軍事介入なるものは、コソヴォ紛争の実態とは無関係に実行されたのである。

一方、シェーファー米担当大使は空爆最中の5月半ばに再び発言し、「14歳から59歳のアルバニア人男性22万人が行方不明」という途方もない犠牲者を示唆する数字を挙げて「セルビア悪」を印象づけた上、「94年のルワンダと75年のカンボジアを除けば第2次大戦のいかなる地域に置いても、無防備な市民がこれほど残酷な意図の下に危害を加えられ、人道法に対する犯罪行為に遭遇することはコソヴォにおいて他にない」と発言し、国際法違反の「アライド・フォース作戦」には正当性があるのだとの印象を与える言説をメディアに撒き散らした。米政府はプリシュティナに情報・文化センターを設置していたことからすれば、コソヴォ紛争がどの程度のものかは十分に把握していたはずである。にもかかわらず、ボスニア内戦で行なわれたプロパガンダをまたもや繰り返したのである。英国政府はさすがにこの数は多すぎるとして1万人説に訂正したものの、それも何ら根拠のあるものではなかった。

能力に疑いを抱かせるほどの誇張をまき散らす米政府

クリーブランド・ブレイン・ディーラーズ紙のエリザベス・サリバンは、「誇張を主張する役人たちの能力に疑問を抱く」と99年11月に述べている。78日間におよんだNATO軍の空爆に屈したユーゴスラヴィア連邦は、NATO軍との間にひとまず和平協定を結び、コソヴォ自治州からセルビア治安部隊と警察を撤収させた。ユーゴ連邦は、NATO軍の軍事力によって自国の領土から警察まで退去させられるほどの屈辱を強いられたのである。

コソヴォ自治州の虐殺説が虚偽宣伝だったことが明らかとなる

ユーゴ・コソヴォ空爆が終結した後、コソヴォ自治州の虐殺者数1万人から22万人説についての調査が始められた。7月半

ば、NATO軍のコソヴォ平和安定化部隊・KFORは、発見した2150遺体のうち虐殺の犠牲者は850人との情報を報道陣に伝えた。それでも、米国務省は8000人の虐殺説に拘った。サンディ・バーガー国家安全保障担当補佐官は、7月の外交問題評議会で、リュベニッチ村の集団埋葬地について訴えた。しかし、リュベニッチ村では遺体が7体発見されたのみであった。

9月に、スペイン人検視官は2000体の検視を行なう見込みを立ててコソヴォに出かけて行ったが、集団埋葬地は見つから

ず、実際に検視を行なったのは187体だった。遺体には概して拷問の痕はなかった。検視チームの責任者のエミリオ・ペレス・プホルは、「せいぜい、コソヴォ自治州での死者は2500人を出ることは決してないだろう」との見解を述べている。死者の2500人が多いか少ないかは状況にもよるが、これはコソヴォ解放軍が武力による独立を目指したことで起こった戦闘による死者であることを考慮すれば、国連安保理決議を回避してあたかも世界大戦に対処するかのような海・空の戦力を投入した軍事力行使は明らかに国際法を逸脱した行為といえる。のちの検証によれば、コソヴォ紛争の全体の死者数はアルバニア系およびセルビア人双方合わせて1500人前後の犠牲者を出した低強度紛争にすぎない事例であった。

人権団体「国際人権連盟」と「フランス・リベルテ」は、1998年9月に、「7ヵ月にわたるコソヴォ自治州でのセルビア治安部隊とアルバニア系武装組織間の戦闘による犠牲者は700名を超える」との調査報告を発表している。この後にも戦闘が続いたことを考慮しても、コソヴォ紛争が低強度の紛争であることに変わりはない。米政府は、コソヴォに情報・文化センターなるCIAの拠点を設置し、情報を収集して実態を把握していながら、10万人や22万人が行方不明であるとして人道的に一刻の猶予もならないとのプロパガンダを流布して世界を欺き、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を誘導したのである。

コソヴォ解放軍は純粋なアルバニア系住民による「大アルバニア」の建設を目指す

セルビア治安部隊と警察の撤退後、NATO軍はコソヴォ自治州にKFORを進駐させ、国連は暫定統治機構としてUNMI

Kを設置した。UNMIKとKFORはコソヴォ自治州の非軍事化について協議し、コソヴォ解放軍・KLAを軽武装の「コソヴォ防衛隊」とすることで合意した。この取り決めに従いNATO軍のKFORはKLAに武器の供出を求めたが、コソヴォ解放軍が供出した装備は使えなくなった旧式銃など僅かな武器にとどまり、コソヴォ防衛隊への改組も名ばかりのものにすぎなかった。

コソヴォ防衛隊は、NATO軍の空爆の支援を得てセルビア治安部隊や警察を追い出せたことで、コソヴォの独立の実現可能性の先に「大アルバニア」が見えたと捉える。そこで、手始めにコソヴォ自治州を純粋なアルバニア人の地帯とするためにセルビア人住民の追放を実行しはじめた。誘拐や殺害や放火などの迫害を受けることになったセルビア人住民はコソヴォ自治州に居住することが難しくなり、10万人を超える人々が脱出した。残留したセルビア人住民も、駐留多国籍軍・KFORの保護がなければコソヴォ自治州に居住することが困難な事態となったのである。

「大アルバニア」建設を目論んだコソヴォ解放軍は武力闘争を仕掛ける

コソヴォ解放軍KLAは、NATO軍と国連に保護されたことからもはや恐れるものは何もなかった。そこで大アルバニア主義の実現を目指して蠢き回ることになる。KLAの意図は、セルビア共和国南部のアルバニア系住民居住地サンジャックとマケドニア共和国北部のアルバニア系住民居住地を割譲させ、コソヴォとアルバニアを含む大アルバニアとするところにあった。

まず、コソヴォとセルビアの間に和平協定に伴って設定された5キロ幅の軍事緩衝地帯に拠点をかまえ、セルビア側に武力攻撃を仕掛けた。さらに、2000年11月にセルビア南部のアルバニア系住民人の多数居住地に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドゥヴェジャ解放軍・LAPBM」を組織させ、武力闘争を開始する。しかし、KLAとLAPMBの武装闘争による勝利を実現する見込みは乏しく、ずるずると武力闘争が続けられた。KLAはここでもNATO軍の介入を期待したのだが、NATO軍はさすがに78日間の空爆に引き続きセルビアを爆撃することには躊躇いがあったのであろう、ここでは表向き目立った動きは示さなかった。

そこでKLAは、軍備の乏しいマケドニアに鉾先を向ける。北部地区のアルバニア系住民の居住地域に「民族解放軍・NL

A」を結成させ、2001年3月ころからマケドニア北部に本格的な進入を始めた。この地元住民を巻き込んだKLA・NLAの侵攻作戦は一時的に成功し、手薄なマケドニアの防衛線の隙をついて北部一帯を支配するまでになった。このときのKLA・NLAの侵攻作戦には、米軍事請負会社・MPRIが軍事顧問として加わっている。マケドニア政府は、このような事態の出来を予期して国連予防展開軍・UNPREDEPの配備を要請していたのだが、国際政治力の間でUNPREDEPは既に撤収していた。そのため自力で対処しなければならなくなっていたのである。そこで、マケドニア政府は急遽ウクライナから攻撃ヘリ2機と武器の貸与を受けて対抗した。

EUとNATOはコソヴォ解放軍の攻撃を止めるのではなくマケドニアの武器調達を止める

攻撃ヘリの活用でマケドニア政府軍が優勢になると、EUのソラナ共通外交・安保政策上級代表とロバートソンNATO事務総長が揃ってウクライナを訪問し、攻撃ヘリの貸与を停止するよう要請した。EUとNATOは、コソヴォ解放軍の攻撃を抑制させるのではなく、攻撃された側のマケドニアの軍備増強を抑制する手法を選択したのである。

ウクライナがEUとNATOの圧力に屈して武器の貸与を引き上げたため、マケドニア軍は再び苦況に陥った。この機に乗じたコソヴォ解放軍・KLA・NLAはマケドニアの主要都市テトヴォを占拠して北部一帯の30%を支配下に置き、首都のスコピエに迫るほどの勢いを見せた。この紛争の時期、マケドニアにはドイツ軍が紛争を予防するためのEUの一員として駐留していたが、KLA・NLAはこのドイツ駐留軍に激しい砲撃を浴びせた。このKLA・NLAの奇異な行為は、駐留ドイツ軍がマケドニアの国境地帯においてKLAがマケドニアに侵入することを厳しく取り締まっていたところにある。米軍はKLA・NLAに密かに武器を供給しており、KLA・NLAのドイツ軍への砲撃を容認していた。

米国がKLA・NLAに加担したのには、バルカンをめぐるドイツとの確執が絡んでいる。これを知悉していたドイツ軍も、密か

にマケドニア政府側に武器を供与していた。マケドニア政府はドイツ軍からの武器と東欧諸国などからの武器をかき集めて総力戦体制で反撃に転じ、ようやくKLA・NLAを壊滅寸前にまで追い込んだ。KLA・NLAが苦況に陥ったのを見て、NATO軍は停戦の仲介に乗り出して戦闘を停止させる。この時、米軍はマケドニア軍に包囲されたKLA・NLAとCIA要員および米軍事請負会社・MPRIの保護のため、バスやトラックを仕立てて安全地帯に護送するという行動を取った。これを見たマケドニア住民は憤りのあまり、護送車の車列の通行を妨害したり、車列に向かって投石をするという事件を起こした。このようにして、コソヴォ解放軍が企てたセルビア南部とマケドニア北部を分離併合する大アルバニア建設は不成功に終わる。

EU・NATO・国連がコソヴォの最終地位確定に動く

KLAの大アルバニア構想は失敗に終わったが、コソヴォ自治州を独立国とする執念を減退させたわけではなかった。コソ

ヴォ自治州政府は、空爆前に調印した「ランブイエ和平案」に含まれていた、3年後に独立の検討をするとの約定への履行を国際社会に迫りつづけた。ユーゴ・コソヴォ空爆に関与した西側諸国はコソヴォ自治政府の強硬な要求を無視できなくなり、2005年11月、国連はアハティサーリ元フィンランド大統領をコソヴォ国連事務総長特使に任命し、コソヴォ自治州の最終地位に関する仲介を委任する。NATOおよびEUの意図するコソヴォ自治州の最終地位は、アルバニア系住民の要望に添った形態を整えることにあった。もとより、セルビア共和国としては、コソヴォ自治州の地を手放すつもりはなかった。

アハティサーリ国連特使はこの困難な課題に対し、「国際危機グループ・ICG」が作成した提言を取り入れ、コソヴォ自治州

を名目としての独立国家とは明記しないが、国際的な監督下に外交権および司法、行政、軍事力を有する実質的な独立国家とするとの最終地位案を編み出した。当然ながら、この曖昧で奇妙な仲裁案はセルビア共和国およびアルバニア系住民の双方とも受け入れるところとはならなかった。そこで、アハティサーリ特使は、2007年3月にこの仲裁案を安保理に持ち込んで決議による強制的な解決を図った。しかし、問題をはらんだ仲裁案はベルギーなどの安保理理事国からも異論が出され、理事国の現地視察を経た上で、再度両当事者での交渉による解決に委ねられることになる。セルビア政府は大幅な自治権を付与するなどの譲歩を見せたが、コソヴォ自治州側は独立以外の選択肢はあり得ないと強硬に主張したために、交渉による解決は実質的に閉ざされた。

犯罪者たちの国コソヴォを援助する西側諸国

ドイツ連邦情報局・BNDは、2005年2月22日付けの報告書でコソヴォにおける政府上層部が絡んだ組織的犯罪について

次のように記述した。「コソヴォにおける政治・経済および国際的な組織犯罪の間を密接に結ぶ連結環が、例えば、タチ、ハラディナイ、ハリティのような主要な働きをする人物を通して存在する犯罪組織は不安定を助長する。彼らは急速に発展する彼らのビジネスにとって有害となりうる秩序ある国家の建設にはまるで関心がない」と。即ち、政権内部が組織犯罪ネットワークで動いているコソヴォは、国家の形態を為していないことをドイツは指摘したのである。

カルラ・デル・ポンテICTY元首席検察官は、退任後の2008年に発刊した回想録「追跡;私と軍の犯罪」の中で、「コソヴォ解放軍の司令官だったタチ、チェク、ハラディナイなどが、1999年のコソヴォ空爆後に、セルビア人やロマ人など少数民族およそ300人を拘束してアルバニアに拉致し、虐殺した揚げ句に臓器を摘出して売買していた。任期中に捜査を試みたが、各種機関の『沈黙の壁』に阻まれた」と記述した。この著述内容についてICTYは調査を否定したが、カルラ・デル・ポンテが彼らについて虚偽の記録を国際社会に公表するとは考えがたいので、事実の可能性が高い。この件について、ロシアも調査するよう要請したが、ICTYは調査しないと表明した。

コソヴォ自治州暫定政府はセルビアからの独立を強行する 

2008年1月9日、コソヴォ解放軍を母体とするコソヴォ民主党のタチ党首がコソヴォ自治州議会で首相に選出されると、独

立を宣言すると表明。2月17日にコソヴォ自治州議会は一方的な独立宣言を採択した。独立宣言をした当日の州都プリシュティナでは、喜びに包まれてお祭り騒ぎが見られた。コソヴォ自治州のセルビア人居住地区のミトロヴィツァでは国連の施設の敷地に手投げ弾を投げ込むなどの騒ぎがあり、ベオグラードでは市民が米国大使館に投石や火炎瓶を投げるなどの暴動となった。セルビア共和国の穏健派といわれるタディッチ大統領は、「一方的な独立宣言を認めれば、国際秩序に取り返しのつかないダメージを与える」と述べ、国連が独立宣言を無効とするよう求めた。

だが、米・英・独・仏・伊は直ちにコソヴォの独立を承認する。他方、スペインは留保し、ロシア、中国、ギリシア、ルーマニ

ア、スロヴァキア、キプロスは不支持を表明した。08年6月15日にコソヴォ自治州は憲法を発効させ、コソヴォ共和国となったと宣言した。しかし、この強引な分離独立は必ずしも世界の認めるところとはならず、2009年2月の1周年を経た時点でも192の国連加盟国の内、コソヴォ共和国を承認したのは54ヵ国にとどまった。その後、承認する国は徐々に増え続け、2015年の段階では111ヵ国に達している。

人口動態を見ると「民族浄化」を実行したのはアルバニア系住民

コソヴォ紛争では、セルビア共和国が自治州の自治権を奪ったばかりでなく、民族浄化を行なったというプロパガンダが流

布され、一般にそれが信じられている。しかし、コソヴォ自治州の人口動態を見ると、逆にセルビア系住民が迫害を受け続けた姿が浮かび上がってくる。コソヴォ自治州の民族比は、1953年にはアルバニア系住民は64%にすぎず、セルビア人とモンテ・ネグロ人は28%を占めていた。その後、共和国昇格を求めたアルバニア系住民の暴動の頻発と、多勢を頼んでの嫌がらせなどによってセルビア人住民の比率は減少し続け、1991年にはアルバニア系住民の比率が82%に上昇し、セルビア系住民は反比例して10%に低下した。さらに、99年のNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆後は激変し、2009年現在の人口比は、アルバニア系住民92%、セルビア系住民4%、その他4%となっている。この数字を比較する限り、セルビア共和国がアルバニア系住民を民族浄化したという徴候は見られないばかりか、それが逆だったことをこの人口動態は明瞭に示している。

コソヴォのアルバニア系住民は、コソヴォを純粋アルバニア系住民の地域とすることを目指しているのか、2004年3月にはコソヴォにあったセルビア正教会や修道院10数カ所を襲撃して破壊した。これに対しセルビア人は翌日、セルビアのベオグラードにあったモスクを襲撃して放火した。無意味な抗争は続いているのである。

コソヴォ自治州の人口動態

アルバニア系       セルビア人     モンテ・ネグロ人     ムスリム人            ロマ人・その他

1953年;  64.0%、   セルビア人+モンテ・ネグロ人・27.9%         8.1%

1981年;  77.5%         13.3%          1.7%              3.7%            3.8%

1991年;  82.0%         10.0%          1.0%              3.0%            2.0%

2009年;  92.0%          4.5%                                               3.5%

コソヴォはNATOの東方拡大の拠点の1つとして位置づけられた

ともあれ、コソヴォ共和国はNATO諸国の強力な軍事的支援を受けて独立国を名乗ることになった。コソヴォ共和国は

独立に導いた人々を顕彰し、首都のプリシュティナにはクリントン米元大統領の3mの巨大な彫像を建て、主要な街路には

ブッシュ米元大統領、オルブライト米元国務長官、ウォーカーOSCE・KVM団長、ブレア英元首相の名前が付けられた。

米国は当然の権利として、コソヴォ国内に広大なボンド・スティール軍事基地とモンテイノス軍事基地を建設し、バルカンからヨーロッパと中東およびロシアを視野においた軍事拠点を設置した。一方、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆から10年を経ても経済再建は進まず、失業率は45%にものぼり、1人あたりのGDPは1770ユーロでヨーロッパでは最低水準である。国民の生活は、国際援助および国外のディアスポラや出稼ぎの仕送りと麻薬取引によって辛うじて生活が維持されている。

腐敗した者たちによって運営されている国家であっても、EUと米国はこの国を独立に導いた経緯から国家を崩壊させるとい

う選択肢はあり得ず、そのために援助資金を流し続けており、日本も参加させられている。このコソヴォ共和国がEUに加盟することはほとんど望めないが、NATOは東方拡大政策の中でコソヴォ共和国を加盟させるための働きかけを続け、コソヴォ共和国もそれを強く望んでいる。そこで2009年1月、コソヴォ解放軍・KLAが衣替えしたコソヴォ防衛隊・TMKをNATO軍の規格に合う「コソヴォ治安部隊」に昇格させ、NATO軍が訓練を開始した。スタノヴァツ・コソヴォ国防相は、「新コソヴォ軍がNATO軍のアフガニスタン作戦や将来のNATO軍の作戦に、バルカン諸国軍ともども参加するために訓練を実施しつつある」と述べている。

独立を強行したコソヴォ共和国はセルビア人地域の分離は認めず

アルバニア系住民とセルビア人住民の融和は、ほとんど不可能な状態である。ユーゴ・コソヴォ空爆から10年が経過した

後も、セルビア人住民に対するアルバニア系住民の迫害は続いており、避難したセルビア人住民は60%を超えているが、

現在も北部を中心に4%・8万人ほどが居住している。迫害を受けながらもセルビア人住民がコソヴォ自治州に残留し得てい

るのは、NATO軍主体の和平安定化部隊・KFOR、およびその後を継いだEULEXがアルバニア系民兵組織などの襲撃

から保護しているからである。その後EULEXは削減し続けているが、それが撤収した後にセルビア人住民が居住できる可

能性は極めて低い。

国連の中からもセルビア人地域を分離させる案が出ているが、コソヴォ共和国政府は武力によってセルビア共和国からの分離独立を果たした経緯があるにも関わらず、セルビア人住民地域の分離には猛然と反発している。当然ながらEUも米国も許容しない。米国にとって軍事基地の提供国としてコソヴォは貴重な存在たり得ているからである。

ユーゴ・コソヴォ空爆の国際的な波及

ユーゴ・コソヴォ空爆に加わった西側諸国はコソヴォの独立は「特例である」と主張しているが、ロシアと中国に与えた影響は多大なものがあった。当時のエリツィン大統領のロシア政権は親米路線に貫かれており、NATO軍が安保理決議なしで域外のユーゴ・コソヴォ空爆のような大規模な軍事力行使をするとは想定していなかったからである。当時のロシアの防衛政策は体制転換期で財政的な余裕がなかったことと併せて、戦闘力については西側諸国に対してかなり低水準なものであることを認識していながら即応体制の増強をしようとしていなかった。このため、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を目の当たりにして安全保障関連者にはかなりの緊張が走った。

ロシアと中国は「新戦略概念」に基づく軍備強化を図ることになる

そこで、ロシアはユーゴ・コソヴォ空爆が開始された直後の99年4月には緊急安全保障会議を開き、早くも核抑止力戦略についての検討が行なわれた。次いで5月には国家安全保障概念および軍事ドクトリンの見直しの審議を深めた。そして、10月には「新国家安全保障概念」を策定し、議会に諮る。議会は直ちに審議を進め、翌2000年1月にはそれを承認。4月には「軍事ドクトリン」をも承認するという速やかな対応を取った。ロシアはこの時を契機に戦略爆撃機などの戦略兵器などの増強を図る。これにはのちに大統領になるプーチンが安全保障会議書記として関与していた。2001年2月には、核戦争を想定した大陸間弾道ミサイル射撃訓練を含む軍事演習を西側と極東の2か所で同時に行なうほどの対処をせざるを得なくさせることになったのである。

ロシアはNATOの軍事基地化を危惧してクリミア半島を併合

2014年の米国が絡んだウクライナ政変時に、ロシアはクリミア半島がロシア人住民の多数居住地域であることを利用して住民投票を行わせて併合するという強硬手段を採った。国際社会がこれを非難すると、大統領となっていたプーチンは「コソヴォの例がある」と述べた。クリミア半島にNATOの軍事基地が建設されれば、ロシアの海軍は黒海への出口を塞さがれることになる。ロシアとしては、そのような事態は避けなければならない。これは「コソヴォは例外である」との言説を安穏として受け入れられるような情況ではない。すなわち、NATOの軍事行動はウクライナとの外交交渉を回避する口実をも与えることになったのである。

中国はNATOが仮想敵国になりうると分析して軍備を再編する

中国はNATO軍を自国に対する脅威とは見なしていなかったことから、国防の基本を専守防衛体制で十分と捉えていた。しかし、ベオグラードの中国大使館がNATO軍のミサイルの標的にされたことから、ロシア同様従来の安全保障概念の想定が打ち砕かれることになった。直ちに将来戦に対する検討を始め、地上戦を想定していた陸軍の兵員数を見直して削減し、人材育成による兵員の知能化など総合作戦能力の向上を図ることになる。即ち南沙諸島の軍事基地化も中国の新戦略概念の延長上になされたものであった。このように、ユーゴ・コソヴォ空爆は世界の軍事的緊張を高める負の側面を与えたのである。そして中・露首脳は頻繁に接触し、中・露による戦略的結びつきを深めていくことになる。中・露両国はNATOの脅威に加えて日米軍事同盟も脅威であると分析し、その対応策も取り始めた。

コソヴォ解放軍の中枢は凶悪な犯罪者集団であったが特別法廷が審理を開始する

コソヴォ解放軍の犯罪は、2010年に、スイス人のマーティー欧州議会議員が現地調査をした報告書を欧州議会に提出したことから再び表面化し、欧州議会の委員会は調査をすると約した。マーティー欧州議会議員は調査報告の中で、「多数のアルバニア系住民が『対敵協力の疑い』で収容所に収監され、ルゴヴァ自治州大統領のコソヴォ民主連盟・LDKの支持者たちもKLAに暗殺された。プリシュティナの日刊紙「ボタ・ソト」の記者もKLAに暗殺されている。『ドレニツァ・グループ』と名付けられたKLAの主要メンバーであるH・タチ、ハラディナイ、X・ハリティ、A・シュラ、T・リマイ、K・ヴェセリが臓器売買、麻薬取引売春などに関係している」と記述している。これらはのちに、KLAが設立した「コソヴォ民主党」のメンバーであるN・ブラツァは、ユーゴ・コソヴォ空爆後にコソヴォ諜報機関が殺害した人数は600人から1000人に上ると明言している。プリシュティナの「ボタ・ソト」紙によれば「空爆後にコソヴォで殺害された人数は3000人に上る」と記述した。即ち、人道的介入と謳われたユーゴ・コソヴォ空爆前の紛争における犠牲数よりも遙かに多数の人々がコソヴォでKLAに殺害され続けていたのである。

この犯罪は、ICTYの後継組織として設置された特別法廷がこれの審理を決める。特別法廷の審理を受けることになった、ハラディナイ・コソヴォ首相は2019年に辞任し、2020年には大統領に就任していたタチも辞任を余儀なくされた。2021年の段階で、この2者の犯罪の審理は続けられている。

EUのお荷物であり続けるコソヴォ共和国

EUは、コソヴォの独立に関与して独立をさせたものの、コソヴォ解放軍・KLAから政治家に成り上がった者たちは政治・経済の運営に熱意を示さない。そのため最貧国から脱出できず、失業率も30%を超える状態が続いており、ユーゴ・コソヴォ空爆から20年を経ても外部の援助がないと国家として存続し得ない。EUは割の合わない莫大な援助をコソヴォに送り続けざるを得なくなっている。

そののち、反シリア政府の戦闘員としてコソヴォのアルバニア系住民がもっとも多い供給源となっている。

ユーゴ・コソヴォ空爆をめぐる各界の発言

(1),1999年1月16日、ウィリアム・ウォーカーOSCE・KVM団長はラチャク村における虐殺を捏造した発言で、「私が個人的に見たものから、この犯罪を大虐殺、人間に対する罪だと評すること、またセルビア政府と治安部隊を告訴することを躊躇わない」と述べる。

(2),1999年1月16日、マデレーン・オルブライト国務長官は、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を、「1938年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえ、「1999年に、こうした野蛮な民族浄化が行なわれることを見過ごすことはできない」と述べる。

(3),1999年1月17日、ハヴィエル・ソラナNATO事務総長は「今回の虐殺を命じた者と行なった者は、ICTYの要請に応じて身柄を引き渡されなければならない」と強く非難。

(4),1999年1月18日、ロビン・クック外相は英下院議会で、「コソヴォ解放軍・KLAは、停戦違反を繰り返し、今週までの犠牲者は、治安部隊が出したものより多い」と答弁。

(5),1999年1月28日、フランスのル・モンド紙はラチャク村の事件についてOSCE検証団の証言などから、「証言者は一部の遺体が実際の死亡現場から動かされていたと指摘。アルバニア系武装勢力による偽装の疑いがある」と報じる。

(6),1999年1月28日、米国のワシントン・ポスト紙は、「ラチャク村での虐殺は、セルビア政府高官が治安部隊13人の殺害を受けてコソヴォ解放軍の掃討作戦を命令。事件発覚後は、ユーゴ連邦のシャイノヴィチ副首相が治安部隊司令官に対し、遺体を部隊との戦闘で死亡したように偽装するように指示した」と報じる。

(7),1999年3月19日、ローランド・キースOSCE・KVMプリシュティナ現地事務所長は、「校舎の砲撃など、セルビア側による理性を越えた破壊は見られたが、計画された政策というにはほど遠かった。あの段階を民族浄化とは言えない」と語る。

(8), 1999年3月24日、ジョージ・ロバートソン英国防相は英下院議会において、「1999年1月までは、コソヴォ解放軍・KLAの方がセルビア当局よりも多くの死者を出していた」と答弁。

(9), 1999年3月24日、トニー・ブレア英首相は、「この戦争は新たな性格のものであり、我々は価値のため、あるエスニックグループ全体に対する残虐な弾圧を放置することはしないという新たな国際主義のために戦うのだ」と語る。

(10),1999年3月24日、ウェズレー・クラークNATO欧州軍司令官は、「政治家たちが計画したNATO軍の作戦は、セルビア人による民族浄化を防ぐものではなかった。また、セルビアとコソヴォのMUP(内務警察組織)に対する戦争を行なうものでもなかった。こうした意図は全くなかった。それが目的ではなかった」と述べる。

<参照;タチ、チェク、ハラディナイ、コソヴォ解放軍、NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆>

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15,「ヴォイヴォディナ自治州」

バルカン地域にインド・ヨーロッパ語族が居住し始めたのは紀元前4200年ごろといわれる。バルカンではこのころ既に農耕・牧畜が行なわれていた。

ヴォイヴォディナ自治州はドナウ川とティサ川の流域を含み、パンノニア平原の南端に位置する平原地帯で、ドナウ、バナト、サヴァ、スレムなどからなっている。険しい山脈などで隔たれることがないために、諸民族が移住する際の通過地点ともなった。ヴォイヴォディナに南スラヴ族が居住するようになったのは6世紀後半である。

現在の面積は2万1800平方キロで、セルビア共和国の自治州を構成し、面積の21%を占める。人口は1991年の国勢調査では203万人。主な民族は、セルビア人が57.2%・116万人、ハンガリー人が16.9%・34万5000人、ユーゴスラヴィア人が8.4%・17万人、クロアチア人が4.8%・9万7000人、モンテ・ネグロ人が2.2%・4万5000人、スロヴェニア人が0.8%・2万6000人、その他9.7%・19万7000人。民族の数は20を超え、多民族国家旧ユーゴスラヴィアの中でも特異な地域である。

公用語はこの地域の歴史を反映してセルビア語、ハンガリー語、クロアチア語、スロヴァキア語、ルーマニア語、ルシン語の6言語が使われている。ルシン語はベラルーシなどの東スラヴ民族の話す言語を指す。旧ユーゴスラヴィアにおけるハンガリー人の人口のおよそ90%がヴォイヴォディナに居住している。

境界は、ハンガリー、ルーマニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナおよびセルビアと接し、過去にバナトと言われた地域の西半分を含む。州都ノヴィ・サド市は、セルビア共和国第2の都市である。  

列強と民族主義に翻弄されたヴォイヴォディナ

ヴォイヴォディナは地域の特殊性から隣接地バナトとともに強国に翻弄され続けた。主な支配者を挙げると、BC1世紀にはダキア人、AD1世紀にはローマ帝国、5世紀にはフン族および東ゴート王国、6世紀には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、8世紀にはフランク王国、9世紀にはブルガリア帝国に支配され、10世紀にハンガリー王国が支配した際にはハンガリー人が増加した。

1346年、ビザンツ帝国で王位継承権の争いが起こり、ヨハネス6世がオスマン侯国の力を借りるために、侯国のオルハンに皇女テオドラ降嫁させて支援を求めた。オスマン侯国はこの期待に応えてバルカンに侵攻し、ヨハネス6世を勝利に導いた。この勝利によってヨハネス6世はビザンツ帝国の皇帝に即位する。これがオスマン侯国のバルカン介入への誘因となり、皮肉にもやがてビザンツ帝国を崩壊させることになる。

オスマン帝国のバルカン支配

オスマン帝国は1360年には早くもバルカンの主要都市エディルネを攻略し、1378年にテッサロニキを獲保。1389年6月にはバルカンの中で未だ臣従しないセルビア公国への攻略に取りかかり、ここにセルビア公国とオスマン帝国が激突することになった。セルビアのネマニッチ朝のラザール公がキリスト教徒の諸侯を率いてコソヴォ・ポーリエでオスマン帝国軍を迎え撃ち、ムラトⅠ世を討ち取るものの内部の裏切りもあってラザール公は捕らえられて斬首され、セルビアは敗北した。セルビア人はこの敗北を喫した6月28日を屈辱の日であるとともに英雄譚として記憶し、「聖ヴィドの日」として記念することになる。さらにオスマン帝国はバルカン諸国の支配領域を拡大し続け、遂に1453年にコンスタンチノーブルを陥落させるに至り、1000年余り続いたビザンツ帝国を消滅させた。そして、オスマン帝国は1459年にセルビア全土を支配する。

オスマン帝国の北進に伴ってヴォイヴォディナも支配下に入る

さらに、オスマン帝国のバルカン侵攻は進み、1463年にボスニアを征服し、1483年にはヘルツェゴヴィナを占領。1499年にモンテ・ネグロを支配下に置き、1526年にはハンガリー領モハーチに侵攻してハンガリー軍を破った。このモハーチの戦いでハンガリー領となっていたヴォイヴォディナとトランシルヴァニアは割譲され、オスマン帝国に支配されることになる。この敗北によってハンガリー人はヴォイヴォディナからハンガリー領の北部に移動し、その空域を埋めるようにしてセルビア人が移住した。

このように16世紀にはオスマン帝国は隆盛を極め、1529年には15万の兵を率いて第1次ウィーン包囲を行なうまでになる。この第1次包囲はオスマン帝国軍が3週間で撤収したため、ウィーンが攻略されることだけは免れた。

ハプスブルク帝国は、ウィーンの防衛には成功したものの足元のハンガリーまで占領されたことに危機感を抱き、オスマン帝国に対する防御のため、南部の地域に軍政国境地帯(クライネ)を設置する。ハプスブルク帝国が構想した軍政国境地帯はアドリア海に面するダルマツィアからボスニアの国境地帯沿いにヴォイヴォディナやバナトを経由してトランシルヴァニアに及ぶ長大なものであった。ハプスブルク帝国は、この地帯の防衛を強化するためにセルビア人、ルーマニア人、ハンガリー人、スロヴァキア人、ドイツ人などの民族を大量に屯田兵として入植させた。ヴォイヴォディナが多民族の混住する地域となったのはこのような経緯もある。ヴォイヴォディナの地名も、この軍政国境地帯の軍司令官・ヴォイヴォダの名からきている。

しかし、このハプスブルク帝国の軍政国境地帯はさほどの有効性を発揮せず、1683年には20万の大軍を率いたオスマン帝国軍によっては再びウィーンが包囲されることになる。この第2次ウィーン包囲の戦闘でハンガリーは蹂躙され、ウィーンの陥落も目前に迫るまでになった。ところが、土壇場でポーランド軍が奇襲攻撃を仕掛けてオスマン帝国軍に手痛い打撃を与えたため、ハスブルク帝国は崩壊を免れた。とはいえ、ヴォイヴォディナを含むこの地域の一部はオスマン帝国に占領されたままであった。このウィーン第2次包囲線に敗北した際、オスマン帝国軍は大量のコーヒー豆を残したことで、ウィーンにコーヒー文化が花開くことになる。

オスマン帝国のウィーン包囲の敗北は往時の隆盛に陰りを見せるほどのものであったが、それでもバルカン地域の支配は続いた。そのため、オスマン帝国の圧迫を回避するために1691年、セルビア正教会総主教のアルセニエがセルビア人1万人余りを引き連れてヴォイヴォディナに移住した。

ハプスブルク帝国は軍政国境地帯の設置のみではオスマン帝国に対抗できないと悟り、1684年にヴェネツィアおよびポーランドと神聖同盟を結成した。そして、オスマン帝国との間でバルカン地域の争奪を巡って大トルコ戦争といわれる戦闘を繰り返すことになる。この戦争後の1699年に結ばれたでカルロヴィッツ条約で、ヴォイヴォディナはハプスブルク帝国の支配下に入り、ドイツ人が多数移住することになる。なおハプスブルク帝国とオスマン帝国との戦いは続き、オスマン帝国は後退を余儀なくされ1718年にパサロヴィッツ条約でセルビアの大部分をハプスブルク帝国に割譲した。

バルカン諸国に芽生えた民族主義が次第に国家形成へと進む

1804年、セルビアのカラジョルジェ率いるセルビアのシュマディアの自治組織が第1次蜂起を起こし、オスマン帝国との戦いはセルビア全土に広がった。この第1次蜂起の戦闘は9年余にわたって繰り広げられたが、13年に至ってオスマン帝国に鎮圧される。しかし、2年後の1815年にはオブレノヴィチが率いたセルビア第2次蜂起が起こされた。この蜂起はセルビア側が自治権を得ることで妥協したことにより、セルビアに自治公国が誕生した。

1848年にフランスで始まった革命はヨーロッパ全域へと広がりを見せてナショナリズムを刺激し、ヴォイヴォディナでもハンガリー人とセルビア人の間で激しい武力衝突が起こった。この武力紛争はハプスブルク帝国が介入したことによってセルビア人側が勝利する形になり、1849年にセルビア・ヴォイヴォディナ自治公国が誕生することになった。とはいえ、この激しい武力紛争で主要な都市であったノヴィ・サドの建物はほとんどが破壊されたことから、現在の建物群の多くはそれ以後に建設されたものである。

1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立すると、ハンガリーは隣接するヴォイヴォディナへの影響力を行使するようになり、軍政国境地帯の存在がヴォイヴォディナ公国への施政に悪影響を及ぼしているとしてその廃止をハプスブルク帝国に要請した。この要請を受けてハプスブルク帝国はおよそ2世紀間続いた軍政国境地帯制度を1881年に廃止する。しかし、軍政国境地帯の一部の地域にクライネの単数としてのクライナの地名が残された。

オーストリア・ハンガリー二重帝国の治世間にハンガリーは経済成長期に入り、ヴォイヴォディナもその恩恵を受けた。ヴォイヴォディナが辺境にありながら、旧ユーゴ連邦の中ではスロヴェニア、クロアチアに次ぐ豊かな地域となったのはこのような素地がある。

露土戦争でセルビア、モンテ・ネグロ、ルーマニアの独立が認められる

1875年、オスマン帝国の支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナで重税に反発した農民が武装蜂起を起こした。ボスニアの蜂起はセルビアやモンテ・ネグロにも波及し、オスマン帝国はその収拾に手を焼いた。それに乗じたロシア帝国がオスマン帝国に対し、1877年に宣戦布告して露土戦争を起こす。バルカン諸国の反乱で消耗していたオスマン帝国はロシア帝国の攻撃に頑強に抵抗をしたものの要の要塞が陥落すると敗走し、コンスタンチノーブル近郊にまで攻め込まれた。ここにいたってオスマン帝国は講和を申し入れる。

露土戦争後のサン・ステファノ条約およびベルリン条約でセルビアとモンテ・ネグロおよびルーマニアの独立が承認され、ブルガリアは自治公国とされた。しかし、漁夫の利を得る形でハプスブルク帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナを支配領域として確保する。これに対してボスニアの住民が反乱を起こすが、ハプスブルク帝国は大軍を派遣してこれを鎮圧した。そして、1908年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合してしまう。この一方的な措置は列強の警戒にとどまらず、ボスニアやセルビア内部の反発を招き、「青年ボスニア運動」やセルビア人将校による「黒手組」などが結成されるなど、反ハプスブルク帝国への秘密結社を多数簇生させることになった。このハプスブルク帝国によるボスニア併合が第1次大戦の遠因となる。

バルカン4ヵ国は同盟を結成してバルカン戦争を起こしオスマン帝国を排除する

列強の一角を占めていたロシア帝国はこのハプスブルク帝国の拡張政策を危惧し、バルカン諸国にバルカン同盟を結成するよう働きかけた。この働きかけに応じたバルカン諸国は、1912年3月にセルビアとブルガリアが同盟条約を締結し、5月にはギリシアとブルガリアが同盟を結び、8月にはモンテ・ネグロとブルガリア、9月にはモンテ・ネグロとセルビアが同盟条約を結んだことで、交差した形の4ヵ国による「バルカン同盟」が成立した。この同盟条約を成立させる過程で、バルカン諸国はロシアの思惑とは異なり、同盟の対象をハプスブルク帝国からオスマン帝国へと変容させ、バルカンのマケドニア、アルバニア、トラキアをオスマン帝国から奪取することを目標に掲げることになる。そして、9月に4ヵ国同盟が成立すると、翌10月にはモンテ・ネグロがオスマン帝国に宣戦を布告し、次いでセルビアとブルガリアおよびギリシアがオスマン帝国に宣戦布告したことによって第1次バルカン戦争が開始された。備えを怠っていたオスマン帝国軍は敗走し、バルカン同盟側が勝利する。

しかし、マケドニアの領有をめぐってブルガリアが不満を抱き、マケドニアに進駐していたギリシアとセルビアの部隊に攻撃を仕掛けて第2次バルカン戦争を始めてしまう。この無思慮な武力行使は周囲の国々の反発を招くことになり、ルーマニアやオスマン帝国も参戦したためにブルガリアは惨めな敗北を喫した。この後に開かれたブカレスト条約でブルガリアは部分的にピリン・マケドニアの支配権は残されたものの、マケドニアの大半はセルビアとギリシアに分割された上、ルーマニアに南ドブルジャを割譲させられた。バルカン戦争によってバルカン同盟が目指したオスマン帝国のバルカン支配領域の削減には概ね成功したとはいえ、ハプスブルク帝国による南スラヴ民族居住地域の占領状態問題が残されていた。

第3次バルカン戦争が第1次大戦へと拡大

バルカン戦争が終結した翌14年6月、ハプスブルク帝国の皇太子フェルディナンドがボスニアで行なわれた軍事演習を観閲するためにサラエヴォを訪れた。これを好機と捉えたセルビア人将校団の黒手組が爆弾と銃撃でフェルディナンド皇太子を暗殺するという「サラエヴォ事件」を起こした。ロシアが戦乱を回避するために仲介し、セルビア王国政府が譲歩案をハプスブルク帝国に提出するがハプスブルク帝国はこれを許容せず、ドイツ帝国との同盟を確認するとセルビア王国に最後通牒を突き付けて7月28日に宣戦布告した。

英・仏・露の三国協商を形成していたロシアが7月30日に総動員令を出してドイツに宣戦を布告すると、これに応じて8月1日にドイツ帝国がロシアに宣戦を布告。フランスが8月1日に総動員令を発すると、ドイツは英・仏との戦争に備えて8月2日にベルギーに領域通過許可を要求してルクセンブルクを占領し、8月3日にはフランスに宣戦を布告した。これを見てイギリスは8月4日に宣戦を布告。こうして第3次バルカン戦争ともいえる紛争は、想定外の展開を見せて第1次大戦へと変貌して行った。

バルカン諸国はそれぞれに領土的野心を抱いて成り行きを見ていたが、オスマン帝国は14年8月に同盟側と秘密協定を結び、11月になると協商側に宣戦布告して交戦状態に入る。ブルガリアはマケドニア領有の野心を抱いて15年10月に同盟側に立って三国協商側に宣戦布告。ルーマニアは様子見を決め込んで中立を宣言していたが、16年8月に至って協商側に立って参戦したものの17年11月にロシア革命が起こると、ドイツとの間で休戦協定を結ぶ。ギリシアは親協商派の宰相と親独派の国王に二分して態度が定まらなかった。しかし、親協商派のヴェニゼロス宰相が16年10月に臨時政府を樹立して協商側に立ち、親独派の国王に退位を迫って退位させると、17年7月に対独宣戦布告をした。

第1次大戦は総力戦となり膨大な被害を出す

第1次大戦は泥沼に入り込んだようにずるずると続けられ、セルビアとハプスブルク帝国との紛争は列強の思惑を超えて総力戦の様相を呈することになる。この間兵器は目覚ましい発達を遂げ、ドイツは2015年に毒ガスを投入し、それに応じて協商側も毒ガスを使用した。航空機は緒戦では偵察用に使われたがやがて空中戦を行うようになり、戦車も当初は塹壕戦用に開発されたのがやがて戦車戦を行なうまでに進んだ。

その過程で同盟側の主役がハプスブルク帝国からドイツ帝国に移っていく。1917年4月に米国が連合国として参戦したことで戦況が変化することになった。18年9月に連合軍はバルカン諸国からブルガリアおよびドイツ軍への反撃を開始し、ブルガリアはたちまち降服する。セルビア軍は11月にベオグラードを奪還し、これを見たルーマニアも再び11月に参戦してハプスブルク帝国同盟側に対して攻撃を開始した。この攻撃を受けても、ハプスブルク帝国の皇帝カールⅠ世は退位を拒否したが、11月3日に連合国との間に事実上の降服を意味する休戦協定を締結し、11月11日に皇帝が退位を表明したことによってハプスブルク帝国は終焉を迎え、オーストリア共和国となる。

ドイツでも4年余り続いた戦争によって生活が悪化したことから厭戦気分が高まり、兵士の中から命令を拒否するという形でドイツ革命へと発展し、居場所を喪ったヴィルヘルム皇帝が11月10日にオランダに亡命し、カール世が退位した同日に降服文書に署名したことで第1次大戦は終結を迎えた。

この大戦で、帝国を称していた、ドイツ帝国、ハプスブルク帝国、オスマン帝国、ロシア帝国、ブルガリア帝国などほとんどの帝国が崩壊した。

総力戦を呈した第1次大戦における人的損害は膨大なものとなり、両陣営の兵員の動員数は6000万人を超え、1000万人が死亡し、2000万人が戦傷者となった。被害は一般住民にも及び、700万人が死亡し、多数の戦傷者を出した。大戦に巻き込まれたヨーロッパ諸国は疲弊し、戦中から発生していた「スペイン風邪」は全世界に広がり4000万人前後が死亡するほどの被害をもたらした。ドイツに課せられた賠償金は1320億金ドイツ・マルクという途方もないものとなる。これがドイツ国民の中に敵愾心を育み、ナチス・ドイツの台頭を招くことになる。

講和条約でユーゴスラヴィア王国の範囲が確定する

大戦後、ヴォイヴォディナでは議会がセルビア王国への統合を決議する。その後の講和会議におけるラバロ条約で1918年12月に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の建国が承認され、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチが摂政に就任した。領域はスロヴェニア(ステリア、カルニオリア、イストリア)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア(ザグレブ、ダルマツィア)、セルビア、マケドニアを包含。さらに、1920年に結ばれたトリアノン条約でヴォイヴォディナはバラニャ、バチカ、バナトの西半分を含む地域として王国に併合されることになる。

カラジョルジェヴィチは1921年8月に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の国王に就くと次第に独裁色を強め、29年には憲法を停止し、議会を解散して「ユーゴスラヴィア王国」として独裁体制を固めた。このことがクロアチアの反発を招き、政治結社を数多生み出すことになる。中でも世界史的な傾向となっていたファシズムに影響を受けたファシスト・グループ「ウスタシャ」はファッシズム国家イタリアに拠点を置き、ユーゴスラヴィア王国をテロリズムによって打倒することを公言する。この政治的緊張の中、アレクサンダル・ユーゴ国王はフランスを訪れる。これを好機と捉えたウスタシャは、フランス外相とともにアレクサンダル独裁王をマルセイユで暗殺する。フランスはイタリア政府に対し、亡命していたアンテ・パヴェリッチ党首を引き渡すよう要求するがムッソリーニ・ファッシズム政権はこれを拒否した。

ドイツにおけるナチスの台頭と第2次大戦の勃発

この間ドイツでは、世界恐慌の影響を受けて不満を募らせていた国民を扇動することに成功したヒトラーのナチスが台頭した。ヒトラーは1933年に首相に就任すると、すぐさま国会を解散し、総選挙後に共産党の議席を剥奪した。次いで「全権委任法」を制定して憲法を停止し、ナチスによる独裁体制を敷いた。さらに、同33年に国連およびジュネーブ軍縮条約から脱退して軍備増強に着手する。34年にポーランドとの間に不可侵条約を結び、ヒンデンブルク大統領が死去するとヒトラーは総統兼首相に就任して独裁体制を固めた。35年にはザール地方をドイツに再編入し、ユダヤ人の公民権法を剥奪する。36年にはヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を破棄し、日独防共協定を締結。次いで37年にイタリアとも防共協定を結ぶ。38年には親ナチ政権と化していたオーストリアにナチス・ドイツ軍を進駐させて合邦化した。さらに、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の帰属をめぐって英・仏・伊・独の首脳を集めてミュンヘン会談を開かせ、ドイツへの帰属を認めさせた。

そして、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結すると、ポーランドとの間で不可侵条約を締結していたにもかかわらず、9月1日にポーランドに侵攻して第2次大戦を開始した。これに対して英・仏が9月3日にナチス・ドイツに宣戦を布告する。英・仏は宣戦を布告したものの有効な戦線を構築できないでいた。

これを見たナチス・ドイツは先制攻撃を仕掛け、40年4月にはデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを占領。宣戦布告に伴って大陸に派遣していた英国の大陸派遣軍を仏領ダンケルクに追い詰めて撤退させ、6月にはフランスの要塞マジノ線を迂回する形で防御線を突破してパリに入城し、ヒトラーは勝利宣言を発した。なお、ナチス・ドイツは「海獅子作戦」を発動して英本土への上陸作戦を企てるが、英国の巧みな抵抗を受けてこれを一時的に断念する。

そこで、ソ連を植民地化してその物量をもって英国への再侵攻作戦へと切り替え、対ソ戦の侵攻作戦の立案を命じた。

対ソ戦バルバロッサ作戦を実行に移すためにバルカン諸国を蹂躙する

ヒトラーは対ソ戦を実行に移すためには、軍需物資の調達地域の拡大と侵攻ルートの安定を確保する必要があると考量した。そして、バルカン諸国の中で未だ中立に拘っているユーゴスラヴィア王国とギリシア王国を従わせることを企図する。しかし、ギリシアは英国の援助の手が伸びていることから同盟に加盟させる可能性がなかったため、対ギリシア侵攻計画の「マリタ作戦」を策定した。ユーゴスラヴィア王国に対しては、威しと甘言を弄して92年3月25日に同盟に加入させる。ところが、第1次大戦で敵対したドイツとの同盟を望まなかった市民と軍部の一部がクーデターを起こし、同盟への加盟を破棄するよう求める。狼狽した王国政府はドイツに対して加盟条約は有効だと弁明するが、ヒトラーはこれを許容せず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴスラヴィアにも拡張適用してオーストリア、ハンガリー、ブルガリア、イタリアなどの同盟軍とともに4月6日に両国への攻撃を開始した。

同盟国の大軍に蹂躙されたユーゴスラヴィアは11日間、ギリシアは14日間で粉砕されてしまう。ユーゴ王国軍が短期間で敗北した背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響を受けていたスロヴェニア人とクロアチア人で編成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。反乱を起こしたクロアチアはナチス・ドイツの侵攻を歓迎し、イタリアに亡命していたアンテ・パヴェリチが帰還してウスタシャによるナチス・ドイツ傀儡政権「クロアチア独立国」の建国を宣言する。その版図は、スロヴェニアの一部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含んだ。そして純粋クロアチア人の国家を建設するために、ボスニアのムスリム人を準クロアチア人とする一方で正教徒のセルビア人をクロアチア独立国の最大の敵と位置付けて追放し、殺害する。この時期に殺害されたセルビア人は50万人を超えたといわれる。

ヴォイヴォディナは、ハンガリー王国やウスタシャのクロアチア独立国および傀儡に据えられたミラン・ネディチ将軍の「セルビア救国政府」に分割占領された。この分割占領された時期にヴォイヴォディナに居住していたセルビア人数万人が殺害されているが、ユダヤ人もナチス・ドイツの最終解決によってほとんどが殺害されるか収容所送りとされた。

ユーゴスラヴィア国内には同盟国への抵抗組織としてチトーが率いる人民戦線派の「パルチザン」が結成された。一方、王国軍の残党が「チェトニク」を組織して王政復興を唱えて同盟国軍と戦うと宣言するが、ナチス・ドイツに殲滅すると脅されると、同盟国軍への抵抗を留保して内部領域争いに転じてしまう。そのため、ユーゴ王国内は内外の軍事組織との戦闘が展開されるという複雑な様相を呈した。

ナチス・ドイツのバルバロッサ作戦は失敗に終わる

ナチス・ドイツはユーゴ王国とギリシア王国を占領すると、1941年6月22日に550万の兵員を動員して「バルバロッサ作戦」を発動し、ソ連領に侵攻した。ドイツの侵攻はあり得ないとしていたソ連軍は不意をつかれた形で敗走を重ね、9月にはモスクワの近郊に迫られて外国公館および政府機関の一部を移転せざるを得なくなるまでに追い詰められる。しかし、ソ連軍は辛くも持ちこたえ、対日戦に備えてシベリア方面に駐屯させていた部隊を呼び戻して12月から反撃を開始した。他方、ナチス・ドイツの南方面軍は、ウクライナのキエフを落とすと翌42年8月にスターリングラードの攻撃に取り掛かった。数ヵ月で陥落させられると踏んでいたこの攻防戦は凄絶な市街戦となり、建物の1棟1棟の奪取を争う接近戦が展開された。短期決戦を意図していたナチス・ドイツの思惑は外れ、冬季戦に入る。ナチス・ドイツは冬季戦に備えていなかったことおよび補給線が伸びきってしまったためにこの消耗戦で戦闘能力が失われ、思惑とは逆に43年1月に9万人の捕虜を出して降服に追い込まれた。ナチス・ドイツの北部方面軍は900日に及ぶレニングラードの包囲戦を展開していたが、スターリングラードの攻防戦に敗北したことでソ連軍による逆包囲を受けることになり、バルバロッサ作戦の失敗は明白となった。

パルチザンは連合国の援助を得てナチス・ドイツ同盟軍の攻勢を凌ぎきる

英国は、ナチス・ドイツの本土上陸は断念させたものの、ソ連の要請に応える西部戦線の構築をせず、中東の油田地帯の権益を優先させて地中海での戦線に拘っていた。そこで、43年5月にユーゴスラヴィアで抵抗戦を展開しているパルチザンに軍事使節団を送り込み、その戦闘の状況を観察した。観戦武官は危険にさらされながらパルチザンがナチス・ドイツ軍の大部隊をユーゴスラヴィアに引き付けているとの報告書をチャーチル首相に送る。報告を受け取ったチャーチルは、43年11月に開かれたテヘラン会談で米ソ両首脳にパルチザンを支援することの有用性を提案して承認させた。チャーチルはパルチザンへの援助が承認されると、直ちに支援物資を送るとともに英軍の落下傘部隊をも派遣した。連合国からの支援を受けられるようになったことで、パルチザンは発足時には8万人に過ぎなかった構成員が拡大して80万人に膨れ上がり、ユーゴ王国全土に組織されるまでになる。そして、パルチザンはナチス・ドイツ同盟軍による大規模な7次に及ぶ攻勢を凌ぎ切った。

ソ連軍はテヘラン会談後もパルチザンへの支援に躊躇していたが、44年10月にようやく赤軍をユーゴスラヴィア領にまで進軍させ、44年10月には共同作戦を行なってベオグラードを奪還した。ベオグラードが奪還されるとヴォイヴォディナも解放され、それに伴って、ヴォイヴォディナに居住していた20万人のドイツ人はパルチザンによって追放されることになる。

英国はダンケルクから追い落とされてから4年を経た44年6月に「オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)」を発動して西部戦線を構築した。この作戦は成功し、8月にはパリが奪還された。ナチス・ドイツ軍は東西両戦線の二正面作戦を強いられることになり、ナチス・ドイツの降服はもはや時間の問題となった。ソ連赤軍が45年4月にベルリン攻撃を開始すると、ヒトラーは敗北を自覚して4月30日に自殺してしまう。ヒトラー総統の自殺によってナチス・ドイツは崩壊し、5月8日には降服に調印して第2次大戦における欧州戦線は終結した。

パルチザンの戦いは民衆に支持され王制は廃止される 

英国は大戦が終結するより2か月前の3月、ユーゴ王国のロンドン亡命政府とパルチザンによる連合政府を組織するよう仲介する。英国の要請によって組織された内閣の首班にはパルチザンを率いたチトーが就任した。このパルチザン主導の臨時政府に不満を抱いたペータル国王は、8月に開かれた国民議会で王党派の閣僚のすべてを引き上げるという政治的駆け引きを行なった。この西側諸国にも批判された駆け引きは、11月に行なわれた制憲議会選挙で人民戦線派の得票率が90%前後の圧倒的多数となったことで失敗に終わる。制憲議会は46年1月に新憲法を制定して王制を廃止し、6つの共和国を包含するユースラヴィア連邦人民共和国が建国された。ヴォイヴォディナはコソヴォとともに自治州としてセルビア人民共和国に取り込まれる。パルチザンを率いてユーゴを勝利に導いてカリスマ性を備えたチトーは首相から終身大統領に就任することになるが、彼が大戦中の民族対立を封印する政策を取ったことで表面的にはユーゴ連邦における民族問題は抑制された。

ヴォイヴォディナ自治州とコソヴォ自治州は共和国並みの行政権限を得る

戦後のユーゴスラヴィアは、ソ連の中央集権型社会主義体制を採用し、ソ連との協調体制が維持されるかに見えた。しかし、イタリアとの間でトリエステの領有権を争い、ギリシアの人民戦線派に支援を続け、またブルガリアとの間の「バルカン連邦」構想を表明したことが、スターリンの怒りをかうことになった。そして、48年に開かれたコミンフォルム第2回大会で、ユーゴ連邦は反ソ的として追放されてしまう。この追放と経済制裁は、戦後復興にあったユーゴ連邦に深刻な影響を与えた。そこでユーゴ連邦は西側諸国に支援を仰ぐことになる。西側諸国はこれに応じるが、このことがユーゴ連邦への西側の介入を容易にすることになった。

その後ユーゴ連邦は労働者による独自の自主管理社会主義を採用し、憲法を53年、63年と2度にわたって改定する。しかし、73年に始まったオイル・ショックの影響を受けて経済は安定せず、各地に不満が鬱積していた。そこで74年に憲法を改訂し、各共和国に大幅な権限移譲を行なうとともに、ヴォイヴォディナ自治州とコソヴォ自治州には独自の警察組織を含む共和国並みの行政権限を与えた。ヴォイヴォディナ自治州はこれを歓迎したが、最貧地域のコソヴォ自治州ではアルバニア系住民による共和国への昇格を求める暴動が頻発した。

ヴォイヴォディナ自治州とコソヴォ自治州の行政権限が縮小される

これに対し、ヴォイヴォディナ自治州では逆にコソヴォにおける多数派のアルバニア系住民によってセルビア人が迫害されているとして、セルビア人による抗議デモが度々行なわれた。このデモは、スロボダン・ミロシェヴィチが自治州の行政権限を縮減する憲法を修正することを企図し、それに異議を唱えたスタンボリッチ・セルビア幹部会議長を辞任に追い込むために動員したといわれている。一連の騒動によってスタンボリッチは失脚し、ミロシェヴィチが後任に就いて憲法修正を議会に提案する。89年にセルビア共和国議会は修正案を採択し、ヴォイヴォディナ自治州とコソヴォ自治州の行政権限は大幅に縮減した。ヴォイヴォディナ自治州ではセルビア人が多かったためか憲法修正に対する目立った動きはなかったものの、コソヴォ自治州では激しい抗議行動が起こることになる。

各共和国の歴史的背景が同族である民族主義対立へと変貌

ユーゴスラヴィア連邦はほとんどが南スラヴ民族で構成されているとはいえ、その歴史的背景から民族主義を意識し、煽る者たちに動かされやすい雰囲気を内包していた。スロヴェニアとクロアチアは、オーストリアやハンガリーに支配された時期に先進国の政治的および経済的な影響を受けた。そのためもあって、クロアチアとスロヴェニアはユーゴスラヴィアの中では比較的富裕であり、その富を貧困地区のコソヴォやマケドニアに再分配することを搾取と捉える雰囲気があった。分離独立することが経済的に有利であるとの意識が醸成されていたのである。

のちにクロアチアの大統領に就任することになる民族主義者のフラニョ・トゥジマンは連邦人民軍の将校をした経歴を持つが、後に歴史学者になり、クロアチア独立国によるセルビア人殺害の死者数を10分の1以下だと主張した人物である。彼はクロアチア民族主義者として、80年代の後半にクロアチア人のディアスポラを訪ね歩き、クロアチア民族主義を説いて回った。そして、クロアチア共和国の大統領に就任すると91年6月25日にユーゴスラヴィアからの分離独立を宣言し、クロアチアの独立戦争の指揮をとった。この独立戦争のきっかけを与えたのはドイツとバチカン市国であり、のちには米国が作戦を支援したことで武力による純粋クロアチア人国家の樹立を果たす。この過程で、クロアチア・クライナ・セルビア人共和国に属していたセルビア人住民を20万~25万人を追放するなどの民族浄化を実行したが、トゥジマンはICTYで裁かれることなく、自然死した。

三つ巴のボスニア内戦を呼び込んだイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領

ボスニアのイスラム主義者のアリヤ・イゼトベゴヴィチはイスラム主義による国家運営を夢想し、1970年に「イスラム宣言」を発表して「ボスニアのムスリム人のイスラム化」を提唱して罪を問われたことがあった。

イゼトベゴヴィチはボスニアの幹部会議長に就くと、91年10月にボスニアの議会に「独立確認書」を採択させた。そして、92年1月に西側諸国がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認すると、セルビア人住民が反対する中、翌92年の2月末に住民投票を強行し、3月に独立を宣言した。この強硬策によって民族間の対立が先鋭化し、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人による三つ巴のボスニア内戦が始まることになる。

ボスニア内戦の過程で、米国はセルビア悪を前提とした「新戦略」を策定し、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力に統合作戦を実行するようにし向け、93年3月に「ワシントン協定」を結ばせた。そして94年の1年間をムスリム人勢力軍とクロアチア人勢力軍およびクロアチア共和国軍への訓練に充て、95年に大規模な共同作戦を実行させた。この統合共同作戦にNATO軍も加わって空爆を行ない、セルビア人勢力を屈服に追い込む。そして、95年11月に「デイトン合意」としてボスニア内戦を終結させた。

イゼトベゴヴィチは死去する前のインタビューで、内戦中にムスリム人が20万人殺害されたなど、実態より過大な被害を受けたとのプロパガンダを行なったことを認めた。このプロパガンダによって内戦が長期化して多くの命が失われるようになった責任については、彼は気にもかけなかったようだ。彼もICTYから訴追されることなく自然死した。

NATO諸国はコソヴォ解放軍を支援して武力闘争を行なわせる

コソヴォ自治州では、やはり1989年の社会主義圏の崩壊の影響を受け、89年12月に「コソヴォ民主連盟」を結成して文学史研究者のルゴヴァを党首に据えた。ルゴヴァは武力闘争ではなく「熟した果実が木から落ちるように独立を勝ち取る」と表明したように、武闘派ではなかった。しかし、それにあき足らない武闘派のコソヴォ解放軍・KLAも密かに結成されていた。米国はCIAと米軍事請負会社MPRIを派遣し、コソヴォ民主連盟ではなくコソヴォ解放軍の育成と訓練を実施した。

1997年に隣国アルバニアでネズミ講に絡む政治的・経済的混乱が起こると、コソヴォ解放軍はアルバニアの武器を大量に入手し、すぐさまコソヴォで武力闘争を開始する。セルビア共和国としてはコソヴォ解放軍が武力闘争を開始しても、ユーゴ解体戦争の過程で「セルビア悪」のプロパガンダに苦しめられたことから、コソヴォ解放軍への武力鎮圧をためらっていた。しかし、セルビア共和国としてはセルビア人の揺籃の地であるコソヴォの25%をコソヴォ解放軍が支配することは許容できるものではなかった。そこで、セルビア共和国の治安部隊は鎮圧行動を強化してコソヴォ解放軍を追い詰めていく。すると、NATO諸国は、アドリア海に戦闘艦艇を終結させるとともに、空軍機を周辺のNATOの軍事基地に待機させ始めた。そして98年10月には、セルビア共和国に対して空爆作戦を発動するとまでの脅しをかけた。

米国は「ユーゴ・コソヴォ空爆」を実行してセルビア共和国を屈服させる

この時は、セルビア共和国政府がロシアのイワノフ外相の助言を受け入れ、OSCEによるコソヴォ停戦監視団をコソヴォ内の現況を視察させることに同意すると表明したことによってNATOの空爆は回避された。OSCEの停戦合意監視団・KVMは監視要員1600名を順次送り込み、さらに米・英・独・仏・伊・露で構成する「連絡調整グループ」が和平会議を行なうことによってコソヴォ問題は落ち着くかに見えた。

しかし、米国がこのKVMの団長に曰くのあるウィリアム・ウォーカーを据えたことで、コソヴォ紛争の帰趨は明白となった。ウォーカーはその任に応え、KVMの監視要員の中に米CIAなどの諜報員を潜り込ませ、すぐさまラチャク村の虐殺事件を捏造する。そして、和平会議にオルブライト米国務長官を送り込み、和平会議を不調に終わらせ、直後の3月24日に国連安保理決議を回避するために人道的介入との理由をこじつけてNATO軍による空爆作戦アライド・フォース作戦を発動した。

このNATO軍の空爆は78日間続けられる。小国に対して78日間も空爆を続けるとなれば、めぼしい建造物はすべて破壊しつくすに十分な時間である。軍事施設はもとより、放送局、鉄道、港湾、橋梁、工場、劇場、病院、学校などすべてが空爆の対象となった。この空爆で中国大使館へもミサイルが3発撃ち込まれた。米国は、誤った地図による誤爆であると弁明したが、中国は誤爆とは受け取っておらず、政治的・軍事的意図が含まれていることは疑いないと分析している。そして、このNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆を機に、ロシアと中国はNATO軍の武力行使に対応する重要性を認識させられ、防衛体制を改編強化することになる。

ヴォイヴォディナ自治州も空爆の対象となり反ミロシェヴィチから反米となる

コソヴォ紛争とはほとんど無関係なヴォイヴォディナ自治州も、そこの住民がどのような立場をとっているかにかかわりなく、ただセルビア共和国に属するというだけで爆撃の対象となった。ヴォイヴォディナ自治州には、地域政党としてヴォイヴォディナ・マジャール人民同盟があり、反ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領派の拠点ともいわれた。しかし、ヴォイヴォディナには化学工場もあり、ドナウ川に架かる橋梁などもあったことから、NATO軍は地域住民の思惑を顧慮することなく、全域がユーゴ・コソヴォ空爆の対象となった。州都のノヴィ・サドも爆撃されたことから、ヴォイヴォディナ自治州の民意は反ミロシェヴィチからミロシェヴィチ支持へと変化した。反体制活動家のアレクサ・ジラスをして「民主主義は反米になった」と慨嘆させた。

コソヴォ紛争は、コソヴォのアルバニア系住民にとってはセルビア共和国からの分離独立と「大アルバニア」を実現するための手段に過ぎなかったが、米国にとってはヨーロッパに覇権をおよぼすための拠点として重要な地域であった。それでも米連邦議会では、ユーゴ・コソヴォ空爆に反対する共和党の議員が過半数を超えていた。一方で、クリントン政権の民主党議員はユーゴ・コソヴォ空爆に多数の議員が賛成している。この態様を見るに、ユーゴ・コソヴォ空爆を推進した勢力とは何かが見えてくる。米国の軍産複合体と覇権主義者たちの共合との推察が可能になる。

コソヴォ解放軍・KLAが企図した「大アルバニア」は失敗に終わる

コソヴォ解放軍・KLAは、ユーゴ・コソヴォ空爆によってセルビア共和国の治安部隊がコソヴォから撤収したことを受け、大アルバニア主義を構想した。まず手始めにコソヴォに隣接するセルビア共和国内のアルバニア系住民に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ・PBM」を結成させて武力闘争を開始した。しかし、これはセルビア共和国治安部隊の反撃を受けて失敗する。そこで、軍備の貧弱なマケドニアに矛先を転じ、そこに居住するアルバニア系住民に「民族解放軍・NLA」を結成させて、2001年3月に分離独立闘争を仕掛けた。これは一時的な成功を収め、マケドニアの30%を支配するまでになる。狼狽したマケドニア政府は、ウクライナなどから武器の貸与を受けて必死の反撃を行ない、これを撃退した。

コソヴォは欧米の支持を受けて独立を宣言

コソヴォ解放軍・KLAは、大アルバニア主義の実現は叶わなかったが、2008年にセルビア共和国からの分離独立宣言を発した。主要な欧米諸国が直ちにこれを承認した背景には、それなりの事前の工作があったと推察できる。しかし、多くの国はこのような形の独立国の形成を懸念し、1年を経ても国連加盟192ヵ国のうち54ヵ国しか承認しなかった。2016年には111ヵ国が承認するまでになったものの、コソヴォ共和国は列強の経済的支援なしには国政を運営できていない。

落ち着きを見せる多民族地域のヴォイヴォディナ自治州

ユーゴ連邦解体戦争後、ヴォイヴォディナ自治州は包括法改正により自治権の拡大を図った。そして、2008年2月にコソヴォ自治州が独立を宣言すると、ヴォイヴォディナ自治州議会も新憲法を10月15日に採択する。この自主憲法はセルビア共和国議会で部分的な修正が加えられ、2009年11月30日に可決して、2010年1月1日に施行した。

ヴォイヴォディナは比較的豊かであったことから、ハンガリーからヴォイヴォディナに移住する者が多かったが、その後ハンガリーが経済発展したことによって、現在は逆にハンガリーに移住する者が増えている。しかし、セルビア人が多数を占めていることもあってセルビア共和国から分離独立を図ることはないと見られている。

<参照;コソヴォ自治州、セルビア>

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16,「クライナ地方・軍政国境地帯」

ビザンツ帝国がオスマン帝国をバルカンに引き入れる

1346年、ビザンツ帝国で王位継承権をめぐる内部抗争が起こり、紛争の当事者のヨハネスが皇女テオドラを降嫁させてオスマン侯国に支援を要請した。オスマン侯国の支援を受けて勝利を手にしたヨハネス6世はビザンツ帝国の皇帝に即位する。しかし、このことがオスマン帝国のバルカン侵略の誘因となる。オスマン帝国は、早くも1360年にはエディルネを占領し、1371年にはブルガリアを臣従させた。1389年6月には、コソヴォ・ポーリェでセルビアのラザール公率いるキリスト教徒諸侯軍を破り、1453年にはコンスタンチノーブルを陥落させて、1000年余り続いたビザンツ帝国を消滅させた。さらに1463年にはボスニアを占領し、1483年にはヘルツェゴヴィナを支配下に置く。そして、1529年には第1次ウィーン包囲を行なうまでに至る。

ハプスブルグ帝国がオスマン帝国からの防衛線として軍政国境地帯(クライネ)を設定

ハプスブルク帝国は危機感を抱き、南部のオスマン帝国の支配領域との間に軍政国境地帯(クライネ)を設定し、セルビア人、クロアチア人、ハンガリー人、ドイツ人などを入植させ、農業に従事させるとともに武装させて特別な地位と役割を与えた。これがハプスブルグ帝国にとっての軍政国境地帯・クライネであり、クロアチアとボスニア側にはクロアチア人とセルビア人が混住し、また住み分けた。

軍政国境地帯の範囲は時期によって異なるが、アドリア海に面するダルマツィアからクロアチアとボスニアの国境地帯に沿い、ヴォイヴォディナ、ハンガリー、ルーマニアのトランシルヴァニアに至る長大な地域を含んだ。しかし、1683年の第2次ウィーン包囲を防げたわけではなかった。第2次ウィーン包囲は20万のオスマン帝国軍によって軍政国境地帯を越えてハンガリーを蹂躙し、ウィーンは陥落寸前にまで追い詰められた。この時はポーランド軍が奇襲攻撃を仕掛けて、オスマン帝国軍に手痛い打撃与えたことによってかろうじてハプスブルク帝国は維持された。しかし、ハンガリーはオスマン帝国の支配下に置かれる。危機感を抱いた、ハプスブルク帝国は翌1684年に、ポーランド、ヴェネツィアと神聖同盟を結成してオスマン帝国に対して「大トルコ戦争」といわれる長い戦いを挑んだ。この長期にわたる遠征戦争で、さしものオスマン帝国も衰えを見せ始める。

この第2次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国軍はコーヒー豆を大量に残して撤退した。この大量のコーヒー豆を取得したウィーンは、カフェ文化を開かせることになる。

1789年にフランス革命が起こり、1804年にナポレオンが皇帝に即位すると、ハプスブルク帝国に挑戦し、ウィーンにまで侵攻してハプスブルク帝国を屈服させる。この時の和議でクロアチアおよびアドリア海沿岸地域を割譲させ、イリュリア州としてフランスに統合された。これがクロアチアに民族を意識させるという刺激を与えることになった。

クライナ地方はユーゴスラヴィアの一部となる

1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立すると、ハンガリーは隣接するヴォイヴォディナやバナトなど地域の施政権を行使するに当たって、軍政国境地帯の制度は障害になると主張したため、ハプスブルク帝国は1881年に2世紀にわたって続いた軍政国境地帯制度を廃止した。しかし、クライネといわれた国境地帯のクロアチアとボスニアに単数としてのクライナ地方という呼び名が残された。

第1次大戦では、クロアチアとスロヴェニアはオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあったため、ハプスブルク帝国軍として徴兵され、主としてロシア戦線に投入された。この大戦はセルビアと連合国側が勝利したことによって「スロヴェニア・クロアチア・セルビア王国」が誕生し、セルビア人のカラジョルジェヴィチが摂政につく。1921年に王位に就いたカラジョルジヴィチは次第に独裁色を強め、29年に「ユーゴスラヴィア王国」とした。カラジョルジェヴィチが独裁色を強めると、クロアチア人との間で軋轢が起こる。そして国際的な動向となっていたファシスト・グループ「ウスタシャ」などの政治結社が結成され、ユーゴスラヴィア王国をテロによって打倒すると宣言する。そして、34年にフランスを訪れたカラジョルジェヴィチをフランス外相とともに暗殺した。フランス政府がイタリアに亡命していたウスタシャの党首アンテ・パヴェリッチの引き渡しを要求するが、ムッソリーニのファシズム・イタリア政権はこれを拒否した。

第2次大戦時クライナ地方は悲惨な状況に置かれる

この間、ドイツではナチが台頭し、39年9月にポーランドに侵攻して第2次大戦を始めてしまう。第2次大戦におけるクライナ地方は、悲惨な状況に置かれることになる。

ナチス・ドイツは40年に西ヨーロッパの大半を支配下に置くと、英本土上陸作線の「海獅子作戦」を発動して、制服にかかるが、これは英国の巧みな迎撃戦で一時的に断念する。そしてソ連を植民地化してその物量をもって再度英国本土攻撃を図ることに転換する。この対ソ戦は「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」として成案を見る。

ナチス・ドイツはこの作戦を実行するにあたり、軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの安全を確保するためにバルカン諸国の中で、未だに中立国に拘って同盟国に加盟していないユーゴ王国とギリシア王国を支配下に置く必要があると考量した。しかし、ギリシア王国には英国の支援の手が伸びていたため同盟国への加盟は望めないことからギリシア侵攻計画の「マリタ作戦」を立案する。一方のユーゴ王国政府はナチス・ドイツの威しと甘言に屈して3月25日に同盟国への加入を承諾してしまう。これに対し、第1次大戦でドイツと敵対したことを記憶している市民がこれを良しとせず、一部の軍人とともに立ち上がりクーデターを起こし、ナチス・ドイツとの同盟を破棄するよう要求した。王国政府は狼狽してナチス・ドイツに対して条約は有効だと弁明するが、ヒトラーはこれを許容せず、ギリシアへのマリタ作戦をユーゴ王国にも拡張適用し、4月6日にユーゴ王国とギリシア王国にナチス・ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、イタリアとともに侵攻した。ユーゴスラビア王国は11日間、ギリシアは14日間戦ったが圧倒的な同盟軍に占領される。

ユーゴ王国軍が短期間に粉砕された背景には、ファシスト・グループ・ウスタシャの影響を受けていたスロヴェニア人とクロアチア人で編成された第4軍と第7軍が反乱を起こしたことがあった。そして、クロアチアはウスタシャ政権による「クロアチア独立国」の建国を宣言する。クロアチア独立国の範囲はスロヴェニアの一部とクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの大半を含み、クライナ地方はその中にすっぽりと含まれることになる。ウスタシャ政権は、クロアチア独立国を純粋なクロアチア人国家とすることを宣言し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人を準クロアチア人とする一方で、正教徒のセルビア人を国家建設の最大の敵と位置付けた。そして、3分の1をカトリック教徒としてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を殺害すると表明して実行した。クロアチア独立国の支配下にあったボスニアでは準クロアチア人意識が浸透し、やはりボスニア・クライナ地方のセルビア人迫害に加わった。クロアチア独立国が支配した4年間に殺害されたセルビア人は50万人を超えるという。その最大の被害対象となったのが、クライナ地方に居住していたセルビア人であった。

ユーゴ王国とギリシア「王国を占領したナチス・ドイツは300万、同盟国軍250万の550万の兵員を動員し、6月22日に対ソ戦「バルバロッサ作戦」を発動する。この作戦は一時的に成功を収め、9月にはレニングラードを包囲し、ウクライナのキエフを陥落させ、モスクワの近郊にまで迫った。しかし、ソ連軍は土壇場で踏みとどまった。そしてソ連赤軍の反撃によってナチス・ドイツのバルバロッサ作戦は失敗に終わる。

ユーゴスラヴィアは内戦により多大な被害を出す

第2次大戦中、ユーゴスラヴィア王国内は、ナチス・ドイツ同盟軍への抵抗組織として「パルチザン」が組織される一方で、王国軍の残党が「チェトニク」を結成して王政復興の領域争いに参入した。ユーゴ王国は、ナチス・ドイツ同盟軍に加えてクロアチア独立国軍とパルチザン、そしてチェトニクとの争闘という複雑な様相を呈した。大戦中にユーゴスラヴィアにおける死者は170万人と算定されているが、そのうちの100万人は内部抗争によるものだったといわれる。

第2次大戦はナチス・ドイツの敗北に終わるが、それに伴いユーゴスラヴィア地域に居住していたドイツ人は追放されることになるとともに、ファシスト・グループ・ウスタシャの主要な構成員だったクロアチア人も脱出してディアスポラとなった。

クロアチアのクライナ地方とボスニアのクライナ地方はセルビア人にとって一帯としての生活圏

大戦後の45年11月に開かれた制憲議会選で人民戦線派が大勝し、46年1月の制憲議会で王制は廃止され、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が成立した。パルチザンを率いたチトーがユーゴ連邦の首相に就任するが、彼は大統領となってからも第2次大戦中に起きた民族間抗争を封印する政策を取ったことで表面的には民族間対立は封印された。そのため、クライナ地方のクロアチア人とセルビア人は穏やかに融和して生活するようになっていた。

しかし、カリスマ性を備えていたチトーが死去すると、集団指導体制にきしみが生じ始めた。スロヴェニアとクロアチアは比較的富裕な地域であり、その富裕な資金が貧困地区のコソヴォやマケドニアに再分配されることを搾取と捉える雰囲気が顕在化し始めたのである。

民族主義者の台頭がユーゴ解体戦争を誘発した

現在、スラヴ系言語ではクライナは「辺境・境界」を意味する用語として使われている。この時期の広義のクライナ地方は、南西部のダルマツィア地方とクロアチア南部とボスニア・ヘルツェゴヴィナ北部の境界地域の中央部の地方およびクロアチア東部のスラヴォニア地方に及ぶ範囲である。狭義のクライナ地方は、ウナ川両岸地帯のクロアチア領およびボスニア領にわたる国境地帯をいう。ユーゴ連邦解体戦争で問題となるのは主として狭義のクライナ地方である。

クロアチアの民族主義者のフラニョ・トゥジマンはユーゴ連邦人民軍の将校から歴史学者に転じ、第2次大戦中のウスタシャ政権によるセルビア人虐殺を10分の1だと修正した。彼は、89年の東欧の社会主義崩壊より以前の87年ごろから世界のクロアチア人ディアスポラを訪ね歩いてクロアチア民族主義を説いて回っていた。

トゥジマンはクロアチアの大統領に就任すると着々とユーゴ連邦からの分離独立の道を促進する。クロアチア政府のこの動きをみて、クライナ地方のセルビア人は連邦から分断される虞れを抱くとともに、第2次大戦中のクロアチア独立国によるセルビア人虐殺の記憶の悪夢を甦らせることになった。

トゥジマン・クロアチア大統領は柔軟性に欠けており、クライナ・セルビア人代表のラシュコヴィチが文化的自治を認めるよう求めた際にもこれを拒否した。このため、次第にクライナのセルビア人は硬化して強硬な行動をとるようになっていく。90年8月にはクロアチア政府が禁止令を出したにもかかわらず、自治区設置の是非を問う住民投票を強行し、99.9%の高率で賛成を得た。そのことが、自治区の設立を潰そうとしたクロアチア共和国の治安部隊とセルビア人住民の自警団との間で小競り合いを頻発させることになった。そこで、セルビア人住民たちは、90年12月に「クライナ・セルビア人自治区」の設立を宣言する一方、トゥジマン大統領は1991年2月にユーゴ連邦憲法よりもクロアチア共和国憲法を上位に置く「憲法施行法改正案」を成立させた。そして、満を期していたクロアチア政府は、91年6月25日にスロヴェニアとともにユーゴ連邦からの分離独立を宣言する。これに対抗したクロアチア・クライナのセルビア人住民は、6月27日に「スラヴォニア・西スレム・バラニャ・セルビア人自治区」の設立を宣言した。このため、クロアチア共和国政府と、クライナ地方のセルビア人住民との間に激しい武力衝突が発生する。

クロアチア・クライナ地方とボスニア・クライナ地方が統一を企図

ECは大規模な武力衝突を危惧し、91年7月にスロヴェニアとクロアチアに対して独立宣言を3ヵ月間凍結するように要請した。両者は一応この「ブリオニ合意」を受け入れる。フランス政府はいち早くスロヴェニアとクロアチアの独立を承認しないとの声明を出し、ECは9月に「ユーゴ和平会議」を設置してキャリントン英元外相を和平会議議長に据えた。当時、英仏はバルカンにおける武力紛争を望んでいなかったのである。キャリントン和平会議議長は真摯に和平に取り組むが、ドイツとバチカン市国およびオーストリアはこのブリオニ合意を冷却期間としてしか捉えず、コール・ドイツ首相は10月の議会で「ECはまもなくスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認するだろう」と和平会議の動きに水を差す発言を行なう。そしてドイツは12月23日に、バチカン市国は1月13日に、EC諸国に先駆けて両国の独立を承認してしまう。

ボスニアではイゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議超(大統領)が国家連合を前提とした国家主権を主張したことに対し、危機感を抱いたクライナ地方のセルビア人住民は91年4月に「ボスニア・クライナ自治体同盟」を結成する。これに対抗する形でボスニア議会は、91年10月に「独立確認文書」をセルビア人議員が退場する中で強行採決した。

危機感を抱いたクライナ地方のセルビア人住民は自治区から共和国を設置

スロヴェニアとクロアチアの独立宣言に危機感を抱いたクロアチアのセルビア人住民は、「クライナ・セルビア人自治区」と、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ西部に結成された「ボスニア・クライナ自治体同盟」とを統一するとの宣言を発表。ボスニアの自治体同盟は9月にはボスニア・クライナ自治区に昇格させる。クロアチアでは、91年12月にクロアチア・セルビア人勢力は「クライナ・セルビア人自治区」と「スラヴォニア・バラニャ・西スレム・セルビア人自治区」を統一して「クライナ・セルビア人共和国」を設立する。クライナ・セルビア人共和国大統領に選出されたマルティッチは、ユーゴ連邦を存続させた上でのセルビア共和国との統合を図った。しかし、ユーゴスラヴィア連邦幹部会は国際社会との軋轢を危惧して92年早々にその構想を否定する。

この間の11月に、デクエヤル国連事務総長はサイラス・ヴァンス米元国務長官をユーゴ和平問題の特使に任命した。ヴァンス国連事務総長特使は92年1月1日、クロアチアに関する和平案を提示する。クロアチア政府とクライナ・セルビア人共和国およびユーゴ連邦がそれを受け入れたことで、クロアチアにおける紛争は鎮静化するかに見えた。しかし、ドイツに引きずられる形で1月15日にEC諸国が両国の独立承認に踏み切ったために、ヴァンス特使が目指した和平への道は宙に浮いた形となった。それでもなお国連安保理は、2月に武力紛争を抑制するための国連保護軍・UNPROFORを紛争地域に派遣する決議743を採択する。UNPROFORが派遣されたのは、クライナ・セルビア人共和国の支配領域とクロアチア政府の支配地域との境界である。

イゼトベゴヴィチ・ボスニア幹部会議長もボスニアの独立を強行する

クロアチア共和国で紛争が起こっていることを勘案するならば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府には慎重さが求められるはずだが、ボスニアの議会は既に91年10月に独立確認文書を採択しており、イゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領はその方針に沿い、1月に西側諸国がスロヴェニアとクロアチア両国の独立を承認すると、セルビア人住民が反対する中で2月末に住民投票を強行し、3月には独立を宣言した。それをきっかけにしてボスニアでは三つ巴の陰惨な内戦が勃発することになる。

クライナ地方としてのセルビア人勢力の統合は霧散する

当時のブッシュ米政権はユーゴ紛争が始まった当初は武力紛争を回避する方針であった。しかし、92年の大統領選に立候補した民主党のクリントン候補が、ブッシュ政権のユーゴ問題への取り組みを生温いと批判したことで、これが政争の具となる。

そして、ブッシュ政権も次第に強硬策を採るようになっていく。クリントンは大統領選に勝利して93年1月に就任すると、選挙戦で公言していたように強硬策を採用し、セルビア悪を前提とした「新戦略」を策定した。

そして、クロアチア共和国軍とボスニア・クロアチア人勢力およびムスリム人勢力としてのボスニア政府に圧力をかけて戦闘をやめさせ、クロアチア共和国を含む3者をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」を結ばせた。この協定の目的は、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の間に統合作戦本部を設置させ、これにクロアチア共和国軍を絡ませた3者による共同作戦によってセルビア人勢力を屈服させるというものであった。そして、CIAと米軍時請負会社・MPRIを送り込み、94年の1年間を訓練と準備期間に充当する。

米国のセルビア人勢力屈服作戦

共同作戦の準備が整うと、95年1月にクロアチア共和国のトゥジマン大統領は国連保護軍の存在が和平を妨げているとして、その撤収を要求する。国連安保理では異論は出たものの結果としてトゥジマンの要求に応じる形で、95年3月に国連保護軍を3分割し、クロアチアには国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには予防展開軍・UNPREDEPを配備する国連決議981~983を採択した。国連保護軍の移動が終わると、クロアチア共和国軍は95年5月に「稲妻作戦」を発動し、クロアチア・クライナ・セルビア人共和国の支配領域である西スレム・バラニャ地域と東スラヴォニアの分断を敢行した。このときのクロアチア共和国軍の作戦は従来の戦闘とは異なり見事な統制の下に行なわれた。米軍事請負会社・MPRIの訓練と作戦指導が効果を発揮したのである。

次いで行なわれた「‘95夏作戦」はボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍の共同作戦となり、クロアチア・セルビア人勢力とボスニア・セルビア人勢力との連絡回廊の要衝であるボサンスカ・グラホヴォおよびリヴノを制圧して遮断する。この両作戦によって、クロアチア・セルビア人勢力は孤立化し、戦闘能力は著しく減退した。そして95年8月4日、クロアチア共和国は15万の兵員を動員して嵐作戦を発動した。この嵐作戦にはボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人選力が統合共同作戦として参加した。3万人の兵力しか動員できない状態に置かれていたクロアチア・クライナ・セルビア人共和国はあっけなく崩壊した。

<参照;クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ>

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17,「ダルマツィア地方」

アドリア海に面して独自の発展を遂げた地域

ダルマツィアとは、バルカン半島の西端のアドリア海に面している起伏に富んだ自然景観に恵まれた、ボスニアと国境を接する細長い地帯をいう。先住したのはアルバニアと同じくイリュリア人で、7世紀ごろには南スラヴ民族が定住した。港湾を多く含む主要な都市はザダル、スプリト、シベニク、ドゥブロヴニクで、総面積は1万2943平方キロ、人口は86万人。この地域は現在、クロアチア人が94%と多数を占めている。アドリア海に面していることから、交易などや外部強国の干渉も受けながら独自の発展を遂げていた。また、海洋性の、風光明媚な地域として観光地となり、ドゥブロヴニクは世界歴史文化遺産となっている。

10世紀初頭にはクロアチア人のトミスラヴがクロアチア王国を樹立すると、ダルマツィア地方の一部はクロアチアに組み込まれた。しかし、10世紀末にはヴェネツィアに支配される。12世紀にはハンガリーに占領され、セルビア、ボスニアとともに支配下に置かれた。14世紀にはダルマツィア地方の多くが再びヴェネツィアに支配される。その中でドゥブロヴニクは共和国として存在したこともあり、交易活動で繁栄した。ドゥブロヴニクはアドリア海を通してイタリアやヴェネツィアとの交易活動による交流が長く続いたため、南スラヴ民族としての意識は低い。オスマン帝国が支配した時期もあったが、大幅な自治が認められていたため、余り影響を受けていない。宗教は支配者の影響もあって概ねカトリック教が守られている。

1806年にはナポレオンの遠征軍の支配を受け、フランス帝国にスロヴェニアやクロアチア南部とともにダルマツィアも併せてイリュリア諸州として組み込まれた。ナポレオンがロシア戦線で敗退して衰亡を見せた1815年、ハプスブルク帝国がダルマツィアとドゥブロヴニクおよびアルバニアをダルマツィア州として支配した。

第1次、第2次大戦でイタリアはダルマツィアの一部を占領

1914年に第1次大戦が始まると、イタリアは15年に英・仏・露の三国協商側に立って参戦する際にダルマツィア地方の領有権を主張し、ロンドン秘密条約でも領有を要求した。大戦はハプスブルク帝国およびドイツ帝国など同盟側が敗北し、戦後に結ばれたラバルロ条約でイタリアはダルマツィア地方のトリエステ、イストリア半島、ザダルと幾つかの島々を獲得したが、その他のダルマツィア地方の領有権を放棄したことからユーゴスラヴィア王国の一部となった。

第2次大戦では、ナチス・ドイツが対ソ戦の「バルバロッサ作戦(赤ひげ作戦)」を発動するに際し、軍需物資の調達領域の拡大と侵攻ルートの安定確保の必要性から、ユーゴ王国とギリシア王国を1941年4月にナチス・ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアの同盟軍が侵攻して占領した。それに伴って、ダルマツィアの一部は再びイタリア軍に占拠されるが、大半はファシスト・グループ「ウスタシャ」によるナチス・ドイツ傀儡国家「クロアチア独立国」の建国の宣言によって、その版図に入った。

ナチス・ドイツはユーゴ王国とギリシア王国を支配下に置くと、独ソ不可侵条約を締結していたにもかかわらず、1941年6月22日にバルバロッサ作戦を発動してソ連に侵攻する。

ウスタシャによるクロアチア独立国は、純粋なクロアチア人国家とすることが企図された。そして、ウスタシャ政権は版図に組み入れたボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人を準クロアチア人として認定するとともに、クロアチア独立国の最大の敵を正教徒のセルビア人と位置付け、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人とし、3分の1を追放し、3分の1を殺害すると宣言して実行した。そのため、ユーゴスラヴィア王国はナチス・ドイツ同盟軍に抵抗するパルチザンとユーゴ王国軍の残党チェトニク、そして「クロアチア独立国」のウスタシャ軍が入り混じって戦闘を繰り広げるという、第2次大戦で最も複雑な対立構造を経験する事態を招いた。

同盟国のイタリアとナチス・ドイツは降服に追い込まれユーゴスラヴィアは戦勝国となる

大戦の最中の1943年9月に、イタリアは内部の反乱もあって連合国に降服する。43年11月に開かれた連合国首脳によるテヘラン会談で、パルチザンへの支援が決められたこと、そして44年10月にソ連赤軍がユーゴスラヴィア領に到達して共同作戦によってベオグラードを奪還したことで、バルカンから同盟軍およびクロアチア独立国は駆逐されていった。そして45年4月に敗北を自覚したヒトラー総統が自殺したことでナチス・ドイツは崩壊し、第2次大戦における欧州戦線は終結を迎える。

ユーゴスラヴィア連邦はソ連圏から追放され独自の路線を歩む

大戦終結後、ユーゴスラヴィアは制憲議会で王制を廃止し、ソ連の中央集権型の社会主義を採用した。しかし、戦勝者としてのユーゴスラヴィア連邦と敗者としてのイタリアとの間でトリエステなどの領有をめぐって争いが起こり、ギリシアの人民戦線派を支援し続けたこと、またブルガリアと「バルカン連邦」構想を立てるなど独自の外交を展開しようとしたことがソ連首脳の逆鱗に触れ、48年6月に開かれた第2回コミンフォルム大会で追放されてしまう。そのため、戦後復興中のユーゴ連邦は経済的困窮に陥るが、西側の借款を受けることによってそれを回避するとともに、独自の路線を模索して自主管理社会主義を編み出した。そして、中立国による非同盟首脳会議を主催することになる。

トリエステ問題は長く厳しい折衝の上で1953年に、A地区の主要な地域はイタリアが確保し、B地区のイストリア半島、ザダルなどダルマツィア地方はユーゴ連邦に内のクロアチア共和国とスロヴェニア共和国に分割して組み込まれることになった。パルチザンを率いてユーゴスラヴィアを勝利に導いたクロアチア人のチトーは、民族間の争いを持ち込むことが戦後の国家運営の障害になるとして、紛争に関わるあらゆる言説を封じ込めた。この抑制政策はチトーのカリスマ性が存続している限りにおいて有効であったが、彼が1980年に死去すると集団指導体制がぎくしゃくし始める。そして民族主義者たちが暗躍し、それに外部の関与もあってユーゴ連邦は解体戦争へとなだれ込むことになる。

後にクロアチアの大統領になるフラニョ・トゥジマンは、80年代後半に欧米のクロアチア人ディアスポラを訪ね歩いて民族主義を説いて回っていた。そしてディアスポラからクロアチア民主同盟設立の資金援助を得て党首に就き、やがて大統領に就任すると、91年2月にはユーゴ連邦憲法よりもクロアチア共和国憲法を上位に置く「憲法施行法改正」を成立させて法の下克上を敢行した。

ユーゴ連邦人民海軍のドゥブロヴニクへの砲撃は軍規違反者がおこなったもの

そして、スロヴェニアのクチャンとクロアチアのトゥジマンは共調してユーゴ連邦からの分離独立を図り、1991年6月25日にユーゴ連邦からの独立宣言を発した。この独立宣言によって、ユーゴ連邦解体戦争が始まることになる。ユーゴ連邦人民軍は当初はユーゴ連邦の維持を前提として、戦闘の回避に努めていた。しかし、スロヴェニアとクロアチアおよびボスニア人の兵士が脱走してそれぞれの陣営に加わって行ったことに伴ってセルビア人兵士が主力となり、次第にセルビア人勢力寄りの行動を取るようになっていく。

このユーゴ連邦解体戦争中、クロアチア共和国の海岸地帯の要衝としてダルマツィアのザダルやドゥブロヴニクなども戦場となった。91年12月6日にユーゴ連邦海軍がドゥブロヴニクへの攻撃を行なったのは紛れもない事実だが、これは人民軍の中枢からの命令で行なった行動ではなく、一部の者が軍規違反を冒して砲撃したもので、直後に海軍中将が遺憾の意を表した文書をクロアチア共和国側に渡し、そののち連邦人民海軍はドゥブロヴニク沿岸から離れている。にもかかわらず、国際社会が厳しい批判を浴びたのには、ドゥブロヴニクのクロアチア人勢力と見られる者が、連邦人民軍の砲撃による被害を甚大なものに見せるために桟橋で古タイヤを燃やして視覚効果を高めるという作為を行なったことがある。この黒煙を挙げている映像をメディアが繰り返し放送したために、国際社会はドゥブロヴニクの被害が甚大なものと思わされた。

連邦人民海軍がドゥブロヴニク地区に艦艇を進めたのは、クロアチア人勢力が丘の上に陣地を築いていたことが背景にある。連邦人民海軍はドゥブロヴニクの住民の居住区への砲撃は行なっていない。

のちに、メディアが連邦人民軍が砲撃を行なったにもかかわらず居住地の復興が早かったと報じたのは、事実の認定を誤った報道であるにすぎない。その他のメディアでも住民に砲撃の跡を尋ねているが、住民が示したのは、壁に銃撃の跡らしきものを示しただけであった。

クロアチア共和国軍がダルマツィア地方で行なった軍事作戦

ダルマツィア地区はクロアチア紛争中に、クロアチア・クライナ・セルビア人勢力が支配した地域でもあった。しかし、あの長大な地域をクライナ・セルビア人勢力が支配し続けること自体困難を伴った。そのことを見抜いたクロアチア共和国は、国連保護区として規定されていたにもかかわらず奪還作戦を挙行した。

92年6月に実行した「ミリィフツィ・プラトー作戦」は、国連保護区であるにもかかわらず、ダルマツィア地方最南端部において、クロアチア・セルビア人勢力を相当するために実行した。

93年4月には「マスレニツァ作戦」を発動し、首都ザグレブからダルマツィア地方に至る幹線道路を確保するためにクロアチア・セルビア人勢力を排除する目的で実行され、マスレニツァ橋を攻略した。

93年9月には「メダック・ポケット作戦」を発動し、やはり国連保護区として指定されていた地区ダルマツィア地方の西南部ゴスピッチ周辺を制圧。クロアチア・セルビア人勢力が首都としているクニンを攻撃する要所として確保した。

風光明媚なダルマツィア地方の中での歴史遺産としてのドゥブロヴニク

世界歴史文化遺産としてのドゥブロヴニクは現在もダルマツィア地方の有数の観光地となっている。

尚、クロアチア共和国軍の一連のセルビア人掃討作戦によって、ダルマツィアにおけるセルビア人住民はほとんど一掃された。ダルマツィアにおけるクロアチア人が、94%と圧倒的多数を占めるのはこのためである。

<参照;ユーゴスラヴィア王国、クロアチア>

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18,「アルバニア」

アルバニア人は古代イリュリア人を先祖とするといわれる。面積は2万8700平方キロ。人口315万人。首都はティラナ。言語はインド・ヨーロッパ語族のアルバニア語。アルバニアは、ギリシア、マケドニア、モンテ・ネグロ、コソヴォと境界を接している。アルバニア人が大半を占めるが、ギリシア系住民12%・38万人が南部国境付近に居住している。南スラヴ族はほとんどいない。

周囲の強国に翻弄され続けたアルバニア

14世紀から15世紀にかけてオスマン帝国がバルカンに進出した際、アルバニアはスカンデルベグが一時期抵抗するものの敗北し、支配下に置かれる。このオスマン帝国の支配のもとで処遇の権益から地主層がイスラム教に改宗し、やがて多くのアルバニア人が改宗していった。アルバニアがイスラム教国の様相を呈しているのはこのためである。アルバニアにおける宗教分布は中央の70%をイスラム教徒が占め、北部のゲグ族は中心に10%がカトリック教徒、南部のトスク族など20%が東方正教徒である。

アルバニアは19世紀になるまでオスマン帝国に支配され続け、目立った動きはなかった。しかし、イタリアに移住していたアルバニア人の中に民族主義が萌芽し、露土戦争後の1878年に締結されたサン・ステファノ条約後に「プリズレン連盟」が結成され、ベルリン会議においてアルバニア人の領土の保全を要求して覚書を提出した。しかし、列強に無視された上、路線をめぐって内部対立が起こったこともあり、それにつけ込んだオスマン帝国に弾圧されて2年余りで連盟は消滅した。

その後、1912年の第1次バルカン戦争において「バルカン同盟」が勝利した余波としてオスマン帝国から独立し、イスマイル・ケマルが王国を設立する。しかし、1914年に第1次大戦が始まるとイタリアに占領されてコソヴォに併合された。大戦終結後、条約によってイタリアは撤退し、アルバニアは王国として復活してゾグが王位に就いた。

ナチス・ドイツ同盟国に抵抗して建国したレジスタンス

第2次大戦が始まる前の1939年4月、イタリアが再びアルバニアを占領して併合する。この際にゾグ国王が亡命したことで、イタリアの国王がアルバニアの国王をかねることになり、その国王の下に傀儡政権が擁立され、アルバニア王国は消滅した。大戦中にイタリアの傀儡政権はコソヴォに侵攻して領有する。このアルバニア人のファシスト団体は「スカンデルベグ師団」を結成し、無差別にセルビア人を殺害するなど粗暴な行動を取った。

1941年6月にナチス・ドイツ同盟軍が550万人の兵員を動員して対ソ戦の「バルバロッサ作戦」を発動すると、11月にアルバニア共産党が創設され、ユーゴスラヴィアの「パルチザン」の影響下に民族解放のためのパルチザン部隊の設置が決められた。イタリア占領軍と傀儡政権に対する王党派、民族戦線、共産主義勢力の3派によるレジスタンス運動が組織され、共同戦線を構成して武装闘争を展開した。しかし、民族派がコソヴォを自国の領土とするべきだと強硬に主張したため、対立は抜き差しならないものとなり、レジスタンス内部での武力衝突が起こる。

43年9月にイタリアが降服すると、パルチザンはイタリア軍の大量の武器を接収し、進駐してきたナチス・ドイツとの抵抗闘争を続行した。44年5月、アルバニアのパルチザンはユーゴスラヴィアにならって「人民解放反ファシスト会議」を開催して政府機関としての評議会と委員会を設置し、ナチス・ドイツに対するレジスタンスを強化する。44年10月には第2回人民解放反ファシズム大会を開いて臨時政府を樹立し、ホジャを首班とする内閣を組織した。44年11月、首都ティラナを自力で解放し、ナチス・ドイツ軍を撤退させた。バルカン諸国で、ナチス・ドイツ同盟軍を人民戦線の力によって撃退したのはユーゴスラヴィアとアルバニアのみである。

第2次大戦は1945年4月にヒトラーが自殺したことによって、欧州における大戦は終結を迎えた。アルバニアは大戦後の45年12月に行なった制憲議会選挙で、民主戦線の候補者名簿が93%の支持を得る。46年1月、制憲議会は王制を廃して人民共和国の成立を宣言し、3月には新憲法を制定して社会主義制度を採用した。ただし、国家の運営は戦時中からユーゴスラヴィア共産党の支援を受け、戦後も政府予算の過半を贈与によって賄われたことから、ほとんど属国に近い形となった。

孤立化政策で社会的発展から取り残されたアルバニア

ところが、1948年6月にユーゴスラヴィア連邦がソ連主導のコミンフォルムから除名されたことから、ソ連圏にとどまるためにやむなくユーゴ連邦と国交を断絶する。しかし、61年に中ソ対立が起こるとソ連を批判。68年にはワルシャワ条約機構から脱退し、ソ連を仮想敵国と位置づける。以後中国に接近して援助を受けるが、中国が文化大革命後に改革開放路線に転換すると、これを批判して国交を途絶させ、次第に殻に閉じこもる孤立化政策をとった。この政策が強迫観念となり、脅威に怯えるあまり国境線に沿って数十万から百万を超えるといわれる堅牢なコンクリート製の小要塞・トーチカを建造することになる。アルバニアはこの小要塞の建設に国力を消尽し、鎖国による交流の途絶と相まって経済的発展から取り残された。

資本主義化の過程で大混乱に陥ったアルバニア

アルバニア外交は閉鎖的であったものの、やはり1989年に始まった東欧の社会主義圏の崩壊の影響を受ける。91年にはアルバニア労働党をアルバニア社会党に変更し、国名も「アルバニア共和国」と改称することになった。そして、92年に国会議員の自由選挙を実施。民主化後に外国からの援助や市場経済の導入を加速させたものの、資本主義制度の仕組みを理解しなかったために経済は混乱し、停滞した。要塞としてのコンクリートの塊も除去が困難なため、インフラの整備や農業の障害になった。

90年代に入ると、政治的・経済的混乱からネズミ講などのいかがわしい投資がはびこり、その破綻で社会混乱が起こる。政府が機能不全に陥った97年、備蓄されていた武器が大量に横流しされ、その多くがコソヴォ解放軍・KLAにわたった。コソヴォ紛争において、アルバニアはコソヴォ解放軍・KLAの「大アルバニア主義」に望みを託して基地を提供し、多数の戦闘員を送り込むなど、陰に陽にコソヴォ解放軍を支援した。コソヴォ紛争が続いている間は武器や物資の密売などで経済も潤ったが、戦乱が収まるとともに資金の流入が激減して社会は再び停滞した。90年代の政治的・社会的混乱に陥ったアルバニアからの人口流出は激しいものがあり、2000年には100万人が脱出したといわれ、2001年には人口の3分の1が貧困状態に陥った。

アヘン・ルートを支配するアルバニア・マフィア

アルバニアは体制転換の混乱の中、アフガニスタンからヨーロッパに流れ込むアヘン流通経路に組み込まれた。その流通を支配することになったアルバニアのアヘン・マフィアは強固な組織を作り上げ、コソヴォ解放軍・KLAの資金源の一つとしてこのアヘンの売買益が使われた。世界各地に散ったアルバニア人の中にはこのアヘン・ルートに関与している者が多いといわれる。アルバニア人は家族や氏族などのいわゆるファミリーの結び付きが強固で、マフィア化した麻薬売買の内情が外部に漏れることはほとんどない。のちに米政府高官の一人は、とんでもない国を支援してしまったと述べているが、米国のユーゴ連邦解体戦争への関与は概ねこの程度の認識で行なわれた。

ともあれ、現在アルバニアは米国の勢力圏に入っており、米国主導のNATOの東方拡大路線に従って2009年に正式に加盟したものの、EUへは2021年の段階では加盟対象国にもなっていない。周囲の強国に翻弄された、影の薄い国家である。

最貧国の一つであるアルバニアも最貧国であるアフガニスタン戦争に加わる

アルバニアは最貧国の一つであるにもかかわらず、やはり最貧国のアフガニスタン戦争におけるNATO指揮下のISAFの一員として軍隊を派遣している。この政治的判断がいかなるものであったのかは明らかではないが、NATOによる要請に屈したのであろうとの推察は可能である。軍事同盟はこのような非情さを求めるものであることを、この事例は示している。

<参照;コソヴォ自治州、コソヴォ解放軍・KLA>

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